小田原北条氏の菩提寺、早雲寺
友人と箱根湯本で待ち合わせをした。
ずいぶん早く着いたので時間つぶしに湯本の街中を走っていると早雲寺を見つけた。
北条早雲の遺言により北条氏綱が1521年に創建した寺院。
本尊は室町時代の釈迦三尊仏は年に一度の御開帳の時しか拝めない。
早雲寺については1590年に箱根山を越えてきた豊臣秀吉軍の本陣となった位しか知らない。
戦国時代、豊臣と北条の戦いの舞台となった寺は緑に埋もれ静かだった。
本堂から振り返ると中門。
1590年6月に石垣山一夜城が完成すると早雲寺には火が放たれたという。
威容を誇った伽藍はすべて灰塵に帰した。
今の本堂や山門は1672年(寛文12年)に狭山・北条氏により
北条早雲の命日に竣工したものだそうだ。
焼けずに残ったものは梵鐘だ。
この鐘楼にある鐘は県指定の重要文化財になっている。
鋳造は1330年(元徳2年)、1590年(天正18年)の太閤の小田原城攻めのおり、
石垣山一夜城で使われたものと立て札にかいてあった。
1590年、黒田如水(官兵衛)は四代北條氏政、五代氏直父子を説得。
7月には北条氏は降伏し、氏政、氏照は切腹、氏直は追放後に客死。
北条氏は滅亡し菩提寺は焼失。
しかし1627年(寛永4年)十七世菊径宗存によって再建が始まり、
狭山北条氏によって滅亡から82年後、1672年早雲の命日に竣工した。
早雲をはじめ北条五代の墓があった。
戦国時代のすさまじい戦いと全国統一の為の駆け引き。残忍で無情な殺戮。
全国統一、平和な世を作るためとはいえなんという時代だったのだろう。
五代墓所のわき、開山堂の近くはに中世の連歌師、宗祇の墓がある。
連歌師、飯尾宗祇は500年ほど前の旅の歌人。
若くして仏門に入り中世文学の連歌を全国に広めた漂泊の詩人だ。
勅撰「新撰兎玖波集」の選者ともなり多くの貴族、武将、大名を指南したという。
晩年1501年に越後・上杉氏の許から旅立ち、
関東各地で連句を催していた。
しかし駿河・美濃に行く途中箱根湯本で亡くなった。1502年のこと。
富士山をもう一度見たいという遺言で富士の見える定輪寺に葬られる。
ここにある墓は終焉の地の供養塔だそうだ。
三島大社に奉納した「三島千句」のなかの
「なべて世の 風を治めよ 春の風」という発句は好きだった。
庭に戻ると庭石に宗祇の歌があった。
「世にふるは 更に時雨の やどりかな」
なんという句なんだろう!
「時雨が降って一夜の雨宿りは侘びしい、さらに言えば
人生そのものが時雨の過ぎるのを待って雨宿りしていくようなもの...」
と歌ったのだろうか。
時雨が雨宿りをしていれば通り過ぎていくように、
辛いことがあったとしても辛抱していればきっと良いことがやってくる。
そんなことを教えてもらったような気がした。
耐えしのんで冬を越え、明るい空に向かって萌えている若葉が語りかける。
木々の新緑と苔が美しい見事な庭だった。
雨の北限の地 5 利尻、礼文へ 2017.08.19 コメント(1)
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