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レンタカーで鬼ノ城(鬼城山)まで出かけ、
山登りの後は備中高松城址へ行くことにしましたが、
突然黒い雲が流れてきて雨が激しく降りだしました。
仕方なくしばらく車の中で雨が小降りになるのを待ちました。
黒い雲が流れて行ったので、車を走らせていると
備中高松城址へ着いた頃には雨がやみました。
『高松城は1582年の中国役の主戦場となった城跡で有名です。
城は平城(沼城)で石垣を築かず土壇だけで築城された土城です。』
『全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙しました。
織田軍の先鋒、羽柴秀吉は3万の兵で南東部に侵攻し次々と攻略し、
最後に高松城の周囲に約2.6㎞の堤防を12日間で築き、
梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行。
籠城1か月余りで城兵が飢餓に陥った頃、本能寺の変が起きました。
秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主・清水宗治の切腹と開城を
条件に休戦を成立させ落城させました。
本丸跡には宗治の首塚があります。
北西の家中屋敷跡には宗治の遺骸を埋葬した胴塚もあります。』
と書いてありました。
高松城址が残っているだけと思いましたが、
高松城水攻図でわかりやすく当時の状況を表していました。
東から見ていきましょう。
右に大鳥居が立っています。
大鳥居の左側、東には羽柴秀吉軍がいました。
その左には宇喜多忠家軍もいました。
北には津田与左衛門軍がいました。
左には加藤清正軍もいました。
西軍の陣地には吉川元春軍と楢崎十兵衛軍がいました。
南は小早川隆景軍がいました。
そして高松城水攻めを再現していました。
足守川の水を引き入れ高松城に流すことで本丸周辺は湖となり、
孤立無援となり、城主、清水宗治は切腹して幕引きになりました。
資料館は年末でお休みでした。
石の碑には「大原桂南の高松城懐古」が刻まれていました。
漢文で書かれていましたが、城主・清水宗治が切腹することで
民を守ったことを懐古している文章だと推測しました。
こちらは遠くからでも目立つ大きな鳥居でした。
左の方へ数キロいくと高松城水攻築堤跡がありましたが、
運転手がその気にならず、ここでおしまいにして
ホテルに戻ることにしました。
大晦日なので岡山駅の中にあるお店まで出かけ
夕食に年越しそばを食べました。
そして大晦日恒例の「第九」をテレビで見て過ごしました。
この夜は翌日に平穏な元日が来ると信じて疑いもしませんでした。
(つづく)
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