< 承前 >
今回の銀輪散歩は来月29日に予定している青雲塾万葉ウォーク(兼第8回ナナ万葉の会)の下見を兼ねてのものなので、当日歩く予定のコースは自転車には乗らず、押して歩くというスタイルになりました。歩くことによって当日の歩程・所要時間を把握すること、トイレの所在場所の確認、以上が今回の任務である。
当日の計画と同様に国分寺跡の広場でお弁当。昼食を済ませて撮影をしている処にヘリコプターが飛来し、去って行きました。ドクターヘリでしょうか。
さて、恭仁神社へと向かいますが、その前に前ページで記載できなかった恭仁京や鹿背山・狛山の歌を記して置きます。田辺福麻呂の作れる恭仁京を讃むる長歌2首に付された反歌7首のうちの6首である。
三香の原
布当
の野辺を 清みこそ
大宮処 定めけらしも(万葉集巻6-1051)
山高く 川の瀬清し 百世まで 神しみ行かむ 大宮処(同6-1052)
泉川 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮処 うつろひゆかめ(同6-1054)
布当山
山なみ見れば 百代にも 易るましじき 大宮処(同6-1055)
鹿背の山 木立を茂み 朝さらず 来鳴き響もす うぐひすの声(同6-1057)
狛山に 鳴くほととぎす 泉川 渡りを遠み ここに通はず(同6-1058)
(注)布当=法花寺野辺りの地名とする説とみかの原一帯の地名とする説がある。
前説によれば布当山は鹿背山の別名となるが、後説により恭仁宮背後
の山とする説もある。
田辺福麻呂は橘諸兄家の家人とも考えられるから、恭仁京への思い入れは家持以上に深かったことだろう。
百代までもという福麻呂の願いも虚しく恭仁宮は3年余で廃都となってしまった。福麻呂は荒れたる恭仁の都を悲傷する歌も作っている。今日の恭仁京の景色にはこちらの歌の方が似合いかも知れない。
三香の原 久迩の都は 荒れにけり 大宮人の 移ろひぬれば(同6-1060)
咲く花の 色はかはらず ももしきの 大宮人ぞ 立ちかは
りける(同6-1061)
恭仁神社へは裏道ルートで向かうこととする。帰途は表通りを取ることとし、変化を持たせようという次第。
恭仁神社へは5年前の訪問の時に立ち寄っている。
<参考>「
加茂から京都まで
」
2009.10.17.
下の由緒書によると、此処は元は菅原道真を祀る天神社であったよう。昭和40年に、恭仁京跡にあった御霊神社を合祀して社名を恭仁神社と改めたとのこと。元の祭神の道真さんよりも、後からやって来た崇道天皇と藤原太夫人とが上座に居座ったようです。
崇道天皇は桓武天皇の弟の早良親王。藤原太夫人とは誰であるのか。藤原太夫なら男性であるから藤原広嗣ということになるのだろうが、太夫人とあるから女性のような気もする。桓武天皇の夫人藤原吉子のことであろうか。
恭仁神社から表通りで恭仁宮跡・国分寺跡へ戻る。徒歩17分程度。
以上でmission completeである。後は自由に自転車で走るだけ。今回のウォークでは、立ち寄る予定の無い(もっとも、参加者の皆さんに体力の余裕があり、時間も許すなら立ち寄ってもいいかと考えてはいます。)岡田鴨神社に向かう。
岡田鴨神社は恭仁大橋南詰を東に800mほど行った処にある。此処は初めての訪問。地図を持参しなかったので記憶で行くと道を一つ間違ったようで、山を一つ越えてしまった。途中で間違いに気付いたが、折角なので、どんどんこの道を行ったが、これ以上行くと道に迷ってしまいそうに思えたので来た道を引き返すことにしました。
岡田鴨神社の本殿は丁度修復が終わりかかっていたようで、工事の方がビニールシートを外して居られる処にて、ピカピカの姿でありました。
この神社は鴨氏の祖・賀茂建角身命を祀る神社。この神様、葛城山の麓の高鴨神社から京都の下鴨神社へと遷る際にこの地に暫しとどまったとか。鴨氏がこの地に居つき此処に神社を建てて祖神を祀ったのでもあるのでしょう。加茂という地名がこの神社に由来するのでもあれば、やはりご挨拶は欠かせませぬ。
さて、その間違った道を辿ったことによって撮れた写真が以下です。
秋らしき景色は柿にあるらし。
まあ、みんな渋柿でありますが。
ここでも見上げてみると美しい紅葉が。
迷いついでに立ち寄ったのが御霊神社。
元々は此処には燈明寺という寺があり、この御霊神社は燈明寺の鎮守であったらしい。
どうやら字数制限のようです。これにて完結とします。本日の日記をベースに万葉ウォークの資料を調整することと致しましょう(笑)。お付き合い有難うございました。=完=
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
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