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【会津の風景】 これは前述の「子安観音」像がある村の墓地にあった石仏です。如意輪観音が子供を抱いているように見えますが、この石仏は、個人のお宅の墓域ではないところにありました。どちらかというと、墓地の入口に近いところです。そしてこの墓地にも気になる墓石が残っていました。 この村は『文禄三年蒲生家高目録』(1594)に名前が出ています。しかし、その漢字表記は『新編会津風土記』とは異なっていますが、現在は『文禄三年蒲生家高目録』の漢字表記が使われています。そして、この村には端村があるのですが、その村は明らかに蒲生軍団が帰農した村です。それを示すモノが遺っていますし、そのものに関しては『新編会津風土記』も記しています。 保科正之公が、蒲生氏郷を知らなかったとは考えられません。そして、その家臣の多くが会津に帰農していることは、蒲生家に仕え、加藤家に仕え、そして保科家に仕えた武士たちから聞いていた可能性は十分にあると考えられます。事実、そうした保科家の家臣の屋敷が、外堀の内側にあったことも明らかになっています。 最近、夕食を食べると睡魔が襲ってくるようになりました。今夜は100g98円のオーストラリア産牛肉のすき焼きでした。気が付いたら、お猪口に2杯も会津産コシヒカリを食べてしまっていました。今夜も、データをダウンロードしたら、そろそろ寝ます。最近、夜が明けるのが早くなっているので、外が明るくなる頃には起き出しています。「実に健康的だ!」と所長が曰っていますが、その所為か、BMIを22台で維持しています。
2013.01.31
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【会津の風景】 これも会津のとある村にありました。この村には曹洞宗のお寺があるのですが、裏山に薬師堂が建てられています。その薬師堂へ上がっていく参道脇に、小さなお堂が建てられていて、そこに祀られていました。 この「子安観音」像は「子安観音」と抱かれている子供の肌が白く塗られています。会津では、「子安観音」だけでなく、聖観音座像の肌が白く塗られていることもあります。この肌が白く塗られていることに関しては、記録はまったくありません。そもそも、こうした「子安観音」堂に関しては、『新編会津風土記』は沈黙していることが多いのです。この「子安観音」堂も『新編会津風土記』には記されていません。薬師堂へは別の路を上がっていったので、帰りがけにこのお堂を見付け、写真を撮ってきました。 そもそも、曹洞宗のお寺の裏山に立派な薬師堂が建てられていること自体、非常に不思議なことです。曹洞宗の中心は「只管打坐」です。だた座禅を組むことによってのみ、悟りを得ることを目指してきました。薬師如来や観音菩薩に現世的な御利益を求めることはありませんでした。ですから、曹洞宗のご葬儀は、真言宗や天台宗と同じように、亡くなられた方に戒を授ける儀式です。関心のある方は、どなたかのご葬儀に出られたら、是非じっくり葬儀を見聞きしてきて下さい。 これは臨済宗でも同じです。しかし、親鸞系の宗旨では、戒を授けるという考え方がありませんし、亡くなられた方は既に阿弥陀如来が迎えに来て下さっているので、そこで読まれるお経は、参列者がそのことを再確認するために読まれているようです。とあるご葬儀で、真宗大谷派のご住職がそのことをお話しされていらっしゃいました。
2013.01.31
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【会津の風景】 前述の「子安観音」石仏が境内に祀られているお寺の墓地にあった地蔵菩薩石像と地蔵菩薩石仏です。この地蔵菩薩石像に彫られている錫杖は、錫杖になっていません。これでは、錫杖独特の澄んだ音色は出ません。また、地蔵菩薩石仏が墓石として彫られていますが「天」年号が彫られています。 こうしたことは、会津では珍しいことではありません。お寺の墓地ではなく、村の墓地でも、気になるものが一つあると、必ずいくつものキリシタンの痕跡に出会えます。そしてこうしたことは会津だけではなく、福島県の白河から北の阿武隈川沿いや阿武隈山地の中の村々でも不思議なモノに出会うことが出来ます。蒲生氏郷が会津の領主だった時代には、あの一帯も蒲生領でした。また、新潟県東蒲原郡阿賀町とその周辺部でも出会うことが出来ます。阿賀町は上川村・津川町・鹿瀬町・三川村が合併してできた町ですが、江戸時代には全期間を通して会津藩領でした。 また、現在は栃木県日光市になっている、山王峠を越えた一帯も会津でした。つまり、天領南山御蔵入の一部でした。これは蒲生氏郷が会津の領主だった時代も同じですし、定住していたのは当然、蒲生軍団の精鋭部隊であったと考えられます。あの山王峠も会津の守備を考えると要所であったことは間違いないと考えられます。 そして、栃木県内にもキリシタンの痕跡が残っていることを確認しています。きっとあるだろうと思って出掛けたところにお寺があって、その境内に転切支丹類族墓石が残っていました。栃木県中央部の平坦な地域で、現在は大きな市になっています。
2013.01.31
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【会津の風景】 会津のとあるお寺の境内に祀られている「子安観音」石仏です。この石仏と最初に出会ったのは1998年でした。この時にはこのお寺では写真を2枚しか撮っていません。この「子安観音」石仏と別の石仏を撮っただけでした。この写真は2回目にこのお寺を訪ねた時に、携帯用デジカメで撮った写真です。 そして、2010年にまた出掛けて、お寺の墓地も歩いてきました。やはり、キリシタンの痕跡が残っていました。会津のキリシタンの研究を始めた頃には、様々なキリシタンの痕跡を見逃していました。それから、キリシタンに関する仏僧の方が書かれた研究書などを読むことによって、会津ではどこへ行ってもキリシタンの痕跡が残っていることに気がつかされています。 今はそうしたキリシタンの痕跡の多くは、雪の中で眠っています。特に、南会津ではかなり雪が積もっています。「うつくしまふくしま ふるさとのいま」という道路情報のサイトで雪の多さを確認することが出来ます。ただ、会津で南会津といわれている天領南山御蔵入ですが、文部科学省の「放射線モニタリング情報」で「南会津」に分類されている市町村だけではありません。「会津」に分類されている三島町・金山町・昭和村の全域と、柳津町の一部、会津美里町の南部は天領南山御蔵入でした。 小生は、一日に何回となくあのサイトを見て、急激に増えているところがないかを確認しています。因みに、桧枝岐村の中土合公園駐車場の値は、、今日の14時10分現在、0.016μSv/hという極めて低い値になっています。福島県内で一番高いところの2000分の1の値です。そして、東京都新宿区の高いところで計っている数値よりも低い値です。「風評被害」という言葉は、しっかりと生きています。
2013.01.31
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【会津の風景】 これは前述の「子安観音」石像を2009年11月28日に撮った写真です。太田小太夫実次が奉納したのであれば、高遠石工が彫った石像である可能性があると思っています。高遠以来の重臣でした。ですから、土津神社で祭礼が行われるときには、太田小太夫実次は最上段に座っていたとも言われています。 ですから、キリシタンであるが故に帰農した武士を、祭礼の中で会津藩は武士として扱っていたのであろうと思われます。そして、会津藩の重臣たちは、そうした伝承をそれぞれの家で代々、語り伝えていたのであろうと思われます。ことに、記録に残さない部分に関しては、重臣の家に残っている伝承が非常に重要な意味を持っていたと考えられます。 そして、松平容衆に会津藩史をご説明する時には、そうした伝承も加えられていたことは容易に想像が付きます。「加判之者」と『会津藩家世実紀』に記されている人々です。ですから、『会津藩家世実紀』に記されている編纂者の註には、記録に残っていない部分が書き加えられているのであろうと思われますし、それを示す言辞も書き残されています。 東京分室周辺でも、今朝の最低気温は氷点下でした。晴れているので、陽が射し始めたら暖かくなるだろうと思っています。ネットで確認したら、会津若松市街地は晴れているようです。また、雪が積もっている所為で、南会津では環境放射線量もかなり下がっているようで、安心しています。
2013.01.31
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【会津の風景】 これは保科正之公の重臣であった太田小太夫実次という人物が奉納したという伝承が残っている(山内強『会津のキリシタン』個人出版)「子安観音」石像です。この人物は保科正之公が会津藩主だった時代に帰農していますが、この人物のものとして継承されているものの写真が、山内強氏の著書に載っています。 その中の旗に「神」と書かれたものがあるのですが、あの時代に「デウス」を神と訳していたことが判ります。そして、会津藩では、武士がキリシタンであることが露顕した時には、「帰農すればお咎めなし」という不文律があったようで、同じようなケースは他にも残っています。ですから、そうした家々ではキリシタンのモノが確実に継承されています。 と同時に、そうした地位の高い武士が帰農した場合、その家臣も一緒に帰農しているようです。同じ所に帰農したと考えられるケースもありますし、別の所に帰農させられたと考えられるケースもあります。しかしこうしたことは、史料には記されていません。時として墓地で出会う墓誌にそれを読み取ることが出来ます。 小生が気になって仕方がなかった『会津藩家世実紀』のとある記録を解決してくれたのも、『会津藩家世実紀』にあるキリシタンに関する不思議な記録も、そうした墓誌が解明してくれました。会津には、旧高遠藩領内だけでなく、山形最上で隠れていたキリシタンが保科正之公と共に入って来ているように見えます。
2013.01.31
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【会津の風景】 これはとある村の浄土宗のお寺にありました。お寺と言っても、本堂や庫裡は残っていません。お寺にあった仏像などを祀っておくための建物が建てられているだけです。並べられている一番右端にこの「子安観音」像がありました。 この村は『文禄三年蒲生家高目録』に名前を見付けることが出来ません。また、『寛文風土記』にも名前が出てきません。そして、『新編会津風土記』には、17世紀半ばに、この村に山形最上から移住してきた家によって開墾された村であることが記されています。そして、その家の姓が記されています。そして、その姓と同じ姓の家だけしかない村が、この村から少し離れたところにあります。そして、墓地から少し奥に入ったところに、その村の家々の先祖の墓があるのですが、おそらく武士であったのであろうと思われる姓名が彫られています。そして側面には、「建仁二年壬戌四月二日」と彫られています。 保科正之公が山形最上から会津に入ってこられたのは、寛永二十年(1643)のことです。それ以降に、その姓の家々が会津に入って来た可能性があります。「建仁二年」と彫られている墓石は、四角柱の墓石ですから、明らかに江戸時代以降に建てられたものであろうと思われます。この村を2008年の春に再訪して、墓地を少し丹念に見てきたのですが、不思議なものが沢山残っています。 史料(文字資料)・伝承・遺物などを芋蔓式にたぐっていくと、様々なことが見えてきます。そして、会津のキリシタンの場合、蒲生氏郷に辿り着くか、伊那高遠に辿り着くことが多いのです。そして、蒲生氏郷が会津の領主であった時代には、山形最上も蒲生領でした。山形最上にキリシタンがいたことは、しばらく前に福者になった殉教者の中に、山形最上の人々がいることからも明らかです。
2013.01.30
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【会津の風景】 これも会津のとある村にある「子安観音」像です。その村の墓地の入口に延命地蔵を祀ったお堂が建てられているのですが、この「子安観音」像も祀られていました。この「子安観音」像に似た像が他に二体ありますが、これらの三体はここで連続してご紹介したことがあります。 このお堂も入口の扉が閉まっていたのですが、入口の格子の所から小さな携帯用デジカメで撮ることが出来ました。もう大分前から、会津でも、仏像などの盗難が起こっています。ある村のお堂では、春になって雪が解けたら、祀られていた像がすべて盗まれていました。お堂の中を見せて下さるはずになっていたのですが、残念です。 そして、仏像などを盗む集団が、日本中を行脚しているという新聞記事を読んだこともあります。外国へ高額で売っているそうです。勿論、正規の輸出ではありません。それを防ぐ意味でも、小生はこうした像がどの村にあるかを明らかにしていません。 また、この村も『文禄三年蒲生家高目録』に載っている村です。蒲生氏郷があの領主だった時代です。それまでは、一般民衆は組織化された宗教を持っていませんでした。それぞれの村々にそれぞれの氏神様が祀られ、イニシエーションだけでなく、様々な形のマツリがそれぞれの村々で行われていました。その名残が現在でも残っているところがあります。
2013.01.30
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【会津の風景】 これは2006年4月24日に出会った、とある村の道路脇に建てられている祠の中に祀られていた「子安観音」像です。この祠には「観音菩薩」と書かれた扁額があるのですが、村の方は「子安観音」とおっしゃっていました。この石像にも乳房が彫られています。そして、前述の「子安観音」石像と同じような被りものが彫られています。 ただ、先日、ある方とお話ししていて、こうした乳房が彫られた「子安観音」石像や「子安観音」像は、会津から宣教師が消えたあとで、村人や石工の考えで彫られたものかもしれないと考えるようになりました。ヨーロッパにこうした乳房が見えている聖母マリア像はないように思えます。 江戸時代は現代とはまったく異なり、出産の前後に女性が亡くなることはよくあることでした。『会津藩家世実紀』にも、会津のことではありませんが、そうしたケースの記録が残っています。あるいは、乳児用の粉ミルクなどない時代です。村に母乳の出るご婦人がいなければ、乳児を育てることは出来ません。 そして現在でも、出産に際して女性は不安になるそうですから、江戸時代の女性がこうした「子安観音」石像にすがろうとする想いが強くなっても不思議ではありません。ですから、今でも「子安観音」にお詣りに訪れる女性が数多くいらっしゃるのであろうと思います。信仰は、哲学ではなく、正に宗教的想念であろうと思います。少なくとも古い時代には、そうした想いが強く表れていても不思議ではないと考えられます。
2013.01.29
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【会津の風景】 これはまた別のお寺の境内に祀られている「子安観音」像ですが、この「子安観音」像の着衣と被りものが気になります。被りもの布がかなり下まで垂れ下がっています。この「子安観音」像に最初に出会ったのは2006年4月6日でした。この写真は、この石像をもう一度撮りなおしたくて、2009年11月27日に出掛けた時に撮ったものです。 このお寺も曹洞宗のお寺です。会津では、曹洞宗のお寺の境内に「子安観音」像や観音菩薩像が祀られていることは珍しいことではありません。臨済宗でも境内に観音堂が建てられているお寺があります。あるいは、念仏系のお寺にも観音菩薩像が祀られたお堂のあるお寺があります。会津でキリシタンの研究を始めて驚いたことの一つです。小生は大学院でアメリカのとある宗教社会学者の論文集の研究をしようと思い、それを4年生の時から読み始めていたのですが、その為に仏教に関する本を古書店で漁って読んでいましたが、そこに書かれていたことからは理解できないことでした。 しかし、キリシタンの研究を進めていくうちに、こうした像がキリシタン像であると考えると、そうした疑問は一気に解決出来ました。ただ、何故ここまで多くの「子安観音」像が会津に残っているのかが不思議でなりませんでした。しかし、『会津藩家世実紀』を読み進めていくうちに、保科松平家の対キリシタン政策が見えてきはじめ、伊那高遠をはじめ、旧高遠藩領内を巡ることによってその不思議さも解消されました。 伊那谷にも、あるいは辰野町の山間部にも、そして松本平の旧高遠藩領内の村々にもキリシタンの痕跡が残っています。その為には、仏僧のキリシタン研究者の研究書が大いに役に立ちました。そして、信州をかなり歩いてきましたが、様々なところでキリシタンの痕跡に出会っています。その村とその周辺の村の方々しか通らないであろうと思われる道路脇にも、キリシタンの痕跡が残っています。中には、子供の頃に何回も行ったことのある地域にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っていました。会津と同じです。
2013.01.29
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【会津の風景】 これはまた別のお寺の境内に祀られている「子安観音」像ですが、この「子安観音」像の着衣と被りものが気になります。被りもの布がかなり下まで垂れ下がっています。この「子安観音」像に最初に出会ったのは2006年4月6日でした。この写真は、この石像をもう一度撮りなおしたくて、2009年11月27日に出掛けた時に撮ったものです。 このお寺も曹洞宗のお寺です。会津では、曹洞宗のお寺の境内に「子安観音」像や観音菩薩像が祀られていることは珍しいことではありません。臨済宗でも境内に観音堂が建てられているお寺があります。あるいは、念仏系のお寺にも観音菩薩像が祀られたお堂のあるお寺があります。会津でキリシタンの研究を始めて驚いたことの一つです。小生は大学院でアメリカのとある宗教社会学者の論文集の研究をしようと思い、それを4年生の時から読み始めていたのですが、その為に仏教に関する本を古書店で漁って読んでいましたが、そこに書かれていたことからは理解できないことでした。 しかし、キリシタンの研究を進めていくうちに、こうした像がキリシタン像であると考えると、そうした疑問は一気に解決出来ました。ただ、何故ここまで多くの「子安観音」像が会津に残っているのかが不思議でなりませんでした。しかし、『会津藩家世実紀』を読み進めていくうちに、保科松平家の対キリシタン政策が見えてきはじめ、伊那高遠をはじめ、旧高遠藩領内を巡ることによってその不思議さも解消されました。 伊那谷にも、あるいは辰野町の山間部にも、そして松本平の旧高遠藩領内の村々にもキリシタンの痕跡が残っています。その為には、仏僧のキリシタン研究者の研究書が大いに役に立ちました。そして、信州をかなり歩いてきましたが、様々なところでキリシタンの痕跡に出会っています。その村とその周辺の村の方々しか通らないであろうと思われる道路脇にも、キリシタンの痕跡が残っています。中には、子供の頃に何回も行ったことのある地域にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っていました。会津と同じです。
2013.01.29
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【会津の風景】 これはとある山の高いところにある村にあった「子安観音」です。子供を抱いているかどうかは判りません。しかし、これが祀られている上に御詠歌が書かれた額が掲げられていて、そこに「子安観音」と記されています。額の所にある刺繍は、この村のご婦人が代々家に伝わっていることをお姑さんから習って、毎年同じように作り続けてきたそうです。 『新編会津風土記』には村々の成立の関してはほとんど記されていないのですが、しかし、かろうじて書かれていることや、この近くの村に会津史の重要な文書が戊辰戦争後に発見されていることから、この辺りにも高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々が帰農している可能性が高いと考えられます。藩がそうした家に預けたのではなく、そうした家がその文書の写本を手に入れていたのであろうと思われます。 こうしたケースは、他にもあるかもしれませんし、『会津鑑』の正本もしくは複本が、どこかに隠れていないかと小生は願っています。会津藩が城を開城したあと、本丸御殿の庭にあった御文庫から西軍が持ち出した可能性が一番高いと思われるのですが、長州か薩摩に『会津鑑』が隠れていないかが気になって仕方がありません。 編纂者が藩に提出してすぐに御文庫に保管され、書き損じや下書きをすべて焼却するように命じられた風土記ですから、欠損部分に何が書かれていたのかを知りたくて仕方がありません。薩長土肥のどこかの大家(たいけ)の蔵の片隅で眠っているかもしれません。よほどのことが書かれていない限り、書き損じや下書きをすべて焼却するように命じられることはなかったであろうと思われます。
2013.01.29
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【会津の風景】 2005年5月18日、『会津藩家世実紀』にある不思議な記事を読んで、この一帯に裏街道があったのではと思えるところを訪ねました。すると、ある村に「子安観世音」と彫られた扁額が掲げられているお堂がありました。まだ携帯用の小さなデジカメで撮っていたので、中に祀られているこの「子安観音」像を大きく撮ることが出来ませんでした。それで、奥の村を訪ねた帰り道に村の方がいらっしゃったので、観音堂の中へ入りたいとお願いしたら、許可して下さいました。 この写真はその「子安観世音」堂に祀られていた「子安観音」像です。そして、このお堂の中で写真を撮ったあと、村の方が墓地まで案内して下さいました。古い五輪塔が何基もありました。やはり、蒲生軍団の家臣集団が帰農しているようです。また、保科松平家が会津藩主だった時代に、開墾移住した家々もあるようです。 また、会津には戦国時代末期までは武装農耕集団だった村がかなりあります。これに関しては、旧会津高田町町史に詳しく記されています。特に、それぞれの村に山城がありました、その山城跡の図面がそお町史に出ています。強固に守られた砦を落とすためには、その3倍の兵力を必要とするとされています。小高い山の頂上や、急な斜面に切り開かれた城は、確実に村人を守れたであろうと思われますし、そうした山城が落城したことを示す記録は、現存する史料には載っていません。 そして江戸時代に入ってからは、そうした城は使われていません。蒲生氏郷の統治下では、武装農耕民による内戦は起こされなかったからであろうと思われます。そして、こうした村々の中には、蒲生氏郷の直轄地だった村がかなりあります。
2013.01.29
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【会津の風景】 前回、「『会津藩家世実紀』の寛文六年には、このお寺が廃寺になったことは記されていません。」と書きましたが、このお寺が廃寺になった記録が『会津藩家世実紀』にあったはずだと、『会津藩家世実紀』の記録を小生が選んで、所長がテキストファイルにしてくれたもので検索したら、一発で出てきました。 「二十年来之新寺新堂被為毀、且是迄之致頽廃候地江再興候儀も無用可致旨被仰出」という書き出しで始まる記録の中に、この「子安観音」像が祀られているお寺が廃寺になっている記録がありました。この時には、このお寺だけでなく、お寺が2ヶ寺とお堂が3ヶ堂も毀つべく、その旨の命令が下されています。理由は「二十年来之新寺新堂」ということなのですが、現代風に言えば「新寺建立禁止令違反」ということになります。 実はこの個所に、保科正之公の対仏教政策が編纂者の註として記されています。非常に興味深い内容なので、少し長文なのですが、所長がテキストファイル化してくれたものを引用しておきます。ワープロソフトで縦書きにして読むと読みやすくなります。 『会津藩家世実紀』(吉川弘文館)より引用 「此頃備前岡山ニ而仏法を被成御憎、一旦ニ僧侶を御追放寺院を破却被仰付候処、此儀を中将様被聞召、其志者結構成事ニ候得共、其被成方宜計ニ者無之候、子細当時一時ニ左様之儀いたし候得者、其本寺門跡之類彼是六ヶ敷申候故、遂ニ者不得止再興不致候而者、不叶事ニ相成候、然者無益之事候間、彌其事を可遂覚悟ニ候ハ、急迫ニ不致、或者新地或者数年無住と歟、又者寺僧不届有之候節なと、破却追放等連々ニ致候ハ、何之故も無之、員数も次第ニ可致減少、是等宜計ニ可有之旨被仰出儀有之」 ※「者」=助詞の「は」、「而」=して、
2013.01.29
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【会津の風景】 これは、会津のとある山の中にある村で、偶然出会った観音堂に祀られていました。「観音堂」と言っても寺院建築のものではありません。おそらく、戦後に立てられたのであろうと思われる建物です。ただ、村の家々は山間に点在していて、このお堂も山間部に建てられていました。 とある場所の風景写真を撮りたくてこの村を訪ねたのですが、いい場所を探していたら、林の中でこのお堂に出会いました。そして、入口の扉を開けると、正面にこの「子安観音」像だけが祀られていました。そして、香炉、線香、ロウソク、マッチなどが置かれていて、中は綺麗に掃除されていました。 抱かれている幼児は合掌していて、肌が白く塗られています。こうした、肌が白く塗られてる観音菩薩像は、会津では時々見かけますが、幼児だけが白く塗られているのは珍しいです。もしかすると、この幼児の部分は、別に彫られていて、ここに填め込まれているだけかもしれません。会津にはそうした「子安観音」像であったのであろうと思われるものが残っているところがあります。 この村は、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)に名前が出てくる村です。そして、この村には寛文六年まではお寺がありました。『新編会津風土記』に「〇〇寺跡 村西ニアリ、曹洞宗、〇〇山ト号セリ、寛文六年ニ廃ス」と記されています。しかし、『会津藩家世実紀』の寛文六年には、このお寺が廃寺になったことは記されていません。
2013.01.29
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【会津の風景】 2006年8月22日に前述の「子安観音」像を撮った写真です。この時には、須弥壇ではなく、こっと手前に祀られていました。それで、舟形光背に何か書かれているかもしれないと思って裏へ回り込んだのですが、真っ暗で何も見えませんでした。「ストロボを使って、撮ってみろ」と所長が言うので、薄明かりの中で撮った写真が下の写真です。 これまでにも、こうしたハート形の穴が空けられた舟形光背はこれしか見たことがありません。また、この「子安観音」像の右手が気になります。人差し指から薬指までの3本を垂直に立てて、親指と小指を合わせてみて下さい。親指と小指の線は水平にはなりません。 また、こうした印は、小生の手元にある、仏像に関する文献には載っていません。そして、物資が彫った仏像には、こうした不自然なものはないとされています。あの広隆寺の弥勒菩薩などは、まったく自然な姿勢をしています。そしてどこにも力が入っていません。中学の修学旅行であの弥勒菩薩像を見た時、その奥にある何か深いものに強く心を動かされて、みんなが外へ出てしまっても、あの前に立っていました。 『新編会津風土記』に記されている内容や、会津史に関する様々な文献を読んで、この極めて立派なお堂がここに建てられているのかが見えてきました。江戸時代中期以降に、帰農した武士がいたのであろうと思われます。そう考えると、この村にこれだけ立派なお堂が建てられたことも不思議ではありません。
2013.01.29
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【会津の風景】 これは前述の、舟形光背にハート形の穴が空けられている「子安観音」像です。しばらく前までは、これが厨子の中に祀られていたそうです。この「子安観音」像は、会津のとある真言宗のお寺の裏山にある観音堂に祀られています。そして、このお寺の建物もこの観音堂も、「キリシタン方位角」を向いています。 この観音堂を最初に訪ねたのは1998年でした。あのお寺に関する本を読んでいて、そこに書かれていることの中に不思議なことを見つけたからです。そして、出掛けてみて、大変に驚きました。『新編会津風土記』に記されている家数は25軒なのですが、お堂の外壁の高いところにある彫り物がかなり立派なものでした。 この村は本村ではありません。隣の村の端村になっていて、本村には曹洞宗のお寺があります。そして、この観音堂の下にあるお寺は、その造りからすると江戸時代に建てられたもののようには見えません。むしろ、戦後すぐの頃に建てられたように見えます。 それで、2006年8月22日に、新しくてに入れたカメラを持って、所長と出掛けました。すると、偶然に観音堂の横の戸が開いていて、中に入ることが出来ました。普段でも、お詣りにいらっしゃる方々がいるのだろうと思います。中は綺麗に整頓されていました。
2013.01.29
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【会津の風景】 これはまた別の村の子安観音堂に祀られていた「子安観音」像です。この像が祀られている須弥壇の上に「子安観世音」と書かれた扁額が掲げられています。そして、この「子安観音」像も岩のような台座の上に祀られています。 「子安観音」像が岩のような台座の上に祀られているのは、会津では珍しいことではありません。今までにもここでご紹介してきた「子安観音」像の中で、岩のような台座の上に祀られているのは少なくありませんでした。小生は、この岩のような台座は、聖書に出てくる「岩の上に」という言葉に由来しているのであろうと考えています。 と同時に、キリシタンはローマ・カトリック教会ですから、もう一つ別の意味が含まれている可能性もあると考えています。ギリシア語の岩という言葉は「ペトロス」ですから‥‥‥そして、ローマ・カトリック教会では初代の教皇は使徒ペテロであるとしています。 会津には、こうした像がいくつも残っています。観音堂の須弥壇の端に祀られているものもあります。あるいは、かつては観音堂の正面にある厨子の中に祀られていた「子安観音」像もあり、舟形光背には大きなハート形の穴が空けられています。
2013.01.28
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【会津の風景】 前述の「子安観音」石像が祀られている所からそれほど離れて伊南村に、『新編会津風土記』には記載されていない観音堂があって、その観音堂の中にこの「子安観音」像が祀られていました。ただし、この建物は最近になって建てられたもののようで、扁額などはありませんでしたが、中には「子安観世音」と書かれた幡が壁に貼られていました。 下の写真は、その観音堂の境内に建てられていた石塔の一つです。「己侍供養塔講中」と彫られています。この村は勿論『新編会津風土記』(1809)に記載がありますが、ある村の端村になっています。そして、その本村は『文禄三年蒲生家高目録』(1594)に名前が出ているのですが、5つある端村はすべて、『寛文風土記』(1666)に記載がありません。そして、5つある端村の一つは本村よりも家数が多いです。 こうしたことを考えると、答えは自ずから出て来ます。これまでにも記したことがありますが、山形最上から会津に入って来た家々があることが『新編会津風土記』の中に記されている村が一ヶ村だけあります。その家の姓も記されているのですが、その姓と同じ姓はその村だけにあるわけではなく、ここから少し離れたところにある村にある家々はすべて、その姓の家々です。墓地で出会った村の方が教えて下さいました。 そして、実に興味深いことなのですが、この姓は伊那谷だけでなく、信州の別の所にも残っています。ネット上の検索サイトで検索するとそれが判ります。そして、保科正之公が何のために高遠から3000人の農民を武士に取り立てて、山形最上へ帯同させたのかが、こうした残されたものからも見えてきます。
2013.01.28
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【会津の風景】 上の写真は2004年12月24日に撮りました。下の写真は、2006年7月26日にこの「子安観音」石像を見せたくて出掛けた時に撮った写真です。観音菩薩は男でも女でもない性を超克した存在で、妊娠することも、出産することも、授乳することもないと、何回も所長に話してきたのですが、これをやっと理解してもらえたのは最近のことです。 この「子安観音」石像も、いつかじっくり解析してみたいと思っています。この一帯にも、明らかに帰農した武士集団で形成されている村があります。そして、残っているものからすると、その村には帰農した武士集団であることの伝承が残っているだろうと思います。 それも、帰農した蒲生集団と、山形最上経由で高遠から会津に入って来た家々です。彼らは、武士に取り立てられて保科正之と共に会津の入って来ています。そしてそれを示すモノがこの一帯に残っています。それらのモノに出会った頃には、まったく判りませんでしたが、旧高遠藩領内や伊那谷を何回も訪ねているうちに、様々なことが明らかになってきました。 「村の中で完結しているキリシタンはお咎めなし」という、保科正之公以来の対キリシタン政策の基本的なことが、こうしたモノを祀ることが、現代まで残ってきたのであろうと思われます。この石像はそれほど古いものではありません。
2013.01.28
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【会津の風景】 また「子安観音」を続けます。この「子安観音」には乳房が彫られています。ですから、少なくともこれは菩薩ではないということになります。あるお寺のご住職にこの写真をお見せした時、即座に「これは仏(ブツ)ではない」とおっしゃいました。菩薩は性を超克した存在ですから、菩薩に性はありません。 ただ、いつの頃からか、地蔵菩薩は男で、観音菩薩は女であるという誤解が蔓延してしまったようです。そして、「子安観音」は、安産や子供の健やかな成長を祈る対象になっています。こうした乳房のある像は、像だけでなく、絵も会津に残っています。 そして、江戸時代の人々にとっては、上半身裸の乳房が描かれている女性の絵は、特別なものではなく、日常生活を描いた絵にも乳房が描かれているものが残っています。出産の後の授乳も女性にとっては大変なことでした。母乳が出なければ、乳児を育てることは出来ません。小生の知っているご婦人は、たくさん母乳が出たので、ご自分のお子さんだけでなく、知り合いの方のお子さんにも授乳させていたと、ご本人から直接お伺いしました。 ですから、秩父三十四観音の一つ、金昌寺の本堂(観音堂)の入口に祀られている「子安観音」像などは、女性を引きつけるものがあったのであろうと思われます。ただし、会津の金昌寺も曹洞宗のお寺で、庫裡はもうありませんが、あの観音堂が本堂だったと説明板にありました。実に不思議なお寺です。
2013.01.28
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【東京分室でも雪】 東京分室でも雪が積もりました。さすがに気象庁の大型コンピューターは凄いです。雪が降る時間帯まで当てました。積雪2cm程度ですが、日影ではしばらく解けないだろうと思います。一般道では、都心に向かう車線があちこちで渋滞しているようです。 徳川幕府の幕閣の多くは譜代です。愛知県岡崎市周辺や三河の低山帯では雪はほとんど降りません。駿河から三河にかけての北側には、南アルプス南部の高山帯があります。それが二度目の障壁になって、季節風は乾燥しきっています。ですから、岡崎から豊橋、浜松、静岡では、まったくと言っていいほど雪は降りません。降っても、「雪が舞っている」程度です。もうしばらく以前ですが、豊橋で10cm程積もったら、そこら中でパニックになったそうです。 幕閣が雪国を知っていたとは思えません。それも、一晩で一尺も二尺も積もる雪は、話しに聞いたことがあるだけであろうと思われます。ですから、北国の藩から送られてくる文書の裏に隠れている真実を見抜けなくても当然かもしれません。 寛文五年五月八日「吉利支丹宗門之者、寛永二十年会津入封之節ハ、御領中ニ壱人モ無之、御蔵入之分ハ諸代官加勢申付、本尊ヲ為踏、家捜イタシ厳致穿鑿、同年十二月吉利支丹宗旨之義、七人組之内ニ而能々致穿鑿、毎年正月之内日限ヲ定寄合、寺檀那共ニ無相異之次第、郷中ニ有之行人乞食迄、不審成者入念可相改旨被仰出、正保元年十二月、来正月モ例之通可相改哉之旨及言上候得バ、只改候而者其徒不相顕」と『会津藩家世実紀』にありますが、旧十二月は西暦の一月です。保科正之公が「家訓十五ヶ条」で「忠誠を尽くせ」と命じていらっしゃるのは、将軍家であって、幕閣ではありません。寛文五年には既に、保科正之公は将軍家綱の後見役になっていらっしゃいます。
2013.01.28
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【会津は大雪】 上の写真は、前述の下の写真の墓地があるところから、沢沿いに奥へ入った村を訪ねた帰りに撮った写真です。どんなに山の深いところでも、人が住んでいれば道路を除雪しなければなりません。たとえそれがお一人であってもです。それが、近代市民社会の基本だと小生は考えています。 日本国憲法 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 アフガニスタンで悲しい出来事がありました。これから同じことが起きないという補償はありません。ペルシャ湾を航行する外国のタンカーに対して、ミサイルの照準を合わせている国があります。望遠鏡を使うとそれが見えるそうだと、親父が言っていました。親父の会社にはタンカーはありませんでしたが、釣り仲間の方々の会社にはタンカーを保有している会社がありました。おそらく、そうした方々にお伺いしたのだろうと思います。 この憲法第九条で日本が放棄しているのは、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段」としての戦争です。多くの方々は、イスラム圏の国々がどのような歴史を持った国であるのか、そして何故、イスラム教の国家同士で戦争を数千年間にわたって行ってきたのかをあまりご存じないだろうともいます。是非、ウィキペディアで「聖戦(ジハード)」という項をじっくりお読み下さい。アメリカの911の時には、テレビでも解説者が色々解説していましたが、最近はもうほとんど語られなくなっています。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」なのでしょうか。あの911でも、日本人が亡くなっていますが‥‥‥‥
2013.01.27
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【会津は大雪】 上の写真はここでご紹介しています。只見町中心部の北東部です。雪が降り続いているようでしたが、人が歩いていました。雪が多いところでは、雪の中を歩く時に傘はさしません。傘の上に雪が積もってしまうからです。その代わり、厚手のものを重ね着して、防寒着を着用します。靴は勿論、ゴム長靴です。そして、一番上にはいている防寒着のズボンは、ゴム長靴の外に出します。こうしないと、雪がゴム長靴の中に入ってきてしまいます。 真ん中の写真は、只見町から金山町へ入るあたりで、只見川の対岸を撮った写真です。この写真をモノクロに変換すると、水墨画のようになります。ただし、車を道路に止めて写真を撮っていると、後ろから来た車にクラクションを鳴らされてしまいます。見通しが悪いところなので、止まっている車を追い越すのも怖いからです。この時は、小生も慣らされてしまいました。 下の写真は、昭和村のとある村にある墓地を撮った写真です。大きな墓石があるところは、墓石の上に雪が積もっているので盛り上がっています。小さな墓石や石仏などは完璧に雪の中です。この辺りは雪が多いところで、一昨年の旧正月明け、2月12日に出掛けた時には、二階建ての家屋の一階部分はすっぽりと雪に埋まっていました。 ネット上の道路情報サイトにあるこれらの一帯の写真で見る限りでは、今回の雪はかなり多かったようです。車で出掛けても、両側は雪の壁になっていて、窓から風景は見られないだろうと思います。また、標高の高い峠では、道路の両側に2m近い雪が積もっているように見えます。これだけ雪は降れば、只見町中心部付近には、かなり遅くまで雪がありそうです。それでも、その頃にはもう、路面に雪はありません。
2013.01.27
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【会津は大雪】 上の写真は旧伊南村の中心部、古町です。ここも、かなり以前のことですが大火事でほとんどの家が焼けました。それで、道路の幅を広げたそうです。その時に、会津盆地やその周辺部一帯で緊急物資を集めてこの古町まで運んだ方々からお話をお伺いしたことがあります。 会津若松市街地から、只見川沿いに車を走らせたのか、駒止峠を越えたのかは判りませんが、その当時は国道でも未舗装の所がありました。当然道幅も狭く、大型車が来ると大変です。左にめいっぱい寄らなければならないのですが、ガードレールがありませんでした。1979年の夏に、小生もその道を初めて走りました。 駒止峠の旧道は、まるで林道のような道で、これまた運転するのが大変でした。それに比べると、今は楽になりました。只見川沿いの道は全面舗装されていますし、ガードレールだけでなく、スノーシェッドという雪崩除けもあります。そして、点在する村々をバイパスする快適な道路もできました。真ん中の写真はそうしたバイパスです。村は右側の山の麓にあります。 下の写真は墓地を撮った写真です。もうかなり以前のことですが、「雪を六尺掘って、それから地面を六尺彫った」とお伺いしたことがあります。冬に亡くなられた方があると、只見町ではそうしたところがあったそうです。会津の農村部で火葬にしていたと思われるところに出会ったことがありません。若松城下では、武士は土葬が許可されたそうですが、一般民衆は火葬だったと聞いたことがあります。
2013.01.27
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【会津は大雪】 JR磐越西線は今朝7時00分の配信では、郡山駅~喜多方駅間の上下線で「終日運転見合わせ」、また喜多方駅~津川駅間の上下線で「運転を見合わせ」になっています。そして、只見線では会津若松~会津川口駅間の上下線で「終日運転を見合わせます」となっています。磐越道は会津若松~郡山東間が通行止め、東北道は郡山~本宮間と仙台宮城~築館間が通行止めになっています。東京分室周辺でも、最低気温は氷点下でしたが、空は晴れています。 ここでご紹介したことがありますが、南会津の雪景色を又貼り付けます。南会津も雪が多いですが、会津北部の山岳部も雪が多いです。そして、気象庁のデータからすると、今はこれ以上の雪が積もっているかもしれません。この時は南会津町田島から山王峠方向に左折して、中山トンネルを越えて旧舘岩村を通り、伊南村に入ったところで、「左に曲がると桧枝岐」と所長に教えたら、「蕎麦を喰いに行くぞ」と左折させられてしまいました。桧枝岐も山の奥深いところですが、舘岩村の方が雪は多いかもしれません。 ただ、最近の大雪パターンは、以前とは少し異なっています。新潟県南部の山岳地帯から、只見川沿いに向かって雪雲が入り込んで、それが西会津に大雪を降らせているようです。西から来る低気圧の移動ルートが、以前よりも北に上がっているように見えます。データがないので判りませんが、北海道だけでなく、樺太でも大雪になっているかもしれません。 会津若松市街地では陽が射してきたようです。今朝午前3時の詳細天気図では、会津盆地中央部以南と猪苗代で大雪になるパターンだったのですが‥‥‥その代わりに、喜多方で大分雪が降っています。いつもと異なった屋根に雪が多く積もるかもしれません。落雪には十分にお気を付け下さい。
2013.01.27
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【会津は大雪】 午後7時現在、会津若松 89cm、西会津町162cm、金山町184cm、只見町270cm、南会津町南郷182cm、桧枝岐村156cm、になっています。JR会津若松駅のLive動画では、雪は止んでいるようですが、強い風で地吹雪が時々起きています。皆様の所は大丈夫でしょうか。喜多方は昨夜も雪が激しく降っていたようですが‥‥‥ JR会津若松駅のLive動画を見ながら書いていますが、人影が見えたので、電車が動き始めるのかと思ったら、JRの職員の方々でした。「お前が何もいいことしていないのに、なんでこんなに降るんだ?」と、所長が真剣な顔で訝しがっています。 しばらく前までは、2列車が駅に止まっていたのですが、いまは1列車だけになりました。走らせていないと、線路が雪で埋まってしまうので動かしたのかもしれません。と書いていたら、残っていた列車もホームを離れました。 東京分室でも今朝の外気温は氷点下でした。明朝も氷点下になりそうな勢いで気温が下がっています。会津のことを想い出して、この写真を壁紙にしました。磐越道は磐梯熱海から会津坂下までまだ通行止めです。それでも、49号線の渋滞は解消しているようです。一度、雪のために猪苗代で下ろされて、会津若松まで苦労したことがありました。
2013.01.26
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【会津の「子安観音」】 上の写真は2004年の晩秋に撮ったのですが、左手の上に写っている丸いものが気になったので、2005年の秋にまた出掛けて下の写真を撮ってきました。この写真で、子供が抱かれているのがお判りになられると思います。 これまでにもこの「子安観音」が彫られた石塔についてご説明してきましたが、この「子安観音」は以前からこの村にあったものではなく、この村の方が廃村になった木地師の村から運んできたものだそうです。運んでこられた方から直接お伺いしました。春先の雪がしまった時期に、橇に載せて下ろしてこられたそうです。 そして、当該市町村が発行した、廃村になった木地師の村に関する調査報告書を読むと、木地師の中にもキリシタンが伝わっていたことが判りますが、こうした廃村になった木地師の村々は、保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た、伊那谷の木地師かもしれないと小生は思っています。こうした木地師の村も宗門人別制度に組み込まれていたことは、残された墓石から明らかです。しかし、古い墓石がありません。 そのうち、所長に頼んであの一覧表をデータベースにしてもらおうかと思っています。それをすると、かなりのことが見えてくるように思えます。何しろ、伊那谷にはかなりの数の木地師の村があったようですし、旧高遠藩領内にも、かつては木地師だった村が現在も残っています。
2013.01.26
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【会津の「子安観音」】 しばらく前から、会津若松市街地でも吹雪いているようです。16時現在の積雪は83cmだと気象庁のサイトに出ています。JR東日本のサイトには、只見線と磐越西線は「終日運転を見合わせます」と書かれています。若松へ電話したら、かなり積もったそうで、「何かやってねぇかよ?」と言われてしまいました。何もしていません。ここに座っていただけです。 これらの3体の「子安観音」は、今までにもここでご紹介したことがあります。下段の「子安観音」は当該市町村の教育委員会が「マリヤ観音」と命名したものです。村の方にお願いしたら、戸を開けて見せて下さいました。真ん中の「子安観音」は岩のような台座の上に祀られています。こうした岩のような台座は、ここでいくつもご紹介しましたが、「子安観音」の台座としてだけではなく、他にも使われています。木製の枠に粘土で形を作り、それに着色したものです 上段の「子安観音」はとある村の子安観音堂に祀られています。それほど大きなものではありません。ただ、観音菩薩の髪以外にはすべて金箔が貼られています。そして、『新編会津風土記』に載っているこの村の名前は非常に気になっています。現在は、同じ漢字表記で別の読み方になっていますが、『新編会津風土記』にはルビが振られていますから、江戸時代の読みが明らかになっています。 こうした「子安観音」は見付けやすいのですが、観音堂の須弥壇の端の方に祀られていると気がつかないこともありました。ですから、同じ観音堂を何回も訪ねることもあります。そして、見付けた時には感動します。「ここには『子安観音』があるはずだ」と思っていて、見付けた時には安堵のようなものを憶えます。会津へお出かけの際は、観音堂などにある格子の間から、中を丹念に探してみて下さい。小生は、とある「子安観音」を見付けることで、『会津藩家世実紀』にある不思議な記録に対する疑問を解くことが出来ました。
2013.01.26
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【会津の「子安観音」】 この4体の「子安観音」も会津にあります。右上の「子安観音」は子供の頭だけが彫られています。左下の「子安観音」は舟の部分に合掌した子供が彫られています。 右下の「子安観音」の光輪に気が付いた時にも愕然としました。ギリシア十字をデフォルメした形ですが、小生の母校の校章がこの形をしています。しかもこの「子安観音」、小生がキリシタン方位角と呼んでいる方向を向いています。 左上の「子安観音」は、以前にここでご紹介していますが、とある村の阿弥陀堂に祀られていますが、そのことが当該市町村史に書かれていたので出掛けたのですが、阿弥陀堂を見付けられなかったので、村のご婦人に阿弥陀堂の場所をお伺いした時、そのご婦人はこの「子安観音」がここに祀られていることをご存じありませんでした。 阿弥陀堂を管理している方のご許可を頂戴して中に入り、写真を撮った後、墓地を歩いてきました。そしてその帰り道に、村を眺めたら、「そういうことか」と思わされる光景に出会いました。会津で、何回か耳にしたケースと同じであろうと思われます。ですから、会津にお住まいの方々の中には、この「子安観音」が阿弥陀堂に祀られていることを、村のご婦人がご存じなかった理由をお判りになる方がいらっしゃるだろうと思います。
2013.01.26
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【会津の「子安観音」】 会津にある「子安観音」を少しご紹介することにします。どれだけの数の「子安観音」が会津にあるかは、小生も数えたことがありません。かなりの数の「子安観音」があることは間違いありません。これからご紹介する「子安観音」の中には、ここでご紹介したことがあるものがいくつもあるだろうと思います、 上の写真の「子安観音」は、子供を抱いているかどうかは判りません。しかし、これが祀られている小さな祠に「子安観音」と書かれていました。この祠が建てられている場所は、曹洞宗のお寺の入口です。そして、『新編会津風土記』には、このお寺のご本尊も「観音」であると記されています。 真ん中の写真の「子安観音」は、とある村から少し登ったところに建てられている観音堂の正面に祀られています。ここにも「子安観音」と書かれていました。この村は比較的大きな村なのですが、お寺はありません。 下の写真の「子安観音」はここで何回もご紹介しています。お堂の中に祀られていますが、この「子安観音」が祀られている須弥壇の手前の両側に、六地蔵が三体ずつに分かれたものが向かい合って祀られています。但し、6体のうち5体の首が落とされています。このお堂に中に入ってそれに気が付いた時、愕然としたことを憶えています。
2013.01.26
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【会津の風景】 1月26日午前8時現在、会津若松市 79cm、西会津町 143cm、金山町178cm、只見町274cm、南会津町南郷170cm、桧枝岐村140cm、南会津南会津町田島 59cm。今朝起きてすぐにパソコンを立ち上げ、ネット上にあるデータを見ていました。会津のJR磐越西線もJR只見線も「運転見合わせ」になっています。 ネット上の画像情報を見る限りでは、国道も高速道路もほとんど車は走っていません。ほんの少し前に、東北道の本宮・郡山間と磐越道の磐梯熱海・船引三春間が通行止めになりました。JR会津若松駅には2両の列車が止まっていますが、構内に人影はありません。 昨日は喜多方で吹雪いていたので、おそらく会津全域で大雪だろうと思います。中通りでも、福島市から郡山市にかけては少し降ったようです。また、新潟市街地でも3cmの積雪があるので、山沿いは軒並みドカ雪のようです。ただ、会津藩領内と天領南山御蔵入で一番積雪量が多いのは只見町です。 上の写真は只見町中心部、下の写真は昭和村大芦から山の中へ入ったところで、2008年2月16日に撮った写真です。今朝は、これ以上に雪が積もっているかもしれません。会津キリシタン研究所のお天気占いでは、まだもう少し降りそうな卦が出ています。会津の皆様、除雪作業には十分にお気を付け下さい。小生は、東京分室周辺も寒いので、後ろからストーブを焚いて、パソコンの前にへばりついています。会津でこれほど降るとは思っていませんでした。
2013.01.26
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【会津の風景】 これは去年の7月2日に撮った写真です。東京ではまだ梅雨が終わっていない頃だと思いますが、会津は梅雨らしい時期がほとんどありません。これは、所長も同じことを感じています。梅雨でフィールドワークに出掛けられない日が続いたという経験は、小生にはありません。 ただ、まったく雨の日がない訳ではありませんので、ご注意下さい。この会津鶴ヶ城の本丸の中にも、あるいは二之丸にも、あるいは西出丸にも、ここでご紹介したものが残っています。どうしても見付からなかったら、小生の携帯電話の番号をご存じの方は、携帯電話に電話して下さい。 ただ、石垣の十字痕は、太陽高度とその方位で見えなくなることがあります。夕方、陽が傾いたときにしか見えない十字痕もあります。その反対の方向から、同じ角度で陽が当たることはあり得ない場所ですから、その頃に行くしかありません。小生は、三脚に望遠レンズを付けて、しばらく待っていたことがありました。また、蔦が生えている石垣の十字痕は、蔦が枯れるまで見えません。 しかし、保科松平会津藩は十字痕に何故、気が付かなかったのでしょうか。あるいは天主台の向きに何故、気が付かなかったのでしょうか。保科正之の家臣には、安藤有益という優秀な人物がいて、既に会津藩に仕えていた島田貞継から数学、ことに幾何学や暦学も学んでいたとされています。おそらく彼らは、ポルトラーノ法を知っていたであろうと考えられます。そしてそうした知識に関して、保科正之公が無頓着であったとは、到底考えられません。
2013.01.25
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【会津の風景】 NHKの大河ドラマ『八重の桜』で何回もお城が映ったようですが、この天守閣の石垣=天守台の東西の線は方位102度と282度を結んだ線の上にあります。これは、最近になって本丸を測量して作った測量図でも明かですし、国土地理院の地形図を最大にして、分度器を当ててもこの方位であることが判ります。 ポルトラーノ法で全方位を32分割すると、最小単位は11度15分になります。これを東は90+11.25=101.25とすると、当然西は270+11.25=281.25ということになります。つまり、エルサレム向けるように、最小単位一個分だけ北及び南寄りに向けたのであろうと思われます。あの天守台が築かれたのは、蒲生氏郷が会津の領主だった時代です。 そして、本丸御殿の庭にあった御三階は、天守台と向かい合った方向に建てられていました。御三階については、ここで何回も記してきました。小生は、領主とその家族のために建てられた礼拝堂であろうと考えています。領主とその家族のための礼拝堂ですから、大きな礼拝堂である必要はありませんし、当時のヨーロッパの領主の城には必ずこうした礼拝堂がありました。 このキリシタン方位角は、ですから、かなりアバウトな角度です。カーナビに付いている方位磁石表示でも使えます。小生は、車で移動中にいお堂やお社があると、すぐにカーナビを見ることにしています。会津には、このキリシタン方位角を向いたお堂やお社がかなりあることにお気付きになられるだろうと思います。そして、かなり南や北に寄っているお堂やお社は、エルサレムではなく、ローマを向けているつもりであったのであろうと思われます。
2013.01.25
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【会津の風景】 これは前述までの一帯の村にあった大山祇神社です。向きが気になったので、計ってみたら、およそ方位308度方向を向いています。方位102度から160度方向と、その反対の方位282度から320度方向を向いている、お寺やお堂や神社が会津にはかなりあります。また、北を向いている神社があると本で読んだので、出掛けてみたら、方位12度方向を向いていました。 キリシタンが日本に入って来た頃には、その地点の緯度を知ることは出来ましたが、経度を測ることは出来ませんでした。基準点の時刻を知ることが出来なければ、その地点が何時間ずれたところにあるかを知ることは出来ません。ですから、経度測定が出来るようになったのは、クロノメーターという正確な携帯用時計が出来てからということになります。つまり、18世紀半ば以降です。しかし、このクロノメーターは量産できるようなものではなく、ですから、地球上の任意のに転換で、それぞれがどの方向にあるかということを正確に計算できるようになったのは、それよりも後のことでです。そして、方位に0度~360度を用いるようになったのは、ジャイロコンパスが普及してからだそうです。 ですから、江戸時代には、方儀と言われるコンパスがあったのですが、その場所の経度を知ることが出来ませんでしたから、地球上の特定の場所の方向を正確に知ることは出来ませんでした。そこで、ポルトラーノ法という非常に曖昧な図法が用いられていました。このポルトラーノ法の方位が描かれている地図の画像は、ネット上にあります。 こうしたことを考えると、方位102°~160°や方位282°は、キリシタンの時代に、キリシタンがエルサレム、もしくはローマを向いて祈るために考え出された方位ではないかと思われます。こうした方位を向いた神社やお寺、あるいはお堂が建っている村にはキリシタンの痕跡が残っています。そして小生はこの方角を、「キリシタン方位角」と呼んでいます。 ※この「キリシタン方位角」に関することは、HN善兵衛さんの ご指導を頂戴しました。善兵衛さんは、方位や電磁波に関す ることの専門家です。
2013.01.25
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【会津の風景】 皆さんはこの燭台をどう思われるでしょうか。古いものではありませんが、こうしたモノは古くなるとそれまであったものと同じものを造るのが一般的です。そして会津では、観音堂や祠の中にこうした不思議な燭台が置かれているのに時々出会います。そして、子安観音が祀られている厨子の前にこうした燭台があると、気にならざるを得ません。 この祠には「山神社」と書かれていました。しかし、左側の厨子には何かの像が祀られています。原版で見ると、大黒天のようにも見えます。こうした情況は、ともすると「民間信仰」という言葉で脇に追いやられてしまうようですが、しかし、こうしてヤマノカミと一緒に像が祀られているケースは、会津では時々出会います。 会津へ来て間もない頃、「『耶麻郡』の『耶麻』は、ヤソとマリアだ」ということを聞いたことがあります。古い史料に載っている「山」を「耶麻」と書き換えたというのです。今、それを思い出すと、あり得ると思えるのですが、それを聞いた時には会津のキリシタンの研究をしていませんでした。 福島県耶麻郡は、猪苗代町・磐梯町・旧塩川町・旧喜多方市・旧熱塩加納村・旧山都町・旧高郷町・西会津町です。郡役所は喜多方市にありました。地図を想い浮かべて、この一帯で出会ったモノを想い出すと、「ヤソとマリア」説も、即座に否定することは出来ませんし、天領南山御蔵入の「ヤソとマリア」にしたかったかもれないと思えてきます。
2013.01.25
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【会津の風景】 前述までの一帯にある、別のお寺の境内で見付けた3基の石塔です。どれも建立年は読みとれませんでした。「庚申塔」「湯殿山」「六十六部供養塔」と彫られています。この「六十六部」は書き写した法華経を一部ずつ、66ヶ所の霊場に奉納する目的で、日本の寺社を回る行脚僧のことを言います。また、江戸時代には、一般民衆の中からこれを行う人々が出ていたそうです。 ここの僧侶に中には、高野山ではなく湯殿山で修行をしてきた僧侶がいたと、お寺が建てた説明板に書かれていました。とすると、ここも修験道のお寺ということになりますが、このお寺は曹洞宗のお寺であると『新編会津風土記』に記されています。但し、曹洞宗のお寺になったことに関しては、「イツノ頃ニカ」と記されていますが、文脈からすると慶長二年以降のことになります。1593年、まだ会津領主は蒲生氏郷だった時代です。 そして、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)ではこの村は蒲生氏郷の直轄地になっています。やはり、湯殿山へ行ってくる必要がありそうです。ある方からお送りいただいた写真を見ても、気になって仕方がないものがあります。月山・羽黒山・湯殿山は、奥羽三山とも言われ、修験道のメッカです。 今日は1時半頃、東京分室に着いたのですが、会津で集めたデータを修理していただいたパソコンにコピーしたり、動作を確認していたら、疲れがドッと出てダウンして寝てしまいました。今夜は、早めに寝ることにします。多分、夕食を摂って、風呂に入ったら、完璧に睡魔に襲われるだろうと思います。
2013.01.24
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【会津の風景】 前述までの一帯にあった観音堂です。この観音堂は会津松平氏年々修復料を受けて維持修理してきたことを示す、寛政五年(1793)の覚書が残っているそうです。こうしたケースは、会津では珍しいことですが、この一帯の歴史を考えるとそうしたことが行われていても不思議ではありません。 この観音堂の説明板にには、「天正十七年(一五八九)に滅亡した葦名氏が伊達氏との抗争に際し、念持仏(聖観世音菩薩)を秘かに移したところと伝えられている。」と記されていますが、あの時代にこの村が成立していたかどうか疑問が残ります。もし村が成立していないと、この観音堂のすぐ近くに何故、村が成立したのかが理解しにくいです。 また、葦名氏が何故、ここに念持仏を運んできたのかも、この観音堂が建てられているところが若松城下からかなり離れていることを考えると、疑問が残ります。こうして歴史を考えていると、不思議なことが数多く見えてきますが、それらを丹念に検証し、データベースを駆使して解析していくと、裏に隠れている真実の歴史が見えてきます。 今朝は良いお天気です。これから車に荷物を積んで、少し休憩したら出発します。雪がなさそうなので、山王峠越えで東京分室へ行くことにしました。『会津藩家世実紀』の気になっているところを、もう一度検証するのが楽しみです。今朝は北海道と宮城県沖で自身がありました。サイドテーブルがゆらゆら揺れていました。皆さんのお宅は如何でしたでしょうか。
2013.01.24
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【会津の風景】 去年の春の初めの頃、『会津藩家世実紀』を読んでいてどうしても気になることがあって、『新編会津風土記』をもう一度、調べてみました。歴春版は東京分室に置いてあるので、若松市立図書館で必要なところをコピーしてきて、雄山閣版と歴春版を並べ、データベースを表示させて考えていたのですが、どうしても答えが見つかりませんでした。 それで、所長と一緒にその一帯を訪ねました。「巳待」が必ずあるはずだと思っていたら、案の定、とある神社の入口にありました。これがその「巳待塔」と彫られた石塔です。そして、その時には訪ねられなかったところや、もう一度訪ねたいところがあったので、翌週にまた出掛けてきました。 その時も村の方とお話しすることが出来、小生が気になっていたことが解決しました。そして、この「巳待塔」と彫られた石塔です。やはりこの一帯の村々は帰農した武士集団でした。そして、小生が知る限りでは、保科正之公について山形最上経由で会津に入って来た家々です。 3000人の農民を武士に取り立てて、高遠から山形最上へ保科正之公はお連れになりました。そして、会津へ移封された時にも、彼らのほとんどの家を連れて来ています。これは、何回も書きましたが、旧高遠藩領内で何回も耳にしたことです。そして、『会津藩家世実紀』にある不思議な記事も、この石塔と、とあるところにあった墓石に彫られた文字から答えが出ました。保科正之公の対キリシタン政策は家臣によって継承され、その後も同じように行われていたということです。「会津のキリシタンはおもしろいですよ」と小生の恩師のお一人が、かつて所長におっしゃった意味が判りました。
2013.01.23
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【会津の風景】 会津のとある村で出会った不思議な石祠です。破風のところに「磐梯山」と彫られ、「大明神」と彫られた扁額のようなものがあるのですが、その下は石灯籠の火袋があります。基礎の部分に「奉想村講中」と彫られています。 この石祠にはかなり以前に出会ったのですが、気になっていたので2009年12月14日にカメラを持ってで掛けました。最初に出会ったときと同じように大きな岩の上に置かれていました。皆さんの中にはこれをご覧になってドキッとされた方がいらっしゃるだろうと思います。火袋のような部分にハート形の穴が空けられています。 ハートはカリス(聖杯)のシンボルです。様々な協議会で優勝者に贈られるカップの形から始まったとされ、日本に入って来たウンスンカルタにも、キリスト教の聖職者と一緒に描かれているものがあります。ハートが心臓のシンボルになったのは、18世紀前半にドイツ人医師ヨーハン・アーダム・クルムスという人が『ターヘル・アナトミア』の原書を出版して以降のことです。日本のキリシタンの時代には、ハート形は聖杯をシンボライズしたものでした。 『寛文風土記』と『新編会津風土記』の記述からすると、この村は保科正之公が会津藩主になられてすぐの頃に成立した村であろうと考えられます。日本ではまだ、杉田玄白が生まれた頃です。ですから、このハート形がハートをシンボライズしている可能性は限りなく少ないと考えられます。「磐梯山」「大明神」とハート形がどの様な関係にあるのか。しかし、史料はまったく沈黙しています。※東京分室のパソコン、退院してきました。 マザーボードを交換していただきました。 快適に動きます。感謝!
2013.01.23
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【会津の風景】 前述の青面金剛が彫られた石塔から少し離れたところに祀られていた、不動明王と思われる像が彫られた石仏です。剣が彫られていませんが、両手が欠けているので、もしかすると手に鉄製の剣を持たせていたのかもしれません。舟形光背の右側に「弘化四年」、左側に「十一月大吉日」と彫られています。弘化四年は1847年です。 天保二年(1831)に「台座共に高さ四尺まで」という一般民衆の墓石規定が出されて2年後です。まさかとは思うのですが、西暦1831年12月25日は天保二年十一月二十二日です。会津には、不動明王が祀られている清水があって、そこには柄を上にして、剣を奉納する習慣が残っています。ここでご紹介したことがありますが、地元の方はその場所を「キリシタン」と呼んでいらっしゃいます。 また、不動堂の横の沢に滝があるところがあるのですが、その不動堂には、大小さまざまな大きさの剣が奉納されています。不動堂に剣を奉納する習慣は、不動堂が建てられているところではよく見かけますし、滝のところに剣を奉納する習慣が現在も残っているところがあります。 不思議なことなのですが、こうした剣を奉納する習慣は、中通りにも残っているようで、剣に書かれた住所が中通りのものもあります。そして、その市町村一帯を歩いたことがあるのですが、不思議なモノが沢山あります。その中にはここでご紹介したモノもあります。中通りは、蒲生氏郷が会津の領主だった時代には、全域が蒲生領でした。そして、加藤明成の時代には、弟の加藤明利が藩主だった地域もあります。
2013.01.23
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【会津の風景】 これはまた別の村にある「子安観音」堂の前に祀られていた青面金剛が彫られた石塔です。太陽と月が彫られていて、上に掲げた左手には〇の中に十字があるものを捧持しています。そして、最下部には三猿が彫られていますから、庚申と関係があるように見えるのですが、この近くには「庚申」碑や「庚申」塔は見当たりませんでした。 側面には「天明二年寅三月」と彫られています。1783年、江戸時代後期の混乱期です。この幕末にも江戸幕府は、天明六年、寛政二年、そして天保二年の3回にわたって寺院本末帳の提出命令を、本山格の寺院に出しています。しかし、外国船が日本周辺に出没している時に、「切支丹」に関する命令などは出されていません。いっぽうで、会津藩は文化六年には『新編会津風土記』を完成させ、幕府に献上しています。ですから、あの時代、幕閣が『新編会津風土記』にどれだけ眼を通すことが出来たか、判断に苦しみます。 まして、『新編会津風土記』のデータベースを作ることなど出来ない時代ですが、『新編会津風土記』には「太子守宗」に関する記述が所々に出てきますし、会津のあるところには「太子守宗」の大刹ががあったという伝承が記されています。その一帯は現在は開墾されてしまっていて、まったく場所が判らないのですが、その近くに気になるものが残っています。ある武将の墓なのですが、その武将の子孫の家の方はあの墓石は先祖の墓ではないとおっしゃっていました。 保科正之公がその墓のことを家臣に書かせ、それが碑文として残されていますが、『新編会津風土記』はその碑文の全文を記しています。こう記すと、何処にある、誰の墓であるかは、会津史に関心のある方はお判りになられるだろうと思います。あの墓石、本来の形とは異なっています。小生はそれが気になって仕方がありません。そして、あの墓石とよく似たものが、会津の他のところにあります。
2013.01.23
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【会津の風景】 前述までの観音菩薩石像や石塔などが並べられているところを撮った写真です。2009年12月19日、この観音堂の雪景色を撮りたくて出掛けました。画像処理をしたら、晴れているようになってしまいましが、どんよりと曇っていました。 気象庁のデータベースで確認したら、この日の会津若松市街地ではほとんど曇っていて午後3時頃から雪が降っていたのですが、積雪は8センチほど沈んでいます。昼間の気温が0度前後で、それほど下がっていなかったからだろうと思います。積もった雪は地熱で解けます。日光が当たっても、そのほとんどを反射してしまいますから、上から解けるのはごく僅かです。ですから、空き家になってしまった民家の屋根に積もった雪はなかなか解けません。 ですから、この石塔などの上に積もった雪も、地熱が石に伝わって徐々に解けていきます。但し、この村の辺りは雪が多いところではないので、すっぽりと埋まってしまうことは滅多にないだろうと思います。ただ、この時には、雪の中をここまで来てお参りされている方がいらっしゃるような形跡はありませんでした。 相変わらず、今朝もデータのコピーをノートパソコンにさせていますが、膨大な量の画像データは、東京分室でしようと思っています。長時間、ノートパソコンに作業させるのは怖いです。気象情報を確認したら、明後日から天気が崩れそうなので、明日の朝には出発することにしました。高速道路が雪で通行止めになると悲惨ですし、栃木県内の平坦なところで雪が積もると最悪です。2002年の大晦日に上京した時に、大変な思いをしました。
2013.01.23
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【会津の風景】 「玅法華經塔」と彫られた石塔ですが、これも前述までの石塔などと同じところにありました。側面には「享保七」と彫られています。1722年で、2年後に「転切支丹類族早見表」による類族規定の明確化で「類族」の増加が起こっています。 もう一度確認します。ここは曹洞宗のお寺の裏の小高いところにある観音堂の境内です。「玅法華經塔」と彫られた石塔が、何故その観音堂の境内に建てられているのでしょうか。宗門人別制度下では、お寺が布教することは禁じられています。まして、他のお寺の檀家を、自分の寺の檀家にしようとすることは出来ません。『会津藩家世実紀』にも、そうした咎で僧侶が捕縛された記事は見当たりません。 曹洞宗と日蓮宗では、その教理にかなり大きな差があることは、多くの方がご存じであろうかと思われますが、「只管打坐」と「南無妙法蓮華経」の相異です。ただ、宗門人別制度下でお寺が民衆と関わることが出来たのは、死に関わるイニシエーションだけです。つまり、葬儀と法事だけで、その宗旨の教理を伝えることは許されていません。そうした意味では、仏教に対して「不熱心になった」と言われることがありますが、正確には「なった」のではなく、幕府の政策によって「させられた」と言う方が正確であろうと小生は考えています。 会津にはありませんでしたが、日蓮宗の不受不施派の禁止などはその典型であろうかと思われます。現代の用語を使えば、支配者による宗教介入です。本山末山制度を明確化させ、本山格のお寺に逐一それを報告させています。これは、天保五年(1834)に6回目の寺院本末帳の提出命が出されていることによっても明らかです。
2013.01.23
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【会津の風景】 前述の上の写真にある「湯殿山供養」と彫られた石塔の左側にあったのはこの石塔です。「廿三夜供養」と彫られています。「養」が異体字ですが、縦長になることを嫌って、上下を左右に分けて書いているようです。 会津には「廿三夜」ないし「二十三夜」と彫られている石塔や石碑はかなりあります。ここでいくつもご紹介してきましたが、中には非常に大きな石碑もあります。しかし、どの市町村史にも、二十三夜の月待ちがどの様に行われていたかは記されていません。一般的な習慣が書かれているだけです。これは、庚申に関しても同じで、甲子に関してはまったく判りません。 しばらく前にここでご紹介しましたが、「甲子供養塔」と彫られた石塔が建てられているお寺の境内に観音堂があるのですが、その観音堂の屋根に千木が取り付けられています。しかし、千木は神社の建築物に取り付けられるもので、観音堂の屋根にそれが付けられているのが非常に気になったのですが、キリシタン関連の建造物に付けられていることがあるようです。 この石塔の側面には、「安永四乙未天」と彫られています。そして、二十三夜の月は確実に三日月形です。聖母マリアのシンボルです。おそらく、二十三夜の月待ちの習慣の中で、何らかの祈りが捧げられたのであろうと思われます。宮城県南部には、大晦日の夜に子供たちが起こされて、「頭が痛くなりませんように」と言いながら手を額に当て、「お腹が痛くなりませんように」と言いながら手をお腹に当て、「肩が痛くなりませんように」と言いながら肩に手をあて、そして、反対の肩に手を当ててから、合掌する習慣が残っていました。子供の頃にそれをさせられたというご婦人は、小生とそう歳の変わらない方だと、その習慣があることを教えて下さった、とあるお寺のご住職がおっしゃっていました。今日は一日ここに座っていたので疲れました。データをダウンロードしたら早々に寝ることにします。
2013.01.22
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【会津の風景】 この2基の石塔も同じところにありました。「湯殿山」と彫られた石塔と「飯豊山」と彫られた石塔です。また、上の写真の左端に「天」年号が彫られた石塔がありますが、次回ご紹介します。こうした「湯殿山」「飯豊山」と彫られた石塔や石碑は、会津では珍しいものではありません。むしろ、かなり広範囲に数多く分布しています。また、「羽黒山」と彫られた石塔や石碑も会津にあります。 会津の修験道の中には、「子安観音」像を継承してきたところがあります。その「子安観音」像はここでもご紹介しました。そして、現在はお堂が取り壊されてしまっていて、代々修験を継承してきたお宅で他の像と一緒に保管されています。あの多数の像は、何らかの形で保管されるといいなと思っています。あそこまで数多くの像が集められているのは、そう多くはないだろうと思います。 この村は『文禄三年蒲生家高目録』(1594)にも名前が載っている村です。そして、この村も蒲生氏郷の直轄地でした。以前にも書きましたが、蒲生氏郷は朝鮮戦役で肥前名護屋へ行ったり、南部攻略のために出陣していたから、会津で布教することはほとんど出来なかったという内容がネット上に書かれていましたが、蒲生氏郷は宣教師ではありません。宣教師でなければ布教することは出来ませんでした。 バックアップ用のハードディスクが音を立て始めたので、怖いので新しいのを仕入れてきました。後ろのテーブルでデータをコピーしています。ノートパソコンでしているので、長時間の作業はしたくありません。今夜はいまコピーしているフォルダが終わったら、残りは明日、休み休みすることにします。そのため、作業が終わるまではメールを読めません。大変申し訳ご座いませんが、よろしくお願いいたします。会津と東京で、同じようにメーラーを使いたいので、外付けのハードディスクにメールデータを残しています。
2013.01.22
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【会津の風景】 前述の観音菩薩像と同じところに建てられていた石塔です。上の石塔には「湯殿山供養」と彫られていますが、下の石塔には「湯殿山」と鹿彫られていません。ここから下ったところにあるお寺は曹洞宗のお寺です。密教とはまったく異なる仏教です。曹洞宗の僧侶が修験者がするようなことをされるでしょうか。 この村には、曹洞宗のお寺の檀家ともう一つ別の宗旨のお寺の檀家があるのですが、それ以外に、修験道が入っていたということになります。この二つの宗旨が修験道と関係があったとは到底考えられません。また、寛文年間以前に真言宗の僧侶がいたと『新編会津風土記』に記されていますが、下の石塔の側面には文化七庚午と彫られています。 確かに、会津には、お寺がある村に修験道が残っているケースがいくつかあります。あるいは、真言宗のお寺があるのですが、明治以降に修験道のお堂が消えた村もあります。その村にいた修験は、その一帯の修験を束ねている存在だったことが『新編会津風土記』に記されています。 しばらく前に、ある方が出羽三山で撮った写真をメールで送って下さいました。その中には気になるものが沢山写っていました。出羽三山の雪が解けて少し暖かくなったら、出掛けてみたいと思っていますが、送られてきた写真に写っているモノが、悩み続けていたことを解決してくれました。感謝!
2013.01.22
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【会津の風景】 前述の観音菩薩像の背面を撮った写真です。背景に見えているのが観音堂です。最初にこの観音堂を訪ねたのは1999年でした。この頃から『新編会津風土記』などのデータベースを作り始めたと記憶しています。この観音堂の裏手に下へおりる道があったので、そこをおりたら古い建物がありました。中を覗くと、正面に仏像が祀られています。その仏像が何であるか、フィールドワークに史料を持って出ることはないので、すぐには判りませんでした。 それで、データベース化してプリントしたら、持って歩けるなと思い、『新編会津風土記』だけでなく『会津鑑』『寛文風土記』『文禄三年蒲生家高目録』も加えました。特に、お寺の宗旨・山号・寺名や開基もしくは再興の年号を入力し、『新編会津風土記』の家数と『会津鑑』の石高がすぐに判るようにしました。あのころ、「学生時代にパソコンがあったら、どれほど便利だっただろう」と悔しい思いをしていました。 この観音菩薩石像、背面が気になったのですが、何も彫られていませんでした。ただ、被りものが気になります。頭部から肩の下の方まで布が垂れ下がっています。観音菩薩像でこのような被りものを付けているのがあるのでしょうか。実に不思議な被りものです。 こうした不思議な石像や石仏があるのは、会津だけではありません。旧高遠藩領内や伊那谷南部にもあります。あるいは、保科郷にも残っています。そして、東京の都心にもありましたし、東京近郊にも残っています。そして、不思議な観音像や、首無し地蔵が残っているところには、必ずと言っていいほど転切支丹類族が残っています。小生は、山手線の内側でも見付けました。江戸時代には農村だったところです。
2013.01.22
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【会津の風景】 これはとある曹洞宗のお寺の裏山に建てられている観音堂の裏に祀られている観音菩薩像と思われる石像です。このお寺に関して『新編会津風土記』は、「浄土宗・真言宗の僧侶、代わる代わる住す 寛文中〇〇寺末山曹洞宗となる」(雄山閣版・〇は固有名詞なので小生が変更)と記しています。 何回もここに記しましたが、『新編会津風土記』の寺社に関する部分は寛文六年(1666)に行われた寺社改めに時に、寺社から提出されたものをそのまま記しています(『新編会津風土記』自身の凡例)。そして、会津のこの一帯で宗門人別制度が施行されたのは、保科正之公が会津へ入封されてすぐの頃であろうと考えられますから、宗門人別制度が施行された時にはこのお寺は他の宗旨の僧侶が住んでいたということになります。 しかし、このお寺は建物が残っているのですが、境内と言えるほどの広さはありません。そして、『新編会津風土記』にはかつては別のところにあったとも記されていません。そして、この村の墓地には、浄土宗でも真言宗でも曹洞宗でもない宗旨の墓石が多数見られます。そしてその宗旨では、観音菩薩像を祀ることは考えられません。 この観音菩薩像、比較的大きな石像です。この石像と最初に出会ったのはかなり以前ですが、それ以来、何回かここを訪ねています。しかし、こうした謎を解決出来ないままでいます。ただ、この観音菩薩石像と下にある蓮華座は、本来の組み合わせではないので、村のどこかに祀られていたものを、ここまで運び上げた可能性を否定できません。そして、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)では、この村は蒲生氏郷の直轄地になっています。
2013.01.22
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【会津の風景】 前々回の写真の真ん中から左へ2基目の石像ですが、上部が後ろに転がっていたので、それを載せて撮ってみました。断面がぴったり合うのですが、下半身の部分に花クルスが彫られています。これだけ見ると、「キリシタンのものだから破壊された」と考えられてしまうかもしれませんが、会津でキリシタンのシンボルがはっきりと彫られている石像や石仏で、破壊されているものは多くはありません。おそらく、廃仏毀釈運動が起こった時に、間違えて首が落とされたり、切断されたのであろうと思われます。ですから、修復されているものがあります。 「しかし、廃仏毀釈は明治期になってからでは?」とお考えの方がいらっしゃるかもしれませんが、明治期になっても隠れていたキリシタンがいたことは、既に確認されています。小生もその遺物を見たことがありますし、中にはここでご紹介したものもあります。こうしたキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼んでいる方もいらっしゃいますが、彼らはそれほど深く「潜伏」していませんでした。それは残されたモノから明らかです。 小生はかなり以前にその村を訪ねたことがあり、その時にも様々なことを教えられました。また、その後にもその村に関する伝承を耳にし、それをはっきりと示しているコトも明らかになっています。つまり、長崎であったような出来事が、会津でもあったということです。 おそらく、そうした、宗門人別制度二組入れられながらも隠れ続けていたキリシタンは、会津では少なくなかったであろうと思われます。つまり、村々で緊急洗礼が行われていたということです。この緊急洗礼がいつ始まったのかに関してははっきりしませんが、キリシタンの時代には当然のこととして行われていたことです。
2013.01.22
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