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松本清張の短編に「空白の意匠」というものがある。作者の新聞社勤務の経験が反映されていると思われる話で、薬品の副作用の記事を出したところ、実際にはその副作用自体がなかったことが判明したために広告担当の社員が詰め腹を切らされるという話だ。誤報ではなく、取材源となった警察発表が間違いであったのだが、大手企業と広告代理店、地方の弱小新聞社の力関係の中では、よくあることなのかもしれない。この小説を読みながら、最近起きたサプリの健康被害のことが頭から去らなかった。紅麹も原因がわからず、被害を訴えている人々も、もともと高齢者が多いこともあり、もしかしたら原因不明のままうやむやになっていく事件かもしれないとも思った。ところが、最近、厚生労働省は原料から検出された青カビ由来の物質「プベルル酸」が腎障害を引き起こすことを確認したと発表したという。混入の経緯や因果関係の詳細は今後の調査対象であるにしても、これについての報道が少ないように思うのは気のせいなのだろうか。マスコミがスポンサー企業に弱いのは今に始まったことではないのだが、権力に弱いとなると、「社会の木鐸」というのも怪しくなる。札幌のススキノ首切り殺人について、母親の公判がようやく始まった。ただ、この事件では両親が何か月間も鑑定留置されており、主犯の娘だけでなく、両親まで長期間鑑定留置することについて疑問視する報道はほとんどなかった。そしてまた、そもそも父親ならともかく、家にいて「事件を容認していた」と言うだけで、母親の刑事責任を問えるのだろうか。こうした点について疑問を呈する報道がまったくないのも異様な感じがする。以下は余談この夏、判決がでるという袴田事件も、味噌の中につけておいた血痕の色が変わっていないなど素人目にもおかしな点が多々あった。それこそマスコミがきちんと権力を監視していれば、冤罪は防げたのではないか。古い事件なのだが、甲山事件というのがあった。リアルタイムで報道を見ていたのだが、殺人なのに動機皆無、刑事訴訟進行中の偽証罪逮捕、知的障碍者の証言は一般人以上に信用できるという空前絶後の鑑定意見など、素人が見ても、警察も検察もムチャクチャやっているという印象しかなかった。それなのに、マスコミ報道は警察検察の発表の垂れ流しで、なんというか、こういう社会に生きていることに恐怖さえ感じたものである。冤罪は決して他人事ではない。参考【1974年】汚水の中から見つかった二人の児童 障碍者施設で一体何があった?警察検察の圧迫と公権力と冤罪…多くの人の人生を狂わせた『甲山事件』【ゆっくり解説】 (youtube.com)
2024年06月04日
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ニュースには文字通りのニュースといままでもあったものがなにかの機会にとりあげられるようになったものとがあるようだ。電車事故を契機にいくつもの電車のオーバーランがニュースになったり、ある大学の入試ミスによる入学許可を契機に連続して入試ミスがニュースになったり、エレベーター閉じ込め事故を契機にエレベーターの閉じ込めがニュースになったりするのは後者の例だ。最近、オーバーランもエレベーター閉じ込めもニュースになっていないが、こうしたものがなくなったというよりも、単にニュースに取り上げなくなっただけだろう。そして最近ではさらに第三の範疇があるように思う。今までマスコミも国民も知っていたが、タブー視してとりあげられなかったものが、なにかの拍子にそのタブーがなくなるといっせいに大報道を始めるというパターンである。ジャニーズ事務所の性加害も相当前に内部告発本がでており、知っている人もかなりいた。統一教会と政治家との関係も岸信介の頃からで、これも散発的に週刊誌などでとりあげていたように思う。ジャニーズは国連での問題視、統一教会は安倍総理銃撃事件をきっかけとして報道が噴出しているのは周知のとおりだ。タブーは横並びだからタブーなのであって、ひとたび外れると今度は「みんなで渡れば怖くない赤信号」になっていく。マスコミは権力から情報を貰い、スポンサーから広告を貰い、一般人から購読や視聴を貰うことで生きている。だから与党や有力政治家、官庁、有力企業、巨大宗教などには弱い。もしかしてマスコミの報道をみる場合には報道していることだけではなく、報道しないこと、報道されなくなっていることにも注意する必要があるのかもしれない。
2023年10月16日
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総理官邸での忘年会のニュースは長男の秘書官が辞職した後、急速に報道がなくなっている。その後、総理本人の写真までが流出したとなると、本当に長男主催の忘年会だったのか、むしろ総理の方が主だったのではないかと思うのが普通なのだが、そのあたりのマスコミの沈黙が不可解である。なにか圧力があったとしか思えないし、圧力があったのならあったでその旨報道すればよいのに…と思う。忘年会の悪ふざけがけしからんというよりも、問題はこうしたマスコミの姿勢である。マスコミ情報の受け手としては、マスコミの報道することだけでなく、報道できないことにも想像力をめぐらせる必要があるのかもしれない。マスコミは斜陽産業と言われている。現に最近でも伝統ある老舗週刊誌が休刊となった。新聞の部数も軒並み下がっているという。ただそうした中でも、マスコミの役割がなくなるとは思わない。こんなどうでもよい日記でもしょっちゅうマスコミの悪口を書いているのだが、それでも、ネットがマスコミに代わるとは思えないし、マスコミにはやはりマスコミにしか得られない情報がある。ネットでいろいろ書いているものをみても、おおもとに情報は政府や公的機関の発表、大学などの学術機関の情報、そして日本や海外のマスコミ報道が元になっているものがほとんどである。そして特に現在進行中のものごとについての情報はマスコミ報道が必須である。
2023年06月06日
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今年も幸い東京には雪は積もらなかった。雪というのはたしかに景色を幻想的で詩情あふれるものにし、それはそれでよいのだが、その後の凍った道を歩くのは恐ろしい。いつもこんな時に備えて長靴を買っておけばと後悔するのだが、雪が溶けるとそれも忘れ、忘れたまま次の冬がやってくる。それにしても東京で雪が積もると大ニュースになるのに、雪国の雪は当たり前だがニュースにもならない。全国版といえども地域によって少しずつ紙面は違うにしても、基本的に東京目線なのは変わらない。大マスコミのほとんどが東京に本社機能を置き、記者も東京に住んでいるからこんなことになるのだろう。ニュースなどの報道というものは客観性が求められるというのだが、それもよくよく見ると、東京の記者目線になっているように思う。昨今の少子化についての議論にも同じようなマスコミ記者目線(マスコミ目線ではない)を感じる。少子化対策の議論の重点が育児休業、保育園、児童手当などになっていることだ。経済的理由など様々な理由で結婚できない人は思考の範疇に入っていないし、非正規雇用や零細企業では育児休業も実際にとれないところが多い。保育園も基本的には母親が安定的な職業をもっていないと利用しにくい。想像なのだが、マスコミの職場はわりあい男女とも正社員の共働きという子育てカップルが多いのではないか。そして極めつけは児童手当の所得制限撤廃の議論である。世論調査では所得制限継続が多いにもかかわらずマスコミの論調は撤廃がよいことであるようなものが多い。比較的格差社会に批判的にみえる某雑誌ですら、所得制限継続の背景を「高所得世帯への嫉妬や高齢者の無関心」と決めつける。これなどはマスコミのパワーカップル目線ではないかとかんぐってしまう。
2023年03月08日
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その昔に守秘義務違反ということで刑事責任を問われた某新聞の某元記者が亡くなったという報道があった。普通にみると、やったことは一般人を犠牲にした「取材」であり、それ自体は刑事事件には問われなかったにしても道義的には批判があってしかるべきものでった。そしてそうやって手に入れた情報も記事にしたのではなく、野党政治家に渡し、政局を作ろうとした。刑事責任の守秘義務違反は別にしても、この元記者の行動は記者の職業倫理にも反しているし、その本分も逸脱している。ところが世の中の一部には、これを「国民の知る権利のために戦った記者」として持ち上げる向きもあったようで、わからないものだ。正直珍風景とでもいうべきものだろう。「国民の知る権利の議論がスキャンダルに矮小化された」と見る向きもあるのだが、実は逆で「〇〇がいつのまにか英雄に祭り上げられていた」というのが実体だろう。なんでこんなことが起きたのだろうとつらつらと考えてみると、事件当時はネットなどは影も形もなく、一犬虚に吠えれば万犬吠ゆの犬の声はすべてマスコミであった。マスコミの発言力は圧倒的で、マスコミ(それに乗っている言論人も)が声をそろえて同じようなことを言えば、なんとなくそういうものかと思う人もいた。もちろんそう思わない人も多数だったので、それは某新聞の部数減ということで表現されたのだが。今や新聞は斜陽産業だと言われる。その背景になっているマスコミ不信を植え付けた原因のワンノブゼムとしてこうした事件があったことを思うと、元記者の死亡もなかなかに感慨深い。まあ、亡くなった人を悪く言いたくもないし、とりあえず合掌。たしかに国民には知る権利がある。それだけでなくつましく生きる庶民にも様々な権利がある。平穏に明日を信じて生きる権利など…。
2023年02月26日
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全国のあちこちでクマが出没し、住民に脅威を与えていると思うのだが、このクマの報道がなぜ少ないのか不思議でならない。駅近くの商業施設に立てこもる、子供の通学路に現れる…となったらこれは立派な事件ではないか。そしてこうしたクマ出没の問題を担当する閣僚会議の主宰が環境省というのもなんでやねん。クマは環境の問題というよりは住民の安全の問題である。クマでマスコミがあまり騒がないのは、出没しているのがマスコミの本社のある都会から遠いところばかりだからだろう。その証拠に、多摩川にアザラシがやって来た、皇居前をカルガモの親子が通っている、石神井川に矢のささった鴨が泳いでいるというように、都会に現れた動物ならニュースにならないようなものまで大ニュースにしている。マスコミなんてしょせんは都会目線である。それを最も強く感じたのは、米国に留学していたエリート高校生が侵入者に間違えられて銃で撃たれた事件が大報道された時だ。銃で撃たれるのは悲劇だが、日本国内だって、その頃、一年に何人か銃で撃たれる人がいた。山菜取りの農家の主婦が鹿と間違えらえてハンターに射殺されたというような事件だ。留学先の海外で誤想防衛で射殺された事件の方が日本国内で普通に暮らしていた人が射殺された事件よりも、大きく報道されるってなんか変ではないか。余談だが、高校生の事件の後、「アメリカの家庭から銃をなくそう」という署名運動が日本で起き、これも大きく報道された。米国人からすれば「余計なお世話」そのものではなかったのだろうか。自分が銃を持たなければ、悪人に銃で撃たれることはなくなるのだろうか。銃犯罪の悲惨さを訴えれば銃犯罪はなくなるのだろうか。そんなことはないだろう。
2020年10月29日
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10月16日、“NHKの在り方”を検討する総務省の有識者会議に、NHKが、テレビ設置届け出の義務化と未契約者の氏名を照会できる制度を要望したという。実際、NHKの受信料契約を行わない人もおり、受信料のとりはぐれが問題になっているのかもしれないが、そもそもこうしたスクランブルなしに受信料をとるという制度自体が限界なのではないのだろうか。テレビでは、NHKのほかに、無料の民放と金を払ってみるスクランブル付きの有料放送がある。後者は金を払っても見たいという人だけが視聴する。テレビを設置している人全体を対象に、決して安くはない受信料をとるものはNHKだけである。NHKの有識者会議に対する要望には反発が強いようだが、それは多くの人がNHKの番組にはそれほどの価値はないと思っているからだろう。巷間伝えられるNHK職員の高給もこれに輪をかけている。いっそ思い切ってNHKも民放と同様に民営化してはどうなのだろうか。紅白や高校野球、大河ドラマや朝ドラは高額でもスポンサーがつくだろう。地域の観光振興や歴史ある企業の創業者の一代記も、そうしたスポンサーの協力のもとにやればよい。そうした中で、どうしても民放になじまない、国会中継や緊急時の災害情報のようなものだけを税金で運営すればよいのではないか。
2020年10月25日
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数日前のある新聞に編集委員名で日本におけるPCR検査の少なさに疑問を呈する記事が掲載されていた。テレビでもさる識者が日本の検査件数の少なさに疑問を述べていた。やれやれ、これではマスコミはネットと何ら変わらない。疑問の表明なら誰でも書けるし、検査を受けたいのになかなか検査をしてもらえなかったなんていう体験もネット上にいくらでもころがっている。マスコミにはできてネット民にはできないこと、それは担当省庁や政治家への取材ではないか。なぜそれをしないのだろうか。総理の「目詰まり」という理由は意味不明であるが、専門家会議が検査の少ない理由として述べた、帰国者・接触者相談センター機能を担っていた保健所の業務過多、入院先を確保するための仕組みが十分機能していない地域もあったことなども、「言い訳」ではあっても理由にはなっていない。日本の保健所の機能というのは国際的にみてそんなに最低レベルだというのだろうか。毎日刻々と感染者数は増えているのだが、そのうち「検査体制がおいつかない」という理由で、感染者数は打ち止めになるかもしれないが、それではアフリカの奥の途上国と同様である。もう一つ。8月になり、まもなくお盆の帰省シーズンが始まる。すでに交通機関の予約をすませた人も多いだろう。そういう中で、昨日、お盆の移動制限について、「次回」の新型コロナ対策分科会で専門家の意見を聴取すると西村大臣が発言したという記事をみてびっくりした。それでは、GOTOキャンペーンとのつながりはどうなるのだろう。疑問を呈することも追及することもせず、大臣の発言をそのまま記事にするのもマスコミの劣化の証左だろう。お盆には、全国津々浦々で、可愛い孫を祖父母に見せて抱っこさせ、墓参をし、食事をするということが行われる。高齢の祖父母の多くは、医療機関も受診しているし、デイサービスやショートステイにお世話になることもあるだろう。やがて夏は過ぎ、涼しい秋がやってくる。日本列島は冷涼な気候に覆われる。そしてウィルスの大好きな冬がやってくる。そのときになっても、保健所の検査の「目詰まり」のせいで感染者数は2000人くらいで止まったまま、総理は「人類がコロナに打ち勝った証として五輪は絶対にやる」と叫び、マスコミはあいかわらず「検査数が少ないのはなぜでしょうね」なんていう報道を垂れ流すのだろうか?
2020年08月02日
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その昔、街のあちこちには雀荘があって、土曜日の午後など三々五々サラリーマンが同僚とつれだって入っていく光景をよくみかけた。ああいう光景をみて金をかけずにゲームだけを楽しんでいるなんて思っている人はいなかっただろう。厳密にいえば賭博罪なのだが、付き合いの範囲内の金額ならまあいいだろう…というのが社会の共通概念だったのではないか。実際、雀荘に行ったサラリーマンが逮捕されたなんていう話は聞いたこともないし、今でもそんな雀荘はないこともない。このように普通のサラリーマンの賭け麻雀は、実際のところ黙認されているようなのだが、それでも、検事長はさすがにまずいのではないか。ただ、今回の検事長の賭け麻雀には賭博罪以外に、もう一つの問題があるように思う。それは他の3人が大新聞の記者であったという点である。このあたり、たぶん新聞は書かないだろうが、3人の新聞記者は検事長の同僚でも友人でもなく、普通に考えれば、この人が検事長という肩書を有しているから近づき、一緒に麻雀をしたとみるのが普通だろう。そして麻雀というのは、まったく運次第のサイコロなどと違い、わざと負けてやることもできるゲームである。つまり、形は賭け麻雀でも、その実質は、お金を献上しているということだってあるのである。どこも報道しないのだが、この賭け麻雀の勝敗はどうなっていたのだろうか。検事長がいつも勝っていたなんていうと、実質お金を献上していたとしか思えないのだが。検事長の麻雀事件は検察そのものに対する不信というだけではなく、新聞に代表されるマスコミに対する不信も増幅させているといえるのではないか。大新聞の記者は何を目的に検事長と賭け麻雀をしていたのだろうか。もし、検事長に負けてかけ金を献上していたとしたら、その見返りに何を望んでいたのだろうか。そのあたりが気になってならない。
2020年05月23日
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さる芸能人がラジオ放送で以下のような趣旨の発言をしたという。コロナが収束したら面白いことがある。…美人さんがお嬢やります…稼がないと苦しいですから…だから今我慢しましょう…こういう趣旨の発言を聞いて、実際に今生活に困っている人々はどんな気持ちだったのだろうか。イベント、ホテル、旅行、花卉、外食など様々な分野で職を失う人がでてくる。それは本人の問題だけではなく、その人によって生計を維持してきた人も苦しい状況になる。中には「お嬢やります」という人も出てくるかもしれないが、それを「面白いこと」という発想はどこからでてくるのだろうか。売れっ子の芸能人だと稼ぎは相当のものになるというが、彼から見れば、巷で生活苦にあえいでいる人々など下々にしかみえないのかもしれない。しかし、その下々の人の中には、本当に自分、あるいは家族がお嬢やるしかないと悩んでいる人もいる。そしてこの発言にはもう一つ思うことがある。こうした「お嬢」のような業界については、規制の議論がでるたびに、「好きで働いている人がいる」という反論があった。しかし、世の中の多くの人はそうは思っておらず、苦界という昔ながらの言葉が示すように、多くの場合、生活苦、脅迫、借金などで追い詰められて流れ着く場であるということを、いまさらながらに明らかにしたということだろう。こういうものが社会の中に公然と存在していることには目を向けず、やれジョセーの議員が少ないだの役員が少ないだのとキーキーさわいでいるフェミにうさんくささを感じる理由はここにもある。失言の中には、発言の一部だけを切り取られて問題視されるものもあれば、たいしたことないことなのに言葉尻をとられて騒がれるものもある。その一方で「へえ、この人はこんなことを考えていたんだ。こんな人だったんだ」という失言?もある。この芸能人の失言は明らかに後者である。この人は高視聴率の国民的バラエティにもでているらしいが、はたして今後も出演をさせ続けるのだろうか。そうなれば、この半国営放送が視聴者として想定している多くの善男善女の庶民層は、この放送局に対して不快感や不信感をつのらせるのではないかと心配である。
2020年05月22日
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最近のニュース報道をみていて思うことを書いてみる。まず、雲隠れ中の河合夫妻の公職選挙法違反疑惑についての報道をみていると、つい外国の法務大臣の疑惑について、これでもかこれでもかと大報道していたことと比べてしまう。自国の法務大臣よりも外国の法務大臣の不祥事について大報道するのってどうみても変ではないか。次に、障碍者施設で起きた殺傷事件についての裁判が始まったが、被告人はかつてこの施設で働いていた時に、溺れかけた障碍者を助けたのに家族から感謝されなかったことが、犯行に至る動機を形成したということを供述している。それなのに、これについての後追い報道がまったくないのが変な気がする。本当にそうした事実はあったのだろうか。仮に事実であったとしても、何も当該家族を特定できるようにしたり非難したりしろというわけではもちろんない。ただ、この事件の背景には歪んだ思想なるものがあり、それはナチスと同じ優性思想であったとされているが、被告人は実際に何年も障碍者の世話を行い、家族(まったく施設を訪れない家族は別として)とも接触をもっていた人物であったことは忘れてはならないだろう。そしてまたこの事件について、一部新聞報道が行っているような男39歳、女40歳というような匿名報道のやり方についても気持ち悪さを感じる。それはちょうど生物学に関連する本で「ヒト」という単語をみたときに感じるのと同質の気持ち悪さなのだが…。最後に、カジノ誘致に関連して議員が逮捕された事件についてであるが、これでカジノ誘致に対する潮目が変わったのではないか。当たり前のことであるが、カジノは公営ギャンブルとは違い、まず、カジノを運営する企業が儲けるものである。それが税収増や経済活性化につながるということを誘致派の人々はいうのかもしれないが、その企業が外国企業となれば、日本人がカジノですった金が外国企業に流れるという構図になる。そして今度の事件でわかったように日本のカジノへの進出をもくろむ外国企業は多い。よく考えればあたりまえなのだが、そんなあたりまえのことに気づかせたことは、この事件の功罪のうちの功の部分なのかもしれない。
2020年01月19日
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,ものごとには様々な面があり、人生もまたひとそれぞれだ。だから、世の中はマスコミ好みの絵になる話ばかりがすべてではない。ハンセン病の元患者について、家族は元患者との縁を切り、その存在をひた隠しにし、彼彼女がいないものとして暮らしていたという話がある。しかし、それはなにもハンセン病の元患者に限らず、それ以外の障害児者についてもありうることだろう。実際に、また聞きではあるが、障害児者施設ではほとんど面会にもこない家族がいるという話を聞いたことがある。こうしたことには、当事者にしかわからない苦悩はあるし、そうした家族の「冷たさ」を社会に蔓延する差別や偏見のせいにする見方もあるだろう。だからもちろん、こういう家族がいたとしても、それをここで批判しようなどという気はさらさらない。ただおかしいのは、マスコミである。障害児者と家族の感動物語ばかりで、施設に預けっぱなしで面会にもこないような家族のことは一切報道をしない。なにもそれを特定して報道しろということではなく、そういう例もあるということも報道しないと、障害児者をとりまく実情についてはわからないのではないか。
2020年01月13日
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よくいわれることなのだが、「私はリンゴが好きだ」という議論と「他人もリンゴを食べるべきだ」という議論は全く別物である。そしてこれと同様に「他人もリンゴを食べるべきだ」という議論と「リンゴを食べたくない人もリンゴを食べるべきだ」という議論も全くの別物である。京都アニメーションの放火殺人で議論となった被害者の実名報道についての議論はまさにそうした問題である。リンゴを食べたくない人にはいつだってリンゴを食べる自由がある。その上で「リンゴを食べたくない人」に無理にリンゴを食べさせるのがよいのかどうか…問題の核心はそこではないか。放火殺人では多くの被害者遺族が実名公表を望まないにもかかわらず、警察はマスコミに実名を提供し、そしてほとんどのマスコミは実名を報道した。その実名報道の理由をみると、例えば「事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とするため、被害者の方の実名を報道することが必要」とある。しかし、事件の重大性や命の重さを伝え社会の教訓とするために、遺族の意に反してまでの実名公表が必要なのだろうか。それにやまゆり園事件での扱いの相違も気になる。かの事件では多くの被害者が匿名報道され、それも男〇〇歳、女△△歳といった、ちょっと異様な匿名報道の仕方だったのだが、それと京アニの事件との扱いの差はなんなのだろうか。「事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とする」という点ではどちらの事件も同様だと思うのだが、マスコミの方々はそう思っていないのだろうか。犯罪被害者、事故や災害の被災者の実名は本人や遺族が望まなければ実名報道はすべきではないと思うし、警察も実名を報道機関に提供すべきではないと思う。なぜなら「事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とするため」という理由であれば、被害者やその遺族の意思に反してまで実名を公開する理由にはならないし、むしろ商業主義の中で世人の「知りたい興味」に応えるだけの報道(週刊誌などは往々にしてそうではないかと思うのだが)は被害者や遺族の傷に塩をすりつけるようなものだからである。そしてここが最も重要な点、忘れてはならない点なのだが、「事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とするため」という理由、あるいは被害者本人の生きてきた証を残したいなどという理由で、実名を公表したいと思う被害者や遺族はいつでもそれを行う自由があるということである。マスコミを介する方法もあれば自らネット等で公表する方法もあるのだが。
2019年10月06日
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テレビでは消費税増税を前にしてティッシュを買いだめする人々のコメントや定期券に並ぶ長蛇の列を放映している。前回の増税のときも似たような映像を流していたが、これでは全く消費税増税はイヴェントみたいではないか。消費税が上がったって給料が上がるわけではない。最低限度の生活費として計算されているはずの生活保護費が上がるという話も聞かない。ぎりぎりの生活をしている層では消費税増税が本当に脅威という人もいるはずなのだが、そういう人の声を紹介するような報道はなぜないのだろうか。消費税で困るという人の声だけではない。国内に数か所のカジノがある韓国で、唯一韓国人も入れるというカジノがあるのだが、そこに人々が殺到して、その結果、財産消失や金がらみの犯罪事件など大変な社会問題が起きているという。それなのに、こうした実態が報道されないのは不思議である。最初は海外だから報道しないのかと思っていたけど、日本では知名度ゼロだったイケメン政治家が娘を私立大学に不正入学させた疑惑を延々と放映しているところをみると、そうでもないようだ。
2019年09月25日
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映画「新聞記者」を見た時に、ネット世論もアルバイトの書き込みを雇って操作されているという場面があった。これもネット上にときどきでてくる選挙結果が操作されていると同様の怪情報ではないのか。だいたいそんな書き込みをアルバイトにやらせていたというのであれば、ぜったいに「やった人」の話が聞こえてくるはずだ。そんなアルバイトを行った人自身が契約書などの「証拠」をアップすることだってある。そんなバカな…というのが感想であった。けれども、もしかしたらそういうこともあるかもしれないと思うこともある。最近、緊急走行中のパトカーが横断歩道を渡っていた5歳児を轢いた事故があった。これについてのニュースのコメントを見るとほとんどが「緊急走行中のパトカーをよけることを教えなかった親が悪い」というもので驚いた。そしてこの事故の続報は報道されていない。マスコミ報道は官邸に対する忖度、スポンサー企業に対する制約の他に、官庁に対する忖度、あるいは制約もあるのだろう。貴重な情報源となってくれる官庁には報道も遠慮するというもので、他省庁に比べても警察などは特にこうした要素が強いのだろう。そういえば情報源として貴重な省庁はまだある。外務省である。公務員バッシングがこれだけ世をにぎわしているのに外交官の特権的厚遇を批判する報道というのがないのは不思議である。マスコミのトップがご褒美のように観光大国の大使に任命されるような時勢なので、そんなのを期待する方が無理なのかもしれないが。そういえば、昔そんな外務官僚の特権的厚遇を批判していた政治家がいた。けれども、そんな批判をしたとたん、マスコミの風向きはさっと変わり、彼女は「女性宰相候補」から「お嬢さん育ちでわがままなただのおばさん」に格下げされ、政治家生命も消えていった。なんなんだ、これは…と思ったものだ。
2019年09月09日
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最近ポピュリズムという言葉をよくきく。否定的な意味合いに使われることが多いのだが、その内実はマスコミの予想(誘導)に反した選挙結果がでた場合に主に使われているようだ。米国の大統領選挙の結果然り、英国のEU離脱然り。そして日本ではマスコミが無視していたN国やれいわが議席をとると、これもポピュリズムとして批判的に評する人がいる。けれどもポピュリズムがこのような意味であれば、この言葉自体マスコミの傲慢のように思う。世の中はネットで誰もが意見を発信できる時代になっている。マスコミが「オピニオンリーダー」であり、「社会の木鐸」であったというのは、いったいいつのことなのだろうか。れいわについては前にも書いたが、N国もやはり有権者の中の一定層の支持を得た。これは別に「面白半分の投票」というわけでもないだろう。面白半分に投票したいような政党なら過去にもあったし、それだけではとうてい議席になどとどかなかった。これについて東京新聞のさるコラムで面白い指摘があった。N国の支持者の中には受信料を痛みとして感じている人がいたのではないかというものである。たしかにそうかもしれない。受信料免除もあるが、これは生活保護受給者などけっこうハードルが高い。免除にならなくとも生活の厳しい人が多いし、一方、スマホ、パソコンなどで観ることのできる映像はあふれている。受信料は月額で振込用紙だと1310円、これに衛星だと2280円となる。金持ちからすればどうでもよい金額なのだが、ぎりぎりの生活のしている人からすると、1310円はレストランで肉料理のコーヒー付きの豪華ランチを食べられる金額である。1月に一度でも「豪華ランチの日」があればずいぶんと違うのではないか…そう思う人がいたって不思議ではない。
2019年09月07日
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昨日までせっせと韓国の「玉ねぎ男」のスキャンダルをやっていたテレビも今日は電車とトラックの衝突事故一色になっている。まあ、韓国の法務大臣のスキャンダルは娘を大学に不正入学させたというもので、日本の感覚(たぶん他の人もそうだと思うので)ではいくら大臣の娘だろうが20にもならないガキンチョがどこぞの大学に入ったのが不正だのなんのでなぜあんな騒ぎになるのかわからない。そういえば前大統領の側近の娘が有名女子大に不正で入った事案についても5人もの人が逮捕され、海外に行っていた当の20代女性も国際刑事警察機構に捜査を依頼するなど、「不正入学」に対する見方は日本より格段に厳しい。日本では有名私大で、有力政治家や財界人の子弟を優遇して入学させている事情があるのかどうかは知らないが、もしたとえあったとしてもそんなに驚かないように思う。もちろん国立大学が有力政治家の子弟の入試の点数に下駄をはかせていたなんてことがあれば、それは日本でも韓国でも大問題になるのだろうけど。で、今回のトラックと電車の事故である。67歳で大型トラックの運転というが、その年齢になれば自覚症状がなくても、視野が欠けたり運動能力が衰えたりする。いったん別の会社を退職して今の会社に採用されて日が浅いということなのだが、年齢からくる衰えや業務に慣れていないことが事故の背景にあるのではないか。そうだとすれば、昨今、問題になっている高齢ドライバーの事故にも通じる問題があるのかもしれない。
2019年09月06日
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ひさしぶりに朝のワイドショーをみて驚いた。韓国の法務大臣のスキャンダルを大報道している。それもそのスキャンダルの中味ではなく、わざわざ故郷の釜山にまで行って、高校時代のエピソードやどんなに女学生にもてていたかとか、そんな話をおいかけている。で、じゃあその問題のスキャンダルの中味が何かについてみてみると、高二の娘を論文の第一著者に認定させ、高麗大学生命科学部に無試験で入学させたということらしい。前の朴槿恵のときも、友人の娘の大学不正入学が大問題になっていたのは記憶に新しいが、日本の感覚ではこれってそんなに問題なのだろうか。高麗大学は名門とはいえ私立大学だ。日本では私立大学と言えば、スポーツ選手や芸能人の優遇入学は普通に行われているし、二世政治家だって出身大学をみると特定の私学に異様に集中している。人脈づくりという面では選挙区の府県の国立大学に入っていた方がずっとよいと思うのに。韓国の法務大臣の娘に話を戻せば、高二で実際に論文の筆頭研究者になる可能性があるようなら不正入学などする必要もないし、逆にそんな可能性もないような実力なら虚偽の実績で入学したところで後々苦労するだけだろう。海の向こうのこんな政治家のスキャンダルを追いかけるくらいなら、日本国内の政治家で報道すべきことがあるのではないか。モリカケ関係でも補助金詐欺事件の公判は進んでいるし、「非正規という用語」を使うなという厚労省メールで「大臣の御指摘」が役人の勘違いと説明されている。つっこむのならこっちではないかと思うのだが。
2019年09月04日
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京都アニメーション放火殺人の被害者と相模原障碍者施設殺人事件の被害者の匿名の扱いの差異が気になる。後者についての報道で男性〇〇歳、女性△△歳という表現が見られたが、前者については見られない。そして前者については匿名であることが批判的に報じられ、後者については「遺族のプライバシー」を理由に匿名が当然視される。そして前者については生きた証として匿名が問題視されるのに、後者については生きた証という言葉は見られない。こうした差異の背景はなんなのだろうか。また、京都アニメーション放火殺人の被害者についてはアニメ界では著名な人物が被害者に含まれているから実名報道すべきだという意見もある。それでは著名な被害者は実名、そうでない被害者は匿名ということになる。その著名かどうかの基準はなんなのだろうか。エンドロールに名前はでれば「公人」というのだろうか。個人的には犯罪の被害者や事故の被災者は被害者本人や遺族が望まなければ原則匿名、ただし、政財界の大物など一定の影響力を行使するような人間については「公人」として実名にするくらいのことでよいように思う。死者の身元を報道の受け手である世人が知ったところで、それは必ずしも「死者を悼む」とか「犯罪に対する怒りを共有化する」なんていうことばかりでなく、下世話な興味もあるのだから。報道についてはもう一つ、あおり運転と暴行事件の容疑者についての大報道も気になる。あおり運転が原因で夫婦二人がなくなったという事件(事故だとは思えない)が衝撃を与えたので、あおり運転についての関心が高くなっていることが背景にはあるのだろうけど、これは結果としてはあおり運転プラス暴行事件である。容疑者が悪い奴ということには異論はないが、事件の内容に比べて連日の大報道ぶりが異様なように思う。資産家であり高級車を乗り回していたという容疑者の暮らしぶりが世人の好奇心を煽っているという面はないのだろうか。これは暴行を受けた人も傷害を負ったというわけではなく、それほどの重罪にはならない事件のように思う。
2019年08月21日
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昨日、著名な政治家の結婚のニュースをNHKがニュース速報で流したという。いくら政治家であっても結婚は私事のはずで、ワイドショーならともかく総合ニュースでだいたいてきに扱うものではないように想う。NHKを批判する政党が議席を獲得したといって話題になっているが、受信料の強制も含め、NHKを批判する風潮は高まっている。他の枠のニュースはそうでもないようなのだが、最もメインとなる9時のニュースが芸能ネタやスポーツネタにかたよりすぎているのも大いに問題のように思う。この間の参議院選挙にしても、選挙のニュースは驚くほど少なかった。公正中立と言うのはわからんでもないが、争点となりそうなものについて情報を提供することも、報道の大きな役割であろう。テレビと並んで、世論に影響を与えるのは、新聞や雑誌などの活字媒体であるが、最近の雑誌の高齢者シフトも目に付く。それだけ読者層も高齢化しているということなのだろうけど、これでは前からあった老人向けの雑誌などは存廃の危機になっているのではないか。それとも高齢者層というパイ自体が膨張しているのでこれはこれでかまわないのだろうか。そして週刊誌といえば、もう一つ、めったやたらに特定の私人をバッシングする報道があるのも気になる。さる皇族の婚約内定者とされる某さんなのだが、そもそも法律事務所勤務というのはそんなに酷い職業なのだろうか。もちろん弁護士志願で法律事務所でアルバイトをするという人は昔からいたのだが、だからといって法律事務所では弁護士以外みなアルバイトというわけでもないだろう。れっきとした大手法律事務所で語学専門職として勤務しているというのなら、それはそれで立派な職業ではないか。それに、収入だって他のサラリーマンとそんなに変わらないのではないか。さらに週刊誌ではさる女性皇族についても「高等遊民」という言い方をしていたが、これも失礼だろう。公務といっても、皇族自らが手を挙げてやるというものではない。どうなっているのかは知らないが、声がかからなければ、自分からやるというわけにもいかないし、そもそも「公務」の範囲自体不明確だ。職業についてだって、自分で何かやると言ってできる立場でもない。もちろん一般人のような就活の苦労はないが、かといって、〇〇で働きたいといったって、それが自由にできるというわけでもないのだから。
2019年08月08日
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選挙まであとわずかなのに、テレビでは選挙関係の話題が少ないように思う。無党派層は寝ていればよい…なんてことを言った政権政党の政治家がいたが、まさか選挙ムードをもりあげるなという忖度があるわけでもないだろう。それにしてもさる解散したアイドルグループの元メンバーをテレビにだすなという事務所側の圧力があったとかなかったとかという話は、NHKの総合ニュースで延々とやる話なのだろうか。良い悪いは別にしてこういう話は昔からあったし、かのアイドルグループの元メンバーにしてもさほど傑出した歌唱力や演技力があるというわけでもないし、どうみても選挙前の今の時期にあれほどの時間をとっての報道は不自然だとしか思えない。そしてまた、昨日起きた放火殺人事件。これは文句なしに大ニュースなのだが、容疑者の氏名や背景がなんで報道されないのだろうか。これも忖度?あれも忖度?いけないいけない…どうも最近マスコミのニュース報道を見る目が疑り深くなりすぎている。
2019年07月19日
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選挙が近いということで新聞等には選挙に関する情勢報道の記事も多く掲載されている。こういうものはどのくらい当たるのだろうか。興味深い。選挙報道といえばヒラリー対トランプの米大統領選挙を思いだす。予想は圧倒的にヒラリー有利で、日本の総理も選挙期間中にわざわざヒラリーと面会したくらいだ。ところが結果はさにあらず。マスコミも好意的に報道し、セレブなどの有名人の応援も多かったヒラリーが負け、マスコミがボロクソにこきおろしていたトランプが勝利した。得票数はかわらなかったものの、トランプが勝った州は日本人にはあまりなじみのない名称のところが多かったように思う。要するに産業や経済の中心ではなかったようなところでトランプは強かったのだろう。マスコミの報道もセレブの応援も選挙に強力な効果を発揮できなかったという意味で、この間の米国大統領選挙は画期的ともいえる。さて、日本ではどうだろうか。マスコミの予想どおりの結果だったら日本でのマスコミの影響力は健在、予想をくつがえす結果だったら米国の大統領選で起きたような現象が日本でも起き、マスコミの影響も限定的になったとみるべきなのだろうか。
2019年07月16日
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ほんの最初をみただけなのだが、NHKのさる番組で「会社を買う」ということを取り上げていた。どうも手が届く金額で設備を買うという話で社員ごと会社を買うようなわけではないようだ。東京近郊でチーズを作成する機械一式を買ったり、古い風呂屋を買ったりした例をとりあげていた。観光牧場に付設するような手作りチーズの店ならともかく普通の場所にそんな店があっても生活できるとも思えない。古い風呂屋もあちこちに日帰り入浴施設があるし固定客のあるところはそれなりに営業できているので、開業してもそんなに客がつきそうもない。そもそも儲かるようなものなら、誰も手放すわけがなく、儲かりそうもないから売りにだしているのだろう。まがりなりにもNHKという信用のあるテレビ局が、こうした素人起業を「新しい潮流」のように報道するのはおかしくないかな。老後は年金だけでは暮らせない、2000万円の貯金が必要だと大臣が言ったことで、国民の不安は大いに高まっただろうけど、だからといって投資で金を増やそうなんていう発想にはとてもならない。ましてや起業などとてもとてもである。最近のフランチャイズ経営者とコンビニ会社との24時間営業をめぐるトラブルは、フランチャイズ契約なるものが法の保護の枠外にある、実態は力関係の圧倒的に弱い側の不利益契約であることが明るみになったが、閾の低いフランチャイズによる起業でさえこうである。老後に不安を感じるようになった人々は、まずもって節約にはしるだろう。書籍、旅行、趣味などの不要不急の支出見直し、飲み会の回数減少、外食の自粛などはすぐに考えつく。かくして急速に景気は落ち込み、冬のような時代がやってくる?
2019年06月27日
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この頃はニュースがないんだねえ…。NHKの夜のニュースをみながら家族がこんなことを言っていた。ちょうど「オオスナモグリ」なる絶滅したとされる甲殻類の一種が発見されたということを延々と報道していたときだ。これは、ニュースがないのではなく、ニュースにしていないだけではないのか。「オオスナモグリ」が絶滅したかどうかよりも、もっと日々の生活に重要なことはたくさんある。老後の生活に2000万円の貯金が必要だと蔵相がいったことなども本来なら「大ニュース」だろう。その後、蔵相は、老後の生活ではなく、「豊かな老後」のために必要なのだと言い直しているようだが、「豊か」などは主観的表現なので、それでは前の発言はなんなのだと思う。将来に不安があれば、皆必死に消費を控えて貯蓄に励むだろう。自動車や海外旅行どころか子供を持つという気にもならないだろうし、そうなれば国は急速に縮小していく。本来ならえっと驚くニュースなのだが、その割にはニュースとしての扱いは大きくないように思う。こんなニュースとしての扱いの大きさだけではない。ネットを含めた論調にも不思議に思う点がある。元次官が息子を殺害した報道について、元次官に同情的な意見が非常に多い。それはわかるのだが、じゃあ、殺害された息子は殺されて当然の人間だったのだろうか。真偽のほどはわからないが、息子はネット上で自身の精神障害を告白し「呪われた身体」と書いていた。これが本当なら息子は障碍者ということになり、連想はどうしても障碍者施設で起きた大量殺人事件へとむかう。あの障碍者施設の殺人事件では「殺されてよい命など一つもない」とか「障碍者の命の輝き」といったような言説が世にあふれ、少しでも反論するとナチだの危険思想だのといわれかねないいきおいだった。いったい障碍者施設で殺害された人々の命と元次官の息子の命とはどう違うのだろうか。このあたりも、親が殺害するのなら「同情に値する」のだが、他人が殺害するのはいくら批判しても批判しきれないほどの悪行となるのだろうか。それならそれはそれでわかりやすい。多くの場合、人は理屈ではなく、心のどっかで子は親の所有物であり、親は子の存在自体に対して無限の責任を負うべきものと考えているのだから。
2019年06月09日
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報道にもいろいろな種類がある。例えば祭りがあったりすれば、その祭りを盛り上げるためだけの報道がある。こういう報道は、めでたい気分を高揚させるためのものなので情報としては大したものはない。祭りに初めて参加する〇〇ちゃんとか祭りを楽しみにしている△△さんとか…まあ、こうしたことは他人からみればどうでもよい。これに対して、その祭りの歴史とか、類似のものの紹介といったように、なんらかの情報や知識を提供する報道や、その祭りの意義や是非について検討するための材料を提供するような検証的報道というものもある。令和改元、そしてトランプ訪日と昨今の報道をみていると、どうも「盛り上げ報道」に終始していて、報道としての内容は非常に薄くなっているように思う。それにマスコミはNHKを中心にすべて右に倣えで、同じような報道しかしないのも息苦しい。これからも、秋の即位の礼、そして来年のオリンピックと、こうした盛り上げ型の報道が続くのだろうか。
2019年06月02日
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以前に比べるとテレビをあまり見なくなった。DVDやインターネットで好きな映像をいくらでもみることができるし、ニュースもネットを通じて様々なものを読むことができる。だからかえって改元や即位についての報道があふれているテレビが異様に見える。新時代とさかんに連呼しているが、2019年4月が5月になっただけで何が変わったわけでもない。めでたいというけどなにがめでたい…それが多くの人の感覚のように思う。大型連休と言っても勤務せざるを得ない人は多かったし、休みだとしてももてあました人も多かったのではないか。それになによりも、元号で年を数える習慣が平成のうちにずいぶん少なくなってのである。阪神大震災やオウム事件はまだ平成7年という印象が強いのだが、東日本大震災となると2011年という西暦年がまずでてくる。だから「日本中が祝賀ムードにわいている」なんてあると、なんか嘘っぽい。あらためて思うのだが、NHKの劣化が酷い。民放顔負けのはっちゃけた祝賀報道もさることながら、総合ニュースでもえんえんと即位だの改元だのを扱っている。それに誰がどんな昼飯を食べているとかいった類のどうでもよい番組が多すぎる。
2019年05月08日
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巳は上に 己己(おのれつちのと)下につき すでにやむのみ 中ほどにつくこんな歌は多くの人が覚えたのではないか。巳と己と已は紛らわしい文字だが、こうして意味と形を暗記する。けれどもこんな勉強をしなかった人はもちろん知らない。そしてときには、已然形の已の読み方から連想して、「い」と読むかもしれない。そうなると、「願って已みません」とよむところを「願っていません」と読んで、意味が逆になってしまう。https://yuruneto.com/abe-negatteimasen/まあ、単なる言い間違いなのかもしれないし、たいしたことではないのかもしれない。けれどもどんなに小さくてもニュースはニュースだと思うのだが、新聞やテレビでいっさいふれていないのは変だ。そうでなくても、最近、マスコミとネット空間のニュースで乖離が目立つことが多くなっている。そういえば、池袋の暴走車の事故ではネット上では「上級国民」の話題で沸騰しているのにマスコミでは続報がない。
2019年05月07日
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平成の事件で忘れられないものとして相模原の障碍者施設で起きた殺傷事件がある。事件そのものの衝撃よりも、その後の報道に異様さが印象に残る。男性35歳、女性40歳…というように被害者の性別の年齢だけが列挙されていたのだ。なんなのだろう、いったい。たしかに被害者や被災者で氏名を報道すべきでない場合がある。けれどもそういう場合、女性が被害者になる犯罪ではA子さん(20歳)といったような表記がなされるし、風俗店火災のような場合にはBさん(男性56歳)といったような表記になる。同じ実名非公表でも、Aさん(男性35歳)と男性35歳では印象が違う。前者には姓名はあるのだが被害者や被災者遺族をおもんばかって出せないという色合いが強く、後者では、初めから姓名がないように見える。なぜ相模原の事件ではああいった表記がなされたのか不思議でならない。もちろんあの事件の被害者遺族の中には被害者の氏名を公表したうえでマスコミ等で発言している人もいる。けれどもそれはいつも同じ人であり、大勢いる多くの被害者は依然として女性〇歳、男性△歳のままであり、その遺族は決して表にはでることがない。もしかしたら被害者たちの多くは生前も家族によって「いないこと」にされていた、つまり家族たちは知人、友人に施設に入っている子供や兄弟の存在を隠してきたのではないか。そうでもなければ、あれほど厳密に匿名が守られている理由がわからない。一般論としては事件の被害者、災害や事故の被災者は匿名を原則にすべきだと思う。ただ、それが現実には原則となっていない以上、この事件における匿名の理由は気になるところである。
2019年04月10日
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雑誌SAPIOが不定期刊になるという。この間の新潮45の休刊もそうなのだが、ああいう評論を主体とした雑誌が売れない時代なのだろう。それもそうだ。かつてはオピニオンリーダーという言葉があり、大衆は新聞や雑誌で権威ある人々の評論を読み、それを自分の意見としていたが、今はそうした時代ではない。かつては市井の議論では〇〇新聞の社説にこうあったとか、△△がこう言っているなんてのがよくあったが、今はそういうことをいう頻度はぐっと減っている。大抵のテーマは検索すれば、それについてのありとあらゆる意見がでてくる。もちろん玉石混交といってしまえばいえるが、一方で従来ならマスコミにでなかったような当事者の発言もある。こうしたものは無料の上、双方向で感想や質問も書けるし、時には自分で意見を発信することもできる。こんな面白いものが出現したのに、なんでコーヒー代の何倍もはらって雑誌の評論を買う必要があるのだろうか。※雑誌だけでなく新聞も衰退産業なのではないか。ニュースはテレビやネットで見ることができるのだとしたら、残るは雑誌と同様のオピニオンなのだが、各新聞社の重鎮が書いたであろう社説は短時間でさっとまとめたものだけに、雑誌の評論に比べてもさらに読みでがない。各新聞社の姿勢から推測できるようなことを綺麗なまとまった文章でさっと書いたにすぎない。テレビ報道は速報性という点では貴重だが、コメントはどうでもいい。スポンサーの圧力、官邸の圧力?様々な制約の中で当意即妙に気の利いたことを言わなければならないコメンテーターも大変だが、それとても内容は「ちょっと気の利いた」という程度のものであるので、容姿がよくて頭の回転の良い人であれば十分だろう。あの学歴詐称の偽ハーフのイケメンなど出してやればいいのにと思う。ただそのテレビ報道も劣化が激しい。NHKの総合ニュースで子供アイドルグループの総選挙を国民的行事のようにえんえん報道したのには驚いたが、その後も、パンダの赤ちゃんだの妻を亡くした歌舞伎役者のコメントだのを長時間報道しているのを見ると、もう報道の役割を放棄したとしか思えない。それ以外の何の芸があるかわからない人々をひな壇に並べて笑い転げるだけの番組は時間と電波の無駄だし、特定の関心分野に絞って視聴できる有料テレビが普及していく中で、既存のテレビ局も安泰でなくなっていくのかもしれない。
2018年10月27日
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NHKの職員から某政党に内部告発があったという。森友のニュースは5分以下、総理夫人の映像は出すななどと言う官邸からの要請があり、それをうけて報道番組が作成されているという。真偽のほどは不明だが、昨今の報道を見るとありそうな話だ。生活保護削減、カジノ、裁量労働制。いずれも国民の生活に大きな影響を与える事項だと思うのだが、こうしたものについての報道がどのくらいなされたであろうか。ちなみに生活保護削減は最低賃金などとも連動するので、受給者だけの問題ではないし、すでにカジノを導入している韓国では、韓国人入場可能な山間部のカジノに客が殺到し、深刻な生活破綻の問題も見られるという。もちろん、森友案件は国会で大きな問題になっているが、この報道も少ない。森友については、「とるに足らぬ問題」と見る人もいるかもしれないが、国会でそれを問題視しているのであれば、その「国会で問題になっている」ことを報道するのは、報道の使命であろう。www.asyura2.com/18/senkyo242/msg/310.htmlかわりにNHKがどんな報道をしてきたかを思いだしてみる。共謀罪が強行採決された日には、パンダの赤ちゃんや中学生棋士を大報道していた。こういうのはワイドショーネタであり、総合ニュース枠で時間をとってやるようなものではないだろう。そしてその後は、相撲協会の理事長選を大報道し、さらにオリンピックが始まると狂ったようにオリンピック報道をやっていた。なんなんだ、これは…と思った人は多かったのではないか。ニュースだけでない。かつてのNHKはクローズアップ現代では、貧困問題を意欲的に取り上げていた。ワーキングプア、ネットカフェ難民、名ばかり管理職、こうした言葉もこの番組から広がったと記憶する。そんな頃に比べると、昨今のNHKはすっかり様変わりしている。
2018年03月30日
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最近大きく信頼を失ったものに自然科学系の専門家があるのではないか。原発事故直後にさかんに安全だとか影響がないだとかを繰り返し、その実、電力会社から金などをもらっていた実態が徐々にあきらかになっていく。専門家が事故の影響を過小評価する発言を繰り返した後に悪い情報が徐々にでてくる。こうなると専門家という肩書きをまとった単なる広報機関ではないか。*しかし、よく考えてみると、こうしたことは自然科学ではなく政治経済の分野ではとうに行われていることであり、いまさらおどろくほどのことではないのかもしれない。テレビのニュース解説番組などをみている人は多いだろうし、ワイドショーでとりあげるニュースを見る人はもっと多い。しかしそうした中で語られる解説やコメントはおどろくほど一様である。選挙の前は「日本に本格的な二大政党制がねづくかどうかの正念場」といった具合に、まるで似たり寄ったりの二大政党制が成熟した民主主義の完成形のようにミスリードした。実際には米国の例をみればわかるように大統領選が空疎なセレブの祭りと化し、貧困層には投票するような政党はないのに…。少子高齢化についても、こうしたところでは相も変わらず何人で何人の老人を支えていたのが今後は何人で何人をささえなければならないといった、数十年前の数合わせの議論で問題をすりかえている。本当は支えるはずの現役世代で低収入、不安定雇用の人間が激増していて、そうした人々は子供はおろか結婚もできない状態にあるし、もちろん保険料だって納めることができない。こうした問題点をスルーした議論はむなしい。TPPではバスにのりおくれるなとばかりに参加を煽り、消費税は高齢化をふまえると必要だと説く。さらに最近では外国人労働者を入れればよいことばかりのような議論も目立つ。ほとんどの国では生活必需品や食料品には税をかけていないかきわめて低い税率であること、過去の消費税値上げの後では消費がひえこんで税収はかえって減っていること。こうしたことは決して強調されることはない。ちょうど原発事故で危機感を煽る情報がひかえられたように、こうした情報もめだたないように扱われているのだろう。さらに問題なのは公務員給与や議員定数の削減と消費税という本来あまり関係のないものをむすびつけ、前者が後者の前提であるかのように議論し、結果的に消費税増税への道を作っていること。議員定数の削減は参政権削減なのに、それに踊る国民もアホ(朝三暮四の猿以下)としか思えないけど、嘘も百回言えば本当になるというのは、まさに本当だ。*マスコミにはもはや報道なんてものは期待しないし、マスコミ人もえらそうにジャーナリストなどと名乗らない方がよい。単なる政府やスポンサー企業の広報機関とみた方がことの実態にあっていることだろう。
2012年02月19日
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テレビや新聞の報道はひどい。特に、ぱりっとしたスーツをきたイケメン中年の何とか大教授なんていう人が歯切れよく説明したりすれば、善男善女はすぐにそれを信じてしまう。まだまだ世間にはマスコミはオピニオンリーダーであり、社会の木鐸だなんて思っている人は多い。*そうしたマスコミの中での論議でかならずでてくるのが議員定数削減だ。「政治家も増税をいう前に議員定数削減という形で自らの身を削るべきである。」こんな論議はもっともらしいが、議員定数が減ったところで税金が安くなるわけはない。それに議員はなんのためにいるかというそもそも論であるが、民意を政治の場に反映するためにいるのであり、別に議員個人が赤絨毯を踏んで高給を得るためにいるわけではない。議員定数削減はありていにいえば民意つぶしであり、これからも増えていくであろう貧困層の票の受け皿となりうる政党をつぶしておこうというのが実際のねらいではないか。米国ではフードスタンプにより生活している人が8人の1人というほどに貧困層が拡大しているが、そうした貧困層がいくらオバマ政権に失望しても、彼らが票を投ずるような政党はない。小選挙区制中心でさらに議員定数まで削減したら民主主義は空洞化するばかりである。貧困層や経済的弱者にとっては選挙権こそが最後の武器なのに…。*消費税についても同様の世論調査の匂いをマスコミに感じる。世界の中で日本の消費税率はまだまだ低いという報道がなされ、そうした印象を植え付ける棒グラフはしょっちゅう掲載される。しかし実際には、外国では生活必需品とそれ以外、食料品とそれ以外で税率を変えている国がほとんであり、食料品などでみた場合には日本の消費税率はすでに外国並みである。こんな消費税論議の基本的な知識ともいうべきことについても十分な報道がなされていないことに意図的な歪曲を感じる。*除染についても同様である。マスコミ報道だけをみると「徹底した除染」を行えば原発周辺にも居住可能であるかのような印象を受けるが、それは嘘だろう。それに、住民の郷土愛ばかりが強調されて、できれば原発周辺から離れたいと思っている住民についてあまり報道されないのはどういうわけなのだろうか。原発周辺を膨大な費用と手間をかけて除染するのと、原発周辺を居住禁止とし、除染にかけるような金を住民の生活再建のために使うのとどちらが合理的なのだろう。さるノーベル賞学者は除染する金を住民の避難や生活再建のためにあてろというようなことを言っているが、こうした議論こそをもっと真剣にすべきではないか。福島の子供の医療を無料にするという話もあるようだが、病気になって医療費が無料になるよりは、最初から病気にならない方がはるかによい。http://www.news-postseven.com/archives/20120107_78749.htmlそれに除染にはもう一つの大きな問題がある。実際に除染作業を行う人の健康問題である。辞職しない限り命令に従う義務のある若い自衛官がこうした作業にあたることは、大きな問題ではないか。チェルノブイリ事故では除染作業の中で被曝した人も相当いるという。原発作業員の健康問題と同様、除染にあたる自衛官や作業員の健康問題についてもあまり議論されてはいないようだが、これも常に念頭においておくべき問題であろう。
2012年01月09日
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2,3日前のある新聞の一面に米ソの核実験がさかんに行われていた頃の放射性物質の量は今日よりも高かったという記事が掲載されていた。60年代の話をなぜこんなに大きく扱うのかと一瞬疑問に思ったが、趣旨はどうやら、今現在福島原発からまき散らされている放射性物質はそれほど心配するものではないということをいいたいのかもしれない。たしかに、あの頃、核実験の後の雨にあたると禿になるとかといった俗説はあったが、それ以上のパニックは起きたわけでもなければ、ガンや白血病が激増したという話も聞かない。もちろん傘を忘れて禿になったという話も…。でもだからといって60年代の他国の核実験の影響と今の福島原発の影響を同じに考えてよいのか、米ソの核実験で住民の健康被害は本当になかったのか。*また、昨日の新聞には放射線にあたった場合のガンの発症率の向上をメタボや喫煙の場合と比較したものがあった。その数値をみると高い放射線をあびた場合も、喫煙やメタボの場合もかわらず、喫煙の習慣を捨てないまま放射性物質を恐れるのはいかにもバカみたいにも見える。でもよく考えると、喫煙やメタボで20代、30代のガンや白血病を不安に思う人はいない。この数値はなにかトリックがあるのではとも思うが、どうもよくわからない。*上記のような報道にみられるように、最近のマスコミでは、放射性物質による健康被害を過少にみせるようなものがめだつ。いずれも原発事故前にはなかったものだ。いまや政府発表の常套句となった感がある「安全です」、「ただちに健康に影響を及ぼさない」といった言葉と、安全性を強調するマスコミの報道は同一歩調にあるようにもみえるが、その一方で、官房長官は事故の起きた原発の付近にいくだけもフル装備で行き、滞在時間はわずか5分。マスコミも週刊誌報道によれば原発周辺50キロからは退避しているという。なんだかなあ。*思えば放射性物質による健康被害は、年単位という遅効性であるということ、ガンや白血病は通常の場合でも起こりうるものであるということから証明は難しい。チェルノブイリ事故による死者数ですら、ちょっと調べただけで様々な数字がでてきて驚くほどだ。だからこうしたものは国際的に権威ある定説をとりあえず信じるしかない。日本国内だけでしか通じないような安全の基準を信じろといったって、どだい無理な話だろう。**どうもよくわからない議論に総理のサミット花道論というのがある。たしかにサミット直後に辞めた総理は多いが、それはサミットに参加する他の首脳に対しても失礼な話だし、すぐに辞めるような総理が参加する意味というのもないように思う。サミットに参加するのに、毎回、とてつもない税金がかかるが、これも仕分けの対象ではないのだろうか。
2011年05月01日
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カダフィ大佐が民衆懐柔のために国民一人一人に現金をばらまくという。これってもしかして日本の子供手当にヒントを得たのだろうか。まさかとは思うが、カダフィ大佐と民主党の発想って思わぬところで似ている。もっともこれについては自民党の定額給付金も似たようなものかもしれないけど。*閑話休題。それにしても中東、北アフリカ情勢についての報道のワンパターンぶりはなんとかならないのだろうか。あまり新聞をよく読まないで文句をいうのはなんだが、どの報道も独裁と戦う民衆といったトーンで一致している。そういう報道が悪いとは言わないが、激動の後に予想される政権とか、それぞれの場合に世界情勢にどのような影響があるかとかもっと書くことはあるように思う。これにひきかえ連日大報道が続くニュージーランドの地震。日本人の被災者の詳細な情報をこれでもかこれでもかとさらして報道しているが、こういうことって大報道するようなものなのだろうか。特にひどいと思うのは重症を負った若者に対する取材だ。「足を切断しなければならないと聞いたときはどんな気持ちでしたか?」と聞いている映像が放映された。たまたまなのかもしれないが二度もこんな映像をみたので、たぶんこの青年に集中取材がされているのかもしれない。いったい、こういう取材をしている記者は自分の友人やその息子が事故にあっても、こうしたことを聞くのだろうか。おそらくそうではあるまい。そしてまた、聞いたこともないC級タレントの覚せい剤逮捕劇。こんなものは、スポーツ新聞以外ではべた記事くらいの報道価値しかないのではないか。日本のマスコミなど、およそジャーナリズムの名に値しない。
2011年02月26日
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やれやれ、またこんなマスコミの選民思想まるだしの記事が…。http://mondo-n.iza.ne.jp/blog/entry/2107409/さすがにマスコミ自身が書くのは気がひけたらしく、マスコミにのっかっている売文業者の筆をかりていっているのだが、なんでも「知的訓練をうけていない大衆」が情報を発信するのは問題が多く、ネット時代でもマスコミが権威をもつべきであるというのがその趣旨である。*こんな記事が出る直接の契機は有名人のデートをツィッターで報告した事例があったということらしいが、今まで、マスコミはこれどころではない人権侵害を何万回とやってきたことについてはどう考えているのだろうか。有名人のデートの暴露が問題ないとはいわない。でもそれはいわゆる「有名税」の範囲ともいえる話で、一般人がネットで暴露するようになる前にも芸能マスコミは似たようなことをやってきた。こうした有名人の私生活暴露以上に問題なのは一般人、特に犯罪被害者などに対する人権侵害だ。これについて今までマスコミのやってきたことと言ったら酷いというしかない。具体的にいってしまうと米兵による女性暴行事件で写真週刊誌の女性記者が被害者を追いまわし、あげくは写真までとろうとした人権侵害事件があった。大学生による酒の席での暴行事件で被害者が告訴をしたらマスコミが殺到し、恐怖を感じた被害者が告訴をとりさげたことがあった。長期間監禁されていた被害者が自宅周辺のマスコミ取材が酷く、せっかく保護されたのに何カ月も自宅に帰れないことがあった。芸能人でもスポーツ選手でもない、こうした弱い立場の一般人に対しなされた人権侵害にマスコミから反省の言葉が聞こえてきたことはほとんどない。いっとくけど「報道被害」は自然現象でもなんでもない。マスコミが加害者なのである。*こうした人権侵害は別にしても政治や経済についてもマスコミの報道は歪んでいるとしか思えない。各紙足並みをそろえての消費税翼賛報道も異常なら、まるで自民党と民主党しか有権者の選択肢がないかのような報道姿勢も目にあまる。ある大手新聞社は監査役に元経団連の会長をいれたというが、これでは報道や論調が財界よりになることは否定できないだろう。おそらく他紙も事情は似たり寄ったりだと思うし、それでなくとも、広告収入などでマスコミはスポンサー企業の意向を無視できない。マスコミ報道は最初から公平でもなんでもないのである。*そんなこんなを考えてみると、仮にマスコミの方々が「知的訓練を受けている」としても、知的訓練を受けていない私ども一般大衆が、マスコミの発信する情報や論調を「権威あるもの」と受け取る必要があるのだろうか。権威として情報を受け取るということは、その情報に対して盲目になるということである。ありていにいえば、A新聞がこう言っているからこうなのだろうと考えたり、新聞はみなこういっているからこうに違いないと判断するということである。情報を受取る場合には盲目になってはならない。新聞情報にすべて反発しろ、嘘だと思えとはいわないけど、権威として受け止める必要もまたさらさらない。要は自分の頭で考えろということである。
2011年01月16日
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今時、新聞を社会の木鐸だと思っている人はいるのだろうか。もしそう思っている人がいるとしたらぜひ言いたいことがある。新聞というのは決して公平ではないし、時には一方向に世論を誘導することさえある。たとえばりべラルとか左とか(これらの言葉は実は定義がなく感覚的に使われることが多い)言われることの多い某大新聞の年頭社説である。ぜひ全文を読んでほしいのだが、例えば「…先進国で最悪の財政赤字が立ちはだかる。社会保障や公共事業を数十年間も国債に頼ってきた結果である。財政は崖っぷちに立っている。 赤字を食い止めながら、社会保障の財源をつくり、制度を組み替える。つらい話ではあるが、早く取りかかるほど改革の痛みは少なくてすむ。…」と案に消費税導入の必要性を訴える。 個人的には重要なのは税よりもむしろ使いみちだと思うし、たしかに財政を考えれば消費税導入も不可避であるのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、財政難や少子高齢化イコール消費税というのではなく、法人税、所得税、相続税などの税体系全体の中で税収の議論を行わなければ均衡を失するのではないか。また、「現在は現役3人弱で引退世代1人を支えているが、20年後には2人弱で1人を支える。そのとき、現役世代は1400万人以上も減っている――。」という言い方もこの社説にかぎらず、あちこちにみられ、「高齢化社会だ大変だ、もっと子供を生みましょう」というような結論につながりがちなのであるが、人口を年齢と数だけでみる実に粗雑な議論である。現役世代の中の雇用が劣化し、実は高齢世代に寄生する現役世代が増えてきていること、そして減少しているはずの若年世代で就職難が起きていることは何もふれていない。問題なのは現役世代が減ることではなく、その現役世代の相当数が結婚もまともな就職の機会もないまま年齢を重ね、このままではごく近い将来に大きな社会の不安定要因になっていく可能性があることではないのだろうか。「自民党は早期解散へ追い込むという。だが、自民党への支持はさっぱり戻っていない。このまま総選挙になれば、投票先を失った選挙難民が路頭に迷うであろう。それを恐れる。」この社説はこうも書く。実はこれこそ最もこの社説の中で問題の多い箇所だと思う。自民と民主などもとからさしたる政策の違いなどはない。民主はさらに今後財界とのつながりを密接にするというのだから、ますますその政策が自民と変わらなくなるだろう。それなのに読者にあたかも自民と民主しか選択肢がないように誘導し、両方ともだめなら「選挙難民」だという。悪質な誘導としか思えないが、一方でこんな誘導にひっかかる方もひっかかる方だという気がする。政党は自民と民主だけではない。くだらないマスコミの社説にひきずられるのでなく、自分の頭で考えればよい。http://www.asahi.com/paper/editorial20110101.html?ref=any この間、ある大新聞に元経団連会長が社外監査役についたという報道があったが、他の新聞も事情は似たり寄ったりであろう。それだけではなく、スポンサーという立場でも財界はマスコミの生殺与奪の権を握っている。新聞をはじめとするマスコミは貴重な情報源ではあるが、それは決して公平中立なものでも、ましてや社会の木鐸のようなものでもなく、財界やマスコミ自身の宣伝装置と言った方が真相に近いのかもしれない。
2011年01月04日
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連日一面トップ扱いの尖閣衝突ビデオ流出問題の記事をみると不思議でならない。これの最も大きな問題は何だろう。新聞の論調も自民党の与党攻撃の理由もどうやら「政府のずさんな情報管理」にあるといいたいようだが、「ずさんな情報管理」をいうなら国際テロ捜査情報流出の方がはるかに深刻なのではないか。それなのにこの情報流出事件については、後追い報道が全くといってもいいくらいにない。尖閣ビデオ流出を非難するのは民主党を利するけど、国際テロ捜査情報流出を騒ぎ立てるのは与党民主党のためにならないから…もしかしてマスコミはそんなふうに考えているのではないかと疑ってしまう。国際テロ協力体制の蚊帳の外におかれ、各国の連携からもしめだされていくであろう日本はこれからテロのかっこうの標的になっていくのではないか。それを思うとおそろしい。*これに比べると尖閣衝突ビデオの方は情報流出といっても深刻さの度合いは国際テロ捜査情報流出に比べ格段に低い。そもそもこうした情報は非公開とすべきかどうかという議論はさておいても、流出の時点ですでに国会議員には閲覧させており、国会議員の国から内容はかなりもれていたからだ。中には「コツンとぶつかった」と嘘を言っていた人もいたようだけれども。要するに、流出時点ではすでに機密でもなんでもなくなっていたわけである。ここで流出しなくとも、いずれはなんらかの形で公開された情報ではないか。そんな流出に対して政府が私怨むきだしで怒っているようにみえるのはG20やAPECでの日中首脳会談の成否がかかっているからだろうか。首脳会談といっても、中国は要人をつかいわけているようで、相手が米英仏独それにロシアあたりだったらコキントウが会うが、日本総理くらいだったら普段はオンカホウだ。G20やAPECの場で菅とコキントウの首脳会談にこだわるのはわからないでもないが、さて、首脳会談で何を話し合うのだろうか。まさか尖閣衝突の謝罪を期待するわけではあるまい。いっちゃあなんだがせいぜいツーショットで握手している写真でもとって国内向けに菅総理の大物ぶりと日本外交の勢威をみせつけるといったくらいが目的なのではないか。あの小沢が新人議員を大挙連れて訪中しコキントウとのツーショットをとったのと発想は同じである。*今までの総理というのは鮫の脳みそなんて偏差値エリートぞろいのマスコミに揶揄されていた方も含め、皆総理の椅子に座ればそれなりに総理オーラを発していた。でも今の総理にはそうしたオーラがみごとなほどにない。国際会議での良い点と言えば英語がまったくできないようなので失言の心配があまりないことくらいかな。あのポッポみたいに英語で二酸化炭素25%削減みたいな日本の金を世界中にばらまく演説をされたらたまらない。民主党になってから国はずぶずぶと沈んでいくばかり。給料は下がり、失業は増え、希望はなくなっていく。街を歩いても、目に見えて空きテナント、広告の空きスペースが増えている。いったいどうなっていくのだろう。
2010年11月13日
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マスコミがみごとにスルーしているニュース。それは官房機密費がマスコミにわたっているというニュースだ。いったいいつまで沈黙を続けるのだろうか。だからこそこんな漫画もでてくる。http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201008011157590これに限らずマスコミが社会のボクタクだなんて考えるのはもうやめた方がよい。いや、もうとっくにそんな感覚を持つ人は絶滅危惧種なのかもしれないけど…。たとえば某大新聞の社説。エコカー補助についてさかんに延長を主張している。他にも、消費税増税の必要性や所得税の累進強化に反対する論陣をはっているものも多い。いつも思うのだが、こういう大新聞の社説って、編集委員とか主筆とかといった方々が天下国家を憂えて書いているのかしら。そんなはずはない。新聞なんてものはしょせんは売れてなんぼ、広告料収入をとってなんぼではないか。最近は購読数も減って新聞の台所も厳しいと聞く。官房機密費の問題もさりながら、新聞の論調や社説というものはかなりスポンサー企業の意向に左右されているように思えてならない。別に新聞を読むなとか、社説を読むなとかいうつもりはない。ただ新聞の論調や社説というものは「そうしたものだ」と思って読むと、いろいろなことを考えさせられるものだ。
2010年08月07日
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内閣総理大臣の指名でも麻生太郎の名は書かないなどという動きがあるほどに、今や麻生太郎は自民惨敗の戦犯扱いをされてるのだが、わずか1年前はそうではなかった。マスコミを騒がしての自民総裁選で麻生総理が誕生したとき、今日の事態を予想した人がどれほどいたのだろうか。「人気モノ」総理の登場で自民も持ち直すのではなんて思った人が大多数ではなかったのだろうか。若者に人気のあるチョイワル親父、アキバでは絶大な人気…麻生太郎について、そんなふうにマスコミは書いてきた。でも今回の選挙結果をみると、そんな麻生太郎の人気も都市伝説のようなものだったのかもしれない。※よくマスコミには○○が人気だとか△△が静かなブームだとかといった記事が載る。しかし仔細に読んでみると、人気があるといっても別に意識調査の数字が載っているわけでもないし、売り上げのグラフがあるわけでもない。ただ、それが好きだという何人かの人々の話が掲載され「ブーム」や「人気」を報じた後に、社会心理学者や評論家のもっともらしい解説が載るというのが通常のパターンだ。そういえば麻生太郎が若者に人気があるといった報道も別に若者を対象とした世論調査などに基づくものではなかった。ただ麻生太郎がアキバで演説したら何人集まっただの、麻生にちなんだ商品が発売されただのといった内容のものだったと記憶する。人が集まるのは好意や支持だけではなく、面白半分やものめずらしさということもあるのだから、もともと「麻生人気」なるものの存在もかなりあやしかったとしか思えない。これにかぎらずマスコミの報じる人気やブームというものは、あまり真に受けない方がよいのかもしれない。ときには人気やブームを報じること自体が手のこんだ宣伝という面もある。※マスコミの報道姿勢には疑問を感じることが多々ある。日本にも本格的に二大政党制が定着した云々といった言説にみられる「二大政党制」を無条件で是とする見方もそうだ。ちょっと国際ニュースなどを見れば分かることだが、二大政党制になっているのはアメリカやイギリスくらいで、ヨーロッパ大陸ではむしろ多党制が多く、二大政党制なるものは別に先進国標準でもなんでもない。むしろアメリカなどを見ると貧困層や社会的弱者には投票する政党がなく、二大政党制なんてものは民主主義政体としては一種の奇形なのではないかとさえ思う。そんなことも考えずにひたすら二大政党制を礼賛するのは異様としか思えない。税と福祉をめぐる言説だってそうだ。中福祉中負担だの高福祉高負担だのといった議論で、マスコミはひたすら福祉の財源には消費税しかないかのようなマインドコントロールを煽る。そして累進税率がずっと下がり続けてきたこと、相続税は軽減されてきたことは一切報道しない。ましてや宗教法人が税制上優遇されていることに対する疑問などはピクリともふれない。消費税は一切上げてはならぬなどというつもりはないが、はじめから他の税制にはふれず、あたかも消費税しか選択肢がないかのような報道は報道としておかしいのではないか。また、最近ではアメリカを初めとする様々な国で国家の再分配機能を強化する動きがあり、累進税率の強化なども検討されているというが、こうしたこともなぜかあまり報道されていない。※累進税率を強化すれば金持ちが逃げ出す、最低賃金を上げれば企業が逃げ出すとか中小企業がつぶれる、労働規制を強化すれば失業者が増える…こうした類の議論が蔓延し、そこで思考停止してしまう。かつて小選挙区制導入を政治改革といいかえ、これに反対する人々を守旧派とよんで排斥するような言説を煽ったのはマスコミではなかったか。コイズミ改革のときもアプリオリに小さい政府だの官より民だのといった旗を振ったのはマスコミではなかったか。そこにはなぜ小さい政府がよいのか、なぜ官より民がよいのかといった思考は一切なく、ただコイズミのワンフレーズに踊っただけだ。今だって同様。地方分権というが、なぜ中央がだめで地方ならよいのか。官僚主導からの脱却というがなぜ官僚がだめで政治ならよいのか。それにそもそも官僚主導なんてものがあるのか。各省の幹部の人事は政治家たる大臣が決める。法律だって政治家が賛成しなければ通らないわけだから、今だってどうみても実権は政治家の方が強い。官僚バッシングは行き着くところ公務員バッシングとなり、公務員に対する賃金引下げやリストラは民間にはね返ってゆくと危惧している。※マスコミの背後にはスポンサーたる財界がいる。マスコミの言説だけをうのみにしてはならない。変だと思ったことはとにかく変だとつぶやきつづける。ネットの役割はそうした意味で案外大きいのではないかと思う。
2009年09月09日
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正直言って芸能人のブログというのには偏見をもっていたのだが、中にはこんな面白いものもある。俳優の津川雅彦氏のブログである。http://www.santanokakurega.com/2009/03/post-120.htmlこの中で「マスコミの作った民主党バブル」という言葉がなんとも秀逸だ。昔の細川政権誕生の際、マスコミは明らかに野党よりの報道をして、それが後に問題となったりもした。その際、あるマスコミ人士はこういったものだ。「我々は変化を求めているのですよ」と。もちろんこの「変化」はネタになる材料という意味で、国民の利益や国家の利益とはまるで関係がない。※マスコミが二大政党を喧伝し、政権交代を煽る。今日の新聞にも「政権交代がすべて」という小沢代表の言葉が掲載されていた。政権交代はよいが、その先にどんな国家を目指すのか、社会をめざすのかはこの人何も言っていない。それがなくして、「政権交代の実現が生涯の大目標であり、夢であり、使命」と言われてもねえ…。ブログの中にも政権交代さえすればよいといった政権交代真理教みたいなのがあるけど、昔の自民党のある派閥から別の派閥に行くような政権交代なら何も意味はない。55年体制がすべてよいとはいわないけど、あの頃はまだ社会党という経済的弱者の利益を代弁する政党があった。今の自民、民主が圧倒的多数を占める体制では、そうした経済的弱者の声を代表する政治勢力がない。これこそが問題ではないか。とはいえ、政治を作るのはまず国民。いくら企業が献金しようが一票一票の権利を持つのは庶民大衆である。年収200万円以下1000万人超。3人に一人が非正規雇用。今は正社員でもいったんリストラされればホームレスもネットカフェも他人事ではない。二大政党だ政権交代だという掛け声に踊ることなく、そろそろ経済的弱者(つまり庶民大衆)の利益を代表する政治勢力を育てておく必要があるのではないか。そのためには、派遣業の規制や労働法制のあり方について各党がどんな主張をしているかを検証するあたりからまず始める必要があるだろう。ちなみに自民と民主は全く似たような主張をしている。※※マスコミの民主党びいきはたしかに露骨。そしてそれと対になるのが麻生バッシング。「とてつもない日本」なんか読んでもこの政治家の主義主張にはとても賛同する気になれないが、漢字が読めない、お坊ちゃん、英語が通じなかった、外遊の費用がいくらいくらなど、最近のマスコミが総理を叩くネタというのは、本来の政策とは全く関係のないゴシップの類ばかりではないか。なんかこれってひところの田中真紀子バッシングによく似ている。田中真紀子は別に好きでもなんでもないのだが、それでも議員在職が長く60歳を過ぎた政治家に、私的な場での会話を伝聞を基にあげつらったり、「お嬢さん育ち」だの「お姫様」だのと職場いじめの定番のような人格攻撃をしている姿はあまり見好いのよいものではなかった。
2009年03月11日
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財界重鎮のマスコミ恫喝発言にやはりマスコミは沈黙している。ということはマスコミにとって何よりも怖いものはスポンサーといったところだろうか。http://www.news.janjan.jp/nigaoe/0811/0811130409/1.phpこのニュースをみたときに、あれっと思ったのは財界の重鎮が厚労省を擁護していたことだ。肩書きをみると、その重鎮の方は厚労省全体のあり方を考える審議会の委員ということなのだが、福祉政策や労働政策を所管している厚労省もやはり財界の方ばかりを向いているのだろうか。恫喝発言もさることながら、そのあたりもちょっと気になった。※労働政策にしても福祉政策にしても、共通することは個々の企業の短期的利益には必ずしも一致しないということだ。そこが産業政策などとは違う。ただ、個々の労働者や弱い立場の国民など、そうした人々を無策のままにしておけば、結局は国家や社会が不安定化し、衰退していく。そうした意味でこうした分野の政策は、財界とは距離を置く必要がある分野なのではないかと思う。※財界が日本の繁栄を牽引している。だから強い企業こそ国の豊かさ、国民の幸福の源泉である。ちょっと前までは多くの人がそう思っていた。でも今はちょっとそんな考えも違ってきているのではないか。この間まで続いた好況なるものも実は人件費をぎりぎりまで削減して利益をあげていたにすぎなかった。リストラ、自殺、失業、就職難、ワーキングプア・・・そんな死屍累々たる上に企業の繁栄が築かれ、その繁栄の恩恵はもっぱら株主や役員、エリート社員などが享受した。それが格差の正体ではないか。個々の企業の利益を考えれば、賃金を下げ、利潤を最大にするための最も賢い選択をした結果がそうなったのだろう。しかし、世の中は傑出した能力のある人ばかりでなりたっているわけがない。多くの縁の下の力持ちがいてこそ動いているのが社会というものだろう。むきだしの資本主義に修正をせまる政策分野。つまり福祉政策や雇用政策が重要である所以である。
2008年11月17日
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今後の超高齢社会に向けて消費税増税は不可避だと多くの人は考えている。しかし、消費税だけをみるのではなく、税制体系全体をみたとき、実は消費税増税以外の選択肢もある。詳しくは下記ブログの下の方をみてほしいのだが、なぜマスコミはこうした情報を提供しないのだろうか。http://caprice.blog63.fc2.com/マスコミ情報だけをみていると、消費税増プラス高齢社会に対処した福祉対消費税据え置きプラス福祉切捨て、あたかもこの二つの選択肢しかないように見えてきてしまうが、これって一種の「マスコミの嘘」ではないか。※特定の情報だけをどっと流し、あたかもそれ以外の選択肢はないように思わせる嘘ならまだまだある。目につきすぎてウザくってしょうがないのだが、「ジミンかミンシュか」ってのもその一つ。まともな選択肢がこの二つしかない、政党といえばジミンかミンシュかしかないような報道ぶりはなんとかなんないだろうか。特に某大新聞は酷い。麻生は秀吉に似ている、小沢は家康に似ている…だって。フン、どうみても時代劇の悪代官にしかみえないけどね。ジミンかミンシュかなんて聞くのは、小生にいわせりゃウ○コ味のカレーとカレー味のウ○コとどっちが食べたいかと聞くようなもの。下品な表現でスミマセン。※今後の政治の焦点はどうみても、雇用政策と再分配政策ではないのだろうか。もちろん税制の構築も再分配の重要な柱だし、海の向こうのオバマ候補も税制の再分配機能強化ということをいっているようだが、これはなぜかあまり報道されない。もしマスコミにいくぶんかの誠実さがあるのなら、この雇用政策と再分配政策についての各党(もちろんジミンとミンシュだけではなく)の主張をわかりやすく表にでもしてほしいものだ。くれぐれも政治家が勝手に決めた「選挙の争点」などばかりを垂れ流すことのないように。「郵政民営化の是非」なんてのが今後何年かの国政を左右するほどのテーマであるわけはないのに、それに踊って投票した人はきっと今頃後悔しているだろう。「郵便局員が税金で安定した暮らしをしているのが許せない」と怒っていたタクシーの運転手さん、その後のコイズミ改革のせいで今頃はワーキングプアになっているかもしれない。※マスコミの嘘はまだまだある。本当に怖いのは沈黙の嘘。麻生太郎の家を見に行こうと普通に歩いていた50人もの人たちの中で3人が逮捕されたなんて衝撃的事件のはずだが、マスコミは沈黙している。何故なのだろう。(参照 http://www.news.janjan.jp/living/0810/0810270277/1.php)そう遠くない昔、日本にも特高という組織が猛威を振るっていた時代があった。何人もの人が拷問、虐殺、獄死などで生命を落としているのだが、あのときもマスコミはこんなふうに沈黙をしていたのだろうか。海外に対しては何度も謝罪を繰り返している日本政府だが、悪名高い治安維持法による国家の犠牲者については未だに一言の謝罪もしていない。
2008年11月02日
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21世紀臨調という団体がある。詳細は下記のHPをみていただきたいが、財界やマスコミの関係者がずらりと顔をそろえているのが印象的である。http://www.secj.jp/what_21st.htm#421この21世紀臨調が、「総選挙を名実ともに『首相候補』『政権公約』『政権枠組み』を一体的に選択する『政権選択選挙』とする責務があるとし、連立与党と民主党はそのための努力を精力的に行うべき」であると提言しているそうである。※そのせいだろうか。マスコミの報道ぶりには、まるでジミンとミンシュしか政党がないかのような報道が多すぎる。なかには「一度はミンシュにやらせてみて、だめならまた下野させればよい」といった愚論をあおる夕刊紙まである。二大政党制とはそんなによいものなのだろうか。重要なのは二大政党制か否かよりも、その中味であろう。アメリカのように国内に凄まじい貧困問題をかかえながら候補者の肌の色が大きなテーマとなる二大政党制もさびしいが、日本がジミン、ミンシュの二大政党制になればそれよりももっとひどいことになる。なによりも政局優先、早期解散にもちこみたいミンシュは重要法案にろくに論戦もしないで次々と賛成している。提言する公約なるものも子ども手当てや高速道路の無料化など買収に等しい目先のバラマキ政策がめだつ。なんのことない。ジミンだミンシュだといったって、そこには政策や国家ビジョンの差などほとんどないのだ。それもそうだろう。小沢代表をはじめミンシュの政治家の多くはかってジミンにいた最もジミンらしい政治家だったのだから。似たような政党がかわるがわる政権を担う。これは二大政党制というよりも、翼賛体制である。非正規雇用者、貧困者、残業地獄にあえぐなんちゃって社員・・・こうした人々の声は翼賛体制のもとではどんどんと抹殺されていく。いっとくが、ミンシュは肝心の雇用の規制については何もいっていない。ジミンであろうがミンシュであろうが、格差と貧困が拡大していく状況にはなんら変わりないのである。※それにしても、まず二大政党制ありきという議論は本当に変だ。重要なのはその政党の掲げる政策であって、二大政党制になるかどうかはその結果ではないか。かって日本には「社会党」という政党があった。都市労働者を支持基盤とする政党で、公害や労災、貧困の問題をよくとりあげた。政権はとれず、万年野党と揶揄もされたが、社会党という批判勢力が国政の場にあったことで、国民皆年金、皆保険というように福祉もいきわたり、国家の再分配機能も働いて、厚い中流階層を有する社会が出現したのではないか。結果的に、社会党に政権がゆかなかったのは、ジミン政権下でも幸福であると多くの国民が判断したからである。そうした意味で社会党は政党としての役割を立派に果たしていた。・・・マスコミが煽る二大政党制や政権交代。そんなものに騙されてはならない。参照 http://toyugenki2.blog107.fc2.com/
2008年10月17日
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フェンシングで銀をとった日本人選手がこんなことを言っていた。フェンシングでは生活できない、だから就職を考えていたところだったと。そういえばフェンシング競技はほとんど放映されてなかった。なぜ生活できないのか。それはスポンサー企業がつかないから。日本で注目を集めている種目の有力選手はたいてい有名企業に所属していたり、有名企業のスポンサーがついたりしている。もしかして、オリンピック放送が特定の種目にかたよっているのは、そうしたスポンサー企業の意向があるのかもしれない。マスコミがあげて特定選手を応援し、大報道を行う。それはそのスポンサー企業にとっての大変な宣伝効果になるだろうから。※※輸出と内需が低下し、日本経済はどうやら不況局面に入ったらしい。今までは好況だなんていっても、庶民にはほとんどおこぼれがなかったのに、不況となるとしわ寄せはどっと庶民にくるのではないか。輸出はともかく、内需低下だなんて、なにをいまさらという気がする。ここ数年の格差拡大政策、市場原理主義の猛威のおかげで、若者の二人に一人は非正規雇用、年収200万以下は1000万人を超えているという惨状だ。すでに貧困層に落ちている人だけでなく、そうした不安を抱えている人となるといったいどれほどの数に上るのだろうか。さらに最近では物価上昇がおいうちをかけている。こんな中でいったい誰が自動車を買ったり、家電を買ったり、旅行に行ったりするというのだろう。非正規雇用の増加やリストラの励行で人件費を削っていけば、たしかに企業の利益は守られるだろう。しかし、企業の利益、つまり株主や役員の利益を守ったところで、一般の労働者の賃金が下がり、雇用も不安定になれば、企業の製品を買う消費者の層は縮小するだろうし、良質な労働力だって減っていく。だから、人件費を削って利益を上げるということは、例えれば、蛸が自分の足を食べているようなものである。自分の足を食べ、腹を満たしているうちはよいが、やがては全身が衰弱していく。今度の不況は、いよいよそんな全身衰弱症状がでてきたということなのかもしれない。格差を放置し、貧困層を増大させるような社会には未来はない。
2008年08月15日
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秋葉原殺傷事件についての昨日の産経新聞の報道にはクビをかしげることばかりだ。まずあの事件の背景を家庭や学校の教育ばかりに求めるのがだいたいおかしい。少なくとも高校までの犯人像は極めてまともで平凡。普通に友人がいたことからみても、性格的な偏りがあったとも思えない。そんな彼が「私の知っている彼ではない」と高校の恩師が嘆くほど変貌していたとしたら、事件の背景は高校卒業以降にあるとみるのが普通ではないか。おもったとおり、新聞記事には学校や家庭については詳細な報道があるのに、職場についての報道は皆無であった。寮費用を差し引いた分としてどの程度の給料だったのか、職場での人間関係はどうだったのか、寮に監督者が立ち入っていたような実態はなかったのか…かの事件が家庭や教育の問題として語られれば語られるほど職場や職業についての背景はブラックボックスになっていく。そしておどろいたのは次の文章(うろ覚えだが)。「なんとか食べていけるのに社会に不満を持つのはおかしい」だって。それでは飢死するまで、社会への不満は棚上げにしてひたすら努力をしなさいってことなのだろうか。そういえばそんなの昔よく聴いた。貧しくても、苦しくても、社会が悪い、人が悪いなどと決して思わずに私はひたすら努力をしてきました…。なんだっけ、あ、「青年の主張」だ。※ちょっと前まではアサヒの記事につっこみどころ満載だったが、最近では産経の記事につっこみを入れたくなることが多い。この前の源氏物語の時代を引きながら「今は身分社会ではないので格差はのりこえられる」なんてのも秀逸だったし・・・。これって世の中が変わったのだろうか、それとも自分が変わったのだろうか。
2008年06月23日
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映画靖国に出演した刀匠の方が出演は本意ではなかったとか言っているそうである。しかし刀匠のところには国会議員が接触しており、本意ではなかったと言い出したのはその後のことである。なにか脅しとか圧力とかといった陰湿なものを感じてしまうのは小生だけだろうか。国会議員だけの事前試写を行った議員といい、出演者に接触して「出演は本意ではない」発言を引き出した議員といい、国会議員がこんな言論封殺のような行為に加担してよいのだろうか。動いているのが、こわもての男性議員ではなくタレント的な女性議員だからといって、背景にある脅しの構図はなんら変わっていないと思う…。※この靖国映画の騒動でなんとも不気味なのは、こうまでして映画公開をいやがる勢力の正体とそのいやがっている理由というのがさっぱりわからないことである。ある人は中国人監督であることが問題だというのだが、監督の国籍と映画の内容は別ではないかという反論だってなりたつ。また、事前試写を申し入れた女性議員は「かたよったメッセージを感じた」というが、そのかたよったメッセージとは何であったかという点については何も語っていない。どんな映画で何が問題かが、実は一般人にはさっぱりみえないままに、映画館が上映を中止し、国会議員の接触を受けた出演者自身の否定的なコメントがきこえてくるあたりに、たまらなく不気味なものを感じる。日本は本当に民主国家なのだろうか。※問題は映画だけではない。一般人がようやく手にいれた「言論の自由」、つまりネット空間の自由だって案外危機に瀕しているのかもしれない。最近特にかまびすしくなったネット上の有害情報の規制の議論である。闇サイト、同伴自殺、自殺情報の入手など、何か事件が起きると、マスコミは必ず「ネット上の野放しの情報」は犯罪の温床であるかのようなイメージをあおり、ネット規制の方向に世論を誘導しようとする。そしてマスコミ自らが行っている巨大な人権侵害には頬かむりで、規制の議論がでようものなら、すぐに「自分達は巨悪を追求している」とか「権力と戦っている」とかとのたまう。先日、沖縄で暴行被害にあった少女が告訴を取り下げたのも自宅にまで押し寄せてくるマスコミの取材に恐怖を感じたからなのだろうが、新聞報道だけをみるとまるで「ネット上の中傷」が原因であるかのような書きぶりだ。青少年の保護とか人権擁護とかといった耳障りのいい名目でネット上の言論が規制されるような自体だけはごめんこうむりたい。もし、web日記で、子供が運動会で一等になったとか、庭に柿の実がなったとかいった愚にもつかぬことしか書けなくなったら、web日記をやめるしかない。※※あの連合赤軍事件が映画化されるという。これにかぎらず映画やドラマ化された事件というのは多い。大久保清連続女性殺人事件もビートたけし主演で映画化されているし、三浦和義の事件も「疑惑の男」という題でテレビドラマ化された。そうだとしたらオウム事件はなぜ映画やドラマにならないのだろうか。あれくらい途方もなく戯画的な事件はないと思うのだが…。で、麻原の役はオダギリジョーとブッチー武者のダブルキャストではどうだろうか。信者にはオダギリジョーに見えて、それ以外の人にはブッチー武者に見えるという趣向である。麻原をモデルにしたとしか思えない最近のオダギリジョーさんのロン毛スタイルをみながら、きっと信者にとっては麻原もこんな風に見えたのだろうなとついつい想像をしてしまった。
2008年04月12日
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覚えているだろうか。強盗に赤ん坊を殺害された若い母親が自殺した事件があった。夕刊紙によると彼女の遺書にはマスコミ批判があったというようなことが書いてあったが真相はどうなのだろう。事件の被害者などが、たとえマスコミ批判をしたとしても、その声をマスコミが報道しない以上、なかなか世の中には知られない。そうだとしたらマスコミの人権侵害というのは思う以上にはるかに多いのかもしれない。※沖縄で米兵に暴行された女子中学生が告訴をとりさげたという。マスコミは例によって「ネットの中傷」等を問題視しているが、本当にそれが告訴取り下げの背景なのだろうか。ネット中傷がよいとは思わないし、ネットといえども被害者などに対する心無い言辞はつつしむべきであろう。しかしこの事件で被害者に対する中傷的言辞は某大週刊誌も弄していたし、それ以前にマスコミによる人権侵害的取材はなかったのだろうか。かっての米兵による小学生レイプ事件では被害者の通う小学校で児童にインタビューを行ったテレビ局があった。同じ沖縄の女性暴行事件では写真週刊誌の女性記者が被害者の職場にまでおしかけて写真をとろうとしたという。そうしたマスコミによる人権侵害が、当のマスコミで問題視され、世に知られるという機会はまだまだ少ないようだ。件の被害中学生だって、周囲に押し寄せるマスコミ取材をみて怖ろしくなったというのが現実なのかもしれない。※反面、誇張されていると思うのはネットいじめである。様々のいじめの類型があってネットいじめはその一つであろう。猥褻な写真などをネットに流出させるなどは大問題であるが、それはネットというよりも、その前に行われた強制猥褻行為などが問題ではないか。児童数全体が減っているのに、中学を受験する子供は増えているという。公立中学への不信感には、学力面だけではなく、恐喝、傷害、性犯罪といった非行に対する憂慮もあるはずである。少年法の厳罰化など少年犯罪に対して毅然とした対応をとることに一貫して消極的なマスコミが、なぜ学校裏サイトのネットいじめだけを問題視するのか・・・その理由がどうもよくわからない。ネットいじめにしても、闇サイトにしても、ネットを規制すればすむ問題でもないし、マスコミの報道ぶりにも、まずネットイコール害悪という前提があるように思えてならない。
2008年03月18日
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大阪の強盗殺人事件で赤ん坊を亡くした母親が自殺したという。出産の後、精神が不安定になる女性は多く、これをマタニティーブルーとよぶらしい。たしかに、普段はなんということないことでも、産後まもなくの女性だったら不安に思ったり傷ついたりすることは多い。ましてや強盗殺人という犯罪である。遺された母親の精神的ショックは尋常ではなかっただろう。そんな母親に対し、マスコミ報道が追い討ちをかけたことは想像にかたくない。ガムテープで冷蔵庫に縛り付けられていただの、乳児の父親とは結婚していないだの…そんなことをこれでもかとばかりに、実名で報道する必要があったのだろうか。マスコミ報道のあり方についてはぜひ検証を行う必要がある。※電車が遅れ、帰宅が遅くなった。人身事故とはいうが、要するに投身自殺であろう。年間自殺者30000人。自殺による電車遅延などは既に日常になっている。自殺だけではない。犯罪だって日常のすぐ隣に来ているのかもしれない。何年か前までは自転車に住所氏名を書くのは普通だった。そしてやはり何年か前までは電話をとると、まず自分の名から名乗った。今ではそういうことをしている人はまれである。自分の名や住所、電話番号が知られることで、どんな犯罪にまきこまれないともかぎらない。そしてまたやはり何年か前、外国では電車や街中で決して宝石は身に着けない…そんな話を初めて聞いたときは、それは外国の話として興味深く聞いたものである。しかし今では、この日本でだって街中で高価な宝石を身に着ける人は少ない。いつの間にか、世界一だったはずの日本の治安も、ずいぶん悪化しているのである。
2008年01月24日
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友達の友達は友達だ…なんていう言葉があるが、そうだとしたらそんな「友達の輪」は法務大臣とアルカイダにもつながっているのだろうか。一国の大臣、いや大臣でなく単なる個人としてだって、そんなテロに関与した者の情報を持っているのなら速やかに警察に申告するのが義務ではないのだろうか。少なくとも指紋押捺の是非云々にとどまるような話ではない。※その法務省がまたあのゾンビ法案の準備をしているらしい。「人権擁護法」である。よく考えるとこの法案の名称自体ヘンテコリンだ。殺人を筆頭とする強度の人権侵害行為は犯罪として法でとっくに規定されている。だから犯罪となるような人権侵害なら犯罪対策をきちんと行えばいいだけのことである。それ以外の「人権侵害」とは何なのだろうか。セクハラ、パワハラといった労働環境の場で起こる人権侵害なら、それ相応の相談窓口を整理して労働法制などの専門家が相談にあたればよく、人権擁護法で考えている「人権擁護委員」のでる幕はない。学校での「いじめ」も同様だろう。※そしてこの「人権擁護法」の最大の問題は、特定の個人の人権侵害にとどまらない「差別を助長する言論」も規制対象になるということである。いったい物事を語る場合、こじつけようとすればたいていのものは「差別を助長」することになってしまうのではないか。公務員一般を批判すれば「公務員に対する差別を助長する」ことになるし、政治家一般を批判すれば「政治家に対する差別を助長する」ことになる。こうなるとネットで思ったことを書ける事由は急速に制約されていく。※外国には人権擁護法があるのに日本にないのは変だ、という推進派の議論はそれこそ変。外国云々よりも、こうした法案が日本で必要な理由をまず説明すべきではないか。最近またトーンをあげてきたマスコミのネット批判をみていると、本当にこんなネット言論の規制が実現してしまうのではないかと不安になる。「ものいわぬことは腹ふくるるわざなり」と古人はいっているが、ネット出現前はいくらマスコミの報道に疑問をもっても、普通の人にはそんな思いを世間一般に発信する機会はなかった。ネットはそんな機会を与えてくれる重要なツールだし、ネット出現によってはじめて本当の意味での「言論の自由」を多くの人が手に入れたのではないのだろうか。※※人権という意味ではマスコミ報道、特に犯罪被害者に対する取材や報道こそが最大の問題であると思うが、そうしたものはこの人権擁護法には入っていない。マスコミのいう言論の自由とは「マスコミの報道の自由」と同義である。マスコミは自分達に規制が及びそうになると日ごろ犯罪被害者をいたぶるような報道取材ばかりをしても、急に「権力を監視する」とか「巨悪と戦う」とかと正義ぶって猛反対する。そのくせネットを通じた一般人の言論の自由に対しては「ネットは犯罪の温床」だとか「便所のラクガキ」だとかとまるで冷たい。マスコミの報道にまどわされずにこの「人権擁護法案」の動きはしっかりとみていく必要がある。
2007年10月30日
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こうした話題を取り上げること自体、マスコミの笛に踊っているのかもしれないけど、今回の亀田騒動と称する騒ぎをみていると、何年か前にあった某プロ野球監督夫人に対するバッシング騒ぎを思い出す。次のような点がよく似ていると思わないだろうか。その人物を「嫌い」という人はいるだろうけど別に犯罪を行ったとかいうわけではない。ある時期まではもちあげていたマスコミが突然批判一色になる。その批判騒ぎでワイドショーや週刊誌のネタを一定期間もたせる。なぜ公人でもないその人物の言動をそんなに大きく報道するのかという疑問には誰も答えない。あ、もう一つ共通点がある。これがもし本当に人に危害を加えた人物、例えば元少年犯罪者などだったら、マスコミがバッシングどころか触れでもしただけで、人権屋さん達がどっと群がってくるだろう。ところがこうした理由のわからないバッシングに対しては人権屋さん達の動きもなぜか鈍い。まあ、亀田一家にしても某プロ野球監督夫人にしても、一応有名人で本人もマスコミを利用していたという面では同情の余地は少ないのかもしれないけど…それにしてもいっせいにもちあげ、いっせいに叩くマスコミというのはやはり怖い。※※新聞で本の広告をみていたら、この間の愛知県でおきた女性拉致殺害事件を下流層の暴走と分析した本もでているようである。昨今の格差拡大は単なる経済問題だけではなく、日本社会を質的にも変えている。あの女性拉致殺害事件の犯人達はいずれも定職がなく経済的に困窮していた中年者で、一人は車中に寝泊りしていたいわゆる車中ホームレスであった。介護殺人などと同様こうした事件も今後の日本では確実に増えていくだろう。そしてこれは犯人達の出会いのきっかけとなった闇サイトを規制しようがしまいがあまり関係はない。だからこの事件、マスコミが名づけるように「闇サイト殺人事件」ではなく「格差社会殺人事件」としたいところだが、それも犯人達を免罪するみたいでまずいのだろう。思うに、日本社会では、様々な紐帯が個人を規制し、社会をなりたたせてきた。家族や親族に迷惑がかかるなどもその一つだろうし、会社を辞めなければならなくなる、世間様(多くは狭いムラや地域であるが)に後ろ指をさされる、ご近所に顔向けができないというのもそうである。昔の学者はこれを「恥の文化」と称して日本人の特質とした。ところが今激増しているのはそうした紐帯をもたず、夢も希望もない貧困者達である。こんな中で良好な治安を維持していこうとしたら厳罰化だってやむをえない。いや、それどころかそのうち江戸時代みたいな公開処刑だって導入しなければいけなくなってしまうのではないか。(公開処刑というのは決して荒唐無稽な話ではなく、米国でもオクラホマテロ殺人犯の処刑シーンをテレビで流したそうである。)
2007年10月28日
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