シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年01月07日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 世界(宇宙)観のなかの非常に困難な側面に関して、ある程度だが、外的、感覚的(物質)世界の顕現の背後に横たわる精神的存在を見るように学ぶことを追求してきた。

 とは言っても、感覚的世界の中で、目に映る背後には精神的存在に特徴的な形態が実際に存在しているという事実は外見からはよく分からない、ということを魂生活の中で経験する。

 しかし、人智学徒はそのような外観の背後には、精神的活動、精神的性質の特徴をもつ存在が実際に立っている、ということを認識できるようになった。例えば、通常生活においては「温度、熱、火の性質」として現れる存在は、「犠牲」の精神的表現である、ということを知っている。

 そして、「空気(大気)」として遭遇する存在(それが精神的存在であるということは、現代人の概念の中では、明らかにはならない)の中には、ある宇宙的存在(キュリオテテス、叡智霊)による「与える徳」と呼べる存在が認められる。また「水」の中に認められる存在は、「諦め、拒絶」と呼べる存在である。

 太古の世界(宇宙)観(簡単に触れるだけにする)では、当然、外的、物質的な存在の内にある精神的存在は、現代以上にすみやかに直感され、認識された。この証拠は、現代人が日常的に使うスピリット(エキス)という言葉(今日では、スピリットは特別に揮発性の高い物質を示す場合の特別な用語として用いるが)にも見られる。

 人智学徒は、「スピリット」という言葉よりも、むしろ「スピリチュアル(精神的なもの)」とよく使う。しかし、外的(物質)世界では、「スピリチュアル」という言葉を必ずしも、真に精神的存在、或いは感覚を超えた存在には適用しない。

 (最近は霊能者の広報活動で、「スピリチュアル」に精神的存在、霊的存在という意味があることが知られてきた。)

 人智学徒のなかには、かつてミュンヘン精神(スピリチュアル)主義者協会に宛てられた手紙が、精神主義者協会という存在があまり知られていなかったために、「スピリット」つまりアルコール飲料協会本部に届けられたことがあったのを知っている。

 (1911年の講義の時点では、「スピリチュアル」は大半が「アルコール」のことだと思われていた。)



 太陽紀の講義で取り上げた「拒絶」という行為から始める。以前、精神的存在たちが、この「拒絶」、或いは「差し控える」という行為の中で、「犠牲」(この犠牲を、意志、或いは意志の実質を捧げる行為として認識した)を受け取る機会を「諦める」のを見てきた。

 ある存在たち(トローネ)が、意志を捧げたいと望む一方で、高次存在たち(ケルビム)が、その受け取りを「差し控える」という行為によって、この意志の受け取りを拒む場面を見るとき、この意志は(この存在たちは、それを高次の精神的存在たちに捧げたいと望んだが)、受け取りを許されず、捧げたいと望んだ存在たちと共に留まらざるを得なかった、という概念に上昇できる。

 だから、宇宙的な文脈の中には、「犠牲」を捧げる準備、つまり自らの最奥の存在の中に安んじている存在(意志)を、献身的に捧げる準備ができているにも関わらず、許されず、そのため、自らの内に、それを留めなければならない存在たちがいる。

 あるいは、別の言い方をすれば、これらの存在たちは、その犠牲が拒絶されたことで、もし犠牲を捧げることが許されていたら生じたような高次存在たちとのある結びつきを確立できなかった。

 聖書の中での、カインがアベルに立ち向かう場面は、この「拒絶された犠牲」の意味を幾分強調した形だが、擬人化し、歴史的な象徴となっている。

 カインもまたその「犠牲」を神に捧げたかったのだが、その「犠牲」は神の喜ぶものとはならず、神はそれを受け取ろうとはしない。一方、アベルの「犠牲」は神によって受け取られた。ここで注意したいのは、その「犠牲」が「拒絶」されたことを知ったときのカインの内的な経験である。

 この出来事に対する最高度の理解へと至るには、通常の生活の中でだけ意味を持つ考えを、いま述べている高次領域に持ち込むべきではない、ということを明白にさせておかなければならない。「犠牲」の「拒絶」は、なにかしらの欠陥や悪行によって生じた、と言うなら、それは間違いである。

 これらの領域では、通常の生活で知っているような罪や贖いに言及することはできない。通常の意味ではなく、「犠牲」を「拒絶」した高次存在たちの観点から、これらの存在たちを見なければならない。言い換えれば、高次存在たちは、単に、犠牲の受け取りを差し控え、それを譲り渡したに過ぎない。

 以前、特徴づけた魂の雰囲気の中には、欠陥や失敗を示すような存在は何もなく、むしろ「諦め」や「拒絶」行為は、あらゆる偉大で意味深いものを包含していた。とはいっても、「犠牲」を「差し出そう」とした存在たちの中に(たとえ、それが極めて微かな反対であっても)、「犠牲」を拒否した存在たちに対する何か反対のようなものを始める雰囲気が生じるのを確かに感じ取ることができる。

 なので、この反対の雰囲気が、例えば、カインの場合のように、後の時代になって、人間の前に提示されるときは、増幅された形で提示される。カインの中に見つけられる雰囲気と同じ雰囲気を、「太陽」から「月」への移行期に進化した存在たちの中に見つけることはない。

 (高次元の天界で起こった事象が、低次元にいくに従い繰り返され、地上に起こるときは増幅された形をとるという。雪崩れのようなものである。)



 魂の中にある、この雰囲気(地上の人間の生に近づいてきたもの)は、実際、その不確かさにおいて、また同時に、その苦しみ、あるいは苦痛において、どの魂にも馴染みのあるものだが、それについては次の公開講演「魂生活のなかの隠れた深み」(GA61)の中で十分に取り上げるつもりである。

 どの魂にも馴染みがある、この雰囲気、或いは態度は、魂生活のなかの隠れた深みを支配し、恐らく、その雰囲気が、あまり苦しみを生じさせないときには、表面に向かって押し寄せてくる。しかし、人間はしばしば、この雰囲気の周囲を巡っているだけである。高次の意識の中では、その深みをそれと気づくことなく担っている。

 これは「憧れを知っている者だけが、自らの苦しみを知る」という、ある詩人(ゲーテ「ウィルヘルム・マイスター」)の言葉を髣髴とさせる。この言葉は、漠然としているが、しつこい魂の苦痛、同時に苦しみの感情を伴う悩みをよく捉えている。

 この言葉は、魂の雰囲気としての「憧れ」を意味している。それは、魂が様々なことを熱望したり、それに向かって苦闘するときだけでなく、人間の魂の中に(魂の雰囲気として)絶えず生きているような「憧れ」である。

 「土星」紀と「太陽」紀の進化期において、精神的に生じた出来事の中に身を置くのなら、自らの眼差しを魂の特別な状態、つまり、人間の魂が高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始めるときに現れる魂の状態に着目する必要がある。以前の講義の中で、「諦め」や「犠牲」の本性を、自身の魂の生活から描くことで明らかにした。






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Last updated  2010年01月12日 16時57分31秒
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