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東大寺と橘奈良麻呂
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、 平城京 内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、 租庸調 の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、 律令政治 の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、 橘奈良麻呂の乱 である。7月4日に逮捕された 橘奈良麻呂 は、 藤原永手 の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。
ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父( 橘諸兄 )の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。
奈良時代
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には 東西 2 基の七重塔 (高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年( 745 年 )の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
奈良時代のいわゆる 南都六宗 ( 華厳宗 、 法相宗 、 律宗 、 三論宗 、 成実宗 、 倶舎宗 )は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは 中世 以後のことである。
そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。
平安時代
平安時代に入ると、 桓武天皇 の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けたが、 唐 から帰国した 空海 が 別当 となり、寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた 真言宗 、最澄が伝えた 天台宗 をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。朝夕の看経には、『 理趣経 』が今も読まれている。
華厳経 的世界の象徴である 毘盧遮那仏 ( 大仏 ) の前で 理趣経 が読まれるのは、 空海 が残した痕跡と言ってよい。 また、 講堂 と三面 僧房 が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で 南大門 、 鐘楼 が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて 黒田荘 に代表される多数の 荘園 を寄進されたり、開発した。やがて、 南都 の有力 権門 として内外に知られるようになり、多数の 僧兵 を抱え、 興福寺 などと度々 強訴 を行っている。
中世以降
東大寺は、近隣の 興福寺 と共に 治承 4年12月28日( 1181 年 1月15 日 )の 平重衡 の兵火で壊滅的な打撃( 南都焼討 )を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、 大勧進職 に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房 重源 (ちょうげん)であった。
重源の精力的な活動により、 文治 元年( 1185 年 )には 後白河法皇 らの列席の下、大仏開眼法要が、 建久 元年( 1190 年 )には上棟式が行われた。建久6年( 1195 年 )には再建大仏殿が完成、 源頼朝 らの列席の下、落慶法要が営まれた。
その後、戦国時代の 永禄 10年10月10日( 1567 年 11月10 日 )、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した( 東大寺大仏殿の戦い 参照)。 天正 元年( 1573 年 )9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。
仮堂が建てられたが慶長15年( 1610 年 )の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。
その後の大仏の修理は 元禄 4年( 1691 年 )に完成し、再建大仏殿は 公慶 ( 1705 年 )の尽力や、 江戸幕府 将軍 徳川綱吉 や母の 桂昌院 を初め多くの人々による寄進が行われた結果、 宝永 6年( 1709 年 )に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは 天平時代 とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。
また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。
伽藍の概要
東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現 国道 169 号 )を西端とし、西南部は 興福寺 の境内と接していた。
南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。大仏殿前には東大寺創建当時に造立された八角灯籠がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。
回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。
南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。
大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、 二月堂 、 法華堂 (三月堂)などがあり、その南には鎮守の 手向山八幡宮 (東大寺とは別法人)がある。
大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには 正倉院 の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。
なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、 宮内庁 正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。
かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。
大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも 七重塔 )があった。
これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。
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