タイガース非公式サイト2代目

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2023年06月19日
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背番号11(その3)

背番号11の3回目です 

いよいよ2代目ミスター・タイガースと言われる村山実さんの登場です 村山さんの現役当時を知る人はまだ結構いるので伝説とまでは言えないかもしれない でもやっぱりタイガースのレジェンドね
 それに村山さんの影響だとおもうんだけど「11」は他球団でも有望な右投手に贈られる番号になってるよね 例えば中日の川上憲伸 広島だと池谷公二郎 紀藤真琴 九里亜蓮 巨人の斎藤雅樹 ヤクルトの奥川恭伸
日ハムではダルビッシュ有 大谷翔平などなど そうそうたる右投手が受け継いでるのよ 野茂さんも「11」だったわね これは有望な左投手に金田さんの「34」を与えてたのと同じよね

今回はもう皆さんがよくご存じのエピソードばかりかもしれないんだけど 我慢して読んでみてね!

2代目非公式サイトは ことし(2023年)大ブレークしている村上頌樹投手に村山さんと似た空気を感じるのよ 大先輩で「タイガース魂」のかたまりみたいだった村山さんのような闘志あふれる投手になってほしいわ!

村山 実 投手

村山は少年時代から身長がハンディになっていた。中学時代も「低身長」を理由に内野手しかやらせてもらえず、住友工業高校に入って「負けん気の性格」と「肩の強さ」を買われたことでようやく投手への道が拓けた。当時の野球部の藤田監督は村山が「背は低いが手が大きい」ことに気が付き、フォークボールの練習を奨めたことで後の原点になっている。

甲子園の出場はなかったが大学で野球を続けたい希望を持っていたため立教大学のセレクションを受験しようとするが、予備面接の段階で「低身長」を理由に受験すら拒否されて涙をのむ。
 しかし実際にそんなに低かったのだろうか。様々なものに村山の身長は記載があるが、どれも175センチとなっている。桑田真澄が174センチ、山口高志など169センチとなっているから、それほど低いとは思えないのだが・・・

仕方なく兄が在学していた関西大学へ進学するが、このときから「対東京」というような対抗意識が生まれたのではないかと言われている。

関大2年でエースになり、上田利治(のち阪急ブレーブス監督)とのバッテリーで春のリーグ戦で優勝すると神宮での大学選手権に出場する。同大会では全試合に先発してすべて完投勝利を挙げており、決勝では日大を破って西日本の大学として初めて優勝している。

大学3年次に肩痛に襲われ、この時関大OBでタイガースの球団社長だった田中義一が親身になって病院やリハビリの世話をしてくれたことに恩義を感じており、2000万円の契約金を提示した巨人を蹴って、わずか500万円のタイガースに入ることを決断する。1958(昭和33)年11月11日に契約。ただし初めの契約は阪神電鉄の社員でタイガースへの出向という形だった。
 タイガースに入ると「背番号11」を希望する。昭和11年生まれということもあってか契約日も11月11日を選んでいるし、関西大学時代も「11」だった。こだわる何かがあったのだろう。一説には藤村の永久欠番「10」に「1」を足したともいわれるが真偽のほどはわからないし後付けのように感じる。

しかし前回「その2」で記述した通り、御園生のあと「11」を着けた選手が大成しないどころかすぐ駄目になっている「悲劇」の印象があり、当の御園生をはじめ球団や家族などから猛反対されてしまう。
 特に御園生は村山を後継者的存在とみており、自身がプレイヤーとしての力が衰えた晩年に1年だけ、しかも野手登録で着けた番号であることで「11」には大反対。代わりに自分が活躍した時からコーチや二軍監督時代までずっと着け続けていた「15」を強く奨めて譲らなかった。
 ただし村山はそんなことにこだわりはなく、あくまで自分のお気に入りの数字である「11」を選んでいる。

 村山には「ドラマの主人公」という印象がある。それはルーキーだった1年目からドラマがあったからだろう。喜劇もあり悲劇もあった。

その一つは1959(昭和34)年5月21日の対巨人8回戦(甲子園)。タイガース先発の村山は4回までパーフェクトでタイガースが2点リード。

しかし迎えた5回表の先頭打者4番長嶋にフォアボールを与えてしまう。5番坂崎のセカンドゴロで一死2塁となり6番広岡がサードゴロ・・・名手・三宅が難なく捕球して一塁送球したが、これが信じられない悪送球となって長嶋が生還。1点が入りなお一死2塁が続く。ここでカッとなった村山は7番宮本のボテボテのピッチャーゴロを一塁へ悪送球して2点目を許してしまった。

これで2対2の同点となったが、村山はその後もノーヒットを続けて14三振を奪い9回を完投。6回裏に三宅のソロホームランが出て勝ち越したタイガースが勝利した。

これが2リーグ分裂後セ・リーグで唯一(2023年現在)となる「ノーヒット・アリラン」(正確にはノーヒット・ツーランか?)である。全くドラマでもあり喜劇でもあった。

ドラマのもう一つは、野球ファン誰もが知るところの「天覧試合」だろう。舞台はノーヒット・アリランから約1か月後の1959年6月25日の対巨人11回戦(後楽園)。

この日の舞台の前段をを作ったのはタイガースの先発・小山正明。3回表小山が自らのタイムリーで1点を先制するが、5回裏に4番長嶋、5番坂崎に連続ホームランを許して1-2と逆転される。

しかしタイガースは6回表、三宅のタイムリーと藤本の2ランで3点を挙げ、4-2と逆転する。ところが7回裏、疲れが見え始めた小山が王に同点の2ランを打たれて4-4とされてしまいここで村山に交代した。

これから起きるドラマのお膳立てをした小山から「頼むで」と後を受けた村山は後続を断ち、8回も抑えて同点のまま9回裏を迎える。先頭打者は長嶋。カウント2B2Sからの5球目を叩くと打球はレフトポール上空を通過するサヨナラホームランとなった。
 この試合で長嶋だけでなく打たれた村山もスタープレーヤーとしてその名を上げることになるが、長嶋がハッピーエンドのドラマ、村山が悲劇という構図だ。タイガースファンからするとこれほど悔しいことはない。まして打たれた村山は死ぬまで「あれはファールだ」と思い続けたことだろう。

この試合で天皇陛下のご観戦は21:15までの予定だった。サヨナラホームランが出たのは21:10だ。改めて長嶋の好運というか「持ってるなあ」という天性のものを感じさせる試合でもある。天皇陛下の観戦にほかの選手たちが試合前から緊張しているなかで長嶋だけは嬉しさでルンルンだったと伝えられている。
 こうして1年目にタイガースファンのハートをわしづかみにした村山は、54試合(うち先発26で19完投7完封)に登板して18勝10敗294奪三振の成績を挙げ沢村賞に輝く。防御率は驚異の1 . 19でこれもタイトルを獲得しており、2023年の今でも歴代沢村賞受賞者の最小防御率の記録でもある。しかし、この記録でも新人王は取れず、31本塁打を記録してキングのタイトルを取った大洋の桑田武にもっていかれた。

1960(昭和35)年は8勝15敗と大きく負け越しているがそれでも防御率は2 . 52だった。この年は前年300イニング近くを投げた疲労や精神的な重圧もあったのか、開幕早々に急性胃腸炎で倒れるなど体調も悪く1年を通して不振が続き、「 2年目のジンクス」を経験している

しかし、3年目からは完全にタイガースのエースとして君臨し一時代を築いていく。文章では長くなるので実働14年間の成績を並べておく。赤字はリーグ1位。

年度   登板    勝利  敗北  投球回 奪三振  防御率

1959 54試合 18勝10敗  295.1   294  1.19

1960 36試合  8勝15敗  167.2   153   2.52

1961 48試合 24勝13敗  293.0   221   2.27

1962 57試合 25勝14敗  366.1   265  1.20

1963 28試合 11勝10敗  158.1   121   2.79

1964 46試合 22勝18敗  255.0   159 3.32

1965 39試合  25 13敗  307.2 205 1.96

1966 38試合  24 勝 9敗  290.1 207 1.55

1967 30試合 13勝 9敗  180.1   126   2.79

1968 32試合 15勝 8敗  198.0   152   2.73

1969 35試合 12勝14敗  214.2   160   2.01

1970 25試合 14勝 3敗  156.0   118   0.98

1971 19試合  7勝 5敗  83.0    45   2.71

1972 22試合  4勝 6敗  84.2    45   3.61

   通 算  509試合 222勝147敗  3050.1  2271   2.09

1962(昭和37)年は夏場から首位に立って優勝した年で25勝、リーグ最多の投球回数で防御率1 . 20という驚異的な数字をたたき出し最優秀防御率のタイトル獲得。セ・リーグのMVP、ベストナインにも選出。

1963(昭和38)年は前年の疲労蓄積があって1年を通して不調だった。そんななか、8月11日の後楽園での対巨人ダブルヘッダー第2試合で村山という投手を象徴するような騒動が起こる。

今では考えられないことだが、村山は前日の試合で巨人を2安打完封している。それが翌日のこの試合、7回同点、一死2・3塁のピンチにリリーフで登板してきたわけだ。

次打者に対しカウント2B2Sから投げた5球目のストレートは、内角低めギリギリに決まったと自信があった。ところが国友球審の判定は「ボール」。この判定に対し激高した村山はマウンドを駆け下り、「どこがボールや。ワシは命がけで投げているんや。あんたも命がけで判定してくれ!」と叫んで球審に激しく詰め寄った。

国友球審はすぐ退場を命じたが、村山はさらに興奮し国友球審につかみかかろうとした。このとき防ごうとした国友球審の左手が村山の顔面に当ったため今度は阪神の藤本定義監督らも飛び出し、「球審も退場にすべきだ」と抗議が始まって大騒動になる。村山は涙ながらに「ワシは、なにもしていない」と主張し、涙が止まらず、左腕で拭いながらの抗議を続けた。もう熱血が沸騰して歯止めがきかない状態だった。これほど真剣に自分の投球にプライドを持つ投手は後にも先にも皆無だろう。
 村山は5球を投げたのみで退場。第一打者の打席を完了させていないため、本来なら交代できない状況での珍しい退場でもあった。急遽リリーフした牧勝彦の1球目はストライクでバッターは三振。1球で三振奪取という珍記録のおまけがついた。

 1964(昭和39)年は大洋との激しいデッドヒートの末に最終戦で優勝が決まった年で、村山は22勝を挙げたが、それ以上の活躍だったバッキーがタイトルを総なめにした。

 1965(昭和40)年から1966(昭和41)年は2年連続の最多勝。投球回数と奪三振も2年連続リーグトップ、これまた2年連続で沢村賞に選出される全盛期だった。

 1967(昭和42)年以降は血行障害が酷くなったために20勝以上できなくなり、1970(昭和45)年からはプレーイングマネージャーとなったことで登板数は大幅に減ってしまった。

 村山の凄いのは、防御率が3点を超えたのが現役最後の年の1年だけというところで、抜群の安定感があり監督が最も信頼する投手であり続けたことだろう。味方打線が3点取ればほぼ勝てる投手なわけで、いかに当時のタイガースが貧打だったかということもわかる所以だ。

1973(昭和48)年3月21日に行われた巨人戦(オープン戦、甲子園)で引退試合が行われ、江夏や上田次郎など投手陣の肩車でマウンドに登場すると、高田、末次、王から三振を奪って花道を飾り、背番号11はタイガースの永久欠番となった。

 最後に監督としての村山だが、最初の現役監督のときが2位、5位、2位という成績で、特に3年目の1972(昭和47)年は、シーズン序盤に最下位スタートとなり、指揮権を返上して現役一本に絞ると宣言したが、結局投手としての成績は振るわず、後半に順位を上げた時には、かえって影の代理監督となった金田正泰の株が上がるという皮肉な結果になり、不完全燃焼のまま退任、同時に現役も退くことになった。
 2度目の監督就任は1988(昭和63)年、優勝から2年で最下位へ転落して辞任した吉田義男のあとを引き受けた。ここでも愛着のある背番号「11」を着用している。

 泥まみれになる覚悟でタイガース再建のために引き受けたが、自身が熱望した田淵、江夏、藤田らの入閣は実現せず、シーズンに入るとバースの帰国・解雇問題や掛布の長期不振~引退など災難続きとなり、前年に引き続く最下位に終わってしまう。

 翌1989(平成元)年、バースや掛布が去った貧弱な打線は迫力を欠き、よく働いたのはキーオとフィルダーの両外国人選手だけのような状態ではどうしようもなく、前年よりは一つ順位を上げたものの5位に低迷し、監督を辞任した。
 生涯タイガースを愛し続けた村山は、1998(平成10)年8月22日に亡くなっている。まだ61歳での若すぎる逝去にタイガースファンは悲嘆に暮れ、亡骸は多くのファンが合唱する「六甲おろし」に送られたという。

まとめ

 さすがに2代目ミスター・タイガースね ここに書ききれないエピソードが多すぎるわ 他にも長嶋さんから節目の三振を予告して奪ったとか ありえないような話がいっぱい! 少年隊の話や掛布さんとの確執なんかは別のところで触れるよ
 現役時代も監督のときも解説者のときも熱血は変わらないのね こんなに真剣にプレーしてる選手は今の時代にはいないわよ 大泣きしながら抗議する人なんて見たことないもん

ルーキーの年のオープン戦、藤村さんの引退試合に先発して完封勝利を飾ってるんだけど そのとき自然に「ミスター」を受け継いだのかもしれないな なんだか運命的ね・・・

田淵さんや掛布さんもミスターと呼ばれることがあったけど、藤村さんや村山さんはけた違いなのよ 正真正銘って感じ

これで背番号11は終わりですが 永久欠番になって当然だとおもう この人のあとに「11」を着ける勇気のある選手はいないよ!

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Last updated  2023年06月19日 15時21分40秒
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