「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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白虎隊,飯盛山の悲劇考察,幕末
飯盛山の悲劇、その裏事情,白虎隊士中二番隊37人の行く末と岐路,率いた大人達と「身分と地域的事情」考察,日向内記,山内蔵人,水野勇之進,原田勝吉,佐藤駒之進,徴集された各民隊の傾向,河原田治部と精神隊&河原田包彦(16歳
白虎隊,飯盛山の悲劇考察
幕末関連玄関
<白虎隊士中二番隊37人の行く末と岐路:飯盛山の悲劇、その裏事情(現在頁)
飯盛山の悲劇、その裏事情
白虎隊士中二番隊37人の行く末と岐路
率いた大人達と、当時の「身分と地域的事情」考察
頁内
項目
概略
白虎隊士中二番隊37人の行く末
A1:戦死、A2:三叉の岐路、
導かれた子、迷子の子、冥土の飯盛山組内訳
B1:山内追従=無事入城(
沓掛峠
B2:原田追従=無事入城(
愛宕山
B3:篠田儀三郎(教導役少年)に追従
=
飯盛山
の自刃天昇組=16人
B4:奇跡的に生き残った唯一の子
B5:迷子暦有の上、後に入城&篭城組
白虎隊を指揮した隊長達
C1:日向内記<山内蔵人、水野勇之進
<原田勝吉、佐藤駒之進
C2:戸ノ口原戦:実質的少年達の配分
C3:飯盛山事件後の再編成
「新白虎隊」の隊長達
原田伊織(原田勝吉)談内容要約と行動ポイント
会津にフランス式戦術と砲術を教えた者
戸ノ口原戦で白虎隊士に関与の隊_敢死隊
土壇場!会津諸隊
主な隊、総計兵数目安、特徴
徴集された各民隊の傾向
父:河原田治部と河原田精神隊
&倅:河原田包彦(16歳)
山内弘人(山内蔵人)
山内弘人について
山内弘人と少年達の歪みについて
白虎隊の遺体は、やはり小さかった目撃談
(別頁)
A項
A_1項
:戸ノ口原戦の不動滝付近等の戦死3人=【関連3人】
×
池上新太郎
伊東悌次郎
(不動滝)
津田捨蔵
(不動滝)
■戸ノ口原で戦った白虎隊士中二番隊は
37人
。
戸ノ口原戦の不動滝付近等の戦死3人+飯盛山自刃16人=
飯盛山の墓碑19人
1_池上新太郎(不動滝付近戦死)生母は半隊長の
佐藤駒之進
の姉=新子。
継母はたみ子(三浦謙良の娘)。 池上與兵衛の長男。
【尚、佐藤駒之進については現在頁のC項にも有】
×印
=戦死
A_2項
:この後、運命の分かれ道:三叉の岐路
少年達の「運命の分かれ道」
・・赤井の穴切坂から三叉
沓掛峠
。
愛宕山
。
飯盛山
。
この他に孤立迷子
三叉
=迷子と雑炊と冥土+奇跡1人
◆小隊頭の山内蔵人弘人は、「一旦敵を避けて再起を図るべし」と勧告。
この後、道、三叉の岐路有り。これが実質「命の分かれ道」。
【1】山内に追従した少年達=赤井の穴切坂から
沓掛峠
。無事入城。
【2】原田に追従した少年達=東山町の
愛宕山
。僅かなきのこ雑炊を分かち合い食するが、
自刃覚悟。偶然、敢死隊の生き残りが現れて、励まされ、どうにか入城。
【3】篠田儀三郎(教導役少年に追従した少年達=)飯盛山の悲劇組
【4】上記同様飯盛山の悲劇組ながら、奇跡的に一命取りとめた者=飯沼貞吉
【5】完全に孤立迷子=酒井峰治他、皆村人の助けを得て生き延び、
他隊大人に拾われ入城。
B項
:◆導かれた子、迷子の子、冥土の飯盛山組内訳
×飯盛山自刃、
×
戦死、○迷子暦有の上、どうにか入城して篭城組、
◎迷子暦無し導かれて入城の子、▲終戦時外に居た人物、
B_1項
:◎:【1】:山内に追従した少年達=赤井の穴切坂から
沓掛峠
。無事入城。
【1】
◎
山内に追従した少年
人数とメンバー判然としないが、37-戦死3-(【2】+【3】+【4】+【5】)≒約10人
下項目の「戸ノ口原戦に於ける実質的少年達の配分」枠ご参照。
B_2項
:○: 【2】:原田に導かれて入城して篭城組(
愛宕山
【2】
○
城取豊太郎
(原田半隊嚮導
笹原伝太郎
篠澤虎之助
遠山雄午
原田隊は、東山町の愛宕山にたどりついた。
下枠の「原田伊織談の内容要約と行動ポイント」枠ご参照。
原田隊は当初7人。3人戦死してるはず。その為引き連れてきたのは4人。
そこから1人脱落。部下の一人
田賀谷落伍せり
と語る。
(多賀谷彦四郎のこと: 尚この子は生きた統合後篭城チームにいる)
×
死:これは
飯盛山の悲劇チームへ
逃走の様子
9.有賀織之助(=下枠B_3項の【12】番),10.井深茂太郎(=下枠B_3項の【16】番
13.鈴木源吉(=下枠B_3項の【18】番)
◆城取豊太郎の発言にて、この三名に係る皆と異なる経緯が解る。
原田のチーム(D項ご参照)は、私の他、
笹原伝太郎,井深茂太郎,有賀織之助,
鈴木源吉,遠山雄吾
。此分隊
鞋掛迄共に退却せしも
、
其所にて
「井深、有賀、鈴木」行方不明と
なり、
入城は原田と会、四名なり
。
負け戦、命からがらの退却。この時、微妙な体温差を感じる。長に従わず、この3名
は、仲間と同行を選択したのだろう。その結果が哀れ散華。会津は容保の貢献で、
後から本来の天領が会津領にぽつぽつ増領。彼らの意識、「近い仲間」と、
「やや遠い仲間」がここにも露見。日向内記中隊頭が隊を去った後、統率力の
低下は著しい。少年ながら、他所の大人には従いきれない要素が、各所点在。
○
29.多賀谷彦四郎
上記のとおり、脱落後単独迷子だが無事入城。その為、識別番号は下枠の29番とす。
B_3項
:【3】:篠田儀三郎(教導役少年に追従した少年達)=飯盛山の自刃天昇組=16人
【3】
×
安達藤三郎_飯1
有賀織之助_飯2
◆
石田和助
_飯3
石山虎之助_飯4
伊藤俊彦
_飯5
井深茂太郎_飯6
◆
篠田儀三郎_飯7
(
教導役
鈴木源吉_飯8
◆
津川喜代美
_飯9
永瀬雄次_飯10
西川勝太郎_飯11
野村駒四郎_飯12
林八十治_飯13
間瀬源七郎_飯14
簗瀬勝三郎_飯15
簗瀬武治_飯16
7_石山虎之助(井深虎之助=実家は井深)
正義感のあまり、小隊頭の山内蔵人に少々逆らった。
遅れて到着皆と自刃。
13_永瀬雄次負傷。仲間に支えられ飯盛山へ。皆と自刃。
15_野村駒四郎:銃の件で少々小隊頭の山内に辛口発言有。
左側の印:「飯1~飯17」とは飯盛山悲劇関連者17人通番
◆
【12番,16番,18番】上枠
B_2項
ご参照。
※飯盛山にある碑には、上枠A枠の池上,伊東,津田も、
加えられ、共に殉難碑が霊を弔っている。
23_林八十冶と、20_永瀬雄次は仲良し。既に怪我をしている永瀬が自刃できそうもない。友情の証に刺し違を
試みたが、それも完璧に出来ない。苦しむ姿に、22_野村駒四郎が介錯。返す力で自ら割腹。
B_4項
:【4】:篠田儀三郎追従飯盛山の自刃組だが、奇跡的に生き残った唯一の子
【4】
▲
自刃失敗=
27.
飯沼貞吉
_飯17
農民に救われ、生き残り明治を生きる。『白虎隊顛末記』著
【3】16人+【4】奇跡1人生き残り=飯盛山の悲劇組=17人
B_5項
:【5】:○:迷子暦有の上、どうにか入城して篭城組
【5】
○
28.伊藤又八
(伊東又八郎)
1_迷子になるが村人に保護される。そこで同じく迷子になった酒井峰治に遭遇。
2_後、入城
29.多賀谷彦四郎
迷子後、入城。(迷子というより、原田隊から脱落。後、入城。
尚、この人物
家族
は(姉=カツ:
佐川官兵衛
の2番目の妻、
(父=多賀谷勝右衛門(450石:3/11、甲賀口にて戦死の71歳)
30.坂井峰治
・下欄の酒井と別人
・読みは偶然全同じ
迷子後、塩川で
河原田治部隊
に拾われ、この隊と共に入城。
後、明治の世、郵政会社函館支店に就職
31.
酒井峰治
(16歳)
『戊辰戦争実暦談』著
謹慎場所
:初め:9/23~猪苗代の岡部新助宅謹慎後、東京
竹橋御門外御築屋謹慎。
酒井峰治
は、迷子後、入城。
・
自刃を覚悟した時、偶然愛犬の「クマ」が現れて思いとどまった話の張本人。
(ところで:犬好き少年はこちらにも居ます。
津川喜代美エピソード編
)
迷子後、農民に暫し救われ、村で休息。そこで偶然上記の伊東又八郎に会う。
彼も同じく迷子経緯。
この村に避難していた侍の妻によって村人風に変装させられる。
朱雀士中三番隊に拾われ、入城段階まで同行して、そこから城門近くで、大声を
発して合図して城に飛び込む。篭城組として戦う。
◇本人:嘉永5年(1852)~ 昭和7年(1932)◇父:酒井安右衛門の次男。
母:シゲ(=会津戦争の最中、雀林村にて病死)。
父の安右衛門:会津戦争の最中、雀林村で病臥の報。峰治は、
日向隊長
に許可を
受け、看病した旨自身の著に有り。
◇明治の世初め:若松市内で精米業。◇1905年(明治38)北海道移住。旭川市で再び
精米業
◇本人死亡後、仏壇の引き出しの中から『戊辰戦争実歴談』が発見される。
◇平成5年:公開された。◇平成8年:NHK歴史番組放送された。
32.
庄田保鉄
迷子後、山川大蔵隊に合流後、入城。誰か絶望者もしくは上記戦死者の介錯行った様子。英雄山川大蔵とはかなり辛口。この時、庄田と同時に数名拾っているが、罵倒。
死に損ないの腰抜け扱い発言。この時悔し涙の庄田達ながら後の世、一種愛の鞭と、
山川を立てる発言。
C項
:白虎隊を指揮した隊長達
【1】
C_1項
:【1】(飯盛山事件迄のメンバー=5名)
日向内記<山内蔵人、水野勇之進<原田勝吉、佐藤駒之進
1.日向内記(中隊頭
・(700石)
少年達の兵糧を求め、現場を部下に任せ、1人場を去るが、途中怪我。どうにか入城。
別説に、実は途中まで皆と戦っていた説もあるが、しかし、本人は何も語らない。
語れない。(但し、飯盛山事件後の篭城戦では▼)
生き残りの隊士を再編成した「新白虎隊士中二番隊」の中隊長に再選されて、
篭城組として戦っている。
凌霜隊
の生き残りも、この傘下に入る。
2.山内蔵人(小隊頭
(山内弘人:750石)
山内蔵人:750石物頭(鉄砲):
この人物は、松平容保京都守護職時期既に、上記日向内記同様重要地位に居る。
死亡情報、謹慎情報、明治情報みつからないが、別途考察項目設定。
3.水野勇之進
(小隊頭(300石)
水野勇之進(御弓:水野祐之進;東京謹慎 )。事件現場での情報皆無。
4.原田勝吉
(半隊頭(150石
原田勝吉:原田克吉とも書かれる:後、原田伊織。:150石御家老付外様士。
原田伊織の談話が資料として残される。原田伊織談話。
謹慎:高田_願重寺地内。
原田伊織談の内容要約と行動ポイント
5.
佐藤駒之進
(半隊頭(130石
謹慎情報:変だが、多分、佐藤輔之進:高田_長命寺。明治は北海道余市開拓。
事件現場での情報皆無。尚、この人物は、1_池上新太郎(不動滝付近戦死)の叔父。
池上新太郎の生母(新子)の弟。
【2】
C_2項
:【2】戸ノ口原戦に於ける実質的少年達の配分
実質3隊に分散
・合計37人
篠田隊17人?
(篠田儀三郎=教導役:飯盛山悲劇の1人の少年)
・メンバー:飯盛山悲劇16人+生き残りの飯沼+若干名の戦死者
原田隊
7人
(半隊長の
原田勝吉
が指揮
すると残りが、小隊長の山内弘人に直接従っていたことになるが、
詳細を語る者の話存じません。
▼
小隊長の山内弘人が指揮した山内隊=
約20人か?
また、影の薄い2名:水野勇之進(小隊頭)、佐藤駒之進(半隊頭)は
ここに同行していたのか?情報皆無。
【3】
C_3項
:【3】(飯盛山事件後の再編成「新白虎隊」の隊長達
(中隊頭):日向内記<(小隊頭)山内弘人、柴佐太夫<(半隊頭):生田織江、諏訪啓次郎、
・事件の後、かつての白虎士中一番隊と、白虎士中二番隊の生き残りは合併される。計94人。
中隊頭の日向内記も、少年には厳しすぎたかに思える山内弘人も健在。
【参考までに】
かつての一番隊側の頭達
(中隊頭):春日和泉
<(小隊頭)中村帯刀、柴佐太夫<(半隊頭):生田織江、諏訪啓次郎、
ところがラストは
桜井弥一右衛門政衛
が白虎隊士中合同隊長
D項_
原田伊織談の内容要約と行動ポイント
D項
原田の記憶話メイン
中隊頭が日向内記、小隊頭が山内蔵人、水野勇之進、半隊頭が自分(原田勝吉)と佐藤駒之進であった。
■この人物が預かった直属部下:7人の行方と行動。
津田捨蔵を教導役に命じて、敵の様子を伺う。津田捨蔵他2名戦死者はこの隊の様子。
生き残りを連れて移動。 本人は何人と書いてないが、他チームの子も混入してない限り、生き残り4人のはず。
不安な為、敢死隊の陣地に行ってみたところ、襲撃された後で屍のみ残る惨状目撃。
自分達も実は道に迷った。山内蔵人(小隊頭)を追い、藪越え、岩越え、道に迷う。
到着したのは、東山町の
愛宕山
。
途中、部下の一人
田賀谷落伍せり
(多賀谷彦四郎のこと: 尚、この子は生きた。統合後篭城チームに居る
途中、きのこ小屋発見。松茸と米五合を煮て皆に分け食べさせた。
年齢まで調べてませんが、この人物(原田)は比較的若かった様子。本人も心細かった様子が解る
■しかし、自刃を覚悟。その時、敢死隊の小池辰吉に宥められて留まったと本人が語る。
(これに関しては、関連項目「戸ノ口原で戦った白虎隊士に関与した隊_
敢死隊
」ご参照。
■無事生き残りを引きつれ入城。ここで、日向内記に食いつく!
「理由が何であれ、我らを置いて貴方が居なくなったから、こんなことになった!」他の高位の侍に叱られ止められる。
■救った少年の人数は少ないが、本人としては、救えたことが晩年に及んでも嬉しい様子が解る描写有り。
戦場から敗走する場面で、部下がコーチョー!(小長)と私を呼んで叫んでいたあの声が記憶から
今だ消えないと語る。尚、この人物が今だ健在であることを更に喜び語る。
部下_「城取氏(城取豊太郎のこと )」未だ健かにして神戸にあり先年尋ねて来てあった 。と語る。
原田伊織の記憶と、その後の展開
:原田に係る補足MEMO(記憶が曖昧になっている様子を後人物が指摘考察)
【バラバラ色んな情報概略】
◆伊織曰、天寧山に於て割腹せんと為せる。自分共総数八名にて、内壱名は辰野用吾の寒士隊
小池勝吉
也云々。
( 辰野用吾の寒士隊小池勝吉とは:右記を指す「 敢死隊:当初隊長は
小原信之助
」)
◆入場の時の人数をかつて城取氏に確認したところ、沓掛嶺より散々りとなりて入城は四名なり云々。
◆原田の記憶と違えり。忘却とは原田が七人と言うを以て予が記せるなり。
城取豊太郎は教導役也
。
◆城取豊太郎の発言は、こうだった。
曰、
笹原伝太郎・井深茂太郎・有賀織之助・鈴木源吉・遠山雄吾
なり。此分隊鞋掛迄共に退却せしも、
其所にて
「井深、有賀、鈴木」行方不明と
なり、
入城は原田と会、四名なり
。
而て小池の事は記憶せざる容子なりと。
「井深、有賀、鈴木」行方不明:
この三名は、現在頁上側【3項】枠ご参照。飯盛山散華メンバー。
となると、この3名は仲間を追って、途中から離脱別行動の暁に散華に至ったことになる。
◆原田城取の記憶合せず。今遠山病没し、笹原は生死を知らず。小池もい所質正するに由なし。
ここまでのまとめ:
原田と城取の記憶が合致しないが、一番気になるのは「
敢死隊の小池勝吉
」とは誰だろう?の点を、
当時まとめ書きをしようとしていた人物にとって、一番気になってる様子が解る。
◆原田死後、元敢死隊の父を持つ次世代人物(藤田次郎重道(工学士藤田重道))が、父(
藤田傳之助:
元_敢死隊差図役
)のメモを発見。・・【F項】の柴翁談:「
小池にあらず藤田直道なるべし
」発言ご参照・・
それが由縁で、原田が小池といっている人物は記憶違いで、実は「藤田傳之助」であろうということになった。
(
傳之助のメモ概略)
◆松茸山にて茸を焼かせて、飢を補わせて、愛宕下では、白虎隊士の割腹を止め、
共に三ノ丸不開口より入る。
(傳之助の子がさらに追加発言)
原田氏の発言では、
一行は九人
状態で、松茸番小屋不動の奥で、きのこを焼かせたようだ。
となると、彼らがきのこを食べた時、我が父も同行していたのではないかと思う。
その後は同行してないようだ。
▲ここから推察すると、
B_3項【12番井深,16番有賀,18番鈴木】
は、飯盛山散華チームへ脱走した為、
散華に繋がったわけだが、皆と異なり、空腹はきのこ雑炊で凌いだ後のこと。
※尚、記憶が比較的安定と思われる城取氏でさえ、自分達の他、他所の隊の大人が暫し居たこと記憶にない。
いかに修羅場だったかが伺われる。
確かに、年老いて記憶違いも年月のこと多々。だが、原田の記憶にあったこの人物ははたして誰だろう。
「辰野用吾の寒士隊
小池勝吉
」:誰もわからぬ間に明治は消えた。
隊が記憶違いなのか、それとも案外、指図役の藤田他敢死隊生き残りの中、直接原田を励ます言語をくれた
のが、小池であったが、身分が低いなどの理由で埋没したか?敢死隊は身分を越えて勇者の集団だった。
◆尚、この段階で生きてるわけないが、確かに小池勝吉という会津藩士は実在していた。
・小池勝吉(白井砲兵隊組頭:慶応4年1/5鳥羽伏見戦にて死亡:23歳。この時弟「小池某」も死亡。)
◆小池勝吉(辰野周吾の寒士隊の )という表現もあれば、小池辰吉表現も。
これは、辰野周吾の辰が混じったか?。関係ないが、「小池周吾」という人物も別途居る。
◆小池繁次郎:46歳(五百石朱雀中隊頭は当日戸之口原出陣においては遊軍隊長として出陣)
色々、皆の記憶ごっちゃになってる様子。
E項_
会津にフランス式戦術と砲術を教えた者
現在頁要領満杯の為、このE項目は、こちらの頁へどうぞ
E
項
■ 慶応4年、会津側で白虎隊に指導した者として名前が残る者
<第1項>
【上士官】:沼間慎次郎,畠山五郎七郎,武蔵桜橘,松浦巳三郎,磯林高次郎,杉江誠一郎,
高木銓(詮)之助,山内英太郎,須藤時一郎
【下士官】:井上新九郎,廣瀬誠之助,工藤庄三,須藤武次郎,古屋八十吉、
加藤麟三郎,高山孝太郎,平山弥三郎,吉沢鎌五郎,杉山敬次郎,高木鐘太郎,梅澤伝吉,前田某・・・他
<第2項>
フランス式調練修行済みで、師範として活躍した会津人
浅岡内記,一柳房次郎,大戸留次郎,柴五三郎,根津大郎、太田原惣次郎『氏』
<第3項>幕臣系&他系:布施七郎,小澤錦弥,梅津武次郎
1_畠山五郎七郎、2_沼間守一、3_布施七郎、4_小澤錦弥、5_梅津武次郎
◆沼間守一(当時は慎次郎)は、明治元年9/26庄内藩降伏時、捕縛される。12月護送。1月江戸拘禁。この時、
一緒に捉えられた者として、
松浦己三郎(巳三郎)、中條某
他。
これは官軍の板垣退助が記を残す。尚、英語が得意な沼間守一は、・・・
MORE
・・・沼間としては、建前語りたくない部分ながら、上記のとおり板垣の言動でほとんど丸解り。
【下士官】枠内の加藤麟三郎も、同時に谷に捉えられた様子だが無事。
この隊士は少年喇叭手。この子が、実質、沼間の存命に効能を!!・・・
MORE
F項_
戸ノ口原で戦った白虎隊士に関与した隊_敢死隊
敢死隊
■敢死隊の者が白虎隊士を支えたポイント数箇所。近くで戦っていたのがこの敢死隊。
空腹の少年に握り飯を分け与えた者有り。
■原田半隊長自ら自刃を決意した時、彼を宥めたのが、この隊の者、小池辰吉と原田本人が語る。尚、この談話に後、
(柴翁談)というのがあり、原田本人は「小池」と言うが、多分、人違いで「
小池にあらず藤田直道なるべし
」と
コメントを入れている。(このコメントの訳は現在頁【D項】の原田の記憶MEMO枠ご参照)
▼
落胆、一同死を決し道具を投げ出し、環坐して切腹せん。その時、偶然に、
敢死組
の小池辰吉、
来りて、軽率に死するはよろしからず、御城の安否を確めて進退すべしと異見を加えらん!
■敢死隊とは:敢死(かんし)
隊長:
小原信之助
、結成:慶応4年7月、メンバーは下人や町民が主体の厳選250人。
隊の特徴:身分混在、頑強そうな者が応募者の中から厳選。
結成時の経緯:土屋鉄之助(新練隊長)の懸案。身分分別するから他の諸隊が弱いのだ!と進言。
隊の活躍と終焉:冬坂方面へ進軍後、赤井、笹山での激戦で活躍=8/25消滅。
・早々に、
小原信之助
自ら死亡。その後
川崎尚之助
(山本八重子の前夫)が指揮したが、8/25全壊。
・川崎尚之助本人も、この段階で、行方不明(※追記有真上TEXTリンク)とされている。
(実は明治を暫し生きた。)
G項_
土壇場!会津諸隊
1
会津の朱雀隊とか、
あれ何?
・上記は完全な侍ばかり
の隊に+雑兵で動く
戊辰の際、慶応4年3月:年齢別に4軍編成。
若い順番に
:白虎隊<朱雀隊<青龍隊<玄武隊
◆
白虎隊:300人
、◆朱雀隊:1200人、
◆青龍隊:900人、◆玄武隊 が400人、
・高位順番に:士中<寄合<足軽
それまでは年齢別編成ではなかった。長沼流兵法には年齢分別は
存在しなかった為。一応西洋軍制を参考にした新規開発。
各隊の名前の由来は軍神(中国の孫子兵法書)
2
他の諸隊一例=合計約7000人
◇敢死隊:250人 、◇会津遊撃隊:180人、
◇正奇隊:80人(屈強の郷士、身分は農民だがルーツは戦国時代の
誰かの家臣の家が多い)、◇修験隊:80人(山伏)、◇力士隊:150人、
◇猟師隊:120人、◇奇勝隊:250人・・・他多種
◆徴集された各民隊の傾向◆
あくまで徴集。中にはお家の一大事につき自主的に参加した者も居るが、特徴は皆徴集。
一部の自主的に於いても、会津の為という以前に、かつての主君(現在在住郷里の長は
昔のルーツ上君主の子孫。その長の為に立ち上がった昔の家臣出身の農民達。農民ながら、
主君が立てば己も立つの発想で、長の呼びかけに立ち上がった。下欄河原田精神隊がその一例。
水戸の天狗騒動(1862(文久2))年次に既に隊としての組織経験がある者達。警備兵としての有経験者
会津に設置されていた各番所の警備兵。南山方面では(五十里,水門,水無,南倉沢,白岩,叶津他)
これはすべて民間人。農民や漁師など各種。
農兵隊長に任命された者とそれに付随した農民達を「隊長+兵」の扱いで再利用。
H項_
河原田精神隊
父:河原田治部と河原田精神隊&倅:河原田包彦(16歳)
父:
河原田治部と河原田精神隊
倅:河原田包彦(1853_1869)
父:河原田治部(=真一郎、信盛)
倅:河原田包彦(かねひこ)は、
父が任地から戻る前に16歳の少年は
代理として旧家臣の遺族(現在農民)
を率いて軍功を挙げた。
他に、白虎隊の迷子「坂井峰治」を
拾い、城に無事届けたのもこの隊。
◆河原田氏は、昔のルーツは、伊南地方の領主。その頃家臣だった者がこの領地内
の農民として子孫が残る。その為、農民達は、かつての主君の子孫に該当する現在の
河原田包彦の呼びかけに奮起猛戦。士気が強かった。父が蝦夷地にあった為、
僅か16歳の包彦の出陣決意に皆が感動決起。
◆父:河原田治部は、この頃、蝦夷勤務。実はこの人物、蝦夷勤務暦2回。鳥羽伏見
情報を聞き、藩命を待たず独断で帰藩。河原田治部の隊は強かった。
上記のとおり、地元民の結束力も意識が「家臣としての報恩」である事が士気の強さ
だが、旧式武器では話にならない。
◆父:河原田治部は速攻で最新型の砲術訓練を実施。
治部は、江戸勤務暦もあり、「顔と伝」がある。菜っ葉隊(神奈川伝習隊士)の
大木鈴太郎、中川七之助に砲術指導を依頼。自領地の旧家臣末裔農民に訓練。
農民達を精鋭に仕上げた。勝つ為が最大の原因だが、農民達も、伊達に死なされ専門
係りを負わされるでなく練磨の上参戦なれば、当然さらに士気は高い。
しかし、倅:河原田包彦は「英雄少年」の名を轟かせたものの、惜しくも
明治2年(1869/8/10)越後高田で謹慎中に病没。
父が戻る前に、大将として出陣して敵を撃退の実績。この戸倉での軍功は有名。
■
関連:河原田精神隊に限らず、
このようにかつての旧領主の旧家臣団末裔農民が
奮起した例は他にもある。関連頁はこちら:
幕軍&松前えとせとら_Vol.13
・
I項_
山内小隊長について
I_1項
:山内弘人(山内蔵人)
◆山内弘人(山内蔵人):蔵人は襲名の可能性有=山内蔵人弘人(父も山内蔵人某。『藤澤氏手控』による。)
・戦後:情報皆無。死亡年月日=?、謹慎場所情報=?
石山虎之助(井深虎之助=実家は井深)が、山内弘人に対して「腰抜け!・・・」と逆らい、少年達の
追従を確認せず先に進行したが故、子らは道に迷った事実が明るみになったのは平成5~8年の話。
ところが、さすがにその話は出ていないにせよ、長生きした原田達が、山内弘人の名を語っているところを
みると、その段階では他界してたのだろう。はっきり語らぬにせよ、隊長の代理として全員を保護しきれなかった
器量は判然とする為、健在なれば語れないはず。
山内弘人のルーツ考察
南会津地方の名家に「山内一族」有。源頼朝時代に、この地の統治者。本姓は藤原氏。
戦国時代は、蘆名氏配下で、この頃の人物としては、
山内氏勝
。豊臣秀吉時代「奥州討伐」で転落するも、
その3代目には、山内俊名が
保科正之
に抱えられる。故に松平の代にも家臣。ところが、南会津は、
幕府の直轄地として、天領になったり、またしても会津になったりの歴史。
戊辰直近としては、
元治元年
(1864年:この年は2月20日に元治に改号)、
ひとたび京都守護職を固辞した松平容保が復帰貢献したことから、この南山方面天領5万石が加えられた。
山内家の支流によっては、それに影響されている家系もあると思います。暦年会津の家臣だった家から見ると、
新派の「出元他所の侍」の余計な偏見が存在したかもしれない。城下の少年達にしてみると、何か従い難い
要素があったかもしれないと感じる。
もしも彼がそのルーツだとすれば、昔にも確かに「山内蔵人」という名の人物が家系に存在する。
尚、この家は、江戸時代度々の冷害や飢餓の土地柄、重税ならずや重い年貢に苦しむかつての家臣団だった農民達に
特有の策を練って、彼らの生活を保護すべく対策してやっている。地元良君。地元の民は仰ぎ従う。
_
_
I_2項
:少年と山内弘人:微妙な「温度差」を感じる場面
1
歯
向
う
原
因
は
何
?
酒井峰治の著からすると、少年相手にムッ!とした山内の短気な姿。それにて、少年が道を迷い&死出の旅へ。
しかしながら、他にも、少年達と肌が反り合わぬ場面は発生している。
少年達は必死のあまり従順さを欠落させている者も居る。だが、よく気をつけてみると、いくら興奮していたとしても、
中隊長の日向内記相手なれば、けっして口に出すまいと思われるような発言
。山内は勇壮に見えないのか、若くて
嘗められている要素があるか、「異種の武士」的要素があるか・・・何か感じる。
山内の石数は750。嘗められることはないはずだが、確かに少年達の一部は、なかなか小生意気な発言を。
この人物は、松平容保京都守護職時期既に、上記日向内記同様重要ポジションに居る。経験不足ではないし、
腕は一流。禁門の変の頃から活躍で名は周知。嘗められる原因は何だっただろうか。
ひとつ気になるのが、『藤澤氏手控』による「蔵人は父の名襲名だろう。」という文節。
京都守護職時期に活躍した蔵人本人でなく、まさか倅か?
2
・
石
山
虎
之
助
【酒井峰治『戊辰戦争実暦談』】
■二十三日の朝、赤井新田を引き揚げ、江戸街道を経て穴切坂を下り、若松を指して西へ向かう。
その左に山路があった。その時、
山内小隊長(山内弘人=
蔵人
)
が後から来て、山路に入り、隊士に
「お前達、何処へ行こうとしているのだ?」と訊いた。
石山虎之助
が進み出て、大声を発し、
「沓掛に赴いて決戦するつもりです」と答えた。
小隊長は、
「敵は大軍にて我らは少勢、徒に犬死にするよりは我に従い、今は敵を避けて再起を!」
と勧められた。
虎之助は憤然として、
「小隊長はよもや腰を抜かされたのですか?」
と言った。
小隊長もまた憤然として、
「勝敗を見極めずして進んで死のうとするのは、子供の了見に過ぎぬ。我が指揮に従い、ついて来るべし」
と言い捨て、山路に向かって去られた。
全隊もその後に従おうと徐々に歩き始めたが、
遂に小隊長を見失い、路が三方に分かれた処に出た。
・・尚:石山虎之助は飯盛山の悲劇の1人
上記会話に感じるモノ
山内の発言は大正解。正義感ばかり爆裂して血に早る少年の浅い状況判断は確か。
しかしながら、少年だからそれは当たり前。蒼いにきまっている。その蒼い少年に向って、
そのまま「貴様は蒼い!」発言は・・・確かに戦場、言葉に衣の余裕はないが、山内は
嘘も方便策を使わずに、正直すぎる。
山内も蒼いか?
藤澤氏の一筆が気になる。
山内弘人=
蔵人
は、父の蔵人を襲名したのではないか?発言。
因みに鳥羽伏見から松平容保や松平定敬を強引に江戸へ引っ張った慶喜は、「我に妙策有り」
と発言。典型的嘘八百だが、嘘も方便効果としては最優秀。説得不可能状況で、急ぎ人を動か
すなれば、その場は嘘に限る。ますます
山内
に清い若さを感じるのは気のせいか?
親父か倅か謎多き人物。
3
野
村
駒
四
郎
戸ノ口原戦中、自分のヤーゲル銃が故障。この子は、この後、山内弘人の銃を借りて応戦。
しかし、その際の発言記録は、なかなかシビアな発言をしている。
将校なるお方なれば、貴方に銃は必要ないではありませぬか!
されば、その銃を私に貸して下さい!」
山内蔵人は銃の達人。達人にとっての銃とは、「武士の命=刀」を貸せ!と言われたのと同じ。
だが、この段階では、山内耐えた様子。少年の熱心さを解して銃を貸し与えた。
・
・・尚:野村駒四郎も飯盛山の悲劇の1人
。飯盛山で自刃の前に、林八十治を介錯。
・
年齢別編成にふと思う
年齢別にすると、運動神経の差が一定化されるし、銃術の練磨度合いも比較的安定する。
経験不足だが、運動神経が優れた白虎隊は、銃術の腕は未熟とて、それ自体はあまり問題がない。
しかし、問題は状況判断と社会経験。
正義感に燃えて、ストレートに正直な発言。これは、円熟年齢層の長、または生徒慣れした先生タイプでなければ、
使う側にも、随分困難な要素もあったことだろう。また、それらを統率する長専用の訓練を行う暇などあったわけはない。
山内氏もかなり、予期せざる困難を背負ったはずだ。
箱館戦争終焉時に、フランス士官のブリュネが上司、ウトレーに書いた手紙が、印象的だ。
問題点は、統率の図式化、伝達と命令実行に係るピラミット態勢が完全に欠如している点を指摘している。
「彼らは、それぞれの長ごとに、
無意味な団子
になって、個々ばらばらに戦うのみなのであります!
我らの命令に従わないのであります!」
ブリュネ(榎本チームフランス士官TOP)について:■
ブリュネ
、
ブリュネ2
その他項目
資料
■飯沼貞吉著『白虎隊顛末記』、■酒井峰治著『戊辰戦争実暦談』、
◆原田伊織談:【原田勝吉(半隊頭)】、他各種BOOK
少年達
の死亡
その他の戦地の戦死少年も多数。14歳も居る。
◆例:
佐藤勝之助:祖父の敵討ちで討ち死の14歳
他、
◆まだまだ沢山居る。
◆足軽の子14歳(古川深松:8/23若松博労町自在院にて自刃。)も参戦追い詰められた暁、切腹。
余程相手が悪くない限り、一目瞭然大人より小さい14歳を拷問したりしないはずだが、この子は
潔く死を選んだ。同じ白虎隊ながら、足軽の場合、少年ばかりの団体行動しない。補填にばらまかれる。
◆
高橋権太夫の倅、僅か14歳「高橋数馬」
「8/23、若松甲賀町通」戦死一覧にあるだけ。
猪苗代城代の倅だというのに、父の失策(十六橋打ち落とす前に敵が乱入)が原因か知らないが、
この子の勇戦情報が拾えない。埋もれている。
語り継がれぬ小さな英雄が沢山埋もれている。
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