2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全3件 (3件中 1-3件目)
1
二月二日の記事の続きそのあと、自分はこの映画を三度、つまり計四度も映画館で見た。同じ映画を四回も映画館で見たのは、自分が記憶する中でいえばキアヌ・リーヴスの「スピード」(当然第一作のほう)以来だ。もっとも、スピードの場合は試写招待券があったりで厳密に言うと四度見たにはあたらないだろう。しかし、自分はこのゴールデンスランバーを全部自腹で四回見たのだ。中村監督、誉めてくださいな。まあそれで、最初一回見ただけではわからなかったところや、自分が勘違いしていた個所もあったので追加と訂正を加えておくとする。やはり冒頭のシーンはラストシーンで(も)あった。エレベータ内の四人の立ち位置や着ているもの、すべてをチェックして出した結論になる。あれは、まったく同じシーンを、カメラの位置を換えて、変身後の青柳が(突然乗り込んできた樋口親子に気がついて)思わず背を向けたというのを、冒頭と、そしてラストで今度は説明調で見せていたのだ。当然、樋口晴子(竹内結子)はエレベータですぐにそこにいたのが青柳だと気がついていたということになる。i-podごときで弾丸を受け止められるものかというギモンに対する一考察結論からいうと、まったく不可能というのでもなさそう。というのも、逃亡中の青柳が着ていたのが本革製のライダージャケットだったからだ。この相乗効果があれば、真上から撃ち込まれたサイレンサー付の拳銃から放たれた弾丸ならば防げたとしても決して絵空事にはならないようだ。まあ「幸運」であることには違いないが。おそらくは、脚本段階でここに関する討議は相当にされていたのだろうと思う。また、保土ヶ谷(柄本明)が電話で伝えていた「蓋に細工」というのはやはりマンホールのことだった。実際、青柳が撃たれたあとに取り出して見たi-podの裏側にはなんの細工もされておらずにappleのロゴとマークがしっかりと映し出されていたのが見て取れた。黄色いカローラに関するくだりについて寄せられたメールの中でも一番多かったのが(原作の設定を含めてということになるが)10年近く(8年以上ということだが)野ざらしのままだったあのクルマがバッテリーを交換しただけで走れるようになるものか?いくらなんでも無茶すぎないか?というものだった。確かにそう。まあバッテリーが動くというか電気系統が無事だったとか通電できたとしても、スパークプラグとかキャブの具合だとか乗り越えなければならない関門は多い。でないと10年近くも死んだままのクルマのエンジンは動いてはくれないものだろう。逆にいえば、あのクルマの真の持ち主が何故あんな場所にクルマを乗り捨てしなければならなかったのかを考えると、「バッテリー故障」だからとかではなくて、なにか別の事情があってあの場所に捨てなければならなかったと考えたほうがよさそう。つまり売りたくても売りに出せない事情があって、あるいは転居であるとか、あるいは駐車場が確保できずにあの場所に置いていただけだったのが取りにこれなくなったとかそういうことではなかったのか。もうひとつの疑問の残されていたガソリン量も、ほぼタンク満タンの状態だったとすれば、あのくらいの走行距離ならば無茶というのでもない。これは二度目に見に行ったときのことなのだが、一緒に見に行った人間がこれにはすぐに気づいたようだった。車が乗り捨てられていた場所というのが実は某私立大学のキャンパスのすぐそばで、青柳ら4人はここの卒業生という設定。ようするに、このクルマを乗り捨てた持ち主もこの大学の学生だった可能性がやたら高い。だからカズ(劇団ひとり)もこの黄色いカローラを無断でホテル代わりに使っても問題にならないことを知っていたのだろうし、決して壊れているのではないこともわかっていて青柳にこの黄色いカローラのことを教えたのだろう。 それにしても、見るたびにこの映画に引き込まれてしまうのは、決して原作がよく出来ているからだとか、役者がそろっているからだとか、あるいは脚本が巧みだからといったような理由だけではない。なんというのだろうか。あー、脚本(ストーリー)を生かすために画面のあちこちにちりばめられた仕掛けというのかなんというのか、細かな描写というものが映画の後半になって生きてくるようになっているのに気づかされるからだ。たとえば、爆破した森田(吉岡秀隆)の自動車(内でのふたりのやりとり)だが、青柳に飲ませるために用意した睡眠薬入りのミネラルウォーターのペットボトルが助手席のシートの後ろのボトルホルダー(100ショップで売っているようなちゃっちいもの!)に差してあったのを、森田がワンアクションで青柳に手渡すのは、それがどうみても予め用意されていたということを示唆しているわけだし、それに気づかずになんの疑いも抱かずにのんでしまう青柳の人間性というものが、あとでキルオにも睡眠薬入りのカップヌードルを食べさせられるところに繋がる・・・、という具合にだ。アパートでの青柳との差し向かいの会話のあと、キルオにどこかしら森田が登場したときと同様の「死の影」というものがちらつくのも、この青柳に眠り薬入りのものを口にさせたという共通項があるからだろう。上でもちょっと書いてしまったが、この映画四回見に行ってそのうちの二度はいわゆるカップルで映画鑑賞になった。これもだいぶ前に書いたことだけれども、そもそも自分は「ふたりで映画を見る」というのがとても苦手な人間である。よほどのことでもない限り(女性と)ふたり連れで映画をということはやらない。その「よほどのこと」というのが男ひとりで見るのには憚られたアニメ映画であるとか、いわゆる女性向け映画を見るようなときに限られた。逆にいえば、宮崎アニメであるとかエヴァンゲリオンの劇場版はほとんど女の子であるとか女の人をダシにして見に行っていたということにもなるのだけれど。では何故自分は今回カップルで映画をみるようなマネをしたのかというと、(まあ向こうもまたこの映画を見たがっていたという前提ありで)男女のカップルで見にゆくと料金が安くなるからという非常に邪(よこし)まな理由だったりする。それにしても結構な夕方とはいえ、水曜日という平日だというのに、この映画はともかくもこのシネコンはぎっしり満員になっていた。そういうものなのか。まあ大方のカップル客はアバターとかオーシャズのようなスクリーンに吸い込まれていった。おそらく自分はこんな満員状態のスクリーンだったならば避けたに違いない。それだけは断言する。断言するような大層なことでもないんだけどね。
2010年02月20日
コメント(1)
東アジア選手権三位という大会始まって以来最悪の結果に世間は騒々しい。自分が見たものの中で酷かったのは、韓国戦の敗戦の内容に触れて、敗因を田中闘莉王や内田のせいにしている人がいたりすることだった。アホかぁ。もっと深刻なのは、いまだに日本代表の弱点を「決定力不足」のひとことで総括しているアホなマスコミが実在したことだろう。(それとも中国戦であと一点とれていればということなのかな?)例によって「これについてなんか書け」というリクエストがあるのだけれども、今までここで自分が書いてきたこと以上のことはもう書けない、流石に。自分は今までここでは単に「日本代表はこのままでは弱体化するだろう。きっとアジアでも勝てなくなるぞ」というようなことをいい続けてきた。それが現実になったというだけの話なんだ、これは。中国サッカーの躍進だって、自分も、そしてなによりも多くのサッカーファンは大方は予想していた。中には、「欠点を論うのではなくて文句ばかり書かないで、何か建設的な提言ぐらいしろ」みたいなリクエストというか意見も届くのだけれども、いや、もし自分の提言が本当に受け入れられるんであれば、ここで書くもなにも、自分の提言を実現してくれる人にはちゃんと伝えています。受け取った側がそれをどう感じたかはわからないが(笑)では自分が伝えたその「日本代表を強くするため」の提言をここにも書いておく。それを見てあなたはどう感じるのだろう。おそらくは反撥というものを感じるのではないだろうか。そんな気がする。ひとつはJリーグの現状の改革である。方法としてはふたつある。そのどちらかを、あるいは両方を導入すれば日本代表は強くなる。1) J1のチーム数を減らす(18→12くらいまで)2) 外国人選手のワクを倍増して、しかも同時に試合に出られる数も5人までにする要するに、今のJ1ではチーム数が多すぎて、全体的なレベルの低下の歯止めが効かなくなっているのでそれを是正するのが先決だと思うのだ。チーム数が18とかあると、上と下のチームの力量がありすぎて、試合としてはともかくも、選手からするとあきらかに「楽な相手」というものが出てきてしまっている。これでは代表に選ばれるべき選手の実力は上がらないだろう。同様の意味合いで、外国人選手の数を増やしてチームとしての力量も上げる。当然「アジア枠」みたいなキモチの悪いものも全廃する。必要ないからだ。次、将来にむけての提言キーパーという特殊なポジションは別としても、学校(の部活動)とクラブの所属チームの二重登録を認める。U-21までのユース、ジュニアユース年代の代表は、必ずAチーム・Bチームという具合にクラスわけして、ふたつ以上常設する。そして必ずAかBかをはっきりと伝えて召集する。もし「Bチームではいやだ」というような選手がいたら即刻クラブ(学校所属選手の場合は難しいと思うが)ともどもペナルティの対象とする。Jリーグの規定にある昇格の条件「ジュニア・ユースチームの常設と強化」の項目を見直す。地域にすでに存在するジュニアチーム、ユースチームの(名前の変更なしでの)丸抱えでの提携関係も認める。要するに、若い選手の活動の場所をなるたけ広げて、なおかつ、自分は力量的に今どこらへんのところにあるのかというものを自分の経験でもって認識させてあげる必要があるだろうということ。でないとこれからも勘違いしたままJの選手になって「何故自分は(トップカテゴリーで)試合に出られないのか、何故代表に召集されないのか、それは監督や協会が見る目がないからだろう」というような勝手な思い込みで目標を見失ってしまう若手が続出するような気がする。実際身近に何人かいたんです。そういう勘違いにとらわれてしまい、情熱がうせたのか、練習を怠るようになり、将来を有望視されながらも早早とJに見切りをつけたサッカー選手が。ここでクラブの名前を出していいものなのか少し悩むのだが、当初10だったクラブが18に増えて何かいいことはあったのだろうか。何もないような気がする。これではチカラのないクラブにただ単に「J1」という肩書きを与えて、そして福岡、京都、セレッソ、札幌というように上と下をいったりきたりするだけの中途半端な「J1.5」としか呼べないチームをこれからも大量に量産しつづけるだけだろう。広島、東京V、千葉といった古参チームもそうなる可能性は高いし、大分とか甲府といった「若い」チームもまた同じ運命を辿るだけではないのか。下手すると我が仙台もここにはいってしまう危険性は非常に高い。それでも、仮に仙台がJ2降格したとしても、自分は後悔はない。それは、試合の面白さであるとかリーグの熱気というものは必ずしもリーグのクラスとは正比例しないということを知っているからだ。むしろ力量の接近したチームを正しく区分けしたほうがリーグのためであり、そしてなによりも日本のサッカーのためになるはずだ。
2010年02月16日
コメント(0)
ネタバレというほどでもないのだが、なるべくなら未見の方は避けてください。まあ別のブログで書いたことでもあるが、自分はこの映画を応援したいという気持ちでいる。そういう意味でここで書くのは純粋な批評ではない。さて、まだ映画そのものは実際に見てもいないのに、「映画を見た」という友達知り合い、そしてその別のブログの読者の方々から質問攻めにあっている自分である。それだけ自分がこの映画のことを応援しているというちょっと変った立場については知られているからだが。(原作は読んでいるので)そのいくつかには答えられたが、はやり実際に見てみないと答えられないものもあった。それで、自分にしては珍しいことではあるが、公開まもなくの映画を劇場でみることにした。まあいずれは見るつもりではあったのだが。自分の感想を言えば、よく出来た娯楽映画であったし、泣けたところもあった。そして爆笑したところもあった。お勧めの映画である。では、映画を見ての上での、自分が受けた質問で数の多かったものとその解答というか自分の解釈を箇条書きにしておくとする。映画の初っ端、デパートのエレベーターの中で樋口親子が出くわしたのは青柳(堺雅人)なのか?つまり「オープニングとラストは同じシーンなのか?」という質問。確かにそうみえる。つまりもし同じシーンの繰り返しだとすれば、樋口晴子(竹内結子)が娘の迷子を心配しているのは、夫(大森南朋)をだます演技をしたのかもしれない。しかし、普通とおりに別のものと見たほうがいいと思う。キルオ(濱田岳)は何故あそこまでして青柳の逃亡の手助けをしたのか。はじめから「青柳を助ける」のがキルオの目的ではなかった。キルオはたまたま自分の宿敵である小鳩沢(永島敏行)を見かけてずっとあとをつけてきた。で、小鳩沢憎しの気持ちだけで、何も考えずに車に追突させた。あとで青柳の正体を知って「共通の敵である警察を困らせること」に喜びを見出して青柳の逃亡の手助けをしたということだろう。i-Podごときで弾丸は防げるのか?無理だと思う。可能性として考えられるのは、保土ヶ谷(柄本明)が電話で「念のために蓋の裏にも細工をしておいた」と言っていたのはマンホールのことではなくて、あのi-Podのことだということか。青柳を首相暗殺の犯人に仕立てた黒幕の正体は?(もちろん作る側が意図しているのだろう)映画の中身だけではわからないようになっている。これはむしろ森田(吉岡秀隆)の「おまえオズワルドにされるぞ」というセリフについて考えればいい。ケネディ大統領(JFK)の真の暗殺犯が今尚不明なのと同じことなのだ。よく、JFK暗殺の真の犯人についてはCIAであるとか軍産共同体であるとか諸説が飛び交っている。もし、この映画(つまり原作小説もということだが)、警察庁(警視庁=宮城県警はシロ)による単独犯行を恣意しているのならばこんなつまらないハナシもない。だからJFK暗殺と同じで、金田首相の存在を危険視する者たちがいくもあって、それらの目論見と利害が一致したのでこんな大掛かりな計画も可能になったということなのではないだろうか。井ノ原小梅(相武紗季)は黒幕の差し向けた工作員なのか?その後彼女はどうなったのかが描かれていない。工作員ということでしょう。自分のマンションに逃亡中の青柳を誘い込んだのも(黒幕の)指図をうけたからということ以外に解釈のしようがない。ちなみに原作小説では事件の数ヵ月後に事故で死亡したことになってます。何故会社の先輩の岩崎は青柳を警察に突き出すようなことをしなければなかったのか。岩崎は青柳の思いつきで呼び寄せられたのに警察はいつ指示を出したのか。警察は岩崎の弱みを握っていたのか。貸しビルのオーナーが岩崎(渋川清彦)の行動を怪しんで警察に通報したからでしょう。つまり警察(警察庁の佐々木)が岩崎に対してコンタクトをとったのは青柳が荷台に隠れているあいだだったということでストーリーの整合性は崩れないと思います。まあ岩崎をゆするネタぐらいはいくらでもあるのでは。 凛香(貫地谷しほり)は何故あそこに青柳が来るとわかったのか。わからない。たしかに保土ヶ谷(柄本明)と情報を提供してきた整形外科医のあいだにつながりはない。しかし、青柳が整形外科医に電話で連絡をしたシーンのあと相当時間的に省かれているので、たまたまではなくて、整形外科医と連絡をとった凛香は相当長い間、岸の向こう側で待機していた可能性の方が高いのでは。これ以外にもたくさんの質問やら疑問をぶつけられているのですが、一回見ただけなのでとてもではないがそのすべてには答えられない。自分は劇場で映画を見ることに対してはさほどおっくうではない。数年前までは仕事で月に十本以上二十本近い映画を映画館で観ていたような人間である。 しかし、映画を観るのが仕事ではなくなり、仙台に移住したことで「映画を観る」ということに心理的な大きな壁を感じている。まずなんにしても仙台の中心部から映画館が次々と消えたことがある。とてもではないが、「仕事帰りについでに映画館に寄る」という環境ではなくなった。この「ゴールデンスランバー」もそうだった。自分は朝から「今日は映画を観にゆく」と決めてから出かけなければならなかったくらいだ。というのも、仙台市内近郊で「ゴールデンスランバー」を上映している映画館、施設は五ケ所もあるのだが(地方にしては恵まれているほうだろう)、どのすべてもが自分の行動範囲からみごとにはずれているのだ。そしてそれはやはり自分だけではなくて多くの人たちが抱えている悩みでもあるわけだ。そういう要因が映画衰退の大きな一因でもあるはずなのだが。結局自分は家からは一番離れている長町のシネコンでこの「ゴールデンスランバー」を見ることになった。これがこの「ゴールデンスランバー」という映画でなければ、自分はわざわざここまではしなかっただろう。映画館を出ると、表は雪であった。この映画を映画館で見たという人から「わかりにくいストーリーだ」とか「無茶苦茶すぎてついてゆけない」というような不評を耳にする。まあ確かに一筋縄ではゆかない映画ではあるが、皆がいうほど設定が無茶だとかストーリーが破綻しているというわけではない。ただこれは言えるだろう。見る側にひたすら「映画を見ながら、そして同時に考える」ことを強いるような、そういう内容ではある。そこが「ついてゆけない」と途中で「考えること」を放棄してしまう観客を産んでしまう原因なのでは。もうひとつ、この映画に注文を言うとすると、作る側が用意した「わらいどころ」が弱かった。笑いが不発のまま、観客には伝わっていないところがいくつもあったのは残念である。たとえば、岩崎によって荷車に載せられてダンボール箱の中に隠れた青柳がトラックの荷台に飛び移るところや、両足を複雑骨折して入院中のはずの保土ヶ谷が突然車椅子を降りてスタスタと歩き始めるところなどはレッドカーペット的に言えば「大笑い」だ。なのに、観客の反応はというと、ところどころから「クスクス」という忍び笑いが漏れる程度の不発状態なのである。もしかすると、この映画を映画館に見に来た人たちはの多くは、そもそもこの映画に「笑い」というものを求めておらずに「なんとなく不意をくらった」というような感じなのかもしれない。しかし、この映画(もちろん原作小説も)にとってこのような「ありえない出来事」が産む「笑い」もまた重要な、とても重要な要素なのだが。それこそフルコース料理と同じで、二時間を越える長い映画を観客に飽きさせずに最後まで見させるのには、どうしても「ダレ場」というか観客のアタマの中をリセットさせるシーンが必要になる。どんな名作映画でもそうだ。出される料理と料理のあいだに飲む水と同じようなものなのである。聞いたはなしだが、フルコースディナーを提供する料理店でも評判のよう店というものは、客の反応を見て、あるいは料理の種類によっては、グラスにいれる水の温度をも調整するのだという。やや温めのものを冷たいものに替えたり、あるいは炭酸水にしたりするというのだ。この映画、映画館で実際に見たという人から、意外にも不満というか酷評が出たとすれば、それは全体を考えて提供したはずの「水の温度」を読み間違ったからなのかもしれない。つまり、もっと刺激の強い笑いであるとか、明らかに「ダレ場」とわかるようなシーンというものがあってもよかったのかもしれない。しかし、客が自分で自由にアタマの中をリセットできるビデオDVDとなると、この2時間20分の映画の評価はまた変ってくるはずである。映画を観て「なんかよくわからなかった・・・」という人も、こんどはDVDのレンタルでいいからもう一度見て欲しいと思う。参考 ライブドアブログに書いた記事1 自分が映画に関して何かを書くと、辛辣なことしか吐かないと思われているようだ。しかしそれは正しくはない。自分が辛辣に、あるいは口汚く罵るのは、映画そのものに対してではなくて、映画の宣伝方法であったり、製作サイドにありがちな、観客を舐めきったようなキャスティングであったりとか、要するに「作る人間」、「宣伝する人間」のプロ意識の欠如というものについてだ。「ゴールデンスランバー」という映画がまもなく公開になる。ご存知の方も多いだろうが、人気小説家の伊坂幸太郎が一昨年に発表した小説を映画化したものである。自分はまだ映画自体は見てはいないのだが、この映画にはちょいとばかし肩入れしている。(原作同様に)映画の舞台が仙台だということもあるが、それ以上に自分がこの映画のことが気にかかるのは、この映画、最近珍しく、テレビ局の協賛が充分には得られていないからだ。なぜそんなことになっているかというと、(ストーリーが原作どおりだとすればだが)この映画にとって重要なファクターが、警察の追っ手から逃げる主人公をさらに窮地に追い込むのが、真実を伝えられないテレビ局だった、というような「現在の日本のテレビ局に対する批判」とも取れる内容になっているからだ。この「本当のことは伝えられないテレビ局」というところが、自分の心の中に前前からすぶっている不満と強く反応して、この映画のことを身びいきに感じてしまっているのかもしれない。「ゴールデンスランバー」の公式サイトからリンクされているギャオの動画で、この映画の冒頭部分の十数分が見られる。(再生ソフトのインストールが必要)ずい分と思い切ったプロモーションだが、もしかすると、こういうプロモ方法、これからどんどんと浸透してゆくのかもしれない。自分もこの宣伝の手法は評価したい。(つづく)2009.12.21
2010年02月02日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1
![]()
![]()