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袴田事件が今日起こったとしたら間違いなく裁判員裁判となる。もし、袴田事件が裁判員裁判だったら冤罪は防ぐことができたのだろうか。冤罪には多くの場合、思い込みが背景にある。事件が起きた、その近所には前々から素行が問題になっていた不良青年がいた、あいつに違いない…ということはよくある。徳島ラジオ商事件では冤罪被害者は当時の社会通念では奔放な生活をしている女性であったし、冤罪かどうかは別にして、カレー事件も保険金詐欺は事実だろうし、近隣の住民から見れば異質な生活をしている者が疑われた。袴田事件でも、やはり、元ボクサーという素性に偏見がもたれたのではないか。今は違うのだが、当時のボクサーのイメージというのは元不良といったところがあり、実際、米国のボクサーの中には少年院で矯正教育の一環としてボクシングに触れたのが、この道に入る契機だったという人もいる。一般市民から抽選で選ばれた裁判員が裁判官以上にそうした偏見や思い込みから自由であるという保証はない。むしろ、様々な事件をてがけている裁判官以上に偏見に凝り固まった人も多いように思う。裁判員が判決に関与(現実には裁判官の横でうなづくだけかもしれないが)したとしても、冤罪を防ぐことはできない。さらにいえば、こうした冤罪の可能性のある刑事事件に裁判員が関与することには別の問題がある。裁判員は多くの場合、他の職業があり、素人としての立場で裁判に参加する。しかし、参加した以上、こうした冤罪が明らかになった場合、その責任に耐えられるだろうか。それが自分の職業であれば大いに責任を感じるべきだし、そうした責任の大きな仕事にやりがいを感じてその職業を選んだはずだ。けれども裁判員はそうではない。裁判員は抽選にあたっても、自分がどんな事件にあたるかは知らされない。袴田事件のように死刑確実だが本人は否認しているという事件にあたることもある。ちなみにこの責任とは民事刑事の責任ではなく、心理的な責任である。自分がもし袴田事件の裁判員だったら責任を感じるだろう。これは逆にいえば裁判官にしてみれば、裁判員が関与していることで、自分の責任感を軽減できる。ここで冤罪事件として何度もとりあげている甲山事件であるが、これはいったん不起訴になった後で、検察審査会の議決を踏まえて起訴されたという経過をたどった。検察審査会も裁判員同様に抽選で選ばれた素人で構成される。甲山事件の冤罪が確定した後で、ある検事の談話で「検察審査会が余計な議決をした」云々と言っていたのを読んだ記憶がある。冤罪を作ったプロの検事が素人の検察審査会に責任をなすりつける発言をするなんて…と腹立たしく思った(記憶違いかもしれないことを付記しておく)。裁判員制度というのは、もしかしたら、冤罪事件についての裁判官の心理的負担、死刑判決についての裁判官の心理的負担を軽くするための制度なのかしらん。
2024年10月11日
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袴田事件の再審開始が決まり、冤罪が確定する可能性がきわめて高くなっている。しかしその時には、弁護士や裁判官、そして支援者の美談仕立ての報道だけではなく、当時の捜査責任者、検察官、裁判官の実名についてもきちんと報じてほしいものであるし、存命であればコメントもとってほしいものである。そうしたこととそ報道の使命ではないのだろうか。責任ある立場の公務員の氏名肩書は個人情報でもなんでもない。さらに当時の報道についても再掲してはどうだろうか。これは自社の記事の再掲なのでできるだろうし、ネット時代の今日なら誰かがあげるかもしれない。世に出てから50年以上たった記事なら著作権はないかもしれない。サイズの違う下着が一年以上みそ桶に漬かっていた謎…こうしたものは当時どのように報道されていたのか気になる。あと、当時となんの関係もない現在の警察官や検察官が謝罪するのはむなしいのでやめてほしい。いくら組織が同じでも他人のことならいとも気軽に謝罪できるし、なんの痛痒もない。それよりも、当時の担当者がなぜこうした「国家の犯罪」を行ったのか、その徹底的な検証が重要である。ところで、こうした冤罪事件についてさらに思うことを二つほどあげておく。一つは、よく死刑制度について冤罪の場合の取り返しのつかなさをあげる場合があるが、死刑に限らず、冤罪はすべて取返しがつかないものであるということ。時間は取り戻せないし、人生にはやり直しの出来ないターニングポイントがいくつもある。パソコン遠隔操作事件の誤認逮捕事件では大学生は退学処分となり父親は会社を辞めたという。ましてや今回のような長期間の拘束となると、人生をまるごと奪われたにひとしい。もう一つは裁判員制度の問題である。裁判員制度の導入の理由に市民感覚を導入して冤罪を防止するという議論もあったかと思うが、抽選で選ばれた市民が、裁判官以上に世上の偏見や思い込みにとらわれていないとはどうも思えない。そして後日冤罪が明らかになった場合には、裁判員の中に自責の念をもつ人もでるかもしれない。素人の裁判員にそこまでの重荷を背負わせるのなら、それは制度自体の問題ではないか。裁判官の責任は重く、それゆえ、高い俸給と社会的地位があるのだから。
2023年03月21日
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維新の会では「最低賃金廃止」という公約を修正したという。http://www.daily.co.jp/society/politics/2012/12/04/0005575429.shtmlそれでも「最低賃金が高止まりをしている」という認識には変わりはないようであるが…。この問題は多くの人の生活に直結するし、この政党のこうしたスタンスはもっと知られてもよい。*閑話休題。アーサー・ミラーの戯曲「るつぼ」を読んだ。実はこの作品、この間、上演されている劇を見に行ったのだが、あまりの迫力ある舞台に感動し、その場で原作を買ってきたものである。部隊は17世紀末のアメリカ。もちろん独立前で両親を目の前でインディアンに殺害されたという少女なども生きていた時代である。そんな時代に小さな村で起こった魔女狩り騒ぎをテーマにした戯曲だが、人間の付和雷同のしやすさ、保身、嫉妬など様々な思惑でとんでもない方に流されていく人間集団のあやうさといったものを考えさせられる。そしてまたこんな時期だからこそ思うのだが、「ワンイシュー」というものはやはりあぶない。魔女か魔女でないかといった二者択一は暴走しやすい。同様に原発に賛成か反対か…だって同様ではないのだろうか。単に原発に関する主張だけをみるのではなく、他の争点にも目配りをすべきだろう。消費税やTPPはもちろん、この社会を米国型の格差社会にするのか否かも大きな争点のように思う。*そしてまた考えさせるのは人間というもののあさはかさである。「るつぼ」には魔女裁判の裁判員に選ばれた人もでてくる。選ばれたのはもちろん単なる偶然だし当人もわかっているのだが、それだけではないところが人間というものだろう。「法律で決められているのでそれは言えません。…つい一時間前に、あたしたち四人の判事さんや王様の御名代の副知事と食事をしたんですから。これからは、あ~あたしに、口のきき方をつつしんでください。」(倉橋健訳)何か自分に大きな権力が与えられ、そしてある種の全能感に酔った人間が、魔女裁判をひっぱっていったのも理の当然である。ここで連想はどうしても日本の裁判員制度にとぶ。この制度が導入された当初、死刑判決はむしろ減少するのではないかという見方もあった。素人の裁判員は死刑判決という重責からは逃げるであろうというのがその理由である。ところが現実は逆のようであり、昨日もまた状況証拠だけでの死刑判決がでた。日本の裁判員を「るつぼ」の魔女裁判の裁判員の同視するつもりはないが、裁判員制度の導入により死刑判決へのハードルが低くなったのはたしかなようである。裁判官も裁判員が死刑判決に関与したと考えれば精神的負担が少なくなるし、裁判員もどうせ最後に決めるのは職業裁判官だと考えれば気楽なものだろう。冤罪の余地のない残虐な事件であれば死刑は当然であるが、木嶋の事件といい、今度の事件といい、やはり状況証拠だけの死刑判決というのは疑問が多い。
2012年12月06日
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裁判員による裁判で初の無罪判決が出た。凶器から被告人の指紋は検出されず、動機も不明確。一方で被害者宅には被告人の指紋やDNAも検出されており、現場には行ったことがないという被告人の供述とは矛盾が…。真実はともかくとして、こういうニュースをみると、また、裁判員制度について疑問がわく。有罪か無罪かの判断。そして死刑か無期かの判断。そもそもこういう判断というものは、他に職業があり、生活もある人が、片手間にできるようなものなのだろうか。どう考えたって、自分の職業にまい進し、家庭などでの責任も果たし、なおかつ裁判員として重い判断に携わるほど活力のある人物が世の中にそういるとも思えない。それとも、裁判員といったって実質はおかざりで、判断の大筋は裁判官が行っているのだろうか。前者であれば籤で選ばれただけの市民に無理を強いているようだし、後者であれば、こんな制度に多大の税金を使う意味がわからない。まさか死刑判決に関与する裁判官の精神的負担を軽くするためにこんな制度があるわけではあるまい。*そしてもう一つ裁判員制度について疑問に思うのは、なぜこの制度について憲法論議が起きないのだろうかということである。憲法18条には基本的人権として「苦役からの自由」が謳われている。希望もしないのに籤で選ばれ、死刑判決に関与したりすることって立派な苦役といえるのではないか。それだけではない。一度見たら一生暗い部屋に一人でいられなくなるような遺体写真をみせられたり、坊ちゃん嬢ちゃん裁判官に無知をバカにされるようなことを言われたり…とてもじゃないけどやってらんないとはこのことだ。もし5時間石運びを強制されるのと裁判員をやれといわれるのと、どっちを選べと言われたら、迷いことなく石運びを選ぶだろう。労働の後にはビールがうまいだろうけど、裁判員として重い判断に関与したら一生うなされる。おまけにうっかり情報を公的に漏らしたりしたら刑事処罰もあるというのだから、怖ろしいったらありはしない。裁判員制度は憲法違反のおそれあり…このあたりはもっと議論する必要がある。**さらにいえば、裁判員制度の大きな問題として被害者などのプライバシーが保護されない恐れがあることがある。裁判員が情報を漏らすのは禁じられているといっても、井戸端会議や飲み屋の談論まで規制されているわけではない。世の中というものは広いようでいて本当に狭い。被害者などが裁判員制度に不安を感じるのは当然に思う。ましてや起きた事件の裁判は普通その地域の裁判所に係属し、裁判員もその地域から選ばれるのであればなおさらである。個人情報保護に対する意識がこれだけ高まってきているのに、おそらく最も知られたくない情報であるはずの犯罪被害者のプライバシーについて、あまり考慮がなされていないのは不思議でならないことである。
2010年12月13日
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裁判員制度導入後、初の性犯罪事件については従来の量刑相場を大きく超える判決が下された。これは裁判員制度により市民感覚が導入されたというよりも、従来の司法があまりにも市民感覚とかけ離れすぎていたことこそが問題であろう。結婚式を4日後にひかえた女性が犯罪被害にあって自殺した事件でたったの懲役7年などというのは多くの人が首をかしげてしまうのではないか。身の安全を守るためにもこの7年もしないうちにでてくるであろう犯人の名前や顔写真をぜひみてみたいものである。人権侵害としか思えないストカーまがいの取材を被害者に対して行うよりも、こうした情報を広く社会に提供し、犯罪者に対するみせしめ効果による一般予防と当の犯罪者自身による再犯防止をめざすことこそがマスコミなるものの使命(そんなものがあるとしてだが)だと思うがどうだろうか。※それにしてもこの種の犯罪に対する日本の法制度はちょっと異常ではないかと思う。強盗殺人が死刑または無期懲役であるのに対し、この種の事件で殺人までいっても法定刑はそれよりも軽い。究極の人権侵害というようなこの種の犯罪よりも財産被害を重くとらえる価値観は何なのだろうか。刑法改正論議でもこのあたりの議論があまりでていないのは、本当に不思議でならない。※今度の判決で、だから裁判員制度は効果があるのではないかと思う人もいるだろうが、それはちょっと違うように思う。小さくしか報道されていないが、別の事件では、裁判員参加に不安を感じ、告訴をとりさげた被害者もいたという。この手の事件では、悪質なものであればあるほど、被害者の負担はおそらく大きい。引き続き、この種の事件は裁判員関与の対象からはずす議論を行うべきであろう。市民感覚の導入などは、裁判員制度という形をとらなくともできたはずであるし、この種の事件で量刑が軽すぎるということはかなり前から指摘されていたことなのだから…。※こうした事件では被害者のプライバシーの問題というものが前面にでるが、実は被害者保護というものはほとんどの事件で問題になるはずである。強盗、恐喝のような事件だって、もし、自分が被害者の立場になれば、その犯行や被害の詳細を裁判員に知られたいと思う人はいないのではないか。今までマスコミにでてきた裁判員、それに今回の事件の裁判員にしても、いかにも健全な市民といった感じで飲み屋で面白おかしく事件の詳細を語りそうな人はいない。しかし世の中の人間といったものは自身を省みれば分かるが、そんな立派な人ばかりではない。飲み屋で、また、井戸端会議で、面白おかしく犯罪の詳細や被害者のプライバシーについて語る手合いだってごまんといるのだ。恣意的な選考なしにああいう方ばかりが裁判員になったのだとしたら、稀有な偶然だろうし、一方、その選考になんらかのバイアスがかかっていたのだとしたら、裁判員はとうてい「普通の市民の代表」ということはできまい。
2009年09月06日
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ずっとひっかかっていた事と同じ趣旨のコラムを読んですっきりすることがある。どなたの書いたものかは忘れてしまったが最近読んだ裁判員についてのコラムがまさにそうである。テレビで見る限り裁判員第一号になられた方々は皆きちんとした身なりをし、マスコミへの受け答えや被告人に対する質問も非常にきちんとしていた。それだけではなく、「部下がよくフォローをしてくれた」、「夫からはげましのメールがあった」などというエピソードを聞いても、大層安定した職場生活、家庭生活を送っている方々でもあるようだ。彼ら彼女らがいわゆる水準以上の人間であることはわかる。しかしこれからは逆に、どうしようもない人間が裁判員に選ばれる可能性もあるだろうし、中には密かに麻薬などをやっている人間もいるかもしれない。また、もし、反対に、今後もずっと、あの第一号のような方々が選ばれ続けるのであれば、そこには何らかの選別が働いたと思わざるを得ず、裁判員が平均的市民を代表しているという建前自体があやしくなってくるのではないか。※裁判員裁判はその後も何件もの事件で行われ、中には性犯罪などもあるという。性犯罪についてはプライバシー保護のため、被害者にあらかじめ裁判員候補者の名簿をみせ、知己がいれば名簿から除外するといった措置がとられているという。そんな話を読んだ時、強い疑問に思ったことがある。たしかに今までの知己については、こういう形で裁判員から除外することができる。でも、これから知己になる人については、除外することなどは不可能であろう。あたりまえだが性犯罪の被害者は若い人が多い。若いということはこれからの長い人生で様々の人と知り合う機会があるということだ。被害者のプライバシーを知っている裁判員と被害者の人生が、これから先、どんな形で交差するかなんて、現時点では誰も知らないことである。ただ一つだけいえるのは世間というものは広いようで意外に狭い。犯罪被害者の保護というその一点だけでも、裁判員制度というものは相当に問題の多い制度であるといえるのではないか。
2009年08月30日
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日本のマスコミは横並びだというが各紙そろっての裁判員を迎えての裁判の大報道はなんだろうか。ほとんどのものは裁判員の一挙手一投足を追うのに終始し、どんな質問を裁判員が発するかが目下の最大の関心事らしい。何を着ていたかだの何歳くらいかだの…もし実年齢が若かったらショックを受けるのではないかなんていう余計な心配もしてしまう。最初だからこんなに大報道すると分かっていても、こんなふうに報道されれば、やはり引いてしまうという人もいるのではないか。※この報道ぶりをみて、ふとあの拉致被害者が帰国したときの報道を連想した。裁判員と拉致。唐突なようだが、本質とは関係ないどうでもよいことばかりを大報道している様子がよく似ている。拉致被害者が帰国したときも、マスコミは5人にべったりとはりついて何を食べただの、何に「舌鼓をうった」だのと、連日連夜、珍獣扱いのような報道を繰り広げた。そしてそんな食べ物報道や旧友達との再会報道に熱をあげる一方で、政府の当初の方針であった5人を短期間で北に戻すことに疑問を提示する報道は少なかった。本当に「一時帰国」でよいのか、北朝鮮に莫大な経済援助を行うこと(政府は当初この方針であった)がよいのか…これこそが考えるべき本当の問題で、それに比べれば5人が何を食べたかなんてどうでもよいことであろう。※裁判員の報道もこれと同じである。裁判員制度について提示されていた数々の問題点はどうなったのであろうか。報復のおそれや被害者のプライバシー。それに凄惨な現場写真など。そう考えれば大報道されるであろう第1号の裁判員事件にあえてこうした問題が起きそうもない事件をもってきたというのも深謀遠慮なのかもしれない。被告人は暴力団員でもない老人。復讐ということは考えにくい。被害者のプライバシーもあまり問題になりそうにないし、現場写真もとりたてて凄惨というものでもなさそうだ。でもこれから裁判員が扱う事件にはサイコパスや暴力団員が被告人となる事件もあれば、性犯罪がらみのものもある。現場写真だって死後何日もたって発見された死体写真や日常生活では想像もつかない残忍な手段で殺害された写真だってでてくるだろう。裁判員が何を着ているかよりも、こうした問題点を報道するのこそマスコミの役割である。それにしても、「市民迎えて法廷新時代」なんていう歯のうくような見出しに象徴されるように、この制度についてマスコミがほとんど肯定一色なのは全くもって不思議でならない。もちろん膨大な広報費がマスコミに流れているということもあるのだろうけど、それにしても誰が望んだかわからないようなこの制度…導入には一体どんな背景があるのだろうか。
2009年08月04日
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裁判員制度が近づくにつれ、裁判員の精神的負担に対処するための心のケアだとか、遺体画像のCG化だのの話がでてきている。そうまでして裁判員制度を導入する必要がどこにある・・・という当然の疑問がマスコミに載らないのが不思議だ。広報費用などいろいろお世話になっているからだろうか。それとも法務省の審議会にマスコミOBを入れてほしいからだろうか。※いったい裁判員になって「心のケア」をしてもらいたい人がどこにいる?CG処理された遺体画像を誰がみたい?そもそも「心のケア」なんて言葉自体、聞くたびに神経を逆なでされるような気持ち悪く不快な言葉ではないか。「昼間裁判所でみた遺体写真が目の前にちらついて眠れません。それに一人暮らしですので明かりも消せませんし~」なんて電話すると、「心のケアの専門家」なる利口ぶった女性が「そういうのは凄惨な遺体写真をみれば誰にでも起こる現象なのですよ。」などと猫なで声で言うんだろうな。やだな。そんなの。いったいこの裁判員制度っていくら税金がかかるんだろう。日頃税金の無駄づかいをあれほど言うマスコミがなぜこの問題には沈黙しているのだろうか。望んでもいない人に罰則付きで裁判員なる役割を押し付け、その結果起きる不快感や不安感に対してさらに税金や人手を使う。こんなことをやるなら、その金を犯罪被害者の支援にでもまわせばよい。「心のケア」が必要になるようなことを国民におしつけるのはまさに憲法に言う「奴隷的拘束や苦役からの自由」条項に違反しているのではないか。同じ強制的仕事なら裁判員より石運びの方がまだよい。石運びは後でのビールがうまいけど、裁判員は一生の間思い出すたびに不快な思いをしなければならないし、口がすべったときの罰則条項も気にかけねばならない。なぜ市民グループは沈黙している?司法への国民参加という言葉に幻惑されているのか。それともどうせ自分は当たるわけがないとたかをくくっているのか。いっておくが裁判員に当たる確率は宝くじに当たる確率よりも高い。いまからでも遅くないから、自分が当たっていやだと思う人は、とにかく反対の声をあげた方がよい。
2008年05月22日
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裁判員制度がはじまるということでさかんにPRが行われている。一方、各種世論調査をみてみると、どうも国民の側にはすすんで裁判員になりたいという意思はそれほど強くないようだ。つまり、国民の望んでいない「国民参加」が、巨額の税金を投入してごり押しされようとしているのである。※そもそも裁判員制度って何だろうか。死刑や無期の予想されるような重大事件について無作為に選ばれた国民が事実関係や量刑の判断にかかわるというものである。具体的なイメージはわきにくいのだが、例としてレイプ犯が何人もの女性をレイプしたあげくうち複数の女性を殺害したような事件(昔の大久保事件のような)を想像してみよう。そんな事件に無作為に選ばれた国民が関与する…。量刑の判断を行うのなら被告人がどんなに残忍な男かも判断の対象となる。そうなれば生死を問わず複数の被害者全員について被告人が何をしたかを仔細に検討する。当然にレイプされた際に撮られた被害者の写真も見るだろうし、被害者にかかわる様々な情報も知るだろう。被害者のプライバシーについて裁判員が井戸端会議や飲み屋の話題で言うことなどとうてい規制できるわけがない。※また、量刑判断で被告人の残忍さや事件の悲惨さを判断しようとすれば現場写真をみることだって不可欠だ。腐敗して崩れた遺体や血まみれの惨殺死体のカラー写真やをこれでもかこれでもかと見せられるわけである。これって憲法で保障する「苦役からの自由」に違反するのではないか。苦役というのは、なにも石運びだけではないと思うのだけれども。※そして最後に量刑判断のはてに死刑相当の事件というのもある。日記でお気楽に書く分には、こんな犯人は死刑だとすぐに書けるが、実際に死刑判決に関与するとなると精神的負担が大きい。死刑を主張したりしたら、自分の死ぬ間際にはなんかうなされそうな気もする。そんなわけで結局は死刑判決から「逃げる」裁判員も多いのではないか。死刑なるものがこの世の必要悪であるのだとしたら、だからこそその精神的負担を超えて時には死刑判決をくださざるをえない裁判官には高い社会的地位が付与されているのではないか。うがった見方をすれば、もしかしたらこの裁判員制度って、死刑判決を下す裁判官の精神的負担を軽くすることをねらっているのかもしれない。オレが死刑にしたわけじゃない、裁判員だって死刑が妥当だと言ったんだというように。※そして最後に、無作為に選ばれた誰かさんが国民の代表だという議論がどうもよくわからない。そんなに国民参加をいうのなら、事件のたびに世論調査でもやって、鈴香の事件では死刑賛成何%、光市の母子殺人では死刑賛成何%とやった方がまだよいのじゃないか。ましてや重要な仕事をしている人や自営業者は裁判員辞退の途があるのだとしたら、裁判員というのは自営業者以外で重要な仕事をしておらず、たまたま籤にあたった人ということになる。そんなのがどうして国民の代表なのだろうか。
2008年04月03日
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多くの人が思っているのだけれども誰も言い出せないことって世の中にはあるもんだ。どう考えても問題のある事業なり計画なりを「やめる」というのもその一つではないのだろうか。ある事業なり計画などを多くの人が金と労力をかけて行っていたとする。でもどうもこの事業なり計画、具体化していくうちに問題が多いことに気づく。そこでやめるかやめないかが肝心なのだが、やめると言い出すのもなかなか大変だ。今までの費用は労力はどうしてくれる。一生懸命やってきた先人に悪いではないか。かくして事業や計画は続いていく。問題のある公共事業が無駄とわかっていてもストップがかけられないゆえんである。※裁判員制度もこれと似たような状況になっているのではないか。裁判員を忌避する事由がいろいろ論議されているが、「重要な仕事」が忌避事由になったあたりで裁判員制度というのは建前としての存在意義を失ったのではないか。だって裁判員制度はもともと「国民の声を司法に反映させる」ということで始まったはずなのに、その裁判員が「重要な仕事をしていない人」に限られるのであれば、裁判員=国民の声の反映とはいえない。それに加えて思想信条も裁判員忌避の理由にしようとする意見もでたがみおくられたそうだ。たしかに思想信条による理由までも認めれば誰でも忌避できることになってしまうが、だからといって思想信条は無視してよいのだろうか。裁判員は死刑か無期かが争われるような重大事件につくという。しかし世の中には宗教的信念から死刑に反対する人もいる。そういう人の宗教的信念をふみにじってまで裁判員を強制する必要はどこにあるのだろう。※様々な議論をきくにつれ…裁判員制度については「勇気ある撤退」をすべき時期ではないかと思う。こんな制度を導入して司法がよくなるとも思えない。「国民の司法参加」というけど、その国民がこんな「参加」を望んでいない。※※追加であるが…裁判員制度の最大の問題は、事件関係者のプライバシーではないかと思う。大久保事件でも宮崎勤事件でも殺されなかった被害者が大勢いる。裁判員はいやでもそうした被害者の情報にも触れるのだが、その人たちのプライバシーはどう守られるのだろうか。守秘義務があるとはいうが、茶飲み話や友人との会話など規制できるものではない。世の中は広いようで本当に狭い。世の中を狭くしたくないのであまりやらないのだが、出身地や出身学校(高校、中学、小学校)の話をすると、必ず意外な人との間に意外な共通の知り合いがいるものである。事件の被害者などにとったら、そうした事実がいつどこからもれてしまうともかぎらないわけである。犯罪の被害者を守るという見地からだけでも裁判員制度など即刻やめるべきであろう。
2007年10月26日
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