不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

2010/12/16
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カテゴリ: 日本旅行記
◇「戦国の庭歴史館」の近くにある「松本屋敷跡」(国史跡)にもよりました。
1580年頃、吉川元春の妻が住んでいたとされる館跡です。
間口80m、奥行30mの規模で、正面の石垣は吉川元春館跡や万徳院跡と同じ技法が見られます。

石垣だけが目印です。
草が生えていて、それ以外はわかりませんでした。
看板らしいものも無かったと思いますが、近所の人に聞いたので間違いは無いと思います。

現地の人の案内で 毛利元就初陣の地 へ訪れました。
有田城跡と有田合戦
有田城跡には四つの廓(人工的な平坦面)と、郭の北西端を固める土塁(人工的な土手)が残っている。
城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏・西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していた。
1515年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山(かなやま)城(広島市安佐南区)の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏、今田氏も従軍した。
これに対し、大内氏の命を受けた郡山城(高田郡吉田町)の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城した。
1516~1517年に有田城奪回を目指す武田氏と毛利・吉川氏の間で有田合戦が繰り広げられたが、武田元繁は戦死、山県一族の壬生・有田・今田氏も没落した。
元繁戦死の地の碑は現在、又内川河畔にあるが、今田、中井出など異説があり、確定できない。
此の有田合戦は、武田氏の威勢を失墜させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなった。


千代田ICからは近くにあ小山です。
それほど高い山では無いので頂上近くまで車でいけますが、1台ぐらいしか停めれませんでした。
Uターンしなければ、2台は停めれるぐらいです。

殿下の碑と320mの看板があります。

「三の丸」や「焼け米の出た場所」や「本丸跡」の碑と説明看板がありました。
見た感じは土塁などがある感じではありましたが、写真で撮るとまるでわかりませんdねした。
城跡ではありますが、石垣で固める時代では無いので仕方はありませんね。

軍記「陰徳太平記」に合戦が描かれているみたいです。
武田元繁を討ち取ったのは、井上左衛門尉だったらしい。
毛利元就の初陣らしいが、あやふやらしいのか、はっきりとは書かれていない感じでした。
有田合戦で名を挙げたらしいのは、確からしい。

「武田元繁戦死之地」は有田城跡の少し離れた川沿いにありました。
説明看板は無いので、あまり観る人は少ない場所ではあるとおもいます。
広i1有田城址
広i2武田元シゲ

高速に乗って帰りました。



広島北旅行 で訪れた所
広島北旅行(一)椋梨城址
広島北旅行(二)郡山城跡
広島北旅行(三)毛利元就の墓
広島北旅行(四)郡山城天守跡
広島北旅行(五)清神社
広島北旅行(六)三矢の訓跡碑
広島北旅行(七)宮崎神社
広島北旅行(八)古保利薬師
広島北旅行(九)吉川元春館跡
広島北旅行(十)吉川元春の墓
広島北旅行(拾壱)万徳院跡
広島北旅行(終)は、此のページです





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Last updated  2010/12/16 08:25:14 PM
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