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【会津のとある村の三島神社】 この神社がキリシタン方位角を向いていることを知ったのは、2004年でした。その時には、この神社が「三島神社」という神社だということは判りませんでした。その後、『新編会津風土記』に記されている神社をデータベースに書き加えている時にそのことを知って、この近くを通りかかった時に写真を撮り直してきました。 そして、この三島神社にある鳥居も稲荷鳥居であることに気が付きました。会津では、こうしたことは少なくありません。稲荷神社の鳥居が朱塗りになっていないこともあります。あるいは、村の裏山の沢の奥の陽当たりの悪いところに神社が建てられているケースもあります。 会津では保科松平家は神道だったと言われていますが、神道になったのは保科正之公が亡くなられてからです。旧高遠藩領内で、保科家が神道だったことを示すものに出会ったことがありません。そして、伊那谷には保科姓の家が少なくないのですが、そうした保科姓の家々が神道請であったことを示す墓石にも出会ったことがありません。 そして、この写真の右下に写っている金網の中には、灌漑用の堰が流れています。この堰も、保科正之公が会津藩主になられて以降に造られたものであろうと思われます。加藤明成の時代にも堰が造られましたが、その多くは完成していません。
2015.06.30
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【会津のとある村の八幡神社】 これは会津盆地のとある村に建てられている八幡神社ですが、これも「キリシタン方位角」を向いています。そして不思議なことですが、鳥居は八幡鳥居ではなく、稲荷鳥居になっていますが、ここは間違いなく八幡神社です。そして、上の写真を撮ったところの横に、「己待塔」と彫られた石碑が建てられています。それだけではありません。この村にあるお寺の裏の墓地には、不思議な文字や文字列が彫られた墓石があります。 会津にお出掛けになられる時には、是非、会津盆地を車で巡ってみて下さい。そして、国土地理院の地形図にある鳥居の記号を探して、神社を巡ってみて下さい。「キリシタン方位角」を向いた神社に数多く出会えますし、お寺の境内にあるお堂がその向きに建てられているケースにも出会えます。 そして、運がいいと、屋根に不思議な千木が取り付けられている神社で、「キリシタン方位角」を向いた神社やお堂にも出会えます。また、ここでもご紹介したことのある、北を向いた稲荷神社が田圃の中にあるのにも気が付くことが出来ると思います。ただ、こうした「北向き稲荷」は会津若松市中心市街地にもありますから、中心市街地をゆっくり走ってみて下さい。 こうした不思議な方向を向いた神社やお堂、そしてお寺は会津盆地だけにあるわけではありません。南会津のとある村には、北を向いた神社がありますが、その入口には「己待塔」と彫られた大きな石碑が建てられています。そして、観音堂の境内にある墓地には、不思議な首無し石像が残っています。
2015.06.30
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【会津のとある村の観音堂】 これは前回ご紹介した、臨済宗のお寺の境内に建てられている観音堂です。実に不思議なことですが、最近は「観音堂が建てられていたところに臨済宗のお寺が建てられた」と考えています。臨済宗のお寺が境内に観音堂を建てたとは、到底考えられませんし、会津の方ではありませんが、曹洞宗のお寺のご住職にこの不思議さをお話ししたら、微笑みながら「ない、ない」とおっしゃっていました。 会津には、こうした不思議なケースが少なくありません。曹洞宗や臨済宗のお寺の境内に観音堂が建てられていたり、浄土宗のお寺の境内に観音堂が建てられているケースもあります。観音堂が建てられていると看板に書かれていたので、中に入ったら浄土宗のお寺でした。 実に不思議なことですが、しかし、これが宗門人別制度の実態であったのであろうと考えられます。宗門人別制度下では、お寺は檀家に教理教育をすることは出来ませんでした。村人と接することが出来たのは、葬儀や供養の時だけです。講話をすることも禁じられていました。 ですから、明治以降になって、檀家の指導を真剣に行っていた宗旨もあります。その宗旨の成立を考えると、明治以降になって公然と行えるようになったということなのかもしれないと思っています。因みに、中通りのある集まりで、福島県の健康アドバイザーの方に、「お孫さんを連れて、この町へ来て、一緒にお暮らしになれますか?」と質問されたのは、その宗旨のとあるお寺の副住職さんだと聞いています。
2015.06.29
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【会津のとある村の神社】 これは2006年5月8日に撮った写真です。会津盆地のとある村の南側にある神社で、この近くを何回も通っているので、向きが不思議なことに気が付いていました。それで2006年に出掛けたのですが、拝殿には「八坂神社」と彫られた扁額が掲げられていました。 この神社も、前回ご紹介した神社と同じ向きに建てられています。村の南側に建てられているのですが、ここに南向きに建てることは可能ですし、村の北側にはこの神社を建てることが出来る広さは十分に確保できたはずです。ですから、何らかの意図があって、この向きに建てたとしか思えません。 皆さんも、会津へお出かけになられたら、車窓から鳥居が見えたら、是非立ち寄って、その神社の向きを確かめて下さい。カーナビに付いているコンパスで十分です。北から西までの90度と、東から南の90度のどちらかに入っていたら、キリシタン方位角だと考えられます。 また、お堂がキリシタン方位角になっているところもあります。臨済宗のお寺の境内に観音堂が建てられているところがあるのですが、その観音堂の向きもキリシタン方位角です。キリシタンの時代の、二点間の方位決定は、非常にアバウトな方法で決められていました。<ポルトラーノ法>で検索すると、その方位決定のアバウトさが記されているサイトに出会えると思います。キリシタンの時代には、その地点の緯度は正確に測定できましたが、正確な時計がなかったので、経度を正確に知ることは出来ませんでした。
2015.06.29
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【会津のとある村の神社】 2004年8月21日に、車を走らせていたら、不思議な向きに建てられている神社があったので、写真を撮ってきました。その向きは、小生が「キリシタン方位角」と呼んでいる向きです。神社は、基本的に南向きに建てられます。しかし、会津にはこの向きに建てられている神社が少なくありません。これは、神道ではよく知られていることだそうです。先日も、ある大学の神道の研究家の先生からお伺いしてきました。 そして、『新編会津風土記』に「乙女神社」と記されている神社が、会津のとある村に建てられているのですが、その神社の御神体は「女神像」であるとされています。そして、その神社もキリシタン方位角を向いています。一般的なメルカトール図法で描かれた地図だと分かり難いのですが、正距方位図法で描いた地図だと、その向きがエルサレムもしくはローマを向いてお参りすることになるのがはっきりします。 これは非常に興味深いことです。ヨーロッパでは教会を建てる時に、エルサレムを向くように建てられました。これを「オリエンテーション」といいます。オリエントを向くという意味です。ですから、日本からエルサレムを向いて礼拝すると考えれば、この向きに建てられていても不思議ではありません。伊那高遠以来の会津藩の家臣だけでなく、蒲生家に仕え、加藤家に仕えた後、保科松平家に仕えていた重臣たちが、こうしたことを知らなかったとは到底考えられません。 高遠以来の重臣たちの多くは、保科正直・正光父子が高遠藩主になる前から伊那谷にいた武士です。つまり、京極高知が高遠で洗礼を受けた時には、伊那谷にいた武士たちということになります。そして、そうした京極家の家臣団の中にもキリシタンがいたことは、伊那谷に残されているモノからはっきりしています。そして、彼らの多くは宗門人別制度に組み込まれながらも、戊辰戦争まで、隠れてキリシタンの信仰と習慣を守っていたことも、戊辰戦争の時に起こった出来事を考えると、ほぼ間違いないと思われます。
2015.06.29
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【会津のとある村の「巳待供養塔」石塔】 前回の「鹿嶋神社」がある村のお寺の境内にある植え込みの蔭に、この石塔が残っていました。見付けたのは2005年10月15日のことでした。この村に関する様々なことを考え、『新編会津風土記』や『会津藩家世実紀』に残されている記録からすると、この村に「巳待」が必ずあるはずだと思っていたので、この時はかなり感動しました。 武士が農民になったり、山民になったりすることを「帰農」と呼ばれていますが、会津にはそうした家々がある村がかなり数多く残っています。それでいて、『新編会津風土記』にはその帰農に関する記述はまったくありません。それだけではありません。会津のとある川沿いの村々は、その多くが伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々であろうと考えられますが、先日、テレビであることを放映していたので、やはりそういうことかと納得することが出来ました。 あの一帯は、伊那高遠に比べるとかなり雪が多いところです。以前は、積雪期には平屋の建物は、屋根まですっぽりと雪に埋まっていたそうです。簡素な平屋だと、大雪になると棟を掘り出してそこに立ったら、目の高さまで雪があったこともありました。 しかし、そう考えると、その一帯に残っているモノやコトを理解することが出来ます。何しろ、その一帯には、18世紀まで「太子守宗」が残っていました。このことは史料に残っていますし、そうした「太子守宗」のお寺が真宗高田派に転宗したことを示す文書が、伊勢一身田にある真宗高田派の本山、専修寺に残っていると、その一帯にある市町村の調査報告書に記されています。
2015.06.28
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【会津のとある村の「鹿嶋神社」】 これは2003年6月23日に撮った写真です。この村のことがどうしても気になっていたので、村の中にある観音堂を訪ねた後、村の墓地を訪ねようと車を走らせたら、この神社が村から少し離れたところにありました。 入口に「鹿嶋神社」と彫られた石塔が建てられていますが、鳥居が気になったので、帰ってすぐに調べたら、この鳥居は「鹿嶋鳥居」ではありませんでした。この鳥居は「明神鳥居」と呼ばれている鳥居です。そして、鹿嶋神社は「軍神」なのですが、この村は純農村です。ですから、この村にも帰農した武家がある可能性を否定できません。そして、『会津藩家世実紀』にあるとある不思議な記録をもう一度読み直して、この村の成立が見えてきました。 会津にお住まいの方でも、『会津藩家世実紀』を丹念にお読みになられた方はそれほど多くないと思いますが、『会津藩家世実紀』には藩内極秘文書と思われる記録も編纂されていますから、時として、非常に重要なことに気が付かされることがあります。そして、保科松平会津藩の対キリシタン政策が見えてきます。 そして、学生時代から今までに色々とご指導下さった恩師の先生方を思いだして、「そういうことだったのか」と思わず呟いてしまいました。この村の墓地にも、キリシタンの痕跡が残っています。そして、この鹿嶋神社も、小生が「キリシタン方位角」と呼んでいる方向を向いています。
2015.06.28
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【会津の北向き稲荷】 会津には、北を向いた稲荷社がありますが、会津若松城下には「北向き稲荷を三社お参りすると願いが叶う」という言い伝えが残っています。今日は、とある神道の専門家の先生にお会いしたのですが、「神社は南向きに建てるもの」ということを確認してきました。 この写真は、若松城下ではなく、会津盆地のとある村にある稲荷社です。明らかに北を向いています。そして、これは村の南側にあるのですが、村の北側に建てたら、お社は南向きになりますし、村の北側にもこの程度の広さを確保できたはずです。 そして、その先生のお話では、「稲荷神社」は神社の中でも不思議な神社だそうです。それで、会津のとある村に「乙女神社」と『新編会津風土記』に記されている神社があるのですが、その神社の御神体は女神像だとされています。ただし、最近になって「乙女神社」が「八乙女神社」に扁額が変わっています。このことをお話ししたら、非常に関心を持たれました。 小生は1998年にあるところを訪ねたら、その近くに北を向いた稲荷社がありました。実に不思議なことなのですが、その稲荷社の近くには十字杖を手にした地蔵菩薩石像が祀られています。そしてそこからそれほど離れていないお寺の墓地には、卍が彫られていたように見える板碑型の墓石が残っています。司東真雄師は、卍が彫られた墓石は切支丹の墓石だとされています。
2015.06.27
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【会津のとある村にある「二十三夜塔」と不思議な五輪塔】 これは2000年に会津のとある村で撮った写真です。上の石塔には「二十三夜塔」と彫られています。そして、弘化二年は1845年です。戊辰戦争の23年前ですが、この村の墓地に下の写真に写っている五輪塔がありました。この五輪塔の火輪には宝篋印塔の傘の名残が残っています。 会津では、帰農した武士の墓石として五輪塔が建てられているように見えますが、この五輪塔などはその典型であろうと小生は考えています。蒲生家の家臣団にも、加藤家の家臣団にも、そして保科家の家臣団にもキリシタンがいたことは、『会津藩家世実紀』の記録から判ります。そして、蒲生家が断絶した後に加藤家に仕え、加藤家が改易された後に保科家に仕えた武家があったことは、その家に残っている伝承から判ります。そうした家々の中には、戊辰戦争の時まで、鶴ヶ城の外堀の内側に屋敷を構えていた家もありました。 そして、そうした家々に重要な史料が残っていたケースもあります。このことを知ったのはもうかなり以前なのですが、何故山の中の村にそうした史料が残っていたのか、非常に訝しく思っていたのですが、保科正之公と共に高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々であると考えれば、戊辰戦争の時に、城にあった史料を緊急避難させたと考えれば解決できます。そうした村々も何回か訪ねてきましたが、キリシタンの痕跡が残っていました。 会津に『四家合全』という興味深い史料があります。『四家合考』という史料は会津藩が編纂したものなのですが、『四家合全』は写本が無数にあって、写本毎に内容が少しずつ異なっています。会津の写本をすべて集めて、それらをデータベース化したら、きっと何かが見えてくるだろうと思っています。
2015.06.26
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【地方の山村の現状と「地方創生」】 これは会津のとある山村に残っている分校だった建物です。玄関を入って左側が教室で、右側が先生の住宅だったのであろうと思われます。そして、現在は廃校になっています。会津の山村にはこうした廃校になった分校の建物がいくつも残っています。 この写真を撮ったのは2013年6月16日でしたが、この村を最初に訪ねたのは1997年12月1日のことでした。それから何回かこの村を通っているのですが、もうこの村には小学生や中学生はいないかもしれません。たとえいたとしても、分校を維持できるだけの人数ではないので、廃校になってしまったのであろうと思われますし、廃校になってしまったので、若い夫婦はこの村で過ごすのを躊躇ったのであろうと思われます。 小生は高校生の頃、こうした分校の先生になることに憧れたことがありました。しかし、その頃には既に、山村にある分校の多くは廃校になるか、生徒数の多い本校に統合されてしまっていました。そして、村は高齢化が進んで、過疎化が起こりましたが、過疎化を食い止めることは非常に難しいです。こうした山村で、新しい仕事を始めることは、文字通り「ベンチャー」なことです。この村ではもう、村民の多くが高齢者であろうと思われますし、ここで何を起業できるかまったく判りません。 「地方創生」は30年遅かったと小生は感じています。30年前であれば、まだこれほど地方の高齢化は進んでいませんでした。最初にこの村を訪ねたときには、まだ田圃がありましたが、それから少しして再訪した時には、田圃に木が生えていましたし、その後訪ねた時には、田圃が雑木林になりかけていました。そして、東京都23区内でも、住宅地で高齢化が進んでいます。小生の実家の周りには、独身女性の高齢者しかいません。
2015.06.24
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【岩手県の転切支丹類族墓石】 岩手県のとあるお寺の林の中にあった墓石です。「天」年号が彫られていますが、それ以上に気になったのは、この墓石に彫られた戒名は時宗の戒名だったことです。しかし、このお寺は天台宗のお寺です。もしかすると、このお寺がある一帯でも、転切支丹移住開墾政策が行われていたのかもしれません。会津では、『会津藩家世実紀』にその記録が残っているのですが、転切支丹移住開墾政策は会津に限ったことではないのかもしれません。 宮城県北部や岩手県には、かなりの数のキリシタンがいたことが明らかになっていますが、彼らの中で「転んだ」キリシタンは少なくなかったのかもしれません。小生が気になっている一番のことは、こうした転んだキリシタンにこうして戒名は付けられているからといって、キリシタンから仏教に転宗したわけではないということです。言い換えれば、宗門人別制度に組み込まれながらも、隠れてキリシタンの信仰と習慣を保持し続けていた可能性を考えざるを得ません。 遠藤周作氏の『沈黙』という小説が有名ですが、会津のキリシタンを研究を始めるよりもかなり以前から、あのラストシーンが気になり続けています。あのシーンに描かれている転んだ新府の苦しみが気になって仕方がありません。そして、江戸にあった「切支丹屋敷」があった場所を訪ねた時に、あの周辺で転切支丹類族の墓石に出会い、織部灯籠に出会いました。そして、江戸に住んでいた武家の中にも、転切支丹類族がいたことをはっきりと示している観音菩薩石仏墓石に出会い、武家屋敷の中に隠れていたキリシタンを考えざるを得ませんでした。 そして、会津の猪苗代で殉教が起こった時に、転ばなかったキリシタンがすべて殺されたと考えることは、猪苗代一帯で廃村になった村に関する記事が『新編会津風土記』にまったくないことから不思議さの謎が、最近になって少しずつ見えてきました。会津一帯にキリシタンが広まっていたということは、ほぼ間違いないと考えられます。そして、保科正之公が会津藩主になられてからは、会津でキリシタンが処刑されていないということは、『会津藩家世実紀』の記録と『新編会津風土記』に残っているある文書から明らかなことです。
2015.06.23
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【岩手県の転切支丹類族墓石】 岩手県のとあるお寺の林の中にあった墓石です。「天」年号が彫られていますが、それ以上に気になったのは、この墓石に彫られた戒名は時宗の戒名だったことです。しかし、このお寺は天台宗のお寺です。もしかすると、このお寺がある一帯でも、転切支丹移住開墾政策が行われていたのかもしれません。会津では、『会津藩家世実紀』にその記録が残っているのですが、転切支丹移住開墾政策は会津に限ったことではないのかもしれません。 宮城県北部や岩手県には、かなりの数のキリシタンがいたことが明らかになっていますが、彼らの中で「転んだ」キリシタンは少なくなかったのかもしれません。小生が気になっている一番のことは、こうした転んだキリシタンにこうして戒名は付けられているからといって、キリシタンから仏教に転宗したわけではないということです。言い換えれば、宗門人別制度に組み込まれながらも、隠れてキリシタンの信仰と習慣を保持し続けていた可能性を考えざるを得ません。 遠藤周作氏の『沈黙』という小説が有名ですが、会津のキリシタンを研究を始めるよりもかなり以前から、あのラストシーンが気になり続けています。あのシーンに描かれている転んだ新府の苦しみが気になって仕方がありません。そして、江戸にあった「切支丹屋敷」があった場所を訪ねた時に、あの周辺で転切支丹類族の墓石に出会い、織部灯籠に出会いました。そして、江戸に住んでいた武家の中にも、転切支丹類族がいたことをはっきりと示している観音菩薩石仏墓石に出会い、武家屋敷の中に隠れていたキリシタンを考えざるを得ませんでした。 そして、会津の猪苗代で殉教が起こった時に、転ばなかったキリシタンがすべて殺されたと考えることは、猪苗代一帯で廃村になった村に関する記事が『新編会津風土記』にまったくないことから不思議さの謎が、最近になって少しずつ見えてきました。会津一帯にキリシタンが広まっていたということは、ほぼ間違いないと考えられます。そして、保科正之公が会津藩主になられてからは、会津でキリシタンが処刑されていないということは、『会津藩家世実紀』の記録と『新編会津風土記』に残っているある文書から明らかなことです。
2015.06.23
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【宮城県北部の「花クルス」】 これは宮城県北部の道路脇にある神社の参道の上り口にあった狛犬ですが、狛犬が足で踏みつけているものに花クルスが彫られていました。会津では、こうした花クルスは珍しくありません。日常的に使われる衣服に刺繍されているものがあります。最初にあの刺繍を見た時には、こんなにおおっぴらに十字架のシンボルがあるのだろうかと思えたのですが、最近はあの刺繍の紋様はもしかしたら、伊那高遠から伝わったものかもしれないと考えるようになりました。 宮城県北部には他にも気になっているところがあります。秋になって、少し涼しくなったら、所長と宮城県南部と遠野を訪ねてみたいと思っています。おそらく、北上山地の中には、もっともっと多くのキリシタンの痕跡が残っているだろうと思っていますし、帰りには海沿いを通って帰ってきたいと思っています。 福島県の太平洋岸では、多くの墓地で墓石が倒れたり、流されたりしてしまっているようですが、それでも、テレビで放映されていた観音堂が気になったこともありました。そして、塩釜以南の一帯も気になっていますし、福島県新地町は非常に気になっています。 そして、茨城県にも気になっている一帯があります。道路脇に点々と石仏が祀られているところがありました。不思議なことです。何故、道路脇に点々と石仏が祀られたのでしょうか。会津にも、道路脇に三十三観音が祀られていたところがありますが、曹洞宗のお寺と浄土宗のお寺を結んでいる道の脇にありました。
2015.06.22
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【宮城県北部の転切支丹類族墓石】 先々週に訪ねた宮城県北部の、殉教者の遺跡の近くにあった墓石です。明らかに、転切支丹類族の墓石です。こうした転切支丹を仏教に転宗したと断定できるだけの史料に出会ったことがありません。彼らは、幕府が一方的に定めた宗門人別制度に組み込まれたに過ぎないと小生は考えています。 洗礼を受けた時に覚えたオラショ(祈りの定形文)を忘れ去ることが出来たとは、到底考えられません。ただ、明治期以降に隠れていたキリシタンたちが発見されて、ローマ・カトリック教会に戻った時に、「転切支丹類族」という身分を消すことが出来なかったので、深い悲しみのうちにオラショを唱えなくなったのかもしれません。 小生はそうした転切支丹類族にされながらも、秘かにオラショを唱えていた方々のことが気になって仕方がありません。現代の近代国家の社会倫理からすれば、宗門人別制度そのものが極めて凄惨な個人の信仰の否定です。そしてそれに近いことが、日本では明治以降にも起こっています。法令上は認められていたキリスト教を、時の政府が弾圧の対象にしていました。 そして、明治初期に考え出された「天皇制」が、日本全国に広がりました。それだけではありません。日本は神道国家であるようにさえ考えられてしまいました。そうした時の流れの中で、太平洋戦争の時代を越えて、キリシタンの信仰と習慣を継承していた人々がいたことは、長崎県に残っていた「カクレキリシタン」から明らかになっています。こうしたことを考えると、日本は、近代市民社会とは何かということをもう一度確認する必要があると思っています。
2015.06.22
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【北上川流域のキリシタンの痕跡】 先週、岩手県を訪ねた時に北上川の左岸とその奥の一帯を、地元出身の方に案内していただきましたが、その時に有名な中尊寺も訪ねてきました。中尊寺にも不思議なモノが残っていましたが、北上川流域の東側一帯にもはっきりとしたキリシタンの痕跡が残っていました。 この写真は中尊寺の境内から北上川方向を撮った写真です。この北上川の東側には低山帯が続いていますが、そうした低山帯の山々の中にも不思議な神社が残っています。ここで二つの神社をご紹介しましたが、それ以外にも不思議な神社がありましたし、あの後、地元の方がいろいろなモノを見付けられて電話を下さいました。 おそらく、北上川と奥羽山脈の間の一帯にも、キリシタンが広がっていたのであろうと思わされるモノも出会ってきました。それだけではなく、宮城県北部にもはっきりとしたキリシタンの痕跡を確認することが出来ました。そして、当然のこととして転切支丹類族墓石も数多く残っています。 ただ、そうした情況がはっきりしているにもかかわらず、地元の方々の中にはキリシタンのことに触れたくないという思いが残っていること二基が尽かされました。そもそも、藤原氏が建立した中尊寺の中に、「八幡堂」が建てられているのには非常に驚かされました。
2015.06.21
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【岩手県にあった不思議な稲荷神社】 大迫(おおはさま)銭座跡周辺を訪ねた帰りに、地図に稲荷神社があると書かれていたので、訪ねてみました。すると一番手前の鳥居は赤く塗られていたのですが、その奥にある鳥居は両部鳥居になっていました。上の写真がその両部鳥居です。 そして、向きを確かめたら、この拝殿は方位330度方向を向いています。ですから、お参りされる方は方位150度方向を向いてお参りすることになります。会津にも「北向き稲荷」が市街地に残っているのですが、こうした北向き稲荷を3社、お参りすると願いが叶うという言い伝えが残っています。 それを思い出して大変に驚きました。本来であれば南向きに建てるのが普通なのですが、何故、この向きに稲荷神社を建てたのでしょうか。今週は今回のフィールドワークで撮った写真を整理していたのですが、この神社を一緒に訪ねた方からお電話を頂戴して、「他にもキリシタン方位角を向いた稲荷神社がありました。」と教えて下さいました。 関心のある方は、神社があったらすぐに時計を見て、太陽がある方向を確かめ、その神社がどの方向を向いているか確かめて下さい。但し、靖国神社が会津の方向を向いているのは、皇居に向けることを避けてあの向きに建てたと聞いています。
2015.06.20
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【米川にある後藤寿庵の墓】 会津では、後藤寿庵は蒲生氏郷の母親の実家の後藤千世寿であると考えられています。幕府の禁教令が押し進められてきたので、山形最上から伊達領に逃げたとされています。これはかなり信憑性が高いと小生は考えています。理由は『天正十九年蒲生家家臣帳』(1591)には、他に2名の後藤姓の人物の名前が記されています。女性が嫁いでくる時に、実家の家臣が帯同してくることは、室町時代には珍しいことではありません。 お静の方が、幸松(保科正之公)を連れて、江戸から伊那高遠へ来る時に、お静の方の実家の武士が伊那高遠に入っていたことは、『会津藩家世実紀』に記されているその実家の人物に関する記録から明らかです。ですから、『天正十九年蒲生家家臣帳』にある後藤姓の2名の人物は、蒲生氏郷の母親に帯同してきた後藤姓の家臣であったのであろうと考えられます。 そして、蒲生氏郷は肥前名護屋にいた時に、五島列島を複数回、船で訪ねているとされていますが、会津には五島姓の家も残っています。会津藩領内の村の墓地でそれを確認したことがあります。あの時も非常に驚きました。蒲生氏郷が会津に移封された時には既に、五島姓の家が蒲生氏郷に仕えていたことになります。そして、そうした家臣には、それぞれに家臣団がいたと考えられますから、あの一帯には五島列島から会津に入って来ていたキリシタンの武士集団がいたのであろうと考えられますし、それを示すモノもその村の墓地には残っていました。 ただ、後藤寿庵が亡くなったところは、もっと北の方だと言われていますが、それを確かめるためには発掘するしかないのですが、日本では何故か発掘が行われません。文字で書かれた資料を証明できるのは、証拠となるモノがなければなりませんが、考古学と歴史学の間に隔ての中垣があるのでしょうか。
2015.06.19
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【会津のとある村に建てられているお堂の「子安観音」像】 これは、前述した村とはだいぶ離れている村の中に建てられているお堂に祀られている「子安観音」像です。このお堂のことは『新編会津風土記』(1809)には載っていませんが、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)にはこの村の名前が出てきています。つまり、1594年にはこの村は成立していたということになります。 ですから、『新編会津風土記』にこのお堂のことが記されていないことが不思議に思えていたのですが、会津のキリシタン史を研究してきた過程で、『新編会津風土記』の編纂者が書き漏らした訳ではなく、寛文期の寺社改めに時に、調査文書を書いた人が意図的に書かなかった可能性が高いと考えるようになりました。 『新編会津風土記』の寺社に関する記述は、寛文期の寺社改めの時に提出された文書をそのまま掲載していると、『新編会津風土記』自身の凡例に記されています。ただ、数ヶ所ですが、疑問があると書かれているところがありますが、一番の疑問は寺社の開基年代に関して「詳ならず」と記されていることが多いことです。寛永8年に幕府から出された「新寺建立禁止令」以前に建てられたお寺でなければ、宗門人別制度上の檀那寺にはなることが出来ませんでした。 そして、『新編会津風土記』は寺社の開基に関して、それを確かめていません。寛文期の寺社改めの時に提出された文書をそのまま書き写しているということはそういうことだと小生は考えていますし、凡例を読む範囲ではそう考えることが出来ます。
2015.06.19
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【会津のとある村に建てられている阿弥陀堂の「子安観音」像】 これはこれまでにも何回かここでご紹介したことのある、会津のとある村に建てられている阿弥陀堂の厨子の中に祀られている「子安観音」像です。右手以外は台座も含めて一木造りです。多くの方々は、こうした像をご覧になると、仏像だと思われますが、『儀軌』に「子安観音」という観音菩薩がない以上、こうした像を仏像であると断定することにはかなり無理があると小生は考えています。 しかも、会津に残っているのですから、これが聖母マリア像である確率の方がかなり高いと考えています。ただ、大きな疑問は、この阿弥陀堂に関して『新編会津風土記』が沈黙していることです。この阿弥陀堂は、村の中を通っている道からは見えません。村の家並みの間を上がっていくと、この阿弥陀堂が見えてきます。 小生がこの阿弥陀堂を最初に訪ねたのは2003年4月22日のことでしたが、阿弥陀堂を探すのに苦労しました。そして、村のとあるお宅を訪ねてお伺いしたら、場所を教えて下さったので、阿弥陀堂を見付けることが出来、村の方の許可を得て内部を見ることが出来ました。そして、厨子の中にこの観音菩薩像が阿弥陀如来像と一緒に祀られているのを知りました。 会津には、『新編会津風土記』に記されていないお堂がいくつもあります。とある村で、何か残っているはずだと思って村の中を車で走ったら、お堂が建てられていて、「子安観音」像が祀られていることもありました。あのお堂も『新編会津風土記』には記録がありません。しかし、あの村の名前は『文禄三年蒲生家高目録』には載っています。
2015.06.19
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【宮城県北部のキリシタンの像】 これは宮城県北部にある米川カトリック教会に残されている像です。勿論、教会の管理をされている方の許可を得て撮影しています。おそらく、この一帯には、まだまだこうした像が残っているだろうと思います。会津でも、家に残っていた像と思われる「子安観音」像が阿弥陀堂に祀られているところがあります。 その「子安観音」像が阿弥陀堂に残っていることは、当該市町村史を読んでいて知らされました。しかし、その村に阿弥陀堂があることは『新編会津風土記』には記されていません。おそらく、寛文期の寺社改めが行われた後で建てられたか、意図的に書かなかったのかのどちらかであろうと思われます。 あの「子安観音」像も小さな木像です。台座も含めた一木造りで、高さは12cm程度しかありません。もしかすると、近年までどこかの家に残されていたものかもしれないと思っていますが、小生はこうした「子安観音」像を「子安観音」と呼びたくありません。彫った人物も、それを守ってきた家々も、聖母マリアの像として、アベマリアを唱えていたであろうと考えられるからです。 右上の像には「キリスト像」と説明がありました。これを継承してきた家に、そうした伝承が残っていたのかもしれません。小生は、こうした像の前で祈ることを「偶像礼拝」であるとは考えていません。それよりも、こうした像がまだ、この一帯にも隠れていることが気になって仕方がありません。
2015.06.18
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【宮城県北部の殉教者の墓地】 宮城県北部の殉教者墓地にも連れて行って頂きました。ここが殉教地であるとは考えられませんが、遺骨や何らかの遺品が埋葬されているのであろうと思われます。そして、十字架の前に供えられている花からすると、ここへ毎日、お参りにいらっしゃっている方がいらっしゃるのかもしれないと思いました。 この一帯にあるローマ・カトリック教会に集められているものを見ていたので、そう思えて仕方がありませんでした。そして、この一帯でも、色々なお話を地元の方からお伺いしましたが、会津と同じようなことが起きているようです。しかし、数百年も前のことで、現在も苦しんでいる方がいらっしゃるのであれば、これは由々しき社会的問題です。 日本では、明治「維新」の時も、日本国憲法が施行された時も、大きな変化があったのですが、それが学校教育で教えられてこなかったからか、江戸時代が戦後になっても残っていることに、小生は深い悲しみを覚えます。ある有名なキリシタン研究者の本を読んだのですが、「類族」という言葉が出て来ませんでした。 歴史は、ともすると骨董品趣味に陥ってしまいますが、そうした「歴史」は、人々を傷つけることはあっても、人々の苦しみを癒すことは有り得ません。悲しいことだと、会津のキリシタンの研究を始めてから痛感させられ続けています。そして、多くの人々が知っている伝承が、表面に出て来ていない事例もあります。
2015.06.17
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【去る6月13日に出会った転切支丹類族墓石】 これは岩手県と宮城県南部を訪ねた時に、道路脇から少し上ったところに神社があって、その神社の隣にお寺があったので墓地を訪ねたら、入口のところに転切支丹類族墓石が並べられていたので、写真に撮ってきました。場所は岩手県か宮城県かは判りません。 ここには<○>が彫られた墓石が集められています。それぞれの家々が墓域を整備した時にこうした転切支丹類族墓石をここに移動したのであろうと思われます。そして何故か、ここには大きな観音菩薩像が建てられていました。そしてその前には、大きな石製の水瓶がありました。村のご婦人が奉納したもののようです。 先週の北上川流域のフィールドワークでは、多くの転切支丹類族墓石に出会ってきました。そして、そうした墓石が残されている家の方ともお話をすることが出来ました。どうも「キリシタンは罪人」と考えている方々がいらっしゃるようですが、戦後の新しい憲法の精神がきちんと教育されていなかったようです。子供たちだけではありません。成人した人々にも、日本国憲法の一番大事なところがきちんと説明されていなかったようです。 明治「政府」は、宗門人別制度や切支丹禁制をどこまで破棄できたのか。あるいは破棄しようとしたのか。こうしたことから、日本の近代史をもう一度考え直さないと、日本の社会に残っている明治憲法を一般民衆が破棄することは非常に難しいだろうと思っています。11月3日が何故「文化の日」なのか。現在でも「天長節」という言葉が残っています。
2015.06.16
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【岩手県の不思議な神社】 昨日の午後、岩手から帰ってきたのですが、かなり疲れていたので書き込むことが出来ませんでした。ただ、今回のフィールドワークでは、非常に大きな収穫がありました。それらはキリシタンの痕跡が残っているということだけではなく、地元の方とお話ししていて、岩手県のキリシタンがどの様に考えられているかということです。そして、司東真雄『岩手のキリシタン』(岩手出版)に挙げられている戒名は、実際に残っている墓石から抽出されたことも判りました。 この写真は昨日の朝、地元の方に案内していただいた神社の屋根を撮った写真です。東北にはこうした千木が付けられていることが多いということを読んだことがあったので、それを確かめることも出来ました。そして、この神社には、他にも不思議なモノが残っていました。また、初めて中尊寺を訪ねたのですが、境内にある建物などの中にも不思議なモノがありました。 今日は岩手で撮ってきた写真を整理しているのですが、少し疲れたのでこの原稿を書くことにしたのですが、次回は所長と遠野へ出掛けてみたいと思っています。「柳田国男が歩いたところには、キリシタンの痕跡が残っていることが多いそうです。」と教えて下さった方がいらっしゃるので、遠野へは是非、出掛けてみたいと思っています。 歴史は、文字で書かれた資料=史料からだけでは絶対に見えてきません。こうして残されたモノを丹念に探し出すことによって、真実の歴史が見えてきます。後藤寿庵の死に関して、説が分かれているようですが、そうしたことが何故起こっているのか。ある方のお話しをお伺いして真相が見えてきました。
2015.06.15
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【会津の不思議な薬師堂】 これは前回の下の写真に写っているお寺の裏山に建てられている薬師堂です。墓地を歩いていたら、裏山に上がる階段があったので、そこを上っていったらこの薬師堂が建てられていました。しかし、このお寺は曹洞宗のお寺です。薬師如来を祀ったお堂が建てられていることは極めて不思議なことです。 曹洞宗のお寺がある村に、そのお寺から少し離れたところに、立派な薬師如来像が祀られたお堂が建てられているところがありますが、そのお寺の境内には「子安観音」石仏が祀られた祠があります。こうしたことは、会津に限ったことではありません。秩父三十四観音には、本堂が観音堂という曹洞宗のお寺がありますし、栃木県のある曹洞宗のお寺にも、境内に千手観音が祀られているお堂が建てられていました。 また、会津には臨済宗のお寺の境内に観音堂が建てられているところがありますが、そのお寺の墓地には、多数の五輪塔が並んでいる墓域があります。そして、その観音堂に祀られている観音菩薩像は最近まで「秘仏」だったのですが、当該市町村の調査報告書が会津若松市立図書館にありました。「子安観音」像であろうと思っていたのですが、そうではありませんでした。 今日から岩手県に出掛けます。帰ってくるのは土曜日の深夜になるだろうと思います。昨夜は寝付けなかったので、司東真雄師の『岩手のキリシタン』を読んでいました。岩手県の方が案内して下さるそうです。岩手県にもかなりの数のキリシタンがいたことは間違いありませんが、後藤寿庵のことが気になっています。会津では、後藤寿庵は蒲生氏郷の母親の実家の武士で、後藤千世寿という武将だったとされています。
2015.06.11
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【会津の「子安観音」像】 この2体の観音像は、それぞれ別の曹洞宗のお寺の本堂に祀られています。村の方にお願いしたら、中へ入れて下さいました。そして、どちらの村に関しても気になることがあったのですが、下の如意輪観音像が祀られているお寺の山号は、非常に気になります。『新編会津風土記』をデータベース化している時に気が付きました。勿論漢字で表記されているのですが、並を意味しているのか判りませんが、その山号を音読みしたら、どなたでもご存じの人物の名前になります。 会津には「毘廬山」という山号のお寺がありますが、そのお寺がある一帯にも、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っています。「毘廬山」は「ビルザン」と読みますが、ローマ字で表記して、母音を一つ入れ替えるとキリシタンであれば誰もが知っていたであろうポルトガル語になります。そして、「毘盧遮那仏」の「毘盧」であろうと思われますが、「毘盧遮那仏」は「盧遮那仏」に「毘」が付けられた名詞です。何故「盧」と「遮」の間で切ったのでしょうか。 会津の史料を丹念に検証すると、様々なことに気が付かされます。そして、こうした史料に残っていることを、その一帯に残っているモノから考えると、キリシタンがはっきりと見えてきますが、会津藩はこうしたことを問題にしていません。それは『会津藩家世実紀』にそうしたことが記されていないことから判ります。 キリシタンは九州だけにいたわけではありません。江戸市中にもいたことは、山手線の内側にあるお寺に、転切支丹類族墓石が残っていることからも判りますし、江戸城の外堀の内側にもキリシタンがいたことが、とあるお寺の残っている墓石からも判ります。間違いなく、会津藩士の墓石です。
2015.06.10
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【会津の不思議な「三体仏」】 前述の石仏や欄間のあるお寺からそれほど離れていない村の墓地にあった石仏です。地蔵菩薩が三体彫られていますが、何を表しているのか判りません。ただ、会津にはこうした地蔵菩薩が三体彫られているものは、他にも残っています。ここでご紹介したことのある「ジロニモ」と読める創作文字が彫られている墓石がある村のすぐ近くにある村です。また、この墓地に残っているモノから考えると、この不思議な「三体仏」もキリシタンと関係があるのであろうと思われます。 会津でキリシタンの痕跡が残っていない墓地は、ほとんどありません。必ず何らかのキリシタンの痕跡が残っています。特にこの一帯には、キリシタン伝承が残っているようで、それらしいことを耳にしたことがありますし、そのことを聞いた時に名前が出た村の墓地には、かなり立派な宝篋印塔が建てられています。 それだけではありません。とある村に観音堂があるのですが、戦前には、その一帯にある小学校の遠足で、その観音堂へ遠足に来ていたと村の方からお伺いしました。それだけではありません。その村には墓地が2ヶ所あるのですが、片方の墓地にはかなり大きな五輪塔が建てられていました。 会津では、各市町村史でキリシタンのことを詳しく論じてあるものはありませんが、フィールドワークでは必ず不思議な物に出会ってきましたし、転切支丹類族墓石が残っていない墓地はほとんどありません。そうした村々の中で、毘沙門堂が建てられている村があるのですが、曹洞宗のお寺の境内に建てられている毘沙門堂がありますが、その毘沙門堂も小生がキリシタン方位角と呼んでいる方向に向けて建てられています。
2015.06.09
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【会津の「子安観音」石仏と不思議な乳児を抱いた女性像】 うえの「子安観音」石仏は、会津のとある村の裏山に三十三観音石仏が並べられているのですが、その途中にあるお堂の境内に祀られています。この三十三観音は何回も訪ねたことがあるのですが、中には非常に興味深い石仏があります。ある方はそれを天使ではないかとおっしゃっています。また、非常に不思議な像が彫られているのですが、司祭であった聖人ではないかと思われるものもあります。 この「子安観音」石仏の光輪は、光輪になっていません。布を丸めてそれを捻ったもののように見えます。そして、細長い布が「Χ(キー)」の形に彫られています。「Χ」はキリストのギリシア語の頭文字です。クリスマスを"Χ'mas"と書くことがありますが、あの「Χ」はそのギリシア文字の「Χ(キー)」です。 そして、こうした「Χ」は、会津若松市の鶴ヶ城跡の石垣にも残っています。ただ、外側に面した石垣に彫られているので、普通の靴で入るのは無理です。滑ったら内堀まで確実に落ちるだろうと思います。小生は会津のキリシタンの研究を始めた頃に、何回もその石垣の下を歩いたことがあります。 下の写真は、この三十三観音が祀られている村からそれほど離れていないお寺の本堂の欄間に彫られている女性像です。乳児を抱いていますが、どう見ても観音菩薩には見えません。不思議な像なのですが、このお寺の境内には、宝冠にはっきりとした十字が彫られている「子安観音」像が祀られているお堂が建てられています。
2015.06.09
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【会津の「子安観音」像と「子安地蔵」像】 この「子安観音」像と「子安地蔵」像は、会津のとあるお寺の境内に建てられているお堂の中に祀られています。そしてどちらも、岩のような台座の上に置かれています。こうした岩のような台座は会津の「子安観音」像にはよくあることです。こうした台座は、像や蓮華座が彫られた後で、それぞれ個別に作られているように思えます。 この台座も、木枠に粘土を貼り付けて成形し、それが乾いてから着色したように見えます。この2体も木像ですが、塑像がこうした岩のような台座の上に置かれていることもあります。そして、こうした台座は会津藩領内だけでなく、天領南山御蔵入にも分布していますから、会津一円に広がっていると言うことが出来ます。 非常に興味深いことです。そして、「子安観音」像が個人のお宅の仏壇に祀られているケースもあります。ある村のサイノカミを見に行った時、村の方がそのお宅に案内して下さいました。そして、そこでも写真を撮ったのですが、仏壇に「子安観音」像が祀られていることに気が付いたのは、帰ってきて、その日に撮った写真を整理している時でした。 会津にはこうしたケースは少なくないだろうと思っています。あのサイノカミの日に出会った「子安観音」像が残っているお宅以外に、「子安観音」像が残っているというお宅が2軒ありますが、小生は、そうしたお宅は少なくないだろうと思っていますし、ある村の阿弥陀堂に阿弥陀如来像の前に祀られている「子安観音」像は、明らかに村のどこかのお宅に残っていたモノであろうと考えられます。因みにこの「子安観音」像と「子安地蔵」像が祀られているお堂があるお寺は浄土宗のお寺です。
2015.06.08
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【会津の「子安観音」像】 これは会津のとある村に建てられている「子安観音」像です。この写真は2013年10月15日に撮った写真ですが、2006年にこの一帯を少し巡った時にも、小さな携帯用デジカメで写真を撮ることが出来ました。観音堂の正面の扉はいつも閉められているのですが、2006年に訪ねた時には、台風で傷んだのか、板壁の一部が壊れていて、そこから中の写真を撮ることが出来ました。 この村は保科正之公が会津藩主になられてから成立した村です。史料のデータベースからそれが見えてきます。そして、観音堂を修復した時に、建物の下の地中から、墨で文字が書かれた小石が多数出てきています。それらの一部があるところに展示されていたので、少し丹念に見たことがあるのですが、聖書の内容を示している漢字がいくつもありました。もう40年ほど前のことです。 ですから、この観音堂に祀られている「子安観音」像を見ることが出来たときには、かなり興奮しました。しかも、この「子安観音」像も肌が白く塗られています。そして、この「子安観音」像の手前には燭台があるのですが、7本のロウソクを建てることが出来ます。 寛文六年(1666)、保科正之公は領内の「順礼」を禁止されました。「御領中順礼ニ出候儀、御停止被仰出」と『会津藩家世実紀』に記されています。しかし、理由が記されていないのが非常に気になっていたのですが、こうした観音像に出会い続けてきて、その理由が『会津藩家世実紀』の記録の行間に見えてきました。
2015.06.08
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【福島県中通り地方のキリシタンの痕跡】 上の2枚はは昨年の4月23日に中通りのとある村の墓地で撮った写真で、3枚目の写真はその村にあるお寺の入口にあった「子安観音」像を彫った石塔です。この2基の墓石は、郡山市の教育委員会が「切支丹墓碑」と銘々した墓石によく似ています。その写真は、もうかなり以前にここでご紹介したことがありました。 この村は、会津のキリシタンを研究し始めた頃から基になっていた村だったので、東京へ引っ越す前に訪ねておきたいと思い、この辺りをよくご存じの方に連れて行って頂きました。そして、まず墓地を訪ねたのですが、案の定、こうした墓石が残っていました。真ん中の写真の墓石には上部に<○>が彫られています。 そして、別の村を訪ねるために車を走らせていたら、お寺があったので車を止めたのですが、お寺の入口付近に「子安観音」が彫られた石塔が建てられていました。そして、小生が一番気になっていたところは、東日本大震災でがけが崩れて、見学できないようだったので諦めたのですが、この一帯の村々を少し巡ってみたのですが、やはり不思議なモノがいくつも残っていました。 前回、山菜の放射性物質の濃度が非常に高いことを記しましたが、山ウドは表土の放射性物質の値はかなり高いのですが、山ウドに含まれている放射性物質の値はそれほど高くないと書かれていました。採りたての山ウドは美味しいです。東京で売られているウドは白っぽい色をしていますが、山ウドは緑色です。茹でて、酢味噌で食べても美味しいのですが、小生は味噌汁に入れた山ウドが好きです。
2015.06.07
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【福島県中通り地方の不思議な神社】 2011年2月11日に、中通り地方でも阿武隈山系にあるとある神社にある方が案内して下さいました。下の写真に写っている建物がその神社ですが、そのすぐ下に石像や石仏そして石塔や石碑が集められていました。2月だったので、まだ少し雪が残っていました。 ネット上でこの神社の名前「○○神社」だけで検索すると、この神社のことしかヒットしません。それだけ珍しい名前の神社だということになります。そして、この上の写真に写っている観音菩薩のような像は明らかに赤いストラであると考えられるものが彫られています。そして、胸のところには小さな花クルスが彫られています。 蒲生氏郷が会津の領主だった時代には、この村がある一帯だけでなく、中通り地方全体が蒲生領でした。ですから、この不思議な観音菩薩石像がキリシタンの像である可能性は非常に高いと考えられますし、この一帯の村々も訪ねたのですが、不思議なものが多数残っていました。チャンスがあったら、もう一度訪ねてみたいと思っていますが、この辺りの放射線量も決して低くはありません。 阿武隈山系にある飯舘村の山菜の放射線量を計測したした記事が東京新聞の今日の朝刊に載っていました。どの様に調理しようと食べられるような線量ではありません。勿論、食品の基準値を大きくオーバーしています。そして、今朝テレビから流れていた鯉の内臓に少し変化があるという番組を見ていて、あの一帯を帰還準備区域にすることにも大きな疑問を持たざるを得ませんでした。
2015.06.07
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【会津の「子安観音」像】 これは昨年の7月30日に、所用で会津に出掛けた帰りに、とあるところで撮った写真です。去年の4月に東京へ引っ越す頃にある方がここに「子安観音」像が祀られているとお伺いしたの、それを確かめに立ち寄りました。この一帯には、不思議なものが残っている村が多いので、特別驚かなかったのですが、ここは村の中ではありません。岩窟の中です。 そして、東京へ帰ってきてから、国土地理院の地形図と『新編会津風土記』などの史料のデータベースを見比べながら、どこの村からここへ運ばれてきたのかを考えました。その結果、もうかなり以前のことですが、とある山間の小さな村を訪ねたのですが、その時には全村が離村していました。そして、それほど離れていないところに新しい集落が出来ていました。 史料にはその村に観音堂があるとは記されていませんが、史料には記されていないお堂に「子安観音」像が祀られているケースは少なくありません。祠も同じです。小さな祠に典型的な「子安観音」像が祀られているところがあり、村の方にお伺いしたらその祠が建てられているところへ行く道は、とある街道の旧道だと判りました。 こうした「子安観音」像や不思議な薬師堂あるいは観音堂をすべて公開したら、会津一円にキリシタンが広まっていたことをお伝えできると思っているのですが、悲しい誤解が会津一円に広がっているので、やはりそうしたことはしないことにしました。ただ、この一帯にも保科正之公が会津藩主になられてから成立したと考えられる村々があり、山ノ神のマツリを村のご婦人方が行っている村も、この一帯にあります。
2015.06.07
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【土津様(保科正之公)の墳墓】 この保科正之公の墳墓があって、土津神社が建てられている猪苗代町では、土津神社を「土津様」と呼んでいます。会津に住みはじめた頃は、こうお呼びすることの理由が見えませんでしたが、キリシタンの研究のために『会津藩家世実紀』を読み進んでいく中で、その理由が見えてきましたが、しかし、その理由に関する伝承は聞こえてきませんでした。 しかし、服部安休の墓のところに建てられている不思議な墓石のことを知り、そして、保科正之公がお亡くなりになられた頃には、神道はまだ葬儀を執り行っていなかったことを、ある研究者からお伺いして、それなりの仮説を立てていましたが、一昨年の暮れに、ある方がその伝承のことをお話しして下さいました。 保科正之公の実父は、徳川秀忠です。そして聖母はお静の方なのですが、お静の方の実家がキリシタンであったことは、『会津藩家世実紀』の元禄二年閏正月十五日の記録にはっきりと見えています。このお静の方の実家は、元は北条家の家臣だったとされていて、現在の板橋区小竹向原に屋敷を構えていた竹村家に寄宿していたとされていますが、お静の方の実家とこの竹村家は、保科正之公が保科家に養子に入る時に保科家に仕官していたと言われています。そして、『会津藩家世実紀』の同じ記録から竹村家もキリシタンであったことが読み取れます。 当時のローマ・カトリック教会の習慣からすれば、保科正之公(当時は「幸松」)に洗礼が授けられていたことは疑う余地は残されていないと考えられます。そして、幸松を保科家の養子にすることを考えたのは、穴山梅雪の妻であった見性院ですが、穴山家の墓地にも十字墓や宝篋印塔が建てられています。そして、徳川秀忠と妻のお江に関係する人物を考えていく過程で、お江のすぐ上の姉・初は京極高次の妻でキリシタンでした。京極高次は京極長政と京極マリアの子です。そして、京極高次の死後、初は江戸に住んでいて、時々、西の丸を訪ねていたとされています。
2015.06.06
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【個人情報漏洩】 日本年金機構から膨大な量の個人情報が流れ出てしまい、上層部が記者会見でお詫びしていましたが、唖然です。原因はサーバーへのアクセスに関して、パスワードを掛けていなかったことだと報じられていましたが、最悪です。あの年齢の方々は、パスワードを掛けるということがどういうことかお判りになっていらっしゃらないのだろうと思います。 忘れると困るからと言って、金融機関のキャッシュカードに暗証番号を書かれる方はいらっしゃらないだろうと思いますが、パスワードを設定していないということは、金庫に鍵を掛けていないのと一緒です。何しろ、アメリカのペンタゴンのホストコンピューターにアクセスして、中を書き換えてしまう「クラッカー」と呼ばれる人々がいることをご存じないのだろうと思いますが、それと同じような方々がマイナンバー制度のトップにいらっしゃったら、個人情報を秘匿することなど絶対に無理だろうと思います。 既に、詐欺紛いの電話が架けられているそうですが、100万人分以上の個人情報がかなり流布しているのかも知れませんし、その個人情報に様々な付加価値を付けて、高額で取り引きされるのだろうと思います。マイナンバーから芋蔓式に金融機関の情報をたぐり寄せたり、クレジットカードの情報を逐一、知ることさえ出来るだろうと思います。 そして何よりも、戸籍情報が漏洩することが一番心配です。戸籍情報はネットに繋がっていないと言われていますが、小生には信じられません。戸籍情報が何処にどの様に保管されるかを聞いたことがありますが、電話回線以外の独自の回線を敷設したのでしょうか。コンビニで住民票を取得することが出来るようですが、と言うことは一般のパソコンがネットに接続されていれば、そこからも住基台帳を確認出来てしまうことになります。暗証番号を解読することは、「クラッキング」の初歩だそうです。
2015.06.06
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【誰が出征したのか】 前回記した、とある村の墓地の一番奥にあった墓誌です。「五男」と「六男」の方が戦死されています。農家にとっては、大切な働き手であったのであろうと思われますが、日本に石油が入って来なくなった情況を打開するために開始された戦争で命を落とされています。 親爺から聞いた話では、「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬのではなく、銃で撃たれた時には「熱い!」と叫んで亡くなられたそうです。また、野戦病院は、病院と言えるような施設ではなく、弾丸を撮りだした後、落下傘から作った絹糸で傷口を縫ったと、陸軍の医師だった先生からお伺いしたことがありました。 おそらく、親爺だけでなく亡母も同じような経験をしていたのだろうと思います。亡母は長野の日赤の看護学校を出てすぐに召集され、病院船に乗っていたり、満州の陸軍病院に勤務していたことが、残されている看護師手帳から判りました。 戦争する勇気は要りません。戦争しない勇気が、今求められています。兵士は将棋の駒ではありません。大切な一人の人間です。永田町の人々が、真剣に本当の平和の意味を考えられるといいのですが、これだけ多くの人々が戦争の悲惨さを痛感しているにもかかわらず、自衛隊を海外に派兵したくて仕方がないようです。
2015.06.05
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【学習能力ゼロ】 昨夜のテレビのニュースで、3人の憲法学者の方々の発言がそのまま報道されていました。その中で、はっきりと「違憲」という言葉が使われていました。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」日本国憲法第九条第二項ですが、この条文をどのように解釈しようと、集団的自衛権が否定されていることは明らかです。 会津の山村を巡って、村々の墓地を歩いていると悲しい墓石によく出会います。中には、悲しみを超えて、怒りが沸々と沸き上がってきた墓誌がありました。「五男」の方の戒名の下には「陸軍中尉 ガタルカナルにて戦死」、「六男」の方の戒名の下には「陸軍曹長 中支にて戦死」と彫られています。これが建てられていた墓地は、村の墓地の一番奥の墓域でした。 2006年5月8日のことです。会津だけでなく、日本の多くのところから赤紙一枚で呼び出されて、太平洋戦争に従軍し亡くなられたのであろうと思われますが、農家にとっては男手は多ければ多いほどいい時代のことです。ある政党は、「安全保障関連法案」を「戦争法制」と呼んでいらっしゃいます。石油の輸入が途絶したので、「ニイタカヤマノボレ」という電文で太平洋戦争が始まりました。 そして、ガタルカナルだけでなく、多くの南太平洋の島で悲惨な戦闘が行われ、多くの兵士が亡くなり、オキナワにアメリカが上陸した時には、それ以上に悲惨な出来事が起こり、女学校の生徒さんたちが亡くなられました。最近の永田町からは学習能力が消えてしまったようです。
2015.06.05
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【武蔵国で出会った不思議な石仏】 昨夜ここでご紹介した石碑などが写っている写真に写っていた如意輪観音像であろうかと思われる像が彫られた石仏です。ただ、下部に「念佛講」と彫られているのが気になります。「念佛」は「南無阿弥陀仏」のことですが、念仏宗には観音菩薩を祀る習慣はありません。勿論、『般若心教』を唱える習慣もありません。 しかし、こうしたことが見られるのはこの一帯に限ったことではありません。実に不思議なことなのですが、色々なところで同じような情景に出会ってきました。ですから小生は、宗門人別制度をキリシタンの取り締まりのためとは考えずに、仏教の解体と再編と考えるようになりました。 禅宗のお寺に観音堂が建てられていたり、「子安観音」石像が境内に祀られていたりします。しかも、そうしたケースは珍しいことではありません。会津三十三観音のお寺で、禅宗や念仏宗のお寺を探してみて下さい。そして、会津三十三観音だけでなく、西國三十三観音でも同じです。曹洞宗のお寺に観音堂が建てられているところがあります。 仏教の宗旨の相異はキリスト教の教派の相異とは大きく異なります。キリスト教ではカノン(正典)は基本的には同じです。訳が異なった聖書はありますが、原本は基本的には同じです。しかし、仏教はこのカノンが異なります。そして、念仏宗以外で念仏を唱えるのは平安仏教だけであろうと思われます。
2015.06.04
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【武蔵国で出会った不思議な墓石・石仏・お堂】 これは前述までの一帯にある別のお寺の境内で撮った写真です。上の写真の墓石には、最下部に「位」と彫られています。そして、そうした墓石や五輪塔が集められているところに、胴の部分で切断された地蔵菩薩石仏がありました。「廃仏毀釈」運動がこの一帯にも広がっていたのであろうと思われますが、キリシタンの痕跡が残っているところに首無し地蔵が残っていることは少なくありません。 そして、このお寺の境内にお堂が建てられていたのですが、「弁財天」と書かれた扁額が掲げられていました。不思議なことです。ここは、上の写真に彫られた戒名からも判るのですが、時宗のお寺です。一遍上人によって開宗された、浄土教の一つです。それでお堂の中を覗いたのですが、厨子の扉は閉まっていました。 この一帯には、明治時代にローマ・カトリック教会が建てられていますが、現在は他の場所に移転されていました。そして、この一帯にローマ・カトリック教会があることは、40年余り前から知っていました。それだけではありません。小生が学部の学生だった頃には、この一帯にあるとある民家から、非常に興味深いものが発見されて、多くの学者がそれに関して論じていますが、小生はその発見された文書に書かれている内容からすると、幕末まで隠れていたキリシタンがいたようにも思えます。これは、いつか自分でその文書を解析してみたいと思っています。 江戸時代には、江戸市中から東京都の西部までの一帯に、キリシタンがいたことは間違いありません。特に、埼玉県を含む関東ローム層上の地域には間違いなく転切支丹類族墓石が残っています。それも、江戸時代には天領だったところにも、キリシタンの痕跡が残っています。
2015.06.03
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【武蔵国で出会った不思議な石仏】 これは前述までの一帯にある、別の墓地で出会った石仏です。舟形光背に五輪塔が彫られていて、その上に地蔵菩薩像が彫られています。非常に珍しい石仏ですが、この墓地に残されている他の墓石や五輪塔からすると、おそらくキリシタンの石仏であろうと思われます。 今日は雨が降っていたので出掛けずに、ここでこの一帯のことをネット上で検索して調べていました。やはり、かなり気になっています。それも、この一帯は伊那高遠と密接な関係があるところです。会津のキリシタンを研究し始めて、伊那高遠を何回も訪ねる中で、この一帯のことを知りました。そして、しばらく前にこの一帯のことをテレビで放映していて、その番組の中にも気になることがありました。 こうして、芋蔓式にキリシタンの痕跡を辿っていくと、必ず別のキリシタンの痕跡に出会います。そして、ネット上にはかなり詳しい様々なことが記されていますから、それらを検証していくと、潜らされていたことに気が付かされることがあります。 来週は岩手県を訪ねる予定なので、再来週にはこの一帯をまた訪ねてみたいと思っています。会津で起こったことと同じことがこの一帯でも起こっていたのかもしれません。そして、その出来事は確実に潜ってしまったのであろうと思われていますが、ひょんなことから、そうした不思議な出来事があったことが見えてくることがあります。
2015.06.03
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【武蔵国で出会った不思議な石碑・石仏列】 前回ご紹介した墓石が残っているところで、そこから少し山の中に入ったところには、かつてはお堂が建てられていたとお伺いし、しかし現在は神道請になっているとお伺いしたので、車で上がっていきました。そして、その沢の一番奥にある村の手前に、この写真に写っている石碑と石仏が並べられていました。 左から「二十三や塔」「馬頭観世音」「諸国神社仏閣?拝塔」と彫られていて、その右側には如意輪観音像と思われる像が彫られた石仏がありました。会津では、神道請は不思議なコトと考えられていますが、会津藩士の多くは神道請でした。このことは『会津藩家世実紀』にある記録から判ります。 しかし、とある宗教社会学者によると、神道が葬儀を行うようになったのは、それほど古い時代ではないとのことです。また、会津藩ではキリシタンであることが発覚した一般民衆が、寺請けではなく神道請になっているケースがあったようで、『会津藩家世実紀』の別の記録からそれを知ることが出来ます。 「被差別民はお寺に入れてもらえなかったから、仕方なくキリシタンになった」という、根も葉もない誤解が会津に蔓延しているので、会津のキリシタン史研究は十分に気を付けなければなりませんが、こうした誤解は会津に限ったことではないかもしれません。
2015.06.03
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【武蔵国で出会った不思議な墓石】 この4基の墓石は、武蔵国のとあるお寺の墓地にあったものです。左上には「年」ではなく「星」が彫られています。右上は上部に「○」が彫られています。左下は右側の戒名の先頭が「一」になっています。そして、右下は上部に「皈眞」と彫られています。司東真雄師は著書の中で、左上の「星」以外は「切支丹の墓石」とされています。(『岩手のキリシタン』岩手出版) この一帯で、ある方にとある墓地を案内していただいたのですが、もう今から40年以上前のことでした。あの頃は、キリシタンの研究をしていませんでしたから、気が付かなかったのですが、もしかするとあの墓地にもこうした墓石が残っていたのかもしれません。 また、この一帯は高校生の頃から、かなり歩きまわったところなのですが、キリシタンのことはまったく考えてもいませんでした。それでも、あることが気になっていたので、去年の8月22日に出掛けたのですが、様々なところでキリシタンの痕跡に出会いました。 そして、往きにも帰りにも、横田基地の横を走ったのですが、大型輸送機が離着陸していました。空港の周辺では、大型輸送機はかなり低空で飛行しています。横田基地の周りは、住宅地になっています。辺野古へ移動させるはずだったオスプレイが、横田基地に移転されるようですが、普天間が「世界一危険な空港」であれば、横田基地も「世界一危険な空港」であろうと思われます。
2015.06.03
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【会津に残っている歌舞伎の舞台】 これは2006年9月5日に撮った写真です。会津のとある村に残っている歌舞伎の舞台と、その少し手前にあった清水です。かなりきれいな水なので飲んでみたのですが、美味しい水でした。こうした歌舞伎は、間違いなく伊那高遠から会津へ移住してきた人々によって持ち込まれたものであろうと考えています。 小生が知っている限りでは、伊那高遠に歌舞伎の舞台が2ヶ所にありました。そして、そうした文化を携えて、山形最上経由で会津に入って来たと考えています。そして、京都の東山に建てられている出雲の阿国像の胸に、クルスが掛けられていることを知って、歌舞伎の中にキリシタンを隠していたことを確認出来ました。 ですから、蒲生氏郷と共に会津に入って来た家臣団の中に残っていた宝篋印塔を墓石として建てる習慣や、伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た歌舞伎、そして、庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣。これらを連結して考えると、戊辰戦争まで外堀の内側にキリシタンがいたことも納得できます。 保科・松平会津藩では、保科正之公以降、キリシタンであることが露顕した武士は、帰農すればお咎めなしでしたし、上級武士になればなるほど、露顕しにくいのは、武家屋敷の構造からしても理解できます。先日、東京の工事現場で人骨が発掘されましたが、その数からすると、大きな武家屋敷の一画に、お御堂が建てられていて、その家の方が亡くなると、お御堂のところに埋葬したのかもしれません。
2015.06.01
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【会津の「キリシタン街道」沿いの村にある「子安観音」石仏】 上の写真の「子安観音」石仏は、前述の不思議な石仏がある村の手前の村にあります。真ん中と下の写真の石仏は、奥にある村の入口に祀られています。そして、会津にキリシタンが広がったのは、蒲生氏郷が会津の領主になった時です。正に破竹の勢いで会津に広がったのであろうと考えられますし、何回も書きましたが、この時にはまだ宗門人別制度は影も形もありません。 そして、こうしたケースはこの一帯だけではありません。保科正之公と共に山形最上経由で伊那高遠から会津に入って来た武士が帰農した村々には、かなりはっきりしたキリシタンの痕跡が残っています。こうしたことは、会津藩領内だけでなく、天領南山御蔵入にも見られます。会津史では「銀山街道」と呼ばれている街道もおそらく「キリシタン街道」であったのであろうと考えられますし、現在は新潟県になっている会津藩領だった一帯には、非常に興味深いモノやコトが残っています。 所謂郷土史家と呼ばれている先生方が書かれた、民俗学的調査報告書は非常に興味深いです。そうした書籍がまた出版されているかもしれないので、次回、会津を訪ねる時には、出版社を訪ねて来ようと思っています。文字で書き残された資料=史料からだけではまったく見えてこないことが、そうした書物から見えてきます。 そして、多くの村の方々からお伺いしたことが、非常に重要なことを教えてくれたこともありました。「巳待」が「己侍」であることも、そうして教えて頂きました。『寛文風土記』にも『会津鑑』にも『新編会津風土記』にも載っていません。そして、保科正之公が山形最上へ移封された時に、旧高遠藩領内から3000人の農民が武士に取り立てられて、山形最上へ移住し、会津へ移封される時に、1軒を除いてすべて会津に移住したとということも、旧高遠藩領内で何回も耳にしてきました。
2015.06.01
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【会津の不思議な石仏】 「石仏」と題しましたが、どう見ても仏像とは思えません。この「石仏」に最初に出会ったのは1998年でした。とある村に建てられている神社の境内でした。そして、その神社のすぐ近くに聖徳太子堂が建てられていて、中には聖徳太子像が祀られています。しかし、墓地に建てられている墓石には、間違いなく戒名が彫られています。 お気付きになられているかと思いますが、この「石仏」の舟形光背には、太陽と月が彫られています。そして、この「石仏」の足元には、銀色の硬貨が捧げられています。また、この村を通っている道の手前の村と奥の二つの村には、「子安観音」石仏が残っています。 そして、それらの村々は『寛文風土記』や『新編会津風土記』にはその村名が記されているのですが、『文禄三年蒲生家高目録』には名前が記されていません。そして、この一帯にある村々の『会津鑑』にある石高を考えると、実に不思議なことが見えてきます。それで、データベースを解析していったら、実に不思議なことが見えてきたのですが、伊那谷や旧高遠藩領内を巡り続けてきて、その不思議さが消えました。 『寛文風土記』が編纂される直前に成立した村々であろうと思われます。このことは、拙著『会津キリシタン研究II』に詳しく記してあります。そして、この一帯にある3体の「子安観音」石仏の意味もはっきりしました。それだけではありません。あの道は江戸時代には「キリシタン街道」だったのであろうと考えられるようになりました。キリシタンの宣教師が巡回した街道です。
2015.06.01
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