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また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。 しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。 天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。 天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。 聖武の七七忌に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は正倉院に伝存している。なお、明治40年(1907年)から明治41年(1908年)の東大寺大仏殿改修の際に、須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2が、奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、奉献品の目録である東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した。 この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。 「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 創建と大仏造立 8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。 一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。 金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。 なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。 聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。 聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。 この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。 難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。 東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
2024年09月21日
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9「行基と東大寺」 朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。 僧正(そうじょう)は、中国の南朝と日本で仏教の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職(僧官)の一つである。 中国 中国では南北朝時代の南朝において、北朝の沙門統に相当する、仏教教団を統括する僧官として設置された。宋僧賛寧の『大宋僧史略』巻中「立僧正」によれば、「僧正の「正」とは「政」に通じる。そして、その始まりは前秦の僧碧(道碧)である。宋の順帝の昇明年間には法持を僧正とした。 また、大明年間には道温を都邑(建康)の僧正に任じた。梁の武帝は法超を都邑の僧正に任じ、普通6年(525年)には法雲を大僧正とし慧令を僧正とした。そして、北宋初に於いても「天下の各州に僧正1員が設置され、徳行と才能によって選抜され、適任者が居ない場合は欠員とされている。」と記している。 百済 新羅は北朝系の制度を置いたことが知られるが、百済の僧官について伝える史料はない。日本での僧正の導入に百済僧が関わっていたこと、また南朝と百済の密接な関係から、百済も南朝にならって僧正を任命したのではないかとする説がある。 日本 日本では推古天皇32年4月13日に僧正・僧都と法頭を任ずることとし、17日に百済僧の観勒が僧正に任命された。ある僧が斧で祖父を殴った事件をきっかけに、僧侶の監督のために置かれたものである。 律令制では、僧官(日本では僧綱という)として僧正、僧都、律師の3つがあり、僧正と僧都の2つには大・少の別がある。また後年にはそれぞれに権官が設置され、十の位が成立した。僧正には大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の4つがあり大僧正が僧官制の頂点に位置づけられた。 聖武天皇(しょうむてんのう、701年〈大宝元年〉 – 756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)は、日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉)。諱は首(おびと)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。 文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。 物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日)、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である )に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。 聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。 しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。 ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された[2]。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。 なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者である。 天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。 さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。 その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。 詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震[3]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。 天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
2024年09月21日
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*竹林寺(ちくりんじ)は、奈良県生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたものと思われる。行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理していたが、20世紀末から境内の整備が進められている。行基研究の基礎資料の一つである『行基年譜』(安元元年(1175年)の成立)には、慶雲4年(707年)、当時40歳の行基が「生馬仙房」に移ったとの記載がある。一方、東大寺の学僧・凝然が著した『竹林寺略録』(嘉元3年(1305年)成立)には、行基は慶雲元年(704年)、生駒山に入り、「草野(かやの)仙房」に住したとある。「生馬仙房」と「草野仙房」が同じものであるか、またそれが現在の竹林寺に相当するのかについては確証はないが、当地に行基の墓があることから考えて、「生馬仙房」の後身が竹林寺であると推定されている。正史『続日本紀』の宝亀4年(773年)11月20日条には「行基が修行した40余箇所の寺院のうち、6箇院は荒れ果ててしまっているので、それぞれに田3町ないし2町を施入する」という趣旨の記述があり、その6箇院の中に「生馬院」が含まれている。ここからは、行基の没後20数年にしてすでに「生馬院」が荒廃していたことが伺える。約5世紀後の文暦2年(1235年)、寂滅という僧の著した『竹林寺縁起』によると、同年、寂滅らは行基の夢告にしたがって生駒山の行基の墓を掘り起こしたところ、舎利瓶(蔵骨器)や墓誌を発見したという。墓誌の記載内容は唐招提寺文書中に残されており、それによると、行基は菅原寺(現・奈良市喜光寺)で没した後、「生馬山之東陵」で火葬に付されたという。行基の舎利瓶と墓誌は再埋納されたが、銅製墓誌のごく一部の残片が江戸時代末期に発掘され、地元の個人の所有となっていた。 これは昭和8年(1933年)11月11日、「銅製行基舎利瓶残片」の名で重要美術品に認定され、現在は奈良国立博物館の所蔵となっている。 その後、西大寺中興の祖・叡尊、その弟子・忍性らにより再興されたが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となる。再興されたのは平成9年(1997年)になってからである。 文化財 竹林寺忍性墓出土品(重要文化財) – 鎌倉・極楽寺の開山であり、鎌倉時代に戒律の復興と社会事業に尽力した僧・忍性の遺骨は、遺言により、極楽寺、額安寺(奈良県大和郡山市)、竹林寺の3箇所に分骨された。 昭和61年(1986年)の発掘調査で見出された銅骨蔵器、石櫃等の一括である(現在は唐招提寺保管) 木造文殊菩薩騎獅像及び脇侍像 – 竹林寺の本尊。獅子像のみ室町時代の作であるが、その他は近代のものである。 行基墓(史跡) – 行基は天平21年(749年)に平城京・菅原寺(現在の喜光寺)において82歳で生涯を終え、遺命により生駒山の東陵で火葬され、竹林寺に埋葬されたといわれる。 五輪塔残欠(忍性墓塔) – 叡尊の弟子・忍性の墓とされるもので、奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査により重要文化財指定の骨蔵器(舎利瓶)が発見された。 竹林寺伝来の文化財木造行基菩薩坐像(重要文化財) – かつて竹林寺に安置されていたが、明治の廃仏毀釈によって廃絶となったために唐招提寺に移された。 また、喜光寺から往生院までの道則を行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山とも呼ばれている。また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。行基が迎えた菩提僊那は後の天平勝宝4年(752年)、聖武上皇の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。行基没後の宗教集団には宝亀4年(773年)に国家の援助を与えるとともに、民衆への布教を禁じ規制を強めている。その後、東大寺大仏殿再興の勧進に重源や公慶が語るが、仏教団体や教理などの表面から消えていき、民衆の伝承や寺院の開基伝承などに伝えられることになる。
2024年09月21日
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8「聖武会見から没するまで」やがて聖武天皇の方から接近して、行基は740年(天平12年)から聖武天皇に依頼され大仏建立に協力する。天平13年(741年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年(743年)東大寺の大仏像造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、天平17年(745年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた(続日本紀)。「行基転向論」として民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説があるが、既に権力側の政策からも許容されるものになっており、さらに行基の民衆に対する影響力を利用したと考えられている。また、行基に対して好意的な聖武天皇と否定的な光明皇后の間にずれがあり、それがその後の政治対立にも影響を与えたとする説もある。大仏造営中の天平21年(749年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が納められ多宝塔を立て墓所とした。喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯を菅原といい、菅原氏の治領であったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の僧・行基が没した地とされている。法相宗の別格本山。蓮のお寺。奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居である菅原の地を行基に寄進し、翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。寺地は平城京の右京三条三坊の九ノ坪、十ノ坪、十四ノ坪、十五ノ坪、十六ノ坪の計5坪を占めていたという。なお、現・喜光寺本堂の位置は、右京三条三坊の十五ノ坪にあたる。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅筒に記されていたものである。1969年(昭和44年)に境内の発掘調査が行われ、現・喜光寺本堂は、奈良時代の創建本堂の跡に建てられていることが確認された。創建金堂の基壇は東西が28メートル、南北が21メートルの規模であった。そこから南に42メートル離れた場所に南大門跡とみられる建物跡があったが、礎石は残されていなかった。一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、元明天皇の勅願により建てられたものという。創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。中世には菅原天満宮を鎮守社とし、興福寺の末寺となり、直接には興福寺の塔頭の一つであった一乗院に属した。建治元年(1275年)には興福寺一乗院門跡信昭が興正菩薩叡尊に喜光寺の復興を依頼すると同時に、喜光寺は一乗院門跡の隠棲地に定められた。喜光寺は叡尊と弟子の性海により復興され、弘安2年(1283年)には事業が完成している。戦国時代の明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされてしまい伽藍のほとんどが焼失したが、天文13年(1544年)に復興した。しかし、元亀年間(1570年 – 1573年)に再び兵火にあって本堂以外の堂宇を焼失した。明治時代には薬師寺の末寺となった。現在は薬師寺が属する法相宗唯一の別格本山である。2019年1月28日、奈良大学(奈良市)は、2005年(平成17年)に額安寺から購入した木造四天王像のうち広目天像と多聞天像の2体を2014年(平成26年)から解体修理する過程で、計7カ所から「行基大菩薩御作菅原寺」などと記された墨書銘文が見つかったと発表した。四天王像は明治の神仏分離を受けて奈良時代の僧の行基が最期を迎えた菅原寺(喜光寺)から額安寺に移されたとする伝承があったことから、同大は「説が裏付けられた」としている。これを受けて2019年5月2日から9月2日まで「おかえり法要」として本堂で奈良大所蔵の四天王像が特別公開される。境内本堂(重要文化財) - 室町時代に再建された寄棟造、単層裳階付きの仏堂で、裳階の正面一間通りを吹き放しとする。この建物は、行基が東大寺大仏殿を建立する際に十分の一の雛形として建てたとの伝承から、「試みの大仏殿」と俗称される。南大門 - 再建後に再び焼失。再び再建され2010年(平成22年)5月に落慶法要が営まれた。行基堂 – 2014年(平成26年)に建立された。弁天堂石仏群一乗院墓地 - 歴代一乗院門跡の墓がある。
2024年09月21日
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救急院 承和11(844年)に相模国高座郡と愛甲郡に開設。相模国府による官営。 相模介であった橘永範が自分の俸給である稲一万束をもって開設したと伝えられる[2]。 六国史に記録はないが平安時代の法令集『類聚三代格』に記録が残り、開設から4年間で1158人を救護したと伝えられている。 場所は現在の神奈川県厚木市と海老名市。墨俣河の布施屋 承和2(835年)に太政官符より、墨俣川(現在の長良川)の両岸美濃と尾張に設けるように発令された。 『類聚三代格』に記録が残り、東海道・東山道を対象に増艘と架橋、布施屋の設置を命じられた際のもの。大安寺(奈良の大安寺と思われる)の僧である忠一に任され、国司と講讀師(国分寺に設置された上座の僧侶、講師のことと思われる)らと共に修造され、国司と講讀師によって管理された。通行する者の布施屋料や通行料の負担がみられる。 大道ではなかったが、租庸調のために人々で混雑したことを伺い知ることができる。東海道の代わりに利用されることが多かったためである。 美濃側の場所は、現在の岐阜県大垣市墨俣町下宿、上宿あたりと思われる。 灌漑(かんがい)とは、農地に外部から人工的に水を供給すること。農作物の増産、景観の維持、乾燥地帯や乾期の土壌で緑化する際などに利用される。他にも農業生産において、作物を霜害から守る、穀物の畑で雑草を抑制する、土壌の圧密を防ぐといった用途もある。 対照的に直接的な降雨のみで行う農業を乾燥農業と呼ぶ。灌漑システムは、塵の飛散防止、下水処理、鉱業などにも使われる。灌漑と排水は組み合わせて研究されることが多い。 なお、「灌」「漑」は二文字とも常用漢字の表外字のため、報道では新聞常用漢字表により「かんがい」とひらがなで表示されるのが一般的である。学校の教材等も同様である。 概要 技術的には、作物・土壌・水の間に適切で有機的な関係を保証する農学的側面、各種の施設・機器を用いて耕地に水を供給し管理する狭義の灌漑技術、水源から水を引く土木工学的側面などがある。農地に対する水管理という点で排水(農地排水)とセットで灌漑排水として扱われることが多い。 また大きなくくりとして畑に水を供給する畑地灌漑と水田に水を供給する水田灌漑に分けられる。また、耕地内で作物に給水することや圃場内で植物に給水することは灌水もしくは水遣りという。 この灌漑が社会発展に果たす役割は非常に大きい。灌漑により、農地の生産性は著しく高まるために、余剰生産物が発生する。 余剰生産物は、農業以外で価値を生み出す職業を支え、商工業者や軍隊、王権貴族の生活を支える。このように、灌漑による生産性向上は社会に変革をもたらす。 灌漑の「灌」と「漑」の漢字は共に訓読みで「そそ(ぐ)」と読め、また「水を注ぐ」という意味である。 灌漑の歴史 農耕の開始によって人口が増加し、国家が形成されるようになると、人々を安定的に統治するために必要な農耕生産の向上が必須課題となり、開墾や干拓、灌漑などさまざまな公共事業が行われ始める。 そこでは、常に治水問題と灌漑問題の解決が重要であった。治水問題では洪水などによる水害を防ぐための築堤などの河川整備が、灌漑問題では水源確保のためのため池、堰堤やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの農地整備が相互に関連しながら行われてきた。 中でも灌漑技術は概して水資源の少ない地域において開発され発達してきた技術である。そこでは、主に畑作用水資源の安定的供給による農耕生産の安定性と生産性自体の向上を目的としていた。 日本 日本の灌漑は、神話伝説では神功皇后が造らせた裂田の溝が最古の農業用水路とされるが、考古学的に確認されたものとしては唐津市の菜畑遺跡で検出した水路が縄文時代後期(約2500~2600年前)まで遡れる最古の灌漑稲作の痕跡である。 続く弥生時代に水稲栽培が普及拡大し、大和時代の頃にはため池や配水路など計画的な用水施設の設置が行われている。新田の開発と灌漑施設の設置は表裏一体であり、農業土木技術が進歩するにつれて灌漑施設も大規模なものへ変遷した。律令制の下では国家及びその地方官が河川の独占的利用を規制して遠江の荒玉河(現在の天竜川)の堤の修築など大規模な治水・灌漑工事が実施されたが、地方官に対して勧農よりも徴税の実績が求められるようになると次第に衰退していった。 中世に入ると大規模な灌漑事業は減少したが、個々の荘園あるいは大名領国、同一水系・荘園領主を持つ複数の荘園を単位とした灌漑が活発に行われるようになる。 また、複数の荘園や惣村において灌漑の時期や水量などを巡る争い(水論)が発生し、番水などの制度ができあがった。社会が安定した江戸時代には見沼代用水などを始め、各地で大規模な長距離の農業用水路が開発されている。 こうした水路開発はそれまで灌漑の主要な地位を占めてきたため池の役割を低下させて河川灌漑が主体となるきっかけとなった。第二次世界大戦後には、治水などとの目的にも合わせた多目的ダムの建設も進み、全農地の3分の2が公共事業により建設された農業用水の恩恵を受ける状況となっている。
2024年09月21日
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7「行基の救済事業」(行基/行ぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。 そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。 布施屋(ふせや)とは、古代律令制時代に日本各地に作られた旅行者の一時救護・宿泊施設。仏教寺院の救恤事業の一環として設置されることが多かった。 六国史に設置経緯が記された武蔵国の悲田処が有名である。 社会背景 平安時代、律令制下では庶民は租税や労役、兵役を課せられていたが、その運搬や出向は全て本人が自ら都まで出向かなければいけなかった。 駿馬を使えるのは官吏だけに限られていたので、庶民は全員が何日、時には何十日もかけて徒歩や農耕用の馬で都に向かっていたのである。また食料も自己調達しなければならなかった。 当然このような劣悪な状況では途中で飢えや病により倒れたり、死亡したりして行旅死亡人となる者も多く、初期の頃から社会問題化し始めていた。全国でそのような状況を解決するために、仏教寺院などを中心にして造られたのが「布施屋」である。 施設 数少ない史料から総合すると、布施屋の施設は3軒から5軒の建物から構成され、救護・宿泊施設と物資庫・食料庫に分かれていた。物資庫・食料庫は「板倉」という名で伝えられている場所もある。 布施屋内の救護・宿泊施設では食料の配給、けがや病気の手当て、宿泊などのサービスが行われていた。ただしこれらはあくまで一時的=緊急避難的なものであり、長期的宿泊施設や療養施設としての性格は全くなかった。 このためサービスの比重は救護の方に置かれ、宿泊はあまり重視されていなかった。事実、東大寺の設置した布施屋では寝具が2組しかなく、とても継続して宿泊出来る環境ではなかったことが分かっている。 運営 布施屋の運営主体は大きく分けて「寺院」と「国府」の2つに分かれる。元々困っている旅行者を施設を造って助けようという「救恤」の発想自体が仏教の考え方であり、自然と運営主体は寺院が多くなった。国府の運営、即ち官営であるものは、そのような仏教側の動きと実際問題での行旅死亡人の増加に伴い発生してきたものと思われる。 布施屋自体が仏教的発想の産物であるため、運営には必ず仏教寺院が関わった。運営主体が寺院である場合はその寺院そのものが、国府である場合は敷地内に寺を建造したり近くの寺に監督を依頼したりすることが行われた。また敷地内には必ず「薬師寺」と称し、医薬を司る薬師如来を本尊とする寺が建てられたという。 運営費や食料・物資の調達法は、自ら墾田を持つもの、官吏の扶持を割くもの、出挙として稲を貸し付け利子で運営するものなどさまざまであった。また敷地内にナツメや梨、栗などの木を植え、補助的に食料にあてることもあった。 行基の布施屋 奈良時代の高僧・行基が布教のため全国を巡った際に造ったと伝えられる。 その数は山城国2ヶ所、摂津国3ヶ所、河内国2ヶ所、和泉国2ヶ所、備後国1ヶ所の10ヶ所に上るという。 代表格である昆陽布施屋(こやのふせや)は天平3(731年)に摂津国川辺郡に開設された。 現在の兵庫県伊丹市寺本にある昆陽寺の元になったといわれている。 東大寺布施屋 天平宝字5(761年)に大和国十市郡に開設。 旅行者だけではなく寺で労役を科せられていた人々のための施設でもあったという。 悲田処 天長10(833年)に武蔵国多摩郡と入間郡の境界付近に開設。武蔵国府、のち朝廷による官営。 六国史である『続日本後紀』に設置経緯が掲載されており、全国の布施屋の中では最も知名度が高い。 詳しくは悲田処の項を参照。 続命院 承和2(835)年以前に九州(国名不明)に開設。大宰府による官営。 『続日本後紀』承和2年12月3日條によれば、刑部卿の小野岑守が以前大宰大弐であった頃に開設し、墾田百四十町をもってその運営に当てたという。 場所は筑前国説と豊前国説があり、前者は福岡県筑紫野市、後者は福岡県京都郡みやこ町犀川地区(旧:京都郡犀川町)に比定されている。 なお東京都江戸川区にはこの続命院の後継を称する「證大寺」という寺が存在する。
2024年09月21日
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6「行基の社会事業」天平10年(738年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた(日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されている)。 三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなる。 三世一身の法(さんぜいっしんのほう)は、奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。 文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。法の主な内容[編集] 灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。 法施行の背景 三世一身法施行の前年の閏4月25日(旧暦)、太政官が奏上し裁可された政策の中に良田百万町歩開墾計画があった。これは、食糧増産を目的として新たに百万町歩の農地を開墾する、という余りにも壮大な計画だった(当時の農地全体でも百万町歩に達していなかった)。 このような計画が策定された理由については、人口増加に伴い食糧不足が生じた、辺境での国防費に係る財政需要が生じた(この説では計画の施行地域は陸奥などの辺境地域に限定する考えもある)、当時実権を握っていた長屋王(長屋親王)による権勢誇示的な計画だった、等が考えられているが、どれも決定的な説ではない。 いずれにせよ、この計画を遂行するため、三世一身法が施行されたと考えられている。 「法施行の効果」 三世一身法の施行により墾田の実施が増加したのはほぼ確実であろう。ただし、その効果は一時的にしか続かなかったようだ。三世一身法から20年後(743年)に施行された墾田永年私財法に「三世一身法があるが、期限が到来すれば収公してしまうので、農民は怠けて墾田を行わない」とあるので、三世一身法の効果は20年未満しか継続しなかったようである。 しかしながらわずか20年で三代が経過し、収公の期限が近づくとは考えられないため(ただし、平均寿命が大幅に伸びた20世紀の著名人でも明治天皇・大正天皇や吉田茂・吉田健一のように20年以内に父と子が相次いで病死する例はある)、これは大寺社や貴族豪族の利益誘導を目的とした法改正という説もある。ただ、既存の灌漑施設を用いた墾田は一代のみで収公されるため、そういった墾田では既に農民が怠ける事態が起きていた可能性もある。単なる意欲減退ではなく、意図的に荒らした後で再開墾すれば、再び所有権が得られるので、それを狙った可能性もある。 律令体制での位置づけ 一般に三世一身法は、後の墾田永年私財法と併せて、律令体制の根幹である公地公民制の崩壊の第一歩だ、と考えられている。 しかし、公地公民制が律令体制の根幹であるとは、律令のどこにも記載されていない。(昭和期のマルクス派歴史家が提唱しただけに過ぎない、という見方もできる)。 また班田収授法の実施が平安時代以降行えなくなった事実のほうこそ公地公民制の崩壊への影響はより大きく、あるいは最初から公地公民制は不徹底だったという説も存在する。 現存する養老律令の田令には、農地開墾に関する規定がない。全ての農地が「公地」とされた以上、新規開墾は国家が行わねばならず、それが不可能であるなら何らかの手段で民間に委ねる事は必須となる。 そのため、民間での墾田を推奨するため、三世一身法を特別措置法的に定めたものと考えられる。この観点からであれば、三世一身法は律令の不備を補完する法令だったと言える。 7「行基の救済事業」(行基/行ぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)、奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。 そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。 布施屋(ふせや)とは、古代律令制時代に日本各地に作られた旅行者の一時救護・宿泊施設。仏教寺院の救恤事業の一環として設置されることが多かった。 六国史に設置経緯が記された武蔵国の悲田処が有名である。 社会背景 平安時代、律令制下では庶民は租税や労役、兵役を課せられていたが、その運搬や出向は全て本人が自ら都まで出向かなければいけなかった。 駿馬を使えるのは官吏だけに限られていたので、庶民は全員が何日、時には何十日もかけて徒歩や農耕用の馬で都に向かっていたのである。また食料も自己調達しなければならなかった。 当然このような劣悪な状況では途中で飢えや病により倒れたり、死亡したりして行旅死亡人となる者も多く、初期の頃から社会問題化し始めていた。全国でそのような状況を解決するために、仏教寺院などを中心にして造られたのが「布施屋」である。 施設 数少ない史料から総合すると、布施屋の施設は3軒から5軒の建物から構成され、救護・宿泊施設と物資庫・食料庫に分かれていた。物資庫・食料庫は「板倉」という名で伝えられている場所もある。 布施屋内の救護・宿泊施設では食料の配給、けがや病気の手当て、宿泊などのサービスが行われていた。ただしこれらはあくまで一時的=緊急避難的なものであり、長期的宿泊施設や療養施設としての性格は全くなかった。 このためサービスの比重は救護の方に置かれ、宿泊はあまり重視されていなかった。事実、東大寺の設置した布施屋では寝具が2組しかなく、とても継続して宿泊出来る環境ではなかったことが分かっている。 運営 布施屋の運営主体は大きく分けて「寺院」と「国府」の2つに分かれる。元々困っている旅行者を施設を造って助けようという「救恤」の発想自体が仏教の考え方であり、自然と運営主体は寺院が多くなった。国府の運営、即ち官営であるものは、そのような仏教側の動きと実際問題での行旅死亡人の増加に伴い発生してきたものと思われる。
2024年09月21日
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5「渡来僧の導き」豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、天平3年(731年)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。 菩提僊那(ぼだいせんな、サンスクリット語:ボーディセーナ、704年 – 760年3月16日(天平宝字4年2月25日)は、奈良時代の渡来僧。婆羅門僧正、菩提僧正、菩提仙那とも称される。 中国に滞在中に日本の入唐僧の招請を受けて736年(天平8年)12月13日に来日。752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師をつとめた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。 菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。姓はバーラードヴァージャ(婆羅門遅)と伝わっている。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊菩薩に会うためという説もある)。 唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、ペルシャ人の李密翳や、唐人で唐楽の演奏家の皇甫東朝、林邑出身の僧侶で林邑楽を伝えた仏哲、唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された道璿、のちに音博士となる唐出身の袁晋卿らとともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。 僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。 751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。 760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。翌3月2日、登美山右僕射林に葬られた。残された僅かな図画を基に、2002年の開眼1250年法要の機会に三輪途道らにより菩提僊那像が製作され、現在、本堂に安置されている。運慶の無著、世親像(興福寺蔵)に倣って日本人の顔立ちであるが、眼は緑色に彩色されている。 *仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。 チャンパ王国(林邑国(中国語版)、現在のフエ)の出身。南インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。唐の開元年間に師とともに入唐、当時唐に滞在していた日本僧理鏡らの招きにより、開元24年 / 天平8年(736年)に師の菩提僊那・唐僧道璿らとともに日本入りした。 大宰府を経て都に入り、大安寺に住した。聖武天皇からの信頼篤く、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼法要では舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった舞や林邑楽(仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ)を楽人に伝え、また多くの密教経典、論籍も請来したという。 仏哲らが伝えた林邑楽は、春日若宮おん祭で毎年12月に披露されており、2014年4月には春日舞楽の雅楽団「南都楽所」がフエで「里帰り公演」を行なった。
2024年09月21日
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4「民衆と修業時代」知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。行基が開基したとされる寺院は、『続日本紀』で40余処、興融寺の鎌倉時代中期の顕彰碑では49院といわれる多くが不明であり、小規模な修行と布教の為の拠点だったと見られる。だが、養老元年(717年)4月23日、詔をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、これら新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた僧尼令に違反するとされ、糾弾されて弾圧を受けた。 僧尼令(そうにりょう)とは、日本律令法に設けられた編目の1つ。養老令においては全27条で構成される。僧・尼及び国家より度牒を受けた沙弥・沙弥尼を対象とする法令である(仏教そのものを統制した法令ではないことに注意を要する)。 ただし、日本律令法の母法である中国(唐)律令法では、道教の道士を含めた格である「道僧格」に属しており、そこから日本では行われていない道教の要素は排除されたものの、刑法典的な「律」の要素と行政法的な「令」の要素が分離されないまま令として編入されたために、令でありながら刑罰規定を有するという複雑な構造になっている。 飛鳥浄御原令に僧尼令の名称が存在した形跡は無く、大宝令が初出であるとされる。『続日本紀』には施行前の大宝元年6月1日(701年)に道首名が大安寺で僧尼令の講説を開いたことが記述されている。 大宝令の規定は不詳であるが、養老令と基本的な違いはなかったと言われている。なお、大同元年(806年)には少僧都忠芬の奏上によって僧尼令が停止されて殺人・姦盗以外は仏教の戒律に基づいて処分することが認められているが、弘仁3年(812年)に旧に復している。 僧尼の破戒行為的な犯罪に対する処罰、国家が任命した僧綱による寺院及び僧尼への自治的な統制、私度や民衆教化の禁止及び山林修行や乞食行為に対する制限を柱とする。 僧侶による破戒行為・犯罪に対しては還俗(徒罪相当以上)もしくは苦使(杖罪・笞罪相当)と呼ばれる閏刑が採用され、律令法体系における刑事罰である五罪が採用されることは無かったが、天文現象をもって災祥を説く行為や国家・天皇を論難して百姓を妖惑する行為、禁書(兵書など)の習読や殺人・姦盗などの行為に対しては強制的な還俗の上で改めて律令法による処分が加えられた。 通説に従えば、僧尼令は鎮護国家理念を維持する法令として厳格に実行されたという。だが、国家権力による統制の一方で僧綱が尊重されて教団による一定の自治も認められ、閏刑が存在するなど寺院や僧尼に対する保護の姿勢が貫かれている。その後も、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしているとされた(続日本紀)。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、 菩提僊那(ぼだいせんな、サンスクリット語: ボーディセーナ、704年 – 760年3月16日(天平宝字4年2月25日)は、奈良時代の渡来僧。婆羅門僧正、菩提僧正、菩提仙那とも称される。 中国に滞在中に日本の入唐僧の招請を受けて736年(天平8年)12月13日に来日。752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師をつとめた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。 菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。姓はバーラードヴァージャ(婆羅門遅)と伝わっている。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊菩薩に会うためという説もある)。 唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、ペルシャ人の李密翳や、唐人で唐楽の演奏家の皇甫東朝、林邑出身の僧侶で林邑楽を伝えた仏哲、唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された道璿、のちに音博士となる唐出身の袁晋卿らとともに736年(天平8年)に来日した。 3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。 僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。 751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。 760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。翌3月2日、登美山右僕射林に葬られた。 残された僅かな図画を基に、2002年の開眼1250年法要の機会に三輪途道らにより菩提僊那像が製作され、現在、本堂に安置されている。運慶の無著、世親像(興福寺蔵)に倣って日本人の顔立ちであるが、眼は緑色に彩色されている。
2024年09月21日
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日本の法相宗 日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。 653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。 658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。 703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐した。 717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉も、ともに濮陽の智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。 8~9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論で争った。 元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊、貞慶、覚憲、信円らが輩出した。 1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が大本山となったが、第2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。教えを受けたとされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名であり、 それとともに井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影 響を指摘されている。 *道昭(どうしょう、道紹や道照とも、舒明天皇元年(629年)- 文武天皇4年3月10日(700年4月3日))は、河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧である。父は船恵尺。白雉4年(653年)、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。 玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。摂論教学を学んだという記録もあるが、摂大乗論に関する注釈は現存していない。 年時不明、玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅した。 斉明天皇6年(660年)頃に帰朝、同時に持ち帰った多くの経論・経典類は、平城京へ遷都後、平城右京の禅院に移され重用された。 年時不明、飛鳥寺(別称は法興寺、元興寺)の一隅に禅院を建立して住み、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。 680年、天武天皇の勅命を受けて、往生院を建立する。 晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。 700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて火葬に付された。その記録も現存している(『続日本紀』)。 玄奘三蔵に贈られた言葉 『続日本紀』には、道昭が没した年の条に、昔、玄奘に贈られた言葉として、いくつか記録が残されている。それによると、玄奘は特に可愛がって同じ部屋に住まわせたとされ、以下のような話をしたとされる。 「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞う所もなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食べさせてくれた。私はその梨を食べてから気力が日々健やかになった。 今お前こそはあの時の梨を与えてくれた法師と同様である」と述べたと記されており、道昭を大切にしていたのは、過去に出会った恩人たる僧侶と道昭を重ねていたためとしている。 逸話 『続日本紀』に記述されたエピソードとして、弟子がひととなりを試そうと思い、道昭の便器に穴をあけておいた。 そのため、穴から漏れた汚物で寝具が汚れてしまった。しかし、道昭は微笑みながら「いたずら小僧が、人の寝床を汚したな」といったのみで、一言の文句もいわなかったとされる。 同『続紀』の記述として、熱心に座禅を行っており、ある時は3日に一度起(た)ったり、7日に一度起った。ある日、道昭の居間から香気が流れ出て、弟子達が驚いて、居間へ行くと、縄床(じょうしょう=縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息絶えていた。 遺言に従って、本朝初の火葬が行なわれたが、親族と弟子達が争って骨をかき集めようとした。すると不思議なことに、つむじ風が起こって、灰と骨をいずこかへ飛ばしてしまったとされる。従って、骨は残されていない。 大宝4年(704年)、生家を家原寺に改め、母と大和の佐紀堂で暮らす。40歳で生駒山の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間喪に臥す。 家原寺(えばらじ)は、大阪府堺市西区にある寺院。以前は高野山真言宗別格本山で現在は行基宗本山。本尊は文殊菩薩。地元では「智恵の文殊さん」として親しまれている。 歴史 寺伝によると慶雲元年(704年)、行基が生家を寺に改めたのに始まるとされる。 叡尊が寛元3年(1245年)に再興し、多くの塔頭を有したが、兵火などで衰退した。江戸時代には田安家が帰依して寺領を寄進されている。しかし、明治初年の廃仏毀釈で荒廃する。 1989年(平成元年)に三重塔が再建された。 2018年(平成30年)に高野山真言宗から独立し、行基宗を創設して本山となっている。 合格祈願の寺として、以前は祈願するさいに本堂の壁に直接願い事を書き入れていた。そのために別名「落書き寺」と呼ばれていたが、現在は合格祈願をハンカチに書いて本堂の外壁に張り付ける形に変わったことから、別名「ハンカチ寺」と呼ばれている。 山門に安置されていた以前の仁王像は運慶と快慶の作とされるもので、明治時代の廃仏毀釈のなかで村人によってフランス人の美術商に売却されてしまった。現在はアメリカ合衆国首都ワシントンD.C.のフリーア美術館に収蔵されている。
2024年09月21日
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本尊の造立 『書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。そして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。 『書紀』によれば、銅と繍の「丈六仏像」は翌推古天皇14年(606年)完成。丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。 一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、605年)に銅と繍の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。「丈六光銘」によれば、戊辰年(608年)に隋の使者裴世清らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年(609年)に仏像を造り終えたという。 つまり、『書紀』と「丈六光銘」とでは、銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について3年の差がある。福山敏男は、仏像の完成年は裴世清らの来日の「明年」であるところ、『書紀』の編者が発願の「明年」と誤認したため、このような違いが生じたものと考証した。 当時の技術水準で、丈六の銅仏が1年足らずで完成するとは考えにくい点などから、福山の言うように、本尊(飛鳥大仏)の完成は609年とするのが通説となっている。 大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。 これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池工房遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。 飛鳥寺がこうした庇護を受けた背景には、同寺が当時の日本における仏教教学の研究機関としての機能を有した唯一の寺院であり、朝廷創建の大官大寺や薬師寺をもってこれに代わることができなかったとする説がある。また、飛鳥寺がこうした機能を持ちえた背景には、唐において玄奘に師事して帰国した道昭が後に唐から持ち帰った経典の数々や弟子の学僧と共に飛鳥寺に居住したことがあったとされる。 平城遷都以後 都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。『続日本紀』には霊亀2年(716年)に元興寺を左京六条四坊に移すとあり、養老2年(718年)条にも法興寺を新京へ移すとあって記述が重複している。 このうち前者の「左京六条四坊」は大安寺の場所にあたることから、霊亀2年の記事は大安寺(大官大寺)の移転のことが誤記されたもので、飛鳥寺(元興寺)の移転は養老2年のことと考えられている。 馬子が飛鳥に建てた元の寺も存続し、本元興寺と称されたが、仁和3年(887年)に火災にあい、建久7年(1196年)には雷火で塔と金堂を焼失した。以後寺勢は衰えて室町時代以降は廃寺同然となってしまった。 法隆寺僧・訓海の『太子伝玉林抄』によれば、文安4年(1447年)の時点で飛鳥寺の本尊は露坐であったことが分かっている。 しかし、江戸時代の寛永9年(1632年)には仮堂が建てられて寺名を安居院とし、ようやく復興がなされた。 江戸時代中期の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。 現在、参道入り口に立つ「飛鳥大仏」の意思碑は寛政4年(1792年)のもので当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれていたことが分かる。現・本堂は江戸末期の文政9年(1826年)に大坂の篤志家の援助で再建されたもので、創建当時の壮大な伽藍の面影はない。 しかし発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子の建てた飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は補修が甚だしいとはいえ飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが分かった。 なお、当寺の西には蘇我入鹿の首塚がある。 寺域 かつての伽藍 飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式の伽藍の配置がされていた。これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。講堂は回廊外の北側にあった。 四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。中門のすぐ南には南門があった。回廊外の西側には西門があったことも発掘調査で判明している。 塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。心礎は地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。 舎利容器は建久7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子などが出土した。出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える。 中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面 二階 在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。 東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。この小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される。 中門は礎石の残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であったと推定される。奥行が深い(3間)のが上代寺院の中門の特色である。南門も礎石の残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であったと推定される。 1977年(昭和52年)の調査で、寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出された。1982年(昭和57年)の調査では、寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、すなわち、寺域の北東隅が確認された。 この結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、南北が324メートルに達することが分かった。東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端は南方へ直角に折れるのではなく、南東方向へ鈍角に折れており、寺域は南側がやや広い台形状になっている。主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南東寄りに建てられており、寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定される。
2024年09月21日
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3「行基の教学修行」 天武天皇11年(682年)に15歳で大官大寺で、得度を受け出家し法行と称した。持統天皇5年(691年)、24歳で戒師の高宮寺徳光禅師のもと受戒する。飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び[4]名を行基と改めた。 飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。現在は安居院という。蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。新西国三十三箇所第9番札所。 飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。 古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」「橘寺」のような和風の寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが、福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている。「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている。 本項では馬子が建立した寺院と、その法灯を継いで飛鳥に現存する寺院「安居院」とを含め「飛鳥寺」と呼称する。なお、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」である。 創建 飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。発願から創建に至る経緯は『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」と「丈六光銘」に記載がある。福山敏男は、『元興寺縁起』の本文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けるとしている。 『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋と対立していた。 馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境内を中心とする狭い区域を指していた。 一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。 『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。 そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。 『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。Ø 同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。Ø 『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。Ø この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。 『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とある。 なお1957年(昭和32年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、当初の状況は明らかでない。 『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。 『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。 しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。この点については研究者によってさまざまな解釈がある。毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。 これとは別に、久野健、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。すなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。 この弥勒石像は敏達天皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。 これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。 この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。今日では、この説が有力となっている。 飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。
2024年09月21日
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2「行基の出自」 河内国大鳥郡(天平宝字元年(757年)に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)で天智天皇7年(668年)、父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる。 高志 才智(こし の さいち)は、飛鳥時代の人物。名は羊(ひつじ)または佐陀智・貞知(さだち)とも書かれる。姓は史。子に行基がいる。 高志氏(高志史)は王仁を祖とし河内国・和泉国に分布する百済系渡来氏族。高志の名称は大和国高市郡阪合村越の地名に由来すると想定される。諸書においても、行基を百済人の後裔で和泉国大鳥郡出身としている。 一方、別の系統で越後国頸城郡の郡司(大領)を世襲した高志氏(高志公)があり、『日本現報善悪霊異記』のみ行基を越後国頸城郡出身としている。 霊異記を退けて河内・和泉国の渡来系高志氏を出自とし、その本拠をさらに絞れば今の大阪府高石市高石とする説が有力である。 名前 行基の骨をおさめた瓶に刻まれた文『大僧上舎利瓶記』によれば、諱を才智、字を知法君とい、行基は才智の長子とする。 時期が下る『行基菩薩伝』に「高志史羊(または佐陀智)」、『行基菩薩行状記』では高志宿禰貞知と記される。 事績 行基の父としてのみ知られ、詳しい事績は不明である。 『行基菩薩伝』によれば、行基は慶雲2年(704年)から母と共に住み、和銅3年(710年)の母の死まで孝養を尽くした。また『行基年譜』は慶雲元年(703年)に行基が生家を仏閣(家原寺)にしたという。江戸時代に編まれた『家原寺縁起』は、家原寺の創建は亡父の追善のためかという。父が慶雲元年(703年)頃に亡くなったので、残された母に孝行したという話は自然だが、確証はない。 *蜂田古爾比売(はちだ の こにひめ、生年不明 - 和銅3年(710年)没)は、日本の飛鳥時代の人物である。河内国(後の和泉国)大鳥郡(現在の大阪府堺市)の人。高志才智を夫とし、天智天皇7年(668年)に僧行基を生んだ。 古爾比売は蜂田虎身の長女で、天智天皇7年(668年)に河内国(和泉国)大鳥郡で行基を生んだ。 夫は高志才智である。その家は同郡蜂田郷にあった。当時一般的だった妻問い婚・招婿婚により、才智が古爾比売の蜂田家に通い、そこで行基が生まれたのであろう。 古爾比売の事績については知られることはない。修行を終えた行基は、慶雲元年(704年)に自宅を仏閣にした。 後の家原寺である。慶雲2年(705年)から古爾比売は、山林修行を終えた行基に導かれて佐紀堂(現在の奈良県奈良市佐紀町)に住んだ。慶雲4年(707年)からは生馬仙房(生駒山の家)に移り、和銅3年(710年)に死ぬまで行基とともに住んだ。 行基は母の死後も和銅5年(712年)まで生馬仙房(草野仙房とも)にとどまり、質素な生活をした。喪に服したのであろう。後に行基が葬られた竹林寺の前身である。
2024年09月21日
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「高僧名僧伝・行基」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「行基の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「行基の教学修行」・・・・・・・・・・・・・・・・64、 「民衆と修業時代」・・・・・・・・・・・・・・・・385、 「渡来僧の導き」・・・・・・・・・・・・・・・・・436、 「行基の社会事業」・・・・・・・・・・・・・・・・477、 「行基の救済事業」・・・・・・・・・・・・・・・・518、 「聖武会見から没するまで」・・・・・・・・・・・・679、 「行基と東大寺」・・・・・・・・・・・・・・・・・7510、「行基の有縁の地」・・・・・・・・・・・・・・・・10911、「行基開基の寺院」・・・・・・・・・・・・・・・・12312、「行基は架橋指揮した橋・泊」・・・・・・・・・・・13813、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・140 1、「はじめに」行基(668年~749年)奈良時代の僧。河内国大鳥郡蜂田首虎身の長女古爾比売。15歳で出家し、24歳で高宮寺徳光を師主として受戒した。高宮寺は大和国葛城上郡高宮郷市大字西左味にあった寺で、金剛山の中腹にあたり、修行の根拠地になる山寺である。徳光は山林修行も習ったと推定される。一方、経典学習のため法興寺、薬師寺所属しにも、摂論系の瑜伽・唯識学を学習した。704年(慶雲元)山林を出て故郷に戻り、生家を改め家原寺とした。長年にわたる山林暮らしをやめて故郷に戻ったのは、三階教に出会ったからと考えらえる。三階教は隋の信行により開かれた民衆宗教で、山林修行を否定し、街頭宗教で山林信仰を否定し、街頭集落における民衆の宗教的共助活動を重視し、無尽蔵施と称する布施行により我が身と祖先の罪業が消滅すると説いた。その教籍は道昭が請来し法興寺禅院に安置した。行基はこれを読み、716年(霊亀2)以降、街頭に出て、民衆不況に乗り出した。出家の弟子には布施行を勧め、知識を結成して、布施屋の建設(9か所)架橋(6か所)、道路修理(1か所)、院と称する民衆的寺庵の建設(40か所)などを進めた。717年(養老元)政府から名前をあげてその行動を叱責され、722年にも抑圧を受けたが、翌年三世一身法が出ると、溜池の構築(15か所)灌漑溝の整備(6か所)・開田にも乗り出し、その行動が社会的に有益であることを立証した。730年(天平2)、731年には15もの院を建設した。これに伴い政府の彼に対する姿勢も変化し、731年在家の弟子の一部に出家が許されるという得点に浴したが、これは藤原不比等と四子と光明皇后の影響が考えられる。740年恭仁京の造営が始まると、大和・山城の国境の泉川(木津川)に泉大橋と泉橋院を建て為政者の注目を集めた。743年、聖武天皇による大仏建立事業が始まるとこれに協力し、745年大僧正に任じられた。749年、不況の拠点であった平城京の喜光寺で没した。
2024年09月21日
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16「栄西の影響」なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最新の研究では会っていたとされる。主な著作『誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)。『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(茶層教)という蔑称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。『無明集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。大須観音は『無明集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。栄西の主な弟子退耕行勇 高野山金剛三昧院を開山。弟子に大歇了心。他に円爾、心地覚心も弟子。退耕行勇(たいこうぎょうゆう、長寛元年(1163年) - 仁治2年7月5日(1241年8月13日))は、鎌倉時代前期の臨済宗の僧[1]である。俗姓は四条氏。諱は玄信から行勇に改める。道号は退耕で、房号は荘厳房。出身については山城国とも相模国酒匂とも言われている。活動退耕行勇は、初め密教を学び、そして鎌倉鶴岡八幡宮の供僧となり、鎌倉永福寺・大慈寺の別当を務めた。源頼朝・北条政子夫妻の帰依を受け、政子が出家・剃髪する際にはその戒師をつとめている。1217年には源実朝の正室である御台所坊門信子、1224年には北条義時継室伊賀の方も行勇の元で落飾した[2]。1200年(正治2年)栄西が鎌倉に下向した際には、寿福寺で参禅しその門下に入った。博多の聖福寺の住持にもなった。1206年(建永元年)栄西のあとを受けて東大寺大勧進職となっている。東大寺に残る1237年(嘉禎3年)の「行勇書状」(重要文化財)には、東大寺の鎮守八幡宮の遷宮事業の進め方について、行勇が大勧進の立場から東大寺の衆徒に助言した内容で、行勇の活動の様子を伝えている。また、頼朝は寿福寺の行勇のもとを度々訪れている。1219年(承久元年)には高野山に上って金剛三昧院を開創し、禅密兼修の道場とした。北条泰時により鎌倉東勝寺や常楽寺を開山、また足利氏により浄妙寺を開山した。同寺には行勇唯一の頂相彫刻が残っている(重要文化財)。弟子に円爾、心地覚心など。円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。建仁2年(1202年)、駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学んだ。18歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もあるが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではない。仁治2年(1241年)、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。
2024年09月20日
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16「栄西の影響」なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最新の研究では会っていたとされる。主な著作『誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)。『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(茶層教)という蔑称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。『無明集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。大須観音は『無明集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。栄西の主な弟子退耕行勇 高野山金剛三昧院を開山。弟子に大歇了心。他に円爾、心地覚心も弟子。退耕行勇(たいこうぎょうゆう、長寛元年(1163年) - 仁治2年7月5日(1241年8月13日))は、鎌倉時代前期の臨済宗の僧[1]である。俗姓は四条氏。諱は玄信から行勇に改める。道号は退耕で、房号は荘厳房。出身については山城国とも相模国酒匂とも言われている。活動退耕行勇は、初め密教を学び、そして鎌倉鶴岡八幡宮の供僧となり、鎌倉永福寺・大慈寺の別当を務めた。源頼朝・北条政子夫妻の帰依を受け、政子が出家・剃髪する際にはその戒師をつとめている。1217年には源実朝の正室である御台所坊門信子、1224年には北条義時継室伊賀の方も行勇の元で落飾した[2]。1200年(正治2年)栄西が鎌倉に下向した際には、寿福寺で参禅しその門下に入った。博多の聖福寺の住持にもなった。1206年(建永元年)栄西のあとを受けて東大寺大勧進職となっている。東大寺に残る1237年(嘉禎3年)の「行勇書状」(重要文化財)には、東大寺の鎮守八幡宮の遷宮事業の進め方について、行勇が大勧進の立場から東大寺の衆徒に助言した内容で、行勇の活動の様子を伝えている。また、頼朝は寿福寺の行勇のもとを度々訪れている。1219年(承久元年)には高野山に上って金剛三昧院を開創し、禅密兼修の道場とした。北条泰時により鎌倉東勝寺や常楽寺を開山、また足利氏により浄妙寺を開山した。同寺には行勇唯一の頂相彫刻が残っている(重要文化財)。弟子に円爾、心地覚心など。円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。建仁2年(1202年)、駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学んだ。18歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もあるが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではない。仁治2年(1241年)、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。
2024年09月20日
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15「栄西没後」元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。 建永元年(1206年)、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。 承元3年(1209年)、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。承元5年(1211年)、『喫茶養生記』を著す。建暦2年(1212年)、法印に叙任。 建保元年(1213年)、権僧正に栄進。頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。建保3年(1215年)、享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日(6月5日・7月5日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが、『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、7月5日京都建仁寺で入滅したことが確定している。他者からの栄西観日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日) - 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。主な活動建暦3年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。建保2年(1214年) 天台座主公円について出家し[3]、仏法房道元と名乗る。建保3年(1215年) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡る。南宋の宝慶1年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)である。安貞元年(1227年) 帰国。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。また、同年『普勧坐禅儀』を著す。天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開く。「正法眼蔵」の最初の巻である「現成公案」を、鎮西太宰府の俗弟子、楊光秀のために執筆する。1234年 孤雲懐奘が入門[3]。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。寛元元年(1243年)7月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。
2024年09月20日
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14「京都に禅宗の拠点に」建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがある。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。「建仁寺の学問面」などともいう。日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西であるとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国に生まれた。13歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であったが、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西は初め九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治2年(1200年)に建立された寿福寺の開山となる。その2年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。創建当時の建仁寺は真言院・止観院を構え、天台・真言・禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。寛元4年(1246年)6月と翌寛元5年(1247年)、そして建長8年(1256年)7月に焼失し衰微した。しかし、正嘉元年(1258年)5月、東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。文永2年(1265年)には臨済禅寺となり、寺名を建寧寺に改名する。暦応3年(1340年)10月には佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵、開山堂、塔頭瑞法庵などが類焼している。康永元年(1342年)寺名を建仁寺に戻す。応永4年(1397年)11月、焼失。応仁の乱に巻き込まれて焼失。文明13年(1481年)にも炎上している。当寺は火災が多く創建当時の建物は残っていない。天正年間(1573年 – 1592年)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも修理が継続して行われた。慶長19年(1614年)には徳川家康により寺領820石が安堵されている。1868年(明治元年)には廃仏毀釈により34院あった塔頭が14院になる。当寺の西にはかつての鎮守社であった京都ゑびす神社がある。境内法堂 - 仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている。明和2年(1765年)の建立。また、2002年(平成14年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により「双龍図」が描かれた。方丈と渡り廊下で繋がっている。本坊(庫裏) - 文政元年(1818年)に建立。方丈 - 重要文化財。長享元年(1487年)の建立で、もと安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599年)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。創建当初は杮葺であったが、元文元年(1736年)に瓦葺きに改められた。建物の外周すべてに建具が入り、壁が少ない構造のためか、1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊し、1940年(昭和15年)に創建当初の杮葺で復旧された。その後1962年(昭和37年)に銅板葺きに改められていたが、2013年(平成25年)に杮葺に復した。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されている。
2024年09月20日
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12「鎌倉に招請され布教する」建久9年(1198年)、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。 寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山第3位の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音霊場の第24番。鎌倉二十四地蔵の第18番。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)3月22日、国の史跡に指定された。源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。 1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺した。鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院である。鎌倉初期に高い寺格をもって繁栄したが、「海道記」や「東関紀行」の作者は、寿福寺についてふれるところがない。境内総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。重要文化財木造地蔵菩薩立像-鎌倉時代の作。鎌倉国宝館に寄託。銅造薬師如来坐像-鎌倉時代の作。神仏分離の際、鶴岡八幡宮から移されたもの。釈迦三尊像-仏殿の本尊。中尊の釈迦如来坐像は、高さ2.7メートル。室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。脱活乾漆は、粘土などで作った原型の上に麻布を漆で貼り固めた張り子状の像で、日本では奈良時代に多数制作されたが、中世以降にこの技法を用いた仏像はきわめてまれである。なお、両脇侍像は木造である。
2024年09月20日
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11「禅宗を取得し帰国後布教」建久2年(1191年)、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。建久5年(1194年)、禅寺感応寺 (出水市)を建立。感応寺(かんのうじ)は、鹿児島県出水市野田町にある臨済宗相国寺派の寺院である。山号は「鎮国山」。写真サイトCANON iMAGE GATEWAYの日本人なら一度は訪れたい寺「名刹巡礼 古寺 100選」に選ばれた。1194年(建久5年)、島津忠久の命により家臣の本田貞親が栄西を開山として創建した寺院とされる。最古の禅宗寺院の1つ。その後、島津氏の菩提寺となり大変に栄えたが、明治2年の廃仏毀釈のおり廃寺となった。のち1888年(明治13年)に難を逃れた寺宝を元に再興された。西側には「五廟社」とよばれる墓地があり、ここに島津忠久、島津忠時、島津久経、島津忠宗、島津貞久の島津氏初代から5代までの墓がある。大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。聖福寺(しょうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院である。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺として有名である。境内は国の史跡に指定されており、山門や仏殿などがある。山号は安国山(通称は安山)。歴史建久6年(1195年)に日本の臨済宗開祖の栄西が南宋より帰国後、宋人が建立した博多の百堂跡にいち早く寺院を創建した。これが日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場である。山門には元久元年(1204年)、後鳥羽天皇により贈られた「扶桑最初禅窟」の額が懸かる。室町時代末期には戦乱で兵火を受けたが永禄11年(1568年)、耳峰が入山して再興する。天正15年(1587年)には領主小早川隆景が寺領300石を寄進、仏殿、総門などの諸堂宇を修営した。他文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より200石、慶長5年(1600年)に黒田長政より200石など、幾多の武将により寺領の寄進が伝えられている。当寺は、当初臨済宗単独寺院であったが、開山の栄西が京都に建仁寺を開山したのち、建仁寺派となる。また、黒田長政の命により、現在は妙心寺派となり存続している。室町時代には、五山十刹に数えられた名刹である。江戸時代の文化・文政期には、禅画で名高い仙厓義梵がこの寺の住職を務め、文人の間に当寺の知名度を上げた。禅寺の典型的な伽藍形式。日本最初の禅道場として、塔頭も含め全域が国の史跡指定。拝観不可で通常は一般公開を行っていない。行事等がある時のみ公開される場所がある。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。後鳥羽天皇(ごとばてんのう、1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。「神器なき即位」寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例がある(「継体天皇先例説」、ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)と勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。新帝の候補者として義仲は北陸宮を推挙したが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。丹後局の進言があったという。
2024年09月20日
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10「帰国後密教と禅宗に再入宋」しかし実際には、第一回の入宋時は栄西が最も熱心に天台密教の著作に没頭した時期であり、禅に対してどの程度関心を持っていたかは明らかでないという推察もある。嘉応1年(1169年)頃、備前金山寺を復興し、菓上流の灌頂を行う。安元元年(1175年)、誓願寺落慶供養の阿闇梨となる。また『誓願寺建立縁起』を起草。文治3年(1187年)、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。天童寺(てんどうじ)は、「天童禅寺」とも呼ばれ、「東南佛国」とも称される、著名な禅宗の寺院である。禅宗五山の第二に列されている。浙江省寧波市鄞州区にあり、太白山の麓に位置し、山に依り、水に臨む、勝景の地にある。天童寺と日本の仏教の関係は深く、日本の曹洞宗は、天童寺を祖庭としている。1983年、国務院は、漢族地区仏教全国重点地域に指定している。2006年には、国家重要文物保護単位となった。歴史天童寺は、西晋の永康元年(300年)に創建された。遊行僧の義興が建てたと言われている。唐朝の初年、現在の位置に移った。唐の乾元2年(759年)、粛宗から「天童玲瓏寺」の名を賜った。唐の咸通10年(869年)、懿宗から、「天寿寺」の名を賜った。北宋の景徳4年(1007年)、真宗から「天童景徳禅寺」の額を賜った。北宋の宣和7年(1125年)、曹洞宗第十三祖の如浄禅師が住職になった。ちょうど、日本から道元が来朝しており、天童寺で修行していた。帰国後、日本で曹洞宗を開いた。南宋の建炎3年(1129年)、正覚禅師が住職になった。南宋の紹興4年(1134年)、東南の第一大殿を増築した。南宋の淳熙5年(1178年)、孝宗から、「太白名山」の四字を賜った。南宋の嘉定年間、天童寺は、「禅院五山十刹」の第三山に列せられた。明の朱元璋は天下名寺を冊封し、天童禅寺を天下禅宗五山の第二山に列した。万暦15年(1587年)7月21日、大雨と洪水によりことごとく破壊され、礎石や瓦礫すら残らない有様であった。清の雍正帝から、「慈雲密布」の扁額を賜った。そして虚庵懐敞より菩薩戒を受ける。菩薩戒(ぼさつかい、)は、仏教の菩薩が受けて保つべき戒。菩薩を特色づける戒。大乗戒や仏性戒ともいう。菩薩戒は、在家にも出家にもありうるものである。僧伽の構成員を形成する七衆を特色づける戒が七衆戒と総称され律蔵の文献で説かれるのに対し、菩薩の特徴となる戒が菩薩戒と総称され、一般的には経蔵の文献で説かれる。菩薩戒の典型と考えられているのは瑜伽師地論の三聚浄戒であり、中国で成立した菩薩戒の代表に梵網戒がある。具体的に遵守すべき戒条は学処(がくしょ)と呼ばれる。瑜伽師地論では四重四十三軽戒が、梵網経では十重四十八軽戒が学処として定められた。菩薩戒は菩提心や仏性に基づくものとされ、形式よりも動機や心を重視する傾向がある。
2024年09月20日
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9「興禅護国論を著す」これは後に著された栄西の主著である『興禅護国論』に禅のことが書かれていることより推察されることである。『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)とは、鎌倉時代初期、日本に臨済宗を伝え広めた栄西による仏教書。栄西が禅の布教にあたったとき、南都北嶺より激しい攻撃が加えられたのに対し、禅宗の要目を論じた著作。栄西にとっては主著にあたり、「日本における禅宗独立宣言の書」とも評価される。建久9年(1198年)以前の成立と考えられる。全3巻で、禅宗は決して天台宗の教えに違背するものではなく、根本的には対立・矛盾するものではないとして、仏典(経・律・論)において説かれる禅の本旨を述べた著作である。仏道を追究して悟りを得ることのできる人の心の広大さを称える一文「大いなるかな、心(こころ)哉(や)」で始まり、全編は、第一「令法久住門」、第二「鎮護国家門」、第三「世人決疑門」、第四「古徳誠証門」、第五「宗派血脈門」、第六「典拠増進門」、第七「大綱歓参門」、第八「建立支目門」、第九「大国説話門」、第十「回向発願門」の10門に分けられる。禅の普及に圧力をかける南都北嶺とくに山門(比叡山延暦寺)に対する弁明・反論と朝廷から布教の許可を得ることを目指して著述された。建久6年(1195年)の『出家大綱』、元久元年(1204年)の『日本仏法中興願文』とならび、栄西の思想を知るのに重要な著作である。原文は漢文で、巻首には筆者不明の栄西の伝記、巻後には栄西自身による『未来記』が付されている。著述の経緯と目的建久2年(1191年)、2度目の渡宋を終えて南宋より帰国した栄西は、九州地方北部において、聖福寺(福岡市博多区)[注釈 2]をはじめ、徳門寺(福岡市西区宮浦)、東林寺(福岡市西区宮浦)、誓願寺(福岡市西区今津)、報恩寺 (福岡市東区香椎)、龍護山千光寺(福岡県久留米市)、智慧光寺(長崎県高来郡)、龍灯山千光寺(長崎県平戸市)、狗留孫山修善寺(山口県下関市)などを構えて禅の普及に尽力したが、建久5年(1194年)7月5日、日本達磨宗の大日房能忍らの摂津国三宝寺の教団とともに布教禁止の処分を受けた。いっぽう筑前国筥崎(福岡市東区)の良弁という人物が、九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通を停止するよう朝廷にも働きかけたため、建久6年には関白の九条兼実は栄西を京に呼び出し、大舎人頭の職にあった白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言の葉室宗頼に対してはその傍聴の任にあたらせた。しかし、京の世界にあっては禅を受容することは難しいものと判断された。そこで、明菴栄西によって、禅に対する誤解を解き、最澄(伝教大師)の開いた天台宗の教学に背くものではないとして禅の主旨を明らかにしようとして著されたのが本書である。九州で著されたと考えられる。栄西は、禅を興すことは王法護国をもたらす基礎となるべきものであるという自身の主張から、経典『仁王護国般若波羅密多経』の題号により『興禅護国論』と命名した。内容上述の通り、本書は10門より構成されており、それぞれの内容は以下に示す通りである。第一「令法久住門」…仏法の命の源は戒にあり、戒律を守って清浄であるならば仏法は久住する。第二「鎮護国家門」…般若(=禅宗)は戒を基本としており、禅宗を奉ずれば諸天はその国家を守護する。第三「世人決疑門」…禅に対する無知や疑惑、いわれなき誹謗(禅は悟りのない禅定をするだけである、「空」だけを強調する誤った教義であるなど)に対する反論。偏執の世人に対する批判。第四「古徳誠証門」…古来の仏僧は禅を修行したことの証拠。第五「宗派血脈門」…仏の心印は途絶えることなく栄西に至っていること。第六「典拠増進門」…諸経論のなかにおいても教外別伝・不立文字の教えが説かれていること。第七「大綱歓参門」…禅は仏教の総体であり、諸宗の根本であるとして以心伝心の真義を明らかにし、禅宗の大要を示す。第八「建立支目門」…禅宗の施設・規式・条件などを示し、宗教界の刷新改革と戒律の重要性を説く。第九「大国説話門」…インド・中国における禅門について示す。第十「回向発願門」…功徳を他にふり向ける心を発せさせることの重要性を示す。栄西は、この書において、戒律をすべての仏法の基礎に位置づけるとの立場に立ち、禅宗はすべての仏道に通じていると述べて、念仏など他の行を実践するとしても禅を修めなければ悟りを得ることはできないとした。また、生涯を天台宗の僧として生きた栄西は、四宗兼学を説いた最澄の教えのうち、禅のみが衰退しているのは嘆かわしいことであるとし、禅宗を興して持戒の人を重く用い、そのことによって比叡山の教学を復興し、なおかつ国家を守護することができると説いた。そして、禅宗に対する批判は、比叡山そのものを謗ることになると主張した。この論を著述するにあたっては数多くの仏典が引用されており、引用にはすべて典拠を掲げて厳正を期している。なお、栄西の手になる『未来記』1編は、自身の死去50年後には日本で禅の隆盛が訪れんことを期待するというもので、これは、日本の天台僧覚阿も師事した中国の高僧、杭州霊隠寺の仏海禅師慧遠が宋の乾道9年(1173年、承安3年)に自身の入滅後20年には禅は日本に渡って興隆すると予見したことを踏まえ、自身の帰国はこれに適合することを訴えたうえで禅の将来への期待を示したものであった。
2024年09月20日
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8「天台山・南宋に禅を学び重源と帰国」天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。禅(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の(ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。禅宗は南インド出身で中国に渡った達磨僧(ボーディダルマ)を祖とし、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、遡って初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅である。中国禅は、唐から宋にかけて発展し、征服王朝である元においても勢力は健在だったが、明の時代に入ると衰退していった。日本に純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初め頃であり、室町時代に幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展した。明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が、世界に伝えられた。日本においては、坐禅修行を主とする仏教宗派が「禅宗」と総称されることが多い。これに対して、臨済宗14派と黄檗宗からなる臨済宗黄檗宗連合各派合議所と、曹洞宗宗務庁は2019年、中学校の歴史教科書について、個々の宗派名を書かず「禅宗」と一括りにする記述を改めるよう申し入れた。言葉の由来禅は、サンスクリットの(ディヤーナ/パーリ語では ジャーナ)の音写、あるいは音写である禅那(ぜんな)の略である。他に駄衍那(だえんな)・持阿(じあな)の音写もある。他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪・功徳叢林・念修。禅の字は元来、天や山川を祀る、転じて、天子が位を譲る(禅譲)という意味であった。これに「心の働きを集中させる」という語釈を与えて禅となし、「心を静かにして動揺させない」という語釈を与えて定とし、禅定とする語義が作られた。ただし禅那の意味では声調が平声から去声に変わっており、現代北京語では加えて声母も変わって(シャン)に対し(チャン)になっている。禅那[編集]詳細は「禅定」を参照圭峰宗密の著書『禅源諸詮集都序』には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。類似の概念として三昧(サンスクリット:)がある。禅あるいは定という概念は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタ(釈迦)も禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては三学の戒・定・慧の一つとして、また、大乗仏教においては六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。禅那と瞑想禅那を現代語で俗に和訳すると瞑想となる。ちなみにヨーガ も意訳すれば瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くことをいう。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字(後述)を強調するため、瞑想と禅は区別される。坐禅を組むこと。あるいは参禅すること。禅那は、仏性の存在を前提に坐禅することをいう。そのため坐禅と同じ姿勢でも仏性を前提としないものは禅那とは言えず、単なる瞑想であるとして区別する。不立文字詳細は「不立文字」を参照禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)を原則とする。不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がないということで、仏祖の言葉は解釈によって、いかようにも変わってしまうという意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意である。そのため禅宗では中心的経典を立てず、教外別伝を原則とするため師資相承を重視し、そのための臨機応変な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。釈迦から開祖・達磨大師まで禅宗での血脈相承を法嗣と呼ぶ。釈迦以降の法嗣は次のように伝えている。釈迦-摩訶迦葉-阿難陀-商那和修-優婆毬多-提多迦-彌遮迦-婆須密多-仏陀難提-伏馱密多-波栗湿縛-富那夜奢-阿那菩底-迦毘摩羅-那伽閼剌樹那-伽那提婆-羅睺羅多-僧伽難提-伽耶舎多-鳩摩羅多-闍夜多-婆修盤頭-摩拏羅-鶴勒那-獅子菩提-婆舎斯多-不如密多-般若多羅-菩提達磨マハーカーシャパ(摩訶迦葉)はバラモン階級出身の弟子で、釈迦の法嗣とされる(法の継承者)。拈華微笑と言われている伝説が、宋代の禅籍『無門関』に伝わる。世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。— 『無門関』第一巻(世尊拈華)二十八祖ボーディダルマ(菩提達磨)(南インド出身)が中国に入り、禅の教えを伝えたとされる。達磨は中国禅の始祖となった。中国の禅の歴史黎明期中国禅の歴史は『景徳傳燈録』等の文献にある(※禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信(580年 – 651年)、五祖弘忍(601年 – 674年)以降)。初期の法嗣は次のように伝えられる。菩提達磨-神光慧可-鑒智僧璨-大醫道信(四祖)-大満弘忍(五祖) (-大鑒慧能)北宗と南宗への分裂詳細は「北宗」および「南宗」を参照
2024年09月20日
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7「天台を立て直すべく入宋」仁安3年(1168年)4月、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。南宋(なんそう、1127年 – 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現在の杭州市)であった。北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。靖康元年(1126年)、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構(高宗)は南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛・韓世忠・張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。孝宗の治世秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(紹興31年、1161年)で勝利し、撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙眘(孝宗)が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ(隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。韓侂冑時代孝宗は淳熙16年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、慈懿皇后の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年(1197年)には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・朱熹・彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。慶元4年(1198年)には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧2年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐)。しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の史弥遠により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。モンゴルの脅威韓侂冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定6年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、翌1234年に金は滅びた。その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。だが、名将として知られた孟珙の前に苦戦することになり、1239年に襄陽を南宋に奪還されると、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦い(中国語版)が行なわれ、モンケ親征軍が出陣した。滅亡へ詳細は「モンゴル・南宋戦争」を参照しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。忠臣の鑑と称えられる文天祥も2年以上各地で抵抗戦を続けたが、景炎3年(1278年)に元に捕えられ、獄中で『正気の歌』を詠み、元の至元19年(1282年)に刑死した。
2024年09月20日
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6「大山寺の基好に師事する」仁安2年(1167年)、伯耆(鳥取県)大山寺基好より両部(金剛界・胎蔵界)灌頂を受ける。 両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、日本密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅である。日本密教の教えの中心ともなる大日如来を中央に配して、更に数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。「胎蔵」は客体、「金剛」は主体表現であるとされる。一般に知られる個々の「仏」の像を絵画で表した『大曼荼羅』のほかに、1つの仏を1文字の梵字(サンスクリットを表記するための文字のひとつ)で象徴的に表した『法曼荼羅』や、1ずつの仏をその仏の内証を象徴的に表す「三昧耶形」で描いた『三昧耶曼荼羅』、日本ではインド密教古来の地面に描く曼荼羅の姿に倣って仏像を伽藍内に配置したものを『羯磨曼荼羅』といい、これらを総合して「四種曼荼羅」と呼ぶ。起源・伝来胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵曼荼羅)は主に『大日経』に基づき、金剛界曼荼羅は『金剛頂経』(経典群)という密教経典に基づいて描かれている。『大日経』は7世紀の中頃、インドで成立したものと言われ、インド出身の僧である善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう、637年 ~ 735年)が、中国人の弟子の一行禅師(いちぎょうぜんじ、683年~ 727年)と共に8世紀前半の725年(開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の『金剛頂経』は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、『大日経』が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧である金剛智三蔵(671年 ~ 741年)と、弟子の不空三蔵(705年 ~774年)によって漢訳されている。なお、日本密教の伝承によれば、『金剛頂経』は十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18回のさまざまな機会に説いた説法を経典としたものを、それぞれまとめて十八本に集大成した膨大なものであるとするが、金剛智三蔵と不空三蔵が訳したのはそのうちの初会(しょえ)のみであるとされ、この初会の経典を『真実摂経』(しんじつしょうぎょう)とも言う。いずれにしても、『大日経』と『金剛頂経』は同じ大日如来を主題として取り上げながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2系統の経典群の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海の師である唐僧の恵果阿闍梨(746年 - 805年)であると推定されている。恵果阿闍梨は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師の李真に命じて両界曼荼羅等々を描かせ、空海に与えた。空海は、唐での短い留学を終えて806年(大同元年)に帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本および弘仁12年(821年)に製作された第一転写本は教王護国寺に所蔵されていたが失われており、京都・神護寺所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥であるが、根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられている。胎蔵曼荼羅胎蔵曼荼羅(「胎臓」も使われる)は、詳しくは『大悲胎蔵(だいひたいぞう)曼荼羅』といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。 曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢-ほうどう、開敷華王-かいふけおう、無量寿-むりょうじゅ、天鼓雷音-てんくらいおん)を四方に配し、更に4体の菩薩(普賢菩薩、文殊師利菩薩、観自在菩薩、慈氏菩薩)をその間に配して、合計8体が表される。なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった『大日経』と『金剛頂経』のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注:両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち『金剛頂経』には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、『大日経』では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると、修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示していて、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。 図の中央部は大日如来の悟りの世界を表し、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩埵院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表すものとされている。金剛界曼荼羅日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、『金剛頂経』に説かれる二十八種の曼荼羅のうち「金剛会品」の曼荼羅6種、「降三世品」の曼荼羅2種に、『理趣経』の曼荼羅を加えて「九会(くえ)」としたもので、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。この九会で一幅の曼荼羅を構成する手法は日本密教独自の流儀で、チベット密教では行われない。中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦(あしゅく)・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。 大日如来の四方を囲む菩薩、および各如来の四方を囲む四親近菩薩は以下の通りである。(東方=下、南方=左、西方=上、北方=右)(各菩薩には異称が多々存在する)
2024年09月20日
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最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した具足戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。9世紀に空海がもたらした密教は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もうと考えるようになる(「天台密教」の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。993年には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになった。以降、円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになる[4]。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の良源によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の源信(恵心僧都)が著した「往生要集」が、後の浄土教の発展につながった。平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになった。16世紀、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると天海が立て直し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという。天台密教真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。しかし日本天台宗の宗祖・最澄が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁・円珍などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。真言密教と天台密教の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊を久遠実成の釈迦如来としていることである。四宗兼学また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。止観行天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
2024年09月20日
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5「天台宗を学ぶ」保元2年(1157年)、静心が遷化して、遺言により法兄の千命に従う。翌年の保元3年(1158年)には千命より虚空蔵求聞持法を受ける。 平治元年(1159年)、19歳の時に比叡山の有弁に従って天台宗を学ぶ。虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャガルバ、またはガガナガンジャは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれるともいわれる。明星天子、大明星天王とも。三昧耶形は宝剣、如意宝珠。種字はタラーク。真言は「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」や、「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」などが知られる。「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。空海が室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。また、京都嵐山の法輪寺では、13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている。 胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教でも重視される。像容は右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものや、法界定印の掌中に五輪塔を持つもの、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものなどがある。三つ目の像容は求聞持法の本尊で、東京国立博物館蔵の国宝の画像はこれに当たる。彫像の代表例としては、奈良県大和郡山市・額安寺像、京都市・広隆寺講堂像などが挙げられる。 奈良県斑鳩町・法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像は7世紀にさかのぼる古像だが、当初から虚空蔵菩薩と呼ばれていたかどうかは定かでない。また、法隆寺の百済観音像は宝冠が見つかった明治時代前半までは寺内で墨蹟銘から「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。五大虚空蔵菩薩の彫像の作例としては、京都・神護寺多宝塔安置の像(平安初期・国宝)が著名である。京都・東寺観智院安置の五大虚空蔵菩薩像(重文)は、空海の孫弟子にあたる恵運が唐から招来した像である。法界、金剛、宝光、蓮華、業用の各像はそれぞれ馬、獅子、象、金翅鳥(こんじちょう)、孔雀の上の蓮華座に乗っている。この観智院像は、元は山科(京都市山科区)の安祥寺にあったものである。天台宗(てんだいしゅう,)は、中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる。名称は、実質的開祖の智顗が天台山に住んでいたということに由来する。天台教学は入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。今日では中国、日本、朝鮮、ベトナムに信徒を持つ。天台宗は、中国(隋)の天台智者大師、智顗(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は隋の第2代皇帝煬帝の帰依を受け、括州天台山国清寺と荊州当陽玉泉寺を建立し、天台宗を確立した。初祖は北斉の慧文、第二祖は南嶽慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智顗である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。慧文は、龍樹による『大智度論』と『中論』に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智顗に継承された。智顗は、鳩摩羅什訳の『法華経』『摩訶般若波羅蜜経』『大智度論』、そして『涅槃経』に基づいて教義を組み立て、『法華経』を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。しかしながら、鳩摩羅什の訳した『法華経』は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は鳩摩羅什自身の教義で改変されている」という説がある。羅什が『法華経』・『摩訶般若波羅蜜経』・『大智度論』を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。智顗の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した。華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。智顗の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている(関口真大)日本の天台宗正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。
2024年09月20日
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「延暦寺に出家得度」久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である[1]。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。歴史比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。最澄最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。延暦7年(788年)、最澄は三輪山より大物主神の分霊を日枝山に勧請して大比叡とし従来の祭神大山咋神を小比叡とした。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ。延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んだ。延暦24年(805年)、帰国した最澄は、天台宗を開いた。このように、法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。大乗戒壇の設立延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。
2024年09月20日
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3「仏教教学を修学」久安4年(1148年)、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は、ヴァスバンドゥ(世親)を作者として、4世紀-5世紀頃にインドで成立したとされる、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書である。サンスクリット原典の題名は『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』(、略称: AKBh)。サンスクリット原典のほかに、2種類の漢訳本とチベット語訳本が現存している。漢訳本は、一方は真諦訳『阿毘達磨倶舍釋論』(略称『倶舎釈論』)22巻であり、もう一方は玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』(略称『倶舎論』)30巻である。倶舎宗が伝統的に後者の玄奘訳を用いてきたため、玄奘訳に基づく呼称『倶舎論』が浸透した。真諦訳は『旧倶舎』『旧訳』とも呼称され区別された。20世紀にサンスクリット原典が発見されてからは、漢訳に依らない研究が行われている。ヴァスバンドゥ(世親)が作成した『アビダルマ・コーシャ・カーリカー』の598偈の本頌に、ヴァスバンドゥ自ら註釈(自註)を書き加えたものが『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』である。玄奘が漢訳する際には、『アビダルマ・コーシャ・カーリカー』を『阿毘逹磨倶舍論本頌』と訳し、『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』を『阿毘達磨倶舍論』と訳した。したがって、『倶舎論』とは厳密にはその注釈部分(バーシャ、長行釈)のことである。「アビダルマ」の語義については複数の解釈があるが、『阿毘逹磨倶舎論』の自注によれば、「阿毘達磨」 (アビダルマ) とは、 "abhi+dharma" であり、それぞれ「対」と「法」と訳され、「法に関して」という意味である[11]。また、「倶舎」(コーシャ)とは入れ物、蔵、宝物庫の意味である。漢訳の際には、以上のように、意味を訳すのではなく音写によって訳された。よって、阿毘達磨倶舎はアビダルマ・コーシャの音写であり、「アビダルマを収蔵する蔵」もしくは「アビダルマという蔵から取り出されたもの」という意味である。対法蔵とも訳される。本書の思想史上の位置付けとしては、以下のように複数の見解がある。仏教学者の櫻部建は、説一切有部のアビダルマ論書が多数世に現れたのちに、その業績を継承して、その上にさらに新しい進展を加え、およそアビダルマ論書の一つの完成態というものを示したものであると述べている。また、経量部の論書として理解しようとする見解もあるものの、それは適切ではない。AKBhは叙述が整然としていること、インド・チベット・中国・日本において、広く僧徒の学習の対象となっていたこと、などの点からいえば、他のアビダルマ論書の中に比類をみないものといってよい。一方で、本書の特徴は説一切有部の伝統的な一部の教理に対して、経量部の立場から批判が加えられている点にある、という見解もある。 このような世親の立場は古来においては「理長為宗」や「拠理為宗」と表現された。 そして世親のこれらの経部的見解は、いずれもカシミール有部の伝統的な教理解釈とは相反する内容であった。故に、伝統的な教理を尊んだ衆賢は『順正理論』を著し『倶舎論』を論駁した。また、20世紀になって発見されたイーシュヴァラの『アビダルマディーパ』においても伝統的な有部の立場から『倶舎論』は非難されている。 近年の研究では世親の「経量部」の立場の多くは『瑜伽論』にトレースできることが指摘されている。 しかしながら、当時より世親が唯識家として本論を著した積極的根拠は認められないことは注意が必要である。説一切有部の教義は、カーティヤーヤニープトラ(迦多衍尼子)の『ジュニャーナプラスターナ』(, 発智論)によって確立する。この『ジュニャーナプラスターナ』を注釈した論書に『マハー・ヴィバーシャー』(『大毘婆沙論』)[注 4]がある。倶舎論は『大毘婆沙論』の厖大な内容を巧妙に要約している、とも説明される。本書はその骨格を『雑阿毘曇心論』に基づくことが古来より指摘されており、ゆえに、単なる『大毘婆沙論』の綱要書と認識するのは不適切である。また、『甘露味論』との関係が吟味されている。『阿毘達磨大毘婆沙論』(あびだつま だいびばしゃろん、)は、仏教の注釈書の1つ。略称として、『大毘婆沙論』や『婆沙論』が用いられる傾向にある。 また、これらの略称を用いる際には主に玄奘訳の『阿毘逹磨大毘婆沙論』を指す。 「アビダルマ」は「法について」、「マハー」は「大」、「ヴィバーシャー」は「註釈・解説」、「シャーストラ」は「論・書」、すなわち総じて「法についての大きな註釈書」の意である。本論は説一切有部の教説をまとめたとされる『発智論』に関する広大な注釈書である。玄奘の伝える伝説によれば、カニシカ王がカシミールで主宰した結集の際の論蔵であるとされるが、定かではない。本論は、玄奘訳の『阿毘逹磨大毘婆沙論』に対応する写本断片が一部発見されているものの、梵本や蔵本は発見されていない。 それに対して漢訳においては玄奘による漢訳200巻(「新訳」と略称する)をはじめ、浮陀跋摩による漢訳60巻(「旧訳」と略称する)、僧伽跋澄による漢訳14巻(『鞞婆沙』と略称する)が存在する。 旧来、これらは同本異訳と見なされる傾向にあったが、近年の研究ではこれらは異本別訳と捉える傾向にある。派生・影響『阿毘曇心論』、『阿毘曇心論経』、『雑阿毘曇心論』、および『アビダルマコーシャ』(倶舎論)が本書の教理をまとめた綱要書であるとするのが木村泰賢以来、半ば定説化した学説である。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心に師事する。安養寺(あんようじ)は、岡山県倉敷市にある高野山真言宗の寺院である。伝承によれば、安養寺は奈良時代の延暦元年(782年)、報恩大師により真言宗の寺として開山。朝原千坊の中院として13世紀の室町時代には浅原の谷一帯に『浅原寺』と総称される寺院が立ち並んでいたとされている。池田家文庫等によると安養寺は享保2年(1717年)以前は現在地より220m南、倉敷市街よりにあり、客殿や庫裏を備えた朝原寺の本坊であったことが判っている。また、源平盛衰記では鹿ケ谷の変で治承元年(1177年)、備前国に追放された藤原成親が備中国安養寺に出家・受戒したと書かれている。伽藍安養寺は倉敷と総社を結ぶ浅原峠にあり、寺社地正面には天王池と呼ばれる池に朱色の浮見堂が造られている。参道の石段にある楼門の上に大きな毘沙門天が乗り、その下には船の大きな碇が置かれている。境内に上がると毘沙門堂に高さ約26mの多宝塔、羅教堂、鐘楼、茶室などが配置されている。本殿である毘沙門堂には、金色の毘沙門天本尊が祀られ、成願堂には平安時代に造営された経塚の出土品で、釈迦誕生仏像・瓦経・等身大の毘沙門天像などの文化財が保存され、仏像は無料で公開されている。約11tの重量がある梵鐘は中国四国一の大きさとされている。また、神仏習合の寺であるため境内には鳥居が三箇所あり、七福神の銅像も配置されている。
2024年09月20日
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勿論、そのような時代になっても全国各地を回って勧進に尽力する勧進聖らも少なくなかったが、反面勧進聖を名乗って実態は物乞いなどの行為を行う者も現れる(前述の勧進比丘尼の遊女化もその1つである)ようになり、結果的に寺院内部(勧進職を含めて)や世間一般から蔑視されるような状況も生まれた。後にこの「勧進」のスタイルを基にした様々な「勧進○○」と称されるものが出現することとなる。勧進帳勧進帳(かんじんちょう)とは、勧化帳(かんげちょう)とも呼ばれており、勧進の目的について書かれた巻物形式の趣意書を指す。勧進の発願趣旨に始まり、念仏・誦経の功徳、寄付・作善に関わることによる功徳(現世利益・極楽往生)などを説いている。勧進聖は説教を聞くために集まった人々に対してこれを読み上げ、あるいは閲覧させて、寄付・作善を通じた結縁を呼びかけた。なお、勧進帳とは対として寄付の実績などを記した奉加帳がある。これは、重源の東大寺再建時の勧進帳である。東大寺勧進上人重源敬って白す。特に十方檀那の助成を蒙り、絲綸の旨に任せ、土木の功を終へ、仏像を修補し、堂宇を営作せんと請う状右当伽藍は風雨を天半に軼べ、棟甍の竦櫂を有ち、仏法恢弘の精舎、神明保護の霊地なり。原夫れ聖武天皇作治の叡願を発し、行基菩薩知識の懇誠を表す。加之、天照大神両国の黄金を出し、之を採りて尊像に塗り奉る。菩提僧正万里の滄海を渡り、これを崛して仏眼を開かしむ。彼の北天竺八十尺弥勒菩薩は光明を毎月の斎日に現じ、此の東大寺の十六丈盧舎那仏は利益を数代の聖朝に施す。彼を以って此に比するに、此猶卓然たり。是を以って代々の国王尊崇他無し。蠢々たる土俗帰敬懈るに匪ず。然る間、去年窮冬下旬八日、図らざるに火あり。延て此寺に及び、堂宇灰と成り、仏像煙と化し、跋提河の春の浪哀声再び聞え、沙羅林の朝の雲憂色重て聳え、眼を戴いて天を迎げば、則ち白霧胸に塞りて散せず。首を傾けて地に俯すれば、亦紅塵面に満ちて忽ち昏く、天下誰か之を歔欷せざらん。海内誰か之を悲歎せざらん。底露を摧かんより、成風を企つるに若かず。玆に因って、遠く貞観延喜の奮規を訪び、近く今上宣下の勅命に任せ、須らく都鄙をして、以って営作を遂げしむ可し、伏して乞う、十方一切同心合力、家々の清虚を謂ふこと莫れ、只力の能ふ所に任す可し。尺布寸鉄と雖も一木半銭と雖も、必ず勧進の詞に答え、各奉加の志を抽んでよ。然らば、即ち与善の輩結縁の人、現世には松柏の樹を指して比算し、当来に芙蕖の華に坐して結跏せん。其福無量得て記す加からざるもの乎。敬うて白す。養和元年八月 日 勧進上人重源 敬白別当法務大僧正大和尚(在判)なお、歌舞伎の演目として知られる『勧進帳』も武蔵坊弁慶が富樫左衛門の前で勧進帳を読み上げる場面に由来している。勧進船勧進船(かんじんぶね)は、中世に勧進を進めるために勧進聖らに乗船をさせた船。主に水上交通の要所を経由する船内で乗客のために説法などを行わせて寄付を募らせた。後に勧進を目的とした芸能の徒なども乗船させるようになったり、水上演芸船の様相を呈したものもあったという。勧進興行勧進平家(かんじんへいけ)は、寺社の改修費用などを集めるために琵琶法師が『平家物語』の全200句を語ったもの。平家詞曲相伝の立場からは、全句を語るのに要した時間はおよそ90時間から120時間程度とされている。貞治2年(1362年)に、琵琶法師の検校明石覚一が勧進平家を演じた記録が、『師守記』の同年正月3日の条に見える。今日家君密々聴聞五条高倉薬師堂覚一検校平給なお、「五条高倉薬師堂」とは、狂言「因幡堂」で知られる京都市下京区の平等寺のことである。勧進平家は、江戸時代にもさかんに行われ、複数の検校が約1ヶ月かけて交代で全句を語ることが多かったという。江戸時代の記録より、琵琶会などで好んで語られるのは50句程度であったものと推定されることから、愛好家にとっては、滅多に聴けない句を聴くことのできる、またとない機会となった。勧進相撲「勧進相撲」を参照戦国時代後期、神社仏閣の再興や造営の費用を捻出するために勧進相撲が始まった。しかしこれはその発生当初から、各地の土地相撲が始めた営利性の強い興行で、便宜上「勧進」の名を被せたという側面がある。徳川幕府の禁令などを経つつも隆盛を極め、江戸時代の町人文化の重要な要素を占めるようになる。近代以降も伝統文化として存続し、1925年(大正14年)には大日本相撲協会(いまの日本相撲協会)へと発展して現在に至る。現在においても、地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶことが多い。
2024年09月20日
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勧進(かんじん)は、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。勧請ともいう。直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。なお勧請も、もともと仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指したが、日本では神仏習合によって神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。勧請は神道神社で使われることが多く、分霊ともいう。勧進とは勧進とは、寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に説き、その費用を奉納させることをいう。そのことにより人びとを仏道に導き入れ、善行をなさしめるのが元来の意であったが、のちには寄付を集める方法として興行を催し、観覧料の収入をもってこれに当てるという意味としても広く用いられた。中世においては、橋や道路の修理・整備から官寺(鐘や仏像、写経をふくむ)の建設や修造など、本来は朝廷(国家)や国衙(地方行政機関)がおこなうべき公共事業も、勧進によってなされた。勧進をおこなう者は、勧進帳(後述)をたずさえて諸国を遍歴したり、橋のたもとや寺社の門前、関所などで「一紙半銭」の寄付を募った。勧進聖らの活動初期の勧進は主として勧進聖(かんじんひじり)・勧進僧(かんじんそう)・勧進上人(かんじんしょうにん)と呼ばれる僧侶によって担われていた。彼らは各地を遍歴しながら説法を行い、人々から銭や米の寄付を受けた。彼らは必要経費のみをそこから受け取り、残りを事業達成のための寄付に充てた。こうした勧進聖としては、奈良時代の行基や平安時代の空也・行円などが著名である。また、尼の中にも勧進活動に加わるものもおり、これを勧進比丘尼(かんじんびくに)と呼ぶ。ただし、勧進比丘尼の中には神仏習合の影響を受けて尼の形態をした巫女なども含まれており、また近世に入ると遊女的な行いをする者も存在したため、純粋な尼とは言えない者が多かった。それでも戦国時代の清順のように勧進活動によって寺院を再興した勧進比丘尼も少なからずおり、その活動も評価されるものであった。勧進の普及こうした勧進があまねく庶民に受容され、広く社会に浸透していくのは、およそ12世紀以降のことである。鐘については、保延7年(1141年)に大和国(奈良県)の金峯山寺の鐘が勧進僧道寂の勧進によって作られており、国家管理の橋であった山城国(京都府)の宇治橋や近江国(滋賀県)勢多橋も、12世紀に入ると勧進によって管理・維持がなされるようになっている。また、近江関寺の再興は治承3年(1179年)の南無阿聖人[注 3]の勧進によるものである。東大寺大勧進職治承4年(1180年)の平氏政権による南都焼討によって東大寺は灰燼に帰した。後白河法皇は直ちに復興の意思を表し、勧進聖らに東大寺再建のための勧進活動への協力を求め、養和元年(1181年)、その責任者として重源を大勧進職(だいかんじんしょく)に任命した。当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も、京都の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼している。途中、いくつもの課題もあったものの、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。以後も東大寺の施設の再建や管理維持のための役職として大勧進職は継続され、栄西(2代目)・行勇(3代目)・円爾(10代目)・忍性(14代目)・円観(24代目)らが任命され、戦国時代に財政難によって一度は廃絶されるも江戸時代の再建時には公慶が大勧進職を復興して東大寺の再建を果たしている。勧進職の普及とその変質東大寺を再建させたこの制度は他の寺院にも用いられて、有力寺院の再建には勧進職(かんじんしょく)が任命されるのが恒例とされた。特に鎌倉時代に律宗(真言律宗含む)が再興されると、律宗が僧侶の私利私欲を戒めて、利益を得た場合にはその公平な配分を義務付けたこと、更に新しい律宗が従来の教学研究専念を脱却して、布教による職人階層との関係を強めたことで評価を得て、勧進職に律宗僧を任じる傾向が増加していった。だが、時代が進むにつれて朝廷や幕府などが勧進職に対して直接的な寄付を行うだけではなく、所領などを与えて(東大寺の周防国一国など)その収益から再建費用を捻出させるように取り計らったために、勧進職は一種の利権の絡む役職となり、更に律宗の衰微も加わって、勧進職を巡る寺内の抗争や、その収益を私する勧進職が出現するなど問題も生じた。また、熱心に再建に尽くした僧侶の中にも再建のための財源を勧進活動には依存せずに、朝廷や幕府、その他の有力者との政治交渉による再建費用獲得などに力を入れる者もいた。このため、勧進職と勧進聖らとの関係は希薄になることもあった。
2024年09月20日
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東大寺の歴史東大寺と橘奈良麻呂大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。奈良時代 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けたが、唐から帰国した空海が別当となり、寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。朝夕の看経には、『理趣経』が今も読まれている。華厳経的世界の象徴である毘盧遮那仏(大仏)の前で理趣経が読まれるのは、空海が残した痕跡と言ってよい。 また、講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。中世以降東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い参照)。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。伽藍の概要東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。大仏殿前には東大寺創建当時に造立された八角灯籠がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。
2024年09月20日
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大原問答文治2年(1186年)、天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請し、そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。これを「大原問答」と呼んでいる。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号し、法然に師事した。著作南無阿弥陀仏作善集(部分)重源は自らの異名を「南無阿弥陀仏」と号した。建仁3年(1203年)頃に自らの作善をまとめた『南無阿弥陀仏作善集』(東京大学史料編纂所蔵)を記している。内容は、東大寺や各地の別所における伽藍・仏像造営の記録に始まり、阿育王寺への材木輸送や、若き日の山林修行、人々に「安阿弥陀仏」のような阿弥陀仏号を授けたことなどが記されている。今日、一部で戒名に阿弥陀仏をつけるようになったのは重源の普及によるともいわれる。なお、この紙背には、重源が東大寺復興の財源として、朝廷から知行国として賜った備前国の麦収納について記されており、重源の国務掌握をよく物語っている。大仏殿のその後重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて平面規模が縮小されている。遺構現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前面部分)が残っている。建久8年(1197年)、播磨の別所に建造られた浄土寺浄土堂(兵庫県小野市)は現存しており国宝に指定されている。京都市の醍醐寺経蔵は建久6年(1195年)に重源が建立したものであったが、昭和14年(1939年)に周囲の山火事が類焼し焼失した。 大仏様重源が再建した大仏殿などの建築様式はきわめて独特なもので、かつては「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれていたが、インドの建築様式とは全く関係が無く紛らわしいため、現在の建築史では一般に「大仏様」(だいぶつよう)と呼んでいる。当時の中国(南宋)の福建省あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では飛鳥、天平の時代に中国の影響が強く、その後、平安時代に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院。金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。創建と大仏造立8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
2024年09月20日
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生地は備中国賀陽郡宮内村とされるが、他説として同郡上竹村もある。曽祖父は薩摩守・賀陽貞政。『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子で重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや、重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。出自と経歴紀氏の出身で紀季重の子。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易とともに日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西とともに帰国した記録がある。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘いに従って天台山国清寺と育王山阿育王寺に参詣した。舎利信仰の聖地として当時日本にも知られていた阿育王寺には、伽藍修造などの理財管理に長けた妙智従廊という禅僧がおり、重源もその勧進を請け負った。帰国後の重源は舎利殿建立事業の勧進を通して、平氏や後白河法皇と提携関係を持つようになる。重源は舎利殿建立事業に取り組む過程で博多周辺の木材事情に通じるようになった[2]。承安元年(1171年)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、重源は周防国徳地から用材を調達している。東大寺は治承4年(1180年)、平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。 養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。東大寺大勧進職東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国の杣(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥(現在の滑山国有林付近)から道を切開き、川に堰を設けるなどして長さ13丈(39m)・直径5尺3寸(1.6m)もの巨大な木材を奈良まで運び出したという。また、前述の阿育王寺の舎利殿の再建の為に周防の木材の一部を中国にも送っている(当時の中国(宋)の山林は荒廃し、木材は貴重品であった)。更に伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国大部荘にて荘園経営の拠点となる別所(浄土寺)を造営した時及び周防国阿弥陀寺にて湯施行の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば現世では「白癩黒癩(重度の皮膚病)」の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある。こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元年8月28日(1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている。以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の修二会(お水取り)の際、過去帳読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている。重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。運慶の作とする説もあり、鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。浄土寺(播磨別所、重要文化財。天福2年(1234年)東大寺像の模作)、新大仏寺(伊賀別所、重文)、阿弥陀寺(周防別所、重文)にも重源上人坐像が現存する。
2024年09月20日
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2「栄西の出自と出家」(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日))は、 平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。 永治元年(1141年)4月20日、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として誕生。 吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。 岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。 本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。 足利義満造営とされる本殿は独特の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。 当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。 祭神 祭神は次の9柱。 主祭神 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと) 第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと、五十狭芹彦命)」。崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣になったとされる。² 相殿神 御友別命(みともわけのみことのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。 仲彦命(なかつひこのみこと) - 大吉備津彦命の子孫。 千々速比売命(ちちはやひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。 日子刺肩別命(ひこさすかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。 倭迹迹日稚屋媛命(やまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。 彦寤間命(ひこさめまのみこと) - 大吉備津彦命の弟。 若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと) - 大吉備津彦命の弟。 古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で1つの神社を成した(他4社の祭神は後述の「摂末社」項参照)。創建 社伝によれば、祭神の大吉備津彦命は吉備中山の麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られた。 5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが創建とする説もある。また、吉備国に行幸した仁徳天皇が、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を創建したという説もある。概史 朝廷からの篤い崇敬を受け、国史では承和14年(847年)に従四位下の神階を受けた記載が最初で、翌年には従四位上に進んだ。仁寿2年(852年)には神階が品位(ほんい)に変わって四品(しほん)が授けられ、10世紀には一品(いっぽん)まで昇叙された。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では備中国賀夜郡に「吉備津彦神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。中世には武家の崇敬を受け、たびたび社殿の修復や社領の寄進があった。江戸中期には三重塔を破却し神仏分離を行った。明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し、公称を現在の「吉備津神社」に定めた。大正3年(1914年)には官幣中社に昇格した。 現存する本殿・拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)、後光厳天皇の命を受けた室町幕府3代将軍の足利義満が造営を開始し、応永32年(1425年)に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続する。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。 本殿の大きさは、出雲大社本殿、八坂神社本殿に匹敵するもので、随所に仏教建築の影響がみられる。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建ち、平面は桁行正面五間、背面七間、梁間八間で、屋根は檜皮葺とする。
2024年09月20日
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「高僧名僧伝・栄西」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「栄西の出自と出家」・・・・・・・・・・・・・・・・・・43、 「仏教の修学」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・334、 「延暦寺の出家得度」・・・・・・・・・・・・・・・・・・395、 「天台宗を学ぶ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・486、 「大山寺の基好に師事する」・・・・・・・・・・・・・・・597、 「天台を立て直すべく入宋」・・・・・・・・・・・・・・・658、 「天台山・南宋に禅を学び重源と帰国」・・・・・・・・・・739、 「興禅護国論を著す」・・・・・・・・・・・・・・・・・・9810、「帰国後密教と禅宗に再入宋」・・・・・・・・・・・・・・10311、「禅宗を習得して帰国後布教」・・・・・・・・・・・・・・10612、「鎌倉に招請され布教する」・・・・・・・・・・・・・・・11613、「頼家より建仁寺建立の外護」・・・・・・・・・・・・・・11914、「京都に禅宗の拠点」・・・・・・・・・・・・・・・・・・12615、「栄西没後」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13116、「栄西の影響」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13717、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・143 1、「じはじめに」栄西(1141年~1215年)平安末期から鎌倉初期の僧。日本臨済宗の初祖とされる。「栄西えいさい」ともいう。号は明庵。千光国師ともいう。備中吉備津宮神宮賀陽氏の人。14歳で出家、天台と密教を学ぶがとくに大山の基好からは禅宗が請来する頃まで密教をを受法している。1168年(仁安3)4月入宋して天台山・阿育王山などを巡拝重源と出会ってともに帰国、天台座主明雲に請来の典籍を呈す。その約20年間は密教の研鑽と撰述を専らとし、台密葉上流の祖となる。1187年(文治3)再入宋してインドに行こうとして許可されず、天台山へ赴いて臨済宗黄龍派の虚菴懐敞に会う。密教と禅について問答を交わし、天台山から天童山へ移る虚菴に従って臨済宗を受法。1191年(建久2)に帰国して筑前博多聖福寺で禅法を説き、また「出家大綱」を著して戒律、とくに比丘戒の重要性を強調した。筥崎の良弁の訴えもあり、延暦寺からの圧力で1194年朝廷から、達磨宗の大日能忍とともに弘法を停止される。これに対して1198年「興禅護国論」を撰し、自ら意図が最澄の古法の復興にあること、叡山教学に禅の否定であることを述べ、禅宗が時機相応・鎮護国家の教えであると主張した。1199年(正治元)頃鎌倉に降り、源頼朝の忌日法要や密教祈祷の導師を務めるなどして幕府の帰依を受け、寿福寺を建立して鎌倉での地歩を築き、1202年(建仁2)には将軍源頼家の本願で建仁寺の建立に着手、3年で完成して再び京に拠点を得た。その後も幕府の権威を背景とし、重源の後を受けて東大寺の勧請職についたり法勝寺の塔を再建するなどし、京と鎌倉を往来して活躍して、1213年(建保元)権僧正にに任じられた。従来、密教との兼修という栄西の禅は純粋禅の宣揚による軋轢を避けた便宜的なものとされ、建仁寺に真言院・止観院を置いて延暦寺の末寺としたものも同様の配慮であるとみられている。しかし「興禅護国論」の主張や建仁寺建立中に撰した「日本仏法中興願文」を見ると、一貫して戒律の厳守による仏教界の刷新と最澄への復興が述べられており、密教と禅の兼修も便宜的な姿勢でなく、積極的な宗風であったと思われる。また明全を通じて道元にも多大な影響を与えている。1215年(建保3)6月5日鎌倉で母したといわれるが、京で没したともいわれている。
2024年09月20日
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15、「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。編集]鎌倉側の兵力動員に関わる古文書の多くはこの戦争を奥入、奥入り(おくいり)と呼んでおり、奥州追討(おうしゅうついとう)、奥州合戦と記した文書もある。鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』は奥州征伐(おうしゅうせいばつ)とするが、奥州合戦と記す箇所もある。明治以降の歴史学では『吾妻鏡』を踏襲して奥州征伐と呼ばれていた。1978年(昭和53年)に歴史学者の入間田宣夫が、鎌倉幕府の側に立った呼び方を問題視し、当時の様々な呼び方のうち「奥州合戦」がどちらがわにも偏らないとして、「文治五年奥州合戦」という呼び方を提唱した。これにより、20世紀末までにほぼ「奥州合戦」が用語として定着した。背景奥州藤原氏は、初代清衡以来三代100年に渡って陸奥・出羽両国に君臨し、三代秀衡の時代には陸奥守、鎮守府将軍の官職を得て、名実ともに奥州を支配する存在となっていた。平氏討滅後の源頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治⒉年(1186年)4月、頼朝はそれまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。文治4年(1188年)2月、頼朝と対立して逃亡していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることが発覚した(『玉葉』文治4年⒉月8日条、13日条)。秀衡は前年の10月に死去していたが、義経と子息の泰衡、国衡の三人に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束をもって頼朝の攻撃に備えるように遺言したという(『玉葉』文治4年正月9日条)。頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、⒉月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す(『吾妻鏡』4月9日条、10月25日条)。泰衡は遺命に従いこれを拒否し、業を煮やした頼朝は、文治5年(1189年)になると泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上している。これから遡ること数ヶ月前の出来事が『尊卑分脈』の記述されている。それによると、文治4年(1188年)の12月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。真偽は不明だが、親族間の激しい相克があったと考えられている。翌文治5年(1189年)⒉月15日、泰衡は末弟(六弟)の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。⒉月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。⒉月9日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、⒉月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。閏4月に院で泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。義経の死文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。後白河法皇はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝に伝えた。6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟(三弟)・忠衡を誅殺している(『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため、討たれたと考えられている。なお、理由は不明であるが、四弟・高衡は生き残っている。泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は大庭景義の「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。出兵7月17日、頼朝は軍勢を大手軍・東海道軍・北陸道軍の三軍に分けて進攻計画を立てた。畠山重忠を先陣とした頼朝率いる大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤・八田知家が率いる東海道軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へ、比企能員・宇佐美実政が率いる上野国の武士団を中心とした北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へそれぞれ進軍することになった。7月19日、頼朝は梶原景時の進言で越後の囚人・城長茂を加え、大手軍を率いて鎌倉を出発する。25日に宇都宮社で戦勝を祈願し、26日には常陸の佐竹秀義が軍勢に加わった。28日、新渡戸駅に到着すると城長茂の郎従200余人が参集した。かつて敵対した二大雄族である城氏・佐竹氏を従えた頼朝は、29日に下野・陸奥国境の白河関を通過する。初秋の白河関に立った頼朝が、梶原景季に「能因法師の歌を思い出さないか」と問いかけると、景季は「秋風に 草木の露を払わせて 君が越ゆれば 関守も無し」と本歌取して歌を詠んだ。大手軍はさしたる抵抗も受けずに奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見駅に達した。奥州軍の敗北奥州側は、泰衡の異母兄・国衡が阿津賀志山に城壁を築き、前面に二重の堀を設けて阿武隈川の水を引き入れ、二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡自身は後方の多賀城の国府にて全軍の総覧に当たった。7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。又、石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)では伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。後陣の山に登った紀権守、芳賀次郎大夫(紀清両党)らの奇襲もあり、奥州軍は金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死(享年13)して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した和田義盛に討たれた。根無藤の城郭では両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死して勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。頼朝は北上し船迫宿を経て12日に多賀城に到着し、常陸方面から来た東海道軍と合流した。13日、比企・宇佐見の両将に率いられた北陸道軍は田川行文・秋田致文を討ち取って出羽を制圧した。平泉陥落14日、玉造郡または物見岡に泰衡在りとの情報を得た頼朝は玉造郡に発向し、別働隊として小山朝政、朝光らを物見岡に向かわせた。朝政はその日のうちに物見岡を攻略するが、泰衡の姿はなかった。20日、玉造郡に入った頼朝の本隊は多加波々城を囲むが、泰衡はまたも逃亡しており、城に残った敵兵は手を束ねて投降した。頼朝は平泉攻略を前に「僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人といえども無害の様、用意を致すべし」と命じた。21日、栗原・三迫の要害を落として津久毛橋に至ると、梶原景高は「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が首」と歌を詠み、頼朝を喜ばせた。22日に平泉に入ったが、平泉は既に火が放たれて放棄された後だった。奥州藤原氏の滅亡8月26日、頼朝に赦免を求める泰衡の書状が届いたが、頼朝はこれを無視して、9月⒉日には岩手郡厨河(現盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始する。
2024年09月16日
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平泉志の記述明治初期に著された『平泉志』では秀衡の息子たちについて、「五男あり嫡男(ちゃくなん)西木戸太郎國衡二男泉冠者泰衡(一説に伊達次郎といふへし)三男泉三郎忠衡、四男本吉冠者隆衡、五男出羽冠者通衡(一説に仙北五郎利衡といへり。按に五男の事東鑑に見えず平泉實記に挙げたる系國に出羽押領使とあり又大系圖に通衡の弟に錦戸太郎頼衡あるは信ずるに足らず」と記されて、秀衡の息子は5名とされており、頼衡の実在は否定されている。義経記一方、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている、源義経とその主従を中心に書いた軍記物語の『義経記』(現代で言えば、小説的要素が強い)には、義経を保護した秀衡の死の床を囲む息子達が挿画で描かれていること、「義経を大将として、頼朝の襲撃に備えよ」という秀衡の遺言を呼び寄せた6人の息子達に言い聞かせたという場面から、少なくとも『義経記』が成立した時点では、秀衡には6人の息子達がいること、加えて、六男にして末子の頼衡の存在が認識されていたと推察される。通称(別名)について『尊卑分脈』の記述によれば頼衡の通称は「錦戸太郎」であるが、この通称は史料によっては読みが同じである長兄の国衡(通称は西木戸太郎)に冠せられていることも多い。基盤地域について頼衡の5人の兄達は、通称(別名)から基盤地域を持っていたこと、或いは地域に何らかの関わりがあったのではないかという推測が可能であるが、頼衡に関する記録や伝承の中からはそれらを読み取ることができない。 通称の読みが同じである長兄・国衡との関連や、後述の伝承から文治5年(1189年)時点で16歳前後だったとすると、まだ、基盤となる地域を所有していなかったとも考えられるが、史料が無く、どの推測も確証に欠ける。出羽国置賜郡米沢の錦戸薬師堂の由来に頼衡が輿に奉安し、鳥越を越えて守本尊の薬師像を当地に運んだ伝承が残る。なお頼衡の長兄・国衡(西木戸太郎国衡)が阿津賀志山の戦いで鳥取越を奪われて源頼朝の軍に敗れ、僧に守本尊の薬師像を託して僧が当地に庵を結んだという話もある。国衡当人は大関山を越えて出羽に逃れる途中で和田義盛と戦い、討たれたという。 これらの話から、国衡と頼衡は同一人物で頼衡の伝は国衡のものから派生したとも思える。また、次兄の泰衡も秋田で討たれ、その遺体を埋葬した場所に錦神社が建ち、夫人が亡くなった場所に西木戸神社が建つという。岩手県紫波町の小屋敷地内の稲荷街道の道端には錦戸太郎頼衡の墓と伝えられている自然石の角柱がある。その頂部は斜に切断されているが、これについて次のような伝承が伝わっている。頼衡は父秀衡の死後、義経に通じたことから次兄の泰衡との間に不和が生じた。身の危険を感じた頼衡は密かに平泉を脱出して北方に逃走したが、現在の紫波町と雫石町の境にある東根山の山麓で追っ手に捕らえられて殺害されてしまったという。この時頼衡は16歳前後だったとされる。これを憐れんだ里人たちが現地に遺骸を葬って懇ろに供養し、その上に自然石を立てて墓印としたのが、今に伝えられる頼衡の墓であるという。ところが、これを聞いた平泉の泰衡は、烈火のように怒って直ちに墓石を取りはらうように命じた。里人たちは、止む無くそれを取り覗いて近くのやぶへ捨ててしまった。それから間もないある晩のこと、当時奥羽きっての強力者として有名であった由利八郎がこの地に通りかかったが、かの墓石を捨てたあたりまでくると、草むらの中か妖しげな光り物がポーと浮かんできた。八郎は「狐狸のしわざに相違ない」と思いながら、腰の大刀を抜いて激しくこれを斬りつけた。その途端「カチン」という音がしたと思うと、光り物はゆらゆらと揺れながら飛び出してきた。八郎はその後を追いかけたが錦戸太郎の墓までくると消えてなくなった。気がつくと八郎の体は汗で満たされていた。そして急に疲れが襲って来た。翌朝、この話を聞いて里人たちが墓のところに来てみると、取り除いたはずの墓石がもとの通りに立っていたのである。そして、よく見ると頂部が斜に切断されていた。里人たちは「八郎の怪力にたよって墓石をもどしてもらったのだろう」と噂したという。別の伝承として、『応仁武鑑』の「浪岡記」によれば、青森県青森市浪岡町(津軽の外ケ浜)には、頼衡が次兄の泰衡と対立した後この地に逃れ、浪岡右京大夫と名乗ってこの地を支配、浪岡氏(行岡氏)の祖となったというものがある。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、その浪岡氏に浪岡秀種(行岡右兵衛大夫秀種)という人物がおり、伝承では秀種は頼衡の曾孫とされる。秀種は北畠顕家に仕え、秀種の娘である頼子(萩の局)は顕家の妻となり、北畠顕成、女子(安東貞季妻)、北畠師顕らの母になったという。顕家の死後、顕成は外祖父右兵衛大夫を頼り、のちに所領を譲られたことが浪岡北畠氏の始まりとする説もある。この伝承を信用するならば、頼衡は妻帯者で子供が1人いたことになる。 14、「藤原 高衡」(ふじわら の たかひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の四男。次兄・泰衡が討った源義経の首を鎌倉に持参したとされる。後に奥州合戦に参戦。その結果、秀衡の6人の息子かつ参戦した3人の秀衡の息子(国衡、泰衡、高衡)の中で唯一、奥州合戦後も生き残るが、自身の庇護者の様な存在であった梶原景時が梶原景時の変で討ち取られると、建仁の乱の首謀者の1人となり、幕府転覆を狙う。乱での敗北が決定的となると一味からの離脱を図り、父と親交があった藤原範季の邸宅に逃げ込むが、同じ乱の首謀者である城長茂の郎党が唐橋(信濃)小路にある範季邸に押しかけて高衡は連れ出された。最期は幕府軍に討ち取られ、敗死した。本吉荘の荘司父秀衡存命時においては、陸奥国桃生郡の本吉荘の荘司を務めていたとされる。この本吉荘は奥州藤原氏に限って言えば、高衡の祖父で奥州藤原氏⒉代当主・基衡との関わりでよく知られる。当時本吉荘は藤原摂関家領だったが「悪左府」と呼ばれた左大臣藤原頼長が、本吉荘を含む東北にあった自分の5つの荘園の年貢の大幅な増徴を命じた。これに対して基衡は5年以上に亘って頑として首を縦に振らず、結局頼長が当初の要求よりも上げ幅を大幅に小さくしたことでようやく両者の交渉が妥結し、頼長を悔しがらせている。頼長が保元の乱で敗死した後、本吉荘は当時の後白河上皇の後院領となったため、高衡は院ともつながりを持っていた可能性がある。当時、この本吉荘は金が多く産出され、奥州藤原氏の外交の一翼を担っていた。それだけではなく、気仙・磐井郡の海上の権益を制することによって、陸奥北部の海岸地域を支配下に置くという重要な側面があった。また、高衡以外の子息の名乗りは平泉内の宅の地名に由来している。高衡だけが同じ平泉内に宅を構えながらも、その名乗りは遥か遠い本吉荘からとられている。これだけでも秀衡の6人の息子の中で高衡が特別な立場にあったことを示すものであろう。奥州合戦以前の事跡秀衡死後4代目となった次兄の泰衡は文治5年(1189年)閏4月30日に源義経を討ち、それに前後して、高衡を除く弟達(忠衡、通衡、頼衡)を殺害している。6月13日、高衡が義経の首を鎌倉に持参し、和田義盛と梶原景時が実検した(吾妻鏡)。なお、高衡が泰衡に殺害されなかった理由は上記のように、高衡が荘司を務めていた本吉荘が外交上、重要な拠点であったことや高衡自身が泰衡に同調して泰衡派となり、忠衡といった義経派と対立していたということが推測できるが、それらを傍証する史料が皆無である為、不明としか言いようがない。奥州合戦と降伏その後、奥州藤原氏と源頼朝の間で奥州合戦が勃発。長兄の国衡は8月8日の阿津賀志山の戦いに参戦し3日間に渡り善戦するも敗北、8月10日に戦死した。泰衡は国衡敗北・戦死の知らせを受けて逃亡するが9月3日に数代の郎党である河田次郎の裏切りに遭い滅亡する。高衡は9月18日に下河辺行平を通じて降伏し捕虜となった。そのため、秀衡の6人の息子かつ奥州合戦に参戦した3人の秀衡の息子(国衡、泰衡、高衡)の中では奥州合戦を唯一生き延びた人物となり、鎌倉に護送された後、相模国に配流されたが、後に赦免され、梶原景時の取り成しで暫くは鎌倉幕府の客将のような存在であったと言われる。なお、相模国は梶原氏の所領であり、その関係で景時が高衡を取り成したとも考えられるがはっきりしない。そして、水田が少なく、関東武士団には統治が難しい気仙郡(宮城県北部、岩手県南部沿岸、現在の陸前高田市)を任されている。また、高衡の領地「本吉郡」には、源頼朝の死後、北条時政らに追われた、景時、梶原景季ら、梶原一門が「梶原神社」を中心に匿われている。
2024年09月16日
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なかでも鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認され、この痕跡と首には眉間と後頭にある直径約1.5㎝の小孔が18㎝の長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24㎝)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の「泰衡の首級は眉間に鉄釘を打ち付けられた」という記述と一致したため、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している。このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる訳がないという長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。子孫に関する伝承『岩手県姓氏歴史人物大辞典』には、「奥州藤原氏系の中野氏は、祖先は藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が北海道に居住」と書かれている。つまり姓氏に関する限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れた事になる。忠衡生存伝説があり、義経主従と共に文治4年春、平泉を出立した一行の中に忠衡と3人の息子が含まれていたという。寛永4(1627)年、三戸南部氏の利直(南部利直)遠野郷に八戸南部氏を移封したとき、(以後、遠野南部氏と呼ぶ)遠野南部氏の家臣に武藤氏という者姓のいたそうといい、武藤家に伝わる言い伝えが『遠野風土草』に記載されており、それによると、この武藤家の先祖は奥州平泉の藤原秀衡の三男忠衡の息子(三男)・助衡としている。助衡はその後、関東に出て武蔵野国に居を構え、源実頼に仕え、姓を武蔵に住む藤原氏ゆえに「武藤」と称したと伝えられている。その子孫は甲斐源氏武田氏に仕えたこともあったようだが、同じ源氏の甲斐南部氏が八戸根城を本拠とし下向し、八戸南部氏を称するや、その家臣新田氏に仕え一緒に下向したという。他にも忠衡生存伝説があり、やはり3人の息子が一緒だったことは共通している。ただ三男(名前は不明)は、北行の途中、下閉伊郡川井村の落人の里に江撃という集落があり、そこに四十七代の家系を誇る「泉沢家」という旧家があり、ここに幼い三男を残し“上館”に住まわせたと伝えられており、近年までそれを示す家伝書が遺っていたそうである(現在は不明)。この説では、二男、長男も登場して、二男は下閉伊郡野田村に置いて「泉田」を称したが、のちに母方の姓を名乗って「中野」を称している。この野田村に残った二男の中野家には「義経直筆の般若経」や「弁慶直筆の書」などと共に「先祖之由来」と題した古文書まで遺されているという。この古文書には、古い形式の漢文で、それには、「我が大祖は・・略・・泉三郎忠衡也。・・略・・義経主従和泉三郎等御共奉る」などと記されている事柄が判読出来るという。長男は久慈市の吉田城に配して「吉田権之助泰行」と称させたと伝わっている。3人の子供をそれぞれの地に配した忠衡は、心置きなく義経主従と共に北に向かう旅路に就いたと伝承されている。また、臼杵藩帰参家の佐藤氏系図によれば、忠衡の妾が、熱田神宮に潜入して生まれた敏衡という男子が匿われて育ち、加藤氏の祖になったとあり、忠衡―敏衡―親敏―忠之―親衡―正之―正房と上記の家系が続いたという。その他宮城県塩竈市の鹽竈神社に、忠衡が寄進したとされる燈籠が現存している。「文治の燈籠」と呼ばれている鉄製の燈籠がそれである。松尾芭蕉が「奥の細道」に書き残したところによると、扉に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とあったそうである。忠衡がこの鹽竈神社のある地域と関連を持っていた可能性も考えられる。塩竈市は、古くは陸奥国府があった多賀城への荷揚げ港として栄えている。もし忠衡がこの地域と深い関わりを有していたのだとすれば、対国府の折衝などを担っていた可能性もある。 「藤原 通衡」(ふじわら の みちひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の五男。六弟・頼衡と同様に、四人の兄達(国衡、泰衡、忠衡、高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。四人の兄達とは異なり、『吾妻鏡』には六弟にして末弟である頼衡と共に名前が見えず、また、『玉葉』、『愚管抄』、『明月記』、『六代勝事記』にも通衡に関する記述は無く、史料に乏しいため、詳細は不明。わずかに通衡の名が見える『尊卑分脈』には、三兄・忠衡の同母弟で、忠衡が父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため、次兄・泰衡に襲撃を受けた。 その際、通衡も共に討たれたとしている。没年齢については正確には不明だが、三兄・忠衡が23歳で死亡したことを考えると、それより下の年齢であったと推測できる。また、末弟・頼衡に関する伝承の一つに16歳前後で没したというものがあり、これを信用するならば、通衡の享年は16歳以上23歳以下と考えられる。このような状況から、通衡も忠衡同様、義経保護を主張していたと考えることもできる。平泉志の記述明治初期に著された『平泉志』には一説に「仙北五郎利衡」という名が見られることが指摘され、この人物は通衡と同一人物という推測がある。出羽押領使『尊卑分脈』や天御中主尊に始まる『藤原氏系図』(個人蔵・江戸初期 京都本)の通衡の欄には、通衡が出羽押領使であったとの記載があるが、国衡が鹿角という一地域を抑えていたと思われることや『吾妻鏡』には泰衡が陸奥と出羽の押領使を継いだとあることから、通衡が出羽全域を抑えていたとは考えにくく、事実かどうかは疑問である。ただ、出羽冠者や出羽五郎、あるいは仙北五郎という別名から(仙北は秋田県南地域を指す)、出羽方面に何らかの関わりを持った人物であることは推測できる。通称(別名)について秀衡の6人の息子の通称については史料によって差異があり、詳細はよく分からないところがある。『尊卑分脈』では五男の通衡に「泉三郎」が冠せられて三男の忠衡は「泉冠者」となっているが、泰衡に「泉冠者」を冠している史料もある。六男の頼衡の「錦戸太郎」は読みが同じである長男の国衡に冠せられている史料も多い。そもそもなぜ六男であるはずの頼衡が太郎と呼ばれているのかも不明である。 14、「藤原 頼衡」(ふじわら の よりひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の六男。秀衡の6人の息子の中では末男にあたる。五兄・通衡と同様に、四人の兄達(国衡、泰衡、忠衡、高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。代わりに伝承が多く、一部では非実在説が唱えられている(後述)。『吾妻鏡』には五兄の通衡と共に名前が見えず、また、『玉葉』、『愚管抄』、『明月記』、『六代勝事記』にも頼衡に関する記述は無く、史料に乏しいため、詳細は不明。わずかに頼衡の名が見える『尊卑分脈』には、文治5年(1189年)⒉月15日に次兄の泰衡によって殺害されたと記されている。この4ヶ月後に三兄の忠衡と五兄の通衡も父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため討たれているが、それと同じ理由かは不明。一般的には後述の伝承の影響もあり、父の遺言と源義経を支持してそれと通じ、泰衡によって誅されたと信じられている。これが事実ならば、忠衡と通衡が誅された理由と同じになる。没年齢については正確には不明だが、三兄・忠衡が23歳で死亡したことを考えると、五兄の通衡と同様にそれより下の年齢であったと推測できる。また、後述の伝承により、死去時の年齢は16歳前後ともされる。頼衡の実在性について前述の通り、頼衡に関する史料には実在性を疑問視する記述も存在し、実在説と非実在説がある。
2024年09月16日
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また、清綱の娘である(乙和子姫?)は佐藤基治の後妻となり、源義経の家臣となる佐藤継信・忠信兄弟を産んでいる。 「藤原 正衡」(ふじわら の まさひら)は、平安時代後期の武将。奥州藤原氏初代当主藤原清衡の三男。第⒉代当主藤原基衡の弟で藤原清綱の兄。「大義山正平寺縁起並大義来由」や「正平禅寺古記録」などの後世の記録物によれば、後三年の役で清原家衡に味方して金沢柵の陥落後処刑されて敗死した清原頼遠(大鳥山太郎清原頼遠)の勢力圏を受け継いで、出羽横手を本拠に「小館三郎正衡」と名乗り、山北「三郡の太守」になったという言い伝えがある。 11、「藤原 国衡」(ふじわら の くにひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡の長男。母は側室で信夫佐藤氏の娘とも蝦夷の娘であったとも言われる。父の正室(義母)を娶り、泰衡とは義理の父子関係となる。しかし、庶子という身分からか、一族内での発言権には乏しかったようで、高衡を除いた四人の弟をはじめとする一族の相克を傍観するしかなかった。奥州合戦では阿津賀志山の戦いに総大将として参戦するも、戦死した。父太郎、他腹の嫡男(他腹之嫡男) 秀衡の長男であったが、庶子であったために後継者からは除外される。正室の子である異母弟の泰衡が「母太郎」「当腹の太郎」と呼ばれたのに対し、国衡は「父太郎」「他腹の嫡男」と呼ばれた。『愚管抄』に「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えけるに」とあり、庶子とはいえその存在感は大きく、一族の間では京下りの公家の娘から生まれた泰衡よりも、身近な一族の娘から生まれた長男で武勇優れた国衡への期待が高かったとも考えられる。父方、母方双方から東北の血を受け継いでいた国衡は父方の東北の血と母方の京の血が織り交ざった貴公子とも呼ぶべき存在であった異母弟・泰衡とは対照的な人物であった。父の死と遺言、義母との結婚秀衡は家督相続に当たって兄弟間の融和を図るため、自分の正室を国衡に娶らせた。国衡にとっては義母であるが、後家は強い立場を持ち、兄弟の後見役である藤原基成が岳父となり、後継者から外された国衡の立場を強化するものであった。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。この異母兄弟の関係性に付け込んで鎌倉の頼朝が庶子・国衡と接触して味方に引き込み、一族を分裂させるという危険性もあった。この奥州藤原氏に限らず、後継者になれなかった者に敵対者が接触して分裂を煽り、一族の弱体化を図るというのはよくある謀略であった。また、初代・清衡、2代・基衡も兄弟と争った経緯があった。秀衡がこの異腹兄弟同士の関係に苦慮していたことが窺える。このような処置を施さざるを得ないまでに兄弟間の関係は険悪であった。秀衡は自分亡き後、源義経を主君として推戴し、兄弟異心無きよう泰衡・国衡・義経に起請文を書かせ、三人一味となって源頼朝の攻撃に備えるよう遺言し、文治3年(1187年)10月29日没した。弟達の相克と国衡しかしその後、文治4年(1188年)⒉月と10月に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、泰衡がこの年の12月に自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。真偽は不明だが、親族間の激しい相克があったと考えられている。翌文治5年(1189年)⒉月15日、泰衡は末弟(六弟)の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。そして、閏4月30日に頼朝の圧力に屈して義経を襲撃し自害に追い込み、更に義経派であった異母弟(三弟)・忠衡も殺害した(『尊卑分脈』では五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に討っている)。忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため、討たれたと考えられている。なお、理由は不明であるが、四弟・高衡は生き残っている。国衡は妾腹の生まれという負い目からか、この弟達の不和反目とその一部始終を傍観するしかなかった。奥州合戦と最期文治5年(1189年)8月、奥州合戦で大将軍となった国衡は、伊達郡阿津賀志山(現・厚樫山)で防戦(阿津賀志山の戦い)。寡兵ながら三日間にわたって激戦を繰り広げ善戦するも敗れ、出羽国へ逃れようとしたが、幕府御家人の和田義盛の矢で射られて深田に倒れ、畠山重忠の家臣・大串次郎に討ち取られた。没年齢は正確には不明だが、すぐ下の弟(異母弟)である泰衡の享年が25歳もしくは35歳とされているため、それ以上の年齢に達していたとされる。また、泰衡の首のミイラの状態から、20歳代-30歳代、23歳から30歳以上もしくは25歳以上と見積もることもできる。高楯黒『吾妻鏡』の記述によると、国衡の乗っていた馬は奥州第一の駿馬で高楯黒と号され、大肥満の国衡が毎日必ず三度平泉の高山に駆け上っても、汗もかかない馬であったという。出羽国置賜郡米沢の錦戸薬師堂の由来に六弟(末弟)の頼衡が輿に奉安し、鳥越を越えて守本尊の薬師像を当地に運んだ伝承が残っている。なお、国衡が阿津賀志山の戦いで鳥取越を奪われて源頼朝の軍に敗れ、僧に守本尊の薬師像を託して僧が当地に庵を結んだという話もある。これらの伝承から、国衡と頼衡は同一人物で頼衡の伝は国衡のものから派生したとも思える。また、泰衡も秋田で討たれ、その首の無い遺体を埋葬した場所に錦神社が建ち、それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻・北の方が夫の死を知って自害し亡くなった場所に夫人を憐れんだ里人が建立した西木戸神社が建つと 12、「藤原 忠衡」(ふじわら の ただひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の三男。第4代当主藤原泰衡の異母弟ですぐ下の弟。秀衡の館柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていた。父の遺言である義経保護を強く主張し、その扱いを巡り泰衡と対立、誅殺された。父の死と遺言文治3年(1187年)10月29日、父・秀衡は平泉に庇護していた源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして鎌倉の源頼朝に対抗するよう遺言して没した。義経の死と忠衡の誅殺忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、兄の泰衡は頼朝の圧力に屈して、義経とその妻子・主従を殺害。文治5年(1189年)6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)と考えられ、忠衡は義経に同意したとして、意見が対立した泰衡によって誅殺された(『吾妻鏡』文治5年6月26日条)。享年23。更に『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に討たれている。「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと見られる。死後妻の藤の江(信夫荘司・佐藤基治娘)は、忠衡の菩提を弔うため、薬師如来像を奉納して出家し、妙幸比丘尼と称した。「忠衡の首」という誤認なお、中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は寺伝では忠衡のものとされ、首桶が入っていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。しかし、昭和25年(1950年)の実見調査で確認された晒首痕跡から、16箇所もの切創や刺創が認められた。
2024年09月16日
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『玉葉』文治4年(1188年)1月9日条には秀衡の次男であるにも関わらず、「太郎」と記述されている。柳之御所遺跡で出土した人々給絹日記には、「小次郎」と記されている。日記の内容は武家の正装であり、平泉館で大事な儀式があったとき着なければならない赤根染を基調とした絹の狩が誰に支給されたかが記されている。泰衡の欄には「赤根染白」、「カサネタリ」、「カリキヌハカマ」と記されている。泰衡の異母兄・国衡の別名である信寿太郎殿の名も記されている。父秀衡は死去する直前、異母兄弟である国衡と泰衡の融和を図る目的で、自分の正室・藤原基成の娘(泰衡の実母)を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪で秀衡が苦慮していたことが窺える。『平泉志』には『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』とあり、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが系図に娘が記されていない、となる。『吾妻鏡』文治5年11月8日条に泰衡幼息の行方を追っている記述があるが、その後の消息は不明。頼朝の子(のちの頼家)と同名のため、改名するよう命が出されている。^ 『吾妻鏡』吉川家本では享年25、北条本では享年35とされているが、6歳で長男・時衡が生まれたとは考えられないので、享年35説のほうが有力と考えられる。但し、後述する1950年の開棺結果から、享年25説は完全に否定できない。泰衡を題材とした作品 「清原 家衡」(きよはら の いえひら、生年未詳 - 寛治元年11月14日(1087年12月11日))は、平安時代後期の奥州出羽清原氏の武将。父は清原武貞、母は安倍頼時の娘(有加一乃末陪)。清原真衡の異母弟、藤原清衡と刈田経元、経光の異父弟。生涯清原氏の内紛である後三年の役において、はじめは異父兄の清衡と結んで清原氏の惣領である兄の真衡と争い、真衡の死後は清衡と争う。家衡の父武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻・有加一乃末陪を自らの妻とした。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた清衡がいた。清衡は武貞の養子となり、さらにその後、武貞とその女性の間に清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。この事実から前九年の役が終結した1062年(康平5年)以降に家衡は生まれたと推測できる。家衡は、清原氏の当主である真衡が惣領権を強化して、一族の家人化を進めたことに反発を抱いており、1083年(永保3年)、真衡が一族の吉彦秀武討伐のために出羽国に出陣した際に、秀武の誘いにより真衡の背後を突くために清衡とともに挙兵した。だがそれを知った真衡が軍を返して家衡・清衡を討とうとしたため、いったん本拠に退いている。同年秋、新たな陸奥守として源義家が下ってくると、真衡は再び秀武討伐に出羽へ出陣した。家衡と清衡はその隙に真衡の館を襲撃したが、真衡の妻子が応戦し、さらに義家も救援に駆けつけたため、家衡・清衡は大敗を喫して義家に降伏した。だが真衡が出羽への行軍途中に病で急死したため、家衡は許されて、義家の裁定で真衡の旧領である奥六郡を清衡とともに三郡ずつ分割継承することになった。 しかし家衡はこの裁定に不満で、清衡との対立を深めてしまい、1086年(応徳3年)にはついに清衡の館を襲撃して清衡の妻子を殺害した。清衡は義家に救援を仰ぎ、自らの裁定に逆らった家衡の行為に怒った義家は清衡に味方して家衡を攻撃したが、沼柵(秋田県横手市雄物川町)に立てこもった家衡は、攻め寄せた清衡・義家を打ち破った。これを聞いて一族の誉れとした叔父清原武衡は家衡に味方し、家衡は武衡の誘いで、より強固な金沢柵(秋田県横手市)に移った。1087年(寛治元年)、金沢柵に攻め寄せた清衡・義家はこれを攻めあぐんだが、清衡に味方した吉彦秀武の献策による兵糧攻めで柵は陥落した。 家衡は所有していた名馬・花柑子を射殺したのち、下人に変装し逃亡を図り、近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられて斬られた。これにより奥羽に覇をとなえた清原氏は滅亡した。前九年の役終結後に生まれたことを考えると、享年は26以下と見積れる]。 10、「藤原 惟常」(ふじわら の これつね)は、平安時代後期の豪族である奥州藤原氏の一族。父は初代当主・藤原清衡。母は清原氏の娘とされている。初名は家清と推測されており、別名の小館 惟常(こだち これつね)の名で知られている。父の死後、奥州藤原氏の当主の座を巡って異母弟である藤原基衡と争い、敗死した。当時、家の長子は親元を離れて独立した屋敷を構えるという慣習があり、またその屋敷は「小館」と呼ばれ、その屋敷の主も跡継ぎを意味する「小館」の尊称で呼ばれていた。惟常もこの慣習に倣い、「小館(小舘)」と称され独自の屋敷を構える立場にあった。対して異母弟の基衡は「御曹司」と称され、清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉は跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に平泉に身を寄せた源義経が「御曹司」と称されたのも後者の意味合いによるものである。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。異母弟・基衡との争乱と最期源師時の日記『長秋記』には、清衡死後の大治4年(1129年)の出来事として、惟常と基衡との争乱が記録されている。それによると、基衡は惟常の「国館」を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を惟常父子らを斬首したという。大治5年(1130年)6月8日のことである。この争乱の詳細は『長秋記』が記すのみで、平泉側(奥州藤原氏側)からの記録は発見されていない。またこの内乱の背景には単なる兄弟間の家督争いだけでなく、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安倍氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団、この二つの勢力の小競り合いがあったということが第一に考えられている。 「藤原 清綱」(ふじわら の きよつな)は、平安時代後期の武将。奥州藤原氏初代当主藤原清衡の四男。第⒉代当主藤原基衡の弟。『尊卑分脈』には「或本経清子清衡弟云々」とある。通称は亘理権十郎。樋爪氏(比爪氏、火爪氏、日詰氏)の祖。当初は祖父の藤原経清と同じく亘理郡を拠点とし、中嶋舘に居城して亘理権十郎を名乗り、その後平泉へ移った。子の俊衡の代には紫波郡日詰の樋爪館(比爪館)に居を構えて樋爪氏を名乗っている。「ひづめ」の語源は、当時この一帯が北上川の船場として栄えており、アイヌ語のピッツ・ムイ(河原の港)が転訛したものとされる。同氏の支配地域は現在の紫波町から矢巾町、盛岡市厨川に達し、平泉の北に本拠を構え、奥州藤原氏一族の中でも要所を成したが、清綱の子孫は源頼朝の奥州攻めに屈して降伏した。『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189年)9月15日、樋爪俊衡と息子の太田師衡・兼衡、河北忠衡、樋爪季衡と息子の新田経衡が降伏したとある。頼朝は俊衡の所領を安堵したが、他の者は関東各地に流罪とした。
2024年09月16日
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8月21日、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は灰となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝や舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らない事です。父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。これは勲功と言うべきではないでしょうか。しかるに今、罪も無くたちまち征伐されるのは何故でしょうか。その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥と出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」最期頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、⒐月⒊日に次郎に裏切られて殺害された。享年35。6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬罪した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて近親者の手により、黒漆塗りの首桶に入れられ、父秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。子泰衡の子としては時衡、秀安、泰高(康高、万寿、万寿丸)の3人がいたとされる。時衡は「岩手県史」の記述によれば、父泰衡と共に討たれており、妻子の存在は確認できない。秀安の子孫に関しては、「岩手県史」に載せられている「阿部藤原氏系譜」によれば、長男・秀宗は承久3年(1221年)に子が無く没した(享年22)。次男・良衡(1204年 - ?)は安倍頼久の娘・佐和子を正室とし、信衡(1240年 - ?、通称・藤原左司馬)を儲けた。信衡は安倍安助の娘を娶り、頼衡(1278年 - ?、通称・藤原久馬)が生まれた。頼衡は安倍安兵衛の娘・市子を正室とし、孝衡(生没年不詳)を儲けた。この孝衡の代から安倍氏(阿部氏)を称するようになったという。孝衡の子には朝衡(1335年 - ?、通称・安倍五郎)があり、その子で孝衡の孫に秀政(1358年 - ?、通称・安倍権六郎)がいたという。以下、孝晴、孝明と子孫は近世に続いたという。つまり、「阿部藤原氏」の系譜は以下のようになる。ただし、「岩手県史」以外にこの系譜に関する記録物は発見されていない。泰衡-秀安-良衡-信衡-頼衡-孝衡-朝衡-秀政(延文年間)-孝晴-孝明泰高(康高、万寿、万寿丸)の事績に関しては、庄内の郷土史を研究している土岐田正勝氏の「最上川河口史」によると、泰衡の子万寿は、酒田に逃れてきた当時10歳に満たなかったそうで、元服するまで徳尼公(泰衡の生母)の元にいた。そして、「その後泰高と名乗り、家来数人とともに津軽の外ケ濱に行き、『牧畑』を開拓した。やがて泰高は京都に出て、平泉藤原家再興を企図したがならず、紀州日高郡高家庄の熊野新宮領に定住した。その子孫が南北朝の天授3年(1377年)瀬戸内海の因島に移り住み、『巻幡(まきはた)』姓を名乗っている」という伝承が残っている。泰衡の首金色堂に納められた泰衡の首については、長年弟・忠衡のものと考えられ、首桶が入れられていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。(昭和25年)の開棺調査にて、死因については斬首されたということで間違いはないのだが、その首には16箇所もの切創や刺創が認められた。なかでも眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の記述と一致することから、忠衡のものではなく泰衡のものであると確認された。他にも右側頭部に刀傷と見られる深い傷があり、頭や顔に多数の切創や刺創があった。これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の⒉回で切断され、釘打ちの刑に処された上で晒し首にされたと推定されている。また、鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認された。保存状態は良く、顔は丸顔、豊頬で若々しく、父に似て鼻筋が通り頑丈な顔立ちであったという。血液型はB型。歯の状態は綺麗で、レントゲン検査から第三大臼歯(親知らず)の歯根が形成途中((智歯)の遠心根の尖端が石灰化未完成)。通常、歯冠が完成するのは12歳 – 16歳、萌出は17 – 21歳、歯根は18歳 – 25歳で完成するという)であることが判明し、没年齢は推定20 – 30歳代、もしくは25歳と判断されている。また、23 – 30歳、切歯の摩耗度合いから見ると30歳程度(前後)ともされた。一方、頭蓋骨は20代半ばと30代半ば両方の特徴を有するという見解も出されている。この判定から、『吾妻鏡』吉川家本に記されている25歳没説と北条本に記されている35歳没説の両方が無視できないことになり、確定はできていない。しかし、忠衡が23歳で没したとの『吾妻鏡』の記録から察するに、それ以上の年齢に達していたことは間違いないとされる。首には縫合した跡が見られ、近親者と考えられる人物により手厚く葬られていた。このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した弟・忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる訳がないという長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡兄弟との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。また、泰衡の高祖父にあたる藤原経清の首であるとの伝承もあった。中尊寺ハスなお、開棺調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 – 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽を成功させた。泰衡没から811年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、ハスの花は中尊寺の讃衡蔵に保存された。中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し境内の池に栽培している。その他泰衡は、『伊達次郎』と称していたということから、福島県北部の伊達地域との関わりも考えられる。伊達郡に隣接する信夫郡は奥州藤原氏と関連の深い佐藤氏が支配していた。佐藤氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、秀衡の頃の当主基治は秀衡のいとこの乙和子姫を妻にしていたとされ、また乙和子姫の娘は泰衡の弟・忠衡に嫁いだという。そのような奥州藤原氏と強固な関係を持った佐藤氏の支配地に隣接する伊達地域は、文治5年(1189年)の奥州合戦の折に泰衡が長大な防塁を築いた地域でもある。泰衡がこの地域を直接統治していたという証拠はないが、奥州藤原氏の影響力の強い地域だったことは窺える。また、文治5年9月3日に泰衡が秋田で討たれ、首の無い遺体はその死を憐れんだ贄柵周辺の住民たちによって錦の直垂に大切に包まれて埋葬され、「錦様」と呼ばれ、その場所に里の民によって埋葬されたとされ、その埋葬地とされる場所には、泰衡の墓石を御神体として祀る錦神社が建っている。それから泰衡の後を追ってきた泰衡の妻・北の方が夫の死を知って嘆き悲しんだ末に同年9月7日に自害し亡くなった場所に夫人を憐れんだ里人が建立した西木戸神社が建つという(夫人のために五輪の塔を祀ったといわれている)。
2024年09月16日
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毛越寺と観自在王院久安6年(1150年)から久寿⒊年(1156年)にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。金堂円隆寺と広大な浄土庭園を中心に伽藍が次々に建立されていった。また、基衡の妻は観自在王院を建立している毛越寺を建立するときの豪奢な贈物は都人の耳目を聳動させ、その様子は『吾妻鏡』で「霊場の荘厳はわが朝無双」と称された。毛越寺本尊造立に絡んで、当時の奥州藤原氏の財力が窺い知れる次のような逸話が残されている。当時の毛越寺の本尊は、基衡の依頼により都の仏師雲慶により作られたが、その謝礼として百両もの金をはじめとした絹や奥州産の馬、蝦夷ヶ島(北海道)産のアザラシの毛皮など大量の品物を基衡は送った。ある時、別禄として生美絹(すずしのきぬ)を船三隻に積んで送ったところ、雲慶は大変喜び「練絹なら尚よかった」と冗談まじりに言ったところ、その話を聞いた基衡は大変後悔し、新たに練絹を船三隻に積んで送ったという。死去保元⒉年(1157年)⒊月19日頃に死去、『吾妻鏡』ではその死について「夭亡」と記している。家督は嫡男である秀衡が継承しているが、その際には基衡が家督を継いだ際の様な内乱は記録されていない。生母について父清衡の正室に北方平氏の名がよく見える。しかし、この女性が清衡の正室に迎えられた時、20歳代だったと思われるため、基衡の生母は安倍氏の娘、もしくは信夫佐藤氏の娘ではないかとも考えられている。なお、清衡の元妻が清衡の死後に上洛して都の検非違使・源義成と再婚し、所々へ追従し、珍宝を捧げて清衡の二子合戦を上奏して都人の不興を買っている。この女性が当時30歳代の北方平氏とされ、基衡と反目し、後継者争いに関わって平泉を追われたのではないかと推測されている。金色堂に眠る基衡基衡の遺骸はミイラとなって父清衡、子秀衡と共に現在も中尊寺金色堂内に納められている。新たに仏壇を増築して納められたと考えられている。1950年(昭和25年)の遺体学術調査について1994年7月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、基衡は血液型Å型、身長は三代中もっとも高く167㎝。太く短い首、福々しい顔。よく発達した胴、胸幅は厚く広い、いかり肩で腰から下は比較的小さい。肥満体質で歯にカリエス、歯槽膿漏。右側上下肢に軽度の骨萎縮が見られ、右半身不随あり、脳圧の上昇が確認され、「憶測が許されるならば」との添え書きの上で、脳出血、脳栓塞、脳腫瘍などで急死したとみられると報告されている。三代中もっとも恵まれた体躯(たいく)の持ち主だった。遺体は金箔が施され、錦で内貼りされた木棺の中に念珠や刀などの副葬品と共に納められ、両足の先以外はほぼ完全にミイラ化していた。 死亡年齢は50歳代、50歳代 – 60歳代、あるいは54歳 – 55歳、55歳 – 60歳、60歳前後と見られている。】 毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽法皇が京都の外へ持ち出すことを禁じてしまう。これを聞いた基衡は七日七晩持仏堂にとじ籠って祈り、関白藤原忠通に取り成してもらい法皇の許しを得て、ようやく安置することができたという。天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。この平泉文化は現代でも大阪商工会議所会頭による東北熊襲発言に際して、国会で東北地方の文化の象徴として引き合いにだされている[6]。平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山は北から、八針(岩手県気仙郡)、今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)だったといわれ、平泉から東方に位置する三陸海岸沿岸に並んでいる。落日秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。 8、「藤原 泰衡」(ふじわら の やすひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。生涯[編集]母太郎、当腹太郎(当腹の太郎)奥州藤原氏3代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。母は陸奥守・藤原基成の娘。異母兄の国衡は「父太郎」「他腹之嫡男」と称されたのに対し、正室を母とする泰衡は「母太郎」「当腹太郎(当腹の太郎)」と呼ばれ、嫡男として扱われた(『愚管抄』)。『玉葉』文治4年(1188年)1月⒐日条には秀衡の次男であるにもかかわらず、「太郎」と記述されている。秀衡正室所生の子は何人かいたか、もしくは泰衡のみだったのかは正確には不明だが、秀衡の6人の息子(男子)の中で泰衡が正室の長男だったと推測できる。秀衡の死と遺言文治⒊年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。父秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、平氏滅亡後に頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。『玉葉』(文治4年正月⒐日条)によると、秀衡は国衡・泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。頼朝の圧力と一族の相克文治4年(1188年)2月と10月(あるいは11月)に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請する。『尊卑分脈』の記述によると、この年の一二月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。翌文治5年(1189年)1月、義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧・手光七郎が捕まるなど、再起を図っている。2月15日、泰衡は末弟の頼衡を殺害している(『尊卑分脈』)。⒉月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。⒉月⒐日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、⒉月、⒊月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。閏4月に院で泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。ついに屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。同年6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。6月26日、泰衡は弟の忠衡を義経に同意したとして殺害している(『尊卑分脈』の記述によれば、忠衡の同母弟とされる通衡も共に殺害している)。泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。奥州合戦での敗北泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯(現宮城県仙台市青葉区国分町周辺)を本営としていたが、8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。
2024年09月16日
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金色堂に眠る秀衡秀衡の遺骸はミイラとなって現在も平泉にあり、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められている。昭和25年(1950年)3月の遺体学術調査(『中尊寺と藤原四代』朝日新聞社編、昭和25年8月30日刊行、中間報告)では、金色堂の西北(堂に向かって右)が基衡壇、西南(堂に向かって左)が秀衡壇として調査が行われたが、その後の最終報告によると基衡と秀衡の遺体が逆である事が判明し、現在は向かって右の西北が秀衡壇とされている。平成6年(1994年)⁷月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、秀衡は身長164㎝、いかり肩で肥満体質、腹がよく突き出していたと思われる。幅広く厚い胴回り。鼻筋が通り高い鼻、顔は長く顎の張った大きな顔。太く短い首。重度の歯槽膿漏で虫歯もあり、美食の結果かと思われる。レントゲン検査によると、脊髄に炎症があったとされて、死因は背骨の外傷から菌が侵入してその感染をうけ、骨髄炎性脊椎炎ないしは脊椎カリエスかと想定される。骨髄炎性脊椎炎により敗血症を併発していたともされ、病床についた時間は長くなく、死に至ったと考えられている。また、骨髄炎性脊椎炎の影響で生前は脊椎硬直があって脊椎が曲がらず、晩年は臥床できなかった可能性もあり、高血圧、むくみの状態が見られ、腎疾患・心機能不全などが見られた。血液型AB型。死亡年齢は60歳代 – 70歳代くらい、あるいは70歳前後。右手首に数珠玉の跡が二列並んでいた。遺体に副えられた副葬品は、木製の杖、木製・ガラス製の念珠、金装の水晶露玉、黒漆塗太刀鞘残片、羅、白綾、錦、金銅鈴など、京都のそれに勝るとも劣らない当代一流の工芸品であった。ミイラを基にした秀衡の復顔模型が存在する。源義経の遺児経若の伝承[編集]栃木県真岡市にある遍照寺 (真岡市)の古寺誌によると、常陸坊海尊は藤原秀衡の命を受け源義経の子経若を常陸入道念西(伊達朝宗)に託したとの記録が残っている。】特に出羽北部には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとする説がある。その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていたようである。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏による十三湊大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいる。]「十三湊」(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に、蝦夷沙汰職(えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の許でとりわけ隆盛を極めた湊である。地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(歴史的仮名遣:じふさん)」と読むようになった[2][3]。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる[* 1]。遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日に国の史跡に指定されている。史跡としての中心地(説明板所在地)は十三古中道(ふるなかみち)61番地。本項ではこの遺跡についても述べる。平安時代天然の良港であり、平安時代末期にはアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏の支配下となり、一族の藤原秀栄が現地に土着し、後に十三氏を名乗ったが、1229年に、安東氏によって、居城の福島城を攻め滅ぼされた。鎌倉時代鎌倉時代後期には、豪族・安東氏(津軽の安藤氏)の本拠地として、和人と蝦夷地のアイヌとの間の重要交易拠点として栄え始め、次第に隆盛に向かう。「平泉文化」長治⒉年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。永久5年(1117年)に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍(がらん)と庭園の規模は京のそれをしのいだといわれている。「藤原 基衡」(ふじわら の もとひら)は、平安時代後期の豪族。奥州藤原氏第⒉代当主。藤原清衡の次男に当たる。天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により、出羽国寒河江荘慈恩寺に阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置したという。だが、この逸話では基衡の年齢が幼すぎ、父・清衡が慈恩寺を再興したか、もしくは再興年に誤りがあるとみられる。異母兄・惟常らとの争い大治⒊年(1128年)に父清衡が死去。翌大治4年(1129年)、異母兄である惟常ら兄弟との争乱が記録されている。基衡は惟常の「国館」(国衙の事と思われる)を攻め、異母弟の圧迫に耐えかねた惟常は小舟に乗って子供を含め二十余人を引き連れて脱出し、越後国に落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃に出ようとするが、基衡は陸路軍兵を差し向け、逆風を受けて小舟が出発地に押し戻された所を捕らえ、惟常父子らを斬首したという。この当時、惟常は跡継ぎを意味する「小館」と称されて独自の屋敷を構えており、対して基衡は「御曹司」と称されて清衡と同じ屋敷に住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉は跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に源義経も「そこに住まう人」や「居候」という意味で「御曹司」と称されている。この観点から言えば、正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。また、長子相続が絶対の時代ではなかったため、このような事態は平然と起こり得た。この内乱の背景について第一に考えられていることは、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安部氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団との小競り合いがあったということである。またそれぞれの家臣団は独立性が非常に強かったことから、奥州藤原氏の当主となった基衡は当主の権力強化と確立、そしてそれによる家臣団の統制に乗り出すことになる。その過程で基衡を支えたのが、佐藤基治やその息子達の継信・忠信兄弟を輩出した信夫佐藤氏であった。藤原師綱との諍い康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季春、または季治)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季春(季治)は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季春(季治)の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。基衡自身の国府への影響力(藤原頼長に対する勝利)基衡はこれに懲り、翌康治⒉年(1143年)に師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣・藤原基成と結び、その娘を嫡子・秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。また、左大臣・藤原頼長が摂関家荘園12荘のうち、自分が相続した出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の年貢増額を要求してきた。この年貢増微問題は5年以上揉める事になるが、基衡はこれと粘り強く交渉し、仁平⒊年(1153年)に要求量を大幅に下回る年貢増徴で妥結させ、頼長を悔しがらせている。これにより、奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していたことがわかる。
2024年09月16日
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8月15日、秀衡は従五位上・陸奥守に叙任される。同時に越前守に平親房、越後守に平助職(城長茂)を任じた。これらは平清盛亡き後に平家の棟梁となった平宗盛の推挙によるもので、前年に挙兵した鎌倉の頼朝や源義仲を牽制する目的であった。九条兼実はこの叙任も「天下の恥、何事か之に如かんや。悲しむべし、悲しむべし」と嘆き、また参議・吉田経房も「人以て磋嘆(さたん、なげくこと)す。故に記録すること能わず」と日記『吉記』に記している。秀衡は平家の「位うち(官位を与え荷担させる)」に乗る事はなく、治承・寿永の乱の内乱期に源義仲や平氏からの軍兵動員要請があっても決して動く事はなかった。一方で元暦元年(1184年)6月、平家によって焼き討ちにあった東大寺の再建に奉じる鍍金料金を、頼朝の千両に対して秀衡はその五倍の五千両を納め、京都の諸勢力との関係維持に努めている。平泉は京都と坂東の情勢を洞察した秀衡の外交的手腕によって、戦禍に巻き込まれる事なく平和と独立を保ち続けた。秀衡 対 頼朝文治⒉年(1186年)、平家を滅ぼして勢力を拡大してきた鎌倉の頼朝は「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけてくる。源氏の仲介など無しに、直接京都と交渉してきた奥州藤原氏にとっては無礼な申し出であり、秀衡を頼朝の下位に位置づけるものであった。秀衡は直ちに鎌倉と衝突する事は避け、馬と金を鎌倉へ届けた。頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、もはや鎌倉との衝突を避けられないと考えた秀衡は文治⒊年(1187年)⒉月10日、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化する事を覚悟で受け容れる[8]。文治⒊年(1187年)4月、鎌倉ではまだ義経の行方を占う祈祷が行われている頃、頼朝は朝廷を通して以下の三事について秀衡に要請してくる。鹿ケ谷の陰謀で平清盛によって奥州に流されていた院近臣・中原基兼が、秀衡に無理に引き留められて嘆いているので、京へ帰すべきである事。陸奥からの貢金が年々減っており、東大寺再建の鍍金が多く必要なので三万両を納める事度々追討等の間、殊功無き事等である。秀衡は、基兼については大変同情をもっており、帰さないのではなく本人が帰りたがらないのであり、その意志を尊重しているだけである。まったく拘束しているのではない。貢金については三万両は甚だ過分であり、先例で広く定められているのも千両に過ぎない。特に近年商人が多く境内に入り、砂金を売買して大概掘り尽くしているので、求めには応じられないと返答している。頼朝は秀衡が院宣を重んぜず、殊に恐れる気配がなく、件の要請も承諾しないのはすこぶる奇怪であるとして、さらに圧力をかける事を要請している(『玉葉』文治3年9月29日条)。9月4日、義経が秀衡の下に居る事を確信した頼朝から「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、反逆を企てている」という訴えにより、院庁下文が陸奥国に出された。秀衡は異心がないと弁明しているが、この時頼朝が送った雑色も陸奥国に派遣されており、「すでに反逆の用意があるようだ」と報告しており、朝廷にも奥州の情勢を言上している。このわずか⒉ヶ月後、義経が平泉入りして9ヶ月後の文治3年(1187年)10月29日、秀衡は死去する。遺言と死去秀衡には6人の息子がいたが、後継者は正室腹の次男・泰衡だった。しかし、側室腹の長男・国衡も『愚管抄』に「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えけるに」とあり、庶子とはいえその存在感は大きく、一族の間では京下りの公家の娘から生まれた泰衡よりも、身近な一族の娘から生まれた長男で武勇優れた国衡への期待が高かったとも考えられる。このような状況から異母兄弟の仲は険悪で鎌倉の頼朝が庶子・国衡と接触して味方に引き込み、一族を分裂させるという危険性があった。この奥州藤原氏に限らず、後継者になれなかった者に敵対者が接触して分裂を煽り、一族の弱体化を図るというのはよくある謀略であった。秀衡はそれを怖れていたと思われる。秀衡は両者の融和を説き、国衡に自分の正室である藤原基成の娘を娶らせて、義理の父子関係を成立させた。国衡にとっては義母であるが、後家は強い立場を持ち、兄弟の後見役である藤原基成が岳父となり、後継者から外された国衡の立場を強化するものであった。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪で、秀衡が苦慮していたことが窺える。また、初代・清衡、⒉代・基衡も兄弟と争った経緯があった。そして、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言して没した。兄弟間や一族の相克、頼朝からの襲撃を危惧しながらの死であった。この処置のおかげでこの⒉人の兄弟間の衝突に関してはひとまず回避され、家督は泰衡が継いだ。人物冷静沈着にして豪胆な人物であったといい、登場する作品においても英邁な君主として描かれることが多い。事実、秀衡が健在の間は頼朝は平泉に朝廷を通じて義経追討を要請し、「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけるという書面上での行動しか起こしておらず、軍事行動には至っていない。これは頼朝が秀衡の君主としての器量を認めざるを得なかったことを示している。それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていた。そして、奥州藤原氏に対して頼朝の圧力が強まるのは秀衡の死後であった。砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げている。外交に関しては、巨大な経済力をバックに朝廷や平氏政権と友好的な関係を維持しながらも義経を匿うことで源氏とのパイプも築きつつ、平氏の勢力が衰えた後は、頼朝と平和的な関係を築きながらも、追われる義経を平泉へ受け入れ頼朝からの襲撃に備える等、かなりの戦略性の高さ・政治巧者ぶりを見せている。但し、泰衡をはじめとする息子達と義経に対する遺言に関しては、京都までその内容を行き渡らせていることで秀衡の戦略性の高さ・政治巧者ぶりを示すものであると言われている一方で、義経を頼朝からの襲撃への備えとしたことで、自身の死後、頼朝に「謀反人である義経と同心している」と遺言を逆手に取られて奥州合戦の口実を与えてしまっており、頼朝の圧力という要素を加味しても、秀衡が遺した息子達と義経への遺言は遺された人物達を縛り付ける呪縛となって裏目に出てしまい、一族の相克や義経とその妻子の自害、義経の部下殺害、そして奥州藤原氏滅亡という最悪の結果を招いている。舅である藤原基成は元院近臣であり、近親者に後白河法皇の側近が多数存在していた。義経の実母・常盤御前の再婚相手の一条長成もその一人であった。死後わずか⒉年で奥州藤原氏は滅びるが、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物と言える。生母および正室について秀衡の生母については安倍宗任の娘とされているが、一説に基衡が安倍宗任の娘を正室に迎えたのは家督継承後で、それ以前に秀衡は生まれていたとされる。このことから、秀衡の生母は基衡が家督継承以前に迎えていた妻ではないかという推測もある。なお、父親である基衡と秀衡自身のミイラの分析から、血液型は基衡がA型で秀衡がAB型であることははっきりしているので、秀衡の生母が誰であれ、彼女の血液型はB型かAB型と推測できる。また、秀衡の最初の正室について『吾妻鏡』(治承4年8月9日条)や『平泉志』には「佐々木秀義の伯母」と伝えているが、一方の『佐々木系図』では秀義の母(=佐々木爲俊の妻)は安倍宗任の娘と記されている。このため、「秀義の伯母」と称される女性は基衡の正室のことで、秀衡の正室とする記述は誤伝によるものではないかとする指摘がされている。その説を採用した場合、秀衡の正室は藤原基成の娘(泰衡の母)のみであったことになる。
2024年09月16日
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押領使任官清衡は本拠地を江刺郡豊田館に構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬 するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納するなど、奥羽の統治者としての地位を築いた。一方で寛治6年(1092年)6月の陸奥守・藤原基家の解文では、清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられた。また、翌寛治7年(1093年)には清衡の勢力圏である出羽国において平師妙および平師季父子らが出羽国府の秋田城を襲撃する反乱が発生した。反乱自体は寛治8年(1094年)に陸奥守・源義綱によって鎮圧されたが、清衡の関わりについては明らかではない。なお、清衡はこの前後に陸奥の押領使となったと推定されている(任押領使を寛治3年(1089年)とする見解もある)。平泉造営嘉保年中(1094年 – 1095年)頃には、磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。1108年には中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。また宋 (王朝)からは一切経の輸入も行うなど、北方貿易にも着手した。金銀螺鈿をちりばめた金色堂の落慶の翌年(大治3年)、当時としては長命の73歳で没した。ちなみに中尊寺供養願文として知られる文書では、自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現している。金色堂に眠る藤原四代金色堂に納められた清衡の遺骸を調査した結果、血液型はAB型であり、曾孫の泰衡まで四代直系で矛盾はないとされる。清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で、鼻筋が通っている。身長は159㎝、手の形は小さく華奢。四肢の筋はよく発達している。体形は痩せ形。レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳出血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られる。発症時期は快方が見込めなくなった頃に妻が筆写納経を行った1117年~ 1119年頃ではないかと推測されている。没年齢は歯の状態から70歳以上と見られ、史料の没年齢と矛盾はないとされる。系譜清衡の妻として「北方平氏」が史料によく現れる。「北方平氏」は正妻であるとされている。しかし出自に関しては明らかではなく、父経清の母方である平国妙の縁者、越後城氏、海道平氏岩城氏、常陸大掾氏、都の平氏の誰かなど諸説があるがどれも決め手には欠ける。「紺紙金銀字交書一切経 大品経 巻二十二」の奥書から、元永⒉年(1119年)当時清衡には6男3女の子供がいたと見られる。なお、『中右記』に見える「兵衛尉清衡」、「平清衡」を清衡のこととし、寛治 - 康和年間に、妻の姓である「平」を名乗り在京し任官していたとする説がある。父:藤原経清養父:清原武貞母:有加一乃末陪 - 安倍頼時の娘義兄:清原真衡 - 後三年の役で清衡と争う。異父弟:清原家衡 - 後三年の役の当初は清衡と共闘し真衡と争うが、のちに清衡と争い滅んだ。正室:清原氏の娘 - 清原武貞の娘?。後三年の役で家衡によって子とともに殺された。継室:清原氏の娘藤原惟常 - 藤原基衡の異母兄。別名小館惟常。継々室:信夫佐藤氏の娘継々々室:北方平氏藤原基衡 - 二男。異母兄惟常との後継争いを制し、藤原氏を継承した。生母不詳藤原正衡 - 三男。別名小館三郎正衡。藤原清綱 - 四男。別名亘理権十郎、あるいは樋爪俊衡。娘 - 佐竹昌義室その他姓名不詳の男子2名と女子2名逸話天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が出羽国最上郡(現・山形県寒河江市)の慈恩寺を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。ただし、基衡は1100年前後の生まれと目されるため実際には清衡が再興したか、再興年に誤りがあるとみられる。】 また、奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようである。奥州藤原氏滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書の写しが多数あったという。本来これらは国衙にあるもので、平泉が国衙に準ずる行政都市でもあったことがうかがえる。一方で出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領使としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もある。 7、「藤原 秀衡」(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第⒊代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。北方の王者保元⒉年(1157年)、父・基衡の死去を受けて家督を相続する。奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となる。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職であり、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率するものであった。この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えるが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。嘉応⒉年(1170年)5月25日、従五位下・鎮守府将軍に叙任される。右大臣・九条兼実は『玉葉』の中で、秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いている。都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、その武力が天下の形勢に関わる事を恐れながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があった。この「奥州の夷狄」や「蝦夷」という蔑称を秀衡は意識していたと考えられており、源平の合戦の際に一つの勢力に加担しなかったのも、普段は蔑称を用いて蔑む傾向があるのに自分達に都合のいい時に奥州藤原氏を頼ろうとする姿勢に不満を抱いていたことも中立の立場を堅持した理由ともされる。治承・寿永の乱安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。治承4年(1180年)、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとする。秀衡は義経を強く引き止めたが、義経は密かに館を抜け出した。秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。養和元年(1181年)4月頃、秀衡に対して頼朝を追討する院宣が出されたと、京で噂となる。
2024年09月16日
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安倍氏の滅亡と前九年の役の終結貞任は捕縛され、頼義の前に引き出された際には重傷を負って既に瀕死の状態であったとされ、頼義を一瞥して息を引き取ったといわれる。貞任の弟である重任は戦死、同じく弟の宗任は官軍に投降した。13歳になる貞任の嫡男・安倍千世童子丸は捕縛され、頼義は千世童子丸の貴公子然とした振る舞いに感心し一時は助命をも考えたものの、武則の後の災いになるとの意見を入れてこれを斬らせ、他にも多くの安倍一族を処刑・捕縛した。こうして天喜4年の戦闘再開から8年、鬼切部の戦いから数えれば12年にわたる前九年の役が終結した。戦後康平6年(1063年)2月16日、頼義は貞任、経清、重任の首を掲げて都へ凱旋した。都大路は遠く夷敵の地で戦い続けた老将軍と官軍の勇姿を一目見ようと物見の民衆で溢れたという。2月25日、除目が行われ、頼義は朝廷より正四位下伊予守に任じられる事となった。この当時の伊予国は播磨国と並んで全国で最も収入の良い「熟国(温国)」として知られ、そのために伊予守も播磨守と共に「四位上﨟」と称される受領の筆頭格であった。当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた頼義ではあったが、この「公卿一歩手前」という恩賞を見る限り、その功績は大という評価を朝廷から受けたとみえる。この他、嫡男・義家も従五位下出羽守に任じられ受領となり、次男・義綱は右衛門尉に取り立てられた。また、清原武則は従五位上に加階の上(武則は元から従五位下)、鎮守府将軍に補任されるなど各々恩賞を受けた。「四位上﨟」たる伊予守に昇進した頼義であったが、未だ恩賞を手にしていない将兵の為に都へ留まり、彼らの恩賞獲得に奔走した。結局、実際に伊予へ赴任したのは2年後で、その間に滞納していた2年分の官物は私費をもって納入したと言われる。】 前九年の役はその大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏の加勢を得ることに成功した源頼義が勝利した。この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死して安倍氏は滅亡したが、頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・藤原経清に嫁ぎ男子をもうけていた。経清は安倍氏側の中核にあり、前九年の役の終結に際し頼義に捕らわれ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなり、これにともない安倍頼時の外孫である経清の息子もまた武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡、そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあっていったんは清原氏の内紛は収まることになった。ところが義家の裁定によって清原氏の所領だった奥六郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。 5、「藤原氏の支配の成立」清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。 そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。その後、朝廷内部で源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったという事情もあったが、それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立することになる。また、清衡の子基衡は、院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結ぶ方針をとった。基衡は、基成の娘を後継者の3代目秀衡の嫁に迎え入れ、院へも影響を及ぼした。その後下向する国司はほとんどが基成の近親者で、基成と基衡が院へ強い運動を仕掛けたことが推測される。奥州藤原氏が築いた独自政権の仕組みは鎌倉幕府に影響を与えたとする解釈もある。清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍に、泰衡は出羽、陸奥押領使であり押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使することが認められ、それが奥州藤原氏の支配原理となっていた。 6、「藤原 清衡」(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。出自陸奥国(後の磐城国)亘理郡の豪族・藤原経清と陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼時の娘の有加一乃末陪の間の子として生まれる。幼名不詳。なお、藤原経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。父・経清は前九年の役で源頼義に反旗を翻し安倍氏に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。後三年の役清原家には、清衡の他に、武貞の嫡子で清衡とは血のつながらない[11]義兄の真衡、武貞と清衡の母の間に生まれた異父弟の家衡がいたうえに、吉彦秀武が清原武則の従兄弟にして娘婿であるなど複雑な血縁関係で結ばれた一族が存在しており、ややもすると血族の間で内紛が起こり易い状態にあった。永保3年(1083年)に秀武が真衡に背くと、清衡・家衡は秀武に同調して、真衡が秀武討伐に出羽に向かった隙に真衡の本拠を攻撃した。だが、陸奥守であった源義家が真衡を支援して清衡・家衡を攻めたため、清衡・家衡は大敗して逃走し義家に降伏した。ところが、出羽に向かった真衡が直後に急死したため、清衡・家衡は義家の裁定で清原氏の所領を分割相続することになる。家衡はこの裁定に不満を持ち、応徳3年(1086年)に清衡の屋敷を襲撃し、妻子眷族を皆殺しにした。難を逃れた清衡は義家に助力を求め、清衡は義家や難を逃れた同母弟の刈田経元 とともに家衡を討ち取った。後三年の役は清原氏の私闘とされ、何の恩賞もなく清衡にも官位の賞与も無かったが、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となった。時に寛治元年(1087年)清衡32歳の事である。その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。
2024年09月16日
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官軍の反攻翌8月17日、官軍は安倍軍の拠点の一つである小松柵へと到達した。この柵は貞任の叔父である安倍良照と弟の安倍宗任が守将として籠っており、はじめ官軍は慎重に柵の攻略を進めようとしていた。しかし、図らずも接敵してしまったために戦闘がおこなわれる事となった(小松柵の戦い)。頼義は「攻撃は明日のつもりであったが、今既に戦いは始まってしまった。しかし戦というものは好機が来たら始めるものであって、吉凶を占い日時を選んで行うものではない。まさに今がその時だ」と意気込み、武則も「今の官軍の勢いは侵略する水火の如くです。これ以上の開戦の機会はありません」と同調した。小松柵は南を激流、北を断崖に挟まれた難攻の柵であったが、官軍の将である深江是則や大伴員季らおよそ20名の兵が断崖をよじ登り、柵内に乱入したため安倍軍は大混乱に陥ったという。守将の宗任は800騎を率いて柵外へ打って出て、その奮戦は著しいものであったが、頼義は直属の部将である平真平、菅原行基、源真清、刑部千富、大原信助、清原貞廉、藤原兼成、橘孝忠、源親季、藤原時経、丸子弘政、藤原光貞、佐伯元方、平経貞、紀季武、安部師方らを差し向け安倍軍に攻勢をかけると、さしもの宗任も敗れて小松柵を放棄して落ち延びた、新制官軍の初戦を勝利で飾る事となった。小松柵の戦いに勝利を収めた官軍ではあったが、折からの長雨で徒に数日を過ごさざるをえず、やがて兵糧が欠乏するような状況となった。これを聞きつけた貞任は官軍本陣への奇襲を図り、9月5日に官軍の本陣のある営岡へ8000の精兵を率いて攻め寄せた。この時、頼義の傍に侍っていた武則は戦勝祝いの言葉を述べた。この言葉に頼義が訝しむと、武則は「地の利の無い官軍がこれ以上六郡を深く進軍しても被害を大きくするだけです。そんな中、安倍軍が自ら我らの前に飛び込んで来てくれたのです。これは賊軍を討ち果たす絶好の機会と言えるでしょう」と答えた。これを聞いた頼義は尤もな事であるとして、四方隙の無い「常山蛇勢の陣」を敷くと安倍軍を迎撃した。官軍と安倍軍の戦いはおよそ6時間続く激戦となったが、息子である義家と義綱の活躍もあって、ついに安倍軍は敗走を始めた。頼義は武則へ貞任の追撃を命じると、自身は官軍の将兵を労り、また負傷者を厚く気遣ったといわれる。この頼義の振る舞いに将兵はみな感激し、「我らの命はこの御恩の為に使いたいものだ。武者の命は義理の前にあっては軽いものであるから、今、将軍の為に死んだとしても何ら恨むことはない。かつて唐の太宗が自らの髭を焼いて、傷ついた将兵の膿を啜ったという話があるが、我らが将軍の気遣いもそれ以上ではないか」と言い合った。衣川関の戦い一方、安倍軍は頼義から追撃を命じられた武則の部隊によって衣川関へと敗走していた。 翌6日、高梨宿に着陣した頼義は直ちに衣川関を攻める構えを見せた(衣川関の戦い)。しかしながら衣川関は、かの函谷関と比される堅牢さであり、さしもの官軍も攻めあぐねる状態であった。そこで武則は久清という部将を呼び寄せ、衣川関に潜入して火攻めを行うよう命じた。久清は命令通りこれを実行し、安倍軍はたちまち大混乱に陥った。頼義は官軍を率いてこれを散々に討ち破り衣川関を制圧した。尚、この最中に義家と貞任の有名な「年を経し糸の乱れのくるしさに(貞任) 衣の館はほころびにけり(義家)」の和歌のやり取りの逸話が生まれている。この一連の戦いで安倍軍は平孝忠、金師道、安倍時任、安倍貞行、金依方などが戦死し、貞任は父・頼時絶息の地である鳥海柵へと敗走していった。鳥海柵制圧同11日、官軍は安倍軍を追って鳥海柵へと至ったが、すでに安倍氏は鳥海柵を放棄して本拠地である厨川柵へと退却してしまっていた。柵内には大量の美酒が残されており、はじめ頼義は毒が盛られているのではと警戒したが、毒身をした結果、その心配は無かったので将兵に酒を振る舞った。これによって官軍の士気はますます高まった。頼義は武則に「頼時を討伐してより、鳥海の柵という名をずっと聞いていたが、これまで実物を見ることができずにいた。しかし今日貴殿らの活躍によって初めてここに入ることができた。武則殿よ、今の余の顔色を見てどのように感じるか?」と語った。武則は「将軍は長年にわたって皇家の御為に忠節を尽くして来られました。風の中で髪をくしけずり雨で髪を洗い、蚤や虱のたかった甲冑をお召しになり、官軍を率いて苦しい征旅を続けられました。既に開戦より10余年の歳月が過ぎておられる。天地の神仏は将軍の忠孝を助け、我が将兵たちは皆、将軍の志に感じ入っております。今、賊軍が敗走したことは、これまで溜めていた水が堤を切って流れ出したようなものです。私は将軍の指揮に従っただけです。どうして私に武勲などありましょうか。ところで、将軍のお姿を拝見しますと、白い御髪が半ば黒に戻っている様に見えます。厨川柵を陥として貞任の首を取ることができれば、将軍の御髪はきっと漆黒となり、痩せられたお身体もふっくらとなされるのではないでしょうか」と答えた。頼義は笑って「貴殿は一族郎党を率いて、羽州から大軍を発して来られた。堅牢な甲冑に鋭い太刀を持ち、矢礫に立ち向かって陣を破り城を落としてきた。その戦術はまるで石を転がすように見事なものであった。まさにその活躍によって余も皇家に忠節を遂げることができたのだから、貴殿は戦の功を余に譲ることなどない。しかし、余の白髪が黒く戻ってみえるというのは、冗談でも嬉しく思う」と笑ったという。厨川柵の戦い鳥海柵を攻略した官軍は15日についに安倍軍の本拠地である厨川柵へと到達した(厨川柵の戦い)。安倍の本拠地だけあって流石に厨川柵の守りは固く、安倍軍は柵上より雑仕女達に歌舞をさせて余裕を見せるなど官軍を挑発した。頼義以下将兵は大いに怒り、柵を遮二無二に攻めたが徒に被害を増すだけであった。そこで17日に頼義は火攻めを決意し、近隣の村々より木材や藁を集めるよう命じた。火攻めの準備を整えると、頼義は遥か皇城を拝み「かつて漢の将軍の忠節に呼応して枯池に水が溢れて軍の窮状を助けたといいますが、今、我が国においても天皇の御威光は新たかです。この御威光により大風が起こり私の忠節をお助けください。八幡の神々よ、何とぞ風を吹かせ火を起こして厨川柵を焼いてください」と祈念して火をかけると、忽ちに大風が起こり厨川柵を焼き上げるに至った。柵を焼かれた安倍軍は大混乱となり、ある者は官軍によって殺され、またある者は捕縛されていった。そのような中、官軍から離反した藤原経清も官軍に捕縛された。頼義はこれを喜び、直ちに検分する事とした。その離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰した経清に対する頼義の憎悪は凄まじく、「貴様は源氏累代の家臣でありながら、主君たる余を裏切り、また畏れ多くも朝廷の御威光を蔑ろにした大罪人である。今ようやく貴様を虜にする事が出来た。「貴様はこの状況でもまだ白符を使えとほざけるか」と罵ると、経清は深く頭を垂れたまま何も語らなかった為、頼義は鈍刀にて経清の首を刻み落とし、積年の鬱憤を晴らす事が出来た。
2024年09月16日
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永衡誅殺と経清出奔戦役の再開後に微妙な立場に置かれる事となったのが、頼義の幕下でありながら頼時の娘婿でもあった藤原経清と平永衡であった。特に永衡は前任の陸奥守・藤原登任が安倍氏懲罰を行った際に安倍側に走った過去があったため周辺から疑いの目で見られていた。官軍が衣川まで辿り着いた時、ある者が頼義に「永衡は前国守(登任)様から厚く眼を掛けて頂いていたにも関わらず、安倍軍に走った不義不忠の輩です。今は将軍(頼義)に従う素振りを見せてはいますが、腹の中では何を諮り巡らせているか知れたものではありません。しかもあの者の鎧は我が官軍の者とは違った色をしております。漢の黄巾賊や赤眉賊の例を見ても、装備の色や形で敵味方を判断していたといいます。これを見ても永衡が二心を抱いているのは明らかで、災いが起こる前に早くあの者を取り除くべきです」と進言し、頼義も「もっともな事である」として、この進言を入れて永衡を誅殺した。これによって疑心暗鬼となったのが相婿の藤原経清であった。経清は親しき知人に「義理の兄弟であった十郎(永衡)が将軍に誅殺されてしまった。昔、漢の韓信や彭越が高帝から誅殺された時、二人の同僚の黥布は背筋が凍ったというが、今の私はまさにその心境だ。どうしたらいいだろうか」と尋ねると、知人は「恐らく将軍は貴殿を信用しないでしょう。 そして必ず御身に災いが起こるに違いありません。貴方は災禍が降りかかる前に舅殿(頼時)の元へ走るのが賢明でしょう」と答えたため、経清は「その通りだ」として私兵を率いて安倍軍へ走ってしまった。平永衡が真に二心を抱いていたかは不明であるが、これにより頼義は立て続けに有力な幕僚を失った。頼時討死戦役の再開により、当初頼義の後任として予定されていた藤原良綱は、戦時となった任国地へ赴くのを恐れ逃亡してしまった為、頼義の陸奥守重任が決定された。陸奥守に再任した頼義は一進一退の戦況を打開するために、天喜5年(1057年)5月、配下の俘囚である金為時に命じて頼時の従兄弟といわれる津軽の俘囚長・安倍富忠を味方に引き入れ、安倍軍に対して攻勢を仕掛けた。一族からの離反者に慌てた頼時は、7月に富忠を説得しに自ら津軽へ向かうものの富忠勢の伏兵に遭い重傷を負い撤退、鳥海柵にてそのまま陣没してしまった。9月に頼義は朝廷に対し「私は諜略を以て金為時や安倍富忠などの俘囚を味方に引き入れ官軍の列に加えました。これを聞きつけた賊魁の頼時は富忠を引き留めようと説得を試みましたが、却って富忠の伏兵に遭い流れ矢に当たってそのまま死亡しました。しかしながら安倍軍は首領を喪ったにも拘らず未だ降伏の気配がありません。この上は官符を賜り、官軍の増援と兵糧を頂戴したく思います」との頼時戦死の報告書を送ったが、朝廷からの論功の音沙汰は無く、また安倍軍の方も頼時の跡を継いだ貞任が前にも増して気勢を上げるなど状況は官軍に好転しなかった。黄海の戦い頼時討伐の勲功が出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1800程を率いて安倍軍の籠る河崎柵へ進軍した。対する貞任は精兵4000を率いて黄海(きのみ)にて迎撃を試みた(黄海の戦い)。成れない土地柄の上、折からの風雪と慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に安倍軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗を喫した。将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家の活躍で九死に一生を得たとされる。この時の義家の活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、安倍軍も懼れて散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子・義家の獅子奮迅の活躍で窮地を脱したものの敗走する頼義に従うものは義家を含め藤原景通、大宅光任、清原貞広、藤原範季、藤原則明の僅か6騎で、30年来の忠臣であった佐伯経範をはじめとして、藤原景季、和気致輔、紀為清などの多くの家人をこの戦いで失う大打撃を受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人の藤原茂頼は「将軍討死」の報を受けて大いに悲しみ、出家して頼義の遺体を探す最中に生存していた頼義と再会している。続く苦戦黄海の戦いで九死に一生を得た頼義ではあったが、この大敗によって受けた損害は甚大で、その後数年間は満足な軍事行動を起こす事が出来ず、ひたすら兵力の回復を待つ日々が続いた。この間も朝廷に対して隣国の出羽国の国守に援軍を派遣するよう依頼したが、当の出羽守・源斉頼は一向に援軍を派遣する気配を見せなかった。これを嘲笑うかのように安倍軍は奥六郡を思うままに支配し六郡の外を侵すことも度々であった。さらには先に安倍に寝返った藤原経清などは陸奥国内の諸郡に対して、赤符(国の徴符)ではなく白符(経清の私的な徴符)を用いさせて国へ納めるべき徴納物を堂々と奪い取り、国守たる頼義の面目を大いに潰す行動を行った。清原氏の参戦康平5年(1062年)、頼義は再び陸奥守任期満了の年を迎えた。朝廷は新任の陸奥守として高階経重を任命して任地へ下向させたが、陸奥国内の郡司や官人達は経重の指示に従わず前国守である頼義の指図に従ったため、陸奥守としての勤務が困難と判断した経重は虚しく帰京した。これを受けて朝廷は三度頼義を陸奥守に任命し、併せて奥州の騒乱の鎮圧を頼義に賭ける事となった。頼義は出羽に勢力を張る清原氏の兵力に目をつけ、清原氏の当主である清原光頼に対し参戦を強く要請した。はじめのうちは参戦に渋っていた光頼であったが、頼義が朝廷の命を楯に依頼したことや「奇珍な贈物」を贈り続けた事から参戦を決意し、7月に弟の清原武則を総領代理として1万の兵を率いさせて頼義の元へ出仕させた。これにより国府の兵力と併せておよそ1万3000の兵を擁した官軍は大規模な軍事作戦を行う事が可能となり、8月16日に栗原郡営岡にて以下の7陣に分けた軍団を編成した。第一陣大将、武則の子・清原武貞第二陣大将、武則の甥・橘貞頼第三陣大将、武則の甥にして娘婿・吉彦秀武第四陣大将、貞頼の弟・橘頼貞第五陣大将、清原武則第六陣大将、秀武の弟・吉美候武忠第七陣大将、清原一族・清原武道このうち頼義は将軍として第5陣に属して全軍を統率した。
2024年09月16日
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藤原経清の離反この時点で国府の将として衣川の南にいた平永衡と藤原経清は頼義に従っていたが、2人とも頼時の婿であり微妙な立場であった。この時に永衡は陣中できらびやかな銀の兜を着けているのでこれは、敵軍への通牒でないかと永衡を誣告するものがあり、これを信じた頼義によって永衡は殺された。身の危険を感じた経清は、国府襲撃の偽の情報を流して頼義軍が多賀城へ急行している間に安倍頼時の軍に帰従した。この離反のため一時国府の政令がおぼつかなくなるほどで、前九年の役平定に時間を要することとなった。陰謀説『陸奥話記』によると、頼時はこの事件の直前も頼義を饗応しており、間もなく任期が切れて京へと戻る頼義を敢えてこの時期に刺激する意味は無い。このことから、この事件は頼義か藤原説貞(光貞、元貞の父)が頼時の暴発を狙って仕掛けた罠であろうとの説が根強い。】 我が身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。翌天喜5年(1057年)の黄海の戦いで安倍氏が大勝した後、戦況は膠着し、康平2年(1059年)ごろには衣川以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。康平5年(1062年)、頼義は膠着した戦況を打開するため、安倍氏と同じ俘囚の長であった出羽国仙北三郡の清原氏に多くの財宝を送って援兵を求めた。清原氏の協力で頼義は安倍氏を滅ぼし、前九年の役は終結した。頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような経清の経済力によるところや計略があったとする説もあり、経清に対する頼義の恨みは殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首された。藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡父:藤原頼遠 - 下総国住人母:平国妙の姉妹妻:有加一乃末陪 - 安倍頼時の娘男子:藤原清衡 - 奥州藤原氏の初代生母不明の子女男子:刈田経元男子:藤原経光 4、「奥州藤原氏登場前史」東北地方は弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどった。 中央政権の支配も関東以南ほど強くは及んでいなかったが律令制の時代には陸奥国と出羽国が置かれ、俘囚と呼ばれた蝦夷(えぞ)系の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していた。11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していた。このうち安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年にわたって戦われたのが前九年の役である。 *「源 頼義」(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。源氏の御曹司頼信の嫡男として河内国古市郡壺井村(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれる。弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという(『中外抄』)。長元元年(1028年)6月、かつて父・頼信の家人であった平忠常が関東において反乱(平忠常の乱・長元の乱)を起こすと、長元3年(1030年)に朝廷より命じられて父とともに忠常討伐に出陣する。それまで国府軍や官軍を大いに打ち破ってきた忠常であったが、武勇に優れた頼信・頼義親子が追討軍として派遣された事を知ると大いに驚き、瞬く間に朝威に服したと謂われる。頼義はこの反乱平定に際して抜群の勇決と才気を示す活躍をしたとされ、乱後、小一条院敦明親王の判官代として勤仕し、狩猟を愛好したと伝わる小一条院の側近として重用されている。その一方、官位昇進の面では父・頼信に蔵人(官吏)として推挙された次弟・頼清に遅れをとり、頼義が相模守として初めて受領に任じられるのは、頼清が安芸守として受領に任じられた5年後の長元9年(1036年)の事である。桓武平氏の婿となる相模守在任中、忠常の乱の鎮圧に失敗して将軍を更迭されていた桓武平氏の嫡流筋である平直方は、「私は不肖の将軍であったが、それでも我が家はかの平将門を討ち滅ぼした平貞盛の嫡流である。それ故に何事も武芸第一と考えてきたが、国守殿ほどの弓の名人をこれまで見たことがない。ぜひとも我が娘の婿となって頂きたいと、頼義の武勇に大いに感じ入り自らの娘を嫁がせ、さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した(ただし、直方も頼義も京都を根拠とする軍事貴族であることから、実際には忠常の乱以前に京都にて婚姻関係が成立していたとみられ、頼義の相模守就任を機に直方から鎌倉を譲られた可能性がある)。頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。 頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。また、50歳を目の前にしてようやく受領となった頼義を尻目に、弟の頼清は安芸守を始めとして陸奥守や肥後守など諸国の受領を歴任し、着実に能吏としての道を歩んでいった。陸奥守就任永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が奥六郡を支配する安倍氏に玉造郡鬼切部で敗れた責により、陸奥守を更迭された。登任の後任の陸奥守として頼義に白羽の矢が立ち、朝廷は頼義を陸奥守、さらに鎮守府将軍を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように安倍軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった多賀城に着任すると、安倍氏の首領であった安倍頼良は恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院(藤原彰子)の病気平癒祈願による恩赦もあって、安倍氏の反乱自体が許された為、休戦状態(実質的に終戦)となった。
2024年09月16日
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