Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月29日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-13
真理と学問
Ⅴ:認識と現実-2
 我々は、学問の歴史が我々に十分過ぎるほど示してくれているところの学問においてのみならず、日常生活においても、こうしたかくも虚しい思考の試みをしている。このことは疑いえないことである。ただし、どのみち我々の身に大抵起こる単純なケースにおいては、正しい思考の試みが誤った思考の試みの代わりにかくも迅速に現れるので、これらの誤った思考の試みは、我々には全く意識されないか、もしくは稀にしか意識されない。カントには、彼の「統覚の綜合的統一」のもとでの世界内容の体系的な分類という目的のために、我々が導き出したこの思考活動が念頭に置かれている。しかしその場合、この同じ人物が、思考の固有の課題を意識することがいかに少ないかは、この綜合が行われる規則から、純粋自然科学のア・プリオリな法則が導き出されうると彼が考えることから明らかになる。その場合彼は、思考の綜合的活動が単に本来の自然法則の獲得の準備段階であるとしか考えなかった。我々は世界像から何らかの内容 aを引き離し、同じように他の内容(b)を引き離すと考えよう。(a)と(b)の間の合法則的な関連の認識になるならば、思考はまずaをbとのそのような関係の中にもたらさなければならず、その関係によって、我々には存在する依存が所与のように見えるということが可能になる。つまり、自然法則の固有の内容は、所与から結果として生じ、そして、思考にはただ次のようなことが属性として含まれるだけである。即ち、世界像の諸部分が、それらの合法則性が明白になるような関係にもたらされるきっかけを引き起こすことがである。つまり、客観的な法則は、思考の単なる綜合的な活動からは、決して結果として出てはこないのである。そこで我々は、単なる所与の世界像とは対照的な、我々の学問的な世界像を制作する際に、思考がどのように関与しているのかを問わねばならない。我々の説明から、思考が、合法則性の形式を調達することが結果として出てくる。前記の我々の図式において、a が原因であり、b が結果であるということを仮定しよう。もし思考が、因果性の概念をつくることができないというのなら、aとbの因果連関は決して認識になりえないだろう。しかし、所与の場合における aを原因として、bを結果として認識するためには、あの両者が、原因と結果のもとで理解されるものに一致することが必要不可欠である。同様にそれは思考の他のカテゴリーとも存立する。ここでスコットランドの哲学者ヒューム(David Hume/1711年-1776年)の因果性の概念についての詳述をいくつかの言葉で指し示すことは、この場に役立つだろう。ヒュームは、原因と結果の概念はその起源をただ我々の習慣の中にのみ持っていると言った。我々は屡々、一定の出来事の後に他の出来事が続くのを観察し、そして両者を因果的結合において思考することに慣れている結果、最初の出来事に我々が気づくとき、次の出来事が起こることを予想する。しかし、この解釈は、因果関係についての全く間違った観念から出発している。もし私が、私の家の門から出る時に、一連の日々を通じて常に同じ人間に出会うならば、私は確かに、次第に両者の出来事の時間的連続を予想することに慣れるだろう。しかし、ここで、同じ場所で、私が現れことと他の人間が現れることの間の因果連関を確認することは、私には全く思いつかないであろう。ここで挙げた事実の直接的帰結を説明するために、私はなおも世界内容の本質的な他の部分を探し出すつもりである。我々は因果連関を、まさに時間的連続によってでは全くなく、原因と結果と呼ばれる世界内容の部分の内容的な意義によって規定する。 思考が我々の学問的な世界像の実現に際して、単に形式的な活動をすることから、以下のことが結果として出てくる。つまり、全ての各々の認識の内容は、観察(思考が所与と取り組むこと)以前にア・プリオリに確定するものではなく、観察から余すところなく生まれなければならないということがである。この意味で、我々の認識一切は経験的である。このことが、どうして経験的ではないものになりうるのかも全く把握しえない。というのも、カント的なア・プリオリな判断は、根本的には全く認識ではなく、ただの要請だからである。カ
ント的な意味では、常に次のようにしか言うことができない。即ち、或る事物が可能な経験の客観[対象]になるならば、その事物はこの諸法則に従わなければならないと。つまり、主観が客観にもたらすのは準則なのだと。しかしなおも所与についての認識が我々に与えられるならば、認識は主観性からではなく、客観性から生まれなければならない、と確信することになるだろう。
思考は所与についてア・プリオリには何も言述しない。しかしア・ポステリオリに現象の合法則性が現れるときの基礎となるあの[知的直観の]形式を、思考は生み出す。このように、認識によって得られた判断が有する確かさの程度に関しては、ア・プリオリには何一つ言うことができないということは明らかである。というのも、その確かさもまた、所与そのものからでなければそれ以外の何からも得ることはできないからである。この主張に対して、次のような反論がなされうる。即ち、観察は現象の何らかの関連が一度起こることしか決して言わないし、この関連が起こらなければならないということや、同じ場合に常に起こるであろうということは言わないという反論である。しかしこの反論もまた誤謬である。というのも、私が世界像の諸部分間の一定の関連を認識するとき、この関連は、我々の考えでは、この諸部分そのものから結果として生ずるもの以外の何ものでもなく、私がこの諸部分に付け加えて考え出すものでもなくて、この関連も、本質的にこの諸部分に属しているものであり、つまり、諸部分そのものがそこに存在するならば、必然的に常にそこに存在するはずのものだからである。
学問的営みの一切は、経験の諸事実を、その諸事実の外部に存在する主格律に従って結びつけることの内部に存する。このことを出発点とする見解のみが、a とbが今日はこの法則に、明日はあの法則に従って結び付けられうるということを考えることができる(J.S.ミル)。しかし、自然法則が所与に由来し、従って現象の関連を認め、規定するものであるということを理解する者に、観察から得られる法則の単なる相対的な普遍性について語ることは決して思いつかないだろう。以上をもって我々はもちろん、我々によって一度正しいと仮定された自然法則が無制約にさえも妥当するはずであると主張したいのではない。しかし、もしものちの事例が、打ち建てられた法則を覆すならば、このことは、同じ法則が最初に単なる相対的な普遍性しか持たずに推論されえたことに起因するのではなく、法則が当時も完全に正しく推論されていたわけではないことに起因するのである。純粋な自然法則というものは、所与の世界像の中の関連表現すること以外の何ものでもなく、これがあれがなくても存在するように、自然法則が規制するところの諸事実がなければ、自然法則も同じように存在しない。 我々は前記で、所与の世界像は思考によって概念と理念を混入させられるということを、認識行為の本性として規定した。この事実から帰結するものとは何か。もし直接的に与えられたものの中に閉じられた全体が含まれるならば、認識における直接的に与えられたもののそのような加工は、不可能であり、無用であろう。その場合には我々は所与を単純に、所与があるように受け入れるだろうし、このかたちでそれに満足しているだろう。我々がその直接性の中所与を考察するときに、まだ現れていないが、思考によってもたらされる秩序の助けを借りて初めて現れるものが、所与の中に隠されて存在する場合にのみ、認識行為は可能である。思考上の加工以前に所与の中に存在するものは、その完全な全体ではない。もし我々が、認識行為において考慮される諸要因をより詳しく取り上げるならば、以上のことは直ちに更に明らかになる。この諸要因の第一は所与である。所与であることは所与の性質ではなくて、認識行為の第二の要因に対する所与の関係を意味する言葉に過ぎない。つまり、所与がその固有の本性に従って何であるかは、この規定によっては全く暗闇の中にあるままである。第二の要因、つまり所与の概念的内容を、思考は認識行為において必要不可欠なものとして所与と結びついて見出す。我々はここで次のように問うてみよう。1)所与と概念の区別はどこに存するのか。2)それらの統一はどこにあるのか。これら二つの問いの解答は、間違いなく我々の前述の研究の中で与えられている。区別は認識行為の中にのみ存し、その結びつきは所与の中にある。そこから必然的に、概念的内容は所与の単なる一部に過ぎず、認識行為は認識行為にとって最初は区別されて与えられた世界像の構成要素を互いに統一することの中に存するということがわかる。従って、所与の世界像は、思考によってもたらされる、あの間接的な種類の所与であることによって、初めて完全になる。直接性の形式によって世界像は、最初に全く不完全なかたちで示される。
世界内容において初めから、思考内容が所与と統一されているならば、認識は存在しないだろう。というのも、所与を越え出る必要はどこにも生じえないだろうからである。しかし我々が、思考を用いて、そして思考において世界の全ての内容を生み出そうとするならば、同じくらい認識は存在しないだろう。というのも、我々が我々自身で生産するものを、我々は知る必要がないからである。つまり、認識は、世界内容が元来は次のような形式で我々に与えられていることに基づいている。即ち、不完全であり、世界内容を完全に含むのではなく、その形式を直接的に差し出すもの以外にもなお、第二の本質的な側面を持つ形式である。この第二の、元来は与えられていない世界内容の側面は、認識によって露わにされる。つまり、思考において選り分けられて我々に現れるものは、空虚な形式ではなく、諸規定(諸カテゴリー)の総計であるが、しかしその諸規定は、それ以外の世界内容に対する形式である。認識によって得られた世界内容の形態において、説明された世界内容の両方の側面は統一されており、この形態が初めて現実と呼ばれうる。
記:デイヴィッド・ヒューム(David Hume/1711年-1776年)は因果について詳細に検討した結果、因果に関する問題を四つに分け提示した。

因果の推論(causal inference)について
因果の原則(causal principle)について
必然性についての三つの疑問
ヒュームは、因果関係の特徴は「でなければならない(must)」という考え、あるいは必然性にあると見なした。しかし彼は、原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはなく、事物は我々にそのような印象を与えないと論じ、「である(be)」あるいは「起こる(occur)」でしかなく、「must」は存在しないと主張した。一般に因果関係といわれる二つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、あくまで人間の側で勝手に作ったものにすぎないのである。では「原因」と「結果」と言われるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づいて未来を推測する、という心理的な習慣である。ヒュームは、それまで無条件に信頼されていた因果律には、心理的な習慣という基盤が存在することは認めたが、それが正しいものであるかは論証できないものであるとした。後世この考えは「懐疑主義的」だと評価されることになった。

参照画:David Hume





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最終更新日  2024年02月29日 06時19分55秒
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