「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
3703933
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
小笠原胖之助死闘と時計No.3,箱館戦争
幕末,箱館戦争,初期戦犠牲者,七重に散った若き貴公子、小笠原胖之助の烈死,針の止まった金時計,小笠原長行,小笠原長行の行動&歴史,小笠原胖之助(=三好胖)について,中島登の戦友絵姿に描かれた小笠原胖之助の素顔,従者、小久保清吉の殉死,終焉時に散った命、栗原仙之助,中島登が戦友絵姿を描いた動機,他,【楽天市場】
サイトTOP
<
幕末_WITH_LOVE玄関
<函館戦争の余波<
小笠原長行&小笠原胖之助(=三好胖)
<慟哭の小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦、針の止まった金時計:
小笠原胖之助の突貫死
※別途参考資料専用頁有:
資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について
現在のSERIES直前の部分から読む(夢ならぬ夢)!_Vol.1=No.1A
<
No.1B
サイトTOP
<
幕末_WITH_LOVE玄関
<函館戦争の余波<
小笠原長行&小笠原胖之助(=三好胖)
<慟哭の小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦、針の止まった金時計:
小笠原胖之助の突貫死
※別途参考資料専用頁有:
資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について
夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!_Vol.2(胖之助_No.3)
慟哭の小笠原長行:嗚呼、我がいろとよ!七重戦、針の止まった金時計
小笠原胖之助SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
(現在の頁)
残された藩士達の宿命
唐津藩士達の行動ルート
・・・・■相当詳しく見るには:
資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について
箱館戦争に於ける唐津藩士は大きく分けると、行動ルートは2種類。
ひとつは小笠原長行に随従してきた者。もうひとつは小笠原胖之助に従い、
行動を共にした組である。
胖之助チームは、江戸では彰義隊の上野東叡山戦争参加から、
輪王寺宮の護衛をしながら、奥州へ転戦。
ふたつのチームの一部は主の命令で、一時的に主を離れ、別ルートで転戦。
この内、長行の命令で庄内援兵に行った者は戦死及び、生き残りは捕縛された。
そうした例外の者を除くと、基本的には皆、長行と胖之助が仙台で
榎本軍合流の際、共に長鯨丸で蝦夷へ来た。
米渓彦作と、尾形俊蔵≒尾崎 の2名は長行の専用家来としての随従だが、
胖之助を筆頭に他は皆、新撰組に編入され、戦闘士となった。
皆は、蝦夷上陸早々の明治元年10月24日、胖之助と仲間の小久保を失う絶望の
境地に至る。また、いよいよ負け色濃厚となった翌年4月には、我が殿、
小笠原長行は蝦夷から逃れ去って行った。
勿論、長行が己だけ生き残ろうと卑怯な手段に出たのではない。
皆が納得の上のことだった。
とはいえ、藩士達にとって心の星、貴公子胖之助を失い、道標である長行も、
もはやこの蝦夷にはいない。
家来達は皆、長行の生き様を見て、心底、幕軍応援の為に戦ってきたには
かわりないが、勝利を得るための強い自らの意思がある者と、完全に犠牲的従者、
忠義のみで主を守る為参加しているタイプと双方ある。
各々の思想で自ら幕軍に参加してきた者と、小笠原長行、桑名の松平、
松山の板倉に随従してきた家来達の感覚は少々異なる。
運命は、残酷だ。殿を失った後、彼らは蝦夷に取り残されることになる。
今日まで頑張ったのは一体、何のためだったのか・・・。
誰もが呆然自失となった。
しかし、現実は引くに引けない現況。道標を喪失した後も、よくぞ、
その絶望感から這い上がり、不義への戦いに命を懸けて戦ったものだ。泣けてくる。
七重の墓に降り積もる純白の雪
誠心院義峯信忠居士_小久保清吉
■
小久保清吉:弘化4年(1847)~明治元年10月24日(1868)。享年22歳
明治元年10月24日、胖之助に殉死した。彼は、父小久保弥吉の長男。
弥吉の代は、胖之助の父である小笠原長泰の家来であったことから、
小久保清吉は幼い頃から、自分より5歳程度年下の
胖之助の家来兼遊び相手としてずっと共に暮らしてきた仲。
資料では、当日の現場が相当混乱していたらしく、胖之助と小久保、
どちらが先に死亡したのか、情報が錯綜していて、判断しがたい。
胖之助を失い、死ぬ気で仇討ちに小久保が燃えたのではなかろうかとする説が
有力だが、いずれにせよ、極力戦闘に介入させまいと家来達が、最後列に
下げておいた胖之助が、若い正義感が爆発して突入命令を下し、
先頭に立って突貫したのが原因だった。
中島登の描いた戦友絵姿
では、小久保清吉の年齢が25歳と誤記があるものの、
最期の瞬間の無念が、悲しい程克明に描かれている。
腰に大刀を差した小久保が、胸から流れる鮮血を右手で押さえ、
左手には銃を持っている。おそらく絶命の瞬間だろう。
無念であったにちがいない。彼にとっての殿は、長行以上に胖之助だったのだ。
幼くて可愛いかった頃からずっと見てきた。ずっと世話をしてきた。
家来でありながら、おそらく兄のような感情も伴っていたことだろう。
大切な大切な、誰よりも大切な貴公子、胖之助を、
一人死なせるわけにはゆかなかった・・・。
彼の死には、一人の男としての壮烈な死のドラマと共に、
従者としての悲しみがしみじみと伝わってくる。完全な殉死だった。
胖之助を一人ぼっちにせず、最期どころか冥土への道のりも、しっかとこの男が
支え、忠実に天へ導いてくれたことだろうと思う。
二人は仲良く、まずは七重の宝琳寺に並んで埋葬された。
その後、遺骨騒動
研究者や、当時の戦友達が必死で探しても、遺骨が無い、どこへ行ったかと
騒ぎになった時期があったらしい。そこで、更に研究がなされ、結論が出た。
遺骨は、蝦夷から旅立って、唐津に眠ることになった。
経緯はこうだ。明治5年、幕府軍を弔った罪で、宝琳寺は 移転させられる。
新政府が墓を暴く前に連絡をくれた可能性有。ちなみに墓は唐津の近松寺にある。
それを裏付ける内容として、 西脇謙三郎(旧名、鳥羽丹治)
旧唐津藩士 が明治6年夏、七重村に赴いて、 遺骨を引取るとある。
そのため、今は、唐津で安らかに眠る。
純粋な少年、16歳の胖之助は哀れな死を遂げるが、
心底純粋な男、小久保は冥土まで付き従った。
ある意味で、胖之助は幸せだったかもしれない。
裏切りも駆け引きも、なんら泥の世界を知らぬままに、清く天へ飛び去った。
七重の丘、純白の心。そのまま天昇した二人の墓。
いつしか天から、大きな綿雪が天女の舞いのごとく、舞い降りて、
やがて、降り積もった真っ白な雪は、そっと彼らの魂を包み込んでいた。
心優しく忠義に生きた若者、小久保清吉の墓には、こう刻まれた。
誠心院義峯信忠居士。
戒名には彼の全てが語りつくされていた。
小林幸二郎 の死
勇者達の戦闘、『不義への戦い』は、
無念にも、敗れ去った。
皆、屈辱の降伏、裁かれた後、唐津藩士達は、
弘前に送られ、謹慎生活となった。
これで終わったはずだった。
何もかも失ったのだから・・・
しかし、天は尚も奪い続けたのだった。
哀れなるかな、小林幸二郎 が死んだ。
弘前での謹慎中、病死 した。
終わったはずだった。
それなのに、唐津藩士達は尚も、失い続けた。
小林幸次郎に関しては謎が多い。
複数の資料を組み合わせて考察。謹慎中死亡説。しかし別途調べると、墓は函館。
隊不明の怪我人中に、一本木付近負傷者としての小林幸次郎も有。故に、専門家のように断言するわけにはゆきませんが、
箱館死亡の確率も、否定できない。
_謹慎中死亡だとすれば
弘前謹慎中、小林幸次郎が死。(病死?よく解らない。傷に病んでいればここには来ない。
他藩士は国許から小笠原を慕いやってきた書生風であったり、死んだ甥子(小笠原胖之助(=三好胖))の家来で
あったり。その点、小林は純粋に小笠原の身元家来(重役じゃなくて馬廻りのような。江戸在勤時代、常時側に居た。
いつも全ての行動を見ているが、発言するでなく進言するでなく、寡黙で口が堅いタイプの仕事。)
小笠原の行方、知らぬ存ぜぬ言い難い立場であるのは事実。(現代風に言うなれば、お抱え運転手が窮地に黙する
を徹して自殺した例のような臭いも多少。・・偶然かもしれないが、多少気に掛かる死)
_
箱館死亡と考えた場合
小林幸次郎に関しては謎が多い。函館の称名寺に墓有。怪我人の中に同名有り。やはり箱館か。三好胖こと小笠原
胖之助も、従者の犠牲者も一度埋葬されたが、後に、遺骨は改めて唐津へ。(重傷者として皆が謹慎送られた頃、
箱館に残り、ついに死亡に至った可能性。)小林は江戸勤だが、後やっと安定した段階で小笠原長行は、いつも側に
居た男の墓を別途江戸近郊に改めてやったのだろうか。不明。
中島登の『戦友絵姿』
中島登の絵は降伏後、謹慎中に描かれた。
その中島本人が冒頭にこう言っている。
絵が下手だから、文章が稚拙だからといって、
どうか笑わないで下さい。
いてもたってもいられず、思わず、
描かずにはいられなかったのです。どうか解って下さい。
この文面を見た時、私は、なぜか、中島本人の肉声を
聞いたような錯覚に陥りました。
絵は写真と異なり、その現場での活写ではない。
皆、後日思い起こしながら描いたもので、
詳細は写真のように真実かどうかは不明だ。
また、人伝に聞き知って描いたものもある。
しかし、彼の生身の人間、共に戦い、無念にも敗れた者ならではの
特別な思いが、一枚一枚の絵に沁み込んでいる。
思い出す度、己自身に、張り裂けそうな苦しみが蘇る。
それは、己の血潮を振り絞るが如くの思いで、
悲しみに耐えながら、描いたに他ならない。
その瞬間に、たった一枚の絵は、真実の活写である写真以上の
価値を為す・・・そう思えてなりません。
・・・そう感じるのは、私だけなのでしょうか?
本件関連の中島登の絵3件について
小笠原胖之助
栗原仙之助
小久保清吉
それとは別途、大正5年まで存命した
幕軍の医師、
高松凌雲の晩年発言
が
奇妙に、心の中、折り重なってきます。
「こーゆーことが、あったこと、
どうか、若い人にも
知ってもらいたい・・・」
語尾は涙に潤んでほとんど聞き取れ
なかったという。
高松凌雲の晩年発言から:咲けよ!
夢花 天に咲け!浦賀同心_柴田伸助
戦争も殺戮も、この世から完全に消滅してくれる日が
今すぐにでも、到来してくれないものだろうか・・・思わず、祈ってしまいます。
中島登の『戦友絵姿』に描かれた小笠原胖之助
胖之助は、親兄弟に薄幸。そのため、愛馬を犬のごとく可愛がっていた。
鷲の木到着間際のことだ。疲労した兵達の為、即急に水樽が運ばれた。
柄杓で掬い、皆が、一口づつ喉を潤すためのものだ。
しかし、その時、胖之助は、水を掬った柄杓を手に取ると、
そのまま場を離れた。
何をする気かとふと見ると、皆には背中を向けたまま、愛馬に近づくと、
たった一杯、小さな柄杓。それだというのに、
己は飲まずに、愛馬に飲ませてやったという。
その姿が描かれた当時の絵(中島登作)は、よく見ると実によく描き出している。
馬の様子。犬のように喜んで身を飼い主に摺り寄せ、はしゃいで足を挙げている。
胖之助の戦闘が実に壮烈だったかは遺体が物語った。
被弾2箇所、刀傷は顔面を含め全身数箇所、指が3本切り落とされる、刀毀れ10箇所、鞘傷8箇所。
しかし、にもかかわらず、中島登は、凄まじい戦闘姿を描かず、上記の場面を描いた気持ちを
考えてみた。中島登という人物は痛々しい程神経の細やかな人物。
きっと、この子は、背丈も高ければ見た目も大人顔負けながら・・・
なんと心の優しい子なんだろう・・・そう感じたのではあるまいか?
その優しい子を失った気持ちが、自然にあの時目にした「彼と愛馬」を描き出したのではないだろうか?
中島登にも息子が居る。優しい少年が天へ飛び去ったこと、とても人事とは思えなかった。
その胖之助を、甥でありながら、実の弟のように溺愛していた人物が、小笠原長行。
彼もまた、薄幸の人だった。
小笠原長行、追憶、胖之助と愛馬
小笠原胖之助SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
(現在の頁)
■
資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について
失踪の小笠原長行、敗者の夢
若田榮吉&今井信郎の残した資料
小笠原胖之助、突貫の様子
他藩士の若田榮吉が書き残した。
「血気盛んな青年指揮官は、戦況不利と見るや、トンビを脱ぎ捨て、銅服、長靴全部抜き捨てるなり、
やにわに敵中に斬り込んだ。僅か16歳也。肥前唐津城主小笠原壱岐守令弟也・・略・・」
長行は城主ではないし、多少誤記もあるが、一般に17歳とされる胖之助が、厳密には、誕生日前で
16歳だったことも知った仲だったのかもしれない。
初戦時の戦況
また、今井信郎の「蝦夷の夢」には、こうもある。(初戦時の場面)
「呼声地に震い、深雪変して紅の如く、
屍横わって丘の如し」
■上記本文関連部分のみの「超ミニ年表」
資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について
小笠原長行の絶望は、蝦夷到来とほぼ同時だったといえる。下記のとおり、上陸早々に、
最愛の我がいろと(=弟≒弟同然と本人は思っている特別な存在の甥)を喪失してしまう運命だった。
10/20日から順次: 榎本軍、鷲の木上陸。五稜郭に向け進軍、戦闘開始。
~10/24 :峠下、七重、川汲峠各地戦闘。犠牲者発生。
10/26:五稜郭無血占拠
11/5:福山城(松前)落城
11/14:館城落城。(病弱な藩主は青森に逃走)
11/15:江差沖にてタバ風。軍艦「開陽」座礁&沈没
12/15:投票により榎本武揚総裁決定。他役員同時決定。政権=デファクト成立。
弟同然と思っている訳:
こちら:「慟哭の小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!」
、
最初からお読み頂けるときっとお解り頂けると思います。
■榎本軍、蝦夷上陸早々の初戦、官軍側犠牲者一覧
初期戦(峠下、七重、大野方面):
官軍側犠牲者一覧&悲しき福山藩の実態
榎本軍が上陸した時、大急ぎで数日前に派遣され到着していた福山藩
この頃、官軍側勢力はというと≒1500位との推定
○松前=200位が戸切地陣屋に派遣されている。○福山兵、○大野藩、同じく緊急派遣=170、○他箱館府兵など
■榎本軍、蝦夷上陸早々の初戦犠牲者一覧
1.山本康次郎(19歳)・・・伝習隊士・・・真っ先に犠牲となった。
2.諏訪眞五郎(19歳)・・・遊撃隊【諏訪部ともいう】・・・会津の人:20日死亡。『苟生日記』。
『苟生日記』の著者について:杉浦(赤城)清介
3.杉田金太郎(25歳)・・・遊撃隊頭取長・・・会津の人
4.大岡甲次郎(25歳)・・・遊撃隊頭取長
病院に運ばれたが、重症で再起不能に近かった。11/5に、傷の苦しみか、役に立てない身体に
悲観&足手まといになる己に苛立ったのか・・・なんと自刃してしまった。『苟生日記』
5
.
三好胖(16歳11ヶ月)・・・本名:小笠原胖之助
、小笠原長行の甥、唐津藩
・・▲この人物についてもう少し詳しく「
小笠原長行
」と「
小笠原胖之助=三好胖
」
6
.
小久保清吉
・・・唐津藩、上記、三好の従者:唐津藩
7.竹内(武内)武雄・・・桑名藩(仙台で乗船時に新撰組入隊
8.佐治寛(広)・・・桑名藩(仙台で乗船時に新撰組入隊
9.竹内(武内)武雄・・・桑名藩(仙台で乗船時に新撰組入隊
10.蟻村勘吉・・・桑名藩とあるから、蟻通勘吾に似てるけど別人でしょうね。
・新撰組の蟻通は重症怪我を負った状態で蝦夷渡航。だから明らかに違う。
・ちなみに桑名に当該或いは類似も居ない。貴重な古書を残してくれた誰かその人物の錯覚か。
・名は誤記でも、つまり他の誰かがここで勇戦戦死したことになる。(他所でもよく有るパターン
11.中村登助(砲兵隊)
12.伝吉(砲卒)
13.世蔵(砲卒)
14.巳之助(砲卒)
15.他
※名前を書いてもらえなかった人、匹夫数名なんてひどい!そんな書かれ方の人、
埋もれてしまった人、他にも居る。名も無い雄士達にも是非、花を手向けたい。
複数の資料から拾い集めると上記のとおり。古書では合計8名位とするものが多いのに、こんなに
居る。まだ増えるかも・・・。
※資料では、たいてい「遊撃隊」とある。しかし、上記2と3の人物は会津。会津は
蝦夷での戦闘に於いて、「会津遊撃隊」という隊名表記もあり、当初、一括新撰組に
編入されていた。二手に分かれて行動した新撰組の一隊としての存在かもしれないとも考えている。
また、迫り来る諸外国の脅威で
お固め四藩他各藩が交代で台場に砲隊が詰めており
、会津も当該。
その経緯でやはり江戸近郊に居た者は会津でありながら、遊撃隊参加だったかもしれない。
諏訪眞五郎は、諏訪常吉と同じく、会津の人だが、親戚なのかどうか、詳しく書かれた資料には
まだお目にかかれずですが、なんか、気になってしかたない。もし親戚だとすれば、戦争など
やめようではないか・・・と行動に出た
諏訪常吉
はここでもまた、苦しみを味わっていることになる。
昭和迄埋もれていた諏訪常吉の墓は、移動改めで今函館の寺では眞五郎と並んで建っているらしいが。
この時、唐津の怪我人は
:山久知文次郎、明石覚四郎
杉浦(赤城)清介
杉浦(赤城)清介:『苟生日記』の著者:蝦夷当時43歳、蝦夷の榎本政権では完全な行政官
<幕府時代:高150俵の幕臣>
◇外国奉行支配定役、◇砲兵指図役頭取勤方同様役(大御番格)等歴任、
◇慶応2年か秋~同年3月:太田陣屋にて、フランス式調練を受ける。
これは年齢的に、指導官としての知識集積の為の調練だろう。
同時に、ブリュネ、フォルタンから算術、測量学を学ぶ。(即ち、幕府時代から懇意)
◇奥詰銃隊に転任(慶応4年(1868)3月2日付にて転任)、
◇この後、大阪に赴任。鳥羽伏見の敗戦経験、
◇慶応4年6月:業務を辞任(※)の上、脱走決意。◇同年8月:榎本艦隊に便乗脱走。
上記辞任時の辞職表内容がなかなか謙虚風ながら、年齢に似合わず、純に血が熱い。
文章内容は「私は能力乏しく(鈍劣と書いている)、高齢なれば・・」というかんじの辞任。
実は、この段階既に、脱走決意だったのだろう。
<脱走後から蝦夷>
◇箱館奉行「永井玄蕃」の下、 彼は英語可能であることから、運上所などの翻訳分野に
貢献したりしてるが、行政上の発議権もなければ、兵の指導権もない。
窓際族的存在であることに自嘲。そこで日記のタイトルが「
苟生日記
」。
▼
<苟生日記の苟生とは>
◇何もなすことなく、いたずらに生きながらえること=己を自嘲。
行政上の発議権もなければ、兵の指導権もない。窓際族的存在であることに自嘲。意を決して
脱走したのに、現況にご不満。(このご不満原因について、下段に考察欄を追加)。
◇尚、この日記には当日の天候描写が巧。密雪霏々、寒風入骨、風雪沍寒、・・等。
<降伏後から明治>
◇沼津兵学校3等教授並、資格陸軍兵学寮十等出仕、◇明治7年:海軍省主計副
<この人物の特徴>
◇英語可能。日記に「ソンダイ」とか書いている。ソンダイとはSunday。
◇元は講師的存在。砲兵の一部は、教え子。蝦夷では、頻繁に彼ら若者を食事や酒に連れ出す。
◇箱館では、牛肉鍋の店に頻繁に通う。霞楼(高級接待の店)にも通う。
◇なぜか、鶴肉(←ツル!!)も貰って食べている。◇鰻の店に本山を連れ出し、不味いとぼやく。
(彼の日記は、こうした別世界も垣間見る事ができる。)
▼
この人物は戦闘員でなく、皆が戦って死んでいる最中だというのに、よく、酒を飲んだり
榎本以外なら、誰でも日記に「大ばか者」と罵るなど、読んでいると当初ムカッ!でしたが、
だんだん、この人物も懊悩しているのが解りました。(不満原因考察欄ご参照)
<元は、講師的存在>
◇上記履歴からも解るように、彼は、元は、砲兵達の指導を行っていたのが解る。
◇若手兵を教え子のごとく扱っている。人の好き嫌い激しいが、教え子は可愛い。
可愛がっている若者の死には、本気で悲しんでいるのが解る。
大岡甲次郎、諏訪眞五郎(諏訪部)
の死も悼み、
伊庭八郎
の友達、
本山小太郎
の死も嘆いている。
本山はよほど、可愛いかったらしく、酒を飲ませてやったりしている。他人が酔うと醜態を曝したと
非難轟々(日記に誰々は酒の飲み方も知らぬ大馬鹿者!と書いている)なのに、本山が酔って
雪の中、ひっくり返った事をとても愉快そうに書いている。
尺振八に伊庭八郎と本山が世話になったこと(=江戸脱走時、伊庭の乗船していた美嘉保丸は
途中座礁。伊庭は逃亡を続け、再度渡航準備が完了するまで、
尺振八
に匿ってもらっていた。)
を聞いて、礼状を書いてやったりしている。
それだけに、本山の死も、上記諏訪の死同様に、強烈にダメージだったようだ。
◇松平太郎は蝦夷で副総裁だというのに、呼び捨て。
「太郎は、全く、相変わらず、言葉使いがなってないヤツだ。呆れるワ!」と日記に愚痴こぼす。
やはり、ここにも、元先生だった人物特有の特徴が滲み出る。
<苟生日記の苟生の由来考察:ご不満の原因考察>
◇
苟生=
何もなすことなく、いたずらに生きながらえること=己を自嘲。
◇運上所で翻訳などの仕事もあり、体裁悪いポジションではないのですが、本人は不満。
行政上の発議権無し。役職も本人にとっては、物足りない。窓際族的存在=自嘲。
意を決して脱走したのに、兵を指導する権利は剥奪された。書類相手の仕事ばっかり。
▼
この人物は「先生」で居たい。兵を指導したい。信念上、悪と戦いたい・・のニュアンスだろうか。
▼
教え子らしき若者を可愛がりつつ、役職者達の多くをボロカスに非難文章残す。
色々調べてみたところ、原因が、だいたい解りました。
▼
【奪われた「砲兵隊隊長」の地位】
・・・
はじめ、砲兵隊隊長は、杉浦(赤城)清介だった!
◆蝦夷に於ける「砲兵隊隊長」は関広右衛門(5/11戦死するが)である!!
◆砲兵隊長は東名浦(宮城県桃生郡鳴瀬町東名:現在の松島市)出帆の時、
新規、関広右衛門が拝命。杉浦清介は外される。
その為、杉浦本人としては、地位を剥奪されたような感覚だろう。
砲術指導能力も、肯定されなかったことになる。
(背景に何があったかは不明ながら、
彼特有の罵倒文のターゲットの中に、土方歳三も、荒井郁之助も、松平太郎も、松岡四郎次郎も居る。)
箱館に於ける役職は、体裁よくても実質は、発議権がない為、所詮己は窓際族と、
ご不満なのだろう。
かなり人間臭い。立場かわれば、誰しもそうかもしれない。コワイおじさんだが、
生徒には、実に優しい先生の姿。連日のように看病に通った
諏訪眞五郎(諏訪部)
(※)の死の際、
▼
・・
「徹夜、枕に座ス。哀哉。痛哉。吾為之慟哭。実行寺に棺を護ス。」
(彼は19歳だった。)
本山の死の頃は、皆が次々と死亡の末期。それでも、この人物は、一人嘆き、しんみり酌を。
小笠原胖之助SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
(現在の頁)
失踪の小笠原長行、敗者の夢
現在のSERIES直前の部分から読む(夢ならぬ夢)!_Vol.1=No.1A
<
No.1B
▼
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
★
Blue Moon
:上記と馬の絵を除くイラスト壁紙
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
ビーシュリンプ、クリスタルレッド
エビ水槽、「さと美えびフード」を与…
(2018-10-29 19:27:33)
◆かわいいペットと泊まれるお宿~◆
【オススメお宿】(ペットOK)グラン…
(2024-08-22 00:41:20)
海水魚との生活
秋の風物詩!サケの遡上の季節ですよ♪
(2024-11-11 15:10:41)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: