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映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 6
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チャン・リュル「群山」元町映画館 映画を見終えて、感想を書きあぐねていた作品ですが、とりあえず備忘のために感じたことのメモをそのまま書きつけておこうと思います。映画はチャン・リュル監督の「群山」です。 チャン・リュルという監督は、韓国の監督だと思い込んでいましたが、中国の吉林省の方で、所謂、朝鮮族の三世だそうです。 彼が作品として描いている「柳川」、「福岡」、そしてこの「群山」、「慶州」と、日本列島の西の町から朝鮮半島をたどっていることの意味について、とても興味深く思いますが、そのあたりの見当がつかないのが、感想が書けない理由でもあります。 作品は、ボクが見る限りですが、旅する複数の男女、あるいは男男と、その町に住んでいる人々との出会いによって描かれていますが、単なる名所めぐりではなくて、登場する人たちのそれぞれの体験や記憶という、別の時間が背景化されることで、町を映している映像の意味が重層化される印象が共通していました。 たとえば、この「群山」でも、一瞬、何時のことなのかわからない困惑に連れ込まれるシーンがあったりしたと思うのですが、そのあたりも、言葉にするにはボンヤリしてしまってうまくいえません。 もう一つは、たとえば「柳川」という、列島の西の端、九州の水郷の町を舞台にした作品では登場人物の名前が町の名前に重ねられることで、町の歴史と、そこにやってきた旅人の記憶が重ねられている印象が残りましたが、この「群山」では、主人公、旅する詩人ユンヨンの「母の生まれ故郷」という設定で、本人にはあり得ない「既視感」が映画を動かしているようなのですが、うまくいえませんね。 ついでに、もう一つ、九州で生まれて、今はこの町で、母の死を見たことで心を閉ざしているらしい娘と暮らしているという、宿の主人のキャラクター、尹東柱という日本で殺された詩人の名前の登場、なによりも、旅をしている主人公が詩人であるということが、かなり大切なつながりで描かれていたと思いました。 今、映画の中で生きている一人一人の記憶と朝鮮族という民族の歴史が出会う場所に、チャン・リュルという監督の、それぞれの作品があるという印象なのですが、うまくいえませんね。 静かで、穏やかな会話が記憶に残る作品でした。拍手!監督 チャン・リュル脚本 チャン・リュルキャストパク・ヘイル(ユンヨン)ムン・ソリ(ソンヒョン)チョン・ジニョンパク・ソダム2018年・121分・G・韓国原題「頌」2023・08・03・no103・元町映画館no194追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.30
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チャン・リュル「柳川」元町映画館 チャン・リュルという監督は、漢字で書けば張律だそうです。「慶州」という韓国の町を題名にした映画を見て、韓国の監督だと思い込んでいましたが、中国の監督なのだそうです。 元町映画館が2023年の7月に「柳川」、「群山」、「福岡」という、この監督の地名シリーズ(?)を順番にやっているというので、やって来たのが「柳川」です。 北京だかで暮らすおっさんコンビ、チュンとドンという兄弟ですが、が、昔馴染みの女性アー・チュアンが日本の柳川にいるというのでやって来て、ぶらぶらして、帰っていく話でした。 映画を見ている70歳に手が届こうかという老人の眼には、まあ、まだ若いのですが、実は、話の始まりに弟のドンが不治の病だか、余命何カ月だか、と宣告されて兄チュンと会うところから始まりました。 で、どうするのかなあ? と思っていると、二人が「あの頃」あこがれていた女性が、正式にはリウ・チュアンという名前で、漢字で書けば柳川、で、日本に柳川という町があって、彼女は、今、そこにいるらしいということで、二人は旅に出て、もちろん行先は「柳川」です。 何だか、おい!? おい?! という感じですが、映画の場合は、それでいいのですね(笑)。 で、やってきた柳川ですが、民宿というか、町中にそういう宿があるのか、という感じの宿に逗留して、だから、まあ、件の女性とも再会したりして、ほかにも、あれこれ、ほとんど語るほどのことではないようなことがあって、でも、再会した彼女が歌うジョン・レノンだか、オノ・ヨーコだかの歌に聞き惚れて、彼女が街角で踊り出す姿に見惚れて、宿の少女の様子が心にひっかかって、それって、おそらく、「今日」を生きることに浸ってい、世界を凝視しているかのように感じられる弟の心境というよりも、一緒にここに来て、なんとなく気遣っている兄の心境なのでしょうね、シーン、シーンが静かに心にしみたのでした。 で、弟の死が伝えられて映画は終わりました。 何処が、どうよかったということはうまくいえませんが、映画の本筋とは、何の関係もないのでしょうが、中野良子さんが飲み屋のおかみさんで出ていらっしゃったことが記憶に残りました(笑)。 チャン・リュルという監督は、どうも、ただものではありませんね。大げさにそうするのは、ちょっと違う気もしますが、拍手!でした。監督 チャン・リュル脚本 チャン・リュル撮影 パク・ジョンフン美術 ホウ・ジエ編集 オ・セニョン スン・イーシー リウ・シンジュー音楽 シャオホーキャストニー・ニー(アーチュアン)チャン・ルーイー(ドン)シン・バイチン(チュン)池松壮亮(中山大樹)中野良子(居酒屋の女将)新音(中山の娘)2021年・112分・G・中国原題「漫⾧的告白 Yanagawa」2023・07・28・no98・元町映画館no191 !
2024.01.08
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チウ・ション「郊外の鳥たち」シネ・リーブル神戸 現代中国の若い映画監督に興味があります。ビー・ガンという人の「凱里ブルース」とか「ロングデイズ・ジャーニー」、グー・シャオガンという人の「春江水暖」とか、ここのところ、興味深く見た作品が目白押しなのですが、中でも、若くして亡くなってしまったらしいフー・ボーという監督の「象は静かに座っている」に強く惹かれました。まあ、そのあたりから中国の若い才能からは目が離せないという気分です。 で、今回見たのはチウ・ションという若い(?)監督の「郊外の鳥たち」という作品です。 上のチラシの写真もそうですが、望遠鏡のレンズごしの視野に映っている向うの世界の風景から映画は始まりました。 望遠鏡といっても天体観測に使われるあれではなくて、トランシットといいますが、土地の上下を観測する測量用の機器に取り付けられている小型の望遠鏡です。 具体的にどこの都市の話なのかは分かりませんが、遠景に高層ビルが立ち並び、近景には再開発の取り壊しが進んでいる瓦礫の山や立ち退きが指示されてている中層の古いアパートが映し出されますが、この構図は最近の中国映画の定型の一つだと思います。 現代中国の映画監督たちには、1940年代から30年続いた毛沢東の中国、1980年以降、20世紀末に至る鄧小平の中国、そして現代の習近平の中国という、三つの社会が、まあ、毛沢東以前を入れると四つの社会が意識されているようで、それが、映画に映し出される風景の描写として定型的に構図化されていると思います。この作品も、そういう背景の上に描かれていたと思いました。 もっとも、ボクが、この映画の冒頭で、一気に惹き寄せられた理由はトランシットと箱尺にの登場によってです。理由は個人的なことです。 実は、まあ、もう40年以上も昔のの学生時代のことなのですが、箱尺を担いで測量の助手をやるというアルバイトでのりくち、イヤ、糊口をしのいでいたことがあるのです。この映画で主人公のハオくんとアリくんが交代でやっていたあの役です。 で、ちょっと関係ないような話なのですが、この映画を見ていて気になったのが箱尺を置く位置についてでした。外部から区切られた工事現場なら問題ないのでしょうが、普通の土地の高低や距離を確認する作業で大切なのは基準になるポイントですね。40年前に驚いたことですが、国土地理院によって標準地図として描かれている土地には、まあ、だから、列島全土ですね、何百メートル刻みだか忘れましたが、コンクリートの杭の頭に金属のボタンのようなものがついている測量の基準点が地面に埋め込んであるのですね。 アルバイトの初日、地図を広げて「これ、さがせ!」 って言われた時の困惑と、指示された藪の中を歩き回ってそのボタンを見つけたときの驚きというか喜びというかは忘れられませんね。 で、この映画にもどると、トランシットの望遠鏡によって時間を超えるという着想は、まあ、ありきたりではあるのですが面白いのです。双眼鏡を小道具にして、過去と未来を双方向化したアイディアも冴えていました。で、時間をテーマにした結果、当然、「変化」ということが浮かび上がってくるわけですが、この映画では「陥没」という現象を「変化」の象徴として描こうとしているようにボクには見えました。「世界が沈み始めている!」 というわけです。で、それは主人公であるらしいハオ君の記憶の中にある、不可解と結びついて映画の物語を構成します。あの時、消えていった友達=鳥たちは、大きな穴に落ち込んでしまったのだ。 まあ、そんな感じでしょうか。しかし、問題は「穴」、あるいは「陥没」の正体なのじゃないかと見ているボクは思うのです。「陥没」を確かめるのにトランシットの水平をいうのはわかります。でもね、箱尺を置く基準点があいまいだと変化の実相は解らないんじゃないでしょうか。ボクは、そこのところにこの監督の、まあ、ちょっとエラそうに言いますが、未熟さのようなものを感じました。80年代のアメリカ映画が繰り返し回想の少年時代を撮りました。1970年代初頭のアメリカ社会が被写体でした。この映画にも、名画「スタンド・バイ・ミー」を彷彿とさせる少年たちの姿が映し出されています。同じようなスタイルを踏襲して回想するには、回想する理由が監督チウ・ションにはあるはずなのです。しかし、80年代のアメリカ映画には必ずあった、少年たちの、その後の10年、端的に言って、アメリカ映画のそれは、ベトナムの泥沼の10年だったわけですが、その現実を語るクレジットがこの映画にはありません。主人公が追う不可解な謎は、野原で昼寝をしている夢の世界へと回収されているだけです。「逃げたな?!」 観ているボクはそう思いました。うがちすぎかもしれませんが、郊外の鳥たちが消えていったこの10年に、映画が描いている中国社会で陥没が始まり、その陥没の始まりの原因と穴の正体、鳥たちの行方をこそをこの映画は撮りたかったのではないでしょうか。 この10年とは、習近平の中国の10年です。香港の映画制作者の多くが政治的亡命を余儀なくされ、直近では、2022年、甘粛省の貧しい夫婦の姿を「小さき麦の花」という作品で描いたリー・ルイジュン監督が映画を撮ることを禁じんられた10年です。もしも、チウ・ション監督が基準点を明らかにし、陥没していく世界の実相を思うままに描き出す作品としてこの映画を完成させていたら、ボクはまちがいなく拍手するでしょうが、その結果、一人の映画作家が未来を閉ざされる可能性も感じます。 藪の中で夢に落ちていく主人公を映し出すラストシーンは、今という時代の困難を暗示して、文字通り、現代的な作品の結末だとボクは思いました。 チウ・ションという若い監督のあふれる才能には目を瞠る思いでしたが、作品には納得しきれませんでした。しかし、彼は、いつか、どこかで、すごい作品を期待させてくれたことは確かです。拍手はその時までおいておきたいと思います(笑)。監督 チウ・ション脚本 チウ・ション ウー・シンシア撮影 シュー・ランジュン美術 ユー・ズーヤン編集 ジン・ディー リアオ・チンスン音楽 シアン・ホーキャストメイソン・リー(ハオ)ゴン・ズーハン(ハオ子供時代)ホアン・ルー(ツバメ)チエン・シュエンイー(キツネ)シュー・シュオ(ティン)チェン・イーハオ(黒炭)チェン・イーハオ(太っちょ)シュー・チョンフイ(じいさん)シアオ・シアオ(ハン)ドン・ジン(アリ)ワン・シンユー(課長)2018年・114分・PG12・中国原題「郊区的鳥」「Suburban Birds」2023・05・01-no057・シネ・リーブル神戸no192
2023.05.20
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リー・ルイジュン「小さき麦の花」シネ・リーブル神戸 どうも、土間という感じの室内のようですが、土壁に四角い穴が開いていて、そこから30秒間隔くらいで土(?)が放り出されてきます。映画を観終えた後も、このシーンが浮かんできます。そんなシーンで映画が始まりました。 リー・ルイジュン監督の「小さき麦の花」です。 原題は「隠入塵煙」で、英語の題が「Return to Dust」ですから、「土埃の中に消えていく」というニュアンスでしょうね。邦題の「小さき麦の花」は寡黙この上ない貧しい夫婦である有鉄ヨウティエ(ウー・レンリン)と貴英クイイン(ハイ・チン)の二人の間で、唯一、情愛の表現として映し出されるシーンに由来しているようです。 もう、40代なのではないかと見える、まあ、実に貧相で時代についていけない男である有鉄(ヨウティエ)と「体は悪いし、子供も産めない」貴英(クイイン)という女性の結婚話が物語の発端でした。 舞台は甘粛省の農村のようですから、中国の西の果て、もうそのあたりから砂漠が始まっている農村でのお話です。 それぞれの家の厄介者が片付くという周囲の思惑で二人は一緒になります。二人の結婚をからかうものはいますが、きちんと祝福するものは誰もいません。 男は女を連れて、「これが墓なのか!?」 と,あらためてスクリーンを見直してしまうような、砂漠の真ん中に少し大きめの石が置かれている家族の墓に結婚を報告し、紙のお金(纸钱 zhǐqián)を燃やして祈ります。二人は、離農の結果でしょうか、点在するあばら家のような空き家に暮らし始めます。ロバと男と女の話でした。ちなみに、上に書いた最初のシーンは男がロバの小屋(部屋?)の敷き藁を掃除しているシーンでした。 で、二人の生活なのですが、所謂、初夜の夜、女が「オネショ」をして呆然としてるシーンから始まりました。男は知らんふりで起き上がり、小屋の外に出て、帰ってきて、また向こうを向いて眠ったようです。「なんなんだ!?」 やがて、畑を耕し、借りてきた麦の種を撒き、これまた借りてきた卵を孵化させ、包子を蒸し、という二人の暮らしが映し出されていきます。美しく貧しい生活です。 農村振興政策とかで、二人は住んでいる空き家を追い出されます。空き家の所有者が、空き家を処分すれば金が出るらしいのです。町に住んでいた空き家の持ち主がやって来て、二人を追い立てます。で、住んでいた家を失うことになった男は土レンガ作りはじめます。泥土を練って、型に入れて地面に並べ干すだけのレンガです。二人が暮らす家を作るつもりのようです。嵐の夜、二人して干してあったレンガを身を挺して守ります。 やがて、新居は出来上がります。一頭のロバと数羽の鶏と数匹の豚が財産です。畑には、穂をつけた麦、トウモロコシ、そして日々の野菜が育っています。軒下からはツバメが巣立ち、雨樋がわりの空きビンが美しい音を響かせます。裸電球の電灯と懐中電灯以外、電気製品はありません。BMWを乗りまわす若い奴がいて、スマホもテレビもある現代の話です。 暮らしが生活の姿をし始めたある日、男が女に言います。「トウモロコシが売れたら、町の病院で診てもらおう。」「生まれてから今日まで、一度も町には行ったことがないのよ。」 女の、恥ずかしそうな笑顔が二人の生活のクライマックスでした。。 映画はここでは終わりませんでした。終わっていれば、清く、貧しく、美しい、いつかの時代にあったかもしれない「愛」が描かれていた映画として記憶に残ったと思います。 ここから映し出されたラストシーンまでの30分間ほどの映像の中に、監督リー・ルイジュン李睿珺の現実認識が凝縮されていました。 ネタバレになりますが書いておこうと思います。 二人が話し合った翌日でしょうか、女が水路に落ちて亡くなります。男は女をあの墓に一人で葬り、村の人に借りていた卵や麦のお金を支払って回り、あらゆる場面で男を助けたロバを砂漠に放ち、新築した家をブルドーザーが壊していくシーンとともにスクリーンから消えてしまいます。 女の死は水路に落ちるという事故によるものでしたが、その結果、男が投げ出されたのは、まさに、役立たずの二人が、泥にまみれて支え合うことで、初めて手に入れたはずの大切なものが土埃の中に消えてしまった場所でした。そして、それが、とりもなおさず私たちが生きているこの世界だということを突き付けて映画は終わりました。 観終えたぼくは、原題「隠入塵煙」が「Return to Dust」と英訳してあったことにようやく納得がいくのですが、男はどこに消えたのでしょう。あるいは、私たちはどこに行こうとしているのでしょうね。 中国ではこの監督に、今後、映画を撮ること禁じたそうです。甘粛省の観客が「我々はこんなに貧しくない」 と抗議したからという理由だそうですが、現代中国に限らず、現代の資本主義が徹底して破壊し、隠蔽している本来の豊かさを映し出したこの映画を権力者たちが禁じるのは、ある意味で当然だと思いました。 一万数千元の「農村振興費」を手に、男はどこへ行ったのでしょう。粗削りなストーリー展開ではあるのですが、静かに胸をかきむしられるという不思議な感慨を刻み付けらた作品でした。 貧しい夫婦を演じたウー・レンリン(マー・ヨウティ農夫)とハイ・チン(ツァオ・クイイン 妻)に拍手!。今頃、きっと砂漠をウロウロしているロバ君に拍手!。監督リー・ルイジュン李睿珺に拍手!。そして、美しく貧しい農村の風景に拍手!でした。 マア、なんというか、こういう映画がぼくは好きですね(笑)。リー・ルイジュンが次に、どこで、どんな作品を撮るのか、いや、撮れるのか、心配ですが、期待しますね。監督 リー・ルイジュン李睿珺脚本 リー・ルイジュン撮影 ワン・ウェイホア美術 リー・ルイジュン ハン・ターハイ編集 リー・ルイジュン音楽 ペイマン・ヤザニアンキャストウー・レンリン(マー・ヨウティ農夫)ハイ・チン(ツァオ・クイイン 妻)ヤン・クアンルイ(チャン・ヨンフーの息子)2022年・133分・G・中国原題「隠入塵煙」「Return to Dust」2023・03・03-no031・シネ・リーブル神戸no175
2023.03.14
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チャン・イーモウ「崖上のスパイ」シネリーブル神戸 予告編から気になっていました。現代中国製で、なんと1930年代の満州国を舞台にしたスパイ映画らしいということに興味を持ちました。聞くところによると監督も、現代中国映画界では名の知られた人のようです。 で、観たのがチャン・イーモウ監督の「崖上のスパイ」でした。観終えて思いましたが、これも邦題が変ですね。「崖上」を映画館の受付の人が「ガイジョウ」と読んでいましたが、そんな日本語の熟語あるんですかね?マア、そう読めるから熟語だといわれれば、そうなんですかですが、多分、起こっている状況に対して「がけっぷち」という意味で使われている原題「懸崖之上」を直訳して「崖上」ですませている感じが、ちょっとついていけません。 で、映画ですが、ちょっと呆れてしまいました。映像は悪くありません最初の雪の森林シーンから、尋問や虐殺のシーン、列車での逃亡シーン、なかなか見ごたえがあります。しかし、おそらく脚本なのでしょうが、個人的な感想に過ぎませんが、筋立ての細部に変なところが多すぎました。 最初に、ハテナ?だったのは、ソビエトから侵入するスパイに対峙する「満州国」の特務機関に日本人が一人もいないことでした。当然、映画の中に日本語による会話は一度も出てきません。続いて、潜入した4人のスパイが夫婦だったり、あたかも恋人同士だったりしたことです。それぞれ、1930年代の満州国や大日本帝国の後方かく乱を狙った潜入スパイを描いた映画としてはありえないんじゃないでしょうか。ついでに言えば、暗号解読書の取り扱いも安易ですし、スパイ・サスペンスではモグラと通称されるスリーパー・エージェント、まあ、一番。面白い役どころなのですが、その役で潜り込んでいる周乙ジョウ・イー(ホーフェイユー)の、最終的な行動も安易すぎます。それこそ、スパイはもっと非情ではないでしょうか。 なんだか、半分しらけながら見ていて、この映画のスパイたちが遂行している「ウートラ作戦」の、「ウートラ」の意味が「夜明け」というロシア語らしいことまでは我慢できたのですが、映画の終盤で満州国の反共体制を批判しながら、「明けない夜はない」という、「いったい、いつの時代のセリフなのか?」と耳を売ア違う台詞がスパイたちによって大真面目に口にされるに至って、「これって、中国の国策映画?」という気がして笑ってしまいました。 だって、映画は1930年代が舞台ですよ。で、舞台は満州ですよ。当人たちが共産主義者なのはわかりますが、日中戦争、国共合作から国共内戦を経て、毛沢東が主席として中華人民共和国を樹立するのは1949年ですよ。このあと20年近くの間、行方のしれない戦争が続くのが中国なのですからね。 ただ、「国策映画」云々は1930年代の国共合作の実態や、1932年に建国した満州国での反日帝的な民族運動について、まあ、何も知らないままの妄言ですから見当違いなのかもしれませんが、巨匠(?)チャン・イーモウ監督ということですが、少々杜撰な脚本だったのではないでしょうか(笑)。アカデミー賞の中国代表作だそうですが、なんだかなあでした。(笑)監督 チャン・イーモウ脚本 チュアン・ヨンシェン チャン・イーモウ撮影 チャオ・シャオティン音楽 チョ・ヨンウクキャスト張憲臣チャン・シエンチェン(チャン・イー)周乙ジョウ・イー(ホーフェイユー)王郁ワン・ユー(チン・ハイルー)小蘭シャオラン(リウ・ハオツン)楚良チュー・リャン(チュー・ヤーウェン)リー・ナイウェンニー・ダーホンユー・アイレイフェイ・ファンライ・チァインシャー・イー2021年・120分・PG12・中国原題「懸崖之上」「Cliff Walkers」2023・02・13-no017・シネリーブル神戸no174
2023.02.18
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ロウ・イエ「シャドウプレイ」シネ・リーブル神戸 2023年も、あっという間に2月になりました。早いものです。自分が誰とどんな約束をして、どこに行って、何をしなけばならないのかよくわからないまま日がたっています。 別に、大きなミスをしているわけでもないのですが、なんとなくし忘れたことがあるような気分がわだかっまて不安です。で、2月になって、初めての映画です。あてずっぽうで見た中国映画でしたがあたりでした。 実は有名な方らしいのですが、ぼくには初めての監督ロウ・イエの「シャドウプレイ完全版」です。 昨年、韓国映画で「警官の血」という作品を観ましたがよく似た趣向でした。親子デカ(刑事)ものとでもいうのでしょうか、警官って、親子でなるものなのですかね? それから、題が「シャドウプレイ」なのですが、昔、社会学者の鶴見和子が「影法師の仕事」と名付けて紹介した、イワン・イリイチという人の唱えた「シャドー・ワーク」という概念がありますが、あれは、女性の出産とか、女性に限りませんが家事労働とかのことで、この映画とは関係ありませんが、「影法師の仕事」というところが、かなりジャスト・ミートする感じの作品でした。 映画は広州の再開発を舞台に、悪徳不動産屋ジャン・ツーチョン(チン・ハオ)と組んでやりたい放題だた、政府の役人タン・イージエ(チャン・ソンウェン)殺害事件を捜査するヤン・ジャートン(ジン・ボーラン)という若い警官の姿を描いているのですが、30年前(1980年代、父の事件)と、そして、今、この時(210年代・ヤン刑事自身の事件)との、それぞれの「影法師」の存在をめぐってヤン刑事が苦闘(?)するクライム・ミステリーというかフィルム・ノワールというかの作品でした。 ちょっと困ったのは、二つの時代の映像が、かなり細切れに重ねられて、まあ、字幕に年代は出るのですが、どっちがどっちなのか、最初のうちは全く分からなかったことと、フィルム・ノワールとは云うものの、画面が、終始、暗いこともあって、女性の登場人物の見分けがぼくには出来なかったことですね。 ただ、後半の伏線回収というのでしょうか、謎解きが進むに従って、まあ、そこが狙いなのかどうかよくわかりませんが、2000年代の中国バブルの闇が一人の女に姿を変えて浮き上がってくる描き方が見えてきて感心しました。うまいものですね。 もっとも、この映画でボクが面白かったのは、80年代の老朽アパートの取り壊しと、異様な高層ビルの建設というシーンが最初に出てくるのですが、中華人民共和国、台湾、香港の三つ中国を背景にして現代中国が、実に重層的に描かれていたことでした。 監督ロウ・イエに拍手!でしたね。 大きなお世話ですが、チラシの裏に登場人物たちの系図がのっています。これをこれをしっかりご覧になっておくほうが、迷わなくていいかもしれませんね。監督 ロウ・イエ脚本メイ・フォンチウ・ユージエ マー・インリー撮影 ジェイク・ポロック音楽ヨハン・ヨハンソン ヨナス・コルストロプキャストジン・ボーラン(ヤン・ジャートン)ソン・ジア(リン・ホイ)チン・ハオ(ジャン・ツーチョン)マー・スーチュン(ヌオ)チャン・ソンウェン(タン・イージエ)ミシェル・チェン(リエン・アユン)エディソン・チャン(アレックス)2018年・129分・中国原題「風中有朶雨做的云」「The Shadow Play」2023・02・07-no015シネ・リーブル神戸no172
2023.02.09
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香港ドキュメンタリー映画工作者「理大囲城」元町映画館 「時代革命」と名付けられた香港の民主化運動の記録映画を、何とか見続けています。本作は2019年の香港民主化デモの中で起きた香港理工大学包囲事件を大学内部から記録したドキュメンタリーで、映像に映っている人物はもちろんですが、撮影者もすべて匿名で、もちろん中国や香港では上映禁止であろうフィルムです。元町映画館で1月28日から1週間限定上映です。 観た映画は「理大囲城」、英題は「Inside the Red Brick Wall」でした。 圧倒的なK察権力、いや、国家権力の前に、完膚なきまでに敗北していく香港の少年少女たちの姿が克明に記録されていました。「民主化」を求める少年たちを「暴徒」と名付けることによって、暴力を行使することに何の躊躇いもなくなった国家権力の前に、「民主化」の叫びがいかに無力であるかということを思い知らされるかの映像でしたが、果たしてそうでしょうか。 この映画は、敗者の手によって撮影され、映画化され、世界に向けて配信されています。映画のなかでも、権力による際限のない暴力の行使がSNSによって拡散されている様子が映し出されますが、ボクたちが忘れてはならない大切なことの一つがそこにあると思いました。 世界の片隅で暴力によって圧殺されてきた民主化の戦いは、おそらく数えきれないほどあるでしょう。そこでは真実を伝えることも、また、封殺されているのが現実なのだと思います。この映画には真実が記録されているとぼくは思いました。そして、その真実が何を語っているのか、という問いを突き付けている作品だと思いました。 ここ数年にわたって、観つづけてきた香港の民主化運動のドキュメントや戦いの場をテーマにしたドラマは、何よりも、まず、現代中国の真相を暴いていました。眼を覆いたくなるような全体主義の暴力が鮮やかに記録されていました。覇権国家中国を想定して、なし崩しの再軍備、軍拡を正当化する映像として、格好のフィルムと言えないわけではありません。しかし、忘れてはならないことは、そこには民主化を闘い続ける若者がいて、その真実を、文字通り、身を挺して伝えようとしている映画製作者がいるということではないでしょうか。 浅はかな隣国ヘイトを口にしながら憲法9条を戦後民主主義の小児病として笑うことがリアルポリティクスであるかの風潮が、世を覆っていますが、そういう愚かな発想をこそ撃つフィルムだとぼくは思いました。 カメラを回し続け、映画として配信した香港ドキュメンタリー映画工作者の皆さんに拍手!でした。 いや、それにしても、疲れました(笑)。監督 香港ドキュメンタリー映画工作者2020年・88分・香港原題「理大囲城」「Inside the Red Brick Wall」2023・01・31-no014・元町映画館no160
2023.02.02
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レックス・レン ラム・サム「少年たちの時代革命」元町映画館 2021年の香港映画です。レックス・レン、ラム・サムという二人の若い監督の共同制作の作品ですが、表現の自由が、ほぼ完全に弾圧されている中での制作のようです。 2019年の民主化運動の中で、抗議の自殺者が急増した現実を背景に、無力と孤独に追い詰められて、自ら命を絶とうとしているらしい少女を、少年たちが捜索し、思いとどまらせようと駆けまわる映画でした。 リアルなデモのドキュメンタリーなシーンの中で、少女の捜索をする少年たちとソーシャル・ワーカーの女性の、それぞれの、そして、お互いのドラマが展開するという作り方で、登場する少年や少女たちが、それぞれ絶望の一歩手前で自らの存在の在り方と向き合いながら「連帯」の可能性に手を差し伸べようとしているピュアなありさまを活写していた佳編だと思いました。 同じ年頃、知らない街のK察署の前で機動隊の出動をレポするという体験があったこと思い出しながら、映像の中にいる少年や少女たちの「幼さ」に、思わず、共感とも自嘲とも判然としないため息をついたりしながら観ていましたが、権力による取り調べの乱暴さを嘆く少女に、「死んでも許してはならない」 と声をかけるYYという、結局、死にたがることになる少女の言葉が突き刺さりました。 興味を失えば忘れて済ましたり、政治情勢の三文評論家然として話題にしたりすることができることとして、例えば、香港やウクライナを見物している風潮がはびこる社会に生きていますが、現場では、人間として「死んでも許してはならないこと」 が、日々起こっていることを、気づかせてくれる、真っすぐな作品でした。 弾圧下でデモの実況を撮ったレックス・レン ラム・サムという二人の監督と少年・少女たちに拍手!でした。 英語の題は「 May You Stay Forever Young」らしいのですが、ぼくはこっちの方がいいと思いましたね。映画の中で、中学生の少年のこんなセリフがあるのです。「大人になるって、この前まで、間違っていると考えていたことを、なんかの理由で変えられるらしいけど、それならボクは大人にはなりたくない。」 ねっ、ありがちなセリフなのですが、今の香港でこれを言われると、ありがちとは言えませんね。ボクはこの辺りに、作っている人の気持ちを感じるのですが、思い入れ過剰でしょうかね。監督 レックス・レン ラム・サムキャストユー・ジーウィン(YY:女子高生)レイ・プイイー(ジーユー:YYの友達)スン・クワントー(ナム:男子高校生)マヤ・ツァン(ベル:ナムの恋人)トン・カーファイ(ルイス)アイビー・パン(バウ:ソーシャルワーカー)ホー・ワイワー(バーニズム)スン・ツェン(ファイ)マック・ウィンサム(ゾーイ)2021年・86分・香港原題「少年」「 May You Stay Forever Young」2023・01・23-no009・元町映画館no158
2023.01.24
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レイ・ヨン「ソク・ソク」元町映画館 「香港映画祭2022」で上映された作品です。見た直後メモだけしか残せなくて、放ったらしになっていた作品ですが、備忘録として感想だけ書いておきます。 現代の香港が舞台で、登場人物はタクシーの運転手パクさん。演じていらっしゃるのはタイポーという名の俳優さんらしいのですが、実はボクのおとなりのお父さんにそっくりなことに、見始めて笑いそうでした。 お年は、たぶん、ボクと同じくらいだと思いました。ご家庭があって、奥さんも健在で、お子さんたちがいて、お孫さんもいらっしゃるようです。 で、その、タクシー運転手というお仕事からも引退間近な。このお父さんが、たぶん、同じくらいの年恰好のシングル・ファーザー暮らしをしているホイさんという男性と巡り合ったことで、自分の中にあることは気づいてはいたらしいのですが、「普通」に暮らすことで、自分自身に対しても隠してきていたらしい性的な志向性について、目覚めてしまうという映画でした。 決して、比喩的な作品ではなくて、リアリズムの作品だと思いましたが、今回の香港映画祭として上映された、他の映画が、現代香港の政治的状況を反映した作品群といってよかったわけで、その中では、際立って異色という印象を持ちました。 しかし、一方で、オールド・ボーイズ・ラブに目覚める、この老人にとって、半生を過ごし、人並みの幸せを築いてきた「香港」という街に、今、暮らしているわけですが、あるシーンで、大陸から海を渡ってきた始まりの記憶がたどられるところに、どうも、この映画の肝がありそうだと思いました。 本当は大切だったはずの真実を隠し続けてきた男の半生が、ひょっととしたら相似的な真実を、おおい隠したまま歴史に葬り去られようとしている香港に重ねられているのでは、という予感ですね。それを、フト、感じました。 いずれにせよ、同年配の老人の、自らのアイデンティティに対する新た発見に、戸惑い、さまようかに見える主人公に拍手!でした。監督 レイ・ヨンキャストタイポーベン・ユエン2019年・92分・香港原題「叔・叔」「Twilight's Kiss」2022・12・16-no138・元町映画館no154
2023.01.03
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ジュン・リー「香港の流れ者たち」元町映画館 元町映画館で「香港映画祭」という特集プログラムをやっていました。チラシを見たときに、「これは!」と思ったのは民主化をテーマにしたドキュメンタリーの短編群でしたが、特集上映の期間が1週間と短く、狙った作品は見落としました。 で、何とかあてずっぽうでこの日に見たのはジュン・リーという監督の「香港の流れ者たち」という、香港のホームレスの人たちを描いたドラマでした。 あまり期待しないで見たのですが、見甲斐のある作品でした。原題は「濁水漂流」、英題が「Drifting」だそうです。邦題は、ちょっとピンボケの印象でした。 路上で暮らしているのは刑務所を出たばかりらしいファイ、ベトナム難民のラム爺、皿洗いのチャンと半身不随のランのという女性コンビ、ヘロイン中毒のダイセン、どこから来たのか、言語障害でハーモニカを吹く少年モクといった面々です。 刑務所帰りのファイが、久しぶりにヘロインに浸るシーンに重ねるように、町の美観を維持するという「公共の目的」にそって行われているのでしょう。「掃除」と称してテントや段ボールの住居が撤去され、持ち物は「ゴミ」として収集車に積み込まれ、ホームレスの人たちが、問答無用で、今日まで暮らしていた場所から排除されていくシーンが映し出されて映画は始まりました。 高速道路の陸橋の下という新しい場所を見つけて、新しい住居の建設とか、まあ、あれこれあるのですが、やがて、彼らを支援する、若くて健気な、女性ソーシャル・ワーカー、ホーの助言と協力で、所有物の返還と謝罪を求めて政府を相手にした訴訟の戦いが始まります。 一方で、ホーの努力で、行方のわからなかった息子と音信を取り戻したラム爺が喜びにあふれた笑顔を取り戻した翌日自ら命を絶つという事件が描かれ、家族のもとに保護された少年モクが高級住宅の一室に黙って座っている姿が描かれます。チャンとラムの女性コンビは公営住宅に入居することができようです。そんな中、裁判闘争は、政府に賠償金の支払いを命じるという勝利判決を勝ち取るのですが、しかし、あくまで「謝罪」を要求するファイには納得できません。で、善意の人であるホーには、ファイのこだわりが理解できません。彼女の、あくまでも、善意の努力がファイが暮らしてきた仲間との暮らしを破壊していきます。それは「掃除」という名で生きている人間を害虫を駆除していくかのように扱う権力のやり方とは別のかたちなのですが、ホームレスという現実を改善しようとすれば、そこにあった暮らしや人のつながりは破壊せざるを得ないわけです。 ホームレスであるということ以前に、たとえ、住む家を失った暮らしをしていても譲れないことがあるということが、あるいは、なぜ、ラム爺が自ら命を絶ったのかが、健気なホーに理解できたのかどうか、そこが、この映画の肝だったと、ぼくは思いました。「私は、仕事の義務でこうやってみんなの支援をしているんじゃないよ。」「オレたちには、君の支援を受けなければならないという義務はないよ。」 あくまでも「謝罪」を要求するファイに向かって、思わずホーが口にする言葉と、それに対して静かに答えたファイの言葉です。 ラストシーンで、燃え上がるファイの小屋の炎を見ながら、モクが吹くグリーン・スリーブスのハーモニカのメロディーにのって、この言葉が聞こえてくるような気がした映画でした。 直接、民主化運動の現実をテーマにしている映画ではありません。しかし、さすがですね。厳しい現実の中で培われたに違いないでしょう。人間存在の根本を問いかけてくる思想の深さを実感する作品でした。見た甲斐がありましたね(笑)監督 ジュン・リー(李駿碩)キャストフランシス・ンツェー・クワンホウロレッタ・リー2021年製作・112分・香港原題「濁水漂流」「Drifting」2022・12・13-no136・元町映画館no151
2022.12.19
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ウォン・カーウァイ「ブエノスアイレス」シネ・リーブル神戸 「やりなおす」ために、香港からアルゼンチンくんだりまでやって来たウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)の二人組がイグアスの滝への道中で道に迷い喧嘩別れするところから映画は始まりました。 恋人同士なのですね、この二人は。だから「やりなおす」っていうのには、そういう意味が、マア、あるわけです。考えてみれば、この映画も「男と女と自動車」で始まるんです。で、マア、ありがちなのですが、二人の関係(やっぱり、恋愛っていうべきですかね?)っていうのでしょうか、それを「やりなおす」はずなのに喧嘩しちゃうんです。そういう始まりです。マア、男と男ですけど。 「マア」ばっかり出てくるところに、見ているぼくの腰が引けてる感じが出ていますが、マア、引けてました(笑)。 で、イグアスの滝のシーンが、「映画全部の」というか、二人の関係のシンボルのように視覚というか、記憶に焼き付けられるのです。この撮り方、というか、シーンの挿入のしかたはウォン・カーウァイのほかの映画(数本しか見ていませんが)でも使われていた気がしますね。 南の島だったか、南の国だったかの緑の森のシーンとか、オートバイで疾走する高速道路やトンネルの、光のシーンとか、見ている人間に、何か、得体のしれないものを刷り込んでいくんです。 例えば、この映画のイグアスの滝の巨大な落下の俯瞰シーンは映画が男同士の「愛」を描いていることと、やっぱりリンクしていて、男女の「愛」の映画であれば、イグアスの滝の落下は使わなかったんじゃないでしょうか。 たとえば、流れに浮かぶ木の葉が、流れとともに落ちていきます。滝つぼ深く沈んでしまうこともあれば、滔々と流れ続けることもある。マア、二人の現世的関係は、そんなふうに描かれていると、見ているボクにはイメージが語り掛けるのですが、「落下」の計り知れない巨大さを二人が、ともに体験し、「哀しさ」というような言葉では説明しきれないのですが、古い言葉でいう「あはれ」に漂い続けていくリアリティが、別に、ゲイというわけでもないのに残るのですね。 正直、めんどうくさい話だったので、今更、筋は追いませんが、1997年の映画ということもあって、レスリー・チャン(ウィン)もトニー・レオン(ファイ)も若いのです。2020年を超えて、はじめてお二人のお顔を拝見するから、恥ずかしげもなくいえるのですが、そりゃあ、人気があったでしょうね、ボクでもほれぼれしちゃいましたから(笑)。監督 ウォン・カーウァイ脚本 ウォン・カーウァイ撮影 クリストファー・ドイル美術 ウィリアム・チャン編集 ウィリアム・チャンキャストレスリー・チャン(ウィン)トニー・レオン(ファイ)チャン・チェン(チャン)1997年・96分・G・香港原題「春光乍洩 」「Happy Together」日本初公開 1997年9月27日2022・09・21-no111・シネ・リーブル神戸no169
2022.11.15
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キウィ・チョウ「時代革命 Revolution of Our Times」元町映画館 あんまり元気が出なかった2022年の10月が終わります。月末の31日、金曜日、元町映画館で見たのはキウィ・チョウ監督のドキュメンタリー「時代革命」でした。チラシには「Revolution of Our Times」という英語表記が載せられています。「ぼくらの革命」とでも訳すのかな? と、まあ、のんきなことを思い浮かべながら見はじめましたが、徹底的に打ちのめされてしまいました。 映画は2019年の香港が舞台でした。「逃亡犯条例改正案」に反対する200万人を超える参加で闘われた民主化闘争のドキュメンタリーです。 「国家権力」は、個人に対して、本質的に暴力であることを、臆面もなくさらけ出すかのような、想像を絶する弾圧に対して、「光復香港、時代革命!」「香港人、加油!」とシュプレヒコールを繰り返し、闘い続ける「香港人」たちの姿を記録していました。 度重なる逮捕、拘束の結果でしょうか、明確な闘争目標を失い、際立つリーダーを失った市民、学生たちが「Be Water(流水革命)」を標榜しながら、ゲリラ戦を展開してる姿にこころを打たれながらも、その姿は「ぼくらの革命」などという、のんびりした言葉ではとても表せるものではないことを実感し、暗澹たる気分で見終えました。 言葉がありません。 「香港、加油!」とつぶやきなおしても、明るい結末が浮かぶわけでもないのですが、人類の、とりあえずの到達点である民主主義が崩壊していく過程が露骨に現出しつつある今、もう一度「香港、加油!」と声を上げるべき社会にぼくたちは生きていることだけは確かだと思いました。ぼくたちが暮らしている「日本」という国も例外ではありませんね。 弾圧の嵐の中で、この記録を残した監督キウィ・チョウに拍手!、戦い続ける「香港人」の人々に拍手!でした。監督 キウィ・チョウ2021年・158分・G・香港原題「時代革命 Revolution of Our Times」2022・10・31-no121・元町映画館no148
2022.11.01
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チャン・ジーウン「BLUE ISLAND 憂鬱之島」元町映画館 理由はわからないのですが、ここのところ行動力(まあ、そんな大したものははなからないのですが)がダウン気味で、例えば映画館に出かけるというようなことがプツンと止まっています。お天気が悪かったり、寒かったり、まあ、その日その日の理由はあるのですが、ホイホイ感がありません。 今日も、出かけようと思うと時雨れてきて、「ウーン???」となったのですが、「エイッ!」と出発してやって来たのが元町映画館です。 見たのは、チャン・ジーウン監督の新作「BLUE ISLAND 憂鬱之島」です。香港民主化運動を、そのまま撮って見せた「乱世備忘 ― 僕らの雨傘運動」で一世を風靡した、あの、チャン・ジーウンなのですが、驚いたことに、お客はまばらでした。チャン・ジーウンが「乱世備忘 ― 僕らの雨傘運動」を撮ったのは2014年です。それから8年の歳月、時代錯誤的な個人独裁の道を歩んでいるとしか思えない指導者(?)によって、資本主義的共産主義というインチキで人気をとりながら、全体主義の王道を歩んでいる国であるとでもいうしかない中国という、超大国が、香港の民主化運動を圧殺してきた歴史は、傍観者を決め込んでいる、ぼくのような、極東の島国の徘徊老人の目にも明らかです。 しかし、傍観者には、傍観者なりの意地もあるわけで、「20年後に信念を失っているのが怖いか?」と、あの映画で問いかけたチャン・ジーウン監督が、この、圧倒的な敗北の嵐の中で、映画監督として何をしているのか、何が可能なのか、それが知りたくてやって来た元町映画館でした。 見始めた当初は不思議な映画でした。監督当人が、どこかで、「ハイブリッド」と言っていましたが、「ドラマ」と「ドキュメンタリー」と「インタビュー」が混ざっていて、登場人物の顔をきちんと認証できない老人には、とりあえず意味不明でした。 若い男女が何者かから逃げるように、山中をさまよいながら、やがて海に出て、対岸を目指して泳ぎ始めます。次のシーンでは、その男性と同じ名前の老夫婦が民主化デモの雑踏の中で、手をつないで歩いています。「文化大革命」の混乱から、「香港」に逃げてきた老人が、あれから60年の生活を語りながら、「毛主席万歳」を叫ぶ「ドラマ」シーンを見て、照れ笑いをしています。「どうも、同じ人物らしい。」 映画の、たくらみが、ぼんやりと浮かび始めました。「天安門」の悲惨を語る少し若い老人が映ります。「香港」の今の映像が重ねられて、「軍が出てきたら、もうどうしようもない。」とつぶやきます。 若者たちが、口々に「香港人」と名乗り、催涙弾やゴム弾、あるいは、実弾さえも込められているらしい銃が、歩いていている市民に水平撃ちされ、逃げ遅れた人に襲い掛かって警棒による滅多打ち、殴る蹴るの暴行三昧の警官隊に対して、果敢に抵抗しているシーンが映ります。 シーンが変わって、インタビューに答える青年たちは、一様に「香港人」を名乗ります。 で、デモの行列の群衆の中で顔を見かけた老人が、港の公園でしょうか、入念に準備運動をし、水に入って、抜き手を切って泳ぎ始めます。自由を求めて、ここに来てここで暮らしている「香港人」の一人です。 この町で暮らし、自由を求めて戦い続けている若者、女性、子供、老人、彼らのこころを支える「香港人」というアイデンティティの歴史を描くことで、闘いの正統性と、思想性を訴えようというのが、おそらく、チャン・ジーウン監督の、この映画にかける意図だと思いました。中国現代史の闇を「香港人」という、不屈のアイデンティティにつないで見せた「歴史」に対する洞察は見事でした。 単なる、民主化運動のプロパガンダ作品ではなく、歴史に残る傑作だと思いました。チャン・ジーウン監督の不屈の闘志に拍手!そして、香港の人たちを始め、自由を求めて戦う人々に拍手! 香港の現状は、決して他人ごとではないのではないでしょうか。 ぼくは、「香港を、そして、香港人を忘れませんよ。」監督 チャン・ジーウン製作 ピーター・ヤム アンドリュー・チョイ 小林三四郎 馬奈木厳太郎撮影 ヤッルイ・シートォウ美術 ロッイー・チョイ編集 チャン・ジーウン音楽 ジャックラム・ホー ガーション・ウォンキャストチャン・ハックジー(チャン・ハックジー)ラム・イウキョン(ラム・イウキョン)アンソン・シェム(チャン・ハックジー)シウイェン(チャン・ハックジーの妻)フォン・チョンイン(ラム・イウキョン)2022年・97分・G・香港・日本合作原題「憂鬱之島 Blue Island」2022・10・25・元町映画館no147
2022.10.28
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ウォン・カーウァイ「欲望の翼」シネ・リーブル神戸 どこか南の国の緑の森(?)の俯瞰の映像が印象に残った映画でしたが、ここのとこる続けて見ているウォン・カーウァイ監督の3本目、「欲望の翼」をシネ・リーブルで見ました。 上のチラシは今回のウォン・カーウァイ監督特集のチラシですが、この映画は特集には入っていません。人気・便乗・上映です。いつものシネ・リーブルの倍以上のお客さんが座っていらっしゃいました。 緑の森の俯瞰の映像をボンヤリ見ながら「ああ、このシーン知ってるわ。」と、初物だと思い込んでいたこの監督を見たことがあることにようやく気付きました。ただ、覚えていたのは何度か繰り返されるそのシーンだけでした(笑)。 前回見たときに、幼児売買で売られ、買われて成長した主人公の青年 ヨディ(レスリー・チャン)の描かれ方に、マザー・シップに対する、ちょっと異常なこだわりがある気がして、そういう、話の展開に強く引っかかったことをふと思い出しましたが、今回は、全く気になりませんでした。 むしろ、登場する男女の関係の所在なさの撮り方が印象的でした。だからストーリーが頭に残らないのでしょうね。何通りかの男女関係が描かれていたと思いますが、どの関係も「確か」ではないのですね。 作品全体が、映画の最初のほうでヨディ(レスリー・チャン)が、売店の女の子(マギー・チャン)に語る「1分間の記憶」に喚起されたイメージに支えられた出来事の連鎖としてみていたのですが、地上に降りてくることができないのは、母に捨てられた人間の哀しみというよりも、人間そのものの哀しさとしてみました。 まあ、二度目に見ているわけですから、当たり前なのですが、ヨディと女性たちとの別れも、ヨディの唐突な死も、「きっとそうなるよな」という、予定不調和なのに、予想通りの展開でしたが、最後のシーンのトニー・レオンの登場は、やっぱりわかりませんでしたね(笑)。まあ、そういう登場のさせ方をする監督なのでしょうね。 それにしても、この映画が、結構人気があるらしいことが、やっぱりボクにはわかりませんでした。レスリー・チャンという俳優さんが人気がある(?)、あった(?)のでしょうか?ボクには、キンキ・キッズとかいう二人組の、丸顔の少年に見えるのですか(笑)。脚本・監督 ウォン・カーウァイ製作 ローヴァー・タン製作総指揮 アラン・タン美術 ウィリアム・チョン撮影 クリストファー・ドイル編集 パトリック・タム音楽 ザビア・クガート、ロス・インディオス・タバハラスキャストレスリー・チャン(ヨディ)マギー・チャン(スー・リーチェン)カリーナ・ラウ(ミミあるいはルル)アンディ・ラウ(タイド:警官)ジャッキー・チュン(サブ:ヨディの友達)レベッカ・パン(レベッカ:ヨディの養母)トニー・レオン(ギャンブラー)1990年・95分・香港原題「阿飛正傳」「 Days of Being Wild」日本初公開 1992年3月28日2022・09・17-no108・シネ・リーブル神戸no165
2022.10.04
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ウォン・カーウァイ「花様年華」シネ・リーブル神戸 ウォン・カーウァイ監督特集の2本目です。懲りませんね。1本目の「天使の涙」で、ほとんどギブ・アップだったのですが今日もやってきました。見たのはウォン・カーウァイ「花様年華」です。上のチラシの右側の写真の映画です。 主人公チャウを演じているのはトニー・レオンです。この人は知っていました。同じアパートに同じ日に越してきた、隣の旦那さんのチャウ(トニー・レオン)と、隣の奥さんのチャン夫人(マギー・チャン)の恋物語でした。 題名が「花様年華」です。洋楽のクリスマスソングなのか、中国の曲なのかよくわかりませんでしたが、音楽の曲名のようでしたが、この題では話の筋とのかかわりはよくわかりません。英題を見ると「In the Mood for Love」で、直訳すれば「愛の気分」とでもなるのでしょうか。すると、映画のムードと直結する気がします。 上にも書きましたが、隣の奥さんと旦那さんの恋愛めいたものがあって、実は、それぞれ旦那さんと奥さんも、互いに浮気しているという、映画でしかありそうもない(そうでもないか?)話なのですが、映画に撮られているお二人は、結局、自覚を拒否しているかのように「In the Mood for Love」の中で互いのせいで揺れながら、永遠に交差しない二本の綱を渡っていく、まあ、綱はありませんが、映画でした。その、それで、どうなるのが、手前数センチのところで揺れていて、なかなか、スリリングというか、いらいらする展開をトニー・レオンもマギー・チャンも見事に演じていました。 演出というか、撮り方で面白かったのは、二人の住む二つの部屋の関係が、建物の構造として全くわからなかったことと、チャン夫人が狭い階段を降りて出かけてゆく屋台(多分、屋台の食堂街)とやらがどこにあるのか、二人が出会う、片一方が壁の街角のどこなのか、べつにどうでもいいことかもしれませんが、やっぱりわからなかったのが、作品全編を通して感じた、昔のハヤリ言葉でいえば「の、ようなもの」の印象を支えていたことは間違いないわけで、そのつかみどころのなさがとてもいいなと感じました。 トニー・レオンとチャン夫人役のマギー・チャンに拍手!なのですが、特に、まあ、今さら何を言っているのか、なのでしょうが、トニー・レオンという役者さんは良いなと思いました。 ウォン・カーウァイ監督特集、3本目にチャレンジすることは、間違いなさそうです(笑)。監督 ウォン・カーウァイ製作 ウォン・カーウァイ脚本 ウォン・カーウァイ撮影 クリストファー・ドイル リー・ピンビン美術 ウィリアム・チャン衣装 ウィリアム・チャン編集 ウィリアム・チャンキャストトニー・レオン(チャウ)マギー・チャン(チャン夫人)スー・ピンラン(ピンさん チヤウ氏の友人)レベッカ・パン(スエン夫人アパートのマダム)ライ・チン(ホウ社長 チャン夫人の上司)2000年・98分・G・香港原題「花様年華 (かようねんか)」「In the Mood for Love」日本初公開 2001年3月31日シネ・リーブル神戸no164
2022.10.01
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ウォン・カーウァイ「天使の涙」シネ・リーブル神戸 前世紀の終わりごろ一世を風靡したと評判の映画監督ウォン・カーウァイの特集が神戸でも、シネ・リーブルで始まりました。 ここのところ、我が家の映画好きのトップランナーはピーチ姫なのですが、彼女が久しぶりに帰宅して言いました。「ウォン・カーウァイ見たで。おもろい。作り方が違うねん。」ウーン、謎の言葉ですが、神戸でも始まってしまったので見ないわけにはいきません。ウォン・カーウァイねえ、なんか、元町で見たような気もするのですが、記憶はあいまいです。きっと、玉砕したんでしょうねえ。 というわけで、ネット予約のページを広げてびっくり仰天でした。土・日の上映は、どの作品も、ほぼ、満席です。「あわわわわ!」 つい最近コロナに掴まって小心になっているシマクマ君は、出かけていく意欲を一気にそがれてしまいました。で、月曜日の図を見て、ようやく決心してやってきたのが「天使の涙」でした。 まあ、出だしからモンタージュということをとことん意識させられた作品でした。映画って、まあ、映像の組み合わせですから、当たり前なんですが、この作品は、ぼくにとっては、わざとわからないように貼り合わされたコラージュでしたね。5人の若い男女の登場人物が映像に登場しましたが、今、見ている、このシーンで、この彼は、この彼女は、何をしているのかと焦って見入るのですが、これがわからない。にもかかわらずシーンは印象的で、と思っていると殺し屋の待機部屋を片づけたゴミの山を相手に悶えている女がいたりするわけで。映し出される不思議な光景の組み合わせで、なんとなく、コイツがソイツとこうで、アイツとコイツは‥‥、あー、何がなんだかわかりません! まあ、書き続けるときりがないし、記憶も曖昧なので適当にしますが、なんとなく流れるような映像の印象で、チラシにもありますがオートバイで高速道路のトンネルを走り抜けるシーンが、映画全体のイメージとして残りました。 ああ、えらいことです。この監督、見続けるのは、ちょっとボクには大変そうですねえ。明日からどうしましょうねえ。 何となく納得がいかない帰り道、というか、この日は二本立て計画で、元町映画館にやってきたのですが、なじみのモギリ嬢がいたので声をかけました。「やあ、お元気?今から客やで。」「ハイ、元気ですよ。ありがとうございます。今日はどちらへ?」「シネで、ええーと、ワン・カーウェン見てきて、今からと、二本立てやねん。」「エッ?ああ、ウォン・カーウァイね。そうですか、でも、ワタシ苦手なんですウォン・カーウァイって。」「天使の涙っていうのやけどな。」「金城武が出てるやつでしたっけ?」「だれ、金城武って?目の細いやつ?」 でも、まあ、それから元町映画館で見た、この日二本目のドキュメンタリーが、チョー納得!だったので、ウォン・カーウァイ再チャレンジ失敗のショックは忘れてしまったのでした(笑)。「まあ、苦手な人もおるんや。ふふふ。」でした。今回は、どこに拍手していいのかわからないので、拍手はなしです(笑)監督 ウォン・カーウァイ製作 ジェフ・ラウ脚本 ウォン・カーウァイ撮影 クリストファー・ドイル美術 ウィリアム・チャン編集 ウィリアム・チャン ウォン・ミンラム音楽 フランキー・チャン ロエル・A・ガルシアキャストレオン・ライ(殺し屋)ミシェル・リー(エージェント)金城武(モウ)チャーリー・ヤン(失恋娘)カレン・モク(金髪の女)1995年・96分・G・香港原題「堕落天使」「 Fallen Angels」日本初公開 1996年6月29日2022・09・12-no103・シネ・リーブル神戸no163
2022.09.20
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グー・シャオガン「春江水暖」元町映画館 グー・シャオガンという中国の若い映画監督の「春江水暖」という映画を見たのは、昨年(2021年)の3月の中頃でした。2019年の暮れだったでしょうか、29歳で自ら命を絶った、フー・ボーという若い監督の「象は静かに座っている」という作品を見て圧倒されましたが、この映画も、負けず劣らず印象的でした。 グー・シャオガンとフー・ボー。二人は、ともに1988年生まれで、北京電影学院で「映画」を学んだ同窓です。 フー・ボーの作品を見ながら、もう数十年も昔に「ぼくもそうだった!」という共感と、主人公とともに、北のはての動物園の檻の中で静かに座っている象に会いに行こうとしながら、ためらう老人に、今、現在の自分の姿を重ねるという、幾分哀しい、重層化したリアルを味わったのですが、グー・シャオガンのこの作品「春江水暖」では、「家族」というくくりではよくあることなのかもしれませんが、いつか同じ「時間」を共有した人間 が、それぞれ違う「時間」の中で暮らしながら、ある時、ふと、同じ時間の中に戻ってくる体験、それは普通、誰かの葬儀とか結婚式とかで感じざるを得ない「時間」との出会いなのですが、その時の意識の感触は、いわゆる「記憶」とか「思い出」とは少し違うとぼくは思いますが、そんなふうな、また別の重層的な時間の世界がえがかれていました。 映画の中では、老齢の祖母の長寿のお祝いに集まった「家族」のそれぞれの肖像が重ねられる様子を見ながら浮かびあがってくる、「過去の時間」との出会いと、青年の長い長い遊泳シーンと、それを岸にそって追いかける女性という、ぼくにとっては、この映画の記憶として残るに違いない「二人の今の時間」を、出会っている自覚などもちろんないまま、まさに、生きている様子として、対比的に描かれていることに深く納得しました。 人が生きるという経験の中には、「時間」が重層化、あるいは多層化して流れていて、その時、その時の「時間」が、それぞれ流れている複数の空間を孕んでいるわけですが、一人一人が自分の世界として生きている、この重層化した個々の時間の世界を、実の自然の中に溶かし込んでいくかに見える映像の不思議をつくりだしているグー・シャオガン監督に、驚嘆の拍手!でした。 映画を見て、思い出したのが張若虚という初唐の詩人の「春江花月夜」という長詩です。まあ、題名の類似で「そういえば!」と探したにすぎませんが、面白いと思いました。「春江花月の夜」 張若虚春江の潮水、海に連なって平らかなり海上の明月、潮と共に生ず灔灔(えんえん)として 波に随うこと 千万里何処の春江か 月明無からん江は宛転として流れて 芳甸を遶(めぐ)り月は花林を照らして 皆霰に似たり空裏の流霜 飛ぶを覚えず汀上の白沙 看れども見えず江天一色にして 纖塵無く皎皎たる空中の弧月輪江畔 何人か 初めて人を照らせる人生 代々 窮まり已むなく江月 年々 祇(た)だ相似たり知らず 江月 何人を待つかを但だ見る 長江 流水を送るを白雲一片 去って悠々たり青楓浦上 愁いに勝えず誰家ぞ 今夜扁舟の子憐れむ可し 楼上 月徘徊し応に照らすべし 離人の粧鏡台玉戸 簾中 巻けども去らず擣衣の砧上 払えども還た来たる此の時 相望めど相聞かず願わくは 月華を逐うて 流れて君を照らさん鴻雁長飛して 光 渡らず魚龍潜躍して 水 文を成す昨夜 閑潭 落花を夢む憐れむ可し 春半ばなれども 家に還らず江水 春を流して 去って尽きんと欲し江潭の落月 復た西斜せり斜月沈々として 海霧に蔵れ碣石瀟湘 無限の路知らず 月に乗じて 幾人か帰る落月 情を揺るがして 江樹に満つ いかがでしょうか。白文と口語訳はいずれ追記で記したいと思います。監督 グー・シャオガン脚本グー・シャオガン撮影 ユー・ニンフイ ドン・シュー音楽 ドウ・ウェイ芸術コンサルタント メイ・フォンキャストチエン・ヨウファー(ヨウフー)ワン・フォンジュエン(フォンジュエン)ジャン・レンリアン(ヨウルー)ジャン・グオイン(アイン)スン・ジャンジェン(ヨウジン)スン・ジャンウェイ(ヨウホン)ドゥー・ホンジュン(ユーフォン)ポン・ルーチー(グーシー)ジュアン・イー(ジャン先生)ドン・ジェンヤン(ヤンヤン)スン・ズーカン(カンカン)ジャン・ルル(ルル)ムー・ウェイ(ワン)2019年・150分・G・中国原題「春江水暖」・「 Dwelling in the Fuchun Mountains」2021・03・15‐no23元町映画館no142追記2022・08・17 書きあぐねていた感想ですが、備忘録の意味もあるので、なんと書き終えてブログにのせました。引用した漢詩の白文は以下の通りです。「春江花月夜」 張若虚(白文)春江潮水連海平海上明月共潮生灔灔随波千万里何処春江無月明江流宛転遶芳甸月照花林皆似霰空裏流霜不覚飛汀上白沙看不見江天一色無纖塵皎皎空中弧月輪江畔何人初照人人生代々無窮已江月年々祇相似不知江月待何人但見長江送流水白雲一片去悠々青楓浦上不勝愁誰家今夜扁舟子可憐楼上月徘徊応照離人粧鏡台玉戸簾中巻不去擣衣砧上払還来此時相望不相聞願逐月華流照君鴻雁長飛光不渡魚龍潜躍水成文昨夜閑潭夢落花可憐春半不還家江水流春去欲尽江潭落月復西斜斜月沈々蔵海霧碣石瀟湘無限路不知乗月幾人帰落月揺情満江樹
2022.08.19
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チェン・カイコー陳凱歌「さらば、わが愛 覇王別姫」(1)Cinema Kobe 歌舞伎も浄瑠璃もちゃんと見たことがありません。中国の古典劇京劇も、たった一度だけ、北京だったかの劇場なのかレストランなのかよく分からない会場で見たことがありますが、演目なんて全く覚えていません。 その京劇のスター役者二人を主人公にした中国映画を観ました。チェン・カイコー陳凱歌監督の「さらば、わが愛 覇王別姫」です。1993年の中国映画で、翌年1994年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールに輝いた作品だそうです。映画が始まって、しばらくして、覇王別姫という題名が、史記、項羽本紀中の四面楚歌を元ネタにした楚の英雄項羽と愛妾虞美人の別れを描いた、京劇の、いわば十八番の一つであることに、ようやく気づきました。 大きな劇場のうすボンヤリとした舞台の上に二人の人間が歩み寄って立ち、舞台の奥からアナウンスの声が聞こえて、二人が名のある役者であることが伝えられ、舞台の照明が灯されます。覇王と虞美人の異形の装束がクローズアップされて映画が始まりました。 シーンは一転し、街角で芸を見せ、投げ銭を求める京劇一座と、それを興味深げに見つめる子ども抱いた女性が映し出されます。女は遊女で、子どもは片方の手に指が六本ある私生児でした。 女性は子供の余分の指を包丁で切り落とし、街角で芸を売る京劇の一座に捨て去るまでの、始まりのシーンで鷲づかみされました。 捨てられた少年(少女だとばかり思うほどかわいらしい)小豆子が、虐待まがいのというより、ただの虐待ですが、打たれ、殴られるという、折檻の繰り返しの中で鍛えられる一座で訓練されている少年たちの仲間に入り、頭突きの芸で拍手をとる、なかなか男らしい少年小石頭を兄と慕いはじめます。 まあ、こんなふうに語り始めるときりがありません。有名な映画です。ぼくが初めて見るだけで皆さんご存知でしょう。 小石頭と小豆子という二人の少年が、段小楼(チャン・フォンイー張豊毅)と程蝶衣(レスリー・チャン張國榮)と名乗る人気コンビ役者に成長し、1930年代から1980年代までの、まさに激動の中国現代史の50年を、古めかしい伝統芸能、京劇の舞台で覇王と虞美人を演じるスターとして歩む悲劇を描いていました。 誰も客のいない舞台の中央で、虞美人(程蝶衣)が覇王(段小楼)の腰の名刀に手をかけ自らの首をはねようとする最後のシーンで、小豆子が一座を脱走し役者になることに目覚めたあの日に、ともに脱走しながら、仲間の折檻の責任をとって自ら命を絶った小癩子の姿のシーンや、段小楼ドァン・シャオロウを愛しながら、文化大革命の最中、紅衛兵の追及の中で程蝶衣と段小楼に裏切られ、同じく命を絶った菊仙ジューシェン(コン・リー鞏俐)の姿のシーンが頭に浮かんできました。 人間の「愛」や「夢」の、その奥にある、限りなくイノセントでナイーブな心の美しさと哀れさを重層的に描いた傑作だと思いました。 まずは、小豆子、小石頭、小癩子を演じた少年たちに拍手!。 お次は、史記に書き残こされた歴史悲劇を、京劇という芸能の世界と激動の現代史に重ね合わせ、見事に立体化して見せた監督チェン・カイコー陳凱歌に拍手!。 そして、レスリー・チャン、チャン・フォンイー、コン・リーという、まあ、三人の主役たちの中ではチャン・フォンイーという役者さんがいいなと思いましたが、三人とも拍手!ですね。 いやー、見事なものですね。172分、堪能しました(笑)。監督 チェン・カイコー陳凱歌原作 リー・ピクワー李 碧華脚本 チェン・カイコー リー・ピクワー撮影 クー・チャンウェイ音楽 チャオ・チーピンキャストレスリー・チャン張國榮(程蝶衣チェン・ディエイー)チャン・フォンイー張豊毅(段小楼ドァン・シャオロウ)コン・リー鞏俐(菊仙ジューシェン)フェイ・カンチー・イートンマー・ミンウェイイン・チーフェイ・ヤンチャオ・ハイロン1993年第46回カンヌ国際映画祭パルム・ドール1993年・172分・中国・香港・台湾合作原題「覇王別姫」「 Farewell My Concubine」日本初公開1994年2月11日2022・06・29・no88・Cinema Kobe no8
2022.07.01
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ソンタルジャ「陽に灼けた道」元町映画館 映画ドットコム 「映画で旅する世界」という企画で見ました。ソンタルジャというチベット(中国)の監督の「陽に灼けた道」という、成年と老人の出会いを描いた作品でした。 今回の企画で3本のソンタルジャ作品を見ましたが、これがデビュー作だそうです。五体投地の巡礼映画も、他の監督の作品も含めて、今回初めて、何本か見て驚くことが多かったのですが、この作品もラサへの巡礼を描いた作品でした。ただし、帰り道です。 偶然の事故で母親を死なせてしまった青年が、母の遺灰を荷物に忍ばせてラサへ巡礼します。こう書くと簡単そうに聞こえますが、実際は1000キロを超える五体投地を一人で成し遂げるわけで、今回のチベット映画で繰り返し見て、見るたびに信じられない気持ちになった行為なのです。ただ、この作品はその巡礼を成し遂げたにもかかわらず、不機嫌そのものの青年と彼が乗り合わせていた帰りのバスで隣り合った老人の出会いの話でした。 青年はほとんど口をききません、老人は生涯の夢でありながら自分には実行できなかった巡礼をやり遂げながら、不機嫌そのものの青年が気にかかって仕方がないようです。 人とかかわりあうのを嫌がる青年ニマ(イシェ・ルンドゥプ)が、バスを降りてしまうと、老人(ロチ)もついて降りてしまいます。凸凹コンビのロード・ムービーの始まりというわけです。 「帰るところ」を失った青年と老人の旅の物語とでもいえばいいのでしょうか。青年の家族の消息は語られませんが、老人の帰宅の遅れは家族から心配されています。にもかかわらず、老人は青年を放っておけないのです。いわば、おせっかいです。ラマだか何だかのフンで焚火をして暖をとり野宿する老人と青年の姿を見ながら、「ああ、二人とも帰りたくないんだな」とふと感じました。 老人が青年の世話を焼くモチベーションが、物語的には弱いといえば弱いのですが、彼もまた「帰りたくない」という気持ちなのではないかということは、自分自身に重ねてわかったような気がしました。 ぼくにとって、この作品の良さはそこでした。人が年を取るということなのか、生きていること納得のいかなさなのか、そのあたりは定かではないのですが、映像が投げかけてくるなにかには共感しました。 それにしても、チベット高原の荒涼とした風景が背景にあることが映画を支えていることは確かですね。 不機嫌な顔を続けてほとんど何もしゃべらなかった青年ニマを演じたイシェ・ルンドゥプと余計なおせっかい老人をおろかに演じたロチという俳優さんに拍手!でした。監督 ソンタルジャ脚本 ソンタルジャ美術 パクパジャプ録音 ドゥッカル・ツェラン作曲 ドゥッカル・ツェラン歌 ドゥッカル・ツェランキャストイシェ・ルンドゥプ(ニマ)ロチ(老人)カルザン・リンチェン(ニマの兄)2010年・89分・中国原題「The Sun Beaten Path」2021・11・08‐no105 元町映画館(no106)
2022.01.13
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ペマ・ツェテン「オールド・ドッグ」元町映画館 映画.com 「老人と犬」の話でした。犬はチベタン・マスティフという希少種だそうで、映画の彼(?)は、なかなか愛嬌のある大型犬でした。老人は草原で犬とともに生涯遊牧で暮らしてきた頑固者です。映画は「オールド・ドッグ」。監督は最近「羊飼いと風船」という作品を見たペマ・ツェテンです。 「犬が売れる」というのが、雄大なチベット高原に、ふもとから吹き上げてきた「現代社会」の風でした。老人に言わせると「バカ息子」である青年がオートバイに乗り、綱で引いた老人の愛犬を町の業者に売りに行くところから映画は始まりました。 1000元が2000元に、親戚の警官があいだに入ると3000元になりました。1元が10円から15円くらいでしょうから、1万円から5万円くらいでしょうか。 放牧暮らしの老父の愛犬を小遣い稼ぎに売り払おうという目論見ですが、事情知った老人が馬に乗って犬をとり返しに行きます。 で、この乗馬姿が「かっこいいのなんのって」と感心していると、今度はイヌ泥棒はやって来るわ、別口でやって来た新しい買い手は1万元、2万元と桁違いの値段を吹っかけてくるわ、老人の老犬をめぐって大わらわなのですが、さて老人はどうしたのか? まず、老犬を山に逃がそうとします。山といってもただの山ではありません。チベット高原の背後にそびえる山岳です。ところが、逃がしたはずの愛犬は犬泥棒の手に落ちます。老人は、またしても、馬に乗ってとり返しに出かけます。 今度は大金をちらつかせて、買い取りたいという男があらわれます。金額の桁が違います。しかし、老人は、有無を言わせず拒絶します。 このところ老人が気にかけているのは息子夫婦の間に子供ができないことです。息子の妻が病院から帰宅し、自分には問題がないらしいことを老人に告げます。そんなやりとりががあった天気の良い昼下がりのシーンです。 映画.com 草原に老人と老犬の姿があります。この一人と一匹のあいだにどんな会話がかわされたのか、それはわかりません。 おもむろに立ち上がった老人は、犬の首につけた綱を手にとり歩き始めます。老犬は素直に従います。やがて、老人は放牧地の柵の柱に綱をかけ、力いっぱい引き絞っていきます。老犬は一声も上げずぐったりとなったようです。 映画はそこで終わったと思いますが、よく覚えていません。もう一度チベット高原の遠景が映し出されたかもしれません。 老人が愛犬とチベットの自然の中で暮らしてきた「誇り高き」生涯が、見ているぼくの胸に「ドーン」と投げ込まれたようなズッシリしたものを感じました。 頑固一徹な老人(ロチ)と愛嬌のあるチベット犬に拍手!監督 ペマ・ツェテン製作 サンジェ・ジャンツォ脚本 ペマ・ツェテンてんきのよい撮影 ソンタルジャ音楽 ドゥッカル・ツェランキャストロチ(老父)ドルマキャプ(息子)タムディンツォ(息子の妻)2011年・88分・中国原題「老狗Old Dog」no962021・11・02・no103・元町映画館no96
2021.12.14
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ソンタルジャ「草原の河」元町映画館 「映画で旅する世界」の特集で見た2本目のチベット映画です。ソンタルジャというチベットの監督の「草原の河」という作品です。 見終えて、邦題の「草原」はいらないと思いました。チベットとかモンゴルとの映画には「草原の」と枕詞をつけると・・・、という感じなのでしょうが、監督の原題が「河」とエンドロールで出てくるのを見ながら、「なんだかなあ」という気分になりました。 5歳くらいでしょうか。上のポスターに後ろ姿で映っている少女、ヤンチェン・ラモちゃんのお母さんは、二人目の赤ちゃんを身ごもっています。ラモちゃんは、このところお母さんのおっぱいが恋しくてなりません。で、こうやって遠くの山を眺めていたりします。 お母さんは、畑に麦撒きをしながら「こうして土に埋めておけば春になったらたくさんの麦になるのよ。」とラモちゃんに教えます。それを聞いたラモちゃんは、大切はクマのぬいぐるみを、こっそり土に埋めて、たくさんのクマさんになるよう祈ります。 ある日、オオカミがおうちの近所にやってきて、放牧しているヤギさんたちを襲います。で、子ヤギさんのお母さんが食べられててしまいました。残された子ヤギさんは、おうちの近くの柵の中で飼うことになりました。 で、ラモちゃんは、一人ぼっちになってしまった子ヤギさんと仲良くなります。まだ、小さいラモちゃんですが、友だちになった子ヤギさんにおっぱいをあげたり、柵で囲ってオオカミから守ったり、一生懸命世話をします。なのに、父さんは、子ヤギさんを他のヤギさんたちの群れに追い返します。で、おおぜいの仲間についていけない子ヤギさんははぐれヤギになってしまい・・・・。 チベットの草原の、厳しくも、豊かで美しい自然や、縺れたり、切れ切れになったり、もう一度結び直したりする家族の絆を5歳の少女の目を通して描いている映画でした。 出会うと、すぐにいじめたりからかったりしてくる近所の男の子たちとか、大好きなおっぱいをラモちゃんから取り上げる原因らしい、お母さんのおなかの赤ちゃんのこととか、オジーちゃんのことをいつも悪く言いうお父さんとか、ラモちゃんにも悲しいことや辛いこと言はたくさんあります。 中でも、お父さんがラモちゃんをオートバイに乗せて、山で修行しているオジーちゃんの所に連れて行ってくれたときに、自分は会おうとしないばかりか、お母さんが用意してくれたお土産の麦こがしを捨ててしまったことを、お母さんには黙っているように言ったりするのはわけが分かりません。 家族と別れ、河の向こうの山の洞窟に住んで、村の人たちからは「立派な行者」として尊敬されているオジーちゃんですが、お父さんは死にそうになっていたオバーちゃんに冷たかったオジーちゃんを許すことが出来ないらしいのです。 まあ、こんなふうに書いていくと、延々と書くことがあるのですが、映画の終わりになって、そんなお父さんとオジーちゃんのあいだに立ったラモちゃんが「春になったら、お母さんの新しい赤ちゃんや、ぬいぐるみのクマさんの赤ちゃんたちが、みんな生まれてくるよ。」と、二人の仲直りをとりなすかのようなシーンの美しさは忘れられないシーンになりそうでした。 ラモちゃんを演じたヤンチェン・ラモさんは上海の映画祭で主演女優賞をとったそうですが、さもありなんという存在感としぐさや表情でした。イヤ、ホント拍手!するしかないですね。監督 ソンタルジャ脚本 ソンタルジャ撮影 ワン・モン美術 タクツェ・トンドゥプ音楽 ドゥッカル・ツェランエンドタイトル音楽 ダンゼン・チージャキャストヤンチェン・ラモ(ヤンチェン・ラモ:少女)ルンゼン・ドルマ(ルクドル:母)グル・ツェテン(グル:父)2015年・98分・G・中国 原題「河 Gtsngbo」2021・11・01・no102・元町映画館no93
2021.11.28
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ソンタルジャ「巡礼の約束」元町映画館 「映画で旅する世界」という企画で見た4本目の作品です。チベット自治区の監督ソンタルジャの作品には、この企画で初めて出会いましたが「草原の河」に続いて2本目です。 前夫に死に別れ、息子ノルウ(スィチョクジャ)を実家に預けてロジェ(ヨンジョンジャ)と再婚した女性ウォマをニマソンソンという美しい女優さんが演じていて、映画の舞台であるチベット高原の東端、四川省ギャロンというところの美しい民族衣装をまとって映っている姿が印象に残りました。 映画は「美人薄命」の言葉通り、死を覚悟すべき病に侵されていることを悟ったウォマさんが、聖地ラサへの五体投地による巡礼を決意し、一人で出発するいきさつから始まります。 つい先日、この同じ企画のプログラムで「ラサへの歩き方」というチベット仏教の巡礼の映画を観たばかりということもあって、さほど驚くこともなく、「なるほど、そうか、そうか!」 という感じでしょうか、ちょっと余裕のある気分で見ていました。 女性の場合だけなのか、そこのところはよく分かりませんが、一人で「五体投地」の巡礼をする場合は、たぶんボランティアだと思うのですが、付き添いをする人もいるとか、ギャロンという土地は「ラサへの歩き方」の村よりも、もっと東にあるところで、一日に4キロから5キロぐらいしか進めないわけですから、カイラス山どころかラサまでたどり着くのに1年はかかりそうだとか、巡礼に関する知識が少しずつ増えるのがうれしくて見ていました。 ここから書くことは、ネタバレということになりそうですが、病を押して単独の巡礼行を決行したウォマさんの道中に、妻の病状を心配した夫ロルジェ、母に会いたい少年ノルウが同行しはじめ、彼女が非業の死を遂げるあたりからこの映画の輪郭が見え始めます。 ウォマさんに命がけの「巡礼」を決意させた、亡くなった前夫と交わした「約束」、死んでゆく母から、その志を引き継ぐ少年の「約束」、行半ばで倒れた妻を看取る夫のなかに生まれる新たな「約束」。 その三つの「約束」が1000キロを超える「五体投地」の「祈り」 のなかに込められていて、「なさぬ仲」の父と子の長い長い旅を支えていくというロード・ムービーがチベットの驚異的な自然の風景を横切っていく映画でした。 聖地ラサの宮殿を、峠の上から望む、旅の終わりのシーンは圧巻ですが、それにもまして、父ロルジェに散髪をしてもらう少年ノルウの告白が胸を打つラストシーンでした。 果てしない風景と時間のなかに、小さな「家族の肖像」をくっきりと描いたソンタルジャ監督に拍手! この映像なしには、この感動はあり得ないと実感させてくれるチベット高原の風景に拍手! ああ、そうだ、書き忘れていました。心の通じ合わない父と子のぎくしゃく巡礼には、実はもう一人の同行者がいます。登場のしかたは、もう、唐突としか言いようがないのですが、母親に死なれたロバの少年です。いや、まあ、動物のロバなのですが、実にいい存在感というか、役柄を演じているのです。 このロバを見ながらロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ」を思い出しました。当てずっぽうですが、監督のソンタルジャさんは、きっとあの映画のファンだと思いますね(笑)監督 ソンタルジャ製作 ヨンジョンジャ脚本 タシダワ ソンタルジャ撮影 ワン・ウェイホア美術 ツェラントンドゥプ タクツェトンドゥプ編集 ツェランワンシュク サンダクジャプ音楽 ヤン・ヨンキャストヨンジョンジャ(ロルジェ:夫)ニマソンソン(ウォマ:妻)スィチョクジャ(ノルウ:少年)ジンパ(ダンダル:隣人)2018年・109分・G・中国原題「阿拉姜色 Ala Changso」2021・11・05‐no104元町映画館no91
2021.11.11
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チャン・ヤン「ラサへの歩き方 祈りの2400km」元町映画館 「映画で旅する世界」という特集プログラムが元町映画館で始まりました。なんとなく題名に惹かれ、あてずっぽうで出かけた映画がチャン・ヤンという監督の「ラサへの歩き方」という、5年ほど前に撮られた中国映画でした。 中国といっても、チベット自治区を舞台にした映画で、上の地図にあるようにマルカムというところからラサという首都でポタラ宮殿という寺院というか行政府というかがある町に詣でて、そこからカイラス山という「チベット仏教」の聖山まで巡礼する話でした。 距離にして2400キロ だそうで、映画の中に流れている時間としては、風景の変化と子供の成長で「感じる」時間 なのですが、帰ってきて調べてみると、ほぼ、1年かけて「歩いた」話 だったようです。こういうのも、ロード・ムービーとかいうのでしょうか。 映画が始まってしばらくのあいだはドキュメンタリーだと思いこんで見ていましたが、旅の途中で勃発する事件というか事故というかが、あまりに劇的なので、なんか、ちょっとこれはと「脚色」を疑いました。人が生まれて死ぬという「実際」が10人ほどの旅の仲間のうちで、みんな起こるわけですから、いくらなんでも、ドキュメンタリーでは無理でしょうという気がしたわけです。 「生まれる」というのは、妊娠して、身重の身体なのに参加した女性が出産するという、まあ、信じられない出来事なのですが、その出産の現場もリアルに撮影していますし、その後の赤ん坊と母親の様子を見ていて、不自然とは思いませんでした。 「死」は、参加していた最高齢の老人が、カイラス山に近づいたあたりから体調をこわし、山のなかのテントで亡くなります。「鳥葬」を思わせる葬儀なのですが、その葬儀も山中で執り行われます。これまた、不自然な感じはしませんでしたが、この辺りは、さすがに脚色された「お芝居」だったのでしょうね。 見終えた感想はただ、ただ、うちのめされました! でした。 で、何に打ちのめされたのか。 映画は、村で巡礼の話が出て「それはいいことだ、私も参加する」というノリで、人が集まり始めるところから始まります。村の生活がリアルに撮られていて、まさに辺境ドキュメンタリーです。 で、その巡礼計画ですが、若夫婦が参加する家族のオバーチャンが「小さな子供の世話はわたしには大変だから、子供も連れて行きなさい。」とかいうのです。そういう会話を聞いている限り、「まあ、その程度のことなのだろう」 と高をくくって見てしまうと思いませんか? 参加者が決定していくプロセスでも「それにしても身重の女性とか、小さな子供まで1000キロを超えて歩いたりできるのかな?」そんな感じでした。 で、出発の朝がきます。幌馬車みたいな荷車をトラクターが引っ張っているのを見て、まだ高を括っていました。 「そうやろう、トラクターか、なるほどな。」 で、先頭をくるくる回る、あの独特の「摩尼車」というのだと思いますが、「自動お経唱え器」のようなものを手にした先導役の老人が歩き始めると、残りの人たちがエプロンのようなものをつけ、手に下駄状の、だから手下駄でしょうか、をつけて、一斉に始めたのです。五体投地! ぼくだって、言葉では知っています。大地に身を投げ出す。女も男も子供も老人も、何度かお祈りをして「エイ!」 とばかりに投げ出して、おでこを地面で打ちながらお祈りをする。立ち上がると数歩歩いて立ち止まり、再び「エイ!」です。 「マッ、まさかこれで2400キロ!?」 その、まさかでした。暮らしている村のはずれから、延々と、チベットの山々の中、ヒマラヤの向こうの、ものすごい風景の中の長い長い道を、五体投地で進み続けるのです。 信仰だの、教義だの、理屈だの、生活だの、私だの、あなただの、生だの、死だの、そういうことはともかく、数歩歩いて、むにゃむにゃ唱えて、「エイ!」 ただただ、目を瞠るシーンが延々と続きます。生まれたら背に負われて、死んだら上空を大鷲が待っている高い山の上に座らされて「エイ!」です。 見ているぼくは、何ともいえず頼りない「生」を生きていることをしみじみと実感しました。見ているときには、驚きに我を忘れていたのでしょう、あっけにとられる気分でしたが、帰り道をいつものように歩いていると、少女や子供をおぶったお母さんの「エイ!」の姿が思い浮かんできて、なんだかよく分からないのですが、涙が止まらなくなって困りました。もちろん、少女、その女性に同情したとか、かわいそうだと思ったとかではありません。 ただただ、打ちのめされたということなのでしょうね。それにしても、この迫力はただ事ではありませんね。うまく言えないのですが、自分の中で動くものを感じる映画でした。 「エイ!」と五体投地を繰り返し続けた十数人の村の人たちに拍手! 旅の途中に生まれてきて。お母さんの背中で五体投地しながら育っていった、かわいらしい赤ん坊テンジン君に拍手! ああ、そうだ、7歳で参加した少女タツォちゃんにも拍手! いやー、まいりました。すごいのなんのって(笑)監督 チャン・ヤン脚本 チャン・ヤン撮影 グオ・ダーミン2015年・118分・中国原題「岡仁波斉 Paths of the Soul」2021・10・29‐no101・元町映画館no90
2021.11.02
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ワン・ルイ「大地と白い雲」シネ・リーブル神戸 もう二十年ほども前のことですが、内モンゴル自治区の省都フフホトに、もちろんボランティアですが、臨時の日本語教員として数日間滞在したことが、何度かあります。ぼくの唯一の外国体験ですが、その時教室で出会った19歳の少女に出身地をたずねたところ、教室の後ろの壁に貼ってあった世界地図を指さして、笑顔で答えてくれました。「家族は、夏の今頃はこのあたりにいるはずです。フルンボイル草原です。知っていますか?満州里からバスに乗って半日くらいです。」「あなたは、この学校で日本語を勉強してどうしたいと考えているの?」「日本語検定をとって、日本に留学します。」 この映画の主人公を演じているタナという女優さんを見ていて、名前も忘れてしまった、その少女のことを思い出しました。どことなく似ているのです。 映画にはフルンボイル草原の大地と空が、始めから終わりまで、ずっと映っていました。草原を出ていきたい夫とここで暮らすという妻という若い夫婦の「生きていく場所」をめぐる争いというか、葛藤というか、が、「現代の出来事」として描かれていました。 面白いのは、草原のパオの中にスマホのためのWi-Fiを取り付け、互いに、顔を映しあうトランシーバーごっこするシーンでした。地の果ての草原にも「現代」が押し寄せているのです。 それにしても、馬が走り羊が群れている草原のシーン「速さ」や「勢い」、空や草原や湖の遠景の「広さ」が、人間の営みの「小ささ」を映し続けているのが印象的でした。これが「自然」なんです。 ぼく自身、もっと南の草原で、あの「遠さ」や「広さ」、「自然」の中に立ったことがあります。この映画が映し出す風景は、その記憶を超える「遠さ」、「広さ」だと思いましたが、果たして、暮らしていく場所として「そこ」にとどまり続けることができるのかどうか、考えさせられました。 「近さ」を人工的な道具に頼ることで作り出している現代社会の果てにある「そこ」にとどまるには、生半可ではない「意志」がいることを若い妻サロールの姿に感じながら、あの少女のことを思い出しました。 「日本に留学します」と、あの時、明るく笑ったあの少女は故郷に帰ったのでしょうか。監督 ワン・ルイ脚本 チェン・ピンキャストジリムトゥ(チョクト・夫)タナ(サロール・妻)ゲリルナスンイリチチナリトゥチナリトゥハスチチゲハスチチゲ2019年・111分・G・中国原題「白雲之下」 英題「Chaogtu with Sarula(チョクトとサロール)」2021・09・27‐no87シネ・リーブル神戸no121
2021.09.30
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チェン・ユーシュン「1秒先の彼女」シネ・リーブル神戸 2020年に作られた台湾の映画だそうです。チェン・ユーシュンという監督さんは、結構有名な方らしいのですが、ぼくは知らない人でした。映画は「1秒先の彼女」、中国語の題が「消失的情人節」だそうで、こっちの題のほうがおもしろそうですね。 郵便局で事務員さんをしている女性ヤン・シャオチーさんが、まあ、なんというか、面白いオネーさんで、やたら下ネタをいうのが、笑っていいのか、知らん顔をしていいのかわからない人でしたが、「1秒先」の人! でした。マア、ようするに慌て者ですね。 で、彼女の幼馴染だったらしいのですが、彼女は全く覚えていないバスの運転手をしているオニーさん、ウー・グアタイさんが「1秒後」の方! で、いわゆる引っ込み思案ですね。で、この1秒!が、まあ、ネタというわけでした。 映画というのは、いろんなことができるなあ、と感心したのですが、よく考えてみれば、「映像を止める」 というのは、まあ、実に古典的な方法なわけで、そんなによろこぶほどのことでもないんじゃないかとは思いながら、しかし、素直に笑えました。うまいものです。 時間が止まっている人間をマネキンみたいにしてポーズを取らせたり、おぶったり、タンスから突如、ヤモリの神様が登場したり、窓の向こうにラジオの映像が見えたりとか、なんだか、昔のテント芝居のごった返しを観ている感じで、そこに生まれてくる、まあ、ハチャメチャな「空間」(笑) が実に刺激的で、かつ、実にノスタルジックな気分にならせていただきました。 なかでも、海辺というか、海の中を走る通勤バスのシーンとかは、ノスタルジーを越えてうなりました。リアルな風景がイマジナリー空間へと見事に変貌していきました。「おー、これは、これは!うーん、やるな!」 そんな納得でした。「1秒先」の女性と、「1秒後」の男性の凸凹コンビの、凸凹の合わせ目をとても巧妙に現前させてみせてくれた、この映画の作り手の、このセンスと構成力をもっと見てみたい。そういう良い気分で映画は終わりました。拍手! ところが、帰り道に考えこんでしまいました。「1秒早く反応するというのは、1分に対して59秒しか使わないわけで、1秒遅れるというのは1分に対して61秒かかっているわけやから、時間が余るのは慌て者の方ちゃうんか。なんで、引っ込み思案の方に余るんや?」 もちろん結論は出ていませんが、映画の面白さとは、ほぼ、関係ありませんね。(笑)監督 チェン・ユーシュン脚本 チェン・ユーシュン撮影 チョウ・イーシェン美術 ワン・ジーチョン編集 ライ・シュウション音楽 ルー・リューミンキャストリウ・グァンティン(ウー・グアタイ)リー・ペイユー(ヤン・シャオチー)ダンカン・チョウ(リウ・ウェンセン)ヘイ・ジャアジャア(ペイ・ウェン)リン・メイシュウグー・バオミンチェン・ジューションリン・メイジャオホアン・リェンユーワン・ズーチャンチャン・フォンメイ2020年・119分・G・台湾原題「消失的情人節 」・「My Missing Valentine」2021・07・05-no61シネ・リーブル神戸no99
2021.07.10
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クロエ・ジャオ「ノマドランド」OSシネマズミント 感想を書きあぐねていたら2021年のアカデミー賞を取ってしまって、ますます書きにくくなってしまいました。 主役の女優さんが見たい一心で、普段はあまり行かないOSミントに出かけました。思ったほどの客数ではなくて、ちょっとホッとしましたが、映画は、中国系の女性監督クロエ・ジャオの撮った「ノマドランド」です。 住居の倉庫から、当面必要な荷物と、大事な食器のセット取り出し、自動車に積み込んでファーンが出発します。そこから、ただひたすら、ファーンを演じるフランシス・マクドーマンドという女優の表情を見つめ続けていた映画でした。ぼくは、この人が見たくてやってきたのです。 ちょっとした目の動き、首の傾げ方、話すときの口の動き方から目が離せない映画でした。どうしてそんなふうに見てしまっていたのか自分でもよくわからないのですが、映画の後半、もう終わりに近づいたころだったでしょうか、ファーンがかつて暮らした「家」に帰ってきて、だれも暮らさなくなった部屋を一つ一つ確認するようにのぞき込み、やがて、裏口のドアを開けて外に出ます。今まで生きてきた人生の大半、数十年という年月の間、毎日眺めて暮らした風景が遠くに映し出され、それを眺めるファーンの、いや、俳優フランシス・マクドーマンドの表情に見入りながら、涙が止まらなくなってしまいました。 このシーンに至るまで、ぼくには、ノマドの社会の「本物」のノマドたちと出会い、語り合うマクドーマンドの表情が、たとえば、明日からどこに移動して行くのかを語り、夜明けなのか、夕暮れなのか、薄暮の中で立っているリンダの表情には、とても及ばない「素人」に見えていました。 ドキュメンタリーなタッチで、ドラマを成立させようとしている映画のスリリングな冒険のようなものを感じ続けていたということかもしれません。 しかし、この帰郷のシーンでマクドーマンドの表情が変わりました。このシーンで、彼女はファーンの「我が家」であった建物に入り、荒れ果てた「生活の痕跡」 その一つ一つと再会し、裏庭にでて、遠くの山並みに向かって歩き出すかとみえて、しばらく佇みます。そこにはファーンの人生の風景がありました。 スクリーンには、その時、彼女が見ているものが映し出されていきます。 再び、カメラがマクドーマンドの表情に戻ってきたときに、はっとしました。そこには、臆することのない、ぼくが見たかったマクドーマンドがいました。もちろん、涙の痕跡などありません。彼女だからこその、思慮深く強気の表情がそこにありました。 そのとき、ぼくは俳優フランシス・マクドーマンドが、本物の「ノマド」になった、これは「スゴイ!」と感じていたのでした。 マクドーマンドはその時、「資本主義」という、得体のしれない怪物がファーンから奪っていった、一つ一つを見ながら何をしていたのでしょう。 哲学者の内山節という人が、「戦後思想の旅から」(草思社)という本の中で、こんなことを書いているのを読んだことがあります。 現状の社会の与える自由が、自由の本当の姿であるのかどうかを疑う勇気、そして新しい人間の価値を発見していこうとする意志が、自由を発展させる生命力ではなかったか。ラスキも次のように述べていた。「あらゆる自由を全うする秘訣は依然勇気である。」 ファーンを始め、この映画の登場人物たちは、「現状の社会」からすべてを奪われた人たちだといっていいと思います。しかし、リンダがそうしているに違いないように、たとえすべてを奪われてしまったにしても、生きている限り、「新しい人間の価値を発見しようとする意志」だけは捨てない、自由を希求する人間! であることをやめない人々の姿を映画は撮ろうとしていたと思いました。 その中に紛れ込んで、ここまで揺らぎ続けてきたファーンを演じていたマクドーマンドは、あのとき「過去」を捨てて、「未来」を向く、「帰ってゆくところ」を捨て、「出かけてゆくところ」を見つめる目をして立っていました。 ファーンは内山節の言う「自由」を奪い返さない限り「ノマド」にはなれません。あの意志的な表情で、自由を奪い返す、生き方は自分で決める「勇気」を、さりげなく演じきったマクドーマンドは、やはり、すばらしい俳優でした。彼女の表情を見つめ続けていた甲斐があったというものです。すばらしい!拍手!監督 クロエ・ジャオ原作 ジェシカ・ブルーダー脚本 クロエ・ジャオ撮影 ジョシュア・ジェームズ・リチャーズ編集 クロエ・ジャオ音楽 ルドビコ・エイナウディキャストフランシス・マクドーマンド(ファーン)デビッド・ストラザーン(デイブ)リンダ・メイ(リンダ)スワンキー(スワンキー)ボブ・ウェルズ(ボブ)2020年・108分・G・アメリカ原題「Nomadland」2021・03・26-no31 OSシネマズno10
2021.05.11
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ペマツェテン「羊飼いと風船」シネリーブル神戸 「あたたかさ」、「さわやかさ」、あるいは「きびしさ」と、いろいろ言葉を考えますがうまく言い表せない余韻を残してくれた映画でした。 チベット映画という触れ込みですが、中華人民共和国の「チベット自治区」を舞台にした映画です。そういう意味では「中国映画」ですが、ご覧になられればおわかりだと思います。これは、やはり、紛うかたなき「チベット映画」というべき、映画でした。 「羊飼いと風船」という題のとおり、まず草原の羊が主人公の映画かもしれません。映像に映し出される「羊を放牧する草原」、「腰に,生きている羊を括り付けてオートバイで運ぶ青年」、「遠くの山々」、「仏教に帰依する人々と生活」、「老人の死と葬儀」、「学校をやめて尼になる少女」、「仕事の合間に飲むお茶や食事」、「チベット語の書物」、どれもこれも、はっと目を瞠るシーンでした。「ああ、これがチベットなんだな」 そういう、「驚き」とも、「発見」とも少し違う印象深さが、この映画の、まず第一番の面白さでした。 ぼくは、おなじ中国の内モンゴル自治区で「日本語」を教えるボランティアをしたことがありますが、自然の雰囲気や、羊の扱い方や食べ方は、とてもよく似ていると思いました。 しかし、仏教と暮らしの結びつきの様子や、何といっても文字と言葉が大きく異なっているように思いました。「モンゴル語」も独特ですが、この映画に出てくる「チベット語」の文字や印刷物を、ぼくは初めて興味深く見ました。 こう書くと、地球の秘境のようなチベット高原の風物誌を描いた映画なのかと誤解されるかもしれませんが、違います。 間違いなく「現代」という時代と、「チベット自治区」という「小さな民族」と「中国」という「大きな国家」を描いた映画でした。 羊飼いの、若い夫婦が老いた父親の世話をしながら、三人の子どもを育てて暮らしている生活が描かれています。チラシの写真のシーンですが、夫婦の幼い子供たちが、なんと、両親の避妊具を膨らませた風船で遊んでいるエピソードから映画は始まりました。 妻ドルカルが四人目の子供を身ごもったことによって、「貧困」と「宗教」と中央政府の出産制限という「政策」が、辺境で暮らす「家族」の「穏やかな生活」を揺さぶり始めます。 身ごもった「いのち」と向き合うことで、女性として、母として、妻として「生きている」現実と向き合うドルカルを演じるソナム・ワンモという女優さんの「哀しみ」の表情と、涙を流す「眼」の美しさは忘れられないでしょう。 一方、素直な愚か者である夫タルギュを演じたジンパという男優の素朴な演技も印象に残りました。 ネタバレですが、上のチラシのなかにありますが、母親が留守になった子供たちに「赤い風船」を買って帰るオートバイが草原を走るシーンに続けて、子供たちが、その「赤い風船」をもって草原を走りだし、一つの風船がはじけてしまい、もう一つが、子供たちの手を離れ青空に舞い上がっていくラストシーンで映画は終わりました。 ぼくは、そのシーンの「美しさ」に感動しながら、大きな国に支配されている「チベット」の人々の、なんともいえない「哀しさ」を象徴したシーンに思えたのでしょう、思わず涙を流したのですが、それは、考え過ぎだったのでしょうか。監督 ペマツェテン脚本 ペマツェテン撮影 リュー・ソンイエ美術 タクツェ・トンドゥプ編集 リアオ・チンスン ジン・ディー音楽 ペイマン・ヤズダニアンキャストソナム・ワンモ(ドルカル:妻)ジンパ(タルギュ:夫) ヤンシクツォ(シャンチュ・ドルマ::妻の妹・尼)2019年・102分・G・中国原題「気球 Balloon」2021・02・25シネリーブルno84 大岡昇平の「事件」はこれです。創元推理文庫に入っているようですね。
2021.03.10
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ワン・ビン「死霊魂」元町映画館 ワン・ビン、漢字で書くと王兵、1967年生まれの監督らしいですが、これまでの彼の映画を、ただの1本だって見たことはありません。今回は「死霊魂」という題名には、少し及び腰になりましたが、506分という作品の長さに惹かれて予約しました。 今までに見た長尺映画といえば、ランズマンという人の「ショアShoah」の9時間30分が最長ですが、まだ、元気だった20年ほど昔に観ました。この作品は8時間30分で、二番目の長さです。昨年観たタル・ベーラ監督の「サタン・タンゴ」は7時間とちょっとでしたから、それよりも1時間以上長いわけです。 徘徊老人シマクマ君になってからは、最長の映画です。見ないわけにはいきませんね(なんでやねん!)。 帰りの時間を考えると、駐輪場が閉まってしまうのでバスで出かけました。元町映画館は66席のミニ・シアターですが、今回は33席の上映でした。ぼくには好都合でしたが結構すいていました。 お昼の12時30分に始まった映画は、途中2回の休憩をはさんで、21時30分に無事、終了しました。 あざとい「けれんみ」もなく、声高な主張や体制批判もない、話す人の表情を淡々と撮り続ける映画でした。 想田和弘監督の「観察映画」と自称するドキュメンタリー映画の手法がぼくは好きですが、あの感じと少し似ていると思いました。 映画のチラシには「我々の時代の『ショア』だ」という宣伝文句がありましたが、あの映画とは少し違うと思いました。 たしかに中国現代史の「闇」を抉り、白日の下にさらす「怒り」と「告発」の証言集のような趣で見ることは可能ですし、そう見るように宣伝されているようですが、ぼくの印象では「ショア」のランズマンにはカメラを「武器」にして、事実で「悪」を抉るような意図を感じたのですが、この映画は、最後まで、そういう政治的、社会的な意図を感じることはありませんでした。むしろ、ある時代を「生きて」、「死んだ」人々に対して、能うかぎり「零度の映像」として8時間30分、10年以上にわたって撮り続けたフィルムに焼き付けられた「事実」を差しだそうとする「静かな意志」 を感じました。 隠された事実を掘り起こし、生きている人の証言と生活を丁寧に記録しているこの映画が、おそらく、現代中国で公開されることはないだろうという意味で、中国が「収容所国家」であるということは明らかです。加えて、映像の中で語り続けられる証言によって、証言者たちが経験した共産主義の理想の「再教育」という政策が、「共産主義」とは縁もゆかりもない、権力の都合によって意図された政治的粛清事件であったことも明らかにされています。 しかし、同じ人物の10年を越えた、二度、ひょっとすると数度にわたるインタビュー、時間の経過とともに事実に気付き始める証言者の悲嘆、名誉回復が言葉遊びで出会ったことに対する絶望、証言者の隣に座り、自らも語り始める妻や、声をかける家族を撮り続けた監督ワン・ビンのこのフィルムには、センセーショナルな告発や批判を目的にした「熱」を感じることはありませんでした。 彼が描こうとしているものは、もっと、根源的な人間の有様であったように思えたのです。 甘粛省・夾辺溝・明水という地名を聞いて、ああ、あのあたりだと見当がつく人は、多分そんなにはいないのではないでしょうか。 「一帯一路」という習近平の経済政策が話題になっています。北京から2000キロ、新しい高速道路が計画されているそうですが、あの計画にでてくる中国地図の西北の果てです。歴史好きの人なら「敦煌」というシルクロードの都市の名を上げればイメージされるでしょうか。 映画のラスト、カメラマンの動きに合わせて動くデジタルカメラが、荒涼とした明水の砂漠を映し出しています。「再教育収容所」と名付けられた施設が、1950年代の終わりに設置され、1961年に閉鎖された跡地です。 半世紀の時間が流れたはずの大きな砂の窪地のような、かつての住居跡には、風にさらされた人骨があちらこちらに転がって放置されています。 カメラは立ちどまり、次の場所でまた立ち止まり、また、次の場所へと動き、足早に歩く足音と風の音が聞こえてきます。 枯れ枝を踏み、砂を蹴る足音と風の音が「事実」の重さを、ぼくの脳裏に刻み込んでいきます。クローズ・アップされた砂漠に転がっている髑髏(シャレコウベ)たちが訴えかけてきます。「どうか、この俺たちのことを忘れないでくれ。」 この映画が、最後になって「熱」を帯びた瞬間にエンドロールが廻りはじめた、そんな印象でした。 陳腐な事実隠しにうんざりし、コロナの猖獗になすすべもない権力を目の前にした2020年でしたが、年の暮れに、途方もなく大きな「悪」と、それでも前を向いて生き続ける人間の姿にゆっくりとうちのめされる8時間30分を経験しました。傑作です。監督 ワン・ビン王兵製作 セルジュ・ラルー カミーユ・ラエムレ ルイーズ・プリンス ワン・ビン撮影 ワン・ビン2018年・506分・フランス・スイス合作原題「Dead Souls」2020・12・26元町映画館no66追記2020・12・29 盛唐の詩人李白に「子夜呉歌」という漢詩があります。高校の教科書にも出てくる有名な詩ですが、「玉門関」に派遣された兵士の妻が、夫を想う詩です。この地の果ての地名が、この映画の舞台でした。 何となく、ぼくでも知っているということで思い浮かべた詩なのでここに載せておきます。 子夜呉歌 李白長安一片月 長安一片の月萬戸擣衣聲 萬戸衣を擣(う)つの聲秋風吹不盡 秋風吹いて盡きず總是玉關情 總て是れ玉關の情何日平胡虜 何れの日にか胡虜を平らげて良人罷遠征 良人遠征を罷めん
2020.12.29
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ビー・ガン「凱里ブルース」元町映画館 ビー・ガンという監督の作品は、これで2本目です。1本目は「ロングデイズ・ジャーニー」という作品で完敗しました。 世の「映画好き」の心を奪った作品だったようですが、ぼくは「意識」を奪われてしまいました。負け惜しみのような感想をくどくどと書いた覚えがありますが、そのビー・ガンのデビュー作を元町映画館でやっているというのです。「仇討ち」というか、「意趣返し」というか、見ないわけにはいかないじゃないですか。 気分は「虎視眈々」というか、「眼光炯々」というか、気合十分でやって来た元町映画館でした。作品は「凱里ブルース」です。 で、どうだったかって? 見事に返り討ちでした。 映画が始まって5分、異様な眠気が襲ってきました。別に疲労困憊とか、睡眠不足とかいう理由があるわけではないのですから、ビー・ガンの「たくらみ」にその理由があるとしか思えないのですが、意識朦朧では「たくらみ」を暴くことはできません。ただ、今回、不思議だったのは、30分ほど経過したところで、その襲いかかってくる眠気がピタリと止んだことです。 そこからはエンドロールまで約1時間、何の眠気もなしに見続けることができたのですが、見終えた結果、「これはすごい!」という納得がやって来たかというと、そういうわけにはいきませんでした。 今、チラシを見直してみても、大きく映っている女性が誰だったのかさえわからないのですから、まあ、「返り討ち」にあったことは間違いないようです。 しかし、このチラシをよくご覧ください。背景に空と山と高層ビルが映っていて、間に大きな女性の肖像があります。そして、手前の道路を二人乗りした人物とバイクが走っているという合成写真のようなのですが、これが、バイクの後ろに載っている男性の「夢」の世界なのです。 映画には、こんなシーンはありません。バイクに乗った二人は後ろから追いかけるカメラで写し続けられる世界から、やがて、時間も空間も迷路化している印象の映像へと変化していきますが、だから、何なんだ? と問うてしまうと、答えはなさそうです。 「たくらみ」を解く鍵になるのは「帰ってきた」ということのようですが、目の前の映像が映し出す世界を意味づけるはずの「帰ってきた」ということが、映像を見ている頭の中で、うまくシンクロしてくれません。 「ポエティックな彷徨」とかチラシに書かれていることも、一寸、癪にさわります。「もう一度見たら、ひょっとして。」とも思いましたが、まあ、いつか、どこかでの宿題ですね。完敗! 監督 ビー・ガン 脚本 ビー・ガン 撮影 ワン・ティアンシン 美術 ズー・ユン 編集 クィン・ヤナン 音楽 リン・チャン キャスト チェン・ヨンゾン ヅァオ・ダクィン ルオ・フェイヤン シエ・リクサン ゼン・シュアイ クィン・グァンクィアン ユ・シシュ グゥオ・ユエ リュ・リンヤン ヤン・ヅォファ 2015年・110分・中国 原題「路邊野餐 Kaili Blues」 2020・10・05元町映画館no55追記2020・10・06「ロングデイズ・ジャーニー」の感想はこちらからどうぞ。「完敗」の繰り言です。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.07
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ツァイ・ミンリャン「あなたの顔」元町映画館 2020年の8月も、もう28日です。金曜日ですが、今週は一日も出かけていません。酷暑が続いていますが、理由は暑さではなくて,「ヤボヨウ」をため込んでいたからです。 丸々、一週間閉じこもっていたせいでしょうか、とうとう辛抱しきれずに出かけました。行先は元町映画館、で、今日は、気にかかっていた「あなたの顔」が最終日です。 蔡明亮という監督は、かなり有名な人らしいのですが、評判の「精神0」と「れいこいるか」に挟まれたプログラムで、客は数人でした。 映画が始まったようです。画面いっぱいに、年配の女性の顔が映し出されています。女性は無言のまま目が動いています。口元が微妙に動いて、眼が別の方向を向きます。何分経ったでしょう。カメラは固定されているようで、女性の顔の位置は変わりません。フィルムはまわり続けていて女性の少しづつ変わる表情を映し出しています。「なにか、しゃべりたい?」 そんな声が聞こえてきて、会話が始まりました。なんだかホッとしましたが、これが13人つづきました。 居眠りをしていて、結局、何もしゃべらない老人もいました。もちろん、見ているぼくも居眠りをしてしかるべきだと思うのですが、寝ているのはスクリーンを大きな「顔」で占拠している老人でした。 最後に出てきたのがリー・カンションという、他の人に比べると少し若い男性でしたが、彼はよくしゃべりました。この人は俳優らしいですね。 無言の顔に、おしゃべりがつくと、何か意味があるように感じますね。黙った顔ばかり見ていると、「声」が無性に懐かしいのです。 一人当たり、おそらく5分を超えるクローズアップで、フィルムはまわり続けのワンカットです。客席のぼくは、ただ、ただ、見ず知らずの人の顔の形や目つきを眺めているだけです。 スクリーンにあるのは「顔」と、人によっては「声」がついています。ただそれだけ。クローズアップされて、何もしゃべらない「顏」って何でしょうね。 写真ではなく、映像だというところがポイントのような気がしました。チラシに13人の顔の写真が載っていますが、別人のようです。 映画は台北の中山会館のホールを映し出して終わりました。ここは歴史的にも有名なホールのようです。14番目の「顔」が中山会館のホールだったのですね。 何も起こらないことは予想がつきましたが、本当に何も起こらないまま、エンドロールが廻りはじめました。 最初に書いた「ヤボヨウ」は、新コロちゃん騒ぎの間、女子大生の皆さんとZOOMという初体験の装置でお話しした、レポートの成績付けだったのですが、その「授業」の時に、学生の皆さんのPCやスマホの画面に映し出されていたに違いない、「自分の顔」のことをふと思いました。本当は、彼女たちに何を見られていたのでしょうね。 監督 蔡明亮ツァイ・ミンリャン 製作 クロード・ワン 製作総指揮 ツァイ・ミンリャン ジェシー・シー 撮影 イアン・クー 編集 チャン・チョンユェン 音楽 坂本龍一 キャスト リー・カンション 2018年・76分・台湾 原題「Your Face」・「你的脸」 2020・08・28元町映画館no52追記2020・08・29 帰宅してみると、長い間、首相の座に居座っていたAという人の辞任が報じられていました。年が同じとだからかもしれませんが、この人の顔がぼくは嫌いです。まあ、顏だけではありませんが、不思議な醜さがあると思うんです。 繰り返し、さまざな「画面」上に映し出されてきた、醜い「顔」の露出も減るのかと思うと、ホッとしました。 それにしても「顔」って不思議ですね。普通、自分のにしろ、他人のにしろ、じっと見たりしないということに今日気付きました。ボタン押してね!にほんブログ村
2020.08.29
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ワン・シャオシュアイ「在りし日の歌」シネ・リーブル神戸 1980年頃からでしょうか、中国からやってくる、パンダの名前が「ランラン」とか「カンカン」とか、どうして二文字の繰り返しなのか不思議でした。もっとも、ぼくはパンダと出会ったことが一度もありませんから、それほどのこだわりはありませんが、この映画を観ていてわかりました。子供の愛称だったんですね。 この映画には「シンシン」と「ハオハオ」という二人の同い年の少年が登場します。双子のように誕生日まで一緒です。親同士も仲良しです。親友といってもよさそうです。見たのはワン・シャオシュアイ監督の「在りし日の歌」です。 1980年代でしょうか、子供の誕生日、一つのケーキを二人の子供が一緒に吹き消し、大人たちが破顔一笑するシーンがこの映画の始まりでした。 チラシの食卓シーンは、その少年の一人「シンシン」の家族の「在りし日」の写真です。食卓には炒め物と包子、茹でピーナツとスープと饅頭があります。夕食です。機械工の父親ヤオジュンは酒を飲みます。白酒、日本で言えば焼酎です。工場で働く母親のリーユンは左利きです。息子のシンシンは紅衛兵の赤いリボンをつけています。もちろん一人っ子です。 写真の貧しいながらも穏やかな夫婦の生活に、最初に入る亀裂はリーユンが二人目の子供を身籠ってしまうことです。「命令」なのか「自粛」なのか、「一人っ子政策」の政治的スローガンがBGMのように流れてきます。 血相を変えて彼女を病院に連れて行くのは「ハオハオ」の母親です。親友だったはずの女性でした。職場の上司として命令する「親友」のことばにリーユンは堕胎を余儀なくされ、出血が止まらない手術の失敗で二度と身ごもることができないことが暗示されます。 二つ目の亀裂は元気者の友達「ハオハオ」と遊んでいた、引っ込み思案の「シンシン」が、水辺の事故で命を落とすことです。 父親のリウ・ヤオジュンは息子を担いで病院へ走ります。しかし、息子を助けることはできませんでした。 二つの亀裂が原因なのでしょうか、二人は「友人・知人」と「住み慣れた町」を捨て南の町へ流れてゆきます。 言葉も通じない、友人もいない、誰も二人のことを知らない海辺の町で、働き、雨が降れば床が水浸しになる住居で暮らし続けます。故郷を捨てた二人は、その町でシンシンの身代わりでしょうか、男の子を養子にして育てています。 三つ目の亀裂は、年頃になった養子の男の子が二人のもとから去って行くことでした。ヤオジュンは、姓の違う「身分証明書」を息子に渡し、親でも子でもない関係、独立を認めます。義理の息子が去った家の食卓に、隠されていた昔の写真が置かれています。あのチラシの写真です。暗い食卓の上の明るい家族の写真が載っています。夫婦はもう若くありません。 ヨン・メイ という女優さんが演じる妻ワン・リーユンと、ワン・ジンチュンの演じる夫リウ・ヤオジュンの夫婦の物語でした。 失礼ですが、二人の俳優ともう一度 どこかで出会ったとしても、ぼくには、それがあの夫婦だったと気付くことはないでしょう。目立たない、何とも言いようない「普通の人たち」でした。 にもかかわらず、見終えて何日もたちましたが、和解したのでしょうか、家を去った男の子からの携帯電話に、二人が代わる代わる出るラストシーンが浮かび上がってきて涙が止まりません。 映画は「子ども」をうしなった母リーユンが夫ジンチュンと過ごした30数年の日々を描いていました。 3時間という長丁場の中で、二人以外の登場人物たちはさまざまに語り、意見を主張するのですが、二人はほとんどしゃべりません。表情も大きく動きません。特に、主人公である女性は、この映画で一番セリフが少ない役であるにもかかわらず、確かに主人公でした。 リーユンが一度だけ、涙をポロポロこぼすシーンが浮かんできます。堕胎を強要され、一人息子を失い、永遠に誰の「母」であることも出来なくなった涙でした。夫のジンチュンはなすすべなく、黙って妻の腕を掴むだけです。 寡黙なリーユンが一度だけ意思をはっきりと口にするシーンがありました。「あなたが離婚を望むなら、私は受け入れます。」 夫の裏切りを予感したリーユンのセリフです。ぼくは、正直ギョッとしましたが、夫のジンチュンは不倫を見通されていることを知り呆然としていました。たたみかけるように、リーユンの自殺のシーンが映り、ジンチュンは命を絶とうとした妻を、あの、一人息子シンシンの事故の時のように、無我夢中で担ぎあげ、文字通り、懸命に走ります。 映画の終盤に二人は、捨てた北の町に戻り、死んだ息子の墓に詣でます。20数年ぶりでしょうか。 母親は墓に供えた蜜柑を食べ、父親はあの頃のように白酒を飲みます。「在りし日」の写真の食卓のまま、息子の墓を間にして二人は座っています。 二人は見つめ合ったりするわけではありません。ただ、ボンヤリと街の風景を見ているだけです。 二人の目の前には「在りし日」とは様変わりした北の町がスモッグのなかで霞むように広がっています。文化大革命の失敗以来、「共産主義」的「資本主義」体制という、摩訶不思議な「国家資本主義」ともいうべき経済政策が作り上げた「新しい町」がそこに在りました。 年を取ったのでしょうか、こういうシーンが、かすかな「憤り」の気分を湧きあがらせながら、心をとらえて離しません。 あの時、堕胎を迫った友人は、大きなお屋敷の奥様として、南の町から臨終の場に駆け付けたリーユンに詫びながら「しあわせ」に息を引き取ります。「妊娠」の責任を押し付けるためだったのでしょうか、ジンチュンを不倫に誘った女性は白人との混血の少年を育ててアメリカで暮らしています。 シンシンを水辺に突き落した少年は、自らの過ちをリーュンとジンチュンに告白する誠実な医者になっています。 みんな、自分の生活を懸命に守り続けて、今があるのです。誰ひとり、主人公の夫婦を不幸に陥れようとした人はいません。 しかし、それならば、なぜ、「普通の生活」を生きてきたリーュンはこんなに寂しく孤独な人生を送らねばならなかったのでしょう。 これが、この映画がぼくに問いかけた「問い」でした。映画を見てから、考え続けていますが、うまくいえる答えはわかりません。しかし、正しいかどうとか、立派かどうかとか、そういうことは知りませんが、リーユンの生活こそが「普通の生活」だ ということはわかります。 エンド・ロールに「中国電影局」の上映許可のマークが映し出されるのを見ながら感じた違和感は、今でも感じ続けています。 映画に描かれたリーユンとその夫の人生の姿は、明らかな社会批判だと思うのですが、そんなことは歯牙にもかけないのが、中国に限らず、現代の社会なのでしょうか。 監督 ワン・シャオシュアイ 製作 ワン・シャオシュアイ 脚本 ワン・シャオシュアイ アー・メイ 撮影 キム・ヒョンソク 音楽 ドン・インダー キャスト ワン・ジンチュン(夫 リウ・ヤオジュン) ヨン・メイ (妻 ワン・リーユン) ワン・ユエン(二人の息子シンシン:リウ・シン) シュー・チョン(友人 シェン・インミン) アイ・リーヤー(友人の妻 リー・ハイイエン) ドゥー・ジャン(友人の息子ハオハオ:シェン・ハオ) チー・シー(シェン・モーリー) リー・ジンジン (ガオ・メイユー) チャオ・イエングオジャン(チャン・シンジエン) 2019年・185分・中国 原題「地久天長 」英題「So Long, My Son」 2020・06・16 シネ・リーブル神戸no64追記2020・08・27 映画館で見てから、二月以上も立ちますが、感じたことをうまく言葉にすることができません。 たとえば、新コロちゃん騒ぎで、実際に肺炎を患い苦しみぬいて命を落としている人がある筈ですが、マスメディアから聞こえてくる「ことば」はそういう、確かな現実をあっという間に忘れていくようです。 神戸の地震の時でもそうでした、笑いながら肉親の骨を探していた人と実際に出会うという体験は、ぼくのその後の考え方の底に残っていますが、やはり、忘れてはいけないことというのはあるのではないでしょうか。ボタン押してね!にほんブログ村
2020.08.28
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オリバー・チャン「淪落の人」元町映画館七月になって天気が悪い日が続いています。六月には元気に映画館徘徊を再開したのですが、ピタリと外出がとまり、ひたすら家の中でごろごろしていました。 今日は出かけようと目覚めるのですが、午前中の雨模様に気分がそがれてしまう毎日が続いています。 まあ、そういう暮らしなのですが、昨晩、元町映画館のスケジュールを調べていて、予告編で見ることに決めていたこの映画が最終日なのに気付きました。「淪落の人」です。 昨年、チャン・ジーウン監督の「乱世備忘 僕らの雨傘運動」というドキュメンタリーをこの映画館の二階の小部屋で見て以来「香港」が気にかかっています。 つい先日も、この運動の指導者が「香港」を、やむなく離れたというニュースを見て落ち着かない気持ちになったところです。 チラシによれば、この映画の主演アンソーニー・ウォンは、この運動の支持を表明し中国映画界からパージされている人のようです。そのアンソニー・ウォンがノー・ギャラで参加した映画らしいのです。 これは、やっぱり、見ないわけにはいかないなとは思ったのですが、朝起きてみると開映時刻に間に合うかどうかとか、クヨクヨし始めて中々席が立てません。「行くの?行かないの?」 チッチキ夫人から、叱咤の一声をいただいて、ようやく立ち上がりました。というわけで、なんとか元町映画館にたどり着きました。受付で、なじみのオネーさんとオニーさんに「お久しぶりです!」と声をかけてもらって、ちょっとホッとして席に着きました。 偶然の事故で半身不随になり、妻や家族からも、雇っていた家政婦からも捨てられた、もう、老人というべき年齢の男性のもとに、新しい家政婦がやってきます。 フィリピンから「理不尽」なDV男との離婚資金と家族の生活費を稼ぐために「香港」に出稼ぎにやって来た、やせっぽちの若い女性です。 老人男性は電動車椅子に乗らない限り、寝返りを打つこともできません。ベッドから車椅子に移ることも、一人ではできません。この役で、役者にできる演技はベッドに寝ているか、ベッドから落ちて動けないまま天井を見つめて夜を明かすか、車椅子に乗れば乗ったで、同じ姿勢で操作するか以外にはありません。 ホアキン・フェニクスが同じような役柄を元気に演じていた「ドント・ウォーリー」という映画を思い出しましたが、この映画ではアンソニー・ウォンでした。 ありきたりな言い方ですが、素晴らしい「眼の演技」でした。自らの人生の、絶望的な「不如意」に対して、我が儘な「伏し目」、不機嫌な「三白眼」で対処するしか方法を持たなかった老人が「目の輝き」をかえていく映画でした。 チラシでも、予告編でも取り上げられているシーンがあります。充電が切れて止まってしまった車椅子を家政婦エヴリン(クリセル・コンサンジ)が押して坂を上るのですが、「加油!スーパーウーマン!」とリョン・チョンウィン(アンソーニー・ウォン)が笑顔で叫ぶこのシーンにこそ、この映画の「よろこび」が輝いていました。やはりこういうシーンがぼくは好きです。 映画が2018年に大阪のアジアン映画祭に出品された時につけられた邦題は「みじめな人」だったそうです。原題を見れば「淪落人」、英訳は「Still Human」となっています。 「貧困」、「出稼ぎ労働者」、「身体障害」、「DV」、「老人」、「女性」、「棄民」、重層的な「みじめさ」にさらされ、共通の「言葉」も持たない二人の人間が「家政婦」と「雇い主」という関係で出会います。 「見下す人」と「見上げる人」を作り出している二人を取り巻く社会は「みじめな」二人が「人間」として出会うことに無関心です。 そんな「出会い」の二人をどうすれば「出会う」ことができるのか。見終えてみれば、監督のオリバー・チャンが何を語るためにこの映画を撮ったのは明らかだと感じました。 「人間である」ことの崖っぷちに生きることを強いられている「みじめな人」が「Still Human=それでも人間」であり続ける「希望」の可能性はどこにあるのでしょうか。 映画は厳しい目つきの雇い主が手抜きの掃除をする家政婦を見つめることから動き始めます。しかし、重度の身体障害者である雇い主こそが、住み込みで介護するフィリピン人の家政婦に「すべてを見られる」ことから逃れることはできません。 見る・見られるの相互性が、普段は見ることができない「恥辱」や「哀しみ」をさらけ出してしまいます。 しかし、互いが、絶望を深く知るからこそ、相手の「哀しみ」を「見る」ことが、自らの「孤独」の殻を破り始めるのです。そして、そこから「未来」が生まれます。 無口で無表情な家政婦とギョロギョロと相手を探り続ける老人の二人を映し続ける意図はそこにあると思いました。 細腕のDV被害者の女性が半身麻痺の老人の重い車椅子を押し、老人が世界に向かって「よろこび」にみちた叫びをあげます。「加油!スーパーウーマン!」 深い絶望にさらされた弱者の連帯にこそ「未来」は宿っています。「香港」の若い女性映画監督が、「自由」を叫び、その結果、仕事を奪われた俳優を主役に据えて、素朴な話法で「香港」の、そして人間の「希望」を語っている映画だと思いました。 「淪落の人」の手助けによって、若い家政婦が「夢」への旅立ちを果たす結末はありがちですが、別れる二人の表情が、ともに「哀しい」ところに、いたく共感しました。 引っ込み思案を叱咤してやって来た甲斐がありました。拍手! 監督 オリバー・チャン 製作 フルーツ・チャン 脚本 オリバー・チャン 撮影 デレク・シウ 美術 コニー・ラウ 衣装 マン・リンチュン コーラ・ン 編集 オリバー・チャン ウィルソン・ホー キャスト アンソニー・ウォン (リョン・チョンウィン:下半身麻痺の主人公) クリセル・コンサンジ(エヴリン・サントス:家政婦) サム・リー (ファイ:友人) セシリア・イップ(リョン・ジンイン:妹 ) ヒミー・ウォン リョン・チュンイン:息子) 2018年・112分・香港 原題「淪落人」「Still Human」 2020・07・17元町映画館no49ボタン押してね!
2020.07.22
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ウォン・カーウァイ「欲望の翼」元町映画館 「映画ウォッチ」というサイトにネタバレあらすじが紹介されています。 元町映画館が2020・3月の終わりから一週間限定でやっているウォン・カーウェイ監督プチ特集の二本目「欲望の翼」を目指して、不要・不急・外出自粛もなんのその、やって来たのは元町四丁目です。 商店街は思いのほか人通りがあって、うれしいような不安なような。まあ、幽霊街よりはこれの方がいいですね。 もっとも、座ってみると、映画館は少々寂しい限りでしたが、なにはともあれ始まりました。 やはり、暗いカウンター式の売店に男が現れて、コーラを買うシーンから始まりました。「やはり」と感じたのは一昨日見た「恋する惑星」の後味のせいです。 カウンター越しに男と女がいきなり意味ありげなことばを交わします。「一分間の友達」とか、「君がぼくと夢で逢う」とか、面白いのですが、さほど現実的とは思えない、こういうセリフも「恋する惑星」の後味と重なります。 ここから二人の、いや男の義母を入れると三人、実母を数えると四人の女と、三人の男の話でした。ストーリーを引っ張る、まあ、主役の男ヨディ(レスリー・チャン)の「母恋」という設定がイマイチなのです。ヨディが最初に出会った売店の女スー(マギー・チャン)とも、二人目の女ミミ(カリーナ・ラウ)ともうまくいかない、その上、義母と諍いし、フィリピンで実母を探すというお話を支えているのが「母恋」ということになるのですが、その引っ張り方は、ぼくにはあまり面白いとは思えませんでした。「一度しか地上に降りない『鳥』」という、おそらく詩の文句がエディによって繰り返し口にされるのですが、「マザコン野郎」のそういうセリには、一体どういう意味があるのか、後になって考えると、ちょっとついていけないものを感じてしまうわけです。 なぜ、後になってかというと、実は、この映画でのヨディの破滅への経緯は、最初のシーンで、売店のカウンターに突っ伏して寝たスーという女性の夢の中のシーンだと思い込んで見ていたからです。 その見方だからといって「マザコン問題」は解消されませんし、時折挿入される、ちょっとぼんやりした「フィリピンの密林」らしい俯瞰のシーンの意味がわからないのですが、それは、まあ、夢だからと納得しながら、死んだはずのヨディが最後のシーンで出て来て、よし!と思ったのです。 が、最後のシーンをぼんやり見ていると、そこに登場しているのは、これまで一度も出てこなかった別の人物(トニーレオン)だと気づいて、ワッチャー!で映画は終わりました。 さすがのぼくでも、こういう見損じは、なかなかないのですが、じゃあ、この映画は何だったんだといわれると、やっぱり夢の中の出来事じゃないかといいそうなのです。今回は、眠くはならなかったのですが、映像のムードが、どこか現実離れしている「夢遊」の印象で、仕事もしない青年の「マザコン」の末路の破滅だといわれると、「いや、やっぱりレスリー・チャンという俳優が最後に演じて、雲散霧消してしまった『夢』そのものでしょ。」といいたくなるのですが、ヤッパリ見損じ三振でしょうね。 でも、この監督の映画がどこかでかかれば、ヤッパリ見に行きますよ。一本ぐらい「よし、わかった!」がないとシャクですからね。 監督 ウォン・カーウァイ 製作 ローバー・タン 製作総指揮 アラン・タン 脚本 ウォン・カーウァイ 撮影 クリストファー・ドイル 美術 ウィリアム・チャン 編集 パトリック・タムキャスト レスリー・チャン (ヨディ) マギー・チャン(スー) カリーナ・ラウ (ミミ) トニー・レオン (???) アンディ・ラウ (タイド) ジャッキー・チュン(サブ)1990年 95分 香港 原題「阿飛正傳 Days of Being Wild」2020・04・02元町映画館no40追記2022・09・23 最近、この映画を見ました。二度目です。シネ・リーブル神戸がウォン・カーウァイ監督の特集と一緒に、プラス1で上映していました。2年前に見たときの、この感想には「母恋」とかにこだわって書いていますが、今回は、なんか、そういうことは全く意識できませんでした。 感想はべつに書いておこうと思いますが、問題は、2年前に、こうして見ていることを全く忘れていたことですね。映画のせいなのか、自分のせいなのか、それが、問題ですね。 ここの2年前の感想を読んでいて面白いのは、今回の印象とほとんど重ならないことです。母親とのやり取りも、さほどの違和感はなかったですし、「1分間」という最初の決め台詞も、そんなに印象に残らなかった。映画全体が主人公の「夢」だとは、もちろん、全く思わなかったし、書いた当人なのですが、どうも、映画の後味が、全く違うようです。で、本人は、今回初めて見ていると思い込んでたんですから、それも不思議。どうなっているのでしょうね。ボタン押してね!
2020.04.05
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ウォン・カーウァイ「恋する惑星」元町映画館 映画com 本日二本目は元町映画館が特集しているウォン・カーウァイという監督の香港映画の一本で「恋する惑星」です。香港映画初体験ですね。先週やる気なしの一週間だったので、今週は気合入りまくりの一週間のつもりで、シネ・リーブルから元町映画館へと転戦して来ました。「なんの新コロちゃん騒ぎ!」 という気合です。 ウォン・カーウァイという人はもちろん知りません。1990年代というのは、ぼくが映画館から最も遠ざかっていた十年です。意地になっていましたが、なぜ意地になっていたのかはわかりません。で、映画が始まりました。 不思議な感覚の映像象です。身体反応なのでしょうか、モーレツに眠い。この眠さはビー・ガンの「ロングデイズ・ジャーニー」の眠さとよく似ています。映像がスクリーンの上を滑っている感じです。カン違いかもしれませんが、色の感じもよく似ていると思いました。 見終わるまで、最初の金髪の女性と後半のフェイという女性が同じなのかちがうのか、何かフェイクのようなオチでつながるのか気になり続けていましたが、何の関係もなかったようで、アレレっていう感じで映画は終わりました。要するにお話が二つあったのですが、何が繋がっているのかよくわかりませんでした。 映画com テイクアウトのお店が仕掛けの起点なのはわかりますが、まあ、シンプルな設定であるなあ、と思いました。なんか、カメラが「軽い」感じなんですよね。 で、はまりました。なにが、どう魅力なのかよくわかりません。とてもシンプルにバカバカしいのですが、映画でしかできないような「感じ」が溢れています。ぼくには異様に眠気を催させる映像もあるのですが、あれも魅力の一つですね。 今週中に、もう一本の「欲望の翼」を見ようと決めて帰ってきました。二本見れば、気に入った理由が何かが、少しはわかるでしょう。そんな感じでした。監督 ウォン・カーウァイ 脚本 ウォン・カーウァイ 製作総指揮 チャン・イーチェン 製作 ジェフ・ラウ 撮影 クリストファー・ドイル アンドリュー・ラウ 美術 ウィリアム・チャン 音楽 フランキー・チャン ロエル・A・ガルシア 編集 ウィリアム・チャン カイ・キットウァイ クォン・チーリョン 字幕 岡田壯平 字幕監修 横井淳子 キャストトニー・レオン(警官633号)ブリジット・リン( 金髪の鬘の女)フェイ・ウォン(フェイ) 金城武(警官223号(モウ)) チャウ・カーリン(スチュワーデス)1994年・100分・香港原題「Chungking Express 重慶森林」2020・03・31元町映画館no38ボタン押してね!
2020.04.03
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ビー・ガン「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」シネ・リーブル神戸 学生時代からの友人で映画の話をブログとかに書いている人が二人いて、最近ツイッターとかで挨拶するようになった、映画好きの若い人が一人いる。ぼくは彼らの映画評を信用しているので、2018年から始めた映画徘徊の、いわば案内人ですね。 その三人が、封切りとほぼ同時に話題にしたのがこの映画「ロングデイズ・ジャーニー」でした。監督はビー・ガン、中国の二十代の人です。これはまいった。ど真ん中直球で好きな映画だ。まだ3月初めなのに、今年はこれと『象は静かに座っている』(フー・ボー監督)の2本で充分にお釣りが来る。監督はふたりとも中国人。いくら私がアジアン・ムービーを好きだとしても、この高打率はすごい。恐るべし、中国語映画。(ブログ「Bell Epoque」) バルトの「明るい部屋」、書きながら考えてる感じがめちゃくちゃ面白かった。写真論かと思いきや私的な愛の話。“そっくりであるというのは、愛にとって残酷な制度であり、しかもそれが、人を裏切る夢の定めなのである”で最近読んだ本が突き抜けた。 意図せず「ロングデイズ・ジャーニー」も突き抜けた。たぶんこれ3Dで観てたら戻ってこれてない。(ツイッター少年) ネッ、見ないわけにはいきませんでしょ。というわけで勇躍シネ・リーブルへやって来たシマクマ君です。会場はアネックス・ホールです。500人くらい入るホールですが、観客は4人。これは映画のせいではありません。「コロナ騒ぎ」の結果ですね。これでは「濃厚接触」の可能性は、ほぼありませんが、やがて「無観客」上映とかになったりして、フフフ。笑い事ではありませんね。とはいいながら、シマクマ君は今週6本目の映画です。こういうの「反社会的」行動というのでしょうか。 で、仰向けになった男の顔をジーッと撮っているシーンから映画が始まりました。「画面が暗い」それが最初の印象でしたが、最初の印象が最後まで続きました。筋が読めません。眠くて困りました。 ボンヤリ映像に見入っていると島尾敏雄の「夢の中の日常」という題名が浮かんできました。続けて、亡くなった古井由吉の「辻」を読んだ時のことを思い出しました。「夢」が現実と出会う場所、あるいは現実から夢へ入ってゆく場所として「辻」があったのではなかったか。眠いのに、次から次へと目の前のシーンとは何の関係もないことへ「想念」が湧きあがってきます。本当に眠り込んでしまいそうです。 泣きながらリンゴを齧る少年の姿が、朦朧としかかった意識を少し持ち直してくれました。相変わらず画面は暗いままです。 3Dを暗示するあたりから、画面が滑るような感じが加わって悪酔いしそうです。暴れる馬のシーンも、もう一度リンゴを齧るシーンも、母親に銃を向けるのシーンも眠気を払拭するには至りませんでした。呪文は唱えられましたが、2Dだからでしょうか、家が廻った感じはわかりませんでした。 前半のどこかに入り口があったのを見損なっていたのでしょうか。戻ってくるも何も、あちら側に入っていくことができないまま、実に暗示的な歌詞の主題歌が流れて、映画は終わってしまいました。 「映画の映画」という方法を、「意識の意識」という、人間にとって、ある意味で当たり前の、多層的な知覚と意識の底を抉るために用いることで、登場人物と彼がさまよう場面とを迷宮化させようとしている映像として映画は作られていたということなのでしょうか。 偶然かもしれませんが、ツイッター君が持ち出しているロラン・バルトの「愛」の話にはこの映画を解くカギの一つがあるように思いました。彼は、実に、鋭いところを突き抜いているのではないでしょうか。 この映画には、若い監督の「才気」とでもいうものが満ちていて、面白い人には面白いのでしょう。しかし、カン違いかもしれませんが、その「才気」が駆使している様々な方法は、本来、描くはずであった「実在」の輪郭を薄暗がりの中の闇に消し去ってしまったのではないでしょうか。 チラシにありますが、この映画が中国やアメリカで「大衆的」支持されたという文言には、ただ驚くだけです。観ていないので何とも言えませんが、3Dという視覚のマジックが受けたのでしょうか。 何はともあれ、消える魔球で空振り三振というのが今回の徘徊でしたが、ボールどころか、ピッチャーがどこにいるのさえ見えないままトボトボベンチに引き上げる気分でした。 上に書いたことは、要するに負け惜しみとヘラズグチですね。トホホ・・・。監督 ビー・ガン 脚本 ビー・ガン 撮影 ヤオ・ハンギ ドン・ジンソン ダービッド・シザレ 美術 リウ・チアン 衣装 イエ・チューチェン リー・ファ 編集 イエナン・チン 音楽 リン・チャン ポイント・スー キャストホアン・ジュエ (ルオ・ホンウ)タン・ウェイ(ワン・チーウェン) シルビア・チャン チョン・ヨンゾン リ・ホンチ2018年 138分 中国・フランス合作原題「地球最后的夜晩 」Long Day's Journey Into Night2020・03・06シネ・リーブル神戸no46追記2020・03・08「象は静かに座っている」の感想はこちらをクリックしてください。ボタン押してね!
2020.03.08
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フー・ボー 胡波「象は静かに座っている」元町映画館 上に貼ったチラシをご覧ください。 正面で遠くを見ている少年が、ウェイ・ブー。彼は今日、恐喝されている友達カイをかばって、事故とはいえ、人を一人殺しました。 横顔が写っている、少し近くを見ている少女がファン・リン。彼女は通っている高校の教員の「不倫」相手であることがネットで拡散し、怒鳴り込んできたその教員の妻と不倫相手の教員を金属バットで殴り倒しました。彼女はウェイ・ブーの同級生です。 帽子をかぶって、うつむいているように見える姿が写っている男がワン・ジン。彼は娘夫婦から老人ホームへ行くことを要請され、挙句、アパートから出ていくことを命じられている老人です。が、今日、彼は長年飼い続けてきた愛犬を、散歩の途中、金持ちの飼い犬にかみ殺されました。彼はウェイ・ブーの隣人です。 チラシの裏面に、ウェイ・ブーに話しかけてる男がいます。彼がこの町のチンピラ達を仕切っている青年ユー・チャン。 彼は昨晩、友人の妻だか、恋人だかと寝ました。妻の情事を知った友人は、今朝、ユー・チャンの目前でマンションの窓から飛び降りて死にました。 同じ、今日のことですが、ユー・チャンの弟が死にました。弟を殺した少年ウェイ・ブーを、漸くさがしだし、今、石家荘の駅裏の丘の上で「落とし前」をつけようとしているのが、この写真のシーンです。「どこに行こうとしてた?」「満州里」「何をしに行く?」「象を見る」 ウェイ・ブーが庇った「嘘つき少年カイ」がピストルを持ってあらわれ、すべてを告白し、ユー・チャンを撃ちます。撃たれたユー・チャンが言います。「おまえらはゴミだ」「この世界、ヘドがでる」 カイはそう答えると銃口を自分に向けます。 銃声が夕暮れの空に響きます。 ようやく石家荘の鉄道駅に、ウェイ・ブー、ファン・リン、ワン・ジンの三人と、ワン・ジンの連れてきた孫の少女が揃います。ゴミだめのような「この世界」から掃き捨てられた三人です。集まった三人が求めているのはいったい何でしょう。 ウェイ・ブーが満州里の動物園の象の話をします。満州里は中国の北の果ての町です。そこの動物園の檻の中に座っている象に逢いたいとウェイ・ブーはいいます。 彼らは何を求め、どこに行こうとしているのでしょう。それにしても、今、ここから「出発」することのほかに、どんな「生き方」があるというのでしょうか。 しかし、ここまで来て、乗ろうとしていた列車は運休でした。そこから先の道行きのあてはありませんが、瀋陽に向かう夜行バスに乗るしか満州里に向かう方法はありません。 諦めて、その場を去ろうとする老人ワン・ジンに向かってウェイ・ブーが声をかけます。「どこへ行く?」「人は行ける、どこへでもな。そしてわかる、どこも同じだと。その繰り返しだ。だから行く前に自分まで騙すんだ。今度こそ違うと。わかわるか?お前はまだ期待している。一番いい方法は、ここにいて向う側を見ることだ。そこがより良い場所だと思え、だが、行くな。行かないからここで生きることを学ぶ。」 そう答えると、孫の手を引いて駅から出ていこうとする老人ワン・ジンを追った少年が一言叫びます。「行こう!」「『希望』はどこにあるのか?」「『希望』はここにではない、地の果てでじっと座っている!」「だからワン・ジン、あんたもあきらめるな!ぼくと一緒に行こう!」 ウェイ・ブーのそんな叫びが聞こえてくるようでした。スクリーンを見ている老人の涙が止まりません。 三人と小さな少女を乗せたバスが高速道路を走ります。まだ明けない闇の空にアフリカ象の雄叫びが響きわたりました。 パゥオー! ぼくのなかで2019年ベスト1の映画が決定した瞬間でした。 監督 フー・ボー 胡波 脚本 フー・ボー 撮影 ファン・チャオ 范超 美術 シェ・リージャ 謝萌佳 編集 フー・ボー 音楽 ホァ・ルン キャスト チャン・ユー 章于(ユー・チェン 街のチンピラ) パン・ユーチャン彭昱暢 (ウェイ・ブー 高校生) ワン・ユーウェン 王玉雯(ファン・リン 女子高生) リー・ツォンシー李双喜(ワン・ジン 老人) 2018年製作/234分/中国原題「大象席地而坐」英題「 An Elephant Sitting Still」 2019・12・20 元町映画館no33 追記2020・01・01 全く偶然なのですが、「満州里」という場所について、ぼくには思い出があります。四十代の半ば、神戸で大きな地震があった、その数年後のことです。転勤した郊外の職場の近くには、まだ、たくさんの仮設住宅が立ち並んでいました。 どこか遠くに行ってみたいという願望があったのでしょうか。長期休業の期間、何度か、休みを取って中国の内モンゴル自治区の首都、呼和浩特(フフホト)という町の日本語学校に日本語を教えに出かけたことがあります。 その学校で学んでいたのは、十代の終わりか二十歳過ぎの若い人たちだったのですが、それぞれ専門学校や高等学校を出て「日本に行きたい」という夢を持っていました。その中に遊牧で暮らすモンゴル族の少女がいました。「故郷はどこですか?」 そう尋ねたぼくに、彼女は教室の後ろに貼ってあった世界地図を指さしながら答えてくれました。「家族は、今、このあたりにいると思います。」 彼女の指は中国とロシアの国境近く、バイカル湖の少し南のあたりを押さえていました。家族に会うには二泊三日の列車とバスの旅をするそうです。その故郷の駅が「満州里」でした。石家荘からであれば、おそらく2000キロを超える彼方の町です。 あれから、二十年の歳月がすぎました。名前も忘れてしまった彼女が、念願の日本留学を果たしたのかどうか、本当に、この国で「希望」を見つけたのかどうか、今となっては、もう、わかりません。 中国も日本も「希望」を見つけにくい国になっていることは間違いないでしょう。28歳で、この映画を作った監督フー・ボーは、29歳で自ら命を絶ったそうです。まったく、言葉がありません。哀しいだけです。追記2021・07・28 東京オリンピック2020が開催されています。この国のコロナの感染者数は最多数を更新し始めていますが、メディアは金メダルに驚喜しています。SNSの投稿に若い人たちの「金メダル・イイネ!」が氾濫しています。 1936年、ヒトラーが強行し、レ二・リーフェンシュタールが「オリンピア」という映画で宣伝した「ファシズム」の祭典を思い浮かべています。中止された1940年の東京オリンピックのために建設された国立競技場、「明治神宮外苑競技場」では、1943年、2万5千人の学徒兵士が行進し、歓喜の拍手で戦場に送られた「学徒出陣式」が行われたそうです。 「ゴミだめ」化しつつある世界から、「希望」を見つけるために「出発」することは可能なのでしょうか。少なくとも、歴史を振り返ることを忘れているこの国に明るい未来が待っているとは思えません。 古い投稿を修繕しながら、監督フー・ボーが生きていたら、今、どんな映画を撮るのだろう、そんな思いがふと湧きました。追記2022・08・20 コロナの蔓延の中で強行されたオリンピックが終わって一年経ちました。強行した権力者は狙撃され、取り巻きの権力者たちとインチキ宗教との結託が暴露され始めています。インチキな記録映画は不発に終わりましたが、一方で、庇い手がいなくなったのでしょうか、お金にまみれた関係者が逮捕され始めました。コロナの蔓延は、もはや警報状態ですが、有効な対策として打つ手もなければ、打つ気もない様相です。いよいよゴミだめがぶちまけられ始めたのでしょうか。 今や「希望」という言葉が死語になりつつある予感、いや、実感さえし始めましたが、それでも、希望にかけたい今日この頃です。どこかに、静かに座っている象がいるのではないでしょうか。ボタン押してね!
2020.01.02
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チャン・ジーウン「乱世備忘 僕らの雨傘運動」 ここのところ、「元町映画館はドキュメンタリー」という感じが続いています。今日は香港の2014年「雨傘運動の記録」を2階の小部屋で観ました。 2014年に香港で起こった「雨傘運動」ってご存知でしょうか。「真の普通選挙」を求める若者たちが街を占拠した民主化運動です。警官隊から浴びせられる催涙弾に対して雨傘で身を守ったことから「雨傘運動」と呼ばれたそうです。チャン・ジーウン監督がデモの最前線でカメラを回し、その中で出会った学生らに焦点を当て、ごく普通の若者たちが「香港の未来」を探し求めた79日間の姿を記録した映画でした。 何の脚色もありません。カメラと一緒に転んでしまうリアルなハプニング。出てくる若者たちの嘘のない会話。繰り返しアップで映る警官の顔。そこに「真実」が輝いていました。 やがて敗北に終わる記録は、人によっては退屈な映像かもしれません。でも、見ていてよくわかるのです。繰り返しの毎日のようで、映像の印象が少しづつ変化します。そこでは、20代の若者たちが、生きている「世界」の変化の可能性に、自らの未来をかけていました。言葉でいうのは簡単ですが、命がけですよ。 遠くで動きがあることが伝わってきます。よどんだ空気が流れています。再び激しい動きがあります。胡椒スプレーがまかれ、催涙ガスが充満しています。走って逃げています。警官に拘束されています。少女が涙を流しています。一人、一人、写真を撮られています。しかし、写真を撮っている警官をカメラはずっと撮り続けているのです。このカメラの映像が表現するど根性の中に、カメラマン自身も「未来」を希求していることが伝わってきます。 若者たちは、冗談を言い、議論し、地面で寝ています。彼らは、自分が生きていく社会を、体を張って、でも、力むことなく、悲壮にならず、自分で作ろうとしているようです。 長い物には巻かれろとでも言っているかのような、たとえば、大学教授である「大人」の言葉に、きちんと、自分の言葉で反論するメガネの女子学生の姿は、やはり心を揺さぶるものです。こっちの、若い子の方が正しい。 映画のあと濱田麻矢さん(神戸大学・中国現代文学)のレクチャーがありました。何も知らなかった香港と中国の関係や、2014年に敗北しながら、今、再び起こっている自治と民主化を求める運動の解説を聞きました。この香港の人々の運動を理解し支持することが、「民主主義」を失いつつある、この国に生きているぼくにとって、とても大切なことだと思いました。ついでに、この国のメディアのダメさ加減を、またしても痛感したのでした。 映画館でこんな絵葉書をもらいました。 雨傘は、この運動では催涙弾の直撃を避ける闘いの道具なのですが、カラフルな雨傘が歩いている風景は、どこか、ファンタジックで夢があるところが印象に残りました。監督 陳梓桓(チャン・ジーウン)原題「乱世備忘 Yellowing」 2016年 香港 128分 2019・07・13・元町映画館no10追記2019・12.312019年に見た印象深いドキュメンタリーの一つがこれです。2016年の作品ですが、2019年の香港、あるいは中国は、予断を許さない事態に突入したまま年を越しつつありますね。香港で、巨大な国家権力が何をしているのか、目が離せない新しい年が始まります。追記2020・07・03「雨傘運動」に始まった、民主化運動を担った活動家たちが、香港を離れたというニュースが流れてきました。世界は「国家」が牙をむき出しにし始めています。ただの徘徊オジさんにはなすすべがありません。 目の前のチンケな政治家たちも「国家」をまとっていれば大丈夫とたかをくくっているようです。 まさか、こんな時代がきて、それを目の当たりにするとは、正直、想像していませんでした。まじ、どうしよう、というのが実感です。追記2023・01・23 「雨傘運動」は、いつからか「時代革命」という呼び名に変わりました。開き直ったかに見える、圧倒的な強権発動で、民主化運動を鎮静化、あるいは弾圧した中央政府は、コロナをめぐっては、本土でも、言論統制、弾圧を日常化させた全体主義国家への道を邁進しているようです。 こうした状況に対して、中国ヘイトの格好のネタとして取り扱う傾向がありますが、たとえばNHKの報道内容に嘴を突っ込むような手法で言論コントロールをやっているらしい、われわれの国の現状は、いってしまえば似たり寄ったりなのではないかということを忘れてヘイトを垂れ流すのはいかがなものでしょうね。 弾圧下の香港で、表現の自由の希求から生まれた、香港映画の一つ「少年たちの時代革命」を観ましたが、「連帯」への直線的な若者たちの行動に胸を打たれました。 ボタン押してね!
2019.07.14
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