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おことわり:当時の記述について年月日は すべて旧暦で記載していますのでご注意ください。
焦る徳川家康
関ケ原の戦いは、慶長5(1600)年9月15日午前8時ごろ、井伊直政・松平忠吉の部隊が口火を切って戦闘状態に入りました。
徳川家康は、いくら寝返りの根回しがしてあっても、実際には不確定要素ですから、戦いを短期、というより短時間で決着したいと思っていたでしょう。それには、寝返り組に考える暇を与えないうちに、優勢な状況を作り出さなければなりません。
ところが、家康の心中とは裏腹に、戦闘が始まって2時間近く経過した午前10時ころになっても一進一退が続きました。このままでは膠着状態になりかねないうえに、小早川秀秋ら寝返り組は一向に動き出すそぶりがありません。家康は焦ったでしょうね。
本陣のある桃配山は、激戦中の最前線から3キロも離れていて、実際の戦況が好く見えないでこともあり、苛立った家康はもっと前線近くに前進し督戦する決断をします。
ということで桃配山から約2.3キロの陣場野(じんばの)へ本陣を前進させました。激戦地からわずか700メートルほどのところですから焦りのほどが見えます。ここに布陣すると、11時過ぎ、小早川隊の居る松尾山に向け、裏切りを促す威嚇射撃をさせたと伝えられます。
現実的には、陣場野から松尾山まで1.5キロほどありますから、本陣から撃ってもまったく射程外です。近くまで鉄砲隊を差し向けたのか、撃ったという話そのものが脚色なのか、本当のところはわかりませんね。
家康最終陣地「陣場野」
陣場野の最終陣地は、現在は関ケ原町役場のすぐ西側の広場になっています。JR関ケ原駅からも500メートルほどですから、電車を降りて歩いてもすぐに行けますよ。
写真を撮った日は、大谷吉継関連のイベントが行われていました。上の写真ではアトラクションの出演者が舞台でリハーサルを行っています。
最終陣地にも解説プレートがありますよ。
流石にこの近辺には、関ケ原の戦いに関連する場所が多くあります。次の写真は家康の床几場跡です。参考までに、開設の立て札がありますので、どんな場所かは読んでみてください。
打ち取った敵の武将の首を並べて、だれかを確認することを首実検と言いますが、この本陣の周辺で行われました。その名残が次の写真です。
ここは東首塚と言って、首実検後に遺体を埋葬したところと伝えられます。未曽有の合戦で夥しい死者が出たため、家康が埋葬を命じ、竹中重門が東西2か所に首塚を造営したと伝えられています。ここにも解説のプレートが設置されていますよ。
周辺では関ケ原町が観光客や歴史愛好家のために面白い企画をしてくれています。まず、街中の電柱に施された武将紹介プレート。参加した武将の紹介が町中の随所にありますから、周辺を歩きながら知識を得られて、なかなか参考になります。
次に、関ケ原豆知識というプレート。これも電柱に設置されています。これには正史とは別の裏話的なものも書かれていて、非常に面白いので、何枚か写真を載せます。
こういうプレートが全部でいくつあるのかわかりませんが、ざっと見ただけでも相当な数があります。これらもこの2年くらいに設置されたもののようです。真新しさがあります。
近くには関ケ原町歴史民俗資料館があり、合戦の資料などが詳しく紹介されています。また、売店も併設されているので、お土産などにも困りません。
資料館の隣には関ケ原ふれあいセンターがあり、ここの広場もイベント会場などでにぎわいます。写真を撮り行った日に行われていた大谷吉継イベントの様子です。
ということで、3回続けて徳川家康の陣地をご紹介しました。次回は石田三成の陣地関係につて紹介したいと思います。
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