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元三大師(慈恵大師)が938年(天慶元年)に船岡山に創建したのがはじまりです。宮中の仏事をつかさどるなど皇室との縁も深く、境内墓地には多くの皇族の墓があります。廬山寺は文豪紫式部の邸宅址にあります。ここで育ち、結婚生活を送り、賢子を生み、1031年(長元4)59才でなくなったといわれています。紫式部は藤原香子と呼び、源氏物語、紫式部日記、紫式部集などの著書のほとんどが、ここで執筆されたそうです。白砂に苔と桔梗が映える庭園源氏貝合せ節分には追儺式鬼法楽で賑います。元三大師が宮中で三百日の護摩供を修せられた時に赤、青、黒の三匹の鬼が出現して、その鬼を三鈷でもって退散させた故事によります。
August 31, 2005
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豊臣秀吉の死の翌年、1599年(慶長4)に、その遺言により社の東にある阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、麓に豊国社が創建されました。毎年4月と8月に行われた豊国祭には朝廷より勅使が遣わされ、北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次ぎました。しかし大坂夏の陣の後、豊臣家が滅亡すると1615年(慶長20)徳川家康により取り壊されてしまいます。明治天皇により明治13年に方広寺大仏殿跡地に再建されました。絢爛豪華な唐門は伏見城の城門の遺構といわれ国宝です。西本願寺、大徳寺の唐門とともに京の三唐門の一つとされています。 瓢箪の絵馬が珍しいです。
August 30, 2005
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三十三間堂の東にあります。1594年(文禄3)淀殿が父浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に秀吉に願って養源院を建立しました。長政の従弟で叡山の僧であった成伯法印を開山とし、長政の院号を以って寺号としました。火災にあい焼失しますが、1612年(元和7)淀君の妹で徳川秀忠の夫人崇源院により伏見城の中御殿を移建し、以来徳川家の菩提所となっています。本堂の左右と正面の三方の廊下の天井は伏見城落城の時、家康の家臣鳥居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井としています。倒れた姿や手形、あし跡などの血痕が確認できます。暗いのと、400年もたっていますので自刃して倒れた姿は説明なしでは分かりません。本堂の俵屋宗達作と伝わる襖絵「松図」や、白象の杉戸絵は自刃した将士の英霊を慰める為描かれたそうです。本堂の廊下は総て左甚五郎の造ったうぐいす張りです。堂内は写真が撮れなく残念でした。
August 29, 2005
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方広寺は1586年(天正14)豊臣秀吉が奈良の東大寺にならい大仏建立めざし、造営したのがはじまりです。大仏は当初、銅造の計画でしたが、完成を急ぐために途中から木造に改められ、ほぼできあがっていましたが、1596年(慶長元年)伏見を中心とした大地震に見舞われ、大仏殿は無事だったものの堂内の大仏は大破してしまいす。高さは奈良の大仏より大きく18mはあったといいます。1599年(慶長4)秀吉の意志を受け継いだ豊臣秀頼は方広寺の再建に着工しましたが、火事で大仏殿も大仏も焼失してしまうという不運に見舞われてしまいます。1608年(慶長13)に3度目の再建に着手し、1612年(慶長17)やっと壮大な大仏殿が完成しました。大仏殿の高さは50mはあったといいます。その後も火災にあい再建されますが、1798年(寛政10)に落雷による火災で焼失してしまいます。最後の総仕上げとして慶長19年に鋳られたのが豊臣家を滅亡させる口実となったこの梵鐘です。有名な銘文「国家安康、君臣豊楽」が刻まれています。「国家安康」はわざと「家康」の二字を分断するもので、「君臣豊楽」は豊臣を君として子孫繁栄を楽しむというのです。半月後に予定されていた落慶法要は中止され、大阪冬の陣、夏の陣、そして豊臣家は滅亡することになります。残っているのは皮肉にも豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘と、巨大な石垣しかありません。
August 28, 2005
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上京区堀川通寺之内上るにあります。石の鳥居をくぐると小さな境内が現れ、左手に社務所、その奥に拝殿があります。右手に登天石と出世石があります。923年(延喜元年)延暦寺の専意僧正によって開かれたとされています。菅原道真を祀ります。登天石道真は903年(延喜3)、太宰府で不遇の生涯を閉じました。死後、都では天変が相次ぎ、道真左遷を画策した藤原一族が変死し、藤原時平も亡くなり人々は道真の怨霊のせいだと信じ、醍醐天皇は専意僧正に祈祷を依頼しました。雷鳴の中、尊意は宮中に急ぎましたが、賀茂川まで来ると突如として水位が増し、町へと流れ込みました。尊意は天に向かい数珠をひともみして祈ると、水は真っ二つに分かれ、一つの石が現れ、上には道真が立っており、やがて道真の霊は雲に消えていったと言います。尊意は参内した後、その石を自邸に持ち帰り供養したそうです。千年も続く伝説です。苔がつき烏帽子が折れたような形をして不思議な雰囲気を漂わせています。
August 26, 2005
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武信稲荷神社は、859年(貞観元年)右大臣左近衛大将藤原良相によって創建されました。 延命院と観学院の守護神として祀られた神社です。御祭神は宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神です。本殿の左には京都市天然記念物に指定されている榎が悠然と立っています。樹齢は約850年。平安時代末期、平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移したと伝えられています。社の南には江戸時代、六角獄舎があり、幕末、勤王の志士が多数収容されていました。その中に おりょうの父が勤王家の医師であったため捕らえられていて、先に様子を見にきた坂本竜馬は、後に訪ねてくるおりょう への伝言に榎の幹に「龍」の字を彫ったと伝えられています。苔も生え見にくく、どこに彫ったかは定かではありません。
August 24, 2005
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ここには殉難勤皇志士忠霊碑と日本近代医学発祥地碑が並んで立っています。殉難勤皇志士忠霊碑幕府尊皇攘夷派の指導者平野国臣が処刑された所です。六角獄舎があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されました。平野国臣はもと福岡藩士で尊皇攘夷運動で脱藩し、沢宣嘉を擁して生野で挙兵しました。しかし出石藩兵の攻撃を受け幕府方に捕縛され六角獄舎に送られます。1864年(元治元)7月20日,どんどん焼けの火が六角獄舎に迫り、脱獄を恐れた幕府役人により切支丹牢東側で、平野国臣はじめ古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐らとともに斬首されました。平野国臣ら三十七士のお墓は上京区にある竹林寺にあります。日本近代医学発祥地碑山脇東洋が1754年(宝暦4)六角獄舎で刑屍体の解剖に立ち合い、人間の内臓を初めて観察した場所です。解剖を行い、解体新書よりも前に解剖図録を作成しました。そのことからここは日本近代医学発祥の地とされています。1705年(宝永2)京都に生まれ二十一歳の時、山脇玄脩の養子となります。
August 23, 2005
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まだまだ暑さが厳しい京都です。今日は花より団子ではないですが、今年の夏はまだ頂いていなかったので、食べたくなり、買ってきました。仙太郎の竹の水(水羊羹)です。美しい青竹に水羊羹を流し込み青笹できれいに包んであります。竹筒の底に穴を開けて、底をたたくと、するりと水羊羹が出てきます。よく冷えた繊細な甘さの水羊羹が口の中でとけて、一時暑さを忘れさせてくれます。最近は沢山のお店で頂けるようになりましたね。いろんな味が楽しめます。
August 22, 2005
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東溪宗牧禅師を開祖として能登の畠山義元、豊後の大内義長らが創建したものです。名称は大徳寺の山号「竜宝山」の竜と、臨済禅で唯だ一つ存続している「松源一脈」の源の両字よりなっています。大徳寺中で最も古いお寺です。方丈は北に枯山水の竜吟庭、南の方丈前には一枝坦、方丈東側には東滴壺というそれぞれおもむきのある庭々に囲まれています。また書院には豊臣秀吉と徳川家康が対局したという基盤が展示されています。方丈室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全にとどめています。庭 園竜吟庭相阿弥の作と伝えられています。中央上よりにある大きな石がいわゆる須弥山を表し、苔により洋々たる大海原を表現しているようです。九つの山八つの海からなっていています。一枝担庭の中央右が蓬莱山を現し右隅が鶴島で、左の丸い苔山が亀島で、白い砂が大海原を表しています。蓬莱山は仙人の住む不老長寿の吉祥の島です。東滴壷一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせる壷庭です。方丈室中襖絵 竜の図鈴木松年筆 白蔵主と月にむら雲国宝釈迦如来坐像と秀吉と家康が対局したという四方蒔絵の基盤は残念ながら展示されていませんでした。
August 21, 2005
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キリシタン大名大友宗麟が菩提寺として創建したものです。方丈1535年(天文4)に建造されたもので、唐門、表門と共に、室町時代の禅宗方丈建築の遺構をとどめ、重要文化財に指定されてます。餘慶庵、安勝軒、平成待庵という3つの茶室があることでも知られています。茶室安勝軒庭園は大正から昭和にかけて活躍された重森三玲氏の作です。独坐庭寺号、瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園です。中国の禅僧百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱された禅譜から銘じられ、独坐庭と言います。蓬莱山の山岳から半島になり、大海の荒波に絶え間なく打ち寄せながらも雄々と独坐する大自然を表している枯山水です。。閑眠庭閑眠高臥して青山に対すの禅語から銘じられ、閑眠庭と呼んでいます。開基大友宗麟が、晩年キリスト教を保護したり、宣教師フランシスコ・ザビエルについて、洗礼を受け、キリシタン大名として知られていることから、七個の石組からなり、縦に四個、横に三個の石の流れが十字架に組まれています。
August 20, 2005
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今宮神社のある紫野は、平安京の大内裏に接した船岡山の東北一帯の地にあたり、洛北七野(内野、北野、平野、萩野、蓮台野、紫野、上野)の一つです。場所は大徳寺の北側にあり、本社は大国主命・事代主命・奇稲田姫命を、疫神社は 素盞鳴命を祀ります。994年(正暦5)平安京で疫病が流行り、これを鎮めるため御霊会がおこなわれました。その後も疫病が流行るごとに御霊会がおこなわれ、疫神を祀る神社として信仰を集めます。京都三奇祭の一つのやすらい祭は有名です。昔、散る花を鎮めることが防疫になると考えられました。京中の児女が華やかな装束をして踊りながら鼓笛を鳴らし、紫野社に参詣することが流行し、これを 夜須礼(やすらい)と呼んだそうです。赤毛や黒毛の鬼を従えた行列が笛や太鼓に合わせて やすらい花や と唱えながら踊り、行列の花傘の下に入ると、その一年の厄疫を免れるといいいます。東門前に南北両側に、二軒のあぶり餅屋さんがあります。食後でしたので寄りませんでしたが、芳ばしい、いい香がしていました。
August 19, 2005
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高桐院は1601年(慶長6)に利休七哲の一人といわれた細川忠興(三斎)が、父の藤考(幽斎)の菩提所として建立したものです。正室細川ガラシャ夫人が明智光秀の息女だったのは有名です。表門から右にまがり、一直線の参道に入ると、深い青葉の木々、苔、自然石の敷石道と素敵に演出されています。見所は青葉、紅葉、冬の静寂を写す庭園、珍しい黒壁の茶室 松向軒、ガラシャ夫人の墓石の石灯篭などです。意北軒千利休の屋敷の広間を移築したと伝えられる書院だけあって簡素かつ気品にあふれています。松向軒松向軒は1628年(寛永5)三斎の手で建立されたものです。茶室には珍しい黒壁は瞑想の場といった趣があります。欠灯篭千利休秘蔵灯篭でありましたが、秀吉と三斎の両者から請われ、利休はわざと裏面三分の一を欠き、庇物と称して秀吉の請を退けました。のちに利休割腹の際、あらためて三斎に遺贈したものです。ガラシャ夫人の墓石になっています。庭園四季の移り変りが美しい庭です。もう色づきはじめています。紅葉の季節はさぞかし綺麗でしょう。
August 18, 2005
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大徳寺は、北区紫野にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山です。山号を龍宝山といいます。本尊は釈迦如来、開基は大燈国師宗峰妙超で、1325年(正中2)に創立されています。応仁の乱で焼失し、15世紀に一休禅師が復興しました。国宝の方丈、唐門、重文の法堂、勅使門などのほかに塔頭が20を超える大寺院です。大徳寺は、堺商人との関係が深く、その経済力を背景に発展し、茶人、連歌師、それを保護する戦国大名の帰依するところとなります。茶人としては、村田珠光のあと武野紹鴎、津田宗達、千利休が帰依した。村田珠光は大徳寺の真珠庵にいた一体宗純に参禅するようになり、その影響を受け詫び茶を開眼します。禅宗の伽藍寺院を称して相国寺を「声明づら」、東福寺を「伽藍づら」、建仁寺を「学問づら」、妙心寺を「そろばんづら」、そして大徳寺を「茶づら」と呼ばれています。一般公開されている塔頭は、大仙院、竜源院、瑞峰院、高桐院の4院です。それぞれに個性があり見ごたえがありました。特に高桐院は紅葉の季節にもう一度来てみたいところです。
August 17, 2005
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今年は御所から送ってきました。御所の蛤御門あたりから撮った東山如意ヶ嶽の大文字です。実際に見る方が大きくはっきり見えます。大文字、左大文字、船、妙法、鳥居の形をした火が山腹に焚かれます。お盆で家に帰ってきた先祖の霊を彼岸へ送るためのものです。起源は平安初期、創始者は弘法大師 かつて大文字山麓の寺院・浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊・阿弥陀佛が山上に飛翔して光明を放ちました。この光明を真似て火を用いる儀式を弘法大師が大の字形に改めました。また室町中期、創始者は足利義政室町時代1489年(延徳元年)足利義政が近江の合戦で死亡した実子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じ始めました。大の字形は山の斜面に白布を添え付け、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶横川景三が眺め定めたという説もあります。
August 16, 2005
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平安末期、興福寺と延暦寺の争いにまきこまれ、たびたび焼き払われ、現在の堂宇は1633年(寛永10)3代将軍家光によって再建されたものが多くあります。音羽の滝清水寺の開創を起縁し、寺名を由来します。こんこんと流れる出る清水は古来より黄金水、延命水とよばれ、清め の水として尊ばれていました。音羽の滝は、本来水垢離の行を行う場でもあり、行を行う者は、ここで滝に打たれては、繰り返し石段を登って本堂へ参りました。 参詣者が柄杓に清水を汲み、六根清浄、諸願成就を祈ります。滝祠に不動明王や行叡居士を祀っている。西門 重要文化財、江戸初期再建。随所に飾り金具を備え、丹塗りに極彩色文様を施して華麗な桃山時代の美をみせます。両脇間に鎌倉様式の持国天・増長天を祀ります。三重の塔 重要文化財、江戸初期再建。平安初期847年創建といいます。高さ約31m、総丹塗りの上、各重の横木に桃山様式の極彩色文様を施し一重内部に大日如来像を祀り、四周の壁に真言八祖像、天井・柱などに密教仏画や飛天・竜が描かれています。経堂 重要文化財、江戸初期再建。本堂らと共に1633年(寛永10)再建。経を宝蔵する仏殿で、堂内に釈迦三尊像を祀ります。正面五間、側面四間の一重、本瓦葺き、入母屋造り。重量感をもつ仏堂です。阿弥陀堂 重要文化財 江戸時代初期。三間四方、入母屋造り、桟瓦葺き。前面一間は広く開放して礼堂として、通路を兼ねています。内陣には丈六の阿弥陀如来坐像を祀ります。法然上人が日本最初の常行念仏を修した所で、上人像も祀っています。
August 14, 2005
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皆様ご存知の京都を代表するお寺の一つの清水寺です。音羽山清水寺は1200年前、778年(宝亀9)の開創になります。奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ音羽山麓の滝のほとりにたどり着き草庵をむすび、行叡居士より霊木を授けられ、千手観音像を彫作して行叡居士の旧庵にまつったのが、この寺のおこりです。後に坂上田村麻呂が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山したとき、清水の源をたずねて延鎮上人に会い、深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置しました。音羽の滝は音羽の山中より湧出する清泉で金色水とも延命水ともよばれ、これより清水寺の名がつきました。仁王門 室町時代、重要文化財清水寺の正門で、応仁の乱後、15世紀末に再建され、三間一戸、正面約10m、側面約4.8m、軒高8.5mの、室町時代の特徴を示す堂々たる楼門です。入母屋造り、桧皮葺き。昔ながらの丹塗りで赤門と呼ばれています。鐘楼 江戸時代初期、重要文化財。1607年(慶長12)再建2.3tの重い梵鐘を吊るために六本柱、四方転びの技法を用い、柱に貫を三重に通して組み固めています。 本堂 国宝1633年(寛永10)再建、正面36m、側面約30m、棟高18mの大堂で、堂内は巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣・内々陣に三分され、最奥の内々陣の大須弥壇上の三基の厨子内に本尊千手観音と地蔵菩薩・毘沙門天を祀ります。本堂の舞台約190平方メートルの総桧張りの舞台を最高12mの巨大な欅の柱を並べて支えています。
August 13, 2005
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京都には天変地異から有力者の死までが、たたりであると理解され怨霊を鎮めるための神社が多く存在します。寺町通丸太町を少し下ったところにあります。809年(大同2)不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子 伊予親王とその母の藤原吉子の霊をなだめるために839年(承和6)に創建されたといわれています。祭神は後に崇道天皇(早良親王)、吉備真備、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麿、火雷天神(菅原道真)を加えて八所御霊としています。当初は出雲路(上京区)にあり御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼はれるようになりました。この地に移ったのは豊臣秀吉によるもので1590年(天正18)のことです。本殿は1791年(寛政3)天明の大火で仮皇居となった聖護院宮の内侍所を御所復旧後に移したもので、表門は旧建礼門を移したものといわれています。
August 12, 2005
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この本尊を祀る荒神堂の前の石の鳥居が神仏混合の名残をとどめています。清荒神は、火を守る神様として昔から信仰を集めてきました。寺伝によりますと本尊の荒神像は奈良時代の771年(宝亀2)、開成皇子が摂津の勝尾山で修行中、三宝荒神が鬼神となって現れ、皇子はその姿を模刻しました。この荒神像は後に後小松天皇により下京区醒ヶ井通高辻へ移して安置され、さらに1600年(慶長5)王城守護のために御所東側の現在の境内に移されました。その像は、八面八臂に激しい形相といわれています。また後陽成天皇自作の如来荒神尊七体を合わせて祀り、国家安泰、五穀豊穣、火難即滅、日常生活の平穏を祈願し、1697年(元禄10)に護浄院と院号を賜り今日に至っています。尊天堂に安置する福禄寿尊も、宮中から東京遷都のとき移され、今は京洛七福神の一つに数えられています。
August 11, 2005
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二年坂の近くにあります。残念ながらお休みで中には入れませんでした。次回あらためて来たいと思います。東山のシンボルとして知られる法観寺の八坂の塔です。聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げで589年に創建されたといわれています。現在の塔は1440年(永享12)足利義教が再建したものです。八坂の塔は本瓦葺五層、高さ46mの純然たる和様建築です。初層から四層までに高欄がなく五層にだけあるのが特徴です。塔の中には五大力尊が安置されており、急な階段を2階まで上がれます。八坂の塔のほかは太子堂、薬師堂を残すのみです。
August 10, 2005
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清水寺の境内にあります。京都最古の縁結びの神様として有名な神社です。現在のご社殿は1633年(寛永10)、徳川三代将軍家光が再建しました。大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神として、素戔嗚命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめ)などを祀ります。境内には本殿、拝殿のほか、恋占いの石、撫で大国、おかげ明神、車返しの桜などがあります。恋占いの石縄文時代の石が二つあり、一方の石から目を閉じて歩き反対側の石にたどりつけば恋の願いがかなうといいます。おかげ明神どんな願い事も一つだけなら必ずおかげ(ご利益)がいただけるという、一願成就の守り神です。後ろに立っている神木はのろい杉といわれ昔女性の間で流行した丑の刻まいりに使われていたそうです。真白に化粧をし、相手にみたてたわら人形を、このご神木に釘で打ちつけ、呪いの願をかけたといいます。恐ろしいですね。おかげ明神車返しの桜八重と一重の花が同時に咲く珍しい桜で日本でもこの一本が現存するのみです。811年(弘仁2)、嵯峨天皇の行幸のおり、あまりの美しさに三度御車を返されたそうです。長い間来ていませんでしたが、変わりように驚いています。恋いの神さんはこれぐらい賑やかにしないと、ご利益がないのでしょうか・・・恋占いの石本殿
August 9, 2005
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六道珍皇寺の近くにあります。お盆のこの時期だけしか公開していない、九相観の図、地獄極楽絵、六道の辻承和図会などを見せていただきました。九相観の図は壇林皇后がモデルではないかと言われています。高貴な女性が死を迎えた後、腐乱し、白骨化し墓に入るまでの様子を九段階に分けて生々しく描いた掛け軸です。世に伝ふる后の遣命に日く、葬儀を用いず中野に棄てよ、色欲に耽る者は、我が爛穢を見て、少しく警悟すること有るなりと。崩ずるに及び、屍を西郊に棄つ。という文が添えられてあったそうです。死後の九段階を想像して人の世の無常を悟り肉体への執着を絶つ九相は重要な修行とされました。地獄極楽絵悪行を戒めるために使った思われます。六道の辻承和図会
August 8, 2005
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東山区松原通東大路通西入るにあります。今朝 6時にお精霊さんを迎えに六道珍皇寺まで行ってまいりました。日曜日もかさなって迎え鐘を撞く為の行列が長くのびています。ここ六道珍皇寺では毎年8月7日~10日、先祖の霊をお迎えする、六道詣りが営まれます。行列が出来るほどの参拝者が打ち鳴らすお迎え鐘の音が響き渡ります。お迎え鐘は毎年、盂蘭盆に精霊をお迎えするために撞かれますが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じて、この世に呼び寄せられると伝わります。参拝者は、本堂で経木に亡くなった人の俗名か、戒名を僧侶に書いてもらいます。筆に自信があれば自分で書いてもいいのですが。本堂前の香炉で線香を上げます。その経木を煙でまぶして、自分にも煙をかけます。経木を地蔵堂の前ある水槽に浸すか、杓や高野槇で水をかけ、お供えします。迎え鐘を撞きながら故人の名を胸中に念じ、お精霊さんを冥界から呼び寄せます。境内で売っている高野槇を買って帰ります。冥界で鐘の音を聞いたお精霊さんは、この高野槇を伝って帰ってくるといわれています。このようにおこないます。私は混みますので先に迎え鐘を撞きにいきますが・・・境内には小野篁が冥土への入り口にしたといわれる冥土通いの井戸がありますが、本日は垂れ幕がしてあり見られません。その代わりに普段は見られない、凛凛しい小野篁の立像や閻魔様を見ることが出来ました。
August 7, 2005
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上京区千本通竹屋町下るにあります。祭神は三石大神を祀ります。開運出生、衣食住、地位名望、衆人愛敬・農工商その他一切の生業に大繁栄・延命長寿と病気平癒、千客万来、武運長久、善知識、金銀財宝と10種類もの福が授かるといいいます。1587年(天正15)とよとに秀吉が聚楽第の創建とともに、邸内に祀った稲荷社がはじまりです。翌年 御陽成天皇が聚楽第に行幸し、盛大な催しが営まれ、このとき稲荷社に参拝した天皇は、この神社に出世の称号を与えました。大名や公家の開運出世祈願の社として栄え、江戸前期の1663年(寛文3)に現在地に移されました。江戸時代中期には隆盛を極め、鳥居の数も329本にも達したと言われています。小さな境内であちこちで工事をしていたので、よく見られませんでした。
August 6, 2005
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上京区千本通盧山寺上るにあります。千本閻魔堂は小野篁を開基としています。あの世とこの世を行き来する小野篁が、閻魔大王からお精霊迎えの法を授かり、船岡山の麓に堂を建て自ら閻魔大王の像を刻んで安置したのがはじまりといわれています。その後、比叡山の僧、定覚が開創しました。 定朝作と伝えられる閻魔王を本尊としています。この付近は蓮台野と呼ばれ東の鳥辺野、西の化野と並ぶ平安時代より北の葬送地で、お盆といわずお精霊迎えの根本霊場として古くより有名でした。本尊におまいりして、水塔婆に戒名を書き、高野槇で水をかけて供養し、鐘楼につるした迎え鐘をつき、お精霊さんを迎えます。現在も盂蘭盆会の時期(8月7日~15日)にお精霊さんを迎える参詣者で賑わいます。千本閻魔堂大念佛狂言は壬生狂言、嵯峨大念仏狂言と並んで京の三大狂言の一つで、5月1日~4日まで本堂横の特設舞台で演じられます。他の二つが無言であるのに対して、ここだけが有声で演じます。もうすぐお盆ですね、はやいものです。
August 5, 2005
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嵐電の御室駅を降りると二王門が見えます。御室仁和寺は御室御所とも呼ばれ宮廷の雰囲気をもちます。886年(仁和2)に光孝天皇が発願し2年後に宇多天皇が創建されました。真言宗御室派の総本山で、常に皇室と密接な関係を持つ門跡寺院として格式を誇っています。最初に目に入るのが重厚な二王門です。知恩院の三門、南禅寺の山門と共に京都の三大門と呼ばれています。左手に宸殿・白書院・黒書院などの御殿が並び、中門へと進むと金堂・御影堂・五重塔・観音堂があります。五重塔は1644年(寛永21)に創建されました。近代の五重塔の代表で各層の屋根の大きさがあまり変わらないのが特徴です。金堂は桃山時代に建てられた京都御所の紫宸殿を江戸時代初期に移築し現存する最後の紫宸殿で当時の宮廷建築を今に伝える貴重な建造物です。本尊は阿弥陀三尊像を祀られています。観音堂は江戸時代に建造された御堂。近世の堂宇建築の特徴とされます。堂内には須弥壇が置かれ十一面観世音菩薩が祀られています。この観音堂は仁和寺に伝わる法流の伝授など、密教儀式の伝承や修行道場として使用されています。中門を入ると左に御室桜があります。別名おたふく桜 。樹高が低く、花も低いのが特徴で、根元から爛漫と咲き乱れる遅咲きの桜とて親しまれています。大正13年に天然記念物法により名勝に指定されています。春にまた訪れたいと思います。
August 4, 2005
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嵐山からトロッコ列車の嵐山駅に向かう竹林の中にあります。黒木鳥居と小柴垣は平安の風情を現在に伝えます。黒木鳥居はクヌギの木の皮を剥かないまま使用する、日本最古の鳥居の様式で、小柴垣はクロモジの木を用いてるそうです。野宮は昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。斎王とは、天皇が新たに即位 すると、天照大神の御杖代として、伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王もしくは女王のことです。潔斎の後、伊勢に向かう行列を斎王郡行といいました。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶しまいます。ふかふかのじゅうたんの様な苔の緑が目に焼きつきます。綺麗な苔の庭園にしばし見とれていました。中央の本殿には、野宮大神(天照皇大神)、本殿の右側に愛宕大神、左側には白福稲荷大明神、白峰弁財天、野宮大黒天を祀ります。
August 3, 2005
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出水通千本西入にあります。開門は年に一度、二月三日の節分会の時だけです。真言宗善通寺派の寺院で福勝寺といいます。ひょうたん寺、融通さん、桜寺と多くの呼名があります。豊臣秀吉が、この寺で武運を祈願して、自らの旗印である千成ひょうたんを寄進したので、ひょうたん寺と呼ばれるようになったといわれています。このお寺のお守りは、小さなひょうたんで、宝珠尊融通御守といい、このことから融通さんともよばれています。袋に入っていますので、どんなひょうたんがあたるかは、わかりません。今では予約制になっています。うちの家では融通さんで通っています。御利益はあるような、ないような・・・
August 2, 2005
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八坂神社から東大路を下ったところにあります。崇徳天皇(すとくてんのう)、大物主神(おおものぬしのかみ)、源 頼政(みなもとのよりまさ)が祀られています。藤原鎌足が堂宇を創建して、境内に藤を植え家内の隆盛と子孫繁栄を祈願し藤寺と称したのが始まりと言われています。のちに後白河天皇の詔によって光明院観勝寺と改められますが、応仁の乱によって荒廃してしまいます。1695年(元禄8)に太秦安井にあった蓮華光院がこの地に移された時に、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになりました。安井金比羅宮は縁切り・縁結びで知られています。本殿脇に高さ1.5m、幅3mの大きな石があり、縁切り縁結び碑といわれています。中央の亀裂を通じて神の力が下の円形の穴に注がれており、形代に願い事を書いて碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。最後に形代を碑に貼って祈願します。碑には無数の形代がはってあり、元の形はまったく見えません。願いの多さには驚きです。
August 1, 2005
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