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9「行基と東大寺」
朝廷からは度々 弾圧 や 禁圧 されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、 大僧正 (最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として 聖武天皇 により 奈良の大仏 ( 東大寺 )造立の実質上の責任者として招聘された。
僧正 (そうじょう)は、中国の 南朝 と日本で 仏教 の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職( 僧官 )の一つである。
中国
中国 では 南北朝時代 の南朝において、北朝の 沙門統 に相当する、仏教教団を統括する僧官として設置された。 宋 僧 賛寧 の『 大宋僧史略 』巻中「立僧正」によれば、「僧正の「正」とは「政」に通じる。そして、その始まりは 前秦 の僧碧(道碧)である。 宋 の 順帝 の 昇明 年間には法持を僧正とした。
また、 大明 年間には道温を都邑( 建康 )の僧正に任じた。 梁 の 武帝 は法超を都邑の僧正に任じ、 普通 6年( 525 年 )には 法雲 を大僧正とし慧令を僧正とした。そして、北宋初に於いても「天下の各州に僧正1員が設置され、徳行と才能によって選抜され、適任者が居ない場合は欠員とされている。」と記している。
百済
新羅 は北朝系の制度を置いたことが知られるが、 百済 の僧官について伝える史料はない。日本での僧正の導入に百済僧が関わっていたこと、また南朝と百済の密接な関係から、百済も南朝にならって僧正を任命したのではないかとする説がある。
日本
日本では 推古天皇 32年4月13日に僧正・ 僧都 と 法頭 を任ずることとし、17日に 百済 僧の 観勒 が僧正に任命された。ある僧が斧で祖父を殴った事件をきっかけに、僧侶の監督のために置かれたものである。
律令制では、僧官(日本では 僧綱 という)として僧正、僧都、 律師 の3つがあり、僧正と僧都の2つには大・少の別がある。また後年にはそれぞれに 権官 が設置され、十の位が成立した。僧正には大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の4つがあり大僧正が僧官制の頂点に位置づけられた。
聖武天皇 (しょうむてんのう、 701 年 〈 大宝 元年〉 – 756 年 6月4 日 〈 天平勝宝 8年 5月2 日 〉)は、 日本 の第45代 天皇 (在位: 724 年 3月3 日 〈 神亀 元年 2月4 日 〉 - 749 年 8月19 日 〈天平勝宝元年 7月2 日 〉)。
諱 は 首 (おびと)。 尊号 ( 諡号 )を 天璽国押開豊桜彦天皇 (あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、 勝宝感神聖武皇帝 (しょうほうかんじんしょうむこうてい)、 沙弥勝満 (しゃみしょうまん)とも言う。 文武天皇 の第一 皇子 。母は 藤原不比等 の娘・ 宮子 。
文武天皇の第一皇子として生まれたが、 慶雲 4年 6月15 日 ( 707 年 7月18 日 )に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。
物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは 齢 37のときであった。このため、同年 7月17 日 (707年 8月18 日 )、文武天皇の母である 元明天皇 ( 天智天皇 皇女)が中継ぎの天皇として即位した。 和銅 7年6月25日( 714 年 8月9日)には首皇子の 元服 が行われて同日正式に 立太子 されるも、病弱であったこと、 皇親 勢力と 外戚 である )に文武天皇の姉である 元正天皇 が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する 長屋王 が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の 光明子 (父: 藤原不比等 、母: 県犬養三千代 )の 立后 を願っていた。
しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため 皇族 しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。
ところが 神亀 6年( 729 年 )に 長屋王の変 が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された [2] 。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である 藤原四兄弟 が仕組んだものといわれている。
なお、最終的に聖武天皇の 後宮 には他に4人の 夫人 が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者である。
天平 9年( 737 年 )に 天然痘の大流行 が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である 鈴鹿王 を 知太政官事 に任じて辛うじて政府の体裁を整える。
さらに、天平12年( 740 年 )には 藤原広嗣の乱 が起こっている。乱の最中に、突然関東( 伊勢国 、 美濃国 )への 行幸 を始め、平城京に戻らないまま 恭仁京 へ遷都を行う。
その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、 難波京 、 紫香楽京 を経て平城京に戻る)の経過は、『 続日本紀 』で多くが触れられている。
詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震 [3] など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は 仏教 に深く帰依し、天平13年( 741 年 )には 国分寺 建立の 詔 を、天平15年( 743 年 )には 東大寺盧舎那仏像 の造立の詔を出している。
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