遊心六中記

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2017.01.29
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                                                                                        [探訪時期 2015年6月]
京都「下京の寺社巡り 南コース」の最初が「粟島堂(宗徳寺)」となっています 。この コース案内板 は、粟島堂のところで撮ったものです。
京都駅近辺をスポット探訪してみました。その一つがここです。その再録でのご紹介です。
JR京都駅を北側に出ますと、バスターミナルの先に東西の 塩小路通 があります。この通りを西に進むと、南北の堀川通と交差し、ここには陸橋が架かっています。 堀川通の西側が、リーガロイヤルホテル京都です。このホテルの北面境界沿いの道 となり、道路幅が狭まった塩小路通をさらに西に進みます。 京都駅前からでも歩いて15分前後で、粟嶋堂宗徳寺に至ります 。(コース地図の下辺左にある赤色四角のマークがあるところ)

粟嶋堂宗徳寺
「人形供養」 という築地塀の上に置かれた看板がまず目に止まります。 こちらが南門 (ここが駐車場の入口にもなっています)。

南門前を右折し北に少し歩くと見えるのが正面門 です。こちらの 「粟嶋堂」石標 の方が寄進の古さ、歳月を感じさせます。

2つの門が面しているのは、堀川通の西にある西堀川通とこの先の猪熊通との中間に位置する 岩上通 です。



境内の南東角になる南側の門から入ると、築地塀沿いに 地蔵尊 が祀られています。

正面の境内西端には芭蕉が 植えられています。 この芭蕉が寺紋として意匠化されています


門を入ったところからの眺め     弘法大師庚申堂、粟嶋堂神殿 が並び、
 その北に 受付所

宗徳寺 は西山浄土宗に属するお寺で山号は「福智山」。応永年間(1394~1427)に行阿上人が開山され、本尊は阿弥陀如来です。しかし、 「あわしまさん」 の方がよく知られているようです。上掲の駒札にも記載されていますが、南慶 (なんけい) 和尚が紀伊国、淡嶋で虚空蔵菩薩を感得され、淡嶋から粟嶋明神を勧請されて上洛された折、このあたりで御神体が急に重くなったのだとか。それを神意としてここに祀られることになり、 宗徳寺の鎮守社・粟嶋神社 となったのです (駒札、資料1) 。神仏習合の考え方では、粟嶋明神は、祭神が少彦名命であり、本地佛は虚空蔵菩薩とされています。

江戸時代に出版された『都名所図会』には、「粟島社」という見だしで記載があり、「堀川の西、生酢屋橋きすやばし通の南、宗徳寺の内にあり、紀州粟島の勧請なり。祭は三月三日)と説明されています。この淡島神というのは、和歌山県海草郡加太町の加太神社の俗称だとか。 (資料2)

「粟島信仰は古来、婦人病、安産子授けに霊験ありとして、女性の信仰を集め、特に婦人の下の病に効くというんおで玄人衆の女性の信仰するところが多かった。もとは現・和歌山市加太加太浦に鎮座する加太(淡島)神社の祭神に対する信仰が始まりである。」「江戸時代には、この神様の絵姿を入れた箱を背負ってお札を持って、各地の町村を回って歩いた『アワシマサマ』という願人(遊行者)があった。そのため、淡島信仰は、東北地方から九州にまで広まったという」ことです。 (資料3)

明治初年に神仏分離令が出された折に、粟島社を廃し 「粟嶋堂」 と改められたのです。

尚、一書には、応永28年(1421)、僧南慶の開基で、西洞院七条の南に創始し、その折に粟(淡)島明神を勧請して宗徳寺の鎮守社とした。慶長7年(1602)、僧繁空が中興して現在地に移したという説明があります。 (資料3)

 粟嶋堂神殿
お堂の前面の 格子に芭蕉を使った大きな寺紋 が見えます。


屋根を見上げると、 獅子口に菊文 が施されています。

猪の目懸魚の白い縁取りがくっきりとした姿にみせています。


その背後にみえるのは、中央の束に縦の溝が掘られて白く塗られています。笈形の一変形でしょうが、雰囲気としては蟇股に近い感じを受けます。側面に塗られた白色と束の縦の白線とが、木の色合いといいコントラストになっています。


彩色鮮やかな蟇股 の造形が目を惹きつけます。これは、後でまたとりあげたいと思います。


蟇股の鮮やかさに比べて、 頭貫と木鼻 の方は、至ってシンプルな造形にとどめられています。




左隣の庚申堂の蟇股と木鼻は同様にシンプルな形象です。


粟嶋堂正面の左には 、「弁財天」の社 が祀られ、右には 「賓頭盧 (びんずる) 尊者」 が安置されています。賓頭盧という名称は、ピンドラブハラドバージャというサンスクリット語の音写をさらに略した名称です。仏弟子で十六羅漢の一人です。インドのコーシャンビー国の王・ウダヤナの家臣でしたが出家して阿羅漢果を証して神通に達した羅漢です。日本では、お堂の前縁に置かれ、除病の撫仏 (なでほとけ) の風習を伴う信仰の対象になっていたようです。信仰は別にして、不特定多数の人が撫でることによる伝染病媒介の懸念から今はこの風習は禁止となっているそうです。 (資料4)

境内の探訪に移りましょう。



人形供養の看板が置かれた築地塀の内側に、 供養された人形のための人形舎 があります。

北隣にあるのが、 与謝蕪村の句碑 です。 句碑の傍にある木に「白妙桜」の札が

  粟嶋へ はだしまいりや 春の雨

駒札には「俳人蕪村翁が娘の病気平癒を祈願されたときに詠まれた句」と記されています。
手許の本を参照すると、『蕪村自筆句集』他を典拠とし、天明2年(1782)、蕪村67歳の時の発句のようです。「はだし参り」とは「願かけのために素足で寺社に参ること」をいいます。「願かけする女性を春の雨がやさしくつつみこむ。浮世絵師・鈴木春信が描いた寺参りの女性のような艶なる姿が想像される」と解しています (資料5)
裸足参りは、ここの境内で裸足となって、ある場所から神前・仏前まで一日に百回往復して祈る百度詣りをする姿なのかもしれません。以前、あるところの境内で「百度石」と刻された石標を見た記憶があります。
蕪村自身の裸足参りを想像するより、娘の病気平癒祈願のために粟嶋堂を訪れた蕪村が、病気平癒を祈願して熱心に裸足参りをする婦人の姿に出会い、思わずその姿に共感し、発した句がこれだったという情景をイメージしたくなります。
石碑に刻まれた句の上部には、粟嶋堂宗徳寺の寺紋が刻されています。
 この蕪村句碑は、正面門のすぐ傍に建立されています。


正面門を入った右側(北側)にも、人形供養の建物(人形舎)があります。こちらの方が最初の建物で、上掲のケースが拡張されたのかもしれません。

築地塀寄りに、 「人形癒やしの石碑」 というのが建てられています。

こちらには、日本人形が中心にびっしりと大小様々な人形が納められています。

余談ですが、 和歌山市の加太町にある「淡嶋神社」 は、人形供養の神社として 「雛流しの神事」 で有名なようです。 こちらのサイトをご覧ください。 (「和歌山市を見る」(和歌山市観光協会)


粟嶋堂の北側 には、お堂のすぐ傍に 石灯籠や、宝篋印塔 が建てられています。

6月中旬に訪れた時には、額アジサイが咲いていました。

その後、翌月にも京都駅に用事で出かけた折に、再訪してみました。

その折にご住職にお願いして、 粟嶋堂の北の内庭にある「弥陀板碑 (みだばんひ) を拝見しました。宝篋印塔の背後にある渡り廊下の建物の西側の庭部分です。



              それがこの 石造弥陀板碑 です。
以前は、駒札に記載のように、この板碑を石灯籠の棹に用いて、その上に火袋・笠・宝珠を載せて石灯籠に仕立ててあったようです。
花崗岩製の板碑の表面に定印の阿弥陀坐像が陽刻されてていて、「頭部左右に観音・勢至の種子を陰刻して弥陀三尊とし、下方に応永28年(1421)の造立銘がある」 (資料6) とされています。撮った写真でも何となく頭部の傍に梵字らしきものが陰刻されていて、下部の右端に年号が陰刻されているのが窺えます。ただ、文字は「應永廿八年」と刻されているように思える程度にしか私には判別できませんが・・・・。




最後に、粟嶋堂の蟇股に触れておきます。6月に訪れた時、この蟇股の彫刻が何に由来するのか気になりました。少し尋ねてみたのですが、判然としませんでした。そこで後日ネット検索してみて、由来として関係がありそうな故事を見出しました。
それは、 中国の教訓説話「二十四孝」の第一条にある舜の説話と共通する絵柄だと思える ことです。

最初に出会ったのが、こちらのサイトに載る絵でした。こちらからご覧ください。
                        (「絵から読み解く孝行説話「二十四孝」学習院生涯学習センター)
このサイトを手がかりに検索すると、補遺にいくつか上げましたが、様々な図像のバリエーションがあることもわかりました。

たとえば、ウィキペディアの「二十四孝」には、歌川国芳筆『二十四孝童子鑑』として、

                     二十四孝童子鑑 大舜 浮世絵図 (引用)
「舜と象」をこの浮世絵として表現しているのです。 (資料7)
粟嶋堂の上掲の蟇股は、童子と白象の背景に、この寺に関係する芭蕉を背景にアレンジして造形したということではないかな、と思います。これはあくまで私個人の由来の推定です。それで、連想したのが、この粟嶋堂の少し北に位置する西本願寺境内・南側の築地塀にある国宝・唐門で眺めた中国の故事に由来するいくつかの透かし彫り彫刻です。 日暮門 と通称されるあの有名な 唐門 です。
唐門についてのご紹介は後日に載せたい所存です。

これで、粟嶋堂の探訪ご紹介を終わります。
ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 粟嶋堂宗徳寺   ホームページ
2)『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注  角川文庫 p194
3)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p18-19
4)『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p48,p440
5)『現代語訳付き 蕪村句集』 与謝蕪村 玉城司訳註   p438
6)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p382 
7) 二十四孝   :ウィキペディア

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
淡嶋神社  ホームページ
淡嶋神社   :ウィキペディア
芭蕉(ばしょう)   :「季節の花300」
与謝蕪村   :ウィキペディア
蕪村の俳句集   :「古典に親しむ」
鈴木春信筆 夜雨神詣美人  :「東京国立博物館 画像検索」
雨中夜詣美人あるいは見立てが忘却されるとき   :「MurakamiJournal」
  ―見立てと日本人13
広島大学図書館 教科書コレクション
二十四孝 図絵   浪華 天保8年(1838)  中村三史堂
   pdfファイル ダウンロード可能。 4コマ目に「大舜」として絵も載っています。
中国伝統文化の精髄―「二十四孝」(1)   :「大紀元」
中国二十四孝 舜王   :「いこまいけ高岡」
虞舜耕田   :「知恩報恩」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へ





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Last updated  2017.01.29 21:00:43
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