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総門を入ると、南側に「手水舎」があり、北側には一見太鼓楼風の建物があります。境内案内図では、現在は「守衛所」として使用されています。この建物の二階部分をズムアップしてみました。 花頭窓風の窓は細い格子戸が見え、正面の壁は一面に菊花の透かし彫りが嵌め込まれています。なかなか凝った建物で、太鼓楼ではなくて、観望楼という雰囲気です。西側にも窓がありますので、この楼上室内からの京都の眺めは絶景だろうなと想像します。この建物を撮った後で、ふと足許を見ると、 総門を入ったところの北端に近いところで目に止まったもの。念の為にこの線上で南端まで眺めてみましたが、他にはありません。この丸く刳り抜かれて、そこに石が嵌め込まれているのはなぜ? 不思議な感じ・・・・・です。 手水舎を北側から眺めた景色。背後の建物は「本廟会館」です。この中に総合受付所があります。 総門から東に歩み、石段を上がった一段高い境内地に「仏殿」があります。前回挿画を引用した『都名所図会』では、「阿弥陀堂西面にして、堂内に竜谷山といふ額あり。(寂如上人の筆なり)」(資料1)と記されてるのがこの仏殿です。「龍谷山」という扁額が堂内に掲げられています。仏殿の右側(南)に見える屋根が「読経所」です。 (2015.9.24)仏殿前の左右に重なる雲のように剪定された松と灯籠の竿に「大谷御本廟」と深く刻まれた石灯籠が配されています。 向拝の屋根の先端寄りに、ダイナミックな獅子の飾り瓦が置かれています。降り棟の先端の獅子口はシンプルな意匠です。 向拝の頭貫の木鼻や蟇股はいたってシンプルな造形です。まずは本廟会館側に近い方の仏殿東側にある通路から、境内の主要部に向かいます。仏殿(左)と読経所(右)の間には渡り廊下があります。両建物の間が通路になっていて、渡り廊下の下を抜けていく形になります。 かなり広い境内地の先に、唐破風の屋根が入母屋造の屋根より前面に張り出した建物が見えます。 建物の正面に「明著堂(めいちょどう)」(寂如上人染筆)という扁額が掲げてあります。この明著堂の先に、「祖壇」が建立されています。この明著堂は祖壇の前に位置する拝堂です。 駒札によれば、明著堂は1709(宝永6)年、本願寺第14代宗主寂如上人の時代に建築されたそうです。この建物の堂内には柱が無く、東西五間、南北十間という広さです。 2015年9月に参拝したときは、明著堂の前にこの生花文字の壇が設けられていました。小雨もよいの天気でした(2015.9.24)。 右側(南)に見える現代建築の建物は「第一無量寿堂」です。 明著堂の南側面。その先(東)は祖壇の南側の墓所域です。 こちらは明著堂の北側面です。明著堂の東に八角形のお堂の屋根が垣間見えます。このお堂が「祖壇」と称されるものでしょう。「宗祖親鸞聖人のご影並びにご遺骨が納められている場所で、1660(万治3)年に本願寺第13代宗祖良如上人によって、今日の場所に造られました。」(駒札より)祖壇の左右は、「歴代宗主並びにお裏方の墓所があります」(駒札より)とのこと。1780(安永9)年出版の『都名所図会』所載の挿画には、明著堂が「拝堂」と付記されていて、現在のような唐破風屋根の参拝所部分が描かれていません。後世に参拝者の便宜のために増築されたようです。 この境内域から、西方向を眺めてみますと、読経所、仏殿、楼門(二天門)が並んでいます。仏殿の背後に、小振りなお堂があるようです。 読経所の北側の樹木の傍に、「覚信尼公碑」が再建されています。 その基壇正面に嵌め込まれた銘文がこれです。覚信尼は親鸞の末女で、母は恵信尼。親鸞聖人の死・葬送・拾骨を取り仕切った人だそうです。覚信尼は最初日野広嗣に嫁ぎ、広嗣の死後に小野宮禅念と再婚します。再婚後の住地(所有地)が現・崇泰院のあたりだったそうです。そこで、門弟の協力を得て、文永9年(1272)に自分の住地に親鸞の墓を移し、大谷廟堂を建立し遺骨や像を安置されたのです。「夫の禅念は同11年に敷地を覚信尼に譲って死没した。建治3(1277)年,これを親鸞の門弟に寄進し,所有権と引き替えに廟堂の留守職(管理権)を覚信尼および子孫に留保し,60歳のとき息子の覚恵に譲って間もなく没した。覚信尼建立の廟堂に発したのがのちの本願寺である」(「朝日歴史人物事典」)とのことです。(資料2)当初建立されたのは、六角の廟堂だとか。(資料3) この碑のすぐ近くに、石柵で囲われた区画があります。仏殿と読経所の間の通路を通ってくると、この石柵が目にとまります。 「大谷本廟内石窟」という案内板が設置されています。 この説明によると、現・崇泰院の所在地付近にあった石窟で、親鸞が学問をしたところと言う伝承があるそうです。その石窟がここに移されたという文書が現存するようです。 説明板の左下に載っている図の掲載書から挿画を引用します。(資料4)それでは、境内のイメージがしやすいように、再び総門に一旦戻り、そこから仏殿の北側を歩む経路をご紹介します。総門から現在の守衛所の前を通り、石段道を東に進みます。 石灯籠が目に止まります。 北側には「鐘楼」が見えます。 その近くだったと思いますが、右の句碑があります。 朝夕に御法きけとやつげの鐘 袴腰鐘楼の形式です。 鐘楼の東側には築地塀に沿って、この一画があります。 「古代の蓮」(大賀蓮)が九州の教区の人々から寄進されたものだとか。 こちらは仏殿の北側の通路です。西から東を眺めた景色です。左(北)が「古代の蓮」の育つ一画、右(南)が仏殿です。 白い漆喰が際立つ軒支輪の一列が斗供の組物と併せて美しい。 仏殿のある境内地から一段高い境内地への境に、楼門(二天門)があります。この門は江戸時代に出版された『都名所図会』の挿画を見ると、北面する形で建てられていたようです。 「二天門」と称するのは、この二像に由来するのでしょう。 二天門を通り過ぎるとき、ふりかえって頭貫などを撮った部分図です。(2015.9.24)この門の優美さの一端がここにも表わされています。 (2015.9.24) 四脚門の形式です。 (2017.8.29)二天像が安置された空間は、円弧状の上面構造をとり、二方向に菱格子窓が設けられています。東側面は上部の四分の一円は菱格子付の板壁、下部は腰板壁になっています。門扉の意匠もすっきりとしています。全体的に優雅さを感じさせる楼門です。 一輪車と立て看板がなければと思うのですが、このときは残念ながら・・・・。 (2017.8.29) 仏殿前にて (2017.8.29)写真を撮っていない箇所を補足しておきます。明著堂の南西方向、第一無量寿堂の建物の手前に「戦没者記念堂」が建立されています。二天門のすぐ傍、北東側に「北門」があります。北門を抜けて、大谷本廟の北沿いの東西方向の道に出ると、再び雑踏の巷に足を踏み出すことに・・・・・。この通りについての記憶の景色との大きな違いに気づきました。それは西大谷墓地への墓参者ではなく、この道を往来する外国人観光客が増えていることでした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p248-2512) 覚信尼 :「コトバンク」3) 大谷本廟の沿革 :「大谷本廟」4) 跡追. 第1-6 / 中川喜雲 撰 (京童跡追):「古典籍総合データベース」 第2分冊 9コマ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 大谷本廟 -1 円通橋・皓月池・聖人像・総門 へ
2018.06.28
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東大路通に五条通(国道1号)が高架となっている東山五条の交差点から少し北に、東大路通に面してこの石橋が架かっています。 先日、親鸞聖人の荼毘所を再訪した時に、「大谷本廟」に立ち寄りました。数回この境内を訪れていますが、探訪のまとめをしたことがありません。今までに撮った写真も加えてご紹介します。この石橋を「円通橋(えんつうきょう)」と称し、この池が「皓月池(こうげついけ)」と称されることを今回再認識しました。円通橋の通称は「眼鏡橋」です。五条通に面した駐車場側から境内に入っていたので、あまり意識をしていなかったのです。 2018.6.1時点での池面 (2011.8.10撮影) 円通橋を渡り振り返ると、東大路通と五条通の交差点は雑踏と騒音が漂っています。40mばかりの橋を渡ったこちらは静けさが始まります。 石畳の参道を東に歩むと、親鸞聖人像と総門に近づきます。 総門前の石段にかかる手前、北側に、この境内案内図が掲示されています。 この案内図の右側に「大谷本廟の歴史」が記されています。親鸞聖人が90歳で示寂されると、鳥辺野の南のほとりで荼毘に付されます。そしてその遺骨は、一旦鳥辺野の北辺の「大谷」に納められたそうです。その後、文永9年(1272)に現在の知恩院山門北側の「崇泰院」付近に改葬され、そこにお堂が建てられました。その地が「大谷影堂」または「大谷廟堂」と呼ばれたのです。そして、本願寺の始まりの地となります。崇泰院の寺地の東辺に「親鸞廟址」が残っているそうです。(資料1)拙ブログで「知恩院ふたたび」として、この崇泰院の場所をご紹介した折に、少し触れています。蓮如上人が誕生し中年まで過ごされた大谷本願寺故地でもあります。大谷本願寺は、第8代蓮如上人51歳の時、比叡山衆徒により破却されます。(資料2)「寛正の法難」(1465)と呼ばれているそうです。(資料3)関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603)に、徳川幕府は知恩院の拡張工事に着手します。この折、幕府の命により本願寺の廟堂が廃され、親鸞聖人の遺骨は東西両本願寺に分けられます。そして西本願寺は五条坂の現在地に廟堂を移転したのです。また、東本願寺は同様に現在の円山公園の南側に「東大谷祖廟」として移転します。 この「総門」がまず見応えのある山門です。石段上から西方向を眺めますと、樹木が生い茂り残念ながら京都市内は見通せません。しかし、結構高い位置に境内があるということが感じられるとともに、市内の雑踏とは隔絶した静寂感があります。大きな行事の行われる折は、信者さんで満ち溢れるのでしょう。平常は静謐な空間です。 総門正面の屋根には唐破風が見えます。そこに「大谷本廟」の扁額が掲げてあります。 扁額の左右の額縁には昇龍と降龍が一対として彫刻されています。普段は西本願寺という通称で言うだけですが、本山は正式には「龍谷山本願寺」と称するそうです。「龍谷」は山号です。(資料4)扁額に龍が具象化されているのは、たぶんこの山号に関わるのでしょう。 総門の傍で屋根を見上げて、気づきました。 四隅に龍の頭部が彫刻されています。この総門を往来する人々は、この箇所の龍頭彫刻にも気づいておられるでしょうか。さらに総門を眺めます。 門扉の上部は格子窓で、五七桐紋のレリーフがほどこされています。(2011.8.10) 本柱の頭貫の上には、波濤の上を飛翔する鶴が透かし彫りで彫刻されています。 頭貫の下側には、菊花の彫刻が様々な姿で彫られています。 (2011.8.10)境内側から眺めると、表側の輪郭は、異なる同種のデザインに巧みに変換されています。 (2015.9.24) 門を通り抜け、境内の南東側から眺めた総門の姿入母屋造に唐破風が設けられた屋根の四脚門です。斗栱は出組(一手先組)形式のようです。頭貫の木鼻はごくシンプルな造形です。それが逆に龍頭彫刻の箇所を引き立てている感じがします。本柱の頭貫の先端部や垂木の先端部は、飾り金具で保護されています。また、各柱の上部も飾り金具で覆われています。 釘隠しなど 柱下部の飾り金具と礎石 江戸時代に出版された『都名所図会』からの引用。この挿画が載っています。(資料5)それでは、境内を探訪することに・・・・・。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東ー上』 竹村俊則著 駸々堂 p151,p2432) 本願寺の歴史 :「西本願寺」3) 大谷本廟の沿革 :「大谷本廟」4) 浄土真宗の教章 :「浄土真宗本願寺派」5) 都名所図会 6巻. [3] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 25コマ/88コマ 補遺大谷本廟 ホームページ大谷本廟紹介ビデオ 最初の3分20秒までのところで、総門・仏殿・祖壇・明著堂などが紹介されています。大谷本廟 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -4 黒門・瓜生石・[元大谷]崇泰院・良正院・先求院・松風天満宮ほか探訪 京都・東山 親鸞聖人・2つの荼毘所址
2018.06.27
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先日、大阪に別件で出かけたとき、数時間早く出て、中之島で開催中の「フランス宮廷の磁器」展を鑑賞してきました。 入場券の半券この展覧会の副題は、「セーヴル、創造の300年」です。ひょっとしたら、図録の背表紙を見ると、こちらがタイトルで、「フランス宮廷の磁器」がいわゆる冠なのかもしれません。展覧会は美術館の2階と3階が会場です。 階段を上がると、会場の入口手前正面でこのパネルが出迎えてくれます。 これが当日購入した特別展の図録表紙です。事前に入手していたチラシから図録まで、今回は一貫して1757年に製作されたポプリ壺「エペール」(セーヴル陶磁都市所蔵)が特別展PRの主役になっています。ポプリ壺とは「香りを拡散するために乾燥させた花と香辛料を入れるもの」だそうです。18世紀には寝室や浴室には欠かせないアクセサリーとして使われたのだとか。この壺が一例ですが、今回展示作品のうち18~19世紀のフランス宮廷の磁器は全体的にミニアチュールの技法で描かれた繊細で華麗な絵が磁器を飾っていました。動物、花、木々、人物、風景など様々な細密画が磁器に描かれています。写実性に秀でていて、名もなき絵付け職人たちの技量の高さも含めて、その技量の高さと質がうかがえます。これは2階のロビー2の壁面に掲示された「セーヴル陶磁都市」の説明パネルから切り出した図です。赤丸を付けたところがパリにあるルーヴル美術館の位置です。会場に入ってまず印象に残ったのは、説明パネルの記載内容でした。フランスの磁器製作は、中国磁器の秘密を探求するというところから始まったというのです。はるばると中国から輸入された磁器の魅力にヨーロッパの人々は憧れたのです。当初、ヨーロッパの人々には「素地を構成するカオリンという成分が特定できず模倣品しか製造できなかった」と言います。だが、遂にこの成分が解明でき、ザクセンでカオリンの鉱脈が発見され、1710年にマイセン製作所が設立されるに至ります。フランスでは、1740年にパリ東端のヴァンセンヌに軟質磁器工房が設立されたのです。もちろん「磁器製法の探求」とヨーロッパの他製作所との競走です。この工房が国王の庇護を受け、パリとヴェルサイユの間に位置するセーヴルに移転し、王立のセーヴル磁器製作所となったそうです。1769年には硬質磁器の開発に成功したのだとか。会場の説明パネルによりますと、「2010年、国立セーヴル磁器製作所と国立セーヴル陶磁美術館が統合され、フランス文化通信省が管轄する『セーヴル陶磁都市』という公共施設」が誕生したのです。尚、2012年5月からは、さらに統合が進展し「セーヴル・リモージュ陶磁都市」になっているようです。今回は、国立セーヴル陶器美術館のコレクションが展示品の中心となっています。この展覧会では、「プロローグ/王のための磁器」から始まり、4章構成で展示されています。プロローグと「第Ⅰ章/18世紀のセーヴル」は数点を除き、軟質陶器の作品群です。「第Ⅱ章/19世紀のセーヴル」、「第Ⅲ章/20世紀のセーヴル」は硬質磁器の作品に移行しています。そして「第Ⅳ章/現代のセーヴル 1960-2016」という最終章になります。ここでは、伝統的なセーヴル陶磁の枠からは大きく飛躍した様々なタイプの作品創作が展開されていて、300年の歴史を背景に感じます。ここでは、新硬質磁器をはじめとした新タイプの材質による作品も展示されています。今回、会場内での撮影がOK(一部作品を除く)となっていて、うれしいかぎりです。勿論、ガラスケース越しなので鏡面反射などもありますが・・・・。私好みで撮った展示作品を中心に一部のご紹介をします。現在開催中のこの特別展への誘いになれば幸いです。プロローグ/王のための磁器写真は撮りませんでしたが、皿の中央に飾り文字のイニシャルをあしらったものが数点印象に残っています。やはり王侯貴族たちの特注品なのでしょう。ここでは、皿類よりも、「貝を捧げ持つニンフ」「ルイ16世/王の胸像」「マリー・アントワネット/王妃の胸像」という軟質磁器の真っ白な彫刻像に興味を持ちました。第Ⅰ章/18世紀のセーヴルまず、今回の花形になっているポプリ壺「エベール」が18世紀の作品です。 まずは図録の裏表紙に使われているこの「乳房のボウル」から始めます。これには括弧書きで「ランブイエの酪農場のセルヴィスより」と付記されています。オリジナルは1787年-1788年頃に製作されたものですが、今回展示されていたのは脚台が2006年、ボウルは2011年版の作品です。なぜこんな名称が? じっとよく見ると、わかりますよね。 脚台がやはりいりますね・・・・・。 壺「コテ・デュ・ロア」(1776年)この特別展のPRチラシの裏面にも紹介されているのを後で知りました。やはり、一際目を引くもののひとつです。ゴールドの輝きとちょっと過剰と思える胴まわりの装飾なのですが、ハデなケバケバしさだけというものとは一線を画した落ち着きを感じるのです。これは裕福な貴族の城館のマントル・ピースの上に置く3点セットの置物のうちの中央に置かれる壺だそうです。人々の集う大きな部屋のマントル・ピースの上なら、丁度バランスがよくなるのでしょうね。 皿(中心に十字形の花綱装飾) 1791年 フランソワ・ブイヤ(息子)作上下左右対象に図柄が描かれています。中心の十字形は金色ですが、そのまわりの可憐な花綱の少し淡い色調の装飾との調和がスッキリとしていていいな・・・・と思いました。 こんな形でカップとソーサーが並べて展示されています。どれも良い感じです。 一番奥側の作品がこれ。 カップと窪んだソーサー 1763年モダンな感じを受けました。このカップ、「トランブルーズ」と呼ばれ、1762年ごろからセーヴルで製作され始めたもの。「その装飾は、当時流行の異国のドレスからインスピレーションを得ている」もので、当時、「女性にとっての究極の洗練は、トータルルック効果を狙って、服あるいはアクセサリーと同時に装飾のカップを所有することだった」(図録より)といいます。異国情緒の溢れるファッションを着て、このカップで「当時特別だったココアのような飲み物」を飲みながら、会話を楽しむうら若き貴婦人をイメージしてみてください。 「墓石形の花器」 1759年この作品にはおもしろい説明が付いていました。ローズの地色はコストが高い上に、完璧な色を出すのが難しいという事から1757~1760年というごく短期間の実用で退場となったそうです。なんと経済的理由から、この作品の背面は加飾されていないので、この正面しかみせない作品だとか。希少品の類いですね。ローズ色とグリーン色の配色がステキです。 壺「バトン・ロンピュ」 1775-1780年頃図録によると、「この器形は1763年に登場し、把手の形が、18世紀に流布した版画の中のクラシックな石製の壺を想起させる」ものだとか。壺の胴に貼り付けられた編み紐状の太い紐が、全体を華やかにするとともに、大きな把手の形とのバランスを生み出している感じです。この壺の胴体の地の色が好きです。第Ⅱ章/19世紀のセーヴル 水差「ディーテルル」<アマゾネス> 1873年 銅胎七宝 アルフレッド・トンプソン・ゴペール、ジャン=バプティスト=セザール・フィリップ作 まるで写真をみるような細密さで騎乗のアマゾネスを描いています。アマゾネスの伝説、その神秘性が当時の人々には魅力的だったのでしょうか。もちろん、今でもアマゾネスは映画のネタにもなっていますよね。 壺「テリクレアン」 1842年 硬質磁器と鍍金されたブロンズ 器形:ジャン=シャルル=フランソワ=ルロワ 装飾:ピエール=ジョセフ・ルドゥーテ これもPRチラシに載っています。やはり展示作品群の中では、目に止まる作品です。壺の把手の面白さがまず目に入り、壺の胴体正面一杯に描き出された花が目に飛び込んできます。一方でそれぞれの花々は壺の黒地に包まれるようにして、穏やかに咲いている安定感を感じます。 こちらは一転してはれやかな暖色を背景に木の枝にとまる小鳥が描かれています。花瓶「花器AB」(1873年)。作者不詳です。この作品の近辺に展示されている作品群とはちょっと異質。図録には、「セーヴルは、20世紀初頭まで大きな成功を得ることが約束された意匠を推し進めるため、ふたたび中国に着想を得た」とこの作品の冒頭解説に記されています。この色彩感覚と東洋的な作品の印象に惹きつけられて撮った1枚でしたが、自宅で図録を読み、納得した次第。様式化された描法の中に緻密さがあります。 シメールのティーセット 1892-1893年 器形:アルベール=エルネスト=カリエ=ベルーズ、装飾:アシール=ポンニュイ ポットの注ぎ口と把手を人物像で装飾しているのが少しおもしろい趣向です。飾り置きしてあるだけでも、楽しめるポットです。淡い色調の控えめな図柄がいいなあと思いました。そっとそこに置かれているだけでいい。 デザート皿≪将校デュプレシの戦闘と死≫(「エジプトのセルヴィス」より) 1811年騎馬の4人が戦う場面で、デュプレシが長い槍で脇腹を突きさされた場面が細密に描かれています。よくこんな場面をデザート皿の図柄に選ぶものですね。デザート皿の形式による飾り皿なのでしょうか。それならわかりますが・・・・・・・・。 これは、ロビー2から3階の展示室への階段上から見下ろした景色です。 ここにも作品が展示されています。 杯≪ネレイスとトリトンとイルカ≫ 1862年この作品には、杯の内面の絵を拡大した図が垂れ幕に転写されて、正面の壁に掲げてあります。銅胎七宝による作品。作者は、ジャコブ・メティエル=エーヌ。「国王ルイ=フィリップの要請により、フランス・ルネサンス趣味の、とりわけリムーザンの七宝作品を作る目的で、1845年に七宝の工房が創始された」(図録より)と言います。 この作品はセーヴルで製作されたものの一つのようです。絵を部分拡大してみます。 この大杯は、「ローマのヴィッラ・ファルネジーナのラファエロのフレスコ画に着想を得ている」(図録より)作品だとか。『ギリシャ・ローマ神話辞典』(岩波書店)を引くと、ネレイスとは、ネーレウスとドーリスの間にできた50人(あるいは100人)の娘たちのこと。ネーレウスはホメーロスに海の老人と呼ばれた海神で、海の底(とくにエーゲ海)に住んだといいます。大杯の中央、イルカの引くホタテ貝の上に立ち、綱を握るのがネレイスの一人であるガラティアという海の精です。トリトンはポセイドンとアムピトリーテーの子です。半人半漁の姿でポセイドンに従って海馬に跨がり、ほら貝を吹き鳴らて海を鎮める姿で想像され、ときには複数でも考えられている神です。両サイドに描かれたのがトリトンなのでしょう。実に細密な絵が描かれています。 ロビー2の反対側の壁面に、大きな作品が展示されています。 壺「ロドス」 1874年 装飾:シャルル・バリア画家バリアは古典主義への回帰を実践した人だそうで、「この作品はネオ=グリークに着想した『フレスコ画の壺』シリーズに含まれ、セーヴルで19世紀後半に製作された」(図録より)のだとか。 壺「クロディオン」 1885年 フランスの19世紀は、強烈な歴史趣味の時代だったようです。「~風の」装飾が好まれた時代で、この作品は作者不詳ですが、フランス・ルネサンスの装飾スタイルをイメージさせる作品です。 壺「秋」 1900年頃 器形:クロード・ニコラ・アレクサンドル・サンディエ 装飾:レオナール・ジェブルー 図録には、「複雑な装飾は消え、自然主義的ではあるが様式化された花は、新たな器形の輪郭線と見事に一致する」と説明しています。私はこの壺の絵に、日本画で描かれた花のイメージを重ねて眺めてしまいます。この3作品を眺めるだけでも、19世紀後半から20世紀への移行の時期に様々な試みがなされていることがわかります。余談です。明治維新後、岩倉具視を全権大使とする使節団が欧米を視察してまわりました。フランスではセーヴルを訪ね実見した記録があるのです。「仏国陶器ノ精美ナル」ことを賞賛し、「世界陶器ノ首(コウベ)ト推スハ、即チ此ノ製造場ニテ製スルモノタリ」と、国家が関与し近代化・技術革新で高品質を実現をしていることと、製造・販売が連携している姿に着目しています。そして、日本の製磁産業の近代化に思いを馳せていたそうです。(図録より)第Ⅲ章/20世紀のセーヴル 壺「ル・ブルジェB」 1901年 器形:クロード・ニコラ・アレクサンドル・サンディエ 装飾:H.ユルリク/ガブリエル・ローに基づく 壺「アシェール」 1897年 器形:アンリ・バルブリ、 装飾:ルイ・トラジェ/ガブリエル・ローに基づくこの2つの壺がいいですね。図柄に落ち着きがあり、日本的感覚に通じる気がします。 壺「モンシャナンC」 1898年 装飾:クジューヌ・シマ素足でつま先立ちして上方に腕を伸ばす二人の女を、正面を向いた女が腰を少し屈めて、両方の手を左右の女に回して支えようとしている様子です。二人の女は何かを取ろうとしているのでしょうか。それとも三人の女が踊っている瞬間を切り取った絵でしょうか。 ガラスの鏡面反射で少しおもしろい画像になりました。アガトン・レオナールが彫刻した「ダンサー」という白磁(硬質磁器)の作品が5点出ています。(テーブルセンターピース「スカーフダンス」より)という付記がある作品群(1899-1900年)です。これはそのうちのNo.13興味深かったのは、この展示のすぐ傍で、シカゴ出身のダンサーであるロイ・フラー(1869-1928)が演じ表現したダンスの映像が見られることです。1892年11月にパリで初演したとかで、その演出と表現にセンセーションを巻き起こしたとか。このダンサー作品群はその刺激を受けているのかもしれません。1900年万国博覧会では、セーヴルがアール・ヌーヴォーとして評価され、なかでもこのダンサー群の作品が賞賛されたそうです。1904年に初めての外国人滞在芸術家として、沼田一雅(1873~1954)が招かれたと言います。「お菊さん」はじめ5点の作品が出ています。 これはそのうちの「象とねずみ」(1906年)です。象の後脚の傍にねずみがが居て、象に乗る少女の右側には鳥、右肩には猿がくっついています。何かの物語からの発想なのでしょうか・・・・。後であらためてPRチラシを読むと、「日本との交流では、20世紀初頭に外国人作家として初めて、沼田一雅が型の製作に携わったのは特筆すべきことでしょう。」という一行が記されています。「お菊さん」は展示品リストに「1904年(1920年版)」という記載があるのです。「型の製作」ということから合点がいきました。 ゆったりとスペースをとり、全く異なる作風の作品を展示している一隅もあります。左の作品は、「リューマンの花瓶 N0.2」(1926-1927年)というもの。器形:ジャック=エミール・リュールマン、装飾:シュザンヌ・ラリック=アヴィラン。モノトーンで至極シンプルな図案装飾の作品ですが魅力的です。右の作品は「ラパンの壺 Np.12」(1925)。鹿と満開の樹木をモダンなタッチと図柄で描いています。器形:アンリ・ラパン、装飾:ジャン・ボーモン。こちらは、ファイアンスと呼ばれる施釉陶器だそうです。材質・技法としては展示品の中で希少の部類です。 「ダンサー No.1」(1925年) 同じダンサーというタイトル・硬質磁器作品でもこんな作品が出ています。一瞬、華麗な孔雀をイメージします。デザイン:ジャン=バティスト・ゴーヴネ、装飾:マルセル・ブリュニエ/ゲオルギー・オダルチェンコに基づく。 第Ⅳ章/現代のセーヴル 1960-2016ロビー2の階段を上がると、最終章の展示セクションです。 展示室入口で、まず目に飛び込んでくるのがこの作品「ネイチャー・スタディ」(2003年)、ルイーズ・ブルジョア作です。入口から、ガラリと雰囲気が激変します。ユニークさが爆発しだした感じ・・・・・。この「ネイチャー・スタディ」は、どの立ち位置、アングルから眺めるかでその印象が大きく変化します。ビスキュイ磁器だそうです。図録に掲載の写真は、異なる立ち位置、アングルから撮られています。その場で、いろんな角度から鑑賞してみてください。 この展示室の一方向はこんな感じの展示です。一番左から、作品名と制作年だけ列挙します。「ディアンヌの盛り付け用皿、オリヴィエ・ドゥブレの装飾」(1992年)、「皿、装飾 No.17-70(「ディアンヌのセルヴィス」より)」(1970年(2005年版))、「皿、装飾 No.1-69(「ディアンヌのセルヴィス」より)」(1969年)、「ゲリドン(小型円卓)の天板」(1968)。一方で、次の作品も展示されています。 「アルプの壺 No.4」、または「夢のアンフォラ」(1975年)。ジャン・アルプによる白黒一対の作品ですが、双取手が付いていないのに、ギリシャの壺の一種の名称が使われているのが不思議。確かに頚部の伸び上がりや胴部のふくらみなどが造形されているのですが・・・・。この形状と黒白の一対であることに何か引き寄せる磁場が働いているのでしょう。 この作品もおもしろい。「セルヴィス≪ハルビュアの喜び≫」(2009年)。図録には8連作のシリーズとして掲載されています。展示室では枚数をカウントしていません。メルヘンチックな一連の作品が展示されている中で目に止まった1枚です。 絵の左上を部分撮りしたのがこれ。メルヘンの世界だけれど、見ようによっては恐ろしい。怖さがないのは美女顔だからでしょうか。 「プレルの壺≪ボーリアを探して昇るドラゴン≫」(2016年)、ニコラ・ビュッフ作。 上半分を撮ってみたもの。マンガ的な世界の図柄なんです。部分部分を見ていくとおもしろくて、親しみが湧く。これを見たらゲームソフト世代、マンガ世代は惹きつけられるのでは? 「花器≪sakura≫」(2016年) ネンド作。 この飾り壺の発想がおもしろいな・・・・と惹きつけられました。 ユニークさの極みの一つがコレ! ≪ゴールデン・スピリット≫(2005年) 鍍金されたビスキュイ磁器作者は草間彌生。さすが、ユニークな発想です。図録には次の一行が記されています。「頭頂が逆立ち全身が金で覆われ、キュプロスの一眼を頂く、交雑動物である」と。私好みで、少し偏ったご紹介になっているかもしれません。勿論、この最終章を含め各セクションには他にも惹きつけられた作品がいくつもあります。ぜひ、会場で貴方好みの作品と出会ってみてください。もう一つ。時間のゆとりを持ってお出かけください。会場の一画にセーヴルでの陶磁器製作プロセスの映画が流されています。作家たちが各自の創造的な作品を作る段階、ここでは壺などの表面に絵を描くそのプロセスの作業シーンがまず映し出されます。そして、焼成窯への原作品の窯入れから始まり、焼成を終えるまでのステップを克明に映像化していきます。ここには焼成の専門職が活躍しています。完全な職能分担のようです。そして、作品の窯出し作業のプロセスが続きます。窯の封印が解かれ、作品の窯出しが始まるのですが、ここには各作家たちが立ち合って、見守っています。順番に作品が新潮に運びだされるプロセスが映像に収められています。作家達と焼成専門のスタッフ達が喜びを共有する瞬間です。これがけっこう長いのです。動画というよりドキュメンタリー映画という感覚のものです。最初から最後まで、これを見てから会場を巡ると、また作品の味わい方に奥行きが加わるかもしれません。ご覧いただきありがとうございます。参照資料特別展覧会図録『フランス宮廷の磁器 セーヴル、創造の300年』 発行 サントリー美術館PRチラシ『ギリシャ・ローマ神話辞典』 高津春繁著 岩波書店補遺大阪市立東洋陶磁美術館 ホームページラファエロの美しいフレスコ画が圧巻、ヴィッラ・ファルネジーナ。 2014年9月11日 :「イタリア/ローマ特派員ブログ 阿部美寿穂」沼田一雅 :「東京文化財研究所」沼田一雅の作品 :「日本陶彫会」ファイアンス :「コトバンク」ファイアンス焼 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.06.22
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手許にある『昭和京都名所圖會 洛東-上』を読んでいて、「親鸞上人火葬地」という見出しが目にとまりました(資料1)。そこはかなり以前に一度偶然に道路傍の門柱の表記で参拝した場所とは異なるところでした。そこで、先日この2つの荼毘所(火葬地)址を探訪・参拝してみました。2つの荼毘所は「鳥辺野」と称された広域の中で、かなり対照的な位置にあります。探訪後に少し調べて得た情報も併せて、整理しご紹介します。冒頭の地図は、東大路通の傍で目に止まった地図。この地図は最初の探訪地へのスタート地点といえるところを示すために、まず掲げてみました。「親鸞上人火葬地」の項目に記載の場所に行くためのガイドです。1262年(弘長2)11月28日、三条富小路(=左京押小路南万里小路東の地)の善法房(坊)で、親鸞聖人は90歳をもって没しました。ここは、親鸞の舎弟叡山東塔の尋有の房と推定されているとか。(資料2,3,4)没後、「洛陽東山の西麓、鳥辺野の南のほとり、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾て、同山の麓、鳥辺野の北辺、大谷にこれをおさめ畢ぬ。」(資料5)と伝わるのです。この延仁寺荼毘所の址は永らく所在地が不明となりました。というのは延仁寺は応仁の乱後、廃絶し、延仁寺の旧寺地は「正保年間(1644~48)に泉涌寺塔頭戒光寺の所有に帰し本尊も同時に収めた。幕末になって本寺の消滅を惜しんだ恵隆が慶応元年(1865)再興し戒光寺より本尊を戻して、西光寺と称し、明治16年、延仁寺と改めた」と言います。(資料1,6)現在の「延仁寺」の所在地は東山区今熊野南日吉町です。これでまあ、冒頭の地図に戻ります。今回、私が歩いた経路でご紹介します。詳細な地図(Mapion)はこちらを御覧いただきたいと思います。JRと京阪電車が合流する「東福寺」駅(地図の赤丸のところ)で下車し、本町通(旧伏見街道)を少し北に上り、 (地図のマゼンダ色の丸のところ)「瀧尾神社」の南側、五葉の辻を東に歩みます。ここは昔の泉涌寺道だったそうです。この道は東大路通に出ます。道路を横断した北東方向に泉涌寺道が見えます。 (地図の紫色の丸のところ)泉涌寺道の北側、3本の細い通路の先に、東方向に少し幅広の道路があり、この坂道を東に上っていきます。途中に「剣神社」があります。これら2つの神社は拙ブログで既にご紹介しています。 地図を参照しながら、道を歩むと石段が終端となり、この石段を上ると「延仁寺」の南側に出ました。その道路が「醍醐道」です。この寺から東大路通に戻るときに「醍醐道」の坂道を下って行きました。東大路通から醍醐道への起点(地図の青丸のところ)の南側には、 この「鳥辺野陵 中尾陵 参道」の道標が立っています。東大路通を北から下ってくる場合ですと、JR東海道本線の上に架橋された「今熊野橋」を渡って左側(東)にすぐ見える東西の道路がこの醍醐道です。導入部が長くなりました。 醍醐道を西側から上ってきたときに見える景色がこれ。四阿の休憩所が設けられていて、道路脇には「親鸞聖人 御荼毘所」と刻された石標があります。道路の北側は駐車場スペースになっていて、駐車場側に立つと、 休憩所は樹木の背後になりますが、醍醐道の南側に「延仁寺」の山門が見えます。 山門をくぐると、東側に西面した本堂があります。「洛東山」という山号の扁額が掲げてあります。ここは山科に通じる滑石越(すべりいしごえ)と称される途中に位置するそうです。古名は瓦坂とも呼ばれたとか。上掲の石段を上ってきたように、この寺の南側は谷間になっている地形の途中にあります。このあたり火屋ヶ谷とも呼ばれるそうです。本願寺三世覚如上人もまた、延仁寺で火葬に付されたと言います。(資料1)孫引きですが、「慕帰絵」の詞書に次の一文が記されているそうです。(資料6)「第五日の暁知恩院の沙汰として彼寺の長老僧衆をたちなびき迎とりて、延仁寺にしてむなしき煙となしけるは、あはれなりし事の中にも、廿四日は遺骸を給へりしに、葬するところの白骨一々に玉と成りて仏舎利のごとく五色に分衛す」と記されているとか。「慕帰絵」は14世紀中頃に制作され、本願寺第3世覚如の伝記を描いた絵巻です。 駐車場から撮った景色に写るバイクの近くに、「見真大師御荼毘所道」の道標石が立ち、その手前に「親鸞聖人御荼毘所 230m先」と案内板もあります。 そのお堂内には「北向地蔵尊」が祀られています。この北向地蔵尊は古くから荼毘所跡にあったものと伝わるとか。(資料6)山の斜面は区画整理がされた延仁寺墓地になっていて、東側にこの墓地に沿う形で石段道があります。 私の道は /私にしか /歩めない いのちが /いのちに聞く /いのちの願い 信に死し /願に生きよ 曽我量深 南無阿弥陀仏 /限りある身を /限りなく生きる力 石段の途中にある「延仁寺納骨堂」右の灯明台の正面に次の章句が刻されています。 名モナキモノノ /名ニヨッテ 歴史ハ /荘厳サレル 名モナキモノニ帰レ 石段を上りきると、広がった平坦地があり、一段高くなった基壇が正面に見えます。 ここが「親鸞聖人荼毘所」とされた場所でした。この地を知り、初めて訪れました。 駒札が立っています。延仁寺荼毘所の所在地は永らく不明で、いくつかの候補地があったようです。「湛然の『延仁寺旧地考』などの考証によって、通称、火屋谷の地にあたるとされ、明治16年(1883)に大谷派本願寺門主厳如が、この地を買得し、標石、石柵などを整えて延仁寺に付した」(資料6)といいます。西光寺は東本願寺第21代厳如上人によって、このとき(1883年)延仁寺と改称されたのです。(資料6,駒札) 基壇の石段を上がり、手前の石柵越しに拝見すると荼毘所として決定された場所を六角形の石柵で囲い、周囲が礼拝所になっているようです。 六角形の石柵の内側に親鸞聖人立像が安置されています。 正面の石柵の扉は閉じられています。ただ、この外周部分の東辺には細い通路がありましたので、北東側からこの荼毘所の全景を眺めることができました。正面の石柵前に戻ります。 一対の石灯籠の間に、この銘文碑が建立されています。「ここで聖人親鸞の遺体を焼いたと伝える」から始まる文が記されています。そして、向かって右側、六角形の石柵の外側に「見真大師御荼毘所」と刻された石碑が建立されています。 正面に立つ石灯籠の形はあまり見かけないものでした。 振り向くと、南端側に休憩所が設けられています。 北側には斜面を階段状に開削して、墓石が並んでいます。墓地域の最上部にあたるようです。その手前に、松前屋観音と基壇に刻された観音菩薩立像が奉納されています。基壇下には、上掲画像に見えるように、3つの石塔が並んでいます。中央には供花石柱の正面に「延仁寺」と刻されていて、五輪塔が安置され、左側の石塔には「倶會一處」と刻されています。右側は墓石の形で「捨名住寿」と記されています。この荼毘所を参拝して、延仁寺を後にしました。しばらくは醍醐道を下ることに。 途中で振り返り撮ったのがこれです。この道を上ってくると、こんな景色がみえます。下の分かれ道のところは左側を上っていくことになります。 東大路通に出る手前、北側にあるのがこの「今熊野宝蔵公園」です。そこに冒頭の案内地図板が設置されています。「東山区醍醐道東大路東入」と記されています。もう一つの荼毘所は、以前に一度訪れたことがあります。まずは東大路通を北上し、五条通との交差点まで移動します。東大路通の東側にあるのが「大谷本廟」(西本願寺)です。大谷本廟境内地の北西角は境内地と五条坂とが分岐する地点です。大谷本廟の境内地北側沿いの道路を東に入って行くと、墓地域に向かいます。 分岐点から少し東に入ると、まず「実報寺」の入口参道が北側にあります。そこにこの駒札「鳥辺野(とりべの)」が立っています。冒頭の説明文を転記しましょう。「鳥辺野は、東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)を中心にして西方に広がる山麓一帯を言う。北は清水寺の南、当山(実報寺)を含む辺りから、南は今熊野観音寺の北、一条天皇皇后定子陵のある鳥辺野陵に至る地域を総称している」つまり、鳥辺野と称された地域は広大です。具体的かつ特定できる記述で荼毘所が記された記録が残っていないかぎり、荼毘所にいくつかの候補地があっても不思議ではありません。延仁寺が中世に廃絶することなく存続していればそういうことはなかったかも知れませんが・・・・。余談ですが、豊臣秀吉が京都の都市改造をして、五条通を付け替えるまでは、現在の松原通が五条通でした。この松原通を東に進んできて、東大路通を横切り、東に向かうとここから「清水坂」と呼ばれるようになり、清水寺に至ります。東大路通から松原通へ少し西に入ったところに南面する山門があります。「六道珍皇寺」です。六道珍皇寺の山門前を南に下る道がありますが、T字路になったこの辻が「六道の辻」と称され、かつては葬送地の鳥辺野への入口とされていたのです。駒札の説明と合致してきます。大谷本廟の北辺の道を更に東に向かうと、大谷本廟の北門に近いところですが、北側に「北谷墓地」の入口があります。 入口の門柱、右側を御覧ください。「御荼毘所参道」と刻されています。その右に説明板が掲示されています。現在はこの北谷墓地の北側には上記実報寺の墓地域が隣接していて、その墓地域を横切り参道が続いています。 指定参道の各所にこんな標識が設置されています。これが最後の標識です。墓地域を抜けると、谷間への階段を下っていくことになります。 谷間を下って行くと、谷底部分に覆屋が見えます。この覆屋の中に、 「親鸞聖人奉火葬之古蹟」と刻された石標が建立されています。予備知識なしに、周辺の探訪途中に偶然、上掲門柱と説明板を目に止めて、参拝したのがかなり以前で、初めてのことでした。その時のことが印象的な記憶として残っています。それまで鳥辺野にこんな深い谷間がすぐ近くに存在したこと自体知りませんでした。今は柵が設けられ、境界が閉ざされています。民家も建て込んでいて北側の地形などは分かりませんが、市中から鳥辺野に遺体を運んできたとき北側に西に通じる道があれば、この谷間は立地として火葬地らしい環境だな・・・と感じました。そんな雰囲気を漂わせる空間です。広い鳥辺野には、鳥辺山西麓にいくつも谷筋があるでしょうから、西麓の中腹から、市内に近い谷間の底地までの間に火葬地の候補がいくつもあって不思議ではありません。この2つの荼毘所のいずれであっても、その地を参拝し、この鳥辺野で火葬に付された親鸞聖人の人生と宗教思想、阿弥陀仏信仰に思いを馳せることに意味があるのでしょう。さらに宗教とは・・・・に思いが広がる契機の場所になることに意義があるのかもしれません。両荼毘所址、訪れる人のないひととき、一人静かに参拝・拝見することができました。 かなり急な階段を再び上り、観光客で溢れる五条坂近辺の雑踏の中に・・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p862) 『日本史大事典』3 平凡社 p14943) 『朝日 日本歴史人物事典』 朝日新聞社編 p8654) 『日本仏教史辞典』 今泉淑夫編 吉川弘文館 p5625) 本願寺聖人親鸞伝絵下 親鸞伝叢書 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 第六段 29コマ/369コマ 6) 『京都市の地名 日本歴史地名大系』 平凡社 補遺慕帰絵 :「コトバンク」慕帰絵 :「龍谷大学人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍) 3回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・東山 鳥戸野陵・剣神社探訪 2016年「京の冬の旅」 -3 妙心寺境内と霊雲院、六道珍皇寺スポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺
2018.06.16
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「岩瀬大町公園」の南西角にある大きな「岩瀬まち歩き散策路」の案内板です。その足許には公園名称碑と「ふるさと眺望点 平成22年4月 富山県」と記した銘板碑があります。この公園の近辺に少しの時間ですが立ち寄りました。私の所用目的からは予定外だったのですが、岩瀬のまちをほんの少し歩きまわることができました。そして岩瀬を再認識する機会になりました。何十年か昔、富山港線の列車で岩瀬浜に来て見たことがあります。そのときは海辺を少し眺めただけだったのかも・・・・・。鄙びた漁港という印象を抱いた以外にほとんど記憶が残っていなかったのです。 岩瀬大町公園は「大町新川町通り」に面しています。この通りの南方向を眺めた景色です。後で入手した「岩瀬まち歩きまっぷ」を見て、この道が「旧北国街道」だということを知りました。滋賀県の鳥居本宿を起点に、長浜・木之本を経由して北陸に向かう道ということは知っていました。滋賀県内の北国街道部分はウォーキングや探訪で歩くことで馴染みがあったのですが、その先はあまり意識がありませんでした。「まっぷ」で旧北国街道という文字を読み、ああここに繋がっているのか・・・・、まずそんな思いに。 公園の北隣りにある「大塚屋製菓店」の「どらやき」という赤い幕が目に飛び込んできました。三角のどらやきが有名だそうです。どれだけの滞在時間になるか未定だったのでお店には入りませんでした。こちらは大町新川町通りの北方向(富山港側)を眺めた景色です。 岩瀬にちょっと立ち寄るから・・・・と言われただけで、ここに来た次第。実は長男が、「酒商田尻本店」で富山を代表する吟醸酒「満寿泉」をまず調達することを目的にしていて、この岩瀬に立ち寄ったのです。お土産兼知人からの頼まれものの購入だったようです。私はお店に一緒に入るよりも、その間にこの周辺をちょっと探訪することを優先しました。このまとめとご紹介ができる理由がここにありました。この建物、森家の蔵として使われていた奥行きの長い建物を伝統的な工法を活かして復元したものといいます。(資料1)森家って何? これは後ほど・・・・・。 公園の中央に「北前船」(きたまえぶね)のブロンズ像が置かれています。その傍に立つのは「ガス灯」。この岩瀬は大正期にいちはやくコンクリートやガス灯の西洋建築技術を取り入れた地域の一つだったそうです。そのモニュメントとなっているのでしょう。私はそれもさることながら、この北前船に惹かれました。北前船は「江戸時代から日本海に就航した回船に対する上方(関西)での呼称です。」(案内板より) ぐるりと船の回りを巡って撮ってみました。江戸時代の回船の一つとして、大坂~出羽を往来する西廻航路が発達しました。(資料2)北国回船、北国船とも称される北前船は「江戸中期から明治初期にかけて、北海道の海産物や北国の米などを日本海・瀬戸内海回りで上方へ、上方の酒・塩などを北国に運搬した」(『日本語大辞典』講談社)のです。この北前船はご覧の通り、帆船です。寄港地で積荷を売り、新たに仕入れもするという形で、商品を売買しながら日本海を航行した「買積船」という点に特徴があるそうです。他の航路の廻船は荷物を積んで目的地まで航海するというのが一般的だったとか。船の形は、大きな1枚の帆で帆走する大型船。千石船(米150tを積載)のイメージですが、500石積み程度から最大2400石積みまで航行していたそうです。瀬戸内海で発達した「弁才船」の船型だといいます。船体が堅牢であり、鋭い船首で波を切り、逆風でも進むことができるという帆走性能を持っていたのです。(資料3)余談ですが、太平洋側では、日本海沿岸~江戸の東廻航路と、南海路である江戸上方間航路があり、江戸上方間には、菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽廻船が運航しました。菱垣廻船は1619年にはじまったと伝えられているそうで、その名称は「積荷が落ちないように、ふなべりに桧の薄板か竹で菱形の垣をつけたことからきている」とか。この菱垣廻船は当初江戸大坂間を約半月で往復したのが後には6日間に短縮されるまでになったそうです。(資料2) 江戸時代には、こんな船絵馬が神社や寺に奉納されたそうです。(案内板より) 岩瀬大町公園から通りの反対側を見ると、このつくりの町屋があります。日本海側有数の廻船問屋の一つ、「馬場家」です。 案内板に「回船問屋の家屋の特徴」としてこのイラスト図が掲示されています。馬場家の南隣りも廻船問屋です。 南側から眺めた家屋のほぼ全体の景色 「北前船回船問屋 森家」です。上記の森家はこの廻船問屋のことなのです。明治期まで廻船問屋を営まれていたといいます。現在この建物は一般公開されています。 チラリとこの説明板を見て、内部を拝見したかったのですが・・・・今回は見送りました。次回、富山に来た折には再訪してみたいと思っています。 白漆喰の外壁に、二階の開口部は出格子の形です。岩瀬は、江戸前期の寬文年間(1661-1673)に港町の形ができ、加賀藩の領地で御蔵が設けられたそうです。北前船で米や木材を大坂や江戸に運ぶ拠点となったのです。(資料1)この森家の南側も廻船問屋です。隣の建物の前に立つと、外観は似た感じでしたが、今は内部が北陸銀行の支店として活用されているようです。あまり遠くまで行けないので、通りの反対側を海側方向に少し歩いてみました。 公園と大塚屋を通り過ぎた先の門で目に止まったのが、「東岩瀬古道 御鷹道」と刻された道標です。木の傍の告知板のところに、「慶集寺琳空館」と記されています。ここは、「ギャラリー、ライブ、イベントに使用できるフリースペースです」と「まっぷ」に記されています。(資料1) 上掲道標の近くで少し奧まったところに、簡素な門柱の左側に鐘楼、右側に「蓮如上人御旧蹟」碑があるお寺が見えました。浄土真宗本願寺派の「盛立寺」(じょうりゅうじ)です。蓮如上人が加賀の吉崎御坊を拠点に布教活動をされていた時期に、その足跡がこの岩瀬にも及んでいたということでしょう。 かなり大きなお寺です。本堂の正面の桟唐戸には、連子の中央に三巴の紋が見えます。 正面の向拝の木鼻は象頭部が彫り深く造形されています。左右の口許は阿吽形になっているようです。 頭貫の上部に、龍像が彫刻されています。 本堂前から建物外観を拝見するだけに終わりました。少しネット検索で調べてみて、「盛立寺は文明年間(一四六九~ 一四八七)蓮如のもとで浄土真宗に転宗し、慶長までに森から永割の地に進出して寺号を盛立寺と称したことは、同寺の記録その他で推定され、古くから永割門徒の呼称があって浦方に属する。」ということを河上省吾氏の「東岩瀬の成り立ち」という論文から学びました。(資料4) 序でにご紹介しておきます。こんな外観の町屋も見かけました。 「森家土蔵群」の場所まで戻ると、まだ時間がかかりそう。角のところの道標に「展望台」と方向を示しているので、土蔵に沿った道を西へ行ってみました。 大町新川町通りと並行する道があり、北西方向、すぐ近くに「富山港展望台」が見えました。 開館時間は決まっています(9:00~16:30)が、入場無料の展望台です。琴平社の常夜燈をモデルにした形だそうです。(資料1)琴平神社は、「まっぷ」を見ますと、展望台の前の道を真っ直ぐに南下した東岩瀬の南端側にあります。この境内に高さが6mの常夜燈があるのです。「慶応元年に航海の安全を祈願して建てられ、当時は灯台の役目をはたしていました」とのことです。(資料1)展望台に上ること、この常夜燈を確認することなど、岩瀬まち歩きのための再訪課題がいくつも残りました。そろそろタイムリミットか・・・・・と思い、酒商田尻本店の入っている土蔵の扉を開けて中へ。写真撮影OKの範囲で何枚か撮ることができました。 復元された土蔵内部の建物構造はこんな様子です。 土蔵の奥側には、こんなスペースが設けられています。 土蔵内の左半分位に酒の保管・展示スペースが設けられています。右側手前には田尻酒店が扱われているお酒が一式展示されています。 保管・展示ルームに、お客さんは入って現物を見ながら品選びをできるようになっているようです。棚にはズラリとお酒が並び、○○年と製造年が表示されているお酒もあります。日本酒も何年物っていうのがあるのですね。入口近くに、「酒商田尻本店 地酒リスト」(2017.09.01現在)というのが置いてありました。「岩瀬まち歩きまっぷ」もここで入手!序でにこの地酒リストから地酒の製造所、ブランド名とその品種数をご紹介しておきましょう。まずは富山県の地酒です。 枡田酒造:満寿泉(28)、林酒造:黒部峡(2)・林(1)、太刀山:太刀山(4) 清都酒造:勝駒(4)他県の地酒も取り扱われています。それもご紹介しましょう。 朝日酒造(新潟):久保田(6)・呼友(1)、八海山(新潟):八海山(5) 車多酒造(石川):天狗舞(5)・五凜(2)、菊姫酒造(石川):菊姫(13) 黒龍(福井):黒龍(7)・黒龍(生酒)(2)、九頭龍(3) 達磨正宗(岐阜):達磨正宗(6)、澤屋まつもと(京都府):澤屋まつもと(2) 司牡丹(高知):司牡丹(1)、竹葉・ちくは(石川県・能登地方):竹葉(3) 浦霞(宮城):浦霞(4)酒好きにはたまらないでしょうねえ・・・・・。あまり飲めない私には、猫に小判の類いです。それにしてもいろいろあるものです。日本全国に地酒ってどれくらいの酒類があるのでしょう・・・・・?「まっぷ」をもう一度眺めていて気づきました。「枡田酒造店」そのものがここ東岩瀬に所在するのです。明治26年創業の造り酒屋さん。富山を代表する吟醸酒と記されています。(資料1)ほんの限られた区域内での「岩瀬」ご紹介です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「岩瀬まち歩きまっぷ」 発行(財)岩瀬カナル会館/富山市都市整備部都市政策課2) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社3) 北前船とは 一攫千金の夢物語「北前船」 :「北前船」4) 東岩瀬の成り立ち - 往環道を中心に - 河上省吾 :「バイ船研究」補遺電子足跡・北陸街道(加賀街道・北国街道)歩き旅概要 :「電子足跡」北前船 :ウィキペディア北前船ってどんな船 :「船のなるほど豆事典」バイ船研究 ホームページ酒商田尻本店 ホームページ枡田酒造店 満寿泉 ホームページ富山県酒造組合 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.06.13
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髙岡でもう1箇所、一度は訪れてみたいと思っていた場所があります。この「髙岡大仏」です。大仏の背後の駐車場に車を駐めて、少しの時間でしたが、初拝見です。 「髙岡古城公園散策ガイド」から、アクセスマップを引用します。現在「あいの風とやま鉄道」と称される「髙岡駅」から「古城公園前交差点」まで約600m、徒歩10分くらいの距離ということを入手資料で知った次第です。髙岡大仏は、髙岡古城公園(高岡城跡)の駐春橋から徒歩4分、約200mほどの位置になります。(資料1)今回は濠の傍を通り過ぎるだけとなりました。この地図で位置関係がおわかりいただけるでしょう。髙岡大仏のこの正面入口は高岡城址に向かう道に面しています。つまり大仏は北西方向に面して鎮座されています。髙岡大仏は冒頭の景色でわかる通り、大変オープンな雰囲気です。 ブロンズ像の仁王像がまず迎えてくれます。昭和43年(1968)4月造立。 真っ直ぐの参道の正面に大仏がストレートに見えます。 大きな青銅製灯籠が奉納されています。灯籠の笠の頂上に宝珠(擬宝珠)がありますが、「阿弥陀如来の住まう宇宙空間に於ける星を表現している」(資料2)と説明されています。その斜め後方には観音菩薩立像が建立されています。交通安全を祈願して建立されたそうです。(資料2) 水を湛えた大きな手水に龍が巻き付いています。北東側に見えるのが本堂です。 この大仏様、正式には「銅造阿弥陀如来坐像」です。この大仏の原型は中野双山がつくり、「鋳造から着色までの全工程を髙岡の銅器職人が担い、1933年に完成した」と説明されています。奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されているものです。説明によれば、木造大仏を起源としますが、火災による焼失を重ねてきて、明治38年(1905)に銅製大仏を建立することが決定され、その悲願が1933年に達成され大仏の開眼供養に至ったそうです。また、「円光背」は昭和33年(1958)9月に建載されたのです。円光背の頂点には、阿弥陀如来の仏徳を示す梵字(キリーク)が記されています。 この髙岡大仏の台座部分が回廊になっています。台座の建物内部を一周して拝観することができます。台座の上に蓮華座があり、阿弥陀如来が上品上生の定印を結んで坐っおられる姿です。 建物の傍に、この大仏様のサイズ表が掲示されています。地上よりの総高は約16m、像高7m43cmです。余談ですが、奈良の華厳宗大本山東大寺の大仏殿に鎮座する大仏様は「盧遮那大仏」で像高14.98m。「盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味」と説明されています。(資料3,4)鎌倉の大仏様は、浄土宗の高徳院(詳名: 大異山高徳院清浄泉寺)の本尊で、国宝銅造阿弥陀如来坐像です。像高約11.3m、重量約121t を測るそうです。「露坐の大仏」として有名です。また大仏胎内拝観ができるのです。(資料5)露坐の大仏という点では、髙岡大仏も同様です。戻ります。門柱、仁王像、手水、灯籠、観音像、大仏と、鋳物技術、銅器製造技術に秀でた髙岡ならではの光景をここ「髙岡大仏」の地で眺めることができます。 台座の内部、正面です。中央に阿弥陀三尊像が安置され、その両側に数多くの仏像が安置されています。この台座内部は回廊になっていて、壁面には仏画が掲示されています。 回廊の仏画に関わる「七本杉」の説明パネルだけ撮りました。昭和2年に杉の老朽化と道路拡張工事のために、この七本杉が伐採され、「『七本杉』は昭和27年、当時の髙岡在中新進画家達の手により十三枚の仏画となり、当時に寄贈されました」という経緯があるそうです。その仏画が展示されています。 台座建物中央部の部屋にこの仏頭が祀ってあります。これは大火で類焼した2代目髙岡大仏(木像)の焼け残ったご尊顔と伝えられてきました(資料2)。ところが、「髙岡繁昌双六」(明治33年1月)に描かれた2代目大仏とは違うもののようです。「高岡市の地方史家・冨田保夫氏の調査『高岡大仏関連年表』(改訂増補版2001年、高岡市立中央図書館蔵)により、火事の翌年(明治34年4月)に寄進されたものであることが分かりました。大火の直後から、何らかの再建計画があったことになります」とのこと。(資料6)また、この仏頭の背後の壁面に、円光背の如くに、十二仏が配されています。これは当初、髙岡大仏に円光背を建載する際に「無量寿経」に説く十二光仏を円光背に配する予定だったそうです。しかし、過重等の理由から中止となり、こちらに配されることに変更となったという経緯があるとか。(資料2) 壁面の一隅に、「大仏御尊体鋳造作業風景の想像図」(日展評議員 可西泰三)が掲示されています。右半分には、「原型作業」が描かれ、「木材、竹、針金、荒縄等の材料にて、仏像本体の芯木を組立て壁土にて荒造に完成する。」と記されています。左半分には、「鋳造作業」が描かれ、「鋳造は焼型の重ね吹きの方法である。」と説明が吹きされています。 大仏の北側に本堂があります。本堂の正面です。「鳳徳山」という山号の扁額が掲げてあります。大仏寺という浄土宗のお寺。本尊は阿弥陀三尊像です。境内拝見と参りましょう。 北側の塀沿いに石仏が並んで安置されています。右側の石仏は「馬頭観世音菩薩像」です。「新髙岡西国三十三観音札所」の第二十九番札所として祀られています。「高岡新西国三十三観音札所は、昭和3年に高岡市内の有志と僧侶によって建立・設置された霊場」だそうです。「西国三十三観音霊場より砂を移して埋めた」とされているとか。遠く西国三十三観音霊場を巡礼できない人々の為に設けられたのでしょう。(資料2) 各種の石仏が安置されています。 境内の一隅に鐘楼があります。江戸時代の文化3年(1804)7月に完成した大鐘で、江戸時代末期、髙岡町民に時刻を報せる「時鐘」として使われていたと言います。明治12年以降の数度の火災により移転し、その後にこの大仏寺に寄付されたそうです。探訪のまとめをするにあたり、調べていて知ったのですが、現在の髙岡大仏は昭和56年(1981)に11m後方に移動させて修理されたそうです。そしてその前を公園として整備されたのです。さらに平成19年(2007)にも大がかりな修理が行われたと言います。(資料2,6)これらの努力の積み重ねの結果が、正面入口から眺めたスッキリとした景観を生み出しているようです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「髙岡古城公園散策ガイド」 発行:髙岡古城公園管理事務所・髙岡古城公園を愛する会2) 髙岡大佛 ホームページ3) よくあるご質問-FQA- Q2 :「東大寺」4) 東大寺の歴史 :「東大寺」5) 鎌倉大仏 :「鎌倉大仏殿高徳院」6) 髙岡大仏 博物館ノート 髙岡市立博物館 pdfファイル 補遺東大寺 ホームページ鎌倉大仏殿高徳院 ホームページ「高岡大仏」の誕生秘話 :「たかおか生涯学習ひろば」髙岡銅器 :ウィキペディア髙岡銅器展示館 ホームページ中野雙山(双山)髙岡鋳物関係年表 :「ねっとこ金屋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 富山県高岡市 -1 大伴家持像・ドラえもんの散歩道・万葉の風 へ
2018.06.11
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JR髙岡駅前は、道路が南西から北東方向の道路と駅前から北西に延びる道路とで逆T字路の交差点になっています。やや南西方向に延びる道路の手前側歩道の傍に、このブロンズ像が見えます。 台座の部分の中央に「大伴家持卿」の銘板が嵌め込まれています。右側にはもう一つ、大伴家持の歌を記した銘板が見えます。「万葉集第四一四三」と記されています。 左側には、この銘板が嵌め込まれています。まず右の歌を活字体で記しています。 かたかごの花をよぢ折る歌 もののふの八十(やそ)をとめらが 挹(く)みまがふ 寺井の上の かたかごの花その後に、大伴家持のプロフィールを簡潔に記しています。要点は次のとおりです。*『万葉集』に載る代表的歌人のひとり。万葉集の編纂に関係した人物。*越中国守として5年間(746-751)在任した。高岡市伏木国府。*国守として在任期間中に約220首の歌を詠んだ。 序でに、手許の本を参照しますと、巻十九に収録されている歌です。(資料1) 堅香子草(かたかご)の花を攀ぢ折る歌一首 もののふの八十(やそ)をとめらがくみ乱(まが)ふ寺井の上のかたかごの花堅香子は辞書を引きますと、カタクリの古名だそうです。この歌について、折口信夫はその詞書を「かたかごの花を折って、詠んだ歌」として、 もののふの八十処女らが汲み紛ふ、寺井が上の、かたかごの花 と記し、「沢山の娘達が、始終汲んで乱して行く、寺の井の辺に咲いて居る、かたくりの花よ」と口訳しています。(資料2) 左手に紙綴りを持ち、右手で着想した歌を書きとどめようとする家持と、水を汲みに来たおとめ二人です。一人のおとめが左手に持つのはよじ折ったカタクリの花なのでしょう。 振り返って、駅側を見ると、歩道脇にこの一木が・・・・・。 道路を横断し、北側の「WING WING TAKAOKA (ウィング ウィング タカオカ)」のビル前の広場に行きました。 ビルへのアプローチにあるのが、これです。 ドラえもん!! 藤子不二雄は2人の漫画家がユニットになり活動したときのペンネームです。共作としての代表作は『オバケのQ太郎』。1951年にコンビを結成し、1954年から、コンビを解消する1987年まではこのペンネーム使用していたそうです。藤本弘と安孫子素雄の2人。そのうち藤本弘(藤子・F・不二雄)がこの高岡市の出身なのです。残念ながら1996年9月に62歳で没しています。(資料3)5月下旬に、富山市に所用があり日帰りしたのですが、長男が富山に泊まりがけで行くスケジュールがあり、往路は車に便乗しました。その折り、少時髙岡に立ち寄りました。私自身は、藤子・F・不二雄が髙岡市出身だということを、この前に立つまで知りませんでした。 この「ウィング・ウィング髙岡広場」の交差点側には、このくつろぎのスペースがあります。 「万葉の風」と題する説明板が傍に設置されています。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この駅の傍で昼食休憩をして、もう一箇所だけ立ち寄ることに。つづく参照資料1) 『新訂 新訓 万葉集 下巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫2) 『折口信夫全集 第五巻 口譯萬葉集(下)』 中公文庫 3) 藤子不二雄 :ウィキペディア補遺大伴家持 :ウィキペディア大伴家持の生涯と万葉集 :「髙岡万葉歴史館」 越中万葉歌めぐり波流能由伎(はるのゆき) 大伴家持の世界 ホームページドラえもん :ウィキペディアドラえもん :「朝日テレビ」『映画ドラえもん のび太の宝島』予告編映像 :YouTube映画ドラえもん のび太の宝島」予告編公開 ミニドラやゲストキャラの姿も :YouTube星野源の主題歌「ドラえもん」とリンク 「映画ドラえもん のび太の宝島」最新予告映像解禁 :YouTube星野源『ドラえもん』 - 特設サイト片栗(かたくり) :「季節の花 300」カタクリ :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 富山県高岡市 -2 髙岡大仏 へ
2018.06.10
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かつてウォーキングの同好会で四天王寺とその周辺を歩いた時、この前の坂道「逢坂」(国道25号線)がコースの一部になっていて、この場所がちょっと立ち止まるだけの通過点になってしまいました。一心寺を出た後、せっかくの機会でもあり、交差点を渡り、今回はゆっくりと境内地を訪れてみました。これもまた、時間との関係での思いつき探訪ですので、個別の探訪としてまとめて、ご紹介します。 上記石標や幟の立つ場所が、この案内図に記された逢坂沿いの場所です。境内地に一歩入ったところは参道部分だけなのです。 「現在地」の近くに、この「演劇堂」碑が建立されています。少し調べた範囲では、この石碑の由来は不詳です。課題が残りました。今回の探訪で知ったのですが、神社社殿には3方向からの参道があり、神社の正面参道にあたるのは、この案内図で「西坂石段」と記されているところです。ここは松屋町筋から入る参道です。最後にご紹介します。このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。逢坂側からは幅の狭いくねくねと曲折する参道を進みます。少し北に入ったところが境内地で、私の第一の関心事には一番近いアプローチでした。 まず目に入ってくるのがこの景色です。第1の関心事です。ここが「真田幸村陣没の旧跡」です。 駒札には、元和元年大坂夏の陣が5月6日の河内の片山・道明寺の戦いが皮切りとなったことが記されています。真田幸村は7日には茶臼山を陣として、松平忠直軍と激戦をしますが、遂に力尽き、この安居神社境内地で忠直配下の物頭西尾治右衛門の槍を受けて戦死したと伝えられています。(資料1、駒札) 銅像の右側に「真田幸村戦死跡之碑」が建立されています。 石碑の背後に、「さなだ松」と称される一本松があります。この松の辺りで幸村は戦死したとか。当時の松は残念ながら後に枯死したそうです。そこに新たに昭和26年4月に植樹された松が今では大木になってきているようです。(駒札より)毎年5月に「幸村まつり 慰霊祭」の行事が行われているそうです。駒札の下に、5月5日(土)の掲示が貼られた状態でした。 拝殿 拝殿は西面しています。その背後に本殿が見えます。祭神は小彦名神と菅原道真です。菅原道真が祭神の一柱ですので、逢坂側の石標のところに、「安居天満宮」の幟が立てられていたのです。社伝によれば、菅原道真が祭神として祀られたのは天慶5年(942)と伝えられているそうです。(由緒より)菅原道真が太宰府に左遷され彼の地で没したのは、延喜3年(903)2月25日です。そして「延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました」というのが「太宰府天満宮」の成り立ちです。(資料2)そして、北野天満宮の創建は平安時代中頃の天暦元年(947)とされています。(資料3)ここ安居神社に菅原道真が祀られたのは、その中間の時期になります。菅原道真を祭神として勧請するという行動は、やはり太宰府から東に漸次浸透してきたのでしょうか。この安居神社の社紋は、太宰府天満宮の神紋の系統のようです。興味深いところです。因みに、北野天満宮の神紋はホームページを再確認しましたが、星梅鉢紋です。「太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ」(資料2)とあります。一方、「北野天満宮は、菅原道真公をご祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社です。」(資料3)と冒頭に記されています。まあ、現代の巨大企業にアナロジーを求めるなら、二本社体制というところに落ち着くのでしょうか・・・・。全国各地に勧請されていったのは、太宰府と北野の両天満宮のいずれかからでしょうから。 拝殿の屋根や丸軒瓦には剣梅鉢紋がレリーフされています。拝殿前の垂れ幕に染め抜かれた剣梅鉢文が一層見やすいでしょう。 これは逢坂側に掲示されている「安居神社由来略記」の説明板です。この略記に記されていますが、菅原道真が筑紫に左遷される時、ここが船待ちをした地という伝えられています。当時、村民が道真をなぐさめるために作ったのが大坂名物「おこし」の始まりとの伝承が残るそうです。(資料1)また、安居という名称についてです。「『摂津名所図会大成』には、道真が『暫時やすらひ給ふ故』に安居の名が起こったとも、この地にかつて四天王寺の僧徒が結夏90日の間安居した安居院があったためともみえる。安居院に祀られた天つ神が天満天神と混同され道真が主神となったという説もある。」(資料1)とか。境内のご紹介です。 境内の北辺を見ると、西側に境内社として稲荷神社があります。右側に幟が立つところが北坂石段のある参道で天神坂に出ます。 その東側に、「淡島神社」があります。この社殿を拝見すると、正面に「淡島大神、金山彦大神、金山姫大神」と三柱の神名を記した額が掲げられています。 拝殿に向かって左側の斜め前には、奉納された歌碑ほかいくつかの石碑が横並びに建立されていますが、私には判読できません。拝殿前から振り返ると境内の西辺に社務所があり、その北隣に手水舎があります。社務所の南側に、絵馬堂があり、その下に七名水の一つである「安井」があり、「かんしずめの井」として知られているそうです。ここは見落としています。この地域にビルが林立するなどの環境変化があり、今はわずかに跡をとどめるだけと言います。(資料1) その北側に、門柱と扉と少し急な石段の参道が見えます。 左の門柱に建立時期が刻されています。その左に立つ駒札に興味を抱きました。そこで、部分拡大してみました。 昭和の「和」の字が意図的に異字体で刻されているというのです。この駒札がなければ、何かのミスか? と思ってしまいそうです。この門扉の位置に建つと、この境内の高さがわかります。ここは天神の森あるいは安井森とも称されたかつての景勝地なのです。「摂津名所図会」を参照しますと、 「安井天神」として境内図が載っていています。(資料4) また、「安井天神山」は花見の名所でもあったようです。(資料4)さらに、8月19日は「安居天神菅原祭」という一行が「四天王寺法筵略記」という見出しの中に記されています。(資料2)正面の石段参道を降りると、石鳥居があり、ここにも門扉が設けられています。 松屋町筋の通りに面して、この石鳥居が建てられています。 石鳥居の傍には、この説明板が設置されています。安居神社の正面参道を出て、松屋町筋から再び逢坂に戻り、地下鉄の駅を目指しました。 少し西に向かうとこの建物が見えます。「浪花名所 合邦辻閻魔堂」 所在地は浪速区下寺3丁目16番です。『摂津名所図会』には、次の絵図が掲載されてています。「合法辻閻魔堂」という名称で記されています。江戸時代には、覆屋の下に閻魔様が鎮座する辻堂の形で祀られていたということでしょう。 入口の左側に、「玉手之碑」があり、その西隣に説明板が設置されています。 私がここに関心をもった契機は、浄瑠璃の演目として作られ、歌舞伎の演目になった「摂州合邦辻(合邦)」をかなり以前に観劇する機会があり、合邦辻閻魔堂が実在するというのを知ったときでした。「閻魔堂」は聖徳太子の開基と伝わり、当初は大伽藍があったそうですが、それが上掲引用図のように辻堂になり、明治の中頃に、融通念仏宗西方寺の境内に移されたという変遷を経ているようです。(資料5)尚、『摂州名所図会』には、「合法辻」の見出しで、「相坂清水の西の辻なり。閻魔堂あり。実は学校辻なり。むかしここに天王寺の学校院ありし古蹟といふ」と説明がきされています。(資料4) 説明板の画像処理をしてみました。説明文が多少は判読しやすいかもしれません。説明板の冒頭には、上記の経緯が記され、中央部分には浄瑠璃「摂州合邦辻」の大筋が記されています。末尾には、これにより閻魔堂が演劇史跡として古来より名高くなったとあります。「俊徳丸の難病がなおるという浄瑠璃のくだりからその故事に因縁をもとめ病気平癒を祈願する人が訪れています。」(資料5)とのこと。説明板の末尾に同趣旨の記述があります。河内の高安城主の後妻となった玉手御前は俊徳丸にとっては継母です。ある時、謀に遭いかつ難病を抱える俊徳丸は、難を避け閻魔堂に籠もり堂守の合邦道心の世話になっています。そこに玉手御前が現れて、俊徳丸に懸想した振りをし、みだらな態度に出ます。怒った合邦が玉手御前を刺すのです。この玉手は実は合邦の娘。玉手は己の行為が敵を欺く計略であり、寅の年、寅の月、寅の刻に生まれた自分の生血を俊徳丸に飲ませれば俊徳丸は全快すると語ります。俊徳丸が玉手の生血を飲むと忽ち平癒し、合邦も娘に対する疑心を解くに至るという次第です。手許の本を参照すると、この「摂州合邦辻」は能の「弱法師(よろぼし)」や、説経節の「しんとく丸」をもとにした戯曲だそうです。(資料6)尚、さらにこれらのルーツになる伝説なのでしょうか。高安山麓の山畑地区には、「俊徳丸伝説」があるといいます。「俊徳丸はこの地の信吉長者の子で、美しく利発な若者でした。ある時、選ばれて四天王寺の稚児舞楽を演じ、これを見た隣村の蔭山長者の娘と恋に落ち、将来を契る仲になりました。ところが、俊徳丸は継母の呪いがもとで失明し、家を追われて四天王寺境内で物乞いをする身となり果てます。これを伝え聞いた蔭山長者の娘は、四天王寺に俊徳丸を探し求め、ようやく見つけ出して共に観音菩薩に祈ったところ、病は癒え、二人は夫婦となって蔭山長者の家を継ぎ、幸せに暮らします。一方、山畑の信吉長者の家は、信吉の死後、家運急速に衰え、ついには蔭山長者の施しを受けるまでになったといいます。」という「テーマ別関連資料の紹介」という八尾市立図書館のページを見つけました。ご紹介しておきましょう。(資料7)これでこの思いつき探訪を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『大阪府の地名 Ⅰ 日本歴史地名大系』 平凡社 p679 2) 太宰府天満宮とは :「太宰府天満宮」3) 北野天満宮 ご由緒 :「北野天満宮」4) 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 111コマ,112コマ,120コマ,135コマ / 380コマ 参照5) 合邦辻閻魔堂 :「浪速区」(大阪市ホームページ)6) 『歌舞伎鑑賞辞典』 水落潔著 東京堂出版 p1357) 俊徳丸伝説 テーマ別関連資料の紹介 :「八尾市立図書館」補遺「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級 2018.4.4 :「毎日新聞」大坂の陣 :ウィキペディア大坂の陣 :「コトバンンク」大坂の陣、豊臣方「真の敗因」は何だったのか :「東洋経済 ONLINE」真田幸村、「作られた英雄像」の真相に迫る :「東洋経済 ONLINE」あの人の人生を知ろう~真田 幸村(信繁) :「文芸ジャンキー・パラダイス」真田幸村 大阪夏の陣全貌 家康本陣突撃 YouTube摂州合邦辻 :「人形浄瑠璃 文楽」合邦庵室の段 :「人形浄瑠璃 文楽」摂州合邦辻 :「歌舞伎演目案内」『摂州合邦辻』ゆかりの地を尋ねて~日生歌舞伎通信Vol.2 :「歌舞伎美人」摂州合邦辻 :ウィキペディア演目事典 弱法師(よろぼし/よろぼうし) :「the 能 .com」曲目解説 弱法師(よろぼし) :「銕仙会 ~能と狂言~」俊徳丸鏡塚 :「八尾市観光データベース」説経「しんとく丸」(観音信仰と被差別者の絶望と救済):「日本語と日本文化 壺齋閑話」しんとく丸 :「み熊野ねっと」説経節 「しんとく丸」 三代目 若松若太夫 YouTube説経 「しんとく丸」 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いtだけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園 スポット探訪 大阪・天王寺公園内 史跡茶臼山・河底池スポット探訪 大阪・天王寺 一心寺観照 大阪市立美術館 -1 「江戸の戯画」展 へ観照 大阪市立美術館 -2 エントランスに至るまでに
2018.06.08
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史跡茶臼山を散策したら、北隣りにある「一心寺」を見逃せません。やはりこの仁王尊像を久々に眺めたくて立ち寄りました。かなり以前にウォーキングの同好会で四天王寺とその周辺を歩いた時に一心寺が行程に入っていて、その時初めてこのユニークな仁王門を見ました。それが印象深かったのです。 茶臼山側から向かうと、この「南門」が一番近い入口です。今回この南門があることを知った次第です。石段を上がり、南門を入ると境内墓地でした。 そこで目に止まったのがこの地蔵菩薩石像です。蓮華座の下の台座に「家庭円満 地蔵菩薩」と刻されています。 墓地通路の正面は墓地域より一段高い境内地になっていて板塀の向こうにお堂が見えます。 板塀の反対側には、石造の地蔵菩薩坐像(火除け地蔵)と不動明王立像が並び、沢山供花がされています。大勢の参拝者が訪れられている証でしょう。墓地から側面を眺めたお堂がこれです。「納骨堂」の扁額が掲げてあります。絶えない線香の煙が一面に漂っています。これはお寺の正面、仁王門側で撮った寺号標です。「坂松山高岳院一心寺」と寺号が刻された面の左面に「お骨佛の寺」と刻されています。一心寺は浄土宗のお寺で、法然上人二十五霊場第七番札所でもあります。この一心寺に納骨手続きのされた遺骨は10年分をひとまとめにして、その遺骨で阿弥陀如来像をお骨佛として造立され、納骨堂にお祀りされているのです。(資料1) 「お骨佛堂」とその斜め前に灯明を供えるお堂が設けられています。こちらは近年に建てられた感じのお堂です。多分お骨佛が増えてきたことへの対応なのでしょう。 「お骨佛堂」正面のガラス戸越に数体の仏像が祀られているのを拝見できます。この画像の阿弥陀如来坐像の左前には「第八期」の木札が置かれています。お骨佛の一躰です。 「大本堂」 現在、本堂の修復工事中のようでした。周囲がシートで遮蔽されています。本尊は阿弥陀如来立像。文治元年(1185)に法然上人を開基とするお寺です。大本堂は境内地の西側に東面して建てられています。法然上人がこの地にて、「四間四面の草庵『荒陵の新別所(あらはかのしんべっしょ)で『日想観』を修せられたことが由来とされ」、当初その草庵は「源空庵」と呼ばれていたそうです。それが後に「一心寺」と改称されたとか。(資料1)脇道に入ります。浄土三部経の中に『観無量寿経』があります。その経典で、韋提希(いだいけ:ヴァイデーヒー)夫人が仏に、どのようにして阿弥陀仏の極楽世界を観ればよいのでしょうと尋ねると、順を追い一段階ずつ極楽世界の情景を想い浮かべられるように観想すればよいと、その16段階を説明されたというのです。その初観が「日想観」とされています。「一切の生ける者どもは、生まれながらの盲目でないかぎり見ることがはできるのであるから、目明きであればみな、太陽の沈むのを見ることができよう。正坐して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。すでに太陽を観終ったならば、その映像が眼を閉じているときにも、眼を開いているときにもはっきりと残っているようにするのだ、これが<太陽の観想>であり、<最初の瞑想>と名づけるのだ」と経典の漢文和訳がなされています。(資料2)また、有名な「当麻曼荼羅」は阿弥陀浄土変相図です。縦横4mというこの大きな図の周辺部に十六観のそれぞれの観想場面が描きこまれています。鎌倉時代以降、この当麻曼荼羅の模写本が数多く制作されています。模写本を幾度か博物館やお寺で見たことがあります。戻ります。 本堂前には、ちょっとユニークな石灯籠を見かけました。 また、本堂の右斜め手前に手水舎があります。 手水舎の覆屋を眺めると、木鼻はいたってシンプル。蟇股や笈形も簡素な造形です。 屋根の鬼板は浄土宗の宗紋です。それでは境内拝見と参りましょう。 「開山堂」が境内の東側に西面する形で建てられています。 ここに建っていたお堂と法然上人の真影は昭和20年(1945)3月の戦災に遭い、焼尽してしまったそうです。現在のお堂は昭和48年(1973)に再建されたものだとか。上人の木像を造立して祀ってあるそうです。 開山堂前の左の石灯籠の陰になっていますが、円光大師(法然)「難波名号」の碑があります。「摂州難波荒陵側坂松山一心寺者・・・・・」から書き出された縁起碑です。末尾を見ると、享保16年(1731)秋8月25日という日付が刻されています。 その左側、すぐ近くに、この「満州開拓物故者之碑」が建立されていて、側にはこの碑建立の由来を詳細に記した銘文碑も建てられています。由来碑は昭和55年(1980)9月に建立されたようです。「この碑には、満蒙の曠野で無惨にも散った 八萬余人の満州開拓者とその関係者の御霊が合祀されています。・・・・」という一文から書き出されています。上掲の碑自体は、由来記によると、昭和26年9月の7回忌を期して建立されたと記されています。 開山堂の手前で、墓地への入口に立つこの碑が目に止まりました。「大正八九年流行感冒病死者群霊」と記された供養塔です。当時、俗に「スペイン風邪」と呼ばれたとか。1918(大正7)年の春、ヨーロッパで流行し始め、同年8月下旬に日本でも蔓延を始めたとか。1919年1月中頃までに、全人口の3分の1以上、約2000万人が罹患し、死亡者数20万4000余人、大阪府内だけで1万人以上の死者数となったそうです。(資料3)墓地への通路の正面にある覆屋が気になり通路を南に歩みますと、 そこは「元祖廟」です。 御廟の周囲の地面には瓦がびっしりとこのように敷き詰められています。 無縫塔の形式で法然上人の供養塔が建立されています。正面の下部分に「法然上人大和尚」と記されているのは読めましたが、その上の部分を判読できません。墓地の入口側に近い所で目にとまった碑をいくつか取り上げます。 「明治戊辰伏見の役 東軍戦死者招魂碑」の供養塔です。「鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争)」と日本史の年表に記載されている史実です。上部に葵の紋がレリーフされています。徳川方の戦死者を供養するために建立されたのでしょう。私はこの時の探訪で見落としていたのですが、一心寺の境内地で開山堂の北方向に「戊辰戦争会津藩士墓地」もあるそうです。(資料1) 上掲2つの供養塔の間に、この2つの石碑が建立されています。一心寺の「境内ガイド」にはイラストとして描かれていますが、説明はありません。右の石碑は側に「妻鹿友樵墓」と記された木標があります。「めがゆうしょう」と読むそうです。文政9年大坂生まれで、父の医業を継いだ幕末・明治の内科医師。文を修め、琴を愛し古琴七張を所蔵し楽しむ一方で、弓剣拳法を極めたという人物(1826-1896)だそうです。明清画などの収集でも著名だとか。著作に「閑居摂養法」「心遠詩鈔」などがあり、漢詩を多く残されているようです。(資料4,5)左の石碑は少し調べてみましたが不詳です。 手水舎に近いところに、この石灯籠があります。なぜか「おばけ灯ろう」と呼ばれています。(資料1) 墓地側から見て目に止まるのは、この金ぴかに光る相輪です。この相輪も古都の著名寺院の五重塔や宝塔の相輪と対比的にご覧いただくと興味深いと思います。 建物の傍まで行き、見上げると「受付堂」と記された扁額が掲げてあります。後で調べてみると「境内ガイド」には「念佛堂(受付)」と記載されています。また、当日は見落としていたのですが、念佛堂の手前に「小西來山の句碑」また背後には「初代竹本大隅太夫の墓」があるそうです。(資料1)このあたり、思いつきで探訪したときの短所ですね。事前に下調べをしていればちゃんと拝見してこれたのに・・・・というところ。一心寺の「境内ガイド」を見ると、「境内には、本多忠朝、小西來山、八代目団十郎ほか、多くの有名人の墓があります。これらの墓とエピソードについては受付等でパンフレット『一心寺墓碑銘々伝』を入手してください。」という注記があります。関心を抱き、行かれる方へのご参考に付記します。いよいよ最後は冒頭に載せた正面の山門、「仁王門」です。 ここの仁王門のユニークさを感じていただけますか。三角形の鋼板と鉄パイプで構造化した屋根の下に、現代彫刻風の青銅造の仁王尊像が立ち、門扉には豊満な女性像が浮彫りにされています。 正面の壁面にこの「一心寺仁王門縁起」が掲示されています。鏡面反射して少し読みづらいでしょうが載せておきます。要点を箇条書にします。まず事実事項です。*1997(平成9)年4月のお骨佛開眼大法要にあわせてこの山門を建立*仁王尊 5m余の青銅像 彫刻家・神戸峰男作*扉の四天女 原画は画家・秋野不矩作、浮彫りの彫刻は神戸峰男作*旧山門は伝大阪城玉造り御門の移築。昭和20年(1945)の空襲で焼失。黒い門で復興。建立意図の観点で重要なことが併せて記載されています。それはまず仁王尊像についてです。左側 阿形像(口を開く像) 心の邪念を戒める右側 吽形像(口を閉じる像) 世の紊(みだれ)を睨(にら)むそして、天女についてです。最初に私が連想したのは写真で知ったインドのエローラやアウランガーバードの石窟寺院の像でした。この縁起には次の記載があり、佛教伝播のプロセスとその変容を考える材料にもなっているようです。「インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。 インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。」この縁起には、誰がこの黒い門のコンセプトを抱き、設計されたものかは記載されていません。知る人ぞ知るということなのでしょう。建築家であり、一心寺の前住職、現長老でもある高口恭行(やすゆき)氏です。(資料6,7)私の探訪経験の範囲では、京都の北、寺町通を歩いた時に、山門から「十念寺」の本堂を眺めて、駒札を読んだときに、この一心寺と結びついたのです。十念寺本堂の設計者でもあります。 山門を出て、一心寺前の交差点から坂道を下るときに目に止まったものについて最後に触れておきます。 白壁の塀の外側には、「会津藩士墓」があることを示す石標が立っています。この墓地を今回見落としました。もう一つが、塀の内側で一段高いところにある右の柱状の碑です。これは何か? 後で少し調べた範囲ではわかりませんでした。 この白壁に円形の空間をぽっかりと空けたところがこれまたユニークです。何だか、遊び心を感じます。他にもまだ訪れていなかった建物(三千佛堂・存牟堂など)や有名人の墓があることに気づきました。改めて、再訪してみたいと思っています。ご一読いただきありがとうございます。参照資料1) 一心寺 ホームページ2) 『浄土三部経 下』 中村元・早島鏡正・紀野一義 訳注 岩波文庫 p143) おおさか歴史探訪110 大正八・九年流行感冒病死者の供養塔 pdfファイル4) 妻鹿友樵 :「コトバンク」5) 妻鹿友樵 :「森琴石.com」6) 住職設計、現代の要請に応えた「開かれた寺院」一心寺 2017.2.11 :「産経WEST」7) 高口恭行 :ウィキペディア補遺スペイン風邪拡大刻々と 明治・大正データベース :「朝日新聞」貞齋妻鹿友樵、行書二字 :「黄虎洞中國文物ギャラリー」一心寺 仁王門 :「ATS造建築設計事務所」阿吽 :「コトバンク」阿吽(あうん) :「中央仏教学院通信教育」アジャンター・エローラと西インドの石窟寺院 河合哲雄氏 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園 スポット探訪 大阪・天王寺公園内 史跡茶臼山・河底池探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -1 寺町頭、阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺ほか
2018.06.03
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大坂市立美術館の北側に、「河底池」という名の池があります。そこに架かる赤塗りの橋が「和気橋」です。 この橋の上から西を眺めると「通天閣」が見えます。 東方向 茶臼山側の河底池の景色 南方向に目を転じると、美術館が見えます。 橋を渡ると、史跡碑が立っています。目の前が「茶臼山」。茶臼山と河底池を併せて史跡に指定されているようです。茶臼山は「大坂の陣」では重要な場所となりました。大坂冬の陣で、大坂城は4つの廓(本丸・山里丸・二の丸・三の丸)と3つの濠に囲まれた惣構えの城でした。その惣構えの南面外側に、真田幸村(正しくは信繁)は「真田丸」という郭を築き、徳川軍に対し大坂方としてめざましい働きをしました。この時徳川家康が本陣を置いたのが「茶臼山」です。(資料1,2)この冬の陣の講和が成立すると、その条件ということで、大坂城の二の丸・三の丸・外濠が徳川方により瞬く間に埋められてしまい、大坂城は裸同然の城になってしまいます。そして、元和元年の大坂夏の陣の大激戦を経て、豊臣家の滅亡で幕を閉じます。 史跡碑の傍に、この駒札が設置されています。大坂夏の陣において、この茶臼山は再び重要な拠点となりました。駒札は大坂夏の陣に焦点をあてて説明しています。つまり、真田幸村がこの茶臼山に陣を構え、天王寺口の徳川軍と1615(慶長20/元和元)年5月7日にこの周辺で大激戦を繰り広げたのです。夏の陣は、前日の「道明寺の戦い」からひぶたが切られています。戦いは7日正午過ぎからの戦いで決着せず、8日までもちこされたそうです。 駒札の傍には、当日の布陣略図もあります。 茶臼山への石段を上り、ぐるりと緩やかな坂道を回り込んでいくことになります。 最初に目に止まったのがこれ。傍に近づいてみると、錦絵が掲示されています。芳雪画の錦絵「浪花百景 茶臼山」です。この絵師は、一鶯斎芳梅の門人だそうです。一鶯斎芳梅は、この6月10日までお隣の大阪市立美術館で開催中の特別展「江戸の戯画」に作品が展示されています。この特別展で知った絵師の門人の絵をこの茶臼山で見られるとは思ってもいませんでした。(資料4)山頂の中央に、 「茶臼山 大坂の陣跡」というま新しい石標が置かれています。 右側面に六文銭のレリーフ。真田の紋、旗印です。左側面に徳川、葵の紋がレリーフされています。この山頂は標高26mなのですね。今まで高さを考えたことがありませんでした。この茶臼山、かつては「荒陵」と呼ばれ、もともと前方後円の古墳であったと伝えられているそうです(資料4)。 地図(Mapion)を改めて見ますと「茶臼山古墳」と明記されています。 山頂の中央部から西方向を眺めると今は樹木が繁り、こんな景色です。 山頂には真田幸村について、このパネルが掲示されています。さらに、 幸村の名言を説明したパネルもあります。 そして、「英雄になった真田幸村」というパネルも・・・・・。 おもしろい掲示も! 「茶臼山登頂証明書」が発行されているのですって。ちょっと発行料がかかりますが。ここにしかないものとして、またユーモアがあっておもしろいですね。 地図の部分を拡大します。もう一つの地図を併せて載せます。茶臼山が等高線で示されています。 「フォトスポット03」という掲示が山頂の一隅にあります。「現在地点03」のところです。茶臼山から見える通天閣を背景に記念写真を一枚どうぞ!というお薦めです。通天閣の設計は東京タワーを手掛けた内藤多仲氏だという説明が記されています。通天閣は2007年5月15日に国の登録有形文化財になっているとも記されていました。 もう1箇所、「フォトスポット02」が山頂にあります。 こちらは説明するまでもないでしょう。「あべのハルカス」です。「スポット01」は、川底池と通天閣を背景に写真が取れる場所です。こちらはまあ、和気橋上から通天閣が池越しに見える景色を上掲していますので、想像していただけることでしょう。その地点には行っていません。 茶臼山を東方向に下って行きますと、「大坂の陣 茶臼山史跡碑」があり、その前が広場になっています。こちらの史跡碑には、冬の陣で家康の本陣、夏の陣で幸村の本陣となったことが並記されています。では、大坂夏の陣において、徳川家康の本陣はどこにあったのか。5月6日の夜には、豊浦村所在の中村氏宅に宿陣したと言います。現在の大阪府東大阪市豊浦町5にある牧岡中央公園内(国道308号線沿い南側)西側に、「大坂夏の陣 ~徳川家康・本陣跡~ 」碑が建立されているそうです。ネットで写真入りの記事を見つけました。付記しておきます。(資料5)勿論、その後家康の本陣は移動しています。ウィキペディアから次の図を引用します。(資料2) 奈良街道の南方に本陣が置かれていたようです。そして、家康の旗本隊の居る本陣すら一時的には危うい状況まで真田の赤備えにより追い込まれたとも言われています。井伊隊・藤堂隊が駆け付けたことで家康は難を逃れることができたのだとか。夏の陣が終わった後、家康は茶臼山山上に諸将を集めて戦勝を祝したそうです。そこから御勝(おかち)山の称が起こったと言われているとか。「江戸時代、新任の大坂城代は茶臼山山頂の家康陣所を訪れ、敬意を表するのを例としたという(天王寺区史)『浪華の賑ひ』に、大坂の陣で茶臼山が陣営となって以降、登山は禁止されたとある。」とも。(資料6) 河底池 池の西辺から東を眺めた景色です。右側の少し高いところに赤い欄干が見えるところは、地図(Mapion)を見ると、「茶臼山統國寺」です。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 池の西辺を北に歩むと、茶臼山への登り口がこちらにもあります。これで茶臼山の探訪ご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『戦国合戦事典』 小和田哲男著 PHP文庫 p407-4232) 大坂の陣 :ウィキペディア3) 大坂の陣 :「コトバンク」4)茶臼山 錦絵にみる大阪の風景 :「おおさかeコレクション」(大阪府立図書館)5) 大坂夏の陣 ~徳川家康・本陣跡~ :「みんから」6) 茶臼山 日本歴史地名体系 :「ジャパンナレッジ」補遺茶臼山凱歌陣立 芝居絵 :「文化デジタルライブラリー」茶臼山凱歌陣立 :「コトバンク」真田信繁 :ウィキペディア真田幸村 :「コトバンク」真田丸 真田信繁年表 :「JUNK-WORD.COM」真田幸村年表 :「名門真田家三代(真田幸隆 真田昌幸 真田幸村)の記録」真田幸村をめぐる旅 ホームページ元暁宗 和気山統国寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 大阪・天王寺公園内 慶沢園
2018.06.02
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大阪市立美術館の東側、つまり美術館の背後にゆったりとして広い庭園があります。計画的に探訪する予定ではなく、その場の思いつきで立ち寄りました。何十年ぶりでのこの庭園の散策でした。個別のスポット探訪としてご紹介します。 案内板に掲載の庭園図を切り出しました。左側の建物が美術館です。美術館の南東角付近に上掲の庭園の表門(入口)があり、北東側に裏門(出口)があります。現在は表門からしか入園できません。 表門の傍に、この庭園の由緒が説明されています。そこから次のことがわかります。1.現在は天王子公園の一部となっているが、元は住友家茶臼山本邸がここにあり、その庭園として造園された。2.大正10年(1921)に住友家は転宅し、昭和元年(1926)に土地の利用条件付で寄付された。(大阪市立美術館の歩みで触れています)3.造園は明治41年(1908)に着工され、大正7年(1918)に完成した。当初は「恵沢」という下賜名だったが、1918年5月に「慶沢」に改字された。4.庭園の設計は木津聿斎(きづいっさい)、造園は京都の庭師小川治兵衛である。少し調べてみたことを補足します。まず2項の関連では、寄付したのは15代住友友純(ともいと)の時。大阪関連では、友純の代に大阪府立中之島図書館の建物や図書基金の寄付も行っているそうです。友純は、住友家13代友忠が19歳で没したことにより、徳大寺家から住友家長女の婿として、養嗣子となった人。西園寺公望は友純の兄にあたります。当時住友本邸は大阪鰻谷(現大阪市中央区東心斎橋)にあったようです。そしてここ茶臼山にも邸が設けられていたということでしょう。住友家の本邸は神戸に移転しました。(資料1,2,3)4項の関連です。木津聿斎は、聿斎が号の一つで、武者小路千家流茶道の宗匠の木津宗詮(3代目)(1862-1939)という人だそうです。茶室設計の才に優れた人だったとか。また木津聿斎名で『調味料理栞』『卓子調点茶;炭手前;点茶手前』『官休清規』を著しています。多才な人だったのですね。(資料3,4) 小川治兵衛(じへえ)は、明治時代中期から昭和初期に活躍した京都の著名な庭師です。屋号の「植治」でよく知られている庭師。山県有朋の京都別邸「無鄰庵」の庭園の施工、平安神宮の神苑の設計・施工、京都市円山公園(国指定名勝)の設計施工が有名です。京都を中心に大阪・東京でも邸宅や別荘の作庭を数多く手がけ、「植木屋」と自称されていたそうですが、近代的造園プロデューサーとしての手腕も高く評価されているといいます。(資料5)冒頭から脇道に逸れました。それでは、「林泉回遊式庭園」を散策しに参りましょう。門を入ったすぐの受付所で手続きをして、右端の通路を歩みます。 通路の左側、北方向には広々とした砂地の庭が広がっています。このまま砂地を北に進めば、左に美術館の東面を眺めつつ出口の門に行くことになります。この砂地側から池を眺めることをしませんでした。池の東側を回遊して出口の門近くに出ましたので、無意識にそのまま出てしまったのです。訪れられたら、ちゃんと西側から林泉庭園を眺めてみてください。 少し池のそばを歩むと、切石橋が少し屈折させた形で池に架けてあります。切石橋を渡った先には、椅子が設置されていて、休憩スペースになっています。そのかなたに、出口の門が見えています。 池の南側に四阿が見えます。北の方を見ると、岩の上に白っぽいリング状に見えるものが。 ズームアップしてみると・・・。中島の端にみえるのは雪見灯籠。その脚の部分です。 最初に目にとまった白蓮です。 四阿には、池畔を巡る通路と、池の端に架けられた切石橋を渡る通路があります。四阿に向かいます。 南端側からの景色。左に美術館の白い壁面が見えます。 四阿寄りに。 四阿内 東面 池にはたくさんの鯉が四阿の傍に集まってきます。 四阿を出て、池の南端から東辺方向に進みます。 四阿のすぐ近くに小さな中島があり、そこに八ッ橋風に石橋が架けてあります。 石橋から 四阿との小島の近さがこの景色でわかります。 池畔の回遊路を東に進みます。 池の東辺を歩み 小島に架かる切石橋が見えるあたりにて。手前には石浜が広がっています。 飛石伝いに小島から大きな中島へ勿論、今は立ち入れませんので、飛石を伝う姿をイメージしましょう。 池中に片方の脚を突き出した形の石灯籠がおもしろい。 左手前には「舟石」があり、中島から四阿にかけての景色です。 池の北東寄りの少し奥まった辺りに二段の滝が設けられていて、滝を下る水流が池に流れ込みます。 池の端から池面に映じたビルの姿を眺めて、池面を先に追っていけば対岸に四阿が。 目線を上げれば、その背後にはのっぽビル「あべのハルカス」が聳えています。この位置から眺めればここはまるでハルカスの庭のよう・・・・・・。あちらの展望台からは慶択園はどのように見えるのでしょうか。 池の傍を離れて回遊路を先に進むと茶室「長生庵」が見えます。 出口の門側から眺めた景色 築地塀と門で区切られていますが、門を出た北側も庭園の続きになっていて、ここは自由に通り抜けができるエリアです。この外側も塀で囲まれています。一番下の画像。この築地塀が右に見える景色が、冒頭の庭園案内図では左上角の黒実線(築地塀)が切れて通路の出口とわかる箇所になります。砂地の庭である西側から、池の東を眺めたパノラマがご紹介できませんでした。またの機会に、一つ楽しみを残したということにして・・・・・・・。季節が違えば、庭園の趣も変わると思います。ぜひ、実見してみてください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 住友吉左衛門 :ウィキペディア2) 慶沢園 :ウィキペディア3) 木津宗詮(3代目) :「コトバンク」4) 木津 聿斎 :「Webcat Plus」5) 『岩波日本庭園辞典』 小野健吉著 岩波書店補遺NEW ロケ地 慶沢園!!! :「Photorait」慶沢園 :「水彩くらぶ」慶沢園・茶臼山 :「Tennoji garden」大阪2つの顔~通天閣と慶沢園 :「Travel.jp」慶沢園で日本庭園の中の中国の魂に触れる :「AIRFRANCE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.06.01
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