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2024年09月20日
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カテゴリ: 古代史




建久9年( 1198 )、『 興禅護国論 』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。 京都 での布教に限界を感じて 鎌倉 に下向し、 幕府 の庇護を得ようとした。


正治 2年( 1200 )、 頼朝 一周忌の 導師 を務める。 北条政子 建立の 寿福寺 の住職に招聘


寿福寺 (じゅふくじ)は、 神奈川県 鎌倉市 扇ヶ谷 にある 臨済宗建長寺派 寺院 である。 鎌倉五山 第3位の寺院である。


山号 を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は 釈迦如来 、開基(創立者)は 北条政子 、開山(初代住職)は 栄西 である。 鎌倉三十三観音霊場 の第24番。 鎌倉二十四地蔵 の第18番。境内は「寿福寺境内」として 1966 昭和 41年)3月22日、国の 史跡 に指定された。


源頼朝 が没した翌年の 1200 正治 2年)、妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。


もともと現在の寿福寺のある付近は、 奥州 に向かう 源頼義 が勝利を祈願したといわれる 源氏山 を背にした、 亀ヶ谷 と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・ 源義朝 の旧邸もこの地にあった。


1180 (治承 4 年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館( 幕府 )を構えようとしたが、すでに 岡崎義実 が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。


創建当時は 七堂伽藍 を擁し、14の 塔頭 を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは 1278 (弘安元年)頃と推定されている。


1247 (宝治3年)に火災にあい、 1258 (正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく 南北朝時代 の頃と思われる。


寿福寺には2世 退耕行勇 をはじめ、 心地覚心 円爾 (弁円)、 蘭渓道隆 大休正念 など、多くの名僧が入寺した。鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院である。


鎌倉初期に高い寺格をもって繁栄したが、「 海道記 」や「 東関紀行 」の作者は、寿福寺についてふれるところがない。



境内


総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文 4 年)の再建である。


境内裏手の墓地には、 陸奥宗光 高浜虚子 星野立子 大佛次郎 などの墓があり、さらにその奥の やぐら (鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と 源実朝 の墓と伝わる 五輪塔 がある。


なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。


重要文化財


木造地蔵菩薩立像-鎌倉時代の作。 鎌倉国宝館 に寄託。


銅造薬師如来坐像-鎌倉時代の作。神仏分離の際、鶴岡八幡宮から移されたもの。


釈迦三尊像-仏殿の本尊。中尊の釈迦如来坐像は、高さ2.7メートル。室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。脱活乾漆は、粘土などで作った原型の上に麻布を漆で貼り固めた張り子状の像で、日本では奈良時代に多数制作されたが、中世以降にこの技法を用いた仏像はきわめてまれである。なお、両脇侍像は木造である。






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最終更新日  2024年09月20日 09時26分23秒
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