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どうやら、この宇宙は二重構造になっており、われわれがよく知っている物質的な宇宙(この世)の背後に、もうひとつの目に見えない宇宙(あの世)が存在するらしいのです。「あの世」と「この世」が表裏一体であることは、宗教の説(と)くところと同じですが、科学の側が提案しているモデルでは、宗教よりもはるかに厳密に定義されています。「この世」では、私とあなたは別人であり、路傍の石ころや空飛ぶジェット機は、それぞれ別個の独立した物体であり、太陽や月は、私とは無関係なはるか彼方(かなた)にある天体です。ところが、「あの世」では、私はあなたであり、同時に石ころでもジェット機でもあり、また太陽や月、さらにはアンドロメダ大星雲でもあるのです。「ここまで来た『あの世』の科学」 天外伺朗 祥伝社
2013年03月29日
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人間の全的発達のためには、感受性を養う手段としての独居(ソリチュード:一人でいること)が必要不可欠になる。われわれは、一人でいるとはどういうことか、瞑想するとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを知らなければならない。が、独居、瞑想、死の意味は、それを探求しぬくことによってしか知ることができない。それは教えてもらうことはできないものであって、学びとらなければならないものなのだ。指し示すことはできるが、指示されたものによる学びは、独居や瞑想の刻々の体験ではない。独居とは何か、瞑想とは何かを刻々に体験するためには、探究の状態にいなければならない。探究の状態にある精神だけが学ぶことができる。しかし、探究が以前得た知識、他人の権威や経験によって抑制されるときには、学びはたんなる模倣になり、そして模倣は、当人が学んだことを刻々には体験させぬまま、只反復するようにさせるのだ。「未来の生」 J・クリシュナムティ 春秋社
2013年03月28日
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科学に関して、少なくとも次のような機能を区分することができる。 1 問題を探求し、問題を設定し、予想を促進し、仮説を立てる機能 2 テストし、照合し、検証する機能。すなわち仮説を吟味しテストする、実験を繰り返し照合点検する、事実を蓄積し信頼性を高める機能 3 組織化、理論化、構造化していく機能。即ち普遍化・一般化する機能 4 発達の歴史を広く深く調べ集める機能 5 技術的側面。すなわち道具、方法、技術 6 管理、執行、組織的側面 7 公にし、教育する機能 8 人間が使用できるように応用する機能 9 真価を認め、享受し、称賛し、賛美すること「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2013年03月27日
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規律にしばられた精神は決して自由な精神ではなく、そして抑圧された願望を持つ精神もまた自由ではあり得ない。願望の全過程を理解することによってのみ、精神は自由になることができる。規律は、つねに精神をある特定の思考や信念体系の枠内での動きに限定するのではないだろうか? そしてこのような精神には、英知を持つ自由はまったくない。規律は権威への服従をもたらす。それは役割的才能を要求する社会の枠内で機能する能力を与えはするが、しかしそれ自身の能力を持つ英知を目覚めさせることはない。記憶による以外の能力を何も培わなかった精神は、現代の電子計算機のようなものだ――驚くべき能力と正確さで機能はするが、依然として機械に過ぎないのである。「未来の生」 J・クリシュナムティ 春秋社
2013年03月26日
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結局、“思想”というのは、知識人にとっての脊椎(せきつい)みたいなものだということになる。これのあるなしで、高等動物か下等動物、いや“高等人間”か“下等人間”かということがきまるのである。むろん一般大衆にはこれがないものとされている。知識人の仲間入りを許されていながら、これを欠いているものはモグリである、といったような考え方に支配されているものが、古くからこの国には多い。そこで誰もかれも争って、なんらかの“思想”を手に入れようとするのである。しかもこれには流行があって、最近外国から入ってきたようなものでないと、身につけていてかえって軽蔑される点で、帽子などと同じである。帽子の用途は、寒さを防ぎ、頭を保護するところから発したものであろうが、今では完全にアクセサリーの一種となっている。強いて実用性を求めるならば、ハゲ頭をかくすくらいなものだ。今日の社会で“思想”が演じている役割はこれと相通ずるものがある。少なくとも、そういった役割を演じている“思想”の多いことは事実である。「日本裁断」 大宅壮一 講談社
2013年03月25日
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限られた資源の中で平和に暮らした鎖国時代の日本人の知恵は、二十一世紀の地球全体にとっても、大いに重要であること。鎖国時代、日本では、三千万もの人々が限られた面積の国土で生きなければならなかった。にもかかわらず二百年以上もの間、驚くほど穏やかに、平和に仲良く暮らすことに成功したのである。極端な貧富の差もなく、人々は概ね豊かであった。今日、膨大な人口を抱える地球では、天然資源がいかに貴重であり、人間と環境の微妙なバランスはいかに簡単に崩されてしまうかという意識が芽生えてきている。だからこそ今、鎖国時代の日本について知る意味があるのである。「驕れる白人と闘うための日本近代史」 松原久子 文藝春秋
2013年03月21日
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何ぞ独り求法(ぐほう)を思ひて老病を扶(たす)けざるや、いかん。示して云く、利他(りた)の行(ぎょう)も、自利(じり)の行も、たゞ劣(れつ)なる方を捨てゝ勝(しょう)なる方をとらば、大士(だいし)の善行(ぜんぎょう)なるべし。老病を扶けんとて水菽(すいしゅく)の孝をいたすは、只今生(こんじょう)暫時の妄愛迷情の喜びばかりなり。迷情の有為(うい)に背いて無為(むい)の道(どう)を学(がく)せんは、設(たと)ひ遺恨(いこん)は蒙ることありとも、出世(しゅっせ)の勝縁(しょうえん)と成(なる)べし。是を思へ是を思へ。「正法眼蔵隋聞記」 懐奘 岩波書店
2013年03月21日
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自他の関係は自己発見に至る過程なのです。そして自分自身と、自分の精神や心の働き方を知らずに、ただ単に外面的な秩序や制度や巧妙な方式を確立しても、それは全く意味がありません。重要なことは、他のものとの関係の中で自己を理解することなのです。その自己を理解したとき、自他の関係は孤立化の過程ではなくなり、生きている働きになって来るのです。その働きの中で、あなたはあなた自身の動機や思考や、あなたが追及しているものを発見することができるのです。そしてこの発見こそ、開放と変革の始まりなのです。「自我の終焉」 J・クリシュナムティ 篠崎書林
2013年03月20日
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リンネの分類体系は典型的な階層構造になっている。いちばん下の階層に下等な生物があり、つぎに植物があり、つぎに無脊椎動物があり、脊椎動物、なかでも哺乳類、それからヒト、その上に天使の階層があって、頂上に神様という図なら、リンネから来たというより、神父さんが描いてもおかしくない。実際にそういう絵が描かれている。この図はじつは「同じ」で次々に括られる概念の世界を示しているわけで、つまり脳ミソのはたらきを示している。それを、「世界がそうなっている」といって「外に押し付ける」のが西洋なのである。自分の頭を外に押し付けて、客観的、論理的に世界はできている、それは神様の仕業だという。欧米ではそれを「思想がある」というのである。「無思想の発見」 養老孟司 ちくま新書
2013年03月19日
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示して云く、仏々祖々(ぶつぶつそそ)、皆な本は凡夫(ぼんぷ)なり。凡夫の時は必(かならず)しも悪業(あくごふ)もあり、悪心もあり。鈍もあり、痴(ち)もあり。然(しか)あれども尽(ことごと)く改めて知識に随(したがひ)て修行(しゅぎょう)せしゆへに、皆仏祖(ぶっそ)と成(なり)しなり。今の人も然(しか)あるべし。我が身愚鈍(ぐどん)なればとて卑下(ひげ)することなかれ。今生(こんじゃう)に発心(ほっしん)せずんば何の時を待(まつ)てか行道(ぎょうどう)すべきか。今強(しひ)て修(しゆ)せば必ずしも道(どう)を得べきなり。「正法眼蔵隋聞記」 懐奘 岩波書店
2013年03月18日
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どのような問題についてでも、私たちが協同し、団結し、理解力を持って働くことができるのは、私たちがお互いに愛し合う方法を知ったときだけなのです。またそのときにのみ、「神」とか「真理」とかいわれるものを発見することが可能になるのです。ところが私たちは知力や模倣によって真理を発見しようとしているのです。そしてそこから偶像崇拝が生まれるのです。あなたが自我の全体の構造を十分理解して、自我を完全に捨てきったときのみ、不滅で、永遠で、無限のものが姿を現すのです。しかしあなたはそこへ行くことはできません。それはあなたのところへやって来るものなのです。「自我の終焉」 J・クリシュナムティ 篠崎書林
2013年03月15日
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人の利鈍と云うは志(こころざ)しの到らざる時のことなり。世間(せけん)の人の馬より落(おつ)る時、いまだ地におちつかざる間に種種の思ひ起る。身をも損じ命ちをも失(しつ)するほどの大事(だいじ)出(いで)来る時は、誰人も才学念慮を廻(めぐら)すなり。其(その)時は利根も鈍根も同(おなじ)くものを思ひ義を案ずるなり。然(しか)あれば今夜死に明日(みょうにち)死ぬべしと思ひ、あさましきことに逢ふたる思ひを作して、切(せつ)にはげまし志をすゝむるに、悟りをえずと云ふことなきなり。「正法眼蔵隋聞記」 懐奘 岩波書店
2013年03月14日
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非常に静寂で、思考によって攪乱されていない精神や、何でも自由に受け入れられる開かれた精神は、問題をきわめて直接的に、かつ非常に素朴に見ることができるのです。そしてわたしたちの問題を解決する唯一のものは、このような注意力をそらさずに問題を見つめる能力なのです。またそのためには、静止した落ち着いた精神がなければならないのです。そういう精神は訓練や瞑想や抑制などの結果として生まれてくるものではありません。またこの精神は修行や強制や浄化を通してではなく、「私」や思考の努力が全くないときにでてくるものなのです。それは私が思考の全過程を理解し、注意力をそらさずに事実を見ることができたときに出現するのです。こうして不動の、本当に静寂な精神の中に愛が誕生するのです。そして私たちのすべての問題を解決することができるのは、この愛だけです。「自我の終焉」 J・クリシュナムティ 篠崎書林
2013年03月13日
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日本近代化の基礎を儒教倫理に探るという先駆的試みとして、R・N・ベラー「日本近代化と宗教倫理」がある。ベラーの試みは成功していない。ベラーが、日本のカルビニズムとして重視した石門心学の祖、石田梅岩の心学は商行為の倫理的基礎を提供したが、梅岩の活躍したのは明治期に一世紀以上も先立っており、また石門心学自体が幕末には衰微した。こうして石門心学と日本資本主義との時代的因果関係が見えてこないのである。ベラーは、その見解を丸山真男によって厳しく批判され、後に自分の意見を撤回した。「日本文明と近代西洋」 川勝平太 日本放送出版協会
2013年03月12日
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只管打座(しかんだざ)を修行の眼目にする道場では、なぜに座禅よりも雑巾がけが重視されなければならないのか。四つん這いになって雑巾をかけている時には、明日のことを案じてくよくよ考えるようなことはまずないといってよい。不思議なことだけれど雑念が生じないか、生じてもそれが長続きしないのである。這いつくばった雑巾がけの姿に人間の尊厳さはない。けれども、無常に徹した姿がある。それは形の上からすれば、無常の世界を無常のままに生きている自然界の動物に通ずる姿である。それゆえに雑巾がけは正身端座と通ずるのである。なぜか。それは、座禅が「無所得無所悟」を標榜するからである。座禅をしてもなんの得るところもなく悟るところもない。全く当てなしに座るところに座禅の真髄があるのである。これはつまり、無常に徹した座禅でなければ本物ではないということにほかなるまい。「草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物心身の無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり」。道元禅師は、無常の世に無常の法則のままに生きることの重要性を強調される。「禅とからだ」 小倉玄照 誠信書房
2013年03月11日
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満ち足りて生きている人や、物事をあるがままに見て、自分の持っているものだけで満足している人は、混乱していないのです。それゆえ、人生の目的は何かなどと尋ねたりしないのです。その人にとって、生きること自体が初めであり、同時に終わりなのです。問題なのは、私たちの人生が空虚であるために、私たちが人生の目的を求め、それに向かって努力しようとすることなのです。こういう人生の目的はなんの現実性も持たない、単なる知的遊戯に過ぎません。人生の目的が、浅薄で無気力な精神や、空虚な心によって追及されるとき、その目的も同じように空虚になってしまいます。そこで私たちの目的は、いかにして私たちの人生を豊かにするかということになります。つまり金銭とか物質のことではなく、内的な豊かさのことであり、それは別に神秘的なものではありません。「自我の終焉」 J・クリシュナムティ 篠崎書林
2013年03月08日
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真空無相(色即是空)・真空妙有(空即是色)と、これで一応仏教の哲学はすんでいるのですが、そこを宗教として具体化して、市井の街に入って手を垂れて、迷える人々に救いの手をのべていくところ、これが最後の「第十」です。先師寒松室(宮田東眠老師)が、「禅に大慈悲心ということがなければ、禅もひっきょう一つの哲学で終わってしまう」といわれたことがありました。「第十」はまずその「大慈悲」の利他行です。[序]柴門(さいもん)独(ひと)り掩(おお)うて、千聖(せんしょう)も知らず。自己之風光を埋(うず)めて、前賢(ぜんけん)之途轍(とてつ)に負(そむ)く。瓢(ひさご)を提(さ)げて市(いち)に入り、杖(つえ)を策(つ)いて家に還(かえ)る。酒肆(しゅし)魚行、化(げ)して成仏せしむ。[頌] 胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして廛(てん)に入り来る。土を抹(まつ)し灰を塗りて笑い顋(あぎと)に満つ。神仙真秘の訣(けつ)を用いず。直に枯木をして花を放ちて開かしむ。「禅と人生」 秋月龍民 雪華社
2013年03月07日
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「真理」というものは完全な自己認識の中にあるのであって、他人や本から教えられたり、学ぶものではないということです。従って自己認識のために誰でも用いられるような一定の方式や方法はありえないということなのです。「真理」の発見のために特別な宗教や宗派や師というものはまったく必要がないというわけです。「自我の終焉」 J・クリシュナムティ 篠崎書林
2013年03月06日
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どのような思想であれ、完全な思想などというものはない。同様に、完全に正しいという思想などない。論理的に詰めていけば、ゲーデルの不完全性定理が出てきてしまう。完全な思想があると信じ、それを追及するのは結構だが、俺の思想が正しいというのは間違っている。原理主義者には、そう説くしかない。それでは説得力がない。そう思う人もあろう。でも、あまり説得力があると、ヒットラーになってしまうのである。「宗教のない社会はない」。ヒトはなにかを信じる存在である。それならなにかを信じればいい。その意味で私は、「何も信じないことを信じる」・「五蘊は皆空」だからである。それが無信心の信心であろう。信仰については、どこかを終点にするしかない。どこを終点とするのが「正しいか」、そんなことを私は知らない。感覚世界は差異の連続である。そこに正解なんて、あるわけがない。「正解らしい」答えがあるだけである。それは状況によって変わる。だからそのつど、正解をめぐって苦労すりゃいいのである。お釈迦様のいう四苦八苦とは、そのことであろう。「無思想の発見」 養老孟司 ちくま新書
2013年03月05日
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「あの時分、世界が何月何日を以て破滅するといふ大袈裟な讀賣が市中に出て、大騒ぎしたことがありますが、覚えてゐらつしやいますか。」私はかう訊くと、主婦は、「さう、さう、さういふことがありましたね。よく覚えてゐらつしやいますね。幾日が大雨、幾日が大地震、幾日が大海嘯つていふ風に、その讀賣の紙に繪が書いててありましたね。」「さうでしたね」かう言つて私は其時分のことを思つた。さういふ亂暴な、人の心を騒がせるやうな讀賣をして歩いても、その時分は、警察はまだそれを取締らうともしなかつたのである。それほど暢気な野蠻な都會であった。「東京の三十年」 田山花袋 河出書房
2013年03月04日
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「無」といい「空」というと、人は今度はまた文字通り何もないのだと、またその「無」の字「空」の語にとらわれてしまう。そこでここは、「真空無相」の裏側、すなわち「真空妙有(みょうう)」というところを見せるのです。「花は紅、柳は緑」と示したわけです。[序]本来清浄(しょうじょう)にして、一塵(いちじん)を受けず。有相(うそう)の栄枯(えいこ)を観じて、無為の凝寂(ぎょうじゃく)に処(しょ)す。幻化(げんげ)に同じからず、豈(あに)修治(しゅうじ)を仮らんや。水緑に山青くして、坐(いながら)にして成敗(せいばい)を観る。[頌] 本(もと)に返り源(みなもと)に還って已(すで)に功を費(ついや)す。爭(いか)でか如(し)らん、直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。庵中に見ず庵前の物。水は自ずから茫茫(ぼうぼう)、花は自ずから紅なり。「禅と人生」 秋月龍民 雪華社
2013年03月01日
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