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おことわり:当時の記述について年月日は すべて旧暦で記載していますのでご注意ください。
苦悩する三成
石田三成は、秀吉死去ののち、徳川家康が豊臣政権にとって代わろうとする野望を隠さなくなってきていることに焦っていました。慶長5(1600)年6月、徳川家康が会津征伐のため大阪を離れると、石田三成は翌7月、反徳川の兵を挙げます。
しかしながら秀吉にかわいがられていた武将らは、秀吉亡き後、三成が権力をわたくししていると考えるものも多く、さらには島津や毛利の西国大名は本気で戦ってくれるかどうかも疑わしい状況であり、西軍諸大名の足並みは揃いませんでした。
信用できるのは大谷吉継くらいしかいないだけに、「本当に思い描いた戦略通りに進めることができるか?」、と挙兵に当たっては非常に苦悩したと思います。
肖像画は年寄りみたいですが、まだ40歳より前です
軍を進めた三成は美濃の要衝・大垣城に入り、尾張と三河の国境線あたりで東軍を迎え撃つつもりでしたが、東軍の先発隊の清州到着が思いのほか早く、伊勢長島城の攻略も失敗。その後は犬山城、岐阜城も落とされたため、防御線は関ケ原まで下がることになりました。
家康の項でも書きましたが、三成は9月14日に赤坂岡山に入った家康を即夜襲せよとの進言にもためらい、家康の陽動にはまって籠城作戦を放棄し、関ケ原に展開してしまいました。こうなっては野戦により決着をつけるほかなくなったわけです。
西軍は、大雑把に見ると、宇喜多軍、小早川軍をかなめに、左翼に三成、右翼には南宮山の毛利という「鶴翼の陣」を敷きます。いずれも関ケ原盆地において有利となる高所を占めていて、圧勝でも不思議ではない非常に優れた布陣でした。
笹尾山遠景 上の旗が三成の本陣、下の旗は島左近の陣地
三成なりに努力もし、根回しもしたのですが、大谷吉継が「お主は人に好かれていない」とズバリと言ったように、人望の無さが敗戦の大きな要因であったのは間違いないのでしょう。三成の能力の高さは今日、見直されています。
石田三成陣地「笹尾山」
関ケ原盆地の西北に位置する笹尾山は戦場を一望できる絶好の場所と言っていいでしょう。そんなに高い場所ではありませんがやはり登らなくてはなりません。
次の写真は三成の陣地から南方向の戦場を見た情景です。
現地では、本陣から南方向を眺めたパノラマ写真がパネルになっていますので載せておきます。真ん中を横切るラインは北陸へ向かう北国街道(ほっこくかいどう)ですね。
陣地では足軽姿の案内ボランティアの方が、丁寧な解説をしてくださいます。戦場の地図を広げて、ちょっと軍師になった気分ですね。
笹尾山のふもとには、本陣を守るように、三成の家老・島左近が陣を構えていました。
左近の陣地のそばに、三成本陣のプレートがありました。
笹尾山の位置図です。上部赤色で「現在地」となっているところです。
笹尾山を下りたすぐ東に笹尾山文化交流館という施設があります。イベント会場にもなりますし、石田三成関係の資料などもあって、立ち寄ってみたい場所です。
決戦地
笹尾山西軍本陣から南東300メートルのところが「決戦地」です。ここで追い詰められた島津義弘隊が敵中突破で戦線離脱を図り、三成の部隊も壊滅的状態になりました。
三成は北国街道を伊吹山のほうへ逃亡しますが、9月21日にとらえられ、10月1日、京都三条 河原で斬首されました。
上から見ると農地の真ん中にあります。決戦地とは思えないのどかさです。
決戦地のプレートもちゃんと設置されていますよ。
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