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西欧世界の進出がのちの世界史に与えた最大の影響は、今日につながる世界の一体化が西欧人によって進められたことです。明は海洋国家として発展する力をもちながら、それに積極的でなく,清もこれを継承し、日本もまた17世紀に閉鎖的になりました。このように東アジア国家が国内治安を優先させて内陸型国家として閉じこもるのに対して、西欧国家は海洋国家として発展し、これが経済活動を刺激して市民階級の上昇やひろい知識の獲得、世界への積極的態度をもたらしました。この海外進出の成功は、しだいに西欧人に自己の文明についての自信を強めさせ、海外発展や植民地の建設は物質的富をもたらすとともに、文明を未開の人間に広める行為だとの優越意識をうえつけたのです。
2025年01月31日
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西欧連合軍にやぶれたとはいえ、オスマン・トルコは、まだ広大な領土をもつアジアの大帝国でした。当時アジアにはまだいくつかの大帝国がさかえていました。イスラーム圏に関しましても、一七世紀には、イランのサファビ一朝のほか、インドにはムガル帝国がさかえていました。また、当時支那では大清帝国が勃興しつつあったので、全般的にみて、一七世紀は、まだアジアの時代であったのです。一七世紀のムガル帝国の栄光をもっともよくあらわしているのは、壮麗な寺院のタージ・マハルと「孔雀の王座」です。いずれもシムガールジャハーン皇帝がつくったものです。タージ・マハルはインドのアグラ(現在の首都ニューデリーの南方)にあり、世界でもっとも美しい建造物だといわれています。着工されたのは一六三二年で、それから十年のあいだ、つねに二万人以上の工匠と労働者を駆使して建造されました。その後、庭園と付属の建物を完成するのに、さらに十年もついやしています。この寺院の美しさは、真正面に満月がのぼったときが最高であり、この世のものとは思われないほどの夢幻的な美しさを感じさせるといわれます。
2025年01月30日
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ロシアとの戦争に失敗したオスマン軍はしかたなく、一六八一年にロシアと休戦協定をむすび、パシャはかねてからの最大目標である、神聖ローマ帝国(西欧)の侵攻にのりだしました。オスマン軍は、百年あまり前とおなじようにウィーンを包囲しました。しかし、これにたいし、英・仏など西欧連合軍が応援にきて、とうとうオスマン軍をうちやぶりました。一七世紀のあいだに西欧の技術が進歩し、軍事技術でオスマンはもはや西欧に勝てなくなっていたのです。いまや東西の力関係逆転の兆候があらわれてきました。
2025年01月29日
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「アメリカ大陸発見以後は、もう西欧の時代にはいっていたはずだ」と疑問をもつことでしょう。しかし、一七世紀はまだアジアの栄光の時代であり、当時の西欧はたいへん貧困な状態にあって、西欧の時代はまだ到来していなかったのです。オスマン・トルコが、本格的に西欧に侵入しなかった大きな理由は、自らの背後にサファビ一朝という強国(現在のイラン)がひかえ、抗争をつづけていたからです。いっぽう、トルコの北には、当時ロシアが急速に勃興しつつありました。一五六八年のことです。黒海の北岸にある、クリムハン国というオスマンの属国が、ロシア帝国の前身であるモスクワ大公国の攻撃をうけたので、オスマンはクリムハンを支援しました。その後、オスマンはモスクワ大公国の領土へ侵攻するために、大軍をおくっています。このようなわけで、一六世紀のまだかよわい西欧は、さいわいにオスマンの侵略をまぬがれたのです。一七世紀にはいると、オスマン・トルコは、内政の腐敗から一時外征を中断しますが、一七世紀後半に皇帝となったムスタファ=パシャは、ロシアと神聖ローマ帝国の両方へ、大攻勢をかけました。パシャは、まずウクライナ(ロシア)へ一〇万の大軍をおくりこみ、ロシアとたたかいましたが(一六七七年)、この戦争は成功しませんでした。
2025年01月28日
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一六世紀前半に、西欧の中央へむかって攻勢を展開していたオスマン・トルコの侵略に、西欧人はあおざめました。西進するオスマン軍は、一五二六年にウィーン城(オーストリアの首都)を包囲し、陥落は、もはや時間の問題でした。すでに、オスマン・トルコは、地中海の南岸(アフリカの北部)をすべて制圧し、西欧包囲の体制をすすめていました。一五三七年に、スペインを中心とする西欧の連合艦隊が、地中海でオスマン艦隊とたたかいましたが、オスマンにやぶれています。そのため、地中海は一時「オスマンの湖」となりました。これは、ポルトガルがアジアへ進出しはじめ、スペインがアメリカ大陸を侵略しはじめてのちのことです。しかし、じつは一六世紀には、西欧全体がイスラームの圧迫をうけていたわけです。イスラーム勢力の西欧への圧迫がゆるんだのは、一七世紀後半にはいってから、一六八三年のオスマン・トルコのウィーン再攻略が失敗してのちのことでした。一七世紀全体を通じて、西欧はまだかなりよわかったのです。
2025年01月27日
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江戸時代になって人々は安心して生活の向上を目指して働くことができるようになりました。幕府や大名も米の増産を望みました。こうして、全国で、干潟や河川敷などを中心に新田が開発されました。17世紀の100年間に、全国の田畑の面積は、およそ2倍近く増加しました。まさに大開発の時代でした。今日、日本各地で見られる広々と水田が広がる風景は、この時代に生まれたものです。開発にともない、田畑を深く耕せる備中ぐわ、脱穀のための千歯こきが用いられるようになり、農作業の能率が向上しました。そして、肥料として干鰯<ほしか>や油粕を購入して用いるようになり、土地の生産力も高まりました。
2025年01月23日
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抽象化作業や観念操作をすれば必然的に同じ人間すら機械や無機物だととらえる場合がありえるのです。恐ろしいことですね。動物や自然を、さらには自分や自集団以外の対象としてとらえられた人間すら機械や無機物と見る視点は倣慢で冷酷な人間中心主義(対象が人間の場合はワンワールド的選民エリート主義)をもたらします。奴隷貿易や阿片貿易、さらには生きている人間に対しての原爆投下など西洋の支配者が犯してきた数限りない悪逆非道は人間を物としか見ていないからとしか言いようがありません。(奴隷貿易はデカルト以前からありますが世界を生命の無い無機質な悪魔の住処と見なす基督教の世界観はデカルト主義と通じます。デカルト主義はエホバがコギトになっただけの基督教を引き継ぐ純西洋的思想だと言えます。)原爆投下、奴隷貿易、阿片貿易‥は正常な感覚なら良心に押し潰されるでしょう。対象をただの「モノ」と見なせばこそ良心の呵責もなく極悪非道なことができるのです。このようなメンタリティから「人口削減」などという狂った発想が生まれます。かくてデカルト主義的発想は最後は狂気に至るのです。
2025年01月22日
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日本の思想史に甚大な影響を与えた陽明学の影響は大きかった。王 陽明(おう ようめい、1472年10月31日-1529年1月9日)は、支那明代の儒学者で、彼の唱えた陽明学は「理は気の条理」といって気を重視し(山鹿素行の古学も同様)、事事無擬法界を説く華厳は、世界を理=原理と気=現象にわけて理を特に取り出して尊崇する朱子学に情感を失した非人間的なものより日本的国学的感性に近いと言えます。(とはいえ朱子学も理は気を離れてはないとするので西洋的な彼岸的形而上学とは根本的に異なります。東洋的思想であることには変わりはありません。だが朱子学はそれそのままでは我が国の国風に合わないのも確かで、我が国においては山崎闇斎や若林強斎による神道の理論化の上でその素材になることで初めて生命を得たと言えます。)つまり『朱子学って、頭で考えるだけで、行動力がないんじゃない?』と批判して登場したのが陽明学でした。知識を得ることを第一に考える朱子学と違い、陽明学は、知識だけでなくそれを実践する行動力も必要だと考えました。
2025年01月21日
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封建文化の形成にはあらゆる生活部面を集約する基本精神があり、その創造活動の成果が歴史の各時代を形成する要素となると考えるならば、その精神といい、成果といい、封建文化の特色が最大限に発揮された時代は江戸時代である。その原因として、幕藩体制の成立によって封建制度が成熟したことや、鎖国制度によって国風文化が純粋に発達したことなどをあげることができるが、文化そのものを中心として考えれば、政治的・社会経済的条件と互にからみ合いながら封建精神が伸張して、学芸・宗教・道徳などに当代独得の内容を創り出すとともに、また政治・社会経済などの諸制度を定めた、ということができる。
2025年01月20日
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禁教令の発令のきっかけになったのは寛永14(1637)年の島原の乱です。島原の乱はキリスト教を精神的バックにした農民一揆でした。キリシタン大名だった有馬晴信と小西行長(こにしゆきなが)の領地だった島原・天草地方には、農民の中にキリシタンが多かったのです。新領主の島原・松倉氏と天草・寺沢氏は、飢饉にもかかわらず、実際の石高の2倍にあたる重い年貢を課して農民を厳しく取り締まり、反発した農民は天草四郎といわれた益田時貞を頭領として一揆を起こしました。幕府は鎮圧に苦慮し、12万人の大軍を投じて寛永 15(1638)年にようやく鎮圧しました。
2025年01月17日
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禁令のおもな内容は次のようなものでした。その1「日本人が海外へ渡航すれば死罪」その2「すでに海外渡航している者が日本に帰ってきたら死罪」その3「バテレン(伴天連)の取り締まり。バテレンを匿った者も、妻子も死罪」という厳しいものでした。この禁令の発令には重大な事件がきっかけとなっています
2025年01月16日
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2代目・秀忠の時代になり幕藩体制が整備されるのに伴い、キリスト教の平等主義思想が体制否定につながることを恐れ、貿易は長崎、平戸の2港だけに制限しました。慶長17(1612) 年、天領と直轄の家臣に対して禁教令が出され、翌年には全国に及びました。元和2(1616)年、家康が死亡すると、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた幕藩体制についての禁令が何度か出され、寛永16(1639)年7月に出された禁令により幕藩体制が完成しました。これが3代将軍・家光の時代です。
2025年01月14日
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諸大名の領地支配組織もまた幕府の統制のもとに整備されました。その組織は元来大名の経歴・領地の大小などによって相違する所もありますが、幕府の指図と監督によって一定の方針を与えられ、また家臣の統率・領民の支配による領主権の確立のためにはおのずから同様な政策を行ったので、大てい寛永から寛文に及ぶ時代に地方政権の体制が成立しました。これが藩の成立です。
2025年01月10日
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こうして独裁体制ができ上り、幕藩体制を外国の圧力、国際関係の影響から守る防壁となりました。幕政は以上のような周到な治術と巧緻な制度によって、幕府の権力は安定しました。その特色は職制にも見ることができます。幕政執行の主なる役は、老中・若年寄・側用人・奏者番・寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付などであり、その他に多くの役職にわかれて、全体として大きな官僚組織が成立していました。これに対して御三家などの親藩は政務に直接参与せず、また老中なども譜代の中小大名のなかから任ぜられ、しかも月番交代制をとったので、鎌倉・室町幕府のように、権力が将軍の親族や強豪大名に独占されることもありません。老中の上に立つ大老も、大てい名誉職にとどまり、時に権勢をふるうものが出ても、永続きしませんでした。要するに、執権政治は成立せず、将軍独裁下の家宰政治が幕政の本質でした。
2025年01月09日
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家康は一六三六(寛永一三)年には、日本人の海外渡航と海外移住者の帰国を禁じ、一六三七(寛永一四)年、島原一揆の勃発を受けて、翌年禁教の徹底を期するため、在日ポルトガル人を追放し、一六三九(寛永一六)年にはポルトガル人の来航を全く禁止しました。これより先、イギリスはオランダとの競争に敗れてひきあげ、ルソンとわが国との関係も紛争によって断絶したので、牙日貿易はオランダ人の手に帰しました。幕府は一六四一(寛永一八)年には、残ったオランダ人をも長崎出島に移し、厳重な監視と制限のもとに貿易を行わせました。その頃復活していた支那の商人との貿易もまた長崎一港に限り、船数を制限して許すこととしました。この結果、幕府の貿易統制が強化され、一部の特権商人、糸割符仲間による生糸貿易の統制組絨についで全貿易品の統制へすすみ、のち元禄年間には長崎会所の一手取扱による準公営貿易の体制を成立しました。
2025年01月08日
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