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背番号26(その4)
背番号26の第4回目です
今回3名を紹介するけどそのうち2人は多くのタイガースファンにはなじみの薄い人かな 3人目の工藤さんは既に背番号「19」で紹介してるよ 小林繁さんの加入で「19」を譲り「26」に変えた投手ね
相羽欣厚(あいばよしひろ) 外野手
愛知県大府市出身で高校は名門中京商業(現中京大中京高校)に進み、3年時には春夏甲子園に出場して夏にはベスト8。
高校から直接プロ入りしており、1962(昭和37)年、読売ジャイアンツへ入団している。
入団1年目から11年間一軍の試合に出てはいるが、1967(昭和42)年の80試合が最多だが、それでも138打席にしか立っていない。
主に代打や守備固めでの起用が多かったが1965(昭和40)年には4試合でスタメン4番を打ったこともあり、ジャイアンツの「第31代4番」として名を残している。
1972(昭和47)年オフ、金銭トレードで南海ホークスへ移籍。1年目の1973(昭和48)年には自己最多の87試合に出場し223打数64安打18打点4本塁打で打率も . 287というキャリアハイを記録して貢献。
しかし、翌1974(昭和49)年は48試合にしか出場できずタイガースとのトレード要員となり、村上雅則と共に、和田徹と野上俊夫との交換トレードでタイガースへ移籍し背番号「26」を着けることになる。
1975(昭和50)年、タイガースでは左投手用の代打として起用されたが、27試合の出場に終わり32打数5安打2打点、打率156という数字しか残せないままオフに現役を退いた。
引退後はタイガースに残り、1984(昭和59)年まで二軍や一軍で打撃コーチや守備走塁コーチなどを歴任している。1985(昭和60)年から2年間、日本ハムファイターズでも一軍打撃コーチを務めた。
1988年1月29日、膵臓癌のため逝去、まだ44歳の若さだった。
切通 猛(きりとおし たけし) 外野手
兵庫県姫路市出身で県立姫路南高校に進み、4番レフトとして夏の地区予選決勝まで進んだが惜しくも市立西宮高校に5-6で敗れている。
卒業後は芝浦工業大に進学し、東都大学リーグ通算では42試合84打数12安打4打点、打率 . 143という成績しか残せていない。
1968(昭和43)年、社会人東芝へ入社し都市対抗では4番として活躍し同年のドラフト会議で阪急ブレーブスから9位で指名を受ける。切通はこれを保留して1969(昭和44)年の都市対抗に三菱重工川崎の補強選手として出場しベスト4に進み、大会終了後に阪急と契約しプロ入りした。
高校時代から怪力で知られていたがプロ入り後は出場機会に恵まれず、阪急に在籍した7年間で一軍公式戦には37試合にしか出ていない。阪急での通算成績も37試合38打数8安打4打点2本塁打、打率 . 210という寂しいものだ。
1975(昭和50)年のオフ、金銭トレードでタイガースへ移籍。背番号は引退した相場の「26」を継承する。
タイガース1年目の1976(昭和51)年ウェスタンリーグでは8本塁打を放ってタイトル獲得。一軍でも20試合に主に代打として起用される。
1977(昭和52)年、吉田監督は切通を代打として積極的に起用し、右投手に対して切通~桑野議という順で代打攻勢をかける形を定着させている。
1978(昭和53)年も主に代打起用で47試合に出場しているが、同年で現役を退いた。
通算成績は10年188試合247打数59安打12打点5本塁打16四球43三振、打率 . 239だった。
引退後はタイガースに残りコーチ補佐をしながらトレーナーの資格を取り、1982(昭和57)年から7年間二軍トレーニングコーチを務める。1983(昭和58)年には右足太腿の筋肉断裂の重傷を負った岡田彰布をリハビリで見事に復帰させるなどトレーナーとして有能だった。
1989(平成元)年にはフロント入りし2年間スコアラー、1991(平成3)年には現場に戻りトレーナー、1994(平成6)年から再びフロントに入り主にスカウトとして貢献、関本賢太郎、濱中治、藤川球児などを発掘し2000(平成12)年に退職した。
2015年6月15日、71歳で逝去。
工藤一彦 投手(再掲)
背番号19-3ですでに紹介しているが全文を再掲する
茨城県筑波郡谷田部町の出身で高校は土浦日大高校。中学時代から知られた存在だったが、ある日土浦日大の見学に行くと監督から「工藤君ちょっと投げてみろ」と言われてマウンドに立たされた。工藤は当時の土浦日大レギュラーを相手に9連続三振を奪って監督をうならせ、「俺たちと一緒にやろう」と誘われて入学を決めたという話が残っている。
高校時代は銚子商業の土屋正勝、横浜高校の永川英植、鹿児島実業の定岡正二とともに高校四天王と呼ばれ、3年時の1974(昭和49)年は甲子園に春夏出場しているがともに2回戦敗退。ただし秋の国体では銚子商に勝って優勝している。
同年のドラフト会議ではタイガースの2位指名で入団し、背番号「19」を背負う2人目の投手となった。ドラフト1位は丸善石油の古賀正明だったが、球団の期待度は工藤のほうが高く、示された契約金や年俸も2位の工藤より安かったために入団を拒否、翌年改めて太平洋クラブライオンズの1位指名を受けてプロ入りするという波紋も残した。
1975(昭和50)年、実際にプロ入りしてみると186センチ90キロの堂々たる体格の割に工藤のストレートは130キロ台半ば程度に過ぎず、どちらかというと回転数が少ない球質だった。しかしほかにこれという変化球もない状況では、すぐ使える投手ではなかった。
まずプロ入りから3年間は一軍登録すらされていない。4年目の1978(昭和53)年8月にようやく初登板したが、投げたのは2 /
3イニングのみ。しかも5安打を浴びて5失点、防御率67 .
50という不名誉なシーズンに終わった。
プロ入り5年目の1979(昭和54)には背番号を移籍してきた小林繁に譲って「26」に変更し、ここからブレイクしている。31試合(先発18)に登板して7勝8敗の成績で完投も2試合あり、防御率は4点台ながらものらりくらりと抑えてしまうという特徴を見せた。芽が出ない間にフォークボールをマスターしたことがこの年の転機になったと言われている。
1980(昭和55)年は引き続き先発とリリーフ掛け持ちで使われ5勝10敗と負け越してしまう。
しかしローテーション投手として固定された1981(昭和56)年に9勝9敗、1982(昭和57)年には念願の二けたとなる11勝8敗でオールスターにも出場、さらに1983(昭和58)年はキャリアハイとなる13勝10敗の好成績でエース級の働きをしている。
1984(昭和59)年に肘を痛めて7勝5敗に終わると、1985(昭和60)年に就任した吉田義男監督は工藤を中継ぎに戻したが、ローテーションの谷間では先発もこなしている。
この年には
もともとスリークォーター気味だったフォームをサイド気味に変えたが6勝どまり、翌年が5勝、そして1987(昭和62)年の3勝を最後に勝ち星と縁が無くなる。
その後も肘の状態は回復せず、1990(平成2)年まで在籍したものの3年間白星がないまま引退に追い込まれた。
通算成績は308試合66勝63敗4セーブ623奪三振、1186回2 / 3で自責点533、防御率は4 . 04というもので、勝ち越しているのは立派だ。
高校時代に騒がれた四天王のうち
工藤だけがドラフト2位で、
他の3人はいずれもドラフト1位だった。しかし他の3人のだれよりも現役年数が長く登板数や勝ち星も一番多かったことを思えば、よくやったほうだと言えるかもしれない。
まとめ
工藤さんは江川卓さんの次の世代で甲子園でも評判だったらしいけど 先代に聞くとプロ入り後はスリークォーターになってストレートの球速は127~128キロになってしまってたって どこかで故障でもあったのかな 4年間着けた「19」を小林さんに譲って「26」に変えたんだけど12年間「26」で頑張ったのよ
相場さんと切通さんは他球団で長くやってからトレードでタイガースに来た人たちです 来た時には完全にピークを過ぎてるからあまり期待もされなかった
当時のタイガースはこういうケースって多かったのよ 現役晩年にくることが多いから活躍できた人は少ないよね
26の5につづく
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