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折に触れて思い出すのは、亡き両親のことである。 思いがけずに、コンサートのチケットをゲットした。 友人を誘って、久しぶりにクラシック鑑賞ができた。 オーケストラを見下ろす形での鑑賞は、音が気持ちよく身体に入ってくる。 その場に身をゆだねながら、わたしは遠い日の父を思い出していた。 亡き父は、大のクラシックファンだった。 父が家に居るときは、朝から晩までステレオが鳴りっ放しだった。 コンサートチケットは必ずS席を二枚購入し、父の運転手を兼ねたわたしは、いつも同行させられた。 当時、独身で自由に遊びたい盛りのわたしにとって、それはとても退屈で拷問に近い出来事だった。 今でこそ惜しいことをしたと思うけれど、本当にしぶしぶだったのである。 最後の演奏曲目であるチャイコフスキーの『悲愴』は、父の通夜を思出させた。 遺言通り、一晩中流された曲だった。 お線香を途絶えさせないのと同じように、レコードは何度も何度も繰り返された。 父は、どういうきっかけでクラシックファンになったのだろうか? ふとそんなことが頭を掠めた。 もしかしたら、素敵なエピソードでもあったのかもしれないのに、何も聞いていなかった。 その辺の事情をちゃんと、聞いておくんだったなぁ。 今となっては、ものすごく残念で仕方がないけれど。
2004年10月31日
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ランディさんの今日のブログ『救援物資は余っているの?』を読んで、いろいろ考えています。(どうぞ現地の情況を、参照ください) 一体、個人の力で何ができるのだろうか。 実際に一番足りないのはボランティアの人手なのかもしれないけれど、とても飛んでいく生活のゆとりはない。 そこでできるとしたら、ほんのわずかの金額の義援金を送るくらいなことである。 恥ずかしいけれど、なにもしないよりはましといった程度です。 後は、寒さに向かって身体に障らなければいいのに、とか、車で寝泊りをしている方々が、寒さよりは腰の痛さが辛いとおっしゃってたように、それもまたお辛いだろうなーと、そんな風に感じて、少しで痛みが和らげばいいのに、とただただ祈るだけです。 新潟県中越地震災害義援金
2004年10月30日
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日々の些細な出来事を書き溜めたものが、すでに二百話を越えた。 始めたのは三月の中旬だったから、七ヶ月が経過したことになる。 わたしはいつも書くことで癒される。 書いて、書いて、自分の内面と向かい合う。 怒りも喜びも悲しみも笑いも、すべてがわたし自身の癒しへと転じるのだ。 自分の内面からあふれ出た吐息が言葉で残っている限り、どんな内容の話であれ、わたしはいとおしいと思う。 また、三百話を目指して、言葉を吐き続けよう。 紫苑の吐息として、限りなく果てしなく…。 ☆ マッサージの帰りに空を見上げると、まん丸なお月さんが桜並木越しに垣間見えた。 ものすごくくっきりと白いお月様だったので、もっと見えるように並木道が終わるところまで歩いた。 ただ、ぼんやりと月だけを見たのは、いつの日ぶりだったろうか? 誰かと一緒に月を見れたら、感動を分かち合えるのだけれど、今夜の月は、一人きり。 それでも、文句のない美しさにしばらく空を仰いで佇んでいた。 ☆☆ 長女にここのありかがばれてしまった。 ずっと過去の日記まで遡って、貪るように読んでいた。 好い加減にしてよ、嫌だわ。 こんな面白いもの、読まない訳にはいかないわ。 どいてよ。 駄目、駄目。ねぇ、家に帰ってから読みたいから、小さなパソコン設定してくれない? それは後日ということで、帰っていったけど。 「そんなに人が書いたものが面白い?」 「人じゃないでしょ。母さんのだから面白いのよ。はまるよ」 ああ、今後は少し娘の目を気にしちゃうなぁ。
2004年10月29日
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何も文章のない画像が、携帯電話に送られてきた。 長女が、どこかを通りすがった折、撮ったものである。 きっと、わぉーっと感動したシーンだったのだろう。 彼女のこういう部分がわたしを動かす。 どこかわたしに似ている。 ☆『離婚記念日』 今日で一年。 あっという間だった。 何も変ってないみたいだけど、体重が5キロ増えた。 わたしは、こうして毎年離婚から何年と、年を数えるのかしら? あの緑の用紙に記入した彼は、今度は婚姻届に署名をしたい、といって寂しそうに笑った。 わたしのことを、誰より理解してくれていた人だったけれど、本当は何も分かってなかったのだ、と感じた日。 今、たった一人でしみじみしている。 あれから一年が過ぎたのだなーって。
2004年10月28日
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接骨院でのマッサ-ジを終えて、外に出た。 思い切り揉み解してもらって、うめき声がでそうなところを、我慢した。 何かが軽くなっている。 左手を後ろに回しただけで激痛が走った、肩甲骨の痛みがない。 その代わりに、右肩の一点が少しだけ痛む。 きっと、右肩も最初から痛みをもっていたに違いないけれど、気づかなかったのだろう。 毎日通うと楽になるというのは、本当だった。 痛みが緩んで、少しほっとした。 姿勢の悪さも大きな原因のひとつだというから、これを機に正すよう努力しなくては……。 心配ごとが一つ減った。 痛みが和らいだおかげで、気分も爽やかだ。 今夕は、次女とショッピング。 就職活動のための靴とバッグが必要なのだという。 まぁ、投資だと思って付き合ってやろう。
2004年10月27日
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背中の痛みに耐えかねて、ここのところ接骨院通いの日々。 左の肩甲骨の下方に激痛が走る。 ブラジャーのホックの着脱が困難である。 寝返りの度の激痛に、自然と声が洩れてしまう。 ああ、これを何とか肩というのだろうか? そうは思いたくないので、せっせと原因の追求を図ってみるが、軽くあしらわれてしまう。 パソコンの使いすぎ、運動不足、姿勢が悪い、そして年齢的なもの。 仕方がないかと納得しつつも、その実全く納得をしていない自分がいる。 「毎日通った方が良いでしょうか?」 「もちろんです。ほぐしてもすぐ硬くなってしまうので、当分は通ってください。だいぶ楽になるはずですよ」 その言葉を信じて、わたしは接骨院のドアを押す。 若い先生が力強くもみほぐしてくれるのは、一時しのぎといえども、ほんとうに楽になる。 「強かったら言ってくださいね」 「大丈夫です」 と言いながら、ものすごく力が入る。 ぐっと踏ん張っている。 昨日のマッサージの効力は切れてしまった。 だから今日も、またわたしはドアを押すのだ。
2004年10月26日
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いろんな怒りがある。 数時間で忘れるものもあれば、心の奥にどっかりと腰をすえてしまうものまで、様々ある。 わたしの場合は、大概一晩寝て目を覚ますと、すーっと消えてしまうのだけれど、最近では、この消化能力がものすごく低下している気がする。 簡単に人を許せたり、ま、いっかーと思うことが少なくなってしまった。 もしかして、これを更年期なり老化なりという現象のせいにするのだろうか。 けせらせら~と笑って、自分自身をだましてみても、結局埒があかなくて、悶々としてしまう。 それでいて、いつまでも持続させることがいやなので、自分の考え方を捻じ曲げて笑っているというのが、今のわたしの現状なのかもしれない。 一見、平和で温和に過ごしている。 っていうか、実際にはそうなのだけれど。 うまく表現できない。 それをさらに文章に書き上げていくことは、かなり難しい。 でも、怒りの根源を知ってしまうと、案外勝手に誤解して、ひとりよがりなことが多いものである。 怒るということは、精神衛生上もよろしくないので、できる限り穏やかに過ごしたいと思う今日この頃である。
2004年10月25日
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今年は、一体どうしたというのだろうか? 集中豪雨、台風、そして地震。 これでもかという具合に攻め立てる。 テレビのインタビューに答える被災地の方々は、口を揃えてこうおっしゃっている。 「長く生きてきたけど、こんなの初めてです。本当に怖かったです」 関東に住むわたしも、生きてきて初めての体験だった。 台風による風雨は、まるで消防自動車に放水されているような、そんなひどい情況だった。 サッシの隙間から水が入り込んで、見る間に寝室は水浸し。 ベランダからも玄関からも吹き込んできて、慌てふためいた。 マンションの八階にしてこの被害。 昨夜の地震は、大きく長く揺れた。 怖くて、怖くて、大声を出したいほどだった。 これが被災地の方々は目の当たりの被害なのだから、想像を絶する恐怖だったろうと思う。 被災地の皆様の、一日も早い復興を祈るとともに、心からお見舞いを申し上げます。
2004年10月24日
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クローゼットの折戸が、手前にストンと落ちてきた。 天井までの高さの折戸である。 その開閉に支障をきたし、そのうち動かなくなっていた。 困っていたら、長女の彼が見に来てくれて、いとも簡単に直してくれたのだ。 昨日までの不具合が嘘のように、スムースに開閉をする。 「ありがとう。コーヒーにビール、どっちがいい?」 「いや、良いですよ。帰りますよ」 「ほんのお礼の気持ちだから」 「じゃ、ビールを頼んでもいいっすか?」 それから、ちょこちょこ作ったおつまみで、小さな宴会が始まった。 長女は、仕事で帰宅は遅い。 その前には引き上げますから、と言いながら二人で話が弾んだ。 彼の知らない長女の幼い頃の話、学生時代の話、ネタは限りなかった。 会話の中には、彼が長女へ対する真摯な気持ちが汲み取れて、わたしはものすごく嬉しかった。 やはり、彼女の目に狂いはなかったのだ、とあらためて実感。 和やかなひとときが、ゆるやかに過ぎていった。 ところがそのときである。 マンションの八階が大きく揺れた。 わたしは、とうとう来たのだと思った。 思わず悲鳴をあげると、 「おかあさん、大丈夫です。テーブルの下に逃げてください。僕は玄関のドアを開けますから。このくらいの揺れは、まだ平気。それより火の元は大丈夫ですか?」 てきぱきと指示を出し、NHKの情報が一番早いからと、すぐにテレビをつけた。 新潟県が震源地で、震度6強と出た。 「これは大事になるよ。かなり被害が出ているはずだ」 彼は携帯を取り出して、知人に連絡を取り始めたが、あっという間につながらなくなった。 結局、夜は長女も彼も泊まってくれた。 それだけの行為だけど、わたしは心強くて嬉しかった。 男の力というか、存在感を本当に頼もしく思った。
2004年10月23日
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落ち着いたら、母のことを思い出しながら、母の半生を書けたら、と思っている。 昨日見た韓国映画『ラブストーリー』を見ながら、母のことが重なっていた。 物心ついてからずっと不思議だったことがある。 母のように、周囲から羨ましがられ、美人に生まれついたのに、なんでこんなに貧しい暮らしを選んだのだろうかと。 でも、母はきっと幸せだったに違いない。 この年になってようやく、母の気持ちが理解できるようになった。 母は、一生分の恋を、父とのことに費やしたのだろう。 周囲の反対を浴びながら、親族会議の席で 「三度のご飯がたとえ一度になっても、健夫さんについて行きます」と、きっぱりと言い放ったそうである。 そして二人で駆け落ちをし、遠く朝鮮でりんご園をしていた父の伯父を頼って、渡ったということであった。 その後も、終戦後の混乱期に子供つれて逃げ帰ったというのだから、それは見事なまでも、天晴れではないか。 悔いのない結婚だったに違いないのだ。 母自身から聞いた話や、姉の記憶を辿りながら、わたしの中にあるジグソーパズルの一片一片を、つなぎ合わせてみたいと思う。 母とわたしと、そして娘達のために。 そんなことを、映画『ラブストーリー』は思わせてくれた。 今にきっと、母を題材にしたエッセィを書こうと思う。
2004年10月22日
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自分ではけちじゃないと思っていたけど、わたしは相当けちらしい。 先日友人にもらった芋焼酎の『森伊蔵』は、誰に話しても手に入らないもので、ものすごい値がすると教えられた。 当初は、長女の彼の誕生日に開封し、飲ませてあげようと思っていた。 現にそう約束していたものだから、彼は喜び勇んでやってきた。 「お義母さん。ゆべはまるで遠足の夜状態でした。嬉しくてうれしくて。僕ねむれませんでしたよ。ところで、開封するんですよね」 チラリとそのオレンジの箱に目をやった。 「え、ま、まぁね」 わたしは急に口を濁して、余計なことを言ってしまったなーと、少々後悔をしていた。 次女が、 「姉ちゃんの彼が飲み始めたら、あっという間になくなっちゃうよ。あたしの口なんか入らないんだから。母さんと二人でゆっくり飲もうよ」 と、不服そうだったことを思い出したのだ。 「多羅(次女)ちゃんが帰ってから開けようね。楽しみにしていたから」 すると、彼は明らかに失望の色を見せた。 「とりあえず、ケーキのセレモニーからやろうか?」 わたしは、慌てて丸い箱からNY.レア(チーズケーキ)を取り出して、ローソクに灯をつけた。 灯りを消して、ローソクを彼が吹き消して始まった、お誕生日会だったが、どこか居心地が悪くなった。 わたしが約束を破ったからだ。 彼からリクエストされた散らし寿司に、ブリ大根、お刺身の盛り合わせに、茄子ときゅうりの浅漬け、ほうれん草の白和え、と所狭しと並べたご馳走が急に色あせて見えた。 宴の中盤で、わたしは『森伊蔵』を開封をした。 やはり振舞わずにはいられなかったのだ。 これだったら、最初から開封してあげて、宴を盛り上げればよかった。 なんとなく気まずくて、落ち着かなかった。 これというのも、わたしがけちだからだ。 なんだか後味が悪い。 でも、彼は少しも翳らないで、場を明るく盛り上げてくれた。 遠慮がちに、水割りをいっぱいだけにして、後は持参したシェリー酒を飲んで帰っていった。 おかげでわたしと次女は、ゆっくりと『森伊蔵』を味わえているのだけれど……。 開封前 開封後
2004年10月21日
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かなり親ばかで、過保護だと自分でも思う。 でも、餓死させるより良いじゃないか、と思う。 自分の子供でしょ? 快楽だけ貪ってんじゃないわよ…って、腹が立つ。 テレビの画面を食い入るように見つめながら、憤りが湧いてきた。 ただ、こういうわたしにも、虐待もどきという苦い経験があるから大きな顔はできないけれど、早く気づいて欲しいと心から願う。 今、わたしは娘達と本当に良い関係にある。 でも、それって努力をした結果なのだ。 人前では、可愛いだの勉強ができるだの、誉めそやしはしなかったけど、家族だけの中では、誉めまくった。 「あなた達が宝物よ」って、いつくしんだ。 何があっても、最後に助けてくれるのは、この親達だという認識をインプットし続けた。 一時は、その気持ちさえ届かなくて、悩み苦しんだけれど、それは親としての一度は通らなければいけない道だったのだと信じて……。 元々、子供が大嫌いだった。 だから産みたくはなかった。 子供みたいなのが、子供を産んでどうするの?って。 でも、おなかの中で育っていくうちに、母性が発達したのだ。 長女がおなかに宿ったとき、わたしは本当に嬉しかった。 それまで険悪だった姑に、誉めてもらえると思ったからだ。 ところが 「誰に断って子供を作ったの。勝手に作りやがって!!」 と、ものすごい剣幕で怒られた。 悲しかった。 結婚に反対されて、同居して、毎日が針の筵だったから、何か仲直りのきっかけが欲しかったのに、悲しい言葉を浴びせられた。 いわゆる胎教には良くなかっただろう。 夫や姑から受けるわたしのストレスは、幼いわが子へと向かった。 まるで自分の所有物のような気がして。 でも、目は覚めた。 気づかせてくれる人に出会ったからだ。 その人は、娘の小学校の担任だった。 良かったと思う。 良い人に出会えて。 今でも娘達はいう。 「小学校の低学年までの母さんは、鬼だったよねぇ。でも途中から急に優しくなったけど、何があったんだろうね」 と、笑いながら……。 わたしの母は、ずっと優しかった。 岐路に立たされた時は、ことのほか優しかった。 そんな母の足元にも及ばないけれど、子を思う気持ちは負けてはいない。 親ばかで過保護なわたしの奮闘記も、はやゴールに近い気がする。 わたしは、過去の罪を払拭できたから、今こうして娘達と素敵な関係でいられる。 だから、親ばかで過保護という言葉は、わたしにとっては誉め言葉にも通じる。 親ばかで過保護の方が、餓死させるより良いじゃないかと、本当に思う。 子供には、罪はないのだから……。
2004年10月20日
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レースのカーテン越しに、西日の入る部屋。 少しだけ空けた窓から、乾いた秋の風が忍び込んで、ゆらりとカーテンを揺らした。 夕べ飲み残した赤ワインを、安物のワイングラスに注いで、まだ日の高いうちから口にする。 まるでアル中みたいだわ。 ほんの少しの罪悪感がわたしを襲うのだけれど、それより先に、まったりとした気持ちの方が勝っていた。 いろんなことがてんこ盛りで、時折、厭世的な気分になってしまう自分を、うんと距離を置いて眺めている。 でも、わたし。 幸せだと、思うわ。 オレンジ色の陽射しが、ロッキングチェアごと包んでくれる、 こういう午後に浸れる時間があるのだから…。 それに、結構様になっているし。 少し頬を紅潮させて、うっとりとした自分が見えた。 もう少し、秋の陽だまりの中で、頑張ってみようかな。 冬が来る前に…。
2004年10月19日
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最近はまっているのが、韓国ドラマである。 何が面白いのかよく分からないけど、見たくてしょうがない。 毎日のようにビデオショップに通い、シリーズものを制覇している。 とにかくドラマの要素は、どれも似たり寄ったりで、まるで昼メロ状態である。 わたしが見ていると、鼻で笑っていた子供達にも伝染していくから、これがまた愉快なのだけれど。 ドラマの中で、みんなよく泣く。 女も泣くけど、男がぽろぽろと真珠のような涙を流す。 これが不思議なのだ。 涙の根源を突き止めたいと思っているうちに、こちらまでまんまと罠にかけられて、ついには感情移入をしてしまう。 こんな恋愛なんて馬鹿馬鹿しいわ、と思いながら、実はものすごい願望が湧いている。 泣かれるほど、男に愛されてみたい、と思う。 でも、その反面。 こんな女々しい男は、肘鉄だなーと思ったりもする。 待てよ。 愛し愛される距離が等しければ、それはそれで受け入れても良いではないか。 泣いて、泣かれるような恋はしてみたいから、結局、とどのつまりは、完全にはめられてしまっているということなのだ。 悔しいけど。 ああ、イ・ビョンホンのような目力のある男と、恋がしたいなぁ。 こんな具合に、わたしは毎晩韓国ドラマで夜更かしをし、睡眠時間を削っている。 これでは、恋に落ちる前に、身体が参りそうである。 いけない、いけない。
2004年10月18日
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一年前に買って一度も着ていないオーバーコートを、長女が取りに来た。 イタリア製のオフホワイトのショートコート。 定価は十六万とかなり高価な品物であったが、バーゲンセールで驚くような安価な値段がついていた。 大柄の彼女には、十分に着こなせるだろうと、クリスマスに買ってプレゼントしたのであった。 「これ使えそう。持って帰るね」 嬉しそうに袖を通している。 「だって去年は、フォーマルっぽくて厭だって言ってたじゃない?」 「ところが実際に働き出したら、ガキのような格好はおかしいのよ。ちゃんとした服装をしないと恥ずかしいから」 そんなことを言いながら、わたしの洋服ダンスをあさっていた。 「母さん、この紫のブレザー着てる?」 「着てないよ」 「もらっていい?前に着てたら似合うって言われたのよ。それにこの黒のドレスは?」 「ミニになっちゃうからもう無理かなー」 「着て見ていい?」 おもむろに試着を始めた。 「あら、似合うじゃない?」 「結婚式とかイケる?」 「パーティにはもってこいよ。あげるから着たら?」 「うん。もらうね」 これも、あれもと紙袋に詰め込んでいる。 長年使いこんだヴィトンのバッグも数点あげた。 そこはかとなく嬉しくなった。 今までわたしの洋服など見向きもしなかったからである。 少々値が張っても、わたしはオーソドックスなものを好んで買った。 流行に敏感な世代からすれば、きっとつまらなかったのだろう。 ところが今は、素敵だと言うのだ。 変われば変わるものである。 いろんなことを通して、普通が一番なのだと学んでいる気がする。 普通であるということの、困難さを実感し始めている。 ようやく、社会人としての自覚が生まれたのだろう。 そんな長女に、わたしは目を細めている。
2004年10月17日
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花嫁が父親にエスコートされて、 バージンロードを歩いてきた。 祭壇の前で永遠を誓い合う甥の姿に、涙が滲んだ。 良かったね、と心から祝福しながら、当時の自分たちとダブってしまう。 チャペルで挙げたわたし達の結婚式。 あの時は、何があっても頑張ろうと思ったのに。 この人を選んだのは、わたしなのだからという気持ちでいっぱいだったのに。 どんな困難だって平気。 わたし逆境に強いから。 絶対に幸せになるから。 そう言って心配そうに眉をひそめる両親の元を飛び立ったのは、 もう二十数年前のことだった。 彼の母親に大反対された結婚だった。 反対の理由は、占いの相性が悪いというものだった。 心のどこかで、馬鹿なこと言わないでよ、とせせら笑っていた。 だって、そういうものは二人の努力で乗り越えられるものだと信じていたから。 でも、その後のすべての占いは、凶だった。 間違った結婚だったなんて言いたくはないけれど。 運命だったの? そうなのね? だったら、そう思うことにするから。 その方がうんと気が楽になる。 運命には逆らえないもの。 バージンロードを娘と歩く人。 その栄誉もまっとうしないで、今旅立とうとしている。
2004年10月16日
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見たことも行ったこともない国へ、突然行こうと言い出したのは、テレビの映像からだった。 次女は、第二外国語にスペイン語を選んだ。 特に、スペインに興味があるわけではなかったが、 『スッチーになりたいなら、英語のほかにスペイン語なんかが話せるといいらしいよ』 と誰かに聞いた話をそっくり、聞かせたことがあった。 彼女の夢は、スッチーである。 きっとそのことが脳裏にこびりついていたのだろう。 ところが、今となっては単位を取るために、四苦八苦しているようだった。 深夜のバイトを終え、翌日の一限に間に合わせるには、睡眠時間を削るしかなく、体調を崩して欠席がちだったのだ。 二人で眺めていたテレビの映像から、どちらからともなく「行きたいね」とつぶやいていた。「行こうよ。あなたが学生の間に二人で行こうよ。 その目的のためにスペイン語はちゃんと話せるようになっておいてね。 母さんはお金を貯めるからさ」「うん。いいね。 少し厭になっていたけど、頑張れるかな?」 次女の顔が少し明るくなった。 だって、我が家の不幸が始まったのは、彼女の大学の入学式の直後だったのだから……。 何がキャンパスライフなの?っていうくらい、いろんなことが目白押しで、本当に遊ぶ暇さえなかったのだ。「普通、卒業旅行って友達と行くけど、あたしは母さんでいいや」「そうか。卒業旅行にしちゃえばいいのね」 なんとなく、スペイン旅行が現実味を帯びてきた。 わたしの子育ては、やはり最初の長女に振り回されてきた。 年子の次女は、無意識に軽んじてしまったふしがある。 長女に向き合っていると、母親も育児に慣れるからであった。 でも、きっと傷ついていたんだろうなー。 夕べも、離れて暮らしている長女が急に洋服を取りに来た時、わたしの声は上ずっていたらしい。 次女いわく「姉ちゃんを呼ぶ時は、母さん声色が違うよ」 と恨めしそうだった。 そんなつもりはないよ、と弁解しつつも否めなかった。 次女は思いやりの深い女の子である。 ずっと一緒に住んであげるから、と将来を約束してくれる。 わたしはそんな言葉を聞く度に 「重荷にならないように、自力で歩きたいなー」と思うのである。 わたしの中には、次女が大学を出るまでは、何があっても頑張るぞ、という思いだけがあった。 そこが、わたしの人生の一区切りになっていた。 それこそ、這ってでもそこまでは生き抜いて見せる、といった意地である。 なにもないわたしが、せめて子供たちに残してあげたいことが、学歴だった。 かつてのわたしの両親と同じ思いがそこにはあった。 長女の卒業式の時感極まったけど、次女の時は号泣だろうな。 そんな日の前に、二人でスペインの青い空を見ようと言うのだ。 彼女が、建築物や専攻しているイスラムの知識を、わたしにレクチャーしながらの旅にしようね、と言った。 想像しただけで、目の前に青空が広がった。 いろんなことがあったけど、次女との二人暮しも結構板についてきた。 久しぶりに太陽が顔を出した。 高い高い秋の空。 遠くに富士山の稜線がくっきりと見える。 何か良いことの兆しのようで、わたしは少し浮き足立っていた。
2004年10月15日
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夕べは、わたしの通信世界の原点ともいうべき友人たちと楽しく飲んだ。 その中の二人の男性は、生まれて初めてわたしが主催した鎌倉オフの、第一回目の参加者である。 振り返ってみれば、そこからすでに八年近い歳月がわれわれの頭上を流れていた。 驚くことに、まるで同窓会のような、それでいて家族ぐるみの、そんなノリでお付き合いができる関係が、いつしかできていたのである。 それだけに、会うと会話が弾み酒が進む。 飲み会の趣旨は、その二人の誕生祝の宴であった。 会場は、目黒駅3分の『毬』きゅう(電話:03-3490-2143)。 なかなか小じゃれたレストラン&Barなのだ。 いくつになっても、誕生日を祝い合うというのは、いいものである。 「いかようにでも料理いたします」 と、そこにうやうやしくお出ましになったのは、な、なんと松茸であった。 太っ腹なオーナーは、わたしの知人である。 せっせと、店の宣伝を重ねてきた結果の報酬であろうか。 誕生祝にと、シャンパンも出してくれた。 四人は真剣に、それが乗った備前焼の鉢を覗き込んだ。 一同、慎重に検討した結果、 「それでは『焼き』でお願いします」 と、これまた厳かな儀式のように、深く深く頭を垂れた。 そしてまもなく一本の松茸を四等分し、酢橘をぎゅっとかけて口にほおばった。 懐かしいあの香り……。 輸入物ではなく、今朝採れたばかりだという岡山産の松茸である。 実家ではこの時季、父の友人が必ず数本届けてくれたものである。 大胆に裂いてすき焼き、七輪の上で焼いた焼松茸、そして松茸ご飯にと、松茸は実家の秋の風物詩でもあった。 さすがに両親が他界してからは、どこからも松茸は届かなくなっていたので、わたしはここ数十年岡山産には、お目にかかっていなかった。 松茸独特の歯ごたえ、高級感あふれるこのふくよかな香り。 うーん、やっぱり美味しいなー。 喉をあっという間に通過してしまったけれど、醍醐味は十分に体中で受け止めた。 一同の顔には、えもいわれぬ恍惚が滲んでいる。 皆、堪能しきっていたのだ。 過去や未来、そして現在の楽しい話が飛び交って、あっという間に目黒の夜は更けていった。 photo by bun
2004年10月14日
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十月も中旬になると、電車の中は秋というか冬というか、すっかり様変わりした。 ついこの間まで、もろ肌を惜しげもなく曝していた若い女性も、 マフラーやボアっぽいものでファッションを愉しみ始めた。 しかしながら、電車の中はまだ冬装束には耐えられない。 きっと汗をたらしながらのオシャレなのだろう。 わたしのファッションには、色がない。 というより、四季がない。 年がら年中、黒ばかり。 以前、カラスファションと揶揄されたこともあったけど、 その通りだから反論の余地なしである。 洋服ダンスの中、整理ダンスの中、ほとんど黒一色。 本当に色気がないのだ。 でも、こんなわたしも、秋になるとなんとなく枯葉色に誘われてしまう。 ベージュだとか茶系の洋服をシックに着こなしてみたいという思いだけはあるのだ。 時折、気まぐれに買ってみるのだけれど、着こなしたことは一度もなかった。 落ち着かないので、結局、黒一色でオールシーズンを過ごしてしまう。 ところが唐突に、ワインレッドのブーツがはきたいと思った。 以前、ワインレッドのを購入したことを思い出したのだ。 と同時に、この夏ブーツは全部捨てたことも思い出した。 黒のも赤のもワインレッドのも……。 捨てる時、未練はないかどうか何度も考えたのに、場所を取るのでエイヤーで捨ててしまった。 後の祭りである。 この秋はなんだか、少し良いことがありそうな予感がする。 だから少しだけ、色を混ぜてみようかな。 わたしの秋色、ワインレッドを……。 ※わたしが欲しいのは、こんな色で形のロングブーツです。
2004年10月13日
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トップの画像(ムラサキシキブ&ホトトギス)は、何年か前に訪れた北鎌倉・円覚寺で撮ったものである。 わたしが撮ったのだと思っていたけれど、よく見直してみると、同行したY氏のもののようでもあった。 あまりに時間が経過してしまって、その辺りのことを忘れてしまったので、撮影者名ははずすことにした。 Y氏とは、田口ランディさんの出版記念パーティで初めて出会った。 そのパーティ出席者の中で、彼は一番遠方から参加した人だった。 そんな不思議な縁で仲間入りして、何度も一緒に鎌倉を歩いたものである。 わたしが鎌倉散策に同行した男性では、Y氏がダントツであった。 当時参加していた某フォーラムからも遠ざかって、今では年に数度が、全く会うこともなくなった。 なんだかとても寂しい。 通信世界ではたくさんの人と出会うけど、こんな風に少しずつ疎遠にもなっていく。 でも、わたしは掛け替えの無い友だと今でも思っている。 どうしているのかなーと、時折、もらった作品画像を眺めている。
2004年10月12日
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とうとう最後の一日。 この三日間を、わたしはとても楽しみにしていた。 少しおろそかになっていた風呂場、トイレ、洗面台、ガスレンジ、冷蔵庫の掃除。 どれもかなり力を入れて、掃除をしたかったから。 日頃から豆に掃除はしているので、特に力が入るということはなかったけれど、九月からなんとなく週末に予定が入り、手抜きをしてしまったのだ。 風呂場のタイルの目地に、黒いものが本の少量付着していたし、洗面台の流しを除くと、黒ずんでいる。 気になり始めると、心のどこかに付着したものと被ってしまい、そのせいかどうか、妙にざらざらとして気持ちが悪かった。 だから、心の汚れと一緒に、きれいさっぱり洗い流したという願望が強くなっていたのである。 一つずつ片付けながら、その合い間にビデオを何本も借りてきては、観た。 一体、何本観たのだろう。 ものすごい本数だったと思う。 そのすべてが、韓国ものというのもかなりマニアックであるけれど。 『純愛中毒』『美しき日々』『秋の童話』『JSA』『接続』『オールイン』 すでに観たものを再度、再再度借りてきては観た。 15年の二月。 わたしはソウルを訪れた。 旅行をする季節にしては、寒すぎた。 木々は裸で、寒々とした街だった。 それでも中心部は、にぎやかで活気のある街、というのが印象に残った。 言葉ではうまく表現できないけれど、街の中で感じるあの郷愁のようなものの正体は一体何だろう、と思う。 また行きたい。 このままブームが続くのか、そのうち下火になるのか分からないけれど、落ち着いたらまた訪れたいと思う。 今からガスレンジと冷蔵庫の掃除をしたら、三連休の目標だった掃除は達成する。 もうひと頑張りだ。「母さんの趣味でしょ?」「趣味じゃないわよ。汚れた環境が嫌いなだけよ」 そう言って、 笑いながらバイトに出かけて行った次女の言葉が浮かんできた。 反論はしたものの、趣味かもしれないなぁ。
2004年10月11日
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台風がやって来た。 それは想像を絶する凄まじさで、今まで経験をしたことのない恐怖だった。 まさか、八階の建物に水が侵入してくるなんて。 しかもわたしはたった一人で、その嵐に対峙したのだから。 十日余り熱にうなされて、病み上がりの長女を呼び出すつもりはなかったけれど、あまりの恐怖に電話を入れた。 「行ってあげたいけど、外に出たら危ないからごめんね。テレビでも見て気を紛らせたら?」 どのチャンネルも台風情報だし、モガリ笛のような音を聞いていると、テレビを見る余裕なんてあるはずもない。 窓の外は、下の街路樹から強引にもぎ取ったユリノキの葉っぱが、後から後から舞い上がってくる。 風が東から吹いていたかと思うと、ベランダ側の西からも吹いてくるといった具合で、わたしは部屋の中を西に東に駆け回っていた。 寝室の窓から吹き込んだ雨が、カーテンを伝って部屋の中を濡らし始めた。 慌ててベッドを窓から離して、滴るカーテンの下にバスタオルを敷いた、急場しのぎだ。 言うなれば、まるで窓に向かって消防車が放水をしているような、状態なのだ。 まさか、八階で水害に遭うなんて、本当にびっくりした。 あたふたとした時間はどれくらいだったのか、やがて静かになった。 どうやら通り過ぎたようだ。 でも、これでもかと荒れ狂う様を、八階の窓から見下ろしながら、自然の猛威という言葉をこれほど目の当たりで実感したことはなかった。 生まれて初めてのことだった。 やはり今回の台風も、各地に爪あとを残して行った。
2004年10月10日
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些細なことで次女と諍いをした。 どう考えても、わたしがオトナ気なかった。 久しぶりの次女とのショッピングだったのに。 かけもちのバイトと大学の授業の合い間に、次女がやっと作った貴重な時間だった。 でも、それは一時間ももたないで決裂してしまった。 秋冬のジャケットが一着欲しいと言い出したのは、ついニ、三日前ことだった。 携帯電話料金を前月の半分以下に抑えたら、わたしが褒美に買ってあげる約束をしていたからだ。 わたしは頭の中で、ショッピングデートの行程を考えていた。 ワイン好きな彼女のために、まずデパートのイートインでチーズにワインを軽く一杯飲んで、それからお気に入りのブティックを数軒はしごして、それから美味しい夕食にでもありつこうか、と。 ところがその前に次女はコンタクトレンズの調整で時間がかかり、待ち合わせを一時間遅刻してきた。 ワインを軽く一杯の計画は流れて、いきなりブティック巡りとなった。 わたしのアドバイスなどあまり当てにしていないのに、これはどう?とか言いながら、後をついていく。 でも、心のどこかに計画が崩れたことに不満があったのだろうか。 次女が欲しがった安価な手提げを、わたしは却下した。 日頃のストレスが、高がそれくらいの消費で解消されるなら、本当は安いものだった。 突然、次女は踵を返して駅へ歩き始めた。 その横顔から、怒ったことが伺えた。 すぐ、すねるんだから……。 楽しみにしていたわたしは、それを反故にされたことが、許せなくなっていた。 仕方なく後を追いながら、急に腹立たしさが込み上げてくる。 電車の中でも、窓外の明かりを恨めしく眺めながら、二人でそっぽをむいていた。 せっかく楽しみにしていたのになー。 「ねぇ、お鮨食べて帰ろうか?」 一駅手前で下車すると、回転寿司ながらネタが新鮮で美味しい二人のお気に入りがあるのだ。「いいね」 次女の顔に、やっと笑みが戻った。 きっと疲れて、心がささくれ立っていたのだろう。 たまには、わたしにねだって甘えたかったのだろう。 だから、わたしがOKする範疇のものを選んで、ねだったのだ。 それに気づいてやれなくて、わたしは変にジャケット一着とこだわっていた。 わたしも、尋常じゃない精神状態にあったということだろう。「さっきはごめんね」 次女が先に謝った。「母さんの方こそ。いつもおねだりしないんだから、あれくらい買ってあげれば良かったんだよね。どうかしてたね」 我が家は、やっぱり家計が苦しい。 食べて行かれない、というほどのことはないけれど。 誰かが病に倒れたら、それはすぐ生活に忍び寄る。 そういった危うさを抱えていた。 互いに分かり合い、分かりすぎていた。 たがら、たまにこういう諍いになる。 気持ちが澱んで、出口を求めているのだ。 長女がもう十日も寝込んでいることも、その正体が病院でもはっきり分からないという不安も、原因だったろう。 それでも気持ちを切り替えて、急場を凌いでいかなければ行けなかった。 誰もが分かっているので、時にはその鬱積したものを、解放したくなるのだ。 それが、高だか三千九百円の手提げバッグ。 次女自身もそれほど、欲しくてたまらないものではなかったはずだ。 その手提げバッグより高い料金を支払って、わたし達は回転寿司屋を後にした。
2004年10月09日
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先日の結婚式の披露宴は、ホテルニューオオタニであった。 わたしは、とても懐かしい思いで、その場所を歩いてみた。 秋の夕暮れは、人恋しい。 誰かと肌触れ合わせたいような切なさがある。 そんな時、日本庭園を見下ろすラウンジの窓際に陣取って、たったひとりでマティーニを飲んだ。 灯りの中に浮かぶ庭を見下ろして、ただグラスを傾けた。 あまりに寂しくて、景色はたちまち滲むんだけど、大好きなわたしの時間だった。 結婚してからは一度も行かなかったけれど、そんな話をしたら、きっともの欲しそうな顔をして、男を待っていたに違いないと別れた夫にあざ笑われた。 でも、誰も近付いては来なかった。 そんな雰囲気は、きっと持ってなかったのだろう。 たった一杯のマティーニで、わたしは素敵な時間を過ごせた。 もう四半世紀も過ぎてしまったけれど、わたしの大切な思い出だった。
2004年10月08日
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我が家はマンションの八階である。 夕べの地震は、本当に恐かった。 それでも、たった一人きりではなく、次女が居てくれたから心強かった。 夕方借りてきたDVD『純愛中毒』を、二人で観ていたときに、突然の揺れがきた。 ゆっくりとかじわりとかではなく、いきなりガタガタとやってきた。 わたしは、立ち上がる否や、次女にしがみついた。 次女は、わたしの過剰な反応に慣れているので、抱きしめてくれた。 大丈夫大丈夫。 そういいながらも、彼女も顔面蒼白。 そこへ次女の彼から連絡が入り、転倒するといけないので、安全な場所へ移動するように、という指示。 とにかく二人で、じっと手を取り合って、固唾を飲む。 DVDは急遽NHKに変えて、事態の把握につとめると なんと震度4。 余震の心配はないとのことだった。 恐かったねー。 前の家だったら、母さんは雨戸開けて騒いでたよね。 だって出口の確保だもん。 ここだと飛び降りたら死んじゃうから、気をつけてね。 そうだよね。覚悟するしかないってことだよね。 吐いた自分の言葉が、現実と冗談の間をせわしなく行き交うのだった。
2004年10月07日
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今夜は、わたしの吐息を聞いて……。 誰も知らないわたしの秘密。 そっとあなたに明かすから……。 でも、その前にBGMがいるわ。 思い切り切ないやつ。 そうね、ZEROの『Good-bye』。 わたしだって、こんな夜あるのよ。 ちょっと飲んで。 ちょっと乱れて。 ちょっとあなたに寄りかかって。 こんな夜は、少し強いお酒がいいわ。 喉が焼けつくような、そうねテキーラ。 ねぇ。どうしたんだい、ってきかないの? 聞いてくれたら、そっと教えてあげるのに。 ねぇ。わたし、また失恋したみたい。 だから、今夜はちょっと切なくて。 だけど、もういいわ。 今夜は眠るから。 今夜はなんだか眠れそう……。 だから、Good-bye……。 おやすみなさい。 送料無料キャンペーン中
2004年10月06日
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親がなくても子は育つっていうけど、なるほどなー。 しみじみ思うこのごろ。 先日のことである。 長女は高熱で寝たきりだった。 彼女は、我が家から数分の場所に住んでいる。 夕飯を作るのは、大変だろうと何か見繕っていたところ、次女が冷蔵庫を見て、適当に作って長女に届けてくれたのだ。 メニューは、かじきまぐろと金目鯛の煮付けに、かぼちゃの煮物、冷奴にほうれん草のおひたしだった。 驚いた。 それが実に美味いのだ。 随分前に、和食の料理本が欲しいというので、買ってやったことがあった。 それを見ながら作ったというのだが、本当にたいしたものだった。 長女も、熱が少し下がったのか全部平らげて、作り方を次女に乞うたそうだ。 次女は小学生くらいから、わたしと一緒によく台所に立っていた。 そのせいか、適当には何でも作れるのだが、まさか魚の煮つけがこんなに上手だなんて、驚いてしまった。 長女の料理は、イタリアン系が多い。 パスタやピザを作らせると、なかなか美味かった。 それぞれに得意分野は異なるけれど、その成長振りには感心させられる。 特に手取り足取りしたわけではなかったので、なんだか嬉しかった。 親が必要なのは、ほんのちょっぴりの期間であって、もう要らない。 頼もしいやら、少々さびしいやら。 最近は、娘二人と集う時間が割合あって、そんなときはビデオで韓国ドラマにはまっている。 さしずめ今は、『美しき日々』。 オンナがはまるドラマに、三人で涙している。 きっと、こういうのを幸せというのだろうなー。
2004年10月05日
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五年ほど前の秋、偶然に訪れた静岡県立美術館で、ラファエル・コラン(参照ください)の絵画に遭遇した。 それまで、わたしはこの画家の名前すら知らなかった。 当時、初恋ともいうべき人の、二度目の結婚が決まり、わたしの心中は穏やかではなかった。 人妻のわたしが嫉妬する権利などもちろんなかったけれど、胸の古傷がちりちりと傷むのだった。 そんなとき誘ってくれた男友達と、自然薯で有名な丁子屋で麦とろを食べた後、そこへ辿り着いた。 駐車した場所から美術館までのほんの少しの道のりを歩いていると、どこからともなく金木犀の香が漂ってきた。 辺りを見回して、二人でその存在を確かめたのに、あの橙色の小花をつけた金木犀は、とうとう見つけることはできなかった。 美術館で観た、ラファエル・コランが描いた女性は、どれも肌がなまめかしくて、絵の中で匂いたつようだった。 何度も丁寧に観て歩き、その絵をわたしは脳裏に刻み込んだ。 当時の心情と絵が、うまく合致していたのだろうか。 男友達は帰り道、「お前を好きだ」と言ったけど、わたしはずっと初恋の人を想っていた。 その彼から、今朝メールが届いた。 『庭の金木犀の香で、君のことを思い出した。あのラファエル・コランを観た美術館を憶えているだろうか』 でも、わたしは金木犀の匂いをかぐと、そこから二度目の失恋を思い出す……。
2004年10月04日
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久しぶりに、一日中キモノで過ごした。 なんと朝の九時から夜の十二時近くまでの十五時間もである。 さすがのわたしも疲れ果てて、肩までこってしまうという有様だった。 帯を解き、腰紐を一本、一本抜き取るたびに、しゅっと衣擦れの音がして、身体が自由になっていく。 ふーっと息を吐いた。 当分は、キモノじゃなくていいや。 そんな気分であった。 若い頃、華道と茶道をやっていたので、比較的キモノで過ごす時間は多かった。 たいていが茶会や花展だったから、普段着ではない。 付け下げや訪問着、時におしゃれな小紋も着たり、と言ったあんばいだった。 わたしの夢に、普段着を和服に割烹着というのがあった。 家事だけにいそしみ、だんな様の帰りを、三つ指をついて待つというやつだ。 漠然とそんなことを描いたというのは、金の苦労はしたくないということだったのだろうか。 でも、そんなことは本当に夢のまた夢であった。 実際には、和服を着ていられるような環境では、もちろんなく、Tシャツにジーンズのような、動き易いものばかりであった。 ところが、再びキモノに興味を抱くようになったのは、友人のRさんがキモノへ目覚めたことにあった。 昨年の今ごろ、たまたま共通の友人のお見舞いに行った際の会話であった。 「母の形見の和服がたくさんあるんだけど、それを着てあげるのが供養かなーって最近思ってるの。それで今ね、着付けを習ってるのよ」 この言葉をきいてまもなく、彼女は実際に外出に着用をはじめた。 大島紬を実に素敵に着こなしている彼女に会って、正直驚いた。 わたしは、着付け教室に半年から一年は通った気がする。 それでようやく母に手伝ってもらわなくても、一人で着られるようになった記憶がある。 でも、彼女は本当に短い時間に、しかもパーティなどにも着用できるようになっていたのだから。 元々和服は大好きなのに、実用向きではないので、ずっと長い間箪笥の肥やしになっていた。 いまだにしつけを取ってないものが、何枚かある。 着てみようかなーって思いながらも、日々の暮らしのせわしなさに負けていた。 今回、結婚式の招待状を手にした時、いいチャンスだと思った。 久しぶりに着てみる決心をした。 そう。決心をしないと着られないほど、億劫になっていたのだ。 自分で着るつもりで、結婚式の前日まで、箪笥の中に入れたままだった。 長襦袢の半襟を確認しなくちゃと、やっと箪笥から取り出して羽織ってみた。 着られるかどうか試着をした時、悲劇が起こった。 実は、袋帯でキモノを着たことがなかったのだ。 いつもは着せて上げる人だったので、自分で二重太鼓が結べないなど、思ってもみなかった。 さんざん、試して諦めた。 でも、結婚式は明日のことである。 慌てて洋服ダンスから、式向けの洋服をあさったけれど、いまいちだった。 時間はないし、焦りまくった挙句、着付けが出来る美容院を片っ端から電話で当った。 時はすでに、夕方の七時前。 でも、天は見放さなかった。 たった一軒だけ、着付けのできる美容院がOKをくれた。 慌てて持ち込み、当日は事なきを得たのであった。 さすがプロの着付けは、崩れない。 十五時間という長い時間も、びくともしなかった。 それだけに、しっかり紐は結わえてあったのだ。 帯を解いた瞬間の解放感。 これは癖になる。 当分はいいやなんて思いながらも、また着てみたくなる。 今度はデートの時にでも、着てみようかなーって目論んでいる。
2004年10月03日
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今日は結婚式におでかけします。 ここには深夜にになると思います。 光沢のあるクリーム色の訪問着を久しぶりに着ることにしました。 たったそれだけのことなのに、なんだか気分は華やいでいます。 キモノってやはり妖しげですね。
2004年10月02日
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友人が、山葡萄を送ってくれた。 新鮮な葡萄が、箱の中にいっぱい詰めてあった。 わおーである。 すごく嬉しかった。 早速、母が作ってくれたぶどう酒を思い出しながら、造ってみることにした。 房から粒を離してガラス容器の中で押しつぶした。 小さな山葡萄の実は逃げてしまうので、中々つぶれてくれない。 そのうち指先や爪の中までぶどう色にそまった。 すりこ木を出して、さらに突いてみるけど、ちいさな丸のままのぶどうの実はとらえようがない。 次にぶどうの実を手ですくって、すりこ木上で雑巾みたいに絞ってみる。 そうすると、ぷちぷち、ややつぶれた。 大体つぶれたところで砂糖を加えてかき混ぜた。 なんとなく甘い香りが漂ってきた。 手で舐めてみる。 濃縮ジュースのできあがり。 早速、水で割って氷を浮かべた。 美味しい! このままで充分に美味しい。 長女が味見にきた。 このままで飲もうよ、とお代わりをいっぱいした。 ガラス瓶は、濃いぶどう色。 これがワインになるまで待てるのかしら? 一ヶ月くらいでできるそうだけど。 ぶどうの重量4に対して砂糖は1で良いらしいけど、わたしはいっぱい入れてしまった。うまくできるかしら?
2004年10月01日
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