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背番号26(その1)
背番号26の第1回目です
ペナントレースも終わったので再開し少しずつ進めていきますね
この「26」以上の番号は 監督の番号だった「30」を除いて球団創設の年にはありませんでした 要は創設時のチーム自体が総勢25人以内の人数だったということなのね
「26」は創設2年目から使用されてます 今回は戦前に「26」を付けた3名の選手を紹介するよ
奈良友夫 内野手
広島県出身で旧制広島商業では1年上にエースだった鶴岡一人がおり、クリンナップを組んで1933(昭和8)年の選抜大会に出場、5番レフトとしてベスト4まで進んだ。
1936(昭和11)年に、今度は4番セカンドとして再び選抜大会に出場したが1回戦で敗退している。
1937(昭和12)年、元広島商業監督で当時はタイガースの監督になっていた石本秀一から誘われて入団している。背番号「26」。
入団すると春季からいきなり45試合に起用され規定打席もクリアした。おもなポジションはセカンドで、139打数35安打24打点、打率 . 252の数字が残っている。
しかし藤村富美男がセカンドにコンバートされてきた秋季には、出場が12試合と激減してしまう。
1938(昭和13)年になっても状況は変わらず、春季10試合、秋季22試合の出場にとどまる。さらに1939(昭和14)年には練習中の鎖骨骨折が響き、出場8試合で引退に追い込まれてしまった。
その後親戚の事業の手伝いをしていたが、戦後は社会人チーム「全広島」に入って1950(昭和25)年の都市対抗野球本線に出場している。
プロ通算では97試合273打数72安打38打点24四死球29三振、打率 .
264という成績だった。
宮崎 剛(たけし)内野手(再掲)
宮崎はすでに背番号「5」で紹介済みだが、加筆したうえで再掲する。
生まれは長野県長野市、その後中学まで日本領土だった当時の台湾で過ごしている。台北一中時代はラグビーをやっていたが、のちに大洋ホエールズの監督となる渡辺大陸と出会い野球に転じる。
その後同志社高等商業学校に進み、1940(昭和15)年に大阪タイガースへ入団した。
同年はルーキーながら87試合に出場し294打数60安打23打点を記録したが打率は . 204でホームランは打っていない。
1941(昭和16)年も80試合に出場しており、この辺りはセカンドとサードを守りながらレギュラーとして定着していた。
しかし、1942(昭和17)年1月に召集を受け、終戦まで主に満州で軍務につくことになる。
タイガースに復帰できたのは1946(昭和21)年だった。背番号「5」で戦後のスタートを切るが、当時の月給1000円では生活ができず、わずか2ヶ月で退団。
渡辺大陸の誘いで国民リーグの宇高レッドソックスへ移籍し、1947(昭和22)年にはリーグ首位打者になったが、同年国民リーグは解散。
1948(昭和23)年は阪急ブレーブスに入団してプロに復帰し、2年間主力選手として活躍する。
1950(昭和25)年に大洋ホエールズが設立され、旧知の渡辺大陸が監督に就任すると、阪急から引き抜かれ、6年間大洋のレギュラーとしてプレーしている
体は小さく長打力はないが俊敏な選手で、阪急時代の1948(昭和23)年から大洋時代の1953(昭和28)年にかけて6年連続20盗塁以上を記録しており、1950年には61個という数字が残っている。
昭和30(1955)年に引退。その後大洋のコーチを長く勤め、昭和49(1974)年には一軍監督に就任した。どちらかと言えば、大洋で名を残した選手だろう。写真は大洋のコーチ時代。
タイガースでは3年間で198試合に出場、711打数148安打48打点27盗塁の成績を残した。
プロ通算は1049試合4048打数949安打28本塁打287打点221盗塁290四死球300三振、打率234である。
仁科栄三 内野手
兵庫県出身で北神商業(現市兵庫商業)では内野手として 1940(昭和15)年に夏の選手権に出場したが初戦で敗れている。
1942(昭和17)年、タイガースに入団し背番号「26」。1年目はおもに野手としてプレーしており、投手としては1試合しか登板しなかった。
1943(昭和18)年になると投手が本業となり、14試合に登板して3勝1敗、防御率2 . 19という成績を残す。初勝利では名古屋軍を完封した。
しかし同年軍に召集され終戦まで各地を転戦。戦後の1946(昭和21)年5月にタイガースに復帰し、再び背番号「26」を付けたものの試合出場はできず退団している。
通算記録は、投手として15試合3勝1敗、70回2 / 3を投げて13奪三振、防御率2 . 15。
野手としては37試合48打数5安打0打点0本塁打8四球11三振で打率が .
232だった。
まとめ
プロ球団が創設されたころは「プロ経験者」という存在すらいないわけだから やっぱり高校(旧制中学)や大学などの人脈をたよりに人材を集めてたのが分かるわ
奈良さんは広島商だね 宮崎さんは渡辺大陸監督というキーマンに少年時代から大洋入団まで常に目をかけてもらってたことが大きい
仁科さんは地元ってことでのタイガース入りかな これからっていうときに戦争のブランクがあって すっかり実力が落ちてしまったのは惜しいよなあ
残念ながらしっかりした写真が見つかるのは宮崎さんだけ 奈良さんの写真は本人かどうか確信が持てない 仁科さんは見つかんなかったよ
でも寂しいよね だから奈良さんと仁科さんは甲子園大会経験してることもあるので今年100周年の甲子園球場にまつわる画像を挿し込んでおいたよ!
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