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2代目タイガース非公式サイトです
6連戦が終わってやっと1日空いたね 巨人からヤクルトとAクラスチームが相手だっただけに厳しい1週間だったけど それぞれに2勝1敗と勝ち越せて貯金を2つ増やすことができたのは価値があるわ やっと近本さんも戻ったし
ということで1週間ぶりに「背番号史」を掲載できます どこまで進んでるか忘れちゃったかな? 本日は背番号42の4回目だよ
背番号42(その4)
みなさんこんにちは 背番号42の第4回目です
今回も3名紹介するけどみんな短期間しか着けてないんだなあ 一人目の選手が1年 二人目は2年 三人目は外国人選手で1年 この時代はとても短命な番号になってるね
それでは 背番号42の第4回目 じっくり?読んでみてください
麦倉 洋一 投手
栃木県下都賀郡都賀町(現:栃木市)出身で、少年時代から速球派投手としての素質が認められており高校は佐野日大高校に進んでいる。
1989(平成元)年、3年生の夏の栃木県予選は全試合無失点の快挙を達成しており、これは怪物と言われた江川卓以来のことで、地元では「江川二世」などと呼ばれたりした。
178センチ79キロの右本格派投手として甲子園でも注目を集める存在となり、開会式直後の第1試合に登場すると近大福山高校を完封。自ら決勝点となるホームランも記録している。2回戦では2-3で福井商業に惜敗したが、ストレートの威力からドラフト上位候補に名前が挙がる。
同年のドラフト会議ではタイガースが3位で指名して入団し、背番号「50」をもらっている。当時は「よく3位まで残ってたな」と言われたほど期待されていた。
ちなみにこのドラフト会議でのタイガースは、1位で野茂英雄を外して葛西稔、2位が岡本圭治、4位では古里泰隆、5位では新庄剛志、6位がこのあと出てくる吉田浩だった)
期待されていた麦倉は、プロ2年目の1991(平成3)年に開幕一軍へ抜擢され4月9日の巨人1回戦(甲子園)でリリーフとしてデビューしている。
5月6日の大洋4回戦では初先発し、6回2 / 3を1失点で投げ、久保康生のリリーフを仰いだものの初勝利を手にすると、その後は6試合先発に起用された。
結局この年は12試合(先発7)に登板し2勝4敗、39回1 / 3で防御率4.81という成績を残す。オフにはアメリカの教育リーグに派遣されるなど3年目の飛躍に向けて期待度は高まった。
ところが1992(平成4)年春に肩を壊す。2度の手術を受けて1年を棒に振っただけでなく、翌1993(平成5)年も回復が見られず登板なしで終わってしまう。
1994(平成6)年、背番号をパチョレックの退団で空いた「42」に変えて臨んだが、回復の見込みがないと判断したのだろう、一度の登板も無いままシーズン途中の6月に引退している。
引退後はデサントに勤務していたが、2017年度から母校佐野日大高校の監督に就任し、2026(令和8)年センバツ大会で甲子園出場を果たした。
プロ通算成績は、12試合(先発7)で2勝4敗、39回1 /
3を投げて24四球、18奪三振、自責点21、防御率4 .
81。
吉田 浩 外野手(再掲)
既に背番号「0」で登場済みだがここでは前回より少し詳しくして再掲する
背番号「42」は1994年に麦倉が引退したあと、1995(平成7)年は誰も着けていない。1996(平成8)年にこの番号を受け継いだのが吉田浩だ。
吉田は富山県西礪波郡福岡町(現:高岡市)の出身で高校は高岡第一高校。高校時代は予選では上意まで行くが大きな大会には出場していない。1989(平成元)年のドラフト会議では6巡目にタイガースから指名が掛かり入団する。最初にもらった背番号は「64」だった。

1995(平成7)年に初めて一軍に上がるが出してもらったのは15試合に過ぎなかった。初出場は 4月28日のヤクルト戦で代走だった。このシーズンは、15打数3安打1打点で初本塁打も記録している。
1996(平成8)年から背番号を「42」に変える。同期だった上記の麦倉が引退したあと1995(平成7)年は空き番になっていたため引き継ぐ形になった。しかしあまり背番号変更の心理的効果はなかったようで3
4試合の出場にとどまった。

1997(平成9)年に吉田義男が3度目の監督に就任すると、179センチ86キロの立派な体格と左打ちであることに着目して代打での起用を思いつく。
右の代打は八木、左の代打は吉田という使い方をしたところ、82試合に出て、キャリアハイとなる98打数26安打の成績を残して監督の期待に応えた。
1998(平成10)年から背番号を「0」に変え、原点に戻って取り組もうとしたが打力は伸びるどころか衰えはじめ、19997(平成11)年に野村監督に代わるとほとんど使われなくなっていく。
そして星野仙一が新監督に就任が決まった直後の2002(平成14)年オフにはチーム編成の大変革があり、戦力外通告を受けてしまう。
同年のトライアウトに挑戦してもNPB他球団から声が掛からなかったが、2003(平成15)年に社会人住友金属鹿島に誘われて入部すると4番センターで都市対抗本線に出場、同年のワールドカップでは日本代表入りし銅メダルメンバーとなった。
NPBでの通算成績は221試合258打数62安打13打点3本塁打、20四球、71三振、打率 .
240。
デジ・ウィルソン 外野手
吉田浩が背番号を「0」に変えたことで空いた「42」を引き継いだのが1998(平成10)年に入団したウィルソン外野手。
この選手は「猛虎異人伝」の50人目の助っ人として紹介済みなので、ここでは要約して転記する。もう少し詳しくは次のURLで確認していただきたい。
猛虎異人伝50 デジ・ウィルソン | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ
アメリカ時代のウィルソンは、1996(平成8)年、サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャー昇格しているが、この1年しか実績はない。出場41試合で118打数32安打12打点。打率2割7分1厘でホームランは2本記録している。
第3期吉田義男監督2年目の1998(平成10)年は過去に例のない7名もの外国人選手が在籍したシーズンで、ペナントレースは4月3日に開幕したが、一軍にはデーブ・ハンセンとアロンゾ・パウエルがいるため、ウィルソンの入る枠はない。
8月11日、中日時代から持病になっているひざの故障が限界に達していたパウエルの解雇方針が決まり一軍登録を抹消され、同日、入れ替えでウィルソンが一軍へ昇格する。

しかし念願の昇格を果たしたはずのウィルソンは冴えなかった。8月11日に昇格して以降16試合に出ているが、打席数は24に過ぎないからほぼ代打だったことは想像できる。
結局24打数4安打3打点0本塁打7三振、打率は1割6分7厘で、打ったヒットはすべてシングルという結果に終わり、9月24日に戦力外として登録抹消され退団となった。アメリカに戻るとマイナーリーグや独立リーグを転々として2007年まで現役を続けたという。
まとめ
今回は非常にさびしい内容になっちゃったね こういうのが「42」という番号なんですよ 麦倉さんは背番号を「50」から「42」に変えたあとは試合に出てないから 42のユニフォーム姿の写真はありませんでした
吉田選手については先代は「バッティングには素質を感じたが上手く伸ばせなかったなあ」という印象があるみたいだよ
さて もうネタバレさせちゃいますが このさき現在着けてるルーカス投手までの間で「まあまあ活躍したかな」って言えそうなのは下柳剛さんぐらいしかいません 今のところそういう背番号なんですね
でも順番に書いていくので飛ばさず読んでくださいね・・・
背番号42-5へつづく
タイガース背番号史 42-9 2026.07.30
タイガース背番号史 42-8 2026.07.28
タイガース背番号史 42-6 2026.07.24 コメント(2)