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酸っぱい葡萄や尻尾をなくした狐などイソップ童話には人間心理の機微をついたものが多い。そうした心理は心理学的にも定説になっているようだが、こんなのはどうだろうか。目の前に、まずそうな葡萄と小さい胡桃があったとする。まあ、ものの喩えなので、とりあえず葡萄と胡桃とする。狐は葡萄か胡桃を選ばなければならない。その葡萄はたしかにおいしくないのだが、胡桃も小さくてまずそうだ。食べたこともない胡桃よりは、まずくても我慢できる葡萄の方がましかもしれない。それに、その前に食べたりんごは全くの不良品だったし、それを思えば、この葡萄でもまあいいや…と思っていた。ところが狐はこの葡萄の隣に、さらに別に種類の同じようなまずそうな葡萄があるのに気付いた。ああ、似たようなまずそうな葡萄、どっちもどっちじゃないか、なぜ選ばなければならない。そう思ったとたんに、狐の目には、今まで選択外と思っていた小さな胡桃が魅力的に見えだす。これを心理学的に「どっちもどっち効果」という。積極的に選択したくないもの二つの選択を迫られた場合には、その二つとは異質な第三の選択肢が急に魅力的に見えてくる心理的効果。こうしたことってあるのだろうか。門外漢なのでよくわからないが…。
2024年05月28日
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だいぶ前の話なのだが、職場で昼休みの雑談をしていた時、教育費に税金を使い過ぎだと憤っている人がいた。その人に言わせれば教科書などもともと親が負担するものでなんで税金で出すのかということである。その人には子供がなく、子供のいない人にとっては、たしかに自分たちの税金がそんなところにつかわれるのに不合理なものを感じるのかもしれない。今では、有権者の中での子育て世帯はさほど高い比率ではなく、その一方で生涯独身者というのも少数派でなくなれば、その票も少なからず影響力を有することになる。シルバー民主主義といわれるほどに、数の上でも投票率の上でも有力な高齢者の票であるが、その中身は、未成年の孫や曾孫のいる高齢者よりも、そうでない高齢者の票が次第に多くなっていく。よいとか悪いとかの問題ではなく、子育て支援というのは次第に票にならなくなっているのではないのだろうか。いつの時代も有権者の中でawokeと言われる層はわずかだ。それはリベラル系だけではなく、国家の将来を憂え日本国の少子化に危惧をいだく憂国系も同様だ。子供のいない層であれば、次の世代のことはあまり考えず、自分一代だけはどうにか逃げ切れればよいと考えても不思議はない。そして政治家という職業は当選してナンボであって、当選するためには票がいる。くりかえすがよいとか悪いとかの問題ではなく、民主主義とはそういうものなのだが、シングル民主主義というのもあるのではないか。
2024年05月21日
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大阪の府知事がゼロ歳児も含めて子供にも選挙権を与えるべきだという主張をしているらしい。もちろん子供が自ら投票できるわけではないので、これは、事実上、子供の数に応じて選挙権に重みを付けるということになる。つまり独身者は一票であるのに対して、四人の子供がいれば夫婦で六票の選挙権を有し、その重さは独身者の三倍になるわけである。これは、まさに選挙権の平等原則に反するわけで、高額納税者の票と低所得者の票とに重みに差をつけるのと変わらない。もちろん弁護士でもある府知事が本気でこんな主張をしているとも思えず一種の釣り発言であろう。ただ、これをシルバー民主主義に対する感想と見れば別の見方もできてくる。子育て世帯の割合で検索をしてみると、2023年の資料で、全世帯に占める割合は18.3%で初めて20%を切ったという。今や核家族世帯だの母子世帯だのと言っても、成人した子供が老親と住んでいる世帯の方が多いわけだ。そこから考えれば、有権者の中でも、子育て中という人は少数派であろう。有権者のかなりの部分は独身者や子供がいるが、成人していて孫もいないという人々なのではないか。近年、子供の騒音に対する苦情がやたら増えているが、背景は同じであろう。かわいい子供や孫のいる人は、子供の声を騒音とは思わないものだから。マスコミにでるような立派な言論では少子化を憂え、子育て支援の充実をさけぶものがほとんである。国政選挙でもほとんどの政党は少子化対策をテーマの一つに掲げることだろう。しかし、地方知事ではどうであろうか。住民サービスと直結する地方自治では有権者のある種の本音がむきだしになる。高齢者の無料パスや施設利用券など高齢者優遇を前面に出す候補Aと子供の医療費や教育費無償化、子供向けの施設の充実など子育て支援を前面に出す候補Bがいたら、さて、選挙に勝つのはどちらだろう。子育て世帯の中には、子育て支援の充実している自治体を選んで引っ越すという話がある。一種の足による投票である。そうなれば近所の公園にも子供の騒音が響き、ボールは飛んでくるし、ラジオ体操やゲートボールの場所はとられる…子育て支援などとんでもない。そしてまた、子育て支援のしわ寄せで高齢者無料パスがなくなるのは許せない。こんな有権者がいたって不思議ではない。知事が、子供にも選挙権などということをいう背景には、自治体首長として、こうしたことに対する憂慮があるのかもしれない…以上妄想でした。
2024年05月19日
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人手不足と言うことが盛んに言われているが、これと同時に省力化もかなり進んでいると思う。近所のオフィスビルでもつい最近まで朝ともなればモップを動かし掃除をしている人がいたのだが、これが最近では掃除ロボットに変わっている。店でも自動レジやタッチパネルが急速に普及し、映画館でも窓口での券発売は少なくなっている。タッチパネルなど、やり方がわからずにきれている人も時々見かけるが、こうしたものも現在の自動改札と同様にあたりまえの光景になっていくのだろう。そういえば、昔は駅の改札には必ず駅員がおり、ATM普及前の銀行には大勢の窓口職員がいた。デパートのエレベーターにもエレベーターガールがいたので、そんな時代に比べれば、今だってずいぶん省力化されている。省力化できるところは省力化し、その一方で、多少の不便は甘受するようになれば、人手不足の問題は多少解決するのではないのだろうか。少し前までは、注文したものがすぐには届かないなどということはあたりまえの光景だった。そしてまた、人手不足の問題となると必ず出てくる外国人導入の議論であるが、この是非を言うまでに留意しなければならないことがある。一つは人口減少は日本だけではなく、周辺国でも起きているということである。送り出す側は細り、受け入れる需要は増えてくるということか。もちろん地球規模で見るとアフリカのように人口爆発が続いているところもあるのだが、日本に多くのアフリカ人労働者が働くという未来図は、地理的文化的距離からして、ちょっと考えにくい。もう一つは、人材導入を行う国は日本だけではない。円安が続けば、就労に行く国として日本の魅力はそれだけ薄れることになる。これも忘れてはならない点であろう。
2024年05月12日
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最近、子供の体験格差ということが言われている。都市と地方、親が高所得か低所得かで、習い事、クラブ活動、家族旅行などについて大きな体験格差があることを問題視するものである。しかし、子供というものは全生活が体験であり、そうしたものの中から、将来の糧となるものを積み重ねて大人になっていく。山間部に生まれて自然の中で駆け回り、虫取りや魚釣りに興じたことも体験なら、貧しい家庭に生まれて母親と一緒に家計簿を計算しながら節約の知恵を出しあったことも体験である。幼い弟妹の世話をし、祖父母の介護を手伝って、その死を看取ることも、また体験であろう。体験格差の議論で取り上げている体験が、習い事、クラブ活動、家族旅行を指しているのであるなら、それは体験格差ではなく、習い事格差、クラブ活動格差、家族旅行格差とかいわないと正確ではない。しかし、子供というものは小学校の中学年くらいになると、親と一緒の行動は好まないし、親と一緒のところを友人に見られるのも嫌がるものである。だから、家族旅行よりも、友人と一緒にちょっと自転車で遠出する方がずっと楽しいし、思い出に残る。家に金がなく家族旅行ができないから、習い事ができないから、かわいそうね、支援しましょうとなると、ちょっと違うのではないかと思う。将来の糧という意味でも金をかけて何かしてもらったという体験よりも、誰かに何かしてあげたという体験の方が案外と重要なように思う。もちろんこうは書いても「体験格差」が全く問題ないというつもりはない。好きなスポーツを金銭的な事情で出来ないというのは残念だろうし、親も辛い。そうしたものについては、道具のリサイクルとか、無料貸し出しとかで対処する方策が考えられるし、もしかしたら、そうしたことは、すでに実践されているのかもしれない。※政治ネタを書くつもりはないし、この日記テーマも政治ネタと関連するとは思っていない。だからこういうものを書いたからといって、例の格差の問題についてどうこうと言ったつもりはない。子供の貧困はもちろん大人の貧困の結果としてでてくるものなのだが、本人にとっての意味合いは異なる。大人の貧困は本人の不運、努力、能力資質のベクトルの結果なのだが、子供にとっては親という別人格者の貧困の結果である。貧困は連鎖することもあるが、貧困を糧にして伸びていく子供もいる。なんでもかんでも親の経済力と子供の状況を統計的に比較して、親が貧乏な子供は可哀そう、支援しましょうというのは、なんか少し違うように思う。
2024年05月05日
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全国で今後消滅の可能性のある自治体として744の市町村名が公表され話題となっている。実際に東京から日帰り圏のところでも、棄農地と廃屋ばかりがめだつところがあり、いずれは自治体としてなりたたないというのもうなづける。また、農村地域でなくとも、一戸建て志向が強い時期に鳴り物入りで開発されたニュータウンが住民の高齢化で半ばゴーストタウンのようになっているところもある。かつてはスーパーがあったところが撤退し、建物だけが残っているのに実際は空き店舗ばかりという具合だ。一戸建ての住宅群はそれぞれ瀟洒なつくりであるのに、道路が森閑としているのが不思議な感じすらする。まあ、半ば限界集落したところは都心の団地にもあり、こういうところも、見上げても衛星放送のアンテナがほとんどない、人が歩いているのを見かけない、店も少なく活気がないなどの特徴がある。人口が減っていくとはこういうことである。自治体も消滅していくのかもしれないが、その前におそらく県の統合が問題になるのではないか。明治後期以降、今の47都道府県は変わっていないのだが、人口は大いに変動し、いまや100万にも満たない県が相当ある。そうした小規模な県も県庁があり県議会があり市町村があり、国立大学があり、裁判所があり、県警本部がある。行政の無駄というよりも、そもそもそんな小規模の自治体が県でありつづけることに無理があるのではないか。例えば刑事事件などはそれぞれの県毎の裁判所が所管するが、今は裁判員と言う制度があって、その県から選ばれた裁判員も裁判に参加する。都市の感覚だと、事件関係者のプライバシーの問題と言うのは実感しにくくても、例えば板橋区程度の人口数十万の県での事件を裁判員裁判にかけるとなると、被害者の中には事件を警察に届け出るのを躊躇する人も普通にでてくるだろう。また、せっかくの国立大学も人口数十万の県では優秀な若者を集められるのだろうか。かつてのように国立の授業料が安くなくなったとなればなおさらである。地元の国立大学がFランに近い水準になってしまったら、そうしたものをはたして税金で維持する必要があるのだろうかという議論もでてくるだろう。
2024年04月25日
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仏教説話集の日本霊異記と発心集を読んだとき、その説話の違いに驚いた。平安時代初期の日本霊異記ではその多くは仏教信仰のおかげでこんなご利益があったという話になっている。ところが鎌倉時代初期の発心集では肉親の死などで世の無常を感じ出家したという話がほとんどである。仏教が受容された当初は仏教は異国の神であり、仏事も支配層中心だったが、ある時期から民衆にも信仰が広がり、それと同時に信仰の中味も現世志向から来世での平安を願うものが中心になっていったのであろう。そうした流れの中で大きな役割を果たしたのが法然上人だった。南無阿弥陀仏を唱えていればよいという簡単な教えは誰にでもわかりやすかったし、民衆は経典を読むだけの金や知識もなく、加持祈祷を頼む余裕もなかったのだから。死ぬときは阿弥陀仏が迎えに来て浄土に連れて行ってくれる。戦乱、災害、飢え、疫病など、死はどこにでもある。それに対して人々は無力だったのでそう思うしかなかったのだろう。「法然と極楽浄土」展では、そうした浄土信仰を背景にした来迎図や仏像などを展示している。阿弥陀如来の柔和そのものの御顔をみると、死の恐怖や不安を克服した表情はこうしたものかとも思う。そしてまた、日本では珍しい涅槃像も展示されている。あのポーズは、今なら寝転がってテレビでも見ている姿勢なのだが、そのくらいに平安な境地で死に臨んだ、終末の理想の姿ととらえられていたのであろう。有名な西行法師の和歌、願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃というのも、そうした理想の終末を願う歌ともとれる。如月の望月、つまり2月15日は涅槃の日である。涅槃像の周りには弟子だけでなく、すべての生き物が悲しんでいる様子を描いた像があるのだが、生き物たちのなかにカタツムリまでいるのが面白い。こうした展示の中で異彩を放っているのが江戸時代の五百羅漢図である。五百羅漢というのは仏陀の高弟達のことで、その姿を描いたものだ。そこでの高弟たちは悟りすました姿をしていない。むしろ超能力(神通)が強調されており、中には手に持った仏像から線が描かれ、不思議な力を働かせていることを表したものもある。仏典の中には、あまり超能力に関する記載はなかったと思うので、逆にこうした超能力を強調した仏画は非常に珍しい。
2024年04月23日
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週刊誌の広告をみていると、老人向けの記事が目立ち、いまどきの活字媒体購読者はつくづく高齢化していると思う。そうはいっても、マーケットのパイは限られている。内容的に競合する健康雑誌や老人向けと銘打った雑誌の広告を最近みていないのだが、こうした雑誌は廃刊になったのだろうか。さて、その週刊誌の老人向けの記事であるが、10年くらい前には高齢者と性といった記事が目についた。それが、最近では相続とかお墓の記事が目につくようである。いよいよ高齢化といっても、主力はアクティブシニアからその上の年代に移りつつあるのかもしれない。考えてみれば、戦後80年近くになる。団塊の世代も70代後半に入った。これからは、こうした高齢化の中のさらなる高齢化が様々なところに影響を及ぼしてくるのではないか。そもそも、高齢になると、ものの消費が減っていくという。そうだとしtら、これからは、いよいよ消費の縮小が進んでいくことだろう。現在、終活を主力記事にしている週刊誌も、そのうち消えていく。週刊誌だけではない。衣料や美容理容でも需要は減っていく。エンタメなども海外市場も念頭におかなければなりたたなくなるかもしれない。この頃、さかんに人手不足と言うことがいわれている。しかし、人口減少、そして高齢化を考えた時、呼べばいつでもつかまるタクシー、ぎっしりと商品が詰まっていて24時間365日開いているコンビニ、注文すればその日のうちに届く宅配…そうしたものが、はたしてこれからも必要なのだろうか。
2024年04月19日
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少子化という流れは世界の多くの国で起きているのだが、特に東アジア地域で出生率の低下が著しい。以前も書いたのだが、背景には、受験競争と教育にかかる費用、婚外子に対する差別、男尊女卑?を背景にする女性の結婚相手への期待値の高さなど東アジア特有のものがあるように思う。いずれもこの地域に長い間影響を及ぼしている儒教思想や家父長制が背景にあるのだが、このうち、受験競争の激しさや教育に金をかける点などは儒教の影響だけでは説明がつかないように思う。これらの地域では近代化が進めば進むほど、そして豊かになればなるほど受験競争が激しさを増してきているようにみえるからだ。大学までの教育費だけならともかくとして、受験のために塾だの家庭教師だのを考えると金がかかる。そのため、受験競争と教育にかかる費用を考えると子供はほしいけど、せいぜい一人ということになる。ところで、エリートコースがあるのは、東アジアだけに限らない。ほとんどの国でそうしたものがあるだろう。それなのに、欧米では受験競争の激しさが社会問題になっているとか、教育費がかかることが少子化の一因になっているという話をあまり聞かない。特殊なエリートコースの話だけでなく、そんなによく知らないのだが、国によっては12歳の成績で大学に行くコースと職業学校に行くコースを選別するところがあると聞く。ある程度の平準化が進んだ戦後日本の社会でそんな制度がもしあったら12歳の選別は大変なことになりそうである。欧米の多くの国も出生率が低下しており、それぞれの背景があるのだろうが、こうした国で教育に金がかかることが少子化の背景ということがあまりいわれないのはなぜなのだろうか。この違いは興味深い。
2024年04月18日
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この4月知合いの女性が第一志望の某大学法学部に入学をした。昔から成績優秀な子と聞いていたし、どんな方面にすすむのかと思っていたのだが、法学部と聞くとなんとなく納得した。おそらく選択肢はいくらでもあったのだろうし、医学部に進むことも可能だったのかもしれない。ただ、実際、医学部という選択をしようとすれば、医師という職業の大変さや責任の重さ、あるいは単純に血をみるのが嫌だなどの理由で躊躇する人もめずらしくないだろう。そして医療系以外の理系となると、本当に専門を活かそうとすれば大学院レベルまで要求されるし、大学院となれば就職が決まるまでは安定しない生活を余儀なくされる。それに比べると法学部の場合には資格の種類も多いし、各種公務員への門戸も開かれている。ニュースでは公務員志願者が減ったといったことがいわれるが、一般的には、特に女性の場合には公務員が条件のよい職種であることは間違いない。最近、女子の理科系の比率の低いことを問題視する議論があり、一部の大学では女子受験生を優遇する動きもあるという。その是非はともかくとして、背景には女子が理系を選ばないことがある。一般論であるが、理系のできる女子の場合、文系教科もできる場合も多い。そうだとすれば、実は女子が理系を選ばないというよりも、文系理系両方できる人が理系を選ばなくなっているというのが実態ではないか。いまどき女の子が理系にすすむなんて…ということをいう昭和脳の親が多いとも思えない。そういえばNHKでプロジェクトXという人気番組があったが、あの番組で取り上げた技術開発に邁進した世代というのは戦争を体験した世代やその少し下の世代が多かった。理系人材は戦時下において徴兵を猶予されるなどして温存されていた上、その下の世代でも理系に行けるものなら理系に行くという雰囲気があったのではないか。そうした厚い人材の層があったからこそ戦後の復興も日本の繁栄も実現できたのではないか。
2024年04月12日
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冠婚葬祭についての世の中の変化は激しい。特に、葬式については小規模家族葬が一般化しており、セレモニーホールの数は増えたが、ほとんどが家族葬を想定したものである。それでも今亡くなられる方は兄妹も多く、親族つきあいも密接だった世代が多いのかもしれないが、これからは葬儀なしの直葬というのが一般的になっていくのかもしれない。このように葬儀の方はどんどん簡素化しているのに対し、結婚式の方はそうでもないようだ。出席する親戚の範囲とか職場関係の範囲というのは、昔に比べて少なくなっているのかもしれないが、ただ、それでも、新郎側が何人呼ぶので新婦側も均衡上何人よばなければならないとか、友人は何人以上呼ばなければならないといった感覚はまだ残っている。そうなると、呼ぶべき親類や友人がいなくて困る人が出てくる。そのために親類の代理、友人の代理を派遣するビジネスがあると聞いていたが、これを実際に検索してみるとそうした代理派遣業者がいくつもでてくるので驚く。こうしたサイトには利用の申し込みばかりでなく、スタッフ、つまり代理出席する側を募集する欄もあり、隙間時間でも出来、おまけにけっこうな高収入である。たしかに一見よさげなバイトなのだが、よく考えてみると、着ていく服などは自分持ちなので、招待客に見せるためには金もかけねばならず、それほど手元に残るような感じはしない。それにこうした代理出席は、ばれないですむのだろうか。親戚の代理で行って、別の親戚から話しかけられたら、すぐにわかってしまいそうだし、友人代理についても、本物の友人から話しかけられたら、嘘がばれそうである。なかには円テーブルを囲む友人全部が代理という場合もあって、これはその場ではバレなくても周囲からはわかるだろう。そういうのは全員ドレスの色かぶりなし、みんな黙って食べるだけ、式が終わるとさっさと帰っていく…どうみても異様である。それに、新郎新婦が両方とも代理出席を了解しているのならよいが、そうでない場合には、相手に対する不信感につながるだろう。結婚式など、親戚が来ないなら来ないでよいし、友人もいないならいないでよいではないか。来てほしい友人は遠方に転勤中だとか体調が悪いとか言った嘘の方がまだましである。葬儀の方がこれだけ簡素化しているのに、結婚式については、いまだに数合わせで悩んでいる場合があるのが不思議である。
2024年04月11日
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世の中にはなんでも「右」とか「左」に分けたがる人がいる。自民党のある議員がX投稿で、離婚後の子どもの養育に関する制度の見直しに関し「法案を議論する有識者会議に極左活動家を入れているようでは絶対にダメです。公安の協力を得て、締め出せ」との意見を法務省に伝えたという。こうしたことの背景には、一部の人々が共同親権導入については、慎重派を「左」と呼んで非難していることが背景にあるのだろう。人生が様々であるように、夫婦の形、そして離婚の形も様々である。DV夫や妻にたかることしか考えない夫もいれば、養育費を払っているのに子供と自由に会えないことに不条理を感じている夫もいる。様々な事例があることを念頭にいかに弊害の少ない制度を構築していくかが重要であり、これは「右」とか「左」とかとは無関係の話だろう。重要なのは、個々の家族、特に子供にとってどんな制度が一番望ましいかということではないのだろうか。右とか左とかいう言葉とともにリベラルと言う言葉もよく使われる。リベラルとは文字通り自由という意味で古典的な伝統からの自由ということを意味する。この意味では、夫婦別姓や同性婚の問題などは、伝統からの自由というリベラルなのであるが、じゃあ、はたしてリベラル≒左というのはどうなのだろうか。どうも違うように思う。一説によると右というのは内外で分け、左と言うのは上下に分ける思考法だという。そうかもしれない。右は自民族や自国民とそれ以外を分け、左と言うのは強者と弱者、富裕層と貧困層で分けるという思考が顕著だ。そうしてみると、夫婦別姓や同性婚は左というのとはあまり関係なさそうに見えるし、実際、関係ないだろう。選択的夫婦別姓導入の議論は財界からも起きている。世の中の問題は複雑でひとすじなわでいかないものが多い。こうした問題について、なんでも「右」と「左」に分け、罵倒するのはあまり生産的ではない。共同親権の問題だけでなく、原発の問題、安全保障の問題なども然りである。
2024年04月07日
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知合いの話なのでぼかして書く。仮にAさんとする。Aさんは有名大学を卒業した後、難関国家資格取得のための勉強をしていたのだが、それも10年ほどであきらめ、その後は定職につかずに暮らしている。父親は数年前に亡くなったのだが、母親との関係は良好で、時々は一緒に旅行に行くこともあるという。大学卒業後、就職をしないことについて、両親は何も言ったことがない。裕福そうな家で不動産収入だけで暮らせるのかもしれないし、何か他の背景があるのかもしれないが、そのあたりのことはわからない。ニュース報道だけをみると、中年の無職の娘息子をかかえた家庭は皆爆弾を抱えているようにも見えるのだが、実際にはAさんのように中年の無職の娘息子が親と良好な関係を結んで、平穏に暮らしている家庭と言うのもけっこうあるのかもしれない。ちなみにAさんは男性である。考えてみれば家族の形も時代によって変わる。農家などに5人も6人も子供が生まれ、その子供らが皆成人するなんていう家族の形は明治後期から昭和戦前にかけての非常に特異な世代だけのものだったのではないか。次の世代では勤め人の家庭で2人か3人兄弟で育つというライフスタイルが多くなっていく。そしてさらにその次の世代あたりで急速な未婚化が起きるわけである。考えてみれば兄弟が多くいて、しかも、長男が親と同居するという家庭では、いつまでも未婚で家にいるというのは難しい。いくら広い農家の家でも成人した人間が何人も住めばさすがに狭いし、ましてや兄嫁が家にやってきて子供も生まれれば、成人した兄弟は家を離れるのが普通であった。それが次の世代になると事情は変わり、成人しても実家の居心地はずっとよくなる。親は頑張って郊外に広い一戸建てなどを建て、立派な子供部屋も作ってくれた。平均寿命も延びたので、子供が成人しても元気な親も多い。そうやって成人した子供と老親とが暮らす家族形態と言うのが非常に多くなっている。それでも、子供が無職の場合は年金だけでは苦しいという場合があるのかもしれないが、子供が勤めていていくらかの給料を入れてくれる場合には、親子ともに生活費が助かり、金だけをみればWINWINとなる。子供は居心地の良い実家に居続け、親は健康であるかぎり子供との暮らしを生きがいにする。なんかそういう家族が最近では多いのではないのだろうか。親はいつかはいなくなる。遺されたのが子供一人だと高齢単身世帯になるのだが、兄弟が二人とも親との同居を続けたような場合には老兄弟世帯となる。最近ではそうした兄弟の世帯が少しずつ増えているという話もある。それにしても、いくら実家が居心地が良くても…人間は生物である限り、成人すれば繁殖の相手を求め、次の世代を作ろうとする。人間以外の動物はすべてやっていることで、人間にもそうした本能はインプットされているはずだ。だからこそ、恋愛は永遠の芸術のテーマであり、関心事のはずなのだが、最近はどうもそうでもないのかもしれない。人気アニメの「葬送のフリーレン」にこんな言葉がある。我ら滅びゆく種族、生殖の方法などとうに忘れてしまった。
2024年04月04日
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小説を読む楽しみの中には物語を追うだけではなく、そこに描かれている時代や社会を知る興味もある。「白い巨塔」第四巻を読み終わったが、昭和40年という記憶にある時代であっても、今とはずいぶん違うことにあらためて驚く。まず、物語の主要登場人物の佐枝子は大学を出た後、特に勤めをしていない。家には女中もいるので家事手伝いというわけでもない。その彼女は元看護婦からは「なに不自由ない身の上」と言われる。佐枝子は主人公財前の恩師である東教授の娘で特に資産家の娘と言うわけでもないのだが、それでもこの時代、若い女性が勤めを持たないでいてもさほど奇異ではなかった。もしかして、それ以降でも、社会の一部では、ずっと後まで、未婚女性が無職のまま親と同居するという生活形態があり、それが中高年女性のひきこもりという問題につながっているのかもしれないのだが…。次にこれは物語だからかもしれないが、社会にははっきりとした階層があり、医師と看護婦はあきらかに別の階層として描かれている。この感覚がわからないと昔の昼メロで医師と看護婦の恋愛に病院長の娘が絡むという展開は理解できないだろう。医師と看護婦は「身分違い」という恋愛の障壁があったわけである。今では、医師の娘や息子が看護師になっても、さほど奇異とも思わないので、これは理解できない感覚である。また、この物語には、いわゆる看護婦、女中、水商売以外で仕事をする女性はでてこない。医師夫人は専業主婦であり、夫人同士の会合があるが、そこでの序列は夫の地位である。よくいわれるように女性の地位が低いというよりも、女性の地位は夫によったわけである。それ以外でも、レントゲン写真で名人芸のように病巣を診断するなどMRIやCTのある現代では隔世の感があるし、癌の場合に病名を患者に知らせないというのも今とは違う。しかし昭和40年代といわなくとも、昭和の終わりくらいまでは癌の場合、本人に知らせないことが普通であった。
2024年04月03日
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昨日あたりから桜も咲きすすんでいるようなのだが、どういうわけか満開に近い木とほとんど咲きすすんでいない木との差が例年に比べて大きいように思う。自分がそう思っているだけなのだろうか。それとも、温暖化を背景に桜の咲き方自体が変わってきたのだろうか。一方、我が家のテーブルの上の旭山桜。かなりの花が散ってもう終わりだと思っていると、まだまだ小さい花芽がある。思ったより花期が長く、本番のソメイヨシノが散るまでもつかもしれない。ところで唐突に入って来た静岡県知事辞任のニュースだが、きっかけは、県庁の入庁式での挨拶なので、しっかりと音声も残っている。問題になったのは「毎日毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいは物を作ったりとか、ということと違って、基本的に皆様方は頭脳、知性の高い方たちです」という箇所で、挨拶全文をみればよいことも言っているのに、やはりこの個所はまずいだろう。いまどき、野菜を売るにしても、牛を世話するにしても、ものを作るにしても、相当の知性を必要とする。こうした発言はアドリブで言ったものとも思えず、公人として問題視されることに気づかないわけがない。なにか、最初から辞め時を狙っていたとしか思えないのだが…。
2024年04月02日
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この頃、毒親とか親ガチャとかいう言葉をよく目にする。毒親はもちろん親ガチャという言葉も多くの場合、親ガチャにあたったというよりは、外れたという立場で語られることが多い。また、児童虐待も、ニュース種になるような酷い事例もあるが、それだけでなく、親が子供に勉強を強要するような例も「教育虐待」に当たるというように、親の虐待の範囲もどんどん広がっているようだ。あたりまえだが、完璧な人間などいないし、親だって同様だ。いたらない点は多々あるし、子供にだって申し訳なく思うことだってあるが、それをもっていい年をした大人が自分の親は毒親だったなんていうのはどんなものだろうか。いい思い出ばかりではないにしても、一人の人間を赤ん坊から大人になるまで育てる苦労はなみたいていのものではない。そしてもっと腹が立つのは親ガチャという言葉だ。まあ、健康に生んでもらって大人にまで成長して、思い通りにならない人生を親のせいにすること自体、精神がふやけているとしか思えないのだが、こういう言葉を使う人の親ガチャ当たりとは何をいうのだろうか。働く必要のない資産家とか〇〇二世といったものも世間にはあるが、そんなものはごくごく少数だろう。そうではなく、望む学校に入れなかったり、望む職業につけなかったりしたのは親に金がなかったせいだとなると、まったくもって何を考えているのだろうか。ろくに努力もしてこなかった人間が、それを親のせいにしているとしか思えない。よくいわれる学力と親の所得との相関関係なるものも、あくまでも統計として見た全体的な傾向であり、単に偏差値的能力に恵まれた子の親は偏差値的能力に恵まれている場合が多いというだけのことではないか。こうした親子の能力の統計的相関はスポーツや音楽の才能でもみられることだろう。ただ、偏差値的能力に恵まれている親は医師や大企業管理職などの高収入の職についている場合が多いというだけのことである。相関関係と因果関係を混同してはならない。毒親だとか親ガチャだとかという人は、おそらく親になんかしてやろうなんていう概念はもちあわせていない。それどころか、成人してからも、親がなんやかんやで支援をするのを当然だと思うのかもしれない。こんな言葉が蔓延するような時代…ますます少子化がすすむことは間違いない。
2024年03月27日
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「白い巨塔」をようやく第三巻まで読み終わった。主人公の担当した手術についての医療訴訟の第一審が終わったところなので…結末を知っている人はいわないでほしい。この小説がかかれた頃には医療過誤というのは社会問題になっていたのだろうか。現在も医療訴訟はどこかで起きているのかもしれないが、患者の遺族が主人公を医療過誤で訴え、それが大報道されるというのは、今ではちょっと考えにくい。小説では、主人公の財前医師が胃癌患者の手術前の肺の断層撮影を行わず、そのため肺癌の転移を見落とし、手術は成功したものの、患者はその後、肺の容態が悪化して死亡する。当時は癌といえば不治の病という認識が強く、癌患者には告知しないのが普通であった。この場合、もし肺癌の転移に気づいたとしても、それにより胃癌の手術を先延ばしにすれば、結局、患者は胃癌でなくなったのではないか。また、胃の手術と肺の転移巣の悪化との関係は現代の医学ではどこまで解明されているのだろうか。たしかに、なんらかの刺激を与えて癌が急速に悪化するという話は聞くので、そうした事例がないわけではないが、確率の問題なのかもしれない。こうした場合、現代では患者に病名を告知した上で、あえて手術をすれば転移巣が悪化して生命を失う危険があるが、完治の可能性もある、逆に手術をしなければ、寿命は多少伸びるにしても、結局は胃癌で死亡するということで、患者に選択を任せるのではないか。いくら患者の遺族から見て医師の態度が不誠実であり横柄にみえたとしても、この昭和40年頃の時代に、これで医師の責任を問うのは無理なように思う。そういえば今でも医療訴訟のニュースはたまにみかける。中には酷い病院もあるものだというのもあるが、不適切な治療で90歳代の老母が死亡したというのになるとどうなのだろうか。あたりまえなのだが、人はいつか死んでいく。人が死ぬたびに、病院が悪い、施設が悪いということになると、医療や介護に携わる人々の負担は増えるばかりのように思う。
2024年03月26日
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埼玉県坂戸市の北浅羽桜堤公園に行ってきた。公園内には200本の安行寒桜が植えられており、今がだいたい見ごろとなっている。ソメイヨシノよりやや紅いが河津桜よりは淡く、そして河津桜とは違って大木となる。先週まで桜祭りがあったようだが、ちょっと祭りの時期が早すぎたのかもしれない。暖冬だったのだが三月は寒い日が多く、開花が遅れたのかもしれない。桜祭りにはこれがある。着いたのが夕方近いということもあったのだが、さほど混んでもおらずに、ゆっくりと花を楽しむことができた。ただ、場所が越部川の堤防沿いなので、堤防に登って桜を上から見ようと思うと、堤防に登る足場が少ないのは要注意だろう。堤防の上の遊歩道は整備されているのに…と思う。河津桜はとうに葉桜となり、本命のソメイヨシノの開花前に、花見を楽しめるのがうれしい。戦後に自然交配によってできたという河津桜も今ではあちこちで見かけるようになり、本場の河津以外にも、神奈川の松田山や千葉の八千代などの名所もうまれている。河津桜よりも、さらに開花の速い品種としては土肥桜や熱海桜もある。そのうちソメイヨシノに特化した開花宣言や桜前線といった言葉も消えてゆくのだろうか。それでもやはりソメイヨシノは特別な品種でありつづけるのだろうか。我が家の旭山桜もほぼ満開を迎えている。外で見る桜もよいが、家の中の桜もまたよいものである。
2024年03月24日
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一説によると現生人類と旧人類との差は噂を信じる能力の有無であるという。噂を信じることで人は大集団を形成し、その大集団で文化が伝播し、やがては文明が生れた。おそらく人類の黎明期とともにあった宗教や人類最古の職業の一つである王。こうしたものの権威も噂に基づくもので、集団のほとんどの人々は王に接したこともなければ、神をみたわけでもない。それでも宗教や王の権威で大集団が形成されたのは、多くの人が見たこともない神、会ったこともない王のありがたさを噂として信じたからだろう。今では情報も発達し、現代人は古代人が想像もできないほど、多くの知識を得ている。雲の上に人間と同じような姿の神様がいると信じている人は少ないだろうし、王制を維持している国でも、王様が他の人間とは違った能力をもっていると信じられているところはあまりないだろう。それでも宗教は当分の間は消えそうにないし、王制を維持している国も減ってはいるものの、残存している。そうだとしたら、現生人類には噂を信じる能力の他にもう一つの能力があるのではないか。つまり本当は信じていない噂を共同体の秩序維持のために温存する能力である。つまり、神様はたぶんいないと思うけど、いるということにしておこうというわけである。人が大集団を維持するためには、なんらかの共同幻想が必要であり、そして時にはそうしたものを信じていなくても信じているふりをすることが必要なのかもしれない。
2024年03月20日
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最近、ネットなどで古典の授業の必要性についての議論が行われているのを読むことがある。漢文もそうなのだが、古典の授業についても、いらないという議論があるようだ。考えてみれば今の中等教育は明治以降の旧制中学にそのルーツがあり、旧制中学はかつての藩校にルーツをもつものが多い。藩校では学問と言えば漢文の授業が中心であり、そのため、明治期の政治家など漢詩を作るという人もいる。そんな時代のかすかな影響が田中角栄くらいまであり、そのため、田中角栄も訪中の際に漢詩を作ったりもしたのだろう。学問≒漢文という時代が長くあったわけである。そしてまた、古典についても、やはり学問として行われていたのだろう。特に明治以降は国学思想を中心に据えたこともあって、本居宣長が高く評価した源氏物語を重視したのかもしれない。ただ、今は時代が違うし、外国語など必要な知識も格段に増えている。そうした限られた授業時間の中で古典や漢文の授業は必要ないという主張も一理あるように思えてならない。この前、源氏物語を読んだし、その少し前には平家物語を読んだ。古典を読むのが大好きな自分から見ても、学校ですべての人が古典を勉強する理由は乏しい。以下、その理由について書いてみる。源氏物語は、テーマがテーマだけに高校生向きのものとしては内容がきわめて不適切である。もちろん不適切な部分は教科書にも載らないし試験にもでない。そうなると結局は、あまり面白くない部分だけが教科書に載ることになる。また、教科書に必ず載る徒然草も、いわば枯れた人生観を綴ったもののようで、ああしたものに共感するのは比較的年齢がいってからのことが多いのではないか。古典で本当に面白い部分は源氏物語の教科書では避ける部分とか、教科書では採用しないものの中にあるように思う。要するに面白いものを載せようとすると内容が教育上よろしくないし、問題のないものを載せるとつまらないというわけである。次に古典は読書好きや小説好きには興味深くても、そうでない人にとってはほとんど役にたたない。あるノーベル賞受賞者が源氏物語になんか興味なかったので受験勉強はしなかったと語っているのを読んだことがあるが、そういうものかもしれない。知的レベルとも知的訓練とも関係なく、一部の読書好きが趣味として自分でやればよいのではないのかと思う。ただ、自分のことをふりかえってみると、小学校や中学校の頃は国語といえば感じの読み書きが中心だった。高校の頃は国語といえば古典とか漢文で現代国語は学習のしようのない教科という印象がある。もし、古典や漢文がなくなると、国語という教科自体が特に勉強しなくてもよいというものになるのかもしれない。
2024年03月15日
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認知症というのは、かなりの人が一定の年齢に達すると罹患するものだという。東京都健康長寿医療センターのサイトによれば、65歳以上の約16%、80歳代の後半であれば男性の35%。女性の44%とされている。認知症は本人の自覚のないこともあり、歴史上のトンデモ説かもしれないが、文禄慶長の役を秀吉の認知症のせいにする見方もある。老害と言うことがよく言われるが、本当の老害は、ある程度、意思決定にかかわっている老人が本人の自覚のないままに認知症が進行しているという場合ではないか。家族でもいれば家族からの申し出で辞任するのだが、家族がいなかったり、その家族も認知症になっているようなときにはそうもいかない。何の連絡もないまま会議を欠席するような事態が続くようなら要注意だ。そして認知症が明らかになったとしても、今度は誰がどうやって猫の首に鈴をつけるかという問題がある。米国の大統領選が近づいているが、バイデン80歳、トランプ77歳という年齢には不安しか感じない。80歳なら当選したとしても任期が終わる頃には84歳になっている。あれだけ世界中から人材の集まってくるような国で、若い候補がいないのも不思議である。
2024年03月12日
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源氏物語の光源氏を主人公にした部分を読んでみて何人かの女君について思うところを書いてみる。葵上容姿について「うるわし」という形容がついているのは葵上だけだったように思う。端麗で、美人といえば美人なのだが、ちょっと近寄りがたい雰囲気なのだろう。4歳年上と言うことで、結婚当初は葵上は16歳、光源氏は12歳である。いくら光源氏が高貴な美少年でも、「似げなうはずかし」と思うのは当然だった。その最初のすれ違いはずっと続き、光源氏と心が通うことはなく、贈答の和歌もない。光源氏にしてみれば、いつでも手の届く正妻には恋の情趣を感じなかったのだろうし、葵上の方にも入内を前提に育てられた姫というプライドがあり、なかなか素直になれなかったのだろう。源氏物語には女君の死が何度も描かれているが、葵上の死は産褥死で一番わかりやすい。しかし、生霊の場面が一番迫力をもって描かれているのも葵上の死の場面である。意外というか、源氏の女君の人気では葵上は上位にくる。それは心のすれ違いと意地をはっての悲劇と言うのが今の時代にも通じ、わかりやすいところがあるからだろう。六条御息所容姿についての説明はないが、高貴で上品な雰囲気を持つ貴婦人である。直接の出番は少なく、なれそめを描いた失われた巻があるのではないかといわれる所以なのかもしれない。ものを思い詰める性格で、これが生霊になったという話になるのであるが、30代くらいで亡くなり、それ以降も霊となってたたることになる。光源氏は六条御息所の娘を冷泉帝の女御とし、やがて中宮にする。六条御息所の霊を慰めるということもあったのかもしれないが、冷泉帝には出生の秘密がある。明石の姫と冷泉帝は実は異母兄妹であるが、冷泉帝の世が長く続き、光源氏の権勢が増せば、唯一の娘の明石の姫を入内させないのは世の人は不思議に思う。それをさけるために御息所の娘を養女格にして入内させたように思う。夕顔六条御息所に通っている頃に小路の家で出会った女性で、高貴で上品で気づまりな御息所に辟易としかかっていた光源氏の心をとらえた女性である。容姿については、どこがどうということもないのだが、小柄で少女のように可愛らしい女性で、きどったところもなく、垣の夕顔の花を所望した光源氏にも花に添えて歌を送る。利口ぶってはいないが、本能的なコケットリーというか男性をひきつける才気はある。今も昔もこうした女性は非常にモテる。空蝉容姿については「わろきによれる」とあり、はれぼったい目やととのっていない鼻筋などごく一般的な不器量であろう。ただ、であったのは故宮の導きで自分以外の誰がこの女の面倒をみるだろうかという末摘花と違い、空蝉には光源氏はそれなりに心惹かれている。賢さと慎み深い所作の故である。夫の死後、出家し、光源氏の二条院の屋敷で庇護をうけて暮らす。朧月夜光源氏が美しい女性といえばこの人だと思うくらいの美人なのだが、容姿についての具体的な記述はない。花宴の夜に光源氏と逢い、その後も逢瀬を重ね、須磨行の原因になる。一方で内侍として宮中に行ってからは朱雀帝の寵愛も受け、自由な恋に生きる女性である。一方で書などもみごとでかなりの才女でもあろう。朱雀院の出家後にも光源氏と逢い、そのことを紫の上の死後、光源氏は後悔する。最後は出家する。花散里光源氏がたまさかに通っていた女性で、出会いについての記述はない。世の趨勢が右大臣方に移り、多くの人が背を向けていく中で、須磨行を前にして光源氏が訪れた女性である。逆境の時に会いたくなる暖かい女性というのは貴重である。光源氏が須磨から戻ってきたら二条院の屋敷に移り、六条院では四季の屋敷のうち夏の屋敷に住み、光源氏の女君の中では紫の上に次ぐくらいの待遇を受ける。その後も夕霧の養母格として、本人は控えめなのだが、源氏四十の賀で役割を果たしたりする。出番は多くないのだが、染色など家事の才能があり、楽器を弾く場面はないが、香合わせでは夏の香を提出したりもする。容姿は整っていないといわれ、貧相で見栄えがせず紫の上や玉鬘を見た後は気の毒だと夕霧が思うほどである。性格は温厚で、実はかなり賢く、光源氏や夕霧のよき相談相手になる場面もある。源氏物語の女君の中でも人気上位である。
2024年02月21日
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様々な県や市町村でその県民や市民の歌というものがあるのだが、正直、こうした曲にはあまりいい歌がないと思っていた。ところが…である。ラジオでたまたま聞いた川崎市民の歌「川崎愛の街」が神曲であるのにびっくりした。歌詞の中で川崎らしい…といえば、多摩川の明ける空…なのだが、川崎は多摩川に沿った細長い市なので、それだけで充分だろう。川崎市民の歌 歌詞付き (youtube.com)ただ川崎のイメージとしては、人々は沿線ごとに行動するので、なんかあまり一体感のない地域という感がある。以前、非行少年グループによる少年殺害事件が起きた南部と、平均寿命日本一という北部の麻生区とでは、同じ市といっても全然違うのではないか。以前麻生区の平均寿命が長い原因として市民体操や坂の多さを大真面目で解説している報道番組があったが、あのあたりは高所得者が多く、それも、土地成金というよりも、自力で大企業の管理職や専門職になった人が多い。健康への関心や知識が高く、医療機関にも容易にアクセスできるというだけのことのように思う。これを長寿ではなく逆のランキングでみると、同じ川崎市の川崎区の男性が下から数えて11位というので、同じ市でこれだけの格差のあるところも珍しい。万葉の時代にはこのあたりは橘郡として武蔵の国に入っていた地域であり、弟橘姫もこのあたりと何か関係あるのかもしれない。昔はそれなりに共通のものがあったのかもしれないが、今は多摩川が東に流れているという以外の共通点はない。余計なことをいろいろと書いたが、川崎市民の歌が名曲であることは間違いない。
2024年02月20日
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境界知能という言葉を最近よくきく。正規分布曲線の下位の方で14%ほどいるという。これまたここ10年ほどでよくきくようなった発達障害についても最近の調査では小中学生の8.8%ほどが発達障害の可能性があるという。発達障害は知能とは無関係ということなので、境界知能でかつ発達障害という人もいるにしても、全体の20%以上が境界知能か発達障害のどちらかにあたるということになる。どちらも治癒するものではなく、生きづらさを生涯かかえることになるのだという。これにさらに知的障害などの障害を入れると、いったいどのくらいの率になるのだろうか。子供の数は減っているのにいじめや不登校も相変わらず数多い。今の時代というのは、どうも、子供が普通に生まれてきて、普通に育ってあたりまえという時代ではないのかもしれない。こんな時代だから、子供を持つのが不安だという人も増えているのかもしれない。
2024年02月11日
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源氏物語を読んでいると、全体のプロローグのような桐壷の巻はちょっと異質な感じがするのだが、帚木から朝顔までがひとまとまりで、次の乙女から藤裏葉までがまたひとまとまりのようにもみえる。前者は光源氏がいろいろな女性と出会い、その女性達のそれぞれの人生を描いているのだが、後者は光源氏の息子夕霧の恋愛模様と明石の姫が入内するまでの物語に養女玉鬘と彼女の求婚者をめぐる物語が併行してすすむ。この中には、落ち着きどころを得た女君たちの性格や個性がかいまみられる挿話もでてくるのも興味深い。その前者の最後の巻が「朝顔」であり、朝顔の君は最後まで光源氏を拒絶した女性として知られている。雨夜の品定めの頃から、すでに朝顔の君に文を出していた話があったのだが、「朝顔」の巻にきて、光源氏が俄然熱心になったのは朝顔の父の式部卿宮が亡くなり、彼女自身も齋院をおりたという背景がある。このあたりの心理は「例のおぼしそめつる事たえぬ御癖」と書かれており、文をだしたものの拒否され、そして拒否されればされるほど執着が募るといった光源氏の性格も原因にはあるのだろう。朝顔の君の性格や容姿についての記述はないのだが、もともと故桐壷帝が光源氏の妻にと考えていたとあり、才覚容色ともに優れた女性だったと思われる。ただ、「朝顔」の巻の時期には相当の年齢になっていた。式部卿の宮が亡くなり、ひっそりとした屋敷には朝顔の君だけでなく、光源氏から見れば叔母にあたる女五宮も住んでいる。朝顔の君は、例によって光源氏とは文のやり取りしかしないのだが、女五宮はおしゃべりで面と向かって源氏を誉めちぎり、朝顔の君にもしきりに靡くようにすすめる。いつの時代にもこんな女性はいそうであり面白い。光源氏の朝顔の君に送った歌は以下のとおり。見し折の露わすられぬ朝顔に花のさかりは過ぎやしつらん朝顔の君の返し秋はてて露のまがきにむすぼほれあるかなきかに移る朝顔朝顔と光源氏との間はこうした歌の贈答でおわる。光源氏からは朝顔の姿は几帳ごしで見えないのだが、朝顔からは光源氏の世にも美しい姿は見えたことだろう。それでも光源氏と会うことを拒否したのは、いまさらの恋ではなく、平穏な生活を望んだわけで、気持ちはよくわかる。花のさかりを過ぎた時期であれば、寵愛がつづかない可能性が高く、それでなくとも紫の上をしのぐ寵愛は望むべくもない。それはそれで苦しみとなるのは目に見えているのだから。彼女もまた、非常にプライドの高い女性だった。
2024年02月07日
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東京では昨日大雪警報が出た。ただ、同じ東京といっても、地域によって気候はかなり違う。東京でも西の方の多摩丘陵とよばれるあたりは、もともとハイキングコースになるようなところを住宅地にしたわけであり、気候はいわゆる山の気候である。平地は雨でも山では雪…そうした地域ではすぐに雪が降るし、その雪は積もる。東京の区部の場合には昨日はたしかに相当雪が降っていたようだが、道には積もっておらず、普段の雨上がりと同様に多少濡れているというだけですんだ。それにしても、雪予報がでると、嫌だと思うようになったのはいつからだろうか。実際、雪で転んで手を不自然についたため、しばらく手首が動かなくなったことがあったし、転倒、骨折となるともっと怖い。子供の頃は純粋に雪遊びができるので雪は楽しみだったし、その以降も、見慣れた光景が幻想世界になる雪は好きだったのだが…。それにしても、枕草子に冬は雪の早朝が一番良いとあるのは有名だが、源氏物語にも雪の情趣が綴られた箇所がいくつもある。いくら貴族とはいえ、エアコンもない時代で、しかも家屋は日本式の吹き抜けである。それでも、雪を情趣あるものとみる余裕があったとは…平安人は雅なだけでなく、心身ともにタフであったのだろう。令和の自分は昨日など情趣どころか寒い寒い寒い寒いとしか思わなかった。窓をあけて、家々に雪のつもりぬるをいとあはれとおぼゆとはならない。
2024年02月06日
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韓国では日本以上に少子化がすすんでいるという。韓国に限らず東アジアでは少子化のスピードが速いようだ。本来、この地域は儒教の影響が強い地域で、儒教は血統がとだえることや男子が続かないことを嫌う。こうした価値観は少子化を抑制する方向に働きそうなものだが、逆に儒教文化圏とよばれる地域で少子化がすすんでいるのはなぜなのだろうか。その背景を考えてみる。まず儒教では親子など縦の血脈を重視する。これは言い方を変えれば、親の子に対する責任が非常に重視されるということでもある。成人した子供が犯罪を犯した場合、親が公職を辞するなどは欧米では考えられないが、韓国では普通にあるのではないか。韓国ドラマの財閥家庭崩壊ものではこうした場面がよく出てくる。また、犯罪や非行でなくとも、子供が自立できない場合には親はいつまでも扶養しなければならない。そうなれば、子育てのリスクははてしなく大きい。次に儒教では学問による人格修養を重視する。その結果、努力信仰が強く、受験競争は激しい。子供の教育にかかる費用は高騰し、これも子供を持つことを躊躇する要因になる。韓国では子供に語学力を身に着けさせるために父親だけ残り、母子だけが英語圏に滞在するという生活様式もあるというが、いったい金はどのくらいかかるのだろうか。三つ目は男尊女卑である。男尊女卑は男に都合がよいわけではなく、こと結婚については、男が上でなければならないという価値観に結び付きやすい。本能として女性は自分より高スペックの相手を求めるのは万国共通なのかもしれないが、それでも、その程度というものがある。自分よりはるか下というのは嫌であるにしても、同等かそれに近ければまあ対象範囲とみるかどうか、このあたりは文化によって違う。男尊女卑の価値観のあるところでは、女性の男性に対する要求も高くなり、その結果、結婚するにも適当な相手にであわないという女性が多くなる。そして学歴競争の強い社会では、女性もまた競争に勝つ機会が提供されているので、女性にとってはますます適当な相手に出あうことが難しくなってくる。そして最後は未婚の母に対する忌避感である。韓国をはじめ東アジアでは婚外子の出生が少ない。また、母親が養育できない婚外子を養子とする文化もない。韓国では海外養子が多いというが、その多くは未婚の母の子供だという話もある。以上、韓国というか、いわゆる儒教文化圏といわれるところでの少子化の進行について、思いつくままに背景を考えてみたが、はたしてどの程度あたっているのだろうか。
2024年02月02日
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今年の歌会始に被災地から選ばれた歌は今年の大河ドラマでも注目されている源氏物語に関するものであった。花散里が源氏物語の女君の中で一番好きだと言っていた友人が和服の似合う母になっているという歌だ。花散里は源氏物語の中では決して出番は多くないし、源氏との出会いの場面も描かれていない。ちなみに源氏物語の女君について、すべて光源氏との出会いが描かれているわけではない。しかし、花散里については、出番が多くないからと言って決して源氏との縁が薄いわけではない。光源氏は栄華を極めた時、六条院に四季の寝殿を造営し、四季それぞれに女君をすまわした。秋の御殿については養女格の秋好中宮だったので、四季の寝殿に住むことができたのは、数多いる女君の中で三人だけなのだが、春の御殿には一の女ともいわれる実質的ヒロインの紫上が住み、冬の御殿には中流貴族の出身ながら源氏の姫君を生み、その子が中宮になるというサクセスストーリーのヒロインの明石上が住む。花散里は夏の御殿に住み、源氏の息子の夕霧の養育もまかされる。最重要の女人の扱いである。それでは花散里の君というのはどういう女性だったのだろうか。源氏物語の女君は百花繚乱の美人ばかりという印象があるが意外にそうでもない。花散里はまったく見栄えのしない貧相な女性として描かれていて、髪も薄く、かもじでも使えばよいのにと評される。このあたり息子夕霧の養育をまかせたのは、かつて義母と不倫をした光源氏にとって、けっして息子にそうした気をおこさせない女性として選んだのだろう。実際、夕霧は台風の後の見舞いで、紫の上を姿をかいまみて、その超絶な美しさに心を奪われる。ただ、だからといって不美人で安心感を与えるだけの女性というわけでもない。源氏が須磨に下る直前に花散里を訪れ、それが物語での初登場になっている。順境の時、自慢したい時に会いたい女性はいても、逆境の時に会いたくなる女性というのは光源氏でもそれほどいない。それにまた、的確な人物評や家政の名手でもあり、染物などをよくし、夕霧の友人達の供応も立派に行う。楽器を弾くなどはしていないが、相当に賢い女性だろう。たしかに妻にするのなら花散里よりも紫の上や明石の上がよいのかもしれない。けれども、人生、一生トロフィーワイフをそばにおきたいような順風万般の人生を歩む人は多くない。妻として長い時間をともにすごすなら、安心感を与える賢い性格美人が正解ではないか。また、友人として身近にいるとしたら、圧倒的に花散里だろう。紫の上のような他を圧倒する華やかな美貌、煌めく才気、難のつけようもない気配りある性格は、非の打ちどころもないだけに、無意識の嫉妬や羨望を誘い、周囲の人にとっては、心穏やかでない部分があるように思う。返歌も上手い返歌をすぐにかえすのは紫の上だろうが、花散里の方はじんわりと心にしみる歌を返してくれるような気もする。最後に自分がもしもなるなら…というと難しい。最初から源氏の最愛の君であることは諦め、子供もいなかった花散里よりも、長生きして多くの子をなし栄華の生活をした「勝ち組女性」といわれる女性達がいる。玉鬘や雲居雁などである。そうした目でみると、源氏物語最高の勝ち組は脇役だが惟光の娘の五節の君かもしれない。五節の舞姫に選ばれるほどの美人で内侍になるほどの才女で、夕霧の妻として何人もの子を生む。その子供達も正妻の雲居雁の子供達よりも皆姿が良く出来も良いということがさらりと書いてある。中流貴族の娘(最初の源氏の読者層?)としては圧倒的な幸い人だったように思う。
2024年01月21日
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日本の司法は2割司法とよばれ、司法による救済の必要なものの2割しか恩恵にあずかっていないという。こうしたことをいうのは主に法曹関係者で、弁護士の需要が増えなければ、弁護士の仕事が増えない。せっかく法曹の数を拡大しても、仕事にありつけない弁護士が多いという嘆きにもつながる。たしかにラジオを聞いていると過払い金訴訟のCMがやたら流れているし、こうした分野は弁護士と司法書士の業務の奪い合いだという話も聞く。弁護士の需要はなぜ伸びないのだろうか。これをもう一つの専門職である医師と対比してみる。医療については多くの人が医師にアクセスし、専門的な治療を受けている。なおかつ医師の社会的地位は高く、十分な報酬を維持している。なぜこんなことができるかというと、それは保険制度があるおかげである。今では信じがたいことなのだが、昭和30年代くらいまでは高齢者の受診率は極めて低かった。子供や働き手は医師に診せても、高齢者は、「もう年なのだから」といってほっておくのが普通だったからである。自覚症状のない検査値異常やよりよいQOLを求めて高齢者まで医療にかかるようになったのはさほど古い話ではない。これに対して、弁護士については、保険のような制度はないので、最初の相談で何万円、実際に相続や離婚、近隣紛争の交渉や訴訟となれば十万単位の費用が飛ぶ。ところが普通の人の場合は紛争で問題となる金額はせいぜい100万、1000万単位であり、それも、実際にとれるかどうかとなると不明だ。これでは弁護士に頼もうというインセンティブはとてもわかないし、かといって弁護士についても公的な保険制度の構築など無理な話だろう。権利侵害については、警察や労働基準監督署などがきちんと機能すればよい話で、誰もが弁護士にアクセスする訴訟社会にするというのは方向が違う。法曹改革なるものは失敗だったと思うが、弁護士需要に対するよみ違いもその背景ではないか。さらにいえば、医師と法曹の比較として、医療は社会全体の幸福を増加させるが、法律は必ずしもそうではない。何年か前に塾帰りの子供が自転車で追いかけっこをして、元高裁裁判長に怪我をさせたという事件があった。元裁判長は子供の親に損害賠償請求をし、裁判の結果、親は何千万もの賠償をすることとなった。名医の奇跡とはなんという違いだろうか…。
2024年01月16日
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3.11が起きた後、某週刊誌のグラビアに被災地の写真として時計宝石店の店舗写真が掲載されていたことがあった。こんな写真を掲載するなんて…と当時は思ったのだが、少し考えてみれば被災地に金目のものがあるかもしれないということは思いつくだろう。災害が起きた時は、津波の不安もあり、貴重品持ち出しや戸締りは二の次という人も多かっただろう。キャッシュレスになれていない高齢者なら家にタンス預金のある人も多い。そして怖れていたとおり被災地には窃盗が相次いでいるという。昔から火事場泥棒といって、不幸や混乱につけこむ形での窃盗はあったのだが、災害で被害を負っているのに窃盗という犯罪被害まで加わってはたまったものではない。そして今回は3.11のときとは別の状況もある。それは数多くのユーチューバーの存在である。ユーチューブの中には様々な知識をわかりやすく説明したものが多く、隙間時間を有効に使えるものとしてよく見てもいる。こうしたものはアクセス数で収入を得ているようで、そうだとしたらアクセス数稼ぎで被災地に行くユーチューバーも多いだろう。ただでさえ私人逮捕系だかなんだか知らないが物議を醸すユーチューバーもいる。今のところユーチューバーの問題行為というのはでていないようだが、アクセス数かせぎで支援の邪魔になるような行為をする人がでないことを願う。窃盗にしろなんにしろ被災地への道を封鎖すればこうした問題の可能性は少なくなるかもしれないが、親族の状況を気にして被災地に入る人もいるわけで封鎖まではできないだろう。外国ならこうした災害地域は軍によって戒厳令をひくので、窃盗は抑制できるのかもしれないが。
2024年01月15日
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アマゾンのプライムビデオに最近、鉄腕アトムの1963年版が入って来た。アトムといえば、毎週火曜日の6時15分、後には土曜日の7時から楽しみにして見ていたものが、まさか、今になって再会できるとは思っていなかった。アトムの舞台は21世紀で人間とロボットが共存する世界…宇宙人、タイムマシーンなど毎回でてくるSF世界の奇抜な物語にとにかく夢中だったし、なんか科学と言うのはとにかくかっこいいものだと思った。そしてまた、アトムのいる時代と考えただけで21世紀は果てしなく遠く、そして輝いていたように思う。こうした鉄腕アトムのアイディアは海外にも影響を与えたようで、人間が極小になって細菌と戦う細菌部隊の話はミクロの決死圏という映画に似ているし、電送装置で自分を輸送しようとした科学者が別のものと合体する透明巨人の話は蠅と科学者が合体するフライという映画に似ている。アトムの話で何が好きかと言うと、人によって違うのだろうけど、私は比較的最初の頃の「植物人間」の話が好きだった。植物人間というのは今では別の意味で使われているが、アトムの植物人間は植物が人間のように知性を持つ生物に進化したものをいう。あらためて見てみると、植物人間がとにかく可愛らしくて、たった一人残された種族として、植物の姿でひっそりと地球で生きていくというラストに強い印象を受けたのだろう。そして植物もはるか遠い未来には知性を持つ生き物に進化することもあるのだろうか…と小学生の頃の私は空想したものだった。これからも時々、昔印象に残った物語を見ることができると思うと楽しみである。
2024年01月05日
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元日の地震、そして昨日の飛行機事故と今年はいったいどんな年になるか…なんて悲観的なことを書くつもりはない。とにかく今年が平穏で幸多き年でありますよう…祈ることはそれだけだろう。さて、本年の大河ドラマは「光る君へ」だという。紫式部を主人公にしたもので、源氏物語への関心が高まる一年になるのかもしれない。ところで、源氏物語は一種のオーパーツだという。オーパーツとは、古代遺跡から科学製品が発見されたような、その時代にはありえないものをいう。多少の誇張はあるにしても、言われてみればそうかもしれない。世界をみればローランの歌が11世紀、千夜一夜物語やニーベルンゲンの歌が12世紀。今日まで遺っているのはそれだけの価値があるからなのだが、ニーベルンゲンの歌は岩波文庫で読んだことがあり、荒唐無稽な内容(意外とジークフリートは活躍していない)で近代文学とは全く異質である。この時代の文学というのは英雄や美姫は描いても、人間を描くということにはあまり関心がない。これに比べると、源氏物語の人間観察はすごい。わずか数行しかでてこない人物でもなんとなく生きた人間として想像できるし、重要な登場人物となるとそれぞれに個性があり、源氏物語の中で好きな女君、なりたい女君というのは読書子の格好の話題でありつづけている。そしてまたこの時代にかかれた物語にしては荒唐無稽という要素が少ない。まあ、これはいろいろな解釈があるのだが、霊となって活躍?する六条御息所にしても科学的解釈が可能になっている。夕顔にとりつくもののけ(六条御息所の霊かどうかは不明。たぶん違うような…)は光源氏しかみていないし、有名な葵上にとりつく場面も自責の念と産褥熱によるものと解釈することができる。産褥による死亡は平安時代の女性には身分の上下をとわず珍しくない。さらに、宇治十帖になるとほとんど近代に書かれたものといってもよい内容だ。源氏物語本編と宇治十帖については作者の同一性が議論になっているが、未完の感があるものの、傑作と言う意味では宇治十帖もまったく本編とそん色ない。更級日記に宇治十帖にふれた部分がすでにあり、宇治十帖についても紫式部本人か同一視されるほど近い人物(娘?)が書いたものなのではないか。関係のない誰かが写本の後ろに書き加えていったものとは思えない。本編を書いた後、さらに書きたいものを描きたいように書いたのが宇治十帖だろう。性格の異なる二人の男性とヒロインとの三角関係、ヒロインの失踪と記憶喪失など、現代の小説としても十分に通用する内容で、しかも筆致は上品さと情趣を失わない。
2024年01月03日
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子供の頃、年末年始はたいてい母の実家にでかけていった。外は根雪の銀世界だったが、家の中は炬燵と火鉢で十分にあたたかく、大みそかの夜は、他の家と同様、皆で紅白歌合戦を見るのが定番だった。そしてその年に流行った歌をききまがら一年をふりかえったわけである。その頃、春には春らしい曲、梅雨には雨に関した曲、夏には海の曲と言ったように、流行歌は季節を反映しており、大ヒット曲となると、商店街からもテレビからも流れてきて、いやでも耳につく。だからこの年には何の曲が流行り、次の年には何の曲が流行り…というように流行歌は想い出とともにあったが、いつの間にかそうしたことはなくなったようだ。今年流行った曲と言ってもすぐには思い浮かばない。そして紅白が終わると「ゆく年くる年」という番組が始まる。この番組ばかりはここ何十年もほとんど変わりはない。ご~んご~ん、東大寺の鐘の音ですというように、あちこちの名刹の年越し風景を放映するのだが、これこそは不易流行のまさに不易というものだろう。この番組が始まり、少しすると、近所の神社に初詣にでかけた。真夜中なのにこの日ばかりはけっこうな人出で露天もでていたように記憶する。帰ってくると、ゆっくりと寝に入り、起きたら新年のあいさつをしたあと、「スターかくし芸大会」という番組を見るのも定番だった。内容は、中国語劇や英語劇、そして女性タレントのラインダンスやスパニッシュダンス、ある男性タレントの南京玉すだれなどであり、これも偉大なるマンネリという感じなのだが、この番組、何年に終了したのかは記憶にない。箱根駅伝はまだ今ほどには人気がなく、テレビでもやっていなかったように思う。おもちを食べながら従兄弟も入ってトランプをしたり、双六をしたりして、お正月は過ぎていった。冬休みの宿題は家に戻ってからまとめてやったし、お受験も無縁だったので、非常にのんびりしていた記憶しかない。※※こちらにお越しくださった方、そしてコメントをいただいた方、どうもありがとうございます。どうかよいお年をお迎えください。
2023年12月31日
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数年前にある整形外科手術をしてから定期的に術後検診に通っている。担当をした医師はその分野では名声のある方であり、病院で診察室の前で待っている人は、皆その先生の患者である。共通点は年代(あまり若い人はいない)くらいで、それ以外の属性はおそらく様々だろう。普通の国では、この先生の患者は金持ちだけ、この先生の患者は貧乏人が中心というように、所得階層によって受ける医療の質が決まっているのだが、日本ではそうした差異はない。これを病院毎にみても、金持ち専用の病院、貧乏人専用の病院というのは思いつかない。なんかこれってすごいことではないか。もちろん中にはこうした手術のための医療費をねん出できないという人々もいるということを念頭においてもなのだが…。金持ちも貧乏人もない…といえば和歌の世界もそうである。万葉集に庶民の歌が収録されていることは有名なのだが、古今集にも民謡と思われる歌や遊女の歌がある。こうした和歌の前の平等は今日でも生きていて歌会始に選ばれるのに一定以上の収入とか知識人でなければだめだとかいった制限はない。そしてまた歌の内容についても同様である。百人一首にある誰でも知っている歌に「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ…」の歌があるが、これが天皇の歌だというと外国の人は冗談だと思うだろう。田圃の小屋にいると天井から雨が漏れて袖が濡れてしまったよという意味で、およそ王様らしくない。実際にこの歌を天智天皇が作ったというのは疑わしいにしても、こうした歌が天皇の歌として伝えられてきたということは事実である。田圃の小屋の歌も、雪の中で若菜を摘む歌もあたりまえのように天皇の歌として記憶し、かるたで遊ぶ。でもそんな「あたりまえ」も外国から見ると、すごく変なことなのかもしれない。
2023年12月29日
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和歌(短歌)を観賞する際、作者の視点の移動を感じさせる(と思う)歌をあげてみる。最初はこれである。東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ満月は太陽と反対方向にあるので、日没とともに昇り、そして夜明けには沈む。だから、そんな当たり前を歌っただけの以下の歌であるが、この歌に宇宙を感じるのはなぜなのだろうか。それは視点が東の地平からぐるりと空を横切って西に向かっているからであろう。歌を読む、あるいは聞く人は作者と一緒に視線は大空をめぐる。だから、もしこれが「東の方日は昇らんとし西の方月こそまさに沈まんとす」なら当たり前すぎて歌にもなっていない。「…見えてかへり見すれば…」という視点の移動があるから歴史的名歌になったのだろう。茜さす…の歌と同じくらい万葉集で好きな歌である。広い宇宙、太陽と月、消えるものと生まれるもの、とにかくスケールが大きい。もう一つ近代の名歌にこんなのがある。ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の塔の上なる 一ひらの雲(佐々木信綱)これも大和の国で視野が一地域になり、さらに薬師寺で一地点に収れんする。そして視線は塔へと昇り、最後は空高くの雲に向かう。視点を移動しながら、晩秋の名刹の情景とともに、大和の国や薬師寺をめぐる悠久の歴史も連想させる。そしてさらに壮大な視点の歌もある。岬みな海照らさむと点(とも)るとき弓なして明るこの国ならむ(上皇后陛下)夕方になると灯台に灯がともる。誰もが見る光景なのだが、島国の日本には岬ごとに灯台があり、宇宙から見れば弓なりの日本列島の形にそって光っていることだろう。この歌は宇宙から見た壮大な情景だけでなく、それぞれの灯台で灯をともす人々、その灯りをたよりに海で働く人々へのまなざしまでも感じられる名歌だと思う。57577のたった31文字で様々な視点を想像させる言葉の力はやはりすごいとしかいいようがない。
2023年12月26日
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以前に平家物語を読んだ時から平徳子という人物には興味があった。人生の悲劇にはいろいろあるのだが、平徳子の場合は平凡な女性が平凡ならざる地位についてしまった悲劇なのかもしれない。同時代の北条政子は夫の愛人に対する嫉妬もあいまって三大悪女に数えられているのだが、徳子の場合はまるで逆である。夫である高倉天皇が目をかけている女房の童が運ぶべき衣をとられたといって泣いていると、求めに応じて自分の衣装をさしだす。寵愛している葵女御が死んでしまったといって夫がふさぎ込んでいると、慰めるために小督局を紹介する。葵女御も小督も結局は清盛の勢力を怖れて逃げていくわけであるが、それについて徳子がどう思っていたかという記述はない。心底おっとりしているのか、夫の寵愛を諦めているのか、どちらかであろうが、その両方であったのかもしれない。中宮という女性の最高の地位にいても、彼女にはむなしいものだったのだろう。そしてまた、生命力もあまり感じられない。お産のときに物の怪がとりついて、それが鬼界が島の流人を呼び戻すきっかけになったというので、あまり丈夫な方ではなさそうだ。それはまあ体質にしても、部屋に蛇が入って来た挿話では、重盛が徳子が驚くと困るとおもって蛇を捕まえて誰にも見られずに措置した。巴御前はもちろん、静御前あたりでも蛇くらいにはおどろきそうにない。やがて夫であった高倉上皇が死に、清盛もなくなる。このときも、徳子が天皇の母という立場で何か動いたという形跡はない。ただ一族に従って、安徳天皇を連れて落ち延びていっただけである。最後は入水するが結局は死にきれなかったのも、最後まで船の上で躊躇していたからだろう。その後は大原に隠棲して、一族の菩提をとぶらうのだが、後白河法皇が訪れてきたときには宮中の栄華の日々を懐かしむ。どこまでも平凡な女性で、悟りすました凛とした対応はまったくしそうもない。平家物語以外に建礼門院右京太夫集にも、平徳子の記述がある。右京太夫の和歌では月に喩えられており、隠棲後も彼女との交友があったことがうかがえる。そこそこに美しく知的な女性だったのかもしれないが、静御前、巴御前、千手前、そして実在のたしかな北条政子などに比べると、その受動的な生き方が気の毒なように思う。
2023年12月17日
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「翔んで埼玉~琵琶湖より愛をこめて」の中で琵琶湖周航の歌が紹介されていた。琵琶湖周航の歌(加藤登紀子) - YouTubeわれはうみのこさすらいの旅にしあればしみじみと…で始まる歌詞で人口に膾炙している。さらっときくと、われはうみの子のうみは琵琶湖を指すようなのだが、よく考えるとおかしい。うみの子の次はさすらいの旅とあるのだが、琵琶湖が故郷の海だとしたら、旅人ではなくなる。この作詞者の小口太郎という人は、もともと諏訪の出身で、琵琶湖をみながら故郷の諏訪をしのんで、自分も湖の傍でそだった「うみのこ」であるという意味で、われはうみのこと歌ったのだろう。第三高校から東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同大学航空研究所に入所し、大学在学中に電信電話に関する発明をしていたという秀才なのだが、若くして亡くなっている。諏訪湖畔の公園には像がたっているという。この琵琶湖周航の歌には竹生島に悲恋伝説かなにかがあるような詞がでてくるが、検索してもそれらしいものは出てこない。しいてあげれば信長公の手打ち事件くらいだろうか。信長が竹生島に行ったときに、どうせ泊まりだろうと油断して近くに寺に参詣に行ったりした女房衆を、日帰りで戻って来た信長が皆殺しにして仲裁に入った坊主も一緒に殺したという話である。手打ちとあるので、殺害かどうかはわからないし、舞台も竹生島ではなく、悲恋とも関係なさそうである。
2023年12月15日
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日本史には三大悪女と言うのがいるらしい。北条政子、日野富子、淀君だという。そういえば、子供の頃は北条政子や北条氏については悪女や悪役のイメージがあったように思う。それが変わったのは、彼女を主人公にした歴史小説がでてからではないか。「北条政子は悪いとよく言われるけど、小説を読むと偉い人だったみたいね」と教師が言っていたのを覚えている。やがて小説を原作にして大河ドラマもでき、今では悪役イメージはなくなったのではないか。日野富子は、北条政子や淀君ほどの印象はないが応仁の乱の原因となったことをもって悪女というのだろう。けれども、自分の子を将軍にしようとしたことや、蓄財に励んだことは、普通の人もやろうとすることであり、とりたてて悪女というほどのものではない。まあ、北条政子が夫の愛妾の家を壊したとか、日野富子が側室を追い出したという話もある。やりすぎといえばやりすぎのようだが、歴史上の悪女というには、いまいちインパクトに欠ける。淀君については権勢を振るい大坂の陣の原因となったのが悪女たる所以なのかもしれないが、豊臣をつぶしたかったのは将軍の方で、彼女はむしろ戦国という時代の被害者ではないか。不倫疑惑についても、それだけで歴史上の悪女というのは大袈裟だろう。架空の物語とはいえ、源氏物語にも不倫のヒロインがいるのだから。一言でいえば、市井の犯罪者は別にすれば、日本史上の女性では悪女と言うほどの悪女はいないようにみえる。
2023年12月06日
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最近、葬送のフリーレンというアニメを見ている。ゲームなどでおなじみの勇者や魔法使いのパーティーが魔物を倒すという冒険譚の原型のような話をモチーフにしているのだが、面白いのは世界を救った冒険のその後を描いてることである。こうした意表をつく設定なのであるが、世界を救った冒険から何十年もたち、勇者も僧侶も高齢になって死に、のこっているのは長命のドワーフ族の戦士と千年以上の時を生きるエルフのフリーレンのみである。フリーレンは勇者が死んだ時になぜ悲しかったのかが分からず、人間というものを知るために旅に出る。人間を知るための旅…というと、同じような世界を下敷きにしながら人間の素晴らしさを描いたダイの大冒険にも似ているが、ここで人間の素晴らしさだけを描くとも思えず、もっと苦みのある話もありそうである。はたして、さめた瞳のフリーレンが見極める人間の本性とは、どんなものなのだろうか。オープニングも斬新であり、作画も非常に丁寧で、ヨーロッパ中世の雰囲気をよくだしている。アニメを見たことのない人にもおすすめである。
2023年11月29日
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最近、弱者男性という言葉をよく聞く。良くも悪くも能力主義社会においては、男性は強者、女性は弱者などという図式がなりたつわけもなく、男性にも女性にも強者もいれば弱者もいる。女性の若年定年制、正社員や正規公務員の男性に有利な採用、高偏差値の学校への進学の男子優遇…そうしたものはそんな遠くない昔にはあったが、今はない。それどころか、随所で逆差別のような女性登用さえも行われている。ある意味、今という時代は有史以来初めて女性が男性と大差ない経済力をもてる時代になったのではないのだろうか。近代以前の農耕社会や牧畜・遊牧社会では女性が一人で生きることは難しかった。弱者男性には女性に比べて不利な面がある。アメリカの捨て犬シェルターでは小さく白い犬はすぐに引き取られるのに大きな黒い犬はしておかれるという。同様に子供にはすぐに同情が集まるのに、中高年の男性の不幸は世間の目をひきにくい。速い話、子供の貧困(といっても実態は親の貧困なのだが)は社会問題として声高に語られても、中高年の貧困は自己責任とされる。そうした中で、ようやく弱者男性の存在にも社会が目をむけるようになったということなのだろう。中高年の貧困を考えた場合、男性の方が不利な点が多い。まず、比較的、ハードルの低い職業は女子の方が入りやすい。例をあげれば、介護や外食などである。次に、男性の場合、就業が難しい上に、家にひきこもっている場合の社会の眼も厳しいために、家族との軋轢を生みやすい。社会面をにぎわず親族間殺傷事件の多くは無職の息子が関係している。さらに、同じ低収入であっても、女性の場合にはやりくり、自炊でつましいなかにも楽しみをみつけて生きていける場合が多いが、男性はより自堕落になりやすいように思う。ギャンブル、パチンコなどは顧客の多くは男性であり、風俗も同様である。弱者男性という言葉はネットでは見かけても、マスコミにはまだあまりでていない。しかし、これからは弱者男性の問題にもよりスポットがあたっていくのではないのだろうか。とにかく男性≒強者、女性≒弱者という思い込みは卒業すべき時期ではないか。
2023年11月27日
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どういうわけか24日のアクセス数が普段の10倍近くと急騰した。城南五山の散策という地味なテーマだし、とくにコメントが多くなっているわけでもない。翌日からアクセス数はもとにもどっているし、おそらくはなにかも不具合なのだろう。城南五山もそうなのだが、最近では、テレビ番組の影響もあって。街を歩く際にも地形を考えることが多い。東京の中でも育ったところはずっと田舎の多摩の方だったので、あまり意識したことはないのだが、東京では高台は高級受託地、下町は庶民の街という歴史があるようだ。これは江戸がもともと低湿地を開拓してできた街であり、こうした低湿地には町人が住み、高台には武士が住んだという歴史とも関係しているのだろう。昔は下町ゼロメートル地帯などともいわれ、台風の際には下町の被害が大きかった。もっとも最近では、下町にも高級タワーマンションなども建設されているので、そうした住み分けもなくなっているのかもしれない。高台の中の窪地や高台のつきるところは、湧き水のわいているところがあり、そうした湧き水の作った池、その池の景観を活かした庭園がかってあった。そうした大名や武士、豪商の屋敷の庭園は今も公園として整備されているところが多く、これも街歩きの楽しみである。こうした低地と台地とに分かれた街では台地の方が高級住宅地になりやすいということがどこまで一般的かはわからない。ただ、東京の隣の川崎も南北に長い町で北の方は台地以上に起伏のある丘陵地形、南の方は多摩川の作った低地になっている。南の方はあの非行少年グループによるカワサキ国殺人事件のあったところで昔は公害病が問題となっていた地域だ。北の方は、閑静な住宅地になっている。最近、この川崎市の麻生区が全国で一番平均寿命が長いというので話題になっている。平均寿命は、年齢ごとの死亡率から算出するので、今日では老人の中で元気な者の比率が高ければ長くなる。安定した生活、医療へのアクセス、健康への知識が高ければ、元気な人が多くなるのは当然で、麻生区は高級住宅地と言うほどではなくとも、専門職や大企業管理職だった高齢者の比率が高いのではないか。ニュースでは麻生区の平均寿命が長い理由として坂道の多い町で足腰を鍛えているからといった説明がなされていたが、的外れのように思う。
2023年11月26日
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ネット配信の韓国ドラマ「国民死刑投票」を楽しみにしているのだが、アジア大会などで配信が後れる時もある。回がすすむにつれ、込み入った話になってきているので、そうした場合には過去の回をもう一度見直すとよいようだ。スマホで妙な動画が送信されてきて、画面をみると不気味な犬仮面(ケタル)がでてきて国民死刑投票への参加を案内する。状況証拠はあるが証拠不十分で有罪を免れた者や地位を利用して警察の動きを抑えた「無罪の悪魔」を国民が裁くと言う趣向である。いったいケタルとは何者なのか…その目的は…ということで、非常に面白いのだが、原作はスマホのウェブトーン漫画だという。ウェブトーン漫画は読んだことがないのだが、国民死刑投票で検索するとでてきた。なるほど普通の漫画をただスマホ画像で見るのとは違い、マンガの一コマが一画面になっているので、迫力が違う。そしてまた、コマの使い方など紙媒体とは違うウエブトーンならではの技法もあるようだ。俳優も原作漫画の雰囲気となんとなく似ているのも面白い。ただし、一番驚いたのはそこではない。韓国語版も検索すればあるのだろうが、日本語版では徹底的に内容が日本化されている。登場人物の名前はもちろん、お札の場面では日本円、建物はソウル南部庁ではなく警視庁、夜の看板も日本語という具合に。昔、韓国に行ったとき、書店で漫画をみると、日本で人気のコミックもいくつかあった。もちろん韓国語なのだが、驚いたのは登場人物の名前が韓国式になっていたことだった。桜木花道はカンベッコ、流川楓はソテウンという具合だった。金田一少年の名前がそのまま韓国読みでキムジョニルとなっていたのは面白かった。今、それと逆の韓国原作の日本化という現象がウェブトーンで起きているということなのだろう。こういう韓国発ウェブトーンの日本化というのは、他の国でもあるのだろうか。それとも日韓限定なのだろうか。そのあたりが気になる。
2023年11月06日
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謡曲に隅田川という題目がある。梅若丸という12歳の少年が人買いに攫われて都から東国に連れられて行く途中、隅田川を渡ったところで病を得たため、そこに捨て置かれて亡くなった。その一年後に、都の北白川に住む母が、梅若丸を探しにやって来るのだが、隅田川までやってきて、我が子の死を知るという話である。謡曲の隅田川も有名なのだが、梅若丸の物語は、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃にもなったという。筋書きも詳細になっており、父は吉田少将惟房で、5歳で父に死に別れ、7歳で比叡山に入り、母の名も花御前とか出家して妙亀尼とかになっている。攫われた経緯も、寺同士の稚児比べをしたとき、対立する寺の僧侶に襲撃され、逃げているところを、道に迷い大津に出てしまい、陸奥の信夫藤太に騙されて東国まで連れてこられたとある。隅田川は伊勢物語の言問の歌にもでてくる。梅若丸のような史実があれば、都から川を越すたびに、もう帰れなくなってしまったという悲しみに沈んだことだろう。隅田川は都の人にとっては東国のはずれのようなイメージであった。梅若丸の墓は水神橋近くの木母寺ということろに今もあり、梅若丸を祀った堂もある。ただ、伝説の古さに比べるとお寺もお堂も非常に新しい。それもそのはず、このあたりは酷い空襲のあったところで、寺も神社も皆焼けてしまった。中世の人買いの悲劇もさることながら、空襲でも幾多の子供を失った親の悲劇があったことだろう。隅田川ではないのだが、さるお寺では山の手空襲の慰霊碑があり、そこでは、母親が火傷で瀕死の子供をかかえながら「苦しいのは今のうちだけだよ、もうすぐ楽になるのだから」と語りかけていたという挿話が残されていたのを思い出した。親を失うのも悲劇だが、おそらく子供を失うのはもっと辛い。そうした普遍的な悲しみがあるから、「隅田川」は演目として残って来たのだろう。
2023年11月02日
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パソコンのメールで不要なものを削除したのだが、あらためて驚くのはフィッシング詐欺と思われるメールの多さである。加入した覚えのないクレジットやサービスを騙るのもあるのだが、アマゾンの名で支払方法に問題があるので情報の再入力をお願いすると言った内容であれば騙されることもあるのかもしれない。幸いアマゾンは月に一度くらいは利用しており、プライムビデオもよくみるので、「アカウント凍結の予告」がきてもなんとも思わないのだが。ただ自分など旧時代の人間のせいかネット上で金が動くことに気持ち悪さを感じている。人によってはネットでの取引用の口座とそれ以外の口座を分けているという例もあるのだが、それもわざわざやるのは面倒くさい。フィッシングメールも次第に増え、しかも巧妙になってきているようで用心が必要だし、こうしたものに注意喚起ももっとやるべきではないかと思う。つまらないいたずら書き込みはすぐにつかまるのに、こうしたフィッシング詐欺と言うのはなぜ検挙できないのだろうか。最近ではマイナポイント第二弾として、何万円支給されるというのがあったが、これも、もしかしたら貰い忘れている特典があるのではないかと言う心理を巧妙についている。最近の政府の施策はなんでもバラマキありきのものが多い。閑話休題昨日の立てこもり犯の年齢が86歳ときいたときには驚いた。この年齢になると死刑も無期懲役も怖くなく、それを考えると死傷者がでなくて本当に良かった。灯油?も持ち込まれていたという報道もあり、一歩間違えば無差別大量殺人の可能性もあったのかもしれない。ネットスラングで「無敵の人」という言葉があるが、職業、家族、財産など失うもののない人をいうのだが、86歳というのは、これから先の時間も少ないわけで、本当に意味での「無敵の人」とはこういうのをいうのかもしれない。犯罪には連鎖作用がある。電車のホームなどでは注意しなければ…。
2023年11月01日
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伝統とか風習といわれるものでも起源は意外と新しいものが多い。年賀状や初詣も郵便や交通機関の発達と不可分だし、よくいわれる夫婦同姓も戸籍制度が始まって以降のことだろう。年中行事は時代とともに変わり、歴史をもちださなくとも、子供時代と比べても随分と変わってきている。子供の頃はお正月は普段の町とはまるで違う静かな雰囲気だったし、晴れ着を着ている人も多かった。クリスマスといえば、どこに行ってもクリスマスソングが聞こえてきたが、今は静かになっているように思う。そのかわりハロウィーンはかげもかたちもなかった。そうした風習の中で、今でも残っているのが北枕の忌避である。この北枕を避ける風習というのは、もともとは中国の古代思想にあったそうなのだが、日本に入って来たのは古墳時代だという(リンクしているはるなさんのブログによる)。たしかに古墳の造営には渡来人技術者がかかわっており、そうした人はもちろん中国の文化にも通じていただろう。それが貴族から庶民へと普及していったのはいつ頃なのだろうか。北枕、左前、送り箸など、死や葬送に関連するものを忌むという感覚は、死への恐れとあいまって非常に根強く、現代でもいっこうにすたれる気配がない。北枕の忌避もこれからも残っていくだろうけど、今の住宅事情だとベッドを入れるスペースに苦労して、北枕など気にしてはいられないということもある。それに阪神大震災で分かったように地震の際の家具倒壊も不安で、棚の中のものが頭を直撃するのを避けるために北枕にせざるをえないという場合もあるだろう。そしてまた住居によっては、家が東西南北になっていないところや、窓が北向きというところもある。そして最後に北枕について疑問に思う点をあげてみる。由来は古代中国だとしたら、日本以外に北枕を現在でも気にするところはあるのだろうか。逆に日本人が海外旅行や出張などで外国に行った場合、北枕を気にするのだろうか。気にしたという話を聞かないのだが、外国では気にしないのに、日本では気にするというのも変ではないか。根拠は仏陀が入滅の際に頭を北を向けていたからだというが、これはちゃんと出典等があるのだろうか。およそ歴史的人物の類で死んだ時に頭をどっちに向けていたかなんてことが記録されている例はきいたことがない。
2023年10月31日
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その昔、イスラエル人デュオの歌が続けてヒットしたことがあった。ナオミの夢と愛情の花咲く樹である。それぞれ別のグループだったが、愛情の花咲く樹はつい口遊みたくなるような名曲だった。そしてこの歌は各国で発売されており、ポリシーとして発売する国の国語で歌っていたとのこと…日本で発売されたものも訛りのない日本語で歌われていた。youtubeで探してみるとフランス語バージョンのものがようやくみつかった。このデュオの男性の方はその後伊藤咲子の「ひまわり娘」の作曲も手がけていたようだ。https://www.youtube.com/watch?v=yGh9uUCcOh8また、ヤエルというイスラエルの女性歌手のNEWSOULという曲がCMにも使われ人気になったのも記憶にあたらしい。Yael Naim - New Soul (Official Video) - YouTubeあと、イスラエルといって思い浮かぶのがユリゲラーだろう。検索してみると英国に在住していたが現在ではイスラエルに戻っているという。今はなにやっているのだろうかとさらに調べてみるとyoutubeで宇宙人の画像を公開して話題になっているらしい。ユリゲラーが来日した時、子供達も巻き込んで超能力ブームが起きた。ちょうどそのころの小学生の年代が後のオウム幹部の年代とも重なっていたので、この時の超能力ブームがオウム事件の遠因であるという議論まであるほどだ。幹部の中には超能力を得たいために入信したという人が何人もいたほどだ。まあ、しかし、ユリゲラーのようにスプーンを壊す能力とか、麻原のようなすこしばかり空中に浮く能力とか、そんなものが本物だったとしても、そんなに役に立つ能力だとも思えない。普通の能力、難解な数学の問題を解く能力とか何か国語を使う能力の方がずっとよい。ユリゲラーの宇宙人画像は検索するとすぐでてくるのだが、宇宙人そのものより、ユリゲラーが実年齢よりもずっと若々しいのに驚いた。齢をとらない超能力でもあるのだろうか。うらやましい…。
2023年10月21日
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人が小説を書きたいと思う場合、自分の夢やなりたい自分を小説の主人公に託するという心理があるのかもしれない。「クリフトン年代記」の主人公は売れっ子の小説家であるだけでなく、才色兼備の妻を持ち、冷戦下のソ連から当局を出し抜いて反体制作家の原稿を持ち出すという英雄的な人物になっている。第二次大戦ではほぼ単身で手柄をたてるという挿話もあり、とんでも設定だとも思うが、それでも読ませるのは作家の筆力だろう。そうした才能あふれる例とは180度違うのだが、京アニ放火殺人犯も小説に打ち込んでいたという。女子高生がキャピキャピしているような学園小説だというのだが、中学で不登校になり、定時制高校を出たという彼にとっては、普通の高校生活というのが憧れだったのかもしれない。小説を書いている間は、自分には得られなかった普通の高校生になっていたのかもしれない。しかし、小説を好きで書いている人は多いが、それが社会の「上りエスカレーター」になる人はごくわずかだ。京アニ放火殺人犯は、それでも、本気で小説が社会での浮上の手段になることを考えていて、それがかなわないとわかった時に、光の当たる場所で憧れの仕事についている人々への不満を爆発させたのかもしれない。自分の作品がつまらない、自分には才能がないなどということは最後まで思いたくない。アイディアを盗用されたというが、それは実際にそう思うというよりも、そういうふうに思いたかったのだろう。京アニ殺人犯は子供時代は普通に楽しい時期を過ごしていたようだ。それが両親の離婚、父親の失職、貧困、不登校と次第に人生が暗転していく。それでも若い頃には、友人関係もあり、同僚との交歓もあった。それが中年以降には次第に人とのかかわりもなくなり、唯一の希望が小説になっていたわけである。
2023年10月17日
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イベント会場へのテロに端を発したガザ地区への侵攻の可能性が国際的関心を集めている。海外の事情は視界の外になりがちであり、特に中東といえば心理的距離が遠い。あらためてニュース映像で見ると、大勢の人々がひしめきあって暮らしており、地区全体が10メートルのコンクリートの壁で囲まれている。ベルリンの壁の崩壊以来、壁というのはトランプ大統領の言うメキシコ国境の壁くらいしかイメージできなかったが、あらためて「壁」の実物を映像でみるとやはり異様な感じがする。あの「壁」を内側から眺めていれば巨大な牢獄にいるような気になるだろう。ガザ地区は種子島ほどの面積のところに200万人もの人が暮らしている。それだけの人が暮らす産業というものはないので、支援物資で生命を繋いでいる状況だという。そして、今までも度重なる爆撃攻撃も受けている。そういうところで暮らす人々、そしてそうした中で育っていく子供たちはどんなことを思うのだろうか。ここにもまた想像もできないもう一つの世界がある。地球上では人間は進化の頂点にいる高等生物だという。しかし、こうした同族殺傷が止まないのであれば、進化とか高等生物という意味を問いたくなる。
2023年10月15日
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8050問題ということがいわれる。成人しても無職で生活力のない子供が親の年金等に頼って生活していた場合、その親が高齢化して子供を扶養しきれなくなった時に起きる問題をいう。親子間の殺人事件など、こうした問題が背景にあると思われるものが多いし、川崎の事件のように親子間に留まらず、通り魔犯罪という形で暴発する場合もある。この8050という問題を考える場合、親と子という関係でみる場合が多いのだが、多くの場合にはそれにさらに兄弟がいるし、場合によっては兄弟の配偶者もいる。ネットの記事を見ていたら、一階には老母と無職の兄が住み、二階には弟とその妻子が住んでいるという例で老母の死後、母の相続財産を分けるに際して、弟は兄に金銭を渡したいと思ったのだが、兄は実家に住み続けることを要求しているという話がでてきた。二世帯住宅でなくとも、無職の子供が老親と暮らしていて、その老親の死後、相続財産の分割と実家からの立ち退きを迫られるということは増えているように思う。そうした兄弟対立を背景とした事件も起きてくるのかもしれない。また、8050というと、普通子供は一人とする場合が多いが、実際には二人以上の子供が親にぶらさがっている場合もある。その程度も、ひきこもりのような重度のものから、時々アルバイトをやるが、自立には至らないという場合もある。他に兄弟がいなければ、兄弟二人がそのまま実家に住み続ける。兄弟二人が家計を共にすれば、兄弟世帯ということになるが、こうした世帯は増えているのだろうか。もちろん小説「間宮兄弟」のように、生活力のある独身兄弟二人が実家にそのまま住み続けるようなライフスタイルなら全く問題はないのだが。住民と直接の面識はないのだが、近所に大きな家がある。立派な門構えからしてかっては相当の家だったと思うのだが、今では庭は手入れされておらず、洗濯物がときおり乱雑に干してあるだけだ。そして、夜になると、二階の離れた部屋に別々の灯がともる。成人した兄弟がそのまま親の家に住み続けているのだろう。かつてはあの庭も家も小奇麗に手入れされ、夫婦と可愛い子供達からなる絵に描いたような幸せマイホームだったのだろう。※検索をしてみると兄弟世帯が増加中という記事がみつかった。https://www.yomiuri.co.jp/column/wideangle/20211220-OYT8T50005/都会に出てきた若い兄弟が一緒に住むというライフスタイルは昔もあったが、高齢期の兄弟世帯の増加は未婚化の反映だろう。未婚の女性が既に世帯をもった兄夫婦や弟夫婦と同居するという家族形態は激減したが、別の形の兄弟同居は増えているということか。
2023年10月11日
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サンクコストの呪いと言う言葉がある。いろいろな定義の仕方があるが、コストや労力をかけてきた選択については無駄にしたくないという心理がはたらき正確な判断ができない状況をいう。自分の選択が間違っていたとか、損をしたとか思いたくないという心理が背景にある。大きな例では多額の経費をかけたせいでひきかえせなくなったコンコルドの開発などがでてくるが、個人の日常的な例でも、高い金で購入したものはたとえ今それが無価値でも捨てられないとか、UFOキャッチャーで高額な金を投入したからには何か掴むまではやめられないとかいうのもサンクコストの呪いだろう。さらに、人生にかかわる問題でも、せっかく苦労して入社した会社なので退職はしたくない、せっかく今まで努力してきた目標なのでいまさらあきらめたくない、せっかく今まで尽くしてきた恋人なので別れたくないという例があるが、その「せっかく」こそがくせものである。過去は過去としていったん外に置き、冷静に現在と未来を考えるという視点が必要である。今までのコストや労力が無駄になる…ではなく、今までのものは無駄になってしまったとりかえしようもないものとみたほうがよい。登山は撤退の決断が一番難しいという。撤退とは、ここまで登って来た苦労を無にするわけなのだから、心理的な抵抗が大きい。それと同様に、ある目標に向けて努力してきたにしても、現在の状況をみて撤退するという判断は非常に難しい。それは個人のみならず組織レベルでも同様だろう。
2023年10月06日
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