遊心六中記

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茲愉有人

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2018.01.02
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カテゴリ: 探訪 [再録]
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2015年、正倉院展を鑑賞後に訪れました。そのときのまとめを再録しご紹介します。
少しマニアックに、南大門を観察したものです。  

実は南大門を経由して正倉院に行くためでもあったのです。
南大門への道は、いつもながら修学旅行生をはじめ観光客で混雑しています。中国人観光客がとみに増加しているように感じます。

南大門は好きな山門の一つ。その堂々たる構えと大きさには何度訪れても圧倒されます。
それでいて、 細部を眺めていくとその幾何学的な構造の美しさに魅了されるのです。 風雨・風雪により木肌を見せ、きらびやかな色彩が消えた現在の姿の中に、 その木組みのすごさに目を奪われ、またそこに魅力を感じるのです。

南大門に近づくと、まず目に飛び込むのが 「大華厳寺」の扁額 です。
華厳経 を所依として中国唐代の賢首大師法蔵が開いた宗派」で、「法蔵の門人審祥 (しんしょう) が講経し、その教えを受けた良弁が奈良東大寺によって宗旨を弘め、947(天暦元)、光智は東大寺に華厳専修の道場として尊勝院を建て、本宗の中興といわれ」 (資料1) たということです。この華厳経に由来するのでしょう。

南大門の古びた感じからすると、この扁額は新しい感じがします。それもそのはずです。調べてみてわかったのですが、東大寺復興に尽力した重源上人の八百年御遠忌法要に合わせて制作され、2006年に掲げられたものだからなのです。鎌倉時代に華厳宗の宗義を発揚した東大寺の僧・凝然 (ぎょうねん) が南大門には「大華厳寺」と書かれた額があったことを書き残していることから、復元されたのです。扁額の文字は聖武天皇が写経されたものから字を集めたものだそうです。 (資料1,2)

尚、東大寺という名前で親しんでいますが、 正式名称 は「 金光明四天王護国寺 (きんこうみょうしてんおうごこくのてら) 」なのです。

治承4年(1180)12月28日、父・平相国(清盛)の命により、その子の本三位中将平重衡が南都焼討を行い東大寺の大伽藍が灰燼に帰し荒廃します。その再興を行うための大勧進について後白河法皇は右大弁行隆朝臣を使者とし、法然上人に大勧進職となるよう内意を伝えたのだとか。法然上人はそれを固辞し、醍醐の俊乗房重源を推挙したと云います。そこから重源が大勧進職となり、東大寺再興の使命を遂行したのです。 (資料3)
このとき、重源は宋人の陳和卿 (ちんなけい) と協力し、東大寺の再建をはかるのですが、この時に、「大仏様( だいぶつよう てんじくよう )」と現在称されている新様式を導入したのです。この代表的な建物がこの南大門だといわれています。 (資料4)

正治元年(1199)に上棟されて、建仁3年(1203)年に竣工されました。仁王像もこの時に制作されています。
入母屋造、五間三戸二重門です。この門は基壇上に25.46mの高さで聳えているのです。





軒下には柱を貫通した挿肘木 (さしひじき) (むてさき) にさしだされて軒桁を支えています。
頭貫の木鼻にはぐりぐりの繰形 (くりがた) が付けられています。ちょっとしたアクセントになっているように思います。

また、軒裏の棰 (たるき) の先、つまり軒先には鼻隠板 (はなかくしいた) がわたされています。

基壇の石段を上がり、門の内部に立ち見上げると、天井ははられていず、 太い円柱の柱が通柱としてまっすぐに高くのびています 。屋根裏までの途中には、 桁行と梁間に幾条も十文字に貫を組み堅牢な構造 になっています。



この柱を縦横に貫く横木の中に、軒先の挿肘木に連なっていくものがあるのです。 



そして、 ここ南大門にあの有名な金剛力士像が安置されています。


1988~93年に解体修理が行われた際に、像の中から納入文書が出て来て、阿形は運慶と快慶が力を合わせ、吽形は定覚と湛慶が小仏師13人を率いて、60日間で造立したということが判明したと言います。使われた木材は山口県で伐採されたものが使われたとか



阿形 836.3cm


吽形 842.3cm
怒りを露わに出した相貌で力強さを漲らす体躯が、 鎌倉時代の典型的スタイルとして受け入れられ、その後長らく仁王像のモデルとなっていく のです。

これら仁王像は、1988~93年以来、約20年ぶりに修理が行われました。2014年10~12月に阿形像、2015年8~10月に吽形像がそれぞれ実施されていたそうです。2014年の修理後に阿形、2015年10月19日に吽形の開眼法要が行われたのです。 (資料8)


                     門を通り抜け、 内側から眺めた南大門


南大門の斜め左側に、​ 「東大寺ミュージアム」があります。ここも一見の価値があると思います。 ​開館された時以来、数回訪れています。





そして、南大門から真っ直ぐ先には 「大仏殿」 。今回は通り過ぎただけ。前を左折して迂回し、背後の北側に向かいます。


大仏殿の背後に来れば、南大門から大仏殿前の混雑・喧騒は嘘みたいに静けさが戻ってきます。
この裏側まで足を延ばす観光客はほんのわずかのようです。



ひろびろとした平地に礎石が並んで居ます。何が建っていたのでしょうか?
東大寺の伽藍の最盛時はどんな風景がみられたのでしょうか?
 東大寺のホームページの境内案合図を参照してみました。この場所に 「講堂跡」 と記されています。


東大寺の正式名称に関連して少し、ご紹介しておきましょう。東大寺のホームページと手許の本で知ったことです。
『続日本紀』を読むと、神亀4年(727)閏9月29日に聖武天皇と光明子の間に皇子が誕生しますが、神亀5年(728)9月13日に皇太子が亡くなります。そこで、聖武天皇は亡くなった皇太子のために山房を造ることを思い立つのです。その結果、11月28日「 智識・戒行にすぐれた僧九人を選んで山房にすまわせた (資料8) という記述が続きます。
公式ホームページにある「東大寺の歴史」の説明と重ねてみると、 この山房というのが、金鍾山寺 であり、 僧9人の筆頭が良弁だったようです 。次に、「十二月二十八日 金光明経六十四部計六百四十巻を諸国に配付した。・・・・」という記載があります。これ以前に既に諸国は、異なる巻本数の金光明経を持ってはいたようです。この時点で、いわば共通の経典が配付されたのです。 当時、仏教は鎮護国家のために存在していました 『金光明最勝経』 は「国家の災難・国難などを削除することを説く」経典として重んじられていたようです。
天平12年(740)9月に藤原広嗣の乱が起こり、天平13年(741)の3月1日には日蝕があり、この頃不作で疾病が流行していたようです。そういう背景があったからでしようか、3月24日、全国に(国分)僧寺・(国分)尼寺を建立せよという詔を発したのです。各々に七重塔一基の造営、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書経させようとしたのです。僧寺は金光明四天王護国之寺、尼寺は法華滅罪之寺とするように命じたのです。つまり、これらの経典の功徳で鎮護国家を願ったということなのでしょう。
この折、 神亀5年に造立された金鍾山寺が、大和金光明寺に昇格することとなった のです。つまり、 「金光明四天王護国寺」の始まり です。

天平12年の2月7日に聖武天皇が難波宮に行幸しています。『続日本紀』には触れられていませんが、「東大寺の歴史」を読むと、この時に河内国知識寺に詣で、聖武天皇は「『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われた」のだとか。そこで、盧舎那仏造立の前に、まず『華厳経』の教理の研究を行う必要性があり、それを金鍾山寺が担ったのだそうです。翌年に金鍾寺が大和金光明寺となるのですから、『華厳経』の研究はそのまま大和金光明寺、つまりのちの東大寺の大本がこの経典を基盤にしていくことになるのでしょう。 『華厳経』の研究(華厳経講説)から始まり、盧舎那仏の造立つまり大仏殿の建立と進んで行きます。
そして、奈良時代を通じ、華厳を含めた六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)兼学の寺、さらに平安時代には天台・真言の研究も加えた、八宗兼学の道場(学問寺)への発展していくのです。その根底は当初の華厳の教理であり、華厳宗の大本山という現在の姿があるようです。 (資料8,9)

正倉院へはまだ少しの距離があります。ちらほらと、足を向ける人がやはりいました。

ご一読ありがとうございます。

***** 追記 *****
1. 東大寺と正倉院は拙ブログで別にまとめたものを掲載しています。末尾をご覧いただき、これらもご覧いただけるとうれしいです。

2.「東大寺」公式ホームページで次のページをブログ記事掲載後に見つけました。
   ​ 「世界遺産 東大寺 3Dバーチャル参拝」
  優れものです。ぜひ一度アクセスされるといいのではないでしょうか。
**********

参照資料
1) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房  p141
2) ​ 南大門 扁額「大華厳寺 ​」 :「いこまいけ高岡」
3) 『法然上人絵伝 (下)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 p46-48
4) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修  山川出版社
5) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編]  山川出版社
6)​ 東大寺の南大門とは・・・ ​ :「日本の世界遺産の楽しみ方」
    ​ 南大門 ​  :「東大寺」
7) 美しくよみがえった仁王像、修理終え法要 東大寺南大門 
      2015年10月22日 :「朝日新聞DIGITAL」 ⇒ 2018.1.2時点でアクセス不可
  ​ 東大寺南大門 吽形像の修理完了、清々しく ​ :「産経WEST」
        2015.10.19 動画もあり
8) 『続日本紀 (上)全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 
     p282,p294-295、p393、p408-411
9) ​ 東大寺の歴史 ​  :「東大寺」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
東大寺 ​  公式ホームページ
金剛力士 ​  :ウィキペディア
東大寺南大門 金剛力士像 ​  動画 :「NHK」
仁王像のお話 ​ :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」
『金剛力士像・仁王像』 西洋彫刻との類似点・相似性 ​  :「日本美学研究所」
華厳経 ​  :ウィキペディア
金光明経 ​ :ウィキペディア
金光明最勝王経 巻第一~十(国分寺経) 10巻 ​ :「奈良国立博物館」
金光明最勝王経 メモ ​  :「き坊の棲みか」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂) へ
     3回のシリーズでまとめたものの最初の記事です。
スポット探訪[再録] 奈良・正倉院 へ ​ 
探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ
   こちらも3回シリーズでまとめたものです。その最初の記事です。

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Last updated  2018.01.02 18:30:04
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