シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年01月12日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 けれども、魂が地上的な身体の中に挿入されることで、人間の魂生活全体は、その表面下深くに流れる隠れた魂生活の上の最上層に横たわる、ということを明確にする必要がある。

 では、なぜ、隠れた魂生活がある、ということに気づかない人がいるのか?

 人生は、そのような魂生活が存在している、ということを十分に教えてくれる。

 この隠れた魂生活を明らかにするために、例えば、ある子供が(7才か8才、もしくはその辺りの子供とする)様々な出来事を経験することを仮定してみる。実際には、「していないこと」で責められ、ある道理を経験する場合である。

 子供はよくこのような出来事に対して特別に敏感だが、「してもいないことをした」ということで、その子を責め、丸く納めるのが、その子の周囲の人間たちにとっては都合のよいことだった。実際、子供たちはこのような形で道理に苦しめられることに対して非常に敏感である。

 しかし、人生とは、このような経験が、この若い生命の中に深く食い込んだ後、年を経るに従い、その経験の上に更なる層が、魂に付け加えられ、その子は、少なくとも日常生活の意味では、そのような経験を忘れてしまう、ものである。多分、そのようなことは二度と再び生じないだろう。

 しかし、その子供が成長し、15才か16才の若者のとき、例えば学校で、また新たな道理を経験することを仮定してみる。すると、今や、そのような新たな道理を経験しなければ、波打つ魂の奥深くに眠っていたはずの経験が再起することがある。

 問題の若者は、子供のときに経験した思い出が作用していることを知らず、実際、全然別の考えや概念を形成するかもしれないが、もし、以前の出来事が起こっていなかったら(例えば、若い男だったら)、ただ家に帰り、涙を流し、恐らく多少の不満を言うかもしれないが、それでも、立ち直ることができるだろう。

 ところが、子供のときの出来事が生じていた為に(ここで、何が起きているかに関して、この若者が知っている必要はない、ということを特に強調するが)、静かに見える海面の下に、波が打ち寄せるように、以前の出来事が、魂生活の表面下で働きかける。



 このように魂生活の隠れた深みは、最深のレベルから表面へと上昇し、その役割を果たすことになる。そして、これら魂の深みで支配する最重要な力とは(その力は、その本来の姿で上方へと押し進むとき、意義深いものになるにも関わらず、その力に対しては無意識のままにとどまる)「憧れ」である。

 この力が外的(物質)世界の中でもつ名前が幾つか知られているが、それらは漠然としていて比喩的である。何故なら、それらの名前は複雑な関連を表現するので、意識の中まで入ってこないからである。

 では、よく知られた現象を取りあげてみる(都市に住む人には、あまり影響されないが、それでも、田舎の人をみて、認めるかもしれない)。それはつまり、「ホームシック」と呼ばれる感情のことである。もし、ホームシックの正体を探求するなら、基本的には、それぞれの人間によって異なるものであることが分かるだろう。

 ホームシックは、ある人にとっては、ある特徴をもち、別の人にとってはまた別の特徴をもつものである。ある人は、家で聴いた親しみのある物語に憧れるが、本当は家を恋しがっている可能性もある。個人個人の中に生きているのは、とりとめのない憧れであり、方向性のない望みである。

 別の人は故郷の山、或いは、さざ波を見るときに、よく遊んだ川に憧れる。これら異なる性質全ては、魂の中で、しばしば無意識に働いているが、「ホームシック」という言葉で括ることができる。そして、それは何千もの異なった形で演じられるが、それでも、一種の「憧れ」として記述できるような存在を表現している。

 更に漠然としているのが「切望」だが、それは多分、人生において人間を苦しめる存在として生じる。人間は、そのような関連に気づかないが、それは「憧れ」なのである。

 とはいっても、この「憧れ」とは何なのか?

 犠牲を捧げることを望みながら、諦めなければならなかった存在たちの雰囲気に、「憧れ」を関連づけることで、それが一種の「意志」であることを以前示唆した。そして、この「憧れ」を検証するとき、それはある種の「意志」である、ということが分かる。

 では、それはどういうタイプの「意志」なのか?

 それは成就されない「意志」、或いは「意図」なのである。というのも、もし、それが成就されたなら、「憧れ」でなくなってしまうからである。それは実現され得ない意志なのである。「憧れ」をこのように定義しなければならない。

 だから、「犠牲」が拒絶された存在たちの雰囲気について、次のように要約すれば、多少とも特徴づけられるかもしれない。人間の魂の深部において、「憧れ」として感じ取れるものは、今述べている、太古の時代から受け継がれてきたものとして、人間の中に留まっているものである。



 この進化期の間に捧げられた「犠牲」が差し戻されることで、「抑制され、阻止された意志」を持つ存在たちが創造された。その存在たちは、この意志を抑制し、自身で保持しなければならなかった為に、非常に特別な状況に置かれた。

 そして、もし、これらの出来事を感じ取り、経験したいのなら、自身の魂の状態の中に身を置かなければならない。というのも、思考だけでは、これらの状態に沈潜するには十分ではないからである。

 意志を捧げることができた存在は、ある意味で、その犠牲が生じた相手の存在と1つに結ばれることになる。その出来事についても(つまり、犠牲を捧げる存在の中に、自身が生き、いかに自身を織りなすかということ、すなわち、その存在がいることで、いかに充足感と幸福を感じるかということについても)、人生の中で感じ取ることができる。

 (聖書のアベルのことであろう。)

 ここで述べているのは、宇宙的存在を含む高次存在への「犠牲」である。「犠牲」を捧げる存在たちは、喜びの中で上方を見るが、そのため、「阻止された意志」の「憧れ」として、自らに差し戻され、その「犠牲」が完遂されたら、成就したような状態とは、内的な雰囲気において(内的な魂の内容において)、同じものではなくなる。



 というのも、もし、「犠牲」を捧げる存在たちが、犠牲行為を許されていたら、犠牲を与えた別の存在の一部となっていたからである。

 だから、比喩で語るなら、もし、地球やその他の惑星存在たちが太陽への供犠を許されていたら、他の惑星は太陽と1つに結ばれていた、と言える。しかし、太陽への供犠を許されず、捧げた「犠牲」を自らに保持せざるを得なかったので、捧げた存在の太陽とは離れたままで、その「犠牲」を自分たちの中へと引き戻すことになった。

 もし、今述べた事実を一言で把握するなら、宇宙という総体の中に何か新しい存在が入って来る、ということに気づく。それは何か別の方法では表現できないものである、ということをはっきりと理解すべきである。

 つまり、自分の中に生きている全てを、別の存在に捧げようとする存在たち、宇宙的存在に自分を捧げようとする存在たちは、その供犠が受け入れられなかったとき、その犠牲を自身の内に担うように導かれる。

 ここで、「エゴ(自我)」、或いは「自我性」と呼ぶような存在、そして、それは後に「エゴイズム」として全形態において現れるが、そのような存在が煌めくのを感じるはずである。

 こうして、進化の中に流れ込んだものが、あの存在たち(進化から遅れた存在)の内部で、遺産として生き続けるのを感じ取れる。人間は、憧れの内部に、たとえそれが最も弱められた形であるとはいっても、エゴイズムが稲妻のように光るのを、そしてまた、憧れが宇宙進化の中に忍び込んで来るのを見る。

 こうして、「憧れ」に身を任せる存在たち、つまり、自分のエゴイズムに屈服する存在たちが(もし、別の何かが介入しなかったら)、ある意味、自らの一面性の中に突き落とされ、 自らの中だけに生きるようにさせられるのを見ることになる。





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Last updated  2010年01月13日 16時59分26秒
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