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【世界の未来】 ある時、アメリカ人の牧師が会津を訪ねて下さいました。彼もキリシタンに関心があったのですが、日本で生まれて、日本で育ったアメリカ人なので、口から出てくる日本語は「江戸弁」に近いものでした。その彼に、「何で日本に帰化しないのか?」と訪ねたら、「アメリカはどこにいても僕を守ってくれるが、日本は守ってくれない」という答えが返ってきました。実にその通りのことが、先日ISで起こってしまいました。おそらく、これからも同じようなことが起こるだろうと小生は不安に思っています。 また、もうかなり以前ですが、日本からアメリカに出掛けた中学生が、学生服を着た写真をパスポートに使っていたら、入国を拒否され、日本に送還されてしまったそうです。アメリカの入国管理官と話したときにも、頭は丸刈りだったとのことです。アメリカのご婦人が「東京でネイビーの女の子が沢山歩いていた」と言ったのと理由は同じです。学生服は軍服にしか見えません。まして、丸刈りにしていれば、確実に軍人です。軍人は特別な許可を受けなければアメリカに入国することは出来ません。 昨日、テレビで英国のウィリアムス皇子を案内していた英国の軍人が制服を着ていましたが、外務省から特別の許可を受けて着ていたのであろうと思われます。「むかしは進駐軍が軍服を着て、電車に乗っていた」とおっしゃる方もいるだろうと思いますが、だから彼らは「進駐」軍なのです。但し、彼らは火器を携帯していませんでした。本国送還された中学生は、服を着替えて、成田からまたアメリカに向かったそうです。 日本に住んでいらっしゃるイスラム教徒の方々の安全が守られるように、毎日祈っています。外国にいる日本人が、その国の警察や軍隊に守られているのですから‥‥‥。
2015.02.28
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【世界の未来】 「夜が来て、また朝が来る/それだけが人間に残されたたった一つの真実だということを/世界が心の底から受け容れた時/ひとは混沌から抜け出せることが出来るかもしれない」 小生の修士論文の結論です。あの頃には既に、アメリカは自由を見失っていました。そして、キリスト教以外の宗教を排除しようとしていました。それだけではありません。誰が決めたわけでもないのですが、「アメリカは世界の警察」という極めて危険な考え方に包まれていました。アメリカはベトナムで失ったものをまだ、回復出来ていませんでした。これはヨーロッパも同じです。ハプスブルク家が世界の王であるという意識がまだ残っていたように見えました。しかし、それからしばらくすると、自分たちの経済的発展のために、移民を受け容れてきました。そして、ISが力を持ち始めると、アメリカやヨーロッパはISを「テロリスト」と規定して、「壊滅する」ことを宣言しました。 ISにとっては、自由主義も民主主義も通じません。ISの中で純粋にイスラム教徒であろうとしている人々にとっては、「自由」も「民主主義」も排除すべきものでしかないのです。まして、アメリカやヨーロッパのキリスト教は、徹底的に排除すべきものでしかないのです。そして、お二人の日本人が「処刑」されました。理由ははっきりしているのですが、どのマスコミもジャーナリズムもそのことに関して報道していません。小生は、ネット上にあった記事や、とある新聞に書かれていた記事から、お一人の方の死の理由を考えさせられていました。 もうかなり以前ですが、「宗教は何ですか?」とアメリカで聞かれたら、「宗教はありません」と答えるなと言われているのを耳にしました。理由は「無神論者=共産主義者」だから大変なことになるということです。それで、「特定の宗教は信じていませんが、葬式は仏教でする」と答えるといいということも耳にしました。小生はアメリカで「宗教は何ですか?」と聞かれたことはありません。クラジーシャツを着ていたからです。 そして、今朝、テレビでヨーロッパから若い女性がISに加わるために、イラクに向かったことが議論されていました。まだ10代の女性達だとのことですが、彼女たちは彼女たちなりに真剣に考えて、イラクに向かったのであろうと思われます。彼女たちもヨーロッパに住んでいるイスラム教徒でした。日本でも、夏でもスカーフをしているイスラム教徒の女性に対して批判している方々がいらっしゃいますが、グローバル化を理解できていない方々なのであろうと彼らを短絡的に批判している方々もいらっしゃいました。
2015.02.28
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【南会津の巨大な五輪塔 そのII】 前々回の巨大な五輪塔を最初に訪ねたのは2003年12月17日でした。ブルーシートがかけられていました。雪囲いです。厳冬期にここを訪ねたことはないのですが、おそらくこの程度の雪囲いであれば、雪から五輪塔を守ることは可能だろうと思います。村の方にお伺いしたら、村の共同作業で雪囲いをしているとのことでした。 「来年の春まではお預けだな」と思って、石祠などの写真を取って帰ってきました。そして、史料などを読み返し、この村にあったお寺に関する文書を紹介している本を読み直してみました。やはり気になりました。16世紀後半に、どのようにして葬儀をし、埋葬したのでしょうか。16世紀ですから勿論、宗門人別制度は影も形もありません。 そして、この斜面を丹念に歩いてみたのですが、この五輪塔以外に墓石は残っていませんでした。現在、この村にある家々は、近年になって移住してきた家々であることは、当該市町村史で明らかにされていますし、村の方からもお伺いしたことがあります。 こう記すと、この近くの村々の方はここがどこかすぐにお判りになるだろうと思います。知り合いに、あの時の大洪水を経験された方から、色々なことをお伺いしたことがありました。そして、前々回に記したように、この村にあったお寺の末山があるお寺には、気になる墓石などが残っています。
2015.02.27
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【南会津郡下郷町大内宿の冬】 有名な下郷町にある大内宿です。2007年1月9日に撮りました。それほど極端には寒くありませんでしたが、それなりの防寒着を着ないと、かなり寒く感じるだろうと思います。この大内宿は江戸時代の宿場村がそのまま残っています。 メインストリートの両側に中水道が流されています。鍋釜や野菜を洗うところでしたが、現在はそのためには使っていないだろうと思いますし、かつては道路の真ん中を流れていたかもしれません。若松城下では、それぞれの通りの真ん中にこの中水道があったことが、江戸時代に描かれた地図に載っているので判ります。 そして、正面の奥にお寺がありますが、このお寺には子安観音堂が建てられています。ただ、このお寺が浄土宗なのが気になります。また、お寺の前の道沿いにも不思議な石碑が建てられています。積雪期は雪に埋まってしまいますが、春になって雪が解ければ、見ることが出来ます。 そういえば、この大内宿のお店でもイナゴの佃煮を売っていました。カナダから来た交換留学生に見せたら、卒倒しそうなほど驚いていました。かなりグロテスクに見えるようですが、信州のサナギの佃煮に比べたら大したことはないだろうと思います。
2015.02.27
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【南会津の巨大な五輪塔】 これは前述の村からそれほど離れていないところにある巨大な五輪塔です。下の写真に写っているのは所長ですが、身長150センチメートルです。この五輪塔があるところに村がありますが、現在この村にある家々は、集中豪雨で土砂崩れが起こって埋まってしまった家々が移住した家々です。 『新編会津風土記』のこの村の項には、この村は16世紀には武装農耕集団であった家に関することが記されています。非常に興味深い家です。そして、最近出版されたその一族に関する本を読んだのですが、葦名家に仕えていたことを守り続けるために、蒲生氏郷には仕えなかったことが記されていました。そして、かつてはこの村にお寺があったのですが、そのお寺は現在は廃寺になってしまっています。近年まで仏像などが残っていたそうですが、もうしばらく前に、売ってしまったそうです。 それでも、このお寺の寺名を考えると、ここに武装農耕集団の統領がいたことは間違いなさそうです。16世紀ですから、この頃には宗門人別制度=寺請制度=檀家制度は影も形もありません。その時期に、五輪塔を墓石として建てたとすれば、キリシタン以外に考えようがないです。そして、地形的には非常に防御に長けたところですから、廃寺になったお寺に残っていた「仏像」がどのようなものであったかが気になりますが、それに関する伝承は残っていないようです。 そして、その廃寺になったお寺にはいくつかの末山があったのですが、それらのお寺をすべて訪ねてみましたが、やはり気になるものが残っていました。会津でこうしたことをお話しすると、武士が山の中に住んでいるはずがないといわれることがありましたが、徳川家の先祖は三河の松平にいた武装農耕集団です。かなり山の中だと聞いています。
2015.02.27
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【南会津の山間の村】 この写真は金山町にあるこぶし館に掲げられている写真を撮ったもので、金山町教育委員会から使用許可を頂戴しています。三条という村ですが、右奥の二階建ての建物は分校です。但し、現在はこの分校も含めて、すべての建物が解体されてしまっています。山菜取りには行ってくる方々が、無許可で民家に宿泊すると危険なので、すべて撤去したと聞いています。 「川上からお椀が流れてきたので、村があることが判った」とか、訪ねた人が「源氏か平氏か」と聞かれたとかいう言い伝えがありますが、この村の名前は『文禄三年蒲生家高目録』には別の漢字で記されている村がそれであろうと考えられます。そして、村には武士の子孫ではなく、貴族系の家であるという伝承が残っていることが、とある本に書かれていました。 会津には面白い言い伝えがあって、「昭和村は昭和になって発見された村」というのがありますが、昭和村の多くの村々は『寛文風土記』(1666)に出ています。ただ、『寛文風土記』に載っていない村があるのですが、それらの村々は、『寛文風土記』以降に成立した村かもしれないと思っています。関心のある方は是非、『文禄三年蒲生家高目録』(1594)『寛文風土記』(1666)『会津鑑』(1789)『新編会津風土記』(1804)を一つのデータベースにしてみて下さい。 小生は、この村は蒲生氏郷の時代に、特別な任務を帯びていた村ではないかと考えています。蒲生氏郷が南部攻略の時に、弾薬が足りなくなりそうだったので、会津から持ってくるように指令したといわれていますが、戊辰戦争の時に弾薬、特に煙硝が足りなくなった時に、わざわざ飛騨から取り寄せています。この煙硝は現在の黒色火薬ですが、木炭を粉末にして硫黄を粉末にしたものと混ぜて、あることをしておくと硝酸塩が出来ることは、少なくとも室町時代末期には判っていました。つまり、硝酸塩がなくても黒色火薬を作ることが出来るということです。
2015.02.27
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【南会津の峠道】 2007年4月30日に南会津のとある峠で撮った写真です。この峠道は冬期間、除雪されないようです。除雪しようとしても、道幅が狭いので谷側に雪を落とすしかないからだろうと思います。それで、この峠にもトンネルを開けるように地元では運動をしているとネット上に出ていました。 峠の反対側の村々は、冬期間には車が通れる路が1本しかありません。災害時に非難することが難しくなりますし、極端な大雪になれば、あの一帯が孤立することは目に見えています。しかし、交通量を考えると、どうしても他のところが優先されてしまうようです。 「コンクリートから人へ」という言葉が、かつて使われていましたが、村人の生活を守るためのコンクリートを減らすと、思いもかけないような災害が起こる可能性もあります。「一票の格差」が問題になって久しいですが、都会地で生まれ育った議員さんがこうした山村の実態を知っているかどうか大いに疑問に思えます。そして、「地方創生」が叫ばれていますが、高齢化した集落に子供用の自転車を見付けることは至難の業です。 この2枚の写真に写っている道を下っていくのですが、大型車が来たらすれ違いに苦労します。その程度の道だということなのですが、この道路が拡張されることはないかもしれません。市町村や県の予算で出来ることではありません。
2015.02.26
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【会津の山村】 上の写真に写っている切り通しのような部分を抜けると、下の写真に写っている谷が広くなっているところに出るのですが、ここからもう少し奥に江戸時代には間違いなく村があったところに出ます。その村のことは『新編会津風土記』に記されているのですが、現在は全戸が離村しているので、建物はもう残っていないだろうと思います。 この村へ外からは行って来るためには、写真に写っている林道だけが頼りです。そして、この村に残っていた伝説について書かれている本を見付け、出小屋が写っている写真が載っていたので、非常に大きな関心を持っています。出小屋があったということは、近年まで無積雪期には農耕のためにこの谷に入って来て、農耕を営んでいたのであろうと思われますが、離村後にどこに住んでいるのかは調べようがありません。 当該市町村には本籍が残っているかもしれませんから、記録がないわけではないだろうと思っているのですが、プライバシーに深く関わることなので調べることはしないことにしました。しかし、その本に記されていることを考えると、この村にあった家々は、おそらく伊那谷から山形最上経由で会津に入って来た家々であろうと思われます。そして、村人達は他の村々とは関わりを持たなかったことも、この村に伝わっていた伝説から判ります。 この本は歴史に関する本ではありませんが、こうしたことを知ることが出来た非常に価値のある本でした。また、『新編会津風土記』にある記述からすると、享保年間までは銅山で採掘が行われていたようですが、その後、銅の産出量はかなり激減したようです。また国土地理院の地形図からすると、耕作面積はそれほど狭くなかったようですが、『会津鑑』には石高は記されていません。そして、この村の本村の石高は『会津鑑』に載っているのですが、この本村の石高を小名や端村の家数を加えた数で割ると、一軒当たり1石4斗弱になります。畑作を主にしていたようですが、それ以外に藩から委託された特別な仕事をしていた可能性があると考えられるのですが、それに関する記録はまったくありません。
2015.02.26
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【会津の山村】 前述のお寺からそれほど離れていないところにある沢を溯ったところにある村の墓地で撮った写真です。墓石に彫られた法名からすると、ここからそれほど離れていないところにある、真宗高田派の檀家になっているのであろうと思われます。真宗高田派も親鸞からでた宗旨ですから、観音菩薩石仏が同じ墓地に残っていることが不思議でなりませんでした。 この写真を撮ったのは2004年11月9日でした。そして、この村からもっと沢を溯っていくと、江戸時代には村があったところがあるのですが、この時は出来たらそこまで行ってみたいと思っていました。しかし、この村の方のお話では、普通車で行くのは難しいとのことでしたので、この沢沿いの村々を巡ってから、会津若松へ帰ってきました。 それから間もなくの頃だったと思います。歴史とはまったく関係のない分野の本に、その沢の奥にあった村に関することが書かれていて、全村が離村した後も、無積雪期に出小屋として利用している建物の写真が載っていました。また、村に伝わっている不思議な伝説も記されていました。 2007年の夏の終わりに伊那谷を訪ねて以来、伊那谷に関する色々な本を読んでいて、飯田市の北西にある大平という場所のことを知り、大平に関して書かれている本などを読んでみたのですが、あの大平という村にも、同じような伝説が残っていることを知りました。
2015.02.26
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【会津の首無し地蔵】 前述までのお寺を訪ねた後、気になっていた別のお寺を訪ねました。というのは、2001年にそのお寺を訪ねた時に、お寺に首無し地蔵が何体もあったのですが、当該市町村史を読んでいたら、廃仏毀釈はあったが破壊された石像はないと書かれていたからです。 案の定、首無し地蔵はお寺のところに残っていましたが、一ヶ所に集められていて、お寺の建物も新しく建てられていました。このお寺も、曹洞宗のお寺で、勿論『新編会津風土記』に記載されています。ただ、2001年に訪ねた時の建物は、民家のようにも見える建物でしたし、現在は集会所のような建物になっています。 会津には、首無し地蔵が数多くあります。古い地蔵菩薩石像で首が落とされていないものはほとんどありません。そして、前回ご紹介したような明治期以降に建てられた墓石は数えるほどしかありません。かといって、明治・大正期に建てられた合葬墓も少ないです。これも会津に限ったことではありません。他の地域でも同じことを考えさせられましたが、それでいて、首無し地蔵はそこら中に残っています。 一般に、首無し地蔵は「廃仏毀釈」によって破壊されたとされていますが、首を落とした理由は本当に「廃仏毀釈」だったのでしょうか。これらの首無し地蔵が残っているお寺がある一帯にも、キリシタンの痕跡が残っています。初夏にまた会津へ行くことになると思いますので、その時に、もう一度この一帯を訪ねてみたいと思っています。不思議なものが必ず残っているだろうと考えています。
2015.02.26
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【会津の転切支丹類族墓石】 前回ご紹介した墓石の中に、「昭和六年」と彫られている墓石がありましたが、この墓石には「明治十五年」と彫られています。そして、「禅海」という道号の下に「一丹」と彫られ、「禪入」という道号の下に「一味」と彫られた文字列が彫られています。明治十五年は1882年です。戊辰戦争から14年後です。所謂「明治維新」が行われてから14年が経っても、破棄されたはずの宗門人別制度が実質的に残っていたということになります。 キリシタンの研究がこうしたことに出会うとは思っていませんでしたから、こうした墓石に出会うと思いっきり疲れました。「明治『維新』はクーデターでしかなかった」と高校生の頃から考えてきたのですが、これなどは典型的なその証拠であろうと思っています。そして現在でも、「政府を批判すると『アカ』と言われてしまう」ことが残っています。 そして、宗門人別制度は明治以降「戸籍」という形で、市町村役場が維持してきました。これは現在も変わることなく続いています。しかし、近代市民社会は国民が主権者だったはずです。最近は戸籍では飽きたらずに、マイナンバーによって政府が国民を管理しようとしています。マイナンバーを採用すると便利なのは、主権者である国民ではなく、国民を管理しようとしている政府です。 かつては、中学生が揃いのジャージにナンバーが記されたゼッケンが縫いつけられていましたが、ある方はそれを「囚人番号」と呼んでいらっしゃいましたが、その後「囚人番号」は消えました。そして、免許証から本籍地が消えましたが、政府はそれを簡単に読み取ることが出来ます。そういえば、「東京でネイビーの可愛いお嬢さん達を大勢見た」とおっしゃっていたアメリカのご婦人がいらっしゃいました。どういう服を着たお嬢さん達か、皆さんはお判りになられますでしょうか?‥‥‥
2015.02.26
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【会津の転切支丹類族墓石】 この4基の墓石は前述の薬師堂のあるお寺の墓地にあった墓石です。左上の墓石には「歸空」、右上の墓石には「歸眞」と彫られていて、左下の墓石に彫られた戒名は「一」で始まっています。そして、この墓石の右側面には「昭和六年一月六日」と彫られています。また、右下の墓石では彫られている戒名の位号の部分が破壊されています。そして、右側面には「天」年号が彫られています。 それだけではありません。この中の墓石の一つには、室町時代末期までは明らかに武装農耕集団であったと考えられる家の姓が彫られています。また、新しく建てられた合葬墓に彫られている姓の中にも、同じことが言えます。ただ、この村の場合は、蒲生氏郷が会津の領主になった時に、蒲生に仕えなかった姓の家々が残っています。 それでいて、こうして転切支丹類族墓石が残っているわけですから、蒲生氏郷がキリシタンの武士だけを受け容れたとは言えません。確かに、蒲生氏郷よりも前にキリシタンが会津に入っていた可能性は十分にありますが、そのことに関することは史料には見当たりません。 このことは拙著『会津キリシタン研究II』に少し詳しく記してあります。それを示す場所を何回も訪ね、当該市町村史を、重箱の隅をつつくように検証した結果です。日本のキリシタン史は、武士がまずキリシタンを受け容れたことに始まるであろうと思われます。そして、そうした武士集団の中の武将がキリシタンになることによって、家臣の領地での布教を許可したと考えれば、室町時代に会津一円にキリシタンが伝わっていても不思議ではありません。
2015.02.26
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【会津の不思議な薬師堂】 この薬師堂のことは、何回もここでご紹介してきました。扁額には確かに「薬師如来」と彫られています。そして、中に祀られているのは間違いなく薬師如来です。これだけであれば、何の不思議もないのですが、このお寺は曹洞宗のお寺です。そして、このお寺の境内にはこの薬師堂以外に、観音堂も建てられています。 最初にこのお寺を訪ねたのは2001年でした。それ以来、何度もここを訪ねていますが、曹洞宗のお寺の境内に薬師堂と観音堂が建てられている不思議さを解決できていません。勿論、『新編会津風土記』などの史料には、その不思議さを解決してくれることは記されていません。 また、こうした不思議なことがあるのは、会津だけではないのですが、それらに関する不思議なことが記されている文献に出会ったことがありません。また、会津に関わるお寺で、臨済宗のお寺があるのですが、そのお寺にある観音菩薩像を模して彫られたという「夕顔観音」を高遠へ持って来て祀ったのですが、そのお寺は臨済宗ではなく真言宗のお寺です。そしてその境内には、保科正之公の頌徳碑とお静の方の供養塔として建てられた五輪塔が境内に建てられています。そういえば、あの五輪塔にはお静の方の戒名が彫られているのですが、戒名の下に「淑霊」と彫られています。 こうした細かいことを一つ一つ並べていくと、会津のキリシタン史がはっきりと見えてきました。勿論、『会津藩家世実紀』の記録などは十分に参考になります。『会津藩家世実紀』は第八代会津藩主・松平容衆に読んでいただくために編纂された記録文書集です。
2015.02.25
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【南房総の首無し地蔵と被破壊六地蔵】 前々回の「子安観音」石像と同じところに集められていた首無し地蔵や破壊された六地蔵です。首無し地蔵石像はどこも破壊されていないのですが、地蔵菩薩像と思われる石像は、首が落とされています。そして、一つの四角柱の石に6体の地蔵菩薩像が彫られているものは、上部の左側が破壊されています。 そして、前回ご紹介した青面金剛石仏はかなり激しく破壊されていたものが、修復されています。ネット上ではこうした首無し地蔵は「廃仏毀釈」の名残であるように考えられているようですが、それならば何故、「子安観音」石像は破壊されなかったのでしょうか。 実に不思議なことなのですが、もうかなり以前に、房総半島の南部にもキリシタンがいたことを聞いたことがあります。そのキリシタンの子孫は、明治期以降に、キリスト教のとある教派の教会員になったとのことです。そして、その話を総合して考えると、明治初頭まで、彼らはキリシタンの信仰と習慣を保ってきていたと思われます。 ただ、その当時の聖職者はもう皆さん天に召されてしまっていますから、詳しい記録が残っていない限り、はっきりとしたことは判りません。ただ、そうした教会の仕事を手伝いに行ったことがあるのですが、その時のことを思い出すと、色々と気になることが思い出されます。
2015.02.25
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【南房総の不思議な石仏】 前述の「子安観音」像があるお寺の入口にあった、如意輪観音石仏と青面金剛石仏です。このお寺は、何宗のお寺か判りません。お寺であることは間違いありませんが、宗旨はどこにも記されていませんでした。そして、それほど広くない墓地があって、墓石がいくつか並べられているのですが、そこの掘られた文字列からは、宗旨を特定することは出来ませんでした。 上の如意輪観音ですが、右膝の横に何か丸いものが彫られています。一般的な如意輪観音像はこの部分に丸いものが彫られていることはありません。そして、下の青面金剛石仏ですが、一度かなり激しく破壊されたものが修復されています。ここまで激しく破壊されている石仏は、小生にとっては非常に珍しいものです。 ただ、前回の「子安観音」石像や不思議な如意輪観音石仏を考えると、この破壊も明治期の「廃仏毀釈」だったのかもしれません。しかし、破壊した後で青面金剛の意味が判ったので、破壊された石仏の破片を集めて修復下のであろうと思われます。 この一帯でも、明治以降にある特徴的なコトがありました。これは会津でも戦後に起こっています。ある不思議なことに出会ったので、よく知っている方にお伺いしたら、その不思議さが消えたことを憶えています。そして、会津のキリシタンを研究し続けてきた中で、同じようなケースに出会ったこともありました。
2015.02.24
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【日本はどこに向かっているのか】 一昨日の朝刊には、霞ヶ浦南部と千葉県北部の湖沼群周辺の土に、どれくらいの濃度の放射性セシウムが含まれているかが記されていました。新聞社が独自に調査したそうです。そして、湖沼群に流れ込んでいる川の土も測定していました。中には、かなり高い数値が出ているところがあります。そして、あの一帯で穫れた白魚のことがテレビで流れていたのですが、レポーターの方々が「おどり食い」しているシーンもありました。網にかかってすぐの白魚ですから、測定しているわけではありません。 東京の方々は、放射線のことをあまり気になさっていらっしゃらないようです。しかし、怖いのは子供や若い方々です。体の中に入ったセシウムは、簡単には排泄されません。そして、局所的にそれが集まるところがあるようです。4年前の原発事故直後に、「放射線は浴びれば浴びるほど健康にいい」ということをおっしゃっていた方がいましたが、ラジウムに関してはそれが言えるとお考えの方のようです。 小生はそのラジウムに関するデータをネット上で探したのですが、小生が知りたいデータを見付けることが出来ませんでした。ただ、セシウムが核分裂を起こすときに発生するγ線は、明らかに健康被害を起こします。ですから、浴びなければ浴びないだけ、健康被害のリスクを減らすことが出来ます。 この写真は、南房総市で撮った写真です。用事があって出掛けたところに近くにあるお寺の境内にありました。そして、ここにも首無し地蔵が残っていました。房総半島にもキリシタンが広がっていたことは、会津のキリシタンを研究し始める前に聞いていました。日蓮宗の不受不施派が隠れていた一帯にいたとのことでした。
2015.02.23
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【近代市民社会とは何か】 昨日の朝刊を見て、唖然としました。「『文官統制』廃止へ法案」という見出しが目に飛び込んできたからです。それで、昨日はこの一面を何回も読み返しました。しかし、見出しは狐に抓まれたわけではありませんでした。そして、テレビである方が、「周辺有事」という言葉を「誤解を招く」という理由で排除するということをおっしゃっていました。 『花子とアン』にも東京大空襲のシーンがありました。昨日の『マッサン』ではエリーが証拠を提示されることなく検挙されそうになりました。そして、小生が子供の頃には「省線」に大勢の進駐軍の兵士が乗っているのを何回も見たことがあります。その所為なのか、怖い夢を何回も見たことがあります。進駐軍の兵士が怖くて、『三丁目の夕陽』に出てくるような住宅街を逃げるのですが、どこへ逃げても進駐軍の兵士が出てきます。 この写真は2011年1月27日、長野県の南部で撮った写真です。東京大空襲の時に、米空軍がこの富士山を目指して飛んできて、手前で方向を変えて東京上空へ飛来しました。そして、東京の住宅街に焼夷弾(燃料気化爆弾)をばらまきました。しかし、完璧にジュネーブ条約違反なのですが、極東軍事「裁判」では、それはまったく問題にされませんでした。しかし、小生の姉は東京大空襲の時に、防空壕に出たり入ったりしていた亡母のお腹の中で死んだと、親父や亡母から聞かされていました。 ある時に、非常にラディカルな方にそのお話したら、「日本は侵略戦争をしたから仕方がないんです」と言われて愕然としました。小生の親父は満州の部隊にいたのですが、病気で本国送還になっていたので、東京大空襲の時には、豊橋の陸軍病院を出て都内に住んでいました。ですから、小生が子供の頃は、そこが本籍地になっていました。戸籍抄本や戸籍謄本を取るのに不便なので、阿佐ヶ谷に本籍を移したのは、小学校に入ってからだったと記憶しています。『文官統制』は一般的には「シビリアン・コントロール」と言われます。軍が暴走することを防ぐために考え出された近代国家の制度です。これを取り外したら、悲惨な出来事がいとも簡単に起こってしまうだろうと思えてなりません。
2015.02.23
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【江戸の「切支丹屋敷」】 現在の文京区小日向に、幕府の初代大目付兼宗門改役であった井上筑後守政重の下屋敷があり、その屋敷が「切支丹屋敷」と呼ばれていました。現在はその一画は住宅地になっていますが、この案内柱が建てられています。この「切支丹屋敷」はまだ転んでいない切支丹が集められて、拷問を受けて転ばされたり、拷問の故に数多くの「切支丹」が死んだとされています。 しかし、小生にはどうしても納得がいかないので、この「切支丹屋敷」跡を訪ねてみたことがあります。納得がいかないのは、あの井上筑後守政重に関することが『会津藩家世実紀』に編纂者の註があって、かつては蒲生家の家臣であると保科正之公に書状が届いたことが記されています。そして、会津藩で宗門改役を決めるのに、ある人物を推挙しているのですが、その人物も蒲生氏郷の家臣だったから仕事がし易いという理由でした。 そして、保科正之公が会津藩主になられた時に、加藤明成の時代に捕らえられたキリシタンが牢にいたのですが、井上政重から江戸送りにするようにとの連絡があり、江戸お送りにしました。その時の記録が『会津藩家世実紀』二の凝っているのですが、江戸に向かう途中で何人かが逃亡していると記されているにもかかわらず、逃亡したキリシタンを追跡していないのです。 『会津藩家世実紀』にあるその部分を読んで、何かがおかしいと思いはじめたのですが、そもそも、井上政重の素性がはっきりしないのです。一般的には幕閣の井上家の四男とされているのですが、だとしたら何故、彼は自分は蒲生家の家臣だったと保科正之公に連絡してきたのか。そして、もっと奇妙なのは、かなりの人数が江戸お送りになっているのですが、ほとんどのキリシタンが会津へ帰ってきています。
2015.02.22
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【都心のお寺にあった不思議な墓石石仏】 これは前述までのお寺とそれほど離れていないお寺の境内の草むらの中にあった墓石石仏です。上の墓石に彫られている戒名は「一」で始まっています。下の墓石に彫られている文字に不思議なものはありませんが、舟形光背の左側に「寛文十」と彫られています。会津藩主保科肥後守正之公がまだご健在の時です。保科正之公がお亡くなりになられたのは、寛文十二年十二月十八日、西暦1673年2月4日です。寛文九年には、会津藩では家老がキリシタンであるが故に帰農しています。このことに関しては『新編会津風土記』に載っていますが、帰農の理由に関しては『新編会津風土記』は沈黙しています。 小生は上の写真の墓石石仏だけでなく、下の墓石石仏も気になって仕方がありません。それは、このお寺も曹洞宗のお寺だからです。寛文十年には既に、こうしたことが曹洞宗のお寺でも行われていたことになります。こうしたコトに出会ってきたので、宗門人別制度はキリシタンの取り締まりのために作られた制度ではなく、仏教の解体と再編が目的であったのではないかと考えざるを得ないのです。 幕府から宗門人別制度の施行命令が出されたのは、17世紀前半です。そして、寛文十年(1670)にはこうした観音菩薩が彫られた墓石石仏が曹洞宗のお寺に建てられています。その一方で、江戸城からそれほど離れていないところに、織部灯籠が残っています。同じようなことは、会津でも考えさせられ続けてきました。 会津のキリシタンを研究し始めた頃、国土地理院の地形図にある<卍>の印に、宗旨によって異なる色を付けました。会津盆地の北部がその典型なのですが、隣同士の村々に同じ宗旨のお寺があるところはほとんどありません。宗門人別制度では、檀那寺を一般民衆が選ぶことは出来ませんでした。すべて、藩や幕府が決めました。そして、仏教寺院が布教して檀家を増やすことは、厳しく取り締まられていました。
2015.02.22
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【都心のお寺にあった不思議な墓石石仏】 この2基の石仏墓石は、前述の織部灯籠があるお寺から少し離れたところにあるお寺の、墓地の入口に建てられていました。上の石仏墓石の最上部に「歸元」と彫られています。そして、左側の戒名の下に「霊」と彫られています。下の墓石石仏の舟形光背の右側に戒名が彫られているのですが、「大姉」という位号の下に「淑位」と彫られています。 そしてどちらも、真ん中に観音菩薩像が彫られています。この2基の墓石石仏に出会った時に、観音菩薩が彫られていることが非常に気になりました。このお寺は曹洞宗のお寺だからです。上の墓石石仏には「宝永七庚寅」と彫られていますが、1709年です。この頃には「歸元」と彫られることが既に行われていたことになりますし、曹洞宗のお寺の墓地に観音菩薩が彫られた石仏墓石が建てられているということになります。 そしてここは、前述のお寺よりは江戸城に近いところです。そして、施主の氏名が彫られているので、武家の女性の墓石石仏であろうと思われます。圭室文雄氏によれば、享保九年(1724)に幕府から配付された「類族早見表」で女性が転切支丹類族である時、夫が転切支丹類族ではないのは、切支丹本人もしくは本人同前の姪に当たる女性だけです。しかも、この「類族早見表」が出されることによって、転切支丹類族の人数が増えたとされますから、この女性の夫は転切支丹類族にはなっていない可能性があります。 そこで大きな疑問が起こります。それは、この女性の夫が「歸元」の意味を知っていたかどうか。そして、これだけの墓石石仏を建てることが出来た武士が、この墓地へ妻の供養のために訪れることがあったかどうか。そして、この家が幕府の家臣の家だったかどうか。このお寺が建てられているところは、現在は商業地帯の裏になりますが、18世紀初頭には田園地帯であったと、当該特別区が建てた案内板に記されています。
2015.02.22
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【都心のお寺にあった織部灯籠】 これは以前にもここでご紹介したことのある織部灯籠です。火袋の部分は別の石灯籠のものかもしれません。ご住職にお伺いしたら、どこからかここに運ばれたもので、いつ頃のことかは判らないとのことでした。それにしても、こうしたものが都心に残っているとは思っていなかったので、非常に驚きました。そして、境内にある墓石をじっくり見てきたのですが、転切支丹類族墓石がいくつもありました。 ここは江戸時代中期までは農村地帯です。武家屋敷が広がったのは江戸時代中期以降のことです。そしてその武家屋敷の多くは将軍家の家臣団でした。そして、下の写真に写っている墓石には「帰元」と上部に彫られています。この近くの屋敷に転切支丹類族がいたのであろうと考えられます。都心と言っても、山手線の内側ですが、このお寺からそう離れていないところにあるお寺にも、転切支丹類族墓石が残っていました。 勿論、現在は東京都23区内ですが、小生がまだ小さかった頃、阿佐ヶ谷の実家でニワトリがイタチに食べられたことがありました。近所には養鶏農家や野菜を栽培している家がありました。現在はその跡形もありませんが、中央線の中野から西側に家が建ち始めたのは関東大震災の後ですし、現在の環状7号線から少し西側までは、東京大空襲で焼けました。「少し西側」からもっと西側は、まだ家がそれ程建てられていなかったので、延焼を免れたと高円寺のお店の方にお伺いしたことがあります。 ですから、練馬・杉並・世田谷から西側は、小生が小さかった頃は畑が沢山ありました。三鷹駅を過ぎると左側に国鉄の車庫があったのですが、右側には畑が広がっていました。正に、武蔵野台地の田園地帯でしたが、この武蔵野台地の田園地帯にあるお寺にも転切支丹類族墓石が残っていることを確認しています。保科正之公の生母・お静の方の実家があった竹村は、現在の東京メトロ有楽町線の小竹向原辺りであるとされています。
2015.02.21
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【武蔵国秩父の曹洞宗金昌寺】 これは裏山の高いところに上がっていく路の脇にあった石像です。袖の下に「十」が彫られているのが気になったので、彫られている文字を確認したら「爲先祖菩提」と彫られていて、右側には「越前様奥女中」と彫られていました。この石像が彫られた年号が判らないので、この「越前様」が誰であるかは解りません。しかし、越前は当然「越前守」であろうと思われますから、それなりに身分の高い武士であったと思われます。 そうした身分の高い武士の奥女中が、この「オビンズルサマ」のような石像をここに奉納したのであろうと思われますが、宗門人別制度下ではこうしたことは禁止されていました。自分の家の檀那寺以外と関わりを持つことは出来ません。にもかかわらず、こうした石像が武蔵国秩父に残っているのです。 こうしたことを奥女中がしたことを、越前守は知っていたのでしょうか。幕府に関しては、非常に不思議なモノやコトが残っているのに出会ってきました。あの絵島事件などはその典型です。あの絵島事件にも日本橋などの大店の主人が連座しています。そして、絵島を高遠に遠流にしたのですが、一体何故、高遠に遠流にしたのか、史料は沈黙しています。 こうした不思議なことで、会津史に関係があると思われる事案を時系列で並べていくと、非常に興味深いことが見えてきます。それだけではありません。幸松を伊那高遠の保科家に養子に出した幕閣は、何を考えてそれをしたのでしょうか。見性院が間に入っているのですが、あの穴山家の墓にはかなり立派な十字墓がありますし、宝篋印塔も建てられています。
2015.02.21
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【武蔵国秩父の曹洞宗金昌寺】 上の石碑には「龜甲地蔵尊堂宇再建碑」と彫られていますが、右側に「明治三十六年九月?日」と彫られていて、左側には「東京市日本橋」と彫られています。下の石碑には「爲先祖代々一切精霊」と彫られていて、右側には「江戸赤坂里?谷」と彫られています。この下の石碑は「江戸」と彫られていますから、江戸時代に建てられた先祖墓石であろうと思われます。そして、左側には武家らしき姓名が彫られた下に「母」と彫られていますから、武士の母親が建てたものであることが判ります。 宗門人別制度下では、自分の家の檀那寺以外のお寺と関係を持つことは禁止されていました。また、享保十四年(1729)には、檀那寺から離れることも禁止されました。おそらく、檀那寺を離れる家が増えたのであろうと思われます。現在の信教の自由から考えると、実におかしな規制なのですが、小生が知る限りでは、檀那寺を離れる家が増えたことによって、末端の寺々の檀家が減ったことに関して、本山が幕府に苦情を言上したのであろうと考えられているようです。 宗門人別制度が仏教を国教化したことでないことは、既に何回も記してきました。そして、檀家からキリシタンが発覚した時、そのお寺のご住職の最高刑は梟首でした。そして、宗門人別帳は御本尊よりも大切なもので、火事になった時には、宗門人別帳をまず持ち出していたとされています。 「東京市日本橋」の住人が何故、金昌寺にある「龜甲地蔵尊堂宇」を再建したのでしょうか。また「江戸赤坂里?谷」の住人が何故、秩父にあるお寺に先祖のための供養碑を建てたのでしょうか。そして、幕府はこうしたことが行われていることに何故、気が付かなかったのでしょうか。
2015.02.21
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【武蔵国秩父の曹洞宗金昌寺】 前述の曹洞宗金昌寺の裏山の一画に、多数の首無し地蔵が並べられているところがありました。勿論、この写真に写っていない首無し地蔵もあります。キリシタンに関心のある方で、秩父からそれほど離れていないところにお住まいの方は、是非一度、ここを訪ねてみて下さい。不思議なものは、これら以外にもありますし、この金昌寺に奉納された石仏に彫られた奉納者の住所と名前を見ていたので、会津以外のところで出会ったモノを理解することが出来ましたし、絵島事件の真相を考える時にも役に立ちました。 幕府はキリシタンを徹底的に弾圧したように、中学や高校の歴史の授業で教え込まれますが、しかし、その一方で隠れていたキリシタンが江戸にいたことも、残されているモノからはっきりしています。また、あるところには大奥の女性のために建てられた宝篋印塔が多数残っているのですが、それを確認出来た時にも、歴史教科書の不思議さを感じざるを得ませんでした。 そして、絵島の墓石に彫られた文字列を『高遠のあゆみ』という写真集で確認出来た時、それまでに奇妙に思えていたことが奇妙ではなくなりました。因みに、最近の教科書でも、江戸時代の宗教に関する記述は小生が使っていた歴史教科書と大差ありませんし、重要な部分に問題がある教科書さえあります。歴史を知るということは、過去の出来事を理解するだけでなく、歴史は時の流れですから、その流れがどのようになっていたのかを考えることなく通り過ぎることは出来ません。 キリシタン史の場合、現代の社会的秩序からすると、非常に問題のある誤解が蔓延していることも事実です。会津へキリシタンの研究のためにいらっしゃった方々の中には、そうした誤解の故に口から出てくる言葉を耳にされた方も多いだろうと思います。特に会津のキリシタンは、保科正之公の生母・お静の方の実家がキリシタンなのですから(『会津藩家世実紀』)、会津のキリシタン史はそこから考えざるを得ません。
2015.02.21
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【武蔵国秩父の曹洞宗金昌寺】 これは秩父三十四観音の八番札所である曹洞宗金昌寺の本堂である観音堂の縁に置かれている「子安観音」石像と「奪衣婆」石像です。曹洞宗のお寺の本堂が観音堂であるということは、信じがたいことでした。しかし、本堂の縁にこの2体の石像が祀られていることで、信じがたいことが解決しました。 この金昌寺には、その観音堂と墓地だけしか残っていませんが、裏山の斜面に多数の石像や石仏などがあります。2007年5月4日に、ある方にここを案内していただきました。そして、多数の首無し地蔵にも出会いました。但し、初めから金昌寺にあったものではなく、近隣の村々から近年になって運ばれてきたものであろうと思われます。 会津の秩父一帯には、気になるところがあるので、日が長くなったら気になっている場所を訪ねてみたいと思っています。おそらく、キリシタンの痕跡が残っているだろうと思います。それも、古いものではなく、江戸時代後期になった彫られたものです。天領や幕閣の領地では、キリシタンの取り締まりは緩やかであったと言われていますが、それを示すようなモノが残っている可能性が高いと思っています。 何しろ、江戸城からそれほど離れていないところにもキリシタンがいたくらいです。そして、房総半島の南部にもキリシタンの痕跡が残っています。あれには驚きました。日蓮宗不受不施派が隠れていた一帯です。あの時に出会った「子安観音」石像や首無し地蔵などをここでご紹介したことがあります。
2015.02.21
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【関東平野の首無し地蔵】 前述までの墓地にあった首無し地蔵です。一度落とされた首が、モルタルで接着されています。一般にこうした首無し地蔵は、明治初期の「廃仏毀釈」運動によって破壊されたものだとされていますが、これは慶応四年(1868)に「神仏分離令が明治「政府」から出されたたことによって、神社と仏教寺院との間に争いが起き、寺院や仏具や経文などの破壊運動が起こったことを指すために作られたこの「廃仏毀釈」(意味は仏教を廃し、釈尊を毀すことです)という熟語が作られました。 実際に「廃仏毀釈」という名前が広範囲に使われていたかどうかは、判りません。ただ、中学や高校の教科書では、「神仏分離」「廃仏毀釈」という用語が用いられてきたことは事実です。慶応四年以降ですから、明治「維新」になってすぐからということになります。そして、「廃仏毀釈」運動が起こったのは、東京周辺と言われていたことがあったようですが、しかし、首無し地蔵は関東平野のかなり広範囲に分布しています。 そして、会津の場合、首無し地蔵が残っている墓地には、必ずと言っていいほど転切支丹類族墓石が残っています。このことをどのように説明できるかに関して悩んでいた時期がありましたが、「廃仏毀釈」運動が東北や信州あるいは甲斐に残っていることを考えると、キリシタンとも関係しているように思えます。勿論、明治「政府」が転切支丹類族に付けられた戒名などの特徴を知っていたとは思えません。 「日本人は昔から仏教だった」ということを何回も耳にしましたが、日本人が仏教で葬儀をする(戒名を付けていただき、葬式で読経していただく)ようになったのは、どんなに早くても、寺請証文を持っていることが義務づけられた寛永十五年(1638)以降のことです。この時には既に、保科正之公が会津藩主になっていらっしゃいました。
2015.02.21
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【関東平野の不思議な観音堂】 前回ご紹介したお寺に建てられている観音堂です。千手観音が祀られているのですが、何が不思議かというと、このお寺が曹洞宗のお寺だからです。禅宗のお寺に何故、観音堂が建てられていて、観音菩薩像が祀られているのか。本来は有り得ないことです。ただ、最近は曹洞宗のお寺の境内に観音菩薩像が建てられたケースはありますが、このお堂に祀られている千手観音菩薩像はそれほど新しいものには見えません。 また、日蓮宗のお寺の境内に最近になって観音菩薩石像が建てられたところが旧高遠藩領内にあります。江戸時代には、禅宗・念仏宗・日蓮宗で観音菩薩を祀ることは極めて異例のことでした。通常は考えられないことです。仏教の宗旨はキリスト教の教派と異なって、正典(カノン)が異なります。特に、曹洞宗では正典(カノン)と言える経典があるかどうか、小生には判りません。 だからといって、道元の時代に曹洞宗のお寺で観音菩薩が祀られたとは到底考えられません。道元の教えは、ただただひたすら禅を組むこと(只管打坐)でした。ただ、日本の学校教育では、仏教史をきちんと扱われていませんでしたから、こうしたことは一般的には知られていません。 この観音堂、一体何故、ここに建てられているのでしょうか。残念なことに、この時、お寺のご住職はお留守でした。ただ一つ言えることは、室町時代末期のこのお城の城主はキリシタンだったということだけです。
2015.02.20
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【関東平野の不思議な観音堂】 前回ご紹介したお寺に建てられている観音堂です。千手観音が祀られているのですが、何が不思議かというと、このお寺が曹洞宗のお寺だからです。禅宗のお寺に何故、観音堂が建てられていて、観音菩薩像が祀られているのか。本来は有り得ないことです。ただ、最近は曹洞宗のお寺の境内に観音菩薩像が建てられたケースはありますが、このお堂に祀られている千手観音菩薩像はそれほど新しいものには見えません。 また、日蓮宗のお寺の境内に最近になって観音菩薩石像が建てられたところが旧高遠藩領内にあります。江戸時代には、禅宗・念仏宗・日蓮宗で観音菩薩を祀ることは極めて異例のことでした。通常は考えられないことです。仏教の宗旨はキリスト教の教派と異なって、正典(カノン)が異なります。特に、曹洞宗では正典(カノン)と言える経典があるかどうか、小生には判りません。 だからといって、道元の時代に曹洞宗のお寺で観音菩薩が祀られたとは到底考えられません。道元の教えは、ただただひたすら禅を組むこと(只管打坐)でした。ただ、日本の学校教育では、仏教史をきちんと扱われていませんでしたから、こうしたことは一般的には知られていません。 この観音堂、一体何故、ここに建てられているのでしょうか。残念なことに、この時、お寺のご住職はお留守でした。ただ一つ言えることは、室町時代末期のこのお城の城主はキリシタンだったということだけです。
2015.02.20
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【関東平野の転切支丹類族墓石と五輪塔】 前回ご紹介した宝篋印塔が残っている墓地にあった転切支丹類族墓石と五輪塔です。残されている部品から考えると、少なくとも5基の五輪塔があったのであろうと思われます。また、「霊位」と彫られている墓石も、「皈眞」「逆修」と彫られている墓石も転切支丹類族の墓石です。 ここはとある大きな町の城跡に建てられたお寺の墓地ですが、山門のすぐ手前にも不思議な石造物が残っています。以前はお寺の境内にあったもので、近年になって寺のものではないという理由で山門のすぐ手前に並べられたのであろうと思われます。 そしてこうしたモノに関して記されている史料はほとんどありませんし、文献もほとんどありません。ただ、司東真雄師の著作には、「切支丹の墓石」として数多くの墓石に彫られた文字列や○が彫られている墓石に関して記されています。ただ、司東真雄師のその著作は、新本は手に入りません。しかし、古書サイトで探せば、見付けることが出来ます。 関心のある方は是非手に入れてお読み下さい。非常に興味深い文献です。司東真雄師は僧侶ですが、大学で教鞭を執られていたことのある方です。おそらく、様々なお寺に残っている記録を解析されたのであろうと思われます。
2015.02.20
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【関東平野の宝篋印塔】 2012年2月6日、以前から気になっていたところを確かめるために、東京分室から会津へ戻る途中で、あるところを訪ねました。そして、気になっていたところにお寺があったので、その墓地を巡っていたらこの2基の宝篋印塔が建てられていました。 それで、転切支丹類族墓石が残っているはずだと墓地を丹念に巡ったら、数多くの転切支丹類族墓石が集められているところがあり、「やはりそういうことか」と思わされました。それらの転切支丹類族墓石の一部はここでもご紹介したことがあります。 この頃には既に、史料などから気になっているところを訪ねると、必ず転切支丹類族墓石が残っているようになりましたし、このお寺は曹洞宗のお寺なのですが、何故か境内に観音堂が建てられていて、千手観音が祀られています。この観音堂に祀られている千手観音も、入口の隙間からその一部を写真に撮ることが出来ました。 非常に興味深いことですが、会津のキリシタン史に出てくるとある人物は、この一帯から会津へ移住してきた人物です。そして、その子孫は幕末になってあるところに帰農しています。そのことを知ったのは2003年のことでした。その村の墓地を、村の方の許可を頂戴して巡ったのですが、「保元元丙子年」と彫られている墓石が残っていました。
2015.02.20
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【伊那高遠の双体道祖神】 これは伊那高遠のとある村の入口に「庚申」碑や「甲子」碑などと一緒に並べられていた双体道祖神です。前回、ここでご紹介した双体道祖神とはかなり異なっています。男女に見えるのですが、手を繋いでいるわけでも、肩を組んでいるわけでもありません。そして、ここで何回か記しましたが、この男女は明らかに着衣が旅装束です。 この村を通っている路は、ここから奥には保科正之公が高遠藩主だった時代には村がありませんでした。そして、旅人が通ったとすれば、甲斐に抜けるために通ったとしか思えませんが、その一帯にもキリシタンの痕跡が残っています。甲斐南部以外は一通り巡ってみましたが、かなり広範囲に十字墓や転切支丹類族墓石、あるいは六地蔵が残っています。 一度林道を通ってみたかったのですが、普通乗用車では怖いので諦めました。林道脇に何か残っているかもしれません。そして、伊那高遠と同じようにキリシタンの拠点だったと考えられるところが、甲斐にもあります。雪が降ることは有り得ないという季節になったら、奥多摩から甲斐へ行ってみたいと思っています。甲府市の北方にキリシタンの痕跡が残っていたら、小生の仮説は間違いないと思える仮説があります。 前述したことを補完しますが、徳川秀忠は妻であるお江が気が強かったので側室を持てなかったとされていますが、江戸時代の武家のイエでそうしたことが有り得たかどうか。徳川秀忠は将軍です。
2015.02.19
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【信濃の双体道祖神】 上段の双体道祖神は安曇野の道路脇に建てられていた双体道祖神ですが、中段と下段の双体道祖神は旧高遠藩領内で出会った双体道祖神です。どれも仲睦まじくしている男女の像が彫られているのですが、何故これが道祖神であると断定出来るのでしょうか。 村の入口に建てられていたからなのでしょうか。それにしても、実に不思議な像です。江戸時代の男女は結婚しても平等ではありませんでした。武家では、女性には姓が判らないことがあります。「嫁」は女偏に家と書きますが、日本のイエ制度では、女性は結婚してもその家に入ることは出来ませんでした。「○○女」と書かれている史料が多いです。 また、結婚しても平等ではありませんでした。その典型は、嫁が嫁ぎ先に到着して履き物を脱ぐと、その履き物を屋根の上に投げ上げるという習慣が残っていたところもあります。「家から出さない」ということなのでしょうが、男子が生まれなければ、家を出されてしまうことは少なくありませんでした。そして、食事の時は、主人と男子が食事をするところよりも一段低いところで食事をさせられました。これは、明治以降も地方では残っていましたし、都会地でも残っていたかもしれません。 憲法第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。[1] 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 民法第750条 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。 民法第733条 女は、前婚の解消又は取消しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚をすることができない。 女が前婚の解消又は取消の前から懐胎していた場合には、その出産の日から、前項の規定を適用しない。憲法第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。[1] 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 やっと、最高裁が真剣に考えてくれるようになりました。小生が、「明治『維新』はクーデターでしかない」というのは、古いイエ制度の名残が現代にも歴然と残っているからです。
2015.02.19
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【伊那高遠のとある村の薬師堂に建てられている「庚申」碑】 前回ご紹介した薬師堂とはまた別の村の小高いところに建てられている薬師堂に建てられている「庚申」碑です。どれも庚申の年に建てられています。『高遠町誌』などによれば、庚申の年には旧高遠藩領内の村々に「庚申」碑を建てる習慣が残っていて、この一番上の「庚申」碑には「昭和五十五」年と彫られています。しかし、こうした「庚申」碑を建てる習慣に、本来の庚申のマツリが伴っていたとはどこにも記されていません。 そもそも、庚申のマツリは庚申の日の宗教的習慣であって、庚申の年とは何の関係もありません。また、本来の庚申のマツリは、平安時代に中国から伝わった道教の習慣です。神道でも仏教でもありません。そして、旧高遠藩領内には、庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣だけでなく、甲子の年に「甲子」碑を建てる習慣が残っていて、「庚申」碑ほどは多くないですが、「甲子」碑も残っていますが、「甲子待(きのえねまち)」という大黒天のマツリが、旧高遠藩領内にあったということも読んだことはありません。 旧高遠町が発刊した『写真集 高遠の歩み』という写真集がありますが、是非、じっくりと閲覧してみて下さい。庚申碑が建てられる時には、盛大な祭りが行われていたことが判ります。また、キリシタンの研究にとっても、この写真集は貴重な参考資料になっています。 小生は、恩師のお一人の影響で、学生時代から民俗学に関心を持っていました。それで、最近では歴史の解明には、民俗学や考古学的研究が不可欠だと思っています。そして、史料(文字で書かれた文書)からだけでは、真実の歴史は見えてこないという恩師の教えを、会津のキリシタンの研究をしはじめて痛感しています。
2015.02.19
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【伊那高遠の薬師堂】 これは伊那高遠のとある村に建てられている薬師堂です。あるところにこの薬師堂に関することが記されていたので、一昨年の2月12日に訪ねてみました。中を見てみたかったのですが、鍵がかかっていて入ることは出来ませんでした。それで、村の方にお話をお伺いしたら、現在は村の集会所として使われているとのことでした。ただ、この村の檀那寺は曹洞宗のお寺なので、不思議さを消すことは出来ませんでした。 そして境内を歩いてみたら、庚申の年に建てられた「庚申」碑が多数残っていました。それを見て、伊那高遠の同じように薬師堂に庚申の年に建てられた「庚申」碑が数多く残っている薬師堂がある村を思い出しました。高遠城趾からそれほど離れていないところにある村です。 こうした不思議な薬師堂に祀られている薬師如来像は、本当に薬師如来を彫った像なのでしょうか。薬壺を捧持しているからといって、薬師如来像であるとすることは極めて危険だと思います。会津のとある村のお寺の境内に「子安観音」石仏が祀られているのですが、そのお寺も曹洞宗のお寺です。そして、村から少し離れたところに大きな薬師堂が建てられています。 曹洞宗のお寺が薬師堂が建てられるはずはありませんから、薬師堂が既に建てられていた村に、お寺が建てられたとしか考えられません。何回も書きましたが、「同じ仏教だから」とは考えられません。仏教の宗旨の相異は、キリスト教の教派の相異以上に大きいです。
2015.02.19
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【会津の山の奥の村に建てられている薬師堂】 前述までの宝篋印塔が建てられている墓地がある村から、その沢を遡行していくと、一番奥の村に薬師堂がありました。上の写真はその薬師堂の手前に建てられているお籠もり堂と思われる建物を撮った写真ですが、左奥に薬師堂が写っています。そして下の写真はお籠もり堂を抜けたところから撮った薬師堂の写真です。 ただ、『新編会津風土記』にはこの村に十王堂があると記されているのですが、この薬師堂の中には十王像はありませんでした。それで、畑にいらっしゃった村の方にお伺いしたのですが、十王堂のことはご存じありませんでした。 『新編会津風土記』にこの一帯の村のことが記されているのですから、保科松平会津藩はこの村のことを知っていたことは間違いありません。しかし、『文禄三年蒲生家高目録』には『新編会津風土記』のこの村の村名と同じ村名の村を見付けることが出来ません。 ここで気になるのは、『新編会津風土記』は幕府に献上するために編纂された風土記だということです。ですから、これだけキリシタンの痕跡が残っているにもかかわらず、キリシタンに関することはほとんど記されていません。小生は、『新編会津風土記』をデータベース化しはじめた頃から、そのことを念頭に置いていました。
2015.02.19
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【会津の宝篋印塔】 前回の石灯籠型六地蔵があるところから、少し離れたところに沢があって、その沢沿いに村々が点在しているのですが、そのお腹の一つの村の墓地にあった宝篋印塔です。古い形式を保っています。そして、古い墓石の多くは板碑型でした。 この沢沿いの村々にはほとんど平坦なところはありません。山の斜面や道路脇の平らな部分に田圃や畑があるだけです。そして村々に残っているモノやコトを考えると、木地師の村であったのかもしれないと思っています。そして、伊那高遠を巡り続けてきて、保科正之公と共に伊那谷の木地師も山形最上経由で会津に入って来ていることは間違いなさそうです。 そうした家々の中には修験道を継承していた家々もあったと、『新編会津風土記』などをデータベース化していて考えさせられています。また旧高遠藩領内には密教だったお寺が、小生が知っているだけでも2ヶ寺あります。密教寺院には檀家がありませんから、近隣の村々の有志がお寺を支えていたり、とある市町村では、村全体でそのお寺を支えています。 こうしたことを確定するために、日が長くなったらもう一度旧高遠藩領内を巡ってみたいと思っています。そして気になっている村々の中には、高遠城趾からそれほど離れていない村もありますし、どうしても訪ねてみたい神社が残っています。
2015.02.18
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【会津の石灯籠型六地蔵】 左上の石灯籠型六地蔵に最初に出会ったのは1998年でした。村の入口にある橋を渡ったところにありましたが、しばらく前から見えなくなっていたので、そこを通る時に気を付けていたら、橋の手前に移設されていました。おそらく、道路拡張で橋が架けなおされた時に移設されたのであろうと思われます。 横には「庚申供養塔」と彫られた石塔や、観音菩薩が彫られて石仏なども並べられていました。ここは、前述の宝篋印塔がある村から少し離れた村ですが、蒲生氏郷が会津の領主だった時代には会津だった村です。それに気が付いていたので、1998年にこの辺りを少し巡っていたのですが、その時には訪ねなかった一帯を2013年6月25日に訪ねました。 その一帯の村々の墓地にも宝篋印塔が建てられていました。どれも古い形式を残している宝篋印塔です。しかし、それらの宝篋印塔が建てられたのは、保科正之公が会津藩主になられてからであろうと思われます。とある村の方とお話しすることが出来たのですが、その時にそれを考えさせられました。 旧高遠藩領内から保科正之公と共に山形最上経由で会津に入って来た家々は、会津のかなり広範囲に帰農しています。そして、そうした村々にはキリシタンの痕跡が必ず残っていたり、不思議な習慣が残っていたりします。また、お堂の手前にお籠もり堂が建てられていたりします。旧高遠藩領内には大きなお籠もり堂が建てられていた、密教のお寺が現在も残っています。
2015.02.18
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【会津の宝篋印塔】 これは去年の4月に撮った写真です。今までにもここでご紹介したことがあります。どちらも高さは120センチメートル弱です。そして、当該市町村が建てた案内板には、次のように記されています。 「この宝篋印塔は、その形態より見て、安土桃山時代の作と推定され、本県内にも数少ないものである。 土地の伝説によれば○○という地名の起源となった○○姫の供養塔にて、近傍の墓地には、その墓とされる五輪塔も現存する。 ○○姫の由来は一切不明であるが、これ丈の供養塔が建立されていることは由緒ある武士の一族であることが考えられる。」 ここは、現在は福島県ではありません。しかし、蒲生氏郷の時代からは間違いなく会津でした。『文禄三年蒲生家高目録』にも村名が出てきています。それが気になっていたので、この村の一帯を訪ねたことがあるのですが、ある沢沿いの村々の墓地には、宝篋印塔が多数残っていました。それらの宝篋印塔はここでご紹介したことがあります。 「これ丈の供養塔が建立されていることは由緒ある武士の一族であることが考えられる。」と記されていますが、おそらく、蒲生軍団の精鋭集団の武士とその妻の墓として建てられたのであろうと思われます。この村は街道の要衝になっていたと考えられます。会津には、同じような地理的情況にある村がありますが、そこも街道の要衝でした。『新編会津風土記』にはそうしたことは記されていませんが、幕府に献上する風土記にそうしたことを書くとは思えません。
2015.02.18
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【日本の平和】 昨日の朝刊の1面に、ホルムズ海峡に機雷が敷設された時に、それを取り除くことは「専守防衛」の範囲かどうかが取り上げられていました。そして、ホルムズ海峡に機雷が敷設された場合、そこで自衛隊が掃海することは可能かどうかが論じられていました。 多くの方はご存じないだろうと思い、少しでも実態を知っていただきたいので少し書くことにしました。ペルシャ湾岸には対鑑ミサイル基地があって、24時間、海峡を通行する船舶を監視し、いつでも発射出来るようになっていましたし、船舶を追尾するようにミサイルの発射台が左右に動いていました。おそらく、現在も同じことが行われていると思います。そして、日本のタンカーのデッキから双眼鏡(但し大きな)でそれを確認出来たとも聞いています。 しかし、日本の大きなタンカーを攻撃して沈められると、海峡での船舶の通行が難しくなります。大きなタンカーは8階建てのビル程度の高さがあります。海に浮かんでいる写真では、喫水から下は写りませんからその高さはなかなか理解出来ません。日本の造船技術が途轍もなく進化したので、そこまで大きなタンカーを造船することが出来るようになりました。 機雷が敷設されても同じです。誰かが行って、その機雷を撤去しない限り、タンカーなどの大型船舶だけでなく、1万トンから3万トンクラスの貨物船でも危険です。現在の機雷は、船底に触れて爆発するようには作られていません。磁気を感知すると爆発するようになっています。ですから、自衛隊の掃海艇は木造船です。そして、この木造船を使って機雷を撤去する技術は、日本の自衛隊が世界でトップです。このことはアメリカやヨーロッパの国はよく知っています。 どこかの国が機雷を撤去してくれるのを待って、安全になったら日本のタンカーがホルムズ海峡を通って原油を満タンにしてホルムズ海峡を通って日本に帰ってきて、それを使って発電したり、工場で物を生産して外国に売るというのは、いかがなものでしょうか。これは、インドネシアとシンガポールの間にある海峡でも同じです。海峡がそれほど深くないので、大きなタンカーはあそこを通ることが出来ません。一般的には、インドネシアの東部にある海峡を通って太平洋に出ています。 政府に求めるべきは、世界中で戦争が起きないように、真実の意味での平和のための政策を考えることだと思っています。原発をどんどん再稼働させて、原爆の材料を増やして、何をするつもりなのでしょうか。
2015.02.18
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【甲斐の不思議なお寺の六地蔵】 前回ご紹介した観音堂の境内にあった六地蔵です。臨済宗のお寺に六地蔵があっても不思議ではないのですが、何故、観音堂の境内にこれが建てられているのかが気になります。そもそも、臨済宗のお寺に観音堂が建てられていること自体、本来であれば考えられないことです。これに関しては、とある曹洞宗のお寺のご住職が微笑みながら、「ないない」と手を横に振っていらっしゃいました。 曹洞宗は「只管打坐」といって、ただひたすら禅を組んで悟りを得ることを目指すのですが、臨済宗は公案という課題を修行者に与えて、座禅してそれを考える「看話禅」をします。ですから、観音菩薩を祀ってそれを拝むということは、臨済宗にあっても考えられません。 こうした公案の中に、中国で書かれた『無門関』という公案集があるのですが、関心のある方は是非、図書館で探してご一読下さい。小生は、学生時代にある方からお勧めを受けて手に入れました。ただ、いくら読んでも、悟りを得ることが出来ません。この部屋のどこかに積まれているだろうと思います。 そして、甲斐ではキリシタンの痕跡が残っているところには、必ずと言っていいほど六地蔵が祀られています。会津でも、三体ずつ彫られたものが2基、観音堂の境内に祀られているところがあります。甲斐も、実に不思議なところですが、とある有名なお寺の墓地には、武田姓の武将の墓があって、中央に少し大きめの宝篋印塔が2基、その周囲に家臣の墓石として小さめのものが建てられています。
2015.02.17
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【甲斐の不思議なお寺】 ネット上で不思議なお寺があることを知って、2011年11月16日に東京から日帰りで出掛けました。高速道路のトンネルが少し怖かったのですが、時間を考えたら、高速道路を走らないと帰りが遅くなるので、ビクビクしながらトンネルを走ったのを憶えています。 これはそのお寺の裏山の斜面に建てられている観音堂です。かなり大きな観音堂で、境内に建てられている案内板には、「弘化二年(一八四五)着工 訳二十年の歳月を費やして竣工‥‥‥」と書かれていました。お寺は文保二年(一三一八)に元に留学した僧侶が再興したと記されている臨済宗妙心寺派のお寺です。 そして、お寺が建てられている平坦な部分には、伊那高遠の守屋貞治が彫ったとされている百体の観音菩薩石仏が並べられています。現在は無住のお寺で、檀家の村の方々が管理されているそうです。 これだけでも十分に不思議なお寺なのですが、この観音堂が建てられている平坦な部分に、気になるモノがいくつも残っていました。そして、このお寺から高速道路に乗るために下って行く途中で、やはり不思議なモノに出会いました。その中には庚申の年に建てられた「庚申」碑があります。東京に戻ってすぐの頃に、ここで少し詳しくご紹介しています。
2015.02.17
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【越後の不思議な石仏】 前回ご紹介した「延命地蔵尊」と同じ祠に祀られていた石仏です。如意輪観音のような思惟の姿をしていますが、頭部には不思議な被り物が彫られています。また、左手で持っている花は蓮の蕾や花には見えません。 そして、腹部には鞠のようなものが彫られています。「子安観音」なのでしょうか。しかし、このお寺は曹洞宗のお寺です。お寺がこの像を建立したとは思えません。 観音菩薩を祀る可能性があるのは、平安仏教以降は、天台宗・真言宗以外には考えられません。また、これは明らかに石仏です。一般に石を彫ったものは仏像にはなりません。基本は木像ですが、中には塑像のものや鋳造のものもあります。 会津のとある観音堂の本尊は秘仏なのですが、首が落とされた観音菩薩石像であると『新編会津風土記』に記されています。お堂の本尊は石像でもいいのでしょうか。
2015.02.17
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【越後の延命地蔵尊】 新潟県のとあるお寺にあった延命地蔵像が祀られている祠と扁額とその延命地蔵石像ですが、光輪にクリのようなものが彫られています。会津では、「子安地蔵」像にこうした光輪が付けられています。皆さんは、このクリのようなものを何だとお考えになられるでしょうか。 ここでもこうしたクリのようなものが光輪に貼り付けられている「子安地蔵」像を何体かここでご紹介したことがあります。また、ネット上で出会ったお寺には、はっきりとした十字杖を手にしている地蔵菩薩石像の写真があります。観音寺というお寺ですから、検索してみて下さい。 会津にキリシタンが入って来たのも、信濃にキリシタンが入って来たのも、おそらく新潟経由であろうと考えられます。京都から若狭湾に出て、そこから船で海岸沿いを北上すれば新潟に出ます。因みに、佐渡にもキリシタンの痕跡が残っているようです。 この延命地蔵に関しては、『延命地蔵経』という経典があるようですが、日本で作られた偽経のようです。つまり、延命地蔵は日本で考え出された地蔵菩薩の一つであるとも考えられます。そして、会津の「子安地蔵」が祀られているところや、その村の墓地には、はっきりとしたキリシタンの痕跡が残っています。
2015.02.17
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【山形最上の転切支丹類族墓石】 前述した村の墓地にあった転切支丹類族墓石です。どの墓石の上部にも<○>が彫られています。これらの墓石に出会ったのは、前述の観音菩薩石仏に出会った後でした。 この一帯の村々で気が付いたことなのですが、肝煎だったお宅の造りやその敷地の形状を考えると、山形最上の城代だった蒲生四郎兵衛郷安の家臣だった武士集団が帰農して成立した村々かもしれません。これらの墓石がある墓地に、古い形式を残した宝篋印塔が建てられていました。 やはり、事情が許される範囲で、宮城・山形を少し丹念に巡ってみる必要がありそうです。蒲生氏郷が会津の領主だった時に蒲生領だった一帯で中通りはかなり巡ったのですが、山形最上はほとんど訪ねたことがありません。一ヶ所、どうしても気になる一帯があるので、そこを訪ねながら、少し広範囲にあの周辺を巡ってみたいと思っています。 所長はプールへ出掛けましたが、霙っぽい雨が降っているようなので、小生は今日もここに座っていることにします。2011年に越後を訪ねたのですが、あの時に撮った写真をもう一度確認してみたいと思っています。気になるものがあったのですが、じっくり検証することが出来ていません。
2015.02.17
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【地震は大丈夫でしたでしょうか】 1時間ほど前に、岩手県沖で地震が起こりましたが、皆さまの所は大丈夫でしたでしょうか。東京分室では、まったく揺れを感じませんでしたが、東京都内では震度1のところが何ヶ所もありました。それでも、東通り原発・女川原発は無事だとのことで、安心しています。 この写真は山形最上のとある村にある沢をかなり上ったところにある岩窟に祀られている観音菩薩石仏です。以前は、村のご婦人がこの岩窟の下まで上がってきて、観音講を守っていたそうです。それをお伺いしてから、この村にある墓地を巡ってみたのですが、明らかにキリシタンの習慣であろうと考えられます。気になる墓石が何基も残っていました。 この村にはお寺が2ヶ寺あるのですが、両方とも曹洞宗のお寺です。ですから、この石仏をお寺が祀ったとは考えられません。こうしたことは、会津だけではなく、様々なところで見受けられるようです。不思議なことですが、こうした情況が宗門人別制度の実態であったのであろうと思われます。 仏教は各宗旨によって教義が大きく異なります。同じ仏教だから観音菩薩石仏があっても不思議ではないとは言えません。しかし、会津だけでなく、信濃国や武蔵国でもこうしたことを見てきました。曹洞宗だけではありません。同じ禅宗の臨済宗のお寺に、「百観音」が境内に並べられていて、本堂があるところから階段を登ったところに観音堂が建てられている臨済宗のお寺が甲斐国にあります。
2015.02.17
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【会津にある不思議な十字宝冠観音菩薩石仏】 この写真を撮ったのは2010年9月5日でしたが、この石仏に最初に出会ったのは2001年でした。その時には、戒名の「香」が「大日」に見えていたので非常に気になっていたのですが、戒名が「圓心妙香信女」であることに気が付いて、あまり気にならなくなりました。 ただ、「圓」が略字です。そして、宝冠の部分にはっきりとした十字が彫られています。それで、この墓地にある墓石をすべて見てみたのですが、それぞれの墓石に彫られた文字や文字列からすると、この村もキリシタンだったことが判りました。会津では、珍しいことではありません。 そして、この一帯の村々は帰農した武士の村であることも、墓地に残されているものに彫られた文字列から判りました。会津には、室町時代以前の史料がほとんど残っていません。『新編会津風土記』に古い時代の伝承が記されている程度です。 こうして会津一円を巡ってきて気が付かされたのは、会津の人口は蒲生氏郷が会津の領主になってからのことであろうと考えられます。そして、加藤家の家臣団や、保科正之公と共に山形最上経由で高遠から入って来た家々によって、人口がかなり増えたのであろうと考えられます。
2015.02.16
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【会津にある小野小町の墓】 『新編会津風土記』にもその伝承が残っている、会津のとある村の道路脇にある「小野小町」の墓です。「小野小町は都から出羽の国へおもむく途中この村の農家へ泊めてもらいました。農家の主人夫婦は小町をやさしくお世話しました。」と案内板に書かれていますが、これは『新編会津風土記』に記されていることです。そして、その説明の最後で、『新編会津風土記』の編纂者は「それほど古いものにはみえない」と記しています。 小野小町は平安前期の女性です。その頃にこうした宝篋印塔が墓石として建てられたとは思えないので、気になっていたのですが、草むらの中に倒れていたものを集めて組み上げたということを耳にしました。 この宝篋印塔、おそらく2基分の部品を組み合わせたものであろうと思われますし、上部には五輪塔の火輪が載せられています。それで、これがあるところから、村の墓地が見えたので、そこも訪ねたら、古い五輪塔が建てられていました。また、周辺の村々も訪ねたことがあるのですが、お寺には不思議なものが残っていますし、『新編会津風土記』には「このほとりより文字ある石を得ることあり」と記されています。 19世紀初頭にそれほど古いものには見えないとされている宝篋印塔、そして小野小町伝承。非常に興味深く思えます。前回の卵形墓石といい、この小野小町の墓という伝承が19世紀初頭に残っていた宝篋印塔。しかし、これらの不思議さを解いてくれる史料がありません。
2015.02.16
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【会津の十字杖を持った地蔵菩薩石像】 この首無し地蔵に最初に出会ったのは1999年でした。その時はここではなく、草むらの隅にありました。その時には、光線の加減で、錫杖の部分にはっきりとしたラテン十字が見えていました。現在は、前述の村の檀那寺と思われる臨済宗のお寺の墓地に祀られています。 そして、この写真を撮った2010年8月22日には、お寺の境内をゆっくり巡ってきたのですが、最初にここを訪ねたときに出会った不思議なものも残っていました。会津はどこの村を訪ねても不思議なものが残っています。国道沿いに祠が建てられていて、中に不思議な石像が祀られていることもあります。 ですから、そうした会津を巡り続けているうちに、会津藩は宗門人別制度が施行された後でも、キリシタンを弾圧していないと思えるようになりました。そして、そうした会津を知っていたからこそ、伊那高遠を訪ねて、その理由が見えてきました。 不思議に思えていたことが、伊那高遠で解決されましたし、見性院が保科正之公を伊那高遠の保科家に養子に出した理由も見えてきました。そして、それを裏書きするのは、遺されているモノに彫られた文字や、『会津藩家世実紀』に残されている文書でした。
2015.02.16
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【会津の不思議な村名の村の卵形墓石】 前回の墓石がある墓地の入口に建てられている卵形墓石です。「正山智泉禅尼」と戒名が彫られているのですが、右側に「文政三辰天五月四日」と彫られていて、左側には「越後賀茂町宗」と彫られています。 会津には尼寺はありません。少なくとも『新編会津風土記』には尼寺は記されていません。そして、越後賀茂町一帯とこの一帯とは、かなり関係が深かったようです。それを彷彿とさせる不思議な記録が、市町村史にありました。会津のある村には、越後から来た助産師の方が素晴らしいお働きをされていたようで、その研究所他が亡くなられた後、供養にお寺に観音菩薩像が建てられています。 また、前述しましたが、この村にはお寺はありません。不思議な石仏と不動明王石仏が祀られている祠があるだけです。ですから、この墓石がどういう女性のものかが非常に気になっているのですが、この疑問を解決してくれる史料はありません。 実に不思議な卵形墓石です。いつか、何かの史料の片隅に、この不思議さを消してくれる記録があることを期待しています。勿論、江戸時代の女性ですから、檀那寺のお寺のご住職の妻である可能性は皆無です。
2015.02.16
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【会津の不思議な村名の村の墓地】 2006年5月23日、前述までの一帯に不思議な名前の村があるので、そこを訪ねてみました。そして、村から少し離れたところに墓地があるので、その墓地をじっくり歩いてみました。左上の墓石には「禅門」という位号が彫られています。右上の墓石には「天」年号が彫られています。左下の墓石の戒名は「一」で始まっていて、位号が禅尼になっています。そして右下の墓石は、戒名が彫られていた部分が人為的に破壊されています。 この村の名前は、『新編会津風土記』に出てきているのですが、国土地理院の地形図には、まったく別の名前が記されています。その名前は、江戸時代の村の分類に使われていたもので、固有名詞として使うべきものではありません。しかし、国土地理院の地形図に出ているということは、明らかに正式名称として使われていることになります。 そして、これらの墓石に彫られている文字列からすると、この村からそれほど離れていない村にある臨済宗のお寺の檀家になっているのであろうと思われます。また、ここでこれまでご紹介してきたように、これらの墓石も転切支丹類族墓石であることは間違いないと言えます。 明治以降に、この村が村として登録された時に、現在の名前が付けられたのであろうと思われますが、理由は転切支丹類族であったからではないかと、小生は訝しがっています。そして、それが明治・大正・昭和を経て現在も変えられることなく使われているのであろうと思われます。この村と同じ名前の村は会津にはほかにはありません。
2015.02.16
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