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京都国立博物館で開催中の特別展「池大雅」を鑑賞したことを先日ご紹介しました。京都国立博物館を出て、七条通に立ち、阿弥陀ケ峯を遠望した景色です。七条通の突き当たりに見えるのは智積院の山門。その前の南北の通りが東大路通です。 「池大雅」展の後、天気も良いので、久しぶりに「豊国廟」を訪れてみました。幾度か訪れていますが、直近でもはや十数年前になります。東大路通に面する智積院とその妙法院との間に「豊国廟」への参道坂道があります。 坂道をしばらく上ると、大きな石鳥居が見えます。そこに大きな石灯籠が立っていて、火袋のところに太閤桐紋がレリーフされています。石鳥居の前には石段道がありますが、この鳥居の北側にも坂道があります。この石鳥居の南側が「新日吉(いまひえ)神宮」です。坂道の北側で、妙法院の背後には現在ホテルができていて、その東側の区域は京都女子学園のキャンパスです。ここは付属小学校から大学・大学院まで一貫教育のシステムが整っているようです。そこから、この豊国廟参道は、「女坂」と通称されているとか。(資料1) 坂道を上った先に、2つめの石鳥居と石段が見えます。 石段を上ると、その先に阿弥陀ケ峯が正面(東方向)に見えます。今は樹木が繁った山が見えるだけです。石鳥居から山裾までの平坦地が「太閤担(だいら)」と称され、かつては社殿があった境内地です。慶長3年(1598)8月18日、太閤豊臣秀吉は63歳で伏見城にて薨じました。その遺骸は遺命によって翌慶長4年4月にこの阿弥陀ケ峯の頂上に葬られて、山頂が墓所となったのです。後陽成天皇から豊国大明神の神号と正一位の神格を下賜されます。つまり、豊臣秀吉は神として祀られ、この山腹(太閤担)に壮麗壮大な「豊国社」が創建されたのです。「それより毎年4月・8月各18日の祭日には勅使が参向し、恩顧の諸大名の参詣が絶えなかった」(資料2)といいます。殊に、秀吉の七周忌臨時祭が慶長9年(1604)8月に行われると、京都の町衆は挙げて「豊国踊り」を行い、風流歌舞をなして廟前に群集したそうです。伝岩佐又兵衛筆「豊国祭礼図屏風」(六曲一双)がその祭典の熱気溢れる様子を描いています。「向かって右隻には豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納、騎馬行列が、左隻には方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が華美ないでたちで豊国踊に熱中するさまが描かれる。一双で千人近い人物が華麗な彩色と力強い筆致で、しかも細密に描きだされており、これらの群衆が織りなすうねるような狂躁や熱気は、見る者を圧倒する。」(資料3)というものです。「豊国祭礼図屏風」はこちらからご覧ください。(「文化遺産オンライン」)また、その当時の豊国廟・豊国神社の様子を今に伝えている屏風絵が現存します。それが「洛中洛外図屏風」(舟木本)です。部分図を引用します。(資料4) 江戸時代・17世紀の岩佐又兵衛筆『洛中洛外図屏風』(6曲1双)の右隻第一扇の上部、つまり右隻屏風の右上隅部分に、阿弥陀ヶ峰山頂の墓所(廟)がお堂の形に、その麓に豊国神社が描かれています。豊国廟のところには「とよく尓」と記されているように読めます。これは元和初年(1615)頃の作とされているそうです。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡するのがこの年です。この洛中洛外図は、その後に東山に築かれた豊臣家関連の名刹の影を薄くする政策を江戸幕府が実行する前の様子を伝えていることになります。ひとまず、その経緯を飛ばして、現在時点の探訪を先に進めます。 石鳥居をくぐると、右斜めのところに、手水舍があります. 屋根の鬼板には、太閤桐紋がレリーフされています。 蟇股にも太閤桐紋、木鼻はシンプルそのものです。 参道の正面に「拝殿」があり、その左斜め前(北西側)に受付所があります。ここで豊国廟登拝券を購入しました。 シンプルな木組みです。 豊国廟に登拝するには、この真っ直ぐにのびる正面の石段を上ることになります。登拝券の記載によると、階段は489段です。 石段途中で振りかえって 8割方上ったところで、一旦平坦地が開削されていて、その先に門が設けてあります。 手前の石灯籠下ってきてから気付いたのですが、対の石灯籠の笠の上の宝珠部分が欠損となっています。心なき輩が悪さをした結果だそうです。 門に近づくとその先に最後の上りの石段が見えます。幾度か訪れていますので気にしていないのですが、初めての登拝者はまだ上るの・・・・とちょと落胆かも。 唐破風の屋根の獅子口には、太閤桐紋のレリーフが見えます。 扉の上部にも大きい太閤桐紋のレリーフが施されています。 屋根の内側を見上げると、こんな木札が取り付けてあります。 さあ、最後の石段です。 上りきると、正面に石柵で囲われた豊国廟が見えます。巨大な五輪塔(墳墓)です。この五輪塔は高さが約10m(3丈1尺)と登拝券に記されています。 五輪塔には文字は一切刻されていません。五輪塔の前に置かれた香炉の正面に太閤桐紋のレリーフが見られるだけです。 石柵の手前左右に、これまた大きな石灯籠が一対設置されています。 その竿の部分上部に、「明治三十一年四月」と刻されています。現在のこの御廟は、明治31年豊太閤300年祭にあたり、豊国会により造営されたものといいます。京都国立博物館のある敷地の北隣に、現在、豊国神社があり、その北側に方広寺の鐘楼とお堂があります。このあたり一帯はかつての方広寺の寺域になります。明治維新の後、明治13年(1880)に方広寺の地に、「豊国神社」が再興されました。それを契機に、明治31年(1898)に豊国廟の修築が行われ、豊太閤300年祭が4月18日に盛大に行われたそうです。(資料2)そのことが、江戸時代の有り様との対比になるわけです。1598年8月に太閤秀吉が没すると、2年後の1600年9月に関ヶ原の戦いとなります。東軍が勝利を得、江戸に幕府が開かれました。しかし、この時点で大坂城を拠点とする豊臣家は存続しています。慶長元年(1596)の大地震で伏見城が壊れるのと併せて大仏殿も倒壊していました。秀吉は大仏の復興に着手しますが、間もなく没し、秀頼がその遺志を継いで造仏を継続します。しかしこれもまた1602年に銅造大仏の腹中より火を発し、焼亡したそうです。1610年に家康は秀頼に太閤の供養として再度方広寺の大仏再興を勧めます。家康は秀頼に各地の寺社への寄進建立なども含めて、豊臣家の財をできるだけ費消させるという政略を講じたのでしょう。1612年3月、大仏が竣工し、1614年8月に盛大な大仏開眼供養を行う予定がたてられます。このときに合わせて鋳造されたのが方広寺の鐘です。1614年5月、有名な「方広寺鍾銘事件」が起こるのです。その上で、この鍾銘への言いがかりです。この家康によるクレームが大坂冬の陣、夏の陣へと突き進む契機になります。そして豊臣家が滅亡します。豊臣家が滅びた後、江戸幕府の命により豊国神社は廃祀されます。現在、智積院がある場所は、初めは豊臣秀吉が長子鶴松(棄君)が早世したことを悼み、1592年頃に、菩提寺として祥雲寺を建立したところだそうです。秀吉の没後に、智積院玄宥が1600年に徳川家康に愁訴した結果、祥雲寺と豊国神社に所属する土地や建物の寄進を受ける形で、「五百仏山根来寺智積院」と号する寺の創建となります。「慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した棄丸(すてまる)の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました」(資料5)と「智積院の歴史」の中にも明記されています。一方、「新日吉神宮」は1160年に後白河上皇が法住寺殿造営に際し、近江国坂本の日吉神を勧請したのが起こりだそうですが、応仁の乱後に衰微します。そして、三代将軍家光の寛永年間(1624~1644)に、妙法院堯然法親王が新日吉神宮を再興し、豊国廟参道の中央に神社境内を移したといいます。興味深いことは、新日吉神宮境内には、末社として「樹下社」が祀られています。この末社は木下姓の秀吉をひそかに奉祀したものと言われています。つまり、豊臣家没落後、東山のこの辺りは様変わりして行ったのです。外観的には東山から豊臣色が消されて行ったことになります。尚、大仏殿方広寺はさすがにそのまま残ります。安永9年(1780)に出版された『都名所図会』には挿絵入りで説明されています。大仏殿方広寺の前には、蓮華王院三十三間堂・新日吉社・智積院・養源院・修成院の本尊・妙安院・柿園という項目が並び、後には耳塚・平相国清盛公六波羅の館・小松台松林寺と続きます。阿弥陀ケ峯のことは触れていません。方広寺の説明の中に、「太閤秀吉公の石塔婆は仏殿の南にあり。豊国崩れて後これを営みしといふ。」このようにさらりと触れられているだけです。(資料6)また、『山州名跡誌』には、「秀吉公塔」という見出しを設け、一行のみ漢文で記述しています。読み下しますと、「大仏殿の南傍に在り、法号 国泰院殿雲山俊龍尊儀」と記されるだけです。こちらには、大仏殿の項の末尾に、読み下し文にしますと、鋳銅の大仏が再興された後のこととして、「近世破壊に及ぶ故に、復木像と為す」と記しています。(資料7)石塔婆と記されているのは、五輪石塔で、元和元年8月18日の銘があるそうです。秀吉の命日に供養のために造立されたものとか。俗に太閤御馬塚とも称されているそうです。(資料6) 江戸幕府により豊国神社が廃祀されたことに伴い、神格が廃されて、秀吉を祀る仏式の供養塔が設けられたわけです。明治維新後に、豊国神社が再興されたことにより、この五輪石塔は神社の東隅、現在の宝物館の裏側に位置しているとか。(資料8)明治31年(1898)に上記の通り、豊国廟が修築されるにあたり、新日吉神社は参道の南側に社殿が移転し、現在の境内地になったそうです。そしてこの参道、現在は学校の通学路としての利用頻度が最も高いという次第です。 今では、阿弥陀ケ峯には樹木が繁り、京都市内の眺望は木の間越しに市内を垣間見できる程度です。 門を見下ろした景色。結構急勾配の石段です。 石段を下りてきて、拝殿を眺めた景色 登拝路である石段傍、北側に立つ石灯籠です。火袋下の中台の請花の造形が特徴的です。例えば春日燈籠の中台の蓮弁請花でもその数はもっと多くレリーフされています。 この石灯籠から少し離れた北西より、つまり太閤坦の境内地全体でみると北東隅近くに、この石柵で囲われた石塔があります。 その傍に立つ遷墓碑 それぞれの五輪塔に、法名が刻まれています。左の小振りな五輪塔には、「漏世院殿雲山智西大童子」、右の大きい五輪塔には「寿芳院殿月晃盛久」と読めます。調べてみますと、左は豊臣秀頼の子国松墓です。右は秀吉の側室だった松の丸殿(?~1634)つまり、京極竜子墓です。(資料1,9)傍の石碑が「漏世公子及寿芳夫人遷墓碑」です。法名から名づけられた名称です。(資料9)元和元年(1615)5月8日の大阪城落城後、国松は家臣田中六郎左衛門と乳母の手助けで逃れて、伏見にかくまわれていたのを発見され、同年5月23日、六条河原で処刑されました。享年8歳。その死を松の丸殿は哀れみ、その遺骸を京極氏がもらいうけて、菩提寺である寺町の誓願寺に葬ったのです。明治になり、誓願寺等の境内地が上地という形で削られて、新京極が作られます。そのことから、明治44年(1911)に、松の丸殿墓と国松墓がここに改葬されたそうです。(資料1,9)私は、これらの墓所の存在を今回初めて知りました。 上掲墓所の西側にこれらの建物があります。その機能は説明文等がないので不詳です。 拝殿の位置からみると南西方向に、「献木 蓮華しだれ桜」と記された石標が立つ桜の木が植樹されています。この太閤坦の南側は、スクールバスの駐車場として利用されています。京都女子学園の通学用のバスの待機場のようです。通学のラッシュとなる時間帯に運用されるためのバスなのでしょう。 もう一つ、この石碑が目に止まりました。石柵で囲まれた献木の東側に建立されています。これは「豊太閤三百年祭記念碑」です。この画像は石碑の北面です。こちらには、「振兵威於異域之水 施恩沢於率土之間」と刻されています。「兵威を異域の水に振い恩沢を率土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)」という意味だそうです。「慶長4(1599)年に,秀吉に豊国大明神の神号が与えられ時の宣命から」採られたそうです。(資料10)この十六文字を抽出したところに、時代の風潮が表出されているように思います。太閤坦の入口に立つ石鳥居を境内地から眺めて、豊国廟を後にしました。調べてみると、東山のこのエリア自体が歴史的に大きく変貌してきたことがわかります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 女坂 :ウィキペディア2) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p130-1323) 豊国祭礼図屏風 :「文化遺産オンライン」4) 洛中洛外図屏風(舟木本) :「e国宝」5) 智積院の歴史 :「智積院」6) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p226-2357) 山州名跡誌 85/335コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」 8) 豊国神社 :「HIGSHIYAMA district」9) 漏世公子及寿芳夫人遷墓碑 HI159 :「フィールド・ミュージアム京都」10) 豊太閤三百年祭記念碑 HI141 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺洛中洛外図屏風(舟木本) :「東京国立博物館」京極竜子 :ウィキペディア豊臣国松 :ウィキペディア太閤・豊臣秀吉ゆかりの宝 豊国神社 宝物館 :「京都で遊ぼうART」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -4 智積院スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 2回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院探訪 [再録] 京都・七条通を歩く -3 籔内家・渉成園・七条仏所・松明殿稲荷・豊国神社・耳塚・京都国立博物館・三十三間堂ほか
2018.04.30
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北葛城郡河合町の東部を歩くという探訪をまとめて先にご紹介しました。この時に、「穴闇」を「ナグラ」と読ませるという町域を知りました。それが発端で、河合町には難読地名が他にもあるか、ということに関心を抱きました。そこで地名の一覧としては郵便番号のリストが確実で便利なので、この範囲で調べてみることに。しかし、難読地名はこの「穴闇」くらいでした。そこで序でに、少し悪乗り気味ですが、奈良県の地名で、私にとっては読めなかった、読みづらいなあ、そんな読み方になるのか・・・・と思う地名(町域)を抽出してみました。試し読みしてみてなんとかまあそういう読み方も思いつきそうというのは除きます。東西南北とか上中下などの接頭文字が付く近隣町域がありますが、それはここに抽出したものでカバーしているとご理解ください。括弧内は郵便番号の読み方を転記しました。(転記ミスがあるかも・・・・。その場合は、ゴメンナサイ。妖しいと思われたら、参照資料でのご確認を!)勿論私の主観による難読地名の抽出にしか過ぎません。これらの地名の由来をさらに調べれば、興味深さが一層加わるかもしれません。それが課題に残りますが、まずは・・・・・・まとめてみます。奈良市 阿字万字町(アゼマメチョウ)、藺生町(イウチョウ)、邑地町(オオジチョウ) 興ケ原町(オクガハラチョウ)、肘塚町(カイノヅカチョウ)、杏町(カラモモチョウ) 北京終町(キタキョウバテチョウ)、都祁吐山町(ツゲハヤマチョウ)宇陀市 大宇陀小附(オオウダコウツケ)、芝生(シボウ)、守道(モチ)、 榛原戒場(ハイバラカイバ)、上井足(カミイダニ)、角柄(ツノガワラ)橿原市 雲梯町(ウナテチョウ)、小房町(オウサチョウ)、小槻町(オウヅクチョウ) 膳夫町(カシワテチョウ)、小綱町(ショウコチョウ)、中曽司町(ナカゾシチョウ)葛城市 北道穂(キタミツボ)、薑(ハジカミ) ⇒ 辞書を引くと、ハジカミはショウガの古名だそうです。五條市 賀名生(アノウ)、江出(エズル)、大日川(オビカワ)、御所市 御所市(ゴセシ) 五百家(イウカ)、稲宿(イナイド)、今城(イマンジョウ)、蛇穴(サラギ) 奉膳(ブンゼ)、重阪(ヘイサカ)、桜井市 粟殿(オオドノ)、小夫嵩方(オオブダケホウ)、忍阪(オッサカ)、下居(オリイ) 多武峰(トウノミネ)、外山(トビ)、豊前(ブンゼ)、吉隠(ヨナバリ) 大和郡山市 藺町(イノマチ)、今国府町(イマゴウチョウ)大和高田市 勝目(カジメ)、生駒郡斑鳩町 興留(オキドメ)生駒郡平群町 椿井(ツバイ)、福貴(フキ)、椣原(シデハラ)北葛城郡王寺町 葛下(カツシモ)高市郡明日香村 檜前(ヒノクマ)高市郡高取町 羽内(ホウチ )山辺郡山添村 菅生(スゴウ)、助命(ゼミョウ)、虫峰山(チュウムザン)吉野郡川上村 井光(イカリ)、東川(ウノガワ)、上多古(コウダコ)、入之波(シオノハ) 枌尾(ソギオ)、武木(タキギ)、人知(ヒトジ) 吉野郡天川村 九尾(ツヅラオ)、洞川(ドロガワ)、南角(ミノズミ)吉野郡十津川村 迫西川(セニシガワ)、玉置川(タマイガワ)吉野郡東吉野村 小(オムラ)、木津(コツ)、大豆生(マメオ)吉野郡吉野町 国栖(クズ)、入野(シオノ)、六田(ムダ)如何ですか? ひとめでサラリとこのように読めますか? 地名っておもしろい! それぞれの地名に歴史があるのでしょう・・・・・。さて、京都も試してみましょうか。ご一読ありがとうございます。参照資料奈良県の郵便番号 :「郵便局」こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 奈良県・河合町東部を歩く -1 御幸瀬ノ渡跡・市場垣内遺跡・定林寺・城山古墳ほか 3回のシリーズでご紹介しています。こちらの府県もご覧いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 (掲載 2018.10.6)
2018.04.25
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天理王寺線と高田斑鳩線の道路の交差点が「西穴闇」です。この漢字を見て、「にしなぐら」と読める人は地元の人を除くと少ないのでは・・・・・という気がします。私は読めませんでした。この交差点を西に渡るとそこは分岐点になっています。 分岐点の先端にこの覆屋があります。 覆屋の南隣りには、石塔や石仏を集めてあります。お寺に設けられている無縁仏の塚のような感じです。覆屋の中には、9体の石仏が並べてあります。地蔵尊なのかどうかはさだかではありません。大小をうまく並べて安置されているのがおもしろい。この分岐で、右側の道を西に進むと、 この古墳が見えます。 「中良塚(なからづか)古墳」(高山1号墳)です(赤い丸を付けたところ)。「穴闇(なぐら)塚」が転訛して「中良塚」になったと考えられているそうです。二段築成で墳丘の全長は88mの前方後円墳です。後円部直径45m、後円部高6.5m、前方部幅50m、前方部高6.5mと測定されています。城山古墳と大塚山古墳が北側に後円部が位置するのとは逆に、南側に後円部が位置する形です。5世紀後半の築造と考えられています。(資料1・2,案内板) ここも墳丘に上ることができました。 後円部上から北の前方部を眺めた景色です。幅10m以上の周濠が巡り、葺石をした外堤も確認されているといいます。墳丘のテラスには円筒埴輪列が巡り、斜面部には葺石が施されていたそうです。朝顔形・家形・盾形・蓋形の形象埴輪が出土しているとか。(資料1,案内板) 中良塚古墳から少し西に進むと、道路に面して「高山二号墳」の案内板が立っています。背後に円墳があります。(マゼンダ色の丸のところ)発掘調査で径35mほどの円墳で周濠が巡っていたと確認されています。現在は開墾等の変遷を経て、東西16m、南北18mの規模になっています。ここもちょっとためしにちょっと上ってみました。ここからは、人物埴輪の腕部分が出土し、人物埴輪の成立を考える貴重な資料となったそうです。(案内板、資料1) 道路の南側には民家が並んでいますので3号墳は見えません。民家の間から畦道を南に入ると、3号墳が見え古墳の背後南東側に西穴闇保育所があります。(紫色の丸を付けたところ) 保育所の西面が見える所まで南に進み、振りかえってみると、こんな風に3号墳が見えます。発掘調査により、径25mほどの円墳で、周濠の跡も確認されています。現在は東西18m、南北20mほどの規模で墳丘が残っている状態です。周濠の箇所から滑石製の勾玉が出土しているそうです。(案内板、資料1)3号墳からさらに西約80mほどのところに4号墳があるのですが、今回は未訪です。これら4基の高山古墳は大塚山古墳群内の一支流をなしています。この後、「西穴闇」地区からさらに南下し「穴闇」地区の「長林寺址」に向かいます。 現在の「長林寺」山門前の道路の反対側(西側)に 「素戔嗚神社」の扁額を掲げた石鳥居が立ち、参道の正面に社殿があります。(黄色の丸を付けたあたり)この境内地が7世紀後半に建立された寺院跡「長林寺址」なのです。鳥居をくぐった少し先の右側に案内板が設置されています。私はこの境内地を再訪することになりました。 かつての「長林寺」のことが詳しく説明されています。ここに七堂伽藍を備えた大寺院が存在したのです。以前の探訪では、この境内の一角に残る礎石配置を確認しています。 「長倉寺瓦」銘のある瓦が出土していて、古代には長倉寺と呼ばれていたことが推測され、また、長倉が転訛して現在の地名「穴闇(なぐら)」となったとも考えられるようです。 七堂伽藍の規模の寺も、室町時代には理由は定かではありませんが衰退します。その後、江戸時代の正徳4年(1714)に長林寺が再建されています。文久元年(1861)に現在の長林寺の本堂が建立されたと推定されているようです。かつての長林寺伽藍には三重塔が建立されていたそうです。その塔心礎が現在の「長林寺」の境内地に移されて保存されているということで、今回それを拝見できました。これが最後の探訪項目になります。 「長林寺」の山門には、「聖徳太子御遺跡」の扁額が掲げてあります。 山門 屋根の棟の鬼瓦 山門 屋根の降り棟の鬼瓦と飾り瓦 本堂の正面に「長林寺」の扁額が掲げてあります。蟇股や木鼻はシンプルな造形です。 本堂に向かって斜め右前に、お目当ての「塔心礎」が置かれてあります。知る人ぞ知るという類いになる探訪項目です。序でに、境内も併せて一部拝見しました。塔心礎の南方向に、五輪塔や五輪塔残欠があります。由緒などは未確認です。本堂傍に建つお堂を格子戸越しに拝見しました。 阿弥陀像が安置されています。このまとめをしながら、現在の長林寺のことを少し調べていて、黄檗宗寺院として再興されているということを知りました。意外なところで、わが地元・宇治との縁が繋がっています! (資料3)長林寺境内を出る前に、やはり本堂屋根の鬼瓦に関心が移ります。 降棟の鬼瓦 屋根の端に置かれた飾り瓦。躍動感に溢れています。 お寺を出てから撮った本堂屋根の棟の鬼瓦です。この後は現地解散場所となる近鉄・池部駅へ向かうばかり。(茶色の丸のところ) お寺のすぐ近くに、石仏群があります。今回も個々の石仏を観察するゆとりはありませんでした。お地蔵様が主体だと思うのですが・・・・・どうでしょうか。 お寺を回り込むと、背後には大きな池があります。溜め池の感じです。 こんな景色も眺めつつ、駅に向かいました。「名倉」の「なぐら」が転訛したとしても、なぜ「穴闇」となるのだろうか?そんな素朴な疑問が湧いてきます。調べていて、興味深い説明記事を見つけました。一説として、こんな地名由来伝承があるそうです。(資料4)「また、穴闇という地名には、推古天皇がこの地を通りがかった時に急に病になり『穴暗い』と言われたとか、聖徳太子の母が大きな倉に入った時に『穴倉のようだ』と言われたという伝承があります。」古代に「名倉寺」と呼ばれた寺が実在したことと、それとは別の由来である「穴闇」の伝承とが結びつき、この漢字が「なぐら」と呼びならわされるようになったのでしょうか? そんな思いにとらわれます。いずれにしてもおもしろい地名です。これで、「河合町東部を歩く」のご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「関西史跡見学教室31 ~奈良・河合~ 」講座レジュメ 2018.4.12 龍谷大学REC 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)2) 「水彩紀行 奈良県河合町」 河合町観光ボランティアガイドの会発行 当日入手資料3) 主な神社仏閣 :「河合町」4) 聖徳太子プロジェクト 北葛城郡河合町 :「いかす・なら」補遺長林寺 見どころ情報 :「ええ古都なら」(南都銀行)高山2号墳Ⅱ・中良塚古墳 :「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)高山3号墳発掘調査報告 :「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)長楽遺跡 :「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良県・河合町東部を歩く -1 御幸瀬ノ渡跡・市場垣内遺跡・定林寺・城山古墳ほか へ探訪 奈良県・河合町東部を歩く -2 廣瀬神社・宮堂遺跡・古墳[丸山・大塚山・九僧塚] へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -5 城山古墳、川合大塚山古墳、長林寺跡
2018.04.25
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飛鳥川と高田川が合流し曽我川となります。東からの流れてくる大和川と南から流れてくる曽我川が合流する地点が「川合」です。その合流地点で曽我川の左岸(西)に廣瀬神社の境内があります。(末尾の文化財案内地図に赤丸を付けたところ)前回遠望した石造太鼓橋「ひろせはし」は「ふけた川」に架かっています。定林寺、城山古墳を巡った後、この橋を渡ります。 この川が神社境内の西側境界になっています。境内は南北方向に縦長であり、奧深い参道が続いています。橋を渡ってその参道の途中に横から入ることになります。南を眺めた景色です。 築地塀で囲われた「祓戸社」の近くに出ました。祓戸四柱(瀬織津姫神・気吹戸主神・速開津姫神・速佐須良姫神)が祭神です。ここで身心の汚穢を祓い清めた後に本社を拝するという位置づけの社だそうです。 参道の南方向の眺め 本殿のある北方向の眺めこの朱塗りの鳥居は、両部鳥居の形式です。本柱の前後に四脚の控柱(稚児柱)がついています。ただし、本柱上端と島木の間の台輪はなく、明神鳥居と同様です。以前に廣瀬神社を別の探訪講座の一環で訪れており、私には再訪の機会となりました。 上掲の鳥居に至る手前に置かれています。戦争史の遺物(日露戦争戦利品の大砲)が奉納されています。 鳥居をくぐると、左側に手水舎があり、手水鉢の正面には「廣瀬水」と刻されています。 覆屋の屋根を見ると棟の端は獅子口です。橘の紋がレリーフされています。 正面に「拝殿」がまず見えます。 左側に回り込み拝殿を北西よりから眺めた景色です。ここでしばらく待機です。 拝殿屋根の棟の端は鬼板で、破風合掌部等と併せて、菊花の紋が使われています。これは廣瀬神社が官弊社だったことに由来するそうです。 拝殿の北に「本殿」があり、本殿は連子窓のある塀と中門で囲われていて、拝殿の側面から本殿を含めて外周を囲うもう一つの塀が設けられています。普通なら本殿の正面には行けません。 本殿の屋根を撮りました。拝殿と同様に菊花紋が見えます。現在のこの本殿は一間社春日造の様式で、正徳3年(1711)に造営されています。祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)で、水の神・五穀豊穣の神として信仰されています。(資料1,2)相殿として、櫛玉命(くしたまのみこと)、穂雷命(ほのいかずちのみこと)が祀られています。(資料3)この廣瀬神社の創建年代は不明です。『日本書紀』天武天皇の4年(675)の夏4月の10日のこととして、「風神を龍田の立野に祠り」、一方「大忌神を廣瀬の河曲に祠しむ」と記されています。それ以降、奈良・平安時代を通じ毎年国家による祭祀が営まれたそうです。(資料1,2)尚、『河相縁起』では崇神天皇の時代に創建されたと伝えられているといいます。(資料2)この探訪では、神職のお祓いを受けた後に、本殿の建物の周囲を間近に拝見する機会を得ました。堅固な造りの建物で間口は1間ですが、奥行は二間と数える造りになっています。蟇股や木鼻には桃山建築の特色が残されていて豪華な装飾彫刻が施されています。神域は撮影禁止でしたので、蟇股や木鼻の彫刻に関心を持つ私には至極残念でしたが、しかたありません。 鳥居の斜め右(北東)に位置する「神馬舎」です。この後、参道を南に進み、本来の廣瀬神社の正面入口に向かいます。 こんな手水鉢も。 祖霊社。祭神は大国主命 参道の途中、両側に狛犬が配置されています。神社の正面から進んでくるとこんな景色の中に狛犬が本殿のはるか手前で守護しています。参道の右側(東)には、「日吉社」への鳥居が立っています。 正面の入口に近いところ、左側(西)に、「稲荷社」があり、その手前に廣瀬神社の案内板が設置されています。上記したことがここに記されています。由緒には、永正3年(1507)の戦乱により本殿以下の建物を焼失したことが記されています。それから、200年余後の正徳元年に本殿が造営されたのです。神社にとっては悲願だったことでしょう。 正面入口の鳥居に近いところに掲示されています。 県道36号天理王子線に面する神社正面の鳥居です。明神鳥居が立ち、右側に「官幣大社広瀬神社」と刻した社号碑が立っています。 県道を横切り、南側の広々とした畑地の空間に入ります。この景色で前方南方向に一段高くなった広がりが見えます。この高くなったあたりが、「宮堂遺跡」で、『廣瀬大明神之圖』に描かれた定林寺の本来の所在地と考えられているところです。(マゼンダ色の丸のところ)その遺跡の上に立ってみましたが、今は何もない平坦な草原が広がるだけです。ここからは、縄文晩期後半の土器と石器が出土し、石器制作による剥片・石核も確認されています。また、「5世紀の遺物が確認され、大塚古墳造営時期の集落の可能性がある。鉄滓や鞴羽口も出土し、鉄器生産もしていたと考えられる」(資料1)そうです。(資料1,4) 宮堂遺跡に立ち、南に所在の「長楽遺跡」のあたりをズームアップで撮った景色です。(紫色の丸を付けたところ)この後、天理王子線沿いに西に歩き、北方向の御幸橋に繋がる道路との交差点で右折しますと、少し先に古墳が見えます。 「丸山古墳」です。二段築成がはっきりとわかり、径48mの大型円墳です。周濠もあったと考えられていて、5世紀後半の築造だそうです。(資料1,5)(青色の丸を付けたところ) 丸山古墳の前の道沿いに戻り交差点を越え、南にしばらく進み、民家の間で右折すると、巨大な古墳の側面が見えます。「大塚山古墳」です。ここは廣瀬神社とともに一度来ています。(空色の丸を付けたところ)全長197mの前方後円墳です。この全景の右側が北で、後円部にあたり、左側に前方部が南にのびています。幅40mほどの内濠、幅20mほどの堤、さらに幅15mほどの外濠がめぐっていたそうです。 内濠は今は農地になっている感じです。前方部と後円部の繋ぎめあたり(くびれ部)に至る畦道があります。以前もここを往復しました。この通路の入口近くに、 この説明板が立っています。後円部直径108m、後円部高15.8m、前方部幅110m、前方部高16.4mという規模です。出土品からこの古墳も5世紀後半の築造と推定されていて、同時期では奈良盆地内で最大級の古墳だそうです。被葬者は不明。大和川の水運と密接な関わりを持った人物と考えられています。 墳丘上には竹が生い茂っていて竹林になっています。前方部墳頂への坂道を上ります。 前方部の墳頂には大きな碑が建てられています。以前にこの石碑を撮った画像をご紹介しています。明治40年(1908)にこの地で軍隊の大演習が実施され、その際にこの前方部墳頂が明治天皇の野立所となったことの記念碑です。当時は樹木や竹が生えていず、見晴らしがよかったのでしょうね。 後円部の方に向かいます。 後円部の墳頂には、地蔵菩薩石像が祀られています。墳頂全体が竹林となっていて、写真に撮ると後円部のイメージを伝えられる景色は撮りようがありません。この古墳からは、遺物として、円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪の円柱部分に小型の盾を付けたもの・盾形埴輪・蓋形埴輪・須恵器模倣土師器などが出土しているとか。(資料5)この探訪では、後円部側内濠外周を東から西に回り込み、御幸大橋に至る南北の道路(県道5号、高田斑鳩線)脇に出ます。 こちら側は今回初めての場所でした。そこに説明板が設置されています。 この説明板からは南西方向になりますが、高田斑鳩線の道路沿いの反対側(西側)に、「九僧塚古墳」があります。こちらも二段築成で、一辺35mの方墳のようです。大塚山古墳の外濠に接する位置にあり、大塚山古墳と同時期に築造された古墳で、大塚山古墳の鉄器等の副葬品埋葬のための墳丘と考えられています。(茶色の丸を付けたところ)ここまでにご紹介した古墳の位置関係が河合町のホームページに掲載されています。こちらからご覧ください。(資料5)3029_2ここからいよいよ今回の探訪も終盤の近付いてきました。つづく参照資料1) 「関西史跡見学教室31 ~奈良・河合~ 」講座レジュメ 2018.4.12 龍谷大学REC 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)2) 「水彩紀行 奈良県河合町」 河合町観光ボランティアガイドの会発行 当日入手資料3) 廣瀬大社 ホームページ4) 『宮堂遺跡 範囲確認調査報告』 河合町教育委員会 :「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)5) 古墳 :「河合町」補遺廣瀬神社 出会う :「いかすなら」(奈良県歴史文化資源データベース)砂かけ祭り 川の歳時記 :「奈良県ようこそ」砂かけ祭り ⇒ 祭りの風景動画掲載 :「MATSURI NAVI」大塚山古墳 出会う :「いかすなら」(奈良県歴史文化資源データベース)歴史を活かす地域の取組 河合町 :「いかすなら」(奈良県歴史文化資源データベース) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良県・河合町東部を歩く -1 御幸瀬ノ渡跡・市場垣内遺跡・定林寺・城山古墳ほか へ探訪 奈良県・河合町東部を歩く -3 中良塚古墳、高山2・3号墳、長林寺址と長林寺 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -4 飛鳥川・曽我川・広瀬神社探訪 [再録] 奈良盆地(平端~池部)の史跡を巡る -5 城山古墳、川合大塚山古墳、長林寺跡
2018.04.24
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この案内板は、博物館の受付所から西側構内入口に向かう間、正面の北壁に掲げられています。図録表紙と同じ『瀟湘勝概図屏風』が背景絵に使われています。 案内板から屏風の第3扇・第4扇に描かれた樹木の部分を切り出してみました。大木の幹から伸びた枝に、淡い色調の濃淡の点描で葉が描き込まれています。江戸時代、18世紀に大雅が点描手法で鮮やかに印象的に樹木を描いているのです。点描手法で即座に連想するのは、西洋の後期印象主義の展開の中で、スーラを代表的画家として流行した点描派画家たちの絵です。ジョルジュ・ピエール・スーラが「グランド・ジャット島の日曜日の午後」という有名な点描画の大作を制作したのが1884年です。(資料1)池大雅は1776年4月13日に死没しています。なんと大雅は100年以上も前に点描手法を縦横に使っていたのです。(資料2)併せて想起するのは、点描手法の使い方は全く異なりますが、伊藤若冲筆「石灯籠図屏風」(六曲一双・文化庁所蔵)です。若冲は1800年9月死没。この屏風の制作年は不詳ですが、やはり100年近く前に点描手法を墨画での濃淡で使っています。(資料3)前回、購入図録の表紙・裏表紙をご紹介しました。この表紙、折り曲げてあったので、広げてみて、部分図を撮り、引用します。 折り曲げられた表紙の内側です。六曲一隻の屏風の第6扇(左端)の部分図この画法を大雅は、中国の画譜類から学び取り自己の描法にしたのでしょう。大雅の絵では描かれた姿には峻厳な雰囲気から柔らかみが加わっているように感じます。 大きな屏風絵の中で、第5扇の下辺に小さく描かれています。単眼鏡で実画をズームアップして鑑賞すると、簡略ですがきっちりと描かれ、雰囲気が十分に出ているのです。これは他の掛幅や屏風の絵を見ても同様です。この流水の様子を大雅は湖面を幾度も実見して取り入れたのでしょうね。 こちらは裏表紙の内側です。第2扇を中央に左右の第3扇、第1扇に景色が広がっています。大雅が心象風景として形成した瀟湘八景の景色というわけです。「京都の御典医・福井家の旧蔵品で、裏面に貼り付けられた大雅書簡から、本作の画料が金一両だったことがわかる」(資料2)とか。調べてみますと、一つの試算例として、1両は18~22万円くらいのようです。(資料4)今回の展示作品でみますと、『廬山全景図』(紙本墨画淡彩、一幅)で部分的に点描を併用し始めた様子が見え、重要文化財指定の『漁楽図』(紙本墨画、一幅)で点描法の利用を全開にしています。墨の濃淡を巧みに使い分ける葉の点描描写で光が取り込まれています。これらの作品が『瀟湘勝概図屏風』につながるようです。 この時我が家の小庭のツツジは満開ですが、博物館内西の庭一帯のツツジは未だこれからというところでした。ここ数日の気温上昇で満開近くになっているのではないでしょうか。 平成知新館の手前には、この案内板が出迎えています。前回ご紹介のPRチラシと同じ絵が背景に使われています。背景に使われていたのが次の作品です。チラシから引用します。 『蘭亭曲水・龍山勝会図屏風』(紙本墨画淡彩、六曲一双)の右隻です。この屏風も重要文化財に指定されています。通期展示、静岡県立美術館の所蔵です。この右隻は「蘭亭曲水」という言葉で故事の由来がわかります。「王義之ら文雅の士四十二名が蘭亭に集まり曲水の宴を張った」(資料1)という場面です。第2扇の上部に蘭亭が描かれ、4人が亭内にいます。S字を描き厳の間を流れ下る曲水の各所の岸辺に文雅の士が少人数ずつ集っています。第6扇(左端)には橋が描かれ、釣りをする人物が描かれています。丸みを持った厳の描写がゆったりとした和みを滲ませ、対角線上を曲水が流れ下る構図が空間の奥行きを生み出しています。この宴は3月3日に催されたそうです。 こちらが左隻です。第1扇右上に「龍山勝會」と記されています。第5扇に9月9日に龍山での宴に集った人々が描かれています。第1・2扇に麓の集落、その背後の遠景に山を淡く描くことで近景の龍山からの広々とした空間が表現されています。この宴席で出席者の一人孟嘉が風で帽子を飛ばされたのですが、当意即妙な文で一座を感心させたというエピソードがあるそうです。(資料1) この作品も第7章として、平成知新館の1階会場に展示されています。宝暦13年(1763)7月、大雅41歳の時と、制作時期がわかっている作品です。 館内では3階にまず上がり、そこから会場を巡りつつ順次1階に降りてくるという特別展での展示パターンです。既に触れていますが、全体の展示構成をまとめますと: 第1章 天才登場-大雅を取り巻く人々 3階 第2章 中国絵画、画譜に学ぶ 3階 第3章 指墨画と様式の模索 2階 第4章 大雅の画と書 1階 第5章 旅する画家-日本の風景を描く 2階 第6章 大雅と玉瀾 1階 第7章 天才、本領発揮-大雅芸術の完成 2階、3階私が関心を惹かれたのは、第2章で、大雅の年齢順で作品展示する構成が取り入れられていたことです。画法を学ぶ若き大雅の画業の変化が見えてきます。それは第3章の作品展示でも取り入れられています。 「京都国立博物館だより」(資料5)から切り出して引用します。これは通期展示の作品です。『渭城柳色図』(紙本墨画淡彩、一幅、敦井美術館[新潟市]蔵)は、24.5cm×30.9cmという小品ですが、延享元年(1744)、大雅22歳の時と制作時期が明かな作品です。天才登場と言わしめる片鱗が出ています。この図の上方に「渭城柳色」と隷書体の墨書が合装されています。そこには、唐の詩人王維の詠じた有名な送別詩「送元二使安西」のイメージが重ねられているのです。越後の画家・五十嵐浚明が帰郷する際に、大雅が餞別としてこの書画を贈ったといいます。図録には、大雅が中国の画譜から表現を学んでいる点を分析し解説してあります。 これはと思う作品例のどれかはやはり特別展覧への誘いとして、関連媒体に開示されています。この右の通期展示『風雨起龍図』(紙本墨画淡彩、一幅)は、大雅24歳の作だとか。中国絵画の画法を学ぶ途次とはいえ、大雅の描くという創作意欲がストレートに感じられます。24歳、この頃自分は何をしていたか・・・・、ウ~ン! 一方、左の絵は「指墨画」の一例です。『寒山拾得図』(紙本墨画、一幅)。前期展示だけ。20歳代後半に、大雅が筆の代わりに指を用いて絵を描く「指墨画」を数多く制作しているそうです。この絵が指墨画だという証拠として、頭髪を描く部分に指紋の跡を意図的にくきりと残しているのです。ぜひ会場でご確認ください。PRチラシを見てから行くと効率的です。館内にもPRチラシが置かれていました。いくつかの展示作品を眺めていて、これが指墨画だといわれなければ、筆で描いたと思うばかりです。逆にいえば、指と手、指先、爪先などをどのように使ってこれを描いたのか・・・・私のような素人には、わかりません。それほど自在に描かれています。ここは前期・後期の展示替えが多いので作品名は挙げません。 平成知新館でまずこの博物館だよりを入手されることをお奨めします。今回の展示の企画意図を簡潔に説明し、代表的作品例を載せてあるのですから。この表紙は、5月2日からの後期展示予定の国宝『楼閣山水図屏風』です。前期展示を鑑賞しましたので、図録やチラシ類で眺めています。現物を見られなかったのが、残念! 平成知新館を出ると、ウエルカムの案内パネルの裏側には、秋の特別展の案内メッセージが掲示されています。さて、そこで・・・・・・。今回、野呂介石筆『池大雅居室図』や伝月峰筆『大雅堂旧居図』、伝月峰筆『大雅・玉瀾旧居図』が展示されています。大雅堂がどのあたりにあったかは、碑の存在で知っていました。そこで序でに退館、行ってみました。 池大雅・玉瀾の住居のあった所は円山音楽堂の南側あたりになります。左が円山音楽堂の標識。右が建立碑です。南北で言えば、円山公園と高台寺との間になります。 神宮道の南端部の東側になります。道路を挟み西側には「大雲院」の山門が東面しています。 もう一つは、大雲院境内地の南東隅が凹地になっていて、築地塀の外側に「円山地蔵尊」が立っています。八坂の塔の方から北に「ねねの道」を北上して行くときは、突き当たりで右折すれば、すぐ先にこのお地蔵様が左側の角に見えます。 道路から石碑を正面に。 「大雅堂旧址」と刻された石碑が建立されています。この碑は大雅の死後、その門弟達によって建てられたものだそうです。 その南隣りに「和光同塵」としるされた石碑も建立されています。 池大雅の墓は、西陣の「浄光寺」にあります。 こちらが池大雅の墓です。安永5年(1776)4月13日、54歳で没し、遺言により菱屋家の菩提寺である浄光寺に葬られたのです。 大雅15歳の時に、父嘉左衛門が亡くなったのですが、大雅の父は西陣で扇商菱屋を営み、京都銀座の下役をつとめたといいます。玉瀾は大雅没後、8年を経て天明4年(1784)9月28日57歳で没します。墓は母百合女とともに、洛東黒谷墓地にあるそうです。(資料6) 黒谷とは金戒光明寺(左京区黒谷町)を意味します。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『カラー版 西洋美術史』 監修=高階秀爾 美術出版社 p149-1512) 図録『特別展 池大雅 天衣無縫の旅の作家』 京都国立博物館3) 図録『特別展覧会 没後200年 若冲』 京都国立博物館4) 江戸時代の金一両は今のお金のいくらぐらいに相当するか?:「日本銀行高知支店」5) 京都国立博物館だより 2018年4・5・6号 京都国立博物館発行6) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p210-211補遺池大雅 『近世畸人伝』より :「日文研データベース」 本文と掲載の図版をみられます。大雅・玉瀾合奏の図です。屏風の豆知識 :「本間美術館」池大雅 :「e國寶」 作品5点の画像を見ることができます。池玉瀾 :「コトバンク」池玉瀾 大雅亡き後に求めた独自性 ヒロインは強し(木内昇):「WOMAN SMART」蘭亭 :「コトバンク」蘭亭序拓本 :「藤田美術館」蘭亭曲水図-狩野山雪から浦上春琴へ- 中谷伸生氏 論文 :「関西大学学術リポジトリ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展 池大雅 -1 案内板・PRチラシ・図録とともに へ探訪 京都・洛中 千本釈迦堂周辺を歩く -2 千本えんま堂(引接寺)・浄光寺(池大雅墓所) 3回のシリーズでご紹介したうちの2回目に、浄光寺をご紹介しています。 こちらもご覧いただけるとうれしいです。
2018.04.23
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これは七条通に面して、受付所の横にある特別展「池大雅」の案内板です。 この掲示に、いくつかの情報が盛り込まれています。池大雅が文人画家と称され、書と南画に才能を発揮した人ということは知っていました。平成10年(1998)秋に、京都文化博物館開館十周年記念特別展「京(みやこ)の絵師は百花繚乱」が開催されました。「『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」という副題が付いていました。鑑賞した後で購入した図録があります。この時の企画は京の絵師の作品をオンパレードで展示するというまさに百花繚乱の作品展示でした。改めて手許の図録を開いてみますと、この時に展示されていた池大雅の作品は3点、池大雅と池玉瀾の共作が1点、池玉瀾の作品が1点でした。この時の展示作品と今回の展示期間中との関連を調べてみました。次の通りです。 薫石図 掛幅・一幅 紙本墨画 No.77 後期 高士訪隠図 屏風・六曲一双 No.67 前期 重要文化財 この作品、1998年時点では重文の表記なし 柳下童子図 屏風・八曲一双 重要文化財 N0.150 通期 山水図 掛幅・二幅 紙本墨画淡彩 大雅と玉瀾が各一幅描く 展示なし 山水図 扇・一柄 紙本墨画 池玉瀾筆 展示なし今回は、前期・後期の展示替え予定を前提で、会場で入手した一覧表には総数162点が列挙されています。それでも、他にまだまだ池大雅の作品があるということでしょう。しかし、この案内板に「85年ぶりの大回顧展」と明記しています。普段はそれほど池大雅の作品に数多く接する機会はないということです。私自身も上掲の記念特別展の時を除くと、京博の通常展示でいくつか見た位です。かつては「池大雅美術館」という私設美術館がありましたが、2014年に閉館となり、京都府に作品が寄贈されたそうです。今回の出展一覧や図録には、所蔵者が「京都府(池大雅美術館コレクション)」と表記されています。そういう意味では、今回の特別展は得がたい機会になるかもしれません。もう一点、今回の特別展では、池玉瀾という画家名称の表記ではなく、旧姓により「徳山玉瀾」と表記されていることに気づきました。なぜなのでしょうか。さらに、今回知って驚いたのは池大雅が日本各地を訪れている「旅の画家」でもあったことです。「天衣無縫の旅の画家」というキャッチフレーズが使われています。 これは今なら観光案内所や駅、デパートなどで入手できるPRチラシです。 このチラシにその一例の絵が載っています。切り出して引用します。「浅間山真景図」と題する紙本墨画淡彩の一幅です。実際に浅間山に登ってスケッチした経験を基に制作したと考えられているそうです。右前景に浅間山を大きく描き、雲海の間から見える麓を描くとともに、浅間山から望む富士山や筑波を雲海の先に描いています。これは会場では第5章「旅する画家-日本の風景を描く」というセクションに展示されています。「山岳紀行図屏風」が通期で出展されています。これは宝暦10年(1760)38歳の大雅が、友人の高芙容・韓天寿とともに白山・立山・富士山を踏破したときの記録を屏風に貼付したものです。登山し実見した山の姿を墨画で記録し、読めませんが細かなメモ書きをしているのです。文人画家という勝手な思い込みから、大雅がそんな行動力を持つ画家だったことにおどろかされました。この山岳紀行の中に、浅間山に登った際のスケッチも含まれているそうです。立山連峰や妙高山のスケッチははっきりと確認できました。 上掲案内板に開催期間を記載した円の中にちょっとマンガチックな人物図が載っています。わざわざ案内板の中にこのための絵を描くことはないだろう。どんな絵から抽出したのだろうか、と思っていました。この人物は、三熊思孝が描いた池大雅像なのです。顔の周囲に紐が見えるのは、萎烏帽子らしきものを被って顎のところで結んでいるようです。この顔をみていると、大雅はどこかとぼけたような剽軽なところがあった人物のような印象を受けます。これは、大雅・涌蓮・売茶翁の3人をそれぞれ描いた三幅対の中にあります。この3人は寛政2年(1790)に出版された伴藁蹊著『近世畸人伝』に登場しています。(資料1)そして、この七条通に面して掲げられた案内板に使われている絵は、通期で展示されている重要文化財の「洞庭赤壁図巻」に描かれた絵の左半分くらいになります。中国の名勝地である洞庭湖と赤壁を一望のもとに俯瞰的に描いたもので、明和8年(1771)、大雅49歳のときの作品(絹本着色)だとか。脇道に逸れます。手許にある少し詳しい日本史の学習参考書を参照してみました。江戸時代の「化政文化」の説明の中に、「化政美術」の見出しがあります。喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川(安藤)広重などの浮世絵師の名前を列挙し、少し説明した後に、次のような文章で説明があります。「従来からの絵画では、狩野派・土佐派が行き詰まりをみせたが、18世紀半ば以降に明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅(1723~76)と与謝蕪村の合作『十便十宜図』が代表作である。この画風は化政期以降、江戸の谷文晁(1763~1840)、その門人で豊後の田能村竹田(1777~1835)、渡辺崋山が出て全盛期を迎えた」と説明しています。(資料2)高校用日本史学習参考書の比較的詳しいものでも、通史レベルで池大雅の事を学ぶのは、文人画(南画)の代表画家という知識だけです。その画風を如何に学んだのかなど皆目分かりません。そこまでは知る必要がないのかも・・・・・。今回、その部分がこの大回顧展で理解できました。第2章「中国絵画、画譜に学ぶ」というセクションがあり、その種あかしがされていたのです。才能豊かな池大雅は、若き日に中国から伝来した『芥子園画伝』、『八種画譜』などの中国の画譜類から画法を学んだそうです。これらの書物が展示されています。いわば絵手本としての基本絵の事例掲載ばかりでなく絵画技法や画論にも触れているこれら画学書から新風の画法を見て学んだのです。勿論、同時に当時の中国の画家が描いた掛幅なども数多く輸入されてきていて、それらを見て学ぶということだったのでしょう。中国・清時代(17~18世紀)の李珩(りこう)筆「腕底煙霞帖」(1帖)が展示されています。山岳や崖、樹木の表現などの描法を学び取り、かつ中国の風景というもののイメージを形成していったのでしょう。さらに様々な中国の詩や書物が伝える風景・風土の記述が、中国の風景を描く上でイメージの肉づけとして活用されて行ったのだろうと想像します。この「洞庭赤壁図巻」もそんな経緯を経た作品なのでしょう。図録を読むと、大雅はこの作品を制作するにあたり、揚爾曾編『新鐫海内奇観』(万暦37年・1609刊)を参照していたことや、湖面の水紋を描くために大雅が琵琶湖へ何度もでかけたゆたう水の様子を観察しその成果を取り入れていたというようなことが解説されています。(資料1) 案内板から部分図を切り出してみました。この部分図からでも、俯瞰的にとらえた山水景であることがわかります。大雅は「金碧青緑山水の画法によって描いている」そうです。明和8年(1771)、大雅49歳の頃の作品で、晩年の代表作の一つになるとか。(資料1) 入場券の半券 当日購入した図録の表紙と裏表紙です。これらは同じ屏風絵の部分図が使われています。 上掲のチラシから全体図を引用すると、六曲一隻の屏風絵だということがわかるでしょう。これも重要文化財に指定されています。『瀟湘勝概図屏風』です。中国湖南省にある洞庭湖周辺の有名な「瀟湘八景」を主題とした作品です。浮世絵に描かれて有名な「近江八景」も、そのもとはこの「瀟湘八景」にあり、それになぞらえて琵琶湖周辺の名勝地をあてはめたものです。瀟湘八景とは、遠浦帰帆・瀟湘夜雨・漁村夕照・洞庭秋月・平沙落雁・山市晴嵐・煙雨晩鐘・江天暮雪の八景です。どの箇所にどの景色を組み込んでいるか、実物を前に考えてみるのもよいかもしれません。19日は、まだ始まったばかりで、平日の午後でもあったので静かにゆっくりと展示会場を見て回ることができました。大雅は淡彩による点描表現を巧みに駆使して明るい雰囲気に溢れた瀟湘八景を描き込んでいます。この作品は、第7章「天才、本領発揮-大雅芸術の完成」という最後のセクションで通期展示されます。上記の引用文にある『十便十宜図』は国宝です。最後のセクションに通期で展示されるのですが、場面替えが行われるそうです。現在この作品は川端康成記念會が所蔵されているものだとか。十便図を大雅、十宜図を蕪村が担当して、各一帖の画帖にした作品です。明末清初の時期を生きた李漁という劇作家として知られた人が詠んだ「伊園十便十二宜詩」(実際は十宜詩)を題材にしたものといいます。李漁は別荘伊園での生活の便利さを詩に詠んだのです。(資料1)私が鑑賞した折は、記憶が正しければ、大雅筆「課農便」、蕪村筆「宜夏」だったと思います。つづく参照資料1) 図録『特別展 池大雅 天衣無縫の旅の作家』2) 『詳説 日本史研究』 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖 編 山川出版社 p302補遺池大雅 :「京都大学電子図書館 貴重資料画像」池大雅 :ウィキペディア池大雅 :「コトバンク」芥子園画伝 :「コトバンク」瀟湘八景 :ウィキペディア瀟湘八景 :「e國寶」瀟湘八景図を楽しむ :「京都国立博物館」瀟湘八景 :「Bai du 百科」瀟湘八景図 雪舟画 :「古典籍総合データベース」琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」近江八景 :ウィキペディア李漁 :ウィキペディア李漁 :「コトバンク」李漁『十便十宜』詩・注解 :「漢文の小窓」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展 池大雅 -2 点描画法と指墨画の妙 へ
2018.04.22
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JR大和路線「法隆寺駅」に集合して、河合町の東部地域の史跡見学をテーマとした講座に参加しました。その史跡探訪の復習を兼ねたご紹介です。今回の探訪は以前に訪れた史跡が一部を再訪することになるとともに、その地を違う観点で探訪できた側面があり、理解を深める機会にもなりました。地図を改めて確認しますと、法隆寺のある斑鳩町の南に河合町、南東側に安堵町が接しています。法隆寺駅は斑鳩町の南端部にあり、北方向に斑鳩町の中央に歩めば「法隆寺」があります。今回は、法隆寺駅を起点にして南方向に進むことになりました。全体の位置関係については、こちらの地図(Mapopn)をご覧ください。 法隆寺駅の南に広がる住宅地の道路を通り抜けて、富雄川の右岸に出ます。富雄川は安堵町の西辺を南下していて、この堤防上の道路は「明日香・大和郡山 自転車道」のルートになっているようです。この景色に見える富雄川に架かる橋までは右岸、橋を渡って左岸へと進みます。 橋上から富雄川の下流側・南方向を眺めた景色です。 橋を渡り、左岸をしばらく進んでから富雄川の上流側を眺めた景色。堤防の東側面が桜並木です。既に葉桜になっていましたが、満開だと見応えがありそうです。この少し先あたりから富雄川が斑鳩町と安堵町の境界になります。 堤防傍に、「富雄川笠目1号井堰」という銘板がコンクリートブロック壁に付けられた建物の傍を通過します。その辺りで、川中に見つけたおもしろい配置の飛石がこれ。ここからのご紹介の補助資料として、当日のレジュメから「河合町東部の文化案内図」(資料1,2)を引用し末尾に載せておきます。ご紹介箇所を追記したカラー丸印で示します。 堤防道路を進むと、「河川管理境界」の標識が立っています。(赤色の丸のあたり)) 富雄川が大和川の合流し、富雄川は奈良県の所管ですが、大和川は国土交通省の所管になります。 富雄川が大和川に合流するその河口近くに東側からもう一つの支流が合流してきます。その辺りは道路がカーブしていて、河口は暗渠になり、井堰の建物があります。通り過ぎてから撮ったのがこの景色です。(青色の丸の所) 大和川に架かる「御幸橋」を渡り、南詰で下流側を見ると「御幸大橋」が見えます。御幸橋を渡りきった目の前は「西名阪道」の高架です。御幸橋の南詰あたりは「穴闇」地区です。高架道路の北側になります。(ピンク色の丸の所) フェンスのところに、「飛鳥葛城自転車道案内図」が掲示されています。 現在地部分を拡大してみました。案内図のある場所が現在地と表記のところです。この案内図の傍に、 この「史跡案内板」が設置されています。現在の高架道路の反対(東)側あたりが、「御幸瀬ノ渡(ごごかぜのわたし)・川合浜 跡」だそうです。江戸時代に書かれた『大和志』に、この渡しが「河合村ニ在リ 廣瀬川ヲ平群郡笠目村ニ済(わたす)」と記されているとか。このことからこのあたりは大和川を廣瀬川と呼んでいたということもわかります。(黄色の丸あたり)現在の地図を見ても、川の北側の地名が「笠目」、南側の地名が「川合」です。現在地から東には旧廣瀬街道に続く位置で、明治の初めまではこの川合と対岸の笠目との往来に利用される渡しが利用されていたそうです。もう一つ、江戸時代には「魚梁舟(やなぶね)」を使った舟運でこのあたりが「川合浜」と呼ばれる荷揚げ場となり舟問屋もあったといいます。高架下を通過すると、川合地区です。「御幸瀬の名は飛鳥時代に天武天皇が廣瀬神社と龍田神社へ行幸したこと、または、奈良時代に元明天皇が廣瀬神社へ行幸したことによると伝えられています」(資料3)万葉集には、 廣瀬川袖つくばかり浅きをや心深めてわが思えるらむ 巻7 1381 という歌が詠まれています。この歌を折口信夫は、「廣瀬川は徒渉するほど浅い。其様に浅いあの人の心だものを、自分の心の底まで、何故こんなに、思ひ込んでるのであらう」と口譯しています。(資料4)川合は、現在の河合町の北辺地域です。大和川に北からは富雄川、南からは曽我川が合流する地点の南西側であり、まさに「川合」の場所になります。律令国家の時代にはここに大忌神が祀られ、水の祭祀が行われたそうです。古代に古墳群が形成された地域の一つであり、中世には法隆寺領荘園になっていた地域で、鎌倉時代ごろから興福寺領化していったといいいます。(資料2) すぐ傍でまず、目にとまったのが、庚申塚と地蔵堂です。 御幸瀬ノ渡跡から約300mほどのところで、定林寺に行く途中に立ち寄った場所です。この画像ではフェンスの左側の畑地が「市場垣内遺跡」になります。説明を受けなければ、今では何の変哲もない一段少し高くなった私有地に見えるだけ。正確な位置が示せませんので、カラー丸印を付けていません。城山古墳の北西に位置します。中世居館跡だそうです。フェンスの傍の低い部分が、もとは周濠の位置になるところだとか。ここは、松永久秀により滅ぼされた吉田義辰の居館があった場所で、「南北約50m、東西約40mの範囲を濠によって区画された遺跡」(資料5)だそうです。発掘調査により中国や韓国の陶磁器破片が多数出土しています。西方の国々と結びつく交通の要衝地だったようです。(資料5) フェンスの手前は一見駐車場に使われている感じの空地で、その前の道路の反対側には、前庭の植栽が広々として、上層部に虫籠窓の見える感じの良い民家があります。 道沿いに進むと、その先にお寺の屋根が目に止まりました。鬼瓦に関心があるので取りあえず写真を撮って、講座聴講者の後に遅れないように続きます。後で見ると、棟の端の鬼瓦に加えて、鯱が棟に載り、鬼瓦の下部には長方形の装飾瓦も設置されていました。山門に「円明寺」(浄土真宗本願寺派)という表札が掲げてありました。 その先に、大きな木が見え、一段高い位置で奥の方に朱色に塗られた小祠が遠望できます。道路から石段を上がって行かねば駄目ですので、ズームアップで撮りました。石段脇に「水分社」(俗称「若宮社・可伊止山氏神」)と記された駒札が立っています。祭神は水分神で、持統天皇5年(691)に創建されたそうです。「此神は本社『若宇賀之売命』の女子也 神号を水分神と申し水の分配を司る 子供を守る『御子守神』とも云う」(駒札転記)と記されています。 この水分社のある所から畑地を隔てた東に、杜が見え、石造りの太鼓橋が架けられています。この橋を後ほどわたりますが、この樹木に覆われたところが「廣瀬神社」です。まずはこの水分社の前で右折し、少し南に所在する「定林寺」を訪れます。先ほどの市場垣内遺跡から約300mのところです。(紫色の丸印の所) 山門 山門を入ると、正面に本堂が見えます。参道に「百度石」の石標があります。 参道傍に、水子之霊を供養する地蔵菩薩石像が奉納されています。 また、歌碑も奉納されています。 本堂の正面には寺名の扁額ではなく、かなり褪色していますがこの絵を描いた額が掲げてあります。少し不思議な感じ・・・・・。「定林寺」(じょうりんじ)は現在は真言宗のお寺ですが、康和3年(1101)の法隆寺文書には、法隆寺末と記されているそうです。江戸時代には廣瀬神社の神宮寺であると伝わっています。廣瀬神社所蔵の『和州廣瀬郡廣瀬大明神之圖』には、神社の西側に3つのお寺が描かれています。現在の定林寺の場所辺りに「神宮寺」そしてその西方向に「安立寺」(と読めそうです)、一方、現在「宮堂遺跡」と称される位置に、聖徳太子建立の寺院として定林寺が七堂伽藍で描かれています。この図は廣瀬神宮のホームページで公開されていいます。(資料6)この3ヵ寺がともに廣瀬神社の神宮寺だったようです。それが何時の時期にか神宮寺辺りが定林寺と称される寺になり、他二寺が統廃合される様な結果となって、規模も小さくなり現在に至るようです。 本堂に入ると、正面に大小様々な仏像がほぼ一列に横並びに安置されています。堂内には仏像名を記した提灯が吊されています。地蔵尊の提灯が一番数が多いようです。それだけ一番身近な仏様なのかもしれません。 菩薩像と思われる絵像の両側に地蔵菩薩立像と十一面観音立像が安置されています。 地蔵菩薩立像 木造彩色、サクラ材の一木造で、内刳はなく、平安初期の造立と推定されているそうです。「衣紋に翻波がややみられ、下腹部の衣紋がY字状になるなど」(資料2)の特徴が見られます。「両手先、両足先、持仏の錫杖・宝珠ともに後の時代に補ったものです。」(資料7) 像高92.1cm、四重蓮華座の形式で、台座総高27.0cm。(資料2,7) 十一面観音立像木造彩色で体幹部がカヤ材の一木造です。左手は肘と手首・右手は手首・両足先・頭上各面がそれぞれ矧ぎ付けられていて、両手先と両足先が鎌倉時代に後補され、頭上面はいずれも鎌倉時代に補作されているそうです。像高117.5cm、台座総高16.3cm。(資料7)「肉感のある体部と穏やかな顔相から、平安中期造立と推定され」、また「右手は垂下し親指を曲げ、錫杖を執る」形式から「長谷寺式」の菩薩像だといいます。(資料2) 阿弥陀如来坐像像高17.3cmという小さな像です。上掲二像の中間で、少し前に安置されています。一見木造のように見えますが、銅鋳造の仏像で、「穏やかな面影、抑揚をひかえた体躯の造形、柔らかな並行曲線を畳む衣紋の構成など、平安時代後期の彫刻の特色をよく示した作例です。」(資料7)右足を前に組み結跏趺坐し定印を結ぶ姿ですが、火を受けたために左膝部が大きく上方に歪み、像容が変形しているのです。それだけで難を逃れたのを幸いと考えるべきなのでしょうね。一見したときはさほど意識しませんでした。 観音菩薩立像に向かって左隣りに、厨子に納められた不動明王立像が安置されています。この仏像も体幹部はヒノキ材の一木造だとか。「内刳なし。玉眼を割矧で挿入し、像表面に刀目を残して古色をつけるなどから14世紀造立と推定される」(資料2)そうです。室町時代初期の作例と考えられています。像高92.5cm。(資料7) 定林寺から少し南に歩み、民家の間を西に入ったところに、この「城山古墳」があります。(緑色の丸印の所) 周濠を持つ全長109mの前方後円墳です。城山という名前で呼ばれているように、ここは中世には戦時の際に城砦となったと考えられています。市場垣内遺跡が日常生活の場としての中世居館だったのに対して、戦時にここが城砦として使われたということです。そのため墳丘の形状はかなり変形しているとのこと。周濠跡は現在は水田として使われ、周濠の外側の外堤も後の開墾などにより、地形が変形してわからなくなっているようです。大塚山・円山・中良塚など計8基の古墳が「大塚古墳群」と総称され国指定史跡になっています。この城山古墳はその古墳群の中の一つです。出土品から大塚古墳群の中では最後に造営された古墳と推定されているそうです。これは当日いただいた資料で、なかなか優れものです。開けると42cm× 59cmの大きさです。その2分の1の大きさが使われ、裏表で3つの史跡探訪モデルコースが載っています。上半分はルートマップと所要時間、下半分は各探訪史跡の写真入りで簡潔な説明を加えたもの、それらがセットになっています。 日本の原風景をたどる 歴史の道コース 水辺のユートピア まほろば散歩コース 古代文化に迫る 古墳浪漫コース今回参加した講座での探訪箇所は、この資料に載る「歴史の道コース」経路の6割くらいの史跡スポットにあたると思います。序でに、ご紹介しておきます。この後廣瀬神社に向かいます。つづく参照資料1) 「関西史跡見学教室31 ~奈良・河合~ 」講座レジュメ 2018.4.12 龍谷大学REC 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)2) 河合町東部の文化財案内 :「河合町」3) 「水彩紀行 奈良県河合町」 河合町観光ボランティアガイドの会発行 当日入手資料4) 『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫5) 1991年度埋蔵文化財発掘調査報告 :「奈良文化財研究所」 市場垣内遺跡発掘調査概報/城山古墳発掘調査報告6) 旧社地絵図 和州廣瀬郡廣瀬大明神之図 :「廣瀬神社」7) 河合町指定文化財説明リーフレット 当日入手資料補遺水分神 :ウィキペディア水分神 :「コトバンク」天之水分神・国之水分神 :「玄松子の記憶」吉野水分神社 :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」吉野水分神社 :「吉野山観光協会」都祁水分神社 :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」国宝宇太水分神社 ホームページ宇太水分神社 :「宇陀市観光協会情報サイト」葛木水分神社 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良県・河合町東部を歩く -2 廣瀬神社・宮堂遺跡・古墳[丸山・大塚山・九僧塚] へ探訪 奈良県・河合町東部を歩く -3 中良塚古墳、高山2・3号墳、長林寺址と長林寺 へ
2018.04.20
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かつては京都市内に住み、今は宇治市に住んでいて、頻繁に三条周辺には出向くものの、三条大橋の雪景色を撮ったことがありません。これはフリー画像を見つけましたのでまずご紹介しておきます。(資料1)さて、現在の三条大橋を細見し、広重の『東海道五十三次』の絵や、『都名所図会』に掲載の挿絵を既にご紹介しています。一方、狩野永徳筆『洛中洛外図』に三条大橋が描かれていないことにも触れました。そこから三条大橋が過去にどのような姿で描かれているか、あるは写真に撮られているかに興味を持ち、少し調べて見ました。以下は過去の三条大橋の姿、イメージということになります。部分拡大図あるいは挿絵の引用によりまとめてみたいと思います。 これは、平成27年(2015)3月に京都文化博物館で鑑賞した特別展の図録の表紙です(資料2)。様々な洛中洛外図に京都がどのように描かれているかを知り味わうという企画展でした。永徳が描いていない三条橋(大橋)が、描き込まれているかどうかが今回の私の関心事です。ここで、大きな違いは永徳が描き、信長が謙信に贈った洛中洛外図屏風の後の天正18年に石柱橋が建造されていることです。秀吉の時代以降、江戸時代にかけて数多く描かれた洛中洛外図屏風(以下、屏風と略す)に、天正の石柱橋あるいはその後の修復、立て替えなどが繰り返し行われて行った三条大橋が描かれているかの探査になります。改めて手許の図録を三条橋の描写の有無に絞って眺めて行くと、やはり描き込まれているものがありました。 桃山~江戸時代前期の作とされるこの屏風(堺市博物館蔵)です。橋の南側に大きく塚が描かれています。これが「秀次悪逆塚」と呼ばれた塚です。たなびく金雲の西側に大きなお寺が描かれていますので、位置から考えて「誓願寺」とわかります。そこから判断してこれが三条橋です。東詰の両端の柱に擬宝珠らしいものが描かれていますが、橋上の高欄は描かれていません。『都名所図会』を読みますと、「文禄年中に秀次公、太閤秀吉公に対して逆心の企あるよし。故に紀州高野山に入って自殺す。首を取って三条河原に梟(か)け、また三十余人の妾婦並びに稚子共、この所に於いて断罪して同穴に埋む。」(資料3)と記しています。逆心の企てというのが当時、秀吉が喧伝し通説になっていたのでしょう。ここに塚が築かれたのです。そして、塚の頂上に秀次の首を納めた「石びつ」を据えてあったといいます。秀次が高野山で切腹したのが文禄4年7月15日、一族の処刑が同年8月2日の昼下がりだったとか。後に、高瀬川の開削工事をしていたときにその塚が荒廃しているのを見た角倉了以が供養のための寺と六角型宝塔の墓石の建立を行ったのです。それが慶長16年(1611)。その寺が「瑞泉寺」です。「寺伝によればこの塚の位置に現在の本堂は建てられたとされています」(資料4)。瑞泉寺門前には、角倉了以の開削した運河・高瀬川が流れています。 この屏風(尼崎市教育委員会蔵)には南西側から塚と三条橋が描かれています。三条橋の東詰の柱にだけ擬宝珠が見えます。大部分が金雲で隠れています。橋と塚には判読できないのですが名称が明記されています。 近年確認されたというこの屏風も、江戸前期のものといいます。ここには誓願寺が大きく描かれていますが、背後を金雲で最早秀次の塚は描かれていません。瑞泉寺建立後に描かれた屏風なのかも知れません。西詰北側の擬宝珠が描き込まれています。 江戸時代前期の原本からの屏風模本(東京藝術大学大学美術館蔵)とされるこの図には、「誓願寺」が平かなで明記されています。左斜め上の橋に「三条橋」と明記してあります。 こちらは、江戸前期~中期のもので、大和絵師・住吉具慶(1631~1705)が手掛けた作だと落款から判明している屏風です。半ば金雲で覆われていますが、こちらは金雲のところに「三条大橋」と明記されています。四文字の連なりから推測できます。東詰北側の柱に擬宝珠が描かれています。 こちらも江戸時代前期~中期の作で歴博F本と称される屏風(国立歴史民族博物館蔵)です。これは上掲の具慶作屏風と強い影響関係があるとされる作品です。 こちらは江戸時代中期の屏風(柳谷観音楊谷寺蔵)です。有名寺社建造物にピンポイントを絞って描き出されている屏風です。三条大橋に関してはこの屏風がほぼ全景を描き、描く数は省略していますが両高欄の擬宝珠もちゃんと描き込んでいます。橋脚も石柱であるという雰囲気がよくうかがえます。 これは横山華山(1781~1837)が原画を描き、紙本色摺で版行された京都鳥瞰図です。この「花洛一覧図」(国立歴史民俗博物館蔵)は文化5年(1808)の初版が出されたものです。道をかなり弧状に描いていますが、三条大橋は橋脚の数や擬宝珠も含めて、かなりリアルに描いている感じを受けます。注目すべきは、四条河原が大きく描かれている点です。川中に広い州が形成され、河原に建物が描かれています。河原が興行の場になったり、夏には納涼床が賑わったということが連想できる絵でもあります。これを見ると、江戸時代の洛中洛外図に三条橋と五条橋が大きな橋、四条橋が簡易な橋で描かれていることをナルホドと思います。川中の広い中州に渡る橋を各岸との間に架けておけば十分だったということなのでしょう。 寛政9年(1797)に出版された『伊勢参宮名所図会』に載る三条大橋これは、興味深いことを描き込んでくれています。(資料5)東海道は、滋賀の大津から逢坂山を越えて三条大橋へと往来します。この幹線道路は京の都に東国諸国から物資を搬入する重要な街道でもありました。牛車に荷物を積んで運搬しやすいように、その通り道は石が敷設されたのです。雨天荒天に道路がぬかるみ重量物の運搬に困難を起こさない工夫がなされたのです。それが轍の跡が深く凹んだ「車石」として各所で保存されいます。その牛車が三条大橋まで来ると、三条橋の傍の川中を渡って洛中に入るという通路ができていたということをこの絵が明らかにしています。一方、洛中洛外図の三条橋には、荷駄を積んだ馬、人を乗せた馬が、橋を渡るところを描き込んでいます。このあたり、興味深いところです。明治時代に入ると、ほぼ同時期に類似の京都案内ガイドが各種出版されるようになります。「国立国会図書館デジタルコレクション」を検索しますと、その状況が理解できます。京都の名所案内の一つとして「三条大橋」自体を『都名所図会』と同様に、紹介しています。それがどのように描かれているかを抽出して出版された時系列で引用し、ご紹介します。調べた範囲で最初期のものがこれです。 『京都名所案内記』横井達之輔編 明治20年1月出版。(資料6)そして、同種の出版形式でエッチング風の様々な立ち位置から描かれた三条大橋の挿絵が見られます。どの位置から描いたものかを考えてみるのもおもしろいものです。 『京都名所案内図会』和1冊(上)石田旭山編[他] 明治20年6月出版。(資料7) 『京都名所圖會 上』 淺井広信著 明治26年9月出版 (資料8) 『京都名所圖會 上』 清水晋之助著 明治28年2月出版 (資料9) 『京都名所案内 上』 岩崎喜助著 明治28年3月出版 (資料10) 『京都名所案内』 青木恒三郎著 明治28年4月出版 (資料11) 『京都名所案内』 片岡賢三編 明治32年1月出版 (資料12)明治40年に入ると、写真が掲載されるようになります。 これです。『京都名所帖』というタイトルで、京都市参事会というところが明治40年6月に出版しているのです。写真が登場すると、現在との対比が明確にできますね。この景色は、三条大橋西詰北側、現在スターバックスの店が入っているあたりに当時建っていた建物の上部あたりから撮られたものでしょうか。東岸に沿って建物が櫛比している景色が見えます。昭和3年(1928)には、京都府が『京都名所』を出版しています。 上掲の明治の諸出版書はいずれもほぼ類似の説明文で、この名所案内文の最初の部分の紹介と同趣旨が主です。三条大橋が「長63間幅4間5寸」という橋の規模説明、擬宝珠の刻銘に触れるというところです。本書で、明治以降の経緯がわかります。 明治14年に一度改造、明治27年に修築 大正元年(1912)10月 木造長55間幅9間に造築し、擬宝珠は今までの通り継承 ⇒明治45年3月に三条通の幅を拡張する都市計画の実施に対応このページに掲載の写真を見ると、天正の三条橋に使われた石柱が写っていますので、大正元年時点での造築の際に、石柱を使った橋脚が撤去されて一部、現在の位置に保存されたと推測できます。そして、川端通の東に御所の方向を向かった高山彦九郎像が設置されていますが、高山彦九郎は当時の三条大橋の上から、御所の方向に向かって拝跪したのだという事実もわかります。最後に、ウィキペディアから画像を引用します。(資料15) この写真が何時撮られたものかの明示はありません。しかし、明治40年の京都市参事会による出版時点の写真と比較して、橋の幅が拡幅されていること。鴨川東岸沿いに走る電車と線路が写っている一方、東岸沿いに二葉の写真には同一屋根と判断できる建物が写っていることなどから、いくつかのことが分かります。琵琶湖疏水は、第一疏水が「明治23年3月に大津から鴨川合流点まで完成し,そこから伏見までは明治25年11月に着工し,明治27年9月に完成したのです。」(資料16)ということなので、明治40年の写真は鴨川運河が既にできている後の景色です。さらに三条大橋の幅が倍加していることで、まず大正元年以降の写真だということがわかります。京阪電車は、大正4年(1915)10月に五条駅-三条駅間が開通しました。(資料17)この写真には京阪電車が地上を走っていてかつ三条駅の駅構内の整備は今後という様子ですから、大正時代の前半くらいに撮られたものに思えます。かつての三条駅が疏水の上に拡張してつくられた写真や、鴨川と疏水の間を京阪電車が走る写真が公開されています。ページの末尾です。こちらから御覧ください。(「京阪電車」)因みに、東福寺-三条駅間の地下化工事が完成したのは昭和62年(1987)5月です。(資料17)その後に疏水が暗渠化され、京阪電車の地上線跡地と合わせて、現在の幹線道路・川端通が整備されました。現在の三条大橋の東は、鴨川沿いの「花の回廊」(散策路)と川端通を越えたその東側に建物が道路沿いに続くという景観です。三条大橋の姿は、鴨川の洪水、琵琶湖疏水(鴨川運河)、河川整備などの関連で変遷・変化してきたようです。一方で、天正期の橋の姿をどこまで維持できるのか? これからも三条大橋は新たに変化していくのかもしれません。 追補 四条大橋上から撮った三条大橋の全景 2018.4.19 撮影ご一読ありがとうございます。参照資料1) 鴨川の雪景色 三条大橋 :「京都の無料写真素材」2) 『特別展 京を描く -洛中洛外図の時代-』 京都文化博物館 2015.3.1発行3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫4) 瑞泉寺の由来 :「瑞泉寺」5) 伊勢参宮名所図会 巻之1 :「古典籍総合データベース」 6)~14)は「国立国会図書館デジタルコレクション」より6) 京都名所案内記 横井達之輔編 明20.1 8/55コマ7) 京都名所案内図会 和1冊(上)明20.6 15/91コマ8) 京都名所図会、上 淺井広信著 明26.9 39/43コマ9) 京都名所図会、上 清水晋之助著 明28.2 8/33コマ10) 京都名所案内 上 岩崎喜助著 明28.3 16/51コマ11) 京都名所案内 青木恒三郎著 明28.4 16/40コマ12) 京都名所案内 片岡賢三著 明32.1 16/38コマ13) 京都名所帖 京都参事会 明40.6 20/41コマ14) 京都名所 京都府 昭3 82/301コマ15) 三条駅(京都府) :ウィキペディア File:三条大橋 :WIKIMEDIA COMMONS16) 第2章 第一疏水 :「京都市上下水道局」17) 沿革 :「京阪ホールディングス」補遺京都・三条大橋界隈 :「懐かしの風景・町並みアーカイブス」京阪沿線の名橋を渡る 三条大橋 若一光司 :「KEIHAN」珍しい洛中洛外図を寄贈 尼崎市民から :「歴史~飛耳長目~」《『洛中洛外図屏風』文献目録》 :「東京大学史料編纂所」昭和10年京都大水害 :「京都市消防局」高度経済成長期頃の鴨川周辺の様子を巡る“その1”(第234号) :「京都府」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ
2018.04.17
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三条大橋上から川下(南方向)の景色 こちらは、橋上の北側歩道より眺めた川上の景色。青空でないのが残念! 北側の欄干。東からの眺め 南側の欄干。西から見た景色現在の三条大橋は基礎の構造体は鉄筋コンクリートの現代建築工法ですが、高欄のある橋部分は豊臣秀吉が命じて建造された石柱上の木造橋を模して造られました。昭和の架け替え工事の後、歳月が経ち、現在この木製の高欄を間近で眺めますとかなり損傷が進んで来ています。1950年に橋が取り替えられた後に、ヒノキ造りの欄干は1973年に再度取り替えられているのです。それでも傷みがかなり出て来ているという次第です。2017年5月の新聞報道によると、欄干を取り換えるだけでも3億円超の費用がかかり、歩道の整備なども含めると4億円程度が必要と見積もられていると言います。観光都市京都にとっては、頭の痛くなる課題になってきているようです。(資料1)今回、三条大橋東詰南側にある東端の擬宝珠の刻銘をまずさらりと見た後は、まず一旦時計回りの方向で擬宝珠に着目して刻銘のある部分を写真に撮って回りました。擬宝珠をクローズアップしていますので、背景の景色はわずかに位置関係が想像できる程度に垣間見えるだけです。その点は、大橋細見という主旨でご理解ください。 これが南側高欄の東から2つめの擬宝珠です。この擬宝珠、昭和に新造されたものであることが、刻銘からわかります。次の銘文が刻まれています。「三條大橋は明治45年三條通拡張のとき幅員を倍加して14.5米に、橋長は101米に、橋脚はコンクリート造としたが、橋面は従来の風格をもつ木造橋であった たまたま昭和10年6月月の洪水にあい橋の一部と擬宝珠1個を流失、この水害に鑑み加茂川を改修し、河底を深くしたので、天正以来の敷石、礎石は取り除かれた、重ねて今回の橋の修築に際し、橋を鴨川と疏水の二部に分け、橋長は鴨川部74.03米、疏水部16.97米、幅員はいづれも15.5米とし、端免構造コンクリート床板としてかけかえ、この擬宝珠を新に追補した 昭和25年1月 京都市長 神戸正雄」(刻銘転記) 「米」はメートルを意味します。この銘文から現在の三條大橋の橋長が74mとなった理由が理解できます。私の記憶の中でやっと全体の繋がりが見えてきました。かつて、この三条のところまで、鴨川の東側に疏水が流れその疏水に沿って京阪電車が地上路線として走っていました。1987年に京阪電車の東福寺駅から三条駅までが地下化されることになりました。そこで、地上線の跡地ができます。この跡地と疏水を暗渠化することで、鴨川沿いに生み出された用地が道路に転用されて、川端通が創生されたのです。その後、京阪電車は三条から北の出町柳まで鴨川沿いに地下鉄路線を鴨東線として延ばしました。その結果、京阪電車で出町柳まで行き、京福電鉄の路線に乗り換えて、比叡山や鞍馬山、岩倉方面に行く事が便利になりました。川端通は宝ヶ池駅付近で白川通と合流する地点まで延伸されて行きます。川端通が南北の幹線道路となって行ったのです。結果的に疏水の暗渠化でその部分の橋が撤去され道路面になったということになります。この変遷をいままで意識しませんでした。(資料2) 東端から3,4番目のこれら擬宝珠は部分拡大で撮っていた刻銘を読むと、前回ご紹介した天正の刻銘と同じです。 東から4番目、西詰から数えると2つめには、擬宝珠に斜めの鋭利な凹み傷が付いています。「三条大橋擬宝珠刀傷跡」と称されているものです。西詰南側に三条小橋商店街振興組合が設けられた駒札が立っています。「これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です」と説明しています。 これが西詰の擬宝珠です。この刻銘も天正のもの。 西詰は、高欄が屈曲して南側に少し伸びて欄干の先にもう1本の宝珠柱があります。これがその擬宝珠でこれには刻銘がありません。東詰にはこれに相当する擬宝珠が存在しないのは、上記の疏水部の暗渠化、橋の撤廃の結果ということでしょう。こちらの擬宝珠の先に、小振りな「弥次さん・喜多さん像」が建立されています。 西詰南側の西端擬宝珠の先は、道路脇がこんなコーナーになっています。桜の木の下に、弥次喜多像が立ってます。その手前に茶色い石が見えます。「撫(な)で石」と称されている石です。この石、鞍馬産出の鞍馬石で、酸化鉄を含有しているために鉄錆色なのだとか。この石を撫でて旅の安全祈願をするとよいそうです。「無事に還り来たる」の信仰で知られる還来神社にならって置かれているといいます。(資料3)調べて見ると、還来(もどろき)神社は、右京区にある西院春日神社の境内にある小さな神社で、祭神は淳和天皇皇后正子内親王だそうです。「もどろき(還来)」は、「九死に一生を得た皇太后が無事もとのところへ戻られた、ということからつけられた」のだとか。(資料4,5)尚、同名の神社が滋賀県大津市にもあり、こちらが元なのかもしれません。補遺に取り上げておきます。 それでは西詰北側に回ります。前回ご紹介した天正の刻銘入り石柱がある場所です。こちらも橋から曲折した欄干の西端には刻銘のない擬宝珠の付いた宝珠柱が石柱のすぐ傍にあります。橋の本来の欄干西端がこちらの擬宝珠。天正の刻銘文です。この石柱が置かれた傍、現在のスターバックス店の入っている近江屋ビル前の広場には、江戸時代に「高札場」が設けられていたところです。幕府が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などが駒札形の木札に記されて高く掲げられていたのです(駒札より)。余談ですが、奈良の三条通を興福寺の方向に進んでいくと、奈良県里程元標が立つ傍に、高札場が復元・保存されています。 その続きに見ていった擬宝珠はすべて天正の刻銘文が読めます。そして、北側の東端擬宝珠、前回ご紹介した駒札傍に帰着します。そこで、今度はもう一度橋を西に渡り、鴨川の西岸を観察しましょう。 これらは、三条大橋西詰の石垣です。前回ご紹介した東岸の石垣とは明らかに違います。一番上は西詰北側。橋上から見たスターバックスの店がある傍の石垣側面です。その次は、河原に降りて正面まで行き撮ったものです。下2枚は西詰南側の石垣全景と、橋下に近付いた石垣部分。これらは少なくとも、江戸時代以前に建造されたた護岸壁ではないかと推測します。 西詰南側の弥次喜多像から南になだらかな道を少し下ります。お地蔵様を祀る小祠が2つあります。 その先に、鴨川の西岸に出られる坂道ができています。今は階段では無くL字形の坂道になっています。曲がる手前の所で石垣側を見ると、 これらの石仏が祀られています。北側の石像は頭部が欠損しているようでした。 鴨川の西岸には、『都名所図会』の三条大橋図には存在しない小川が流れています。鴨川本流の分流という位置づけで「みそそぎ川」と称されています。「みそそぎ川」(禊川)とは、鴨川で禊(みそぎ)が行われていたことに由来する別称だったそうです。鴨川は幾度も氾濫して大きな被害を出してきていますが、「昭和10年(1935)大洪水」で大きな被害が発生したために、1936~1947年にかけて、大規模な鴨川河川改修工事が「千年の治水」として行われたそうです。このときの改修工事の一環として、この全長2kmほどの人工水路「みそそぎ川」が生まれたといいます。みそそぎ川は賀茂大橋下流西岸で鴨川から取水され、二条大橋下流で高瀬川と分流し、みそそぎ川は鴨川本流沿いに三条、四条を南流して、五条大橋の手前で再び鴨川に合流しています。(資料6)脇道に逸れますが、調べていてこの「みそそぎ川」の起点となる水流の取り込み口の流れのしくみを説明した図を見つけました。こちらからご覧ください。(資料7) 鴨川西岸の下流方向の「みそそぎ川」を眺めた景色 西岸で、三条大橋の下をくぐり、北側に出て、川上側(北)の「みそそぎ川」を眺めた景色このみそそぎ川の上に、夏には納涼床が張り出され、京の夏の風物詩となります。今では数カ所、年中川床上に張り出したテラスを設けているお店も見かけます。この北方向よりも三条大橋から南の四条大橋にかけての方に軒並み納涼床が設けられ一番華やかな風情が漂います。西岸から東を眺めた景色。正面に見えるのは東岸へ下る石段の側面の石垣です。 橋脚部には、心ない輩の落書きが・・・・・・。鴨川河岸の風情を壊しますね。 大橋西詰で南に入り西岸に出る坂道を、北側から見るとこんな景色です。 西岸で、北方向に三条大橋を眺めた景色暖かくなってきましたので、夕刻に近づくと特に四条から三条にかけてのこの西の河原には、人々が座り込み会話を楽しむ風景が恒例になってきます。見事にほぼ等間隔にカップルが並んでいる景色が現出します。 三条河原に集う小鳥たちの姿を眺めて、三条大橋細見を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 三条大橋、木製欄干ぼろぼろ 京都市に苦情 2017.5.11 :「京都新聞」2) 川端通 :ウィキペディア3) 弥次喜多像と撫で石で旅行安全祈願。 :「京都観光地への旅」4) 還来神社 :「京の伝説散歩路」5) 西院還来神社(西院の還来さん) :「京都観光Navi」6) みそそぎ川(京都市中京区) :「京都風光」7) 位置図拡大 みそそぎ川の流れの仕組み :「京都府」 みそそぎ川に流れる水は何処から?(第38号) :「京都府」補遺還来神社 大津市伊香立途中町 :「大津の歴史データベース」(102)還来神社(大津市) :「ふるさと昔語り」(京都新聞)鴨川真発見記<37から42> :「京都府」鴨川真発見記<バックナンバー一覧> :「京都府」京の風物詩 鴨川納涼床への誘い ホームページ京の夏 納涼床 :「京都観光Navi」京の七夕 鴨川会場 :「京の七夕」【奈良縣里程元標・御高札場】復元された「奈良県独立の証」と「御触書」 :「奈良まちあるき風景紀行」御高札場復元の経緯 :「Monumento」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ観照 諸物細見 -2 西本願寺 御影堂前の銅造灯籠 へ観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2018.04.15
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この景色は三条大橋東詰南側から撮ったものです。(2018年4月時点)京都の鴨川に架かる三条大橋は、江戸時代には東海道五十三次の終点でした。 これは良く知られた歌川広重が描いた「三条大橋」です。江戸の日本橋を振り出しに、「東海道五拾三次大尾 京師」にやっと着いた!・・・・つまり、京都が終点で上がり(大尾)ということでしょう。ウィキペディアから引用しました。(資料1)実際の幹線道路としては、この三条を経由して当時の大坂までの街道が利用されたようですが。もう、数え切れないほどこの三条大橋を往来してきているのですが、単に通過点として通り過ぎるだけで、じっくりとこの橋と周辺を観察したことがありません。一度はトライしてみようと思っていたのです。そこで、三条大橋細見という視点で、ちょっとマニアックな紹介をいたします。御用とお急ぎでない方はお付き合いください。現在の三条大橋と広重描く三条大橋。今や高いビル群が洛中の景観を遮っていて、それに慣れっこになっていて普段は意識しません。しかし広重の絵を見ると、かつては北西に連なる山並みがスッキリと三条大橋に辿り着くと見えたのでしょう。船岡山(これは眺められたのか、無理だったか?)の背景に、高尾山から愛宕山、北方向に鷹峯あたりが遠望できたのでしょうね。まさに京都盆地の景観を感じることができたのだろうと想像します。広重は寛政9年(1797)に生まれ、安政5年9月6日(1858.10.12)に没した浮世絵師です(資料2)。その広重誕生よりも17年早く『都名所図会』といういわば観光ガイドブックが安永9年(1780)に出版されています。 それには、既に三条大橋が見開き2ページで描かれています。こちらも引用します。(資料3)この頃には既に鴨川には護岸の石垣が築かれていて、大橋西詰の北側には、三条河原に降りるための階段があったことがわかります。その場所は今も構造は違うものの河原に降りられるようになっています。三条大橋の東詰から眺めていきましょう。 南側には、「花回廊」と刻された平成11年(1999)6月建立の石碑があります。丁度この前が、京阪電車の三条駅、地階からの南西側出入口になっています。 石碑の北側に、この銘板があります。平安建都1200年を契機に「京の川づくり」が着手され、その一環として鴨川東岸の三条から七条の間を「花の回廊」として京都府と京都市が一緒になって整備したのだそうです。この鴨川沿いの散策路に公募による俳句や短歌の碑が設置されることになったのです。花回廊の碑の前の小さな碑がその一例です。 歌碑 我が心きよめ流るる鴨川は優しき母のまなざしに似て 堀井由紀子 (右) 句碑 かもがわにどこからきたのゆりかもめ (左)判読できず。確認課題です。 東詰の北側の景色です。京阪電車三条駅北西側の出入口が対応しています。 出入口寄り、柳の樹下に「京の川づくり」の銘板が立っています。 南隣りに、京都市が「駅伝発祥の地」であり、この三条大橋が出発地点だということを示す記念碑があります。駅伝発祥100年記念として建立されたようです。「我が国、最初の駅伝は、 奠都50周年記念大博覧会『東海道駅伝徒歩競走』が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。」(説明碑文転記) 大橋東詰北側に駒札が立っています。 駒札を部分拡大してみました。この駒札にある説明について、三条大橋を細見していくとその証拠が順次見つかってきます。そこで、一旦三条大橋を西詰北側に行って見ましょう。この傍にある建物には現在スターバックスというお店が営業しています。このお店を見慣れてしまったので、以前には何のお店だったか忘れてしまいました。 そのスタバ前から橋の欄干側を見ると、この石柱が立っています。 この円柱には、「天正十七年 津国御影」と陰刻されています。御影という文字の右側に「七月」、左側に「吉日」と刻されています。この刻銘から、この石材が現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。(傍の駒札より)これはこの三条大橋に使われていた石材の遺物です。脇道に逸れますが、京都国立博物館の西の庭の南西隅には、「津国御影天正十七年五月吉日」の刻銘があり、天正十七年(1589)、豊臣秀吉が鴨川に架けた五条大橋の橋脚、桁の石材が一部保存されています。また、刻銘「天正十七年津国御影七月吉日」入りで五条大橋と三条大橋に使われた石柱も保存されています。(資料4) 再び、東詰南側に戻ります。これは大橋の南側高欄の東端の宝珠柱です。 この擬宝珠を北側から観察しますと、刻銘が見えます。この刻銘の内容が上記の『都名所図会』に原文のまま引用されています。(資料5)「洛陽三条之橋、至後代化度往還人、盤石之礎入地五尋、切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代、奉増田右衛門尉長盛造之」 洛陽三条の橋は後代に至るも往還人を化度し、盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十五本なり。蓋(けだ)し日域に於いては石柱の濫觴なり。天正十八年正月日、豊臣初之御代に増田右衛門尉長盛奉じて之を造る。(京都・三条のこの橋は後の時代までも往来する人の助けとなる。非常に安定し揺るぎない基礎は地中5尋(ヒロ)の深さがあり、石材の柱を65本使っている。おそらくは日本において、橋に石柱を使う第一号である。天正18年正月、豊臣初代(=秀吉)の時に、増田長盛が奉行となりこれを建造した。)拙訳するとこんな意味合いでしょう。誤訳があるかも。「尋」という長さは、「日本の慣習的な長さの単位。一尋は、両手を左右にまっすぐに広げたときの指先から指先までの長さ、水深をいうのに用いた。明治5年(1872)から一尋は曲尺の六尺、約1.8mとなる。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。これに従えば、9m近く川底を掘り込み基礎造りをしたことになりますので、まさに大工事だったのでしょう。三条の橋がいつごろから創設されたかは不明であり、上掲駒札に記されていますが、室町時代前期には既に架橋されていたと考えられています。秀吉の命による三条の橋の大改造は、京都の人々には大歓迎されたことでしょう。秀吉の人気上昇ということになったのでは・・・・。天正2年(1574)3月に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる、狩野永徳筆『洛中洛外図』(国宝・上杉本)を米沢市上杉博物館発行の大型本で確認してみたところ、四条・五条の橋は描かれていますが、三条の橋の位置は金雲がたなびき、橋は描かれていません。四条や五条の橋と比べると、この頃は簡素な橋で画家が魅力を感じるほどのものでは無かったということでしょう。代わりに粟田口が描かれています。こちらが京への入口として当時は良く知られていたのでしょう。あるいは東国への街道になる三条には意図的に簡素な橋しか造らなかったのかも・・・・ということも考えられます。1790年時点で、秀吉の命令を受けて建造された三条大橋の石柱はそのまま使用され存続していたのでしょうか。図会に描かれた橋脚の感じが石柱のイメージを与えます。図会は「欄干には柴銅(からかね)の擬宝珠十八本ありて、悉く銘を刻む」(資料5)と記しています。京都府観光ガイドは「高欄の擬宝珠14個はその当時のもの」と説明しています。(資料6)高欄を含め橋の木造部分が取り替えられたり修復されたりしても、擬宝珠はそのまま利用され続けたということでしょう。そして現在は昭和に新造されたものが一部混用されているのです。(資料7) 東詰の北側に、東岸に下る階段があります。降りてみます。 鴨川の上流側の眺め東岸は舗装されていて、河岸沿いの散歩が自由にできますし、ここを自転車で往来している人も見かけます。川端通となっている堤防の側壁は石垣となっています。この石垣はそれほど古い年代物ではなさそうです。コンクリート壁面もあります。 大橋の下を見ると、現代建築そのものです。ちょっと意識的に観察していたので、初めて銘板のようなものが嵌め込まれているのに気づきました。 これがそれです。「三條大橋架替工事 施工昭和24年8月 竣工昭和25年3月」の刻銘が読み取れます。上掲でご紹介した駒札に記載の改造時期の証拠をここで確認できます。秀吉が造らせた石材利用の橋脚・桁による三条大橋は、その後元禄・明治・大正と改造を経た上で、昭和25年(1950)の改造により、現在の姿の大橋になったそうです。(資料7)現在の橋は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で改築された木橋の面影を残すという意図で、擬宝珠高欄付きの木造橋の姿になっています。(資料6)現在の三条大橋は、長さ74m、幅15.5mです。(駒札、資料7)最初に引用した2枚の絵がこの大橋を写実的に描いているとすると、対比的にみて、いくつかの違いがあります。橋脚の数が違います。現在の大橋は写真を撮った角度の関係で最東端の1箇所が写っていませんので、それをカウントすると、8箇所の鉄筋コンクリート製橋脚で橋を支えています。時代によって鴨川の川幅が変化しているのは事実です。ネット検索で得た情報によれば、増田長盛が建造した石柱橋は、長さ101m、幅7mだったそうです。(資料8,9)『都名所図会』に載る竹原春朝斎信繁が描く三条大橋は7箇所の橋脚が描き込まれています。江戸時代には三条大橋は江戸幕府が管理する公儀橋でしたので、鴨川などの氾濫で橋が壊れたりすると、すぐに修復するということが繰り返されたのです。1780年時点で春朝斎が描いた三条大橋は、秀吉以後、既に16回の架け替えが行われたともいわれていた時代になります。(資料8)一方広重の絵には、10箇所の橋脚が描かれています。橋脚の描き方も違います。石材円柱のように思えない印象なのですが、どうなのか・・・・・。構造上の強度の問題で、橋脚間の距離が違うのかも知れません。天正十七年の刻銘のある石柱はいつの頃に取り替えられたものでしょうか。このあたりの事実についての探求課題が残りました。江戸時代に取り替えられたなら、遺物として残さず転用材にしていたでしょうし・・・。明治以降でしょうか? それなら橋の付け替えはあっても、石の橋脚や桁はそのまま継承されたことになるのですが・・・・・。ウ~~ン。 大橋の下で橋脚と桁を撮りました。鉄筋コンクリート製の現代建築工法によるものです。橋上では木造橋の面影が鴨川の流れと遠望する山並みとのコラボレーションで風情を添えてくれます。ここを眺めると機能美は感じますが、三条大橋の感興は沸きません。 下から大橋を見上げると、まさに和洋折衷の美というところです。 一つ不思議なものが目に止まりました。これです。東岸の側面と川端通の堤の側面に、色の違う石板を交互に縦一列につないでいる箇所が目に止まったのです。石積みの壁面上に意図的に貼り付けてあるようです。増水時に川水の水位を簡易に定点観測で目測できるようにしてあるのでしょうか。そんな連想をしてしまいました。余談です。三条大橋を石柱使用の土木工事で丈夫な橋に改造させて人々にも恩恵を与え、己の人気を高める行動を取った秀吉が、その一方でこの三条河原を処刑の場所として使っています。関白職を譲った秀次を高野山に追い切腹させる一方で、秀次の妻妾当一族を残虐にこの三条河原で処刑したのです。人々の葬られた塚は後に荒廃します。高瀬川を開削した角倉了以が、それを知り、この三条大橋のすぐ傍に「瑞泉寺」を建立し、秀次とその一族の霊を弔うという行為を取っています。大盗賊で有名な石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたのも三条河原。関ヶ原の戦いで西軍首脳とみなされた石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等は六条河原で斬首刑となった後、三条河原で晒し首になっています。長宗我部盛親もまた六条河原で斬首され、三条橋に晒されたとか。新選組の近藤勇は板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、首が運ばれ三条河原で晒し首となっています。そろそろ、三条大橋の橋上に戻りましょう。長年気になっていた高欄の擬宝珠を立ち止まって眺めることに・・・・・。つづく参照資料1) 東海道五十三次 :ウィキペディア2) 歌川広重 :ウィキペディア3) 都名所図会 6巻. [1] 秋里籬島 著[他] :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 西の庭 :「京都国立博物館」5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p766) 三条大橋 :「京都府観光ガイド」7) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂8) 三条大橋・三条河原(京都市中京区-左京区・東山区):「京都風光」9) 三条大橋 :「河原町商店街振興組合」補遺[関西歴史事件簿」三条河原の公開処刑(上) 鴨川真っ赤に、「秀吉」残虐公開処刑の全貌…秀次「生首」前で一族39人惨殺、幼児・姫君も容赦なく:「産経WEST」瑞泉寺の由来 :「瑞泉寺」釜茹で :ウィキペディア石川五右衛門~戦国時代のヒーローで釜ゆでの刑となった稀代の大泥棒とは? :「戦国武将列伝Ω」石田三成 :「コトバンク」小西行長 :「コトバンク」安国寺恵瓊 :「コロバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿 へ観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ観照 諸物細見 -2 西本願寺 御影堂前の銅造灯籠 へ観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭スポット探訪 [再録] 京都・上京 瑞泉寺 -1 瑞泉寺の縁起、展示室兼休憩所、地蔵堂 2回のシリーズでご紹介しています。観照 弥次さん・喜多さんの京都見物 -1 はじめに 4回のシリーズでのご紹介です。その最初に三条大橋に触れています。
2018.04.14
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北野天満宮の境内地の一部になっている「御土居」を見るということを主目的に、3月下旬に併せて数カ所探訪しました。この景色は御土居の上から、北野天満宮の権現造りと呼ばれる社殿の西側面を眺めた景色です。御土居にアクセスするには、梅苑公開時期であり受付所で梅苑拝見の入場(有料)手続きが必要でした。結果的に梅苑を眺めることにもなった次第です。 この景色の左側が「本殿」で、右側が「拝殿」、この二棟が「石の間(相の間)」で結ばれています。さらに、正面から見ると左右に入母屋造りの「楽の間」が付されているという建物群です。一に八棟造りとも言われているとか。(資料1)手前に写っているのは、摂社・末社の屋根です。 拝殿側の屋根とそれに連なる西側の「楽の間」の入母屋造りです。北野天満宮の境内については、公式ホームページの「境内のご案内」図をこちらからご覧ください。 本殿の背後(北側)に位置する摂社・末社の並ぶ屋根と朱塗りの摂社「地主社」を遠望した景色です。 境内を巡って地主社の手前で撮った紅梅 こちらは、御土居の上に上がる手前にあるお茶券との引き替えの喫茶休憩所傍で撮った梅の木です。それでは、御土居の上から地上に戻って、境内探訪の補遺として梅苑周辺のご紹介をします。楼門を北に潜り抜け、左(西側)にある絵馬所を通過して、梅苑入口の受付所へ行来ます。 「絵馬所」の北面の軒下には三十六歌仙の歌と姿絵が描かれた奉納額がズラリと並んでいます。 北東端に掲げられた大きな絵馬 楼門から三光門に向かう参道の左(西側)には、福部社と北隣りに老松社が並んでいます。その背後にこの堀割風の池があることを知りませんでした。 水面に紅梅が枝を伸ばし、梅が満開で水面に花びらが浮かんでいます。 堀割風の池の北辺から眺めた三光門の屋根と西回廊 西回廊の西側にある庭園。ここは初めてです。 庭園の北辺はこんな雰囲気です。御土居の内側で、庭園の西端に「紅梅殿」が位置しています。東面する紅梅殿の前で「船出の庭」と称され、「春の曲水の宴」の行事が催されるところでもあります。紅梅殿は境内の整備の一環としてこちらに移設されたそうです。 紅梅殿より南東ですが近いところに、鶯垣とも呼ばれる柴垣で三方を囲った覆屋があります。 駒札を見ると、「連歌所の井戸」と記されています。江戸時代にはこのあたりに連歌所があったそうです。この連歌所は明治維新の際に廃止されたとか。(資料2) 内部を覗くと、車井戸です。井戸には木蓋がしてありました。駒札によれば、天満宮には連歌会所があり、宗砌・宗祇などが会所奉行をつとめ、連歌会が毎月18日に月次会が催されていたとか。他に年中恒例連歌会の興行が行われたそうです。また、連歌を通じて神の御意を慰めることを法楽といい、毎月25日に「御廟法楽」が催されたといいます。手許の辞典には「法楽(ほうらく)」について「仏法を味わって喜楽を生ずること。日本では法会に音楽を奏し、伎楽などを行い本尊を供養したことから、神仏の前で経典を読誦して供養することもいう」(『新・佛教辞典 増補』誠信書房)、「(1)仏法を信じ行う人の楽しい境地。(2)経を読み、音楽を奏して、神仏を楽しませること。」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。神の前での連歌興行にこの言葉が転用されたのでしょう。 紅梅殿の南隣りには、摂社・末社が並んでいます。すぐ隣りは以前からここにあり「豊国社・一夜松神社・野見宿祢神社」を祀る合祀殿です。豊国社は豊臣秀吉、一夜松神社は一夜千松の霊、野見宿祢神社は野見宿祢を祭神としています。連歌所の井戸は、この合祀殿の北東方向前方に位置します。一夜千松の霊というのは、このあたり一帯に生える松に宿る神霊だそうです。あるとき、北野右近の馬場において一夜に千本の松が生ずるという道真のお告げ・神託があり、その言の通りになったので、そこを天満宮創建の地にしたという伝承です。(資料2)この伝承によるならば、松林が広がる中に天満宮が創建され、その後に松から梅に大半が置き換えられていき、梅苑が出来てきたということになるのでしょう。野見宿祢は角力の元祖として、『日本書紀』の垂仁天皇の巻、7年秋7月7日の条に出て来ます。天皇の傍にいる者が、当麻の邑に当麻蹶速という強力で勇敢な者がいて、生死を問わず力比べのできる者と対決したいと言っていることを告げたのです。それじゃ、この者に勝つことができる者がいるのだろうかと問われたとか。すると出雲国に野見宿禰(祢)という勇士が居るそうですと答えた人が居たのです。そこで出雲国から野見宿祢を召し出して、角力をさせたとか。その結果、野見宿祢が勝ちます。そして、その後そのまま留まって天皇に仕えたとか。いまやスポーツ上達の神様です。また、32年秋7月6日、皇后の日葉酢媛命がなくなられたとき、天皇が殉死の風は良くないことが分かったので、今後の葬(もがり)はどうしようかと告げられたとき、野見宿祢が「これから後、この土物(はに)を以て生きた人に替え、陵墓に立て後世のきまりとしましょう」という便法を提案したそうです。天皇は我が意を得たと喜ばれたと記されています。つまり、野見宿祢が殉死の風を廃止、埴輪をたてることを提案した人物だと記されています。(資料3)脇道に逸れました。戻ります。 さらに、南隣りには、「末社一之保神社(菅原大神)、奇御魂神社(道真公の奇御魂)」の合祀殿があります。 更に南側には、稲荷神社、猿田彦社があります。絵馬所側には、西から宗像社、大杉社、絵馬所という位置関係で並んでいます。このあたりで、梅苑から出て楼門傍に戻ります。 楼門と北の三光門との間の参道の左右には、両側に神牛がそれぞれ覆屋の内に奉納され、左右に二社ずつ祀られています。三光門側から言えば、東側に火之御子社・白大夫社、西側に老松社・福部社があります。上の画像は、東側の神牛の南に「火之御子社」が見える景色です。下の画像は、西側にある「老松社」です。このあたりは、細見で触れています。京都市中の桜も、地元宇治の桜もはや葉桜になってきています。季節の移りゆきは迅速ですね。様々な花が競演し、目を楽しませてくれる季節が巡ってきました。桜の散るなかで、その一つ前の北野の梅を交えた北野天満宮細見の補遺としてご紹介しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂2) 北野天満宮 :「京都歩く不思議事典」3) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 猛訳 講談社学術文庫 p141,p146補遺権現造 :ウィキペディア権現造 :「コトバンク」永享五年北野社法楽万句 :「国際日本文化研究センター」宗砌 :「コトバンク」宗祇 :ウィキペディア宗祇 :「コトバンク」宗祇法師筆書状 主な所蔵美術品 :「藤田美術館」大日本史料 第八編之二十九 :「東京大学史料編纂所」 「十二月二十五日条に、幕府が義政の疾平愈祈祷の千句連歌会を北野社松梅院に催し、懐紙を叡覧に備えた記事があり、これに先立つ十二月初めに飯尾宗祇が北野連歌会所奉行を辞退して猪苗代兼載が受継ぐ」という説明があります。連歌会がどのように機能していたかがうかがえます。中世北野社関係文献一覧 :「三重大学人文学部日本中世史(山田雄司)研究室」北野天満宮 紅梅殿「船出の庭」にて菅公顕彰・和漢朗詠「春の曲水の宴」 が春期初開催 :「SPICE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 北野天満宮細見 -1 東門・手水舎・竃社・名月舎 7回シリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 上七軒を歩く(京都市上京区) スポット探訪 京都・上京 東向観音寺
2018.04.10
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2018.4.9撮影 追補本堂の北側に通路を挟み墓地があります。通路を少し東へ奧に進むと、この説明板が墓地との境に立っています。 説明板は、和泉式部の墓所(宝篋印塔)を説明するものです。実は、この3月下旬に誠心院を久しぶりに訪れて、戸惑ったのです。それはなぜか? かなり以前から誠心院がここにあることは知っていたのですが、初めて訪れたのは2014年2月初旬でした。その時の記憶とのズレがあったことに起因します。ここ数年、この寺の前を所用のルートとして通り過ぎる機会が増えたので、2017年のあるときに久しぶりに再訪してみようと思いました。その時山門から眺めた正面には工事用のシートが張られているのが見えたのです。最近、かなりの期間通り過ぎる毎に見かけていたそれが撤去されていることに気づきました。それで再訪しました。そこでその戸惑いを含めながら、ご紹介します。境内地の北側を眺めながら、本堂北側の通路を奥に(東方向)に入ります。 通路の正面に西面する宝篋印塔があり、これが「和泉式部の墓」と言われているものです。この景色の左手(北)が一段低い境内地で、墓地になっています。その墓地域との境に上掲の説明板があります。この墓所を見たとき私の記憶とズレがあり、一瞬アレッ!と感じました。上掲の説明板の左下にある境内案内図を見て、戸惑いが氷解しました。工事のシートが長らく張られていたのは、境内地が再び整備されていたからなのでしょう。今回のその工事がどの範囲であったのかは知りません。しかし、2014年から2018年にタイムスリップした私の戸惑いは、結果的に境内のレイアウトが大幅に変更されていたことが原因でした。その全体構想の結果、本堂の背後、北東方向のこの場所に和泉式部の墓所が移されたのです。いずれこの境内案内図が訂正されることと思います。 左の画像が2014.2.9に初めて訪れた時に撮ったものです。右の画像は現時点(2018.3.26)で撮った上掲説明板に載る境内案内図です。以前は、「近年、整備の機会を得、新京極通りから直接参拝出来るようになり」と記される位置にありました。図の左下の四角に斜線入のところです。「この石塔は正和2年(1313)に改修建立されたもの」と説明が記されていますので、その後少なくとも2度目の移設整備ということになるのでしょう。以前の位置から見ると、境内地の中での墓所の位置としては参拝するときの雰囲気が各段に良くなっていると感じます。手許の本には、脚注として次の記載があります。「塔身背後の基礎には・・・・正和2年(1313)の銘がある。川勝正太郎博士の説では、鎌倉時代に盛行した念仏信仰によって建立された供養塔といわれる」(資料1) 上掲説明板に建立年は説明されています。 2018.4.9撮影 追補 この石塔(宝篋印塔)は、説明板によれば高さ約4m、幅約2.4mと記されています。塔身を切り出して、右の画像に拡大してみました。蓮華座の上に月輪が描かれ、そこに梵字(種子)が刻されています。両脇にも小さめの蓮華座上に同様に梵字(種子)が刻されています。手許の本を参照すると、中央の種子はキリークで、阿弥陀如来を意味します。そうすると脇侍は自ずから明らかになりますが、向かって右がサ(観音菩薩)、左がサク(勢至菩薩)です。(資料2)前回、少しご紹介していますが、「和泉式部縁起絵巻」の話と照応します。つまり、性空上人から教えを得て、誓願寺の阿弥陀如来に対し六字名号を念仏し女人往生を祈願する行を行ったということに対応します。 この宝篋印塔の東側、丁度石塔の後辺りですが、境内地東端に阿弥陀如来立像(石像)が見えます。 東端には、「阿弥陀如来像(石像)」を中央にして左右に「二十五菩薩像(石像)」が居並んでいます。これは、和泉式部が女人往生を遂げたことに由来する二十五菩薩来迎を表象するための石像群だそうです。豊臣秀吉の命令で、天正年間に寺がこの地に移転再興された時、山口甚介により建立・寄進されたと言います。(資料3) 山口甚介は当時、宇治田原城城主だった人でだそうです。(資料3) 二十五菩薩像を改めて拝見しますと、当初の建立像がいずれの時にか喪失し、その後に補填整備されてきたのでしょうか、相対的に新しい石像が混在します。それはさておき、やはり阿弥陀如来と二十五菩薩が並ぶと荘厳です。 宝篋印塔の塔身に刻された蓮華座上の種字を、背後の石像に置き換えるとこの三尊像の姿になります。和泉式部の墓所を先にご紹介しました。そこで、一旦本堂北面横の通路に戻りますと、現在では通路の北側にこのような諸像の景色を眺めながら、和泉式部の墓所へと歩む形になります。聖観世音菩薩像を「式部千願観音」と名づけて建立された石像です。「千八十人の観音様建立の願いを集め、万人にご利益を施す観音様と言う意味」(資料3)だとか。合祀型納骨永代供養のために建立されている石像です。式部千願観音像の横に並ぶ小像群は「百八観音」と総称される石像群です。こちらも永代供養墓の目的で順次建立されているもののようです。百八体が並ぶと壮観でしょうね。 2014年に訪れた時には、新京極通に面した建物のすぐ傍に式部千願観音像・百八観音が南北に並び、上掲画像のあたり東寄りに阿弥陀如来像・二十五菩薩像が並んでいたのでした。 2018.4.9撮影 追補上掲左の景色に見える諸像が上述のとおり移設・整備されて、旧地が今は参拝休憩所になっていました。 墓地の東端には以前のままですが、地輪の正面に「法界万霊塔」と刻した五輪塔を中央に、六地蔵石像が並んでいます。 墓地の北辺が境内北端になりますが、その中央辺りに2014年に拝見した時と変わらず石仏像が安置されています。多分阿弥陀如来石像なのでしょう。 本堂背後の境内地の南辺、つまり和泉式部の墓所から眺めた南端にこの一画があります。上掲の白っぽい石標です。 東側に並ぶ宝篋印塔6基の説明石標上記天文年間に誠心院移転再興の施主となった山口甚介一族の塔群である旨を明瞭にするためようです。 石標の西側に並ぶ墓石等 こちらは2014年2月時点で撮ったものです。左の2つが現在は左右入れ替えて配置されています。 これらは江戸中期の俳人「池西言水」に関わるものです。つまり、山門前左側の石標に関わっています。現在は位置関係が入れ替わり、向かって右側にあり、正面下部に「紫藤軒言水」(池西言水の別号)と陰刻されているのが「池西言水の墓」です。そして、その墓石の正面上部には言水の詠じた句が刻されています。(2014.2.9に撮ったものを併用) 木枯乃(の)果はありけり海乃(の)音この句が有名になり「木枯の言水」と呼ばれたそうです。左には、上部に「池西言水句碑」と記されていて、その下部に文が陰刻されています。一見したときこれ自体が言水の句碑のように錯覚しました。後で画像をよく見ると、これには説明が記されているだけなのです。つまり、この誠心院の地に碑が作られたことで言水のことと木枯の句を永世伝えることができる旨が記されているようです。ややこしいことをしたものです。これ自体に句を刻めば良かったのに・・・そんな思いがします。[2018.4.9追記:句碑を兼ねた墓石の左側面を拝見すると、「享保七壬寅年九月廿四日」という日付が刻されています。十干十二支による紀年法による「壬寅(みずのえとら)」は縦書きの日付の中で「寅壬」と横書にされています。これは池西言水が没した日です。] ちょっと変わった形の一番右端のものは、長唄の「杵屋六左衛門の碑」だそうです。右方の小さな文字様の形が何か不明ですが、中央に「杵屋六左□御匠之碑」と記されているところまで判読しました。□の部分の一文字を判読しかねます。「之」という文字を小さく記している風にも読めるのですが・・・・・。ネット検索してみると、杵屋六左衛門は長唄三味線方・唄方で杵屋宗家という説明があります。現在は15代に継承されているようです(資料4)。この杵屋の系譜の何代目かの人と思えます。 [2018.4.9追記:再度訪れて碑の左側面を見ると「大正二年四月建立」と刻されていました。]少し思いつき、ネット検索してみて、四半敷に置かれた基壇の上にある形は長唄用見台(打つ違い)というスタイルのものとわかりました。いわゆる譜面台です。(資料5)面取りがされた形の基壇正面に「門人」という文字が見えます。 墓地との境界の一隅に、この小さな二仏像が安置されています。上掲説明板の東側です。向かって左が両手に宝珠を載せる「地蔵菩薩」、右が智拳印を結ぶ「大日如来」です。この双体の石像の組み合わせを私は余所でみたことがありません。 本堂背後、南辺寄りに庫裡があります。その入口の傍に、この五輪塔が建立されています。これ一基だけが孤立した形で存在しているので目に止まりました。 最後にこの碑をご紹介します。本堂の脇に佇んでいる歌碑です。(2014.2.9) 霞たつ春きにけりと此の花を見るにぞ鳥の声も待たるる 『万代和歌集』の102番に収められている和泉式部の詠んだ春の歌です。『和泉式部続集』にも、169番の歌として収められています。(資料6)この碑の下部、和泉式部と刻された文字に並んで左側に「軒端梅」という文字が刻されています。生前の和泉式部は「軒端(のきば)の梅」を愛していたそうです。そのため後にここにもその梅を植えたといいます。『都名所図会』を読みますと、末尾に「和泉式部の塔、軒端の梅あり。(軒端の梅の傍に俳諧師紫藤軒言水の墓あり)」として最後に上掲の言水の一句が記されています。ここに移転後、いずれの時かに東北院の軒端の梅に因んで梅の木が植えられたのでしょう。この歌碑もその歳月を経ていますので、軒端梅の傍に歌碑が建立されたものと考えると、池西言水の墓もまた軒端梅の近くあった時期があり、移されて最後に現在地になったということになります。勿論軒端梅もまた境内地内で移植されたことも考えられます。もう一点、江戸時代、安永9年(1780)に出版された『都名所図会』の読者層にとっては、江戸時代初期の俳諧師で享保7年(1722)72歳で没した紫藤軒言水の方が、和泉式部より身近に感じる存在だったということでしょうか。「木枯の果はありけり海の音」を「誠心院」説明の末尾に引用するくらい、当時の人には知られた俳諧師だったのでしょう。現在では和泉式部の詠んだ歌を知っていても、俳諧師池西言水の存在や詠んだ句を知らないという人が私を含めて大半ではないか・・・・・という思いがします。ここからもまた、時代の変遷を感じる次第です。和泉式部遺愛の梅は、謡曲「東北」(とうぼく)に採り上げられたことで有名になったそうです(資料7)。調べてみると、「東北」は能百番のなかに採り上げられています。作者不詳で三番目物(鬘物)に分類される能です。前シテで里の女が登場し、後シテで和泉式部の霊が登場するというもの。「東北院の梅の美しさにたたずんでいると、橋懸から遠く呼びかけて出る女があって、以前ここが上東門院の御所で、庭の梅は和泉式部が方丈の西に植えて愛でた『軒端の梅』と語り、『私は梅の主』と告げて、夕映えの花の蔭に消える」(資料8)という前段場面から始まる能だそうです。謡曲原文も検索すると見出せました。補遺に採り上げておきます。ご関心のある方はアクセスしてご覧ください。これについてもまた、私は存じませんでした。この拙文をまとめていて学んだという次第です。副産物が多くて楽しい! 本堂前にある駒札この辺で誠心院のビフォー、アフター的視点を少し交えたご紹介を終わります。2014年の初探訪とこの3月の再訪との対比を含めました。今回境内地は参拝していて、すっきりとした雰囲気になっているように感じるとともに、新京極通から少し東に入っただけで、通りとのコントラストから一層静謐さを感じるという印象を受けました。ご一読いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 P275-2792) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p3383) 誠心院 公式ホームページ4) 杵屋六左衛門 :「コトバンク」5) 楽器付属品 :「邦楽なび」6) 和歌データベース 国際日本文化研究センター7) 東北院の軒端の梅 :「京都観光Navi」8) 『能百番を歩く』 京都新聞者編 杉田博明・三浦隆夫 京都新聞者 p237-239補遺東北院(京都市左京区) :「京都風光」東北 「謡曲目次」 :「Cube-Aki」 謡の詞章全文と語句説明付どんな曲があるの?…およそ250曲(演目)が今も上演可能です。:「能楽ランド」 謡の詞章全文を曲名クリックにより、子窓が開き、全文を見ることができます。能 東北 能楽辞典 :「銕仙会」 ← 概説能 東北 :「白翔會」 ← 概説山口(宇治田原)城 :「戦国浪漫」信楽街道~家康伊賀越えの道 宇治田原歴史の道 :「宇治田原町」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 誠心院 -通称・和泉式部寺- -1 へ
2018.04.08
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京都の新京極通の東側、商店が軒を連ねる間に、山門の部分だけの間口が見えるこのお寺があります。新京極通に面し、六角通から少し南に入ったところに、既にご紹介している「誓願寺」があります。この誓願寺よりも数十m南に下るところに「誠心院」が所在します。 山門正面から正面に「本堂」が見えています。本堂のご紹介までに、まずいくつかご紹介します。この山門は平成9年(1997)末に建設された比較的新しい門です。(資料1) 山門に向かって左側には左の画像の石標があり、右側には右の画像の「鈴成り輪(ぐるま)」が設けられています。石標は池西言水に言及したものですが、下部の文字が判読できません。一方、「鈴成り輪」は、通常「魔尼車」(まにしゃ)と呼ばれているものです。黒っぽい石の輪の表面に経文が刻されています。祈願しつつこれを一回廻すと経典を一回読誦したのと同じ功徳が得られるとされるものです。誠心院の公式ホームページを見ると、知恵授け・恋授けの功徳が得られるとか。この下の石材は、和泉式部の古い灯籠の竿と台座を利用しているとのことです。和泉式部の霊が加護してくれるかもしれません。 山門前の駒札 山門を入ると、本堂に祀られているこの「和泉式部の法衣像」の写真パネルが出迎えてくれます。この木像は江戸時代の作。本堂に安置されているそうです。 パネルの説明文駒札とパネルの説明文をお読みいただくと、この「誠心院」の創建と沿革がご理解いただけるでしょう。和泉式部は、御堂関白藤原道長の娘である上東門院(藤原彰子)に仕えていました。彰子は入内し一条天皇の中宮となった人。和泉式部は才色兼備の女流歌人として有名だった人。ご存知の『源氏物語』を書いた紫式部や「百人一首」に名を連ねる赤染衛門もまた中宮彰子(上東門院)に仕えていました。さて、和泉式部は娘の小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれたことから、この世の無常を感じ、姫路にある書写山円教寺の性空上人を尋ねたのちに出家します。誓願寺にて「女人往生」を願う四十八日のお籠もりの行をしたそうです。上東門院が父の道長に勧めたことから、道長は御所の東にあった法成寺の東北院の一隅に、和泉式部のために一庵を建立して与えたと言います。その庵が「小御堂」と呼ばれたのです。和泉式部が没すると、その法名誠心院智貞専意に因んで寺名を「誠心院」としたのです。和泉式部が初代住職というわけです。(駒札、説明文、資料2)後に東北院は焼失、再建を繰り返し、藤原氏の衰微により一旦廃絶しますが、東北院は吉田神楽岡(左京区)にて再建されます。一方、誠心院は一条小川(上京区)にあった誓願寺の塔頭として再建されたのです。「往時の誓願寺は、和泉式部の伝記を語り物として諸国をわたり歩く時宗の比丘尼のたまり場」(資料2)であったそうです。天正年間(1573~1591)に豊臣秀吉の命令で誓願寺が現在の場所に移されます。誠心院もまた、現在地に移されたのです。移転後も、和泉式部ゆかりの寺として庶民の信仰をあつめることになります。(駒札、説明文、資料2)山門を入った右側の壁(南壁面)には「和泉式部縁起絵巻」が、上下2巻の絵画部分を断簡にして額に入れて展示されています。江戸時代に制作された絵巻で誠心院に伝わるものです。 その一つがこの上巻です。和泉式部が仏法を求めて京都を旅立つところから、出家を経て女人往生を遂げるまでが描かれています。下巻の方は、以下のとおり6つの額を個別に撮っています。 こちらは一遍上人へのお告げから来迎にあたり菩薩とともに式部がお迎えに来る様子までを描いています。 上巻と下巻の間に、各場面の説明も掲示されています。これはその一部です。誠心院の公式ホームページに、「和泉式部縁起絵巻」の説明ページがあります。こちらから御覧ください。それでは本堂(小御堂)の外観をご紹介します。 2018.4.9撮影 追補 正面の向拝は唐破風になっていて、山門と同様に、向かって右の柱に寺号札が掲げてあります。「華嶽山東北寺誠心院」と号するお寺で、現在は真言宗泉涌寺派のお寺です。「華嶽山東北寺」と並べて、「和泉式部」と並記されています。和泉式部寺と通称されることとも関連しますね。 2018.4.9撮影 追補こちらの木札の上部に「真言宗泉涌寺派」と二行で、下部に「南無大師遍照金剛」と大きく記されています、真言宗で御宝号と称され、唱えられる一番短いお経です。左下に、新京極通からも見える記念撮影用コーナーがここに位置しています。(追記)左側にあるこの木札から、本尊は阿弥陀如来像であることがわかります。 まず本堂全体を北西側から眺めた全景です。単層・入母屋造りで正面に千鳥破風が付き、唐破風の向拝が設けられている建物のようです。ここに移転させられた誠心院は、禁門の変による大火で元治元年(1864)に山門・堂宇を焼失。明治4年に京都府知事槇村正直の京都再生構想で、一大娯楽街として「新京極」を作るという政策が実行されました。それにより誓願寺や四条金蓮寺の境内地の大半が上地没収されてしまったのです。この誠心院も境内地を縮小する羽目になります。さらに、明治43年(1910)に近隣の火災で類焼して、蔵をのこしてすべて焼失という事態にまたもや陥ります。大正8年(1919)に念願がかない現在の本堂が建立されたという沿革を経ているそうです。(資料1,2) 屋根の棟には獅子口が置かれています。その中央と大棟の側面に、剣梅鉢と思われる紋章が見えます。丁子梅鉢や瓜実梅鉢の紋が似ていますので判別間違いをしているかもしれません。現在の屋根は銅葺のようです。以前は本瓦葺だったのでしょうか。 屋根の側面は漆喰で白く塗り込まれています。猪目懸魚の意匠が使われています。大虹梁と二重虹梁の二段になり、大虹梁は斗栱が支え、二重虹梁は中央を蟇股が支え、左右に間斗束が使われているようです。 本堂正面の外縁と軒裏を北側から撮った景色ここで目に止まったのが、向拝柱上部の肘木と垂木の間にある手挟(たばさみ)の彫刻です。 本堂正面の中央部に向かい、天女像が雲中に浮遊する姿が浮彫にされています。大正年代の匠に継承されてきた技が見事に発揮されているようです。 それぞれの手挟の裏側(外側)には鶴の姿が彫られています。そして、唐破風の向拝の上部を改めて拝見します。 南西側から見上げた景色。鰐口がありこの画像では北側が見えません。 龍頭がクローズアップされた龍像が向かい合う形で彫刻されています。 蟇股には、笹の枝葉に覆われた竹林から現れた虎が今正に跳び上がらんとでもするかの姿が、3Dで見るかのように蟇股自体から飛び出した彫刻として造形されています。 木鼻の獅子像 龍虎ともども獅子もまた、目は白く彩色され、黒目が黒点で描かれていて睨みが利いた姿になり、迫力満点です。 西面する本堂の南西側のすこし前、新京極通に面する建物の北東角が凹地となっていて、そこにこの石像が建立されています。 役の行者(神変大菩薩)の石像です。傍の石標には「水かけの行者」と刻されています。もとは木造の神変大菩薩像が当時に安置されていたのですが幕末の大火で焼失したといいます。それがこの石像として再興されたのです。(資料1) 役の行者の脇に付き従うのは「前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)」と称される夫婦の鬼だそうです。鉄斧を右手に持つのが夫の赤鬼、右手に理水(霊力のある水)が入った水瓶を持つのが妻の青鬼です。「名は善童鬼(ぜんどうき)と妙童鬼(みょうどうき)とも称する。前鬼の名は義覚(ぎかく)または義学(ぎがく)、後鬼の名は義玄(ぎげん)または義賢(ぎけん)ともいう」(資料3)。生駒山地に住み人災をなしていた前鬼・後鬼を役小角が捕縛し、改心した彼らを従者とするのですが、「義覚(義学)・義玄(義賢)の名はこのとき役小角が与えた名である。彼らが捉えられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にある」という伝承があるそうです。(資料4)話が脇道に逸れました。それでは、今は小規模な境内地ですがそちらのご紹介を致しましょう。つづく参照資料1) 誠心院 公式ホームページ2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 P275-2793) 前鬼・後鬼 :ウィキペディア4) 前鬼・後鬼 :「大峰山登山案内・大峰山行事案内」補遺和泉式部 :ウィキペディア和泉式部 :「コトバンク」池西言水 :ウィキペディア池西言水 :「コトバンク」役小角 :ウィキペディア開祖 役行者 :「役行者霊蹟札所会」役行者のこと :「奈良観光」謡曲「誓願寺」と扇塚 :「誓願寺」誓願寺 :「謡曲をよむ」槇村 正直 :「コトバンク」京都を復活させた敏腕知事 岩永俊郎氏 pdfファイル槇村正直 東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物 :「歴史くらぶ」新京極通 :ウィキペディア新京極今昔 :「京まちなか新京極」京都・近代化の軌跡 第7回新たな賑わいづくり~ 「新京極」建設:「京都経済同友会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 誠心院 -通称・和泉式部寺- -2 へ
2018.04.07
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「勢至堂」は知恩院細見としてまとめた折にもご紹介していますが、このお堂のある境内地をゆっくりと巡る時間がありませんでした。そこで、三門の細見と併せて、こちらの境内地も再訪してみました。三門前あたりを訪れる観光客の数からみると、勢至堂まで足を向ける人の数は極端に減ります。それでも本堂(御影堂)が修復工事中でもあるためか、勢至堂を訪れる外国人観光客も見かけました。 まずは、やはり勢至堂の堂内を拝観することにしました。前回訪れた時は夕刻だった外観を眺めただけに留まりました。 降棟の鬼瓦 隅棟の鬼瓦 「本地堂」と記された扁額が正面に掲げてあります。この建物が現在の知恩院では最古のもの(室町後期)だそうです。法然上人の終焉された本地の堂を意味するとか。雨水を受ける水甕は蓮の花弁を象っているのでしょうか。堂内に入り、参拝しました。内部は撮影禁止ですのでご紹介できません。堂内の正面には「知恩教院」と記された扁額が掲げてあります。本尊として現在は勢至菩薩像が祀られています。当初はこのお堂に法然上人の尊像(御影)が祀られていたそうです。徳川家が知恩院の伽藍整備の一環として、境内地の中段部分に現在の本堂(御影堂)を建立した折に、尊像がそちらに移されました。勢至堂の建つこの地は、大谷禅房と称された場所です。建永2年(1207)に安楽・住蓮の事件に連坐する形で四国に配流となった法然上人は建暦元年(1211)に帰洛を許されました。しかし吉水の禅房は荒廃に記していたために、吉水に近い青蓮院の一隅(南禅院)に止住されたのです。それがこの地です。しかし、翌1212年に法然上人は入滅されます。弟子達が傍に廟堂を建てて、上人の遺骸を埋葬します。その後、法然上人の遺骸に関わる問題が起こりますがここでは触れません。法然上人の弟子である勢観房源智が、法然寂滅後22年目にあたる文暦元年(1234)にこの地に伽藍を再興することを奏請して許されたのです。そして法然上人の廟堂を修復し、ここを大谷寺と言ったそうです。法然上人は勢至菩薩の化身であると信ぜられていたことから、その恩に報いるために境内に勢至堂を建立したのです。知恩教院と称したことで知恩院の起りとなります。(資料1,2) 勢至堂の東側は墓地への通路を間にして崖になっています。崖の上に法然上人の分骨を納めた御廟堂があります。崖下に、「紫雲水」と刻した石標が立っています。「法然上人が入滅のとき、聖衆が来迎し、紫雲が水面に現れ、異香がただよったという」(資料1)言い伝えがあるのです。それがここの水面ということなのでしょう。 勢至堂の背後、北側にある墓地に向かいます。そのとき、紫雲水の北の石垣傍に「影向石」の石標があり、 この石が石柵のなかに鎮座しています。法然上人が臨終されたとき、加茂明神がこの石の上に降臨されたという伝承があるそうです。(資料1) ここの墓地には、知恩院の歴代住職のお墓がズラリと並んでいます。無縫塔(卵塔)が整然とこれだけ並んでいるのはやはり壮観でもあり、浄土宗の歴史の厚みを感じさせます。この卵塔は鎌倉時代に禅僧が中国から輸入した墓塔の形式だったそうです。それが室町時代以降に長卵形の形式が宗派を超えて流行して行ったのだとか。諸宗派の住職の墓として使われる形式になっているように思います。(資料3)北側の卵塔の列の東端にこの墓塔がありました。異彩を放っています。蓮華座の上に宝珠が載っていると言える形でしょうか。ユニークです。 墓地通路を挟み、卵塔列の西側に一際目に付くのがこの墓塔です。徳川秀忠の娘である千姫のお墓です。墓前に「千姫の墓」と記した駒札が立っています。墓前両側に立つ石灯籠は独特の形です。めずらしい形です。普通の灯籠にある基礎がなく、四角錐の頭部を切り取り台形状にした竿の正面には葵の紋がレリーフされています。中台部分は厚めであり、蓮弁請花は大きな花弁が刻まれています。火袋の上の笠は茎を少し残した蓮の葉を裏返しにして被せた感じの造形に見えます。 近付いて墓塔を正面から拝見しますと、この形状も類例を見たことがないものです。塔身には葵の紋が2つレリーフされています。2つの家紋の中間に少し下方から、「天樹院殿栄誉源法松山大」とまで読める法名が陰刻されています。「大」に続く文字が欠損しています。スペースの感じから「大姉」かと思いますが、「大禅定尼」なのかもしれません。調べてみると現存する墓塔には法名の記載に2通りあるようですので。千姫の墓はこの知恩院の墓所以外に、東京の「小石川伝通院」と茨城県常総市にある「天樹院弘経寺」にもあるそうです。(資料4) 塔身の四面すべてに葵の紋がレリーフされています。これは北東側から眺めた墓塔です。 千姫の墓所の背後、北側に「濡髪祠(ぬれがみのほこら)」があります。 正面の石鳥居には「濡髪祠」と記した扁額が掲げてあります。「濡髪大明神」と記した幟が立てられています。 覆屋の中に小祠があり、その前に葵の紋を白抜きで描いた紫色の幕が張られています。知恩院の伽藍護持の鎮守として荼枳尼天(だきにてん)を祀ってあるそうです。一説には濡髪童子という白狐を祀ったともいわれています。「寺伝によれば、寛永年中、ときの住職霊厳上人が当寺再建に際し、この地に棲んでいた白狐が棲家を追われるのを哀れみ、ここに祠を建て、知恩院の守護神として祀ったのが起りと伝え」(資料1)てきたとか。濡髪というのは、白狐が童子に化けていたときに、髪が濡れていたことに由来する名前なのだそうです。(資料5)その濡髪という名称から、男女縁結びに効験ありともてはやされ、祇園花街のきれいどころの信仰を集めるに至ったとも。(資料1,5) 覆屋の正面の柱の頭部に肘木が直に載り屋根を支えています。頭貫の木鼻はシンプル。蟇股には宝珠が透かし彫りにしてあります。 覆屋の南西隅に小祠が祀られています。何を祀るのか不詳です。 濡髪祠の北西側に立つと、樹木の先に京都市内が見下ろせました。 千姫の墓から通路を挟み東側には、石柵で囲まれた多宝塔があります。これは霊元天皇第十皇女吉子内親王の墓塔です。塔身には碑銘として「淨琳院二品内親王尊儀」と刻されています。薄幸な運命を辿った皇女です。形は七代徳川家継の許嫁(いいなづけ)です。わずか1歳1ヵ月で、5歳の家継と婚約する形になったのです。ところが、婚約した翌年(1716)に家継が夭逝してしまったのです。二人は一度も会うことがなく、吉子内親王は成人後も再嫁することは許されず、1758年に44歳で死去するという人生を送ったといいます。家継死去以降、徳川幕府は吉子内親王に500俵を充てがうという対応をしたのだとか。そして、婚約だけにとどまったため、徳川家ではなく宮内庁が管轄する陵墓となっているそうです。(資料1,6) 勢至堂の前から山側を見上げると、崖上は石垣が積まれていて、そこに法然上人を祀る御廟が見えます。北側(左)が「御廟堂」で、南側(右)が「拝殿」です。 御廟堂をズ-ムアップ 御廟堂は方三間、宝形造本瓦葺です。現在のこの建物は、慶長18年(1613)、常陸国土浦藩主松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたものだそうです。お堂の南側が正面で、唐門と玉垣がめぐらされています。(資料7) 以前に訪れた折りには、気づかなかったのですが、御廟堂の蟇股は透かし彫りで彩色が施されています。また、内法長押の上の欄間には廟堂の周囲全体に華麗な彫刻が施されています。保護シートが前面にありますので、大凡の感じしか見えないのが残念です。これらの彩色が色鮮やかなのは、法然上人800年遠忌の前に平成の大修理事業の一環として彩色復元が実施されたことによるそうです。(資料7) 勢至堂前から眺めた表門勢至堂の表門を入ると、右手方向に上掲の御廟前に上る石段があります。この景色での左側です。 石段を上ると、拝殿の前に出ます。拝殿の中に入り御廟堂を参拝することはできるようです。丁度この時は、少し前に勢至堂前で見かけたお二人の僧侶が拝殿内で読経されていました。拝殿前からは、御廟堂の唐門が見えます。唐門の扉には大きな葵の紋が彫刻されています。 唐門の頭貫の上の蟇股には龍の頭部を主体に龍像が飛び出すかのように彫刻されています。欄間部分にはうごめく雲と波の透かし彫りが見えます。拝殿の前から側面へは立入禁止となっています。 拝殿前から西を眺めた景色 拝殿正面の蟇股。龍や獅子の透かし彫りが施されています。 拝殿を巡る石柵の傍から北方向を眺めた景色。拝殿の西面の先に玉垣が見えます。 2017.06.12勢至堂の手前、南西側、この境内西端に南北に細長い建物(位牌堂)があります。前回は建物の外観写真を撮っただけでした。今回、建物の窓から内部を拝見しました。 拝見してびっくり! 北端に丈六仏の頭部が安置されているのです。間近で拝見すると大きいです。説明は付されいませんので、関心が湧きネット情報を検索してみました。二次情報を入手した範囲でのご紹介ですが、新潟県の与板に建立された高さ約5mの丈六「与板大仏」の頭部が紆余曲折を経て、この境内地に安置されているのです。2008.4.9の新潟日報に、与板大仏の頭部が知恩院で発見されたとの報道が記事として掲載されたそうです。新潟県の本与板にある浄土真宗光西寺の住職だった藤井界雄が発願し、日露戦争の戦死者供養のために、丈六大仏の制作が行われたと言います。藤井界雄はこの大仏の開眼式を見ることなく病没されたとか。藤井界雄が本与板城跡に建てた万歳閣(失火消失)、護国殿(豪雪倒壊)も昭和年代に順次消滅。与板大仏の頭部もまた別の地に運びさられた後、所在不明に成っていたのです。それが2008年に所在地が分かったということです。(資料8,9) 中央には、地蔵菩薩立像が安置されています。 位牌堂の南側、表門を入ってすぐ左側に位置する鐘楼です。勢至堂の境内地を出る前に、少し梵鐘を眺めました。 池ノ間には銘文が刻まれ、縦帯に「南無阿弥陀仏」の名号が陽刻されていて、下帯のところに唐草文様のレリーフが施されているという質実な梵鐘です。これで細見を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂2) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社3) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p3424) 千姫 :ウィキペディア5) 濡髪大明神 :「知恩院」6) 『徳川将軍家墓碑総覧』 秋元茂陽著 p1087) 御廟(京都府有形文化財、内部非公開) :「知恩院」8) 与板大仏の頭部発見!! 2008.4.9 :「新・蛍の深い杜の平凡な日々」9) 万歳閣 :「越後の小京都与板町」補遺境内地図 :「知恩院」伝通院 ホームページ 徳川家と傅通院寿亀山天樹院弘経寺(ぐぎょうじ) ホームページ千姫の戒名二つの意味? :「歩く・見る・食べる・そして少し考える」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 東山山麓を歩く -1 知恩院の大鐘楼から法垂窟へスポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介しています。観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介しています。観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2018.04.05
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北野天満宮は幾度か訪れていて、この東向観音寺が北野天満宮社殿の南西側にあることは知りながら、訪れたことがありません。そこで、史跡御土居の探訪と併せて、このお寺を訪ねてみることにしました。天満宮境内地、二の鳥居の西側に位置します。 山門に向かい左側の築地塀脇には「役行者 神変大菩薩」の石標が立ち、右側に駒札が立っています。駒札には「観音寺」と記しています。なぜか?もとは、天暦年間(947~957)に最鎮(最珍とも)が創建し、北野天満宮の神宮寺だったと伝えられています。「はじめ東西両向の二堂があったが、西向の堂は早く廃絶し東向の堂のみが残ったので一に『東向観音寺』という」(資料1)とのこと。14世紀には、無人如導による中興で律宗のお寺となり、17世紀に豊臣秀吉が朱印地602石を寄進するとともに北野天満宮を復興した際に、観音寺も整備したそうです。 現在は、朝日山と号する真言宗泉涌寺派のお寺です。準別格本山となっているとか。(資料1,2,3)地図にも「東向観音寺」で載っていますので、「観音寺」という寺名よりも「東向観音寺」で知られています。門柱にも「朝日山北野東向観音寺」と記された木札が掛けられています。洛陽三十三所観音霊場の三十一番札所です。 山門を入ると、正面に「礼堂」が見えます。礼堂は参拝空間で、この建物の背後(西側)に「本堂」があります。本堂は慶長元年(1596)に再建されたお堂です。礼堂と造合が元禄7年(1694)に本堂正面に増築されたそうです。本堂に安置されている本尊は十一面観世音菩薩像です。この仏像は菅原道真自作で、応和元年(961)で九州の筑紫観世音寺から請来したものといわれています。梅と松の両木から作られていることから、「二木観音」とも称されているとか。(資料1,3)尚、この本尊は天満宮本地仏であることから、25年に一度の御開帳として秘仏になっているそうです。直近の御開帳は2027年といいます。(資料2)礼堂正面に、不動明王の提灯が吊されています。不動明王像は諸仏とともに、礼堂に祀られています。 向拝の側面には、猪目懸魚が見えます。木鼻はいたってシンプルな造形です。 屋根を見上げると、棟の端は獅子口で、菊花がレリーフされています。 降棟の先端の鬼瓦 隅棟を眺めると後は鬼瓦ですが、前の稚児棟のところは龍が彫刻されたものでした。これは少し色補正の加工をしてわかったのです。現地では逆光で肉眼では明瞭に見えませんでした。比較的小規模な境内です。山門を入ると、右側に「白衣観世音」を祀るお堂があります。現在は正面の格子戸に「撮影禁止」の札が掛けてあります。この観音様は、子授け観音、世継観音とも言われていているそうです。 山門を入った左側には手水鉢が見えます。南側に井戸があり覆屋が付けられています。手水鉢の正面には一条藤の紋章が浮彫りにされています。江戸時代には一條家の祈願所となった(資料2)とのことですから、その関係でしょうか。 覆屋は宝形造の屋根です。露盤の上には龍像らしきものが見えます。 境内の南辺に「岩雲辨財天」と墨書された赤提灯を吊した辨財天社があります。 その西側に、東面して建つのが「行者堂」です。 門前に立つ石標に刻されている役行者・神変大菩薩像を祀るお堂です。その傍には、何十回という回数を記した大峯山登拝記念碑が数多く奉納されています。 行者堂の背後には、五輪塔、宝篋印塔が並び、そこに小祠が見えます。 小祠の傍に立つ駒札の文字が読みづらくなっていますが、「土蜘蛛」という字が判読できました。 行者堂の側面傍に、この駒札が立っています。最初、駒札の標題だけ読み、灯籠はどこに?と周囲を眺めてしまったのです。説明文を読み、上掲の小祠と結びつきました。 小祠に安置されているのは、土蜘蛛灯籠とされるものの火袋と笠部分。石灯籠の残欠がここに奉納され、蜘蛛塚として祀られているのです。もとは七本松通一条上ル清和院前に蜘蛛塚と称される隆然たる墳丘が存在し、そこが源頼光を悩ました土蜘蛛が棲息していた場所と伝えられていたそうです。明治31年(1898)にその塚が破却され、発掘された際に遺物の中に石灯籠の残欠があったとか。その火袋がこれという次第です。『京都坊目誌』(上巻五)にその記載があり、考証に資すべきものはなかったと記されているそうです。(資料1)また、背後に並ぶ五輪石塔三基は、天満宮の東、馬喰町の民家の裏にあった無名古墳のものが、ここに移されたといいます。(資料1) 西側に目を転じると、この大きな五輪塔があります。高さ4.5mだとか(資料3)。「伴氏廟」と刻された石標が傍に立っています。 北西側から眺めて上部の文字が正確に判読できなかったので、お寺の方にお尋ねし理解できました。この五輪塔は菅原道真の母・伴氏を供養する廟塔と伝えられるそうです。 北野天満宮境内三の鳥居のそばに「伴氏社」があります。五輪塔はもとはこの社の傍に祀られていたのだとか。それが明治の神仏分離令の発布により、この社の傍に置いておくことができないということで、東向観音寺の境内に明治4年(1871)に移されました。この五輪塔自体は鎌倉時代中期の作といいます。(資料1,4)江戸時代に発刊された『都名所図会』を読みますと、「東向観音」という見出しの項に次のように説明しています。(資料4)「忌明塔(いみあけとう)の西側にあり。本尊は梅桜の二樹を以て、菅神御手づから刻ませ給ふ十一面観世音なり」室町時代には父母を亡くした人が、四十九日の喪に服し、忌明けの五十日にこの塔に詣でる風習があったことから、「北野の忌明塔」と称されたといいます。(資料1,2)京都には、忌明塔として知られるものとして、寺町の革堂(こうどう)、東山の知恩院、八幡市の石清水八幡宮のそれぞれに五輪塔があります。(資料1,4) 境内の一隅に、石仏を集めて安置してある場所がありました。各石仏に赤いよだれかけを付けてありますので、わからないのですが、お地蔵様だけでなく、他の仏像も彫られている印象をこの画像をあらためてみて感じました。また空色の宝形造屋根の小祠の中の石仏もまた、お地蔵様ではなさそうな・・・・・。再見すべき課題が残りました。最後に、山門を改めて眺めてからお寺を出ることにしました。 ここは蕪懸魚が使われているようです。また屋根を支える蟇股はシンプルですが彫り込んだ部分が白く塗られていて意匠にリズム感があ見られていいですね。 木鼻の形はシンプルです。そこで、門前に掲示の駒札に少し戻っておきたいと思います。 これは、上掲礼堂の向拝の柱上部です。駒札に記載の説明を確認するために部分拡大してみました。駒札に「礼堂正面の向拝は柱上に大斗を据えず、絵様肘木を柱頭部に落とし込む珍しい手法をとっている」と説明している部分です。こうして対比すると、建物の細部を眺める面白さにつながる一歩になると思います。 向拝の屋根の両端に獅子の飾り瓦が置かれています。わりと静態の獅子の姿を表現している感じです。ダイナミックな獅子像をよく見かけますので、こんな獅子像もいいですね。そして、屋根の降棟の先端にある鬼板には、上掲手水鉢と同様に、一條藤の紋章レリーフが見えます。これで東向観音寺の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p207,214,2152) 北野東向観音寺 公式ホームページ3) 『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1654) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p323補遺39.頼光と四天王の鬼退治(四)土蜘蛛草紙絵巻物語 :「京洛そぞろ歩き」知恩院の五輪塔 :「石仏と石塔」知恩院五輪塔 :「石造美術紀行」革堂(こうどう)(行願寺)五輪塔 :「石仏と石塔」五輪塔(航海記念塔):「石清水八幡宮」斗栱・蟇股・木鼻のお話 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」 軒と組物 :「ひとかかえ大きな木」こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 北野天満宮細見 -1 東門・手水舎・竃社・名月舎 7回シリーズでまとめています。
2018.04.03
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前回引用した地図を再掲します。ソースの地図(Mapion)は、こちらからご覧ください。 やすらぎの道をさらに西に歩むと、番号7を付した橋に至ります。「荒木橋」です。ここに、この「南山城水害記念碑」が建立されています。右側に「水害記念碑之記」と上部に横書きした当時の状況・経緯を記した文が刻されています。この碑は昭和31年8月に建立されています。昭和28年(1953)8月14日、日没より降り始めた雨が、夜半に豪雨となり、翌日午前3時30分頃に、溜池が次々に決壊し、堤防も決壊したことで全村荒廃の極に達した大水害ととなったそうです。爾来3年の歳月を経て村を復旧することができたと言います。以前にこの田原川の桜を眺めに来た時は、対岸を歩いただけでしたので、この記念碑に気づきませんでした。 荒木橋上から眺めた景色です。この橋のところから田原川が北方向に曲折していきます。この地点で犬打川が田原川に合流しています。今まで南岸の堤防上のやすらぎの道の桜並木が、東岸の桜並木を主体にする形に変化します。 記念碑の背後を見ると、赤い鳥居と小社が見えます。 稲荷大明神が祀られています。 この小社の傍から東岸を眺めた景色 小社の背後、北方向での西岸は桜の木がまばらに植えられています。 番号7の荒木橋を眺めた景色 荒木橋を北に渡り、東岸の堤防上の桜並木を眺めた景色 東岸の桜並木を少し北上し、東岸より西岸を眺めて 東岸を戻るときに撮った景色 番号7を付した荒木橋の北詰から川が曲折する手前の南岸の桜並木 番号6を付した橋の北詰から、保建センターの建物の方向を眺めた景色 しばらく、町役場のある北岸の堤防上を東に戻ります。 振り返った景色少し先に、田原川に設けられた飛石代わりの列柱が見えます。川原に降り、この列柱を渡って、「やすらぎの道」に戻ることにしました。 列柱の上から眺めた田原川の川上(東)の景色 川下側を振り返った景色。番号6の橋が見えます。この右側の桜並木の北側が町役場のあるところです。 飛び列柱渡りを無事終えて、南岸の川原から眺めた川上方向の桜並木 と、宇治田原・やすらぎの道を一巡りして観桜を終えました。 ご覧いただきありがとうございます。ぜひ、宇治田原までお出かけください。補遺自然災害地研究 池田 碩著 抜粋のpdfファイル 抜粋ページ(p142)に南山城8月災害地域図(京都新聞)が載って居ます。南山城水害 :ウィキペディア南山城水害伝える「巨石」保存を 井手町・JR玉水駅建て替え工事で「撤去」方針、住民有志が運動 :「京都民報web」ー 元祖「集中豪雨の里」の水害記念碑 ー :「消防防災博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都府宇治田原町 田原川 やすらぎの道の桜ふたたび -1 へ
2018.04.02
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この景色は、3月30日の午後、田原川の堤防に行く手前で「宇治田原町総合文化センター」を遠望し、デジカメのズームアップ機能で撮りました。今回も、国道307号線沿いにある「コメリ」の東側の道から堤防に向かいました。国道にある最寄りのバス停は「大宮道」です。地名は荒木です。 イメージしやすいように、部分地図を引用し、ご紹介の便宜のために赤字で番号を追記しました。地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。 番号1を付記したところが田原川に架かる「ごこうはし」です。 橋傍の標識 地図を見ると、川の南岸と道路の中央線を境界にして、地区が接しているのです。 冒頭の景色の桜並木が、南岸の堤防上を茶色の舗装路にしたこの道沿いになります。橋から東方向です。また、この堤防上の茶色い道が「やすらぎの道」と称されています。番号1から東方向は、比較的間隔をあけた桜並木ですが、西方向は桜並木が密になっていて見事なのです。訪れた時は、9分咲きくらいでした。今週が満開の見ごろでしょう。 堤防上からの景色 番号1の橋上から東方向、川上側をズームアップで撮った景色 振り返り、西方向、川下側を撮った景色です。ここから南岸の「やすらぎの道」を西方向に桜を眺めて参りましょう。 途中で振り返って撮った桜並木 そして、ズームアップ! 番号2の地点で、川幅の狭い支流に架かる「ねんりんはし」をわたります。 田原川に糠塚川が合流する地点に架かる橋です。 そして、すぐに番号3の「じんきちはし」が田原川に架かっています。 このやすらぎの道には、こんな標識が路面に描かれています。起点がどこかは未確認です。 川中の砂州で遊ぶ子供たちを見かけました。 番号4が「かんじょうばし」です。この橋の南詰には橋のすぐ傍には桜の木がありません。 ここから西方向には、川の南側に茶畑がしばらく続き、桜並木の枝がアーチ状に伸びて、桜のトンネルになっています。良い景色です。その先に進むと、 この「やすらぎの道」の表示板が立てられています。対岸(北岸)に、「宇治田原町役場」の建物の背面が見えます。 歩んできた堤防上の道を振り返った景色 この辺りから、川上側(東)を眺めた景色です。 番号5の地点です。ここに田原川にもう一つ流れ込む支流があります。 堤防上の道から、南側に「宇治田原町立保建センター」の建物が見えます。道沿いに進むと、番号6を付した橋があり、 その少し先に「郷之口川東」の標識が取り付けてあります。 番号7のところの橋を眺めた景色 ここからまだまだ桜並木が続きます。見応えのある桜並木でしょう。京都市内の混雑ぶりと比べれば、桜見物の穴場かもしれません。以前も平日に訪れましたので、土日の週末がどんな感じなのかは知りません。穴場かも・・・・というのは推測の域をでません。つづく補遺宇治田原町 ホームページ宇治田原町観光情報サイト ホームページ宇治田原町(綴喜郡)の観光スポット宇治田原町 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 宇治田原 田原川堤の桜・満開
2018.04.02
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知恩院から円山公園、八坂神社という順で巡ったのですが、ここでは逆に円山公園から知恩院境内という逆順で桜の花を眺めていただきましょう。冒頭のこれは、八坂神社境内の南楼門の横にある手水舎の屋根を背景に満開となった桜です。 境内を抜けて、円山公園に入ると園内の桜の木の下は、花見見物のグループが様々に集い盛況です。人を入れずに桜を撮るのは難しい。まあ、こんな風に混雑していましたということがわかるのも一興かと、加えておきます。 公園中央にある枝垂れ桜のところに行く通路の両側には、びっしりと屋台がでています。例年見慣れた景色です。 枝垂れ桜を、反時計回りに4分の1周くらい視点を変えながら、コマ撮りしてみました。桜を静かに愛でるという風情とは縁遠い雑駁な雰囲気が漂い、思い思いの桜見物、写真撮りをする場になっています。ここはそれぞれの人が写真撮りに執心されているスポットです。その雑然とした人々の集まりを入れずに桜の木を撮ると、浮世の姿は綺麗に捨象され、今を生きる桜の姿と輝きだけが映像として定着します。 ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃 山家集 77かつて西行法師がこの有名な歌を詠み、その通りの時季に寂滅されたと言います。西行が現在の花見の場面をみたら、どう感じるのでしょうか・・・・・。その西行さんが、 花ときくは誰もさこそはうれしけれ 思ひしづめぬ我心かな 山家集 147 花を見し昔の心あらためて 吉野の里に住まんとぞ思ふ 山家集 1070という歌も詠んでいるのです。桜の花に浮かれ花見した若き時代もあったということなのでしょう。そんなことをふと思うのもおもしろい。と、このように枝垂れ桜の景色も変わります。 こちらが2017.4.6に撮った景色です。薄曇りの空でした。今年は青空のもとでの桜の花を撮れたのがうれしい。そして、知恩院の境内へ。三門については、先日「諸物細見」の一つとしてご紹介しました。ここでは境内地で眺めた桜をいくつかご紹介します。 これは三門を桜とともに南東側から見上げた景色です。境内の一本の桜の木に着目してみました。 三門から男坂の石段を上り、すぐ左側に見える宝塔の傍にある桜の木です。 数歩下がってみると、桜の木が前面に広がります。 北方向に体を向けると、桜のかなたに阿弥陀堂の屋根が見えます。 少しアングルを変えると、桜の木の満開の雰囲気が密になります。これもまたおもしろいものです。 納骨堂の前の池傍の桜は少し寂しい感じがしました。記憶ではもっと桜の花咲くイメージがあったのですが。記憶違いなのか? それとも、花咲くタイミングのズレがあるのでしょうか。円山公園・知恩院の桜のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料『山家集 金槐和歌集』 日本古典文学大系 岩波書店こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 祇園白川の桜と火除地蔵観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2018.04.01
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四条通から縄手通に入り、北に少し上がると白川に架かる「大和橋」があります。その南詰から白川に覆いかぶさるかのように満開の桜の枝がまず見えました。3月下旬です。知恩院に向かう前に、祇園の白川沿いに、つまり白川南通の桜を眺めて行こうと思ったのです。平日の午後ですが、通りは大勢の観光客の人々で溢れていました。過半数が外国人観光客というのが第一印象です。皆さん熱心に桜の花をスマホ、デジカメなどで撮ろうと頑張っています。人を入れずに写真を撮ろうとすると、ちょっと大変という感じ。 初めて、祇園の白川に鳥が来ているのを目にしました。近くのお店の人が餌を撒いていました。 吉井勇の歌碑の正面から写真を撮りたかったのですが、やはりここが一つの記念写真スポットになっていて、とてもじゃないが順番待ちなどしている気がしません。この1枚を撮るだけにしました。 2017年4月6日に撮った写真で、昨年の記事には載せていない画像をご紹介します。 かにかくに祇園はこひし寝(ね)るときも枕のしたを水のながるる吉井勇(1886~1960)は、祇園をこよなく愛した歌人として有名です。祇園を詠んだほかの歌とともにこの歌を文芸雑誌『スバル』に発表しました。与謝野鉄幹主宰の文芸雑誌『明星』の廃刊後、森鴎外を中心に石川啄木・北原白秋・木下杢太郎・吉井勇らが『スバル』を発刊。『スバル』創刊号の発行人は、石川啄木が務めたのだとか。この文芸雑誌は1909年から1913年まで刊行されました。吉井勇は与謝野鉄幹につながる浪漫主義短歌の系譜の歌人です。『スバル』は新浪漫主義思潮の拠点となったそうです。北原白秋、木下杢太郎ら眈美派詩人に引き継がれます。(資料1,2)脇道に逸れました。艶やかな桜の花に戻りましょう。 様々な色彩のコラボレーションがみられるスポットもあります。 観光客があまり集まっていない地点をみつけながら・・・・ 祇園白川の満開の桜を足を留めることなしに満喫しました。 新橋通と白川南通の分岐点にあるこの「辰已大明神」はいつでも記念写真スポットとして盛況です。なんとか間隙をねらって人を入れずに今年も数枚撮ることができました。この小祠、「もとは、御所の辰已の方角(南東)を守る神社であったが、祇園の人びとの信仰が篤く、とくに舞妓・芸妓が芸事の上達を祈って訪れる」(資料3)という風に進展してきたとのことです。土地柄から生まれる祈願ニーズの変遷がここにも反映しているのでしょう。 北から南に流れてきた白川が新橋通と交差し南西方向に曲がるところ、新橋東詰にこの小祠があります。「火除け地蔵」と呼ばれるお地蔵様が祀られているそうです。駒札に記されている「地蔵菩薩本願経」をネット検索で調べてみますと、このお経の最後の「嘱累人天品第十三」中に、この経を聞き、読誦し、不施・供養・讃歎・瞻礼(せんらい)すると二十八種の利益(りやく)を得んと記し、それらを列挙して述べていきます。その七番目に「水火の災を離れ」と述べているのです。つまり火除けの利益が挙げられています。(資料4)一般庶民にとって、やはりお地蔵様は身近な存在です。桜の花からまた逸れてしまいました。桜の花のもとには大勢の人だかりですが、火除け地蔵の傍は静かなスポットになっていました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) スバル :ウィキペディア スバル/昴 :「コトバンク」2) 『国語便覧』 監修 青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p222,229,238,2393) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1344) 地蔵菩薩本願経 : 和文 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 85/101コマ目 本文p81参照 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟など
2018.04.01
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