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日本の将来に明るくない報告が続く。そしてその傾向は悪化の一途をたどる。■日本の子どもや若者「自分自身に満足」57%各国比で最低NHKonline 2024年6月23日また、「自国の将来は明るい」と答えた人は23%と前回より8ポイント下がり、こちらも50%から60%ほどとなった4か国に大きく引き離され、最も低い水準です。 ■“不登校傾向”の中学生 推計41万人余 “早い段階の支援を”NHK ONLINE 2023年12月17日 ■児童虐待 児童相談所が対応の件数 昨年度21万9170件 過去最多NHK ONLINE 2023年9月7日 ■縮むニッポン : 50年後の人口8700万人、4割が高齢者に 国立社会保障・人口問題研究所推計 nippon.com 2023.04.26 ■自宅で亡くなる1人暮らしの高齢者“約6万8000人に上る可能性”NHK ONLINE 2024年5月13日 ■去年の合計特殊出生率 1.20で過去最低に 東京は「1」を下回るNHK ONLINE 2024年6月5日 他にも日本を代表する一流企業、日本を代表する国会議員による不正は残念ながら枚挙にいとまがない。 これらの課題に対して、法律の改正、財政支援などの対策が議論されて実施されているが、根本的解決が可能であろうか。法律は強制力によるものであり、財政支援はお金によるものである。それらに一定の効果があることは理解できるが、自発的、かつ喜んで実施できる解決策が望まれる。その解決策は「親孝行の伝統」を確立することであると確信する。親孝行とは自分を生み、育ててくれた親に感謝して、親が喜ぶことを大事にして尽くすことである。そのような親孝行の伝統があるならば、家族全員の幸せを願うはずであり、家族の誰かが成功すれば自分の成功のように喜び、家族の誰かに悲しいことがあれば自分のことのように悲しむのが自然となる。そして親が悲しむことはできない。親孝行は自発的であり、お金もいらない。心のあり方である。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部email CONTACT :
2024.07.05
国を代表する国会議員による審議、質問・答弁がテレビ中継される。毎回思うことは、相手の批判が多く、時には、皮肉を言ったり声を荒げて罵声を浴びせたり相手をたたきのめしたいかの様相である。そんな批判や罵倒は魅力的だろうか。国会議員の多くの方は弁護士、医師など高い社会的ステータスをお持ちである。そのような言動が、多くの国民にとって魅力的に映るのか心配になる。他山の石人の振り見て我が振り直せの言葉の通り、人の悪い側面が見えてもそれすら自分の成長に繋げようとするのが日本の伝統的価値観である。そのよな謙虚な姿勢が、多くの国民にとって魅力的であり、支持につながると考える。相手が不十分なら自分に十分、十二分な提案と行動と実績があれば国民は圧倒的な魅力を感ずるのではないか。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2024.03.17
人生の成果として、周囲の発展をまず願うアウトプットが、自分や家族だけの利益をまず願うインプットより、遥かに広がりと永続性があるだろう。その広がりと永続性は会社や社会の文化と歴史を形成する。だから自分や家族だけのインプットはつまらないと思う。その人の言動を見聞きすれば、その人が周囲へのアウトプットを意識しているか、自分や家族だけのインプットを意識しているか直ちに理解できる。だから、自分や家族だけのインプットには、尊敬がなく、魅力がなく、広がりや永続性はない。簡単な話であっても、簡単に実現できない。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2024.03.02
デジタル化の有用性により、様々な分野においてデジタル化が普及し、さらにDX(デジタルトランスフォメィション)へと発展しつつある。政府も「デジタル田園都市国家構想」、そして、サイバー空間とフィジカル(現実)空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の新たな社会「Society 5.0」を目指している。筆者もデジタル化、データサイエンス、AIに取り組んでいるが、昨今の社会情勢を踏まえれば「デジタルだけでは解決できない」ことを改めて確信を深める。その例は多数ある。通信技術を考えると、固定電話から携帯電話が普及することにより、相手といつでもどこでもコンタクトできることは感動的な飛躍であった。さらに、ガラケーからスマホにシフトして、多彩なSNSの開発により、単に相手と通話するだけではなく、様々な情報を演出して発信することが可能になった。実際、電車の中では、大半の人がスマホに向かっている。駅ホームでスマホを見ながらの歩行は避けてくださいと、あれほど注意喚起されても何ら変わらない。このような通信技術の圧倒的な発展により、多くのメリットがあるが、同時に多数のデメリットもあることはニュースで繰り返し報道されている。結局、デジタル化は「方法・手段」で、単体では良し悪しはない。刃物により、料理で素材を切ったり、布地や建材を加工したりできるが、同時に人を傷つけることもできるからである。つまり、デジタル化も刃物も、使う目的、使う人の心によって良し悪しが決まる。使う目的、使う人の心は、技術開発と同時に、むしろ先行して研ぎ澄まされ、課題解決して行く必要があり、それらが一致しない限り、「デジタルだけでは解決できない」であろう。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT
2022.08.10
ブランド品は衣食住、生活において、品質の良さ、デザインの良さがあり、自分らしさを演出できる。それでも、大半はお金で購入することができ、ブランド品で自分の価値は上がらない。学者が自分の専門分野において成果がないのに、高級ブランド品を身に着けて講演しても誰も評価しないだろう。一方、ブランド品を企画・実現することは価値があり、ブランド品に限らず、周囲に本質的影響を与える生き方がその人のブランドではなかろうか。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2022.06.08
TV番組では、キャスター、専門家、評論家、コメンテータが最新ニュースについて語る。とても勉強になる発言があると同時に、一体、何を根拠としているのかと思うことがある。株価の予測では、「〇〇〇と考えられる。 一方で、×××の可能性が残る。」と通常はどちらの方向についても言及している。それだけ将来予測が困難なので慎重である。データサイエンス、統計手法を持ち出すほどではないにしても、せめて、客観的データ・根拠が十分でないなら、将来予測や自分の専門外の分野で断言することを避けなければ、発言した人の信頼がかえって失われる。仮に自分の得意分野、専門分野と言えど、極々限られた領域に過ぎない。発言や文章の客観性から、その人が視える。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2022.05.01
日本人の良さは、まず相手への思いやり、気配りであろう。営業で実績のある先輩から「接客の基本」を学んで、生涯忘れない言葉がある。それは、①先回りして、②相手に選んでもらうこと である。なるほど と、自分自身の準備、配慮の無さを恥ずかしく思ったことがあった。相手が主体であり、自分は対象として相手にプラスになる準備、配慮である。「接客」についての先輩の言葉ではあったが、顧客への「提案」、「プレゼン」、自社の「組織行動」など、広く応用できる。手間がかかっても、①先回りして、相手が興味を示すことを、丁寧に準備して、そして、②相手が選択 である。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2022.04.29
人生をかけて働き、社会的信頼と地位を得て、資産を形成しても、寂しさが残る。人は生まれて来た以上、必ず終わりを迎える。その意味で、誰しも例外なく、既に命がけで生きている。普通、貯金と言えば、文字通りお金を貯めることである。お金があれば、いろいろなことが出来るし、家族に残すことも、地域に寄付することも出来る。しかしながら、人生の貯金は、インプットとアウトプットの差額と感ずる。インプットとは、人にお世話になることであり、アウトプットは、人の発展を支えることである。アウトプットがインプットより大きいほど、人生の貯金は大きなプラスとなる。誰かからお世話されることに、社会的ステータスを感じて満足するより、人の発展を支えることに、まだまだ不十分と満足できないほうがカッコいい。仮に、誰かからお世話されたなら、その何倍もアウトプットを目指す。そのような人、社会が大きく発展するのではなかろうか。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2022.04.26
自分の優位性を確保、維持するために技術やノウハウは教えないことが一般的であった。本当にそうなのか?技術やノウハウは誰しも知りたい。しかしながら突き抜けた技術やノウハウは総合的な視点、試行錯誤が必要でであり、簡単にはコピー出来ない「経験知」である。技術やノウハウを丁寧に伝えることはむしろ周囲の人の力となる。自分が成長する機会、舞台を与えてくれた人であれば、組織であれば協力を惜しまず、技術やノウハウは広がる。技術やノウハウを教えなければ将来の可能性、発展性を閉ざしてしまう。問題は全体で発展しようとするヴィジョン、リーダーシップであろう。与える経済は、全体が高速に発展し与えない経済は、発展速度が遅く、いずれ失速することは自明ではないか。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部CONTACT :
2021.09.23
一流の料理人や職人は弟子に何も教えないことを時々耳にする。例外はあるとしても何故なのか? 丁寧に教えてあげれば良いのにと思うこともあった。ただ料理人や職人に限らずどのような分野でも、「教えられて・・・」、「言われて・・・」、行動するようであれば、長続きはしないし、何かを極めることは容易ではない。一流の料理人や職人はその道が決して容易ではなく、自ら求め探求すること、そして本当に好きであることが大切と自らの体験で知っているのであろう。教えられなくても、言われなくても、師匠の仕事、姿を「必死になって」学び取ろうとする弟子でなければ、一人前にはなれないということを伝えたいのだろう。企業においても、「言われなくても自ら行動する」ことが徹底されている組織が魅力的である。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2021.08.08
1人の人間ですら、言動が一致することは容易ではない。多くの社員から成る会社であれば、会社の方向性と社員の行動が一致することはなおさら容易ではない。 例えば会社において組織の『協調』は極めて重要である。ところが『協調』とは、「力を合わせて事をなすこと」と知っていても、組織に協調は起こらない。また『協調』できればいいだろうなと漠然と感じていても、それだけでは組織に協調は起こらない。 つまり、知っていることと、感じていることと、実際に行動できることでは全く次元が異なるわけである。会社が組織として「行動できる」文化があるかどうかが、その会社の将来展開を決めることは間違いない。「行動できない」文化は、自分は行動しない批評家の集まりを築くため、やがて会社は衰退する。 そして「行動できる」文化は、会社経営層がまずは実践することなく、会社全体に浸透するものではない。経営層の日常的な「行動する」姿を通じて、社員は行動することの意義を真に知り、感じ、実行できるようになる。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2004.03.05
企業の将来性を占うポイントは、職場で社員が夢を語り合っているかである。そして就業時間中はもちろんであるが、休憩時間でも、或いは宴会の場や、帰宅途中でも、社員同士が将来の夢を語り合っている雰囲気があれば将来は明るいであろう。 反対に、職場や宴会の場で社員がいつも上司や組織の不満を述べていたり、世間話しばかりしていたり、会社の発展に何ら話が盛り上がらないようでは会社の将来も限られるであろう。 社会で評価を得ている企業であればあるほど、社員同士がどうすれば新製品の技術課題を解決できるのか、ああでもない、こうでもないと議論し合い、営業マン同士がどうすれば顧客の心をとらえることができるのかと時間を忘れて議論し合う傾向がある。 もちろん実際は夢だけでは企業は発展しない。ヒット商品を出したい、売上を伸ばしたいと夢を描くのは簡単だが、夢はそう簡単には実現できない。簡単に実現できない夢に、会社が悪いとか、自分の能力が無いとか不満を述べたり、愚痴をこぼしたりするのでは夢はいつまでも夢のままである。 社会で確固たる評価を得ている企業は、成功した輝かしい結果だけが表面に現われやすいが、企業の歴史を振り返れば、長年に渡り地道な取組みをプライドを持って続けて来ていることに気づく。夢が無くては話にならないが、その次に確認しなくてはならないことは、夢を実現するための企画やアイデアにまで踏み込んで社員がいつも語り合っているかである。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2004.01.29
21世紀の企業の組織文化として、激しい時代の変化・競争に立ち向かうチャレンジ精神が重要になると思われる。新しいことに一丸となって挑戦して行こうとする姿勢が企業にある場合と、逆に新しいことには否定的で現状維持の姿勢を保とうとする場合があるように思える。 現状分析が不十分なのに、どのようなことでも「できる」という姿勢は、単なる暴走である。しかしながら、せっかく何らかの企画や意見が提出されても、無関心や、否定的意見(「できない」)しか出ないようでは、その企業の将来も暗いであろう。 そして大切なことは、新しいことを始めようとした時に、「できる」、「できない」という結果に至るまでに、どれだけ考えたのか? である。ある企画が提出された時に、周囲が直感で「そんなのできるわけないじゃん」と発言したとする。その時、その発言を鵜呑みにするのではなく、できるわけがないという理由を分析し、課題を打破する方策を十分考えたのか? が重要になるであろう。 直感で「できない」と思って、考えることをしない場合がある。しかしながら、あることを企画して、「できない」と想定される理由がある場合に、本当にできないのか?、何らかの方策があるのではないか?、と考える。そして仮にその方策を講じても、さらに「できない」理由があるとする。その時は、さらに方策を練る。このようなプロセスが少なくとも5回や10回あって、本当に「できない」というのなら、企画を変更するべきであろう。しかしながら、「『直感』のできない」で片付ける場合が多いのではないかと感ずる。 そもそも研究開発は、これまでできなかったから研究開発するのであって、できることに対して誰も研究開発はしない。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2004.01.23
「強い組織」の定義は観点によって異なるであろうが、ここでは強い組織となるために必要な ”構成メンバーに対する上層部の配慮”という点で記してみたい。 強い組織をつくるために、能力が優秀な構成メンバーで固めようとすることは誰でも思いつくことである。実際企業ではヘッドハンティング、中途採用、新卒採用などで能力が優秀な社員を確保しようとする。 しかしながら、この方法論にも限界がある。何故なら能力が優秀なメンバーばかりを集めることは金銭的にも、人材的にも至難の業であるからである。また企業の業務の中には必ずしも一流の才能がなければ出来ない仕事ばかりではないからである。 能力、それも”現時点での能力”を最重要視してしまうと、能力があると評価された人はやる気がでるかもしれないが、評価されない人はやる気を無くしてしまう。さらに能力が無い人は「ダメな人」といった雰囲気が組織内に流れ、ぎこちない組織になってしまう。極端な例では内部告発といったことも起きるわけである。 ではどのようにすれば良いのか? 現実的には能力のある人も、さほど無い人も企業には存在するわけであり、能力がさほど無い人に対しても”現時点での能力”故に「ダメな人」と決めつけるのではなく、その人の”将来における能力”を期待するような上層部の配慮が重要である。もしあるプロジェクトを推進するのであれば、能力がさほど無い人に対しても、その人の役割とその役割の重要性を明確に伝え、プロジェクト全体へ貢献度を評価する必要がある。 結局、能力のある者(強い者)だけを評価し、能力の無い者(弱い者)を評価しないという雰囲気では無く、ふところの深い組織となっているかを組織上層部は意識しておかなくてはならない。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.12.17
現在の日本は極めて利便性に富んだ社会を形成している。24時間営業のコンビニは至るところにあり、スーパーですら23時まで営業ということがざらである。またネット社会の発展により、家にいながらして、銀行振込、病院の予約、書籍の購入など多くのことが簡単にできるようになった。 しかしながらこのような利便性の追求により、ひとつの落とし穴にはまり込んでいるのが今の日本社会であるようにも思える。 例えば、以前は夜中に物を買うことはできなかったし、何か調べるにしてもインターネットが無かったので、辞書で調べたり、図書館に出向いて調べたりということがあった。冬の朝には寒い中、石油ストーブに火をつけたもので、タイマーつきのエアコンなどなかったわけである。そんな時は仕方がないと、あきらめることもあったし、忍耐もしたわけである。 ところが現在は利便性の向上により忍耐することが余り無くなり、ほしければいつでも簡単に手に入れることができるわけである。そのことが逆に物事に対して忍耐強くない社会を形成してしまっているのではないかと感ずる。全般的に社会が短気で(いわゆる切れやすい)、信じられないような短絡的な犯罪が頻繁に報道されていることがそのことを示しているのではなかろうか。 では利便性を追求しない方が良いのであろうか? 答えはノーであると思う。利便性の追求と共に追求すべきことを忘れていることが問題であると思うのである。例えば、科学技術が高度に発達することにより人類は原子力というエネルギーを手に入れたが、そのことは核兵器を手に入れたことにもなる。もしも人の理性や愛情というものが低下すれば、核兵器により地球が破滅することも十分想定される。つまり科学技術が高度化すればするほど、誤った用い方をした時の悪影響は深刻なものになるわけである。 結局、科学の進歩と共に向上した利便性をしっかりとコントロールして、より社会全体が発展するような、目的、構想(ヴィジョン)に沿って活かすことが本質であると感ずる。目的や構想が無く、ただ単に利便性が良くなるだけでは、人間は怠け者になったり、前述の通りうまく行かないとすぐに短気になったりすると思うのである。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.11.16
前回に続いて、「やる気を起こす配慮」について考えてみたい。先日リスクに対する人の心理についての話を聞く機会があった。大変興味をもったのは、自ら選んだリスクは、他人から働きかけられたリスクより1000倍も大きなリスクを受け入れるそうだ。 このことから人が何かを成す時に、誰かから何度も言われて受動的に成すよりは、自分で一度決意して能動的に成そうとするほうがはるかに有効であることがわかる。 要するに、勉強でも、仕事でも、自分からやってみようと思えるような配慮、環境作りが重要であり、嫌々物事に取組ませても長続きしないと言うことである。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.11.08
人に何かを依頼する時、すべてこちらで指示をしたほうが親切な場合もあるが、実際は相手に自由度を与え、相手が考え、自分で行動を起こすように仕向けるほうがよさそうである。 例えば、職場で「この仕事を1週間以内に仕上げるように!」と部下に向かっていうことは良くあると思う。わかりやすい指示ではあるが、この時まず部下に「いつまでならこの仕事を仕上げることができますか?」と聞く方が良い場合が多い。 つまり、上司がすべて決めて部下に仕事を要求するのではなく、部下の自主性を配慮した方が仕事はうまく進むと感ずるのである。ところが往々にして上司は自分が何でも決めたがり、また自分が決めたことに部下が従うことを心地良く感じる。 このほんのわずかな配慮ができるかどうかが、人に何かを依頼する時のポイントであると私は常日頃感じている。言うまでもないことではあるが、この配慮はテクニック的なものではなく、相手に対する誠実な姿勢の表れであるべきであろう。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.10.29
同じことを相手に伝える場合でも、その表現によってずい分相手の感じ方は異なる。 ● ほぼできない。 ● できるかも知れない。 特に人を指導する場合は、表現に配慮することも大切となる。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.10.19
指導的立場にいる人が、人に対して指導する時に注意する点として、言葉の表現があげられる。 ある人が何らかの間違いをしたとする。その時、指導者としてそのことが気に入らなくて、その間違いをただ指摘するだけ、或いはその間違い故に人を切り捨てるような表現での指導(?)、やる気をなくすような表現での指導(?)、はやめた方が賢明である。つまり、一方通行の言いっ放しの表現は極力避けるべきであろう。 逆に、その人の間違いの原因について当事者の立場に立って、或いは当事者と共に考えた上で、必要な助言を述べるという姿勢は、指導者の基本的な姿勢ではなかろうか。即ち、一方通行の指導ではなく、双方向の指導が必要になるであろう。 もっと具体的に言えば、「否定の表現」を使うのであれば、「期待の表現」に置き換えるべきである。 失敗した! → 次回は成功させよう! 結局、その人の将来を意識して、どこに向かって進めばいいかを「指導」、つまり指し示し、導くのが指導者である。単に、過去や現状を、責めたり非難するのは、「指導」ではなく、「指摘」に過ぎない。指導には本来、その人に対する、期待、信頼、愛情が伴うものである。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.10.17
精神的な重圧はできれば避けたいが、責任を持つ範囲が広い時、またチャレンジングなことを成す時、重圧は避けられない場合も多い。そのような場合、その重圧を克服して結果を残すことは、より困難な課題に進む時の大きな基礎となり、自信となる。困難を避けて安易な道を選ぶことも可能かもしれない。が、身の回りに起きる困難は、将来、より大きな目標に向かう時に出会う困難に押し潰されない自分となるための訓練としてとらえることが前向きであろう。この困難を克服した数だけ、指導者としての深みが増すような気がする。よって(本質的)困難に挑戦しなくなった組織は、指導力、求心力が薄れ、やがて瓦解するであろう。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.10.09
8月のアメリカ出張、そしてすぐに9月に入りロシア出張が重なり、ようやく帰国しました。海外では仕事が慌しく、日記を書き込む余裕もなくご無沙汰しておりましたが、また再開します。モスクワは12年ぶりでしたが、ショッピングモールにはパリのブランドが並び、赤の広場でもちょうど「モスクワの日」であったため、ロックバンドが大音響で演奏を繰り広げていました。ソ連時代からは想像できない社会・経済情勢の変化ではないかと思います。またモスクワのインターネットカフェは抜群のセンスで、若い女性にも人気が高いようでした。ただしIEが日本語をサポートしておらず、ちょっと苦労しました。一方モスクワから1000キロ離れた都市にも行きましたが、モスクワほどではないものの、次第に経済が発展しつつあることを感じました。この都市では冬の平均気温がマイナス25℃だそうで、ロシア人の精神力の強さの背景には自然環境条件を見逃せないことを感じました。優秀な頭脳、シベリア平原の資源などを考え合わせると、今後10年前後でいわゆる西側諸国に経済レベルが相当追いつくことを実感しました。アメリカ、ロシアの状況は私が webmaster をしている下記のHPでも順次紹介していますので、よろしければお立ち寄りください。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.09.23
誰にでも自分の能力や経験に強みがあり、弱みがある。 苦労して築き上げた能力や経験という強みには、 自信があるが故に、人に負けたくないとか、プライドが伴う場合が多い。 そしてこの負けたくない思い、プライドが、 かえって強みを弱みに転じさせることがある。 より優れた能力、経験を有する人が現れた時に、従いたくない、 或いは、将来性のある人の能力、経験を否定してしまう場面である。 逆に、自分の能力や経験が不足していると、弱みと感ずる。 そして、自信が無いが故に、劣等感を伴う場合が多い。 しかしながら、この劣等感が、 かえって弱みを強みに転じさせることがある。 より優れた能力、経験を有する人が現れた時に、すぐに取り入れる、 或いは、謙虚になって取組もうとする場面である。 強みをより強みにするためには、 自分の能力や経験を、 自分のプライドのためではなく、全体のために活かすことであろう。 弱みをより弱みにしてしまうのは、 自分の弱みを隠したり、 素直に弱みを認めないことであろう。 強みはより強みに、弱みも強みにしたいものである。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.07.24
自分と異なった考え方を持つ人であってもその人を評価すること、すなわち 「異質を受け入れる心」 が人の人格形成において大切と感ずる。この異質を受け入れる許容量が乏しい個人は、人から支持されないばかりではなく、大切な協力者を自ら捨て去ってしまうことになる。 個人が集まった組織においても、最終的には組織をリードする人たちの 「異質を受け入れる心」 が、組織の成長と発展を決定付けるように思える。異質を受け入れてこそ従来にない展開も可能になるからである。 気心知れた人だけと一緒に何かを成すと言うのは、ある意味良さそうに感ずるが、また気持ちの上では心地良いのではあるが、気をつけなくてはならないのは、そのことにより前述の通り、個人或いは組織の成長・発展が限定されてしまうことである。 生涯を通じていろいろな人との出会いがある中で、異質を受け入れる(人を評価することができる)姿勢と、異質を受け入れない姿勢とでは、大きな差が生じてくるように感ずる。 なお、言うまでもないが、「異質を受け入れる心」というのは、異質にすぐに染まって、流されるということではなく、自分と異なった考え方を持つ人であってもその人を評価する心の広さを表わす。そして良きものは積極的に学んで行こうとする姿勢である。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.07.08
人は周囲の評価で相当やる気になったり、やる気を失ったりする。理想は人からの厳しい評価は謙虚に受け止め、自らを改善することであり、好意的な評価に対しても謙虚に受け止め、さらに周囲から評価をえる様に努力を継続することであろう。 しかしながら、現実は厳しい評価には、相手の評価が間違っていると反発したり、文句を言ったり、やる気を失ったり、好意的な評価に対しては、有頂天になったり、謙虚さを失ったりすることが多い。 明らかに相手から誤解されて評価されている場合は、その誤解を解くようにすることも時として必要であるが、人それぞれの視点、感性があるので、意見として参考にさせてもらうことが得策のように感ずる。 一方である人から評価を受ける場合、それが仕事であれ、学業であれ、評価を受ける人のごく一部の行動、能力を見ての評価であるため、余り向きになる必要もないであろう。よく言われるように、人間がある人間の全人格を評価することなど、とてもできっこないわけであり、仮に評価するとしても、「その人の良い点を伸ばしたい」、或いは誤りは誤りとして本人の将来を配慮して評価すべきであろう。 私は人の上に立つことでいつも意識していることは、人から評価されていないことで、悩んだり、悲しんだり、不平・不満を持っている人が余りにも多いということである。その結果その人の能力が十分に発揮されていないということも同様に余りにも多いということである。そのような場合、その人の可能性を信じ、期待し、機会を提供してあげることができれば、その人は水を得た魚のように生き生きとし、その人が本来持っている能力の100%、あるいは何倍もの成果をあげる。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.06.17
通常、失敗した時には信頼関係を失い勝ちである。ビジネス上で顧客に迷惑をかけた時、或いは人間関係で相手に迷惑をかけた時などがその例である。しかしながら、失敗直後の自分の姿勢・対応によっては、相手からの信頼を失敗する以前よりも得ることが可能になる。 ある時、度重なる失敗により仕事の納期が1年近く遅れてしまったことがあった。顧客に多大な迷惑をかけたのであるが、そのような時でも、まずは心からお詫びする気持ち、そして何が問題であったのか、現状はどのようになっているのか、といった相手が知りたいことを、迅速に報告する姿勢が大切であると思う。特に失敗直後のタイミングが大切で、すぐに対応すれば相手の気持ちはおさまるが、対応が遅れれば遅れるほど不信感が募り、相手の信用を取り返すことは難しい。 そして失敗をどのように回復しようとするのか、将来に対する具体的な計画について相手から理解を得る努力も必要であろう。 前述の内容をまとめると、当然ながら「相手に対する気持ち」が重要であり、それに加えて相手の立場に立って、過去(何が原因であったか?)・現在(現状はどうであるのか?)・未来(これからどのようにするのか?)についての情報を提供する、しかもタイムリーに、迅速に、かつ継続的に提供する必要がある。 物事は最初からプログラミングされているわけではないので、予想外のことが発生して、失敗することもある。しかしながら、失敗した時にすでに述べたことを意識して相手に接すれば、その姿勢と対応故に、失敗を契機に逆に「彼は信頼できる。いい加減にせず、最後まできっちりと責任を果たしてくれる」といった印象を相手に与えることが可能になる。 成功した時はもちろん、仮に失敗したとしても、相手との信頼関係を深めることができるので、失敗すら大いに活用して、双方にプラスになるような生き方を楽しみとすれば良いのではないかと思う。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.06.14
キーフレーズ:価格競争の結果 ハンバーガーの半額からファーストフードの店で展開された価格競争であるが、どうも結果は今一歩のところが多いように感じる。結局値段が元に戻ったり、新たなメニューを模索するような状況ではなかろうか。 一時の客寄せのためならともかく、無謀な価格攻勢に出るのはどの業界でも長続きしないと感じてきたが、最近次のようなことがあった。駅前に一杯180円のラーメン屋ができ、オープン当初はその価格の安さ、また駅を通過する人に熱心に宣伝していたためか、店は常に満員であった。しかしながら、そのラーメンの中味は180円でしかなく、この先どうなるかのか興味があった。 やがて予想どおり、いくら価格が安くても味の単調さ故に客足も途絶え、店の前を通っても空席が目立つようになっていた。そうこうしている内に、今度は値段を380円にしてメニューを一新した。そしてリニューアルオープンの時は半額で客寄せをしていたので、やはりしばらくは店は満席であった。 けれど、ひとたび180円のラーメン屋で売り出したにもかかわらず、380円に値段を変更するのでは、店のイメージに矛盾が生じてしまう。すぐに客足は遠のき、再び空席が目立っている。 このような状況からどのように脱出しようとするのか興味は続くが、結局価格の安さで集まる人は当然ながら価格信奉者であり、その店の商品、サービスにウエイトを置いていない場合が多いであろう。 安くて良いモノを提供できればベストであるが、それも限界がある。やはり適正価格に基づく、顧客満足があってこそ、適正利潤も得ることができるであろう。 従来の経営戦略の基本は「コスト・リーダーシップ」、「差別化戦略」、「集中戦略」ではあるが、今後は何をもって「差別化」するかが重要になると感ずる。単に顧客満足というだけではなく、何を満足してもらうか、その満足が本質であればあるほど、企業やそこで働く社員も同様に本質的な満足を得ることができ、かつ社会的な価値もでてくる。価格競争も良いが、それだけでは本質的な満足とはならない。生活レベルが世界のトップクラスにある日本は、ビジネスにおいても本質を追求する良き時代に入っていると感ずる。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.06.07
日記がまたまたご無沙汰になりましたが、しばらくウィーンに出張に出ていました。アメリカへの出張は頻繁にあるのですが、ヨーロッパは久々でした。ウィーンは日本より西に位置しているため7時間遅れの時差があります。出張期間中に打合せを早く済ませて顧客とレンタカーでウイーン郊外に出かけました。ウイーンそしてオーストリアは360度どの方向を向いても写真になる美しさにあふれていました。ドナウの流れ、オーストリアアルプス、湖、森・・・と、大自然の美しさと歴史を大切にし、自然やモノを大切にする人々の調和が至るところに見られました。おとぎの国にやってきたような家々も、古いものに価値をおき、大切に使い込む姿勢、そして大自然とマッチした色彩、形を感じました。新築の家も、建材は新品でも表面は敢えて錆びさせてあったりする工夫と配慮があるそうです。大音楽家を数多く生み出した音楽の都ウイーンには、それなりの理由があることを感じます。アメリカにはアメリカの良さ、たとえば、神の下の自由を愛する姿勢は非常に高く評価されるべきではありますが、オーストリアそして多くのヨーロッパの国々がそうであるように、アメリカ型の過剰なモノの消費により満足を求めるのではなく、大自然を愛し、歴史を愛し、そしてモノを大切にする姿、さらにその背景には天地創造主への畏敬の念がある生活こそ、現在の日本人が参考にすべき姿ではないかと感じた1日でした。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.05.28
12日朝に福岡で発生した、登校中の小学5年生の背中にガソリンをかけて火をつけた事件には力を失う悲しみを感じた。被害にあった小学生には心身共の苦痛が少しでもやわらいでほしいと心から願いたい。さらに13日朝にも奈良県で登校中の小学校3年生の女児の首に高校1年生がカッターナイフを突きつけ、5日間のけがをするという事件が発生した。 これらの事件に限らず、最近は連続通り魔事件ほかの凶悪犯罪が日本全国で発生している。かつて世界一安全な国と言われた日本も、何が起きても不思議でない犯罪国家に転落してしまった。 警察庁の推定では、日本国内において覚せい剤を乱用する者の数はおよそ160万人で、何と国民80人に1人という割合である。また20代に大麻汚染が拡大していることが指摘されている。とても信じられない数である。 戦後の日本は何も無いところからの出発で、人々は勤勉に働き、忍耐強い精神力を持ち合わせていたと感ずる。しかしながら、経済大国となり国の繁栄が絶頂期(バブル)を迎えたのも束の間、今度は一転して経済は低迷を続けている。 何もなければ、そのような状況から何かを得ようと努力することで将来への希望もあるが、経済的な絶頂期を体験した後に下降線に沿って落ちて行く時は、おそらく一番精神的に困難な時期となるであろう。現役でばりばり仕事をしていた人が定年退職後にやる気を急激に失ったり、或いは、クーラーが良くきいた通勤電車で快適な通勤に慣れた人が、クーラー無しの電車などもはや耐えられなかったりするように。今の日本がそのような時期を迎えていると思う。 しかしながら、経済的な絶頂期を越えた時こそ、精神的な豊かさが問われる時であろう。多くの凶悪犯罪から感ずることは、「時間と空間にゆとりがない」ことである。例えば「前後の見境なく犯行に及んだ」というのは、自分が行うことがどのような結果を招くかという「時間の流れ」を考えることができないことによる。また「無差別に犯行に及んだ」というのは、「周囲(空間)」に対する配慮ができないことによる。「時間と空間にゆとりがない」ということは、結局「今の自分」しか考えられない、狭い精神状態に陥っていることになる。一朝一夕には解決できない問題ではあろうが、「時間と空間にゆとりがある」教育が必要と思う。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.05.13
夜の遅い飛行機に乗込み自分の席まで通路を歩いていると、乗客の中にはまだ夕食を済ませていない人が何人かいて、サンドイッチやお弁当を食べていた。まだ出発前であったが気づいた客室乗務員はすかさず飲み物を持って行っていた。 何気ないことではあるが、顧客の希望を常に先回りして考えている姿はきっと顧客の心をとらえるに違いない。提供するモノはたった一杯の紙コップのお茶であり、ジュースであったかもしれないが、気持ちのこもった一杯、生きた一杯に仕上げるのは、結局のところ人である。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.05.10
今日4月25日は朝から重苦しいニュースの連続であった。 まず9:00にオープンした東京株式市場では国際優良株であるソニーが寄付きからストップ安(値幅制限いっぱいまで株価が下落すること)で、大引けまでストップ安に張り付き状態であった。それにつられて他の株価も軒並み安で、日経平均は再びバブル崩壊後の最安値を更新し、終値は7699円50銭であった。1982年11月16日以来の安値で、およそ20年と5か月前の水準となった。ちなみにソニーの株価は米国のITバブルがはじける年の2000年3月には17,000円に迫ったが、約3年後の今日は3,220円で引けている。つまり1/5となってしまった。イラク戦争が終われば回復すると期待された株式市場ではあったが、まだまだ予断を許さない状況が続く。 続いて総務省から失業率の数字が発表された。2002年度は調査開始以来最悪の完全失業率5.4%という数字であった。また今年2月から3月にかけて完全失業率は上昇している。 そうこうしている内に、今度は北京で開催中の「米朝中3者協議」で北朝鮮が核を保有していることを正式に認める報道が流れた。以前からうすうす知られていたこととは言え、日本にとっては大きな脅威であることは間違いない。とりわけイラク戦争に勝利をおさめた米国が、北朝鮮に対して強硬な姿勢で臨もうとしている現在、日本は他人ごとでは済まされない。 これらのニュースに加え、連日報道されている新型肺炎の重症急性呼吸器症候群(SARS)が中国、香港、台湾で勢いを弱めるどころか感染者を増やしている。「米朝中3者協議」が開催された北京では相当深刻なようである。 これまで第二次世界大戦の悲劇はあったにせよ、勤勉な日本人は時代の援護を受けながらも高度経済成長期を経て今日の日本を築いた。しかしながら、現在の日本の状況は相当深刻な状況に近づいていることを感ずる。「日本人には哲学がない」と自嘲するような発言をよく耳にすることがあるが、自嘲してあきらめる、或いはうやむやにするだけでは済まされない時代に入りつつあるのではなかろうか。 会社が倒産する時のパターンは、まだ大丈夫と思っている内に事態が手遅れになるということが多い。言い換えれば、従来の成功パターンの経験から、なんとかなるといった安易な姿勢を取る事に慣れてしまっているのである。第二次世界大戦以後の経済発展は、前述の通り日本人の勤勉さは評価されるべきではあるが、いい意味でも悪い意味でも米国からの手厚い支援を受けてきたことは事実で、裏返せば自分自身の責任で判断し、行動することに訓練を積んでいない日本はこれから試練の時を迎えると感ずる。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.04.25
組織が困難に立ち向かう時、責任者は何とか克服しようとして10回、20回と訴えることがある。けれどその困難が大きなものであればあるほど、全体にどことなく暗い雰囲気が漂う。例えばスポーツのチームや、会社組織などでその様なことはよく見かける。 そんな時、責任者の立場を考えて「私が何とかします!」と発言する組織構成員が一人でもいれば責任者は大いに勇気づけられ、またそんな組織構成員の一言により全体が希望的な雰囲気へと一変する。 組織の状態が順調な時はそのようなことは表には現れないが、組織がピンチに立たされた時にこそ、「全体を変える一言」を言える組織構成員がいるかどうかが、その組織の真の実力ではないかと思う。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.04.18
この不景気の中でも、人が集まる店には人が集まっていることを感じます。①店の立地や、②商品・サービスの質に対して価格が納得のいくものであることは大切でしょう。そして③店の雰囲気、④スタッフの対応に顧客を引き付ける要素があるかも同様に大切でしょう。 そして特に注目したいのは、⑤スタッフのチームワークの良さです。その職場を愛するが故に、或いは誇りを持っているが故に、スタッフ全員が機械的ではなく、みんな心から喜びながら、そして楽しみながら働いている姿は実に心地よいものです。そんな場面は次のようなところでこれまで感じてきました。 ある米国のエアラインでは男女の客室乗務員が常に笑顔で、それぞれの担当を生き生きと楽しみながらこなしていました。まるでダンスを踊っているかのような軽やかさです。一人で解決できないことが起きれば、すぐに仲間が助けに来てすばやく解決するわけです。「お客様に無駄な時間を過ごさせない、いつも快適な空の旅をと…」。そんなチームワークを見ているとこちらまでうれしくなります。 またある遊園地は、入園ゲートで気品あふれる制服姿の女性が一人一人を丁寧に笑顔で迎え、そしてどの乗り物コーナーに行っても、親切で明るいスタッフが子供たちを待っていました。決して嫌な顔ひとつせずに。もしスタッフが一人でも嫌そうな顔をすれば、子供たちの夢である遊園地ではなくなります。 あるホテルでは、フロントに不明な点を相談したところ、その心配を打ち消して余りある誠実さで対応してくれました。滞在中には一切の心配、不快な思いをさせないという信念でしょうか。 ある洋菓子店では、ショーウインドウで販売する人も、ガラス張りの部屋でケーキを作る人も、みんな楽しそうに働いていました。まるでおとぎの国にやってきたかのような雰囲気でした。 スタッフ一人一人がお店でお客さんに誠実に対応することと共に、そのお店、或いは職場におけるスタッフ全員のチームワークが、お客さんに与える影響は絶大です。お客さんの心を快適にしたり、元気付けたり、明るくしたりすることができて、そしてスタッフ自身も楽しくなってしまう、「チームワークで仕事を進めること」はすばらしいですね。 【年度末の仕事で身動きがとれず更新が遅れてしまいました】誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.04.08
仕事が積みあがって疲れ切った時、会社からの帰りに中華料理店に立ち寄ることがある。次々に入ってくるお客を席に案内し、注文をとり、調理し、料理を出す。お客が食事を終えると会計に向かい、席を片付け、そして皿洗いと、休む暇なく凄まじい勢いで仕事をしている。 ひっきりなしの注文をひとつひとつ忘れることなく黙々と調理し、山のように積みあがる皿をスピーディーにさばいて行く。交わす言葉もすばやく、動きに無駄がない。決してきれいとは言えない油っぽい中華料理店で、それぞれの分担で汗だくになって働いている姿にまるでショウを見ているような感動がある。 なにもせず時間を過ごす人の姿からは感動を覚えないが、自身の責任を果たそうとする人の姿からは人をひきつける美しさが漂う。責任を果たさず、逃げていては何も変わらないし、動き出さない。 出される料理も気に入っているが、とことん働く姿の美しさを見せてもらい、自分もなぜか元気になって店を出る。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.03.20
友人に年数回ロシア、ウクライナなど旧ソビエト領に出張するアメリカ人科学者がいる。先日その友人がロシア人の良さについて話してくれた。 旧ソビエトにおける経済情勢は、ソビエト当時から今日に至るまで厳しいものがあり、十分な研究資金がない場合が多く、生活にも困るくらいである。しかしながら、科学者たちは世界でトップレベルの優秀な頭脳を持っている。 彼等は資金が不十分であっても最大限の成果を上げようと創意工夫する。また、科学者でありながら自分の家を建てたり、車も自分で修理したりといった風に、1人で幾つものことをこなせる人が多い。 お金があると自分で何かを考え取組むのではなく、お金を支払い誰かに依頼することができるため創造性が育ちにくいこともあり得る。 お金があると、生活が豊かになると誰しも思いがちであるが、必ずしもそうではない。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.03.09
キーフレーズ: 21世紀をリードする企業集団は愛情深き人たちでは社会で自分自身の活動基盤を築き、成功実績を残すためには、多くを学び蓄積することが必要となります。 でも、人が生涯をかけて求めているのは、単に仕事上の知識や、経験、また仕事上の利害でつきあう人ではなさそうです。 本当に求めているのは、生きてゆこうとする動機を実感させてくれ、生き方の深みを教えてくれる愛情深き人のように思えます。そのような人との出会いにより、生活すべてにわたり頑張ってみようとする勇気が湧いてくるからです。 そして人が本当に求めていることを、豊かな個性をもつ個人が集まった企業組織で伝え、表現できれば、なんとすばらしいでしょうか。今の時代が求めるのは単なる外的な知識、技術、モノ、利便性ではなく、その背景にある人への配慮であり、愛情であり、そのような背景を抱いた人が集まった企業集団が時代をリードするような気がするのです。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.02.28
教育、ビジネス、経済、政治など様々な課題が山積し、長いトンネルの中に入ってしまっている現在、もはや対処療法的な改革よりも、根本的な課題解決に向けた取組みを時間がかかっても実行すべき段階ではないかと感ずる。 例えば学校教育にゆとりを与えるために週休2日制にし、教育カリキュラムも低減した。ビジネスにおいても競争に勝ち残るために価格競争に軸足をシフトし、コスト削減のために経営責任に深く立ち入らず社員をリストラした。経済もとにかく目先の景気を盛り上げることで議論が白熱している。政治においても相変わらず主導権争いが優先されているように感ずる。 これらは確かに短期的には一定の効果があるかもしれない。が、傾き始めた社会・国家を長期的展望で建て直すことが可能であるのか甚だ疑問である。つまり対処療法的過ぎるのではなかろうか。 もっと根本的な課題解決に向けた取組みに対して、社会全体が意識し、議論すべき時ではないかと感ずる。生活習慣病を治療するにはそれなりの期間と忍耐が必要であるのと同様に、過去の経緯を伴う社会の様々な課題に対して時間がかかっても、忍耐強く解決を図るべきであろう。 そのような根本的な課題解決のひとつとして、『礼をつくす』ことの大切さを思い起こすべきではないかと個人的には考えている。かつて日本人は『礼をつくす』心をもつことで、評価されていた。『礼をつくす』とは簡単に言えば、相手に対して敬い、礼儀正しくすることである。 『礼をつくす』ということは、相手に対する尊敬と愛情の表れであり、礼をつくされた側が自身の価値を感じ、身を正されるため、さらにはお互いの信頼関係が深まるため、たいへん貴い行為であると感ずる。 ビジネス・経済が『継続的に発展』するためには、古典的だが『礼をつくす』ということが大切ではなかろうか。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.02.24
キーフレーズ:敵か味方か?一般に経営戦略とは『 企業の持続的競争優位を確立するための基本的枠組み 』と、捉えられている。つまり競争に勝たなくてはならないと言っているわけである。確かにビジネスと言えば、競争相手(競合他社)に負けないようにするために、また生き残りをかけて、熾烈な価格競争、コスト削減といったことが連想される。 果たしてそのことは正しいのか? ある意味もっともなことを言っているのであるが、競争だけがすべてでは無いことも感ずる。アグレッシッヴな企業集団であればあるほど、勇猛果敢に突き進んで、相手を打ち負かすことに意欲を燃やすと思うが、落とし穴もある気がする。そしてその落とし穴は深い。 読者のみなさんは競争相手を見た時に、即座に敵と見るか、味方と見るか、どちらであろうか? 私は経験則から、まずは味方と見ることをお勧めする。何らかの形でパートナーになることができないか、最低でも相手から学ぶことはないかという姿勢を大切にするのである。そして常に自分の味方として信頼関係を築くことの可能性を意識し、努力するのである。 物事が好調の時は単独でも走りつづけることができるが、ビジネス環境もかつてのように大量生産の時代、ITと言えば何でも注目された時代ではない。現在ある環境で、如何に顧客が満足できるものを提供し、かつ自分達のビジネスが成り立つかを考える場合、どうしても協力関係が必要になる。そしてその協力関係は一朝一夕には築けないのである。 しかしながら、自社に魅力がなければ誰も振り向いてくれない。相手も味方にしたいと思うような内容なくしては何も起こらない。その点は最低限自社で努力すべき点であり、他人のふんどしでビジネスに成功するほど甘くは無い時代であろう。ただ往々にして、相手が味方にしたいと思うような成功を収めると、相手のことをばかにしたり、無視したりすることが多い。そのような姿勢を続けると反感を抱かれ、いざという時に協力を得ることができない。成功すればするほど、周囲まで意識を配る必要がある。つまり味方にとして信頼関係を築くのである。誰しも困っている時に助け舟を得た場合、そのことのありがたみは格別であろう。逆に困っている時に、突き放されたなら2度と信頼関係を築くことは困難になるであろう。 結局、対立(敵対関係)から得られるものは少ない。経営全般、例えば経営戦略、組織論、オペレーション、顧客サービス、品質管理などについてこのことは言えるのではなかろうか。また今回のテーマは経営のみならず、人間関係全般についても応用できると感じている。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.02.14
いろいろな環境が与えられた時に、ああでもない、こうでもないと文句ばかり言っている人がいる。「会社に明確な方針がない」、「上司が無理を言う」、「住居が狭い」、「通勤時間が長い」、「学校の先生がひどい」、挙句の果てには、「政府は無能だ」、「顧客はわが社の製品の価値を理解できない」、などなど。 けれどこれらの不満を感じた時、それを理由に「思考」、「行動」を停止するのが人間の本来の姿ではない。それらを何とかプラスに転換できないかと、悪環境ですらひっくり返す、逆利用する、「知恵」と「愛情」と「勇気」が人間には備わっている。 不満ばかり言っている人、不満ゆえに自己の責任を果たそうとしない人には、人を感動させる「知性」、「愛情」、「創造性」が乏しい場合が多い。「知性」、「愛情」、「創造性」は楽をして手に入るものではなく、自分なりの努力を積み重ねた時に自然と現れるものであると感ずる。不満を感ずる時、その時を、その事柄を無駄にせず、創造的な「思考」を巡らせ、「愛情」をもって「行動」をとることが豊かな知・情・意を築くチャンスだ。 人生は様々な困難がこれでもか、これでもかと続く。けれどこのことは人間が決まりきったパターンで生きるのではなく、「知性」、「愛情」、「創造性」を最高度に活かし、困難を克服して感動的に生きるための必然のように感ずる。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.02.10
一番うれしい事は何かと聞かれれば人との出会いと感じている。人はそれぞれ成長している。自分を育ててくれた両親も生涯を通じて成長している。だから自分が小さい頃の両親と今の両親では同じ人であっても出会いがある。自分の兄弟についても同じである。自分とは全く違う環境で生活し、仕事をしている。自分が体験できないことを時々教えてくれるのがうれしい。 自分の妻や子供たちも、毎日成長している。そんな姿をじっくり見つめていると幸せな気持ちになる。 職場においても、人との出会いを通じて自分が成長し、成長した自分がよりいい仕事をこなすことができるようになり、さらに人との出会いが増える・・・そんな繰返しが続く。 誰しもやがてこの世の寿命を全うする時が来る。けれどその時まで年をとればとるほど、人との出会いを重ねる。出会いが一番多い老人こそ、間違いなく一番豊かになれる。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.02.05
人と会話する場面で相手が良い印象をもってくれたなら、それがビジネスであっても、パーソナルな付き合いであっても、その後の人間関係はスムーズに進むと思います。「こんな人なら信頼できるし、そばにいてくれるとうれしい」と言った具合にです。 言うまでもなく、ある人が会話する時の言葉による「表現」は、その人の「内面」の現れであるはずです。仮に心にもないことを、きれいな言葉で表現したところで、いずれメッキがはげることになるでしょう。従って言葉を吟味して使うことは、相手に対する思いやりを深めることに通じるため、決して外的なこととして軽視することはできないはずです。一言が相手を不要に傷つけることもあり、逆に相手を勇気付けることもあるのです。 逆に言えば、ある人の言葉による表現から、その人の心の姿勢が見破られるわけで、言葉による表現は大切になると考えます。 魅力的で前向きな表現と、否定的で後ろ向きな表現の比較例を以下に記します。同じことを伝える場合でも、用いる言葉により、相手の印象は大いに変わります。 ●A社の支社長会議の場で、営業担当取締役が支社長に向かって檄を飛ばしています。 (ケース1:…しなくてはならない → 否定的で後ろ向き) 我が社の今期売上として何がなんでも3000億を確保しなければならない。そのためには諸君の支社における最低売上ラインは300億でなければならない。では、そのために何をしなくてはならないのか? (ケース2:…したい → 魅力的で前向き) 我が社の今期売上として何がなんでも3000億を確保したい。そのためには諸君の支社における最低売上ラインは300億を目指したい。では、そのために何をしたいと考えるか? 言葉の響きは聞く側に個人差がありますので一概には言えませんが、ケース1の表現を使った場合、相手に対して緊迫感を与え、雰囲気を引締める効果はあるはずです。そしてこの発言に部下に対する信頼と愛情が伴っていれば、何の問題もありません。しかしながら、もし、「…しなくてはならない」と一方通行で発言すると、誰がしなくてはならないのかが不明となります(客観的、他人ごと)。ここがポイントです。つまり、「発言者」と「相手」に「分裂・無関係」が生じることもあり得るわけです。 一方ケース2の表現を使った場合、より協調的な表現になります。「…したいと」言うことで、「発言者」と「相手」に一心同体のニュアンスが生まれ、発言者にも相手にも責任があることが双方理解できるはずです。また相手の自主性を促すことにもつながります。つまり「分裂・無関係」ではなく、「調和」が生じることにつながるわけです。 もちろん、言葉だけですべての印象が決定されるわけでなく、顔の表情、目の輝き、声の響き、身振り手振りも、相手によき印象を与える上で重要になることはご承知のとおりです。いずれにせよ、協調的な表現により、共通課題に向かおうとする姿勢が、人間関係、交渉の場において信頼を築く第一歩のように思えます。私達が日常さりげなく使っている様々な言葉の表現について研究する価値はありそうです。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.01.28
部下をどの様に指導するかについては、部下の能力・性格などにも依存するでしょうし、またプロジェクト成果に対する要求が、短期的か比較的長期的か?などにも依存するでしょう。 ただどのような状況、場面においても共通することは、「部下の能力が引き出され」、「仕事に自信をもつようになる」ことが大切ではないかと感じます。誰しも、自分の能力が引き出され、自信をもつようになることが嫌だとは普通思わないからです。 特に仕事の内容がチャレンジングであればあるほど、部下には「本当にできるのか?」という不安感がつきまとうわけです。そんな時、上司自ら逃げ出して、責任を部下に押し付ければ、部下との関係は最悪となってしまいます。とは言え、もし上司がすべて行ってしまえば、部下の成長機会まで奪ってしまうことになり、前述の「部下の能力が引き出され」、「仕事に自信をもつようになる」ことにはつながらず、部下が本当の意味で満足行く仕事ができないわけです。必要に応じて、上司自ら仕事の進め方の見本を見せたり、或いは助言したりしつつも、部下の能力が引き出されているか?、部下が仕事に自信をもつようになっているか?、については常に意識を払いたい点です。 さらに部下が成したこと、つまり成果に対する上司の姿勢も重要となるでしょう。仮に成果が失敗であったとしても、ただ部下を非難するだけではだめでしょう。部下のどの点が不十分であったから失敗したかについて、部下自身が気付くような形での分析がまず必要でしょう。しかもその失敗を将来の成功につなげてほしいといった気持ちを込めた対策の提示も必要でしょう。もし、成果が成功であれば、成果そのものの成功と共に、部下自身の能力が向上し、自信をもてるようになったことについて、上司がまるで自分のことのように喜ぶ気持ちの大きさが大切になると感じます。 極論すれば上司として、「部下の能力が引き出され」、「仕事に自信をもつようになる」ための配慮を怠らないということになるでしょう。そのような配慮ができない人は、部下の能力・可能性を殺してしまうため、上司として信頼され、支持されることもないでしょう。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.01.25
仕事がら飛行機には年間100回近く乗っている。そのためサービス業としての航空会社が、どのような接客をしているかについては、いつも関心と興味をもって見ている。これまでどんなサービスがうれしかったかと考えると、結局、形式ではなく、顧客に対する心のこもった姿勢であったように思える。ある名物パイロットの機内アナウンスを聞いて頂きたい。「本日は“世界で最も”安全な○○○をご利用頂き、ありがとうございます。・・・航路上は概ね快晴ですが、途中、紀伊半島上空にさしかかりますと、真っ白な雲がまるで『花嫁の純白のドレス』を思わせるように広がっております。どうぞ窓から、春の日差しを受けた『純白の花嫁のドレス』を心ゆくまでお楽しみください。なお時折揺れることがありますが、揺れましても飛行には“全く”支障ございませんので、ごゆっくりとおくつろぎください。・・・」(まさかと思ったが、花嫁のフレーズは、あとの英語のアナウンスでも同じことを言っていた。)名物パイロットは、“ ”のところを強調し、自信を持ってアナウンスしていたが、さすがに『花嫁の純白のドレス』には、CA(Cabin Attendant:客室乗務員、かつてのスチュワーデス)は、身内でありながらちょっと照れくさい思いをこらえていたようであった。が、乗客はというと、私を含めて、意表をつかれた新鮮なアナウンスに嬉しくなってしまったのである。もちろん飛行機が揺れても、誰もが安心しきっていたのは言うまでもない。さて、飛行機がゲートから出発する時、窓の外を見ると、地上整備員の人たちが手を振って見送ってくれているのをご存知だろうか。「何もわざわざ手を振らなくても」とか、「どうせ航空会社の指示で無理やりさせられているのだろう」と、以前は思ったこともあった。けれど自分たちが、万全に整備した飛行機に愛着を感じ、また飛行の安全を願って、「行ってらっしゃーい」と見送るのは、なかなかいいなと最近は思うようになった。自分の周りにいる人に対して、また出会った人に対して、自分のできる範囲で思いを尽くし、接することで、その人の気持ちを少しでも豊かにできるような生き方はいいな、と思う。できればその人に生きていることの喜びや、充実感を感じてもらい、毎日をもっと大切に生きて行こうと願ってもらえれば最高である。仕事をする時、給料が決まっているので、その範囲でしか仕事をしたくない、或いは言われたことしかせず、楽をしたいという考え方がサラリーマンにはよくある。わからないでもないが、それは誰をも幸せにしない、残念な考え方だと思う。“どれだけ頑張っても、どうせ同じ給料”という発想、“できれば楽をしたい”という発想から脱却して、自分のできる範囲で思いを尽くしてゆくことが、自分にとっても、相手にとっても一番大切なはずだ。例えばパン屋さんで店員をする時、お客さんに愛想なく対応しても、精一杯思いを尽くして対応しても、給料は同じかもしれない。でもお客さんはパンの味と共に、店員の対応に敏感であるのは間違いない。雑な対応をされると、それだけで気分を害してしまう。おいしいパンまでまずくなってしまう。同じ給料しかもらえないから、いい加減にしか取り組まない人は、結局何をしても成功しないような気がする。もう10年以上も前、中国に初めて旅行したことがあったが、その時帰路は香港を経由した。中国の内陸を旅して、いろいろと驚いたが、今でも忘れられないことがある。共産党政権下で、エリート階級を除きどんな職業でもほとんど給料に差がなかったためであろうか、お店で品物を買っても、店員は品物をお客にポーンとほうり投げるように渡すのである。もちろんお客の目を見て、ありがとうございますといった言葉や表情はない。上海の百貨店でも事情は全く同じであった。ところが、国境を越え、香港に入ってから事情は一変し、レストランで衝撃的な感動をしてしまった。レストランに入ると同時に愛想の良い女性が、ようこそ、いらっしゃいと言わんばかりに、笑顔で迎えてくれたのである。商売に笑顔が全くなかった中国の旅から、ワープしたのである。誤解を避けるために付け加えるが、最近の中国は10年前とは変わっている。経済開放路線をとってから、街を歩いていても、客を一生懸命呼び込んでいる風景を良く見かける。少し長くなってしまった。結局、人との出会いのなかで、自分の心の姿勢を通して、相手に感動が伝わり、お互いが近くなってゆくことに、最高の喜びがあるのではなかろうか。 (2001年春のできごと)誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.01.24
キーフレーズ:人との出会いを楽しみにして仕事の関係で海外には年に何度か出かける。幸い会社はビジネスクラスの利用を認めてくれているため、キャビンクルー(スチュワーデス)とは、機内でよく話す機会がある。けれど10時間前後のフライトに乗って、とてもよかったと感じる時と、そうでもない時がある。 その違いは、結局キャビンクルーが、顧客のことにどの程度関心をもって、また大切に思って接してくれるかではないかと考えている。どのように接客するかはマニュアルがあるだろうが、顧客のことを大切に思う心、また顧客と交流することを楽しみと感じる心があるのと無いのとでは、顧客が受ける印象はかなり違うように感ずる。 ある時サンフランシスコから成田に帰ったことがある。その日は満席で、キャビンクルーはサービスをするために駆け回っていた状況にあった。その忙しさを私は感じてはいたが、あえてキャビンクルーに話しかけてみた(ごめんなさい)。すると忙しい中でも、顧客に悪い印象を感じさせてはいけないと思い、ずっと話を続けてくれた人がいた。でもそれだけの時間を費やしたのだから、話が終わると、より忙しく働かなくてはならないわけである。それでもそのことを苦にせず、顧客と交流できることを大切にしてくれるキャビンクルーの姿にはうれしくなる。忙しいなりに集中して顧客に接する、あるいは忙しいことを顧客におしつけるのではなく、かえって自分で消化しようとする姿は顧客に感動を与える。 プロフェッショナルという言葉がある。この言葉のもつ意味(定義)は個人によって異なるであろうが、やはり「技術」を中心としたHOW(方法・手段)を表現している。一方、前述のキャビンクルーの話は、単に経済的収入を得るためだけにキャビンクルーをしているのではなく、顧客との出会いを大切にして、或いは楽しみにしているのではないかと思う。つまり「技術」ではなく、「ハート」を中心としたWHY(目的・動機)を大切にしているわけである。 理想論に聞こえるかもしれないが、私は、会社も、会社で働く人も、その目的は、顧客の内的な成長であるべきだと思う。そしてそのことは、自分自身の成長にもつながる。つまりこれまでの「お金を運んでくれる顧客」という発想ではなく、お互いがビジネスを通して出会い、成長することが楽しみとなる関係が本質と思う。そのような人と人の出会いを通じて、互いが成長し、感性を磨き合うような人間関係が築かれなければ、「顧客満足」と言っても永続性がないと感じる。たとえば安い値段でいいモノやサービスを買うことができたなどという満足は、レベルの低い満足で、互いの「生き方」に良き影響を残すような満足が「顧客満足」の本質の本質ではないかと思う。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.01.18
人のプライドは例えば、悪なるものに自分が染まりたくない、或いは不本意な物事に妥協したくないといった場面ではプラスの効果として働くことがある。 しかしながら、ひとたび自分が間違っていると分かっても、その間違いを認めたくないといった場面では、プライドは残念ながらマイナスの効果となりかねない。政治、経済といった人間社会を扱う "社会科学" の議論を聞いていると、このプライドが議論を非常に非生産的にしていることをしばしば見受ける。 一方、主に自然界を扱う "自然科学" の議論は、答えを自ら実証する必要があったり、それまでに築き上げられた学問体系があったり、またしばしば答えは1つであるため、聞いていて分かりやすい。彼等は自分の理論の基礎を明確に示す必要があるし、無責任な仮定をすれば笑われるだけである。自分の理論の限界を示すのも彼等の流儀である。 政治、経済といった "社会科学" の分野では、最終的なゴールは「不変」であり、かつ「普遍的」なものであるべきであろうが、そこに到るための「施策」は、時代的背景、社会的背景、地理的条件、人口動態などに依存して当然である。 そのため、例えば2か月前に政府が発表した内容が、2か月後に全く逆になっても、本当に必要であれば何の不思議もないはずである。ところが、政治家(特に野党)、また反政府のエコノミストの発言を聞いていると、「政府の方針は2か月前と全く違う! 無責任ではないか?」、「支離滅裂で、論理が通っていない!」と表層的な批判をする。政府だって判断を誤らないように細心の注意を払ってはいても、判断を誤ることはあるわけで、そのような場合には、「これこれこういう理由でその時の判断は間違っていました。」と言えば良いのに、そのように言うことはなかなかできない。即ち自分の誤りを認めたがらない。結局相手を批判し、自己を防御することの言い争いに終始する場面をよく見かける。視聴者のレベルをその程度と見ているからであろうか。余談ではあるが、政治家、エコノミストの知性、愛情、行動力を見極める、視聴者参加型のトークショウを実現すべきではないかと思う。 プライドは時としてやっかいなものである。自分が間違っていると思った時、人の意見を素直に受け入れ、正しい方向にみんなで一緒になって進めば良いのに、プライドゆえに受け入れられない。せっかくの発展・成長のチャンスを自ら閉ざしてしまう。自分中心の、誰のためにもならないプライドが頭を持ち上げた時、要注意だ。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.01.09
寒さで身が引き締まる朝一番、駅のバスターミナルで2人のバス運転手が発車前のひと時、バスの外に出て立ち話をしていた。朝日が差し込み、仕事を始める前の2人の姿がくっきりと目に映った。 長引く不況の影響もあり、職を失う人、十分な賃金を得られない人が増えるなかで、職業が生活の糧を得るための手段という、一番下層の価値として意識せざるを得ない状況に陥っている。しかしながら本来の職業意識は、職業を通じて社会貢献したいとか、誰かのために役立ちたいという、人として自然な思いのはずであった。 人がなぜ仕事をするのかにつては、学者による様々な解釈がこれまでなされているが、例えば次の3分類がある。 (1)金銭的な要求 (2)集団への帰属(孤立を避ける、帰属への安心感、他人の支配) (3)自己実現(自己成長、社会貢献) そしてひとたび(1)が満たされたなら(2)を求め、(2)が満たされたなら(3)を求めることが一般的であるとされている。 社会人は職業を通じて自分自身が成長し、社会に貢献できる喜び・充実感のあることが、子供や学生とは違った点であるはずなのに、社会貢献するための職が不景気でないとは何か妙な話である。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2003.01.07
クリスマスが終わって1週間もたたないというのに、大晦日は長かった1年の最後の日で、明日は新しい年を迎えるためか、街を歩いているとピーンとはりつめた雰囲気が漂う。 どこからともなく流れてくる「もういくつ寝るとお正月・・・」という慣れ親しんだフレーズを聞いては、やはり日本人にはお正月が似合っているのかも知れないと今更ながらに感ずる。 「お正月には凧上げてコマを回して遊びましょう。早く来い来いお正月。」 「お正月にはまりついておいばねついて遊びましょう。早く来い来いお正月。」 21世紀に入り2年めの2002年も、経済状況は好転しないままに終わった。昭和最後の年である昭和64年(1989年)の大納会(年末最後の株式売買の日)では、日経平均株価は歴史的高値の3万8915円となったが、その後のバブル崩壊により今年2002年の大納会では日経平均株価は8578円で引けた。単純比較で1/4以下となり、現在の株価の水準は19年前の状況にある。 世界的なテロ、戦争の脅威を拭い去ることができず、国内外の経済に明るい材料も見えないことから、2003年の経済は相変わらず低迷するのはほぼ間違いないであろう。 しかしながら、いつまでたってもいわゆるバブルのような状況がもはや戻ってこないことを悟った人々は、そろそろ違う方向に生活を見直すのではないか。経済の低迷に嘆いても仕方なく、前述の歌詞の通り、かつて日本の子供たちはハイテクがなくても心から日本の正月を愛し、楽しみにしていたことがわかる。お餅をついたり、親戚の家に遊びに行ったり、そうした素朴な生き方がもっと見直されてもいいのではないかと思う。無制限にお金を使えるようになることだけが、真の幸せにつながるのではないと再発見する2003年であってほしい。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2002.12.31
かつて人類の歴史には国や、権力者により人々が支配されてきた時代があった。様々な封建制度、奴隷制度、植民地政策などがその例である。しかしながら、時代の進展と共に、多くの犠牲を払い民主主義、自由主義が現れ、人々は自由を獲得してきた。とりわけ第2次世界大戦以降、多くの植民地が列強諸国の支配から独立し、さらには社会運動により、個人の自由、権利が保証されるようになってきた。しかしここにきて個人の自由、権利を余りにも追求しすぎた結果、とりわけ"周囲の人を忘れた自由"を追求した結果、大きな反動が返ってきているように見える。例えば電車内でマナーの悪さをほんの少し注意したことが原因で、口喧嘩ならともかく、暴行、殺人事件にまで発展している。また親子間においてすら、プライベートを重視する余り、十分なコミュニケーションが無い場合もある。まさに、さわらぬ神にたたりなしといった状況すらある。即ち追求してきたはずの個人の自由により、社会があたかも仕返しを受けているかのようである。 現代は真の自由とは何かを再び、しかも根底から問い直す時代を迎えているように思える。かつては強大な権力による支配から逃れるために自由を求め、一応の自由を得た個人ではあるが、行きついた所には必ずしも真の自由はなく、今一度"本来あるべき全体"の中での"人とのつながり"を模索しているのではなかろうか。結局個人と言えど全体の中に存在しており、全体を無視した個人がありえないのは自然である。時代が大きく変化する時にはパラダイムシフトがおきる。パラダイムシフトとは、これまで当たり前とみんなが信じていた考え方の枠組みが、根底から覆されることを言う。これまで権力により支配し、支配されることが当然の"ピラミッド支配型の組織"であった。そして前述の通り、そのような権力支配から逃れようと個人の自由を人々は追及してきた。今後21世紀は全く逆の発想で、能力や地位のある人がより多くの人を、愛情と責任をもって下から支える"逆ピラミッド支持型の組織"に発展するのではなかろうか。過去の"支配型の全体"の中では満足できなかった人も、本来あるべき"支持型の全体"の中では自己貢献を通じて最高の喜びを得るのではなかろうか。自分のために、他人を犠牲にするといったことは、次の時代ではもはや考えられない「時代遅れの発想」になるかもしれない。最近ではマスメディアの影響力もあり、政界、財界において、個人の不正に対する追求は厳しい。これもそういったパラダイムシフトの始まりを告げているような気がする。すぐには目立たないが"支持型の組織"が、今後じわりじわりと時代を変えて行きそうである。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2002.12.30
人生も半ばを超えてくると、これまでの自分の生き方を振り返ったり、これから残りの人生で何ができるか考えたりすることが多い。またたくまに生活環境が豊かになった1960年代の高度経済成長期を経て、経済成長安定期、さらには80年代後半のバブル崩壊と時代は流れて行った。 経済がどん底にある現在と言え、かつての繁栄のおかげで日本にはまだ余力がある。しかしながらここで日本も踏ん張らなくては、これまで築き上げた「和を大切にする勤勉な日本人の文化」が消え去ってしまうのではと残念でならない。 日本の文化の起源をいつにするかは様々な議論があるだろうが、もし2000年の歴史があるとすれば、過去2000年という期間で現在以上に生活レベルが豊かであった時代は無論ない。にもかかわらず日本人は過去において世界に類を見ない優れた文化を築いてきた。それがバックボーンとなり、敗戦直後においては2つの原爆を体験し、世界のどの国よりもみじめな状況であったにもかかわらず、逆境を跳ね返して世界屈指の経済大国にまで発展してきた。ところが、経済的に超大国となったと同時に、文化的衰退が始まっていた。ある意味、国家レベルの「大企業病」に陥ったとも言える。日本には「人との和」があっても、また「家族」、「氏族」を大切にするという「和」があっても、その枠を超えたより広い範囲について深く考察する哲学が十分になかった結果かもしれない。それは海外との交流が限られていた島国の悲しさでもある。 現在の日本の社会状況を変えるためには、タイトルにあるように、いったいこれからの21世紀に「何がしたいのか」について一人一人が考えてみるのも良いのではなかろうか? 経済的繁栄はすでに世界トップクラスを経験済みである。アジア諸国を旅すれば、如何に日本が生活環境においては充実しているかについて強い衝撃を受けるはずである。 会社で不満ばかり言っている人、責任を他人に求めてばかりいる人は、意外と「何がしたいのか」について明確な自身の意見を持ち合わせていないことが多い。「何がしたいのか」がはっきりしている人は、行動するのみであるからである。 成田空港を飛び立ったジャンボジェットが、目的地のNYケネディー空港がどこにあるかわからなければ、あるいは鈍った計器しかなければ、さらには飛行機を操縦するパイロットがいなければ、飛行機は墜落せざるを得ない。「何がしたいのか」 即ち、目的を明確にした生き方、とりわけ世界に通ずる普遍的な目的に沿った生き方が、経済環境はすでに十分整った現在の日本において重要となるのではなかろうか。人まかせ、或いは成り行きではなく、自分で目的地を確かめ、計器を整備し、操縦桿を握る時代の到来を感ずる。 誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2002.12.26
個人が会社という組織に属するということには、プラス・マイナス両面の効果があるように感ずる。マイナス面とは、生活のため、或いは義務感で会社に出勤するといった従属感、或いは長引く経済の低迷により、会社組織と言えどあてにならないという不安定感である。しかしながら、一方では個人が会社に属しているからこそ、発見・体験でき、可能となることがあるというプラス面は見逃せない。 例えば、会社の業務を通じて様々な能力を身に付け、社内外の人との出会いの場が与えられる。また出張を考えてみても、個人で東京-札幌を往復するだけですぐに万単位の出費となるが、会社では出張旅費が支給され、仕事とは言え、見知らぬ土地を訪れることができる。 さてタイトルにあるレバレッジ効果であるが、従来レバレッジ効果というと、借入金による利益拡大を狙った財務レバレッジが有名である。わずかな元手(自己資金)しかなくても、借入金により大きな利益を産み出し、自己資本利益率をてこ上げするという意味でレバレッジ効果(てこの効果)と呼ばれるのである。(注:もちろん借入金の金利以上の利益をあげなければ、この話は成立しない。) 会社によって教育され、機会を与えられること、即ち、人材への投資は、会社にとっては大したお金で無いかもしれない。しかしながら、社員にとっては個人では不可能なことを可能にしてくれる。つまり個人の能力、経験が会社の投資により、てこ上げされるレバレッジ効果が現れるわけである。 一方、会社は人材投資によって損をするかと言えば、そんなことはない。適切な人材投資は、人を育て、組織力を高めて行き、いずれ会社に大きなプラスとなるわけである。即ち、会社にとってもレバレッジ効果が働くわけである。 但し、会社にとっても、社員個人にとっても、このレバレッジ効果がうまく働くためには、会社と社員の信頼関係が必要となる。うまく働かない例は、社員研修などと言っても、ほとんど形式的で身が入らなく、時間とお金の無駄遣いということが挙げられる。 会社と社員、先輩と後輩、上司と部下との関係において、互いに学び合い、教えあい、連携をとることができれば、この人材投資によるレバレッジ効果を存分に発揮でき、その組織は大きな組織能力を確立・継承することになるであろう。組織全体がまさに「てこ」の効果で飛躍するのである。 ところが残念ながら多くの会社では、セクショナリズム、無関心、或いは従属的な人間関係により、縦・横のつながりは薄く、ある個人の能力を全体で共有しようとする仕組み、システムに欠けていることが多い。その理由は簡単で、自己中心という考えにより個人や組織が支配されがちであることによる。もし自己中心という枠組みから抜け出した企業が現れたなら、レバレッジ効果により、ほんのわずかな人材投資が、恐ろしいまでの威力を現すに違いない。特により能力ある者が、積極的に指導に当り、教えられる側も自主的に、前向きに受け止めるのであればである。 さて、テレビ東京月曜夜9時から「愛の貧乏脱出大作戦」という番組があった。客の入らない貧乏な飲食店経営者が、超人気店の料理の達人のところに修行にでかけて、再起をはかる番組である。この番組が繰り返し発信していたことは、どんなに達人がすばらしくても、修行する本人が心を入れて学ぼうとする気迫がなければ、料理の技は相続されないこと、しかしながら、ひとたび本気になって学べば、達人の腕は短期間でも相続されるということである。まさに、人材投資に関するレバレッジ効果である。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2002.12.22
現実の様々な社会問題を見つめますと、日本、そして世界の未来は楽観視できませんが、21世紀が「競争の時代」から「協調の時代」、或いは「共創の時代」へと転換する世紀ではないかと感じています。 21世紀に入る前は、個人、企業、国家といった、人或いは人がつくり上げた組織は「競争」社会の中にありました。競争は時として成長にもつながりますが、ややもすると競争故に、嫉妬心、復讐心が前面に現れ、自己中心、相手を否定し、相手を蹴落としてでもといった姿が人間社会に拡大し、最終的には非効率的な社会とならざるを得ないと考えます。 一方、そのような競争社会に限界を感じた人たちが、競争ではなく「協調」、「共創」の社会のすばらしさを今後次第に実感するのが21世紀ではないかと考えています。協調、共創は相手を肯定し、共に何かを築こうとすることを意味し、そのような社会は最終的には競争社会よりはるかに効率の良い、また愛情と信頼にあふれた社会になるのではと思うのです。例えば、ヨーロッパなどではフェアトレイド(公正な貿易)を通じて、経済後進国に対して力で搾取するのはやめようという動きがありますし、同じくヨーロッパでは「法令遵守投信」として、社会的な責任を果たそうとする企業に投資をする動きがあります。さらに経済のグローバル化に伴い、多社が乱立して熾烈な競争を繰り広げることに限界が生じ、多くの業界で吸収・合併、再編成が進まざるを得ない状況にあります。従来、吸収・合併が進めば、独占の弊害が生じたものですが、熾烈な競争を経て学習と経験を積んだ企業が、もの事(例えば価格)には「適度」「適正」があることを知り、もはやその分野で競争するより、顧客のハートに響く製品、サービスを通じて顧客と何かを創りあげて行くような方向を選ぶのではないかと感じています。たとえば、ショッピングモールなどで、オープンスペースを開放し、コミュニティーを創りあげることはよく知られています。或いはわが社の製品、サービスを利用してもらうと、元気がでる、うれしくなる、希望を感ずるようになるといった、顧客のハートの中に価値をつくりあげる「協調」「共創」です。誠心誠意助け合い主義https://tasuke-i.jp/モデル都市推進本部
2002.12.19
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