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背番号26(その2)
背番号26の第2回目です
この「26」はどちらかというと投手が着ける番号のイメージがあるよ 割と長く着けた人が何人かいるしね 今回3名を紹介するけど3人目の渡辺省三さんが一番長いのかな? 14年間着けてるよ のちにはピッチングコーチやスカウトとしてお世話になって選手も多いはずよ
白坂長栄 内野手(再々掲)
白坂は引退直前の2年間を背番号「1」、全盛期の1950~57年には背番号「17」を着けているためすでに紹介済みだが改めて記載する。
背番号「26」は仁科栄三が引退した後2年間はだれも着けていない。1949(昭和24)年に受け継いだのは名セカンドとして有名な白坂長栄だった。
白坂は岩手県二戸郡一戸町のリンゴ農家の三男で、旧制福岡中から仙台鉄道管理局に進んだが1942(昭和17)年に軍に召集され中国で終戦を迎える。
戦後は仙台鉄道管理局に復帰し、1947(昭和22)年には都市対抗本戦に出場して存在が知られるようになる。
1948(昭和23)年、若林監督が直接口説いてタイガース入りが決まり最初は背番号「27」を着けているが1年だけである。1年目はわずか1試合の出場で1打席凡退の記録しか残せていない。
1949(昭和24)年に背番号を「26」に変えて73試合に出場するが、実はこの年は1年だけ投手も兼任している。8試合の登板記録が残っており0勝2敗で防御率12 .
00だった。これは戦後の投手不足を補うためだったと思われる。
1950(昭和25)年には背番号を「17」に変えて臨み、139試合に飛躍し520打数132安打72打点18本塁打、打率 . 254というキャリアハイを記録している。
本来長打が売りの選手ではなく、18本塁打というのは本人にとっても異常だったと思われる。通算で59本を打っているが 二桁のホームランはこの1年だけだった。とはいえこの年を起点に1957(昭和32)年まで8年連続100試合以上に出場する不動のレギュラーとなった。
入団時からショートを本職としていたが、1953(昭和28)年に吉田義男が入団してくるとポジションを譲りセカンドへコンバートされる。守備は非常にうまく、入団後の2年間はエラーばかりしていた吉田は「プロ入りしたばかりの私を支えていただいた恩人の1人。残念です」と訃報を受けたときに談話を残している。
1958(昭和33)年は背番号「1」に変更、鎌田実が成長してくると出場は極端に減り、1959(昭和34)年には公式戦出場が0になって引退している。
通算成績は1020試合3313打数789安打360打点59本塁打102盗塁415四球312三振で打率は .
238だった。
引退後はチームに残りスコアラー、二軍監督、スカウトなどを歴任して貢献している。2015(平成27)年7月8日に92歳で逝去。
奥村高明 内野手
この選手を知るタイガースファンはもういないのではないか?1年間在籍して2試合しか出ていない右投げ右打ちの内野手。
奥村は兵庫県出身で明石中から関西大学へ進んでおり、大学時代は1年時からリーグ戦に出場する好選手で1949(昭和24)年の秋季リーグ優勝に貢献して評価が高まり、1950(昭和25)年にタイガースへ入団している。次の写真の前列向かって左が奥村。
背番号は白坂から「26」を譲られたが本職がセカンドのため白坂とかぶっておりほとんど出場できなかったようだ。
生涯成績は 1
年で2試合0打数0安打 1
四球に終わっている。
渡辺省三 投手
渡辺は愛媛県西条市の出身で旧制西城中学(現西条高校)。タイガースでは秋山拓己投手の先輩にあたる。中学を出ると倉敷レーヨン西条に入社して軟式野球部に所属していた。
1949(昭和24)年に勃発した球界再編問題は2リーグ分裂へと発展し選手の引き抜きが横行する事態を招き、各球団は深刻な選手不足に直面する。タイガースが1951(昭和26)年10月、入団テストにより選手を募集したときに渡辺が応募しており、バッティング投手として採用され入団している。
1952(昭和27)年が最初のシーズンになる。渡辺省三と言えばだれもが認めるコントロール抜群の投手だが、背番号「26」が与えられとはいっても1年目はひたすらバッティング投手を務める日々が続く。これが人のまねのできない絶妙なコントロールの原点になった。
渡辺が好調な日はゴロが多く「内野手は忙しかった」と吉田義男が証言するコントロールの秘密について、月間タイガースの「本間勝交遊録」から抜粋してみる。
シーズン真只中。ローテーションの一角を担う投手が『スマン。ちょっと投げさせてくれるかぁ』自ら、バッティング投手を志願してきた。私が新人の年だ。『まさか・・・』初めはビックリしたものの、以降、同じ光景を何度も目にして納得した。
バッティング投手との関わりを聞いたことがあった。『入団した年は、ほとんど毎日バッティングピッチャーをしていた』という。元々コントロールは良かった人。入団したいきさつが、バッターの調整台としての採用だったとも聞いた。一年間は来る日も、来る日も投げ続けた。その結果が、自分の投手生命でもあるコントロールに磨きをかけた。そう信じて止まない同氏。だから、シーズン中であっても打撃投手をかって出ることに抵抗はなかった。制球力が微妙に狂ってきたと思えば、自分から進んで投げた。二十分から三十分。要するに、コントロールの原点がバッティング投手だったのだ。
1年目には1試合も登板がなかった渡辺は2年目の1953(昭和28)年、制球力を買われて一軍へ上がる。主にリリーフ中心に54試合(先発12試合)に投げて10勝11敗192回で59四球、防御率2 .
86の数字を挙げて一躍頭角を現した。以降の全盛期の成績を見て見る。登板数のうち( )内は先発数
年 度 登 板 勝 負 投球回 四球 防御率
1954年 51試合(10)10勝13敗 169回 28 2 . 50
1955年 46試合(20)18勝11敗 244回 42 2 . 40
1956年 52試合(30)22勝 8敗 260回 1/3 30 1 . 45
1957年 43試合(29)17勝 9敗 230回 46 1 . 88
1958年 43試合(18)12勝12敗 191回 18 2 . 81
.
45でタイトル獲得。1958(昭和33)年には191回も投げて18個しかフォアボールを与えていない。コントロールの極まった年だろう。
1959(昭和34)年からは再びリリーフ中心の登板となるが、1961(昭和36)年と1962(昭和37)年には二けた勝利(11勝、10勝)を挙げている。
1965(昭和40)年に引退するまで14年間背番号「26」で通しており、これが2024年現在までで背番号「26」を着けた最長記録になっている。
ここでもう一度本間さんの交友録から引用する。
技巧派を絵に描いたような投手。省さんの制球力には、あの精密機械とまでいわれた小山さんも一目置いていた。
球は速くない。当時スピードガンがあったなら、おそらくマックスが130㌔台の半ばぐらいだったはず。大きな変化球があるわけではない。いかつい人でもない。どちらかといえば弱々しく感じられる方だ。やさ男、まさしくコントロールと精神力が命。
マウンド上では、全くのポーカーフェイス。少々ピンチに立っても顔色ひとつ変えない。時には山なりの超スローボールを平気で投げる。ピッチャーがゆるい球を投げる時、かなりの勇気がいるもの。こうした大胆な一面を持ち備えた勝負師だった。
渡辺の投球はのちのエースたちにも大きな影響を与えた。
小山正明は「省さんがおらんかったら、以後の僕はなかったやろね。本当にいい手本になってくれた。ピッチングにはコントロールが一番大切だと教わった」と語っている。
村山実も影響を受けており「ピッチングは力だけやないことを省さんに教わった」という言葉を残している。
次の写真の一番手前が渡辺。
通算成績は550試合134勝96敗、2018回583奪三振352四球、自責点546防御率2 . 44と素晴らしい。
75球での完封勝利(1955年の中日戦)や、延長13回を112球で投げ切っての完封勝利(1957年広島線)などは無駄なボール球を投げないことを象徴する試合だった。
引退後は藤本監督、吉田監督、後藤監督の下で一軍投手コーチや二軍投手コーチを務めたのちフロント入りしスカウトに転じる。
九州担当スカウトとして新庄剛志・野田浩司・仲田幸司・遠山奬志・亀山努らを担当した名スカウトで知られている。
1998(平成10)年8月31日、神戸市内で倒れているところを発見されなくなっていることが確認された。ビルから転落したとみられたが、自殺するような理由もなく、屋上には争った形跡もない。ご遺族からの訴えにより「殺人被疑事件」との扱いとなったがいまだ真相は不明である。享年65歳。
まとめ
はいお疲れさまでした
なかなか「26」は見どころの多い番号みたいね この先もああそうだったかと思うような選手が出てくるとおもうよ
白坂さんは鉄壁の内野陣の元祖みたいな人ね 背番号は4回かえてるけど「26」を着けたのは1年間だけなんだね タイガースの歴史には必ず出てくる選手よ
2人目の奥村さんは全く聞いたことがなかった人ね 在籍1年で2試合しか出てないんだから 覚えてるのは当時の関係者くらいじゃないかな?
渡辺さんはタイガースが生んだ名投手の一人だとおもう 現役時代を見てる人は少なくなってるでしょうね 先代はピッチングコーチのころの渡辺さんをうろ覚えで知ってるようだけど
それよりも亡くなり方がちょっと謎だよね 亡くなる約3時間前には9月9日から九州でのスカウト活動のための熊本行きの航空券の予約をしていたりなど自殺としては不可解なんだって・・・
26の3につづく
タイガース背番号史 27-4 2024年11月26日 コメント(2)
タイガース背番号史 27-3 2024年11月21日 コメント(2)
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