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2002年のサッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表監督を務めた フランス人のフィリップ・トルシエ氏が25日、同国のスポーツ紙レキップ(電子版)で 日本代表について「(優勝候補の)スペインやブラジルのように戦うという強迫観念が あるようだ」と、岡田武史監督の采配を批判した。 トルシエ氏は「状況は、(岡田監督が)1998年W杯で日本代表を率いたときと変わって いない」として「チームは特にメンタル面で大きな問題を抱えている」と指摘した。 0―2で完敗した24日の韓国戦については「早い時間帯に失点した後、残りの時間で 修正が示せなかった。高いレベルでは、ゲームプランを変更する方法を知らなければ ならない」とちくり。 最後に「W杯では、オランダには絶対に勝てない。カメルーンにはひょっとすると勝てるかも しれない」と予想した。 すぽーつ報知http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/japan/news/20100526-OHT1T00034.htm まあこのあいだの日韓戦を見て、言いたいことはいろいろとあるが、端的にいうとこのトルシエの私見というものが一番近いのかもしれない。これが少し前なら「監督を取り替える」とか、まだほかのオプションもあったのかもしれないが。もう少し付け加えるとすると、トルシエの言う「1998年のころとは変わっていない」というのはそのままサッカー協会に対する「おまえさんたちはなにもしていなかったじゃないか」という批判にも繋がることだろう。まあ何にしても、サッカー協会から我々へのメッセージは「勝負は度外視して日本代表の戦いぶりをお楽しみください」というものだということは覚悟したが。カメルーンどころかデンマークにだって引き分ける目すらない状況の今となってはだが。
2010年05月26日
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映画「山形スクリーム」「神童」のときに書きそびれた。自分は成海璃子という女優のことを高く評価していた時期があった。じゃ今は高くは評価していないのかというとそういうわけでもない。なんていうのか、いつのころからか成海璃子は自分の能力の高いところをひたすら隠すような女優ぶりを見せるところが目につくようになり、言葉は悪いが「こっちも評価するのを放棄した」そんな感じだ。まあ自分の周囲にはこの年代の女優たちを並べて「誰が将来伸びるか」とかそういう一種の「育成ゲーム」のような感覚でもって彼女達の活躍を楽しみにしている人がいるのだが、自分はそういうのは正直嫌いである。もう少し同情的かつ冷酷な言い方でいうのならば、「彼女たちにはいつでも女優を放棄する権利」ぐらいはあるだろうという見方をしているからだ。映画「書道ガールズ」のプロモーションのためにと主演の成海璃子が日本テレビの各番組に朝から連日の出ずっぱりである。こういうやり方ってのは、要するに、「映画の独自性」というものを製作したテレビ局が認めていないということだろうと思う。映画の宣伝のためにとはいえ、映画に主演したというだけで「むしろ隠したほうがいいような部分までもさらけ出さなければならなくなる」のを見るのはこちらもつらかった。にしても成海璃子について驚いたのは先週の「メレンゲの気持ち」に出演したときに自分のCDラックの中にぎっしりと詰まっていた60年代からの日本のロック、しかも相当にアンダーグラウンドなバンドのCDを取り出してみせていたことだった。まあナゴムレコード(有頂天とか筋肉少女帯)ぐらいなら、まだオシャレとしてわかりますが。「はっぴいえんど」ならまだわかる。しかし「村八分」とか「外道」とか、おそらくは彼女の父親だって同時代には聞いてはいないだろう。そういえば思い出すことはある。自分もまたそういう古いバンドの復刻CD目当てにタワー(この場合は東京タワー)やキャプテントリップというレーベルのCDを置いている店に通い詰めていたころがあった。自分の場合は、当時買いそびれたそういうLPレコードを、この際CDで買っておこうという、どちらかという「老齢レベンジャー」としての購買である。ある意味正統な購買客である。ところがタワー(繰り返すが東京タワーのことだ)でもそうだったし下北沢のディスクなんとかでもそうだったのだが、新宿・池袋・渋谷・上野のHMVや(元祖)タワーレコードで見かけるような普通の女子高生の年代の女の子たちか60年代日本のロックやジャーマンプログレのCDを普通に選び買いしているのをよく見かけた。こういうのは実はうれしいというよりもむしろどこか恥ずかしい。恥ずかしいというのもアレな表現だが。なんていうのか「あーコラコラお嬢さん、そういう音楽を好きで聴いていることはむしろ隠しておきなさいよ」みたいな余計なおせっかいの感情が湧いてくるのだ。はっきり言うとだ、おしなべて「60年代の日本のロック」というもの、同世代の皆はどう感じてどう評価しているのかはよくわからないが、半分の当事者として自分は「壮大な大失敗」という位置づけをしている。というか、そういう位置づけでないと音楽そのもののクオリティと当時の世間での評価はつりがあわないからだ。そういうどこかひしゃげた感情でないとこれらの音楽とはまともに向き合えない自分である。たかだか17かそこらの女の子が自分の部屋のCD棚からなんの屈託もなくそういった「負の感情がぎっしりとつまったようなCD」を引っ張り出すのを見ると、「璃子、およしなさい」みたいな、まるで親戚の伯父みたいな感情にとらわれるし、彼女が女優としての高い資質の部分をむしろかくすような演技ばかりをしていることの、その謎を解くヒントみたいなものは得ることは出来た感じはするが。でも果たして「書道ガールズ」という映画のプロモーションにはなっているのかというと、全然なってはいないような気がする。
2010年05月20日
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最近、妙な相談事ばかりされている。前に書いたことがあるが、自分は以前インターネット上の広告文案をチェックするというようなことをやっていた関係で、広告代理店の中でも、広告制作の人たちとはある種の「敵対するポジション[註1]」にいたことがあった。まあ自分のすることとは、有体にいえば彼らの見入りを制限するようなことだからしかたないといえばしかたがない。そもそも何故このような「仕事」が存在するかというと、その原因を探ってゆくと、そもそもネットにしてもコンピュータ・PCの用語が全て英語由来のものを日本語に無理矢理当てはめたものだからというところにたどり着く。とにかく、普通の皆さんが思うような(ネットにありがちな)誇大広告だけが問題なのではないということだけは知っておいて損はないだろう。そういえば、昔ホリエモンこと堀江貴文が株式用語・経済用語であるGovernorの日本語である「支配」という言葉を振り回したために「Dictator」「Conquest」という意味での「支配」と勘違いして(あるいは読者にそうミスリードさせて)マスコミが一斉にバッシングしたことがあったが、実は同じようなことは以前もあったしそれ以降も起きているのだ。全ての原因が、元々の英語(外国語)に見合う日本語がなかなか存在しないということが挙げられる。名前を出すと怒られるのでここは伏せて書くことにするが、かなり前に、代理店経由で某企業の新製品のネット広告の中にあるいくつかの表現について「置き換えになにかいい日本語はないものか」という感じの相談を受けたことがあった。(ただし仕事としてではない)これも元々はというと、その企業がいわゆる多国籍企業というやつで、汎世界的な展開をしている商品の日本向け広告(テレビCMもありのかなりの大掛かりなキャンペーンである)なのでこのような不都合は起きてしまったようなのだ。実際、そのキャンペーンCMのネット広告の元となる文案(英語)をみる分には、これといって差しさわりはないのに、それを機械訳的に日本語に置き換えると、とんでもない誤解を招きかねないことになる危険はあった。(女性差別と取られかねないという意味で)相談をうけて自分はアイディアは提示した。ただし、当時自分はそれを「仕事」とは認識しておらずに、テキトーな返答をしてしまった。反省はした。ところが何がどう間違ったのか、自分のアドバイスがどう生かされたのか、なんでそうなったのかはよくわからないのだが、あるときたまたまその商品のネット広告をみたところ、自分が提案した「日本語」が目に飛び込んで来た。こういうのは心臓によくない。それに懲りてから、たとえ「金銭の発生する仕事」ではなくとも丁寧な返答だけはするようにと心がけるようにしている。さて今回も同じルートから相談ごとがあった。これも今はまだ詳しくは書けない。いわゆるネットでの風評被害にあたるのかもしれないが、そこにはまたもや「2ちゃんねる」の存在が微妙に影を落としていたりする。もう10年も前に出来たてホヤホヤだった「2ちゃんねる」で問題になった案件が絡んでいたりするからだ。その担当とのやりとりの中で「だってかまたさん、2ちゃんに強いじゃないの」みたいないわれ方をしてしまった。ちょっとだけムッとして沈黙を保った。2ちゃんねるでこの自分が今尚バッシングされていることに対する皮肉かなと思ったのだが、そういうことではなくて、(彼はそれを知らなかったようだ)誰からかの口から、自分が某民放番組のヤラセ疑惑について、その決定的な証拠というものを画面上から見つけ出したという逸話(註2)のことを耳にしていて、そのことを言ったようなのだ。言われて思い出した。アイドルグループがメインとなっていた番組の中の人気コーナーが果たして「ヤラセなのか、ヤラセではないか」というような低級な議論が2ちゃんねるで延々とされていて、自分はそれを当時の弟子のひとりから相談を受けて「師匠、なんかこう決定的な相手を黙らせるような言葉はありませんかね」みたいなお願いごとをされたのがきっかけだった。自分はすっかり忘れていたことなのだが、振り返って考えてみると、自分は昔から同じようなことばかりしていたんだなぁという変な感慨が沸いてきた。で、話をその「相談事」に戻すが、自分がこの「2ちゃんねる問題」にかかわるときにいつも感じるのは「(使う方も使うほうだが)皆が皆見えない影に怯えすぎ」ということだ。「あるとき2ちゃんねるを見たら悪意とか憎悪が飛び込んできた。それ以来2ちゃんねるは見ていない。あんなのは取り締まるべき」と発言した某有名タレントにしてもそうだったが、2ちゃんねるに書かれていることとは所詮文字列に過ぎない。それを書き込んだ人間というものは確かに存在する。2ちゃんねるという掲示板に満ちている「悪意」というものを読み取るのは実は見た側の「こころの問題」でしかないということである。自分が2ちゃんねる上でいくらバッシングされたとしても、あるいは事実無根の誹謗中傷をされたとしても[註3]端から傷つきもせずに軽くうけながすことが出来たのも、自分は2ちゃんねるにされた「書き込み」というものをまず単純な文字列として捉えていたからだろう。書き込んだ人間の悪意であるとか妬みというものを感じ取るのはすべてこちら側の感受性の問題でしかないのだ。そこでこちら側がより感情的な反応をしたり対応を講じたりすることがむしろ向うの思う壺だったりするのだ[註4]。そういうようなことを担当の人間に言ったら「そうですか…」みたいな生ぬるい感じの返答が返ってきたが。まあいい。当事者になってみないとこういうことはなかなかわからないものだ。次もまた2ちゃんねる絡みの相談事である。別の方角から「2ちゃんねるに書込みがしたいのだけどアクセス規制で書き込めないというユーザーからの苦情がここのところ多いのですが…」という某サービス会社からの相談。聞けば、2ちゃんねるではプロバイダ毎でのアクセス規制というものが最近では厳しくなり、「永久処分扱い」にされて、ここずっと3年とかの長きに亘って2ちゃんねるに書込みが出来ないプロバイダとそのユーザーがあるという。それはそれでいいじゃないかという感じもするが、プロバイダやサービス会社側からすると死活問題で、「2ちゃんねるに書き込めるか書き込めないか」がユーザーがそのプロパイダを選択する条件項目の上位になっているというのだ。実際、2ちゃんねるで長期のアクセス禁止扱いになると新規加入者はぐっと減り、解約の希望者が増加するという相関関係は存在していて、それが彼らのアタマを悩ませているとも聞いた。それに対しては「だったら2ちゃんねるに書込みの出来る有料IDを会社で買ってそれを会員に貸与するとかすればいい」とだけ答えた。大阪には(今でもいるのかはしらんが)電車の回数券をバラで売って、そのうっすい利鞘で儲けていた名物のおばちゃんがいた。それと同じである。ビジネスのタネはどこにでもあるような気がするんだ。註1)「敵対」という株式用語も考えてみるとずいぶんな訳語である 元々は「Hostility」「Opposition」で、どちらかというとゲームにも使われるような用語である。Oppositionは「中心点を挟んで向き合う」であるとかそういう意味が語源である。最近ではサッカー中継でもよく耳にする。つまりボールを挟んで向き合う関係のことを「オポゼッション」「ポゼッション」と言う。そういう使われ方をする。古くは占星術でも[太陽ではなく]地球を中心にして180度の関係にある惑星[太陽と月も含む]をポゼッションと言ったりする。註2)これは事実ではない。あくまでも、たまたまそういうことになったというだけで、自分と同じ点に気づいていた人は何人もいたのだ。ただ、それを2ちゃんねる上で発言したのが自分の関係者だったというだけのこと。それにそのころはまだ2ちゃんねるもさほど有名な存在ではなかった。弟子っていうのも妙な関係だが、向うがこちらを「師匠」と勝手に呼んでいたのでまあ「弟子」である。強いて区分けすれば「有料なのが生徒で、無料が師弟関係」というところか。註3]今でもこのような自分に対する誹謗中傷を目的としたスレは過去スレとして検索でひっかかることがある。それらによると、この自分は某新興宗教の信者で、尚且つ2ちゃんねるの運営サイドのひとりであり、そして有名大を中退したエリート落ちこぼれなのだそうだが。註4]但し、そののちしばらくしてからということだが、確かに「2ちゃんねる」管理人を名乗る人物からコンタクトはあった。誹謗中傷と申し立てをするのならばdat落ちしてHTML化した過去のスレッドごと削除する、というお伺いだった。だが、自分はそれを「本物」とは思えなかった点があったので放置した。
2010年05月20日
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映画「ゴールデンスランバー」では晴子(竹内結子)の夫というストーリーにはほとんどからまない地味な役に納まっていたが、大森南朋(おおもり・なお)は過去に伊坂幸太郎原作映画に二度「チルドレン」と「フィッシュストーリー」で主演級の出演をしている。伊坂幸太郎の小説の好きな知り合い(もう8年も顔を合わせていないのだが)に言わせると「伊坂幸太郎の小説を読んでると、なぜかコイツの顔を登場人物に当てはめたくなる、そういう存在」なのだそうだ。最近になってその友人の言葉もうなずけた。伊坂の「あるキング」を読んだときのことだ。主人公 山田王求(山田球ではない、『やまだ・おうく』と読む)の父親の顔が、自分の脳内映像世界では、この大森南朋の顔になっていたからだ。自分が小説の『チルドレン』を読んだのは、映画を見て、そのあとになってからなのでここでは映画のことだけを書くとする。この映画なかなか面白かった。しかしこの映画の魅力、それは主役ふたりをさし置いてこんなことを言うのもなんなんだが、結局のところ、「美春」を演じた小西真奈美につきると思うのだがどうだろう。わたしらおじさん年代にはやたら人気の高い女優のひとりで、知り合いの40代(妻子持ちである)の男は酒の席で好きな女優を聞かれて彼女の名前を出して「コニたんと付き合いたい。マジで付き合いたい」と真剣な面持ちで答えていた。この映画は、未成年による軽犯罪、万引きというものを題材にしている。これはだいぶ前のことだが、自分もまた子供の万引きに悩まされるビデオ店の店長だった。その当時のその子供達との暗闘というものについてはいくらでも語れるし、でも語りたくはないという複雑な気持ちを今でも抱えている。その中の何人かとは、その後(つまり彼らが成人してからということだが)別のところで交流があったりするのだから狭い町というのはつくづく厄介なものだなと感じたこともあった。この映画を見てて自分は相当にグサッという感じでやられるところが多かった。そして、そういう過去を持つ自分にとって救いだったのは美幸の叔父青木良平(長谷川初範)の存在である。武藤と良平が夜遅くのシャッターの閉じた店が並ぶ商店街を並んで歩くシーンは繰り返し繰り返し何度も見てしまった。このシーンのロケ地は横浜の横浜橋通商店街というかなり歴史のあるアーケード街である。自分は10代の終わりから二十歳になる直前のほんの一時期をこの近くで居候生活をしていたことがある。だから、そのころとまったく同じ構えの店がチラリと写るだけで、自分はなにかこう今まで忘れていたものがよみがえって、胸が締め付けられる気分になるのだった。まあ感傷ですがね。映画の中の大森南朋(陣内)の口にしたセリフで印象的なものをひとつ。「英語で子供はチャイルドだけど、複数形はチルドレン。つまり子供はひとりのときと複数のときはまったく別の存在なんだ」うーん このセリフをある人に聞かせてやりたくなった。もちろん磯野貴理にではない。 ストーリー 主人公のふたり武藤(坂口憲二)と陣内(大森南朋)は家裁の調査官で、さまざまな問題を起こした子供達と面接をしたりその背景といったものを調査するのが仕事である。偶然にふたりは強盗に占拠された銀行で人質となってしまう。映画はそこからはじまる。武藤は同じく人質になった美しい女性、青木美春(小西真奈美)に魅せられて彼女の勤める書店に足しげく通うようになる。その美春の働く本屋は子供達の万引きが多発している。その理由は美春が万引きを目撃してもそのまま見逃すからだった。美春には人に言えない過去があり、それが彼女を苛めていたのだ。武藤のところには新しい「客」として木原志朗(三浦春馬)という風変わりな少年が連れられてくる。史朗と史朗の父親、周五郎(國村隼)と面談をした武藤はこの親子のあいだに流れているぎこちない空気を感じるものの、それが何故なのかはつかめずにいた。
2010年05月12日
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趣味というのか特技というのか、自分はバックギャモンという西洋双六をやる。そこそこ強い。ウィキペディアによるバックギャモンの説明日本ではほとんどなじみのないテーブルゲームだが、欧米ではポビュラーなゲームの一種で、一時期、日本で売られている折りたたみ式のチェス・チェッカーのセットにオマケのような感じでバックギャモンがついていたこともあった。子供の頃自分の家にあった「はなやま」のチェスチャッカーセットにもバックギャモンがついていて、自分はそれでチェスとチェッカーとそしてバックギャモンを覚えたらしい。なにしろ小学校の低学年のことなので、そのあたりのことははっきりとは覚えてはいないのだけれど。日本でこのバックバャモンにスポットが当たるようになったのは、もしかするとWindowsXPにこのバックギャモンのインターネット対戦ソフトが同梱されてからかもしれない。そのせいなのか最近になって愛好家が増えているとも聞く。ときどき、自分もこのXPについているバックギャモンで遊んだりするのだけど、つくづく感じるのは国民性(民族性)の違いというものだ。とにかく、一国一言語の国(日本、韓国、イタリア、デンマーク、スエーデン、ポーランド、ブルガリア、ギリシアなど)のプレーヤーには、内容・戦略・コマの進め方にその国のお国柄というものが如実にでる。また、民族ではないが、言語別でいうところのポルトガル語のプレーヤー(ほとんどがブラジルといわれている)にも一大特徴というべきものがある。これは軽蔑しているのではない。ある民族のプレーヤー達はとにかく「ダブルベッド(点数の倍付け)」を持ちかけくる。で自分から持ちかけておきながらも、自分が負けそうな展開になると勝手にゲームを中断して逃げてしまうのだ。どうやら、その国ではそれが当たり前のことのようなのだ。で日本人プレーヤーの一大特徴というとそれは「あくまで慎重」である。同じ日本人としてこんなことを言うのもおかしいが、自分はいつもそこが歯がゆい。いつだったか知り合いにこのソフトを使ってバックギャモンの遊び方を教えていたときにこのことを愚痴ると、その知り合いは「日本人は草食系ですからねぇ」みたいな感想を口にした。なるほど草食系ねぇ。でもたがだかゲームごときで、しかもサイコロの目で勝ち負けが左右するこんなボードゲームごときで慎重であることは美徳でもなんでもない。それどころか時と場合によってはその慎重さというものが致命傷となることがあるのがゲームというもので。こういうところを変えていかないと、この国際社会で日本人が生き延びてゆくのは難しいのではないだろうか。そんなことまでも考えるようになっていた。まあサッカーもそうだよな。(ちなみに、日本時間の夜の11時頃に会話をオンにしている日本人の中級プレーヤーがいたら、それは私かもしれない)激安の20%OFF!!マグネット版バックギャモン (ポケッタブルシリーズ)【お取り寄せ】
2010年05月11日
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実は自分は伊坂幸太郎原作の映画群をさほど高くは評価していない。むしろ例外なのが「ゴールデンスランバー」ぐらいなもので、あとはまあなんていうのかはっきりいえば「原作負け」ばかりだなと感じている。というかこの「ゴールデンスランバー」の原作小説を読んだときに自分も感じたことだし多くの人も言っていたことなのだが「ゴールデンスランバー」どう考えても映像化(つまり映画)することを念頭に書かれているらしく、いままでの伊坂作品に比べると(映画化する人たちに対して)非常に優しいつくりになっている。そのほかの伊坂幸太郎の小説世界というものは小説という形式だからこそ成立しているといっても過言ではないくらいで。小説の中に盛り込まれている「情報」を映画の手法で「映像と音」に置換してしまうと非常にうすっぺらなものになりそうなものばかりで、そのまま映画化するととんでもない駄作に成り下がるのだろう。逆に言えば、映画を作る側からすればこれだけチャレンジフルな領域もないわけで、映画界の方から(つまり監督とかプロデューサーからいうことだが)伊坂作品に対して映像化のオファーが多いというのもよくわかるのだけれども。映画「重力ピエロ」を最初に観たときの感想をいうと「勘弁してくれよ」というような、どちらかというと低評価の感想であった。まあ今でもそれは変わらないのだけれども基本的には。なにが困るかというと、映画的な意味での「真犯人」の存在が最初からネタバレ気味なのはしかたないとしても、特に映画の最初の方で、真犯人の謎の行動が謎になっていないような浅い描写しかされていないのには、まあ正直いって画面から目をそらしたくなってしまっていた。伊坂幸太郎自身がこの映画に対して「下手するとただの『家族の物語』になってしまう危険があった」というようなことを言っていたが、これはズバリこの映画に対する酷評と同じである。皮肉なものだが。もっと酷いのはこの映画のトレーラー(予告編)だった。最近の映画でこんなにも怠惰な予告編は見たことがない。おそらく(原作小説を読まずに)この予告編を観てそして映画を見た人はがっかりしたのではないだろうか。だってそのまんまなんだもの。せめて映画化にあたっては、原作世界からぶっとんでも、もっと別の結末のようなものは付けられなかったのだろうか。そんなに難しいことではないと思うのだが。たとえば、警察が「真犯人」を逮捕しにやってくるとか。あるいは、今度は兄弟がふたりだけで(ナツコさんを交えて三人でもいいのだが)サーカスを観に行くとか。それだけでもこの映画の「読後感」はずいぶんと違っていたはずだ。2つい一ヶ月ほど前だったか、珍しく暖かい四月のある日、仕事と仕事の合間にぽっかりと空いた時間つぶしのために自分は一番丁の一丁目あたりをふらついていた。で、なんとなくだがヤマハの向かい側から「壱弐参(いろは)横丁」を抜けて次の目的地まで近道をした。自分がこの壱弐参横丁を通り抜けるのは久しぶりのことで、実に25年ぶりのことだったりする。目的のお店に行ったときでも帰りはそのまま元来た方角に戻るのが当たり前のことだからだ。この壱弐参横丁、映画にもチラリと出てくるが、昔の仙台の面影をそのまま残している貴重な区画になってしまった。ふと思い立って、映画の中でグラフィカルアート(落書き)のあったのところ(のロケ地)を曲がって覗いて見た。流石に落書きはちゃんと消されていたし放火の焼け焦げの跡も残ってはいなかった。(当たり前のことだけど)そのことに対しては、なんか奇妙な安堵感というものを得ることはできた。(つづく)重力ピエロまあ映画はともかく原作の小説は傑作
2010年05月07日
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『カムイ外伝』崔監督がブチ切れ!「ちゃんと観ろ!」と名指しで評論家に宣戦布告http://www.cinematoday.jp/page/N0019964?g_ref=twitterこういう記事を目にすると映画監督も大変な商売だなぁとしみじみと思う。たしかにこの点については秋山登という人の書いていることは一種の難癖に過ぎず「映画を見たのかアンタは?」という崔洋一監督の疑問と反論、言い分というものは100%正しい。というかこの映画に突っ込みをいれるんだったらそこじゃないだろうよ。自分はこの映画をDVDを借りて2度ほど、その後配信サイトで二度見た。自分はやっぱりこの映画は駄作だと思うのだ。ある意味最初から運命づけられていた駄作である。この映画、なにをトチ狂ったのか、白土三平の劇画から始まる。カムイの誕生から抜け忍になるまでを白土三平の原作のコマを使ってダイジェスト的に説明するのだが、そこから実写本編に切り替わると「アレっ?」みたいな虚脱感に見舞われる。こういうことをされると、見るほうとしてはどうしたって原作の劇画とこの実写映画を比較してしまうからだ。で「駄作じゃん」という感想になるのだ。そういう意味で冒頭の劇画によるイントロダクションは外して欲しかった。また、小雪が演じたスガルのキレイさ(若さ)も足を引っ張ったという感じもする。カムイの幼馴染であり、抜け忍となったカムイの命を付け狙う追忍ミクモ役の芦名星(あしな・せい)は頑張っていただけに。こんな美人女優でもこの映画ではこんな感じ。頑張ってるよなぁ… 【中古】その他コミック カムイ外伝-スガルの島- / 白土三平【PC家電_146P10】
2010年05月03日
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土曜深夜にテレビでこの映画をやっていたのでなんとなく見てしまった。今見返すと、主人公のふたり、うた(成海璃子)とワオ(松山ケンイチ)そしてワオの彼女の香音(かのん)を演じている貫地谷しほり。この三人が並ぶとまるっきりDoCoMoが出資した映画かな?という気になる。もちろん関係ないんだが。前に書いたかもしれないが、自分はこの映画のDVDを持っている。現在旅行中で手元にないのだが。なんか「おくりびと」とか「のだめ」の効果で今クラッシック音楽がブームらしいが、どうもああいうブームにはどこかあざといものを感じている自分である。で、この映画「神童」だが、ひとことでいえば非常に地味な映画。それでも自分がこの映画に惹かれたのは映画全編を通して「音」の処理がよいということ。(それでついDVDも買ってしまったというわけ)無駄な効果音・BGMの類がないのが心地よいのだ。(まあほとんどのシーン、誰か弾いているピアノの音があるからあたりまえのことなんだけれど)自分はふと思ってしまった。もしかして、最近の映画(特に邦画)の音の使い方がちょっと酷いことになっているのは、(もしかするとだ)それは、作る側に「サントラ盤を出すためにも多くの楽曲を使わなければ」というような無言の圧力がかかっているからかもしれない というようなことを。ストーリー 幼い頃から「神童」と呼ばれていたピアノの天才少女、うた。彼女は指を保護するために球技を禁止され、常に手袋を着用するという生活を強いられていた。しかし膨らむのは大人の期待ばかりで「自分が本当にピアノが好きなのか?」ということさえ分からない。逆にワオは音大を目指す浪人生。次の試験に落ちればピアニストをあきらめなければいけない。そんな二人がちょっとした出来事で出会い、うたはワオにピアノを教えるようになり…。ウィキペディア「神童(映画)」より送料無料!!【DVD】神童/成海璃子/松山ケンイチ当然この映画のサントラCDも出ているが、DVD持ちの自分としてはまったく買う気が起きない。これが良いサントラであることは曲目を見て保証いたします。以前別のブログに書いた記事(一部)特にどこが素晴らしいというような内容というのではないが、自分はこの映画に吸い込まれた。こういう日本映画に出会うの実に久しぶりのような気がした。この映画の良いところをひとつ挙げるとすればそれは「音」がよいことだ。以前このブログで文句を言ったことがあるが、最近の日本映画、何故か俳優のセリフを含めて「音の録り方」が極端に悪くなっている。原因のひとつとしては、制作予算の関係で「アフレコ」のシステムではなくて、現場で俳優のセリフも一緒に録音してしまう「シンクロ」が一般的になってしまったことが大きいといわれているが。この映画の描いているもの、それは「音」である。音を描くというのも変だけど
2010年05月02日
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