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前回の日記を書いた後「ニクソン」という映画のDVDを借りて見たらニクソン大統領が「私は勝ちたいんだ、負けが嫌いだ!」とか「幸せは戦いに勝った後でいい」「幸せには興味が持てない。戦っていたいんだ」とかいうセリフがもろに出てきてまるで先に「ニクソン」の感想文を書いたみたいだと思った。ニクソンさんは清貧の家庭環境でご両親から厳しくそして、敬虔なクリスチャンとして育てられたけれども(がゆえに)どうしても戦いから降りることができなかったという風にその映画には描かれていました。ひとつのことを成し遂げるのは立派なことだと世間では言われていますが多くの人間は、そのアイデンティティを失うのが恐くてゲームを降りることができません。ゲームを降りて静けさが来るのがこわいのです。静けさの中から最初に出てくるのはゲーム中に自分の行った所業への自責の念やゲームに明け暮れて本当は自分が何も得ていないという事実への気づきです。ですが人間の本当の平安はそういった想念と向き合うことでしか訪れることはないでしょう。多くの人は何かに夢中になることでそういった虚無へのおそれを忘れようとします。でも本当に逃げ切れる人はいません。本当の勇者は立ち止まってその巨大なおそれに立ち向かいます。そしてそれを認め、受け入れ、そこから別の生き方を模索します。人間の魂が本当に糧とする貴重な記憶とはどれだけ愛について学んだか、だけです。人生は体験することに意義があるだとか、自分を信じて、とかよくスピリチュアルの世界では言いますが体験には魂が伴っていなければなりません。魂が伴った体験をすればそれが形として成功であろうと失敗であろうとやがてそこから愛について学ぶことができます。また自分を信じるというと自分の思考や感覚を信じることがいいのだという誤解が生まれますが本当は思考や五感を超えた内なる真実、真の自我をみつけないと自己は信じるに値しません。思考の司る範囲は肉体と同じくらい狭く時間とか順番とか比較などによって仕切られています。この世で見た世界(五感で知覚した世界)を規範に条件付けられています。五感は人間の肉体に付随する知覚ですからその五感によって物事を知覚すれば私たちの意識はその肉体に閉じ込められてしまうことになります。ですが、愛とか魂とか内なる真の自我というものはそれらの尺度では計り知れないものです。魂や真の自己による直覚に基づく理解、つまり悟りという意識に目覚めることが重要になります。それは瞑想することでしか到達できません。「ニクソン」を見てまたしてもその中に今を見ました。結局人間は物理的に何かを達成したかに見えてもその中身はほとんど進歩していないのだとつくづく思います。満足するのは自尊心への飢えだけで、しかも効力は一時的なものです。そしてそれは過去からやってくる脅迫的な衝動によるものがほとんどすべてです。ホ・オポノポノがあらゆる記憶をクリーニングせよと言っているのはそのためです。この世のすべての仕事は他者への奉仕のためにあります。その奉仕を提供して、代わりに今日のご飯をいただきます。とてもとてもシンプルです。大統領であってもそうです。でも大統領になるためには勝ち続けなくてはならず負けるわけにいきません。いつの間にか、それが目的にすり替わってしまいます。勝つためならおそよ、どんなことでもする。その理由に「国民の安全のため」とか「国家の発展のため」とか「家族を守るため」というようなまっとうな感じのする「理由」がつきます。そして多かれ少なかれ、規模は小さくてもこういうことを誰もがしています。多くの場合、理由は理由になっていません。その動機に欲求を満たしたい衝動がある限りそれは正当化するための言い訳にしかなりません。私たちが本当に搾取を止め、戦争を終わらせ、平和を実現するには武器も言い訳も正当な理由も手放す準備をしなくてはなりません。多くの善良な人にとって、一番手放すのが難しいのは当然「正当な理由」です。ですが、愛にも平和にも本当は正当な理由はいりません。それそのものが、神の法律だからです。ただ、私たちがその王国に帰ればいいのです。もしあなたが王国に帰るならその王国のすばらしさへの感動があなたからあふれ周囲の人を巻き込むでしょう。周囲の人はあなたの中に天国を見ます。あなたにとって、ゲームから降りていない人は等しく負けも勝ちも関係なくまた正義も不正も関係なくただ救われることを待つ人となるでしょう。世の中で起こっている不正は山ほどあり時としてその巨大さ強大さに押しつぶされそうに感じることもあります。けれど内なる王国に帰るときそれらのすべては私のうちにあった一つのドラマだと気づきます。誰もが巻き込まれる可能性のある、共同幻想にすぎません。その間違い役がたまたま彼だったに過ぎません。その彼を赦すとき、奇跡が生まれるでしょう。どうぞすべての人に幸せへの道が示されますように。すべての人がゲームを降りて幸せの真の価値に目覚めることができますように。
2011.10.26
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私たちが次世代に本当に残すべきものはなんだろう、と思う。生きやすい環境?社会システム?食べ物?技術?お金?それらは私たちが今生きるにおいて必要だったりするものだ。私たちは現在すでに国土や地球の放射能汚染という現状にさらされている。未曾有の事態なので、正確な予測はままならないけれどたとえ近い未来に多くの人間が健康に被害を受けて多くのいのちが奪われる悲しい経験をしたとしてもその時になればその時残された人間の多く(もしくは一部)は立ち上がってその事態と戦うことだろうと思う。今の私たちからは想像もつかないような方法できっと未来を切り開くことだろう。たとえその時壊滅的な環境だったとしてもそうさせてしまった祖先からの恩恵の負の遺産を受け入れてその時与えられているちからを使って創意工夫して次の方法を考え作り出すしかない。これまでだって、人間はそうやって生き残ってきたはずだ。原発が、放射能が、人道的に問題があると思う人が大勢いても結局世界に戦争があるうちはそのような問題は消えてはいかないような気がする。人権や人の尊厳や愛や平和を大切だという建前のすぐ隣で人と人が武器を持って命を奪う行為が合法的に行われ正当化されているうちは先進国だ、人権だ、統治国家だと言っても何かの目的があれば人は暴力を行い人間の命を奪ってもいいということだ。目的さえあれば、人は暴力によって人間の命を合法的に奪える。権力を用いて。法律を用いて。誰かが誰かに命令することによって。環境に優しい、地球に優しい、人に優しい、なんていう価値観は本当は誰も本気にしていないのだと言っても過言ではないような事態だと思う。日本にはたまたま60余年ほど戦争がないけれど世界で最も支持される価値観は強いものが勝つ。勝つものはえらい。勝つものが富む。富むものは支配できる。なのだとつくづく思う。そして支配するものは戦争をする。被支配者を利用して。そしてさらに富むのだ。日本は今戦争をしていないけれど原子力やお金や世界とのつながりを通して戦争に加担している。国の代表者という権力は、国を使ってそういうことをしている。国が犠牲を負うなら国民も負わなくてはならない。支配したい人は富みたくて勝ちたくてそのために強くありたい。そういう価値観で生きてきた人に、みんなに優しくしてください国民のために、国民の身になって考えてください、と言ってもきっとわからないんだろうなと思う。 だって被支配者のことなんか思いやっていたら支配することなんてできないし負ける人のことを思いやっていたらきっと勝ちたいなんて思えないだろう。勝ちたい人は負けることは嫌いだし弱い人の身になるなんて全然したくないことだろうから。私はそういう世の中で育ち社会的強者にはなることはできなかった。健常者と言われるラインにぎりぎりなんとか滑り込みセーフという感じで立っているのが精一杯だった。けれどこうやって生きてきておかげで優しい人間たちにたくさん出会えた気がする。優しくて少し弱かったり得をすることよりきれいな心でいることのほうを好むような人たち。たくさん持つことより人に譲るほうが幸せだと知っているような人たち。みんなが幸せじゃないと自分も幸せじゃないなと思うような人たち。次世代に私たちが残すべきものはどんな生き方に価値があって人間が本当は何を守らなくてはならないか正しい生き方とはなんなのか人生の中で私たちが目指すべきものとはどのようなものかそういったことを探求することがとても重要でそういった生き方を選ぶことが私たちにはできるのだということをそういったことについて考えるちからを持っているのだということを示唆し、体現し、手本となることなのではないかと思う。そういう生き方をしている限り私たちは絶望することなくどのような環境からも立ち上がることができるのだということを伝えなくてはと思う。人間の真の価値、真の強さを。その美しさを。美しい地球を残したいのなら美しいものを美しいと感じる心を持つ人間を美しいものに価値があることを知る人間を価値あるものを守ることができる強さを持つ人間を育てなくては美しい地球を守ることはできない。強さは勝つためにあるのではない。優しくあるためにあるのだ、と小学生の私は思った。だから私は強くなる。優しい人間であるために、とある日心に誓った。優しいということには価値がある。勝つこと以上に。富む以上に。支配する以上に。人間の真の価値を問い、育てる原動力となるほどのパワーがある。本当の優しさを持つ世界をその世界を作ることができる人間の生き方をこそ私は次世代に伝えたいと思う。
2011.10.19
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一口に思いやり、と言ってもいろいろな段階、いろいろな次元がある。私たちに理性がなければ思いやりは生まれない。肉体に付随する本能の機能によって、私たちは利己的にできている。外界は敵か味方かの2つに分類することが重要であり敵に対しては攻撃か逃走か、という手段を講じて身の安全を守らなければならない。そうすることによって自己を保存して生き残ってきた長い歴史がある。それで聖書ではイエス・キリストがそうではなく「汝の敵を愛せよ」と言った。それが理性によって本能的な自己愛(利己主義)の領域から脱出する方法だった。そこで人は、理性の愛を使って思いやりのある人間であろうとする。例えば「相手の立場に立って、物事を考える」というようなことだ。小学校でもそんなことを習ったような気がする。それも一つとても大事な段階ではあるだろう。社会的なルールなどを決める時には社会的な弱者の立場に立って公正で平等になるように考えること、など。けれど理性の愛は、さらに成熟する。「相手の身になって、物事を感じる」という風に。深い思いやりや人間的な優しさ、暖かさを人が人に感じるとき恐らくその人は相手の身になって物事を感じ取ることのできる人だ。そしてさらにそれについて裁くことをせずにあるがままを受け入れることができるとそこには癒しが起こる。そういう人は人を癒す力を持つ。理性というと頭で考えることという風に捉えがちだが理性の愛とは神の愛に通ずる。私たちは理性によって「感じる」能力を磨く。「感情的にならず冷静に」という言葉での感情は自己保存のための利己的な本能からくる衝動であり理性によって昇華された情緒とは違う。だから私たちは日々理性を使って内観し、内省し「恐れ」に対処しようとする本能から来る衝動に気づき、それを手放しそのスペースに愛を招き入れなくてはより高い自己と統合された熟成した人間になることはできない。ハートが開いているというのはこのような成熟のことを言うのだと思う。
2011.10.14
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つぶやいてご紹介したのですが それだけでは物足りない気がしたので 日記でもご紹介させていただきます。 瞑想のとき、脳の中でどんなことが起こるのか、ということへの考察のための 参考になると思います。下記、クリックするとYouTubeに飛びます。 ジル・ボルト・テイラーは、脳科学者として願ってもない研究の機会を持ちました。自分が脳卒中を起こしたのです。広範囲に及ぶ脳卒中の発作によって、脳の機能 ―運動、言語、自己認識― が1つひとつ活動を停止していくのを観察しました。その驚くべき内容をお聞きください。続き
2011.10.11
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昨日の続き。瞑想すると時間が増える、というとなんだか生活をもっと便利にするために瞑想がいい、かのように聞こえるかもしれませんがそれは本末転倒です。実際は、瞑想をするために生活を整えるといいと思います。瞑想しやすい環境、ライフスタイルを整えて瞑想を日常の中で一番大事なこと、という風に考えると人生はとてもシンプルになります。エコ、とかシンプルが好きな方は生活にエコを取り入れる、という発想よりも人生の軸を瞑想、と決めてしまうといいと思います。何よりエコです。スピリチュアルが好きとおっしゃる方は言うまでもありません。瞑想のやり方について迷っている方も多いのではないかと思います。やり方、スタイルについてはあれが正しい、これはいけない、と様々なことが言われています。ですが、そんなことよりも一番大事なことは瞑想の目的、人生の目的は何か、ということではないかと思うのです。やり方についていろいろ言われているわりにはその目的がいまひとつ語られない気がします。心に平安を、とか、霊的感覚を養うとか、覚醒するとか、成長するためとか、心を無にするとか、空を知るとか、いろいろな言葉で言われますがではそれを得ると人生はどうなるのか、あるいは自分はいかに変わるのか、さらに言えば、自分が変わるということにすら気づいていないのかもしれない人が意外と多いかもしれません。私たち人間は人生のある時点から自分はこういう人間、という鋳型を作り成長するということはその鋳型にはまった自分がどこかへ行って何かを達成することだという風に認識し始めます。実に左脳的発想です。達成することが成功であり、達成には能力が必要、という風に考えます。そして能力を身につけるために学校に行って習ったりそれを認めてもらうために資格を手に入れたりします。ですが、形而上学的には人間の仕組みはそうなっていません。私たちは電気的な振動による多次元のボディを持っておりそれを生命たらしめている意思によって存在している無限の霊です。瞑想とはそれを思い出し実感しその中心とひとつになるべくあらゆる次元の自己を教化していくことです。神をみつけ、神とひとつになり、神の無限の光を自己の破片のすべてに浸透させていく行為です。すべての魂はそのことを渇望しています。どんな人も、愛を必要としているのと同じです。ただ意識しているか無意識かの違いがあるだけです。肉体と肉体意識という至極限られたこの世の牢獄から自己を解き放ち本来の自己へと戻ることはどれだけ魂にとって幸せなことでしょう。魂が本来のありようを思い出すほどこの世の些事というものが意識を占める割合は少なくなります。そうなってこそ、この人生の本来の目的であった神の実験劇場(地上)を楽しみながら体験することができるようになります。そうなるまで私たちは浮世の幻想世界に気をとられてはばたばたと動き回って嘆いたり恐れたり、充分に楽しむことなく肉体の寿命を終えてしまいます。それでは本当の大事な学びもままなりません。私たちは文明社会の恩恵にあずかりここまで豊かになりました。けれどもその裏側に一体として存在していた副産物、副作用によってその永続的な安定はありえないものであることが明瞭に示され始めました。外側にあるものを何とかしたいのは最もですがしかしその前に、人間が生きることの本当の目的、人間が人間について深く知ることをしない限りいくら子孫に安全や平和や愛のある社会を残したいと願ってもそれは不可能です。なぜならそれらの私たちにとって本当に大切なものは私たちの外側には存在しえないからです。安全を保障するのは誰でしょうか。平和を作るのに必須の要素はなんでしょうか。愛は誰が与え、誰が教えるのでしょうか。私たちの多くが内側に向かい、明確なそれらを見つけなくてはなりません。悟りは遠い昔や果てしない未来のおとぎ話ではありません。私たちは、今現在縁を持っている家族や友人、隣人、近い未来の子供たちの世界に、そして何より自分自身の生命に対して責任を持たなくてはならないしそのための力を持っています。今、多くの人が、それに向き合うチャンスを手にしているはずです。どうぞ、それについて、あなたという存在について、パワーについてあなたの生命について、意識について、そのチョイスについて、あなた自身に問いかけてみてください。問い直すこと、何度でも問い直すこと、それによって真実の光は姿を見せます。あなたの無限のパワーをみくびらないでください。そう簡単に諦めないでください。私たちは今そういう岐路に立っているはずです。
2011.10.08
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瞑想は正しいやり方がわかりにくく効果も即効性がわかりにくくそのようなものにかける時間がなんとなく惜しいというような感じでなかなか習慣になりにくいものかもしれません。ですが我が家では瞑想の時間が増えるとその他のことにかかる時間が短縮されるという結果が出ています。今年の元旦、0時にだんなさんと向き合って今年もよろしくお願いします、とあいさつをしてだんなさんがふと、こんなとき瞑想したらいいんだろうな、というのでじゃあしよう!今すぐ!ということで今年は瞑想で年が明けました。一年の計は元旦にあり、というのは本当かもしれません。今年は、特にだんなさんの瞑想が格段に増えました。暇さえあると瞑想、という風に時間を使えるようになってくると不思議なことに雑務にかかる時間がどんどん短縮され様々なことがスムーズになり疲労感がぐっと減ったので私はとにかくものすごく働き者になりました。だんなさんはだらだらする時間ががものすごく、というかほとんどなくなりました。私は家事をばりばりこなし、とにかく掃除がものすごくはかどるようになりました。なんだかもう、趣味なの?というくらいお掃除に前向き。ほぼ毎日どこかしらを拭き掃除されているお部屋はエネルギーの浄化と相乗効果でぴかっとやさしく輝いています。するとますます瞑想もやりたくなります。そんな風に生活していて気がつくとたくさん瞑想している今のほうがあらゆることに時間の余裕があります。検証してみると私たちの時間を減らしている犯人は疲れ≒重たい≒気が重い≒迷いがある≒罪悪感≒葛藤≒疑惑≒不安≒不満≒やりがいが感じられない≒生きがいを感じていない≒人生の目的がわからない・・・・のようなマイナスの想念が少しずつ私たちの次の行動へ移るタイミングを遅らせたり間違わせたり足をひっぱたりしていることがわかります。こういった想念から無意識に逃げたり、それを感じることを恐れるために私たちは別のなんらかの欲求を満たすことに夢中になろうとします。何かを思いついたり欲求を感じてそれを満たす、ということを繰り返します。そうしていると、本当にやらなくてはならないことになかなかたどり着けません。それで、大切なことはいつも後回しで時間ばかりが過ぎてしまいます。内面へ取り組み、より高い次元の意識へと進んでいくということはこういった波長の荒い、重たい想念をお掃除していくことです。内面のお掃除が進むと大切なことと代用としての欲求の区別ができるようになり本質的な必要以外の欲求は大幅に減り、代用としての欲求を満たす行為が必要でなくなっていきます。その回り道のルート自体がショートカットされます。結果、瞑想の時間と、楽しむための自分の時間が増えていくようです。
2011.10.07
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神に選ばれる、とか神に与えられる、ということを心のどこかで待っている人は意外と多いでのはないかと思う。私は自分が苦しい目に遭ったり痛み傷ついていたとき心のどこかで、そういった意識を持ちそこに救いを求めていたと思う。けれど本当は、神は選ばないし、常に与えている。選ばれるのを無条件に待ってくれているのは神のほうでありまた無条件に与え続けてくれていて受け取るのを待ってくれているのも神だと思う。「人間には自由意志がある」という言葉をスピリチュアルの世界で耳にしたとき「であるから、私たちはそれを行使して自由になるのだ」という風に解釈したし「その選択肢は無限だ」と言われればまるで世界中のサンタクロースがまとめて大勢で私の前にやってきてあらゆるプレゼントは私のために用意されているのだ、とでも言われているみたいに感じる。そして現状そうなっていない自分が不充分であってその切符を手にするに値していないのだ、という所にどうしても行き着く。けれど本当の自由意志の意味は私たちが悟らないまま、エゴの投影である幻想の世界で絶え間なく湧き上がっては消えていく無常の迷妄の世界をふらふらと漂っているかもしくは幻想から目覚め、真理という世界に向かって生きるかどちらか、だった。肉体における自己からみれば前者は圧倒的に自由に見える。多くの選択肢があるかのように見える。しかし真の自己から見たら、前者は牢獄、後者は無限に見える。私たちが内なる真の自己の存在に気づき私たちから選ばれるのを神は無限の愛をもって待ってくれている。これこそが無条件の愛だと思う。
2011.10.01
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