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2017.01.10
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カテゴリ: 探訪 [再録]
(2013.7撮影)


                                [探訪時期:2015年6月]
宇治に移住してはや数十年経ち、京都市についで私には第二の故郷という地になりました。とはいうものの、宇治神社に初詣に出かけたのは、2011年が初めて。居住地近くの神社で初詣をすることが恒例になっています。また意識的に宇治神社・宇治上神社を細見したのも、2013年7月に源氏物語・宇治十帖の古蹟を巡ってみたときが最初といってもいいくらいです。 (それ以前にもほんの少し立ち寄った記憶はありますが・・・・そんな程度でした) 。以前に訪れた折に撮った写真も一部利用してご紹介します。

ここ数年、宇治市源氏物語ミュージアムで定期的に実施される源氏物語関連の講座を聴講しています。地元なので、天気が良ければ自転車で出かけます。その折は、ほぼ直接にミュージアムに行き、真っ直ぐに帰るというパターンです。2015年6月、講座開講日に、少し雨もよいの不安定な天気だったので京阪電車で出かけ、講座終了後に宇治上神社と宇治神社を訪れてみました。宇治上神社では、平成25~26年(2013~14)に本殿と拝殿の屋根葺替え工事が行われました。その後ですので、まず世界文化遺産・宇治上神社を前回先にご紹介しました。

ここでも同様に、京阪電車宇治駅前を起点にしてご紹介します。 地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

冒頭の風景は、京阪電車宇治駅を下車し、駅前のバスターミナルの歩道を行き、前方交差点で見る景色です。 宇治橋東詰にあるのが「通圓」・「通圓茶屋」 です。



橋の傍には、 「通圓茶屋」と「宇治橋」についての説明板 が掲げられています。

通圓茶屋は、通圓という法師がここで往来の人に茶をたてて商いをしたのが始まり (つうえんさてん) 」として記述しています。原文は漢文ですので、読み下し文にしてご紹介しますと、次のとおりです。
「橋東の爪(=詰)にあり。いにしえ通圓という者の、この所にして往来の人に茶を調 (た) て商う。今猶 (なお) 家あり。この所いにしえの大和街道なり」 (資料1)

『都名所図会』はこの『山州名跡志』が念頭にあったのでしょうか。ほぼ同主旨の説明をしています。
「通円が茶屋 橋の東詰にあり。いにしへよりゆききの人に茶を調 (た) てて、茶茗 (さめい) を商ふ。茶店に通円が像あり。(昔より宇治橋掛替 (かけかへ) のときは、この家も公務の沙汰とし造りかへあるとなり)」 (資料2)
同書の校注者の補注によると、「店内には初代通円と称する木彫坐像と秀吉が宇治橋三ノ間より川の水を汲ましめたという釣瓶一個を秘蔵する。同家の談では平安末期以降、代々宇治橋畔に住し、橋の守護を職とし、そのかたわら茶店を開いて今日に至った」とのことです。一方、一説として、黒川道祐の『雍州府志』(貞亨元年刊)には、通円法師が茶店を構えて往来を行き来する人々に茶をすすめて結縁としたという伝えがあり、それを踏まえて、通円茶屋は江戸初期頃の創業と思われると記されていることを補注に付記しています。 (資料2)

通圓茶屋

そして、宇治ライン・平等院・縣神社・浮島十三塔までの距離を表示した道標も建てられています。距離が○○丁で表示されていますのでその表示に時代を感じます。
「宇治川ライン」 は「滋賀県道・京都府道3号大津南郷宇治線」の通称です。宇治川-瀬田川沿いを走るドライブコースになっています (資料3) 。途中にあるのが 「天ヶ瀬ダム」 で、このダムは、1964年11月に完成しました。 (資料4)






宇治神社へは、「通圓」の東側、つまり冒頭写真の左側の道路(府道24号線)を宇治川右岸沿いに上流方向に進みます。

道路を挟んで、反対側のお店の前にあるのがこの道標です。
ほんの少し進むと 「橋寺放生院」 があり、その先に 「開運不動尊正覚院」 があります。
正覚院の傍で、道が分岐します。 左側の道が「さわらびの道」 と呼ばれています。
「さわらびの道」の緩やかな坂道






さわらびの道を進んでいくと、宇治又振にあるのが、この (またふり) 神社」 です。
宇治は平等院に象徴されるように、藤原一族の別業(=別荘)があった栄華の地でしたが、一方で失意の人が隠棲した地でもあります。その一人が 宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文 です。「天慶2年(940)に参議となり、翌年征夷大将軍として関東の平将門の乱の平定に向かいましたが、到着以前に将門は討たれ、事件は解決していました」 (説明板より) 征討に出かけて成果を得られなかったのです。このため大納言藤原実頼により恩賞の対象から外されてしまいます。忠文は死後、怨霊となり実頼とその一族を祟ったというのです。この小祠は 忠文の怨霊を鎮魂するために建立されたものと言われているそうです。

さらに先に進むと、宇治神社の境内に至ります。境内に側面から入ることになります。
そこで、 ここでは本来の参道からご紹介します。府道24号線をそのまま歩いた場合です。

宇治神社の大鳥居 (2031.7撮影)  川沿いの府道24号線に面しています。
このすぐ近くに、宇治川に架かる 「朝日橋」 があり、その橋畔に 源氏物語のモニュメント が建立されています。宇治十帖の古蹟紹介の折に触れていますので、この記事の末尾をご覧いただけるとうれしいです。


大鳥居からの参道・石段を上っていくと、途中に 手水舎 があります。水槽の正面(側面)には 「桐原水」 と刻されています。

一般的には水の注ぎ口が龍頭ですが、ここは 兎の像 になっています。 これは神社の祭神との深い関係から です。

石段を上がった高台が境内となっています。

拝殿「桐原殿」

拝殿の背後に石段があって、一段高くなった敷地に本殿があります。



石段下の両側に狛犬が配置されています。


本殿外陣には、木造狛犬が配されていたのですが、現在この 木造狛犬は「歴史資料館」に委託 されているそうです。 (説明板)  狛犬の傍にこの説明板があります。


本殿を囲む瑞垣と中門

              正面の塀を左側面から撮ってみた写真です。

前面に立つ石灯籠のうちの一基には、角柱の棹の正面にこんな文字が刻されています。
「奉建立離宮八幡石灯篭」を中央にして右に「元和三年」、左に「九月吉日」。下部には中央に「領主星野道□」 (末尾の文字判読できず) 、右に「偏子孫繁昌」、左に「福寿単祈也」。一番下に横書きで「敬白」と。元和三年は1617年ですので、江戸時代、二代将軍秀忠の頃です。「ひとえに子孫繁昌、福寿をひとえに祈るなり」と記しているのは、領主自ら誠にストレートな祈願です。

本殿

祭神は「莵道稚郎子命(ウジノワキイラツコノミコト)」です。第15代応神天皇の皇子で、兄が「オオササギノミコト」であり、後の仁徳天皇です。
本殿には、藤原期の作で、稚郎子皇子といわれる木造神像が安置されているそうです。

本殿を囲む瑞垣・正面の門を撮った上掲写真の鈴を鳴らす綱の背後、本殿との間の供物台の上に、ちょっと判別しづらいでしょうが、白い兎が置かれています。これが 「みかえり兎」 です。


初詣でに行った時には、本殿の階の一段にこの金色のみかえり兎が置かれていました (2011.1撮影)


莵道稚郎子が河内国からこの地に向かおうとされたとき道に迷ってしまったそうです。そのとき一羽の兎が現れて、莵道稚郎子を振り返りつつ正しい道へと案内したという伝えがあるのです。そこからこの兎が「みかえり兎」と称されています。宇治神社では、「人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わって」 (説明文より) いるそうです。

応神天皇は皇位を莵道稚郎子に継承させる意志を示し、応神天皇の40年1月24日に、莵道稚郎子を後嗣に立てたのです。その翌年春に応神天皇は崩御します。莵道稚郎子は皇位を兄のオオササギに讓るという意志を固めていたのです。二人の間で、相譲り合うというやりとりが『日本書紀』には記されています。そして、最後は莵道稚郎子が自殺することにより、オオササギに皇位を讓るのです。「太子がいわれるのに、『自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない』といって、ついに自殺された」と『日本書紀』は記しているのです。 (資料5)

瑞垣の周囲を回ってみます。

                             本殿の背面
こちらを見ると、三間社流造といことが明瞭にわかります。屋根は檜皮葺きです。鎌倉時代の初期に建造された建物だとか。



前面の向拝には、木鼻はなく、頭貫の先がそのまま斗栱の大斗になっています。
蟇股には草花の透かし彫りがみられます。

江戸時代に出版された『都名所図会』を読むと、 「離宮八幡宮」の見出し で次の説明が加えられています。
「橋寺の南にあり。祭る神三座にして上の社は応神天皇・仁徳天皇、下の社は莵道の尊を崇め奉る。(これ平等院の鎮守なり。宇治郷の産沙神 (うぶすなしん) とす」。そして、「離宮と号することは、この地に宇治宮ありしゆゑ自然の商号なり」と。 (資料2)

宇治宮 とは、 応神天皇の宇治離宮 があったのが現在のこの宇治神社辺りと想定されていたことによるようです。『延喜式』には「宇治神社二座」と記されているそうです。「祭神莵道稚郎子とその母方の祖神を祀ったものであろう。その後、応神天皇(八幡神)・仁徳天皇を配祀するに及んで離宮八幡または離宮明神と称した」 (資料2) と補注にあります。 離宮八幡宮と称された頃の上社が今の宇治上神社で下社がこの宇治神社です。もともとは全体が一つの神社だったのです。
「明治維新後、上・下二社の分かれ、上社は宇治上神社、下社は宇治神社と号するに至った」 (資料2) のです。

応神天皇の離宮が後に皇子・莵道稚郎子の宮居となるのです。そこを「桐原日桁宮 (きりはらのひけたのみや) 」と称したそうです。皇子の亡き後に、その地が神社となったのです。

八幡信仰は、九州・大分県にある 宇佐八幡宮 から全国に広がりました。もともと「八幡」は船に多くの大漁旗が立てられた姿を表す言葉のようです。宇佐八幡宮の伝承に、6世紀の欽明天皇の時代に、宇佐神が神職に「われは応神天皇である」というお告げを下したといいます。「応神」は「誉田別命(ホンダワケノミコト)」の死後の諡号ですので、誉田別命が八幡神・八幡大菩薩と信仰されて行ったのです。祭神を誉田別命とする神社が多く、それらは八幡神を祀っていることにもなります。祭神を応神天皇とするのも同様です。
そこから、「離宮八幡宮」という呼び方が理解できます。諸史料によれば、「ホンダワケ命は筑紫国(福岡県)で生まれ、大和に戻って母の神功皇后の摂政のもとで皇太子になり、皇后の死後に第15代の天皇に即位」 (資料6) したということから、九州とは縁が深いといえます。宇佐八幡宮は京都に勧請され、現在の京都府八幡市にある 「石清水八幡宮」 、更には関東・鎌倉に石清水八幡宮から勧請されて 「鶴岡八幡宮」 へと拡大発展していきます。つまり、 武家の棟梁・源氏の守護神になっていく のです。
奈良には、聖武天皇が東大寺の大仏建立の発願と併せて建てた 「手向山八幡宮」 があります。 (資料6,7)
「離宮八幡宮」から脇道に逸れました。元に戻りましょう。

本殿に向かって、境内の左右に末社が並んでいます。

こちらは向かって右側にある末社です。
写真の左が奥側です。左から 住吉大社・日吉大社・春日大社 が末社として勧請されています。

ちょっと興味深いのはそれぞれの前に立つ石灯籠です。奉納された時期がそれぞれ違うのでしょう。石灯籠の様式が異なります。

小社の立ち並ぶ順に、左奥側から並べてみました。
一番奥側の石灯籠は、棹の部分に「離宮御齋前」と刻されているように読めます。
3つの燈籠で、笠の隅の反り具合が少しずつ微妙に違います。大きな違いは下部の反花の文様の彫り込みの違いです。もう一つ火袋の下の中台の側面の造形も大きく違います。

奧の石灯籠は、側面の文様の彫りが浅いのか年月を経て分かりづらくなています。一番手前のものは、文様があったかどうかも記憶にないほどです。なかったように思います。



中央の石灯籠が中台の正面と側面で、このように彫り込まれた草花文様のデザインが異なるのです。この灯籠だけがかなり彫りの深いものです。


左側には4社が並んで居ます。相対的に屋根が切妻造りで銅板葺きの簡素な作りに思えます。石灯籠も両端に配置されているだけです。
こちらは、写真の右側が本殿向かって奥側になります。奧から順番に、 伊勢神宮・高良大社・松尾大社・廣田神社 が末社として勧請されています。

宇治神社に来る途上で、未多武利神社をご紹介しました。『都名所図会』には、「扠社」が離宮八幡宮の北にありとして、「扠社」に「またふりのやしろ」とルビが振られています。そして離宮の摂社なりと説明しています。なお上記の離宮の意味を説明し、その後に「則ちこの地忠文が別荘にて」と記しているのです。そして、忠文に恩賞の沙汰がなかった事に対して、「忠文本意なき事に思ひ、手を握りて立ちたりけるが、八つの爪手の甲まで通りて血は紅をしぼり、断食して死にけり。そのまま悪霊となり、さまざま祟りをなしければ小野の家は絶えにけり。かくてこの霊を宥めんため、神に祝ひて宇治に離宮明神と崇め、後冷泉院の御宇、治暦三年十月七日、正三位をさづけ給うへり」 (資料2) と付け加えています。小野の家というのは、小野宮殿と呼ばれた藤原実頼のことです。さらに、一説としてこの地に藤原忠文の怨霊を宥めるために、離宮明神として祀ったという伝承として付記しているのです。かつて離宮のあったと推定されるこの地あたりは、藤原忠文の別荘となっていたので、ここに忠文の怨霊を神として祀ったという説明です。 (資料2)
なかなかおもしろい説明ですが、江戸時代には未多武利神社が宇治神社の境外摂社に位置づけられていたことがわかります。

境内には、神楽殿・絵馬堂・神輿蔵なども所在します。

通圓茶屋~(宇治川沿いの道)~源氏物語モニュメント~宇治神社参拝(探訪)~宇治上神社参拝(探訪)~(さわらびの道)~源氏物語ミュージアム~(さわらびの道を戻る)~未多武利神社~宇治橋
というのが、巡りやすいかもしれません。

ご一読ありがありがとうございます。

参照資料
1) 『山州名跡志 自小栗栖 至宇治田原 十五』 白慧著 正徳元年(1711)出版
2) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p123-124,p298
3) 滋賀県道・京都府道3号大津南郷宇治線   :ウィキペディア 
4) 天ヶ瀬ダム :「淀川ダム統合管理事務所」
5) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 訳  講談社学術文庫 p223-229
6) 『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部民夫著 PHP文庫 p24-27
7) 『知っておきたい日本の神様』 武光 誠著 角川ソフィア文庫 p23-24

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
宇治神社  公式ホームページ
宇治神社境内マップ
宇治橋(宇治市)   :ウィキペディア
お茶の通圓   ホームページ
通圓の歴史
京の読み物 通圓   :「そうだ京都、行こう」
藤原忠文   :ウィキペディア
藤原忠文   :「コトバンク」
菟道稚郎子  :ウィキペディア
(29)莵道稚郎子伝説(宇治市)   :「ふるさと昔語り」(京都新聞)

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.01.10 10:44:10
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