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selection「選択」という意味であるが、「淘汰」という意味もあるらしい。今読んでる小説に出てきた文章で印象に残ったものがある。「人間がセレクトすると選択で、神がセレクトすると淘汰になるんだな。」「淘汰」とは環境に適応した生物が子孫を残し、他は滅びる現象。選択。という意味である。日本語は、やはり奥深い。環境に適応した生物、すなわち強い遺伝子をもったものは生き残り、障害をもった生物、弱い遺伝子は生存できないというのが自然界のルールである。「淘汰」は神の選択というのは、最もらしい。医療の発達は、自然淘汰される生命まで助かる時代になった。その一方で、健康な遺伝子を持っていて、生まれようとしている生命も親の都合で絶たれることもある。また人工的に作られて生まれる生命もある。しかし、どのように人間が進化したとしても、神の領域というものは、決して人間の手中に収まるということはないであろうと漠然と考える。
2005.11.30
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最近、本を読みたい衝動にかられて読書を再開した。自分自身を深めたいというとたいそうな感じであるが世の中のことを少し知りたくなったからかもしれない。子供の頃は、母が子供向けの世界の名作のようなものを借りてきては私に読ませていたような記憶がある。素直な私は、素直に読んではいたのだか、内容は今となっては覚えていない。国語はわりと好きであった。短大は国文科へと進むが、講義はわりと好きであった。しかし、今となってはほとんど覚えていない。「国語表現法」という講義は、興味深かった記憶があるが、覚えていない。しかし、どうしてこうも忘れっぽいのかと考えると女性は出産後、忘れっぽくなるという説がある。これは、出産の苦しみを忘れるから何人も産めるのだという説もあるが、それもその通りで、その時はつらくても何年か経つと忘れていくのである。私が考えるに、子育てという重労働に翻弄しているうちに過去の比較的どうでもいい記憶は、脳の認識されない部分に移動するのではないかと思う。とにかく子供を産む前と産んだ後では、自分自身はかなり大きく変化した。この変化に脳の中で何らかの異変があるのではないだろうか。子供を産む前と産んだ後では、確実に私は変わったと感じる。今思えば、脳の柔軟なうちに、どうしてもう少し本を読んでおかなかったのだろうと後悔する。後悔とは、やらなかったことに対してするものだとつくづく思う。それは過ぎ去った時間は、どうしても取り返せないということと同じことである。しかし、今本を読んでいて思うことは、10代、20代の頃に同じ文章を読んだとしても、自分自身が若すぎて今のように心に浸透しないのではないかということである。人間の心情というのは、常に変化し続けていくものだと実感する。ただ、記憶力の低下と忘れるスピートは大幅に加速していくのはまぎれもない事実である。常に読書の習慣をつけていかなければ、忘れるほうが早いというのが実感である。
2005.11.27
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「それでは、またいつか。」などと、行方をくらますようなことを書いておきながらその2日後に日記を更新するのも何だけど、近況報告。カゼが治ったと思ったら、またカゼをひいた。おまけに下の息子も今日の夕方から熱が出た。明日、幼稚園は休まなければならないだろう。もともと基礎体力はあるほうで、昔から学校を病欠したことはほとんどない。だというのに、こう続けてカゼをひくようになるのはそろそろ年齢的に無茶はしてはいけないということなのであろう。カゼをひいているときのタバコは不味い。この「不味い」という言葉は、私は食べ物の場合は使わないことにしている。「まずい」というのはかなり否定的な言葉で食べ物というのは、我々に食べられるために存在しているのに「まずい」と言われてしまったら、存在を全否定されることになる。物質に心はないにしても、存在を全否定されるのは忍びない。なので、「まずい」と迂闊に言わないことにしている。別にいい人ぶっているつもりはないが、読み方によれば偽善っぽく感じるのは否めないかもしれない。しかし、カゼをひいているときのタバコは不味い。ずっとカゼひき状態であれば、タバコはやめられそうである。ということは、タバコがやめられないということは今現在、自分自身が健康でそれがあたりまえだからである。病気にならないと健康のありがたさはわからない。本当に病気で苦しんでいる人には、タバコがやめられないなどと言っている人間の心情など贅沢なものだと察する。読書を再開した。1日に1時間でも読んでいきたいと思う。更新はまた気が向いた時に。
2005.11.24
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「充分」と「十分」の違いが気になった。手持ちの国語辞書、ネット上の辞書で調べたところ、同じ意味のようである。特に使い分ける必要はないようだ。「誉める」と「褒める」も同じであった。それでは、なぜ漢字が二通りあるのだろうか。日本語の難解。「デジャビュ」一度も経験したことがないのに、すでにどこかで経験したことがあるように感じること。既視感。こういう経験を一度してみたいと思っている。「歯科衛生士」という響きは、エロチックである。と考えるのは私だけだろうか。晩秋から冬は、夕方の時間が短い。あっという間に風景は暗闇に包まれてしまう。夕方のこの時間は、昔から変わることなく私を切なくさせる。それは小説を読み、心にひっかかる文章を見つけたときのように自分の中の深いところをふるわせるのだ。ベランダでタバコを吸うのも寒くなってきた。空気も冷たく乾燥してきた。これからまた寒い季節が始まろうとしている。日記の更新、不定期にします。本をゆっくり読みたいのと、あと冷蔵庫の片付けとかしたいので。それでは、またいつか。アオタ キョウコ
2005.11.22
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小学2年生の娘は、今は九九の暗記の真っ最中である。先日、興味深い事実をきかされた。9×1= 99×2=189×3=279×4=369×5=459×6=549×7=639×8=729×9=81九の段の答えの一の位に注目。なんと9×1から順番に9、8、7、6、5、4、3、2、1、になっているのである。十の位も0、1、2、3、4、5、6、7、8、となっている。9×10以降もこの法則は、ほぼ続くのである。娘は同じクラスの男の子にきいたといっている。よく考えてみたら、9ずつ増えていくのであたりまえのことである。知っている人にはどうってことないことだろうけど私は39歳の今まで知らなかったのである。数学の世界には、他にもいろいろな法則があるのであろう。世の中には、自分の知らない法則が数多くあるに違いない。39歳も終わろうとしている頃に、九九の不思議を娘から聞き、妙に新鮮に感じた晩秋の一日であった。
2005.11.21
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コーヒーメーカーのガラス製のポットが割れた。大事に使っていたつもりでも、形あるものはいつかは壊れる。そこで、ガラス製のポットだけ買おうと思って量販店に行くとポットはメーカー取り寄せで1週間かかり、値段は2300円するという。コーヒーメーカーを見てみると、いろいろ種類はあるけど2900円で新品のコーヒーメーカーが買えるのでる。しばらく悩んだが、2900円の新品を購入することにした。けっきょく、古いコーヒーメーカーはまだ使えるのにゴミになってしまった。片方がよくても片方が使えないと使い物にならない。その片方だけを変えればいいのに、かえってお金がかかり、取り寄せる時間もかかるという現実。またひとつ使えるものをゴミとして増やしてしまったと少々懺悔する。世の中の不条理を感じながらも、自分も充分それに染まっていることを自覚する。日曜日の夕方というのは、どうして切ないのだろう。これは昔から変わらない感覚である。それは、明日から始まるいつもの平日を考えてしまうから、という理由だけではないような気がする。そんなことを考えながら、平凡に日曜日は過ぎていくのであった。
2005.11.20
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「ガラスの仮面」という漫画がある。私の少女時代から連載されていて、コミック本は全巻そろえていた。大変読み応えのある演劇の話で、新しく新刊が出るのが待ち遠しかったことを思い出す。結婚して子供が生まれたりして、すっかり忘れていたのだがふとこの漫画は完結したのかどうか気になった。ネットで調べてみた。第1巻の発行年月日は1976年04月。連載開始から30年近く経っていることになる。どうやら42巻が出ている。41巻から6年たっているらしい。一体何巻まで買ったのか覚えていない。本は実家に預けたままになっている。カスタマーレビューを見る。>早く最後まで描いてください。花とゆめで連載が開始された時、私は小学校1年生でした。今、3人娘の末娘が小学校1年生です。>41巻からなんと6年経って、とうとう出た42巻に、ものすごく期待して読んだのですが・・・。ぜんぜん話が進まんやんか!>話のテンポが問題じゃないのです。マヤが急にグラマーになっても、携帯が出てきてもいいのです。大きな流れとして本作の小気味よい展開を望むのです。そして心の奥底からゾクゾクさせて下さい。 しかし、もう完結してるだろうと思っていたが、まだだったとは・・・この物語は果たして完結する気があるのか。今読んだとして、10代の頃と同じ気持ちで読めるだろうか。とにかく、月日は流れたのである。
2005.11.19
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最近、寒くなった。うちのトイレはウォシュレットなので、冬場は便座を暖めている。これに慣れると、たまに公衆便所で洋式しかない場合、あきらめて座るけど冬はメチャつめたい。また、ウォシュレットに慣れると、妙にキレイ好きになってしまいウォシュレットじゃないとイヤになってしまう。まったく贅沢な話である。人間は一度染み付いた贅沢は、なかなか抜けないものである。発展途上国に自分が生まれ育ったのならば、こういう贅沢も知らなかっただろうと考える。また最近の清潔志向にも何か疑問を感じる。抗菌加工とかそういう類のものもそうである。どこまでキレイにしたら満足だというのだろう。先進国の人が毎日洗濯機を回し、毎日食器洗剤で洗い物をするとどれほどの環境汚染になるのだろうと考えながら、少しの罪悪感を感じながらも今日も洗濯機をいつものように回す自分は、しょせん傍観者なのである。
2005.11.17
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実家からコードつきのアイロンをもらった。やっぱり、コードつきはかけやすいという結論に達した。そこで、約11年使ったコードレスアイロンの処分をどうしようかと思案している。今まで必要とされてきたものが必要でなくなるとき。そこはかとない無情を感じる。生活というのは、これの繰り返しである。常に新しいものが現れ、古いものは淘汰されていく。そして、忘れ去られていくのだ。諸行無常。しかし、今までにじゅうぶん役割を果たしてきたという価値は変わることはない。物質としての存在理由は、そういうことなのであろう。そういえば、子供の頃大事にしていたぬいぐるみはどうなったのだろう。まだ少女だった自分を思い出すとき。そのときに一番大事だったものは、もうこの世にはいない。もう子供の頃のように、ぬいぐるみを大事にすることはできない。同じ気持ちでぬいぐるみを見つめることはできないのだ。そうして皆大人になっていく。役割を失ったコードレスアイロンが、寂しげに押入れにたたずんでいる。11月。季節は晩秋。それは晩秋の夕方のように、はかなく寂しい。
2005.11.16
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冷蔵庫のドアを閉め忘れた。すると、息子が「お母さん、冷蔵庫閉まってへんで。電気代もったいないで。」と言う。普段、冷蔵庫をしょっちゅう開けっ放しにして、さんざん私から言われている言葉を言い返せたようで、本人は満足な様子であった。「お母さん、イドウってなに?」と訊くのでイドウ?異動?移動?と考えていたら「先生がイドウしてくださ~いって言うねん。」「移動」であった。「鳥はなんで雨がきらいなん?」と訊くので「カサさしながら飛ばれへんからやろ。」と答えてしまったが、不適切だっただろうか。そんな息子は、幼稚園の12月のお遊戯会に向けて、日々練習の毎日である。毎日同じ歌のフレーズを聞かされて、頭からなかなか離れない。「上手~。」とおだてると、ますます調子に乗り、エンドレスに踊りは続くのであった。
2005.11.14
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人は何のために生きているのか。それは、存在を認められたいからなのだと思う。人には与えられた天性、適性がある。芸術、仕事でその天性を発揮できる人もいれば平凡でも子供を持てば、子供にとってはたったひとりの父親、母親になれるのである。親が子供を虐待する。子供の前で、夫婦ゲンカをする。これは、子供にとっては自分の存在理由がわからなくなることである。だれでも誰かに認められたい、必要とされたい、愛されたいと思っている。けっきょく人は、人がいないと生きてはいけないということなのだろう。
2005.11.13
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いろんな人の日記を読む。プロではない人の文章は、新鮮で素直である。こういう表現もあるのかと発見もある。文章というのは、思っている以上に表情がある。その人が本当に伝えたいと思っていること、感じたことが文章を媒体として伝わり、心を動かされることもある。その反面、自分のことをよく見せようとか自慢のようなことを書かれるとなんとなく読む気がしなくなる。本人にその気がなくても、文章は語っているのだ。こんなことを感じる私は、たぶん性格があまりよくないのだろう。
2005.11.12
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気になる言葉がある。「形而上的」という言葉。形而上(けいじじょう)はっきりした形が無く、感覚の働きによってはその存在を知る事が出来ないもの。精神的なもの。日常生活で全く使うことはない言葉である。以前に読んだ小説に出てきた言葉で、何故か私の頭から離れない言葉である。ついでに、「形而上学」という学問があることも知ることころとなった。形而上学(けいじじょうがく)は哲学の一部門であり、物理学や心理学や脳の生物学といった自然諸科学に、あるいはまた神秘主義や宗教や精神的主題 (spiritual subjects) に関係付けられる。非哲学者への紹介のために形而上学を定義することは、非常に困難(notoriously)であるが、存在、実在、普遍、属性、関係、因果性、空間、時間、出来事……その他諸々の、他の諸概念が、まさにそれに基づくところの現実性の基礎的本性 (the basic nature of reality) に関する、最も根本的な概念や信念の研究として定められる。世の中には、自分の知らないことのほうがはるかに多い。脳細胞が実際には数パーセントしか使われていないように、自分の知識というのは、世の中の数パーセントのことを知っているだけにすぎないのである。
2005.11.10
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下の息子がまだ赤ちゃんのときのことである。1歳前の赤ん坊は、夜中に泣くので、その度に抱っこしたり、おっぱいをあげなければならない。いつものように息子が夜中に泣き出し、ダンナが私に気をつかって息子を抱っこして泣き止ませようとしたのだが息子は依然として泣き止まない。そこで私が抱っこすると、ピタリと泣き止むのであった。電気もつけていないので、真っ暗である。顔は良く見えない。息子は抱かれた感覚とほっぺたの感触、匂いで私と認識したのであろう。その時に私は母親であるということを実感したのであった。息子は私に抱いてほしかったのだろう。男の子の母親に対する執着は、女の子と少し違う。これは両方育ててみて感じたことである。男は皆、多少の差はあれマザコンなんだろうなと思う。これは男の子の母親になって理解できたことである。仕事でも何でも、自分の代わりはいくらでもいる。自分がいなくて会社がまわらないという事はない。社長や総理大臣だって、代わりがいるのだ。自分がいなくなっても、世の中は何もかわらない。いつものように、テレビでは娯楽番組が流れ、時間は平然と時を刻むことをやめない。でも、母親の代わりはいない。この世にたったひとりしかいないのだ。
2005.11.08
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小学2年の娘が5歳の弟に「油っぽいものを食べ過ぎたらあかんねんて。」と言っていた。弟が「なんで?」と訊くと「体に悪いねん。」と得意げに話していた。娘の好物は、ポン酢で食べる鍋である。冬場、毎週日曜日鍋物でも喜ぶのである。この前、娘が「お言葉に甘えてそうするわ。」という言葉をつかっていたが、弟がそれに対してどういうリアクションをしたのかを見落としてしまった。そんな娘は、毎日学校の宿題である掛け算の九九を大声で練習している。今時の九九は、5の段から暗記するようである。そして気が向けば、弟に九九を得意げに教えているのであった。
2005.11.07
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家から5分たらずで、大和川の土手にでられる。川沿いに細い道が舗装され、なかなか良いサイクリングコースになっている。去年は、大和川沿いのこの道を自転車で約30分ほどこいで柏原の花火大会を見に行った。花火といえば、8月1日のPLの花火は有名である。うちの近くの土手からもかすかに見える。この日は、このわずかな花火を見るために、わりと人がこの土手に集まるのであった。福岡に住んでいた頃は、高校野球でPL学園という名前を聞くたびに大阪にある都会の学校というイメージだった。大阪に来てみて、意外と田舎にあることに少し驚いたのであった。富田林に住んでいる人は、世界一といわれるPLの花火を間近で見られていいなぁと今でも真剣に思っている。家から自転車をしばらく走らせると河川敷では、無料で使えるテニスコートもありそういえば、以前ここでテニスをしたこともあった。ずいぶん前のことだが、今もあると思う。大和川の土手にすわって、ぼんやりと瞑想するのもいいかもしれない。(あやしい人と思われるであろう。)でも残念なことに、自分のために使える時間というのが私には限られているのであった。独身の頃は、学校と会社に行ってる時間以外は全部自分の時間だった。今思えば、貴重な時間だった。あたりまえだったことが、失ってみて大事だったと気づくものである。でも、その引き換えに得たものは、やはり私にはかけがえのないものなのだ。
2005.11.06
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カーペンターズが好きで、最近よく聴いている。中でも一番好きなのは、「I NEED TO BE IN LOVE」邦題は「青春の輝き」である。邦題というのは、どうもしっくりこないのが世の常なのか。10代の頃によく聴いた音楽を今聴くのが好きである。多感な年頃に聴覚、視覚など五感を通じて感動した記憶は、長い年月を経て再現された場合、より輝きを増す。まだ未来がわからない自分と現在の自分が同居しているような不思議なせつなさに陥るのだ。「青春の輝き」の最後の歌詞がなかなかいいのである。I know I need to be in loveI know I’ve wasted too much timeI know I ask perfection ofA quite imperfect worldAnd fool enough to think that’sWhat I’ll findわかってる、私は恋に落ちるべきねそうね、時間を無駄にし過ぎたわ私はこの不完全な世界に完璧を求めているそして愚かにもいつかそれが見つかるって思ってるの
2005.11.04
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電車に乗って、景色を眺めるのが好きである。できれば、普通電車。ローカル線ならなお良い。私の出身は福岡だが、福岡は赤字ローカル線の宝庫であった。今現在はどうかわからない。私のいいかげんな記憶が正しければ、当時全国一赤字ローカル線が多いのは北海道で、第2位は福岡県であったと思う。高校生の頃は、ふらふらと県内のローカル線を乗りに出歩いたものであった。中でも印象に残っているのは、通学でも使用していた香椎線である。この香椎線、JRで唯一起終点両方の駅で他路線との連絡がない。当時はJRでなく国鉄であった。国鉄土井駅から香椎駅まで香椎線に乗り、鹿児島本線に乗り換えていた。途中引越ししたため、1年弱の通学路であった。通学で乗っていた区間ではなく、好きだったのは海ノ中道駅から西戸崎駅までに広がる海の景色だった。ローカル線から眺める海は美しい。今でも変わらない風景だろうか。大阪に住んでいるため、多感な時を過ごした風景を思い出すだけで実際に行くことがなかなかできない。当時から20年経った。自分自身の記憶も薄れてきている。時間の経過とともに、風景も変わったかもしれない。もう一度、ローカル線に乗って車窓からあの海を見たい。当時の自分に会いに行く感覚を味わいたいのだ。
2005.11.02
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昨夜、妙な夢を見た。妹がうちに来ている。顔は笑っているのだが、話し始めると涙ぐむ。私は真剣に話をきこうとしているのだが、そこで夢は終わってしまうのだ。そして不思議なことに、何故か妹は全裸なのだ。寝入りばなに不思議な夢をよく見る私である。よく夢がカラーか白黒かという話をきくが私は今までに白黒の夢というのを見たことがない。ネットで調べてみると、感受性の強い人、心身に何らかの影響を受けている人がカラーの夢を見るという説がある。感受性が強いかどうかはおいといて、「心身に何らかの影響を受けている人」というのが気になる。子供の頃からそうなんだけど。一応、現在では「誰もがカラーの夢を見ているけれど、起きた時に色を覚えていない」 という見解らしいということを付け加えておく。今回の夢も当然、カラーだった。妹のすこし明るめに染めた髪の毛の色が印象的であった。
2005.11.01
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