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11、「義仲の最期」Ø 11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。Ø 義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた(『玉葉』同日条)。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。Ø この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。九条兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。Ø 義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという。20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらした。 21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。『平家物語』は義仲が基房の娘(藤原伊子とされる)を強引に自分の妻にしたとするが、実際には復権を目論む基房が義仲と手を結び、娘を嫁がせたと見られる。Ø 11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。Ø 12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する[30]。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。 木曾殿最期 平家物語木曾義仲が幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れ、今井兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。 この物語で涙を誘う名場面である。 寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた。Ø 平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。Ø 義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。 源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。 遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。 その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。 武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。 蒲冠者 生母は『尊卑分脈』によれば、遠江国池田宿の遊女とされている。池田宿は現在の静岡県磐田市(平成の大合併前は磐田郡豊田町)池田に比定され、範頼の生地とされる伊勢神宮内宮領・蒲御厨の東隣にあたる。 現在では池田宿と蒲御厨は天竜川によって隔てられているが、平安時代には天竜川は池田宿の東側に流れており、池田宿は蒲御厨と地続きになっている天竜川西岸に設けられた東海道の宿場で京都と東国を結ぶ交通の要衝でもあった。 このため、「遊女」とは称していても実際には単なる芸能民ではなく池田宿の有力者(長者)の娘で、父・義朝が池田宿との関係構築を目的として婚姻を結んだのではないかとみる説もある。 父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。 治承4年(1180年)に挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動して、遠江国を占拠した甲斐源氏安田義定と協力関係にあったと考えられる。 寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍。その進軍に下野国の小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて史料(吾妻鏡)で確認される。 小山氏の活躍により勝敗は決しており、残敵掃討戦参加のように考えられるが、甲斐源氏と頼朝との協力関係の中で、義定から派遣されたと見るべきである。 大将軍代理 寿永3年(1184年)1月、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。尾張国墨俣渡にて御家人らと先陣争いで乱闘になったのが頼朝の耳に届き、怒りを買っている。 1月20日、範頼は大手軍を率いて瀬田に向かい、義経は搦手軍を率いて宇治を強襲した。
2024年12月02日
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10「義仲・京都から追放」一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示すが、法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を計った。さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では義仲軍を凌いだ。院側の武力の中心である源行家は、重大な局面であったにもかかわらず平氏追討のため京を離れていたが、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった。これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。九条兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」と義仲を擁護している。義仲の返答に法皇がどう対応したのかは定かでないが、18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。 法住寺殿襲撃 法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデターである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。 平氏都落ち 寿永2年(1183年)7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。 ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政荘園への使者下向は出席者全員が賛成した。 院殿上除目 議定の席上、経宗は院殿上で除目を行うことを提案した。しかし、除目は天皇の権限に属すると他の出席者が反対したため、経宗は発言を撤回した。 8月6日、後白河は平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、天皇不在の中で院殿上除目を強行し、10日、義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。16日には平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は院近臣勢力の露骨な拡大であり、兼実は「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。 16日の除目で、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った(『百錬抄』8月16日条)。 伊予守は四位上臈の任じられる受領の最高峰とも言える地位であり、この時点では後白河も義仲を相応に評価していたと見られる。 天皇擁立を巡る紛糾 後白河は時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。 やむを得ず、都に残っている高倉上皇の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。 兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えている(『平家物語』)。 治安回復の遅れ 義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、9月になると略奪が横行する。 「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」(『玉葉』9月3日条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。
2024年12月02日
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治承・寿永の乱 黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が対面し平家打倒を誓ったとされる対面石 治承4年(1180年)8月17日に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等およそ数十騎が同行した。 義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。 頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。 寿永2年(1183年)7月、木曾義仲が平氏を都落ちに追い込み入京する。後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し[6]、頼朝の上洛に期待をかけていた。 8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して、後白河院の怒りを買う。 そして後白河院が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。 頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経と中原親能を代官として都へ送った。『玉葉』閏10月17日条には「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」とあるが、これが貴族の日記における義経の初見である。 義経と親能は11月に近江国に達したが、その軍勢は500 – 600騎に過ぎず入京は困難だった。 そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、北面・大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた。 義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。 翌寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。 義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。 この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破し、範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。 上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場することとなる。 一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、義経は国司には任ぜられなかった。 義経はその後、平氏追討のために西国に出陣することが予定されていたが8月6日、三日平氏の乱が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる。 8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。同時期、義経は三日平氏の乱の後処理に追われており、この最中の8月6日、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。9月、義経は頼朝の周旋により河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。 一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河院に西国出陣を申し出てその許可を得た。 元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。 範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。 義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した鏡璽を奉じて4月24日京都に凱旋する。
2024年12月02日
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9「義仲と入れ替り頼朝入京」 後白河法皇への抗議 義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届く。内容は「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」と朝廷を大いに喜ばせるものであった。Ø 10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。Ø そうとは知らぬ義仲は、西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。Ø 戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。Ø 驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。Ø 義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給[16]、志田義広の平氏追討使への起用を要求する。Ø 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。Ø 19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。 しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。 決裂[ 11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。 源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき[注釈 3])という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。 生涯。 義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。 今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。 清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死する。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。 後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。 やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。 秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い。 『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
2024年12月02日
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8「京都混乱の義仲乱行」 皇位継承問題への介入、後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。Ø やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することに決める。ところがこの際に義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ 以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に執拗に申し立てた。Ø しかし天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側が受け入れるはずもなかった。Ø 摂政・九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。Ø 朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。Ø いずれにしても北陸宮推挙の一件は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない「粗野な人物」として疎まれる契機となるに十分だった。Ø 山村に育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした頼朝とは違い、そうした世界に触れる機会が存在しなかったのである。 治安回復の遅れ また義仲は京都の治安回復にも期日を要した。 養和の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。 養和の飢饉(ようわのききん)は、養和元年(1181年)に発生した大飢饉である。源氏・平氏による争乱期(治承・寿永の乱)の最中に発生した飢饉であり、『源平盛衰記』や『方丈記』、『玉葉』、『吉記』、『百錬抄』など当時の状況を詳細に記す史料も多い。 前年の1180年が極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。 大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。 鴨長明の『方丈記』には「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と述べて、「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ」と記したように、京都は何ごとにつけて地方の農業生産に依存しているにもかかわらず、年貢のほとんど入って来ない状況となってしまい、市中の人びとはそれによって大きな打撃をこうむった。 『方丈記』では京都市中の死者を4万2300人と記し、「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」として、市中に遺体があふれ、各所で異臭を放っていたことが記されている。また、死者のあまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝える。 こうした市中の混乱が、木曾義仲の活動(1180年挙兵、1183年上洛)を容易にする遠因となっていたことも考えられており、寿永2年(1183年)5月の砺波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)まで平氏・頼朝・義仲の三者鼎立の状況がつづいた背景としてもこの飢饉の発生が考えられる。 こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまった。 一方、源頼朝は、年貢納入を条件にすることで、朝廷に東国支配権を認めさせた(寿永二年十月宣旨)。Ø 9月になると「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。Ø その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」という有様で、治安は悪化の一途を辿った。Ø 京中守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になかった。
2024年12月02日
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頼朝の政治介入 「文治」の号や大仏開眼には平和到来への願いが込められていたが、10月になると源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。後白河院は義経を制止しようとするが、義経は頼朝追討宣旨の発給を迫り、大炊御門経宗も「当時在京の武士、只義経一人なり。 彼の申状に乖かれ若し大事出来の時、誰人敵対すべけんや。然らば申請に任せて沙汰あるべきなり」(『玉葉』10月19日条)と進言したことから、やむを得ず頼朝追討の宣旨を下した。 しかし宣旨は下されたものの兵は思うように集まらず、11月3日、義経は京都を退去した(『玉葉』同日条)。 その後、関東から武士が上洛して「二品忿怒の趣」を伝え(『吾妻鏡』11月5日条)、藤原範季が「法皇の御辺の事、極めて以て不吉」(『玉葉』11月14日条)と語るなど、院周辺は頼朝の報復に怯えて戦々恐々となった。 後白河院は頼朝に「行家義経の謀叛は天魔の所為」と弁明したが、頼朝は「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」と厳しく糾弾する(『吾妻鏡』11月15日条、『玉葉』26日条)。 頼朝にすれば義経の恫喝による追討宣旨はまだしも、義経・行家をそれぞれ九国・四国の地頭に補任したことは看過できなかった(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』27日条)。 11月24日、北条時政が千騎の兵を率いて入京する。28日には「守護地頭」の設置が奏請され(『吾妻鏡』『玉葉』同日条)、12月6日には「天下の草創」として兼実への内覧宣下、議奏公卿10名による朝政運営、「行家義経に同意して天下を乱さんとする凶臣」である平親宗・高階泰経・平業忠・難波頼経・葉室光雅・一条能成・藤原信盛ら14名の解官を内容とする廟堂改革要求が突きつけられる(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』27日条)。ただし、平清盛・木曾義仲が40名に及ぶ近臣を解官・追放したり、院政停止や幽閉を断行したことに比べれば、遥かに穏便な措置だった。 朝幕交渉 頼朝の圧力が恐れていたほど苛烈なものではないと見た後白河院は、翌文治2年(1186年)になると巻き返しに転じた。 2月には熊野詣の費用を捻出するよう北条時政に院宣を下し(『吾妻鏡』2月9日条)、3月には平家没官領である丹波国五箇荘を院領にするよう命じた。 また頼朝追討宣旨を奉行して解官となった葉室光雅が朝廷に復帰し、高階泰経も後白河院の宥免要請により配流を取り消された(『吾妻鏡』3月29日条)。この時期、北条時政は「七ヶ国地頭」の辞任を表明し(『吾妻鏡』3月1日条)、諸国兵粮米の徴収も停止となっている(『吾妻鏡』3月21日条)。 摂政・氏長者の人事については、九条兼実の摂政就任を求める頼朝に対して後白河院は近衛基通擁護の姿勢を貫いたため、摂政・内覧が並立する異常事態となっていた。 3月12日にようやく兼実に摂政の詔と氏長者の宣旨が下されたが(『玉葉』同日条)、ここで摂関家領の継承が問題となる。 頼朝は摂政・氏長者の地位と共に基通の家領を兼実に与えることを主張したが(『吾妻鏡』3月24日条)、基通は引渡しを拒み、後白河院も基通の訴えを認めたため、双方の言い分は真っ向から対立することになった。 4月になると、頼朝は摂関家領のうち「京極殿領」を兼実に、「高陽院領」を基通に配分するという妥協案を示すが後白河院は拒絶し、基通が源義経・行家に命じて兼実に夜襲をかけるという噂も飛び交った(『玉葉』5月10日条)。 緊迫した空気が漂う中、7月に大江広元が上洛する(『玉葉』7月12日条)。院側の丹後局と折衝が重ねられたが妥協点は見出せず(『玉葉』7月15日、17日条)、結局は頼朝が後白河院の要求を全面的に呑み、基通が家領の大部分を継承することで決着が着いた。 ここに摂関家領の分割が確定し、近衛家・九条家が名実共に成立する。後白河院の粘り強い対幕府交渉により、前年の頼朝の改革要求の大部分は事実上無効化されることになった。 頼朝が前年の強硬な姿勢から一転して後白河院の要求を認めた背景には、各地の武士が謀叛人の所領と決め付けて神社・仏寺の所領を押領したり、本家・領家への年貢を納入しないなどの非法行為が多発していたことが要因として考えられる。荘園領主による訴えが殺到した結果、頼朝は下文を一挙に252枚も出すなど紛争処理に忙殺されることになった(『吾妻鏡』10月1日条)。 頼朝自身も関東御領・関東御分国を持つ荘園領主・知行国主であり荘園公領制の崩壊は望むところではなく、武士の引き締めに乗り出さざるを得なかった。10月には謀叛人跡以外の地頭職設置が停止された(『吾妻鏡』11月24日条)。
2024年12月02日
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平氏滅亡 『後白河法皇筆文覚四十五箇条起請文跋』後白河法皇自筆と手印(1185年) 西国に下向した源範頼軍だったが、兵粮の欠乏・水軍力の不足・平氏軍の抵抗により追討は長期化の様相を呈した。 年が明けた元暦2年(1185年)正月8日、危機感を抱いた義経は後白河院に四国に出撃することを奏上する(『吉記』正月8日条)。 当初、後白河院は京都の警備が手薄になることを危惧して義経の出京に反対するが、義経は「範頼もし引帰さば、管国の武士等なお平家に属し、いよいよ大事に及ぶか」と反論し、吉田経房も「義経を発向させて雌雄を決するべきだ」と主張した。 後白河院も最終的には義経の奏上を認めたらしく、正月10日に義経は出陣する。ところが2月16日に、後白河院は高階泰経を摂津国渡辺に派遣して「京中武士無きに依り御用心のため」という理由により、義経の発向を制止するという行動に出ている(『玉葉』同日条)。 後白河院の対応は一貫していないが、木曾義仲に再三に亘り西国下向を命じていたのとは対照的に、義経を京都の治安責任者として信頼していたことがうかがえる。義経は泰経の制止を振り切って四国に渡ると平氏の本拠地・屋島を攻略、3月24日には壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。 ここに5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結した。 4月4日、義経より京都に平氏討滅の報告が届いた(『玉葉』『百錬抄』『吾妻鏡』同日条)。後白河院は高階泰経を介して使者を関東に送り、「追討の無為はひとへに兵法の功によつてなり」と頼朝の功績を称賛した。 これに対して頼朝は「殊に謹悦」したという(『吾妻鏡』4月14日条)。21日、左大臣・経宗以下公卿十余人が集まり議定が開かれた。議題となったのは神器の入洛・捕虜の処遇・頼朝の恩賞であり、天皇・宝剣が失われたことが特に問題となった様子はない。 25日、神器が京都におよそ2年ぶりに戻り、26日、平宗盛・時忠らの捕虜が見物人が群れを成す中、車で大路を渡された。 27日、後白河院は頼朝を正四位下から従二位に叙す(『百錬抄』4月27日条、『玉葉』4月28日条、『吾妻鏡』5月11日条)。 正三位は清盛の例、従三位は「指したる功の無い」源頼政の例と重なるため、忌避されたという(『玉葉』4月26日条)。同日、後白河院は追討の指揮官である義経を院御厩司に任じている(『吾妻鏡』文治5年閏4月30日条)。 5月7日、平宗盛・清宗が鎌倉に送られた(『玉葉』『百錬抄』同日条、『吾妻鏡』5月15日条)。 九条兼実は「配流の儀にあらず」としており、死罪は決定していたと思われる。20日、捕虜となった貴族・僧侶の罪名が宣下され、平時忠・平時実・平信基・藤原尹明・良弘・全真・忠快・能円・行命の9名が流罪となった。 武士に対する処罰は厳しく、6月21日に平宗盛・清宗、23日に平重衡が斬首された。 23日、宗盛父子の首は検非違使庁に渡されて梟首され、後白河院は三条東洞院で宗盛父子の首を見物している(『玉葉』『百錬抄』同日条)。 東大寺大仏開眼供養 元暦2年(1185年)7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊した。その後も余震が続いたことから、8月14日に改元が行われる(文治地震)。改元定では「建久」の号にほぼ決定していたが、摂政・基通が「近日武を以て天下を平げらる、文を以て治むるは宜しきに似るか」(『山槐記』8月14日条)と主張して、「文治」の号が採用された。 8月27日、後白河院は大仏の開眼供養のため、八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸する。 翌28日の供養は多数の群集が集まり、盛大に執り行われた。鍍金されていたのは顔だけで未完成だったが(『玉葉』8月30日条)、後白河院は正倉院から天平開眼の筆を取り出すと、柱をよじ登って自らの手で開眼を行った(『山槐記』8月28日条、『玉葉』29日条)。 法皇が自ら開眼を行った経緯については次のように伝わっている。8月21日に左大臣・大炊御門経宗と上卿・中御門宗家が式次第を定めた際には、仏師が開眼を行うことになっていた。 ところが、開眼供養直前になって急遽法皇が筆に執ることとなった。『東大寺続要録』によれば、前夜に正倉院の勅封倉を開けさせて筆を取り出したと伝えられている。 一方『山槐記』によれば、筆者の中山忠親が吉田経房から聞いた話として、式の当日朝に重源の勧めで決意したという。
2024年12月02日
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7「後白河法皇と源氏」法住寺合戦 後白河院と頼朝の交渉が容易に妥結しない中、閏10月15日に木曾義仲が帰京する。人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交るが如し」(『玉葉』閏10月14日条)であったという。 20日、義仲は頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを「生涯の遺恨」と抗議し(『玉葉』同日条)、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏10月21日条)、志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河院は拒絶した。 11月4日、源義経の軍が不破の関にまで達した。この情報に力を得た後白河院は、7日、木曾義仲を除く源行家以下の源氏諸将に院御所を警護させる。 16日には、延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。 行家は平氏追討のため不在だったが、後白河院は圧倒的優位に立ったと判断し、義仲に対して最後通牒を行う。 その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」というものだった(『玉葉』11月17日条、『吉記』『百錬抄』11月18日条)。義仲から「君に背くつもりは全くない」という弁明があったが、17日夜に八条院、18日に上西門院と亮子内親王が御所を去り、入れ替わるように後鳥羽天皇・守覚法親王・円恵法親王・明雲が御所に入っていることから、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。 19日、法住寺殿は木曾義仲軍の襲撃を受ける。院側は源光長・光経父子が奮戦したものの完膚なきまでに大敗し、後白河院は法住寺殿からの脱出を図るが捕らえられ、摂政・近衛基通の五条東洞院邸に幽閉された。 この戦いで明雲・円恵法親王・藤原信行・清原親業らが戦死し、院政の象徴だった法住寺殿も炎上した(法住寺合戦)。 義仲との対決は惨憺たる結果に終わったが、後白河院に「歎息の気」はなかったという(『玉葉』11月25日条)。五条殿の警備は「近日日来に陪し、女車に至るまで検知を加ふ」(『玉葉』12月4日条)という厳重なものだったが、12月10日、怪異のためという理由で、六条西洞院の平業忠邸に遷された(『吉記』12月10日条)。 同日、後白河は義仲の恫喝により、頼朝追討の院庁下文を発給している。 平氏追討 寿永3年(1184年)正月20日、源範頼・義経軍の攻撃で木曾義仲は敗死した。解放された後白河院はすぐに摂政・松殿師家を解任し、翌21日、公卿議定を開く。最大の議題は、勢力を盛り返し福原まで進出していた平氏への対応だった。 この席上で大炊御門経宗と徳大寺実定は、後白河院の叡慮により追討を主張する(『玉葉』正月22日条)。出席者の多くは神鏡剣璽の安全のため使者を派遣すべきという意見だったが、院近臣の藤原朝方・水無瀬親信・平親宗も「偏に征伐せらるべし」と主張した。 それは「法皇の御素懐」であったという(『玉葉』正月27日条、2月2日条)。結果、26日に平宗盛追討の宣旨、29日に義仲残党追捕の宣旨が下されることになる(『玉葉』2月23日条)。後白河院にすれば、平氏が政権に復帰すると再び院政停止・幽閉となる恐れがあり、和平はありえなかった。 2月7日、源範頼・義経軍は一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅させる。後白河院は捕虜となった平重衡を介して、平宗盛に神器の返還を求めた(『玉葉』2月10日条)。これに対する宗盛の返書には「6日に修理権大夫(修理大夫とすれば、藤原親信)から和平交渉を行うという書状が届いた。合戦してはならないという院宣を守り使者の下向を待っていたが、7日に源氏の不意打ちがあった」という内容が記されている(『吾妻鏡』2月20日条)。事実とすれば、後白河院の謀略が戦局に大きな影響を与えたことになる。 2月25日、頼朝は平氏追討と東国安定のため、後白河院に「東海・東山・北陸道諸国への国司補任」「畿内近国からの軍事動員」を申し入れる(『吾妻鏡』同日条、『玉葉』2月27日条)。 しかし前年からの平氏・木曾義仲による度重なる軍事動員・兵粮米徴収で、もはや京都の疲弊は限界に達していた。 関東の威を募る武士の狼藉も頻発したことから、武士の狼藉停止・兵粮米停止の宣旨が下り(『玉葉』2月23日条、『吾妻鏡』3月9日条)、29日には義経の西国下向が延引となった(『玉葉』同日条)。 平氏残党の蜂起 平氏追討は一時中断となり、遠征軍の大半は鎌倉に帰還する。義経は頼朝の代官として京都に残り、播磨・美作に梶原景時、備前・備中・備後に土肥実平、伊賀国に大内惟義、伊勢国に大井実春・山内首藤経俊、紀伊国に豊島有経らが配置されて、平氏・木曾義仲残党の追捕、兵粮米の確保に従事した。
2024年12月02日
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6「源氏一族の挙兵」Ø 寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。Ø また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。 平維盛を大将に平家は十万の大軍を率いて北陸へ。越前火打城の戦い 「燧ヶ城」、「三条野の戦い」で勝利した平氏は,加賀「安宅の関」と連戦連勝と破竹の進撃を続け、木曾勢の築いた城を攻め、越前・加賀・越中の木曽軍の城(砦)を攻略し越前、加賀の国も支配し残るは越中のみ。 木曽義仲の四天王の1人今井兼平は6千の先遣隊を平家 平盛俊の先遣隊が陣を張る般若野を奇襲する(般若野の戦い)。この奇襲が功を奏して平家軍が倶利伽羅峠の西に戻る事になる。Ø 5月11日、越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年5月18日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。 治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。 寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。 平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。 だが5月9日明け方、加賀国より軍を進め般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。 一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。 5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。 義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。 平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。 大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。 この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。 『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。 しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。 この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。
2024年12月02日
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承久の乱において同月に幕府側は御家人を参集させ京へ向けて軍勢を発し、甲斐源氏の武田信光・小笠原長清は東山道大軍将を任命されており、東山道軍は主に甲斐・信濃の武士で構成されている。 承久の乱が平定されると公卿の内、前権中納言・藤原光親を信光が預かり、源有雅を長清が預かる。吾妻鏡』によれば、光親は同年7月12日に鎌倉へ連行される途中、駿河国車返において鎌倉使による命令を伝えられ、甲斐籠坂峠で処刑された。一方、有雅は甲斐稲積荘古瀬において処刑されている。論功行賞においては甲斐源氏の一族は畿内・西国の守護職に補任され、甲斐源氏の西国進出のきっかけとなった。 甲斐源氏の信仰 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、甲斐源氏の一族は仏教に帰依し、本拠地に数々の寺院を創建した。 特に源氏の氏神である八幡神を勧請した八幡信仰、八幡神の本地仏とされた阿弥陀信仰、平安後期の末法思想に伴う浄土信仰は盛んで、甲斐源氏の頭領である武田信義は本拠の武田郷に武田八幡宮(韮崎市)を創建したという。 また、武田八幡宮に近接する願成寺(韮崎市)を再興したとされ、願成寺には本尊の阿弥陀三尊像が伝来しているほか、甲斐善光寺にも同様の阿弥陀三尊像が伝来している。 峡東地域においては安田義定が創建したとされる放光寺(甲州市)に本尊の大日如来像のほか愛染明王像、不動明王像など密教に関する諸仏が残され、特に愛染明王坐像は遺例の少ない「天弓愛染」像として知られる。加賀美遠光の進出した西郡地域では宝珠寺(南アルプス市)に大日如来及四波羅蜜菩薩坐像が伝来しており、大聖寺(身延町)に伝来する不動明王像は遠光が高倉天皇から下賜されたとする伝承を持つ。 ほか、甲斐源氏の一族は時宗や日蓮宗など鎌倉新仏教にも帰依し、時宗では二世他阿真教が甲斐を遊行している様子が『一遍上人絵伝』などに描かれ、真教に帰依した一条時信の弟一条宗信(法阿朔日)が一蓮寺(甲府市)を創建している。 日蓮宗の開祖である日蓮は『立正安国論』を著し鎌倉幕府へ進言を行うが、文永8年(1271年)に鎌倉から佐渡島へ追放される。日蓮は文永11年(1274年)に赦免され鎌倉へ戻ると、同年5月に南部光行の子息・波木井実長に招かれ波木井郷へ居住し、弘安5年(1282年)まで同地で過ごしている。甲斐国には日蓮直筆の曼荼羅本尊などが伝来している。 武術[編集] 武術・礼法にも優れ、逸見氏は武田氏の家臣に組み込まれていったが、甲斐に住した逸見氏は武田信虎と対立して流浪の末、武蔵国秩父郡に住んだ。 子孫は江戸時代後期に溝口派一刀流の剣術を身に付けて、甲斐源氏の血筋にちなんで甲源一刀流を開いた。 さらに鎌倉以来、武田氏と並ぶ勢力を築いた小笠原氏は室町幕府において礼法の家柄として確立した。 小笠原流礼法と弓術を確立した。公家の竹内氏の傍流の美作の竹内氏は、捕手・腰之廻を編み出し、現存最古の柔術流派である竹内流を開いた。また、大東流合気柔術の実質的な創始者で近代最強の武術家とも称される武田惣角も甲斐源氏の系譜を称した。 甲斐源氏の一族 甲斐源氏の一族として、南北朝期に陸奥国へ移住した南部氏や出羽へ移住した浅利氏、始祖武田信広が若狭武田氏の後裔を称する蝦夷の蠣崎氏(松前氏)、土佐の香宗我部氏らの一族がいる。 また、近世期には甲斐国主となった柳沢氏が甲斐源氏・武田氏の後裔を称している。 横田河原の戦い(よこたがわらのたたかい)は、治承・寿永の乱の中の戦いの一つ。信濃で挙兵した源義仲らの諸源氏に対して平氏方の越後の城助職が攻め込んで発生した戦い。 治承4年(1180年)9月頃には源(木曾)義仲、源(岡田)親義、井上光盛などの信濃の源氏が以仁王の令旨を報じて挙兵した。これを受けて市原(現長野市若里市村)の渡し付近で平氏方の笠原氏と源氏方の村山氏や栗田氏との間で前哨戦があったが決着が付かなかった(市原合戦)。 それに対して、平氏は信濃に隣接する越後の実力者城助職をもって対抗させようとした。 翌治承5年(1181年)6月、城助職は大軍を率いて信濃国に侵攻し、雨宮の渡しの対岸に位置していた川中島平南部の横田城に布陣する。それに対して義仲は上州に隣接する佐久郡の依田城を拠点に、木曽衆・佐久衆(平賀氏等)・上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)を集結して北上、6月13日横田河原において両者が激突する。
2024年12月02日
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甲斐源氏(かいげんじ)は、甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称。 同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族である。また、武田氏と同祖となる加賀美氏流の小笠原氏系統は早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。 「甲斐源氏」の呼称について、治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている。鎌倉時代には『吾妻鏡』をはじめ『帝王編年記』、『日蓮遺文』などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する。 甲斐土着から発展 源氏と甲斐国との関係は、平安時代の長元3年(1030年)の平忠常の乱に際して追討使に任じられた源頼信が前年に甲斐守に任じられ、以来継承されていることに遡る。これは、前九年の役や後三年の役などを通じた源氏の東国進出の一環と位置づけられている。 甲斐源氏の始祖と位置づけられているのは、河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)の弟である源義光(新羅三郎義光)で、系図類によれば義光は甲斐守として入部したといわれ、山梨県には北杜市須玉町若神子など義光伝承が残されているが、否定的見解が強い(秋山敬による)。 義光の子の源義清(武田冠者)と義清の子の清光は常陸国那珂郡武田郷(旧勝田市、現茨城県ひたちなか市武田)に土着して武田氏を称している(志田諄一による)。 大治5年(1130年)に清光の乱暴が原因で周辺の豪族たちと衝突し、裁定の結果常陸より追放され、甲斐に配流される(積極的進出とも)。 甲斐国では巨摩郡市河荘を勢力基盤とし、義清・清光期には古代官牧であった八ヶ岳山麓の逸見荘へ進出する。 清光の子孫は甲府盆地各地へ進出し、武田信義の頃には武田氏を中心氏族に有力な武士団を形成する。近年は『長寛勘文』に見られる応保2年(1162年)の八代荘停廃事件に甲斐源氏の存在が見られないことから、国衙(笛吹市、旧御坂町)など甲斐で勢力を持っていた在庁官人である三枝氏の勢力圏には及んでいないことも指摘されている。 甲斐国は皇室領や摂関家領が数多く分布しており、甲斐源氏は荘園の領有関係を通じて中央政界とも関係を保ち、上洛もしている。平安末期に皇室・摂関家領の抗争と源平両氏が関係して起こった保元元年(1156年)の保元の乱や平治元年(1159年)の平治の乱において源為義・義朝が討たれ清和源氏嫡流は没落するが、甲斐源氏の一族は乱から距離を置いて勢力を扶植し、治承・寿永の乱において中央情勢に積極的に関与する。 治承・寿永の乱における活躍と甲斐源氏の粛清 以仁王の令旨が東国各地に伝わると、武田信義・安田義定らが挙兵する。治承4年(1180年)9月には信濃諏訪郡に攻め込んで影響下に置いた(これによって信濃に安定した基盤を確保することが困難になった木曾義仲は、信濃平定を断念して北陸道に信濃に替わる基盤を求めることになる)。続く黄瀬川の戦いでは、平維盛らの平家軍と対峙の折、源清光(逸見冠者清光)の子で甲斐源氏4代目の源信義(武田太郎信義)を棟梁とする武田氏はじめ個々に独立勢力を張っていた甲斐源氏一族は、「一人の誉れよりは甲斐源氏として武勲をあげよう」と一族結束して退却する平家に攻め入った。 安田義定は寿永2年(1183年)に源義仲とともに入京し、従四位下・遠江守に叙任されている。 元暦元年(1184年)には源範頼・義経の軍勢に安田義定・一条忠頼が加わり、粟津合戦において義仲を滅亡させる。 さらに同年に一ノ谷の戦いでは義定・武田有義・板垣兼信らが平氏追討に参加している。有義はさらに範頼の軍勢に属し西国へ出陣している。 一方、この頃には頼朝による甲斐源氏の粛清が開始され、同年には一条忠頼が鎌倉において誅殺されている。 甲斐源氏の一族 治承・寿永の乱の軍功により分家にも領地が与えられ、加賀美遠光を祖とする、南部氏や小笠原氏などの庶流がやがて大名化していった。 甲斐源氏嫡流は逸見氏と武田氏が争い、逸見氏が嫡流であった時期もあるが、当初から武田の勢力は強く、鎌倉、室町と甲斐守護を保持することによって、武田氏が嫡流としての地位を確立する。武田氏から、板垣氏、甘利氏はじめ多数の庶家を出した。 その他、甲斐源氏としては安田氏、二宮氏、曽根氏、浅利氏、八代氏、奈古氏、加賀美氏流の秋山氏などがあり、庶流となる加賀美氏流小笠原氏からは、伴野氏、三好氏、三村氏、大井氏、長坂氏、長船氏などが出ている。南部氏の後胤には河西氏や奥氏、仙洞田氏などがある。 同族である平賀氏の傍流からは、公家となった竹内家が出る。源盛義(平賀盛義)6代の孫信治を祖とし、その子孫秀治は久我家の諸大夫であったが、足利将軍家と同じ清和源氏であったため、室町幕府の執奏で堂上に列せられた。
2024年12月02日
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5「源氏同士の紛争を避けるため」 木曽義仲は小見「麻績」の戦い合田の戦いに勝利し同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。Ø 2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている。 武田 信光(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。 馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。 『吾妻鏡』に拠れば、治承4年(1180年)の源頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の駿河国目代橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げたという(鉢田の戦い)。 甲斐源氏の一族は逸見山や信光の石和館で頼朝の使者を迎え挙兵への参加を合意し、治承・寿永の乱において活躍する。 信光は頼朝の信任が篤く、源義仲とも仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に信濃国の支配権を巡って義仲と不仲になってこの話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている。元暦元年(1184年)、義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の一ノ谷の戦いにおいても戦功を挙げた。 父の信義は駿河や甲斐の守護に任じられていたとする説もあるが、この時期には甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝による弾圧が行われており、一族の安田義定、一条忠頼、板垣兼信らが滅亡している。 信光は武田有義(左兵衛尉、逸見氏の出自か)や加賀美遠光らの兄弟や従兄弟にあたる小笠原長清らとともに追及を免れているが、信義も謀反の疑いを掛けられており、文治2年(1186年)に父信義が隠居している(『吾妻鏡』では死没とされている)。信光は家督を継いで当主となり、鎌倉で起こった梶原景時の変に乗じて有義を排斥する。 文治5年(1189年)には甲斐源氏の一党を率いて奥州合戦に参加し、このときに安芸国への軍勢催促を行っていることからこの時点で安芸国守護に任じられていたとも考えられている(承久3年(1221年)とも)。 その後も幕府に仕え、建久4年(1193年)には小笠原長清と、頼朝の富士の巻狩に供している。阿野全成の謀反鎮圧にも携わり、甲斐の御家人も分裂して争った建保元年(1213年)の和田合戦でも鎌倉へ参陣して義盛追討軍に加わっている。乱では都留郡を治めた古郡氏が和田方に属して滅ぼされており、信光は恩賞として同郡波加利荘(大月市初狩)などを与えられており(『吾妻鏡』)、甲斐源氏が都留郡へも勢力を及ぼしている。 承久3年(1221年)の承久の乱においても長清とともに東山道大将軍として5万の兵を率いており、同年7月12日には都留郡加古坂(籠坂峠、南都留郡山中湖村)において藤原光親を処刑している(『吾妻鏡』)。安芸守護任命をこのときの恩賞とする説もあり、一時は安芸国へも在国している。 1239年、出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した。 『吾妻鏡』によれば、仁治2年(1241年)には上野国三原荘をめぐり海野幸氏と境争論を起こして敗訴し、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが、同年12月27日には次男の信忠を義絶する形で服従している。 宝治2年(1248年)12月5日、87歳で死去する(「武田系図」に拠る、『一蓮寺過去帳』では死去は同年8月19日)。 信光の死後に武田氏に関する史料は減少し、信光の孫の代には甲斐国に残留した石和系武田氏と安芸国守護職を継承した信時系武田氏に分裂している。 墓所は北杜市須玉町東向の信光寺で、信光の位牌が伝存している。また、笛吹市石和町市部の石和八幡宮は信光による勧請と伝わる。 翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。
2024年12月02日
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その見方によれば頼政の離反の原因として彼の篤い仏教信仰が背景として挙げられ、頼政は以前にも彼が配流のために護送していた天台座主明雲を延暦寺大衆が奪還しに来た際も抵抗せずに奪われている前例があること、今回も検非違使として以仁王を逃がした兼綱の責任を問われている状況下において既に出家していた頼政が以仁王を匿う園城寺の寺院や僧侶への攻撃を拒絶したために、今度は頼政親子が命令違反で捕らえられる可能性が浮上し、追い詰められた頼政親子がやむなく以仁王側について敵対するに至ったとする。 以仁王の令旨 治承4年(1180年)4月9日、源頼政と謀った以仁王は、「最勝親王」と称し、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。 皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の奉書形式の命令書は、本来は御教書と呼ばねばならないが、身分を冒してこう称した。 原文は『吾妻鏡』や『平家物語』に納められているが、令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同がある。内容は自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえ、皇位をだまし取る平氏を討って皇位に就くべきことを宣言するものであった。 『平家物語』には、挙兵を呼びかける諸国の源氏の名が列挙されている。源光信(美濃源氏)、多田行綱(多田源氏)、山本義経(近江源氏)、武田信義、一条忠頼、安田義定(甲斐源氏)、伊豆の源頼朝、陸奥の源義経などの名があるが、当時の重要人物の欠落や錯誤が多く、後世の創作と考えられている。 その一方で、以仁王は園城寺退去以後に1通の文書を作成しており、これが令旨であった可能性も指摘されている。 これは『愚管抄』に以仁王が滞在している間に「宮の宣」が出されたというもので、『平家物語』においては5月19日に源行家が伊勢神宮に納めたとされる願文にも「最勝親王の勅」というものが登場し、4月9日の令旨に類似する部分もあるものの、5月15日に園城寺に逃れた件まで引用されている。 つまり、園城寺に逃れた直後に作成されたもので、行家が(4月9日の令旨ではなく)これに基づいて活動しているというものである。 宣者が源仲綱(頼政の子)になっており作成日時が頼政らが合流した22日以後になるという矛盾はあるものの、「最勝親王の命」・「一院第三親王の宣」という命令書が出されて王の没後も流布していたことが『玉葉』や『明月記』にも登場すること(ただし、両書とも以仁王生存説にかこつけた偽書と推測しているが、両者とも実物は見ていない)から、4月9日の令旨は創作としても、園城寺に入った後に「以仁王の令旨」と呼ばれるのに相応しい文書が作成され、『吾妻鏡』に先行して成立したとみられる『平家物語』がそれをモデルとした可能性は考えられる。 この令旨を伝達する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(源為義の末子)が起用された。 行家は八条院の蔵人で、以仁王と近い関係にあった。行家は令旨の日付と同じ4月9日に京を立ち、諸国を廻った。4月27日には、山伏姿の行家が伊豆北条館を訪れ、源頼朝に令旨を伝えたという。 挙兵露見 行家は4月から5月にかけて東国を廻ったが、5月初めには計画は露見した。『平家物語』によると、密告したのは熊野別当湛増である。令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのである。 5月15日、平氏は以仁王を臣籍降下させ、「源以光」と改めた上で、土佐国への配流を決定した。検非違使別当・平時忠は、300余騎を率いて以仁王の三条高倉邸に向かった。 この中に頼政の次男・兼綱が加わっていたことから、平氏は頼政の関与は察知していなかったようである。 仲綱から知らせを受けた以仁王は、女装して邸を脱出、御所では長谷部信連が検非違使と戦って時間を稼ぎ、以仁王は園城寺へ逃れた。 16日、平氏は園城寺に以仁王の引き渡しを求めたが、園城寺大衆はこれを拒否した。以仁王は興福寺と延暦寺にも協力を呼びかけた。大寺社が相手では平氏も容易には手が出せず、数日が過ぎた。 21日、平頼盛、教盛、経盛(以上、清盛の弟)、知盛、重衡(以上、清盛の子)、維盛、資盛、清経(以上、重盛の子)、そして源頼政を大将とする園城寺攻撃の編成が定められた(『玉葉治承4年5月21条』)。この時点でもまだ頼政の関与は露見していなかったのである。 その夜、頼政は自邸を焼き、50余騎を率いて園城寺に入り、以仁王と合流した。 橋合戦 23日、園城寺で衆議が行われ、六波羅(平氏の本拠)夜討が提案されたが、平氏に心を寄せる者が議論を長引かせ、夜討は立ち消えとなった。この間に平氏は調略を行い、延暦寺大衆を切り崩した。 園城寺も危険になったため、25日夜、頼政と以仁王は1000余騎を率いて園城寺を脱出し、南都興福寺へ向かった。
2024年12月02日
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4「以仁王の挙兵」 治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。 八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。 以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。 しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。 保元の乱、平治の乱を経て平清盛が台頭し、平氏政権が形成された。仁安2年(1167年)には清盛は太政大臣にまで登りつめる。 承安元年(1171年)、清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させた。平氏一門は知行国支配と日宋貿易で財を増し、10数名の公卿、殿上人30数名を占めるに至る。『平家物語』に云う、「平家にあらずんば人に非ず」の全盛期となった。 これには朝廷内部でも不満を持つものが多く、嘉応2年(1170年)には摂政・松殿基房と平重盛との間で暴力沙汰に発展した紛争が起きている(殿下乗合事件)。 治承元年(1177年)には鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、平康頼、西光、俊寛ら院近臣多数が処罰され、後白河法皇も事件への関与を疑われた。 治承2年(1178年)11月、中宮徳子は言仁親王を産み、直ちに立太子された。 治承3年(1179年)11月、近衛家の所領継承問題に端を発し、ついに清盛は兵を率いて京へ乱入してクーデターを断行。法皇は鳥羽殿に幽閉され、関白・基房は解任・配流、院近臣39名が解官された(治承三年の政変)。 そして治承4年(1180年)2月、高倉天皇は譲位し、中宮徳子の産んだ言仁親王が即位した(安徳天皇)。 以仁王と源頼政 微妙な立場にあったのが後白河法皇の第三皇子・以仁王であった。彼は学芸に優れた才人だったが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお親王宣下も受けられずにいた。 それでも、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)を後ろ盾に、彼女の猶子となって、出家せずに皇位へ望みをつないでいた。 だが、安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、経済基盤である荘園の一部も没収された。 源頼政は源頼光の系譜に連なる摂津源氏で、畿内近国に基盤を持つ京武士として大内守護に任じられていた。 保元の乱では勝者の天皇方につき、平治の乱では主美福門院の意向を汲みながら形勢を観望して藤原信頼に与しなかった。摂津源氏の頼政はその後も地味ながら軍事貴族の一員として過ごしていた。 平氏全盛の中、源氏の頼政は地味な立場であり続けたが、治承2年(1178年)に清盛の推挙により従三位に昇進した。 『平家物語』では、不遇の身を嘆く和歌を詠み、それを知った清盛が、「頼政を忘れていた」と推挙したことになっている。九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているように、平氏以外の武士が公卿(従三位)となるのは異例であった。 頼政はこの時70代半ばを超えた老齢で、念願の三位叙位が叶った翌年には出家して、家督を嫡男の仲綱に譲った。 挙兵の動機 以仁王と頼政が反平氏を唱えた挙兵の意思を固めた経緯と動機には諸説ある。 『平家物語』では、挙兵の動機は、頼政の嫡男・仲綱と平宗盛(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢ということになっている。 宗盛が仲綱の愛馬“木の下(このした)”を欲しがった。仲綱は断ったが、宗盛は平氏の権勢を傘にしつこく要求し、頼政に諭されて、仲綱はしぶしぶ“木の下”を譲った。 宗盛はすぐに譲らなかったことが気に入らず、“木の下”の名を“仲綱”と改めて焼印を押し、「仲綱、仲綱」と呼んで引き回したり鞭打ったりした。この屈辱と恥辱が、頼政・仲綱父子に謀反を決意させた。 この事件が事実がどうかはともかく、平氏一門の専横と源氏への日頃の軽侮に対する長年の不満の爆発は、理由として挙げられている。 他に、頼政等摂津源氏は鳥羽上皇直系の近衛天皇、二条天皇に仕える大内守護の任にあったことから、別系統の高倉・安徳天皇の即位に反発したという説もある。 『平家物語』では、頼政が夜半に不遇の以仁王の邸を訪れ、謀反を持ちかけたことになっているが、当時頼政は77歳という高齢であり、皇位への道を断たれて不満を持っていた以仁王の方から頼政に挙兵を持ちかけたという見方もある。 もっとも、頼政と以仁王が挙兵以前に関係を有していたことを示す証拠が、同時代の貴族の日記などの史料には存在せず、脚色の入る余地がある『平家物語』とそこから派生した書物にしか求められないことなどを理由に初めから謀議などはなかったという見方もある。
2024年12月02日
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義仲の帰京 一方、義仲は西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。 戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった(『玉葉』閏10月17日条)。義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に少数の軍勢で帰京する。義仲入洛の報に人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交るが如し」(『玉葉』閏10月14日条)であったという。 後白河と頼朝の橋渡しに奔走していた平頼盛はすでに逃亡しており(『百錬抄』『玉葉』10月20日条)、親鎌倉派の一条能保・持明院基家も相次いで鎌倉に亡命した。 義仲の帰京に慌てた院の周辺では、義仲を宥めようという動きが見られた。藤原範季は「義仲は、法皇が頼朝と手を結んで自分を殺そうとしているのではないかと疑念を抱いている。義仲の疑念を晴らすため、また平氏追討のために法皇は播磨国に臨幸すべきである」という案を出す(『玉葉』閏10月18日条)。高階泰経・静憲も賛同するが、この案が実行に移されることはなかった。 20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした(『玉葉』同日条)。 義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏10月21日条)、志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河が認めるはずもなかった。義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。 19日の源氏一族の会合では後白河を奉じて関東に出陣するという案が飛び出し(『玉葉』閏10月20日条)、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された(『玉葉』閏10月26日条)。 しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった(『玉葉』閏10月27日条)。 決裂 11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達した。義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をしていたが、7日になって義仲を除く行家以下の源氏諸将が院御所の警護を始める。 頼朝軍入京間近の報に力を得た院周辺では、融和派が逼塞し主戦派が台頭していた。『愚管抄』によると、北面下臈の平知康・大江公朝が「頼朝軍が上洛すれば義仲など恐れるに足りない」と進言したという。特に知康は伊勢大神宮の託宣を受けたと称するなど(『吉記』11月15日条)、主戦派の急先鋒だった。8日、院側の武力の中心である行家が、重大な局面にも関わらず平氏追討のため京を離れた。後白河と義仲の間には緊迫した空気が流れ、義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示した(『玉葉』11月16日条)。 16日になると、後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。 摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが味方となり、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒を行う。 その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった(『玉葉』11月17日条、『吉記』『百錬抄』11月18日条)。 これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。 兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」としている(『玉葉』11月18日条)。 義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが、17日夜に八条院、18日に上西門院、亮子内親王が法住寺殿を去り、北陸宮も逐電、入れ替わるように後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。 襲撃 19日午の刻(午後0時頃)、兼実は黒煙を天に見た。申の刻(午後4時頃)になって入った情報は「官軍悉く敗績し、法皇を取り奉り了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉り了んぬ」というもので、兼実は「夢か夢にあらざるか。魂魄退散し、万事覚えず」と仰天した。 この戦いで、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死した。『吉記』は「後に聞く」として「御所の四面、皆悉く放火、其の煙偏に御所中に充満。万人迷惑、義仲軍所々より破り入り、敵対するあたわず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸。参会の公卿十余人、或いは馬に鞍し、或いは匍這う四方へ逃走。雲客以下其の数を知らず。女房等多く以て裸形」と戦場の混乱を記している。 記主の吉田経房は「筆端及び難し」と言葉を濁しているが、慈円は『愚管抄』に明雲・円恵法親王について詳細に記している。兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」(『玉葉』11月22日条)と慨嘆した。 院御所の襲撃は平治の乱の前例があるが、藤原信頼の目的はあくまで信西一派の捕縛だった。 今回の襲撃は法皇自らが戦意を持って兵を集め、義仲もまた法皇を攻撃対象とし、院を守護する官軍が武士により完膚なきまでに叩き潰されたと言う点でかつてないものであり、およそ40年後の承久の乱に先駆けるものであった。
2024年12月02日
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平氏追討 7月28日、都落ちした平氏一門に代わって、義仲・行家軍が入京する。この日の議定では平氏追討を主張する意見と平氏との和平交渉による天皇と剣璽の奪還を図るべきとする意見に割れた(『吉記』同日条)が、この日後白河は義仲・行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。30日、藤原経宗・九条兼実・三条実房・中山忠親・藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉』同日条)。 議題は平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣についてだった。 勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階が与えられることになった。 京中の狼藉は、これまで警察権を掌握していた平氏が7月25日にいなくなり、食糧難の中で大軍が入京したことにより、深刻なものとなっていた。『吉記』には、7月26日には「比叡山の僧兵が降りて来た。 市内の放火略奪が発生した」とある。治安回復・狼藉の取り締まりは、義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。『吉記』7月30日条によると、京中守護の武将と担当地域は以下の通りである。 出席者全員が賛成した。 院殿上除目 議定の席上、経宗は院 殿上で除目を行うことを提案した。しかし、除目は天皇の権限に属すると他の出席者が反対したため、経宗は発言を撤回した。 日、後白河は平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、天皇不在の中で院殿上除目を強行し、10日、義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。 16日には平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は院近臣勢力の露骨な拡大であり、兼実は「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。 16日の除目で、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った(『百錬抄』8月16日条)。伊予守は四位上臈の任じられる受領の最高峰とも言える地位であり、この時点では後白河も義仲を相応に評価していたと見られる。 天皇擁立を巡る紛糾 後白河は時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。 兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。 剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えている(『平家物語』)。 治安回復の遅れ 義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、9月になると略奪が横行する。 「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」(『玉葉』9月3日条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。 『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。 『平家物語』はこの発言を法住寺合戦の直前とする。 たまりかねた後白河は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」(『玉葉』9月21日条)と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった。 頼朝の申請 義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』10月2日条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。その一方で頼朝は、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した(『玉葉』10月9日条)。 10月9日、後白河は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。 ただし、後白河は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』10月23日条)。高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。 義仲は当時京にあり」(『玉葉』閏10月13日条)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だった。 頼朝はこの和平案を後白河の日和見的態度と見て、中原康定に「天下は君の乱さしめ給ふ(天下の混乱は法皇の責任だ)」と脅しをかけ(『玉葉』10月24日条)、義仲の完全な排除を求めて譲らなかった。
2024年12月02日
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3「以仁王の令旨」 以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日(1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。 後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。母親は藤原季成の娘・成子。 幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗。永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王の猶子となる。 幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという。 特に仁安元年(1166年)、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった。 治承三年の政変 治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された。 治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。 以仁王の挙兵 また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが 、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。5月15日、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。 その日の夜、検非違使の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。16日に入って以仁王が園城寺に逃れていることが判明し、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる。 頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることに決めた。 治承4年(1180年)5月26日、頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、飛騨守景家に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。 挙兵失敗と謀反人として しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。 なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった。 乱から16年が経過した建久7年(1196年)になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている(『玉葉』建久7年正月15日条)。 第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は、建久7年(1196年)に八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている。 法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデターである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。 平氏都落ち 寿永2年(1183年)7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。 ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政近衛基通、剣璽を京都から連れ出すように命じた。 天皇と剣璽は六波羅で平氏一門と合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院に隠棲していた平信範(時忠の叔父)の下に逃れた。 平氏以外の公卿のほとんどが、臨時に法皇御所となった比叡山の円融房に参集し、26日には対策会議が開かれた。後白河は平氏追討の意向を示したが、天皇と剣璽の返還を優先すべきとする公卿もおり、とりあえず和戦両面を模索することとなり、平氏勢力の撤退が確認された27日になって後白河は法住寺殿に帰還した。
2024年12月02日
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2「源 義仲の出自」 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。Ø 連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。 生い立ち 源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代後期の武将。河内源氏、源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。 保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。 翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解官される。このために、為義は弟である四男・頼賢に嫡男の地位を譲らせる形で義賢を事実上の廃嫡にせざるを得なくなった[1]。 その後藤原頼長に仕える。康治2年(1143年)頼長の所有する能登国の預所職となるが、久安3年(1147年)年貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている(『台記』久安4年1月5日条)。 京堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす(なお、義賢は重隆の養子になったとする見方もある[1])。為義・義賢は秩父氏・児玉氏一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる[1]。 久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいによって信濃木曾谷(木曽村)の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)となる。京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。 埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。都幾川に沿った段丘上で、川をへだてて水田が開け、現荒川の沖積平野に続いていて鎌倉街道の要路にあたっている[2]。近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の五輪塔がある。なお、大蔵館の所在は現在の東京都世田谷区大蔵とする説もある。また、世田谷の大蔵は義平の居住地という説もある。埼玉県児玉郡上里町帯刀の福昌寺は、室町時代に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。
2024年12月02日
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「源義仲の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「木曽義仲の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「以仁王の令旨」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64、 「以仁王の挙兵」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・225、 「源氏同士の紛争を避けるため」・・・・・・・・・・・・356、 「源氏一族の挙兵」・・・・・・・・・・・・・・・・・・487、 「後白河法皇と源氏」・・・・・・・・・・・・・・・・・538、 「京都混乱と義仲乱行」・・・・・・・・・・・・・・・・689、 「義仲と入れ替わり頼朝入京」・・・・・・・・・・・・・7610、「義仲・京都から追放」・・・・・・・・・・・・・・・・10311、「義仲の最期」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11512、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132 1、「源義仲」(木曽義仲)(1154~1184)平安後期の武将。木曽義仲とも呼ぶ。父は源義賢(?~155)母は遊女という。通称木曾冠者。1155年(久寿2)父義賢が甥の義平に武蔵国大倉館で討たれたため、2歳の義仲は乳母の夫中原兼遠に抱かれて信濃国木曽に逃れ、その庇護に下に成人。した1180年(治承4年)以仁王の令旨に呼称して挙兵、父の故地上野国に侵入するが、既に源頼朝の勢力を関東を制しているのを知って信濃に退く。義仲は奥州藤原秀衡と連絡しながら、翌年8月に平氏方の越後守城長茂を信濃国横田河原に破り、同年9月には越中国水津に平通盛軍を撃退して北陸道を掌握する。1183年(寿永2)10万にも及ぶ平氏の追討軍に対処するために、嫡子源義高(1173~1184)を頼朝の元に人質として送り、対立していた頼朝と和睦を結ぶ。同年5月越中国倶利伽羅峠の戦い、加賀国篠原の合戦で平氏を打ち破り、7月には延暦寺大衆と連携に成功し、兵士を都落ちをさせる。叔父行家とともに入洛した義仲は、平氏追討・洛中警固の院宣を得る。しかし、義仲軍は畿内での乱行をめぐって後白河法皇との溝が深まり、義仲が、水島・室山に平氏を討ちに出ているすきを見て、11月に院近臣が反義仲の兵を挙げる。義仲は急遽帰洛してこれを鎮定、法王を五条内裏に幽閉し、摂政藤原基通以下の解官、藤原師家を摂政・氏長者につけ、自らは院御厩別当となった、この戦いでの頼みの延暦寺大衆も敵に回した木曽義仲は一層孤立したたため、平氏との和睦を模索したが失敗、翌1184年(元暦元)正月、征夷代将軍に任じられた直後、頼朝が差し向けた義経らの軍に敗れ、近江国粟津で打ち取られた。
2024年12月02日
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14「秀吉九州到着で裁可を命令」5月13日、秀吉は秀長へ全11ヶ条の条々を下す。大隅・日向両国の人質解放を命令したこと、長宗我部信親の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、島津義久降伏の様子、毛利輝元、小早川隆景、吉川元長を薩摩国に移陣させること、志賀親次の忠節に報い大友宗麟の判断で日向国内に城を与えること、大友義統と談議し豊後国内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は宗麟の覚悟次第とすること、宇喜多秀家、宮部継潤、蜂須賀家政、尾藤知宣、黒田孝高に日向国、大隅国、豊後国の城普請および城わりを命令、豊前国の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。(『大友家文書録』)宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後津久見で病死した。58歳。死因はチフスが有力とされる。九州平定後、秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。墓は大分県津久見市内と京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。その後、墓は荒廃したが寛政年間(1801年)に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬した。津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。人物・逸話文化人としての活動は活発で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。永禄12年(1569年)狩野松栄を、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させている。幼時より飛鳥井雅綱を師範とし蹴鞠の伝授を受けており、息子の義統にも習わせている。時の将軍・足利義輝も義鎮の蹴鞠好きを知り、蹴鞠の際に着用する専用の衣服などを送っている。収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集している。さらに楢柴肩衝、初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝も所有していた。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残っている。キリスト教と信仰、南蛮文化[編集]キリシタン大名としても知られる義鎮だが、天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また博多商人の島井宗室や神屋宗湛らと交友し、日明貿易や日朝貿易も行った。しかし実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀後半辺りまでで、三浦の乱を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した対馬国の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。また輸入品は食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くはいわゆる「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったことが外山幹夫の著作などで指摘されている。むしろ義鎮時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋(大友氏の使用した家紋)の使用権を与えるなどして代用するなど経済状況は決して良くはなかった。キリシタンとなったのは従来の仏教を見限りキリスト教に帰依した為であるが、キリシタンになったことが大友家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化する事となる。また、宗麟はキリスト教信仰の為に、神社仏閣を徹底的に破壊する(「住吉大明神破却」「彦山焼き討ち」「万寿寺炎上」など)、金曜日・土曜日には断食をする、それまで家に伝わっていただるまをも破壊する等の破壊行為も行なっている。義鎮がキリスト教の為に徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向に於いてであり、本拠である豊後や筑後で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は、次期当主義統が行っており義鎮が主導したという資料は見当たらない。これは当然に宗教心が発した行動であり、仏僧の奢侈を嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊されている。若い頃、南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に暴発して弟の晴英が手に怪我をしたが、その時に西洋医学による応急処置を見ている。また、弘治3年(1557年)に府内(現在の大分県庁舎本館のある場所)で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師1名と、助手に日本人医師2名の計3名で行わせた。当時の豊後国はらい病が風土病になっており、らい病の手術と大分県史に記されている。日本人医師2名は杏葉紋・苗字・太刀を宗麟から賜っている。現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っている。加えて宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作り、領民は無料で診察を受けることが出来た。臼杵城に篭城する際に、宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、自ら握り飯等を配った。宣教師はそうした行いを記録にまとめ、その中で宗麟のことは「王」と記している。
2024年12月01日
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13「宗麟苦戦に秀吉軍到着」この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲)を使って臼杵城を守った。しかし、大友氏はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、滅亡寸前にまで追い詰められた。天正15年(1587年)、滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と合流し、豊臣軍の総勢10万が九州に到着。同年4月17日に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将・宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守。根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、天正15年(1587年)4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。九州制覇を目指す島津義久は、天正14年(1586年)に入ると豊後侵攻を開始し、12月には戸次川の戦いで豊臣・大友連合軍を撃破し、大友義統は島津氏の勢威を恐れて豊前に逃亡し、豊後の西部及び中央部はほぼ島津氏の占領下に入った。一方、宿敵の徳川家康を臣従させて後顧の憂いを無くしていた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)1月に九州征伐の大動員令を発し、畿内や中国・四国の諸大名による軍を九州に送り出した。3月には秀吉の弟・豊臣秀長の軍勢が豊前小倉において先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら中国の軍勢と合流し、豊臣軍の総勢は10万になった。これにより先の豊後侵攻で島津軍の侵攻でも陥落しなかった岡城の志賀親次や栂牟礼城の佐伯惟定、鶴崎城の妙林尼などが勢いづき、豊前・豊後の土豪、さらに肥前の龍造寺政家と鍋島直茂も豊臣氏に帰順する。これに対して島津義久は、彼我に圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。戸次川の戦い後に義久の弟・島津家久が占領していた府内を放棄させ、家久は後方の豊後松尾城に撤退し、代わって島津家久の兄・島津義弘が府内に入って守備を固めた。そこへ秀吉は高野山の木食応其と一色昭秀を遣わし和議を勧めるが、島津義弘は応じず徹底抗戦を選択した。しかし佐伯惟定率いる大友軍の反撃によって本国との経路・日向国境近くの朝日嶽城が落とされ、戦況の不利を悟った島津義弘の軍勢は3月15日の夜半に府内城を脱出し、豊後松尾城の家久と合流、島津軍は豊後から退却する。退却の際に3月16日に三梅峠で志賀親次、3月17日には梓峠で佐伯惟定が率いる大友軍の追撃を受け、島津軍は犠牲を出しながら日向まで撤退した。3月下旬に入ると豊臣秀長率いる日向方面軍(九州東部軍)が豊後を発って日向に侵攻した。3月29日には日向北部の要衝である日向松尾城が陥落した。秀長軍は日向南部の要衝・高城を包囲した。高城は堅固であり、守将も島津軍きっての将・山田有信だったため、豊臣軍も力攻めを行うには多大な犠牲が必要であった。秀長軍は無理に力攻めをせず、城を何重にも包囲した上で兵糧攻めとし、併せて島津軍が城を助けに来るなら必ず通るはずの根白坂に砦を構築し、ここを要塞化して島津軍を待つ戦略を取った。一方、豊臣秀吉率いる本隊(九州北部・西部軍)は3月1日に大坂を出陣し、3月29日に豊前小倉に着陣した。秀吉は島津氏に従属する筑前の秋月種実の支城・岩石城を4月1日に落とした。秋月種実は秀吉に各個撃破されることを恐れて支城の益富城を破却して全軍で古処山城に立て籠もった。ところが秀吉得意の築城技術により、破却したはずの益富城は早々に修復され、ここを拠点に古処山城が攻撃されたため、種実は戦意を失って4月3日に秀吉に降伏した。その後、秀吉は4月10日に筑後に侵攻し、4月16日には肥後隈本(熊本)、4月17日には宇土へと進軍する。この間、秀吉の勢威を恐れて諸国の土豪は次々と降伏していった。島津義久は西から秀吉の軍勢が急速に南下していることを知って慌てた。義久は秀長の軍勢に備えるために薩摩・大隅などの軍勢の大半を日向都於郡城に結集していた。そのためもあり、九州西側の守備は手薄だった。豊臣方の軍勢がやってくると、各地の島津氏に服従していたはずの在地勢力はことごとく豊臣方に寝返っていった。この状況で有力な家臣である高城の山田を見捨てる選択は、島津氏の評価を下げることとなる。局面の打破を迫られた義久は、九州東部方面軍であり、高城を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ。4月17日夜半、島津軍は根白坂を急襲した。この根白坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら必ず通らないといけないルートだった。そのため前述のように、島津軍の後詰(救援)を予想していた秀長らは根白坂に砦を構築し、要塞化して守備を固めていた。島津氏は縣城を質に誘い出され、またそうせざるを得ない状況となっていた。戦闘経過この時の両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。島津軍では総大将の島津義弘が自ら前線に立って戦ったと伝えられるほど奮戦するが攻めきれず苦戦した。 砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。 ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊は軍監の言に従い、救援の中止を受け入れた。 しかし豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。ここに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の島津忠隣・猿渡信光等が討死するなどほぼ全滅状態となり、敗北遁走した。秀長らは追撃を行おうとしたが、尾藤が深追いの危険を主張したために追撃戦は行われなかった。 後に、日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、宮部継潤の働きに「法印(継潤)が事は巧者のものにて、天下無双」(『川角太閤記』)と秀吉をうならせた。 この戦いは、豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った戦いであった。
2024年12月01日
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12「龍造寺滅んで豊薩戦争」しかし天正13年(1585年)に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることとなる。家臣の高橋紹運・立花宗茂父子の奮戦で島津軍の侵攻を遅らせたが(岩屋城の戦い)、大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなっていた。岩屋城の戦い(いわやじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に、九州制覇を目指す薩摩の島津氏が、大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を落とした戦い。苛烈かつ激戦であった攻城戦と言われている。天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、大黒柱を失った龍造寺氏を軍門に降らせたことで、その勢いを急速に伸長した。この年、龍造寺氏からの離反や大友氏への対立方針を採るなどの様々な思惑から肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、東肥前の筑紫広門といった小勢力らが、服属や和睦といった形で島津氏との関係を強化していった。翌年には肥後の阿蘇惟光を降した島津氏にとって、九州全土掌握の大望を阻む勢力は大友氏のみになっていた。島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢20000余人が出陣。まず出兵直前に大友側に寝返った筑紫広門を勝尾城で下した。筑前で島津氏に抗い続けるのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増(のちの立花直次)、立花山城主で紹運の長子・立花宗茂といった大友氏の配下だけであった。合戦の経過岩屋城には763名の城兵が籠る。1586年(天正14年)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死[1]、自害して戦いの幕は降りた。一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。逸話紹運は敢えて島津勢が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城した。主将である紹運が敢えてこのような行動を取ったのは、島津勢に迂回されて立花城を衝かれるわけにはいかないからである。立花城には紹運の実子、立花宗茂がいた。また宝満城には、紹運の妻や次男の高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員(女・子供)もいた。豊臣軍が来援するまで紹運は自らを囮として徹底抗戦する。篭城軍は全員玉砕するが島津軍にも甚大な被害が出たため軍備を整えるため一時撤退する。結果、主家大友家・長男宗茂は豊臣軍来援まで持ちこたえる事に成功した(次男、統増は島津軍の策略により捕虜になるが後に釈放される)。長男で立花氏の養子になった立花宗茂は、父高橋紹運が篭城する岩屋城に援軍を派遣したいと家臣に告げた。他家からの養子のため賛同者が出ないのではと考えたが、吉田兼正(吉田左京)を始めとする多数が援軍に赴きたいと願い出た。吉田左京は「武士の道は義に順ずることだと思う」と率先して岩屋城に援軍に向かった。援軍に向かった吉田左京ら二十余人は、紹運と共に玉砕したと伝わっている。彼らの遺族は後に宗茂によって厚遇されている。島津軍諸将は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度も送ったが、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切った。このとき、敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われている。ちなみに降伏勧告は計5回、島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っている。落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。戦後紹運以下の徹底抗戦は、最終的には玉砕で終結した。ただし、島津軍への打撃も大きかったため、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃が鈍化した。立花山城攻略に時間を費やしている内に、豊臣軍20万が九州に上陸。島津軍は薩摩本国への撤退を余儀なくされた。紹運の命を引き換えにした抵抗は、結果的に島津軍の九州制覇を阻止することにつながった。このため天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願する。これに対し島津義久はその後も大友領へ侵攻し(豊薩合戦)、同年12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。豊薩合戦(法さつかっせん)は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友氏と薩摩の島津氏の戦争である。天正の役、天正の戦とも呼ばれる。天正年間の大友・島津の関係天正6年(1578年)10月、大友家当主・大友義統と隠居の父・宗麟は日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始した。しかし日向高城川(小丸川)で島津義久軍に大敗して佐伯惟教・惟直父子や吉岡鎮興ら多くの将兵を失って大敗し、宗麟らは豊後に後退した(耳川の戦い)。
2024年12月01日
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沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。龍造寺氏は少弐氏の被官から下克上で戦国大名となり、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国を統一する。さらに元亀元年(1570年)の今山の戦いで大友宗麟軍を破り、勢いに乗って肥後半国、筑前、筑後、豊前の一部(長崎県、佐賀県、熊本県北部、福岡県)を獲得した。天正6年(1578年)に大友宗麟は日向に南征し、島津義久に敗れる(耳川の戦い)。この結果、大友家は多くの武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで衰退する。そのため大友家は当時九州で成立していた九州三強から脱落し、耳川の戦いで勝利した島津家と、その合戦に乗じて大友領を侵食した龍造寺家の二強が争う時代となる。天正9年(1581年)、島津家は肥後に北上する。これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生(後の直茂)を派遣して島津方の赤星親隆を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させた。このため肥後北部の国人は龍造寺家に帰順する。しかし隆信は、筑後柳川の蒲池鎮並が島津氏へ通謀していることを知り、蒲池一族を小河信貴、徳島長房に殺害させるなどしたため、諸将士の離反を惹き起こし[3]、筑後衆の中では隆信に叛く者が出るにいたった。沖田畷の戦い両軍の対応天正12年(1584年、3月19日、有馬晴信の背信を知った隆信は龍王崎から出陣した。3月20日には島原半島北部の神代に上陸した。有馬晴信は八代にいた島津軍に援軍を要請する。当時、島津家は肥後の平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、有馬に対して援軍を送り出した。ただ、島津軍の主力が動けば、衰えたとはいえ大友家が南下しかねず、相良義陽を戦死させた阿蘇惟光・甲斐宗運らの動きもあり、島津義久は大軍を島原に送る事はできず、弟の家久や頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出した。兵力は島津軍の5,000人にも満たなかった。幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日だった事であるが、龍造寺軍を悩ませた海の時化が島津軍の渡海をも遅らせ、またこれにより大軍を送れなかったのである。一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた。信生は長期持久戦に持ち込む事で島津の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していたが、圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、晴信は島津の大軍の後詰を待つ後詰決戦を主張するが、家久は積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定められた。当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城との間にある道も幅が大変狭かった。沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であった。連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた。これらの防備は3月23日の夜までに完了したが、龍造寺軍の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。この時の連合軍の布陣は晴信を総大将に本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1,000余、内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠元ら1,000は前山の山裾に伏兵として潜んだ。これに対して3月24日未明、龍造寺軍は沖田畷に進軍し、山手を鍋島信生が[6]、浜手を隆信の次男・江上家種と後藤家信らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を突破し、森岳城を攻撃することとした。決戦島津・有馬連合軍は森岳城の北と前面に障害(大城戸等)を築いてわずかな騎兵を配置するとともに、籠城する有馬軍主力以外はすべてこの防御ラインの手前の山陰に隠れて待機した。一方、隆信は森岳城を俯瞰する小山に上り、敵方の陣営を一望してその数の少ないことを知り容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度を示した。辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まり、島津方は龍造寺軍をおびき寄せる計略を用いたため応戦をせず、敗北を装い退却した。追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射したため、先陣は崩れ、これを助けようとした二陣も左右が深沼で細道のため思うように進めずに難儀していた。島津・有馬連合軍は泥田・沼地によって畷の一本道以外には展開できない龍造寺軍を誘い込んだうえで猛烈な銃撃により進軍阻止・混乱させたのである。隆信は前線の様子を確認するため吉田清内を使者として派遣したが、清内は前線の諸将に対して命を惜しまず攻めるようにと、隆信から命ぜられていないことまで触れて回った。
2024年12月01日
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11「信長横死後、秀吉に支援を求める」中国攻め - 戦局の推移羽柴秀吉の着陣 /天正5年天正5年(1577年)、前年に能登に進攻した上杉謙信は、この年の閏7月に能登七尾城(石川県七尾市)を包囲した。信長は柴田勝家を大将にして、越前に所領をもつ前田利家・佐々成政などに加えて滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉らの精鋭を北陸地方へ派遣した。この時、大和の松永久秀が謙信や輝元、本願寺などの反信長勢力と呼応して、石山戦争から離脱して大和信貴山城(奈良県生駒郡平群町)にたて籠もり、再び信長への対決姿勢を打ち出した。『信長公記』によれば、信長は松井友閑を派遣して理由を問い質そうとしたが、久秀は使者に会おうともしなかったという。信長は嫡子織田信忠を総大将に筒井順慶の兵を主力とした大軍を送り込み、10月に信貴山城を包囲させて久秀を自害させた。一方、秀吉は勝家と意見が合わず、手兵をまとめて戦線を離脱し、居城の長浜城(滋賀県長浜市)に籠もったため、信長の逆鱗にふれたといわれる。中国戦線においては毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は北陸戦線から離脱して謹慎していた秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始した。秀吉は、天正4年7月の時点で信長より中国攻略を命じられていたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、ようやく播磨に入ったのである。秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家の家老黒田孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。但馬では岩洲城(兵庫県朝来市)、ついで竹田城(朝来市)を攻略し、竹田城に弟の羽柴秀長を城代として入れた後播磨に引きあげた。もっとも、『信長公記』によれば、信長が秀吉に命じたのは播磨攻略で、但馬攻略については秀吉の独断であったとされている。播磨では、秀吉は国中を巡って信長の旗下に入るよう促し、置塩城の城主で旧守護家当主の赤松則房ほか国人衆の多くを調略によって降伏させて人質をとり、1か月ほどで西播磨全域をほぼ支配下においた。秀吉は播磨佐用郡を中国地方への前進基地として重要視し、竹中重治・孝高らを派遣して毛利方の福原助就を城主とする福原城(兵庫県佐用町)を攻略して陥落させた。西播磨の豪族のなかでも、備前・美作国境に近い上月城の赤松政範は、容易に秀吉になびかず、毛利氏と結んでいた備前の宇喜多直家との連携を強化した。そこで11月27日、秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け、攻守に備えた。これにより、赤松政範救援のために派遣された宇喜多勢を撃退し、12月3日に上月城を陥落させた(第一次上月城の戦い)。「西播磨殿」と呼ばれた政範はこの戦いで自害し、家老の高島正澄も殉死した。秀吉は城兵の降伏を許さず、ことごとく首をはね、城内の子供も処刑した。その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛は勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。この後、勝久と幸盛は宇喜多勢に攻められていったん撤退し、直家はこれを上月十郎景貞という人物に守らせたが再び秀吉軍によって落城し、景貞は敗走中に自刃したと伝わっている。こうして秀吉は、織田方と毛利・宇喜多方の緩衝地帯の要素の濃かった播磨一国をわずか2か月で手中に収めた。この年の年末に近江国に帰った秀吉は、播磨・但馬平定の褒賞として、主君信長より自慢の茶器「乙御前の釜」を賜っている。別所長治・荒木村重の離反 /天正6年天正6年(1578年)1月、毛利輝元は大軍を上月城に派遣した。毛利方では、先述のように3ルートからの上洛作戦を策定していたが、上月城奪還から播磨進攻が得策であると小早川隆景が提案し、山陰道担当の吉川元春も合意して合流した。4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城(岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春・小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城を攻め、堀や柵を設けて何重にも城を取り囲んだ。秀吉からの急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、ついで滝川一益、明智光秀を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した。先発隊として村重が到着すると、秀吉は村重と共に上月城の東方・高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、毛利の大軍に歯が立たなかった。この間、秀吉も信忠らも別所長治離反(後述)のため撤退せざるをえなくなり、7月5日、半年にわたる毛利氏の攻略によって上月城が陥落した。これにより、信長と同盟を結んでいた尼子勝久・尼子氏久が自害、山中幸盛も捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)。こうして、一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願いむなしく滅んだ。天正6年2月、三木城主別所長治が本願寺・毛利の側に寝返り、同年10月には荒木村重も本願寺法主顕如と盟約を結んで信長に離反した。調略手腕で短期間のうちに制した播磨であったが、長治の離反におよんで同調者が続出し、秀吉は敵国のなかに身を置く様相を呈するに至った。長治は秀吉が黒田孝高と共に中国進攻戦の先導役として最も期待した武将の1人であった。だが『別所長治記』によれば、長治離反の理由を、加古川城(兵庫県加古川市)での軍議に参席した長治の名代の意見が容れられなかったために、不満をもった家臣が長治に謀反をすすめたからであると説明している。これらの動きに呼応して毛利水軍の600余艘が本願寺への大量の兵糧米を積載して木津川の河口へ向かった。信長は先の大敗の経験に学んで急遽志摩の九鬼嘉隆に6艘、伊勢の滝川一益に1艘の装甲をほどこした大型の安宅船(鉄甲船)を建造させ、7月に和泉の堺に廻航させて海上封鎖にあたらせていた。鉄甲船には、大砲3門が搭載されていたという。11月には、織田水軍と毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆が敵船を引きつけて大将の船を大砲で撃破する戦法で毛利水軍を敗走させ、毛利・本願寺間の糧道の遮断に成功した(第二次木津川口の戦い )。なお、これに先だつ3月13日には信長包囲網の一画を占めていた越後の上杉謙信が春日山城(新潟県上越市)で死去している。
2024年12月01日
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しかし、一方で信長は天正3年(1575年)、大友氏・島津氏ら九州地方の諸大名を講和させて毛利氏の背後に圧力を加えようと企図し、関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させている。天正3年8月、信長は明智光秀・羽柴秀吉を先鋒に、自らも出陣して越前府中(福井県武生市)を攻めて越前一向一揆を壊滅させ、加賀能美郡・江沼郡も制圧して、9月に越前北庄(福井県福井市)に北庄城を築き、後事を柴田勝家に託した。これは、石山本願寺にとっては大きな痛手となった。そして、天正元年(1573年)に室町幕府最後の将軍足利義昭を京より追放し、越前を平定した後の信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも西国の平定となったのである。越前制圧の直後、信長方の摂津有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重は西播磨の豪族から人質をとり、謀反を起こした宇喜多直家と交戦中であった備前の浦上宗景を援助して宗景の居城天神山城(岡山県和気郡和気町)に兵糧を入れ援助したが、天正3年9月に宗景は直家に敗れて備前を追われた(天神山城の戦い)。浦上宗景の敗退によって毛利氏に与する宇喜多直家が備前の支配権を奪取し、これにより毛利勢力の東進による織田氏との直接の衝突が現実味を帯びた。信長は天正3年10月、播磨の旧守護家赤松氏の配下であった御着城(兵庫県姫路市)の小寺政職や、三木城(兵庫県三木市)の別所長治、龍野城(兵庫県たつの市)の赤松広英、直家によって失領した宗景らが上洛して信長に出仕した。一方、山陰地方では信長が毛利方との約束に反して、それ以前から尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らの挙兵をひそかに支援していたことから事態は転変を繰り返した。天正2年(1574年)に尼子勢が因幡で挙兵して、私都城(鳥取県八頭郡八頭町)、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)を攻めて鳥取城(鳥取市)の城主山名豊国に危険がせまったため、豊国の伯父で信長に取り立てられていた但馬の有子山城(兵庫県豊岡市)城主山名祐豊が豊国救援のため毛利方に走った。しかし、丹波の黒井城(兵庫県丹波市)城主の赤井直正(荻野直正)が但馬国内へ侵入したため、祐豊は再び信長方に転じた。天正4年(1576年)2月、義昭は紀伊興国寺(和歌山県日高郡由良町)から毛利氏の支配する備後国鞆の浦(広島県福山市)に移った。これは、必ずしも毛利氏の歓迎するところではなかったが、義昭はさかんに輝元らに対し信長に敵対するよう働きかけた。義昭はそれ以前から征夷大将軍として御内書を出して各地の大名の糾合を呼びかけ、信長包囲網(第3次)の形成に努めた。その結果、長らく信長と対立していた本願寺や武田氏のみならず、備前国の宇喜多直家などがこれに参加した。こうした動きは、信長傘下の諸勢力にも少なからざる動揺を与えた。信長は天正3年秋より光秀に命じて丹波攻めを本格的に開始し、光秀は丹波の国人のほとんどを味方につけて赤井忠家とその叔父である直正の立てこもる黒井城を包囲して兵糧攻めにして落城寸前にまで追いこんでいたが、天正4年初頭、突如として丹波国人の1人で八上城(兵庫県丹波篠山市)主波多野秀治が裏切り、光秀は総退却を余儀なくされた(第一次黒井城の戦い)。前後して、いったんは織田氏に与力した但馬の山名祐豊が天正3年末、またも信長に叛旗をひるがえした。信長包囲網と織田・毛利の激突天正4年4月、信長が村重、藤孝、光秀、直政に命じ、一向一揆の拠点である摂津の石山本願寺(大阪府大阪市)攻めを開始して石山合戦(第4次)がはじまるに至って織田氏の強大化に危機感をいだいた毛利氏は、淡路北端の岩屋城(兵庫県淡路市)を占拠し、本願寺に兵糧や弾薬を搬送するなどの救援に乗り出し、信長包囲網の一画に加わった。『毛利家文書』には、石山本願寺を支援するにあたっての毛利家内の軍議の内容を伝える史料がのこっており、それによれば、織田氏との関係を和戦両様で検討したことがうかがい知れる。ここでは、信長と合戦にならなかった場合、宇喜多直家が信長に吸引され、毛利方の者まで手なずけられ、信長が強勢となって当方を攻めてきたとき、どうするのか。鞆にいる足利義昭をどうするのか。毛利氏に同盟する諸勢力の結束をどうするのか。が衆議にかけられ、また、信長と合戦になった場合、合戦の間じゅう、上下の結束が維持できるのか。旧尼子勢力圏の出雲・伯耆・因幡を制圧しうるかどうか。宇喜多直家の心をつなぎとめうるかどうか。だが、検討された[17]。毛利方は、評定をひらいたうえで慎重に審議した結果、義昭の懇請に応じて本願寺支援の決断を下したのであった。この輝元の決断は島津氏はじめ九州地方の諸大名、伊予の河野氏、越後を本拠とする上杉謙信、甲斐の武田勝頼などにも伝えられた。義昭はそのあいだも政治工作を進め、謙信・勝頼に対して、輝元と協力して信長を討つことを命じている。 5月には謙信が本願寺法主顕如(本願寺光佐)との間に加賀一向一揆との和睦を成立させて反信長に転じ、6月には謙信は輝元からの口添えもあり、武田氏・北条氏との和睦を受諾した。なおこの頃、輝元と直家の和議が成立したがこれを仲介したのは鞆にいた義昭であった。毛利氏は紀伊の雑賀衆と連携し、天正4年7月の第一次木津川口の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。
2024年12月01日
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未明、直生は敵陣に鉄砲を撃ちかけ「寝返った者が出た」と虚報を流して大友軍を大混乱に陥れると、同士討ちを始めた軍中で手薄になった親貞の本陣に突入し、六人がかりで親貞を突き伏せて、成松信勝が親貞を討ち取った。総大将を失った大友軍も散り散りになって退却し、奇襲は成功に終わった。このときの大友軍の犠牲は2,000余人に及んだという。この勝利を記念して、鍋島信生は鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉へと替えた。戦後この戦い自体は局地戦であったため、大友本軍にはさほど大きな痛手にならなかったものの、勝機を逃した大友軍は半年に及ぶ包囲を続けたが佐嘉城攻略の糸口を掴めず、9月末には龍造寺側から和睦提案があり隆信の弟・龍造寺信周を人質に差出すことで大友側は講和を受諾した。講和は10月1日に成立し、大友宗麟は豊後に帰国の途についた。隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの局地的な勝利にすぎず、この時点で大友氏の肥前支配を排除できていない。そのため大友氏への従属の姿勢を取り続ける。龍造寺隆信は大友軍の侵攻に際して叛旗を翻した近隣の豪族を次々に討伐・服従させ、やがて大友宗麟や島津義久と並ぶ九州三強に数えられるまでに成長していく。その他1931年(昭和6年)、陸軍大学校参謀演習のため佐賀を訪れた秩父宮雍仁親王は、今山の合戦を研究するため古戦場を見渡せる男女神社(佐賀市大和町)を訪ねた。男女神社前の丘にはこれを記念する碑が建てられている。ただし、これは龍造寺氏にとって局地的な勝利にすぎず、この時点では大友氏の肥前支配が維持されていた。その後は筑後国や肥前国の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、家督を長男の義統に譲って隠居する。家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同統治がなされていた。天正5年(1577年)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始すると、宗麟も出陣した。しかし、天正6年(1578年)に耳川の戦いで島津軍に敗れ、多くの重臣を失った。耳川の戦いの原因となった島津軍の北上の一因には毛利輝元の下に亡命していた足利義昭の影響を指摘する説がある。義昭は毛利氏が上洛に踏み切らないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏を初め龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行ったとされる。その結果、宗麟は将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と糾弾され、周辺の大名を悉く敵に回すことになった。宗麟は織田政権に接近してこの苦境を打破しようとする。さらに天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後国の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。改宗の背景として、宗麟の関心はかなりの程度、信仰がもたらす現世利益にあったと考えられ、またそれが宗麟個人のみならず、大友家中の人々にキリシタン信仰を広める上で有効な面もあったとされている。衰退から最期へ10「宗麟、信長に助けと和睦斡旋」耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていく。宗麟は本州で大勢力となった織田信長に接近し、島津氏との和睦を斡旋してもらう。さらに信長の毛利攻めに協力することなどを約束していたが、本能寺の変で信長が倒れたことによりこれらは立ち消えとなった。中国攻め(ちゅうごくぜめ)は、天正5年(1577年)以降に織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じて行った毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する。戦は足かけ6年にも及び、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長が横死したためそのまま未完に終わった。信長包囲網の形成と毛利の播磨進攻中国攻め以前の織田・毛利関係信長と毛利氏の当主・毛利輝元は阿波を本拠とする三好氏に対する牽制の意味もあって、但馬や播磨・備前のあたりを互いの緩衝地帯として、たがいに友好関係を保持してきた。信長は、上洛以来瀬戸内海東部の制海権の掌握をめざし、それを阻む三好三人衆や石山本願寺とはしばしば戦ってきた(野田城・福島城の戦い)が、他方で瀬戸内海の西部海域を掌握していた毛利氏・小早川氏を敵にまわさないよう気を配ってきたのであった。
2024年12月01日
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重臣の鍋島直茂は隆信の訃報に接し自害しようとしたが、家臣に押しとどめられ、柳河へと撤退した。島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実検された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否したため、願行寺(玉名市)に葬られたと言われる。現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり(人物・逸話も参照)、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。逸話今山の戦いで奇襲か籠城かで評定の意見が分かれた際に、母親の慶誾尼から奇襲をするように指摘されたので、奇襲を決めたとも言われる(『直茂公請考補』)。若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。筑後の蒲池鎮漣(鎮並)は、当初は隆信の筑後侵攻に協力した。鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、後に隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻とする。隆信にとって、鎮漣は筑後における強力な与力でもあった。しかし、肥後北部の辺原親運を攻めた際に、鎮漣がときどき陣を抜け出して柳川へ通っていたことがわかり、これが佐賀勢の印象を悪くし、隆信との関係も悪化した。攻城戦の最中に陣を抜けるのは重大な現場放棄である。隆信は、天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めている。しかし九州屈指の難攻不落の城はなかなか落ちず、また城方も城兵の疲弊が著しかったため、鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた田尻鑑種の仲介で和睦する。しかしその後、蒲池連並が島津氏と通謀していることが明らかになったため、天正9年(1581年)、隆信は鍋島直茂、田尻鑑種などと謀り、和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙し討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした(柳川の戦い)。蒲池氏は龍造寺氏にとって大恩ある家であったため、龍造寺四天王の一人・百武賢兼は、出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかったという。また隆信の尖兵となった田尻鑑種ものちに一時的にではあるが、隆信から離反している。若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。しかし隠居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば、隆信は肥満体のため六人担ぎの駕籠に乗っていたという。隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。ルイス・フロイスが残した記録では、沖田畷の戦いに於ける隆信の軍備に対し、「細心の注意と配慮・決断は、カエサルの迅速さと知恵でも企てられないように思えた」と評している。カエサルも軍事に関しては速断の人であり、フロイスは隆信をそれ以上と評している。一方でカエサルは敵対した相手を許す場合が多く、当時のヨーロッパでは鷹揚な人物として有名で、」上述の隆信の人物評とは正反対である。なお、隆信はキリスト教には否定的だったようで、三男・後藤家信がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事もあるという(フロイス日本史)。沖田畷での敗戦は、龍造寺軍の将兵が泥田に足を取られて身動きできずにいたにも関わらず、隆信が無謀な攻撃命令を出したため、兵が自暴自棄になって敗れたという説もある。『北肥戦誌』では、軍勢が進まないため隆信に様子を見てくるよう遣わされた吉田清内が、「二陣・三陣がつかえて旗本勢が進めない。命を惜しまず攻めかかれとの下知である」と独断で告げたためであるとし、敗戦後に逐電していた清内は、見付けだされて処されたとしている。辞世は「紅炉上一点の雪」である。隆信は扇型と四角型の二種類の印章を使用していたことが知られている。今山の戦い(いまやまのたたかい)は、元亀元年(1570年)4月から始まった豊後の戦国大名・大友宗麟軍と肥前の戦国大名・龍造寺隆信軍との戦い。特に元亀元年8月20日(1570年9月19日)に行われた激戦が有名であり、この日の戦闘を指して今山合戦とする場合もある。合戦までの経緯元亀元年(1570年)3月、北九州の大友宗麟は肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、3千の兵を率いて龍造寺領に攻め込んだ[1]。龍造寺側は佐嘉城(のちの佐賀城)に軍を集めて篭城を開始する。このときの大友軍の威容を、『肥陽軍記』では「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」と記している。今山合戦大友宗麟は高良山に陣取り諸将に攻略を命じたが、龍造寺軍の士気も高く容易に敵を寄せ付けなかったため、戦況は小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移した。とは言え、龍造寺側には長期の篭城戦に必須である援軍の見込みはなく、このままいけば落城は必至の状況であった。大友宗麟は8月になっても勝報が届かないことに業を煮やし、城攻めの大将とし弟の大友親貞を3,000の兵で前線に送り出し親貞に総攻撃命令を下した。17日には親貞は佐嘉城の北に位置する今山に布陣した、北側に布陣する大友親貞は占いの凶兆を気にし直ちに総攻撃には踏み切らず、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定する。ところが総攻撃の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。この動きを間者から入手した佐嘉城の鍋島信生(のちの直茂)は、今山の敵本陣への夜襲を進言する。篭城での徹底抗戦論や降伏論が飛び交っていた龍造寺陣営は初め無謀だとして否定的だったが、隆信の生母・慶誾尼が檄を飛ばしたことで奇襲策が容れられ、直生以下500余の奇襲部隊が編成された。8月19日夜から20日の未明、信生の奇襲部隊は城を抜け出し、包囲の間を縫って今山の敵本陣の背後に兵を伏せた。
2024年12月01日
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肥前統一天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去する(大寧寺の変)と、後ろ盾を失った隆信は、(密かに大友氏に通じて)龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣・土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。天文22年(1553年)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に小田政光が恭順し、土橋栄益は捕えられて処刑され、龍造寺鑑兼は隆信正室の兄であり佐嘉郡に帰らせて所領を与えた。その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559年)にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。また、江上氏や犬塚氏などの肥前の国人を次々と降し、永禄3年(1560年)には千葉胤頼を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄4年(1561年)には川上峡合戦で神代勝利を破り[21]。永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立した。このような急速な勢力拡大は近隣の有馬氏や大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563年)に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は千葉胤連と同盟を結んでこの連合軍を破った(丹坂峠の戦い)。これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後国の大友宗麟が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援し、これに馬場氏や横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。永禄12年(1569年)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、毛利元就が豊前国に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した(多布施口の戦い)。その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570年)に弟の大友親貞を総大将とする3千の軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の鍋島直茂)による奇襲策によって撃退した。その後、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功したが、隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、局地的な勝利に過ぎなかったので、この時点で大友氏の肥前支配を排除できなかった。今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送って、また子・政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱(「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っている。隆信が周辺の国人を滅ぼしたり、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。元亀3年(1572年)、少弐政興を肥前から追放する。天正元年(1573年)には西肥前を平定し、天正3年(1575年)には東肥前を平定する。天正4年(1576年)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577年)までに大村純忠を降し、天正6年(1578年)には有馬鎮純の松岡城を降して肥前の統一を完成した。天正8年(1580年)4月に家督を嫡男・政家に譲って、自らは須古城へ隠居する。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。勢力拡大天正6年(1578年)、大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲し、大友氏からの完全な自立を果たし、それまで対等な関係であった国衆を服属化させ戦国大名化した。天正8年(1580年)までに筑前国や筑後国、肥後国、豊前などを勢力下に置くことに成功している。しかし天正8年(1580年)、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年(1583年)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになる。天正9年(1581年)、龍造寺軍は龍造寺政家を主将として肥後へ侵攻、4月までに山鹿郡の小代親伝、菊池郡の隈部親永、大津山資冬、戸原親運、益城郡の甲斐宗運、合志郡の合志親為、飽田郡の城親賢、隈府の赤星統家、球磨郡の相良義陽が参陣した。また先陣の鍋島信昌は、隈府の赤星親隆、山本郡の古閑鎮房を下し、肥後計略は完了、龍造寺軍は帰陣した。同年8月、島津忠平(義弘)が北上し相良氏の水俣城を攻めたため、相良氏、阿蘇氏、甲斐氏らは南関に陣する龍造寺家晴に救援を求めた。家晴は直ちに援兵を差し向けたので、島津忠平は八代に退いた。 天正11年(1583年)、家晴は筑前、肥前、筑後並びに肥後の味方の兵を自ら率い(『北肥戦誌』では37,000余)、島津は伊集院、新納、樺山、喜入等の手勢を集め、高瀬川(現・菊池川)を挟んで対峙したが、秋月種実の仲裁により、高瀬川より巽(東南)を島津領、乾(北西)を龍造寺領と定めて、天正12年(1584年)に両者和睦に至った。これを聞いた隆信は、島津と一戦もせずに講和したことを憤ったという。もっとも、島津氏の家老・上井覚兼の『上井覚兼日記』天正11年9月27日の項には、秋月種実の使者が隈本(熊本)に参じて、龍造寺との和平及び、共に大友を討つことを島津方に周旋した上で、隆信および種実は島津義久を九州の守護と仰ぎ奉ると述べたとし島津側に立った記述がなされている。天正12年(1584年)3月、有馬晴信が龍造寺氏から離反する。晴信の縁戚である同地深江城主・安富純冶、純泰父子は依然龍造寺方であったが、有馬晴信は深江城を攻め島津がこれに加勢したため、隆信は深江城を救援し有馬を討つべく軍勢を差し向けた。しかし、有馬攻めは遅々として進まず、これに業を煮やした隆信は、自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意する。龍造寺軍は2万5千大軍であり、島津軍は僅か1万未満と圧倒的な兵力差であったが、龍造寺軍は大軍の進行が不可能な隘路に誘い込まれ、島津義久の弟・島津家久軍と有馬勢から挟撃されて、敗北を喫した。龍造寺方は多くの将兵を失ったのみならず、大将の隆信が島津氏の家臣・川上忠堅に討ち取られてしまった。享年56。法名は泰巌宗龍、法雲院と号した。
2024年12月01日
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九州統一への戦い天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年(1585年)、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(「惣無事令」)。島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年(1586年)7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長・伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方の筑後国の筑紫広門を攻めた。島津軍の攻撃を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降った。これを見て、筑後の原田信種、星野鎮種、草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊後の城井友綱と長野惟冬の3,000余騎など、大名・国衆が参陣した。これにより筑前・筑後で残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。7月、島津忠長・伊集院忠棟を大将とした3万余が岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)。しかしこの戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す誤算となった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め、豊後侵攻へ方針を転換した。島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還されている。義久は肥後側から義弘を大将にした3万700余人、日向側から家久を大将にした1万余人に豊後攻略を命じた。しかし、義弘は志賀親次が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取ったため、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。家久は利光宗魚の守る鶴賀城を攻め、利光宗魚が戦死するも抵抗は続いた。12月、大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。家久はこれを迎え撃つべく戸次川を挟んで対陣した。合戦は敵味方4,000余が討死した乱戦であったが、家久は釣り野伏せ戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。長宗我部信親・十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり勝利した(戸次川の戦い)。この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏した。大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とした。家久は大友宗麟の守る臼杵城を包囲した。 9「龍造寺氏台頭と敗戦」元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻するが今山の戦いで敗れ、龍造寺隆信に弟・親貞を討たれた。龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。龍造寺氏の出自については諸説があるが、本姓を藤原氏秀郷流と称す。家督相続享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ヶ江城の東館天神屋敷で誕生。幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。天文5年(1536年)、7歳のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)とした。円月は、12、13歳の頃より、20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされる。まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていた。これを領民6、7人がこじ開けようとしていたのを円月が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民4、5人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという。天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国の蒲池氏の下へ脱出した。天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残した。それに従って翌年、円月は、重臣石井兼清の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗り、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった。しかし胤信が水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れた。そこで八幡宮に詣でて籤を三度引き神意を問うたが、籤は三度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したという。その後、龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。天文17年(1548年)、胤栄が亡くなったため、胤信はその未亡人を娶り、本家(村中龍造寺)の家督も継承した。しかし胤信の家督乗っ取りに不満を持つ綾部鎮幸等の家臣らも少なくなく、胤信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、翌天文19年(1550年)には義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられて7月1日に隆胤と改め、ついで同月19日に隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣らの不満を抑え込んだ。また、同年、祖父・家純の娘である重臣・鍋島清房の正室が死去すると、隆信の母・慶誾尼は、清房とその子・直茂は当家に欠かすことができない逸材として、押し掛ける形で後室に入って親戚とした。
2024年12月01日
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島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。元服した直後は祖父と同じ忠良(ただよし)を諱とし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱(「義」の1字)を受け、義辰(よしたつ)、後に義久と改名している(以下、本記事中では全て義久と記す)。三州統一天文23年(1554年)、島津氏と蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557年)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569年)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570年)には東郷氏・入来院氏が降伏、薩摩統一がなった。この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566年)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。島津氏は薩摩の統一が成る前より、薩隅日肥が接する要衝である真幸院の帰属を巡って日向国の伊東義祐と対峙していた。元亀3年(1572年)5月、伊東義祐の重臣・伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)らを大将にした3,000人の軍勢が島津領への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟・島津義弘が迎え撃った。義弘は300人を率いて出撃し、木崎原にて伏兵などを駆使して伊東軍を壊滅させた。義弘が先陣を切って戦い、伊東祐安、伊東祐信、伊東又次郎など大将格五人をはじめ、名のある武者だけで160余人、首級は500余もあったという。この合戦は寡勢が多勢を撃破したものである(木崎原の戦い)。また、これと並行して大隅国の統一も展開しており、天正元年(1573年)に禰寝氏を、翌年には肝付氏と伊地知氏を帰順させて大隅統一も果たしている。最後に残った日向国に関しては天正4年(1576年)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退をする。こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一が達成された。耳川の戦い伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578年)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周・佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2銭から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。天正8年(1580年)、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、天正10年(1582年)後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、本能寺の変で信長が倒れたことにより実現はしなかった。天正9年(1581年)には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。沖田畷の戦い耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年(1582年)、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯・川上忠堅ら1,000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。天正12年(1584年)、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後国の水俣まで出陣した。家久は3,000人を率いて島原湾を渡海し、安徳城に入った。有馬勢と合わせて5,000余りで、龍造寺軍2万5千(一説には6万)という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利した(沖田畷の戦い)。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。
2024年12月01日
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島津家の反撃島津義久は大友家との決戦に専念するため伊東家残党の掃討を開始した。島津征久らの諸将が8月に伊東家残党の籠る日向国上野城と隈城を攻撃、9月に両城を攻略している。上野城攻略から4日後、将軍足利義昭の使者が島津家の下を訪れた。大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、9月に島津氏に大友領に侵攻して大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する。義久は島津征久ら1万の軍を北上させ再び石ノ城を攻撃した。攻城戦は9月19日から開始されたが、29日には島津方の猛攻に屈し籠城軍が講和を申し出た。島津軍は城兵の生命を保証し、長倉佑政は石ノ城を明け渡すと豊後へと撤退した。合戦経過10月20日耳川以北に布陣していた大友軍が南下を再開、島津方の要衝高城を包囲した。佐土原城主の島津家久は高城に急行し、高城城主山田有信とともに守りを固めた。大友軍は数千丁の鉄砲と国崩しと呼ばれる大筒を使用して3度にわたって攻撃を行ったが、島津家久と山田有信は城を守りぬいた。10月24日島津義久は薩摩・大隅の軍勢を動員、3万の兵を率いて鹿児島を出陣した。島津軍は紙屋城を経由して佐土原城に入ると日向各地の守兵をあわせ4万の軍になった。11月9日島津義弘、島津征久、伊集院忠棟、上井覚兼らの諸将が財部城に入り軍議を開いた。松原に布陣する大友軍を撃破するため陽動部隊と3つの伏兵部隊が小丸川を渡河して出立し、島津義弘は小丸川の南岸に布陣し戦況を見守った。300の陽動部隊がまず松原の大友軍を襲撃、荷駄を破壊し75人を討ち取った。事態に気付いた大友軍が松原の陣に急行すると、陽動部隊は伏兵の埋伏地点に退却した。また伏兵を支援するため高城の島津家久が出撃、大友軍本隊を牽制した。3つの伏兵部隊は埋伏地点におびきだされた大友軍を殲滅、敗残兵を追って松原の陣に突入し火を放った。島津義弘、島津征久、島津忠長、伊集院忠棟らの主力部隊も混乱に乗じて渡河し、高城川の南岸に布陣した。島津軍は大友軍の陣に火矢を放ち、伏兵によって各陣地を寸断した。前哨戦の敗北により大友方は田原親賢ら16人の使者を島津の陣へと派遣、講和を申し出た。一方で大友軍は主戦派と講和派に割れ方針が不明確だった。軍議では主戦派の田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周と佐伯宗天がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至った。佐伯宗天は当初慎重論を唱えていたが、軍議の席で田北に侮辱され、それが原因で田北とともに攻撃を仕掛けた。 一方大友方の軍議を知った島津義久は決戦に備えて諸将を埋伏させ、自らは1万の兵を率いて根白坂に布陣した。島津征久の馬標が攻撃の合図となり、馬標がたてられるまで攻撃は禁じられた。11月12日の朝、田北・佐伯の軍勢が小丸川北岸に布陣する島津軍前衛への攻撃を開始した。大友軍の本隊も二人に続き、島津軍前衛部隊は壊滅、北郷時久、北郷久盛らが戦死した。勢いにのった大友軍は小丸川を渡ると島津義久本隊へと殺到した。島津義弘、島津歳久、伊集院忠棟らが大友軍をむかえうち、伏兵部隊を指揮する島津征久が大友軍の陣形が伸びきった段階で馬標を立てた。前後左右から伏兵が大友軍に襲いかかり、高城の島津家久、根白坂の島津義久も攻撃に参加した。包囲された大友軍は崩れて敗走、一部の部隊は竹鳩ヶ淵へと逃走、多くの兵が溺死した。ここで佐伯宗天も戦死している。川原、野久尾の陣が陥落、本陣も制圧されると大友軍は耳川方面へと逃走。島津軍は敗走する大友軍を追撃し多くの首を挙げた。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。敗報を知った宗麟は単身豊後へと逃走。耳川の合戦は島津家の勝利に終わった。影響大友氏はこの戦いにより、直臣の佐伯宗天・田北鎮周や、筑後国人の蒲池鑑盛をはじめとする多くの重臣や幕下の有力武将ならびに兵力を失った。戦死者が多数出たため戦争未亡人となった者も多く、「日向後家」という言葉が生まれるほどであった。さらに足利義昭の御内書は大友支配地内の有力国人たちにも送られ、その結果秋月種実(筑前国)の反抗や龍造寺隆信(肥前国)の謀反などをはじめとする有力国人たちの離反を招き、その勢力・領国を大きく削がれることとなった(勿論、島津氏をはじめ反大友氏の諸氏が義昭に本当に協力する意思があったかは別の問題となる)。また、足利義昭の上洛を妨害する障害「六ヶ国之凶徒」(天正6年12月10日付毛利輝元宛島津義久書状)として糾弾の対象になった大友氏は、義昭を奉じる毛利氏及び御内書を受けた島津氏・龍造寺氏・長宗我部氏ら近隣の有力大名全てと対立することになり、京都の織田政権及びその後継政権となった豊臣政権との関係を深めて窮地を脱する外交政策を展開する事になる。なお戦後、立花道雪は軍監を務めていた志賀親守の罪を糾弾している。島津氏は一連の戦いによって九州内に拮抗する敵はなくなり、九州南部(薩摩・大隅・日向)の支配を確固たるものとした。島津氏はこの勝利後、大友氏の後ろ盾を失った球磨の相良氏を降伏させ、肥後の阿蘇氏、また肥前の龍造寺氏を「沖田畷の戦い」で下したため、九州内の国人達は次々と島津方になびき始める。さらに大友氏の本拠地豊後へ侵攻を開始し一時は現在の大分市まで迫る。しかし宗麟の要請をうけた豊臣秀吉の介入によって退却を余儀なくされ、遂に秀吉に恭順することになる。
2024年12月01日
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8「大友氏、島津と対立」経済面では、博多や堺の豪商のみならず、府内の豪商仲屋顕通・仲屋宗越父子を厚遇して御用商人化し、秤と分銅の衡量権益を授け、対外貿易の実務も担わせた。宗越は臼杵城下の唐人町懸ノ町に広大な屋敷地の保有を認められ、のちには豊臣秀吉からも厚遇されて京都方広寺大仏殿造立時に奔走する。「南蛮」外交(東南アジア外交)においては、日本の戦国大名では最も早い天正年間に、カンボジア国王との善隣外交関係の締結に成功ている。義鎮がカンボジアに派遣した交易船は、帰路の天正元年(1573年)8月に銀子・鹿皮等を積んで薩摩の港(阿久根)に大風避難寄港し消息を絶った。また、カンボジア国王が天正7年(1579年)に義鎮に向けて派遣した交易船には、鏡匠・象簡・象が乗り込み、銅銃・蜂蝋が積まれていたが、前年耳川の戦いで優位に立った島津義久による経済封鎖によって抑留された。耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。天正年間以前の大友・島津の関係薩隅日(南九州)の支配者である島津氏と豊筑肥(北九州)の支配者である大友氏の関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。国内情勢が不安定な状態が続いた島津氏にとっては自国の安全を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1573年)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。また、永禄3年(1560年)に室町幕府将軍・足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝(政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は薩摩・大隅・日向の統一事業に専念することができ、大友氏も北九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる。合戦の背景と概要大友家の日向侵攻ところが、天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、大友氏に身を寄せた。大友宗麟は伊東家主従に300町を与えて庇護した。また伊東家の旧臣であり島津家に降伏した門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内が大友家の重臣佐伯紀伊入道宗天に日向侵攻時の先導役を申し出た。 こうした状況の中、天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる軍を率いて日向への遠征を決定する。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれ、志賀道輝、朽網鑑康、一萬田鑑実らが肥後口を、大友宗麟親子は豊後口を担当した。天正6年(1578年)2月21日大友軍の先鋒は日向国門川城に入った。豊後に亡命していた伊東家の家臣団も先鋒に加わり日向の国衆へ調略を行った。伊東家旧臣長倉佑政は耳川を越えて島津家の勢力圏に侵入、石ノ城で挙兵をした。それに呼応して内応を約束していた米良四郎右衛門、右松四郎左衛門、米良喜内が挙兵し島津方の縣城主土持親成を攻めた。3月18日には佐伯入道、田原親賢、田北鎮周らが土持親成攻撃に参加し、大友軍による日向侵攻が本格化した。土持親成は松尾城に籠城したが、4月15日に陥落し行縢への撤退中に捕らえられ斬殺された。大友軍は耳川以北の日向制圧に成功し、島津家の勢力は耳川以南に後退した。一方島津義久は6月に島津忠長ら7000の軍を日向へと派遣、長倉佑政ら伊東家の残党が籠る石ノ城攻めを命じた。島津軍は7月8日に総攻撃を開始したが500人以上の死傷者をだして撃退され、日向佐土原へと撤退した。大友義統は石ノ城籠城軍に手紙を送り、勝利をねぎらっている。大友軍は土持領への侵攻時、領内の寺社仏閣を徹底的に破壊している。その背景にはキリシタンだった宗麟の意向が影響している。一説によると宗麟は日向でキリシタン王国の建設をめざしたという。宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団との間に不協和を生じさせた。宗麟は8月に宣教師とともに日向国に入り、無鹿に本営を置いた。
2024年12月01日
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7「毛利氏の九州進出で対立」永禄9年(1566年)に出雲国の尼子氏を滅ぼした毛利元就は、永禄11年(1568年)には伊予国へと出兵、河野氏を支援して後方の憂いを断った(毛利氏の伊予出兵)。そして、永禄12年(1569年)に大内氏の後継を自認して博多の権益を狙い、大友領であった豊前国・筑前国への侵攻を開始した。同年5月、博多を守る要衝であった立花山城を攻略、大友宗麟と全面対決へと至った。九州へ侵攻した毛利氏は、筑前国の国人らを味方に引き入れた。騒乱の経緯輝弘の周防上陸立花山城付近で毛利軍と大友軍の対立(多々良浜の戦い)が続く中、大友家臣の吉岡長増は、毛利氏を九州から撤退させるべく毛利軍の後方撹乱を狙った[2]。少なくとも同年3月に大友氏から備前国浦上宗景に送られた書状で、輝弘の派兵を示唆する内容が見受けられる。そして、6月に尼子残党の尼子勝久・山中幸盛の出雲国侵入(尼子再興軍の雲州侵攻)に呼応して、山口へ大内輝弘を送り込むことを画策した。 毛利氏は大内一族を山口に乱入させる策を大友氏が企んでいることを数年前から知っていたが、戦線を拡大していた毛利軍は手薄であり、対応が遅れることになった。大内氏再興の機会を得た大内輝弘は、豊後国から若林鎮興率いる大友水軍[4]に護衛されて軍勢2000を率いて周防国へ渡航した。 この記録は当時豊後国にいた宣教師の書状にも見える。 永禄12年(1569年)10月11日日、先だって7月と8月に威力偵察を行っていた吉敷郡南岸、秋穂浦・白松の海岸への上陸[6]。大内一族の復帰を知った秋穂・岐波・白松・藤曲等の大内遺臣が大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増した。翌日の山口侵入時には6,000にまで膨らんだとされる。山口での攻防10月12日、大内輝弘は陶峠から山口に侵入。毛利方は、平野口を山口町奉行の井上善兵衛尉就貞が、小郡口を信常元実が守っていたが、数に勝る輝弘勢が糸根峠で激戦の末に井上隊を打ち破り、就貞は戦死した。続いて、三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎などを斬り、輝弘軍は龍福寺と築山館を本営として毛利勢の籠もる高嶺城攻略を開始。高嶺城主の市川経好は九州へ出陣中であったため、内藤就藤や山県元重、国清寺の住持・竺雲恵心らがわずかな城兵でその留守を守っていたが、在郷の士である有馬善兵衛、津守輔直、寺戸対馬守らが乗福寺の代僧と共に急遽登城して籠城に加わり、経好の妻・市川局も鎧を身にまとって城兵を鼓舞したため、この日は高嶺城は落ちなかった。輝弘は翌日も高嶺城への攻撃を再開したが、高嶺城の出城も落とすこともできず戦線は膠着した。なお、この山口侵攻によって大内縁故の寺院の多くが焼け[6]、宝物が失われている。大内氏の後継を自認する輝弘であったが、実は大友宗麟の影響を受け、キリシタンであったといわれる。そのため大内縁故の寺院を焼いたとされ、これは後の大友宗麟の「耳川の戦い」でも見られたことである。長門国赤間関に陣を敷いて九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、13日に急報を受け取ると九州からの撤退を指示。15日から九州撤退を開始し、18日に長府に到着、21日に吉川元春と福原貞俊が10,000の兵を率いて山口に急行する。元春は大内方に組した者たちを徹底的に討伐しながら進軍した。この時、大友宗麟は退却する毛利軍を追撃しておらず、毛利軍を追い払うことのみを目的として輝弘らを捨て駒にしたと考えられている。山口への救援としては石見国津和野の吉見正頼の家臣である上領頼規も嫡男・頼武や伊藤実信、吉賀頼貞らを率いて駆けつけ、山口の宮野口で城井小次郎率いる輝弘軍1,000と交戦。この戦いで上領頼武や伊藤実信らが戦死している。高嶺城が落ちない一方で輝弘軍への包囲が始まりつつある状況を知った大内遺臣は、次第に輝弘軍から離散し始めた。大内輝弘の最期10月25日、輝弘の手勢は800となり、上陸地である秋穂浦へと撤退する。しかし、すでに軍船はなく(毛利軍による襲撃、もしくは大友水軍の帰国[4])、輝弘は東へと向かった。その途中で、南方就正率いる防府の右田ヶ岳城の城兵にも攻撃されて敗走。三田尻でも船はなく、浮野峠を越えて佐波郡富海まで逃げてきた。しかし、この先の椿峠には杉元相や由宇正覚寺別当の周音らの手勢が集まってきており、従う兵が100人に過ぎなかった輝弘はこの方面への撤退を諦めて浮野峠の茶臼山に引き返した。後方からは吉川元春率いる毛利軍主力が迫ったため、最期の一戦を試みるが衆寡敵せず壊滅。輝弘の自刃で乱は終結した。自刃した輝弘らの首級は福間元明によって挙げられて長府まで送られ、元就の本陣で首実検が行われた後に埋められたと言われている(豊後塚)。なお、騒乱が鎮圧された直後、旧大内家臣の吉田興種・武種父子は輝弘への内通を疑われて討たれている。
2024年12月01日
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また、時同じくして尼子氏の旧臣山中幸盛、立原久綱らが尼子勝久を奉じて隠岐で尼子再興の挙兵し、出雲の新山城に入り出雲の諸城を攻略する事件が起きた(尼子再興軍の雲州侵攻)。毛利氏の出雲の拠点である月山富田城を脅かすなど、毛利氏の領国支配体制が危機にさらされることになった。この危機を脱するため、毛利元就は筑前方面に展開している吉川元春、小早川隆景らの毛利軍主力を呼び戻すこととし、毛利勢は立花山城に乃美宗勝らわずかな兵を残したまま宗像氏の支援を得て北九州より撤退し、多々良浜の戦いは大友氏の勝利に終わった。 また、立花山城は翌年になって開城し守備兵も約定により本州へ撤退した。戦後処理と後世への影響大友氏による筑前支配体制の確立戦後、大友宗麟は苦戦の原因として、立花山城主の立花鑑載、宝満城とその支城の岩屋城を領する高橋鑑種といった筑前の重要拠点を預かっていた両氏が叛旗を翻したことと判断し、ここに腹心を送り込むことになった。具体的には、先の落城の際に自害した立花鑑載の立花氏の名跡を家老の戸次鑑連に継承させ、高橋鑑種の家督を奪い毛利氏へ追放し、高橋氏の名跡を同じく家老の吉弘鑑理の次男鎮理に継承させた。これにより、戸次鑑連は立花道雪、吉弘鎮理は高橋鎮種(後に剃髪して紹運と号す)と名を改め、筑前の軍権を立花道雪が握るようになったことにより、大友氏の筑前支配は磐石となった。毛利氏の外交転換と大友氏の北九州支配毛利氏は1571年(元亀2年)に当主元就が死去しており、後を継いだ毛利輝元は外交戦略をそれまでの織田信長との友好を保つ方針から、足利義昭が主導した信長包囲網に加わる方針に転換した。この為、毛利氏は北九州で失った拠点を奪還する兵を起こすことはなくなり、1550年代から10年以上に渡って続いた大友氏と毛利氏の筑前・豊前における覇権争いは大友氏が勝利することになった。この支配体制は立花道雪が病死した1585年(天正13年)以降も高橋紹運と、紹運の子で道雪の養子立花宗茂の2人に継承されている。島津氏が筑前に攻め寄せた際には、高橋紹運が岩屋城に、紹運の次男高橋統増が宝満城に、立花宗茂が立花山城に拠って抗戦している。この戦いで高橋統増は筑紫氏の家臣団が裏切ったことにより捕虜となったものの、高橋紹運は岩屋城の戦いで玉砕するまで戦い抜き、立花宗茂は立花山城に拠って島津勢を相手に奮戦するなど、大友氏の衰退期にあってもこの宗麟の築いた支配体制は機能していた。大内輝弘の乱(おおうちてるひろのらん)は、戦国時代後期の永禄12年(1569年)に周防・長門国で起きた騒乱。旧大内家の動向弘治元年(1555年)から始まった毛利元就の防長経略によって大内氏は滅亡し、周防・長門国は毛利領となった。大内家臣の多くは新たな領主となった毛利氏に従ったが、これに不満を持つ大内遺臣もいた。毛利氏の支配が始まった直後から、毛利氏の支配が確立して間もない弘治3年(1557年)11月には、旧大内氏の重臣格であった杉氏・内藤氏・問田氏らが大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じて挙兵、山口近郊の障子岳に籠もった。この反乱は、毛利氏の支配を覆すべく挙兵した大規模なものであったが、毛利家臣となっていた内藤隆春・杉重良らが鎮定。その後も、小規模の反乱が山口周辺で発生するも、山口支配責任者として高嶺城に入っていた市川経好がよく平定して毛利氏の支配を強化していた。一方、豊後国の戦国大名・大友氏の客将に、大内義興の弟である大内高弘の子大内輝弘がいた。高弘は大友親治(大友宗麟の曽祖父)の誘いに乗り、大内重臣杉武明と謀って義興に謀反を起こしていたが、失敗して豊後国に亡命していた。輝弘は山口に帰国して大内家を再興しようとしていたが、頼ろうとした大内家残党(陶・内藤旧臣)が永禄8年(1565年)6月に周防屋代島に集まったところで毛利麾下の来島通康勢に討ち取られてしまっていた。
2024年12月01日
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6「多々良浜で毛利氏退ける」同年に出家し休庵宗麟と号す。永禄5年9月13日、宇佐八幡宮への寄進を表明して、毛利氏に対する戦勝を祈願した。毛利氏の行為を具体的侵攻であるのみならず、八幡大菩薩の神敵と非難している。即ち、世俗の次元のみならず、信仰の次元においても敵の不正義・味方の正義を強調している。このことは武士や平民を動員する上で、宗教上の大義を掲げる必要があったからである。その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられ、永禄7年(1564年)には義輝に毛利氏との和睦の調停を依頼して、北九州の権益の確保を実現するなど関係は密であった。毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ食指を伸ばすようになり、和睦は破れる。永禄10年(1567年)、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。また、この毛利氏との戦闘の中で宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。永禄12年(1569年)、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻するが元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与える一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸国に撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。戦国時代の多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、1569年(永禄12年)5月に発生した、立花山城の帰属を巡る大友宗麟と毛利元就の戦いである。なお、実質的な戦場は多々良浜よりやや東の多々良川両岸であったため、多々良川の戦いと呼ばれることもある。1550年代から大友氏と毛利氏は豊前、筑前の二カ国を巡って度々戦いを繰り返してきていた(門司城の戦い)。一度は室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介によって講和したものの、1567年(永禄10年)1月に秋月種実が毛利元就の支援を得て旧領回復の兵を挙げたことから、再び戦争状態へと逆戻りすることとなる。大友宗麟は挙兵した秋月種実と、これに呼応した大友氏の重臣高橋鑑種を討伐すべく、戸次鑑連(道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三家老に兵を与えて攻めさせたが、休松の戦いで秋月勢の奇襲を受け、敗北を喫してしまった。これにより、筑前、筑後国衆が動揺し、特に1568年(永禄11年)1月に筑前の大友方の重要拠点である立花山城の城主立花鑑載が叛旗を翻したことにより、大友勢は劣勢に立たされることになった。毛利元就はこの好機に援軍を送り込み、大友勢を筑前、豊前から駆逐 しようとするが、大友勢は戸次鑑連ら3人の家老がこれを防ぐべく、1568年(永禄11年)4月より毛利方の重要拠点となった立花山城に攻め寄せた。3ヶ月に渡る攻城戦の末に内応者の出た立花山城は陥落し、立花鑑載は自害している。しかし、毛利元就も次男吉川元春、三男小早川隆景らを送り込むとともに、肥前の龍造寺隆信と連携し、大友方への圧力を強めるとともに、翌1569年(永禄12年)4月には立花山城に攻め寄せた。一方の大友宗麟は叛旗を翻した筑前国衆の秋月氏を攻め、筑前国衆の動揺を鎮めようとしたが、その間に立花山城は再び陥落して毛利元就の治めるところとなってしまった。立花山城を失いつつも筑前国衆の動揺を抑えた大友勢は立花山城を再奪還するため、立花山城に迫り、一方の吉川元春ら毛利勢も城から打って出て立花山城の南の多々良川付近(現在の福岡県福岡市東区多々良)で相見えることとなった。戦いの経過こうして多々良川付近で毛利勢と大友勢は相見えることになったものの、毛利方は立花山城の防衛を企図しており、積極的な出戦は考えておらず、大友方は立花山城の攻略前に消耗することになる決戦に二の足を踏んでしまっていた。また、当時の多々良川付近は川といいながらも海からずっと続く干潟となっており、大友方からすれば非常に攻めにくく、毛利方からすれば守りやすい地形であったことも決戦回避への要素となった。こうしたそれぞれの意図から両勢は多々良川から多々良浜にかけての川沿いで対陣することになった。その為、多々良浜の戦いは長期間に渡り、18回の合戦が行われたにも関わらず、大きな決戦は行われていない。この18回の合戦のうち、もっとも激しかったのは1569年(永禄12年)5月18日に起きた戦いである。この戦いは多々良川のやや川上にある長尾(現在の福岡県福岡市東区名子付近)を攻略して多々良川の防衛線を抜こうと企図したことにより発生した。ここを守っていたのは毛利一門の小早川隆景であり、大友勢は苦戦したものの、戸次鑑連が自ら陣頭に立って戦う奮闘により、小早川勢を駆逐し、長尾を奪うことに成功している。この戦いの結果、多々良川の防衛線の一部が崩れ毛利勢は防衛線と立花山城の連絡が断たれる可能性が出たことから立花山城に撤退している。しかし、多々良川の防衛線を抜いたとはいえ、大友勢の損害も多く、また立花山城は堅城であり、有力な毛利勢が残っている状態で攻城戦もできなかったことから、再び双方とも手詰まりとなって対陣を続けることになった。こうした対陣の最中、大友宗麟は吉岡長増の献策を容れ、周防の前国主であった大内一族の大内輝弘に兵を与えて周防に送り、旧領回復の兵を挙げさせた。1569年(永禄12年)8月に大内輝弘は周防に渡って挙兵することになり、これに大内氏の旧臣が呼応した結果、周防の毛利氏の拠点である高嶺城を脅かすことになった(大内輝弘の乱)。
2024年12月01日
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こうして吉岡長増・臼杵鑑速の二家老と田原親宏・志賀親度・朽網鑑康・吉弘鎮信・戸次鑑連・田北鑑生ら六国衆は1万5千余の兵を率いて豊後の大友館を出陣し、再び門司城を包囲した。この時、博多に停泊していたポルトガル船が、大友義鎮の要請を受けて大砲を門司城に撃ち込んだと言われるが、勝敗に寄与しない程度の短期間の参戦だったと思われる。これに対し、8月21日に毛利元就は、毛利隆元と小早川隆景ら1万8千余の兵に後詰を命じる。そして、隆元が全軍の指揮を執るため長門府中(長府)に滞在し、隆景に1万余の兵を割いて渡海させ、門司城に向かった。9月2日、大友軍は武田志摩守、本城新兵衛、今江土佐守を先鋒に門司城に迫り、門司城を包囲した。 9月13日、門司城には、雲霞の如き大友軍が犇いており、隆景は、堀立壱岐守の手勢や豊後守護代杉氏の一族の軍8百を決死隊として関門海峡を渡らせ、大友軍の包囲網を切り崩して門司城に入らせた。 隆景は児玉就方・村上元吉らに命じ、安芸河の内水軍数十艘で蓑島辺を襲撃させ、大友軍の背後を撹乱させた。 大友軍は、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃するが大勢に影響せず。10月9日、門司城中で、稲田弾正、葛原兵庫助は義鎮の調略により内応を仕掛けるが、内通者は発覚。10月10日、調略を逆に利用した隆景は、偽の内通の狼煙により大友軍を誘い出すことに成功、隆景自ら渡海し門司城に入り全軍を指揮し、城外に出て指揮をとり防戦に努めた。 乃美宗勝と児玉就方は、隆元の命を受け、大友軍の側背を衝いて明神尾の敵陣を切り崩し、敵を大里まで追い込めて、大友軍の大将の一人田北鑑生に重傷を負わせた。この時宗勝は、衆人環視の中、敵勇将伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)と一騎討ちを演じた。はじめ宗勝は、鑑昌の槍で鼻の辺りを突かれ負傷したが、ひるまず、とうとう槍で相手を突き伏せた。 敵味方が見守る一騎討ちで宗勝が勝つと、毛利軍の士気は俄かにあがり、敵を縦横に切り立ててこの勝利を勝ち取ったのである。 大友軍に大きな損害を与えたこの戦いは「明神尾の戦い」と呼ばれる。10月12日に大友方鶴原掃部助宗叱が守る松山城を毛利氏が攻め、このときは鶴原宗叱が毛利勢を撃退している。10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や田原親賢らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して小早川勢に射ち込み大損害を与えたという。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。大友方は門司城の攻略を諦め、11月5日夜に包囲を解いて撤退を開始し、毛利勢の吉見正頼や吉見頼貞らの追撃を受けても門司浜・沼の江・大里・赤迫を経て、貫(ぬき)山を越え、彦山下を通って、苦難の末、日田にたどり着いた。だが、田原親宏らの一部は、貫山から分かれて、黒田原・天生田・国分寺原・蓑島を通って国東へ向かったため、道待ちしていた毛利勢の杉因幡守隆哉・乃美宗勝・能島村上武吉・因島村上吉充・来島勢数百人の伏撃を受けられ、竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介らの名ある武将が討死し多数の犠牲者を出して帰国した。大友軍が退却したのは、大友軍の背後に位置する豊前松山城や馬ヶ岳城が、毛利軍により攻略されたためとの説がある。大友方志賀鑑隆が守る香春岳城も先に9月頃に攻略したと思われる。この敗戦を契機に大友義鎮は出家して宗麟と号するようになった。第五次門司城の戦い永禄5年(1562年)尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と七人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種を追い出せて、城将・千手宗元を降伏する。 13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせたものの、翌14日には門司城を攻め落とすことはできず、毛利勢の小原隆言や桑原龍秋ら漕渡の防戦により撃退された。さらに毛利軍の手に落ち天野隆重と杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前苅田町に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも戸次鑑連ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。 松山城を包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し、10月13日夜昼、大里において第三次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・安東常治や安東連善ら鑑連に従って奮戦ぶりなので門司城代・冷泉元豊・赤川元徳・桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げたが、11月26日にも、終日門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった[28]。和睦大友軍が豊前毛利領を攻撃する一方、毛利元就は出雲の攻略(第二次月山富田城の戦い)に取りかかっていた。そのため、室町幕府の将軍・足利義輝の仲介により、毛利・大友の和睦交渉が始まる。和睦条件の合意に難航するが、門司城は毛利氏が確保、松山城は大友氏に引き渡され、香春岳城は破却することとなり、永禄7年(1564年)3月25日、由布惟明ら家臣を率いて戸次鑑連らの大友軍と毛利軍と第四次柳ヶ浦の戦い[29]後、7月、大友宗麟と毛利元就との間に和睦「豊芸講和」が成立した。また、大友宗麟の娘が毛利輝元(隆元の子)に嫁ぐことにもなっていたが、最終的には毛利元就の八男末次元康に嫁ぐことが決まった。だが、この婚約も実行しなかった。この和睦は、尼子氏討伐に集中したい毛利氏にとっても、豊前の毛利方の国人等に度々反乱を起され、その支配体制が不安定となっていた大友氏にとっても都合の良いものであった。これにより、毛利氏と大友氏との争いは収束するかのように見えた。しかしながら、永禄8年6月(1565年7月)、大友氏が豊前の毛利方の国人・長野筑後守吉辰の拠る長野城を攻撃したことで、再び両氏の間に緊張が高まる。長野氏は同年8月に大友氏に降伏し、幕府が仲介した講和もわずか1年足らずで形骸化していくのである。なお、永禄9年(1566年)に月山富田城が陥落して尼子氏が降伏すると、毛利氏と大友氏は再び争い始めている(多々良浜の戦い)。
2024年12月01日
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5「義鎮キリシタン入信と領土拡大」しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き天文22年(1553年)に一萬田鑑相(のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父)と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。また、この頃に義鎮は本拠地を府内から丹生島城(臼杵城)に移している。さらに弘治3年(1557年)、大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前国の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。義鎮は天文23年(1554年)に13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化していたが、永禄2年(1559年)には義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前・筑前の守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された。永禄3年(1560年)には、左衛門督に任官する。このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出した。しかし、永禄5年(1562年)には、門司城の戦いで毛利元就に敗れた。門司城の戦い(もじじょうのたたかい)は、永禄元年(1558年)から永禄5年(1562年)までに豊前門司城で起こった、大友義鎮と毛利元就との数度の合戦。陶晴賢と大内義長を滅ぼし周防・長門を平定した安芸の毛利元就は、かつて大内氏がそうしたように、貿易都市博多を支配下におくべく、豊前・筑前への侵攻を図る。毛利元就は、周防・長門へ侵攻する(防長経略)にあたり、大友義鎮と和睦して大友氏による筑前・豊前支配を容認していたが、平定に成功した途端、約束を反故にしたのである。しかも、大内氏の家督を継いでいた義鎮の実弟大内義長を自刃に追い込んでおり、その対立は決定的なものとなっていた。第一次門司城の戦い永禄元年(1558年)6月上旬、毛利氏は大友氏との盟約を破り、吉川元春・小早川隆景の兵2万で大友領の豊前へ侵攻し、大友方の門司城将・怒留湯直方(怒留湯主水正融泉、長門守鎮氏)が僅かな兵で守る門司城を隆景の先鋒隊の貫元助と宍戸大学らの奮戦して落城せしめ、仁保就定を城主にし北九州進出の拠点とした[2]。そして毛利隆元は、筑前、豊前方面の諸将を調略し、筑前・宗像氏、豊前・長野氏を味方とすることに成功、各将は大友に反旗を翻し挙兵する。大友義鎮は豊前の領土を確保するため、10月13日、田原親宏・臼杵鑑速・吉弘鑑理・斎藤鎮実・戸次鑑連(立花道雪)ら1万5千を門司城へ派軍した。 大友勢前線の親宏・鑑速・鑑理らは毛利勢の元春・隆景らの連携攻勢で苦戦しながら、豊前規矩郡大里津柳ヶ浦村で布陣する鑑連は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜し毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、その矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第に恐怖感、焦燥感を募らせ、元春・隆景ら毛利勢は鑑連・鎭実ら大友勢の挟撃ちで総崩れて門司城に退却し、15日、城から出て毛利領へ帰るが、大友軍の臼杵鎮続の追撃を受けた。こうして大友氏は門司城を奪還して、再び怒留湯直方を城将として務める。この戦は第一次柳ヶ浦の戦いとも伝わる[3]。第二次門司城の戦い永禄2年(1559年)8月22日、田原親宏、田原親賢や佐田隆居ら大友勢豊前方面軍は、毛利元就の調略に応じ挙兵した豊前国人・西郷隆頼や野仲鎭兼らの不動岳城、西郷城を攻略した。この元就の調略を響応するように門司城、花尾城、香春岳城も浪人一揆で占拠せれ挙兵した。この頃の怒留湯直方は大友勢の立花鑑載、麻生鎭氏(宗像鎮氏)らと共に宗像領・許斐城、蔦ヶ嶽、白山城などを攻略するため筑前に9月25日まで出陣するので、門司城を易々占拠される。9月16日、大友義鎮は親宏、親賢、隆居らに命じて門司城を攻撃させる。これに対し、元就は嫡男の毛利隆元・三男の小早川隆景らを門司城へ後詰に向かわせた。隆景は児玉就方に海上封鎖を命じる一方、門司と小倉の間に乃美宗勝の軍勢を上陸させて大友勢を攻撃し、さらに水軍を展開して大友軍の退路を断つなどしたため、大友方は退却を余儀なくされた。26日、軍勢を整えた親宏、親賢、隆居ら大友軍は門司城を攻めて奪還し、毛利方の門司城督・波多野興滋や波多野兵庫、須子大蔵丞らを討ち取った。第三次門司城の戦い永禄3年(1560年)12月、元就は仁保隆慰を渡海させ、大友の門司城番・怒留湯直方を奇襲して門司城を奪回した。元就は隆慰に規矩一郡の給人領・寺社領の代官職と、門司城近辺の三郷を与え、豊筑の国人との連絡を強めさせ、以後、仁保隆慰は毛利方の門司城督として永く豊前で活躍することになる。第四次門司城の戦い永禄4年(1561年)7月13日、大友軍が門司城に攻め寄せるが、毛利軍の周防屋代の警固船によって敗れる。15日、4月から豊前出陣の戸次鑑連・田北鑑生・田北紹鉄・田原親賢ら大友軍6千はついに毛利勢の原田義種[9]を籠る香春岳城を落す、義種自刃。8月、大友義鎮は再び門司城の攻略を命じる。
2024年12月01日
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人物・逸話「西国無双の侍大将」と呼ばれる一方で厳島の戦いに際し、弘中隆包の「元就の狙いは大内軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」という進言を入れずに出陣し大敗するなど、器量に乏しい面も覗かせる。直情型で独断専行が多く、義隆との対立については晴賢自身の性格が原因という説もある。また冷酷な一面もあり、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火あぶりにした。直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したと伝えられる。疑り深い一面があり、配下の江良房栄の才覚を恐れた元就が、房栄が内通しているという噂を流すと晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに房栄を誅殺している。一方で臣下の小者を思いやる逸話もあり、出雲遠征から敗走する際に自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。現在、廿日市の洞雲寺にある晴賢の墓所であるが、江戸時代の歴史書『芸藩通志』が初出であり、元和4年(1618年)時の佐方村下調帖によれば、「往古より有る墓所は厳島教親(藤原教親)、厳島興藤(友田興藤)、毛利元清(穂井田元清)と妻、大江元澄(桂元澄)と記載されており、晴賢の墓については記載されていない。晴賢の自害の地は厳島の山腹とされており、毛利方に討たれたのでは無い事から、上記と合わせて毛利方の首実検を訝る指摘もある。 4「肥後の菊池氏の反乱退け」特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。弘治3年(1557年)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還して「日本国王」印(毛利博物館現存)を用いて朝貢した。また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱を退け、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後国も確保した。菊池 義武(きくち よしたけ)は、戦国時代の武将。肥後菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治ともいう。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持ち、菊池氏の血を引く人物でもある。永正2年(1505年)、豊後国の戦国大名・大友義長の次男として生まれた。この頃、隣国である肥後国の名族・菊池氏では家督を巡って内紛を続けていた。父・義長は表面上は当主・菊池政隆を支持したが、裏で菊池氏の家督を狙う阿蘇氏出身の菊池武経を支援、やがて公然と筑後国・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼした。すると今度は武経を追い落として自身の子・菊法師丸(後の義武)を菊池氏当主への擁立を画策、永正7年(1510年)には相良氏に武経排除への協力を求めている。この家中の権力闘争に嫌気が差した武経は永正7年(1511年)に阿蘇領矢部へ逃亡した。これにより義長は、菊法師丸を菊池氏の後継者にするように菊池氏の重臣や傘下の国人に公然と働きかけ、菊法師丸に代わって所領の安堵を約束し始めたが、永正15年(1518年)に父・義長は病死してしまう。大友氏の家督を相続した義長の嫡男で菊法師丸の兄・大友義鑑もまた、肥後国に勢力を拡大するために多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡を詫摩氏出身の菊池武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。永正17年(1520年)に重治は菊池武包から家督を譲られて菊池氏当主となった。重治は享禄4年(1531年)3月9日に従四位下左兵衛佐に任じられ(『歴名土代』)、天文3年(1534年)までに義国を経て義武と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と鹿子木氏や田島氏などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる。だが、義武は天文3年(1534年)[1]に大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗し独立する。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願ったためか、明確な理由は不明であるが、義武は大友氏当主に未練があり、筑後国領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。一方、義鑑からすれば、肥後国を自分のものとするための道具である筈なのにそれが自らの意思で動き出すことは容認できない事態であった。兄・義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていた山下長就をはじめ、吉岡長増や田北親員らを派遣して筑後国から肥後国に向けて進軍させた。だが、室町幕府の仲裁によって大友義鑑と大内義隆が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった。義武は肥前国の高来に亡命し、結局姻戚の相良氏を頼って落ち延びた。天文9年(1540年)に相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年(1543年)には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。天文19年(1550年)に兄・義鑑が二階崩れの変で横死すると、義武は鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還、更にこの変事をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した。しかし、甥の大友義鎮(後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣し、隈本城は落城して義武は島原に落ち延びた。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる。相良氏当主の相良晴広は、薩摩国の島津忠良に義武と義鎮の和睦周旋を依頼するなど努めたものの講和は成らなかった。また、義武は天文23年(1554年)に剃髪して日向国か薩摩国に亡命しようとするも果たせなかった。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上直入郡木原で義鎮の家臣・立花道雪とその配下の由布惟信、安東家忠、安東連忠、小野信幸の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた。享年50。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。
2024年12月01日
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大内家臣時代天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として主君・義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。以後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派の隆房は影響力を失ってゆき、さらに武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。天文14年(1545年)、義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に、隆房は武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。また義隆の命令で、備後国へ出陣し、元就らとともに神辺城を攻撃している(神辺合戦)。しかし同年、義隆によって武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結んで武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失った。謀反天文20年(1551年)1月、武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴する。これを契機として文治派を擁護する義隆と武断派の隆房の対立は決定的なものとなり、8月10日(9月10日)には身の危険を感じた武任が周防から出奔するに至り、両者の仲は破局に至った。8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男の義尊も殺害した(義尊については、殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある。)。そして野上房忠に命じて筑前国を攻め、武任や杉興運らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には重矩も殺害した。義尊の弟で、義隆の次男である問田亀鶴丸は母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。毛利元就との戦いと最期天文21年(1552年)、義隆の養子であった大友晴英(当時の豊後大友氏当主・大友義鎮(宗麟)の異母弟、生母は大内義興の娘で義隆の甥にあたる)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。この時、隆房は晴英を君主として迎えることを内外に示すため前述の通り陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から新たに一字(「晴」の字)を受ける形で、晴賢(はるかた)と名(諱)を改めている(なお、大内晴英は翌天文22年(1553年)に大内義長と改名し、のちに晴賢の嫡男・長房がその一字を受けた)。その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見国の吉見正頼と安芸国の毛利元就の反攻という形で現われた。晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが(三本松城の戦い)、主力軍が石見国に集結している隙を突かれて元就によって安芸国における大内方の城の大半が陥落してしまった(防芸引分)。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸国に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸国は毛利家の支配下となった。天文24年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。だが、毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗れてしまう。毛利氏に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。遺骸は桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。死後晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・長房は自害した。以後、大内氏は急速に衰退し、弘治3年(1557年)には毛利元就によって大内氏が攻め滅ぼされ、この時晴賢亡き後を支えた家臣の野上房忠も長房の長男・鶴寿丸(晴賢の末子とも言われる)を殺害後自決し、陶氏の嫡流は完全に途絶えた(防長経略)。
2024年12月01日
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天文7年(1538年)に将軍・義晴の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦している。天文8年(1539年)、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。天文9年(1540年)、尼子経久の孫・詮久(のちの晴久)が安芸国へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541年)には尼子方の安芸武田氏(武田信実・信重ほか)と友田氏(友田興藤)を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。文治体制天文10年11月、尼子経久が死去すると、天文11年(1542年)1月に義隆自ら出雲国に遠征して尼子氏の居城月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。しかもこの敗戦により寵愛していた養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになった。このため武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。天文16年(1547年)、天竜寺の策源周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。天文17年(1548年)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを引見したが、ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。同年、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を進言したが義隆はこれを受け入れなかった。天文20年(1551年)4月下旬、ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。大寧寺の変天文20年(1551年)8月末、義隆と険悪な関係になった武断派の陶隆房(周防国守護代)が謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)もこれを黙認し、義隆を救援することはなかった。義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、9月1日の10時頃に義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。辞世は「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」と伝わる。義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した。 またこの時周防国に滞在していた三条公頼や二条尹房をはじめとする多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ殺害された。義隆には、家中や領民の動向が見抜けず、公卿的生活を尚んだ中央指向の姿勢を貫くため、国情を無視して臨時課役を増したことが悲劇につながったとされている。陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大友義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。家督相続[編集]大永元年(1521年)、陶興房の次男として生まれる。陶氏は周防国の戦国大名・大内氏の庶家・右田氏の分家であり、大内氏の重臣の家柄であった。少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。また、陶氏には代々の当主が本家・主君にあたる大内氏当主より一字拝領するという慣わ39しがあり、元服時には義隆の偏諱を受けて隆房(たかふさ)と名乗った(弟の隆信(たかのぶ)も同様である)。天文6年(1537年)、従五位下に叙位されている。天文8年(1539)、父・興房の死後に家督を相続した(ただし、父の生前から家督を受け継いでいたという説もある)。
2024年12月01日
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3「勢力拡大に弟義長を大友に送る」天文20年(1551年)に周防国の大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に北九州における大内氏に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した。大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。出生から少年期まで永正4年(1507年)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。幼名は亀童丸(きどうまる)と言うが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗った幼名であり、義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である。なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520年)の時点で義隆を介殿様と記している事から、この頃に従五位下・周防介に叙任されたと考えられている。また、その前後に将軍・足利義晴から偏諱を受けて元服し、義隆[注釈 1]と名乗っている。家督相続元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524年)には父に従って安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた。この最中の大永3年(1523年)に寧波の乱が勃発しており、その後大内氏は東シナ海の貿易を独占している。享禄元年(1528年)12月に父が死去したため、義隆は22歳で家督を相続する[5]。大内家では家督相続の際に一族家臣の間での内訌が起こることが常態化していたが、義隆相続の際には起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされている。享禄2年(1529年)12月23日に従五位上に叙され、享禄3年(1530年)10月9日に父祖と同じ左京大夫に任命された。勢力拡大享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏らと争う。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。天文元年(1532年)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。天文3年(1534年)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。しかし、義隆は一方で北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め、渋川氏を滅亡に追い込んだ。この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。天文5年(1536年)、ようやく大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。天文6年(1537年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。
2024年12月01日
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2「大友 義鎮 の出自」/ 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘が母とする説がある。弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。享禄3年(1530年)1月3日(または5月4日)、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれる。傅役は重臣・入田親誠が務めた。幼名は塩法師丸。天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗る。父・義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、傅役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企んだ。天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせている間に義鎮派(田口蔵人佐鑑親、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守)の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、21代当主となった。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。二階崩れの変(にかいくずれのへん)は、戦国時代の1550年(天文19年)2月に勃発した豊後の戦国大名・大友氏の内紛、お家騒動。義鑑父子の襲撃が大友館の二階で行われたことに由来する。大友氏第20代当主・大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされる。このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、互いが勢力争いを繰り広げていた。義鑑は大友家重臣である小佐井大和守(鎮直?)、斎藤長実(鎮実の父)、津久見美作(実名不明)、田口鑑親(あきちか、通称:田口新蔵人、田口蔵人佐(くらんどのすけ))の4人を呼び出し義鎮の廃嫡を諮ったが、義鎮派である彼らはこれを拒否し考えを改めるように義鑑への説得を行った。しかし、義鑑や塩市丸の生母は、塩市丸の後継を実現するために寵臣の入田親誠と共謀して、小佐井大和守、斎藤長実ら義鎮派の主要人物を次々と誅殺していった。天文19年(1550年)2月10日、自分達の身も危ないと察した津久見美作、田口鑑親らが、大友館の2階で就寝していた義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃した。この襲撃によって塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。津久見・田口の両名はその場で壮絶な最期を遂げたが、義鑑も数日後に受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立された義鎮が継承した。この変が起きなければ、後の大友宗麟は存在していなかったといえる。塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏によって討たれた。事件後に義鎮は襲撃実行者を処罰したが、1553年(天文22年)には服部右京亮らの家臣が義鎮を暗殺しようとする計画が発覚するなど、家中は不安定な状況が続いた。義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、家中からの大内氏の勢力排除のために計画されたことであるとも考えられている。二階崩れの変は、史料には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると記載されているが、不自然な点が多く、義鑑は10日の時点で討ち取られており領国経営に関する書文も義鎮が作成したものだとも、義鎮が陰で動いていたとも言われている。なお、義鎮の家督継承に反対した入田親誠らが粛清されており、処罰された一族にとっては悲劇だったといえる。現代においては筑前琵琶などを通じて知られる。
2024年12月01日
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「大友宗麟の群像」 1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「大友宗麟の出自」・・・・・・・・・・・・・・33、 「勢力拡大に大内氏に弟義長送る」・・・・・・・74、 「肥後菊池氏の反乱退ける」・・・・・・・・・・215、 「宗麟キリシタン入信と領土拡大」・・・・・・・256、 「多々良浜で毛利氏を退ける」・・・・・・・・・347、 「毛利氏九州進出で対立」・・・・・・・・・・・438、 「大友氏と島津氏対立」・・・・・・・・・・・・499、 「龍造寺氏台頭と敗戦」・・・・・・・・・・・・6610、「宗麟二部長に支援と斡旋」・・・・・・・・・・8311、「信長横死後、秀吉に支援を求める」・・・・・・9212、「龍造寺滅んで豊薩戦争」・・・・・・・・・・・10813、「宗麟苦戦に秀吉軍到着」・・・・・・・・・・・12314、「秀吉九州到着で裁可と命令」・・・・・・・・・13215、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・139 1、「はじめに」大友宗麟(義鎮)(1530年~1587年)豊後国の戦国大名。1550年(天文19)家督を継ぐ。翌年日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師フランシスコザヴィエルが豊後を訪れたことからキリスト教に好意を示し、以後キリスト教布教を保護。1559年(永禄2)九州6か国((豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職を手中に収め、九州探題になり大友氏全盛期を迎える。その後府内(臼杵)に移り、府内に長子義統を置いた。1562年剃髪して宗麟と号し、1578年(天正6年)受洗、洗礼後フランシスコ。同年薩摩島津氏と日向耳川で合戦し、大敗した。敗戦と義鎮の受洗により家族と家臣団の間反目が生じ、キリシタン派と反キリシタン派が抗争し、大友氏衰退の分水嶺となった。1582年有馬。大村両氏とともにローマに天正遺欧少年使節を送った。これはイエズス会巡察師ヴァリニャーノの発案によるものと言われる。1586年島津勢が豊後に侵入すると自ら大坂城に赴き、豊臣秀吉の九州平定を招いた。島津を降伏させた秀吉は、義鎮の嫡男義統に豊後を、義鎮に日向を受封を辞退、同年5月、津久見で病死した。
2024年12月01日
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