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「斜視」の少年と、彼を「仲間」と認識する一人の少女。 中学校の同級生である二人は、他の生徒たちから、 毎日毎日、言葉にするのもおぞましいほどの、酷い苛めを受けながらも、 二人で手紙のやりとりを始め、別の場所で出会うほどに急接近していく。 そして、少女が苛めを受けている原因となっている「汚れ」は、 彼女が、生き別れとなった父親と暮らした日々を忘れないために、 彼女自身が意図的に作り出し、決して手放そうとしない「しるし」だった。 少女は、そのことによる苛めを、積極的に受け入れようとさえしている。一方、苛めによってひどい怪我を負った少年は、その治療のために、ある病院に出向くことになる。そして、その病院の医師から、自分が苛められる原因である「斜視」が、意外にも、簡単に手術で直ることを教えられる。ところが、その後、その病院で偶然に出会ったいじめグループの一人から、予想もしなかった、次のような言葉を聞くことになる。 「君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けている決定的な要因じゃないんだよ。」 「べつに君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。 たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあって、 たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから。」この場面で、二人が交わす哲学的ともいえる言葉のやり取りは、この物語における、核ともなるべき部分である。それは、現代のいじめを生み出す生徒同士の歪な関係を表現しているという以上に、「個」の時代を生きる人間の潜在意識を炙り出しているようで、薄ら寒さを覚える。物語終盤、少年と少女を襲った究極の苛めによって、少女が、その後どうなってしまったのかは明らかにされていない。だが、少女はあくまでも「しるし」を維持し続ける態度を貫き通そうとしたのではないか。そう、「新しいひと」を決して受け入れることなく、あくまでも「本当の父」に拘り続けた。そして彼女は、少年にも「仲間」として自分と同じ態度を求め続けたのだが……少年は「斜視」の手術を受けることを決断する。それは、本当の母について色々と語ってくれたうえで、それでもなお、手術を勧めてくれた「新しい母」の言葉に促されて。手術後、少年の目の前に広がる景色は劇的な変化を遂げる。それは少年自身の変化のようでもある。新しい自分の始まり。その景色をどう受け止めるのか、少年の決断をどう受け止めるのかは、それぞれの読者次第である。 ***今日、「2010年本屋大賞」ノミネート10作品のうちの一つに本著が選ばれた。そして、最近読んだ『ミーナの行進』や『対岸の彼女』も、かつて、この賞にノミネートされたいたことに気付いた。でも、去年、一昨年のノミネート作品は、まだ一冊も読んでいない。
2010.01.22
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本著を読んで、どうしてこれほど強く心を打たれるのかと言えば、 何と言っても、宮本さんの確固たる信念とその気迫故である。 お客さんに楽しんでもらうため、自分の主義・主張を決して曲げず、 頭を使い、身体を張って店や従業員を守り抜く、その姿勢故である。 想像を絶するような修羅場を幾度となく経験し、 時には、暴力によって自らが大きな怪我を負いながらも、 決して、経営方針を変更することなく、どんな相手に対しても一歩も引かない。 その姿には、「経営者たるものかくあるべし」という強いメッセージを感じる。そして、そこで働くスタッフたちにも、宮本さんの気というものが十分に伝わり、皆が一丸となって店を守っていこうとする姿には、感動を覚えずにはいられない。時には、馴染みのお客さんや警察官などもそのメンバーに加わる。このような一致団結した姿勢には、どんな相手もかなわないのである。 それにしても、水商売は難しい。いや、水商売だけでなく、不特定多数の顧客を相手にするのならば、本著に描かれているような場面が、いつどこでおこっても不思議はないのだろう。それをはね除けるには、リーダーの強い意志と覚悟が必要なのである。
2010.01.17
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「いじめ」の問題が社会で大きくクローズアップされていた2006年、 この本は単行本として刊行され、大きな反響を呼んだ。 それでも、この手の本が文庫化されるケースは決して多くはないはずだ。 本著がそうなりえたのは、本著が真に良著だからである。 第2章で数多くの事例を挙げ、 以後、現代の「いじめ」が、どのようなものであるかを明らかにしていく。 その実態は、現在の大人が少年・少女だった頃のものとは随分様変わりして、 より複雑で見えにくくなっており、当事者の苦しみも深く大きくなっている。第4章では「いじめ」を解決するルールも示されている。また、第1章で示された事例も、そのルールに則ったものであり、著者の示した道筋によって、両親と学校が力を合わせ、「いじめ」問題を解決したものである。 面接というのは初回が勝負である。 初回に最も大事なことが聞き出せなければ、2回目以降も聞き出せない。 というより、初回に大事なことを言えなければ、子どもは次の面接にこないかもしれない。 この人とは話す意味がない、と思ってしまうのだ。(p.020)この言葉は、とても重い。第三者という立場でありながら、本人にとっては何よりも重大な問題に、これから深く関わっていこうとするならば、これを一期一会のワンチャンスと心得て、絶対にものにする覚悟で臨まなければならない。 「いじめの解決に取り組むのと、責任を追及するのを同時に行うのは無理です。 責任追及を始めれば、ご両親と学校は敵対関係になります。 そうなれば、いじめの解決について建設的に話しあうことは できなくなると思いませんか?」(p.032)これは、いじめ解決への道筋に関する、著者の基本スタンスである。そして、この考え方は全く合理的である。まず優先すべきは、苦しんでいる子どもを救い出すこと。いじめの問題を解決し、再発を防止することである。責任追及は、その後でも決して遅くない。 いじめがまかり通る社会が作られると、加害者か被害者かどちらかでいなければならない。 積極的に、被害者になるという人間はいない。 だからみな、できる限り加害者であろうとする。(p.050)この言葉にピンと来ない方は、本著の実例を読まれることを、ぜひお奨めしたい。現代のいじめでは、第三者になることすら許されない状況が作り出されるのである。 結局、いじめの本質は被害者にしかわからない。 被害にあった子どもの言葉は、客観的事実とは異なっていても、 それこそがいじめの実態であり、彼にとっての事実なのである。 だから、彼らのいちばんの味方であるべき親は、その言葉をまるごと受け止め、 真実として扱わなくてはならない。(p.123)いじめられた子の親のスタンスとしては、この言葉は絶対的に正しい。だが、いじめた側とされた子の親はどうすればよいのか?自分の子どもの言葉を一切無視し、「客観的事実とは異なって」いるかもしれない相手の言い分を、100%受け容れることが、本当に可能なのだろうか? いじめられる側に原因など、ない。 現代のいじめは、誰でもが加害者になり、被害者になり得る。 いじめられる理由など、ないのである。 事例の中でも書いたように、いじめられる理由というのは、 いじめる側によって、次々に作られてゆくものなのである。(p.124)この著者による説明で、全ての人間が、特に、いじめたとされる子ども側の親が、本当に心から納得できるのだろうか。「客観的事実とは異なる内容」を受け容れることを、いじめたとされる側は、どんな場合であっても、強要されなければならないのか。もちろん、そういうことにしておかないと、問題はいつまで経っても解決しない。それでも、いじめた側の親は、自分の子供の言い分をバッサリと切り捨てて良いのか……「客観的真実」を無視しきってしまって本当に良いのか。いじめられた側の言い分を100%とすることは、本当に正しいことなのか?民主主義の世の中というのは、衝突する意見を持つ双方の意見を、いかに調整するかが、最も重要な課題なのではないのか?片方の意見を全面的に採り上げ、もう片方を全く無視してしまうのは、正しい態度なのか?おそらく、著者はそういう次元のことを言おうとしているのではない。著者が言っているのは、「いじめ」は絶対に認められない手段、方法、行為だということ。即ち、そのとき「いじめ」被害を受けた側に、何らかの非があった場合には、周囲の子ども達は、別の合理的手段・方法によって対処しなければならなかったのだ。つまり、絶対に用いてはいけない「いじめ」という手段を用いたという点に関して、そして、その結果引き起こされた様々な事柄について、「いじめ」という手段を用いた側には、100%非があり、責任があるということ。そうなると、「いじめ」をどのように定義するかが、益々重要になってくる。逆に、どういう方法が「いじめ」ではなく、合理的手段・方法であるかを、子どもたちにきちんと教えることが重要になってくる。 攻撃の激しさや執拗さは、加害者となってしまった子どもたちの傷ついた過去の体験の大きさだ。 そして被害者と同様に加害者もまた、圧倒的な孤独を抱えている。 周囲に彼らの怒りを受け止めてくれる人がいなければ、いつまで経っても怒りは収まらない。 大人が、それは八つ当たりだ、甘えていると言ってもダメなのだ。 被害者を守ることは当然だが、加害者の子どもの心を満たさなければ、 いじめはターゲットを替えて続くだろう。 子ども達の心の器を満たさなければ、いじめは終わらない。 足りないのはネットのマナーを教える教育でも、監視でも、威嚇でもなく、 子どもの心を満たす大人の存在、愛情なのだ。私は、そう思う。(p.168)子どもの心を満たすにはどうすればいいのか……、愛情を示すにはどうすればいいのか……これも、言葉で言うのは簡単だが、実行するのはそう簡単なことではない。そして、ここでいう「大人」とは誰なのか?もちろん、真っ先に思い浮かぶのは「親」で、そして次は「教師」か。じゃあ、その次は……現代を生きる子ども達にとって、実際に自分と関わりのある大人という存在は、想像以上に少ないのである。
2010.01.16
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確か、勝間さんのいずれかの著作の中で、本著のタイトルを目にし、 「読んでみたいなぁ」と思っていたら、間もなく文庫化された。 おかげで手軽に読むことが出来るようになり、とても有り難かった。 それほどインパクトがあり、興味深いタイトルである。 私は、自分自身をとても妬み深い性格だと思っている。 なので、本著で著者が述べていることは、どれもが自分を責めているようで、 読んでいる間、ずっと居心地の悪い思いをすることになってしまった。 そして、ここまで読むのに骨が折れた著作は、最近では珍しい。それは何故かというと、自分自身の痛いところを「これでもか」というほど、連続して、次々に述べられているからでもあるが、それ以上に、とにかく文章が「クドイ」というのが最大の理由である。同じことを、言葉・表現を変えながら、何度も何度も繰り返し述べ続けている。自身の嫉妬心に手を焼き、それを何とかしたいと願って本著を手にした読者は、ページを捲った途端、筆者から「ダメだ!ダメだ!!」と連呼・罵倒され続けることになる。そして、「じゃあ、どうすればいいの?」という、当然抱かずにはおれない疑問に対して、著者が耳を傾ける様子をほとんど見せてくれないことに対して、失望感を覚える。それ故、何ページもの紙幅を費やし、同じことを繰り返して延々と述べ続けている割りに、内容・中身は、ごくわずかだと感じられる。長々とした説教と同じである。ひょっとすると、本著は「あとがき」だけ読めば、ほとんど事足りるのではないか。「他人の性向は自分の価値とは何の関係もない」の部分まで合わせ読めば、ほぼ十分だろう。もちろん、積極的に苦行に耐えるつもりがあれば、全編通して読んでみるのもよい。そうすれば、耳の痛い、気の重たくなるような言葉の山の片隅に、自分にとって、キラッと光るものを見つけることが出来るかもしれない。私も、とりあえず次の言葉だけは、心に引っかかった。 人生の悲劇は脅迫的に栄光を求めるが故に、逆に挫折することも多い。 もちろん何度も繰り返すように、 栄光を獲得してもそれが心理的安定をあたえるものではない。(p.125) 諦めるということは、人生を積極的に生きるということである。 諦めるということは人生を明らかにするということである。 諦めるということは、自分にあたえられたものに気がつくということである。 諦めるということは自分の能力を活かすということである。(p.156)私の場合、後者の言葉を素直に受け入れる境地に至るまでには、まだまだ時間がかかりそうである。
2010.01.16
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1981年4月から83年3月まで「トレフル」に連載され、 1983年9月に刊行された単行本の文庫版。 『羊をめぐる冒険』が発表された前後に書かれた短編を集めたもので、 『回転木馬のデッド・ヒート 』より前に発表された作品群である。 本著は「あとがき」を含めて、251ページの書籍であるが、 その中に23もの短編が収められている。 しかも、所々に佐々木マキさんの絵まで掲載されている。 それ故、一つ一つのお話しは本当に短い。「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて 」は、アメリカで映像化された作品(30分)と聞いていたが、原作は、たったの8ページである。これだけでどんな映像作品に仕上げたのか、逆にとても興味深い。しかしながら、どの短編もたいへん短い文章の中に、村上作品独特の空気を随所に感じることが出来る。『回転木馬のデッド・ヒート 』の中で、村上さん自身が述べているところからすると、これらの作品は「スケッチ」から「小説」に向けて、一歩だけ踏み出したところの文章か。「マテリアルを大きな鍋にいっしょくたに放りこんで、原型が認められなくなるまでに溶解し、 しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する」ことで小説になるとすれば、これらは、溶解したものを適当にちぎったその欠片、つまり小説のようなもの。そして、この欠片を村上さんの手で繋いでいけば、また立派な小説が完成しそうである。そんな中、「図書館奇譚」だけは、少々長めである。村上さんのカウントの仕方では、6つの短編の集合体ということになっている。しかし実際には、連続したひと繋がりのお話し。そして、このお話しだけで『ふしぎな図書館』という一冊の作品して、刊行されている。
2010.01.16
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1985年10月に単行本として発行されたものの文庫版。 単行本は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と同じ年の発行。 手元にある文庫本では、「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート 」を除くと 8つの短編が収められている。 本著に収められた文章について、 村上さんは、正確な意味での小説でないと 冒頭の「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート 」で述べている。 これらは、事実をなるべく事実のままに書いた「スケッチ」であると。 僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル -そういうものがもしあればということだが- を大きな鍋にいっしょくたに放りこんで原型が認められなくなるまでに溶解し、 しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する。 小説というのは多かれ少なかれそういうものである。(p.9)読んでみると、確かに村上さんが書く「小説」とは趣が違う。小説に見られる村上ワールドとは、また違った空気がそこには漂っている。「小説」でもなく、かと言って「ノンフィクション」でもない、小説という「ヴィークル(いれもの)」に収められた「マテリアル(事実)」。それ故、どの作品も小説程には決してドラマチックなものとは言えない。淡々とストーリーが進行し、呆気なく結末を迎え、「オチがないなぁ……」と感じられる作品すらある。それでも、どの作品にも共通して、心のどこかに引っかかる部分が確かにある。色んな人たちから聞いた話の中で、心のどこかに引っかかった、そんな部分を、村上さんは文章として書き表し、読者に伝えたかったのだろう。 人は何かを消し去ることはできない- 消え去るのを待つしかない。(p.55)これは、「タクシーに乗った男」について、村上さんと同行カメラマンに話してくれた、40歳前後と思われる画廊の女性オーナーの言葉。彼女は、一枚の絵に描かれた「タクシーに乗った男」にsympathyを感じていたと言う。そして、彼女は色々な事情から、夫や子どもと別れることになった。その時、彼女は「タクシーに乗った男」の絵を、他の色んなものと一緒に焼き捨てた。絵の中の彼を焼き、彼女自身の一部を焼き捨てた。焼き捨てることで、絵の中の彼と自分自身とを、凡庸の檻の中から解放しようとした。ところが後に、彼女は絵に描かれていた男に、偶然アテネのタクシーの中で出会うのである。彼女は不思議な感覚に捕らわれながらも、ハンサムで若い男優と車中で同じ時を過ごす。そして、彼が先に下車するとき、ギリシャ語で彼女に言った言葉が「よいご旅行を」。この言葉が、彼女の中の何かを永遠に消滅させた。そのことについて、彼女はこう語る。 そのことばを思い出すたびに私はこんな風に思うんです。 私の人生は既に多くの部分を失ってしまったけれど、 それはひとつの部分を終えたということだけのことであって、 まだこれから先何かをそこから得ることができるはずだってね(p.54)その後続けて、「この話から得た教訓」として彼女が語ったのが、先の言葉である。まさに、村上さんの手にかかれば、立派な「小説」になってくれそうな「マテリアル」である。本著に収められたお話しの中で、これが私の一番のお気に入り。
2010.01.16
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小川さんらしい作品である。 『博士の愛した数式』と同じ空気が漂っている。 優しくて、柔らかくて、ホワ~ンとした感じ。 最後までその空気に浸りながら、安心して読める。 そんな中、ちょっとしたスリルが味わえるのが、 朋子が初めて、一人で電車バスに乗り継いでの小旅行。 芦屋から尼崎を経てフレッシー工場、さらに梅田経由で江坂へ。 最後はベンツのワイパーに校正済みの広報誌を挟み込んで終了。どこもかしこも、私にとって馴染みのある地名ばかりで、どのシーンでも、街の景色が浮かび上がってくる。阪神電車から地下鉄御堂筋線への乗り換えなんて、初めてだったら大変だ。いやが上にも親近感が湧いてきて、気付いたら心の中で大声で応援していた。それと、懐かしかったのが、時々実写が混入するアニメ『ミュンヘンへの道』。『博士…』では野球カードが重要アイテムだったけど、今回はバレーボール。それにしてもあの企画、当時としてはとっても斬新だったのでは?さらに、オリンピックで本当に金メダルを取ってしまうところがスゴイ!ところで「プラッシー(フレッシーではありません)」の工場は伊丹にありました。「ありました」と書いたのは、プラッシーをつくってた武田食品って、ハウス食品株式会社と合弁して、ハウスウェルネスフーズになってるからです。今では、その工場で「C1000 レモンウォーター」なんかをつくってます。
2010.01.11
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副題は「『海辺のカフカ』を精読する」。 タイトルだけ見て、余り深く考えずにネットで購入。 でも、読み始めると、何かイメージと違う…… 著者名を見ると小森陽一さん。 「あぁ、あの『天皇の玉音放送』を書いた人だ!」 添付されているラジオ放送のCDが欲しくて買った本。 もちろん、本体も読んはずだけど、随分前のことなので余り覚えてない。 でも、そういうことについて、ものを言ったり書いたりする人ということだな。 <精神のある人間として呼吸する女たち>が記憶していることなど、 忘れてもかまわないという許しと、 歴史認識が空虚であってもかまわないという許しをすべての読者に与えること、 それが『海辺のカフカ』が<癒し>を与える最大の理由なのです。(p.267)第五章さえ読めば、著者が何を述べようとしてこの本を書いたかが分かる。「戦争」「レイプ」「従軍慰安婦問題」「団塊の世代」等々が、そのキーワードである。しかし、中でも頻出するのは「女性嫌悪」という言葉。この言葉は、本著全体を通じていたるところで登場する。まぁ、それでも第一章の「オイディプス神話」や「オイディプス・コンプレックス」、第二章の『流刑地にて』の「処刑機会」や、『千夜一夜物語』のシェヘラザード、第三章の『坑夫』『虞美人草』といった漱石の作品との関連づけ等は、とても興味深かった。第四章の『レイテ戦記』にまでなると、少々戸惑ってしまったが……
2010.01.11
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竹中教授とは、言わずと知れた慶応大学の教授であり、 小泉改革を中心となって推進した、あの竹中平蔵氏である。 教育者である氏が、こういう類の書物を書くこと自体は少しもおかしくないが、 タイトルから受ける印象と、書かれている内容とに多少隔たりがあるかも。 まず「14歳からの」とあるが、これはまさしく「14歳からの」であって、 それ以上の年齢であれば、誰が読んでもOKな内容になっている。 逆にいうと、決して「14歳」にターゲットを絞り、 中学生向けに書かれた書物ではない。次に「経済学」とあるが、本著は「経済学」全体を大観するものではない。本著は、1ページに15行、1行が39文字という体裁を基本としており、難解な説明が施されている部分はほぼ皆無なので、あっと言う間に読み終えることが出来る。これだけの紙幅で、経済学に関するアウトラインなど説明しきれるわけがない。つまり、これは現在の日本経済について、いくつかのトピックを取り上げ解説したもの。もちろん、いきなりそれについて述べ始めると、理解しにくい部分も出てくるので、現在に至るまでの「日本経済120年の歩み」を、冒頭でちゃんと説明している。この部分は、あっさりとコンパクトなのだが、なかなか上手くまとめてある。本編では「経済を良くするためにはどうしたらいいか?」というテーマで、貿易の格差是正や内需拡大、教育や少子化、環境問題まで幅広く言及したり、「需要と供給」について、ちょっと硬めに理論のお勉強をするページもある。それでも、基本は中3で学ぶ「受給曲線」のお話しなので、誰でも何とか理解できるはず。さらに「経済の成長に必要なこと」や「グローバリゼーションとデジタル化」といった、今後の経済を考えるうえで、ポイントになることがらにも触れていくが、本著の肝は、何と言っても、それらに先立つ章で述べられている「郵政民営化」について。その他の章に比べると、その紙幅の費やし方が全くと言っていい程違う(もちろん多い)。「郵政民営化」を推し進めた当事者・中心人物が語る当時の裏話には、リアリティがあり、その部分だけでもたいへん興味深い。そして、現時点に至っても、何かと批判が多い「郵政民営化」だが、その目指していたところを、今なお必死になって説明しようとする姿勢はちょっとイタイか。それでも、「郵政民営化」とは何だったのかということが、本著を読めばかなり理解できる。推進側からの主張だけが説明され、反対側の主張については全体像が判然としないが、マスコミが発する情報だけを真に受け、それに悪いイメージをもってしまっている人には、再度、自分自身できちんと考え直してみるのに、いいきっかけにはなる一冊だろう。
2010.01.10
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文庫版が発行されたのが1986年の春、 「ちくまセミナー」の一冊として発行されたのが1983年早春。 既に四半世紀も前の著作であるにもかかわらず、 昨年とても話題になり、そして売れた書物である。 パソコンでワープロソフトを使って文章を書いたり、 メールやインターネットにアクセスするようになったのは、 本著が書かれてから、ずいぶん後の話である。 もちろん、ケータイなんて想像も出来ない代物だった。ところが、本著に書かれていることは、それほど古さを感じることがない。「考える」ということについては、本質に変わりはないということか。また、それをまとめるという作業についても、ツールは変われど、そこに求められるものは同じということか。 それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。 何が何でも教えてしまおうとする。(中略) 学校が熱心になればなるほど、 また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受け身にする。(中略) 詰め込みがいけないのではない。意欲をそぐ詰め込みが悪いのである。(中略) いまのことばの教育は、はじめから、意味をおしつける。 疑問をいだく、つまり、好奇心をはたらかせる前に、教えてしまう。(中略) それが幸福かどうかははなはだ疑わしい。親切がすぎて、アダになっている。(p.19)今も、本当に変わっていない。変えようとはしているが、変わっていない。なぜか。それは数値としての結果を、すぐに求められてしまうから。社会全体が待たないのだから、教育現場も待つわけにはいかない。本来、即効性を求めるべきでない部分で、即効性を求められる。だから、変わらない、変われない。今の日本は、考える力を育めない社会、考えることが出来ない社会である。 ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。 これがうまく行かないと、あとがない。こだわりができる。 妙に力む。頭の働きものびのびしない。 ところが、もし、これがいけなくとも、代わりがあるさ、と思っていると、気が楽だ。 テーマ同士を競争させる。いちばん伸びそうなものにする。 さて、どれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から近づいてくる。 「ひとつだけでは、多すぎる」のである。(p.43)一つのものにだけしがみついていてはダメだということである。余裕を持って、広く周囲を眺めてみなさいということである。そうすると、色々と見えてくる。何かがおこったときにも、対応できる自分であり続けられる。論文のテーマに限ったことではない。まさに、人生訓である。
2010.01.03
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看板に偽りなしの良著である。 社会保障国民会議に参加した筆者が、 「未納付増加で破綻する」とされていた年金制度について、 それが知識がないため出てくる間違いだと指摘した場面を見事に再現。 実際に国民会議でもなされたであろう説明を、 筆者が順を追って、イラストを交えながら、平易に説明してくれており、 誰もが納得する結論へと導いてくれる。 会議においても、この説明に誰もが目から鱗が落ちたのではなかろうか。国の年金に加入し、きちんと保険料を納めていも、それが将来破綻していれば、老後に何も受け取れず馬鹿を見る。たとえ破綻せずとも、年金は「積み立て方式」ではなく「仕送り方式」になっているので、少子高齢化がこのまま進むと、若ければ若いほど多額の保険料を納めねばならず損をする。これが、年金問題について心配されている世間の常識の内容だった。しかし、未納者の増加によって年金が破綻するというこの説は、その条件設定のスタート部分が間違っていた。つまり、実際の未納者の割合は、マスコミが騒ぎ立てたような状態にはなかったのである。「未納者が40%もいる」というのは、実は全体の40%ではなく、第1号被保険者(自営業者や学生ら)の40%であり、第2号や第3号の被保険者も含めた全体でいうと5%に過ぎなかったということ。それ故、著者による納付率と給付額のシミュレーションでは、その影響はごく僅かなもの。次に、国民年金で受け取る額は、若者の場合でも実際に納める額の1.7倍にもなる事実。それは、高齢者に給付される年金のうち、半分は税金で賄われる仕組みになったから。つまり、国民年金の個人負担は、半分の額で済むようになっているのに、保険料未納ということで将来年金を受け取れないと、税金だけ納め損になってしまう。もちろん、年金問題はこれだけの説明で、全てが事足りるわけではなく、生活保護の問題や年金積立金の運用、医療・介護を含めた社会保障全体の維持、そして、それらの財源としての消費税率の引き上げ等々、考えねばならないことは多い。その維持のため、「マクロ経済スライド」という仕組みも導入されたのである。さて、年金問題に先立って、大きくとりあげられている「サブプライムローン」問題も、たいへん平易で分かりやすい。まさしく、日本のバブル期とうり二つの状況であったことが分かる。しかし、その後の対応がよりスムーズに進んだのは、学習の成果というものか。本著の中で、私が最も印象に残ったものの一つにp.195のイラストがある。 2004年のときは「100年安心プラン」とか言ってたのに、もう修正が出てくるなんて、 国の年金制度はまったく信頼できないし、国はウソばっかり言っている!と「パンダニュース」で宣うキャスターを、テレビで眺めながらの一言 まぁ、批判することを仕事にしている人もいるんだから、 ここは“大人”として聞いてあげることが大事なんだねこういう目で、冷静に情報を受け取り、自ら考え、判断せねば。そして、もう一つ印象に残ったのは、p.200の次の一文。 だれでも勘違いはするものなので、 資質が問われるのは、「勘違いに気が付いた後」の対応なのです。
2010.01.03
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本著は『ドラッカー 二十世紀を生きて』として 2005年に出版されたものを、文庫化したものである。 そして、『ドラッカー 二十世紀を生きて』は、 日経新聞に27回連載された「私の履歴書」を、そのベースとしている。 それ故、一つ一つの内容が、コンパクトで読みやすい。 さらに、「私の履歴書」を補足する形で加えられた インタビューでのこぼれ話や背景説明を中心とする解説も大変興味深いもので、 「履歴書」に厚みを持たせ、書籍としての体裁を整えることに成功している。まず、読者はドラッカー氏が育った家庭環境に驚かされることになる。両親や祖母が関係を持っていた人々として紹介される名前は、シュンペーターにクララ・シューマン、ブラームス、フロイト等々、実に壮観である。まぁ、父親自体が、オーストリア・ハンガリー二重帝国の外国貿易省長官であり、側近を通じて皇帝に直訴できる程、政府内で影響力を持つ人物だったのだから当然か。しかし、ドラッカー氏自身も22歳の時点で既に、フランクフルトの新聞社で副編集長を務め、自ら取材に出かけては、ヒトラーやゲッベルスに直接インタビューしている。一方、大学では博士号取得の勉強をしつつ助手を務め、しばらくすると、大学から講師昇格まで打診されている。ところが、この話を受諾すると、自動的にドイツの市民権が与えられてしまい、ヒトラーの臣下になることになってしまう。そのため、氏はこの話を断ると共に、全てを投げ捨て、ロンドンへと脱出する。そして、そこで後に妻となるドリスと再会することになる。さらに、その就職難の時代に、氏は次々と運命的に就職口と巡り会い続けるのである。フリーランスの書き手として、新聞や雑誌の仕事をし、処女作『経済人の終わり』が、チャーチルによって認められ、さらに刊行から半年後、氏がその中で予言したとおり、ドイツとソ連が手を握り大戦へ。その後、GMとの関わりの中でマネジメントの体系化に成功し、一方、日本画を通じて、日本の経営者たちとも交流が始まる。ドラッカー氏の人生には、まさに「二十世紀そのもの」を強く感じさせられた。
2010.01.03
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