シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2026年02月24日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
神は常に人間の成長を導く今日の神はすでに神にあらず


クリティカル・パス - Wikipedia

矢を遠くに飛ばすには、弓を引き延ばす必要があり、高く飛ぶには、低くしゃがまないといけないように、故きを温ねて新しきを知る、必要がある。だからこそ、古代叡智ほど未来を展望できる知識はない。三次元空間上を這いずり回っても空を飛ぶことはできないし、三次元空間を超える四次元以上の高次元へと、バカの壁を超える必要がある。以前紹介した「人智学らぼ」の、以下の、「四次元入門」の動画は大変参考になる。

シュタイナーの四次元入門1:人間存在の謎を解く -YouTube

シュタイナーの四次元入門 2 :認識と空間の概念を揺さぶる四次元論 - YouTube

シュタイナーの四次元入門3 :アストラル界の反転法則

シュタイナー の四次元入門4:幾何学と錬金術の理解

シュタイナーの四次元入門5:幾何学から生と死へ -YouTube

シュタイナーの四次元入門 6:人間は六次元存在である

シュタイナーの四次元入門7:時空を超える思考の旅 GA324-a

シュタイナーの空間の次元について 意識の次元構造モデル / 5次元 , 6次元はどこにあるのか?


フラーの「クリティカルパス」を読めば、三次元空間上を這いずり回った挙句に、最後に死に至る現代人の愚かさが手に取るようにわかる。現代人が三次元空間を手放せないでいるのは、その空間に余りにも居心地の良さを感じているので、死を恐れるからである。しかもその空間に、肉体を与えて、押し込めておきたいのは、三次元空間を人間につくらせている悪魔なのである。

前回も紹介したが、シュタイナーは、この人間を三次元空間に閉じ込めておく存在をドッペルゲンガーとして、第八領域への誘惑者として紹介している。そして、キリストにはそのようなドッペルゲンガーの代わりに、そのような闇の存在が死んで、双子のイエスとして、二人が一人になって蘇ったキリストの再生として、人間も輪廻転生を終えると、そのようなエーテル体の再生を行い、キリストのように、天国に帰れる、以下の動画のように、説いている。

ルドルフ・シュタイナーの予見: AI とエーテル界のキリスト・第八領域と二重身(ダブル) -
YouTube


つまり、人間に肉体という麻薬を与えているのが悪魔で、その麻薬漬けになって肉体の快楽に溺れているのが、地上人で、特に現代人なのである。

だから「バカは死ななきゃ治らない」、とは誰が言ったのか、わからない名言に思うが、人間として最も愚かなことは、自分の信仰している神様が実は悪魔なのを知ろうとしない無知さにあるだろう。三次元空間上には神はいないし、人間に神とわかった時点でそれはすでに神にあらず、だからでもある。

「あなたは神を信じますか?」というよりも、「もしかすると、あなたが信じている神は悪魔ではないですか?」の問いのほうが遥かに重要で、というのも、人間には神と悪魔の違いを見分ける能力がないからである。ただ自分以上の存在としかわからない。

だからして、安直な霊能力をもつと、悪霊にとり憑かれてしまうわけでもある。それは三次元物質界でもホンモノに出会う前に数多くのニセモノに出会うのと同じである。はじめから数少ないホンモノに出会うわけがない。

そのような魑魅魍魎を含む全体を、そのなかの自分の見える範囲から見通すことは困難で、少なくとも三次元空間から高次元を見通すには、三次元空間から出ないといけない。三次元空間にとどまるのか出ていくのかにより異なってくる。だから、モーセが、神の名をなんと呼べばいいのかと聞いたら、「エヘイエ アシャル エヘイエ」と授けたわけで、その意味は、「お前は私で、私はお前で、お前の成長が、私なのだ」という「宇宙を一つにしている存在」で、お前は、お前の殻から出て、一つへと成長しなさい、といわれたわけなのである。



この感覚は、仏陀に会えば仏陀を殺せ、の禅の感覚に似たものかもしれない。神が、自分を神などというだろうか? それこそ思い上がりだろう。自分が神などというのは悪魔の証拠なのである。だから、信仰を求めるような神は悪魔なので、そのような驕り高ぶった自分のなかのエゴの、成長を阻む空間は殺せ、というわけなのである。そのような意味でいえば、バカとは成長が止まったものといえるかもしれない。つまり、本来は無限の可能性をもつのに、自分で決めつけて、自分を殺してしまった存在なのである。

逢仏殺仏 逢祖殺祖 | 禅語 | 臨黄ネット

仏に逢うては仏を殺し | 伝えたい、仏教の名言と教え

仏に逢うては仏を殺せ 父母に逢うては父母を殺せ (禅の名言) | 和魂美才


本当の叡智は無限なので、知識を得たと同時に無知を自覚するもので、知ったと同時に疑問が沸く、一を知れば十の疑問が生まれ、まだまだ知らないと思うのが、無限の叡智の働きといえる。知識が深まれば深まるほど無知も深まってくる。だから、神を知れば知るほど、神がわからなくなる。キリストを知っているという人は、無限のキリストを知らないから、嘘をついているのである。

そもそも神が人間に知られた時点でそれは神ではなく、悪魔にすぎないし、しかも信仰を求めるのならば、人間を信頼していない証拠である。ましてや戒律をつくるなどは、悪魔の仕業である。求めるのなら、与えよ、である。信仰を求めるのなら、信頼を与えよ! 信頼に足る行いや言葉を発しているかどうかなのである。全ては自我を通じて一つなのである。人間の成長を止め、分断させるのが悪魔の働きで、現代人のほとんどが神の名を語る悪魔に騙されている。

ちなみに、バカの語源は、馬と鹿の見分けがつかない人の意味から生まれたという話らしいが、「バカは死ななきゃ治らない」のAIの回答は以下である。

「バカは死ななきゃ治らない」のAI回答
『「馬鹿は死ななきゃ治らない」とは、愚かな者はどうにもならない、あきれるしかないという意味のことわざです。この言葉は、二代目広沢虎造の浪曲「清水次郎長外伝・石松三十石船」によって広く知られるようになりました。

ことわざの起源
このことわざは、江戸時代から存在しており、二代目広沢虎造が1937年に語った浪曲『森の石松』の中で用いられ、レコードやラジオの普及とともに日本全国に広まりました。浪曲では、森の石松が自身の名前が清水次郎長の子分の中でなかなか出てこないことに不満を述べた際、他の乗客が「馬鹿は死ななきゃ治らない」と石松を評する場面で使われています。

現代における解釈
絵本館の社長は、ラジオ番組で「馬鹿は死ななきゃ治らない」は嘘であり、70歳や80歳からでも遅くないと語っています。

関連作品
楽曲: 木村友衛の曲に『馬鹿は死ななきゃなおらない』があります。
映画: 2001年には古澤裕介主演の映画『バカは死ななきゃ治らない』が公開されました。
書籍: ジャッジ・ジュディ著の『女の馬鹿は死ぬまで治らない』という書籍も存在します。』

ちなみに、バカの語源もAIで調べると以下になる。

「バカの語源」のAI回答


語源の主な説
1. サンスクリット語由来説
「馬鹿」は、サンスクリット語で「無知」や「迷妄」を意味する「baka」や「moha」が音写された「莫迦(ばくか)」や「募何(ぼか)」から転じたとされています。この説は多くの国語辞典で採用されています。

2. 中国の故事「指鹿為馬」由来説
秦の時代、宦官の趙高が権勢を試すため、二世皇帝に鹿を献上し「馬である」と言い張りました。群臣は趙高を恐れて「馬だ」と答え、鹿だと答えた者は処刑されたという故事です。この話から、「道理に合わないことを権力で押し通す」という意味や、「愚かである」「ものの本質を見抜けない」という意味で「馬鹿」という言葉が使われるようになったとされます。

「馬鹿」の漢字表記
「馬鹿」という漢字は、上記の語源から当て字として使われるようになったと考えられています。鎌倉時代末期には「ばか」の用例が見られ、室町中期には「母娘」「馬娘」「破家」といった異表記も存在しました。

その他の説
「馬鹿」の語源には他にも、「破家」(家財を破るほど愚かなこと)や、「はかなし」の語根の強調形に由来するという説など、様々な説があります。しかし、どれも決定的なものとは言えず、語源ははっきりしない言葉とされています。』

サンスクリット語由来説は知らなかったので、自分も中国の故事説を信じていたので、馬鹿だったわけだが、無知について関西圏では、バカよりもアホがよく使われているので、アホについても語源をAIについてググってみた。

「アホの語源」のAI回答


阿房宮説
秦の始皇帝が建設した「阿房宮」は、その規模の大きさと無駄から、愚かなことの象徴とされました。この「阿房」が、愚かな人や行動を意味する言葉「あほう」に転じたとされています。

その他の語源説
中国江南の方言: 戦国時代に中国江南の方言である「阿呆」が日本に伝わり、「あほう」になったという説があります。
ポルトガル語: ポルトガル語で「間抜け」を意味する「アファウ」が語源であるという説も存在します。
中国の「呆子」: 「まぬけな奴」を意味する中国の俗語「呆子」に「阿」を付けたものが「阿呆」になったという説もあります。
「あほ」と「ばか」の違い
「あほ」と「ばか」はほぼ同じ意味ですが、ニュアンスが異なります。

関西: 「あほ」は親しみを込めて使われることが多く、愛情表現としても用いられます。
関東: 「ばか」が日常的に使われますが、関西では「ばか」と言われると不快に感じる人が多いです。

「あほ」の多様な使い方
大阪では「あほ」は様々なシーンで使われます。

「あほらし」
「あほみたい」
「あほやなあ」
「あほくさ」』

面白いのは、関西では「ばか」と言われると不快に感じる人が多く、アホは愛情表現でも使われる違いにある。関西では更に、明石家さんま氏が流行らせたギャグの、「アホちゃいまんねん。パーでんねん。」で、アホとパーの違いが関西でないと不明なので、これまたAIで調べると以下の回答になった。ちなみに、「ちゃいまんねん。でんねん」の関西弁もいまではあまり使わないらしい。

「アホとパーの違い」のAI回答
「アホ」と「パー」はどちらも愚かさを表す言葉ですが、特に関西圏では「アホ」が親しみを込めた表現として使われることがある一方、「バカ」は侮辱的な意味合いが強いです。また、 「パー」は「クルクルパー」のように、より強い愚かさを表す際に使われることがあります。

「アホ」と「バカ」のニュアンス
関西と関東での違い
関西では「アホ」が比較的軽い意味で使われるのに対し、「バカ」は相手を侮辱する言葉として受け取られやすいです。関東では「バカ」が日常的に使われる一方で、「アホ」はあまり使われません。

「アホ」の多様な意味
「アホ」は、辞書的には「愚かな様子、愚かな人」や「人を罵る言葉」と定義されます。しかし、関西では親愛の情や呆れ、ツッコミなど、文脈によって様々なニュアンスで使われます。

「パー」の使われ方
「パー」は「クルクルパー」のように、非常に愚かな状態を表す際に使われることがあります。これは「アホ」よりもさらに強い愚かさを強調する表現として用いられることがあります。

「アホちゃいまんねん。パーでんねん。」の意味
このフレーズは、「アホではありません。パーです。」という意味で、 自分をさらに愚かな状態だと表現することで、笑いを誘うギャグとして使われていました。

このAIの回答によれば、関西圏では、アホ、バカ、パーの順で無知さの程度を表しているようで、アホは愛嬌のある無知、バカは面倒くさい無知、パーは深刻な無知という感じなのかもしれない。この感覚は関西圏で暮らした人でないとわからないのだろうが、なぜ関西圏で「馬鹿」が嫌われるのか、というと、八切史観では、また別の説がある。

八切止夫の日本史 | ミノムシのブログ

アホとバカの語源と関西・関東で使われる理由 | 出演者キャスト情報 ドラマ・映画など


以上のサイトによれば、南北朝時代に、北朝が勝利し、足利尊氏の時代になると、源氏が支配するようになり、敗れた南朝方で、特に平氏系の賤民(八の民)になり下がった者に対して、呆(あき)れるという感覚に合わせて、その枕詞の前置きに、八の旗色の赤色をつけて、「赤に呆れる」が省略され、「アホウ」と差別し軽蔑したが、関東には、源氏系の賤民(四の民)が落ち武者としていたので、京都の藤原朝廷を頂点とした仏教カースト制度では、関東圏の賤民を、バカと差別し軽蔑したらしい。

だから、関西人が、バカを使うのは関東人に対してで、関西のなかでは、バカ呼ばわりは、仲間外れにされた感が伴うのだろう。他には信長で有名な「タワケ」があるが、この意味は、口分田を割り当てられた律令制の他外という「他外(たわけ)」の意味がある。だから、アホと違い、同じ意味でも、タワケ「田分け」からきているらしい。英語のアウトローの意味で、律令制外の賤民の蔑称である。アホの例外という感覚かもしれない。タワケは、明治維新の身分制度の改革で死語になったのかもしれない。

ちなみに、信長がタワケ殿と呼ばれたのは、正室奇蝶が美濃土岐家の斎藤道三の娘だったからで、濃姫からすれば、信長は入り婿も同然で、戦国時代とはいえ、当時の身分制度からいえば、斎藤家にとって信長はタワケ殿なのである。信長の家臣のほとんどが秀吉の出世でわかるように賤民出なので、土岐家配下の美濃衆からすれば格下で、明智光秀が足利義昭を連れてきて、幕府から信長配下の尾張衆に箔をつけなければ、美濃と尾張は対等にはなれなかったわけで、この美濃と尾張との関係が、織田政権内の派閥争いに発展し、美濃派は尾張筆頭の信忠の配下に後塵を拝するが、後の斎藤利三を下手人とする本能寺の変につながる。

いずれにしても、バカもアホも、律令カースト身分制度で、上の者が下の者を差別した言葉だったようである。信長はタワケになって、それらバカやアホたちを集めて、天下布武で、下克上を起こしたわけだが、仏教勢力も手強く、出る杭は打たれるようにして、信長は消され、秀吉が引き継いで、経済面で天下統一し、豊臣一代政権をつくりあげたが、それも家康に乗っ取られて、徳川政権も、5代綱吉から、済州島出身の朝鮮系に乗っ取られた、というのが八切史観なのである。

そしてまた幕末に、外国勢力による日本原住民系の薩長を中心とした倒幕運動が起こり、徳川カースト身分制度が改められて、表向きは四民平等の明治政府となった。四民とは、八切史観によれば、日本海側の裏日本から馬で日本列島にやってきた騎馬民族の四つの源氏、太平洋側の海上を経由し船で日本列島にやってきたペルシャを源流にした海洋民族の八の平氏、白村江の戦いで勝利して進駐軍として、郭ムソウ率いる一万余の僧兵と共にやってきて大陸の唐を源流に朝廷を開いた藤原氏、大陸で唐を打ち破り朝鮮経由で用心棒としてやってきた契丹系の橘氏、の主に四部族を示すという。

山梨県 歴史文学館 山口素堂資料室 : 〔受難の日本書紀〕矢切止夫史観《》は筆者挿入箇所

『「謎だらけ日本史日本シェル出版刊」には、長州御抱え歴史家アドルフ・リ-スの門下三上参次や小川銀次郎は開明学校、のちの東京帝国大学出身だが、リースの大和民族単一説に対して、「幕末のシーポルトは長崎鳴滝の塾で、赤ん坊を集めてきて尻を並べ、蒙古班の青いのは日本海からの沿海州よりの騎馬民族系の末孫。そうでないのは大陸系。やや黒ずんでいるのは太平洋沿岸に流れてくる黒潮にのってきた西南系と書生に教えた」と師リースの説に異見をのべた為に、著者の重田定一は東大閥から村八分にされ、文学榑士にもして貰えず、当時は賎役の文部省の初代修史局長に放り出された。』

『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著 | 山梨県歴史文学館 山口素堂とともに - 楽天ブログ

『なにしろ西暦六六三年に郭務悰が進駐してきて藤原鎌足と、日本名になり唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の古代史研究」に詳しいが、天孫と称したカクさんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賤にされた。二大別とされた賤とは太平洋沿岸に漂着の八のもの。
 次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入ってきたのが、獣の四つ足から、四つとよばれる。源・平・藤・橘と四大分するが、藤は唐でカクさんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って変った契丹系ゆえ、大陸人でもトウでナイゆえ、豪(えら)くみられず彼差別とされる。
 彼らは天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今の。ぺルシャと同じで赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染の衣をきた坊主が宣教師で先にきたので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。しかし四つの姓別は、最底四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍・負ければ賊で賤、黒の他は、次々と体制の変るたび限定居付部落へと追いこみ。
 部将軍に滅ぼされたものの、ナラ王朝と栄え桓武帝より良となったクダラ系は黄色である。しかしエタ非人と一つにしたり、また分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好良くなるのは、そうしたゲツトーヘ次々と敗戦捕虜が入れられ、混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエ・ケ・セ・テ・ネが姓の上につく処の「雑色」の人々だろう。
「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば白筋の馬方は源氏だが、篭かき川越人足や雲助は平家で八つとよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは唐無いで契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられる。喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者ときめつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。
 戦国時代の始めの応仁の乱に、部落の者は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代りに、しっ払いさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下こく上(下剋上)は明治維新までのびた。が五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。』

以上の八切氏の話をみてもわかるが、明治政府、実際は公武合体の長州幕府によって日本民族を表面上歴史的に統一したようである。それに異論を唱える者などは、明治政府の棄民政策として、下級国民に分類されたようである。恐らく西郷の西南戦争の反乱もこの棄民政策にあったのかもしれない。八切史観から、以下のように再度抜粋すると、この棄民政策がわかる。

『儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存のダンナなどないからして、 一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生れ変る。部落民でも、信心すれば次は常人に生れてくるのだ と、真言宗の本願寺説教憎が信徒にして廻ったので寺人別の数は増えた。だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。
僧へ絶対に近かよらなかった原住民の全体は、この百倍以上が、実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。
 さて大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にして四倍に値上刊行し、第六版から二二版まで世に送りだしたのは、金あつめのための作為なのかとも感じられる。なにしろ喜田貞吉博士はモの大正八年には南北朝両統問題でりース直系の三上参次らに睨まれ国定教科書編県官を追われ、やむなく自費で、「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金繰りで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にして貰った裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追及よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。
部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ彼差別されて地域的だった。
全国的に「解放」の美名で広めたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」。それと、この「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すえの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを、本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。
「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。
「天の古代史研究」の本さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄則部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して、奴隷にして被差別した歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。
 が売れて広まったこれらの本のため大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田郷世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の三千八百人が押しよせ、村田銃をうちかけ火をつけて、乱入し片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。
 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名をとった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝された土地。特殊部落とはいえ長史岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンヘいっていた。だが当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康とは松平元康の改名せしなり」という故、山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布。(『松平記』として日本シェル出版四八〇〇円)そこで周辺近郊の者らが、世良田の徳川には、これまで冥が米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地許の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。
 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集ってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は、華族会の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれの華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理をたて、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、さかのぼった奥付年月にした『松平記』を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。』

さて、先に紹介した「バカは死ななきゃ治らない」というのは、『「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。』の名残りで、「バカ」が主に関東の原住部落民への蔑称で、『部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ彼差別されて地域的だった。』ので、足利の室町時代に、バカにアホ(阿呆)が加わり、その連中をまとめたタワケの信長により天下布武の反仏の下克上が行われたが、仏教勢力の抵抗も強く、駆逐された落ち武者というか、タワケとして仏教徒に蹂躙されたバカやアホの『部落に、一向宗は目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生れ変る。 部落民でも、信心すれば次は常人に生れてくる 』と、親鸞を中心に、悪人正機説を唱えたから、一向宗を中心にして、部落民がバカに置き換わり、差別民から常人に生まれ変わるという布教のうたい文句が、「バカは死ねば、生まれ変わり、治る」となって、逆の意味で、「バカは死ななきゃ治らない」となった、とも考えられる。

面白いのは、八切史観によれば、現代の日本人はキリスト教の影響か、輪廻転生や生まれ変わりを信じずに、代わりに一回限りの生として、死を信じているが、戦国時代の日本人は生まれ変わりや輪廻転生を信じていたようで、「バカが死ねば、治る」のを信じていて、だからこそ一向宗が繁盛したわけである。

そうすると、隠れキリシタンは、現代で描かれる描像とは真逆で、生まれ変わりを信じていなかったことになり、死んで天国に行ける根拠がそれだけ薄くなるし、当時の日本人をどう騙していたのか、疑問が浮かぶ。いずれにしろ、現代ドラマのキリスト教の描き方は美化され過ぎて、あまりに嘘っぽいのは大河ドラマをみても明らかだろう。

恐らく、現代の創価や統一妖怪のような騙し方だったのだろう。現代人が肉体外見教に染まって死を信仰しているのと同じである。政教分離で宗教は自由に信仰してよいとなっても、お墓だの、お布施などと金銭勘定をしながら、いまだに霊感商法が幅を利かせ、成仏の意味もわからず、肉体の死を信じているわけなのだから、カリユガの暗黒時代に陥ってからは、いつの時代も悪魔信仰でしかない。

人智学では、古代レムリア時代の男女に分かれる前の脳をもたない両性具有の古代人は宇宙とつながっていたのがわかっている。レムリア中期から男女に分かれ、脳をもつようになってから、古代アトランティス時代になって、人種が生まれ、主に7つに分かれたという。白人、黄金人、緑人、青人、赤人、黄人、褐色人などである。それぞれの色は、天体の色を示していたらしい。

人間が高次の存在からだんだんと低次の存在になるにつれて、宇宙とのつながりをなくし、全体からわかれて、個人的になってきた。それにつれて包括的な叡智も個別的な部分的な断片的知識へとわかれてきた。全体のバランスや秩序も分離し、断片的な個人の自由へとわかれてきた。このような流れをみれば、人体のなかにも、そのような流れを掴むことができる。

このような全体からわかれた断片の流れは、「バカは死ななきゃ治らない」ではないが、つまり、個は死んで、全体に還らないと、叡智は無知なままであり、非常に難解だが、アストラル界での、古代エジプト神話のオシリスとイシスの話として神秘学のなかで語られている。そのような神秘学の話を、シュタイナーは、クンダリーニの人体の話として語っているのを、以下の動画から紹介する。

オシリスとイシスの伝説 - Wikipedia

クンダリーニ:ルドルフ・シュタイナーの解釈・松果体と脳砂の神秘的な役割 - YouTube


















アル ツハイマー病治療に革命を起こす 40Hz の科学と、ルドルフ・シュタイナーの「完全五度」の精神の解放





































クンダリーニの二重呼吸法と人体の4つの体の共鳴は、7つのチャクラを介して照応すると伝承されているのだが、それを超弦理論で表現できるかどうかはいまのところ定かではない。そのような超弦の音楽を、感じるか感じないかは、あなた次第!





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2026年02月25日 00時25分43秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: