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現在の学校における、子どもたちどうしの距離感や、 「自分」というものの捉え方の世代間格差、 そして、ケータイの問題までも織り交ぜながら、 「友だち」というものについて論じた一冊。 特に、第2章で示された、高野悦子と南条あやとの生き様を比較し、 「自律したいという欲求の強さ」から 「承認されたいと言う欲求の強さ」への変遷を探るという作業は、 私にとって新鮮で、たいへん興味深いものであった。 *** 彼らがそこで表明したいのは、心を大きく動かされた根拠の具体的な中身ではなく、 その身体感覚の高まりであり、その強度なのである。 近年のこのようなメンタリティの変化は、社会学者のR・ベラーの言葉を借りて、 「善いこと」から「いい感じ」への評価基準の変転といってもよい。(p.117)高野悦子の『二十歳の原点』と、南条あやの『卒業式まで死にません』との比較を、予め、前段で行っているので、この辺りのメンタリティの変化についても、たいへん理解しやすい。 社会学者の若林幹夫の言葉を借りれば、ケータイ・メールは 「用件」を伝達するためのメディアではなく、 「ふれあい」を目的としたメディアとして機能している。 メールで交わされるメッセージの内容自体はさほど重要ではなく、 メールによってメッセージを交換しあう行為それ自体のほうに重要な意味がある。 そこには「じゃれあい」や「愛撫」といった効果が期待されているのである。(p.143)この後に、即レスについての記述が続くのだが、ケータイについて、これほど的を得た、明快な記述がなされていることに、大いに感動した。しかし、このことは、大人たちが、そうであることに、あまり気付いていないだけで、子どもたちにとっては、言われるまでもないことなのかも知れない。 また、それとは裏腹な現象のようにも見えるが、合コンのような昨今の若者の集まりでは、 参加者全員が出会ってすぐにケータイのアドレスや番号を教えあうことが多い。 かつては、気に入った相手だけに番号を教えたものだが、 いまは、それを断る気まずさに耐えられないという。 『優しい関係』の下では、ネガティブなリアクションをできるだけ避けようとするから、 教えることに対するハードルも低くなる。(p.153)この部分は、私にとって、ちょっとした驚きで、「本当に誰にでも教えるのか?」と、訝しく感じた。電話がかかってきても出なければいいし、メールが来ても返信しなければいいとはいうものの、ネット社会に生きる者としては、あまりにも無防備ではないかと思えるのだが……。 近年では、第一章で考察したいじめの一形態として、 ケータイ・メールを使ったいやがらせも増えている。 大人たちが想像する以上にその被害が深刻なのは、 メールの受け手にこのような心理的メカニズムが働くからである。(p.160)ここで言う心理的メカニズムとは、 ケータイ端末を経由してやって来る情報には心理的な距離感がなく、 社会的な自己という殻を突き破って、 じかに自分の内面へと入り込んでくる刺激のように感じられる。 そのため、肯定されるべき自分と抵触しかねない異質な人間による言葉は、 きわめて大きな不安の対象となるのである。(p.160)というものである。これは、子どもでも大人でも、同じような感覚に陥ると予想され、ネット・コミュニケーションを行う際には、誰もが、十分心得ておくとともに、それを受け流す術を身に付けておかねばならないだろう。 中村の表現を再び借りるなら、 ケータイが提供するのは「二四時間営業のコンビニのような人間関係」である。 ケータイは、つながる相手の都合をさほど気にすることなく、 自分の置かれた状況にもあまり左右されることなく使うことができ、 しかも身体性の強いメディアであるために、 たえず揺れ動く不安定な自己のサポートにふさわしいメディアとなっている。 つながりたい、承認されたいという欲求を、 とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている。 したがって、そこに見受けられる断片的で簡便なつながりとは、 その言葉から一般的にイメージされるような、ドライな人間関係ではない。 むしろ、依存性の強い人間関係でもある。(p.172)素晴らしい!!ケータイという存在の持つ、本当の意味合いを、ここまでズバッと明快に示してくれることは、そんな、滅多矢鱈にあるものではない。この部分だけでも、本著を読む価値が十二分にある。
2009.01.31
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先日読んだ『椿姫以前』は、サラッとしたタッチで、 何だか、正直ピンと来なかったのですが、 こちらの方はと言うと、上辺だけ、通り一遍の綺麗事でなく、 その弾けんばかりのリアリティ故に、ガンガン私に迫ってきました。 「性同一性障害」というものを理解しようとするなら、 ぜひとも、こちらをお読みください。 もちろん、彼女としては、自分自身を「障害者」と意識しているわけではなく、 普通に、一人の女性だと認識しているわけですが。自分の「性」というものに対して、自分自身が持っている意識と、周囲が持っている意識とが違うとき、双方の間に、大きな壁が立ちはだかることになります。そして、この壁を取り除くことが容易ではないことが、本著からは、痛いほど伝わってきます。彼女の場合、自身と母親との意識のズレが、特に大きな悲劇を生み出しました。しかし、これは、母親だけに大きな責任があるとは、とても思えません。現時点で、彼女の存在を、何の違和感もなく、スッと受け入れることは、まだまだ、誰にとっても容易いことではないはずだからです。現実に、目の前にいる我が子が、そのような状況で苦しんでいるとしたら、親として、何とか理解し、本人の現状を受け入れてやりたいという気持ちと、どうしても、そのことを現実として受け入れることができず、これまでの世間一般の認識に、何とか本人を歩み寄らせたい気持ちとで、揺れ動くでしょう。その葛藤の激しさは、本著の記述からでも、痛切に感じることができます。「世間一般の認識」、これが変わっていくことが、誰もが、素直に、このような状況を受け入れられる土台となっていくはずです。そして、これまでにも、様々な「世間一般の認識」が、変わってきたのです。昔なら「とんでもない!」と言われ、「滅相もない!」と思われていたようなことが、今では「それもありかな」と言われ、「いいんじゃない」と思われていることは、実は多い。「身体的な性」と「精神的な性」との問題についても、「それもいいんじゃない。全然OKよ!」と言われるときが、やがて来るでしょう。いや、そんなこと、わざわざ言葉に出して言わなくても、当たり前に受け入れられる時は、実は、もうすぐそこまで来ているのかもしれません。
2009.01.31
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『ケータイを持ったサル』の正高さんの著作。 第1章のタイトル『動物の世界に「いじめ」はない』が、まず衝撃的。 今、目の前にある水槽の中では、熱帯魚が泳いでるんだけど、 いつも、同じヤツが、他の連中を追っかけ回し、エサを独り占めしてるけど……。 こういうのは、「いじめ」じゃないらしい。 縄張りやメスをめぐる同種間の争いは、「いじめ」じゃないらしい。 より強い個体が弱い個体を排除し、集団の規律を保つのは動物の本能。 こうした本能、「攻撃性」は、あらゆる動物に見られる。じゃあ、「いじめ」って何なんだ? ヒト以外の動物に見られる攻撃性は本能であるが、 「いじめ」は本能的なものではない。(p.48) ところが相手を攻撃することが、自分の思いどおりにさせるためではなくなって、 第三者に自分はこんなに強いんだとか、 自分が攻撃したのはこういう理由があるから当然なのだと 正当性をアピールする状況になったときから、次のステージに入る。 これが、第二段階となるヒト固有の「いじめ」である。 その状況を周囲に見せつけるために敢えていじめの関係を固定化して、 特定の人物を攻撃し続ける。(p.52)なるほど!こうやって改めて定義し直してもらえると、スッと腑に落ちます。次は、ケータイ、メールに関する「いじめ」についてのコメント。 倫理に反するこうした匿名行為も、日本のいじめの特徴である。 日本の社会は、顔の見えるところでは周囲の目をひたすら気にするのに、 ひとたび顔を見せずに匿名でいいとなると、 とんでもない攻撃を仕掛けられる罠があることを肝に銘じておくべきだろう。(p.127)全く同感。次は、父親が子どもの将来に何を期待しているかという質問に対し、「友人を大切にする人」「自分の家族を大切にする人」「他人に迷惑をかけない人」の項目が、50~60%台と抜きんでていたことに対するコメント。 社会的成功より対人関係を円滑にするための人間性を重視するのは、まさに日本的と言える。 しかも、「友人を大切にする人」がトップを占めたのは、核家族の影響だろう。(p.151)ここで、先を読み進めることに急ブレーキがかかり、少し考え込んでしまいました。戦後、核家族化が急速に進んだことで、祖父や祖母と一緒に暮らすことが少なくなり、他の親族や血縁者とは、物理的にも精神的にも距離ができてしまったため、それよりも、実際に付き合ってく「友人」を大切にしようという意識が、高まってきたのだいうことを、言わんとしているのでしょうか? 同じアジアでも、日本にくらべていまだに伝統を重んじて血縁を大切にする中国では、 友人よりも家族が大切な位置を占めている。 日本の戦前のような状況かもしれない。 世間付き合いというと、若い世代の親たちは「古臭い」、 自分たちはもっとスマートな付き合いをしていると思っているかもしれない。 が、『他人を許せないサル』で指摘したように、 ケータイで密かに連絡を取り合わなければ落ちつかない彼らの日常生活も 世間の域を少しも出ていない。その後の文章は、こんな感じで続いていますから、この解釈で、正しいのですよね?さて、最後は「あとがき」にある、マスコミの時事報道についてのコメント。 これらの報道に共通しているのは、「スクープ」だといいながら 相手を「攻撃」しているとしか解釈できない様相である。 そして、テレビを前にした視聴者、雑誌を手にした読者を傍観者として巻き込み、 「いじめ」の構造が作られていく。(p.167)本著の中で、最も共感した部分。まさに、こうして、マスコミにより「いじめ」の構造が、日々生産され、視聴者・読者は、その行動パターンを、しっかりと身に付けていき、各々の生活空間で、それを真似、実践しているのです。
2009.01.31
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『東大で教えた社会人学』が、とても面白かったので、 その第二弾となる本著も購入、読んでみました。 期待に違わぬ充実した内容で、大学生の間にこれだけ知っていれば、 社会人デビューした時、ホント心強い。 そして、草間さんの記述のあとに添えられる、畑村さんのコメントが実にイイ! 普通、共著といえば、それぞれにパートを分担して、 それぞれに書きたいことを書きっぱなし、ということが多いけれど、 こういうのが、真の「共著」だということを、改めて思い知らされました。本著に記述されている内容は、もちろん、大学生に向けて、大学の講義の中で発信された内容であり、社会人を何年も経験してきた者にとって、そこに、新しい発見が、そんなにたくさんあるわけではないです。けれど、こうやって、それらの知識をひとまとめにして眺めてみると、それら一つ一つの繋がりや、それらの全体像を俯瞰することができ、なかなかに興味深く、そういう点においては、新しい発見が多々あります。例えば、次の部分は、私にとって強烈なインパクトを与えてくれました。 ちょっと待て!世の中に買って得するものは一つもない。 買った瞬間に物の価値は六掛けになると思っていい。 得するのはいつも売り手なのである(p.121)住宅にしても自家用車にしても、次に欲しい物が出てきたときには、現有物を売り払い、それを資金の一部として運用しようと考えがちだけれど、そう甘くはないのです。例えば、古本屋さんに読み終えた本を持ちこんでも、買い取り価格は、どんな素晴らしい内容の名著でも、信じられないほどに安値……。まぁ、本に関しては、読み終えたものを売りに出そうなんていう考えそのものが、卑しいといえば、卑しいのかもしれません。私も、できれば、読み終えた本は、すべて手元に置いておき、ズラーッと並べて、それらを眺めていたいのですが、何せ置き場がないので……。だから、その辺に捨ててしまうよりは、また、誰かに読んでもらえる方が、本にとっても幸せだと思い、古本屋さんに持ちこんでいます。学校の図書館等に寄付する等の方法も考えられますが、物によっては、結構ありがた迷惑だったりしそうなので……。話が、全く横道に逸れてしまいましたが、とにかく本著は、優れもので、ぜひとも多くの学生さんたちに読んでもらいたいです。なぜなら、学生さんたちにとって、お金といえば、ほぼ「使う物」であって、「稼ぐ」といっても、バイトで得る収入程度のことでしょう?そんなお金との関係が、社会人になった途端、大きく変わってしまうのです。その時に備えて、「お金と人生」について考えたり、お金の「使い方」「借り方」「貯め方、もらい方」「増やし方」等を知っておくことは、本当に価値あることだと思いますから。
2009.01.31
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これも、先日古本市場に行った際に目にとまり、 思わず衝動買いしてしまった一冊。 2004年10月に発行されたものなのに、何と105円! こんな値段で、斉藤さんの本を読ませてもらうのは、ちょっと申し訳ない気分。 それにしても、本当に最近、同じような本ばかり読んでいる。 『どんな仕事も楽しくなるすごい!法』の記事に書いたことも、その一因だけど、 それ以前から、「うつ」とか「精神科医」に興味を持っていたからなのは確か。 私の親戚に精神科医がおり、その人に興味を持っているからかもしれません。さて、本著の中で、私が特に印象深かったのは二箇所。まず最初は、『仕事は「イヤにならない程度にがんばる」のがベストである』の部分。 「完璧であること」「こだわりを持つこと」を仕事のモットーとしている人は、 知らず知らずのうちに自分を追い込んでゆく。 このような要因で生まれたストレスの弊害は、「いつまでも仕事に自信を持てない自分」を、 自分で作りあげているところにあるように思う。 その「幻影」に、自分が取りつかれて、そこから一歩も踏み出せないでいるようだ。 このような人に贈る「仕事のやり方の三か条」は、次のとおり。 ■仕事は完璧にやってはならない(知らず知らずのうちに視野が狭くなるから) ■仕事に入れ込んではならない(そのうちに働くのがすっかりイヤになるから) ■仕事はミスがあってこそ楽しい(トラブルは怖くないと思えるから)(p.38)普段はしないような、できないような角度から「仕事」というものを捉えています。その後に続く記述にあるのだけれど、「働くだけが人生ではありませんよ!仕事に心を取られなさんな!」の斉藤さんの言葉は、蟻地獄にはまり込んだような気分の人にとって、天から降りてきた蜘蛛の糸にも思えます。印象深かったところの二つ目は、『「心配したことは実現しない」、その確かな理由』の部分。 「心配性の人」は、まずネガティブな想像力をやめるところから始めてみよう。 ■心配したことは実現しない(実際、自分が乗った飛行機は落ちたことがない) ■「心配は一日一回」と決める(それでも一年で三百回以上だ) ■根拠のない想像力は、「ウソ」である(「狼が来るぞ」の少年は、どうなったか)(p.43)ここまで来て気付いたのは、私が本著の中で印象に残った二箇所については、先日読んだ『D’な人々』の中に登場した、「転職を繰り返すD’」と「取り越し苦労D’」の人たちに、そっくりそのまま当てはまるということ。備瀬さんが、D’さんたちに言葉を投げかけ、様々な作業を通じて、自ら自分の「心のくせ」に気付かせることで、D’さんたちの心を軽くしていこうとしていたプロセス・処方箋を、本著では、斉藤さんが、ズバっと明快に示してくれているということ。 ***ところで、上の画像は、新講社から2007年08月に新書として発行されたものの方です。楽天ブックスの「BOOK」データベースによると、新書では、5章が、「うつ」になったら仕事のことは忘れよう、6章が、なぜ「非まじめな人」ほど、仕事ができるのか、になっています。一方、私が読んだものの方は、5章までの構成は全く同じですが、6章に、心のバランスが「いい日」をつくる、7章が、なぜ「非まじめな人」ほど、仕事ができるのか、になっています。新書に改訂した際、変更されたのかもしれません。
2009.01.31
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以前読んだ『「私はうつ」と言いたがる人たち 』の中に登場していた本著。 ちょっと気になってたので、読んでみました。 本著は、横書きの装丁で、とっても読みやすい! 「心が晴れるチェックノート」が付いているのもユニーク。 「D’」は、精神科医の備瀬さんが、本著の中で初めて定義し、 本著の中で初めて使う言葉。 「D」は「うつ病」の頭文字、「’」は「~に近い」という意味。 だから「D’」は、簡単に言うと「うつ病に似ている状態」のこと。本著で登場する5人の「D’」さんと備瀬さんのやりとりが、何と言っても本著の目玉であり、とても興味深いもの。精神科の診察室で行われているカウンセリングを、間近で見ているようで、色々と参考になります。もちろん、5人の「D’」さんたちは、5人5様で、それぞれに違いがあるのですが、どの人も、本当の「うつ病」の患者さんではないことは、素人の私にでも、本著を読んでいて分かります。逆に言うと、本当の「うつ病」の患者さんの深刻さも、推し量ることができます。そして、5人の「D’」さんに共通するのは、それぞれ考え方にくせを持っており、そのくせを直すことで、症状が改善されていくということです。そんな「D’」さんたちに、上手く言葉を投げかけ、関係を作りながら、色んな作業を通じて、自分の内面と向かい合わせていく、備瀬さんのサポートぶりには、さすがプロと感心させられました。ところで、私は、まだ「心が晴れるチェックノート」は、記録していません。もっと深刻な状況に陥ったとき、このページを開き、活用しようと思います。今はまだ、「あなたは今、幸せですか?」と聞かれたら、「そうですね。私は幸せです。」と答えることができるから。
2009.01.30
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先日、久しぶりに古本市場に行ったときに見つけてしまい、 思わず買ってしまった一冊。 最近、何か同じような本ばかりに目がいってしまう。 書いてあることは、どれも大差ないと分かっているのに……。 まぁ、そう言いながらも、読んでみると、 どの本にも、得るべきところはあるもの。 本著も、分かりきったようなことがたくさん書いてあるけれど、 新たな発見、気付きも与えてくれました。 *** 良かったことが思いつかないと考える人は、宝くじが当たったとか、 大口受注がとれたとか、海外旅行をしたといったような ビッグイベント以外は、すべて大したことではないと思っています。(P.56)そうですね。人は欲張りだから、結構難しいことでも、一度出来てしまうと、そんなこと出来て当たり前、とかになってしまうんですよね。「当たり前のことができて良かった」と考えられる余裕を持ちたいです。 結局のところ、悩まないようになるというのは、 問題を解決することではなく、「問題と距離を置く」ことだと言えるかもしれません。(P.61)この「距離を置く」ということが、その場に至ると、どれほど難しいことか!! 「なんというか、“悩みの優先順位”みたいなものがあって、 こんなことに悩んでいる場合じゃない、もっと気がかりなことがあると、 小さな悩みはどんどん後回しにされ、あげく自然に忘れてしまうようです。 かつて小さなことにあんなにクヨクヨしていたのは、 もしかしたらヒマだったからかも、って思いますね」これは、かなり核心を突いた言葉だと思いました。 イヤな気持ちは自分が作り出している。 自分をイヤな気持ちにさせているのは、出来事ではなく自分自身である-。(P.88)すべて、自分の気持ちの持ちよう……ということでしょう。そうなんだと……、思います……けど……、ね……(うわぁ~、超ネガティブ……)。 イヤなことを終わらせるためにはどうすればいいか。 突き詰めると「願望への執着を手放す」ということに尽きます。(P.166)これまた、すごい直球できましたね。でも、これが一番難しい要求ですよ、笹気さん。ま、ご自身でも、そう述べられていますけど。それに比べれば、最後の一言は、かなり受け入れやすいです。 「すべてはうまくいくようになっている」
2009.01.30
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ちょっと前に、かなりヘコむような出来事があって、 その日は、生まれて初めて、 眠れない夜というものを経験しました。 しかし、なかなかにキツイかったです……。 そのせいか、仕事へのモチベーションも低下気味?。 そこで、この本を読んでみることにしたわけですが、 予想以上、期待以上に なかなかに、元気が出る内容でした! *** 恐れという感情は、そこに大切なものがあるという目印です。 ゲームでも、大事な宝物がある場所には、怖くて強いモンスターがいるように。 だから、宝が見つからないときは、モンスターを探せばいいのです。 その近くに、必ず宝があるのです。(p.34)何と分かりやすい例え!ゲーム好きには、まさに実感!! たとえば、営業のダイレクトメールは6通送るまで、反応がないことがほとんどです。 それを、1通送って反応がなかっただけで、 広告費の無駄だといってやめてしまう企業が、何と多いことでしょう。(p.79)なるほど!宝があと一歩、目前のところまで迫っていても、気が付いていないことは、結構多いもの。そして、あと一歩を踏み出すのを止めてしまえば、それまでの苦労は、水の泡と化す……? ★チャレンジしたいけど、期待にこたえられるか心配だ 【壁を破るヒント】 1.不安は経験不足から来ている 2.たった一度の後退で、すべてが水の泡になるわけじゃない。 3.ノーの嵐が、企画を育てる。 4.恐れの感情を完璧になくすことなんて、どんなベテランにだって無理。 どんなにすごい人だって怖いのは同じなんだ。(p.85)期待されてて、それに応えられなかった時って、ホントにキツイ……。まぁ、今回大いにヘコんだのは、その辺のところが大きかったわけで……。でも、まぁ、一度後退しただけで、全てが水の泡になることはないようです。 ★もし失敗したら、負け犬だと笑われるのではないか 【壁を破るヒント】 1.あなたを笑う「誰か」は、本当に存在するのか。 2.フィードバックをもらう人を選べ。 3.否定した方が賢く見えるから、みんな「甘くないよ」と、したり顔でのたまう。 4.勇気を出して行動したあなたは、今のあなたとは違っている。 5.勇気のある失敗をした人を笑う人は、何の勝負もしていない。 6.「他人にどう思われるか」よりも、 「尊敬する○○さんは認めてくれるだろうか」と考える。 7.大ベストセラーになった『ハリー・ポッター』の原稿さえ、 その昔スウェーデンの最大手出版社、ボニエル社に持ちこんだ際、 ボツになった。(p.87)ヘコんでるときは、この辺のことが、最も気になるのです。7の『ハリー・ポッター』の話が、一番勇気づけられたかな。 そのときは不幸だと思っていたことが、あとで考えてみると、 より大きな幸福のために必要だったということがよくあるの。 - フジコ・ヘミング(ピアニスト)(p.89)私自身も、こんな経験は、これまで、何度となくしてきました。だから、今回のことも、気持ちをすぐに立て直せると思ってたんですが……。眠れなかったんですよね……。 「自分だけ我慢すればいい」は、まわりの人を窮屈にさせているのです。 誰も不機嫌な人がいるチームで働きたいと思いません。 不機嫌なのが顔にでるくらいなら、自己犠牲やボランティアはしないこと。 そのほうが、チームみんなが気持ちよく働けます。(p.126)この辺から、ちょっと場面転換して、落ち込んでいるところからの脱出ではなく、普段の行動についての蘊蓄。参考になります!さて、次は面接試験での極意。 条件的理由で回答すると、すべてつっこみどころができてしまうのです。 ですから、面接では、感情的理由で答えた方が得策です。(中略) 感情的な好き嫌いの話にもっていけば、つっこみようがありません。(p.157)これは、機会があれば使いたいテクニックですね。 何がほしいかではなく、どうなりたいかをかなえてあげるのがサービスです。(p.181)これは、目から鱗が落ちる思い。スルドイ!! 求められたい病がやっかいなのは、この二点。 1.いつも認められるとは限らない。 2.これで十分という基準がない。(p.225)確かに、どこまで行っても、これで十分とはいかないところが問題だ……。 あなたのまわりを見まわしてみてください。 競争に勝とうが負けようが、幸せな人は幸せなんです。 競争に勝とうが負けようが、認められる人は、認められています。 競争なんかに目もくれず、幸せを目指したほうが、 どんなにラクで効率がいいかと思います。(p.234)まぁ、今のボコボコの状況でも、客観的に見れば、私は、自分のことを結構「幸せ」だと思えるから、とことんヘコミきって、再起不能の状態ではないということでしょうか。 いいアドバイザーは、必殺スタイルを持たないのです。(p.242)これは、いつもお決まりパターンで攻めるんじゃなくて、相手に応じて、変幻自在に攻めることが出来る方が素晴らしいのだということ。今の自分の状況を見つめ、これからの自分を考えていくのに、偶然にも、まさにピッタリの内容でした。一冊読み切って、結構、勇気づけられ、元気が出てきた、かな?
2009.01.30
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『性同一性障害って何?』を読んで、ある程度の知識を得た私は、 次に、その障害を持つ人の手による書物を読むことにした。 一般的には、ここでは『わたし、男子校出身です。』を読むべきだろうが、 今回は、あえて、今年になって発行されたばかりの本著を購入し、読んでみた。 本著は、椿姫さんが、2005年3月から2007年8月までの間に、 自身のブログに書き込んだ文章をまとめ、掲載したもの。 それは、彼女が女性として生きるため、家を飛び出したところから始まり、 身体も戸籍も女性として実家に戻り、大学に復学した頃までが描かれている。ブログに書かれている文章は、どれも短めで、割とあっさりしたもの。本当は、相当深刻な状況であるはずなのに、意図的に、軽めのタッチで、自身の日々の出来事や思いを綴っている。そこに、自身の内面と厳しく向き合い、葛藤している様子を読み取ることは、そう簡単ではない。単刀直入に言うと、これは、他の二十代前半の人たちが書くブログと大差はない。日々、色んなことが身の回りで起こり、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、悲しんだり。そんな中で、自分自身の生き方について考え、悩んだり、希望を見いだしている記録。もし、これが椿姫彩菜の手によるブログでなければ、決して売り物にはならなかったであろう。逆に言うと、彼女も、他の若者と同じ、単なる一人の女性にすぎないと言うこと。ただ、彼女にとって、最大の悩みが「性同一性障害」というものであり、それが、世間的に、まだまだ受け入れてもらえる部分が少ないところが、他の女性と一線を画す部分であり、それ故、この本が、商売として成り立っている。この本が、商売として成り立たないような社会が、一日も早く実現することを、心より願う。
2009.01.24
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「性同一性障害」という言葉も、かなり世間で知られるようになってきた。 特に、この一年位の間に、その認知度は、急速かつ飛躍的に高まった。 この状況を生み出した背景には、 障害をカミングアウトし、メデイアで活躍する人たちの存在がある。 しかし、本当の意味で、社会がその人たちを理解し、受け入れているかと言えば、 まだまだ、疑問符がたくさん付く段階ではなかろうか。 なぜなら、目の前の相手が「性同一性障害」を持つ人であることを知った上で、 接触したり、交流した経験を持つ人は、そう多くはないと思われるからである。それ故、世間は、「性同一性障害」について分かっているようで、実は、ほとんど分かっていない。「オカマ」や「ニューハーフ」「オナベ」と、一緒なのかどうなのかも知らない。そして、その無知が、障害を持つ人を酷く傷つけていることも。そんな世間の人たちが、「性同一性障害」についてを知るためのツールとして、本著は、なかなかの優れものである。本著の本文に一通り目を通すだけで、かなりの知識が脳に注入される。本文を読んだ後、欄外の注釈や資料を見れば、理解はより一層深まる。かく言う私も、最近まで「性同一性障害」について、ほとんど知らなかった。本著が、私にとって、その理解への入り口・第一歩となったのである。仕事の上で、必要に迫られての購入・読書であったが、良き書に巡り会えたことに、心から感謝している。
2009.01.24
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「聞く方の身にもなってよ!」 そう言われないための、 そして、そう思われないための指南書。 確かに、3分あれば、ズバッと結論を伝えることは可能なはず。 最初に結論を持ってきて、短時間で、より感動を伝える、実のある話をしよう! そのためには情報の収集は欠かせない。 流行語も織り交ぜながら、比喩も使って分かりやすい話をしよう。 数値化した表現で客観性を持たせ、裏付けできる、信用に足る話をしよう。自慢話にならぬように、知ったかぶりもせぬように気を付けながら、相手が思わず身を乗り出す話題に持ち込めば、こっちのもの。相手の使った言葉をリピートし、使える名言もいくつか用意しておく。間を大切に、そして、相手の話の腰は折っちゃダメ!こんな感じで、心がけるべきことは、本当に多い。でも、それより先に、本著の「人から、きらわれる話し方」を読んでおけばいいんじゃない?人をバカにした話し方、抽象的な弁解、内容空疎な言葉遣いは、もちろん御法度。でも、「うまい話もきらわれる」なんか、読んでいて、目から鱗が落ちた。そして、最後の最後で、本著の結論。話し方の神髄は「当意即妙」!ここまできて、これが結論……。そんなことがすんなり出来れば、何の苦労もないと思います。
2009.01.24
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「モンスターマザー」と聞くと、 ある意味、特殊な母親をイメージしてしまうけれど、 本著を読むと、実は、そうでもないことに気付かされる。 今、母親をしている人たちの多くは、こんな感じなんじゃないのかと。 それにしても、本著は、本当によく書けている。 ここまで、現代の母親たちの実体・実像を的確に暴き出した書物を私は知らない。 誰もが、それとなく、薄々は気付いていた母親という存在の変化を、 皆の前に、こうして明確に示してくれたのは、とても意義あることだ。そして、本著に描かれた母親という存在の変化の中にこそ、現代日本社会に見られる、首を捻るような様々な光景の源があると感じた。良きにつけ悪しきにつけ、この社会を土台から支えているのは、やはり女性であり、とりわけ、母親というものの存在の大きさを、改めて思い知らされる。 *** 特に、自分が我慢することは子どものためにならない、と考える母親は急激に増えている。 「お母さんらしさ」が否定され、代わって「自分らしさ」が大切になった今、 自分のやりたいことや好きなことを我慢し、感情を抑えることは、すなわち自分らしくない。 むしろ、自分らしい生き方を貫いたほうが、 子どもに自分らしい人生の大切さを教えられる、そう考える。(p.37)世の中全体が、今や、この母親の持つ価値観に基づいて動いているのではなかろうか? 百かゼロか、の極端な思考は、母親たちの問題としても指摘したが、 すでに子どもの世界にも広がりつつある。 自分を受け入れてくれる人、自分を認めてくれる人としか関わらず、 それ以外の人は「敵」と見なすような母親に育てられた子どもならば、 こうした過激さを当然と思ってしまうのかも知れない。(p.106)『幼児化する日本社会』で示されていた「二分割的発想」の根源がここにある。 「子どもたちを見ていると、『親しき仲にも礼儀あり』ではなく、 『礼儀のない自分と親しくなれ』という感じです。 傷つきやすく、すぐに自信をなくす反面、 自己中心的で、対人関係を作る能力が歪んでいるとしか思えません」(p.114)とにかく、全てにおいて、自分は正しくあらねばならず、特別なオンリーワン、絶対的存在であり続けなければならないと思い込んでいるため、常に肩に力が入り、ある意味、プレッシャーを感じ続け、疲れ切っている子どもたち。 または我が子に英語をしゃべらせたい、 それによって「私の子どもはすごいでしょ」とアピールしたい。 実際は、可愛い服を着せている子どもにろくに着替えの方法も教えていなかったり、 英語を習わせながらも正しい日本語を教えていないのだが、 そんな内情より、ともかく外で目立てばいい、外から評価されることが大切なのである。 見える部分の評価は気にするが、見えない部分はどうでもいい。 見えない部分でがんばったところで無駄、 それは彼女たちにとって「合理的」だと受け止められている。(p.114)これぞ、「現代社会を生きる者の王道なり!」という感じ。本著に描かれている母親たちへの、正しいアプローチなしには、どんな改革も成功しない、世の中、何も変わっていかないという気がしてきました。
2009.01.24
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何と、ジークフリートは、ミーメに育てられていました。 ミーメは、指環と頭巾を手に入れて、世界に君臨するために、 大蛇をジークフリートに倒させようと企んでいたのです。 そんな中、ジークフリートは、ノートウングの再生に成功します。 やがて、ジークフリートは、洞穴に住む大蛇を、ノートウングで倒します。 そして、大蛇の血を口にすると、小鳥たちの話が理解できるようになり、 洞窟の中に財宝があることを知ったのです。 ジークフリートは、金の指環と変身頭巾を持って、洞窟から出てきました。ミーメは、それらを手に入れるため、ジークフリートに毒を飲ませようとします。しかし、ジークフリートは、ミーメの本心を見抜き、彼を殺してしまいます。そして、小鳥たちから、花嫁ブリュンヒルデの存在を知らされると、岩山へ向かいます。ブリュンヒルデは、ジークフリートによって、長い眠りから目覚めたのです。 ***ジークフリートは、武勲をたてるため、ブリュンヒルデを置いて旅立ちます。辿り着いたのは、ラインのほとりで勢力を誇る、ギービヒ一族が治める地。その長はグンターで、妹がグートルーネ。父親違いの弟がハーゲンで、その父は、実はアルベリヒだったのです。ハーゲンは、ブリュンヒルデの手元にある指環を取り戻そうとしていました。「これまでの女を忘れ、目の前の女に恋をする」薬をジークフリートに飲ませ、ジークフリートをグートルーネと結婚させてしまうと共に、岩山からブリュンヒルデを連れてこさせ、彼女をグンターと結婚させようと画策します。一方、ブリュンヒルデのもとには、妹がやってきて、神々の世界を救うため、指環をラインの娘たちに返して欲しいと頼みますが、ブリュンヒルデは拒否します。次には、頭巾でグンターに変身したジークフリートがやって来ます。そして、彼は、ブリュンヒルデから指環を奪い取ると、これで婚姻が成立したと宣言します。ギービヒ一族が治める地で、ジークフリートと再会することになったブリュンヒルデ。しかし、ジークフリートは、彼女のことを全く覚えておらず、グートルーネと結婚直前。ところが、ブリュンヒルデに求婚した者が奪い取ったはずの指環が、ジークフリートの手に。辻褄の合わない状況に、グンターとグートルーネも疑心暗鬼になっていきます。しかし、その騒動も、ジークフリートが、何とか収めてしまいます。ジークフリートの裏切り行為が許せないブリュンヒルデに、ハーゲンが近づいていき、ジークフリートの弱点が背中であることを聞き出すと、グンターと共に暗殺計画を練り、狩りの場で実行しようということになります。狩りに出かけた際、ラインの娘たちからの指環返還要求を、ジークフリートは拒否します。その後、ハーゲンから渡された杯には、記憶をとりもどす薬が入っていました。ブリュンヒルデのことを思い出し、彼女こそただ一人の真の妻と語るジークフリート。裏切り行為と迫るグンター、背中から槍で突くハーゲン。その後、ジークフリートの亡骸の前で、次々に明かされる真相。ブリュンヒルデの命令で、ジークフリートは、大きな炎に包まれ見送られることに。愛馬と共に炎に飛び込むブリュンヒルデ、その炎は、神々の城ヴァルハラをも焼き尽くす。そして、指環は、元の場所へと戻って行きました。 ***何とも言いようのない、悲しい結末ですね。こういう終わり方の作品は、あまり好きではないのですが、音楽が、ここに加わると、感じるものも違ってくるのかな?オペラも全編通して一度は見てみたいと、益々強く思えるようになりました。
2009.01.23
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昔々の大昔、神々がこの世に君臨していた頃、 アルベリヒという、地底に住むニーベルング族の男がいました。 アルベリヒは、ライン川に住む水の精から「ラインの黄金」の秘密を聞き出すと、 その黄金を盗んで指環をつくり、世界を支配しようとしたのです。 一方、地上では、神々の王であるヴォータンが、妻フリッカの願いを聞き入れて、 巨人族の力により、神々の城ヴァルハラを完成させていました。 ところが、「城が完成したら望むものを与える」という約束をしていた巨人たちが、 フリッカの妹であるフライアを、連れて行こうとするのです。その時、火の神ローゲが、フライアと同等の価値あるものとして、それを身に付けた者は、限りない権力と資産を持つという指環があるのだと告げます。巨人たちは、その指環と引き替えならフライアを返すと言い残し、立ち去ります。ヴォータンは、ローゲと共に、指環を手に入れるべく、硫黄の洞穴から地底へと下りました。その頃、地底では、指環を完成させたアルベリヒが、ニーベルング族を支配していました。彼の弟ミーメは、兄から逃れようと、姿を隠す頭巾を完成させますが、兄に奪い取られます。そんなアルベリヒを、今度は、ヴォータンが捕獲、全ての財宝と指環を奪ってしまいます。全てを失ったアルベリヒは、指環の持ち主が呪われるよう呪文を唱えて、立ち去ります。そこへ、今度は、巨人たちが現れ、フライアと財宝との交換が始まります。ヴォータンは、最初、指環を渡すことを拒みますが、突如姿を現した知恵の女神エールダの忠告に従い、指環を巨人たちに渡します。指環を受け取った巨人たちは、奪い合いの末、ファーフナーがファーゾルトを殺してしまいます。 ***エールダの「神々の終わりの時がくる」という言葉が、頭から離れないヴォータン。エールダに会いに行って、そこでブリュンヒルデという娘をもうけることになりました。さらに、ヴォータンは他の女神たちとも関係を結び、計9人の娘を得ることになります。娘たちは、ワルキューレ(処女戦士)として、戦死した勇者の魂をヴァルハラに集めます。一方、指環を手に入れたファーフナーは、大蛇に変身、惰眠を貪り続けていました。ヴォータンは、アルベリヒが指環を盗むのではないかと、心配が続きます。そこで、指環を、神以外の誰かに確保させようと、ヴォータンは人間の女性と交わり、男女の双子を得ると、男の子を勇士に育て上げるため、戦いに明け暮れます。ところが、ある日帰宅すると、妻は殺され、娘はさらわれていました。いつまでも下界に居続けるわけにもいかず、ヴォータンは息子のもとを去っていきます。 ***その後、ヴォータンの息子ジークムントと、娘ジークリンデは、運命的再会を果たし、運命の剣「ノートウング」を手に入れると、兄妹でありながら夫婦ともなるのです。一方、ヴォータンは、娘ブリュンヒルデを、ジークムントの支援に向かわせようとしますが、結婚の女神・妻フリッカから横やりが入ると、一転して、ジークムントを倒すよう命じます。それでも、ブリュンヒルデは、父の命に背き、ジークムントを助けようとしますが、ヴォータンに妨害され、結局、ジークムントは死んでしまいます。ブリュンヒルデによって救われたジークリンデは、やがて、息子ジークフリートを出産。しかし、ブリュンヒルデは、ヴォータンによって、神々の世界から追放されてしまいます。そして、絶壁と炎を恐れぬ真の勇者が訪れるまで、岩山の上で、炎に包まれながら、長い眠りにつくことになりました。 ***以上、序夜・ラインの黄金と、第一夜・ワルキューレのお話しが、里中満智子さんの手によるマンガで、美しく描かれています。物語の流れがとてもスムーズで、分かりやすく、読みやすい作品です。途中にDVDソフトの紹介があったり、巻末に作品紹介があったりして、お値打ちの一冊。
2009.01.23
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プレジデント 2009.2.2号のテーマは 09年版「役職・課目・場面別」厳選600冊! 勝ち残る人が読む本 落ちる人の本さて、今回の特集ページでは、三菱電機の野間口会長、NTTCOMの和才社長、日本生命の宇野会長、JTの本田相談役といった名立たるトップの方々が60冊を紹介すると共に、「新入社員」「中堅社員」「部課長1」「部課長2」「役員・社長候補」「女性リーダー」といった役職別で105冊を紹介。そして、「独立・転職」氷河期に成功率を上げる20冊や、30場面別「あなたの困った!」を救うベストガイドとして300余冊、さらに、「マーケティング」「営業」「企業経営」「金融・経済」「科学・技術」「法律・社会」「世界情勢」「論理・哲学」「会計・財務」「政策・政治」という10大課題について150冊を紹介しています。「厳選」と銘打ちながら、600冊もの大量の本を紹介。にもかかわらず、私が読んだことのあるものはと言うと、『ザ・ゴール』『7つの習慣』『十五少年漂流記』『となりのクレーマー』『社長を出せ!』『親の品格』『東京タワー』『100万回生きたねこ』『子育てハッピーアドバイス』『子どもが育つ魔法の言葉』『dancyu』『女性の品格』『三国志』『夢をかなえるゾウ』『人を動かす』『武士道』『高学歴ワーキングプア』『もものかんづめ』『鈍感力』『ワンピース』『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『スタバではグランデを買え!』『食い逃げされてもバイトは雇うな』『英語は絶対、勉強するな!』『モモ』『成功はゴミ箱のなかに』『バカの壁』『ウェブ進化論』『こころ』『人間失格』『坊ちゃん』『雪国』『走れメロス』『吾輩ハ猫デアル』『蜘蛛の糸』『話を聞かない男、地図を読めない女』『女はなぜ突然怒り出すのか?』『負け犬の遠吠え』『少女パレアナ』『流星ワゴン』『共産党宣言』『不思議の国のアリス』 以上。そして、今回紹介されており、私の手元にありながら、まだ読み終えていないものは、『文明の衝突』『失敗の本質』『水滸伝』『田中角栄研究』『愛の流刑地』の5つ。 2008.3.31号「役職別、課題別……厳選300冊!一流社員が読む本 二流が好む本」では、私が読んでいた本は、たった6冊しかなかったから、それに比べるとレベルアップした(?)かも知れないが、「本の世界は、まだまだ想像を絶するほどに広い」という思いは、あの時と同じだ。 そして、今回の紹介のなかで複数回登場し、 改めて、読んでおかないといけないなと思ったのが『ビジョナリーカンパニー』。 この手の書籍紹介では、必ず登場する名著であるが、 なぜか、これまで、手にする機会がなかったもの。 ただし、手元にありながら、まだ読めていないものもあるので、 まずは、そちらを読んでからの購入ということにしたい。 特に『文明の衝突』は、とても面白かったのだが、忙しさのなかで中断し、 そのままになってしまっているので、何とかしたい。『文明の衝突』は内容が濃く、きちんと理解しながら読み進める必要があるため、新書等のように、一気に読み進めるわけにいかない故に、このような状況にあるのだが、そうこうしているうちに、著者のハンチントン氏が亡くなってしまった。ご冥福をお祈りすると共に、この本だけは、必ず早めに読み切りたい。
2009.01.11
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本著のキーワードは「属人思考」。 事案の記憶や情報処理、ないし意志決定をする場面において、 <人>情報を過大に評価し、 是々非々に該当する事柄や情報を軽視する傾向。 あるプロジェクトの是非を判断するとき、 さまざまな項目に渡って、積み上げをしなければならないはずなのに、 「誰が立案したものか」ということが重要視され、 人物評価が優先される意志決定方法をとるのが、属人思考。そして、組織における違反は個人的違反と組織的違反の二つに分かれる。この二つは相関しない、別物である。個人的違反を懸命に減らしても、組織的違反は減らない。なぜなら、大きな不祥事は、組織の意志決定を経て行われるものだから。その意志決定に、大きな影響を与えているのが属人風土。この属人的組織風土こそが、組織的違反や重大不祥事の根本原因であると著者は言う。そして、この属人思考は、教条やイズム、準拠集団、カリスマ的人物などを物事の善悪判断の根幹に置く思考スタイルである権威主義を母胎とする。属人思考や権威主義というものを理解し、自分の補佐するナンバー1の人物の性格や行動パターンが、どの程度、権威主義的であるかを見極める目を持ち、上司を深刻な状況から救い、組織を救うのが、ナンバー2の役割。ナンバー1が暴走し始めたとき、「ノー」と言えるナンバー2が、その場にいたなら、組織的違反や重大不祥事を阻止することが出来る。ナンバー2の責務は大きい。
2009.01.11
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「理系のための」いうタイトルが付いているが、 「文系」の人も、読む価値が十分にある一冊。 研究者として生きていく上での指針が、豊富に示してあるが、 研究職以外の職業に就こうとする人にも、たいへん得る所が多い。 著者は、「人生設計」をするため必要なのは、まず、自己分析だと言う。 自分が何に対して価値を感じているか(バリュー)を見つめ直し、 自分がやりたいこと、目指すべき方向(ミッション)を明らかにし、 それらを具現化するための道筋(ストラテジー)を考えること、だと。確かに、これらを明確にして、目標をもって生きていくのと、そんなことは深く考えず、ただ漠然と生きていくのとでは、一日一日の過ごし方や、色んなこと・ものへの態度に大きな違いが出てくるだろう。そんなことを考え直させてくれただけでも、私にとって、この一冊は価値があった。そうやって、自分の心の中に「成功するストーリー」が描けたら、次のようなことを踏まえつつ、研究者としての人生を歩んでいく。生活を成り立たせるため、研究を続けていくためのお金を、どうやって捻出するか。人的ネットワークを増やし、世界でも認められるようになるには、どうすればよいか。自分の業績を向上させ、目指すポストを獲得するために、自分をどう売り込めばよいか。研究を続けていくために必要なインフラは何で、それをどのように整えていくか。本著では、これらのポイントを、著者の実体験を基に、たいへん具体的に、そして、分かりやすく説明してくれている。ここまで理路整然と、人生のチャートを示してくれた本に、私は、これまで出会ったことがない。人的ネットワークを拡大し、それを活用して情報収集に努める。そして、それらを自分の仕事に生かし、業績を積み重ね、自分を売り込んでいく。そのことで、より仕事をしやすい環境を創り出し(ポストをつかむのも、その一つ)、仕事を継続していくためのインフラも整えていく。私が、本著で最も得る所が多かったのは、「仕事を継続していくためのインフラを整備する」という部分である。著者の言うように、定年後の人生は長い。その時間を、どのように過ごしていくのかは、きちんと考えておく必要がある。そして、定年後を過ごしていくために必要なインフラは、早い時期から、計画的に整えていく必要がある。定年間近の、その時になって、何とかしようと思っても、短期間に、納得いくものを造りあげることができるとは、到底思えないからだ。ましてや、この不景気。定年前に、現在の職を失う可能性だってある。それ以外の、突然の事態で、職を失う可能性もある。その時に備えて、インフラ整備は、一日も早く取りかかるべき課題だと思う。
2009.01.11
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アメリカ精神医学会の「DSM-4」では、 「気分が落ち込み」「なんにも喜びを感じられなくなり」 「夜も眠れず」「食事もとれず」「仕事への気力も失せた」という状態に 2週間以上さらされていれば、「うつ病」と診断される。 この診断基準に従うと、誰がどこで使っても同じ診断を下せ、時間節約にもなる。 さらに、原因を考えても、治療する上では意味がないことから、 現在、このあっさりした診断基準が、世界で最もよく使われている。 つまり、「病因は問わない」というのが、国際的な公の態度なんだそうだ。ところが、精神科医が、これまで馴染んできた考え方は「病因説」であり、その病因は「内因」「心因」「外因」に、大きく三分されるというもの。そして、臨床の現場では、実は、病因をちゃんと考えている。専門家は、外向けと内向けとで、このような矛盾した態度を取らねばならない状況らしい。そんな中、精神科医たちには、次のような共通する見解がある。 ・なんでもかんでも「うつ病」と診断して、SSRI等の薬を投与するのは間違っている。 ・「うつ病」との診断が問題になるケースには、双極2型、パーソナリティ障害、 適応障害、気分変調性障害などなどがある。 ・なかには、うつ病でもなければ、他の診断にもあてはまらない人たち、 つまり、ほぼ正常な人たちも含まれていると考えられる。 ・この「うつ病に似ているがうつ病ではない人たち」の診断や治療は、簡単ではない。 ・精神科医のなかにも混乱がある。(p.135)うつ病は、本来、時と場所を選ばない。症状やエネルギー状態が時と場所を選んで、良くなったり悪くなったりする場合には、「これはうつ病とは言えないな」と、著者は考えるようにしているとのこと。また、著者が「うつ病かどうかを判断する方法」をベテランの精神医学者に尋ねたとき、返ってきた返事は、「うつ病と診断してがっかりした人はうつ病、うつ病と診断して喜ぶ人はうつ病じゃない」だったそうな。「うつ病」は、かつての「隠すべきマイナスの刻印」から「身体疾患と同じ、ふつうの病気」を通り越し、「人々から一目置かれるアイデンティティ」になろうとしている。そして、最近では、あまりに多くの人たちが、「私はうつ病です」と名乗るようになり、ごく一部の人たちの間では、「うつ病」は、すでに使えないものになりつつあるらしい。そこで、「他の人たちとは一線を画した非凡な私でいたい」人たちは、「うつ病」では物足りず、それに替わるものとして「慢性疲労症候群」や、最近では「繊維筋痛症」へとシフトして行っているとのこと。このような事態を生み出したのは、うつ病というと、何でも許される社会になったから。診断書さえあれば、仕事を休めるという社会的コンセンサスが出来上がり、うつ病だと言えば、ワガママを誰も責めることができない状況。つまり、「うつ病」はバレることのない責任逃れの「使える病」なのである。実際、「うつ病」を理由に異動希望を叶えたり、男性からの別れ話を、一転して、結婚を承諾させた女性もいるらしい。 これは、「モンスターペアレント」「モンスターペイシェント」をめぐる 現在の状況にも似ている。 いまのところ多くの人たちが、そういったワガママで身勝手な親や患者に 冷ややかな視線を送っているが、 思いどおりにふるまうモンスターたちがある一定数を超えれば、 おそらく「自分だけが黙っていても損をする」と、 雪崩を打ったようにだれもがもんすたーかしはじめるだろう。(p.186)何か、恐ろしい状況。このような「自称うつ」の人たちが、益々幅をきかせるようなことになってしまうと、本当に「うつ病」で苦しんでいる人たちが、生きづらい状況になってしまいはしないか。「言ったモン勝ち」の風潮は、こんな所にも歪みを生み出している。
2009.01.10
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「職人」と言えば、決して多くを語ることなく、ただ黙々と、 周囲の雑音なんか、どこ吹く風で、己の世界に没頭し、 他の追随を許さない、磨き抜かれた技術を最大限に駆使しながら、 自分の為すべき仕事を、最後までキチッと仕上げる人、というイメージがある。 ところが、本著の著者である岡野氏は、 そういった「職人」像とは、かなり異なる、「物言う職人」である。 もちろん、その技術は、正真正銘の本物であり、 その発想は、選ばれし者のみが持つ、天賦のものである。「義理を欠いたツケは必ず戻ってくる」とか、「一流からアイデアのヒントを盗む」、「マネやパクリでなく、誰もしていない仕事をしよう」等、「岡野流」とも言うべき生き方に、本著を読んで、大いに頷けた部分もあった。ただし、誰もが、この「岡野流」で、必ずしも上手くいくとは限らない。例えば、p.103に掲載されている写真を見て、拍手喝采の人もいれば、ちょっと首を捻った人もいるのではなかろうか。やはり、その人その人に相応しいスタイルがあるだろう。
2009.01.10
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