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ルドルフ・シュタイナー「精神的な探求における真実の道と偽りの道」 (GA243)トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日-22日 佐々木義之 訳第四講 意識の変容による別世界への探求の秘儀 人間の様々の意識レベルに関係する限りにおいての鉱物界の形態、実質、金属性についてお話ししましたが、ある種の金属実質にまで観察を広げる前に、私の立場を完全に明確なものにしておかなければならないでしょう。私がお話ししたことから容易に想像されるのは、通常とは異なる意識状態を引き起こす方法として、私がこれらの物質を栄養の形で摂取することを推奨しているのではないかということかも知れません。内的な訓練と規律によって精神的な洞察を達成する方法について議論するとき、しばしば耳にするのは次のような言葉です。別の世界の事物や他の意識状態について知るのは大変結構なことだが、推奨されているような訓練を実行するのはあまりに難しすぎ、時間がかかりすぎる。多分、このような人々は、その内、訓練を始めるのですが、しばらくすると、生活上の直接的な要求が介入してきます。彼らは自分に染み込んだ習慣を犠牲にしたくありません。次第に情熱を失い、訓練はいつのまにか止んでしまいます。これらの人々が何も達成しないのは驚くにあたりません。彼らは、精神的な訓練をする必要があるというのはあまりにも退屈なことであると考えるのです。彼らは、例えば、ある種の金属の性質が別の意識レベルに関係している、というようなことを聞くと安心します。死者との精神的な絆を保つためには若干の銅を摂取するだけでよいならば、そうしない手はない、それでより高いレベルの意識を発達させることができるならばと考えるのです。当時は、当然のことながら、秘儀参入者によるつききりの指導の下に行われた、という違いがあったにせよ、古代の秘儀において採用されていた訓練も大体同じようなものだったと聞くと、よけいにその考えが魅力的なものになります。そして、彼らは、このようなことを聞くと、どうしてこれらの古い訓練を復活させないのかと不思議がります。けれども、彼らは、人間の肉体的な組織全体が当時は今とは異なって構成されていた、という事実を見落としています。その当時、そして、カルディア時代に至るまで、彼らは現在の私たちのような知性を欠いていました。考えは今日のように自ずと浮かんできたのではなく、インスピレーションを通して彼のところにやってきました。ちょうど今日の私たちが、自分でバラの赤色を創造したのではなく、バラの印象を外から受け取っているのだということに気づいているように、古代の人々は、思考が外的な対象物を通して伝達されているということ、つまり、思考が彼らに吹き込まれ(イン-スパイアされ)ているということに気づいていました。これについては、彼らの肉体組織が、そして血液の組成さえもが異なって構成されていた、ということの中にもその根拠を見いだすことができます。そのため、人々が精神的な訓練を遂行するのを助けるために、私がお話しした金属を高度に効能化した形で、つまり、今日、私たちがホメオパシーと呼ぶ処方にしたがって服用することが可能だったのです。カルディア時代の人間が高度に効能化された銅を処方されたと想像してみましょう。彼はそれを服用する前に-当時、よくやられたことですが-ある特別な精神的訓練を遂行するように指導されました。そのような場合には、高度に効能化された銅を摂取する前、何日間というより、何年にもわたるトレーニングが要求されました。そして、彼は、その肉体的な構成が私たちのものとは異なっていたために、その訓練を通して、彼の血流に乗って循環するこの細かく分散し、高度に効能化された銅が彼の上半身に及ぼす働きを辿ることを学びました。この注意深い訓練の後、銅が処方されたとき、彼は彼の言葉にあたたかさが付け加えられた、という内的な感情を持ったのですが、その理由は、彼自身が彼の喉頭と喉頭から脳に導く神経の中にあたたかさを生じさせていたからです。さて、彼は、彼の肉体的な成り立ちが異なっていたために、彼の中で起こっていることに対して、非常な感受性を持って反応することができました。もし、今日、誰かが高度に効能化された銅を同じような条件下で服用するとしても、もちろん効果があるでしょうが、喉頭への作用以上のものは生じないでしょう。このように、当時の人間の肉体的な成り立ちは今日の人間のそれとは異なっていた、ということを理解することが重要なのです。そうすれば、古代においては普通に行われ、中世においてもなおしばしば行われたやり方であったとしても、薬剤を服用することによって別の意識状態を生じさせようなどとは誰も思わなくなるでしょう。現時点において唯一の有効な方法は、昨日お示しした銅の本性を、その本質的な存在を内的に感じ取り、それによって、磨かれた銅の色や硫酸銅溶液中の銅の振る舞いに対する敏感な反応を発達させることなのです。この反応に集中し、それについて瞑想することによって、この反応が正しく行われていることを確認することができるでしょう。しかし、皆さんは次のように反論されるかも知れません。私の本、「より高次の世界の認識」には、この銅に対する反応を発達させるためにはどのような準備段階を踏むべきかについての示唆がなされていないではないかと。それはそうなのですが、原則的には、私の本の中で、銅について特別に触れられてはいませんが、方向性は与えられています。人はどのようにして結晶や植物等の存在の中に入っていくべきかについての記述があり、その予備的な訓練法が示されています。けれども、もちろん、銅の本性についてどのように瞑想すべきかについての情報は与えられていません。そのためには一冊の本、というよりひとつの図書館が必要になるでしょう。既に方向性が与えられていることから、例えば、自信を起こさせるための訓練、何か特別な主題や対象に集中するときの訓練もまた必要がありませんでした。そのような訓練は、実際、銅の本性についてお話しした内容によって既にカバーされているのです。銅の本性について瞑想するべきであるということを示唆する特別な記述はありません。朝夕に瞑想するという目的のためには、何か単純な主題やテーマが選ばれるべきである、ということが示唆されています。それは銅の本性について瞑想するのと同じなのです。それは単にその金属としての性質を引き合いに出すような瞑想のための主題として与えられているにすぎません。「叡智が光の中で放射する」というような何か特別なテーマについての瞑想は、もし、熱心に実行されるならば、内的な生活に決定的な影響を及ぼします。その効果は、誰かが銅の本性をあらゆる角度から探求し、その物理的な側面に集中するとしても同じでしょう。私たちのアプローチは、まず第一に道徳的な立場から、そして、第二に物理的および化学的な立場からなされますが、化学者でもない限り、道徳的な立場から精神世界に参入する方がずっとよいのです。ですから、ものごとはその正しい関係性において見る必要があります。と申しますのも、今日の人間が、精神世界への洞察を得るために、古代の方法に無批判に従うのは間違いであるかも知れないからです。外的、物理的なアプローチを、より道徳的、精神的なアプローチに置き換える、というのが現代の正しい道筋です。肉体組織の発達とともに自然に対する人間の関係全体が変化しているのです。今日、血液や体液の組成、そして、肉体的な構成全体が古代カルディア時代とは異なっています。このことを解剖学的な分析によって証明することはできません。解剖学者は死体の解剖にそのほとんどの時間を費やす、というのがその第一の理由です。最近、学会は警告を発し、もっとたくさんの死体を、と騒ぎ立てています。解剖学者は生命の隠された秘密を探求するには、死体が不足していると考えているのです。けれども、この調査を遂行するにあたって、カルディア人の死体を調達するのは容易ではないでしょう! 第二の理由は、その粗雑な技術をもってしては、生命の隠された秘密に対する答えを見いだすことはできない、ということです。それは精神的な方法によって探求されなければなりません。私たちの肉体が古代人のそれとは異なって構成されていることから、次の点を明確にしておかなければなりません。今日でも、高度に効能化された物質、例えば、金属の潜在力を調製することが可能ですが、その理由は何なのでしょうか。それは私たちが自然の現実的なあり方に対するより深い洞察を有しているからである、というのがその説明です。もし、私たちが人体の本性を本当に理解しているならば、私たちは、その機能が既にお話しした金属-錫、銅、鉛等々-によって変化させられるということを知っています。私は、まず第一に、それらが意識の状態を変化させる、ということを示しました。しかしながら、今日、私たちはその変化が、いくらか世俗的な表現ですが、普通の生活においてさえ体の中で生じるということに気づいています。例えば、私たちが、昨日指摘したあの銅の働きを放射する体の領域において変化を経験すると仮定してみましょう。そのような変化はすべて消化器官の障害の中に、つまり、新陳代謝系の中に-主として栄養分の代謝、消化や同化に関係する器官の障害の中に投影されます。私たちが病気と呼ぶところの人体組織におけるそのような障害のすべては、異なる意識状態の喚起にも結びついているのです。このことが示唆するものすべてを心に留めておかなければなりません。さて、有機的な病気の意義とは何なのでしょうか? 私は昨日、今日の人間にとって、通常の状態である覚醒意識は心臓中心にある、と言いました。別の意識状態はその他の器官に関連していますが、それらは絶えず意識下に留まっています。喉頭から脳までの範囲を含む喉頭の領域は、いつでも、昨日記述した通常の状態に連なる意識状態の中で生きています。消化器官近傍の領域は死者と同じ時間軸を共有しています。人間は絶えずこの意識状態に与っており、生前、個人的に知っていた人の死後の経験を共有するのですが、それらは心臓においてではなく、心臓の「下」で経験されます。ですから、彼はこの経験について何も知りません。それは無意識の中に、意識の敷居下に留まっているのです。人間が死者と精神的な結びつきを持つそのような領域において、例えば消化不良のような何らかの障害が発生するとき、心臓中心より下の意識が変化し、あまりにも活発に作用し始めるのです。では、ある種の胃の不調はどのように説明できるのでしょうか? 物理的な観点から見れば、それは単に臨床医の診断のためのラベルに過ぎません。ところで、ここで提示される観点は決して医学による純粋に物理的なアプローチに反対するものではありません。私はその価値を認め、評価しています。私たちは、人智学徒として、オーソドックスな医学を侮ったり、批判したりする道楽家や素人あるいはいかさま師の態度は取りません。私たちは完全にその発見を受け入れます。誰かが胃の不調を訴えるとき、その兆候を医学的に診断することは可能なのですが、その胃の状態の結果として、彼は死後間もない死者の生活に与ることがより可能になっているのです。もちろん、治療が始まる前には、医学的な診断がなされますが、精神的な立場からは、そのような人は彼が地上で知っていた魂たちとの死後の精神的な結びつき保持する必要性を感じている、と言うことができるでしょう。けれども、彼は心臓の下に横たわる意識の中に入っていくことができません。彼は死者との交わりに気づかないのです。その種の不調の精神的な側面とはこのようなものです。胃の不調は死者にあまりにも強く引きつけられるために生じるのです。そのような条件下では、人は死者に支配されます。私たちは、昨日示したように、物理世界に比べてずっとはるかに現実的なあの世界からの影響を強く受けているのです。私たちの前に天秤があると想像してみましょう。針が振れていても、別の天秤皿に負荷をかけることによってゼロの読みが回復されます。あまりにも強く死者に引きつけられ、それに全く気づかないほどこの心臓下の意識に対する異常な感受性を発達させた人に見られる非平衡状態は、一方の側に負荷をかけられた天秤皿に似ています。平衡は反対側に同等の負荷を加えることによって回復されます。このように、もし、心臓下の意識があまりにも活発であるならば、喉頭の領域における意識を減退させなければなりません。心臓は中央に位置しています。それは調整者であり、その上で天秤棒が振れるくさび形なのです。平衡は銅を服用することによって取り戻されます。今日の人間の体は喉頭が銅に反応するような仕方で構成されているということを既に指摘しました。(rot:赤色 orange:オレンジ色 zu starkes Bwusstsein:強い意識へ)新陳代謝系と喉頭システムは天秤の両側のように密接に関連しているのです。片方はもう片方によって調整されることになります。銅が適切に処方されて服用されるならば、患者はいくらか死者の領域から退き、それによって健康を享受する方向に向かうでしょう。そうでなければ、彼はますますその領域に同化します。これが治療の精神的な側面です。ですから、今日、私たちはすべての物質が物理的な側面と同時に精神的な側面を有している、ということを知っています。昔の秘儀参入者たちは弟子たちのためにその物理的な側面を利用することができたのですが、それはただ弟子たちが広範な訓練を経た後でのことだったのです。今日ではもはや、同じようなやり方でそれを使用すべきではありません。今日、魂を開発するための領域はその道徳的な属性においてであり、物理的な属性は医師の領域なのです。物質の物理的な側面に精通し、それに関する詳細な研究を行う機会を有している人がその情報を物質の道徳的な側面に関する知識によって補う、というのは重要なことです。このことは、現代における知覚や、精神的な手段の分野における知覚にとって、厳守されるべきことです。人間の有機体は時間の経過に伴って根本的に変化してきました。そして、物質の道徳的な側面に関する知識とその物理的な側面に関する知識との間にかつて存在していた密接な関係が失われたのですが、それは再び取り戻されなければなりません。ここで、この失われた関係についてもう少しお話ししましょう。主として物理的な観点を有する医学と精神科学との間の今日の関係は、遠い過去におけるそれらの関係と同じであるはずがありません。いずれにしても、この関係は続いていくに違いないのですが、それは今日では別の形態を取ることになります。私たちが精神的な探求における真の道と偽りの道を区別することができるかどうかは、そのようなことがらを知っているかどうかにかかっているのです。知識に対する何世紀にもわたる人間の態度全体を簡単に振り返ってみることは、私が既に議論してきたことに対してさらなる光を投げかけるための助けになるかも知れません。人類の進化を振り返ってみますと、知識や探求に対する考え方が非常に異なっていたのが分かります。今日、熱力学、電子工学、そして生物という知識の分野で近年になって成し遂げられた途方もない進歩は、自然、自然史、自然科学、そして、英国においては、自然哲学の名の下に分類されています。今日の学校では、自然はきわめて抽象的な仕方で教えられています。自然は「自然法則」、こういう言い方をされているのですが、その総計と考えられ、子供たちには期待されているのはそれを覚えることです。そして、この勉強の抽象的な性格は生活の中にまで持ち込まれます。今日、最も熱心な生徒にとってさえ、自然科学がどんなに冷たく、抽象的なものであるかを考えてみて下さい。植物学では、植物や植物の種に関する植物学的な一連の用語を、そして、動物学では、動物や動物の種の名前あるいは分類を記憶することが強要されます。彼はすぐにそれらを忘れ、試験のために何度も何度も最初からやり直さなければなりません。そして、しばしば試験が終わればそれらを完全に忘れてしまうために、再びそれが必要になったときには、参考書で調べます。今日の生徒が植物学や動物学に対して、彼が敬愛する人物に対するのと同じ関係を有しているなどと言うならば、それは問題外です。自然は、今日、何かぼんやりとしてはっきりしないもの、重力や熱、電気や磁気の法則、つまり、機械法則のカタログになってしまっています。自然科学が扱うのは石や植物の研究です。しかし、それに加えて、自然科学には私たちが明らかに知らない植物や動物、そして人間の有機体の生命や内的な構成が含まれています。要するに、今日の自然科学や自然哲学は、私たちが知っていると主張する多くのもの、そして、私たちが全く知らない多くのものを含んでいるのです。さて、それによって自信を持てるようになるとはほとんど言い難いようなものごとの成り行きとはこのようなものです。つまり、あらゆるものが非常にぼんやりとして、混乱しています。そして、思考は非常に皮相的で抽象的になっています。今日、私たちは、私たちが「自然」と呼ぶところのこの抽象化されたものをマスターしようとして果敢に努力していますが、多くの人がこのアプローチにいくらか無関心になっているのも確かです。そして、自然科学として学校で教えられるものに対して積極的に反抗する若者の世代に属していないとすれば、私たちは好意的な中立の立場を取ることになりますが、いつの時代にもそうであったわけではありません。知識に対する態度が数世紀前にはどのようなものであったかをここで簡単に特徴づけてみたいと思います。九、十、十一世紀を、そして、十二世紀や十三世紀に至るまで振り返ってみるならば、私たちは、数の上ではかなり少なかったとはいえ、今日でいえば博識者と呼べるような人たち、ベルナルドゥス・シルベストリ、シャルトルのベルナールやアラヌス・アプ・インスリスのような、十一、十二世紀における代表的な学者と判定されるべき人たちが、有名なシャルトルの学院で教えていたのに出会います。当時、これらの人たちはまだ、有名な中世の秘儀参入者、フィオーレのヨアキムやハンビル(ラテン語でアルタビラ)のジョンとして世に知られるあの特筆すべき人物のような秘儀参入者、つまり、存在の秘密に対する奥深い洞察を有していた人たちとの交流を持つことができるほど十分に恵まれていました。他にも大勢の人たちの名前を付け加えることができるのですが、これらの人たちの名前に触れたのは、その時代の精神を喚起し、当時支配的であった知識に対する態度を特徴づけるためです。そのような人たちの精神的な観点に参入するならば、彼らの自然についての概念が私たちのそれとは完全に異なっていたということが分かります。今日の典型的な植物学者、病理学者、あるいは、歴史学者の場合、その表情は彼の病理学的あるいは解剖学的な神秘に対する深い関心ではなく、前の晩のダンスパーティーでの記憶を反映したものになっています。私たちは自然の神秘についてというよりお楽しみについて、より多くのことを習うのです!フィオーレのヨアキム、アラヌス・アプ・インスリス、あるいは、ベルナルドゥス・シルベストリの目をのぞき込むということは、それとは全く異なることでした。彼らの表情には悲劇が書き込まれていました。彼らは、取り返しのつかない喪失を被った時代に生きていると感じていました。そして、ますますこの喪失に気づくことで、彼らの心は悲劇的な悲しみで満たされたのです。そしてまた、その喪失が彼らの顔に書き込まれていたところのあの古代の秘儀を探求したい、という彼らの望みをその場で目撃していた彼らの指、現代の退廃した世界から見れば「神経質」で敏感な指と見なされるであろうような指を見たとすれば、私たちは、過去に存在していた古代の叡智を生き返らせたいというあこがれに気づかされたことでしょう。彼らの弟子のために、あの古代の場面を魔法のように現出させることができる瞬間がありましたが、それは幻想のような像に過ぎませんでした。さて、私が皆さんに示そうとしているのは、詩的なファンタジーではなく、事実なのですが、私たちは、今でもすばらしい聖堂が立っているシャルトルの学院において、アラヌス・アプ・インスリスが彼の生徒に向かい、自然について次のように語るのを思い描くことができます。自然とは、それに近づこうとすると離れていく存在である。人は今、別の方向にそのエネルギーを向けるが、かつての聖人たちが有していた自然についての先験的な理解にはもはや与らない。彼らの目には、自然とは精神を付与され、あらゆる場所で-岩が形成され、植物が地球から生えだし、宝石のような星が天に輝くところで-働く壮大な存在だった。あらゆる場所で無限に偉大な存在が働いていた。それは自然の織物を編む女性のすばらしい形態の中に自らを現した。古代人たちはこのことを先験的に経験した。彼らの書き記したものから、我々は今でも、彼らの目には、至る所で、つまり熱、光、色、そして、生命の顕現の中で、織りなし働く自然がいかに現れたかを思い描くことができる。彼らは、女神「ナチュラ」が、直接的な知覚を通してのみその真の本質を知ることができるところの神的-精神的な存在であるということに気づいていたのだ。アラヌス・アプ・インスリスのような人物は、シャルトルの学院において、彼の弟子たちに、そのような概念をまだ提示することができました。とはいえ、秘儀参入者たちは、私たちが、女神「ナチュラ」との結びつきを失ったことから、抽象的で生命のないものと見なす自然を、生命と活力に溢れたものとして見ていたために、この古い概念が徐々に薄れ、死に絶えるのを見る彼らの顔には、悲しみと悲劇が書き込まれていたのです。そしてまた、私たちは有名なダンテの師、ブルネットー・ラティーニのような人物についての話を聞きます。彼は旅の途上で、ある不思議なカルマ的事件によって、意識の変化をきたすような発熱に苦しみました。このできごとの重要性は、彼の発達にとって、彼が生まれた町から最後の教皇派が放逐されたときに被った彼の苦しみに比べて、はるかに大きなものでした。彼は、この意識変化のおかげで、まだあの女神「ナチュラ(誰を指すのかは疑問符あり、推理するしかない。)」についての知覚を持つことができ、彼の本「テソレットー」の中で彼女について記述することができたのです。彼は、彼の生まれ故郷フィレンツェに向かう旅の途上で、寂しい森のただ中にある丘に行き着き、その丘の上で、いかに女神「ナチュラ」が彼女の織機に向かって織るのを見たかをイマジネーション的、図式的な記述によって表現しました。彼女は、人間の魂にとって、思考、感情そして意志がいかに重要であるかを、四つの気質と五官機能の本質的な性格を彼に明かしたのです。そして、彼の精神と魂の目が開かれました。抑圧された病理的な状態の影響下で、スペインから彼の故郷フィレンツェに向かう旅の途上に得られたこの経験はひとつの精神的な現実でした。この内的な変容の結果として、彼は四大-火、地、水、そして空気の織りなす生命、惑星の流れと動き、そして、体から出て宇宙の中に現れる魂を見ました。彼はこのすべてを女神「ナチュラ」自身による精神的な教えの影響下で経験したのです。これらの経験は、当時の人々によって、今日、それよりも改善されているとはほとんど言えないような明晰さと具体性をもって記述されました。彼らは同時に、古代の人々がこの知識を別の方法で経験していたということ、そして、時の経過とともにそれは徐々に失われたということを感じていました。これらの秘儀に関する知識を復活させるためには、病理的な状態を起こさせる必要があったのです。そして、彼らは、「ナチュラ」の真のイメージを生き生きとしたものに保ちたいという押さえがたい衝動を感じていました。そして、人間の自然認識に対する態度全体を振り返ってみるとき、私たちは、私たちの自然に対するアプローチが抽象的であるのを、自然が法則の一覧表になっているのを感じます。私たちがこれらの法則をある程度でも全体的に関連づけられたものとして見ることができるとすれば、私たちはそれを誇りに思うかも知れませんが、二、三世紀前を振り返ってみるならば、自然現象の中で-昇りそして沈む太陽の中で、石や植物に伝わる熱、すべての命あるもの、成長し、繁殖するものの中で活発に働くような熱の中で-生き、織りなし、そして働くところの神的な存在と人間との間には生きた関係があった、ということが分かります。女神「ナチュラ」の活動を考慮する科学とはそれほどに異なったものでした。講義を終えてシャルトルの学院から出てくる学徒たち-その大半はシトー修道会員だったのですが-の気分は、今日、講義室から出てくる学生たちの気分とは大分違っていたのです! 彼らの反応は絶対的に生き生きとしたものであり、その内的な存在の表現だったのです。そして、有名なダンテの師、ブルネットー・ラティーニのような人たちが書き記したものの中には、これと同じ生きた現実が映し出されていました。その生き生きとして創造的な時代の精神を容易に想像することができるのは、ダンテの「コメディア」における特徴によってですが、そのすばらしく絵画的な記述は、カルマ的なできごとのおかげで秘儀に参入していた彼の師、ブルネットー・ラティーニによる図式的な記述からインスピレーションを受けたことによります。そして、シャルトルの学院やその他の学院は、当時授けられていた教育の多くを、フィオーレのヨアキムやその他の秘儀参入者たちに負っていたのです。「ナチュラ」という言葉は抽象的な意味で使われていたのではありません。それは外的に感覚知覚可能な現象の中で創造的に働いていたにもかかわらず、ヴェールがかけられ、人の目に触れないままに留まっていた何かを示していました。あるいはまた別の要素も考慮されなければなりません。ここでもまた、詩的な想像ではなく、基本的な現実を記述することになるのですが、皆さんが古参の学生としてアラヌス・アプ・インスリスの講義に出席し、議論に参加していたと仮定してみましょう。学生たちが去った後、皆さんは色々な問題について議論しながらアラヌス・アプ・インスリスと二人だけで歩いています。会話がある特別な点、つまり、現象世界の中に自らを現すとはいえ、皆さんからは隠されている女神「ナチュラ」についての話題に及んだとします。そのとき、議論に熱中していたアラヌス・アプ・インスリスは次のように語ったことでしょう。もし、我々が、眠りの生活において、かつて太古人たちが有していた状態に今でも与っていたとすれば、自然の隠された側面と我々との交渉は保持されていたであろう。我々の眠りは忘却へと導くが、古代人たちは正に無意識において、自然の隠された側面と接触していたのだ。もし、我々が、古代人たちの超感覚的な眠りを再び経験することができるならば、我々は女神「ナチュラ」を知ることになるだろうと。そして、もし皆さんが、同じような状況下で、フィオーレのヨアキムと親しく話をしていたとすれば、彼は次のように答えたでしょう。我々の眠りは内容を欠いている。意識が消されているのだ。したがって、すべての被造物の中に、織りなし、働く女神「ナチュラ」を知るのは困難である。古代人たちは彼女の隠された側面と見える側面に気づいていた。彼らは「ナチュラ」という言葉を決して使わなかった。彼らは、我々がぼんやりと感じることができるけれどもその存在を知ることのない存在が女神「ナチュラ」であるとは主張しなかった。彼らは彼女を別の名前、プロセルピナ、あるいはパーセファニーで呼んだのだと。このことは当時よく知られていたことでした。私が今お話ししたことは、私たちの抽象的な自然の概念に変化しました。ベルナルドゥス・シルベストリやアラヌス・アプ・インスリス、ハンビルのジョン、そして、とりわけ、ブルネットー・ラティーニのような人たちの魂の中に生きていたところのものは、古代人たちがプロセルピナ、すなわちデミーター、全宇宙の娘として見ていた女神が変化したものだったのです。プロセルピナ(現代的な用語ではありきたりのものに聞こえますが)とは自然であり、その半分の生のみが上方の世界にあって、人間にその物理的、感覚的な面のみを現しながら、その生の別の半分は、人間が眠りの中で滞在するとはいえ、その眠りが真の現実を欠いているために、今日では、もはやそこで活動することのできない領域の中で過ごされるところの自然なのです。私たちの自然に関する知識は、パーセファニーについての古いギリシャ神話の中に生きていたものの残響なのですが、現在の概念は抽象的なものであり、私たちがそれに気づくことはありません。悲しみに満ちた表情をした人たちがこのことを知っていたという事実、当時はまだそれを知ることができたという事実は、認識の道が時間の経過とともにいかに変化したかを示すものです。この講義のはじめに申し上げましたが、私たちがこのような事柄の微妙な違いに対する正しい感情と感覚を発達させることができるのは、かつて存在していた知識の本性を時代を遡りながら振り返るときだけなのです。私がこれらの例に言及したのは、古代の知の形態を蘇らせるためではなく、かつての時代に卓越的であったそのような種類の知識に対する注意を喚起するためです。もし、私たちが、フィオーレのヨアキムやハンビルのジョンらによって語られるであろうような、「我々が今日、自然と考えているところのもの、あるいは、我々がそれを精神的に理解できないがゆえに、我々の目から隠されているところのもの、それはかつてプロセルピナとして知られていた。」という言葉をしっかりと把握するならば、そして、もし、このプロセルピナの神話(何故なら、それは神話としてだけ生き残っているからですが)を私たちの中で新たなものにするならば、この神話によって引き起こされるイメージはさらに以前の関係についてのイメージを呼び覚ますことになります。それらは、人間が女神「ナチュラ」の抽象的な側面も、悲劇的な側面も知らなかった時代、プロセルピナ-パーセファニー自身をその輝く美と悲劇的な陰鬱において見ていた時代のイメージなのです。では、彼女は、はるか昔のその最盛期には、どのような側面において現れたのでしょうか。その最盛期とは、プラトン哲学の時代でも、ソクラテスの対話の時代でもなく、もっとずっと昔、知識が、ギリシャ文化の最盛期におけるよりも、はるかに、はるかに生き生きとしていた時代でした。既に現在の立場から議論し、この連続講義の中でさらに詳細に議論する予定のことがらを正しい観点から眺めることができるように、人間進化の過程の中で知識がまとってきた様々の形態に向き合ってみることにしましょう。私たちの説明は簡単で不完全なものにならざるを得ませんが、ギリシャの哲学者、ヘラクレイトス、彼が自分でそう呼んだところの「暗く、陰鬱な」-何故なら、後になって、彼が秘儀に参入することによって得ていたところのものすべての上に魂的な闇が降りてきたからなのですが-ヘラクレイトスが参入していた秘儀の本性に向き合ってみることにしましょう。秘儀の発達におけるあの時代、ギリシャ人たちがイマジネーション的な視界を獲得し、彼らの神話を創造するために秘儀に頼っていた時代を、そして、ヘラクレイトスがそれに参入していたところのエフェソスの秘儀を目の前に思い描いてみましょう。エフェソスには太古の時代からの知識がまだ残存していたのですが、それはホメロスの時代にまで、そして、衰弱した形態においてとはいえ、ヘラクレイトスが秘儀に参入した時代にまでも生き残っていました。これらの太古の秘儀はまだ生き生きと活動していたのです。その東側が、いたるところで自然の豊かな恵みを象徴する女神「ダイアナ」すなわち豊穣の女神の彫像によって飾られていたあの神殿には、きわめて力強い精神的な雰囲気が存在していました。弟子が秘儀に参入し、エフェソスの神殿における儀式から力強い秘儀の衝動を受け取った直後に会話が持たれるとき、存在の重大な秘密、奥深い精神的な秘密が言葉によって弟子に授けられました。そして、これらの深遠な会話は儀式の参加者が神殿を立ち去った後も続きました。自然が瞑想へと誘うたそがれどき、彼らは、神殿の参道を通り、エフェソスの神殿から扇状に広がる道がはるか遠方で徐々に暗い緑の木々の中に消えていく森へと歩いていたことでしょう。いくらか不十分ですが、この種の会話がどのようなものであったかを皆さんに示してみたいと思います。当時の秘儀に部分的にでも参入した人にとって、弟子が男女どちらの性であれ、会話を持つということはあり得ることでした。その後、直ちに取り上げられることになるとはいえ、当時、両性の間における権利の平等は今日よりもずっと生きた現実であった、ということを認めなければなりません。ですから、エフェソスでは、男性と女性の弟子について語ることができるのです。そして、これらの会話の中には、パーセファニーの神話における精神的な側面についての生き生きとした興味がありました。では、そのような会話はどのようにして持たれたのでしょうか。まず第一に、教師が、秘儀参入者である牧師がいました。彼は形態の世界における偶然性、その世界に存在するものの間の相互作用について語る力を精神的な衝動から受け取っていました。彼が秘儀参入者として有している知識から話すときには、およそ次のようなことを彼の弟子に語ったことでしょう-今は黄昏時、精神的な世界を明らかにする眠りが、まもなく我々を捉えるだろう。お前の人間としての形態をその全体性において見なさい。我々の足下には植物が、我々の周りには黄昏時の伸びゆく影が、神殿の森にはぼんやりとした緑の光があり、空には一番星が輝き始めている。上なる天と下なる地にある生命の多様極まりない偉大さと荘厳さを見なさい。次に、お前自身を見て思い出すのだ。お前の中には全宇宙が生き、活動しているということを、すべての有機的な働きや、お前の内的な生命の変化と偶然が、一日のどの瞬間においても、豊富な事実や、お前という存在の無限の変化を目撃しているということを。お前という小宇宙は、お前が眼で見、知性で理解する大宇宙よりも、空間的に限定されているとはいえ、その神秘と不思議さにおいて、より豊かであることを知りなさい。そして、この世界をお前の中に感じ、認識することを学ぶのだ。お前は、地球から星々に続く大きな世界を、お前の小宇宙的な世界から眺めているのだということに気づきなさい。そして、眠りがお前を捉えるとき、お前はもはやお前自身の体、お前自身の世界の囚人ではなく、今お前が目の前にしているあの世界、地球や星々を包み込む世界の住人になるのだ。お前の魂と精神は肉体を去り、お前は星々の輝きと地球の放射に与ることになるだろう。お前は風に乗り、星の輝きとともに思考しているだろう。お前は今や、精神の世界に住み、お前の小宇宙的な自分を振り返っているのだと。太古の時代には、教師はその弟子に向かってこのように話すことが可能だったのです。何故なら、外的な世界の知覚は今のように鋭く規定されてはおらず、眠りの生活はまだ完全な空虚ではなかったからです。それはまだ経験に満ちていました。この眠りの状態に言及して、教師が次のように言うときには、現実について語っていたのです。お前は今、プロセルピナ、パーセフォニー、あるいはコウラとともにある。コウラは星々の中に、太陽の輝きの中に、月明かりや成長する植物の中に住んでいる。あらゆる場所で、パーセフォニーの活動を見ることができる。何故なら、彼女は宇宙の衣を織ったのだから。そして、そのすべての背後にはデミーター、彼女の母親がいる。パーセフォニーは彼女のために、お前が外的な世界として見るところのこの衣を織ったのだ、と。教師は「自然」という言葉を使わず、パーセフォニーあるいはコウラについて好んで語りました。そして、教師と弟子との会話は続きます。もし、誰かがお前よりも長く起きているとすれば、お前が眠っている間、彼は植物、山々、雲や星、つまり、パーセフォニーの外的な顕現を、ちょうど今のお前と同じように知覚するだろう。幻覚は我々の見方の中にある。パーセフォニーが幻覚なのではない。山や植物、雲、そし星々における彼女の創造的な活動が幻覚なのではない。お前がそれらを見るその仕方が幻覚なのだ。そして今、眠るときが来た。生命の神秘の器官であるお前の眼を通って、コウラ-パーセフォニーがお前の中に入ってくるだろう。これらのことは生き生きと経験されていたために、そのように生き生きと描写されたのです。そのため、睡眠中の人は、眠っている間にもその光景を感じ取っていたばかりではなく、聴覚や感覚が消されている中で、パーセフォニーが彼の目を通って、彼の魂と精神が退いた彼の肉体とエーテル体の中に沈み込んでくるのに気づいていたのです。起きている間、私たちは上方の世界に生き、眠っている間は、下方の世界に生きます。眠っている人の目を通って、パーセフォニーがその人の肉体とエーテル体の中に入ってきました。彼女は、プルート、眠りの支配者とともに肉体とエーテル体の中に滞在したのです。弟子は眠っている間に、パーセフォニーとプルートの活動を経験しました。彼は、彼が受け取っていた教えによって、コウラが目という通路を通って入ってくるのを知覚するようになったのです。このことは彼にとって生きた現実になりました。そして今や、彼は眠っている間のプルートとパーセフォニーの行いを経験します。そして、弟子がこれを経験している間、彼の教師は形態の世界に関係する相応の経験を持ちました。そして、教師と弟子が再び出会うとき、各々が自分自身の特別な洞察を有していました。そして、彼らが植物や木々について議論するとき、教師はいかにしてそれらの形態が生じるかを記述するでしょう。何故なら、それらは眠りの中で彼に明らかにされていたからです。彼は葉や茎の配置について、自然界のすべてについて、そして、上方から地上に下って働く形成的な力について詳細に議論するでしょう。そして、弟子は、恐らく異なる洞察を経験していたかも知れませんが、彼の教師がクロロフィルや浸透圧の神秘について語ることを追っていくことができたでしょう。こうして、会話はお互いを補強し合います。つまり、これらの秘密は、この女神、パーセフォニーの生き生きとした描写の中で、下方世界において、眠っている間に明かされる彼女の別の側面において、人間の魂に明らかにされるとともに、その中に入っていったのです。このようにして、あのはるかな時代には、弟子は教師から、教師は弟子から学びました。その教えは、一方では、精神と魂について、他方では、魂と精神についてのものでした。この共通のものとなった経験を相互に交換することにより、彼らは知識の最も高度な飛躍に触れました。彼らがこの最も深い洞察を分かち合い、そして、その荘厳な並木が遠方で徐々に視界から消え去る暗い緑の森の上に、東の空に輝く夜明けの星が光の矢を投げかけるとき、彼らの心は喜びに満たされました。彼らは、今の私たちが自然の領域と呼ぶ領域に、短い時間とはいえ、滞在していたのです。そして、彼らは、これらのことがらについて彼らの間で話し合ったときには、確かに、パーセフォニーと会話していたのだ、ということを知っていました。そして、彼らはまた、後にパーセフォニーの神話に組み入れられたすべてのものが、実際に、人間の自然に関する知識の隠れた源泉なのだということを知っていました。これらのパーセフォニーについての生き生きとした知識に染められていたエフェソスの秘儀に関連した会話がいかに心を強く捕らえるものであったかは、ただ不完全にしか示すことができません。けれども、時が経つにしたがって、この知識は私たちが今日、自然として知っているような抽象物へとトーンダウンしていき、フィオーレのヨアキムのような人物はこの悲劇的な喪失を嘆いたのです。人間や宇宙の精神的な本性についての理解に導く道程を理解することができるのは、人間の手が届く範囲にある別々の意識状態に注意を払い、特徴づけるだけではなく、これらの状態が人間進化の過程でいかに変化してきたかを示し、エフェソスの神殿における秘儀に参入していた人々の会話に情報を与えていた知識がいかに私たちの知識とは異なったものであったかを、そして、フィオーレのヨアキムやアラヌス・アプ・インスリスのような人物と交わされた会話がいかに異なった性質のものであったかを、また、私たちが精神的な訓練を通して、今日再び達成しようとして苦闘する知識、外的なものから内的なものへ、上方から下方へ、そしてまた、内的なものから外的なものへ、下方から上方へと導く知識の形態がいかに異なったものであったかを知るときだけです。 (第四講・了)参照画: Proserpina※ペルセフォネ(Persephone パーセファニー ペルセフォネ)は、ギリシャ神話に登場する冥府の女王で、春と植物再生の女神です。ゼウスとデメテルの娘で、地上にいた時はコレー(「乙女」の意)と呼ばれ、冥界に入ってからはペルセポネーと呼ばれました。冥府の王ハデスに誘拐され、その妃となりました。ローマ神話ではプロセルピナと呼ばれ、春をもたらす農耕の女神となっています。人気ブログランキングへ
2024年04月30日
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ルドルフ・シュタイナー「精神的な探求における真実の道と偽りの道」 (GA243)トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日-22日 佐々木義之 訳第三講 人間の意識状態に関係する鉱物世界の形態と実質 昨日試みたのは、精神的な訓練と瞑想を通してより高いレベルの意識を発達させるときの人間の魂の経験に関して、何らかのアイデアを示すことでした。同時に、通常の意識によく見られる不調和で混乱した夢の経験を目覚めの生活における完全に意識的で具体的な経験へと変化させることができるということも示しました。このようにして、通常の意識にある程度連なるところの意識レベルを達成することが可能になります。そのとき、私たちは、例えば、より高次の魂の世界、すなわちアストラル平面と関わりを持つ動物界をその全体性において知覚することになります。次に私が示そうとしたのは、私たちが、感覚印象を脱ぎ捨てた十全なる覚醒意識、つまり、この第二段階の意識レベルにおいて、星の世界に到達し、地球を覆う植物の真実をそこで初めて知るようになるとき、いかに植物界がその全体性の中で顕現するかということでした。そのとき私たちは、地球から生えだしているように見える植物とは、星の世界のただ中から、植物の上の露のように輝き出すあの壮大さと偉大さを映すイメージであるということに気づきます。実際、天空とそこにあるものすべては、私たちが、感覚印象を脱ぎ捨てたこのより高次の意識をもってそれを理解するとき、実質的な現実性、形態、色、そして音さえをも担うようになるのです。私たちは、そのとき、地球を振り返り、植物界が実際には宇宙存在のイメージ、宇宙的な行為を映すイメージであるということを知覚します。皆さんが、一方では星の世界を、他方では植物界を観察するときに出会う特別な現象に注意を払っていただきたいと思います。私はこれらの事柄を、まったく内的な経験の観点から、正確にそれらが起こるとおりに、つまり、それらが直接的かつ精神的な経験や探求によって明らかになるとおりに記述するつもりです。私の話しを裏付けるいかなる文献やその他の伝統も存在しないでしょう。しかし、私がお話しした方法で精神的なものを探求する人であれば誰でも知っているような特別な現象について、まず最初に指摘したいと思います。次のような像を思い描いてみて下さい。私たちの上方には星の世界が、下方には地球があります。私たちは探求を開始する地点を私たちの観察地点と呼びます。私たちが第二段階の意識、つまり、すでにお話ししたような仕方で星の世界と植物界を見る意識に達しているとすれば、宇宙には元型が存在しており、その元型が、鏡に写るイメージのようにではなく、生きた植物の形で地球に映し出されているのだ、ということを確かめることができます。これらの植物は生命のない非現実的で漠としたイメージとして現れるのではなく、地球によって創造された具体的な反射像として現れるのです。宇宙にある植物存在が地球という鏡から萌え出ることができるために、地球は鏡としての働きをもってそこになければならないのだと感じられます。固い地球がなければ植物も存在し得ないでしょう。そして、ちょうど鏡が光を遮る抵抗として働く。と申しますのも、もしそうでなければそれは何も反射しないであろうからですが、そのように、植物が存在するためには、地球は反射媒体として働かなければならないのです。私たちは今や、このことをさらに追求していくことができます。私たちは、この第二段階の意識、すなわち感覚印象から独立した目覚めの意識を発達させた後、魂の内的な強さ、つまり、すべての被造物、すべての生きるものに対する愛の精神を発達させることに向けて、次の一歩を踏み出すことができるのです。この新しい力を獲得することが認識に向かう確かな力として認められることは滅多にありません。もし、このきわめて別様に構成されている領域、そこではもはや宇宙が星々で輝いているようには見えず、精神的な存在たちが住む場所になっているような領域に参入した後、この愛の力が私たちの心と魂を満たすならば、もし、いわば宇宙の精神的な大海に乗り出した後、私たちが自分の精神的、魂的、そして肉体的なアイデンティティーを保持し、そして、無限の愛と献身の力をすべての存在に拡張することができるならば、私たちは私たちの洞察と理解を段階を追って完成に導くことになります。私たちは、そのとき、動物界や植物界だけではなく、鉱物界、特に結晶構造をもつ鉱物を超感覚的に知覚する能力をも発達させるのです。と申しますのも、鉱物結晶は、より高次の世界を探求することを望む人々にとって、観察と研究のためのすばらしいフィールドを提供するからです。動物界と植物界に十分に精通したとき、私たちは鉱物-結晶世界を探求することができる立場に立ちます。以前もそうであったように、私たちは私たちの注意を地上の鉱物界から宇宙についての思索に向けるように促されるのを感じます。そして、私たちは、そこで再び、生きた現実、植物界の元型に近いものを見いだすのですが、今私たちに示される像はそれとは全体として異なっています。私たちは宇宙の生きた現実、つまり、地上で見られる鉱物-結晶世界は宇宙の中で働く精神的な原則が創造したものであるということを知るようになります。それは段階を追って地球に下降してくるのですが、地球上で、あるいは地球によって反射されるのではありません。これが決定的な点です。私たちが私たちの意識を鉱物-結晶世界についての思索から宇宙へと上昇させ、再び地球を振り返るとき、地球はもはや鏡として働いてはいません。つまり、私たちは、地球が私たちの視界から消え去っている、という印象を持ちます。植物の場合のように私たちの下方にある地球がより高次の存在たちを反射しているとは言えないのです。地球は反射媒体として働いているのではなく、消滅しているように見えます。私たちが鉱物-結晶世界によって喚起される精神的な光景について瞑想するとき、つまり、私たちの精神的な眼差しを宇宙空間から地球に向けるとき、恐ろしい深淵の上に、無の上に吊されているように見えます。私たちは待つ態度を保持するとともに、自分をしっかりと支え、心がそこにあるようにしなければなりません。待つ期間が余りにも長引くようであれば、私たちの恐れは増幅され、恐怖に駆られるようになるでしょう。私たちの足下に地面はありません。ですから、もし、私たちが自制心を、つまり、その深淵のかなたを見ることに向けて能動的な歩みを進めることを可能にする心のあり方を維持していなかったとすれば、私たちはこの全く見知らぬものである感情によってパニック状態に陥ってしまうでしょう。私たちの精神的な視界にとってはもはや存在しない地球を越えて、かなたを見なければならない、というのはこのためなのです。そのとき、私たちは、あの宇宙に関連した鉱物世界の側面ばかりではなく、環境全体に対するその関係についてもじっくりと考えるように強いられます。私たちにとって地球は存在することをやめます。鉱物世界とはひとつの全体として見るべきものなのです。Erde:地球、そのとき私たちが経験するのは、上方から流れ下る宇宙的な植物のエネルギーとは対照的な、下方から流れてくる宇宙のエネルギーです。私たちはいたるところに流れとそれに対抗する流れ、あらゆる方向から一点に向かう宇宙的なエネルギーの流れを見ます。植物の場合には、この宇宙エネルギーの流れは上から下に向かい、それに対する抵抗を提供する地球から植物が生えてきます。鉱物界の場合、それは全宇宙からやって来るこれらの流れの自由な相互作用によって創造されたのだ、ということが分かります。鉱物-結晶世界の場合、何も地球から反射されません。すべてがそれ自身の要素の中で反射されるのです。皆さんが山の中で水晶の結晶を見つけたとしますと、それは普通、垂直に立っており、その基の部分が岩の中に埋め込まれています。これは妨害的な要素として働く地球的、アーリマン的な力の介入によって説明できます。実際には、水晶はあらゆる方向からくる精神的な要素の圧力によって形成されるのです。つまり、宇宙空間の中では、反射する結晶面の相互作用による自由な結晶を見ることができます。そのすべての結晶面が完全に形成されたそれぞれの結晶では、それ自身がひとつの小さな世界になっているのです。さて、多数の結晶形、立方体、八面体、四面体、斜方晶系、十二面体、単斜晶系、三斜晶系等、実際に考え得るあらゆる種類の構造があります。私たちは、それらを検証するとき、いかに宇宙のエネルギーの流れが一点に集中し、相互作用することによって、先端が六角錘になった六角プリズム形の水晶や恐らく立方体の形をした食塩の結晶、あるいは十二面体の形をした黄鉄鉱の結晶が形成されるかを書き留めます。これらの結晶のどれもが今お話ししたやり方で形成されます。そして、宇宙空間には、地球にある様々の結晶の数と同じだけ多くの宇宙的な力が、つまり、本当にそれだけ多くの世界があり、私たちは世界の無限性を洞察し始めるのです。食塩の結晶を見るときには、精神的な原則が宇宙の中で働いているのが分かります。食塩の結晶は全宇宙に浸透するあの精神的な現実の顕現であり、それ自身でひとつの世界なのです。そして、十二面体を検証することによって、宇宙には空間世界に浸透する何かが存在しているということ、つまり、結晶とはあるひとつの世界全体が刻印され、顕現したものであるということが分かります。私たちはそのそれぞれがそれ自身でひとつの世界であるところの無数の存在を見つめているのです。ここ地上の人間として、私たちは次のように結論づけます。地球の領域とは多数の世界の活動がそこに集中するところの焦点である、と。実に様々な存在の思考と行為がここ地上における私たちの思考と行いの中に映し出されています。結晶形態の無限の多様性の中に見られるのは、結晶の数学的-空間的な形態の中にその活動の頂点が見いだされるところの多様な存在による表現です。私たちは結晶の中に神の存在を認識するのです。この宇宙の崇高な秘密が私たちの魂を捉え、宇宙に対する尊敬や崇拝の感情として現れることの方が、純粋に知的な基盤から理論的な知識を集めることよりもはるかに重要なことなのです。人智学は、この「宇宙とひとつである」という感情へと導くものであるべきです。人は、人智学を通して、神的な存在が織りなす働きをどの結晶の中にも知覚することができるようになるでしょう。そうなれば、宇宙的な知識と理解が人間の魂全体に溢れ始めます。人智学の使命とは、知的な能力だけに訴えるのではなく、人間全体を照らし出し、彼が全体として宇宙に包含されていることを示すとともに、宇宙に対する尊敬と崇拝の念を彼の中に呼び起こすことなのです。世界の中のいかなる対象にも、いかなるできごとにも、人間の心と魂から出る無私なる奉仕の精神が向けられるべきです。その無私の奉仕に対しては知識や理解という報償が与えられるでしょう。私たちは、すべてであるところの宇宙と関わりを持ち、結晶-鉱物世界の顕現として個々の結晶が現れてくるのを見るとき、満足感に満たされます。しかし、既にお話ししたあの恐怖と不安の状態がたちまち戻ってきます。神的に秩序づけられた結晶の世界を見いだす以前、私たちは恐れに満たされていました。神的なインスピレーションを受けた世界に気づくとき、この不安の感情は消え去るのですが、しばらくすると不思議な胸騒ぎが私たちを捉え、恐怖が、つまり、結晶の形成過程全体が実体のないものであり、それはただ部分的な支えを提供するに過ぎない、という感情が戻ってくるのです。既にお話しした二種類の結晶、食塩と金属の結晶である黄鉄鉱を例として取り上げてみましょう。黄鉄鉱は、私たちにしっかりとした支えを提供することができる、つまり、それは堅固で耐久性がある、という印象を与えます。一方、食塩の結晶はいかなる支えにもならないように見えます。それは実体がなく、私たちはそれを突き抜けて落下してしまうかのようです。ですから、要するに、ある種の形態に関しては、一度私たちを捉えた恐怖、つまり、地球が無になり、深淵の上に吊り下げらているという恐怖は最終的には克服されていなかったのです。この恐怖の感情ははっきりと道徳的なものを示唆しています。この恐怖が戻ってくるとき、私たちは私たちが過去に犯したすべての罪ばかりでなく、これから犯す可能性のある罪にも気づかされることになります。このすべては私たちを引きずり下ろす鉛の重りとして働き、鉱物の結晶が今にも私たちを飲み込もうとして私たちの前に広げる深淵の中へと私たちを投げ込む恐れがあるものです。この時点で、私たちはさらなる経験に備えて準備していなければなりません。私たちの経験の総和は私たちが勇気を持つことを要求しているということが分かります。そして、私たちは確信を持って次のように宣言します。私はしっかりとつなぎ止められている、私は自分が繋留されているところから漂流したりしない、私という存在の重心は今や私自身の中にあるのだと。私たちの人生全体を通して、結晶の世界に直面し、利己主義という鉛の重りが-そして、利己主義とはいつでも道徳的な罪なのですが-魂の上にのしかかる瞬間ほど、自信や道徳的な勇気が必要とされるときはありません。その上に私たちが吊り下げられているあの透明な無の空間が今や私たちに対して恐ろしい警告を発します。もし、私たちがしっかりと立ち、自信を保っているとすれば、私たちは次のように言うことができます。私の中には神の火花がある、私は消えたりしない、何故なら、私は神的な本質に与っているのだからと。もし、このことが単なる理論的な確信ではなく、具体的な経験になるならば、私たちは自足し、自分自身の足で立つ勇気を持つことになります。私たちは決意し、さらに先に押し進むための準備を整えたのです。さて、私たちは、鉱物界に関して、さらに何かを学びます。私たちはこれまで鉱物の結晶についての話を聞いてきました。私たちは既にその外的な形態について議論しましたが、今や、その組成や構造、その実質や金属性について気づくとともに、ある種の基本的な金属がいかに様々の仕方で安定化させる要素として働くかを見いだします。今、私たちは初めて、人間がいかに宇宙と関連しているかを理解し始めるのです。私たちは、様々な金属の特徴、鉱物存在の実質について学び、そして、先ほど触れたあの私たちの中にある重心を本当に感じ始めるのです。これからお話しすることに関しては、鉱物界を記述する用語をどうしても使わざるを得ないのですが、それを言葉の上だけで受け取らないようにして下さい。私たちが心臓や頭について語るとき、常識的な見方では、物理的な心臓や頭が魔法のように現れるのですが、それらはちろん起源としては精神的なものです。ですから、私たちが人間をその全体性において、つまり、体と魂と精神から構成されている実体として見るとき、彼の重心は心臓にあるというはっきりとした印象が得られます。この中心は、彼を極端に走ることから守り、彼が外的な状況によって翻弄されることを防ぐとともに、彼に安定性を付与します。もし、私たちが、先ほど触れたあの勇敢な精神を保つとすれば、私たちは、結局は、自分がしっかりと宇宙につなぎ止められているのを見いだすことになるのです。意識を喪失している人はそのようにしっかりとはつなぎ止められていません。もし、彼が魂にショックを受けた状態-と申しますのも、そのような条件下では、彼は普通よりも痛みを感じやすくなっており、結局のところ、痛みとは内的な感情が増幅されたものであるからなのですが-であれば、彼は普通の意識状態にはありません。痛みのある状態では、通常の意識は排除されるのです。人は生まれてから死ぬまでの間、一種の中間的な意識状態の下で生きているのですが、これは日常生活における通常の目的にとっては都合のよいことでしょう。ところが、この意識があまりにも弱く、あまりに希薄なものになれば、彼は気を失います。もし、それがあまり濃厚に濃縮されるならば、結果として痛みが生じるのです。気絶状態で意識を失うこと、そして、痛みの影響で緊張状態にあること、これらは正常からはずれた意識状態における両極端を示しています。これらは、正に、私たちが鉱物的な結晶の世界の実質に気づくようになる以前のその世界に対する私たちの反応、つまり、一方では、気絶状態において、自分が絶えず宇宙の中に解消されてしまうかのような感情、他方では、痛みの影響下で、自分が崩壊してしまうかのような感情を示しているのです。そのとき、安定性を付与するあらゆるものが心臓の領域に集中していると感じられます。そして、もし、私たちが既に示されたレベルにまで自分の意識を発達させているならば、通常の目覚めの意識を支えているのは、つまり、いくらか粗雑な表現になりますが、それを「当たり前な」ものにしているのは、地球上に細かく分散し、他のどの器官に対してよりも特に心臓に対して直接的に働きかけるところの金、金元素である、ということが分かります。以前、私たちは、鉱物の形成、結晶化に関する知見を得ました。今や、その実質、その金属性を知るとともに、いかに金属質が人間そのものに働きかけるかを認識します。外的には、鉱物界において金属が結晶として形成されるのが見られます。内的には、地球上に細かく分散した金の力が、私たちの心臓を維持し、日常生活における私たちの通常の意識を支えているということが分かります。金は人間の心臓という中心点に働きかけるのです。この知見を基にして、私たちは今や、私たちの探求をスタートさせる地点に立ちました。もし、私たちが知っているような金属の金を取り上げ、その色や固さ、そしてその成り立ちや構造についてのあらゆる側面に集中するとともに、その経験を内的な現実へと変化させるならば、金は心臓に関係している、ということが見いだされるのですが、別の金属、例えば鉄とその性質に集中するならば、私たちは鉄が私たちにどのような影響を及ぼすかを見いだすことになります。金には調和をもたらすような、緊張と対立を解消させるような効果があることために、人はそれによって平衡状態を取り戻すのです。もし、私たちが、金のすべての側面に精通した後、鉄に心を集中させるならば、つまり、宇宙全体を忘れ去り、鉄という金属だけに集中することによって、いわば内的に鉄と溶け合い、それとひとつになるならば、私たちはあたかも自分の意識が心臓の領域から上方に移行するかのように感じます。意識が心臓から喉頭へと上昇するのを追っていくときにも、私たちは全く意識的であり、十分に精神的な訓練を遂行していれば、何も害はありません。そうでなければ、多少のめまいを感じます。私たちの意識が上昇するとき、私たちは、強力な内的活動、高められた意識を発達させている、という事実によってこの状況を認識します。そのとき、私たちは、この上昇する意識の中に徐々に自分を移行させ、動物の集合魂が見られる世界に接触します。鉄の金属性に集中することによって、私たちは今やアストラル界に参入するのです。私たちが金属の形態に精通するとき、私たちはより高次の精神的な存在たちの領域に至ります。つまり、金属の実質と金属性に精通するとき、私たちはアストラル界、すなわち魂の世界に参入するのです。私たちの意識が喉頭へと上昇するとともに、私たちは新しい領域の中に現れ出るのですが、このような意識の移行が起こるのは鉄に意識を集中したからです。私たちはもはや自分が以前と同じ人間であるとは感じません。もし、この状態が十分に明晰な意識の中で達成されるならば、私たちは、それまでの自分の自我を超越し、エーテル界に参入したと感じます。地球は消滅し、私たちにとって興味のないものになります。私たちは惑星の領域に上昇し、そこをいわば私たちの住居にします。このようにして、私たちは徐々に私たちの肉体から退き、宇宙の中に組み込まれるようになります。金から鉄への道は宇宙へと続く道なのです。(Blei Saturn:鉛 土星 IV rot:赤色 Zinn Jupiter:鈴 木星 III orange:オレンジ rot赤色 Eisen Mars:鉄 火星 II Gold Rede :金 地球 I gelb:黄色 Kupfer Venus:銅 金星 V rosa:薔薇色)金と鉄に次いで、私たちは錫に、つまり錫の金属性、その色や実質に意識を集中し、それによって私たちの意識が錫と全く同一視されるようにします。私たちは今や、意識がさらにもっと高いレベルに上昇するのを感じます。もし、私たちが十分な準備なしにこの段階に取りかかるとすれば、ほぼ完全に気を失い、ほんのわずかな意識の兆候も残らない、ということになるでしょう。もし、前もって十分に準備していたとすれば、この減退した意識状態の中でも自分を保持することは可能なのですが、意識が体からさらに遠くに退き、最終的には両目の間にある領域にまで達するのが感じられます。 宇宙の広大な広がりが私たちを包み込むのですが、私たちはまだ星の領域の中にいます。とはいえ、地球は遥かな星のように見えはじめます。そして、私たちは、地上に体を残してきたのだと、宇宙へと上昇し、星々の営みに与っているのだと確信します。このすべては決してそのように聞こえるほど単純なものではありません。皆さんにお話ししたような秘儀参入の道に従うときに経験すること、すなわち、意識は喉頭や頭蓋底部、あるいは眉間にあるというようなことは、これらの様々の意識が人間の中にはいつでも存在している、ということを示しています。ここにお座りになっている皆さんのすべてが皆さんの内にこれらの意識状態を有しているのです。しかし、皆さんはそれに気づいていません。それは何故でしょうか。そうですね、人間とは複雑な存在です。それは、もし、皆さんが、喉頭組織全体に意識的である瞬間に、脳と感覚器官なしですませることができていたとすれば、皆さんは決してこのぼんやりとした感情、かすかで無意識的な感情から自由ではなかったであろうからです。そして、それは実際にそうなのです。それは単に通常の心臓意識、金の意識によって覆い隠されているのです。それは皆さんのすべてが共通して持っているものであり、皆さんを人間として成り立たせているものの一部なのですが、皆さんを構成するところのこの意識に与る部分は星々の中に存在しており、地球上には全く存在していないのです。錫の意識は遥かな宇宙の中に横たわっています。地球が皆さんの唯一の住居であるというのは真実ではありません。皆さんの意識を地球につなぎ止めているのは心臓です。その中心を喉頭に有するところのものは宇宙の中に存在しています。さらに遥かな宇宙の中に位置しているのはその中心を眉間に有するところのもの(錫)です。鉄の意識は火星の領域を包含し、錫の意識は木星の領域を包含しています。金の意識においてのみ、皆さんは地球に属しています。皆さんはいつでも宇宙に織り込まれているのですが、金の意識がこのことを皆さんから覆い隠しているのです。もし、皆さんが鉛もしくは同様の金属について瞑想し、そこでもやはりその実質と金属性に集中するとすれば、皆さんは完全に体を棄て去ることになります。皆さんの肉体とエーテル体は確かに地球に取り残され、奇妙で遠くかすんだもののように見えます。岩の上にのった石ころが岩にとっては何の興味もないものであるように、皆さんにとってそれらは何の興味も起こさせないものです。意識が頭頂冠(頭蓋の縫合線)を通って、体から抜け出しているのです。宇宙の中では、どこを見ても微少な量の鉛、鉛の風味がいつでも見いだされます。この意識形態は遥かな空間へと達します。そして、頭蓋にその中心を有する意識によって、人はいつでも完全に無感覚の状態に留まるのです。人間がその中で習慣的に生きているところの幻想状態を思い描いてみて下さい。人間は、机の前に座って計算をしたり、文章を書いたりするとき、頭を使って考えていると思いたがるものです。実際はそうではありません。地球に属しているのはそのようなものとしての頭ではなく、その物理的な側面です。頭部意識は喉頭から上へと、遥かな宇宙にまで広がっています。宇宙が顕現するのはただ頭部中心においてのみであり、誕生から死までの皆さんの人間としての条件を決定するのは心臓中心なのです。皆さんがよい文章を書くか下手な文章を書くか、皆さんの利益が隣の人の不利益になるかどうか、このようなことは心臓中心によって決まります。人間の頭部意識が地球だけに限定されていると考えるのは全くの幻想です。何故なら、頭部は、実際には、永続的な無感覚状態にあるからです。他の器官がそれから解放されているところの痛みによってそれが奇妙に苦しめられるのもこの理由によります。この点についてもう少しお話ししましょう。現在の状況において、私たちがこの状態になる理由を見いだそうとするときには、私たちは、自分の知的な意識が根絶やしにされる、つまり、意識全体が崩壊し、完全な無感覚状態に陥る、という精神の側からの絶えざる危険にさらされることになります。そのとき、私たちが人間について思い描くことができるのは次のようなことです。人間は喉頭(鉄)において、動物界の元型にまで達する意識を発達させます。それは星々に属する意識ですが、通常の生活においては、私たちがそれに気づくことはありません。より高いところでは、植物界の元型に関する意識が両目の領域(錫)にあり、下方にはそれを映し出すイメージがあります。すべての頂点に冠せられるのは土星の領域に達する鉛意識の中心ですが、その頭部中心は私たちが書く記事の内容には注意を払いません。それらは心臓中心の産物なのです。とはいえ、頭は宇宙空間で起こっていることを完全に意識しています。地上の出来事や活動についての私たちの記述は心臓に発するものですが、一方、頭が集中することができるのは、神的な存在が黄鉄鉱の中に、あるいは食塩や水晶の結晶の中に自らを現すその方法についてなのです。秘儀参入者の意識がここにいる聴衆の皆さんをざっと眺めるとき、皆さんは私の話すことを皆さんの心臓で聞いている、その間、皆さんが有する三つのより高次の意識は外なる宇宙にある、ということが明らかになります。宇宙は通常の地球意識に知られているような活動とは完全に異なる階級に属する活動の舞台なのです。宇宙の中で織りなされるもの、特に、そこで活発にされ、遠くに、そして広範に放射するものの中で私たちのために織りなされるものとは、私たちの運命の織物、私たちのカルマなのです。こうして、私たちは、人間の宇宙に対する関係を通して、徐々に彼を理解するようになりました。つまり、私たちは、いかに彼が外的な世界と根元的な関わりを持っているか、いかに外から根絶やしにされる危険、無感覚へと還元される危険に曝されているか、そして、結局のところ、いかに心臓によって支えられているかを理解するようになりました。他の種類の金属について瞑想するときの私たちの精神的なアプローチは異なっています。私たちは銅についても鉄、錫、そして鉛について行ったのと同様の手続きを踏むことができます。私たちは、銅の金属としての性質について瞑想するとき、いわばそれと溶け合い、ひとつになります。そのとき、私たちの魂全体が銅によって、つまり、その色や密度、その奇妙な筋の入った表面によって浸透されます。要するに、私たちは、銅の金属性に対する私たちの魂的な反応と完全に同一視されるようになるのですが、そのとき、私たちが経験するのは、無感覚への段階的な移行ではなく、むしろその反対です。私たちは私たちの内的な存在全体が何かで溢れるという感覚を持ちます。つまり、私たちの反応はより鋭敏になるのです。私たちは、銅について瞑想するとき、それが私たちの存在全体に浸透する、というはっきりとした印象を持ちます。それは心臓より下にある中心から放射し、そして、体全体に分散します。自分の中に第二の体、第二の人間を有しているかのようです。そして、内的な圧力を感じます。このことはいくらか痛みを伴うのですが、それは徐々に増加します。あらゆるものが内的な緊張状態にあるかのようです。秘儀参入者の意識を持ってこの状態に向き合うとき、私たちは自分の中に第二の人間の存在を感じます。そして、この経験は重要な示唆を含んでいます。と申しますのも、私たちは自分に次のように言うことができるからです。誕生と教育の産物であり、世界を理解するための道具であるところの通常の自我は、我々の人生を通して、我々とともにある。しかし、今や勢いを得たこの第二の人間の中に、訓練と瞑想を通して、その知覚能力を目覚めさせるのだと。この第二の人間は実際、特筆すべき存在です。彼は目と耳を別個のものとして有しているのではありません。そうではなく、それ自体が同時に目であり耳である存在なのです。彼は繊細な知覚能力を有する感覚器官に似て、私たちが通常は知覚しないものを知覚します。私たちの世界は突然、豊かなものになるのです。ちょうど蛇が脱皮するようにわずかの間、そして、その2、3秒の間に多くのことが経験されるのですが、とはいえ、この第二の人間、「銅」人間は体を脱ぎ捨て、精神世界を自由に動き回ります。痛みが増すという代償を払ってですが、彼は体から離れることができるのです。体から離れるとき、さらに幅広い経験が得られます。体を捨て去ることができる地点にまで達しているならば、死の門を通過した人を追っていくことが可能になるのです。その場合、亡くなった人と私たちとの地上的な関係は今すべて終わりを迎えます。彼は埋葬されるか荼毘に付され、地球との関係を断ち切りました。私たちが第二の人間とともに、つまり、超感覚的な知覚とともに体を捨て去るとき、死後の魂が辿る旅路を追っていくことが可能になります。そして、私たちはそのとき、その魂が死後の最初の何年あるいは何十年かを、地上における人生を逆向きに辿りながら過ごすということを知ります。これは観察することができる事実です。何故なら、私たちは死の門を通ってその魂を追っていくことができるからです。私たちが人生を要約するのにかかる時間は人生の三分の一の長さです。60歳で死ぬ人はおよそ20年かけて人生の経験を要約することになるでしょう。私たちは彼の魂をこの期間を通じて追っていくことができます。私たちは今や、死後に辿る人間の経験について多くのことを知ります。人生を要約するとき、その経験は逆向きになります。いくらか粗雑な例をあげることをお許しいただきたいのですが、皆さんが死ぬ三年前に誰かの横面をひっぱたいたとしましょう。皆さんは彼にうんざりしていたので、怒りを爆発させ、彼に物理的、道徳的な痛みを与えました。皆さんは彼が自分を怒らせたという理由で彼に与えた罰によって一定の満足を得ました。さて、皆さんは皆さんの人生を逆向きに要約します。一年後にこのエピソードのところにやってきたとき、皆さんは元の怒りの爆発ではなく、その爆発の餌食になった人の物理的、道徳的な痛みを経験します。皆さんは正に彼の感情の中に入り込み、その横面の手形を物理的に経験するのです。つまり、皆さんは皆さんが与えた痛みを体験するのですが、同様のことはあらゆる行いにあてはまります。皆さんはそれに巻き込まれた人が経験することをその通りに経験します。人間の魂が死後に通過するすべてのそのような経験を追っていくことができるのです。その文化的な衝動を秘儀の教えに負っていた古代カルディア人たちは、これらのことがらに関して、今日の人間よりもはるかに深い洞察を有していました。注目すべきは、今日の私たちが心臓意識の中で生きているのに対し、当時、これらの古代カルディア人たちは実際、喉頭意識の中で生きていたという事実です。彼らにとって自然な意識とは一種の鉄意識だったのです。彼らの経験は宇宙に関連していました。彼らにとって地球は、今日の私たちにとってそうであるようなしっかりとした一貫性を有していませんでした。彼らがある特別に好ましい条件下、例えば、火星存在との親しい交わりの中で生きるとき、私たちが第二の人間の意識によって知覚するような存在たちを伴って、ある存在たちが月からやってくる瞬間がやって来ました。カルディア人たちは死後の生活に関する崇高な真実をこのように間接的な仕方で知りました。つまり、彼らはこれらの真実についての教唆を外なる宇宙から受け取ったのです。仲介者の助けなしに死者を追っていくことができる今日の私たちにとって、そのようなことはもはや必要ではありません。私たちは彼らの経験を逆の順番に、そして、それぞれの経験を逆方向に辿ることができるのです。そして、私たちが、この第二の人間と同化するとき、現象世界よりもはるかに現実的な世界に自分が置かれているのを見いだす、というのは不思議なことです。現在のこの世界とそこにおける私たちの経験の総計は私たちが今参入する堅固で厳格な事実の世界に比べると実体がないように見えます。今お話ししたような仕方で死者に同伴するとき、私たちはあらゆることがらを増幅したスケールで経験します。つまり、あらゆることがより強烈に現実的なものとして現れるのです。それに比較すると、現象世界は漠とした印象を残します。秘儀に参入した意識を通して死者の世界に関係する人にとって、現象世界は色のついた仮面舞踏会のようなものです。瞑想を通して秘儀に参入し、死者とこのように密接な関係を持った人は次のように言うでしょう。お前たちは皆、色のついた仮面だ。お前たちに現実性はない。ただ色のついた仮面が椅子の上に座っているのだと。真の現実は物理的な存在領域を越えたところにのみ見いだされるのですが、その現実は、今、ここで経験することができるのです。恐らく皆さんの何人かは私の神秘劇に登場するストラーダーという人物を覚えているかも知れません。この役柄は実在の人物に基づいています。ストラーダーは一九世紀の最後の三分の一から二十世紀にかけて生きた人物の詩的で非現実的な側面を表現しています。彼は実際の人生において非常に興味深い男でした。彼の人生の出発点はカプチン修道士会の見習いでしたが、哲学のためにその職業を捨て、しばらくの間ドルナッハの修道院に滞在しました。私は彼を神秘劇の中でストラーダーに仕立てたのです。それは彼を忠実に再現したものではありませんでしたが、ある程度似たところがありました。覚えておられるかと思いますが、神秘劇第四番でストラーダーは死にます。私は、彼のキャラクターをさらに展開するための可能性をすべて使い果たしていたために、彼を死なせるより他になかったのです。もし、彼を生かし続けようと試みていたならば、私はペンを取ることができなかったでしょう。神秘劇の第五番に彼が再び登場する可能性はなかったのです。何故そうだったのでしょうか。その役割を僧から哲学者へと変えていた当の人物はその間に亡くなっていました。そして、私は、その人物に対して深い興味を抱いていたために、彼の旅路を精神世界を通して追っていくことができたのです。彼の人物像によってもたらされるそこでの印象ははるかに現実的なものでした。彼の地上における生活と活動は、彼の死後の生活における経験に与ることができる今となっては、もはや私にとって同様の興味を起こさせるものではありませんでした。そのとき、奇妙なできごとが起こりました。何人かの人智学徒がことの次第にはたと気がついたのです。彼らは-人間の手際のよさに際限はありません。ストラーダーがある程度歴史的な人物の横顔であることを見つけだしたのです。彼らはその探求の過程で彼の未公開の原稿や彼が書き残していたあらゆる種類の興味深い書類を発見しました。彼らはその発見に私が大喜びするものと思って、それを私のところに持ってきたのですが、それは私にはほとんど興味のないものだったのです。一方、私が本当に興味を持っていたのは彼の死後の行為でした。このずっとはるかに現実的なものに比べれば、彼が後に残していった外的な世界に関するあらゆるものは私にとっては何の意味もないものだったのです。それほど骨を折って集めた情報ですが、私がほとんど興味を示さないのに人々は驚きました。しかし、そのとき私はそれを必要としていなかったのです。そして、今も必要としていません。この世界の現実とは、私たちが死の門を通った魂を追っていくときに明らかになるあの崇高な現実に比べれば、空虚なものである、というのは本当のことです。その魂が死の門の向こうで滞在しているのは、私たちが、肉体を捨て去ることができる第二の人間と同化するとき、短い間とはいえ経験することができる世界です。しかし、その短時間の間に、私たちは多くのことを経験することができます。現象世界に直接その境を接するこの世界の存在は全く疑いのないものです。それは死者たちがより豊かに生きる世界です。私たちは肉体を放棄するこの第二の人間を通して彼らを理解するのですが、それは、意識を喪失したというよりも、むしろ私たちの意識がより深く融合したということです。もし、私たちが心臓中心よりも上に上昇するとすれば、私たちの意識はよりぼんやりとしたものになり、無意識の状態に近くなります。もし、私たちが心臓中心よりも下に下がるならば、私たちの意識は強められます。私たちは現実の世界に参入するのですが、その結果として必然的に生じる痛みや苦しみに耐えることを学ばなければなりません。とはいえ、もし、私たちがこの世界を取り囲む壁を勇気と決意を持って突破するならば、その参入は確かなものになるでしょう。私たちは今や、通常の日常的な意識、喉頭にあける第二の意識、両目の領域における第三の意識、頭頂部における宇宙に達するところの第四の意識、そして、空間世界とは関係を持たず、時間の世界に私たちを連れ戻すところの第五の意識についての理解へと至りました。この第五の意識レベルを達成するとき、私たちは死者たちと同じ逆向きの時間軸を共有し、時間の中を旅することになります。私たちは空間から出て、時間の中へと足を踏み入れたのです。ですから、すべては私たちが私たちの前に新しい世界を開示する別の意識状態の中に自分自身を移すことができるかどうかにかかっています。地上における人間はひとつの隔離された世界の囚人です。何故なら、彼はたったひとつの意識状態しか知らず、他のすべての意識において、眠りの状態にあるからです。もし、私たちがそれらを目覚めさせ、発達させることができるならば、私たちは別の世界を経験することができるのです。人間はその意識を変化させることによって、自分自身を変化させることができる、というのが精神的な探求における秘密です。通常の方法による探求や研究によって別の世界へと貫き至ることはできません。私たちは、変容を遂げ、意識を通常とは別の新しい形態へと変化させなければなりません。(第三講・了)参照画:変態人気ブログランキングへ
2024年04月29日
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ルドルフ・シュタイナー「精神的な探求における真実の道と偽りの道」 (GA243)佐々木義之 訳第二講 三つの世界とそれが映し出すイメージ もし、私たちが精神的な探求についての理解を発展させたいと望むならば、私たちはまず第一に、人間の魂が経験することができる様々な意識状態についてのはっきりとした考えを有していなければなりません。今日、地上における通常の生活において、人間ははっきりと規定される意識を享受していますが、この意識は、彼が目覚めと眠りの間に明確な区別を経験するという事実によって特徴づけられます。それは時間的には一致しないとはいえ、およそ太陽が地球の周りを一周すると想像した場合の長さ、つまり地球がその軸上で一回転する長さに対応しています。但し、現時点では、この対応はある程度遮断されています。生活システムが秩序立っていたそれほど遠くない過去を振り返ってみるならば、人々はおよそ日の出から日の入りまで働き、日の入りから日の出まで眠っていたということが分かります。今日、この秩序だったあり方は部分的に損なわれています。実際、私はその生活習慣を逆転させていた人々を知っているのですが、彼らは昼間眠り、夜起きていました。私はよくその理由を尋ねたのですが、その多くが詩人や作家であった当の人々は次のように答えたものです。それは仕方がないです、そういったことは文学的な執筆活動とは切り離せないものですからと。とはいえ、私が夜、彼らに出合ったとき、彼らが詩を書いているのを見たことは一度もありません。さて、私が強調したいのは、今日の意識にとって最も重要なのは、私たちが昼間あるいはそれに対応する時間帯に起き、暗い間に相当する時間帯に眠るということです。多くの事柄がこの意識形態に結びついているのですが、中でも私たちが感覚知覚に特別の価値を置くということ、つまりそれらが私たちにとっては第一義的な現実になるということがそれに結びついています。とはいえ、感覚知覚から目を思考に転じるときには、私たちはそれを感覚知覚という現実を欠いたそのかすかな反映として眺めます。今日、私たちは椅子をひとつの現実とみなします。皆さんはそれを床の上に置くことができますし、それが立てる音を聞くこともできます。皆さんはその上に座ることができるのも知っています。けれども、椅子という思考は現実的なものとはみなされません。思考が頭の中に位置していると信じて、それをばんと叩いたとしても、皆さんには何も聞こえません。皆さんは椅子という思考の上に座ることができるとも信じていませんが、そのように信じることは現時点での人間の構成からすると正しいことなのです。このホールの中に単に椅子という思考だけが備えつけてあったとすれば、皆さんはあまりうれしくないでしょう。そして、その他の多くのことがこのように太陽の軌道周期に関係した意識を経験することと結びついているのです。その生活パターンが秘儀によって、例えば、昨日お話ししたカルディアの秘儀によって秩序づけられ、方向づけられていた人々にとっては状況は異なっていました。それらの人々は今日の意識とは非常に異なった意識レベルで生活していたのです。少し卑近な例によってこの違いを描き出してみましょう。私たちの暦によると、一年には365日が割り当てられています。とはいえ、これは全く正確というわけではありません。もし、私たちが一世紀の間、一年を365日で数え続けるとすれば、私たちはそのうち太陽の歩調から逸脱してしまいます。私たちは太陽の位置に追いつけなくなるのです。そこで、私たちは四年ごとに一日を挟みこみます。こうして、私たちは比較的長期間にわたっておよその一致を取り戻します。非常に古い時代、カルディア人たちはこの問題にどのように対処していたのでしょうか?彼らは長い間、私たちの方法に似た計算方法を用いていたのですが、彼らはその方法に別のやり方で到達しました。彼らは一年に360日を割り当てていたのですが、そのため、六年おきにまるまる一ヶ月を挟みこまなければなりませんでした。一方、私たちは四年ごとに一日をつけ加えて、閏年として計算します。ですから、彼らの場合、それぞれが一二ヶ月からなる六年間の後、一三ヶ月からなる年がそれに続いたのです。現代の学者たちはこの事実を記録し、確認しました。しかし、彼らはこの年代的な違いが人間の意識に関する奥深い変化に結びついていることに気づきません。四年ごとに余分な一日を置く代わりに、六年おきに一ヶ月を挟みこんだこれらのカルディア人たちは私たちとは全く異なる世界観を有していたのです。彼らは昼と夜の違いを私たちと同じようには経験しませんでした。昨日触れましたように、彼らの昼間の経験は私たちの経験のように明確で生き生きとしたものではありませんでした。もし、私たちのように現在の意識を持った誰かがこのホールの中に入ってきて周囲を見回したとすれば、もちろん彼はここにいる聴衆を、何人かは近くに一緒にいて、別の人々は遠く離れている等々の違いはあっても、明確に規定された輪郭を持つ人々として見ることでしょう。カルディアの秘儀からインスピレーションを受けていた人々の間ではそうではありませんでした。当時、彼らは、例えば、座っている人物を今日私たちがその人を見るようには見ませんでした。と申しますのも、当時、そのようなことはまれであり、その人は彼の一部であるオーラの雲に包まれていたからです。私たちが私たちの世俗的なやり方で、明確に規定された輪郭をもって椅子に座っている個々の人とその人々全体をそこにいる人の数を数えることができるほどにはっきりと見るのに対して、古いカルディア人たちは通路の右と左に続くそれぞれの椅子の列が流れる霧のかたまりに似た一種のオーラの雲に包まれていたのを見たはずです。ここにも雲が、あそこにも雲が、そして少し暗い領域があり、それらの暗い領域が人間を示していたことでしょう。(Erde:地球 - dunkel blau暗い青/Schnee,Euphrat:雪、ユーフラテス - weiss白/Luft:空気 - gruen:緑/Rohr:管 - lila:淡紫 gelb:黄色 rot:赤色 hell blau:明るい青)この種の視覚経験はカルディア時代の初期にはまだ知られていたはずですが、後の時代においてはそうではありませんでした。古いカルディア人たちは昼間はこの漠としたイメージの暗い領域だけを見ていたことでしょう。彼らは夜にも、それと非常に似た何かを、眠っている状態においてさえ、見ていたはずです。何故なら、彼らの眠りは私たちの眠りほど深いものではなかったからです。それはどちらかというと夢に似たものでした。今日では、もし誰かが眠っていて、皆さん全員がここに座っているとしても、彼は皆さんのことを全く何も見ないでしょう。古い時代には、このような深い眠りは知られていませんでした。人々は右や左に続くオーラの雲の視覚的な形態を、その中にある光の点としての個々人とともに見たことでしょう。ですから、当時、昼と夜における状態の知覚に関して、今日ほど顕著な違いはなかったのです。この理由から、彼らは昼間には日の光があり、夜にはそれがない、という違いに気づいていませんでした。彼らは昼間、太陽をすばらしいオーラに包まれた光り輝く球として見ました。彼らは自分で次のように思い描いていました。下方には地球が、地上の至るところに水、そしてもっと高いところには雪がある。それはユーフラテス川の源と考えられる。このすべての上に空気が、そして高みには、最も美しいオーラに包まれて東から西へと旅する太陽がある、と。そして、彼らは、今日で言えば何か漏斗に似たものの存在を想像しました。つまり、夕方になると太陽はこの漏斗の中に降り、朝再び現れ出たのです。とはいえ、彼らは本当にこの漏斗の中にある太陽を見たのです。夕方、太陽はおよそ次のように見えました。つまり、光り輝く緑がかった青い中心が赤みがかった黄色の後光に包まれているように見えたのです。彼らが太陽に関して抱いていたイメージとはこのようなものでした。朝になると、太陽は輝く中心が後光に包まれて漏斗の中から現れました。それは天蓋を横切って旅し、より深い色合いを帯びて西の水平線から漏斗の中に潜り込み、漏斗を越えて放射する後光を示した後、視界から消えました。彼らにとってその太陽は暗く、黒かったために、彼らは漏斗あるいは穴のような空間について語りました。彼らは物事を見たとおりに、正確に記述したのです。そしてまた、当時、彼らに深い印象を与えたのは、彼らが彼らの子供時代の最初の6年か7年を振り返り、その時代には、いかに彼らがその受肉以前に間違いなくその中に住んでいたところのあの神的な要素にまだ包まれていたかを、そして、7才から14才の間に精神的な卵の中から現れ始め、ついには彼らが20才になったとき、いかにその過程が最終的に完成するかを知覚したときです。彼らが彼ら自身、地上の存在であると本当に感じたのはただこの年齢に達したときだけでした。そしてそのとき、彼らはよりはっきりと昼と夜の間の違いに気づいたのです。彼らは自分の中で六から七年ごとに起こる発達上の周期的な変化を観察しましたが、これは月の相に一致していました。二十八日周期の月の相は、彼ら自身の六から七年という生活経験の期間に対応していたのです。そして、彼らは一ヶ月という月の相が人間の生活においては二十八年(四×七年)という期間に相当すると感じていました。彼らはこのことを七年ごとに一ヶ月を挿入することによって暦の中に表現したのです。要するに、彼らの数え方は月に基づいていたのであって、太陽にではありませんでした。さらに言えば、彼らは外的な自然を、今日、私たちがそうするようにはっきりと規定されたもの、精神を欠いたものとして見たのではありません。彼らが昼と夜の両方に観察した自然は精神的なオーラに浸透されていたのです。今日、私たちは明確な昼の意識を有していますが、夜には何も見えません。このことは私たちが昼と夜の交代を生じさせるところの太陽に重きを置くことに表現されています。古代カルディア人たちの秘儀の叡智においては太陽ではなく月が強調されたのですが、それは月の相が成熟に向けての彼ら自身の成長を忠実に反映していたからです。彼らは彼ら自身をそれぞれの段階ごとに-子供として、若者として、そして大人として-異なった仕方で構成されていると感じていましたが、今日、私たちはもはやこのことを経験しません。振り返ってみると、最初の七年とその次の七年の間にそれほどの違いがあったとは思われません。今日、子供たちはあまりにも賢こく、彼らとうまくやっていくのはほとんど不可能なほどです。彼らに太刀打ちするためには特別な教育方法が工夫されなければならないでしょう。彼らは大人と同じくらい賢く、そして、どの年齢層の人も等しく賢いように見えます。古代カルディア人たちはそうではありませんでした。当時、子供たちはまだ精神世界に結びつけられていました。彼らは成長してもこのことを忘れず、オーラの卵の中から現れ出た後で初めて地上的な存在になったのだ、ということを知っていたのです。ですから、彼らの計算は太陽にではなく月に、つまり彼らが天上に観察したところの七つの周期で計算した四つの相に基づいていました。こうして、彼らは月の相にしたがって、七年ごとに一ヶ月を余計に登録したのです。文明史におけるこの外的なしるしは、つまり私たちが四年ごとに一日を追加的に挿入するのに対して、カルディア人たちは七年ごとに一ヶ月を追加的に挿入したという事実は、彼らの昼の意識が夜の意識からはっきりと分けられていなかったのに対して、彼らが相前後する人生の諸期間を通しての意識状態の大きな違いを経験していたということを示しているのです。今日、私たちは朝目覚めたとき、眠い目をこすりながら、「私は眠った」と言います。古代カルディア人たちは二十一才あるいは二十二才になったとき、自分は目覚めたと感じたのです。そのとき彼らは世界をはっきりと見るようになり、「私はこの瞬間までずっと眠っていた」と言いました。その覚醒意識は彼らが五十才になるまで保持され、彼らが年老いたとしても以前の状態に立ち戻るのではなく、より十全で明確な視界を発達させると信じられていました。そのため、二十才になった後に獲得した意識を保持しながら、今や眠りの領域に入るとはいえ、高度に超感覚的な能力を有する老人たちが聖人として尊敬されたのです。こうして、古代カルディア人たちは三つの意識状態に通じていました。私たちは二つの意識状態を経験しますが、それに加えて私たちが夢の状態として特徴づけるところの三番目の状態があります。つまり、目覚め、眠り、そして夢の意識です。カルディア人はこれら三つの意識を毎日経験したのではありません。彼は減退した意識状態を二十才になるまで経験し、そして意識的に目覚めた状態を五十才になるまで経験したのです。そして、彼に関して次のように言えるような状態、つまり彼は彼の地上的な意識を精神世界へと持ち込もうとしている、彼は他の人間よりもはるかに多くのことを知り、より賢くなる段階に達したのだと言えるような状態がありました。年を重ねた人は聖人として尊敬されていたのです。今日、彼らは老いぼれていると考えられます。この大変な違いは人間存在の正に根幹に関わっているのです。私たちはこのことについて全く明確でなければなりません。何故なら、それは人間存在にとって途方もなく重要なことだからです。私たちは単にたったひとつの意識状態を通して世界を探求するのではありません。私たちが世界を知るようになるのは、例えば、古代カルディアの子供たちに共通していた意識形態を理解するときだけです。それは私たち自身の夢の状態に似たものであったとはいえ、より活動的で、その人物を行動へと駆り立てることができました。それは今日では病理的な状態と考えられるであろうようなものです。当時は、今日あまりにも散文的であたりまえのものと思われているこの覚醒意識は知られていませんでした。私は散文的という言葉をわざと使っているのですが、それは人間の物理的な側面だけに注目し、それだけしか存在していないかのように表現するのは散文的だからです。もちろん、このことは容易に認められるようなことではないかもしれません。しかし、本当にそうなのです。古代カルディアにおいては、人間は物理的な実体としてだけではなく、私が記述したようなオーラを付与されたものとして感知されていました。そして、聖人たちは物理的なものを超えて人間の魂をのぞき見ていたのです。それは今日ではかき消されている第三の意識状態であり、夢のない眠りに比肩されるようなものです。もし、私たちがその状況を歴史的に眺めるとすれば、私たち自身の意識とは非常に異なった意識に出会うのが分かります。そして、時代を遡れば遡るほどその違いは大きくなります。比較してみますと、私たちの通常の意識はそれほど自慢できるほどのものではありません。私たちは誰かが夢のない眠りの中で経験しているであろうことを全く重視していませんが、それは普通、その人がそれについて語るべきものをほとんど有していないからです。今日では、夢のない眠りの中で経験したことについてなにがしかのことを語ることができる人はとても、とても少ないのです。夢の生活はファンタジーであり、単に脳が勝手に作り出したものである、唯一頼りにすることができるのは目覚めた意識状態である、と言われます。古代カルディア人たちにとって、このような態度は与り知らぬものでした。前向きな行動へと誘う新鮮で生き生きとした夢の生活に連なる子供の意識は彼らがまだ天国に住んでいる状態にあり、彼らが口にするのは神から出た言葉である、という状態にあることを示していると考えられたのです。人々が彼らの言うことに耳を傾けたのは、彼らが精神世界からの豊かな情報をもたらしていたからです。時の経過の中で、彼らは地球存在としての意識状態に達しましたが、彼らのオーラの中ではまだ魂の存在、精神的な存在でした。見者や聖者が享受したのはこのような意識状態だったのです。人々は、彼らの言うことに耳を傾けるとき、それが精神世界からの伝言であるということを確信していました。そして、秘儀においてますます高みへと上昇した人たちについては、彼らが五十才になったとき、純粋に太陽的な要素を超越し、精神世界に参入したのだ、つまり彼らは「太陽の英雄」から「父たち」になり、人間の精神的な故郷との交わりを持つようになったのだと言われました。以上のことを皆さんにお話ししたのは、歴史的な観点から、人間がいかにしてこれらの様々の意識状態に与るようになったかを示したかったからです。意識状態についての探求を続けるにあたって、今日の人間が有しているような夢のない眠りについてはしばらくおいて、皆さんがいつものように、私は十分に意識的だ、私の周りにあるものを見たり、他の人が私に話しかけるのを聞いたり、彼らと会話を交わしたりする、と言うときのような通常の目覚めている状態について検証してみましょう。それに続いて、皆さんがよくご存じの第二の状態、皆さんが、自分は眠っている、と想像するときの状態を取り上げましょう。皆さんがその状態で見る夢は、しばしば皆さんをあまりにも驚かせ、あるいはすばらしく自由にさせるようなものであるために、もし皆さんが通常の健全な状態にあるとすれば、皆さんは、これは普通の日常生活の一部ではない、自然な想像力の働きによって創り出された万華鏡のような効果がありとあらゆる仕方で人間の意識の中に無理矢理押し入ってきたものだ、と言わざるを得ないようなものです。散文的なタイプの人はほとんど夢に注意を払わず、迷信的な人はそれを外的な仕方で説明しようとするでしょう。迷信を信じることもなく、またそんなことは当たり前だとも思わない詩的な才能に恵まれた人は、まだこの万華鏡のような夢の生活についての意識を有しています。と申しますのも、腐敗していない人間本性の深みから現れてくるのは迷信的な人々によってそれに帰せられるような重要性ではなく、ちょうど山が隆起して、長い年月を経て再び消えていくように、経験が本能的な生活から霧や雲のように生じることを示すような何かであるからです。ただ、夢の生活においてはこのすべてが速やかに生じるのに対して、宇宙における夢の像はゆっくりと組み立てられ、ゆっくりと消えていくという違いがあるだけです。夢には別の特徴があります。周囲がヘビだらけ、体にもヘビが巻きついている夢を見ることがあります。例えば、コカインの常習者はこのようなヘビについての夢の経験を誇張された形で持つかも知れません。この悪徳の犠牲者は起きているときでさえ、その体のいたるところからヘビが這い出すのを感じます。私たちは、私たち自身の生活を観察するとき、そのような夢が何らかの内的な障害を示しているのに気づきます。ヘビの夢は何らかの消化に関する障害を示しています。腸の蠕動運動がのたうつヘビとして夢の中で象徴的に示されるのです。また、散歩に出かけて、白い杭-上部が損傷した白い杭あるいは石柱が立っている場所に出る夢を見るかもしれません。彼は夢の中でこの上部の損傷に不安を感じます。彼は自分の歯が痛んでいるのに気づいて目覚めるのです!彼は無意識の内に彼の歯の一本に指をやりたい衝動に駆られます。これは今日の人間についての話です。太古の時代には人間はそのようなことから超越していました。今日の標準的な人間は歯医者に行って悪い歯を詰めてもらおうと決心します。このことはどのように説明すればよいでしょうか。何らかの有機的な障害を示す痛む歯に関連したこの経験の全体はひとつの像によって象徴化されます。歯は何らかの損傷あるいは腐食の兆候を示す白い杭になりました。夢の像の中で、私たちは私たちの有機体の中に実際に存在する何かに気づくのです。あるいはまた、不安で落ち着かない気持ちで窒息しそうな部屋の中にいる生々しい夢を見ることがあります。そして突然-今まで気づかなかったのですが-部屋の隅にあるストーブが非常に熱くなっているのが目に入ります。部屋は暑くなりすぎていたのです。私たちは今や、夢の中でなぜ息ができなかったのかを知ります-部屋があまりにも暑かったのです。私たちは動悸と速い脈拍で目覚めるのですが、夢の中で外的な形で象徴化されたのは異常な脈拍だったのです。何らかの有機的な障害があり、私たちはそれに気づくのですが、昼間のように直接的な仕方で気づくのではありません。私たちは象徴的な像を通してそれに気づくのです。あるいはまた、私たちは外から太陽が照りつけている夢を見るかもしれません。日差しは私たちのじゃまをし、通常であれば私たちは日光を歓迎するはずなのに不安になります。目が覚めて隣家が火事になっているのに気づきます。外的な出来事はそのまま表現されるのではなく、象徴的な形態の衣をまとうのです。このように私たちは、自然で創造的なイマジネーションが夢の中で働いているのを、つまり外的な事象が夢の中に反映されているのを見ます。けれども私たちはこのことにこだわる必要はありません。夢はいわば生命を獲得し、それ自身の内的な意味と本質的な現実性を帯びることができるのです。私たちは外的世界のいかなる事物にも関連づけることができない何かを夢に見るかもしれません。この点に段階を追って近づくとき、私たちは、全く異なる世界が夢の中に示されている、と言います。すなわち、私たちは、悪魔的であったり、美しく妖精のようであったりする全く別のものに出会うのです。夢の像の中に現れるのは現象世界だけではありません。そうではなく、全体として異なる世界が私たちの中に侵入してくるのです。人間は感覚によって知覚可能な形態において超感覚的な世界を夢に見ます。このように、今日、人間の意識は通常の覚醒した生活に並行して夢の生活を有しています。実際、夢への傾向こそが私たちを詩人にするのです。夢を見ることができない人々はいつでもあまりよい詩人ではありません。と申しますのも、詩人あるいは芸術家であるためには、夢における自然な素材を目覚めの生活における想像的なファンタジーへと翻訳できなければならないからです。例えば、外的な対象物からその象徴的な表現を引き出すような夢、窓から部屋に差し込む日差しが隣家の火事を象徴化しているような夢を見る人であれば誰でも、次の日に創作活動をしたいような思いに駆られることでしょう。彼は潜在的な音楽家です。心臓の動悸を加熱したストーブとして経験する人は次の日にモデルの描写や建築デザインに向かいたいような気にさせられるでしょう。彼は潜在的な建築家、彫刻家、あるいは画家なのです。これらの事柄はお互いに関連しています。つまり、通常の意識においては、それらは私がお話ししたような仕方で関連しあっています。けれども、私たちはさらに先に進むことができます。「より高次の世界の認識」や「神秘学概論」に書きましたように、この通常の意識はある種の精神的な訓練-これについては後でお話ししますが-に取りかかることで発達させることができます。つまり、ある明確な概念や言語上の関連に心を集中することによって、私たちの思考、感情、そして意志の内的な生活全体に新しい生命と活力が与えられるのです。これらの訓練を通して、思考は事実上、はっきりと見ることができる現実に、感情は生きた実体となります。そのとき、現代における秘儀参入の第一段階が始まります-私たちは私たちの夢を目覚めの生活へと持ち込むのです。しかし、この点で容易に誤解が生じます。私たちは昼間見る夢に全く自然に耽るような人が見る夢をほとんど重視しませんが、その昼間の夢にもかかわらず、感情や思考を他の人よりもより生き生きと活力あるものにしたことによって、十全なる意識を保持したまま夢を見続けることができるようになった人は秘儀参入者になるための最初のステップを踏み出したのです。この段階に到達した人には次のようなことが起こります。彼は敏感な人であり、目覚めの生活においては他の人と同様にまじめで感覚が鋭いために、彼の仲間の人間に関して、一方では普通の意識に現れるようなものとして、つまり、鼻の形や目の色、髪がきちんとしているかどうか等々を見るのですが、他方では、彼らの周囲に何か別のもの、何か真実であるものを夢に見はじめます。つまり、彼は彼らのオーラ、彼らの関係についての内的な意味を夢に見るのです。それは彼の精神の目を持って見るということです。彼は、十分に目覚めた意識において、意味のある夢、現実に合致した夢を見るようになります。彼が朝目覚めるときにも彼の夢は終わることがなく、一日中続き、眠りの中で変化させられるとはいえ、意味に満ちてます。彼は人間の魂の真の性質、彼らの行動の精神的な源泉を見ます。彼はそうでなければ単なる名残あるいは通常の夢であるところのものに関連した活動の中に生きるのですが、それでもこれらの夢は精神的な現実なのです。さて、第二の意識が最初の意識につけ加えられます。目覚めて見る夢は日常生活における通常の知覚よりも高次の知覚形態を取るようになります。十分に目覚めた意識状態において、日常生活の現実に、より高次の現実が付け加えられたのです。通常の夢においては、何か現実的なものが失われています。つまり、ファンタジーに担われた現実の断片のみが私たちに与えられます。けれども、私がお話ししたような目覚めた夢においては、個々の人間の形態、植物や動物等あらゆるものが明示されてそこにあり、人間の行いは十全なる意味を持ったものとして見られます。このすべてが日常的な現実に何かをつけ加え、それを豊かなものにするのです。通常の意識による知覚に第二の意識がつけ加えられます。人は異なった光の中で世界を見始めるのですが、このことは私たちが動物の世界を見るときに最も衝撃的に示されます。それは今やあまりにも異なったものとして現れるために、私たちは実際、以前には一体何を見ていたのだろう、といぶかるほどです。私たちはそれまで動物界の一部、その外的な側面だけを見ていたのです。さて、ひとつの全体としての新しい世界がつけ加えられます。それぞれの動物の種、ライオンや虎、そしてありとあらゆる種の中には何か人間に近いものが横たわっているのですが、これを人間との比較で示すのは困難です。次のように考えてみてください。皆さんが、両手の指全部に一定の長さのひもを結びつけ、そのそれぞれのひもの端に様々の色の模様がつけられたボールを固定することによって皆さんの体を延長すると想像してみましょう。皆さんには今や10本のひもが結びつけられています。さて、ボールがあらゆる方向に動くように指を使ってひもを操作してください。今度は足の指で同じことをしてみましょう。次は空中に跳び上がったり、足の指を上手に使ってすばらしい形が生み出されるようにしてください。このようにして、それぞれの指は先端についたカラーボールで長くなりました。それぞれの足の指も同じです。このすべてが皆さんの人間としての形態の一部であり、その全体が魂によるコントロールの下にあると想像してください。それぞれのボールは別々の実体ですが、このすべてを探求する瞬間、皆さんはそれがひとつの全体を構成している、という印象を持ちます。これらのボールや糸のすべては皆さんの指や足の指と違って皆さんの一部ではありませんが、そのすべてが単一の全体を形成し、皆さんはそれをコントロールしています。皆さんは、今お話ししたような方法でボールと糸を操りはじめるとき、上方にあるライオンの魂とそれに結びつけられたボールのような個々のライオンが全体としてひとつの統一体を形成しているのを見ます。もし、皆さんが以前は20個のボールがそこにあるのを見ていたとすれば、それらはそれら自身にとってひとつの世界を表していました。そこに活動の主体である人間を加えます。すると新しい状況が生まれます。皆さんの知覚様式についても同じことが言えます。皆さんは個々のライオンがそれぞれ独立して動き回っているのを見ますが、それらは独立した単位としてそこにあるボールです。次に、皆さんは自意識を付与されたライオンの魂、すなわち精神世界においては人間に似たものに見えるライオンの魂と、一見したところ動き回るボールのようにつり下げられた個々のライオンを見ます。自意識を持ったライオンの魂はこれらの個々のライオンとして表現されているのです。こうして皆さんは動物世界におけるあらゆる生き物のより高次の形態を知覚します。動物はその成り立ちの中に人間に近い何かを、つまり人間の魂とは異なる領域に属する魂的な性質を有しています。皆さんは皆さんの人生において、どこに行くにしても自意識を有する魂の生活を断固として担っています。皆さんには皆さんの自我を誰かれなく押しつける自由があるのです。個々のライオンにはそれがありません。ところが、このお互いに対立する自我の領域に接して別の領域が存在しています。精神世界では、ライオンの魂たちは全く同じことをしているのです。彼らにとって個々のライオンは糸の先についた多くの踊るボールにすぎません。そのため、私たちが新しく獲得した意識を持って動物界の真の本性を見るとき、ちょっとしたショックを受けることになります。私たちは新たな世界に参入し、自分に次のように言います。私たちもまたこの別の世界に属している。しかし、私たちはそれを地上に引きずりおろしている、と。動物はそれ自身の中のなにがしかを、つまり集合魂あるいは種の魂を後に残してきています。地上で見ることができるのは四つ足だけです。私たちは動物が精神世界に残してきたものを地上に引きずりおろし、その結果、動物とは異なる形態を獲得しています。私たちの中に生きているものもまたこの高次の世界に属しているのですが、人間としての私たちはそれを地上に引きずりおろしているのです。こうして、私たちは別の世界を知るようになりますが、それは動物たちを媒介として知ることになります。けれども、そのためにはさらなる意識形態が必要です。つまり、私たちは私たちの夢の意識を目覚めの生活へともたらさなければなりません。それによって、私たちは動物界の内的な成り立ちに対する洞察を獲得することができるのです。この第二の世界は魂の世界、あるいは物理的な世界と区別するために魂界またはアストラル界と名づけることができるかも知れません。私たちは別の意識形態を通してこのアストラル界を知るようになります。私たちは私たちが日常的に存在する世界とは異なる世界への洞察を別の意識を通して獲得しなければならないのです。魂の生活をもっとさらに強化し、活性化することも可能です。つまり、先に触れた本に記述されているように、集中や瞑想を行うだけでなく、強化された魂の内容を再び排除するように努力することもできるのです。魂の生活を強化し、思考と感情を強めるという最も骨の折れる努力の末に、私たちはそれを再び変化させ、最終的に無に帰すことができる地点にまで至ります。そのとき、私たちは「空になった意識」の状態と呼ばれる状態に帰着します。さて、普通、「空になった意識」の状態は眠りを誘起します。このことは実験で確かめられます。まず、被験者からすべての視覚的な印象を取り除き、彼を闇の中に置いてください。次に、すべての聴覚的な印象を取り除き、彼が沈黙に包まれるようにしてください。そして、他のすべての感覚印象を奪うように努めてください。そうすれば、彼は徐々に眠りに落ちてしまうでしょう。このことは、もし私たちがあらかじめ私たちの思考や感情を強化していれば、起こり得ないことです。私たちの意識を意志の働きによって空にしていたとすれば、そのような場合にも起きたままでいることが可能なのです。そのとき、現象世界はもはや存在していないでしょう。私たちの通常の思考や記憶は忘れ去られます。空になった意識を有している私たちの中には真の精神世界が直ちに侵入してきます。ちょうど私たちの通常の意識が感覚世界の色や音、熱で満たされるように、精神世界がこの空になった意識を満たします。私たちは、私たちの意識を意識的に空にするときにだけ、精神世界に取り巻かれることになるのです。ここでもまた、新しい意識とその精神世界との関係を特別に生き生きと理解するために役立つ何かが外的な自然の中にあります。ちょうど動物界を普通とは異なる仕方で知覚することによって通常の意識よりも一段高い意識に気づいたように、私たちは今や、それとは全く異なった仕方で構成されている植物界の中で、この新しいレベルの意識を認識することができるのです。通常の意識には植物界はどのように見えるでしょうか?私たちは青々とした牧場のあちこちに鉱物的な地球の中から花々が咲きでているのを見ます。私たちは青色や金色、赤や白の花々、そして生き生きとした緑の中に、つまり私たちの目の前に絨毯のように広がる植物界の美しさの中に喜びを感じます。地球が花と植物に彩られたこの光り輝く衣に包まれるのを見て、私たちは心を躍らせ、喜びに満たされるのです。そして、目を上方に向ければ、まぶしく輝く太陽、いつもの透き通った昼間の空や曇った空があります。私たちは天と地球の間に、つまり、花々に彩られた野原を見下ろすこと、そして空を見上げることとの間に何らかの関係がある、ということに気づいていません。昼間、私たちの前に広がるこの花のカーペットを見て強烈な喜びを感じた後、夏の一日が終わって夜の帳が下りるのを待つと仮定してみましょう。私たちは目を天蓋に向け、星々が空いっぱいに広がる様々の輝く星座として配列されているのを見ます。そして今、新しい歓喜が上方から私たちの魂を捕らえます。このように私たちは昼間、地上を覆う植物を私たちの心を内的な喜びと歓喜で満たすものとして見下ろすことができます。そして夜空を見上げれば、昼間にはあれほど青く見えた空に今や光り輝く星々がちりばめられているのが見られます。私たちは私たちの魂に現れる美しい空を見て内的な喜びを感じます。これが私たちの通常の意識による反応です。もし、私たちが空になってはいるけれども目覚めたままにとどまり、精神に浸透された意識を完成するならば、昼間植物に覆われた地球を探求し、夜にはきらめく星々を見上げるとき、私たちは自分に次のように言うことができます。確かに、昼間、花々がちりばめられた地球の豊かな彩りが私を喜ばせ、魅惑した。けれども、私は本当のところ何を見たのだろうか?と。そして、私たちは無数の天の星々を見上げます。空になった覚醒意識には、つまりすべての地球的な内容を除去された意識には、星々は単に輝いたりきらめいたりする以上のものであり、実に様々の形態をとります。何故なら、あのより高次の領域には、すばらしい真髄の世界、すなわち壮大で力強く崇高な動きと流れがいたるところに存在しているからです。この光景を前にして、私たちは感謝に満ちた尊敬と、尊敬に満ちた感謝の中で頭をたれ、その崇高さを認識します。私たちは秘儀参入に至る中間段階にさしかかったのです。私たちは植物の起源がより高次の領域に横たわっていることを知っています。私たちがこれまで個々の星々のひらめきと輝き以上のものではないと考えていたところのもの、それこそが真の植物存在であり、私たちは今初めてそれを見るのですが、今まではすみれそのものではなく、ただ朝露の中にあるすみれの花の上の一滴の露を見ていたかのようです。私たちはひとつの星の中にひとつの輝く露を見ますが、実際には、動き、流れる力強い世界がその背後に横たわっているのです。私たちは今や、植物界とは本当は何なのかを知ります。それは地上にではなく、壮大で力強く、崇高なあの大宇宙の中に見いだされるべきものです。そして昼間、私たちが彩り豊かな花のカーペットの中に見ていたものはより高次の世界が反射したイメージなのです。私たちは今や、真の形態や存在たちが動き、流れる大宇宙が地球の表面に反射している、ということを知っています。私たちは、鏡を覗き込むとき、私たち自身がそこに映し出されているのを見ますが、そこに反射しているのはただ私たちの外的な形態であり、私たちの魂ではない、ということを知っています。天は地球にそれほどはっきりと反射されるのではなく、黄色、緑、青、赤や白の植物の色として映し出されるのです。それらは反射された像、影のように微かな天の反映なのです。私たちは今やひとつの新しい世界を知りました。そのより高次の世界には「植物人間」、すなわち自意識を付与された存在が見いだされます。ですから、私たちは現象世界とアストラル界の他に、第三の世界、真の精神世界をつけ加えることができます。星々はこの宇宙的世界のしずくであり、植物はそれが反射したイメージです。その外見は現実を表現しているのではありません。すなわち、彼らはこの地球上におけるその表現において実体的なものではなく、そこからひとつひとつの星々がしずくのように輝き出しているところのあの超越的な世界の無限に多様な豊かさとの関係で言えば、単にそれが反射した像に過ぎないのです。そして、私たちは今や、人間としての私たちが、より高次の領域にある真の植物存在であるところのものを私たちの内に担っている、ということに気づきます。私たちは植物が精神の世界に残してきたもの、と申しますのも、植物存在はあの世界に滞在し、それが地球に送り込むイメージが地球によって地球の実質で満たされるに過ぎないからなのですが、それをこの鏡像の生活へと引きずり下ろしているのです。私たち人間は、私たちの魂的な本性を、そしてそれもまたあのより高次の世界に属しているのですが、この像の世界に持ち込みます。私たちは単なる像ではなく、ここ地球上において、魂を持った精神的な存在でもあるのです。私たちは地球上において三つの世界に参加しています。私たちは物理世界に住んでいますが、自意識を持った動物はそこには見いだされません。同時に私たちも住んでいるところのアストラル界に彼らの自意識は存在しているのです。私たちはこのアストラル界を物理世界の中に引きずり下ろします。私たちはまた第三の世界、真の植物存在が住む精神の世界にも住んでいるのですが、植物存在がその反射された像だけを地球に送り込んでいるのに対して、私たちは私たちの魂的生活の現実をそこに引きずり下ろしているのです。(Phys-:物質界/Mensch:人間/Tier:動物/Pflanze:植物)ですから今や、私たちは次のように言うことができます。ここ地球上において、体と魂と精神を有している存在とは人間である。ここ地球上において、体と魂を持ってはいるけれども、その精神は物理世界に境を接する第二の世界にあるため、より現実性のない存在とは動物である。物理世界にはその体だけを有している存在、魂は第二の世界に、精神は第三の世界にあるために、地球の実質に満たされた単に反射した像であるところの体を持つ存在とは植物であると。私たちは今や、自然における三つの世界を理解し、人間が彼の内にこれら三つの世界を有していることを知ります。私たちは、植物が星々に到達するものであることをある程度感じています。植物を見るとき、私たちは自分に次のように言います。ここには地球上にそれが反射した像、その真の現実性から引き離された像だけを表している存在がいると。私たちが夜、星々に眼差しを向ければ向けるほど、私たちはそのより高次の世界の中にその真の存在をますます見るようになります。地球から天を仰ぎ、宇宙が地球とひとつであることを知覚するとき、そのとき私たちは自然の世界をひとつの全体として見ているのです。そして、私たちは人間としての自分自身を振り返って次のように言います。我々は、植物においては天に至るあの要素を我々の地球的な存在性の中へと切り離した。我々は我々自身の中に、物理世界、アストラル界、そして精神世界を担っているのだと。客観的ではっきりとした知覚を発達させること、様々の領域を通過しながら精神の世界に至るまで自然を追求すること、人間に対する洞察をその精神的な本質に至るまで獲得すること、それが精神的な探求において踏み出すべき最初の一歩です。注:Chaldean era,またはChaldean dynastyは、紀元前626年から紀元前539年まで、Neo-Babylonian Empireを支配した王朝です。この王朝は、Nabopolassarが紀元前626年に即位したことから紀元前539年にバビロンが陥落するまで続きました。Chaldean dynastyは、Neo-Babylonian dynastyとも呼ばれ、バビロンの王朝Xに数えられています。Chaldean dynastyは、可能にその起源であるChaldeanにちなんで名付けられました。しかし、この帝国の最後の支配者であるNabonidus(紀元前556年から紀元前539年)と彼の息子で摂政であるBelshazzarは、アッシリアの出身者で、簒奪者でした。Some scholars refer to the Chaldean Empire as the Neo-Babylonian Empire。また、Babylonという表現は、Chaldeanの支配下で繁栄した都市を指すことが多く、Babylonian Empireの時代を指すことは少ないです。ヘブライ聖書ではカルデア人を指してカスディムという言葉が用いられており、七十人訳聖書ではこれをカルデア人と翻訳している。アブラハムの出身地もカスディムのウルと書かれている。 古代ギリシア人がカルデア人(カルダイオス)と呼んだのは、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。現在ではカルデア人がバビロニアの最初の定住民であったとは考えられていないが、ヘレニズム期の歴史家シケリアのディオドロスは、カルデア人を最古のバビロニア人とした。古代世界においてカルデア人は天文学・占星術を発達させていたことで高名であり、「カルデア人の知恵」とは天文学・占星術のことであった。占星術を司るバビロニアの知識階級ないし祭司階級をたんにカルデア人と呼ぶようにもなった。(第二講・了)参考画:Chaldean era人気ブログランキングへ
2024年04月28日
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ルドルフ・シュタイナー「精神的な探求における真実の道と偽りの道」(GA243)佐々木義之 訳■GA243 「精神的な探求における真実の道と偽りの道」(トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日-22日)●第一講 自然とは大いなる幻想である。「汝自身を知れ」●第二講 三つの世界とそれが映し出すイメージ●第三講 人間の意識状態に関係する鉱物世界の形態と実質●第四講 意識の変容による別世界への探究の秘儀●第五講 金属質の本性を通しての魂の内的な活性化●第六講 秘儀参入への認識、覚醒意識と夢の意識●第七講 星の世界の認識、人類の歴史時代の区別とその精神的な背景●第八講 精神的な探求において陥る可能性のある過ち●第九講 精神的な世界への異常な道とその変容●第十講 地球外宇宙が人間の意識に及ぼす影響●第十一講 精神的な探求と精神的な探求の理解とはどのような関係にあるか?ルドルフ・シュタイナー「精神的な探求における真実の道と偽りの道」 (GA243)佐々木義之 訳第一講 自然とは大いなる幻想である。「汝自身を知れ」 この連続講義では、超感覚的な世界の認識へと導く道について話すように求められていますが、そのような認識と今日の輝かしい成功に導いたところの何年にもわたる忍耐強く勤勉な探求の果実である現象世界についての認識とは相補的なものです。と申しますのも、現実を理解できる人とは、自然科学や歴史科学によって私たちの知識のストックに近年になってつけ加えられた顕著な発見を精神世界から導かれた洞察によって補強することができる人だけだからです。私たちが直面する外的世界とはいたるところ精神的であるとともに物質的なものであるに違いありません。つまり、あらゆる物質現象の背後には、真の主人公である精神的な作用力が見出されるはずです。精神的なものは真空中で存在することはできません。何故なら、それは絶えず活動するとともに何らかの時と場所で物質的なものに活発に浸透するものだからです。この連続講義では、私たちが住んでいるこの世界を、一方ではその物理的な環境についての考察を通して、また他方では精神的なものの知覚を通して、いかにその全体性において知り得るか、ということについて議論することを提案します。それによって、そのような認識を達成するための真の方法と偽りの方法について示したいと思います。この連続講義の実際の主題に触れる前に、それらから何を期待できるのか、私が思い描いている目的とは何かについて皆さんが何らかの考えを持つことができるように、明日、その導入部分を手短にお話しするつもりです。この連続講義はまず第一に私たちが、そもそも何故私たちは精神的な探求を手がけなければならないのか。何故私たちは思考し、感じ、実践する人間として、現象世界をそのまま受け入れるようになっていないのか。一体何故私たちは精神世界についての認識を達成するように努力するのか。という疑問を深く心に留めることに関係しているのです。この関連で、古くからの概念、つまり、人間が思考し、あこがれをもち始めた初期の時代から受け継がれ、今日でもなお私たちが世界の根底を探求するときに見出される諺に言及したいと思います。これらの古い、そして時代遅れの概念を基礎として用いるつもりは決してありませんが、そのような機会が生じたときにはいつでもそれらに対する注意を促したいと思うのです。何千年の時を越えて東方からこだましてくるのは、私たちが私たちの感覚によって知覚する世界はマーヤ、大いなる幻想であるという諺です。そして、人間がその発達の過程を通していつも感じてきたように、世界がマーヤであるとすれば、もしそうであるならば、彼が究極的な真実を見出すためには、彼は「大いなる幻想」を克服しなければなりません。しかし、何故、人間はこの感覚印象の世界をマーヤとして眺めてきたのでしょうか。何故、正に人間が今日よりも精神に近いところにいた太古の時代において、科学、宗教、芸術、そして実際生活の育成のために捧げられた秘儀の中心、つまり、純粋に外的な世界の中で大いなる幻想であったところのものに対置して、人間の認識と活動の源泉である真実と現実への道を指し示すことをその目的とする秘儀の中心が生じたのでしょうか。太古の聖なる秘儀の場所で彼らの弟子を訓練し、幻想から真実へと導こうとしたあの著名な聖人たちをどのように説明すればよいのでしょうか。この疑問に答えられるのは、より冷静に、より客観的な角度から人間を考察するときだけです。「汝自身を知れ」とは、過去の時代から私たちのところにやって来る別の古い諺です。これらふたつの、つまり「世界はマーヤである。」という東方の諺、そして「汝自身を知れ」という古代ギリシャの諺が融合したことによって初めて、後の人類の間で、精神的な認識を目指す探求が開始されました。とはいえ、結局のところ、太古の秘儀の場所における真実と現実を目指す探求もまた、世界は幻想であり、人間は自己認識を達成しなければならないというこの二重の概念の中にその起源を有していたのです。けれども、人間がこの問題に取り組むとすれば、人生そのものを通して、つまり思考を通してだけではなく、意志を通して、そして私たちが人間として直接関わることができる現実への十分な参加を通してだけです。世界中の人間が自分に次のように言うことができるのは、十全なる意識をもってしてではなく、明確な理解をもってしてでもなく、ただ深い感情をもってそうすることができるだけなのです。「外的な世界とは、それを見たり聞いたりすることはできるが、おまえはそれになることができない、そのようなものなのだ」と。この感情は深いところから来るものです。「おまえがおまえの五官で感じることはできるけれども、それになることはできない外的な世界とはそのようなものなのだ」という言葉が示唆するところのものをよく考えてみなければなりません。植物を見ると、最初に緑の芽が春に出て、夏には花が咲き、秋に向かって熟し、実を結びます。私たちは植物が生長し、衰え、枯れるのを、つまり、その一生が一年の間に繰り返されるのを見ます。私たちはまた、多くの植物がその幹を構成するある一定の物質をいかに土壌から吸収するかを見ます。私たちは昨日の夕方ここに来る道すがら多くの非常に古い植物を見ましたが、それらの植物は、その一生が一年間に限られるのではなく、より長い期間へと拡張され、それによってその茎の上に新しい成長点を産み出すことができるように、このような硬化させる物質を多量に吸収したのです。そして、これらの植物がいかに生長し、衰え、枯れるかを観察するのは人間なのです。そしてまた、人が動物を観察するとき、彼はそのはかなさに気づきます。それは鉱物界についても同じです。彼は雄大な山々の連なりの中で鉱物が堆積するのを観察します。そして、彼が身につけた科学的な知識によって、それらもまたはかないものであることに気づきます。そして、彼が最終的によりどころとするのは、例えば、プトレマイオスやコペルニクスの体系のような概念、あるいは古代の秘儀やより最近の秘儀から借りてきた何らかの概念です。そして、彼は次のように結論づけます。私が星々の驚異の中に見るあらゆるもの、複雑で驚くべき軌道上にある太陽や月から私に光を投げかけるあらゆるもの、これらすべてもまたはかないものであると。けれども、そのはかなさとは別に、自然の領域はその他の属性も有しています。それらは、もし人間が自分自身を知るべきものであるとすれば、彼はすべてのはかないもの、つまり植物、鉱物、太陽、月、そして星星と彼とが同様に構成されていると仮定すべきではないということができるような種類のものです。そして、人間は次のような結論に至ります。私は私の中に、私が私の周りに見たり聞いたりするいかなるものとも異なるある性質を有している。私は私自身の存在を理解するようにならなければならない。何故なら、私は私という存在を私が見たり聞いたりするいかなるものの中にも見出すことができないのだからと。人間はあらゆる古代の秘儀の中で、彼ら自身の存在の現実性を見出したいというこの衝動を感じる一方で、空間と時間の一時的な現象は大いなる幻想の表現であると感じられていました。そして、だからこそ、人間の内的な存在の理解に至るために、彼らは感覚知覚を越えて見出されるものに眼差しを向けたのです。そして、彼らはそこで精神世界を経験しました。精神世界への正しい道をいかにして見出すかがこの連続講義の主題となります。人間は現象世界を探求したときに採用した過程と同じ過程を辿ろうとするだろうということは容易に想像できます。彼は感覚的な知覚方法を単純に精神世界の探求へと移すかもしれません。けれども、もし現象世界の探求が幻覚に満ちているのが普通であるとすれば、現象世界を探求するための方法を精神世界にも適用するとすれば、幻覚の可能性は減少するのではなく増加することになるでしょう。そして、これは実際に起こることです。その結果、私たちはそれだけよけいに幻覚の犠牲になります。そしてまた、もし私たちがはっきりしない期待、漠とした熱狂、魂の暗い片隅からわき上がる説明のつかない予感や精神的なものについての夢のような幻想を心に抱くとすれば、それは私たちには永遠に見知らぬものに留まるでしょう。私たちは憶測の世界に留まり、信仰にあずかることはあっても、本当の知識を持つことはありません。もし、私たちが単純にこの道を採用することで満足するならば、精神的なものをよりよく知るのではなく、ますますそれが分からなくなります。こうして人間は二重にさまようことになるのです。精神世界と現象世界に対して同じ探求の道を追求することに関しては、現象世界が幻想であることに気づくとしても、もし普通の精神主義者がときとしてそうするように、精神世界に対して現象世界に対するのと同じ方法で接近しようとすれば、ますます大きな幻想に陥ることになります。他方、別の道にしたがって接近することもできます。この場合には、はっきりと明瞭な線に沿ってではなく、勝手な思いこみや漠とした熱狂によって精神世界を探求するのですが、当然のことながら精神世界は閉じられた本のままです。はっきりしない憶測や感情的な熱狂の道をどんなに熱心に追求しても、精神世界のことはますます分からなくなるのです。まず第一に幻想が増幅され、第二に無知が増幅されるからです。これらふたつの偽の道に対して、私たちは正しい道を見出さなければなりません。私が述べたような意味での大いなる幻想についての知識を真の自己認識で置き換えるのは、いかにほとんど不可能なほど困難なことであるかを、さらに言えば、たとえ精神的なものを理解するための真正で本物の道に向けて準備するつもりではあっても、幻想に陥っている状態ではそのような真の自分についての漠とした感情のすべてを克服し、現実の明確な知覚に至るのはいかに不可能なことであるかを心に留めておかなければなりません。このことが何を意味しているかを偏見なく眺めてみましょう。唯物論者はダーウィン、ハクスレー、スペンサー、あるいはその他の人々による最近の科学上の発見に対して精神世界についての洞察を有している人が感じるほどの深い賞賛と尊敬の念を感じることは決してないでしょう。つまり、これらの人々やジョルダーノ・ブルーノ以降のその他の人々は、古代の神秘家たちがマーヤの世界と考えたところのものについての洞察を得るために惜しみない努力をしたのです。とはいえ、ダーウィン、ハクスレー、スペンサー、コペルニクス、ガリレオやその他の人々によって持ち出される理論を受け入れる必要はありません。彼らのしたいように宇宙を理論づけさせておきましょう。彼らの議論に引き込まれる必要はないのです。けれども、私たちはこれらの人々が示した人間、動物、そして植物の中に見出される特定の器官や鉱物界に関する何らかの特別な問題についての詳細で事実に即した探求への途方もない衝動を認めないわけにはいきません。彼らの刺激的な探求の結果、腺組織、神経、脳、肺、肝臓等々について、近年いかに多くのことが知られるようになったかをひとつ考えてみて下さい。彼らは最高度の尊敬と賞賛に値します。とはいえ、実生活において、この知識は私たちをただある一定の地点にまで連れて行くに過ぎません。これがどういうことかを示すために三つの例を上げてみましょう。私たちは人間の最初の卵細胞が胎児へといかに徐々に発達していくかを、いかに様々の器官が段階を追って展開するかを、そしていかに周辺部の小さな器官から複雑な心臓や循環システムが構築されるかをどこまでも詳細に追っていくことができます。このすべてを示すことができます。私たちは植物の有機的な発達を根から花、そして種へと追っていくことができ、そしてこの事実に基づいた情報から全宇宙に適用される宇宙理論を構築することもできるのです。私たちの天文学者や宇宙物理学者たちは既にそうしています。彼らは、自律的な発生が可能な星雲系が段階を追ってより明確な形態を取ることによって、いかに世界がそこから現れるかを示す宇宙理論を打ち立てました。しかし、このすべての理論立てにもかかわらず、私たちは人間の本質的な存在に対して、つまり「汝自身を知れ」という定言に対していかに応えるか、という問題に結局は再び直面することになります。もし、私たちが、ただ鉱物、植物、動物、人間の腺組織や循環系に関する知識に限定されるところの自分だけを知っているとすれば、私たちは人間が誕生に際して入り、死に際して離れる世界だけを知っていることになります。しかし、結局のところ、人間は、自分は一時的な世界に限定されてはいないと感じているのです。ですから、外的世界についての知識がこれほどの壮大さと完成度をもって産み出すすべてのものを前にして、彼はその存在の奥底から、このすべては誕生から死までの間に限って肯定することができると答えざるを得ません。しかし、皆さんは本質的な自分、皆さんの真の本質を知っているでしょうか。その諸器官をもってしては単に大いなる幻想の世界だけしか理解できないところの人間は、人間や自然についての知識が道徳的、宗教的なものとの関わりを持つ瞬間、沈黙せざるを得ないのです。「汝自身を知れ、汝いずこより来たりて、いずこへと去るか、汝の最奥の存在において知るために」という定言、この認識の問題に対しては、宗教との関連が持ち出される瞬間、この限定的な理解度をもってしては答えることができないのです。弟子が秘儀の学院に入るにあたって確信させられたのは、宗教が問題になるときには、感覚的な観察を通していかに多くのことを学ぼうとも、その情報は人間の本性に関する大いなる謎に対し、いかなる答えも与えはしないということでした。さらに言えば、私たちは、人間の頭部の構造について、人間の腕や手の特徴的な動きについて、彼の立ち居振る舞いについていかに正確な知識を持っていたとしても、あるいは動物や植物の形態に関しては、感覚的な観察を通してそれらを知ることができるだけであることから、それほど敏感に反応することはできないとはいえ、それらの情報に対して芸術的な表現を与えようとする瞬間、再び答えることのできない問題に直面することになるのです。これまで人間は世界についての彼らの知識をいかに芸術を通して表現してきたのでしょうか。彼らはそのインスピレーションを秘儀の教えに負ってきたのです。自然やその様々の側面に関する彼らの知識はその時々の理解の水準に関係していましたが、同時にそれは精神的な洞察によって豊かなものにされてきました。それは古代ギリシャを振り返ってみるだけで分かります。今日、彫刻家や画家はモデルを使って仕事をします。少なくとも最近まではそうでした。彼はコピーあるいは模倣に取りかかります。ギリシャの芸術家たちもそうしたと言われていますが、そうではありません。彼はむしろ精神的な人間の形態を自分の内に感じ取ったのです。彫刻において、もし彼が腕の動きを表現したいと思ったとすれば、彼は、外的な世界は精神的な内容によって満たされており、あらゆる物質的な対象物は精神から創造されたのだ、ということを知っており、彼の作品の中で精神を再構築しようと努めました。ルネッサンスの時代に至ってさえ画家はモデルを使いませんでした。それは単に刺激を与えるためにだけ奉仕しました。彼は何が腕や手を動かすのかを先験的に知っていたのです。彼が示す動きの表現にこのことが見て取れます。単に外的なものやマーヤの世界を皮相的に表現しても私たちの理解を前進させることはありません。私たちはそうすることによって深く人間を見るのではなく、単に外的なもののみに関わり、そしてそのことによって人間の外にいる傍観者のままに留まります。芸術の観点から言えば、もし私たちがマーヤの世界を超越することに失敗するならば、私たちは人間本性に関する恐るべき問題に直面し、私たちにはいかなる答えも与えられないでしょう。そしてここでも、古い秘儀に参入しようとする弟子に対し、その参入に際して、もしお前がマーヤの世界の中に留まるならば、お前は人間やその他のいかなる自然領域の本質的な存在にも貫き至ることはできない。お前は芸術家になることはできないのだということが明らかにされました。芸術の領域においては、「汝自身を知れ」という明確な定言を弟子に思い起こさせ、その後で精神的な知識の必要性を感じ始めさせる必要があるということが知られていたのです。けれども、皆さんは、全く唯物的な彫刻家もいるではないか、と反論されるかも知れません。いずれにしても、彼らは単なる素人ではなく、自分たちがが何をしようとしているのかを知っていました。彼らはまた、どうすればモデルから秘密を引き出すことができるのか、そして、どうすれば彼らの人物像や題材にその秘密を付与することができるのかを知っていたのです。それは本当にそうなのですが、彼らはどこから彼らの認識を導き出してきたのでしょうか?この能力が芸術家自身からやって来るのではない、ということに人々は気づき損ねます。彼らは自分たちより前の芸術家たちにそれを負っていたのですが、その芸術家たちもまた、その先駆者たちからそれを受け継ぎました。彼らは伝統に基づいて働いたのです。けれども、彼らはこのことを認めたがりません。何でも自分でやったと主張したいのです。彼らは古い巨匠たちがいかにそれらを模倣し、制作したかを知っていました。しかし、最も初期の古い巨匠たちは彼らの秘密を秘儀の精神的な洞察から学んだのです。ラファエロやミケランジェロは、まだ秘儀に頼ることができた人たちからそれを学びました。けれども、真の芸術は精神から創造されなければなりません。他に方法はありません。私たちが人間の問題に触れるやいなや、大いなる幻想の知覚は人生の諸問題、人間の運命についての問に対する答えにはならないのです。もし、私たちが芸術と芸術的な創造の源泉へと遡るべきであるならば、私たちは精神世界への洞察を再発見しなければなりません。さて、第三の例ですが、植物学者や動物学者は入手可能なあらゆる植物の形態についてのすばらしく詳細な知識を得ることができます。生化学者は植物体の中で起きている過程を記述することができ、新陳代謝系の中でいかに食物が消化され、血管によって栄養管の壁の中へと吸収され、さらに血液によって神経系へと運ばれるかを述べることもできます。優秀な解剖学者、生理学者、生物学者、あるいは地質学者はマーヤの世界の広い範囲をカバーすることができるのです。しかし、もし彼がその知識を治療や医療の目的に使おうとするならば、もし彼が人間の外的な構成から、あるいは内的な構成からでさえ、彼の本質的な存在へと押し進もうとするならば、それは不可能です。皆さんは次のように応えるかも知れません。けれども、唯物論者であり、精神世界には何の興味も持たない医者もたくさんいる。彼らは自然科学の方法にしたがって患者を処置し、そしてそれでも結果を出しているではないかと。それは確かですが、彼らに治療ができるのは、彼らもまた古い世界観に基づく伝統の上に立っているからなのです。古い治療法は秘儀から導き出されました。そして、それらはすべて顕著な特徴を有していました。皆さんが古い処方箋を見るならば、それが大変に複雑なものであることが分かるでしょう。それを処方し、伝統によって規定された特定の目的のためにそれを用いる人にはかなりのことが要求されます。もし、皆さんが昔の医者のところに行って、そのような処方箋はどのようにして作られるのですかと訊ねたとすれば、彼は、まず私は化学実験を行います、そしてその物質があれこれの方法で振る舞うかどうかを確かめ、それからそれを患者に適用し、その結果を書き留めるのです、とは決して答えなかったでしょう。彼にはそのようなことは思いもよらぬことだったでしょう。人々は以前の時代にはどのような状況が卓越的であったかについて、いかなる考えも持ち合わせていません。彼は次のように答えたでしょう。私は秘儀の教えに基づいて設置された実験室(と呼べるかどうか分かりませんが)に住んでいます。そして私が処方を思いついたとき、私はそれを神に負っているのです、と。彼の立場はこの点について、つまり、彼が彼の実験室の中に醸し出された雰囲気全体を通して精神世界と密接に交流しているという点について、全く明確なものでした。彼にとって精神的な存在がそこに居るということは私たちにとって人間がそこに居るのと同じくらい間違いのないことだったのです。彼は精神的な存在の影響を通して、より高い存在の次元を達成しており、それ以外の方法で可能であったであろうよりも多くのことを達成することができる、ということを知っていました。そして、彼は自然認識からではなく、神の口述にしたがって、そのこみ入った処方箋の作成へと進んだのです。秘儀の学院では、人間を理解するためには、マーヤの世界と自分とを同一視するのではなく、神的な世界の真実へと押し進まなければならない、ということが知られていたのです。外的な世界についてあらゆる知識を有しているとはいえ、今日の人間は秘儀から導き出された知識を有していた昔の人々に比べて神的な世界の真実からよりかけ離れたところにいます。再びそこに戻る道が見出されなければなりません。三番目の例から明らかなのは、私たちが治療法を追求するとき、たとえ可能な限り幅広い自然についての知識、つまり、マーヤの世界についての知識ですが、それを有していたとしても、私たちは再び人間の生と運命についての未解決の問題に直面することになるということです。私たちがいくらマーヤの立場、大いなる幻想の立場から人間を理解しようとしても、あるいは治療の目的のために要求される「汝自身を知れ」の立場から理解しようとしても、私たちは私たちの理解において一歩も先に進めないでしょう。ですから、私たちはこれらの例に照らして次のように言うことができます。マーヤの世界と「汝自身を知れ」の間にあるギャップに橋を架けようとする人が、あるいは宗教的な感情を持って、あるいは創造的な芸術家として、あるいは治療家や医師として人間にアプローチするとき、もし彼の唯一の出発点が幻想の世界であるとすれば、彼はその瞬間に自分が無の前に立っていることに気づくであろうと。彼は、マーヤ、すなわち大いなる幻想についての知識であるところの外的な自然についての知識を超越する知識の形態を見出さない限り無力なのです。さて、秘儀の精神から世界の包括的な認識に至ることを求める方法と今日それが試みられているところの方法とを比較してみることにしましょう。そのことによって、この包括的な認識へと導く道との関係で、私たちは私たちの方向性を見出す位置に立つことになります。数千年前、世界とその神的な基盤あるいは本質については、今日、権威ある人々がそれについて語る方法とは非常に異なった方法で語られました。近東の秘儀において崇高で壮大な知識が栄えたあの数千年前の時代を振り返ってみましょう。その知識の特徴を簡潔に記述することにより、その本性をより綿密にのぞき見てみたいと思います。古代カルディアにおいては、次のようなことが教えられていました。人間の魂の力がその最大限の可能性を引き出されるのは、彼が眠りの生活、彼の意識がぼんやりとしたものになり、周囲の世界が忘却のかなたにあるときと目覚めているときの生活、彼が明確な視力をもって周囲の世界を意識しているときとの素晴らしい対比に精神の目を向けるときである、と。数千年前には、これらの交互に入れ替わる眠りの状態と目覚めの状態は今日とは異なった仕方で経験されていました。眠りは今ほど無意識的なものではなく、目覚めているときの生活は今ほど十分に意識的ではありませんでした。人は眠っている間、力強く、絶えず変化するイメージ、世界の生きた流れや動きを意識していました。彼は神的な基盤、宇宙の本質に通じていたのです。眠っている間に意識がかすむのは人間が進化した結果です。数千年前には、起きているときの生活は今日そうであるように明確ではっきりしたものではありませんでした。対象ははっきりと規定された輪郭を持っておらず、ぼんやりとしていました。それらは精神的な特質を様々な形で放射していました。現在のような眠りの生活から目覚めの生活への不意の移行は存在しませんでした。当時の人間たちは、まだこれらふたつの状態を識別することができたのです。そして、彼らが目覚めている間の生活環境は「アプシュー」と呼ばれました。眠っている間に経験される生きた流れと動き、つまり目覚めの生活において鉱物、植物、そして動物の間の明確な区別を曇らせる領域は「ティアマート」と呼ばれました。さて、カルディアにおける秘儀の学院では、人間が眠っている間、ティアマートの流れと動きにあずかるとき、彼は鉱物や植物、動物たちのただ中で意識的な生活を送っているときよりも真実や現実のより近くにいる、ということが教えられました。ティアマートはアプシューに比べて世界の基盤のより近くにあり、人間の世界とより密接に関連していたのです。アプシューはもっと離れたところにありました。ティアマートはより人間に近いところにある何かを表現していたのです。けれども、時がたつにしたがって、ティアマートは変化を被りました。そして、秘儀の学院で学ぶ弟子たちにこのことが知らされました。ティアマートの生きた流れと動きの中から悪魔のような形をしたもの、人間の頭に馬の体をもったものや天使の頭に獅子の体をもったものが現れ出たのです。 それらはティアマートが織りなすものの中から生じ、人間に敵対するようになりました。そして、力強い存在、イアが世界に出現しました。今日、音を聞く耳を持っている人は誰でも、いかにこのふたつの母音のつながりがあの力強い存在を指し示しているかを感じることができます。つまり、これらの古い秘儀の教えによると、ティアマートの悪魔が強力になったとき、人間を助けるためにその側に立ったあの存在を指し示すということをです。イア(EA)あるいはイア(IA)は、後にもし、「ソフ(Soph)」という接頭語を予期するとすれば、ソフ-イア(Soph-Ea)、ソフィア(Sophia)になりました。イアのおよその意味は抽象的な叡知、あらゆるものに浸透する叡知です。ソフは、大体においてですが、存在状態を示唆する小詞です。Sophia、Sophea、Sopheia、すなわちすべてのものに浸透する、どこにでも存在する叡知が、当時はマーダックとして知られており、後にミカエルと呼ばれるようになった彼女の息子を人間に使わしました。彼は天使の位階から権威を付与されていました。叡知であるイアの息子マーダックと同じ存在-マーダック-ミカエルです。秘儀の教えによると、マーダック-ミカエルが偉大で強力であったために、すべての悪魔的な存在、人間の頭を持つ馬や天使の頭を持つ獅子の形をしたものこれらすべての波打ち、うごめく悪魔の形をしたものたちは強力なティアマートとして合体し、連合して彼に対抗しました。マーダック-ミカエルは充分に強力であったために、嵐に命じて世界中に風を吹き荒れさせました。ティアマートが体現していたものすべては生きた現実のように見えましたが、人々はそれをそのように体験したのであって、正しくそのように見えたのです。これらすべての悪魔たちは敵として、すなわちティアマート、夜から生まれたすべての悪魔的な力を体現する強力なドラゴンとして思い描かれました。そして、この怒りの火を吐くドラゴン存在がマーダックの前に進み出ました。ミカエルは初め、様々の武器でそれを打ちのめし、ついで彼の嵐のような力のすべてをその内臓へと送り込んだために、ティアマートはバラバラに砕けて飛び散りました。そして、そうすることによって、マーダック-ミカエルはその中から上なる天と下なる地を創造することができました。こうして天と地が生じたのです。秘儀の教えとはこのようなものでした。イアの長男、叡知がティアマートに打ち勝ち、その一部から上なる天を、別の一部から下なる地を作り出したのです。そして、もし皆さんが皆さんの目を星星に向けるならば、ああ、何ということでしょう、皆さんが見るのは、あのティアマートの恐ろしい深淵からマーダック-ミカエルが人類のために天に造り出したものの一部なのです。そして、もし皆さんが鉱物化された地球から植物が生え、鉱物が形成され始める下方を見るならば、そこにはイアの息子、叡知が人類のために再創造した別の部分が見出されます。こうして、古代カルディア人たちは世界の形成期を、つまり、無形から形が形成された時代を振り返りました。彼らは創造の工房を覗き見るとともに、生きた現実を知覚したのです。これらの夜の悪魔たち、これらすべての夜に出没するモンスターたち、すなわち織り成し波打つティアマート存在たちはマーダック-ミカエルによって上なる星星と下なる地球に変えられたのです。太古の人々がその古い魂の属性を通して彼らのところにやって来たすべてのものを表象したのはこのような形態において、つまりマーダック-ミカエルによって輝く星星に変えられたあらゆる悪魔たち、変化したティアマートの皮と組織として地球から生え出るあらゆるものにおいてでした。そのような情報を彼らは知識と考えたのです。また、秘儀の祭司たちは彼らの弟子たちが示す魂の力を研究することによって未来を予想しました。そして、弟子たちが十分な魂の力を発達させたとき、彼らは、今日では子供たちが学校で最初に教えられるような基礎的な科目-地球は太陽の周りを回る、宇宙は星雲から形成される、というようなことを理解する位置に立ちました。当時、このような知識はしっかりと守られるべき秘密とされていたのです。他方、公然と教えられていたのは、今、私が皆さんに話したマーダック-ミカエルの行為等についてでした。今日、私たちの学校や大学では-そこでは秘密を守ることが要求されることもありません。そして小学校においてさえ、コペルニクスの体系や宇宙物理学が教えられます。しかし、太古の時代においては、そのような課題にあえて取り組んだのは、あるいは取り組むことを許されたのはただ聖人たちだけであり、それも長い準備を経た後でだったのです。今日では学校の教科になり、どの小学生も知っているこのすべてを学ぶことができたのは、当時は秘儀参入者たちだけでした。古いカルディアの時代からさらに時代を溯れば、人々は私がお話したようなこと、つまり、イアやマーダック-ミカエル、アプシューやティアマートについてだけを語りました。彼らはこれらの「風変わりな」秘儀の教師たちが星星や太陽の動きについて教えるあらゆることを毛嫌いしました。つまり、彼らは見えないものではなく、古い超感覚的な能力を通して明らかになったところの、個人化され象徴化された形態においてとはいえ、明確に見ることができるものだけを探求することを望んだのです。彼らは秘儀参入者であった古い教師たちやその弟子たちが獲得していた知識を拒絶しました。その後に、太古の叡智が東から徐々に広まり、重視される時代がやって来たのです。精神世界の存在たちによる顕現、例えばマーダック-ミカエルの行い等について多くの蓄積がなされましたが、同時に、図式的に表すことができるもの-太陽が中心にあり、惑星がその周りを円や楕円を描いて回転することなども重視されました。そして、時の経過の中で、精神世界、すなわち悪魔や神々の世界についての洞察が失われ、理知的な知識、すなわち今日私たちがあれほど誇りにし、私たちの時代が始まった頃にその絶頂に達した知識が育成されました。私たちは今や、ちょうど精神的なものが自明であった人々によって現象世界が拒絶されたように、精神的なものが拒絶される時代に生きているのです。私たちは、天文学者や天体物理学者、動物学者や植物学者が教えるところのものと並行して、再び精神的な洞察から導き出される精神的な現実についての知識が受け入れられる時代を見越す立場にあるべきです。その時代は今や差し迫ったものであり、もし、私たちが私たちの使命を成し遂げ、とりわけ、芸術の宗教的な源泉と芸術としての治療を再び見出すべきであるならば、そのための準備をしてそれを迎えなければなりません。太古の時代においては、精神的なものが人々の間で受け入れられ、物質的な世界が拒絶されましたが、逆に、物質的なものが育成され、精神的なものが抑圧される時代がそれに続きました。ちょうどそのようにして、今や私たちの外的な世界についての広範で包括的な知識が、そしてそれは十分尊敬に値するものなのですが、秘儀の教えについての新たな知識へと変容させられるべき時代が来なければなりません。今日の物質的な科学によって古代の壮大な精神性が、せいぜい私たちが発掘するいくつかの断片を残して、その構造から引き裂かれた今、私たちは再び精神性を見い出さなければなりません。ただし、私たちが過去の時代の歴史を詳しく検討するとき、私たちが光を当てるあらゆるものについての十分で明確な理解が必要です。宗教的な感情に染められた新しい創造的な芸術を通して、新しい治療芸術を通して、そして人間存在へと浸透する新たな精神の知識を通して、私たちは再び精神へと返る道を見つけなければならないのです。世界の基盤と原則をその全体性において理解させ、偏狭な唯物主義者ではなく完全に統合された人間として仲間の幸福と啓蒙のために働く人間についての理解を私たちに与えることができるところの秘儀を、私たちが新たなものにすべく努力することができるように、という希望をもって、今日は、これら三つの例を皆さんにお示ししました。参考図:Paul 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2024年04月27日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介「バガヴァッド・ギータとパウロ書簡」メモ 第1講2006.4.24.○人智学の出発点において、その精神潮流を示唆するために選ばれた連続講義のテーマ 1912年は、シュタイナーが決定的に神智学協会から離れ、独自に人智学協会を立ち上げた年にあたる。人智学協会設立のいわば出発点において、その精神潮流の重要さと意義を示唆 するためにこの連続講義のテーマが選択されることになった。テーマは、古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」とキリスト教の出発点において成立した「パウロ書簡」。この二つの精神(霊)潮流の近しさを理解するとともに、それをガイドとしながら、現代の精神生活における精神潮流としての人智学を理解していくための講義であることを踏まえておきたい。●ギリシア精神からはじまる3つの千年期 さて、現代の精神生活ということを考える際の射程は、個人(パーソナリティ)としての人間が精神生活に意味を持ち始めた紀元前一千年のギリシア精神以降の三千年であるといえる。個人が個人として精神生活を求めるようになったは、この三千年前頃にでてきた問題だという。ギリシア時代においてはじめて、私たちが個々の人物、ソクラテスや ペリクレス、フェイディアス、プラトン、アリストテレス、といった個人(パーソ ナリティ)を見るという事態が始まったのです。最初の千年には、その出発点に秘儀のあるギリシア精神が突出していて、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスのような詩人、芸術家にせよ、ソクラテス、プラトン、アリストテレスのような哲学者にせよ、それらの源泉は秘儀のなかに探す必要がある。とくに、ヘラクレイトスに至っては、シュタイナーが著「神秘的事実としてのキリスト教」でも述べているように、まったくもって秘儀に立脚していたということができる。そして、ギリシア精神が突出していた最初の千年が過ぎた後、第二の千年期への転換点にキリスト・イエスがでてきて、キリスト教的な衝動が精神進化のなかに流れ込み、キリスト教は次第にギリシア精神と一体化していくが、そのギリシア精神の受容は、無意識的なものであるといえる。そして、ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチといった芸 術家を見ればわかるように、第三の千年期には、直接、意識的な仕方でギリシア精神が作用を及ぼしている。●ヴェーダ、サーンキヤ哲学、ヨーガの三つの精神潮流が合流している「バガ ヴァッド・ギーター」 19世紀には、東洋の古代からヨーロッパに多くのものが流れ込んでくるようになったが、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトも、それをもっとも深遠な哲学的な詩編としてとらえた「バガヴァッド・ギーター」は、単に古代の東洋の文献だというのではなく、むしろ、「東洋の思考と感性と感情のあらゆるさまざまな方向と観点の合流」としてとらえることのできるものがそこから現われてくる。それこそが、「バガヴァッド・ギーター」の重要性だということができる。さて、その「バガヴァッド・ギーター」には、三つの精神潮流が調和的に合流・浸透している。第一の精神潮流が「ヴェーダ」の流れ、第二が「サーンキヤ哲学」の流れ、そして第三が、「ヨーガ」流れである。●ヴェーダ/アートマンとブラフマン ヴェーダ哲学は、その後ヴェーダンタにおいて完成されるスピリチュアルな一元論である。人間はその内にきわめて深遠な本来の自己を有していて、その高次の自己はすべてを包括する宇宙的自己とひとつであるという。そして、私たちは、身体的に息を吐いたり吸ったりするように、その宇宙的自己を呼吸する。私たちが宇宙自己の一部…のように私たちの魂のなかに取り込むもの、これがアートマン(Atman)です、呼吸(アートメン /Atmen)は、私たち自身に関しては、私たちに吸い込まれても普遍的な空気から切り離され得ない空気の一部のようなものです。 このように、アートマンは私たちのなかにありますが、すべてを統べる宇宙の自己 であるものからは切り離され得ないのです。そして、私たちが身体的に息を吐くように、魂の三昧(Andacht)というものがあります。三昧を通じて魂は、自らの持つ最良のものを、祈りのように捧げつつこの自己に向けます。これは、ブラフマン (Bbrahman)は、霊的な呼気のようです。吸気と呼気のようなアートマンとブラフ マンは、私たちを、すべてを統べる宇宙自己に参加する者にします。ヴェーダの言葉は、神の言葉であるという。それは創造的であり、宇宙を貫いて生き活動する創造的な原理に人間の認識を「あの」ように引き合わせつつ、人間の認識のなかにふたたび生まれる神の言葉です。ですから、ヴェーダに書かれたものは、神的な言葉とみなされ、そしてこれに精通した者は、神的な言葉の所持者とみなされました。神的な言葉は、スピリチュアルなしかたで世界にやってきて、ヴェーダの書物のなかに置かれました。これらの書物に精通した者は、宇宙の創造的な原理に加わったのです。●サーンキヤ哲学/サットヴァ、タマス、ラジャス サーンキヤ哲学は、ヴェーダ哲学のような一元論とは反対の多元論的な哲学であるということができる。それによれば、人間の魂も神々の魂も、その出発点は一元的に収斂させることはできない。個々の魂は、ライプニッツのモナドのように、ひとつひとつ完結し独立しながら進化する。しかし、魂の多元性に対して、「プラクリティのエレメント」と呼ばれるものに目が向けられる。魂は、それが「外的に存在するためのエレメントをそこから取り出す源流のような 」基本的なマテリアルなエレメントをまとい、それによって魂はさまざまな形態 をとることになるが、サーンキヤ哲学では、魂そのものではなく、魂が身にまとうその覆いとしてのマテリアルな形態に目をむけるのである。魂的なものがいかに諸形態のなかに組み込まれていくかが探求される。まず源流となるエレメントがあり、さらに次の形態であるブッディ、さらにアハムカーラ、マナス 、感覚、より精妙なおよびより粗雑なエレメントというふうにどんどん濃密化したエレメントに包み込まれていく。サーンキヤ哲学では、こうしたエレメントはすべて魂の覆いとしてとらえられる。そして、魂が独立性を守ろうとするか、物質のなかに沈み込もうとするかを見るのがサーンキヤ哲学の本質的特徴でもある。三つのグナ(構成原理) であるサットヴァ、タマス、ラジャスである。外的形態のなかに沈められてはいるけれども、自らを魂的なものとし て告知し開示する、そういう魂的なものはサットヴァーエレメントのなかに生きています。形態のなかに沈み込んでいるけれども、いわば形態によって覆いつくされ、形態に逆らわない魂的なものは、タマスーエレメントのなかに生きています。そして、魂的なものがそのなかで形態の外的なものといわば平衡を保つもの、これはラジャスーエレメント(Rajas-Element)のなかに生きています。●ヨーガ サーンキヤ哲学が、魂の覆いであるエレメントの形態についての考察であるのに対し、ヨーガは、魂的なものに向かい、魂の高次の力を目覚めさせる。魂を高次の霊的世界へと導いていく道である。ヴェーダにおいては、魂はアートマンでありブラフマンであり、謂わば神的自己そのものであったが、サーンキヤもヨーガもすでにそれが可能でないがゆえに、高次の霊的存在をめざさなければならなくなった魂たちのためのものだともいえる。ヴェーダにまだインスピレーションを与えていた、あの恩寵のように上から到来するインスピレーションがもはやそうあることができなくなったときに、ヨーガは大きな意味を獲得しました。ヨーガは、のちになってからの人類期に属する魂たち、もはや自ずから開示されるものは何も持たず、低次の段階から霊的存在の高みを目指して上昇していかねばならない魂たちに用いられなければなりませんでした。●三つの源流と神秘学概論の対応 ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガという三つの潮流は、精神科学のなかに見出す ことができる。「神秘学概論」でいえば、最初の章で、人間の構成/眠りと目覚め/生と死について記述されていることは、今日的な意味でのサーンキヤ哲学に、土星紀から現在までの宇宙進化についての章は、ヴェーダ哲学に、そして、最後の人間の進化についての章は、ヨーガに対応していることがわかる。たとえば、「神秘学概論」における宇宙進化についての記述とヴェーダの言葉はおのずと響きあっている。私たちはヴェーダのある特定の箇所で宇宙的進化について読みます、ヴェーダの宇宙的進化は、たえば以下のような言葉をまとわされています。太初において闇は闇に覆われていた。これらすべては分かちがたい流れであった。力強い空が生まれ、それは至るところで熱に浸透されていた。さて土星の構成についてその事実自体から引き出されたものは何か。どこで土星の実質について熱実質として語られているかどうか思い出してください。そうすれば皆さんは、神秘学におけるいわばこのもっとも新しいものと、ヴェーダのこの箇所で語られていることが調和して響き合っているのを感じられるでしょう。 次の箇所はこうです、それから、まず最初に、意志が生じた、思考の最初の種子であった、存在するものと存在しないものとの連関である。それらはこの連関を意志のなかに見出した。さらに思い出してください。意志の霊たちについて、いかに新たに刻印付けられて語られるかを。●太古の時代における血の絆が弱まってくることによる大きな戦いとクリシュナの教え バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナがアルジュナに伝える偉大な教えは、太古において特別な意味をもっていた血の絆、民族の連帯、種族の連帯が次第に弱まっていったことにおいて現われてくる。この血の絆がゆるむとき、まさにこのゆるむことによって、バガヴァッド・ギーターをその一挿話として含んでいるマハーバーラタのなかで私たちに描写されるような大きな闘いが起こります。私たちはここに、二人の兄弟の後裔、つまりまだ血縁者である者たちが、その精神の方向性に関して互いに 分かたれ、以前は血が統一的な見解としてもたらしていたものが解消するありさまを見ます。そしてこの境目において闘いが起きなければならないがゆえに、ここで闘いが起こるのです。このとき血の絆は、霊視的な認識に対しても意味を失い、これを境として、後の霊的な編成が起こります。古い血の絆に意味を見出さないひとたちにとって、クリシュナは偉大な教師として登場します。クリシュナは、古い血の絆から抜け出した新しい時代の教師でなければなりません。血の絆によって保たれていたものがなくなってしまうと、魂をどのようにして精神(霊)生活のなかで据えることができるのか。血の絆が壊れてしまうとすべてが破壊してしまう。アルジュナにはそう思われてしまう。しかし、そうした血の絆によって成立していたものが変わっていく必要がある、というのが偉大なクリシュナの教えなのである。●クリシュナの三重の教え/言葉、法則、および三昧 クリシュナの教えは三重になっていて、そこにヴェーダ、サーンキヤ哲学、ヨーガそれぞれの本質的なものを見出すことができる。まず、ヴェーダ/宇宙言語、創造する言葉についての教え。いかにも、創造の原理そのものを内包する創造的な宇宙言語がある。 人間が語るとき、その音が空気を貫いて波打ち揺れ活動するように、そのように あらゆる事物は波打ち揺れ活動し、存在を生み出し秩序づける。このようにヴェーダ原理はあらゆる事物に吹き渡っている。それはこのように人間の認識によっ て人間の魂生活のなかに受け容れなければならない。働きかけ活動する創造の言葉があり、働きかけ活動する創造の言葉がヴェーダ古文献に再現されている。言葉は宇宙を創造するものである。ヴェーダのなかにはこの言葉が顕現している。 これがクリシュナー教理の第一の部分です。続いて、サーンキヤ哲学/存在の形成についての教え。クリシュナはまた、人間の認識が個々の形態を認識できること、つまり宇宙法則を自らのうちに受け容れることができることを、弟子に理解させます。ヴェーダのなかに、サーンキヤのなかに再現された宇宙言語、宇宙法則、これをクリシュナは弟子に啓示します。そして、ヨーガ /魂の三昧による深化のための教え。さらにクリシュナは、再びそこで宇宙言語の認識に加わることができるよう弟子のひとりひとりを高みへと導く道についても語ります。精神科学は、新しく刻印づけられた仕方で、この三つの流れを求めなければならない。●クリシュナの三重の教えがパウロ書簡において再び姿を見せる ヴェーダは、生きている創造の言葉である神的ロゴスとして、サーンキヤ哲学は、古代ヘブライの啓示における律法、モーゼの教えとして、そして、ヨーガはキリストの力が魂を貫き、受け容れるとき、人間は神性の高みへと上昇するという意味で「私ではなく、私のなかのキリスト」となって、復活したキリストへの信仰として、パウロ書簡において、いっそう具体的で生き生きとしたしかたで再び姿を見せる。ヴェーダは再び、キリストの直接的存在そのもののなかに姿を現します、今度は具体的に生きて歴史の展開のなかに現れるのです、空間と時間のかなたに抽象的に自らを注ぎ出すのではなく、ひとつの個として、生きた言葉として。法則は、サーンキヤ哲学において、マテリアルな基礎、実在的なものがどのように粗雑な物質へと下降して形成されていくかを私たちに示すもののなかに現れてきます。これは、古代ヘブライの律法論のなかに、モーゼの教え(ユダヤ教)であるものすべてのなかに姿を見せます。パウロが一方においてこの古代ヘブライの律法を指す場合、パウロはサーンキヤ哲学を指しているのです。パウロが復活した者への信仰を示す場合、彼は、ヨーガのなかにその曙光が輝いていた者の太陽を示すのです。●バガヴァッドギーターとパウロ書簡の関係を把握し、三つの精神的(霊的)な潮流を現代において結びつけるという課題 三つの精神的(霊的)な潮流を現代において結びつけるという課題は、バガヴァッド・ギーターにおける三つの霊的潮流の合流である、ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガ。これらは、上記のように、キリスト教とパウロによって生きたかたちでより具 体的に現われてくるが、今日、私たちは、これらの潮流を、魂と宇宙の深い奥底から正しいしかたで現代においてふたたび相互に結びつけるという課題を持っている。そのためにも、私たちは、ラファエロが芸術において、トマス・アクィナスが哲学において、立ち戻ろうとしたような単なるギリシア精神を超えて、紀元前の最初の千年より前にある、バガヴァッドギーターという東洋古代の深みに入り込み、まざまな精神潮流をすばらしい調和的統一をもたらさなければならない。 (了)参考画:Apricot tree yoga人気ブログランキングへ
2024年04月26日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)第五講/1913年1月1日、ケルン (2000.11.26登録) 私たちはこのチクルス(連続講義)で、二つの重要な人類の記録に魂の前を通過させました。限られた講義日数のなかでできうる限りのとても短い特徴づけにすぎませんが。そして、この二つの重要な人類記録、崇高なギーターとパウロ書簡が成立しうるためには、どのような衝動が人類進化に流れ込まなければならなかったかを見ました。私たちの理解にとっておそらくもっと重要なのは、ギーターの全精神とパウロ書簡の精神の間に根本的な相違を示すことです。ギーターにおいては、クリシュナが弟子アルジュナに与えることのできる教えが私たちに向かって現れてくると私たちはすでに言いました。このような教えは、あるひとりの者に与えられます、あるひとりの者に与えられなければならないのです。と申しますのも、まさにギーターにおいて私たちに向かって現れてくるようなこういう教えは、根本的に言って、内密な教えだからです。とは言え、これに対して、これらの教えはギーターのなかに見られるのだから今日どんなひとにも近づきうるものだと反論できるように思えます。ギーターが記された時代においてはむろんそうではありませんでした。これらの教えはすべての耳に達していたわけではありません、当時こういう教えは口頭による伝授の対象だったからです。あのいにしえの時代にあっては、師はしかるべき教えを伝える弟子の成熟を見通すことに心をくだいていました。このような成熟に常に目が向けられていたのです。現代においては、いかなるしかたであれ、いったん光のもとに公開されたあらゆる教義教説について、もはやそういったことは不可能です。私たちは霊(精神)生活がある意味で一度公開される時代に生きています。現代にあってはもはやいかなる神秘学(Geheimwissenschaft)も存在しないかのようにというわけではないのですが、この神秘学は、たとえばこれを印刷させないとか普及させないといったことによって神秘学であることはできません。この現代においてもじゅうぶん神秘学は存在しうるのです。たとえばフィヒテ(☆1)の「知識学/Wissenschaftlehre」は、誰もが印刷されたものを持つことができるのにも関わらず、まさに秘密教義です。結局のところヘーゲルの哲学も秘密教義です、これに精通するひとはきわめて少なく、秘密教義であり続けるための多くの手だてさえ内に有しているからです。今日の時代においては、多くのことにこれがあてはまります。フィヒテの知識学あるいはヘーゲル(☆2)の哲学、これらは秘密教義であり続けるための非常にシンプルな手だてを持っています、たいていの人は最初の数ページ読んで理解できず眠くなる、というように書かれているからです。それによってこういう事柄自体が秘密教義であり続けます。現代において、多くの人々が知っていると信じている非常に多くのことについても同様です。人々はそれを知りません、人々に知られないことによってものごとはまさに秘密教義であり続けるのです。そして結局のところ、ギーターのなかに見られるような事柄も、たとえそれが印刷によってきわめて広汎に知られることができるようになったとしても、秘密教義であり続けます。と申しますのも、今日ギーターを手にするあるひとは、そのなかに自分の人間としての内面の進化に関する偉大で圧倒的な啓示を見、また別のひとは、そのなかに単に興味深い文学作品のみを見る、するとギーターのなかに表出されるあらゆる概念、感情は、そのひとにとって単なる陳腐なものに変わるからです。なぜならやはり、誰かが、ギーターのなかにあるとは言っても自分からはかけ離れたものであるかもしれないものを、たとえばギーターの言葉を用いて自分で表現するすべを心得ているにしても、ギーターのなかにあるものをその人がほんとうにその人のなかで消化し理解し尽くしたと信じてよいわけではないからです。このように、多くの点で事柄自体がその高さにより、共有されることから守られています。このギーターのなかで詩的に仕上げられている教えは、あるひとりの者がそれを通じて魂のなかで上昇し、ついにはヨーガの主クリシュナとの出会いを体験したいと思うときに自ら実行し、体験しなければならないような教えです。つまり、それは個別的な(特別な/individuell)事柄、偉大な師がひとりの者に向ける何かなのです。私たちがパウロ書簡の内容をこの観点から観察してみるとき、事情は異なります。ここでは、すべては教区(民)全体の問題(Gemeindesache)、すべては根本において多数に向けられた事柄だということがわかります。と申しますのも、クリシュナの教えの本質であるきわめて内密な神髄に注目するとき、私たちはこう言わざるを得ないからです、クリシュナの教えを通じて体験するものを、個々の魂の厳しい孤独のなかでひとは自ら体験する、そして孤独な魂の巡礼としてクリシュナと出会うことができるのも、この道を原初の啓示と原体験へと立ち返って見出すときにのみであると。クリシュナが与えることのできるものは、どのひとりひとりにも与えられねばなりません。キリスト衝動を通じて世界に与えられた啓示の場合はそうではありませんでした。キリスト衝動はそもそも最初から、全人類に向けられた衝動と考えられます、そしてゴルゴタの秘蹟は、ただひとつの魂にとってのみ価値を持つ行いとして成就されたのではありません、私たちが全人類を地球進化の起源から終わりまでよく考えてみるなら、ゴルゴタにおいて起こったことはあらゆる人間のために起こったのです。これは最大規模における共通事項です。ですからパウロ書簡の文体は、すでに特徴づけされたことすべてを度外視するにしても、崇高なギーターとはまったく異っているのです。ひとつクリシュナとアルジュナの関係を生き生きと思い描いてみましょう。クリシュナはアルジュナに、ヨーガの主として、クリシュナを見出すためにいかに魂において段階的に上昇していくことができるか、いわば明解な指示を与えるわけです。これに対して、パウロ書簡のとりわけ重要な箇所、ある教区民が、あれこれのことが真実であるかどうか、パウロが教えたことに対してこれらが正しい見方として有効であるかどうかをパウロに向かって問いかける箇所を思い浮かべてみましょう。すると私たちは、パウロが与える教示のなかに、その大きさにおいてはもちろん様式的、芸術的にも、崇高なギーターのなかに私たちが見出すものにまったく匹敵しうる箇所を発見します。けれども同時に私たちは、まったく異なる調子(トーン)をも見出します、まったく異なる種類の魂的な感情からすべてが語られているのがわかるのです。これは、人間の集団のなかに存在する人間のさまざまな天分(才能)がいかに共同して働かなければならないかをパウロがコリント人たちに向かって書いている箇所(☆3)にあります。クリシュナはアルジュナに言います、お前はかくかくしかじかであらねばならない、かくかくしかじかのことを為さねばならない、そうすれば魂のありようにおいてお前は一段一段上昇していくだろうと。パウロはコリント人たちにこう言います、あなたがたのうちのひとりはこういう天分を持ち、また別のひとりはああいう天分を持ち、第三のひとはこういう天分を持ちますが、これらがひとりの人間の身体の部分部分のように共同して働けば、これは霊的にもひとつの全体を生み出すでしょう、霊的にまったくキリストに浸透されうる全体を。つまり、事柄そのものを通じてパウロは共同して働く人間たち、つまり人類に照準を定めています。そして重要な機会に、彼は多数に向かいます、つまり、いわゆる異言(Zungenreden)の天分が問題となるときです。私たちがパウロ書簡のなかに見出すこの異言とは何なのでしょうか。異言とは、新たなしかたで、しかも人間の意識全体をもってこの現代に再び私たちに現れてくる古い霊的な天分の名残にほかなりません。と申しますのも、私たちが私たちの秘儀参入方法のなかでインスピレーションについて語るところでは、現代においてインスピレーションにまで突き進むひとは、ちょうど明瞭な意識を日常的な知性と感覚知覚に結びつけるように、明瞭な意識をこのインスピレーションと一致させる、ということだからです。古い時代においては事情は異なっていました。当時、当の参入者は、高次の霊存在たちの道具のように語りました、高次存在たちは参入者の器官を用い、高次の事柄を参入者の舌を通じて言い表したのです。当時はひとりひとりが、その人自身にはまったく理解できないことを語ることができました。道具が直接理解する必要のない霊的世界からの報せがやってきました、そしてまさにコリント人たちのところでそのようなことが起こったのです。何人かの人々がこういう異言の天分を得る、という状況になったのです。こうしてその人々は霊的世界からあれこれのことを告げ報せることができました。さて、このような天分については、人間がこれを持つとき、このような天分を通じて啓示できるものがいかなる状況においても霊的世界からの啓示である、ということです。それでもやはり、ある者がこう言い、別の者がああ言う、という場合もありました、霊的な領域というのは多様なものだからです。ある者はこの領域から、別の者はまた別の領域からインスピレーションを与えられるという状況もあり、それで啓示がまったく一致しないということもあり得ます。全意識をもって当の世界のなかに赴くことができてはじめて、一致を見出すことができるのです。ですからパウロはこう警告しています、異言を語ることのできる人たちがいますし、異言を解釈することのできる別の人たちもいます。彼らは右手と左手のように協力して働かなくてはなりません、単に異言を語る人の言うことを聴くだけではいけません、異言の天分は持っていないかもしれないが、それぞれがあれこれの霊的領域から何を降ろしてくることができるか解釈し、認識できる人。そういう人の言うことにも耳を傾けなさいと。このようにパウロはここでも、人々が共に働くことによって実現する教区の事柄を奨励しています。そしてまさにこの異言に結びつけて、パウロはあの説明を語ります、申し上げましたように、ある関連においてはすばらしい、その力強さにおいては昨日議論されましたのとはまた別の点でギーターの告知に匹敵しうるほどすばらしいあの説明です。パウロは言います。「霊感を授かった兄弟たちについては(☆4)、私はあなたがたにぜひ知っておいてほしいのです。あなたがたが異教徒であった頃のことを覚えていますね、もの言わぬ偶像があり、盲目的な衝動のままにその偶像へとあなたがたは引き寄せられたでしょう。ですからあなたがたにはっきりと言います、神の霊のなかで語る人は、イエスは呪われてあれと言うことは少なく、聖霊によるのでなければ、イエスを主と呼ぶことはできないのです。」さて、恩寵の賜物(天分/Gnadengabe)にはさまざまなものがありますが、それはひとつの「*原文は斜字」霊です。人間の仕事にはさまざまなものがありますが、それはひとりの主です。ひとりひとりの人間の持つ力にはさまざまなものがありますが、これらすべての力のなかに働くのは「ひとりの」神なのです。けれどもひとりひとりに役立つ霊の告知はいかなるひとにも与えられます。このようにある人には預言を語る力が与えられ、別の人には学問の知識が与えられます。さらにまた、信仰のなかに生きる精神たちも見出せますし、別の人々は癒しの天分を持ち、また別の人々は預言の天分を持ち、別の人々は人間の特徴を見通す天分を持ち、別の人々は異言の天分を、さらにまた別の人々は異言を解釈する天分を持ちます。しかしこれらすべてのなかには「ひとつの」霊が働き、この霊が各人にふさわしいものをそれぞれに分け与えているのです。と言いますのも、体は「ひとつ」でも多くの部分から成り、これらの部分がすべて一緒になってひとつの体を形作りますが、キリストの場合もこれと同様だからです。と言いますのも、ユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ自由民であれ、私たちは皆、ひとつの体のために霊によって洗礼を施され、私たちは皆、ひとつの霊を飲まされたからです、ちょうど体もひとつの部分からではなく多くの部分から成るように。たとえ足が、私は手ではないから私は体の一部ではないと言っても、足はやはり体の一部でしょう。たとえ耳が、私は目ではないから私は体の一部ではないと言っても、耳はやはり体の一部でしょう。全身が目だけであったら、聴覚はどこに宿るというのでしょう。全身が聴覚だけであったら、嗅覚はどこに宿るのでしょう。そこで神は、神が良しとされるままに、各部分をひとつひとつ特別なものとして体に置かれたのです。ひとつの部分しかないとしたら、体はどこに残るというのでしょう。けれども多くの部分があっても、やはり体は「ひとつ」だけです。目が手に、お前はいらない、ということは許されません。頭が足に、お前はいらないということも許されません。むしろ、体のなかで一見弱い部分のほうが不可欠であり、私たちがあまり注意を払わない部分がとくに重要であることが明らかになります。神は体を組み立てられ、取るに足らない部分に意味を与えられました、体に分裂が起こらず、あらゆる部分が調和的に共同し、互いに気づかうためです。それでひとつの部分が損なわれれば、すべての部分が共に損なわれ、ある部分が健康であれば全ての部分が共に歓呼の声を挙げるのです。「けれどもあなたがたは」。パウロはコリント人たちに向かってこう言います、「キリストの体であり、そしてあなたがた皆がその部分を形作るのです。そして神は教区のなかで、ある人々を使徒として置かれ、別の人々を預言者として置かれました。第三の人々を教師として、第四の人々を奇蹟による癒し手として、第五の人々を別の助力をする者として、第六の人々を教区に統制をもたらすために、第七の人々を異言のために神は置かれました。すべての人々が使徒とされるでしょうか。皆が預言者とされるでしょうか。皆が教師、皆が癒し手、皆が異言を語らされるでしょうか。あるいは皆が異言を解釈させられるでしょうか。ですから、さまざまな恩寵の賜物が共同して働くのが正しいのです、多ければ多いほどいっそう良いのです。」それからさらにパウロは、ひとりひとりのなかにあるけれども、教区全体においても働き、体の力が体の各部分を集め結びつけるように教区の個々の部分全部を集め結びつける力について語ります。パウロがさまざまな部分としてある人類に向かって語った以上に美しいことを、クリシュナといえどひとりの人間に語ってはおりません。さらにパウロは、体が個々の部分を統一しているようにさまざまな部分を統一するキリストの力について語ります。どの部分にもある生命力のようにひとりひとりのなかに生きることができるけれども、やはり全教区の全体のなかで再び生きる力、この力をパウロは力強い言葉で特徴づけます。「しかし私はあなたがたに他のどの道よりも高い道を示したいのです(☆5)。私が人間の舌であるいは天使の舌で霊から[異言を]語ることができても、愛が欠けていたら、私の話は音を立てる銅鑼(どら)、鳴り響く鈴です。そして私が預言をすることができ、あらゆる秘密を明かにし宇宙のあらゆる認識を伝えることができるとしても、そして私が信仰の全てを身につけ山をも動かすことができるとしても、愛が欠けていたら、すべては無に等しいでしょう。そして私が霊の賜物のすべてを分け与え、そうです、私自身の体を捧げて燃やし尽くそうとも、愛が欠けていたら、すべては無駄でしょう。愛はいつも在り続けます。愛は慈悲深く、愛は妬みを知りません、愛は驕らず、愛は自惚れを知りません、愛は礼儀を知るものを損なわず、愛は利益を求めず、愛はそそのかされず、愛は誰も恨まず、不正を喜ばず、真実のみを喜びます。愛はすべてを包み、あらゆる信仰に流れ込みます、すべてを望み、どんなところでも忍耐するのです。愛があるなら、愛はけっして滅びません。何かを預言しても、それが成就すれば預言は去ります、何かを異言として語っても、それがもはや人間の心に語りかけることができないなら、異言は止みます、何かを知っても、知られるものが尽きてしまえば、知ることも止みます。認識はすべて半端なもの、預言はすべて半端なものだからです。ですからやはり、完全なものがやってくると、半端なものは去るのです。私が子どもだった頃、私は子どものように話しました、私は自分が子どものように考えている、と感じていました。今私は成人し、子どもの世界は去りました。今、私たちは鏡のなかに暗い輪郭しか見ませんが、いつの日か私たちは顔と顔を突き合わせるように霊を観ることでしょう。今のところ私の認識は半端なものですが、いつの日か、私自身がどのようであるか、完全に知ることでしょう。さて、信仰は残り、希望は確実に残り、愛は残ります。けれどもこれらのうちでもっとも大きなものは愛です、ですから愛は上に置かれるのです。と言いますのも、あなたがた皆に霊の賜物がもたらされるにせよ、預言を知っている者も、愛を切に求めなくてはならないからです。と言いますのも、誰かが異言を語ろうとも、彼は人々のもとで語るのではなく、神々のもとで語るからです。彼が霊の秘密を語るので、誰も聴き取ることができないのです。」このように、パウロは異言の本性を知っています。パウロは、異言を語る者は霊的世界へと連れ去られていると言うのです、異言を語る者は神々のもとで語ると。「預言をするものは、教化するために、戒めるために、慰めるために、人々とともに語ります、異言を語るものは、ある意味で自己満足していますが、預言を語る者は教区民たちを教化します。あなたがた皆が異言を語るということになっても、あなたがたが預言をすることのほうがはるかに重要です。教区民に理解させるために、異言を語る者が自分の異言を自分でも認識できる、という状態でないなら、異言を語る者よりも預言をする者がまさっているのです。兄弟たちよ、私が異言を語る者としてあなたがたのところに来ても、私の異言が預言として、教えとして、啓示としてどういう意味であるかをあなたがたに言わないとしたら、私はあなたがたにとって何の役に立つでしょう。音が明瞭に分かれていないなら、私の異言は笛やツィターのようなものです。ツィターや笛が区別できる音を出さなかったら、ツィターの演奏か笛の演奏かどうやって区別せよと言うのでしょう。そして喇叭(らっぱ)が不明瞭な音を出すなら、誰が闘いの支度をする気になるでしょう。あなたがたも、異言に明瞭な語りを結びつけることができないなら、これと同じです、すべては空中に向かって語られることになるからです。」これらすべては、さまざまな霊の賜物が教区の成員たちに分け与えられるべきこと、教区の成員は個人(Individualitaeten)として共同して働かなければならないことを私たちに示します。同時に私たちは、パウロの啓示が、それが登場してくる人類進化の時点によって、クリシュナ啓示(Krishna-Offenbarung)とは根本的に区別されなければならない地点に立っているのです。クリシュナ啓示はひとりの(einzeln)人間に向けられますが、結局のところ、ヨーガの主が手本を示してくれるような魂の道を上へと辿ることができるまでに成熟した者には誰にでも向けられるのです。このとき私たちはますますいっそう人類の太古の時代へと遡っていくよう指示されます、クリシュナの教えの意味において、霊において、この太古の時代へとひとは再び立ち返ることを欲するのです。その頃ひとびとはまだあまり個別化されて(individualisiert)おらず、どのひとにも同じ教えと指導で良い、と前提することができました。パウロはひとりひとりの差異が現れた時点、特別の能力、特別の天分を備えたひとりひとりの違いが実際に出てこなければならなかった時点で人類に対峙していました。もはや、個々のどの魂のなかにも同じものを注ぎ込むことができると予想することはできなくなりました、不可視的にすべての上に君臨するものを示唆しなければならなかったのです。この、ひとり特別の人間としての人間のなかにはないけれどもどのひとりひとりのなかにも存在しうるもの、これがキリスト衝動なのです。キリスト衝動とは人類の新たな集合魂のような何かではありますが、この人類によって意識的に求められるような集合魂なのです。このことを明らかにするために、そうですね、霊的世界において、クリシュナの弟子の何名かがどう見えるか、そして自らの内奥でキリスト衝動に心動かされた数名の人々はどう見えるか、ちょっと思い描いてみましょう。クリシュナの弟子たちは、ヨーガの主から分け与えられた同じ衝動をそれぞれ自らのうちに燃え上がらせています。霊的生活においてある人は別の人によく似ています。ある人にも別の人にも同じ指導がなされたのです。キリスト衝動に心動かされた人たちは、肉体を去って霊的世界にあっても、ひとりひとりが特別の個性(Individualitaet)を、異なった霊の力を備えています。ですから霊界にあってもある人はこの仕事、また別の人はあの仕事、というふうに責任を負っているのです。そして、ひとりひとりがこれほど個性的であろうとも、ひとりひとりの魂のなかに自らを注ぎ込む指導者は、キリストです、ひとりひとりの魂のなかにあると同時にすべての上に浮かぶキリストなのです。ここでは魂が肉体を去ったときにもなおさまざまな教区があるのです、他方、クリシュナの弟子たちは、魂がヨーガの主から導きを得ると、ひとつの一元的なもの(ein Einheitliches)となります。然し乍ら、人類進化の意味とは、魂がますます多様なものになっていくことなのです。ですから、クリシュナは別のしかたで語らざるを得ないなのです。クリシュナは、根本においては、クリシュナがギーターで告げ知らせるように弟子に語ります。パウロは異なった話し方をします。パウロは本来どの人間にも語りかけています、ですから、ひとりひとりがその成熟の度合いによって、あれこれの受肉段階において顕教的なものにとどまるか、あるいは秘教的なものに入っていくことができ、秘教的キリスト教にまで自らを高めていくかどうかということは個々人の進化の問題なのです。キリスト教(クリステントゥム)においてひとはさらなる進展を重ね、秘教的な高みにまで達することができます、けれども、クリシュナの教えとは別の何かを出発点とするのです。クリシュナの教えにおいては、自分のいる地点から人間として出発し、個として、ひとりある者として、魂を高めます。キリスト教においては、そもそもさらなる道を歩む前に、キリスト衝動と関係を得ること、この衝動がまず第一に他のすべてに先行することが出発点となるのです。クリシュナへの霊的な道を歩むことができるのは、クリシュナの指示を守る者だけです、キリストへの道は、どの人も歩むことができます。キリストは、およそ人間であって秘儀への関係を得ることができるすべてのひとのために秘儀をもたらしたからです。これはしかし外的な何か、物質界で成就された何かです。ですから、最初の第一歩は物質界で起こる一歩なのです。これが本質的なことです。キリスト衝動のこの世界史的な意味を見通すなら、あれこれのキリスト教的信仰告白から出発する必要はまったくありません、まさにこの現代においては、まったくキリストに敵対する立場から、あるいはキリストに対して無関心な立場を出発点とすることすら可能なのです。現代の精神的生活において真に与えられ得るもののなかに深く沈潜するとき、唯物論の矛盾と愚昧さを見抜くとき、最初から特に信仰告白を出発点にしなくても、現代においてはあるいはもっとも純粋にキリストに導かれるとも言えるのです。ですから、ここでは特別なキリスト信仰告白を出発点としている、と私たちのグループの外部のひとたちに言われるなら、それはとりわけまずい中傷とみなされてよいのです、と申しますのも、問題は何らかの信仰告白からの出発ということではなく、精神生活そのものの諸条件から出発すること、そして回教徒であれ仏教徒であれ、ユダヤ人であれヒンドゥー教徒であれ、あるいはまたキリスト教徒であれ、いかなる人も、キリスト衝動を、人類進化にとってそれが持つ意味全体において理解することができるということだからです。しかし同時にこれは、パウロの見解と叙述全体をもっとも深いところで貫いているものであり、この点においてパウロはまさしく、世界においてキリスト衝動を最初に告知するための音頭取りをするパーソナリティなのです。サーンキヤ哲学がいかに形態変化、プラクリティに関連するものと取り組むかを私たちが述べたとき、私たちはこう言ってよかったのです、パウロはその意味深い書簡の根底にあるすべてのものにおいて、まったくもってプルシャを、魂的なものを扱ったと。生成について、人類進化全体を通じてさまざまに展開していく魂的なものの運命について、パウロの場合私たちはまったく明確で深遠な説明を見出します。東洋的な思考がまだ成し遂げることができたものと、パウロにおいてすぐさまかくもすばらしく明瞭に私たちに向かって現れてくるものとの間には、根本的な違いがあります。すでに昨日指摘されたことですが、クリシュナにおいてはすべてが、人間が形態変化から抜け出していく道を見出すということにかかっています。けれどもプラクリティは魂とは疎遠な何かのように外部にとどまっています。こういう東洋的な進化の内部では、東洋的な秘儀参入の内部においてすら、あらゆる努力は、物質的な存在(Dasein)から自由になること、自然として外部に拡がっているものから自由になることを目指すのです。と申しますのも、自然としてそこに拡がっているものは、ヴェーダ哲学の意味ではマーヤー(幻影、仮象)として現れるからです。外部にあるものすべてはマーヤーであり、ヨーガはマーヤーから自由になることです。私たちも示したことですが、人間は、為し、行い、欲し、考えるものすべて、欲求や思考の対象となるすべてから自由となり、外面性であるものすべてに魂として勝利することがまさにギーターにおいては求められているのですから。人間の行う営みをいわば人間自身から落とし、人間は自ら自身のうちに安らい、自身のうちで自足せよ、というわけです。このように、誰であれクリシュナの教えの意味で進化したいと願うひとの念頭にもあることは、根本的に言って、いつかパラマハムサ(Paramahamsa)、すなわちあらゆる物質的存在を離れ去り、彼自身がこの感覚世界の内部で行為として行ったすべてに打ち勝つ高次の秘儀参入者のような何かになることです、純粋に霊的な存在のなかに生き、感覚的なものを克服してもはや再受肉への渇望がなくなり、営みとしてこの感覚存在に習熟したものすべてにもはや関わりを持たないまでになった秘儀参入者のような何かに。つまりそれはこのマーヤーから抜け出すこと、いたるところで私たちに向かってくるこのマーヤーに勝利することなのです。しかしパウロにおいてはそうではありません。パウロの場合はこうなのです、彼がこういう東洋的な教えに向き合ったとしたら、彼の魂の深い奥底において何かが次のような言葉を呼び起こすことでしょう、いかにも、お前は外でお前を取り巻いているすべて、お前がかつて外部で行ったすべてからも抜け出して進化したいと思っている。お前はすべてを置いていきたいのか。いったいすべては神のみわざ(Gotteswerk)ではないのか、お前が抜け出そうと欲するすべては神的に霊により創造されたものではないのか。お前がそれを軽蔑するなら、お前は神のみわざを軽蔑しているのではないか?いかなるところにも神の顕現が神の霊が生きているのではないか。まずお前自身の営みのなかに愛し信仰し帰依しつつ神を示そうとはしないのか。それでいて、神のみわざであるものに勝ち誇るつもりなのか。パウロによって語られてはいませんが彼の魂の底で働いているこの言葉を私たち自身が魂の奥深くに書き記すのが良いでしょう。と申しますのも、そこには私たちがまさしく西洋的な啓示として知っているものの重要な神髄が表現されているからです。パウロ的な意味においても私たちは私たちを取り巻いているマーヤーについて語ります。なるほど私たちも、いたるところでマーヤーが私たちを取り巻いていると言うでしょう。けれども私たちはこう言うのです、いったいこのマーヤーのなかには神の顕現がないのか、すべては神的ー霊的なみわざではないのか、いたるところに神的ー霊的なみわざがあるということを理解しないのは冒涜ではないのかと。今や新たな問いが加わります。なぜこれがマーヤーなのか、なぜ私たちは私たちの周りにマーヤーを見るのかという問いが。西洋はすべてがマーヤーであるかどうかという問いにとどまりません。なぜマーヤーなのかが問われるのです。ここで、私たちの魂的なもの、プルシャの中心にまで入り込んでゆく答えが生じます。魂がかつてルツィファーの威力に屈したので。魂はすべてをマーヤーのヴェールを通して見るのだ。魂は魂としてあらゆるものの上にマーヤーのヴェールを拡げるのだという答えが。私たちがマーヤーを見るということは、いったい対象の罪なのか。否、私たちがルツィファーの威力に屈しなかったら、魂として対象は私たちにその真実の姿を現すだろう。対象が単にマーヤーとしてしか私たちに現れないのは、私たちがそこに拡がっているものの根底を見ることができないからだ。これは、魂がルツィファーの威力に屈したことが原因である。これは神々の罪ではなく、自分の魂の罪なのだ。お前魂はお前にとって世界をマーヤーにしてしまったお前がルツィファーに屈服したことによってだ。このような定式化の最高の精神科学的理解から下降して「感覚は欺かないが、判断は欺く」(☆6)というゲーテの言葉までは一直線です。俗物や狂信者たちはゲーテを、ゲーテのキリスト教を思うさま論難するがよろしい、それでも、やはりゲーテが、自分はきわめてキリスト教的な人間のひとりであると言うことは許されるでしょう(☆7)、なぜなら、「感覚は欺かないが、判断は欺く」というこの定式に辿り着くほど、ゲーテはその本質の奥深くでキリスト教的に考えているからです。魂の見るものが真実でなく、マーヤーとして現れるのは、魂の罪です。ここでオリエンタリスム(東洋主義/Orientalismus)においては単純に神々自身の行為のようにそこにあるものが、ルツィファーとの大いなる闘いの起こる人間の魂の深みへと転じられます。私たちがオリエンタリスムを正しく観察してみると、このようにオリエンタリスムは、まさにこのことによってある意味で唯物論なのです、マーヤーの霊性を認識せず、物質的なものから抜け出そうとするがゆえにです。パウロ書簡を貫いて脈打ち、未来において全地球上に目に見えて拡がってゆくであろうものは、魂的な教えなのです、たとえまだ萌芽のかたちでしかなく、そのため現在のようなタマス時代には見誤られることがあるとしてもです。マーヤーの特殊な性質についてこのことが理解されなければなりません、そうしてはじめて、人類進化の歩みのなかで肝心なことは何かを深いところで理解できます。そうしてはじめて、パウロが最初のアダムについて語るとき、パウロが何のことを言っているのか理解できるのです、魂においてルツィファーに屈服し、そのためにますますいっそう物質のなかに巻き込まれてしまった、すなわち誤った物質体験に巻き込まれてしまったということにほかならないのですが、そういう最初のアダムについてです。神の創造として外部にある物質は良いものです。そこで起こっていること、それは良いことなのです。人類進化の経過のなかで魂がそこで体験するもの、これはどんどん貧しいものになっていきました、なぜなら魂は最初にルツィファーの威力に屈したからです。ですからパウロはキリストを第二のアダムと呼ぶのです(☆8)。なぜならキリストはルツィファーの誘惑を受けずに世界に登場し、人間の魂のあのような指導者にして友人であることができるからです。キリストは人間の魂を徐々にルツィファーから引き離し、つまりキリストとの正しい関係に導くということです。パウロは、秘儀参入者として知っていたことすべてを、彼の生きていた時代には人類に伝えることはできませんでした。けれども彼の書簡を自らに作用させるひとは、これらの書簡が、外的に表明しているものよりも多くを深いところで語っていることを洞察することでしょう。つまり、パウロは教区に対して話さなければならず、その教区の知性を顧慮しなければならなかったということです。そのため、彼の書簡のなかには明かな矛盾のように見えるものもあります。けれども深部へ入り込んでいくことのできるひとは、実際パウロにおいていたるところでキリストの本質についての衝動を見出すのです。私たちはここで、私たち自身がゴルゴタの秘跡の成立(生命を得ること/das Ins-Leben-Treten)をどのように叙述したか思い出してみましょう。私たちは時代の経過にそって、事実ふたりのイエス少年がいるために、マタイ福音書とルカ福音書における二つの異なったキリスト・イエスの若き日の物語(☆9)があることを知りました。そして私たちは、外的に、パウロの意味に沿って言うと肉によれば、すなわち物質的な血筋によれば、イエス少年はふたりともダヴィデの家系に由来すること、ひとりはナータン系、もうひとりはソロモン系から出ていること、つまりふたりのイエス少年はほぼ同じ時期に生まれたことを知りました。マタイ福音書における一方のイエス少年のなかに、私たちはツァラトゥストラ(ゾロアスター)が再び受肉しているのを見出しました、そしてルカ福音書が叙述しているもう一方のイエス少年のなかには、人間の自我、とりわけ、ツァラトゥストラの自我のように高度に進化した自我を宿したもうひとりのイエス少年のような人間のなかにあるような自我は本来入り込んでいないことを強調しました。ルカのイエス少年のなかには、本来、人間のうちで地上の人間進化には入っていかなかったものが生きているのです。この点において正しい表象に至るのは少々困難です。とは言え、いわばアダムのなかに受肉した魂、つまり私の「神秘学」(☆10)の意味でアダムと呼ばれるものに受肉した魂、この魂が、ルツィファーの誘惑に屈するようすをちょっと思い描いてみてください、聖書においては象徴的に楽園における堕罪によって叙述されているルツィファーの誘惑に。これに加えて、アダムの身体に受肉したあの人間の魂性のかたわらに、当時受肉せず、物質的体に入り込まず、魂的なままであるひとつの人間性(メンシェントゥム)、人間存在を思い描いてください。人類進化の内部に物質的人間が発生する前に、その後二つに分かれるひとつの魂がある、と想像してくださりさえすればよいのです。共通の魂の一部、一方の後裔がアダムのなかに肉化し、それによってこの魂は受肉へと入っていってルツィファーに屈服するなどします。もう一方の魂、いわば姉妹(Schwesterseele)については賢明な宇宙統治によって、この魂も受肉するとよくないということが予見されました。この魂は魂的世界にとどめ置かれます、つまり人類の受肉のなかに生きることはなく、そこに引き留められるのです。この魂とは秘儀に参入した者のみが交流します。ですからこの魂はゴルゴタの秘跡以前の進化の間には自らのうちに自我体験(Ich-Erlebnis)を受け入れていません。なぜならこの自我は人体のなかへ入って受肉することを通じてはじめて体験されるからです。それゆえしかし、この魂は、土星紀、太陽紀、月紀を通じて体験することのできたあらゆる叡智を有します、この魂は、およそ人間の魂に可能であろうあらゆる愛を有しているのです。つまりこの魂はいわば、人類が人類進化の受肉の経過において自らのなかにもたらし得る罪のすべてに対して無垢であるということです。この魂はつまり、外的に人として出会うことはできず、いにしえの霊視者(見者)たちによってのみ知覚されることのできた魂なのです。霊視者たちによってこの魂は知覚されました。この魂はいわば秘儀のなかで交流したのです。このように、人類進化の内部、しかも上部に、とも言えるでしょうか、そこに私たちは、最初は霊的にのみ知覚された魂を、ひとりの前人間(Vormensch)、超人間(Uebermensch)を有しているのです。この魂が、ルカ福音書のイエス少年のなかに自我の代わりに受肉した魂です。みなさんはバーゼル講義(☆11)のことを憶えておいでですね。そのときすでにこのことは述べました。つまり、これは単に自我に似た[Ich-aehnlich]魂であり、これはイエスの肉体のなかに入り込むときにはひとつの自我のように働きかけるのはもちろんなのですが、この魂が示すすべてはやはりほかの通常の自我とは異なっています。私はすでに、ルカ福音書のイエスが生まれてすぐに、彼の母にも理解できる言葉で話すことができたということを強調しました。彼の場合似たようなことはほかにもありました。さらに私たちは、ツァラトゥストラの自我が内に生きていたマタイのイエス少年が十二歳まで成長したことを知っています、ルカのイエス少年の方も成長したのですが、こちらはとりたてて人間的な認識や学問は持っておらず、神的な叡智と神的な供犠の力を自らのうちに担っていました。このようにルカのイエス少年は成長し、外的に人間的に学ぶことのできる能力はとくに示しませんでした。さらによくご存じのとおり、ツァラトゥストラの自我はマタイのイエス少年の肉体を去り、ルカのイエス少年が十二歳のときにこのツァラトゥストラ自我がルカのイエス少年の肉体を所有しました。この瞬間は、ルカ福音書の十二歳のイエス少年について、両親が彼を見失ったとき彼は神殿の賢者たちの前で教えていた、と語られることによって暗示されます。さらに私たちが知っていることは、このルカのイエス少年が今や自らのうちにツァラトゥストラ自我を担って三十歳にまで達し、このときツァラトゥストラ自我はルカーイエスの肉体を去ること、そして今や覆いの性質であるものすべてをキリストが所有することです、高次ヒエラルキアの超人的存在であり、そうですね、十二歳の年まで最初は前人間的な叡智の諸力、前人間的神的な愛の諸力に浸透されていて、次いでツァラトゥストラ自我により多くの受肉において秘儀参入を通じて獲得されたすべてのものに流入され浸透された体、そもそもそういう体が彼のために提供されたというような状況においてのみ人間の体に住まうことのできたキリストが所有するのです。このキリストの自我がそもそも人類のなかへと入ってくることができるためにはどんな肉体性が必要だったかを理解しようと試みるとき以外には、いかなるものによっても、キリスト存在に対する正しい注意、正しい畏敬、要するに正しい感情全般は得られないかもしれません。このキリスト存在について近代の聖なる秘儀から与えられるこういう叙述のなかに少なからぬ人たちが見出したことは、こういうキリスト存在は、さまざまに思い描かれて多くの人が敬うキリスト・イエス、家族のように親しく、人間の身近にいて、通常の人体に受肉し、ツァラトゥストラ自我のようなものを内に宿すことのない、そういうキリスト・イエスほどは、いわば親密にも人間的にも見えない、ということでした。私たちの教説は、キリスト・イエスが宇宙のあらゆる領域からの諸力から合成された、と言っているということで非難されました。こういう非難は単に人間の認識の怠惰、感受性と感情の真の高みへと上昇しようとしない人間的感情の怠惰に由来します。最も偉大なものは、最大のもの、最高のものをいくらかなりとも魂に近づけるために不可欠の、感情と感受性のあの内的な強度を得るべく、私たちの魂が大いに刻苦勉励して把握されなければなりません。このように最初の感情は、私たちがそれをこのような光のなかで観察するときにのみ高められるのです。さらにもうひとつ私たちは知っています。「神の力は高みにおいて開示され、善き意志の人々のもとに平和が広がる」(☆12)という福音書の言葉をどのように解釈しなければならないかを知っています。ご存じのように、この平和と愛の知らせは、ルカのイエス少年が現れるとき、ルカのイエス少年のアストラル体のなかに仏陀が、当時すでに、ゴータマ・ブッダとしてのその最後の受肉を成し遂げ完全な霊性にまで上昇した存在のなかにあった仏陀が介入することによって鳴り響きます、ルカのイエス少年のアストラル体のなかに、地上でのゴルゴタの秘跡の出現まで前進していた仏陀が自らを開示することによってです。このように私たちは、いわば今日はじめて神秘学の基礎から人類に与えられることのできるキリスト・イエスの本質を私たちの前に据えました。パウロは、秘儀参入者であったにも関わらず、その頃の時代にとっても理解しやすい概念で語らなくてはなりませんでした、彼は、私たちが今日心になじませることができるような概念をすでに理解できるような人類を前提とすることはできなかったでしょう。けれどもパウロのインスピレーションを完成させたものは、実際、恩寵によって引き起こされた彼の秘儀参入を通じて呼び起こされたのです。パウロは古代の秘儀における規則正しい行を通じてこれに到達したのではなく、復活したキリストが彼に現れたダマスクスへの途上で恩寵によって到達しました、それゆえ私はこの秘儀参入を恩寵により起こされた秘儀参入と呼びます。けれどもパウロはこのダマスクス現象(☆13)に直面し、それによって知ったのです、いかにも、ゴルゴタの秘跡において復活したもの、それはゴルゴタの秘蹟以来地球領域に結びついて生きている、と。パウロは復活したキリストを認識(識別)しました。このとき以来、彼はこの復活したキリストを告げ知らせました。なぜパウロは彼が見たようにキリストを見ることができたのでしょうか。ここで少しばかり、この種のヴィジョン、ダマスクスでのそれのような現前[Manifestation]に入り込んでみなくてはなりません。と申しますのも、何と言ってもそれはまったく特別な種類のヴィジョン、現前だったからです。オカルト的事実について実際にいささかなりとも学ぼうという気持ちがない人々だけが、ヴィジョン的なものすべてを単純に混同し、パウロのヴィジョンのような何かを、後の聖人たちに現れたようなほかのヴィジョンから区別しようとしないのです、例えば「平和の知らせ」の著者(☆14)がしているように。この著者はまさしくオカルト的事実について決して真に何かを学ぼうとはしない人たちのひとりです。これはほんとうに何だったのでしょうか。なぜパウロはあのようなしかたでキリストを知覚することができたのでしょうか。ダマスクスを前にして彼に現れたキリストを?なぜパウロはそれについてこれは復活したキリストであるという確信が持てたのでしょうか。この問いは私たちを別の問いへと引き戻します、キリストの本質全体が、ヨルダン河でのヨハネの洗礼として暗示されるあの出来事の際にナザレのイエスのなかに完全に入り込んでいくことができるためには、そのとき何が不可欠だったのか、という問いです。さて、私たちはたった今こう言いました、キリストの本質が降っていくことになったあの肉体性を準備するためには何が不可欠だったのかと。けれども、復活した者が、パウロに現れたほどに濃密に魂的に現れることができるためには何が必要だったのでしょう。ダマスクスを前にしたパウロに現れたキリストがそのなかにいたあの光輝(Lichtschein)とはいわばいったい何だったのでしょう。それは何だったのでしょう。それはどこから受け取られたのでしょう。私たちがこれらの問いに答えたいなら、私が以前に申し上げましたことにいくつか補足しながら付け加えなければなりません。私は皆さんに申しました、このとき人間の世代の系列のなかに入っていったアダムの魂のいわば姉妹魂というものがあった、と。この姉妹魂は魂的世界にとどまりました。この姉妹魂はルカのイエス少年のなかに受肉した魂でもありました。けれどもこの魂は、言葉の厳密な意味では、物質的人間のように受肉したのはこのとき初めてではありません、この魂は以前一度すでに預言的に受肉したことがありました。以前にももうこの魂は聖なる秘儀の使者のように用いられたのです。私は皆さんに、この魂は秘儀において交流を持たれ、いわば秘儀のなかで育み養われて、人類において重要なことがあるときに派遣されたと申し上げました。しかしこの魂は、エーテル体のなかへの出現としてのみ存在することができたのであり、厳密な意味では古い霊視が存在していた限りにおいてのみ知覚されることができました。実際以前の時代には霊視は存在していました。つまり当時このアダムの古い姉妹魂は、人々に見られるために物質体にまで降る必要はなかったのです。とはいえ、この魂は秘儀の衝動により派遣され、地球進化において重要な事柄が為されるべき時にはいつも、地球の人類進化の内部に繰り返し実際に現れました。けれどもこの魂は古い時代には受肉する必要はありませんでした。霊視というものがあったからです。この魂は、昨日お話ししましたアトランティス後第三期から第四期へと移行する際この霊視が克服されることになったときはじめて受肉する必要がありました。このときいわば補足としての受肉、もはや霊視がなくなった時代に対応できるための受肉を引き受けたのです。このアダムの姉妹魂は、クリシュナのなかにいわばただ一度だけ受肉しました、物質的にも目に見えるようになるために姿を現さなければならなかったのです、この魂は次いで今度はルカのイエス少年のなかに受肉しました。こうして今や私たちは理解します、クリシュナがなぜかくも超人間的に語るのか、なぜ人間の自我にとって最良の師であるのか、なぜクリシュナはいわば自我の克服を示すのか、なぜクリシュナはかくも魂として崇高に現れるのか、理解するのです。なぜなら、私たちが数日前に魂の前に出現させたあの崇高な瞬間に、クリシュナは人間として現れるからです、まだ人間の受肉のなかに下降していない人間として。その後彼は今度は、ルカのイエス少年のなかに受肉するために現れます。したがって、十二歳のイエス少年のなかでアジアのきわめて重要な「ふたつの世界観(宇宙観)」が、つまりツァラトゥストラ自我とクリシュナ霊が結びつくときに、あの完全さが実現するのです。今や神殿で導師たちに語りかけているのはツァラトゥストラのみではありません。ツァラトゥストラは自我として語ります、ツァラトゥストラはかつてクリシュナがヨーガを告知した手段をもって語ります、彼はさらに一段階高められたヨーガについて語ります、彼は三十歳まで成長していくために、クリシュナの力と、クリシュナそのひととひとつになるのです。そしてここで初めてキリストによって所有されることのできたあの完璧な肉体性が得られます。このように人類の霊的な諸潮流は合流しています。こうして、ゴルゴタの秘跡が起こるとき、まことに人類のもっとも重要な師たちの共働、霊生活の統合がなされるのです。パウロがダマスクスを前にして出現に遇うとき、このとき彼に現れるのはキリストです。キリストがまとう光輝(Lichtschein)はクリシュナなのです。そしてキリストがさらに働きかけを続けるための自分の魂の覆いとしてクリシュナを受け入れたので、輝きを放つもののなかに、キリストのなかに、かつて崇高なギーターの内容であったものすべてもまた含まれているのです。新約聖書の啓示のなかに、ばらばらに散らばっているとは言え私たちはいにしえのクリシュナの教えに由来する多くを見出します。けれどもこの古いクリシュナ教義はこれによって全人類の要件となったのです、なぜならキリストそのものは人間の自我及び人類には属さず、高次ヒエラルキアに属するからです。しかし同時にまたキリストは、あの時代にも属します、今や物質的存在として人間を取り巻いているもの、人間自身のルツィファー的誘惑を通じて人間にとってはマーヤーのなかに覆われているものからまだ人間が切り離されていないあの時代に。進化全体を振り返って見てみましょう、すると、あのいにしえの時代にあっては、霊的なものと物質的なものの間のあの厳密な区分がなく、物質的なものがまだ霊的で霊的なものも、こう申し上げてよろしいなら、まだ外的に顕現しているようすが見えます。サーンキヤ哲学において私たちに向かってくるプルシャとプラクリティの厳密な区別のようなものをまったく退けるような何かが、キリスト衝動のなかで人類に歩み寄ることによって、キリストは人間の指導者となります、自発的なしかも神の創造のための指導者に。さらに、私たちの罪によって私たちにはマーヤーが自明のもののように見えるということを認識したなら、私たちは絶対にマーヤーを去らねばならないなどと言うことが許されるでしょうかそれは否です、と申しますのも、そんなことを言うのは宇宙(世界)における霊への冒涜(ぼうと/ Laesterng)というものでしょう、それはつまり、私たち自身がマーヤーのヴェールを負わせてしまった物質の特性のせいにすることでしょうから。むしろ、私たちは望まなければなりません、私たちにとって物質をマーヤーとしているものを私たちが自らのうちで克服するとき、私たちは再び宇宙(世界)と和解していくであろうことを。私たちを取り巻くこの宇宙から私たちに向かって響いてはこないでしょうか、この宇宙はエロヒムの創造である、そして創造の最後の日に「そして見よ、すべては極めて良かった」(☆15)とこのエロヒムはみなしたと。これは、クリシュナ教義のみが存在するとしたら、成就するであろうカルマでしょう、カルマが成就することなしには宇宙には何も残らないからです。クリシュナ教義だけが永遠に存在するとしたら、地球進化の最初にエロヒムがそれについて「そして見よ、すべては極めて良かった」と言った神の顕現である周囲の世界の物質的存在に、つまりこの神の顕現(開示)[Gottesoffenbarung]に、「それは良くない、私はそれを去らねばならない!」という人間の判断が対立させられるでしょう。人間の判断が神の判断より上位に置かれることになってしまいます。これは、進化の出発点に秘密として書き留めてある言葉を理解することを学ばなければならないということです。これは、私たちが人間の判断を神の判断の上位に据えない、ということです。私たちに罪として付着するかもしれないすべてが、いつかいたるところで私たちから落ちていくこともあるでしょうが、私たちがエロヒムの創造を誹謗するという罪がひとつ残るとしたら、地球のカルマは成就しなければならないでしょう。そして未来においてすべてが私たちに襲いかかってこざるを得ないでしょう。このようにカルマは成就せざるを得ないでしょう。これが起こらないようにするために、キリストは世界(宇宙)に現れたのです、私たちが世界(宇宙)と和解し、その結果私たちがルツィファーに対して誘惑の力を克服するすべを学び、そのヴェールを突き抜けていくすべを学び、神の顕現をその真の姿において見、私たちを神の顕現の真の姿へと導く調停者(Versoehner)として私たちがキリストを見出し、私たちがキリストを通じて「そして見よ、すべては極めて良かった」という太古の言葉を理解するすべを学ぶことができるように。決して宇宙のせいにすることを許されないものを私たち自身の責任とすることを学ぶために、そのために私たちはキリストを必要としています。すると、そのほかの罪もすべて私たちから取り去られ得るでしょう。この罪はキリストを通じて私たちから取り去られねばならないのです。これが道徳的な感情に変化すると、これがさらに新たな面からのキリスト衝動を与えます。同時にこれは私たちに、高次の魂のようなキリスト衝動がクリシュナ衝動で覆われることが不可欠であったのはなぜかを示します。愛する友人の皆さん、このチクルスで意図されたような議論が、単にひとつの理論として、私たちの受け入れる概念と理念の総計としてのみ受け取られることは望みません、こういう議論をぜひとも一種の新年の贈り物として受け取っていただきたいのです、この新たな年に入り込んでいき、この年から先さらに作用し続けるひとつの贈り物、この地球創造の太初の出発点において私たちに響いてくるエロヒムの言葉、私たちはこの言葉を理解しなければならないのですが、キリスト衝動がこのエロヒムの言葉を私たちに理解させる限り、キリスト衝動の理解を通して感じ取られ得るものとしてさらに作用し続ける贈り物として。そして、意図されたものを同時に私たちの人智学的な精神(霊)潮流の出発点とみなしてください。この精神(霊)潮流を通じて、人間が自らのうちでいかに完全な自己認識に至りうるかをますますいっそう認識してもらいたいという理由からも、この精神潮流を人智学的なものにしていただかなくてはなりません。人間が、自分の魂のなかで作り上げるべきものを、自分と外的な自然との間で演じられる問題(Angelegenheit)のように観察する限り、人間はまだ完全な自己意識に到達できません、アントロポス(Anthropos)はまだアントロポスの認識に、人間は人間についての認識に到達することができないのです。私たちが世界(宇宙)をマーヤーに没していると見ること、これは神々が私たちに準備した問題です、私たちの魂そのものの問題、高次の自己認識の問題です、これは人間がその人間であることのなかで自分で認識しなければならない問題なのです、これは人智学の問題です、人智学を通じて私たちははじめて神智学が人間にとってそうであり得るものを感じ取ることができるようになるのです。人智学の運動に参加しようと決心するとき、人間が衝動として感じ取るものは、最高の種類の慎ましさ(Bescheidenheit)でなくてはなりません。自らにこう言い聞かせるような慎しさです、私が人間の魂の問題であるものを飛び越え、神的なものの最高の歩みのなかに一挙に入り込みたいと思うなら、いともたやすく私から謙虚さは消え去るだろう、謙虚に代わっていともたやすく高慢が現れるだろう、虚栄心が容易に起こってくるだろうと。願わくば人智学協会がこの高次の道徳的領域における出発点でもありますように。最高の存在たちであるものを受け入れるときに、高慢、虚栄心、功名心、不誠実のかたちで神智学運動のなかにかくもたやすく忍び込んできたもの、とりわけこれを人智学協会が回避しますように、人智学協会がその出発点において、マーヤーとともに形成されねばならなかったものをこの人間の魂そのものの問題とみなすことによって避けることができますように。人智学協会を人間のもっとも深い慎ましさの成果としよう、と感じなくてはなりません。と申しますのも、聖なる真実に対する最高の誠実さ、私たちが超感覚的なもの、スピリチュアルなもののこの領域に赴くとき聖なる真実のなかに入り込んでいくべきこの誠実さは、この慎ましさから湧き出してくるであろうからです。ですから私たちは、「人智学協会」という名称の受け入れを、真に慎みをもって、真に謙虚に理解し、自らにこう言い聞かせましょう、神智学という名称がなおも不遜さ、虚栄心、功名心において引き起こし得たものが消し去られますように。慎ましさというしるしと標語のもとに、神々と神々の叡智を慎ましく仰ぎ見ることを始めるとき、けれどもそのために人間と人間の叡智を責任を持ってとらえるとき、つまり敬虔さをもって神智学に近づき、責任をもって人智学に沈潜するときに、消し去られますようにと。この人智学というものは私たちを神的なものと神々のところに導くでしょう。そして私たちが人智学を通じて最高の意味で謙虚に真に私たち自身の内を見ることを学び、そしてとりわけ、厳しい自己教育と自己陶冶のなかであらゆるマーヤーとあらゆる錯誤に対して私たちがいかに格闘しなければならないかを私たち自身のなかに見るとき、青銅の銘板に書かれたように「人智学」が私たちの上方に掲げられますように。そしてとりわけ私たちが人智学を通じて自己認識を、自己に対する謙虚さを求めること、そして私たちがこのようにして、真実に基づいた建物を建てる試みを、なぜなら自己認識が最高の誠実さをもって人間の魂のなかに確立しているときにのみ真実は花開くからですが、そういう建物を建てる試みをすることができること、このことが私たちを強く促しますように。あらゆる虚栄心は何に由来するのでしょうか、あらゆる不誠実は何に由来するのでしょうか。これらは自己認識の欠如によるのです。真実は何から芽吹くことができるでしょうか、神々の宇宙(世界)と神々の叡智に対する混じりけのない敬虔さは何から芽吹くことができるでしょうか。これらは真の自己認識、自己教育、自己陶冶からのみ芽吹くことができるのです。人智学運動を通じて流れ出し、脈打ってくるべきものがこのために役立ちますように。この理由から、この人智学運動の出発点にほかならぬこのチクルス(連続講義)が置かれました。問題は何か偏狭なものではなく、私たちはまさにこの運動とともに私たちの地平を、東洋的な思考も把握しているあの彼方を越えてさらに拡げてゆくことができるのだということを証し示そうとするこのチクルスが。これを謙虚に人智学的なしかたで把握しましょう。自己教育し、私たちのなかで自己教育と自己陶冶への意志を強めながら。愛する友人の皆さん、人智学が皆さんによってこのように手がけられるなら、人智学は有益な結果に至ることでしょう、どのひとりひとりにもどの人間社会にも癒しを与える目的に到達するでしょう。そのために、この言葉が語られますように。これをこのチクルスの最後の言葉としたいのですが。この言葉について、何かを魂のなかでこれからの時代に携えていくことができる人たちもいるかもしれません。そうすれば、愛する友人の皆さん、皆さんはこの運動のためにここ数日間にいわばはじめてお集まりになったわけですが、この人智学運動の内部でその何かは実りあるものになるでしょう。願わくば私たちがいつも人智学のしるしのもとに集い合い、そして今終わりに際して名づけたい言葉、私たちが今まさにこの瞬間における理念として魂の前に置くことが許されるであろう慎みという言葉、自己認識という言葉を私たちが正しく礎えとすることができますように。□編註☆1 フィヒテ:Johann Gottlieb Fichte 1762-1814「全知識学の基礎と輪郭」(Jena1794 )参照。☆2 ヘーゲル:Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770-1840☆3 …パウロがコリント人たちに向かって書いている箇所:『コリント人への手紙 1 』12章☆4 「霊感を授かった兄弟たちについては…」:同上 12章 1-30 Carl Weizsaecker の翻訳に準拠。☆5 「しかし私はあなたがたに…道を示したいのです」:同上 13章 シュタイナーによる自由な翻訳。☆6 「感覚は欺かないが…」:第2講の註☆5参照。『ゲーテ自然科学論文集』第5巻349頁。☆7 それでも、やはりゲーテが…:この言葉は、宰相フリードリヒ・フォン・ミュラー相手のゲーテの発言に関連している:「私がどんなにキリスト教を尊敬しているか、あなたはご存じでしょう、あるいはご存じないかもしれない。今日、いったい誰がキリスト自身が持ちたいと思ったようなキリスト教徒なのでしょう?もしかすると私だけかもしれませんよ、あなたは私を異教徒だと思っていらっしゃるでしょうけれども。」この発言は1830年4月7日の『宰相フリードリヒ・フォン・ミュラーとの対話』(C. A. H. Burkhardt 編 Stuttgart 1870)に見られる。☆8 ですからパウロはキリストを…:『コリント人への手紙 一 』15章 45☆9 二つの異なったキリスト・イエスの若き日の物語:これについては、シュタイナー『人間と人類の霊的な導き』(1911 GA15 第3講);『ルカ福音書』(Basel 1909 GA114);『マタイ福音書』(Bern1910 GA123);『イエスからキリストへ』(Karlsruhe 1911 GA131)参照。☆10 私の『神秘学』の意味で:シュタイナー『神秘学概論』(1910 GA13)の「宇宙進化と人間」の章(259頁)参照。☆11 バーゼル講義:『ルカ福音書』(GA114)☆12 「神の力は高みにおいて…」:『ルカ』2,14 シュタイナーによる翻訳。☆13 ダマスクス現象:『使徒行伝』9,1-6☆14 「平和の知らせ」の著者:ヴィルヘルム・ヒュッベシュライデン博士 Dr. Wilhelm Huebbe- Schleiden 1846-1916 彼についてはシュタイナー『わが生涯』(1923-25 GA28 32章)及び連続講義『人智学協会との関係における人智学運動の歴史と諸条件』(Dornach 1923 GA258 第6講)、さらにシュタイナー『書簡集 第2巻』(Dornach 1953)参照。小冊子のタイトルは "Die Botschaft des Friedens" 1912年6月19日ハノーファーで神智学協会のために行われた講演。Leibzig 1912☆15 そして見よ、すべては極めて良かった:モーゼ1. 1,31参考画:Marie-und-Rudolf-Steiner人気ブログランキングへ
2024年04月25日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)第四講/1912年12月31日、ケルン (2000.7.29登録/2000.11.26一部改訳) すでに昨日講義の初めに指摘されたことですが、私たちの魂が一方で、釣り合いがとれ、平静な、熱狂と情動を離れた真に智慧あるバガヴァッド・ギーターの本質を自らに作用させ、他方でパウロ書簡、つまり多くの点で、これは個人的な(パーソナルな/persoenlich)情熱、個人的な(パーソナルな)意図と見解に貫かれている、ある種のアジテーション的、プロパガンダ的意味に貫かれていて、時おり騒々しく怒りっぽくさえあるという印象を与えるパウロ書簡において、支配的なものを作用させるとき、私たちの魂が受け取る印象は非常に異なります。そして、精神内容の表出のされかたをも作用させるとき、ギーターにおいては驚くほど芸術的に完成された形式のなかに完全なものが得られます、ここで詩的に啓示され、しかも哲学的でもあるものを表現するこの完全さはこれ以上はほとんど想定できないほど完全なものです。これに対してパウロ書簡においてはしばしば、表現のぎごちなさ、とでも言えそうなものがあり、時おり不器用さとも思えるこのぎごちなさに直面しては、深い意味を引き出してくるのはきわめて困難となっているのです。これらすべてにもかかわらず、ちょうどギーターにおいて東洋の世界(宇宙)観の調和が主音となって私たちに響いてくるように、パウロ書簡においては、キリスト教(クリステントゥム)において重要なものが、キリスト教の発展にとっての音頭取りの位置を占めているのが見出せるというのはやはり正しいのです。私たちがパウロ書簡のなかに見出すのは、復活(Auferstehung)についての、掟に対する信仰と呼ばれるものの意味についての、恩寵の作用についての、魂あるいは人間の意識のなかのキリストの生その他多くについての、キリスト教の根本的に重要な真理です。これらすべてが、キリスト教の叙述において繰り返し繰り返しこのパウロ書簡から発してこざるを得ないように置かれているのがわかります。パウロ書簡の場合、すべてはキリスト教に関わっています、ちょうどバガヴァッド・ギーターにおいてはすべてが、営みから自由になることについて、直接行為する生から自らを解き放ち、事物の観察へ、魂の沈潜へ、霊的高みへの魂の上昇へ、魂の浄化へ、要するにこのギーターの意味で語るなら、クリシュナとの一体化に至ることについての偉大な真理と関わっているように。まさにここで特徴づけられたすべてが、これら二つの霊(精神)の啓示の比較をきわめて困難にしているのです、そして単に外面的な比較をするひとが、純粋さと平静と叡智の点でバガヴァッド・ギーターをパウロ書簡よりも高く評価せざるを得ないのは疑いのないことでしょう。けれどもこのように外面的な比較をするひとはいったい何をしているのでしょう。そういう比較をするひとは、誰かが目の前に、美しい、すばらしい花を咲かせた完全に成長した植物を見、そのかたわらに植物の種があるのを見て、私の前に完全に開花したすばらしい花を咲かせた植物がある、何と言ってもこれは目立たない物言わぬ種よりずっと美しい、と言うのに似たことをしているのです。とは言っても、すばらしく美しい花を咲かせた植物のかたわらに置かれたこの種から、いつかもっと美しい花を咲かせるもっと美しい植物が成長してくる、という事態もあり得るでしょう。ですから、成長しきった植物とまったく成長していない種のように並置されているものをこのように直接比較するなら、正しい比較をしているとは言えないわけです。バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡を比較するときにもそうなのです。バガヴァッド・ギーターにおいて眼前に現れるのは、熟し切った果実のような何か、何千年にもわたって成長し、ついに壮大なギーターのなかに智慧ある成熟した芸術的表現を見出した長い人類進化の見事に美しい仕上がりのような何かです。そしてパウロ書簡においては、まったく新しい何かの種子、さらにどんどん成長していくにちがいない種子が眼前にあります、そしてこれをまさに種子のようなものと見なし、未来へ向かって進化が何千年も流れ去り、パウロ書簡のなかに種子のように置かれているものがますますいっそう成熟したときそこから生成するはずのものに預言的に目を向けるときにのみ、その完全な意味でこれを自らに作用させることができるのです。このことを考慮するときにのみ、正しい比較ができるのです。そうすると、将来偉大になるべきものが、最初目立たない姿でキリスト教の深みからパウロ書簡のなかに、人類の魂から混沌と湧き出してくるように一度現れねばならなかったことについてもはっきり理解できます。このように、一方でバガヴァッド・ギーターの、他方でパウロ書簡の、地球の全人類の進化にとっての意味に目を向けるひとは、別の描写をしなければならないでしょう、そして、美と叡智と内的な形式の完成に関して完全な作品という点で評価せざるを得ないひとも別の描写をしなければならないでしょう。けれども、ここでバガヴァッド・ギーターとパウロ書簡において明らかになるような二つの世界観を比較したいなら、まずこう問わなければなりません、ここではいったい何が問題なのか、と。それは、私たちがまず問題となる世界観について歴史的に見晴るかすことのできるすべてを扱っているということ、つまり人類進化への自我(Ich)の育成(Heranziehung)ということです。人類進化においてこの自我を追求してみますと、こう言うことができます、キリスト教以前の時代においては、この自我は独立していなかった、まだ隠された魂の底に根ざしているようなもので、自分自身で進化していく可能性にはまだ達していなかった、と。自分自身の性格を持って進化していくこと、これは、私たちがまさにキリスト衝動(Christus-Impuls)という名で呼んでいる衝動がこの自我のなかに投げ込まれることによってのみ可能になったのです。ゴルゴタの秘蹟以来人間の自我のなかに在ることができ、パウロの「私でなく私のなかのキリスト」という言葉のなかに表現されるもの、これはそれまではこの自我のなかに在ることはできませんでした。けれども、ゴルゴタの秘蹟より何千年も前、すでに人々は省察しつつキリスト衝動に近づいたのですが、その時代に、その後キリスト衝動が人間の魂のなかに組み込まれることによって起こるべきことがゆっくりと準備されました。とくにそれは、クリシュナの行いにおいて私たちに表明されるようなしかたで準備されたのです。ゴルゴタの秘蹟以後、人間がキリスト衝動として自分自身のなかに探し求めなければならなかったもの、「私ではなく、私のなかのキリスト」というパウロ的形式の意味のなかに見出さねばならなかったもの、これを人間は、ゴルゴタの秘蹟以前には外に向かって探し求めなければなりませんでした、あたかも宇宙のかなたから啓示のように到来するもののように探し求めねばなりませんでした。そして私たちが時代を遡れば遡るほど、この外的啓示はいっそう輝きに満ち、鼓舞するものとなります。つまり、ゴルゴタの秘蹟以前の時代においては、人類へのある種の啓示があった、太陽の輝きが外から対象を照らすときに起こるような人類への啓示があったと言うことができます。光が外から対象に当たるときのように、霊的太陽の光は外から人間の魂に当たり、それを照らしていました。ゴルゴタの秘蹟以後、私たちは魂のなかにキリスト衝動として、つまり霊的な太陽光として作用しているものを、次のように言うことで比較できます、これは私たちが、内部から光を放つ自ら輝く天体を前にしているときのようだ、と。私たちが事態をこのように観るとき、ゴルゴタの秘蹟という事実は私たちにとって人類進化の重要な境目となります、私たちにとってこのゴルゴタの秘蹟はひとつの境目となるのです。この関係全体を象徴的に描くことができます(図1・2・3)。挿入図:図1・2・3この円(左)が人間の魂を示すとしますと、私たちはこう言うことができます、霊の光が外部のあらゆる方向から人間の魂へと発してくる、と。それからゴルゴタの秘蹟が起こり、その後魂は自らのうちにキリスト衝動を有し、キリスト衝動のなかに含まれるものを自分から発します(右)。あらゆる方向から照らされ、こうして照らされることによって輝く滴のように、キリスト衝動以前の魂は私たちに現れます。内的に輝き、自らの光を放射する炎、ゴルゴタの秘蹟以後の魂は、キリスト衝動を受け入れる状態となったとき、この炎のように私たちに現れるのです。このことに注目するなら、私たちはこの関係全体をサーンキヤ哲学でおなじみの名称で表すことができるでしょう。私たちはこう言うことができます、私たちが、ゴルゴタの秘蹟以前のあらゆる方向から霊の光に照らされている魂に霊眼を向けるなら、このあらゆる方向から魂を照らす霊、つまり私たちがこの関係全体に注目することでその霊性が私たちに輝き出すような霊の関係全体は、サーンキヤ哲学の名称に従えばサットヴァ状態にあるように見えます。これに対して、ゴルゴタの秘蹟以後実現された魂は、私たちがいわばこれを外から霊眼で観ると、あたかもその内部深くに霊の光が隠されているかのように、魂的なものが霊の光を隠しているかのように見えます。ゴルゴタの秘蹟以後キリスト衝動のなかに内包されている霊の光は、魂実質に覆われているように見えるのです。そしてこの現代に至っても、とくにこの現代、人間が外的に体験し、知覚するすべてに関して、私たちはこの関係を見ないでしょうか。今日人間を、外的な知、外的な活動において人間が携わっていかねばならないものを、ひとつ観察してみるとよいでしょう、そして内部深くに隠され、まだまったく輝きの弱々しい小さな炎さながら、キリスト衝動が人間のなかで他の魂内容に覆われているさまを、これに対置してみればよいのです。これは、霊の魂への関係においてサットヴァ状態である前キリスト的状態に対して、タマス状態なのです。つまりこの意味において観察するなら、ゴルゴタの秘蹟は人類の進化において何をするのでしょうか。霊の啓示ということに関しては、これはサットヴァ状態をタマス状態へと変化させます。人類はこのとき前進します、しかし、人類はいわば、深く転落すると言えるかもしれません、ゴルゴタの秘蹟を通じてではなく、自らを通じてです。ゴルゴタの秘蹟はますますいっそう炎を燃え立たせます。けれども、以前は力強い光があらゆる方向から魂を照らしていたけれども、その後その炎は小さな炎としてのみ魂のなかに現れるということ、このことが、前進していく、とは言えますますいっそう闇のなかに沈み込んでいく人間性質を作り出すのです。けれども、人間の魂の霊への関係におけるタマス状態が、ゴルゴタの秘蹟のせいだというのではありません、ゴルゴタの秘蹟が起こることによって、はるかな未来、今度は内から吹き起こされたサットヴァ状態がタマス状態から実現されるのですから。サーンキヤ哲学の意味において、サットヴァ状態とタマス状態の間にはラジャス状態がありますが、このラジャス状態は人類進化に関して、ちょうどゴルゴタの秘蹟に当たる時期によって特徴づけられます。人類自らが霊の啓示に関して、ほかならぬゴルゴタの秘蹟をめぐる数千年に、光から闇へ、サットヴァ状態からタマス状態への道を通っていくのです。私たちがこの進化をもっと厳密に観ていきたいなら、こう言うことができます、私たちが人類の進化の時間を線a-bで示すなら、ゴルゴタの秘蹟以前およそ七ないし八世紀頃までは、人間の文化におけるすべてはまだサットヴァ状態にあったと。7世紀-15,16世紀-カルデアーエジプト-ギリシアーラテン-私たちの時代。次いで、ゴルゴタの秘蹟が起こる時代が始まり、そしてさらに次の時代、ゴルゴタの秘蹟後およそ15、16世紀頃について語ることができるでしょうが、それ始まります、こうして明らかにタマスの時代が始まるのです。けれどもこれは推移してゆくものです。そして私たちのよく知っている名称を用いたいなら、ある種の霊の啓示のためにいわばまだサットヴァ状態に入りこんでいた時代は、私たちがカルデアーエジプト時代と呼ぶ時代と一致します。ラジャス状態にあるものがギリシアーラテン時代、タマス状態にあるのがこの現代です。私たちも知っている通り、後アトランティス状態のうち、ここで特徴付けされたカルデアーエジプト時代が第三のものであり、ギリシアーラテン時代が第四、現代が第五のものです。人類進化のプランとでも言いたいものに従って、後アトランティス第三期から第四期にいわば外的な啓示の死滅が、キリスト衝動を燃え立たせるための人類の準備が起こらなければなりませんでした。けれどもこのことは現実にどのように起こったのでしょうか。さて、人間の霊(精神)の関係が、第三の人類期であるカルデアーエジプト時代において後続する時代にとってどのように異なっていたかを明らかにしようとするなら、こう言わなければなりません、この第三の時代においては、エジプトにせよカルデアにせよインドにせよこれらすべての国々、人類進化のこれらすべての地域にとって、人類はまだなお古い霊視的力の名残を有しているという状況であったと。すなわち、人間は諸感覚と脳に結びついた知性の助けによってのみ外界を見ていたのではなく、人間は少なくとも眠りと目覚めの間のある状態においては、まだエーテル体の器官を用いて外界を見ていたと。私たちがあの時代の人間を思い描こうとするなら、まったくもってこう言う以外許されないでしょう、あの時代の人間にとって、私たちが知っているような、諸感覚と脳に結びついた知性によって自然と世界とを観るということは、彼らが体験していた状態のうちのひとつにすぎないと。けれども、これらの状態において、彼らはまだ知[Wissen]というものを形成しておらず、いわば事物をただ観ていただけでした、事物を空間においては並列的に、時間においては順を追って作用させていたのです。これらの人間が知に至りたいと思ったときは、彼らはこの現代の場合のように人工的にではなく自然に、おのずと現れてくるように、彼らの奥深くにある力を、彼らのエーテル体の諸力を認識のために働かせるという状態にならなければなりませんでした。そして私たちにサーンキヤ哲学の驚くべき知として現れてくるすべてのものも、このような認識から生じてきました、このような観察から、ヴェーダの知において私たちに継承されてきたものすべて、ただこれはさらに古い時代のものですが生じたのです。つまりこうして人間は、異なった状態に至ることあるいはそのような状態に移ったと感じることによって認識を獲得していたのです。人間には、目で見、耳で聞き、通常の知性で物事を追求するいわば日常的状態がありました。けれども、この見ること、聞くこと、知性は、外的実際的な要件を考慮するためにのみ用いられました。この能力が学問、認識のために用いられるなどということはまったくなかったでしょう。学問、認識のためには、人間がその本質のもっと深い諸力を活動させる別の状態において現れてくるものが用いられたのです。つまり、私たちはこのいにしえの時代の人間について、こういう対比を用いてよろしければ、いわば彼は平日の体(日常体/Alltagsleib)を有していて、この平日体の内部にもっと精妙で霊的な日曜の体(Sonntagsleib)を有しているというふうに思い描くことができるのです。平日体を用いて人間は日常的なことを処理し、エーテル体のみから編まれている日曜体を用いて、彼は認識をし、学問を養いました。そして、現代において私たちが平日体を用いて学問を作り上げ、宇宙から何かを知るというようなときにもまったく日曜体をまとわないなどということは当時の人間をびっくりさせると言えばこの対比の正しさが確認されるような時代、人間にとってこのいにしえの時代はそういう時代なのです。そう、この全状態での体験をしているこのような人間にとって、いったいそれはどういうものだったのでしょう。この全状態の体験において、人間がより深い諸力による認識のなかにあったとき、つまり、たとえばサーンキヤ哲学を完成させた認識のなかにあったとき、彼は今日の人間のようには感じていたのではありません、つまり、学問を身につけようとするとき、知性を振り絞り頭で思考しなければならない今日の人間のように感じていたわけではないのです。知を獲得したとき人間は、自分がエーテル体のなかにいるように感じました。と言っても、今日の物質的な頭である部分にはほとんど刻印されておらず、むしろほかの部分に多く刻印されているエーテル体ですが。人間はそのエーテル体のほかの部分でずっと多く思考していました。頭部のエーテル体はもっとも劣った部分なのです。人間はいわば、自分はエーテル体で思考している、思考の際物質体から上へ抜け出すと感じていました。知の形成、認識形成のこのような瞬間に彼はさらにまたあることを感じました。彼は、自分が本来地球とともにひとつの全体であると感じたのです。平日体を脱いで日曜体をまとうとき、彼はあたかも、諸力が彼の本質全体を貫いていくような感情を持ちました、諸力が私たちの両脚と両足を貫き、これらの力が、ちょうど私たちの両手と両腕を貫く力が私たちの体と結びつくように、私たちを地球に結びつけるときのような感情です。人間は、自らを地球の一部と感じ始めたのです。一方で彼は自分はエーテル体のなかで思考し知ると感じ、他方において自分はもはや切り離された人間ではなく、地球の一部であると感じました。人間は自分の本質が地球の中に食い込んでいくのを感じました。つまり人間が日曜体をまとっていざ認識ということになったとき、体験の内的なあり方全体がまったく変化したのです。まさにこの古い時代、第三の時代が途絶え、そして新たな、第四の時代が始まったとき、このとき何が起こらなければならなかったのでしょうか。このとき何が起こらねばならなかったかを理解したいなら、私たちは古い命名法に少し感情移入してみるのが良いでしょう。あの古い時代において、たった今私が特徴づけましたことを体験した人間は、私のなかで蛇が活動し始めたと言いました。彼の本質は地中へと伸びていったのです。人間は自分の物質体を本来的に活動するものと感じてはおりませんでした。彼は、自分が蛇のような突起を地中へと伸ばしていくように感じたのです、そして頭は地中から突出したものであるかのように。そしてこの蛇存在、これを彼は思考する者と感じました。ですから彼のありようをこう描くことができるでしょう、そのエーテル体は蛇の体のように地中に伸びていた、そして物質的人間としては地面の外にある一方、認識し知るときには地中に入り込んでいき、エーテル体で思考していたというように。私のなかで蛇が活動していると彼は言いました。つまり古い時代において認識とはいわば、私は私のなかの蛇を活動させる、私は私の蛇存在を感じるということであったのです。新たな時代が始まるためには、新たな認識が到来するためには、何が起こらなければならなかったのでしょうか。人間が両足と両脚を通じてその本質を地中に伸ばしていくと感じた、そのような瞬間が存在することはもはや不可能とならなければなりませんでした。それに加え、エーテル体のなかでの感情は死に絶え、物質的な頭へと移動しなければなりませんでした。この古い認識から新たな認識への移行という感情を正しく思い描くなら、人は足に傷を負うけれども、人は自ら自分の体で蛇の頭を砕くと言えばこの移行がよく表現されていることがおわかりになるでしょう、つまり頭を持つ蛇が思考器官であることをやめるということです。物質的な体、とりわけ物質的な脳が蛇を殺します。そして蛇は人から地球との一体感を奪い去る、つまり、人のかかとに噛みつくことでそれに復讐するのです。人類の体験の形態が別のものへと変わるこのような移行期においては、古い時代から入り込んできているものは、新たな時代に到来するものといわば戦闘状態にあります。と申しますのも、ものごとはまだ共存してあるからです。息子が長生きして父親も存命であるようなものです。とは言え、息子は父に由来するものです。第四の時代、ギリシアーラテン時代の特性が現にあるのですが、まだ人間と民族のなかには第三のエジプトーカルデア時代の特性が入り込んできていました。進化が入り混じって経過していくのは当然のことです。けれども、このように新たに上昇してくるものであると同時に古きに由来するものとして共存して生きているものは、もはやよく理解されません。古いものは新しいものを理解しないのです。新しいものは古いものに対して抗い、古いものに対してその生命を主張しなければなりません。すなわち、新しいものがそこにあるのですが、先祖がなおもその特性を持って古い時代から子孫のなかに入り込んでいます、新しいものをともに作らなかった先祖がです。私たちは第三の人類時代から第四の時代への移行をこのように特徴づけることができます。ですからひとりの英雄がそこにいなければなりませんでした、蛇を殺し、蛇によって傷つけられるこのプロセスをまず意味深く示すと同時に、自分の近親者ではあるけれども、その特性とともに古い時代から新たな時代へとなおも輝き出てくるものに対抗しなければならなかったいわば人類の指導者が。人類は、全世代が体験することを、最初にひとりが非常に大きなスケールで体験しなければならないというかたちで前進していかなければならないのです。このとき蛇の頭を殺し、第三の宇宙期において意味があったものに対抗した英雄は誰だったのでしょうか。人類を古いサットヴァ時代から新たなタマス時代へと導き出したのは誰だったのでしょう。それはクリシュナでした。そして、これがクリシュナであったということを、東洋の伝説(☆1)によって以上にはっきりと私たちに示すことがどうやって可能でしょうか。その伝説ではクリシュナは神々の息子とされ、マハーデーヴァとデーヴァキーの息子として、驚異のもとに登場します、つまり彼は何か新しいものをもたらすということです。彼はーー先ほどの対比を続けるなら、人間が平日体のなかに知を求めるようにさせます。そして彼は日曜体すなわち蛇を殺します、彼は自分の親族から新たな時代へと入り込んでくるものに抵抗しなければなりません。こういう人は何か新しいもの、何か驚くべきものです。ですから伝説は、幼子クリシュナの誕生のときにもう周囲は驚異に満ちていたこと、そしてクリシュナの母の弟カンサが幼子クリシュナの命をねらったことを語ります。ここで幼子クリシュナの叔父のなかに古いものの入り込んでいます、それで新しいものをもたらす者、第三の時代を殺し、外的な人類進化のために古い関係を滅ぼすものをもたらす者であるクリシュナは、抵抗し、抗わねばならないのです。彼は、古いサットヴァ時代の守護者であるカンサに抵抗しなければなりません。そしてクリシュナを取り巻くきわめて重要な驚異のもとで伝説は語ります、巨大な蛇カーリが彼に巻き付いたが、彼は蛇の頭を踏みつぶすことができた、しかし蛇は彼のかかとを傷つけた、と。ここには、伝説はオカルト的な事実を直接再現している、と私たちが言い表すことのできるような何かがあります。伝説は直接再現しているのです。ただし、外的な説明にかかずらわってはなりません、伝説を理解するためには、正しい場所で認識との正しい関連において伝説を捉えなければならないのです。クリシュナは、没落していくアトランティス後第三人類期の英雄です。伝説はまたも私たちに語ります、クリシュナは第三宇宙期の最後に登場した、と。理解されればすべてはそのとおりなのです。クリシュナは、古い認識を殺し、認識を曇らせる者です。クリシュナは外的に現れてこれを行います。以前はサットヴァ認識のように人間を取り巻いていたものを、彼は暗くするのです。けれどもこのとき彼はバガヴァッド・ギーターにおいてはどのように立っているでしょうか。彼はこのとき、彼が奪ったものへのいわば調停として、通常の人間性にとって失われたものへと、ヨーガによっていかに上昇していくことができるか、ひとりの人間に指針を与えます。このように、クリシュナは世界にとって古いサットヴァ認識を殺す者であると同時に、ギーターの結末において私たちに現れてくるように、放棄された認識に再び導いて行こうとするヨーガの主です、今や外的に平日の服のように身につけているものを克服し、打ち負かすときにのみ、つまり古い霊(精神)状態にもどるときにのみ獲得できる古い時代の認識へと再び導くのです。これはクリシュナの二重の行為(Doppeltat)でした。クリシュナは一方で世界史の英雄として振る舞い、古い認識である蛇の頭をうち砕いて、人類に物質体に宿ることを強います、この物質体のなかでのみ、自我[Ich]は自由な自発的な自我として獲得されうるのです、これに対して、以前は人間を自我たらしめていたすべてのものが外から放射されてきていました。これが世界史的な英雄としてのクリシュナでした。このときクリシュナはひとりの人間にとって、帰依、沈潜の時のために、内的な発見のために、かつて失われたものを再現してくれる者でした。そしてこれは、昨日最後に私たちの魂に作用させたギーターの場面において私たちに壮大に姿を現したもの、アルジュナに自身の本質として姿を現したものです、ただ、これは外から見られたもの、始まりも終わりもなくあらゆる空間に広がっていると見られたものですが。そしてこの関係をさらに詳しく観察すると、私たちはギーターのある箇所に、そうでなくとももう私たちはギーターの偉大な力強い内容に驚嘆させられているのですが、この驚嘆がさらに再現のないものにまで大きくならざるを得ない箇所に至ります。ここで私たちが辿り着くのは、今日の人間にとってはしかしまさに説明しがたいものであらざるを得ないあの箇所、クリシュナがアルジュナに、アシュバッタ樹(Ashvatthabaum)つまりイチジクの樹(Feigenbaum)の性質であるものを、この樹は根を上に向け、枝を下に向けている、と言って明らかにする(☆2)あの箇所です、ここでさらにクリシュナはアルジュナに、この樹の葉の一枚一枚がヴェーダの書の頁であり、これらが一緒になってヴェーダの知をもたらす、と言うのです。ここは独特な箇所です。この箇所はいったいどういう意味なのでしょうか、根を上に、枝を下に向けて、葉はヴェーダの内容をもたらす生命の大樹へのこの示唆は。さて、ここで私たちはまさに古い認識へと入り込み、古い認識がどのように作用していたかはっきりと理解しなくてはなりません。ご存じのとおり現代の人間はいわば物質的器官を通じて伝達される今日の認識を知っているだけです。私たちがたった今示したような古い認識は、まだエーテル的な体のなかで獲得されました。人間がまるごとエーテル的であったというわけではありません、物質体のなかにあったエーテル体のなかで認識が獲得されたということです。古い認識は、組織化、エーテル体の配分によって獲得されたのです。ひとつ生き生きと思い描いてみてください、皆さんがエーテル体のなかで、蛇によって認識するとき、今日の人間にとっては世界に存在しない何かが世界に存在するのです。今日の人間は、自然にふるまうとき、周囲の多くのものを知覚しますね。けれどもちょっと世界を観ているひとを思い浮かべて下さい、観察する人間が知覚しないものがあります、脳です。観察するとき、いかなる人間も自分自身の脳を見ることができません。このことは、エーテル体のなかで観察するようになるやいなや不可能ではなくなります。ここでは通常見えない新たな対象が出現します、自分の神経組織を知覚するのです。と言っても、たとえば今日の解剖学者が神経組織を知覚するように知覚するわけではありません。神経組織は解剖学者が知覚するように見えるのではなく、そうだ、お前はまさにお前のエーテル性質のなかにいるのだ、という感情が得られるような見えかたなのです。今や、上を見上げれば、あらゆる器官に通じる神経が上部の脳のなかに集まっていくのが見えます。それはこういう感情をもたらします、これは上へと伸びていく根を上部に持ち、枝をすべての四肢のなかに降ろしていく樹だという感情を。けれども実際のところ、その樹は皮膚の内部にいる私たちのように小さなものと感じられるのではなく、巨大な宇宙樹(Weltenbaum)のように感じられます、根ははるかに空間の彼方に伸び、枝は下に向かう宇宙樹です。つまりひとは自らを蛇と感じ、いわば自分の神経組織を対象として見て、それについて、これははるか空間のかなたまで根を伸ばし、枝を下に向かって生やしている樹だ、という感情を持つのです。私が以前の講義で、人間はある意味で反転させられた植物です、と申し上げた(☆3)ことを思い出してください。バガヴァッド・ギーターのこの奇妙な箇所のようなものを理解するためには、こういったすべてが考慮されなければなりません。このとき、今日オカルティズムの深みから新たな手段で再び呼び起こされねばならないあのいにしえの叡智のゆえにひとは驚きを感じます。そしてこのとき、この樹が明るみに出すものが体験されます、その樹の、葉のなかに成長するものが体験されるのです、それは外から放射してくるヴェーダの知です。ギーターの驚くべき像(Bild)が私たちの前に置かれます、それは、根を上に、枝を下に伸ばし、知識を含んだ葉を持つ樹、そして樹に巻き付いた蛇としての人間そのものです。皆さんはもしかしたらすでにこの像をごらんになったことがあるかもしれません、あるいは蛇の巻き付いたこの生命の樹の像が皆さんの前に姿を現します。こういう古い事柄に目を向けると、すべてが意味深いのです。ここで根を上に、枝を下に向けた樹が私たちの前に姿を現します。この樹はパラダイスの樹とは逆の方向を向いていると感じられます。これには深い意味があります、と申しますのも、パラダイスの樹は、別の進化の出発点、その後古代ヘブライを経てキリスト教へと入っていく進化の出発点に立っているからです。このようにこの箇所では、私たちに、あのいにしえの知の特性全体への示唆も与えられているのです。クリシュナによって弟子のアルジュナに「この宇宙樹を人の眼に見えるようにする力は断念だ」(☆4)と明言されることで、私たちにこう示唆されます、人間は、人類進化のはるかな経過のなかで獲得したもの、私たちが昨日特徴づけたものすべてを諦めることで、あのえの知へと帰還する、という示唆です。これは何か栄光に満ちたもの、何か偉大なものとしてクリシュナがいわば分割払いとして、ひとりの(einzeln)特別な個別の(individuell)弟子アルジュナに与えるものです、他方においてクリシュナは文化の平日使用(Alltagsgebrauch)のために全人類からはこれを取り上げざるを得ませんでした。これがクリシュナの本質です。それではクリシュナがひとりの特別な弟子クリシュナに与えるものは、どのようなものとならねばならないでしょうか。それはサットヴァ認識とならねばなりません。そしてクリシュナが弟子にこのサットヴァ認識を与えれば与えるほど、その認識は叡智に満ち、澄み切った、平安な、熱狂を離れたものとなるでしょう。けれどもそれはいにしえの啓示された認識でしょう、崇高な者、すなわちクリシュナそのひとが語り、それからひとりの特別な弟子が答える言葉において、かくも驚くばかりに外から人間に迫ってくるものでしょう。このようにクリシュナはヨーガの主となります、クリシュナは人類の太古の叡智へと立ち返らせ、サットヴァ状態においてなお霊を魂的に覆っているものをも、ますますいっそう克服しようとします、まだ物質(Materie)のなかに下降していない太古の清浄な状態での霊を弟子の目の前に導き出そうとするのです。昨日披露されましたあのクリシュナとアルジュナとのやりとりにおいて、このようにクリシュナはただ霊においてのみ私たちの前に立っているのです。これとともに私たちの魂の前で、古い霊性の時代の最後のものであったあの時代が終焉を迎えます、古い霊性の出発点においては完全な霊の光を見え、その後、人間がその自我を、自立(Selbstaendigkait)を見出せるための、物質への下降が見えるのですが、このように私たちが追っていくことのできるあの霊性の時代の終焉です。霊の光が後アトランティス第四時代が到来するまで下降したとき、一種の相互関係、霊と外的に魂的なものとの間のラジャス状態となりました。ちょうどこの時期にゴルゴタの秘蹟が起こりました。この時代においてサットヴァ状態から描写することができたでしょうか。いいえ、それではこの時代に属するものは描写することができなかったでしょう。ラジャス時代からーーサーンキヤ哲学の用語を用いようとすればーー正しい意味で描写する者は、ラジャスから描写しなければなりませんでした。清澄さからではなく、パーソナルなもの[das Persoenliche]から、あれやこれやについての憤慨から、彼は描写せざるを得なかったのです。このようにパウロはラジャス状態から語ったわけです。テサロニケ書の、コリント書の、ローマ書の、言葉の数々が脈打っているのが感じられるでしょうーー怒りの気分のように、しばしばパーソナリティの特徴をおびたもの(Persoenlichkeitscharakteristik)のようにパウロ書簡から脈打ってくるものが、人間のラジャス状態から身をよじりつつ発してくるのをみなさんは感じられるでしょう。これがパウロ書簡の様式(Stil)と性格です。パウロ書簡はこのように登場してこなければなりませんでした、一方、バガヴァッド・ギーターは清澄に、個人(パーソナリティ)を離れて(persoenlichkeitsfrei)現れてこなければなりません、没落しゆく時代の最高の精華だからです、バガヴァッド・ギーターはしかし没落したものの代償をひとりの人間に与え、霊生活の高みへと彼を導きます。クリシュナは最高の霊の精華を自分の弟子に与えなければなりませんでした、なぜならクリシュナは人類に対しては古い認識を殺さなければならなかったからです。蛇の頭を踏み砕かなければならなかったからです。このサットヴァ状態はおのずと没落しました。それはもはや存在しなくなり、そのときサットヴァ状態で語ったであろう者も、ラジャス時代にはいにしえの物事についてしか語ることはできなかったでしょう。新たな時代の出発点に身を置く者は、今や標準となったものから語らなければなりませんでした。人間の本性が器官及び物質体を道具として用いる認識欲求を見出したことで、パーソナリティ(Persoenlichkeit)が人間本性のなかに引き入れられました。これがパウロ書簡から語りかけています。これはパウロ書簡におけるパーソナルな要素です。こうして、かつてあるパーソナリティが、物質的なものの闇として入り込んでくるものすべてに対して怒りの言葉を轟(とどろ)かせることになったのです。しばしばパウロ書簡においては怒りの言葉が轟いているからです。こうしてさらに、パウロ書簡においては、バガヴァッド・ギーターにおけるように、厳格に閉じられた線で、叡智に満ちた鋭い輪郭を持つ明晰さをもって語られることはできないということにもなります。バガヴァッド・ギーターにおけるように叡智に満ちて語られうるのは、人間が外的な営みからいかに自由になり、クリシュナと合一する霊のなかへといかに勝ち誇りつつ上昇するかが特徴付られるときです。このように、最高の魂の高みへのヨーガの歩みであるものが叡智に満ちて語られることができたのです。新しいものとして世界に登場したもの、内部における、単に魂的なものへの霊の勝利、これはまずラジャス状態からのみ叙述されうるものでした。そして、人類史にとって意味深くこれを最初に叙述する者は、その全情熱をもって叙述します、私はそれに関わったのだ、キリスト衝動の啓示に対峙したとき、この私自身が震えおののいたのだ、と人にわかるように。このときそれはパーソナルに(persoenlich)彼のところに近づいてきました、そのとき彼ははじめて、以来数千年を通じて作用することになるものを前にしたのです。そのとき彼はこれを前にして、彼の魂のあらゆる力がパーソナルに関わらずにはいられないというほどでした。ですから彼は、バガヴァッド・ギーターにおいて見られるような哲学的で叡智に満ちた輪郭を持った概念で叙述することをせず、彼がキリストの復活として叙述すべきものを、ひとが直接パーソナルに関わり合う何かとして叙述するのです。これはパーソナルな体験であるべきではなかったのでしょうか。キリスト教がきわめてパーソナルなものに浸透し、貫き灼熱させ、貫き活かす、こういうことがあるべきではなかったとでもいうのでしょうか。まことに、キリスト事件を最初に叙述する者はパーソナルにのみこれをすることができたのです。私たちは、ギーターにおいて、ヨーガによる霊的高みへの上昇に主音が置かれているのを見ます、そのほかのことは、単に付け足しとして触れられるのみです。なぜでしょう。クリシュナは指導に際して彼の特別な弟子に関わらなければならないからです、クリシュナが関わるべきはまさにこの特別な弟子であり、他の人間が霊的なものへの関係として外部に感じるものではないからです。ここでクリシュナは、弟子がそうなるべきものを描写します、そして弟子をますます高次のもの、ますます霊的なものにならせようとします。これは、ますますいっそう円熟した魂状態へと、したがってますますいっそう印象深い美の像へと通じていく叙述です。ですから、これはまた、結末になってはじめて、デーモン的なものと霊的なものとの対立が私たちに向かってくる、魂生活を美へと上昇させて生きることへのこのような対立にあって、何かが硬化する、ということでもあります、結末においてはじめて、私たちはデーモン的であるすべてのものの対立が、霊的であるすべてのものへの対立のなかに置かれるのを見出すのです。物質的なものが単にそこから語るもの、物質のなかに生き、死とともにすべては滅びると物質のなかにあって信じるもの、これらはすべてデーモン的です。とは言え、これは説明のためにのみそこにあるのであって、偉大な師が真に関わるべきものではありません、師は何にもまして、人間の魂の霊化に関わらなければならないのです。ヨーガに対立するものについてヨーガは付け足しとしてのみ語ることが許されているのです。パウロはまず第一に、全人類と、まさに暗黒の時代の幕開けにいる人類全体と関わらなければなりません。パウロは、この暗黒時代が人間生活に引き起こすものすべてに眼差しを向けなければなりません、彼はこの普遍的な闇の時代を、キリスト衝動として人間の魂のなかに小さな植物のように甦らそうとするものに対比させなければなりません。これもパウロの場合、あらゆる可能な悪徳、パウロが与えうるものによって打ち負かされるべきあらゆる可能な唯物主義が繰り返し指摘されるところに、明白に現れているのがわかります。パウロが与えうるものとは、小さな炎のように人間の魂のなかでようやく燃え始め、彼の言葉の背後に熱狂が、パーソナリティに担われた感情の啓示として意気揚々と言葉のなかに表出してくる熱狂があるときにのみ力を得ることができるものなのです。ギーターとパウロ書簡の叙述はこれほどかけ離れています。ギーターにおける清澄さ、無私の(unpersoenlich)叙述、しかしパウロ書簡においてはパーソナルなもの(Persoenliches)が言葉のなかに入り込まざるを得ないのです。このことが一方ではギーターに、他方ではパウロ書簡に、基調(トーン)を、様式を与えています。これはいずれの作品においてもそこここで、いわばどの行においても私たちの前に現れます。芸術的な完成はそれが成熟したときにはじめて何かを達成することができますが、発展の始まりにあるとき、それは何か混沌としたものとして現れてくるのです。これらすべてはなぜこうなのでしょうか。私たちがギーターの力強い冒頭に注目するとき、この問いは私たちに答えてくれます。この冒頭の特徴はもうお話ししましたね、私たちは、親族たちの軍が戦いで対峙しているさまを見ました、戦士が戦士に対峙するけれども、勝者と敗者は血縁であらねばならないことを見ました。私たちの前にあるのは、霊視性が結びついていた古い血の親和性から、まさに近代を特徴づける血の分化と混合への移行の時です。私たちは、人間の外的な身体性の変化とその結果生み出される認識の変遷と変化に関わらなければなりません。人類進化のなかに別種の混血が、血の別の意味が登場してくるのです。私たちがあの古い時代から新たな時代への移行を研究しようと思うなら、私の小著「私はまったく特別の液汁(ジュース)だ」をまたもや思い出しますが、私たちはこう言わなくてはなりません、古い時代の霊視は、血がいわば種族の内部にとどまっていたことに結びついていた、他方、新たな時代は種族の混合、混血に由来する、それによって古い霊視は滅ぼされ、物質体に結びついた新たな認識が到来したと。ギーターの冒頭で私たちに、外的なもの、人間の姿に結びついたものが示されます。サーンキヤ哲学はこのような外的な形態変化を好んで観察します、サーンキヤ哲学は、魂的なものをいわば背景にとどめておきます、魂は多数のまま単に形態の背後にあるのです。私たちはサーンキヤ哲学に一種の多元論を見ました。近代のライプニッツ哲学にこれを比較することができます。つまり、私たちがサーンキヤ哲学者の魂の身になって考えてみますと、彼のことをこう想像できます、つまり、彼は、ここに私の魂がある、これはその外的な体の形態への関係において、サットヴァ状態か、ラジャス状態、あるいはタマス状態のなかに現れると言うだろうと。ともあれこれらの形態をこの哲学者は観察します。この形態は変化します、もっとも重要な変化のひとつは、エーテル体の別の使用のなかに現れる、あるいは私たちが特徴づけたような血縁に関する移行によって現れる変化です。このとき外的な形態変化があります。魂がサーンキヤ哲学の観察するものによって触れられることはまったくありません。私たちが、古いサットヴァ時代から新たなラジャス時代への移行、その境目にクリシュナが立っているのですが、この移行の際に考慮されるものに注目したいなら、外的な形態変化でまったくじゅうぶんなのです。このとき考慮されるのは外的な形態変化です。時代が移り変わるとき、外的な形態変化が常に考慮されました。ペルシア時代からエジプト時代への移行の際、外的な形態変化はエジプト時代からギリシアーラテン時代への移行のときとは異なっていましたが、それはやはりひとつの形態変化には違いありませんでした。原インド時代からペルシア時代への移行もまた異なるものでしたが、やはりこれもひとつの形態変化でした。そうです、古アトランティスそのものからアトランティス後の時代へと移行が完了したとき、これもひとつの形態変化にすぎなかったのです。それは形態変化でした。そしてサーンキヤ哲学の規定のみを拠り所としてこの形態変化を追求することもできるでしょう、つまり単に、これらの形態のなかに魂はじゅうぶんに具現する、しかし形態変化はこの魂そのものには近づかない、プルシャは手つかずのままであると言うことで形態変化を追求することもできるでしょう。こうして、サーンキヤ哲学の概念とともに、サーンキヤ哲学を通して特徴づけられうる独特の種類の変化が得られます。けれどもこの変化の背後にはプルシャが立っています、人間ひとりひとりの個別の、個的な(individuell)魂的なものが立っています。これについてサーンキヤ哲学では単にこう言われるのみです。個別の魂的なものとしてプルシャはまさに、外的な形態に対してサットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナの関係にある、と。けれどもこの魂的なものは外的な諸形態に触れられることはありません。プルシャは諸形態の背後にあって私たちは魂的なものに注意を喚起させられます、そして、クリシュナがヨーガの主として教授するものにおいてその教えが私たちの魂の前に登場するとき、それはこの魂的なものへの絶えざる示唆なのです。たしかにそうなのですが、この魂はその性質によってどのようであるか、ということがここで認識として私たちの眼前に現れるのではありません。魂をいかに進化させるか、という導きが最高のものなのです、外的な形態の変化は魂的なもの自体の変化ではなく、余韻(Anklang)にすぎません。そして私たちはこの余韻を次のように発見するのです。人間がヨーガを通じて通常の魂段階から高次の魂段階へと上昇しようとするとき、人間は外的な営みから自由にならなければなりません、外的に行為し認識するものからますますいっそう解放されなければならず、人間は自分自身の観察者とならなければなりません。そのとき、外的なものに打ち勝って高まった彼の魂は内的に自由な状態となります。通常の人間の場合はこうなのです。けれども、秘儀参入して霊視的になった、見者となった(hellsichtig wird)ひと、そういう人間の場合は、そういう状態にとどまりません、外的な物質は彼に対峙しないのです。外的物質はそれ自体としてはマーヤー(幻影/Maya)です。外的物質が現実(リアリティ)であるのは、まさに自分の内的な道具(器官)を用いる人にとってのみです。物質の代わりに何が現れるでしょうか。それは、私たちがいにしえの秘儀参入を目の前に導き出すときに私たちを迎えます。日常においては物質(Materie)、プラクリティが人間に対峙しますが、一方、ヨーガを通じて秘儀参入へと進化してゆく魂に対峙するのは、アシュラたち(Asuras)の世界、デーモン的なものの世界です、人間が闘わねばならないアシュラ界です。物質は抵抗し、アシュラは、闇の勢力は敵となります。しかしこれらすべては本来余韻のなかにのみあり、いわばこのとき何かが魂的なもののなかからかすかに見え、私たちは魂的なものを感受し始めるのです。魂的なものがデーモンたちとの、アシュラたちとの闘いに入るとき、このときはじめてこの魂的なものは自分自身を霊的に(スピリチュアルに)知覚するのです。小さな規模では私たちにも向かってくるこの闘いを、私たちの言葉では、物質がその霊性において現れるときに霊(Geister)として見えるようになる何かとして表します。魂が秘儀参入する際、私たちが魂のアーリマンとの闘いとして知っているものが、まさに小さな規模で私たちに向かってくるのです。けれどもこれをこのような闘いとして把握することで、私たちはまさに魂的なもののただなかに立ちます。すると以前は単に物質的な霊にすぎなかったものが巨大なものに成長し、魂は強大な敵に直面します。ここで魂的なものが魂的なものに対峙し、個別の(individuell)魂は広大な宇宙においてアーリマンの王国に対峙するのです。ヨーガにおいて闘う相手は、アーリマンの王国の最低の段階です。しかし今や、私たちの意味において観察することで、アーリマン勢力との、アーリマンの王国との魂の闘いにおいて、アーリマンそのものが私たちに対峙します。サーンキヤ哲学は、外的な物質が優勢になるときの、魂のこの外的物質への関係をタマス状態として知っています。ヨーガを通じて秘儀参入する者は、単にこのタマス状態のなかにいるのみならず、ある種のデーモン的な力、参入者には物質がデーモン的な力に変わっていくのが観えるのですが、このデーモン的な力に対する闘いのなかにもいるのです。私たちの意味においては、魂の関係が、単に物質のなかの霊的なものに対峙しているときのみならず、純粋に霊的なもの、アーリマン的なものに対峙するときにも、私たちは魂を見ます。サーンキヤ哲学に従えば、ラジャス状態において物質と精神は均衡を保っています、ここでは一方から他方へと揺れ動きます、あるときは物質、あるときは霊が上になり、あるときは物質、あるときは霊が下になるといった具合に。こうした関係を秘儀参入へと導こうとするなら、古いヨーガの意味では、それは直接ラジャスの克服へと、サットヴァへと通じていくでしょう。私たちにとっては、それはまだサットヴァに通じていかず、そこで別の闘いが、ルツィファー的なものとの闘いが始まります。そして今や、私たちの考察にとっては、プルシャが私たちの前に立ちはだかるのです、サーンキヤ哲学では暗示されるのみのプルシャが。単に私たちがプルシャを暗示するというだけではなく、プルシャはアーリマンとルツィファーに対する戦闘地域のただなかに立っています。魂的なものが魂的なものに対峙しているのです。はるかな太古への展望のなかでプルシャはサーンキヤ哲学に現れます。私たちが深奥へと、まだアーリマン的なものとルツィファー的なものから区別されない、魂の本質のなかに入り込んでくるものへと入っていくとき、物質的ー実体的なものへの魂的なものの関係がサットヴァ、ラジャス、タマスのなかに得られるのみです。私たちが私たちの意味において事物を観察するとき、今や魂はアーリマンとルツィファーとの間で格闘しつつ激しく活動しています。これは、その完全な大きさにおいてはキリスト教によってはじめて観察されることができたものです。サーンキヤの古い教説にとっては、プルシャはいわばまだ手つかずのままにとどまっています。ここでプルシャがプラクリティをまとうときに生じる関係が描写されるのです。私たちはキリスト教的な時代へ、秘教的キリスト教の根底にあるものへと歩み入ります、そしてプルシャそのものに進入し、魂的なもの、アーリマン的なもの、ルツィファー的なもの、という三重のものに注目することで私たちはこれを特徴付けます。私たちは今や、その格闘に従って魂そのものの内的な関係に注目します。到来せねばならなかったものは、第四期の内部に与えられた移行期に置かれました、ゴルゴタの秘蹟によって刻印される移行期です。いったい当時何が起こったのでしょうか。第三期から第四期への移行の際に起こったことは、単なる形態変化によって特徴づけられうる何かでした。ところが今や、これ[ゴルゴタの秘蹟によって刻印される移行期に起こったこと]は、プラクリティからプルシャそのものへの移行によってのみ特徴づけられうる何か、次のように言うことで特徴づけられなければならない何かです、つまり、プルシャがいかにプラクリティから完全に解放されるかをひとは感じる、それをその内面性において感じる、と言うことで。人間は単に血の絆(きずな)からもぎ離されるばかりでなく、プラクリティから、あらゆる外面性から解き離たれ、内部においてそれを仕上げなくてはなりません。ここでキリスト衝動が入ってきます。これは全地球進化のなかに登場し得た最大の移行でもあります。このとき、魂の物質的なものへの関係において、つまりサットヴァ、ラジャス、タマスにおいていかなる状況であるのか、という問いがもはや単に生じるだけではありません。このとき魂はヨーガを通じてタマスとラジャスを超えて高まるために単にタマスとラジャスを克服しなければならないだけではなく、魂はここでアーリマンとルツィファーに対して闘わなければなりません、魂はここで自らに身をゆだねます。このとき、一方で崇高な歌、バガヴァッド・ギーターにおいていにしえの時代のために私たちに示されるものと、他方で新時代のために欠くことのできないものとを、どうしても互いに対決させる必要が生じてくるのです。崇高な歌、バガヴァッド・ギーターにおいて私たちはこのことに直面させられます。ここでは人間の魂が私たちに示されます。魂はその肉体性、覆いのうちに宿っています。これらの覆いを特徴付けることができます。これらは絶えざる形態変化のなかにあるものです。魂のそこに生きるありようそのままに、魂は通常のありようにおいてはプラクリティのなかに編み込まれ、プラクリティの内部に生きています。そしてヨーガにおいてこの魂は、覆われているものから自らを自由にし、覆われているものを克服します、そして霊の圏内に至り、これらの覆いから自らを完全に自由にするのです。キリスト教が、ゴルゴタの秘蹟がはじめてもたらしたものを、私たちはこれに対置します。ここでは魂が単に自らを自由にするということだけでは十分ではありません。と申しますのも、魂がヨーガを通じて自由になれば、魂はクリシュナの姿を目にすることができ、クリシュナはその威力のすべてをもって魂の前に立つでしょうが、そのクリシュナというのは、アーリマンとルツィファーがその猛威のすべてを獲得する前のクリシュナであったのですから。このときはまだ、私たちが昨日描き出しましたように崇高なに姿を見せたクリシュナのかたわらに、クリシュナの左右にアーリマンとルツィファーが立っているということを、善き神性が覆っているのです。人間がまだ物質のなかに下降していなかったので、古い霊視にはこれが可能でした。もはや覆うことはできません。魂が単にヨーガを遂行するなら、魂はアーリマンとルツィファーに直面し、これらとの闘いを受け入れなければならないでしょう。そして魂は、単にタマスとラジャスのみならずアーリマンとルツィファーを打ち負かしてくれる盟友(Bundesgenosse)を持つときにはじめて、クリシュナのかたわらに身を置くことができるでしょう。これがキリストなのです。このように私たちは、英雄クリシュナが登場した当時、体的なもの(Leibliches)がいかに体的なものから自らを解き放ったか、あるいはこうも言えるかもしれません、いかに体的なものが体的なもののなかで暗くなっていたかを見ます。しかし他方において私たちは、魂が自らに身をゆだね、闘いにさらされるもっと圧倒的なありさまも見ます、ゴルゴタの秘蹟が起こった時代に魂の領域でのみ見えるようになる何かを見るのです。誰かが次のように言うであろうことも私はじゅうぶん想像できます、メンシェントゥム(人間存在、人間性、人間の本質(Menschentum)の最高の理念、メンシェントゥムの最高の完成がクリシュナにおいて我々に見せられるときより以上に圧倒的ものなどあり得るだろうか、と。もっと高次のものが存在しうるのです。そしてそれは、私たちが単にタマスとラジャスに対抗するだけでなく、霊のなかの勢力にもはじめて対抗してこのメンシェントゥムを獲得せねばならないとき、私たちの側につき私たちに浸透しなければならないものです。それがキリストなのです。そして、誰かがクリシュナ表現にのみ最高のものを見たいと思うなら、もっと偉大な何かを見ないのはその人自身がそうできないからです。さらに、キリスト衝動がクリシュナ衝動に優ることは、クリシュナ衝動の場合、クリシュナに受肉した存在がクリシュナの人間性[Menschheit]全体に受肉したという点にも現れています。このときクリシュナはヴィスヴェーダの息子として生まれ、成長します。けれども彼の人間性全体にあの最高の人間的衝動が体現されます、私たちがまさにクリシュナとして知っている衝動が受肉するのです。私たちがルツィファーとアーリマンに対峙するときにーーこのように対峙することはようやく始まったばかりです、例えば私たちの神秘劇に描写されているすべてのことは、未来の人間にとって魂的に把握できるものでしょうからーー私たちの側に立つ衝動、これは人間性自体がその衝動にとってはあまりに小さいものでなくてはなりません、ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が宿りうるような肉体にさえも直接宿ることはできず、このような肉体でもその進化の高みに達したときにのみ、つまりこの肉体が三十歳に達したときにのみ宿ることができたようなそういう衝動なのです。ですから、キリスト衝動は生涯全体を満たすことはなく、人間の生のもっとも成熟した期間のみを満たすのです。ですからキリスト衝動はイエスの肉体に三年しかとどまりませんでした。キリスト衝動がより高次のものであることはさらに、キリスト衝動は、クリシュナ存在が誕生のときからそうであったようには人間の体のなかに直接生きることができないと言う点にも現れています。このクリシュナ衝動に対するキリスト衝動の卓越がさらにいかに示されるか、これについてはさらにお話ししていかなければならないでしょう。けれども今までに特徴づけられたことから理解し感じ取っていただけるでしょうが、それは事実、私たちの前に現れてくる偉大なギーターとパウロ書簡との関係のようなものであらざるを得ないのです。つまり、ギーターの描写全体は、それが過ぎ去った多くの時代の成果であるために、それ自体完全でありうること、そしてパウロ書簡は、それが次の、とは言えもっと完全なもっと包括的な時代への最初の萌芽であるために、ずっと不完全なものであらざるを得なかった、ということです。このように、宇宙の経過を呈示するひとは、なるほどギーターに対してパウロ書簡の不完全なところ、これは非常に重要な不完全さで、もみ消されることがあってはならないのですが、この不完全さを認めなくてはなりません、ただ、なぜこのような不完全さがそこになければならないのかも理解しなくてはならないのです。□編註☆1 東洋の伝説:太古のインドの神々と英雄たちの伝説は紀元前500年から紀元後500年の間にいわゆるプラーナ[puranas]に書き留められた。膨大な18篇のプラーナは全インド神話を含む。プラーナの多くはヴィシュヌ神とそのさまざまな化身に捧げられている。ヴィシュヌークリシュナ伝説はバガヴァッタ・プラーナで語られる。☆2 クリシュナがアルジュナに、アシュヴァッタ樹[…]の性質であるものを[…]明らかにする:第10の歌の冒頭。*アシュヴァッタ樹は通常菩提樹とされる(yucca)。☆3 以前の講義で、人間はある意味で反転させられた植物です、と申し上げた:シュタイナーの連続講義『神殿伝説と黄金伝説』(1905年5月29日ベルリン GA93)、『キリスト教の秘儀』(1907年2月16日ライプツィヒ GA97)その他を参照のこと。☆4 […]力は断念だ:第15歌ー3参照(字義通りではない)。人気ブログランキングへ
2024年04月24日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)第三講/1912年12月30日、ケルン (2000.7.29登録/2000.11.26一部改訳) 詳細 先日来の議論において、第三のヴェーダの方向のほかに、二つの世界観ニュアンス[Weltanschauungsnuancen]、つまりサーンキヤ哲学とヨーガが私たちの前に姿を現しましたが、この二つの世界観ニュアンスは、私たちがこれに正しく目を向けるなら、世界観が人間の魂にとってまさに運命でありうることを、きわめて繊細な意味で私たちに示すことのできるものです。知識、理念における認識、魂的生が表れてくる世界の諸現象についての洞察というかたちで人間に与えられうるものすべてを、私たちはサーンキヤ哲学の概念に結びつけることができます。そして、そのような認識、科学的な形で理念のなかに表現できるそのような世界観のうち、標準的人間のためにいわばこの現代に残されてるものを、たとえそれがサーンキヤ哲学よりもはるかに霊的に低い位置にあるとしても、私たちがそれをこのような認識ニュアンスとみなすなら、私たちはこう言うことができるでしょう、サーンキヤ哲学に対して運命的に感じ取られうるものは、この現代においてすら、なおも運命的に感じ取られうるのだ、と。ーーとはいえ運命的に感じ取るのは、このような世界観ニュアンスに一面的に帰依するひと、私たちがそのひとについて、彼は一面的なしかたで学者あるいはサーンキヤ哲学者だ、とある意味で言えるようなひとのみでしょう。ーーこのようなひとはどのように世界に向き合うでしょうか。彼は魂においてどのように感じることができるでしょうか。これは結局のところ経験的にのみ答えられる問いかけです。ある魂がある世界観ニュアンスにこのように一面的に帰依するとき、いま特徴づけられた意味で保持されてきた世界観を持つことに全力を尽くすとき、このような魂に何が起こるこかを知らなければなりません。このときこういう魂は、世界(宇宙)の諸現象の形態のひとつひとつにまで入っていくことができ、宇宙のなかに力として姿を現し、宇宙のなかで形態として流転しているすべてに対して、いわばきわめて豊かな理解をすることができます。ある魂がこのようにのみ宇宙に帰依するとしたら、そうですね、ある受肉において自分の能力とカルマを通じて、霊視的な力がそれを貫き輝いているにせよいないにせよ、とりわけ理知[Vernunftwissen]をもって世界の諸現象に精通する機会のみを見出すとしたら、こういう魂の方向はどんな場合にも、魂生活全体のある種の冷たさに通じていくでしょう。さらに魂の気質の作られようによって、こういう魂は多かれ少なかれ世界の諸現象に対して満足されないイロニーの性格を帯びるか、あるいは、現象から現象へと歩んでいくこのような知に対する全般的な無関心、不満足といった性格を帯びるか、であることがわかります。単に学者的なしかたでのみ刻印づけられた知識が近づいてくるとき、このように現代でも多くの魂が感じることのできる冷たさ、このとき魂を襲う不毛さ、心情における不満足、これらすべてが、今示されたような魂方向に目を向けると私たちの魂の前に現れてくるのです。自分でもそれとわからず、このような魂は自らを荒廃したように感じるでしょう。全宇宙を手に入れても、自らの魂について何も知らず、何も感じず、何も感受せず、何も体験できないとしたら、そのなかがからっぽのままだとしたら、私は何を持っているのか!--そのような魂はこう言うでしょう。宇宙の全き知識を詰め込みながら自分自身の中は空虚である、というのは辛い運命でしょう、これは宇宙の現象を失っているような、内部においてそれ自身価値あるものとなりうるものすべての喪失のようなものでしょう。ある種の博識さ、抽象的な哲学を携えて私たちの前に登場する多くの人たちのなかに、私たちはたった今描写されたことを見出します。これらの魂が、自足せず自らの空虚を感じつつ、自分の多くの知識に興味を失い、悲しげにやってくることによって私たちはこれを見出します、あるいは誰かが抽象的な哲学を携えてやってきて、神性や宇宙論(コスモロギー)、人間の魂の本質について抽象的な言葉で私たちに情報を提供することができるときに私たちはこれを見出し、そしてやはりこう感じるのです、頭でっかちだ、心が加わっていない、心情がからっぽだ!と。ーーこのような魂に向き合うと、うすら寒い風が吹いてきます。サーンキヤ哲学はこのように運命となり得ます、自分自身としては失われた存在、自らに関して何も持たず、その個について宇宙が何も持つことができないような存在であることに人間をなじませるような運命となることができるのです。今度は逆に、一面的にヨーガを通じて進化することを求め、いわば世を捨てていて、何かを外界から認識することを退ける魂を考えてみましょう。そういう魂は言います、宇宙がどのように成り立っているかを経験することなど私にとって何になろう。私はすべてを私自身から求めたいのだ、私の力を開発することで自分で前に進みたいのだ、と。ーーこういう魂はもしかすると自分の内部で暖かく感じるかもしれませんし、しばしば、何か自分のなかに閉じたもの、自足しきったものに思われるようすで私たちの前に登場するでしょう。そうかもしれません。長い間にはこういう魂にとってもそういう状態は続かず、結局こういう魂は孤立にさらされます。隠遁状態になったこのような魂が魂生活の高みを目指し、それから世界へと歩み出て行っていたるところで世界の現象に突き当たり、それでも、こういう世界の現象すべてが私に何の関わりがあろう、ともし言うとすれば、ーーそして顕現のすばらしさによそよそしく対峙し、それを理解しないがゆえに、やはり孤立を感じるとしたら、この一面性もまた悲惨な運命となるでしょう。何としばしばこういう魂にお目にかかることでしょう!あらゆる力を自分自身の存在の進化に用い、まるで一切共有するのはごめんだとばかりに冷淡に無関心に同胞の傍らを通り過ぎるような人たちと、何としばしば知り合うことでしょう。こういう魂は自分は世界を失なっていると感じますが、こういう魂は他の魂にとって極端にエゴイスティックに思えるでしょう。このような生の関連に注目してはじめて、世界観から運命的なものが感じられます。そして私たちがギーターのなかにもパウロ書簡のなかにも見出すこれほど偉大な表明、これほど偉大な世界観の背景に、この運命的なものが姿をみせるのです。ギーターの背後にも、パウロ書簡の背後にも、わずかに私たちがその背後を覗いて見さえすれば、私たちにとって直接運命的となるものが私たちを見つめている、と言えるかもしれません。パウロ書簡からはどのように運命が私たちを見つめているのでしょうか。パウロ書簡においてしばしば私たちは、魂がキリスト衝動との結び付きを見出し、正しく理解されたキリストの復活を魂が自らのうちに受け容れるとき魂にもたらされうるものによって、いわゆる信仰の正しさにおける魂進化の至福は、外的な営みの価値のなさに屈することはないのだ、と示唆されていることに気づきます。パウロ書簡において私たちがこれに向き合うとき、他方で私たちは、このとき人間の魂がいわば自分自身のなかに追い返されるのを感じます、このとき人間の魂は外的な営みから遠ざかり、信頼できるのはまさに恩寵と信仰の正しさのみだと感じます。次いで外的な営みが来ます。それは世界のなかに現にあるのであって、私たちがそれをないものと宣言することによってそれを遠ざけるわけにはいきません。私たちは世界においてこれにぶつかります。そして運命はまたもその途方もない大きさのすべてで私たちに向かって鳴り響きます。事態をこのように把握するときにのみ、このような人類への啓示の強大さが目の前に現れるのです。さて、この二つの人類への啓示、バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡は、外面的には互いにまったく異なっています。そしてこの外面的な違いが、これらの作品のどの部分においても魂に働きかけてくる、とでも申し上げたいのです。私たちが驚嘆しつつバガヴァッド・ギーターの前に立つのは、単に少し前に議論しました理由からだけではありません、バガヴァッド・ギーターが詩的にこれほど偉大に力強く私たちを引きつけ、人間の魂の気高さがどの詩節からも私たちに向かって輝きを放ち、ここでクリシュナあるいは彼の弟子アルジュナの口から発せられることすべてのなかに、人間の日常的な体験を越え、あらゆる熱狂的なものを越え、激情と関わるもの、魂を動揺させるものすべてを超越して在るもののような何かを感じるがゆえに、私たちは驚嘆しつつその前に立つのです。たとえギーターのほんの一部分でも私たちに作用させるなら、魂の平安、清澄、平静、冷静及び落ち着きの領域、叡智の雰囲気のなかに引き入れられます。そして私たちはいたるところで、ギーターを読むことでもう私たちの人間性がまるごと高い段階に引き上げられるように感じます。私たちはいたるところでこう感じます、ギーターのなかの崇高な神的なものを正しく私たちに作用させようと思うなら、私たちはあまりに人間的なもののいくつかから自らを自由にしていなければならないと。パウロ書簡の場合はすべてが異なっています。詩的な言葉の崇高さが欠け、ギーターの冷静さすら欠けています。私たちはこのパウロ書簡を手に取り、これを私たちに作用させます、すると、パウロ書簡から、パウロの口から、起こったことについての熱狂的に憤激したありようが私たちにむかって吹きつけてくるのをさまざまに感じます。時折その語調はひどくやかましいと言えるほどです。パウロ書簡においては、あれこれのことがさまざまに非難され咎められ、罵られます。そして、キリスト教の偉大な概念について、恩寵、律法性、ユダヤ教(モザイスムス/Mosaismus)とキリスト教の違い、復活、これらについてここで述べられている事柄、これらはすべて、いわば哲学的であろうとし、哲学的定義であろうと欲しながら、どの文にもパウロの特性が入り込んで響いているためにそのようにならない語調で述べられているのです。私たちはどの文においても、興奮している人か、あるいはあれやこれやのことをしでかした他のひとびとについて義憤にかられてまくし立てる人が話しているということを忘れることはできません、あるいは、彼は個人的に参加(アンガージュ)している(engagieren)、彼はこの理念のプロパガンディストだという印象のもとにいると私たちが感じるようにキリスト教の最高の概念について話しているということを。パウロの書簡において彼があれこれの教区民に書いていることを私たちが読むとき、そのパウロによく似た個人の性格の心情が語っている、というようなことがギーターを読む場合どうやって私たちに起こりうるでしょうか、パウロは書いています、私たちはが何とキリスト・イエスを支持したことか。思い出しなさい、私たちはいかに誰にも苦労をかけなかったか、誰にも苦労をかけないためにいかに私たちが日夜働いたか、と。これらはすべて何と個人的であることでしょう。個人的なものの息吹がパウロ書簡を貫いています。ギーターにおいては、すばらしく純粋な領域、いたるところで超人間的なものと境を接していて、時おり超人間的なもののなかにも入り込んでゆくエーテル領域が見出されます。つまり外的に見て顕著な違いがあるのです、それで私たちはこう言うことができます、かつてヒンドゥー教に運命の力に満ちた世界観の合流を与えた偉大な歌を通じて、このギーターを通じて、気高く純粋な何か、個人的でない何か、平静な、熱狂と激情を離れたものがヒンドゥー教徒たちに与えられた、一方、キリスト教の原典、パウロ書簡が私たちに見せるものは、まったく個人的でしばしば激情にあふれ、あらゆる平静さを欠いた性格を持っている、このことを認めたくないとしたら、それはきわめて盲目的な偏見だろう、と。真理の前に心を閉ざしてこういう事柄を認めないことによってではなく、これを理解し、正しい意味でこれを把握することによってひとは認識に至るのです。したがって私たちはこの対比を青銅の板のように以下の考察の前にずっと立てておくことにいたしましょう。すでに昨日注意を向けましたように、ギーターにおいてはクリシュナによってアルジュナへの重要な教えが与えられます。さてそもそもクリシュナとはいったい誰なのでしょうか。この問いはとりわけ私たちの興味をひくに違いありません。すでに私がおりにふれてあちこちでお話ししましたこと、つまり、以前の時代においては命名や名づけのしかた全体が今とは異なっていた(☆1)ということをよく知っていなければ、クリシュナが誰であるかということも理解できません。現在は根本的に、あるひとを名づけるやりかたは何かきわめて恣意的なものです。と申しますのも、あるひとがあれこれの市民的な名前であること、ミュラーあるいはシュルツェという名前であることを知っても、今日の時代ではそのひとについて結局多くを知ることはないでしょうから。また、あるひとが宮廷顧問官か枢密顧問官か、あるいはこの種の何かであることを知っても、結局そのひとについて多くを知っているわけではありません。これも誰しも認めることでしょうけれども。つまりこのような社会的序列の名称を知ったところでこの人物について多くを知っているわけではないのです。さらにまた、あるひとを、「閣下」あるいは「猊下」を付けて呼びかけるべきか、あるいは単に「様」とのみ呼びかけるべきか知っているとしても、やはりそのひとについて多くを知っているのではありません、要するに、こういう呼びかけすべては、当の人物について多くを語っているわけではないのです。そして、私たちが今日選んでいる他の名称にしても、とりたてて多くを意味しているわけではないことは、皆さんにも容易に納得していただけるでしょう。古い時代においては違っていました。私たちがサーンキヤ哲学の名称を取るか、私たち独自の人智学的名称を取るか、私たちはこの両者を出発点として、以下の考察を試みることができます。サーンキヤ哲学の意味において、人間は粗雑な物質体、精妙なエレメント体ないしエーテル体、諸感覚の規則正しい力を含む体、マナスと呼ばれるもの、アハムカーラ等々から成り立っている、ということを私たちは聞きました。その他の高次の部分を考察する必要はありません、一般的にはそれらはまだ形成されていないからです。けれども今、いずれかの受肉において私たちに姿を見せる人間を考えてみますと、こう言うことができます、人間は互いに異なっている、そのためある人間の場合には、エーテル体のなかに現れてくるもののみが強く現れ、また別のひとの場合は諸感覚の規則正しさのなかにあるものがより多く現れ、第三のひとの場合は内感覚が、第四のひとの場合はアハムカーラが多く現れる、と。あるいは私たちの用語で言うならば、私たちは感受魂の力が優勢に働いている人間を見出す、悟性魂あるいは心情魂の力が優勢に働いている別の人間を見出す、意識魂の力が前面に出てきているまた別の人間を見出す、そして、マナスその他によってインスピレーションを与えられることにより何か別のものが働きかけているさらにまた別の人間を見出す、ということです。これらは、ひとりの人間が示すありよう全体によって与えられる差異です。この差異によって人間の本質そのものが示唆されます。現代にあっては、容易に理解できる理由から、人間の名づけがこのような意味で現される本質にしたがって選ばれるということはありません。と申しますのも、今日人類の広く行き渡った心情において、たとえば、現在の人類周期において人間が到達しうる最高のものは、アハムカーラのかすかな兆しであると言われるとしたら、誰もが、自分はその本質においてきわめてはっきりとアハムカーラを表していると信じて疑わないでしょう。そして、まだそうではない、そのひとの場合は低次の部分が優勢なのだと言葉で表現されるとしたら、そのひとの気持ちを傷つけることでしょう。古代においてはそうではありませんでした。当時、人間は本質的なものにおいて名づけられていました。とりわけそのひとを他の人類から引き上げ、もしかすると指導者の役割さえ与えるというときは、まさにその特徴を与えられた本質を考慮するというかたちでその人間の名づけが行われたのです。古代において、次のような人間が登場したとしましょう、包括的な、真に包括的な意味でマナスを発現させ、なるほど自らのうちでアハムカーラを体験したけれども、これを個的な要素としていっそう後退させ、外部への効果のために、内感覚を、マナスをよく働かせた、そういう人間がです。古代のより短い人類周期の法則にしたがって、こういう人間は、このような本質を示すことができた人間はめったにいなかったでしょうが、偉大な立法者、大きな民族の指導者であらねばならなかったでしょう。それで人々は彼を他の人間と同じ名で呼ぶことに満足せず、その突出した特性にしたがって彼をマナスの担い手(Manas-Traeger)と呼び、他のひとを単に感覚の担い手(Sinnes-Traeger)と呼んだのです。人々はこう言ったでしょう、このひとはマナスの担い手、このひとはマヌ(Manu)だと。ですから、あのいにしえの時代における名づけに向き合うとき、私たちはそのなかに、人間を成り立たせているもの(Organisation)のうちきわめて突出した部分、まさにそのひとにあってしかるべき受肉のなかに現れている部分にしたがってその人間を特徴づける何かを見なければなりません。ある人の場合、とりわけ次のようなことが現れていたとしましょう、そのひとは自らのうちに神的なインスピレーションを感じ、認識や行為をなすにあたって外界が感覚を通じて与えるものや脳に結びついた知性が語ることにしたがってのみ決定するのを拒み、いたるところで彼に語りかける神的な言葉に耳を傾け、彼から語りかける神的実質の預言者となったということが。こういう人間は神の子(Gotessohn)と呼ばれたでしょう。そしてヨハネ福音書においてはなお、その最初の章の冒頭でただちに、かつてそうであったひとたちが神の子らと呼ばれています(☆2)。けれども本質的なことは、こういう重要なことが表現されるとき、ほかのことはすべて無視されたということです。つまり、ふたりの人間に出会ったとしましょう、ひとりは感覚を通して世界を自分に作用させ、脳に結びついた知性で世界について熟考していたふつうのひとであり、もうひとりは神的な叡智の言葉が輝き入っているようなひとであったとしましょう。すると古代の心情の意味でこう語られたことでしょう、ひとはこう言った、こちらの人間は人間である、彼は父と母より生まれ、肉により生み出された、と。もうひとりの人間、神的な実質の告知者であった人間の場合は、感覚と脳に結びついた知性で世界を観察する最初の人の場合のように通常の伝記に入り込んでくるようなものは考慮されなかったでしょう。このような伝記を書くなどということは、後者の場合愚かしいことだったでしょう。と申しますのも、彼が肉の体をまとっている、ということはたまたまのことにすぎないのであって、人々が注目していた本質的なことではなく、いわば他のひとたちに姿を表すためのものにすぎなかったからです。ですからこう言われるのです、神の子は肉によりて生まれない、神の子は純潔に、霊より直接生まれたと。すなわち、神の子の場合重要なこと、人類にとって価値があることは、それが霊に由来するということです。古い時代にはこのことだけが強調されました。ある種の秘儀参入の弟子たちの場合には、人間の性質の高次の要素を有するために重要であると認められた人物に対して、通常の日常的状況ばかりに留意するような通俗的な意味での伝記を書くなどということは最大の罪であったことでしょう。まだわずかなりともあのいにしえの時代の心情のいくばくかを残しているひとは、今日たとえばゲーテ伝に書かれているようなことはきわめてばかげたことだと思うのです。さて、古代の人類がこのような感受性、このような感情を持って生きていたと想像してみますと、内部で主としてマナスが生きているマヌのようなひとはめったに現れない。そういうひとは登場することができるまで非常に長期間待ち続けなければならないという感情にこの古代の人類が浸されていたであろうことも理解できます。今、私たちの人類周期において人間における最も深い本質として生きることができるものを眺めてみるとき、自らを魂の高みへと上昇させてゆくことのできる秘密の力についていかなる人間も予感しうるものを眺めてみるとき、ほかの人間の場合素質としてのみ存在するものが、非常にまれなケースにおいて、一度ある人間存在の本質的な部分となる、つまりその時々に登場し、他の人間たちの指導者となり、あらゆるマヌたちより高く、その本質にしたがってどの人間にも入り込んでいるけれども、現実の外的な人格としてはある宇宙期(Weltenalter)にただ一度だけ出現するような、そういう人間存在の本質的な部分になるということを見はるかし、思い描いてみるとき、そしてつまり私たちがこのような概念を作り出すとき、そのとき私たちはクリシュナの本質に近づいていくのです。クリシュナは人間一般です、彼は人類そのもの、ひとつの本質と解される、ほとんどこう言ってよいでしょう。けれども彼は抽象ではありません。今日、人々が人類一般について語るとき、彼らは抽象論者としてそれについて語ります。通常はまったく感覚世界に捕らわれている今日にあって、私たちにとって抽象的存在は普遍的な運命となっています。人間一般について語られるとき、まったく生きていないぼやけた概念が持たれます。クリシュナについて人間一般についてのこととして語るひとたちは、これは今日それについて語られるとき目につくあの抽象的な理念だ、とは言いません、そうではなく、そうだ、この存在はなるほどその素質にしたがってあらゆる人間のなかに生きているけれども、ひとりの人間としてもどの宇宙期にも一度出現し、人間の口を通して語るのだ、と言います。ただし、この存在において重要なのは、外的な肉的なものではなく、精妙なエレメント体でもなく、諸感覚器官の力でもなく、アハムカーラ及びマナスでもありません、この存在において重要なのは、ブッディとマナスのなかで、大いなる普遍の宇宙実質、宇宙を貫いて生き生きと活動する神的なものと直接関わり合っているものなのです。私たちがアルジュナの偉大な師クリシュナのなかに見出すことのできる存在たちは、人類の指導のためにその時々に出現しました。クリシュナは最高の人間的叡智を、最高の人間性(メンシェントゥム/Menschentum)を教えます、しかもそれを彼自身の本質として教え、逆にまた、それがどんな人間の性質のなかでも親和性をもって琴線に触れるように教えます、なぜならクリシュナの言葉のなかにあるすべては、素質においてはどんな人間の魂のなかにも見出されるからです。このように人間は、クリシュナを仰ぎ見ることで、同時に自分自身の最高の自己(Selbst)を見上げました、しかし同時に別のものも見上げます、別の人間のように彼の前に立つことができ、そのなかで彼が別のもののなかでのように、その素質においては彼もそうであるけれどもやはり彼とは別人であるものを同時に尊敬する、そういう別のもの、神が人間に関わるように彼と関わるものをも見上げるのです。私たちは、クリシュナとその弟子アルジュナとの関係をこのように思い描かねばなりません。すると、ギーターから私たちに向かって響いてくる基調音も発せられます、あたかもいかなる魂をもとらえ、いかなる魂のなかにも響き入ることができるかのように鳴り響き、まったく人間的な、親しく人間的な、いかなる魂も、偉大なクリシュナの教えに耳を傾けるという憧れに親しみを感じないなら自責の念にかられざるを得ないと感じるほど親しく人間的であるあの基調音が。他方では、かくも平静に、かくも激情も熱狂もなく、かくも気高く聡明に、すべてが私たちに現れてきます、なぜなら、どの人間の性質のなかにもある神的なものであるけれども、人類進化のなかに神的ー人間的な本質として一度肉体をもって現れる最高のものが語っているからです。そしてこれは、この教えは、何と崇高であることでしょう!この教えは実に崇高であって、このギーターはバガヴァッド・ギーターつまり崇高な歌という名を担うにふさわしいものです。まず最初に、昨日の講義ですでに話題にのぼりました偉大な教えが、崇高な言葉で、崇高な状況から私たちに向かって現れてきます、宇宙において流転するもの、そして生成と消滅、誕生と死、勝利あるいは敗北が外的に現れるような形態のなかで流転していくものすべて、このすべてのなかに、移ろわぬもの、永遠のもの、持続するもの、在り続けるものが顕われている、そして、宇宙を正しく観ようとする者は、移ろうものからこの移ろわぬものへと貫き通って行かなければならないという教えが。これは、すでにサーンキヤを通じて、つまりすべての移ろうもののなかの不滅性についての思慮、背後で死の門が閉ざされるとき、敗北した魂も勝者の魂も、神の前にあっては同じである、ということについての理性的な思慮を通じても、私たちに姿を現します。けれどもクリシュナはさらに弟子アルジュナに、魂は別の道によっても日常の見かた(Schaue)から離れて導かれうると語ります、それはヨーガによるものです。魂が敬虔になることができれば、それは魂進化の別の面です。一方の面は、現象から現象へと進み、霊視的なものに照らされたあるいは照らされない理念能力をいたるところに適用する、という面です。もう一方の面は、外的世界からあらゆる注意をそらし、感覚の門を閉ざし、理性と知性が外界について語りうるすべてのものを閉ざし、通常の生活のなかで経験したものとして思い出すことのできるすべてに対してあらゆる門を閉ざし、自らの内部に入っていってしかるべき行により自分自身の魂のなかに休らっているものを取り出し、最高のものと予感できるものに魂を向け、帰依の力により自らを高めようと試みる、そういう面です。これが起こるとき、ひとはヨーガを通じてますます高く上昇します、まず肉体的な道具を用いるときに到達できる高次の段階に至り、あのさらに高次の段階に至ります、あらゆる肉体的な道具から自由になっていわば肉体の外部で人間を成り立たせている高次の部分のなかに生きるときにひとはその高次の段階で生きるのです。このように生のまったく異なる形態へと上昇して生きていきます。生の現象と生の活動は霊的に、スピリチュアルになります。ひとはますますいっそう自身の神的存在に近づいていき、自身の存在を宇宙存在へと拡大し、人間を神へと拡大します、自身の存在への個的な限定をなくし、ヨーガを通じて一切へと上昇しながら。それから、偉大なクリシュナの弟子が何らかのしかたでこの霊的な高みに昇っていけるための手段が知らされます。ここでまず、人間が通常の世界でなすべきことの間が区別されます。それにしてもこれは偉大な状況です、この状況をもってまさにギーターがこの区別を論究してみせるのです。アルジュナは血縁の者たちと闘わねばなりません。これは彼の外的な運命です、これは彼の働き、彼のカルマ、これは彼がまずこの状況において直接行わねばならない行為の総計です。この行為において彼はまず外的人間として生きます。けれども偉大なクリシュナは彼に教えます、行為というものは自然の進化と人類の進化の外的な経過のなかで必然的なものとして生じるので、人間は行為してはじめて知恵あるものとなり、神的なもの移ろわぬものと結びつくのだ、しかし賢者はこれらの行為からも自らを解き放たねばならないと。賢者は行為をなします、けれども彼のなかには、同時にこれらの行為に対して傍観者のようである何かがあるのです、これらの行為に関与しないもの、私はこの営みを為す、けれどもまったく同様に、私はこれを起こるがままにさせると言うこともできるだろうとそのとき言うものが。ひとは、自らが行うことに対して、あたかも別人がそれを行っているかのように立つことによって、そして、その行為がもたらす喜びあるいはその行為が引き起こす悲しみにも心を動かされないことによって、賢者となります。いわば偉大なクリシュナは弟子アルジュナにこう言うのです、お前がこのパーンドゥの息子たちの戦列に立つにせよ、お前が向こうのクルの息子たちの戦列に立つにせよ、お前が何をするにせよ、お前は賢者としてパーンドゥ族からもクル族からも自らを解き放たなければならない。そのことがお前を動揺させないなら、お前があたかもひとりのパーンドゥであるかのようにパーンドゥの行いを為すことができるとしたら、あるいはあたかもお前がひとりのクルの息子であるかのようにクルの行いを為すことができるとしたら、つまりお前がこのすべてを超えて立つなら、お前がお前自身の行為によって動揺しないなら、お前がお前自身の行為において、風から護られた場所で静かに燃え、外部のものに触れられない炎が燃えるように生きるなら、魂が自身の行為によって動揺することがそれほど少なく、その行為の傍らに内的に静かに生きるなら、そのとき、魂は賢者となるのだ、そのとき魂は自らを行為から解放するのだ、そのとき魂はこれらの行為がどんな結果をもたらしうるか問うことはない。と申しますのも、行いがどのような結果になるか、ということは私たちの狭く限定された魂にとってのみ問題なのです。けれども私たちが、人類と宇宙の経過が行為を要求するがゆえにその行いを為すとき、その行為が怖ろしいものに通じるか祝福的なものに通じるか、あるいは私たちにとって苦しみに満ちたものに通じるか喜びに満ちたものに通じるかには一切関わりなく、私たちはそれを行うのです。このように行為から抜きん出ていること、私たちの手が何をしようと、私たちの剣が、ギーターの状況から語ろうとすれば、何をしようと、私たちがその口で何を話そうと、まっすぐ立っていること、このように、内的な自己が私たちがその口で話すこと、その手で行うことすべてに対してまっすぐ立っていること、偉大なクリシュナはこれを目指して弟子アルジュナを導いていきます。このように偉大なクリシュナは弟子アルジュナに人類の理想を示します、人間が次のように言うような理想です、私は私の行いを為す、けれども、行為するのが私であれほかの者であれ私は私の行いを見つめる。私の手を通じて起こること、私の口を通じて話されること、私はそれを、岩が離れて山から谷底へところがり落ちるのを見るように客観的に見る。そのように私は私の行いに対して立つ。そして、私があれこれのことを知り、認識し、自分で宇宙についてあれこれの概念を形成することができるにしても。私はこれらの概念から区別される何かとして立ち、私のなかにはなるほど認識する何かが私と結びついて生きているが、私はそこで別のひとが認識しているように眺める、と言うことができる。このとき私は私の認識からさえ自由となる。私の行いから自由になることができ、私の知識、私の認識から自由になることができる。賢者の高い理想がこうして私たちの前に置かれます。そしてついに、それが霊的なもの(das Spirituelle)にまで上昇するとき、魔神(デーモン)たちが来ようとも、聖なる神々が来ようとも、すべては私が外部に見るものだ、私を取り巻く霊的な世界といえどもそこで起こるすべてのことから自由に、私はそこに立つ。私は眺め、私は私の道を行く、そして私が関与するもの、私は同時にまたそれに関与もしない、私は傍観者となったからだ。これがクリシュナの教えです。そして私たちが、クリシュナの教えがサーンキヤ哲学に基づいていたと聞いたなら、多くの箇所でクリシュナの教えに貫かれるべきこと、偉大なクリシュナが弟子に語ることがよく理解できるようになるでしょう、クリシュナはこう言います、お前のなかに生きている魂はさまざまなしかたで結びつけられている、粗雑な物質体に結びつけられ、諸感覚に結びつけられ、マナスに、アハムカーラに、ブッディに結びつけられている。しかしお前はこのすべてを外的なものとして、お前の周りを取り巻いている覆いとして観察する、そしてお前は、お前が魂存在としてあらゆるものから独立していることを意識する、そのときお前はクリシュナがお前に教えようとすることについていくらか理解する。そしてお前が、お前の外界への関係、宇宙への関係全般は、グナ、つまりタマス、ラジャス、サットヴァによってお前に与えられていることを意識するとき、通常の生活において人間はサットヴァを通じて叡智と善意に結びつけられ、通常の生活において人間はラジャスを通じて激情、情動及び存在への渇きに結びつけられ、人間は通常の生活においてタマスを通じて怠惰、不活発、眠気に結びつけられることを知りなさいと。あるひとは日常生活でなぜ叡智と善意に情熱を注ぐことになるのでしょう。そのひとは、サットヴァによって示される基本性質に関係しているからです。あるひとはなぜ外的生活への歓びと渇望、生の外的現象による楽しみとともに日常生活を過ごしていくのでしょう。それはそのひとが生へのラジャスによって示される関係を有しているからです。なぜ人々は日常生活において眠たげに怠惰に無気力になるのでしょう。彼らはなぜ肉体性に圧迫されているように感じるのでしょう。彼らはなぜ、元気を奮い起こして瞬間ごとに肉体性を克服する可能性を見出さないのでしょう。なぜなら彼らは、サーンキヤ哲学においてタマスによって理解される外的形態の世界への関係を有しているからです。しかし賢者の魂はタマスから自由にならなければなりません、眠気と怠惰と無気力のなかに現れる外界への関係から自らを解き放たなければなりません。あらゆる無気力なもの、眠たげなもの、あらゆる怠惰が魂から退けられると、魂には外界へのラジャスとサットヴァの関係のみが残ります。そしてひとが激情と情動、存在への渇きを取り除き、善意、同情、認識に情熱を注ぎ続けるなら、今やそのひとはサーンキヤ哲学がサットヴァと呼ぶ外界への関係を有します。けれどもひとがいかなる善意と認識への愛着からも自由になるとき、なるほど善意のひとであり賢いひとであるけれども、外的に現れているそのひとのありよう、たとえその善意や認識に対しての現れであっても、そのありように内面において左右されないとき、そしてそのひとにとって善意は当然の義務であり、叡智は彼に注ぎ込まれるものであるとき、そのとき彼はサットヴァからさえ脱します。こうして三つのグナを脱したとき、彼はあらゆる外的形態への関係から解放され、その魂において勝利し、偉大なクリシュナが彼をならせたいと思うものについて、いくらか理解できたのです。そのとき、つまり偉大なクリシュナが理想として彼の前に置いたものになろうと努めるとき、人間は何を理解するのでしょうか。そのとき人間は外的な覆いをより厳密に理解するのでしょうか。いいえ、外的な覆いについては前にもう理解しました、けれども人間は覆いを超えて自らを高めます。そのとき人間は、この外的形態への魂の関係をより厳密に理解するのでしょうか。いいえ、そのことはもう以前に理解しました、けれども人間はこれを超えて自らを高めるのです。人間が三つのグナを脱したとき、彼が理解するのは、外界において多種多様な形態をとって彼に現れてくるものでもなく、これらの形態への関係でもありません。と申しますのも、これはすべて前の段階に属すものだからです。タマス、ラジャス及びサットヴァにとどまる限り、存在の自然の基盤に関わりを持ちます、社会的関係を得、認識を身に付け、善意と同情の能力を獲得します。けれどもこのすべてを超えていったとき、ひとは先行する段階においてこれらすべての関係を脱ぎ捨てたのです。そのときひとは何を認識し、何が眼前に現れるでしょうか。そのとき認識されるもの、そのとき目の前に現れるものは、これらすべてではないものです。それに至る途上にグナの内部で修得されるすべてのものから区別されるもの、これはどのようなものでありうるでしょうか。それは、つまるところひとが自身の本質として認識するものにほかなりません。と申しますのも、外界でありうる他のすべてのものは、前の段階で脱ぎ捨てられたからです。まさにここに与えられた考察の意味において、これは何なのでしょうか。それはクリシュナ自身です。と申しますのも、クリシュナ自身が自らの最高のものの現れだからです。すなわち、最高のものに向かって精進することで、ひとはクリシュナに対峙するのです、弟子は偉大な師に、アルジュナは、在りとあるすべてのなかに生きるクリシュナに対峙するのです。そしてまことにクリシュナはクリシュナ自からこう言うことができます(☆3)、私はひとつの山ではない、なべての山々のもとにあるとき、私はそれらのなかのもっとも巨大な山である、地上に現れるとき、私はひとりの人ではない、宇宙期に一度だけ人間の指導者として現れる最高の人間的顕現(*die hoechste menschliche Erscheinun)、あらゆる形態における帰一なるもの、それが私、クリシュナであると。このように、師そのひとがその本質を現に生かしつつ弟子の前に登場するのです。けれども同時にバガヴァッド・ギーターにおいて、それは何か圧倒的なもの、人間が到達しうる最高のものであることが理解させられます。このようにアルジュナとしてクリシュナに対峙するということは、段階を踏んだ秘儀参入を通じて起こり得るでしょう、そのとき、それはヨーガの行の深みにおいて起こるでしょう。けれどもそれが人類進化そのものからどのように流れ出てくるか、それがいわば恩寵によっていかに人間に与えられるか、ということも示されます。このようにそれはギーターのなかに示されているのです。このアルジュナがたちまち引き上げられ、その結果彼はクリシュナをありありと眼前にみるわけですが、この引き上げられるときのようにギーターは私たちをある特定の時点に導きます、クリシュナが彼に対峙する時点にです。今やクリシュナは血肉を備えた人間のように彼に対峙しているのではありません。ほかの人間と同じように見える人間なら、クリシュナにおける本質的でないものを現すでしょう。と申しますのも、本質的なのは、あらゆる人間のなかにあるものだからです。けれども他の世界圏はいわば分散された人間にすぎないので、他の世界にあるものはすべてクリシュナのなかにあります。他の世界は消え去り、クリシュナは一なるものとして存在します。ミクロコスモスに対するマクロコスモス、小さな日常的な人間に対する人間そのもの、クリシュナはこのようにひとりひとり人間に対峙するのです。このことが恩寵によって人間を圧倒するとき、人間の理解力は最初じゅうぶんではありません、なぜなら、クリシュナがその本質的なものを見せるときーーこのことは最高の霊視的力を通じてのみ可能なのですがーー、そのとき、クリシュナは人間が通常見慣れているあらゆるものとまったく異なって見えるからです。人間の観照力が他のすべての観照力から引き上げられるときの、最高の性質におけるクリシュナの観照力のように、クリシュナはギーターにおいてある瞬間、偉大な人間として私たちに姿を見せます、世界においてアルジュナの前にあったすべてがそのかたわらでは小さいものであるような偉大な人間として。このときアルジュナの理解力は尽きてしまいます。彼はなおもただ見つめ、自分が見るものをどもりながら話すことができるのみです。これももっともなことです、アルジュナは今までの手段をもってしてはこのすべてを見るすべも、言葉で表現するすべも身に付けていないからです。つまりクリシュナがアルジュナの前に立つこの瞬間にアルジュナが行う描写は彼にふさわしいものです。と申しますのも、これは、芸術的哲学的関連において、人類に当時与えられた最も偉大な叙述のひとつだからです、アルジュナが初めて語る言葉、語り慣れない言葉、このようなものは何も見たことがなかったために、以前には決して語ることのできなかった言葉、そういう言葉によってアルジュナが自らの深みから、偉大なクリシュナに見入るなかで明らかにされたことを取り出してくるさまは。「おお、神よ、私は御身のなかにあらゆる神々を見る(☆4)、あらゆる存在たちの群をも見る、ブラフマンを、蓮華の玉座についた主を、すべてのリシ(聖仙)たちと天の蛇たちを見る。多くの腕と胴体と口と眼を持ち、いたるところに、無限に形作られたあなたを私は見る、私はあなたに終わりも、半ばも、始まりも見ることはない、おお、すべての主よ。御身、あらゆる形態で私に現れる者、宝冠をつけ棍棒と剣を持って私に姿を見せる者、あらゆる方向に火炎を放って燃え上がる山、私はあなたをそのように見る。太陽の光輝が放つ火のように測り知れない偉大さに、まばゆくて見つめることができない。移ろわぬもの、最高を知るもの、もっとも大いなる善、遍(あまね)く万有のなかでこのようにあなたは私に顕現する。あなたは永遠の法の守護者である。久遠の、元なる霊(Urgeist)としてあなたは私の魂の前に立つ。あなたは私に、初めも、半ばも、終わりも示すことはない。あなたは遍く無限である、その力は無限であり、その広がりは無限である。月のように。そう、太陽そのもののようにあなたの眼は大きく、あなたの口からは供犠の火が放たれるようだ。私は灼熱するあなたを見る、あなたの熱がすべてを暖めるのを見る、私は大地と天空の間にそれを予感することができる、あなたの力はこのすべてにみなぎる。ただあなたひとりとともに私はここに立つ、そしてあなたの怖ろしい姿が私の眼に示されるとき、三界の生きるどの天界もまたあなたのうちにある。私は見る、あなたを讃えて歌う神々の全軍があなたに向かうさまを、そして私は合掌し畏怖しつつ立ち尽くす。すべての見者とすべての聖者の群があなたの前で歓呼の声を挙げる。彼らはあらゆる讃歌であなたを称える。ルドラ神たち(Rudras)、アーディティヤ神たち(Adityas)、ヴァス神たち(Vasus)、ならびにサーディヤ神たち(Sadhyas)、一切諸神、アシュヴィン双神(Ashvins)、マルト神たち(Maruts)、ならびに祖霊たち[Manen)、ガンダルヴァたち(Gandharvas)、ヤクシャた(Yakshas)、アシュラたち(Asuras)たちおよびあらゆる聖者たちがあなたを称える。彼らは驚嘆してあなたを仰ぎ見る、多くの口、多の腕、多くの脚、多くの脚、多くの胴体、歯の並んだ多くの口を持つかくも巨大な体を。このすべてを前ににて宇宙はおののき、わたしもまた震える。天を揺るがす者、輝きを放つ者、多くの腕を持つ者、口を持ち、大きな燃え上がる眼のように働きを及ぼす者よ、私はあなたを見る。このとき私の魂は震える。私は不動も安らぎも見いだせない、おお、私にはヴィシュヌそのものである偉大なクリシュナよ。私はあなたの恐るべき内部をのぞき込む、火にも似て、あらゆる時の終わりのように、存在が働きかけるごとく、働きを及ぼす内部を。何事についてか知ることができないようなしかたで私はあなたを見る。おお、私にお慈悲を、神々の主、宇宙の住処(すみか)よ。」アルジュナはクル族の息子たちの方を指し示しつつ向きなおります。「これらクル族の息子たちはすべて王の勇者たちの群とともに、ビーシュマとドローナとともに、私たちの最良の戦士たちとともに、彼らはすべてあなたの前にひれふす、祈り、あなたの栄光に驚嘆しつつ。あなたを、存在の原初を私は知りたい。私に顕現するもの、私に啓示されるものが何か、私にはわからない。」アルジュナ自身の本質であるものとともにただひとりあるとき、この自身の本質が彼に客観的に現れるとき、アルジュナはこのように語るのです。私たちは、ひとつの大いなる宇宙の秘密の前に立っています、秘密に満ちているのは、その理論的内容のゆえにではなく、私たちがこれを正しく把握することができるときに私たちのうちにわき起こるはずの圧倒的な感情のゆえにです。これは秘密に満ちています、あらゆる人間的感情に向かって、かつて宇宙における何かが人間的感情に向かって話したのとは別の話し方をしなければならないほどに、秘密に満ちているのです。今やクリシュナが語ることを、クリシュナ自身がアルジュナの耳に響かせるとき、こう響きます。「私はあらゆる世界を滅ぼす時[Zeit]である。私は人間たちを奪い去るために現れたのだ。たとえお前が闘って彼らを死に至らしめないとしても、お前がいなくても、向こうの戦列に立っている戦士たちはみな死を免れ得ない。だから、怖れず立ち上がるのだ。敵を打ち負かす栄誉を獲得せよ。待ち受ける勝利と支配を享受せよ。彼らが倒れ討ち死にするとき、彼らを殺したのはお前ではない、お前が彼らに死をもたらす前に、彼らはすべて私によってすでに死んでいたのだ。お前は単なる道具となれ、単に手をくだして闘う者となれ。ドローナ、ジャヤッドラタ、ビーシュマ、カルナおよびその他の者たち、これらの者を私は殺し、彼らはすでに死んでいるが、今、お前が彼らを殺すのだ、彼らが私によって殺され、マーヤにおいて死に倒れるとき、現象における私の働きが外へと発揮される。お前は彼らを殺しなさい。私が為したことは、一見お前により起こされるように見えるだろう。おののいてはならない。お前は、私が前もって為さなかったことは何も為すことはできないのだから。闘うがよい。彼らはお前の剣に倒れるだろう。私がすでに殺した彼らは。」「私たちが知っているように、パーンドゥの息子たちのもとでクリシュナの側からアルジュナへの指導により起こることはすべて、あたかも御者がドリタラーシュトラに語っているかのように語られます。詩人は、クリシュナはアルジュナにこう語った、と直接語るのではなく、ドリタラーシュトラの御者サンジャヤは、盲目の英雄、クル族出身の王にこれを語った、というふうに語ります。サンジャヤはこれをすべて語ったあと、さらにこう言います。「そしてアルジュナはクリシュナのこの言葉を聞いたとき、合掌し震えつつ、敬いの言葉をクリシュナに返す、ただどもりながら、クリシュナの前に畏れきって深く敬礼しつつ、アルジュナはこう言った。世界があなたを称えて歓喜し、畏敬の念に満ちてあなたに心服するのももっともである。ラクシャスども、これは霊たち(Geisterですが)は愕いて四方八方に逃げる。聖なる群はみなあなたの前に身をかがめる。ブラフマーよりも尊い最初の創造者にどうして彼らがひれふさないことがあろうか。」。まことに私たちはひとつの宇宙の秘密の前に立っているのです。と申しますのも、アルジュナは彼自身の本質を生き生きと眼前に見て何を言うでしょうか。彼は言います、彼はこの自身の本質に、ブラフマーそのものよりも高次のものに思われる、と語りかけています。私たちはひとつの秘密の前に立っています。と申しますのも、このように人間が自分の本質に語りかけるとき、そのような言葉は、通常の生活で駆使されているいかなる感情、感受性、理念、思考も、理解のためにも用いられないような言葉であると解されなければならないからです。と申しますのも、生活のなかでどんなふうにであれふつう持つことができるであろう感情を、このアルジュナの言葉に近づけるなら、これほど人間を大きな危険に陥れることはないからです。人間が日常生活の何らかの感情を、このとき語りかけているものに近づけるとしたら、それがまったく奇妙なことでないとしたら、これを最大の宇宙の秘密と感じないとしたら、病へのささいな兆候が、狂気、誇大妄想となるでしょう、クリシュナすなわちそのひと自身の高次の本質に対して通常の感覚で近づくことにより、人間はこの病に陥ります。「御身神々の主よ、あなたは無限であり、あなたは永遠であり、あなたは最高の者である、あなたは存在であると同時に非在でもある、あなたは神々のうちもっとも上位の者であり、神々のうちもっとも古い者である、あなたはありとあらゆる宝のうち最高のものであり、あなたはここで知る者であり、あなたはここで意識されうる最高のものである、あなたはすべてを包み、あなたのうちにはありとあらゆる姿がすべてある、あなたは風、あなたは火、あなたは死、あなたは永遠にうねる宇宙の海、あなたは月、あなたは神々のうち最高の者、あなたは名そのものであり、始祖である、神々のうち最高の者であるあなたは。あなたはあがめられねばならない、千の、千回の崇拝。このすべてよりもさらに多くの崇拝があなたにはふさわしい。あらゆる方向からあなたは崇拝されなければならない。あなたはいつか人間がなりうるすべてである。あなたはいつかあらゆる力の総体のみがそうありうるほどに力に満ちている、あなたはすべてを成し遂げ、同時にあなた自身がすべてである。はやまってあなたを友人とみなし、あなたの驚くべき偉大さを知らず、私があなたをクリシュナと、ヤーダヴァと、友と、呼んだのなら、軽率に、親しげにあなたをそう呼んだのなら、そしてまた弱さのなかで私があなたを正しく敬わなかったなら、散策あるいは休息時に、きわめて神聖な時あるいはきわめて日常的なとき、あなたがひとりであろうとほかの存在たちとともにあろうと、私が正しくあなたを敬わなかったのなら、これらすべてにおいて私があなたを正しく敬わなかったのなら、私はあなたの計り知れなさにお詫び申し上げる。宇宙の父である方よ、宇宙を動かし、宇宙のなかで動く方よ、あなたはほかのどの師をもしのぐ、並ぶ者なき、誰よりも優れた師であり、この三界におけるすべてに比類がない、あなたの前に私はひれふし、あなたの恩寵を乞う、あらゆる世界に顕現する主よ。私はあなたに決して見たことがないものを見て、畏怖しつつ震えざるをえない。あなたの(本来の)姿を示して下さい、おお神よ!おお、お慈悲を、神々の主よ、あらゆる世界の原初の地である方よ。」人間の本質が人間の本質にこう語りかけるとき、まことに、私たちはひとつの秘密の前に立っています。そして今度はクリシュナが弟子に語りかけます。「私は恩寵をもってあなたに私の姿を現したのだ。私の最高の本質があなたの前に立っている、私の全能により、あなたの前に不可思議に出現するのだ、輝きつつ、測りがたく、捉えがたく。かつてほかの誰も、あなたが私を見るように私を見たことはない。今私の恩寵によりあなたのなかに与えられている力、これらの力をもってあなたが今私を見るようにはけっして、ヴェーダのなかに出ていることが私を告げることはなかった。供物として与えられたものも決してこのように私に届くことはなかった、神々への何らかの布施も、探究も、決して届くことはなかった、何らかの儀式も決してこのように私のところに届くことはなかった。何らかの烈しい懺悔も、今のような姿かたちの私を、今人間の形でお前が私を見ているようには見ることはできない、偉大な勇者よ。私の恐ろしい姿を見ても、怖れてはならない、心を乱してはならない。怖れを離れ、心楽しく、再びお前は私を見なさい、お前のよく知っているこの姿を。」。さて、サンジャヤは盲目のドリタラーシュトラにさらに語ります。「クリシュナがアルジュナにこう言うと、測りがたいもの、初めも終わりもないもの、あらゆる力よりも高いものは消え去り、ふたたびクリシュナは人間のかたちで現れた、怯えていた者を、その親しみやすい姿で落ち着かせようとするかのように。アルジュナは言った、人間の姿のあなたをふたたび見て、私は落ち着きを取り戻し、ふたたびもとの私にもどりましたと。するとクリシュナは言った、今私があなたに見せた姿はこれほど見ることが困難なものなのだ、神々ですらこれを見たいと絶えず憧れている。ヴェーダもこの姿については告げず、懺悔によっても、布施によっても、供物によっても、何らかの儀式によってもこの姿に到達できない。このどれによっても、お前が今見たこの姿形での私を見ることはできない。あらゆるヴェーダから自由に、あらゆる懺悔から自由に、あらゆる布施、供物、あらゆる儀式から自由に彼方へと歩むことを知っている者のみが、ただ私のみに敬いつつ目を向けることができる者のみが、このような形姿での私を見ることができ、私をこのように認識することができ、私とまったくひとつになることもできるのだ。私が促すように行い、私を敬い愛し、世界を気にかけずあらゆる存在に愛情深い者、そういう者は私に至る、おお、パーンドゥ族出身の私の息子よ。」私たちは、ギーターが語ってくれる宇宙の秘密の前に立っています、これが人類の意味深い宇宙時刻(Weltenstunde)に告げられた、血に結びついた古い霊視(Hellsehen)が途絶え、人間の魂が、永遠のもの、移ろわぬものに至る新たな道を模索しなければならなかったあの意味深い宇宙時に告げられた、という秘密です。この秘密が私たちに見せられます、そして人間が観照しつつ自分自身から自らの本質を生み出したときに人間にとって危険になりうるすべてを、私たちはこの啓示のなかに同時に感じ取ります。真の自己認識により私たち自身の本質について語るこのもっとも奥深い人間のおよび宇宙の秘密を私たちが捉えるとき、私たちは自らの前に最大の宇宙の謎を置いたのです。けれどもこの謎を置くことが許されるのは、私たちがこれを謙虚に敬うことができるときのみです。そしてこの宇宙の謎に近づくためには、どんな理解力もじゅうぶんではありません。そのためには正しい感情が不可欠なのです。ギーターからこのように語りかける宇宙の秘密に近づくことは、敬いつつそれに近づくことのできない者には許されないのです。そのように感じ取ることができてはじめて、私たちはその秘密を完全に把握するのです。そして、人類進化のある段階において、この秘密がギーターのなかでこの出発点からいかに見られうるか、さらに、まさにギーターにおいて私たちに示されるものを通じて、いかにその秘密が別のしかた、つまり私たちがパウロ書簡のなかで出会うような別のしかたをもふたたび照らし出す働きをするか、このことを本連続講演を進めながら扱っていくつもりです。□編註☆1 以前の時代においては命名や名づけのしかた全体が今とは異なっていた: 1908年5月22日、31日ハンブルクでのシュタイナーの講義参照 『ヨハネ福音書』(GA103)所収 *邦訳『ヨハネ福音書講義』高橋巌訳 春秋社☆2 ヨハネ福音書においては[…]ひとたちが神の子らと呼ばれています: ヨハネ1ー12,13 参照。☆3 まことにクリシュナはクリシュナ自からこう言うことができます: 第10歌 20-39 節 参照。☆4 「私は[…]あらゆる神々を見る…」:第11歌 15 節以下 この部分とこれに続く引用は、レオポルド・フォン・シュレーダー Leopold von Schroeder の翻訳(Eugen Diederiches Verlag から新版1955年デュッセルドルフ/ケルン)に自由に拠っている。参考画:The three Gunas人気ブログランキングへ
2024年04月23日
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創世新理論(世界創生の因/the cause of world genesi) Hiro Shim著-PLAN/03 「虚のハーモニー(ゆらぎ)-世界創世の因(*みなもと)」=Imaginary harmony (fluctuation)仮題 「SFファンタジー」-03登場する主要な鍵・探索の目的 宇宙の織り成す無限の広がりの中で、一つの存在が静かにその力を振るう。それは人間の形姿を一切無縁として持たず、時には光となり、時には闇となり、宇宙の守護者・維持者として調和を保つ。その存在は「神」と呼ばれ、このユニバースを創造した「二の振動ハーモニー」が産み出したが、全ての生命と無生物に対して平等にその恩恵を与える。この「神」は、此の認識され得るもの、生命居住可能領域であるハビタブルゾーン(habitable zone}を置く我々の在するユニバース、星々の輝きと「深空」に隠された真実を知り、銀河の渦の中で静かに見守る。人間が想像する像を無縁とする、その形姿は、宇宙の法則そのものであり、すべての創造と破壊の源泉である。その形姿は謎ではあるが、宇宙探索者の目的はそのものを見つけて宇宙創造の因の目的を語りに深ることにある。宇宙は人類を始めあらゆる知的生命存在は「神」を求める潜在性向がある。動機はとも古のテラを母星としたテスラ(Tesla)、プロキシマ・ケンタウリの神秘学者バク(Baku)の目的そのものの質は同様です。ここに人類が情報技術革命に伴い人類の進歩発展に夢を託したArtificial General Intelligence(汎用人工知能)を自己進歩型能力持ったシム(Shim)の無限ともいえる情報の獲得と処理の能力が加わります。三者の当面の目的は経済・技術支援の母星の依頼を受けて、利得情報の交換貿易をしながら、形姿さえ予想し得ない「宇宙維持(the one who maintains the universe)・宇宙守護の統括者(Master of Space Guardians)である知的生命系内テラの発声でGOVと呼称されるもの」を見つけ出すことです。参考画:GOV(宇宙維持・統括存在)人気ブログランキングへ
2024年04月23日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)第三講/1912年12月30日、ケルン (2000.7.29登録/2000.11.26一部改訳) 概要・バガヴァッド・ギーターにおける二つの世界観ニュアンス(サーンキヤ哲学とヨーガ)と運命:一面的にサーンキヤ哲学に帰依するひとと一面的にヨーガに帰依するひと・パウロ書簡の背後に見出せる世界観と運命:恩寵と正しい信仰に対する信頼・バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡の外面的な違い:ギーターの詩的な言葉の崇高さと個人と日常を超越した静謐さ、パウロ書簡の熱狂的・プロパガンダ的、個人的な語調・古代と現代における命名、名づけのしかたの持つ意味の違い:古代において人間はその本質にしたがって名づけられていた(マナスの担い手=マヌ、というように)・人間の最高の本質を顕現させた存在がある時代に指導者として現れる可能性。・人間一般、人類そのもの、ひとつの本質としてのクリシュナの教え:クリシュナは人間の最高の本質、最高の自己Selbstであるが、素質としてはどの人間にも見出される。・クリシュナ:宇宙期に一度だけ、人類進化のなかに肉体をもって現れる神的ー人間的な最高の本質。・ヨーガ、帰依の行により、自分の内面を高め、一切へと上昇する(サーンキヤとは別のもうひとつの)魂進化の面。・賢者の理想:行為しつつ、行為に関与せず行為を超越し、知識・認識そのものからも自由であること。・外的形態への関係=三つのグナ(タマス、ラジャス、サットヴァ)から順次自由になり、三つのグナそのものから脱することとき、ひとは自身の本質=クリシュナに対峙する。・ギーターにおいて、恩寵により人類進化のなかでクリシュナがアルジュナにその本質を現す時点が語られる:人類に与えられた最も偉大な叙述のひと(バガヴァッド・ギーター第11歌)・クリシュナを前にしたときの圧倒的感情の秘密。・自身の高次の本質に対して、通常の日常的感覚で近づくことの危険性。・宇宙の秘密:ギーターに語られることが、血に結びついた古い霊視が途絶え、人間が、永遠の移ろわぬものに至る新たな道を模索しなければならなかった重要な時点で語られたこと。・宇宙の秘密に近づくためには、謙虚に敬いつつ近づく正しい感情が不可欠であること。バガヴァッド・ギーターにおいて私たちに与えられるこのような哲学的詩篇の意義全体を正しく評価できるのは、そのひとにとってバガヴァッド・ギーターあるいはそれに類する世界文学の作品に書き記されている事柄が、単に理論のみではなく運命であるような、そういうひとのみです、そして人類にとって世界(宇宙)観はひとつの運命であり得ます。参考画:BGKrishnaArjuna-2人気ブログランキングへ
2024年04月23日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)第二講/1912年12月29日、ケルン (2000.5.24登録/2000.11.26一部改訳)☆血縁に支配されない時代への移行、この移行期における指針としてのバガヴァッド・ギーター ・バガヴァッド・ギーターにおけるクリシュナのアルジュナへ教示:血縁を抜け出した時代への新たな教示が単に理念的にではなく直接心情のなかに働きかけるように語られインド人の崇高な歌であるバガヴァッド・ギーター、これはすでに昨日申し上げましたように、しかるべき人物たちに、人類の最も重要な哲学的詩篇と呼ばれました。崇高なギーターに沈潜するひとは、この呼びかたにまったく異存はないでしょう。この連続講義にあたって私たちは、ギーターの高度に芸術的な美点についてさらに指摘することができるでしょう、けれどもまずさしあたっては、その根底にあるもの、力強い思考、この詩篇を育てた力強い宇宙認識、まさにこれを讃え、広めるためにこの詩篇は生み出されたのですが、この宇宙認識に注目することによって、この詩篇の意義が私たちの眼前に見えてくるようにしなければなりません。ギーターの認識の基礎となっているものにこのように眼差しを向けることがとくに重要なのは、実際この歌の本質のすべて、とりわけ思考内容、認識内容に関するすべてが、前仏教的(vorbuddhistisch)な認識段階を私たちに伝えるからです、すなわち、私たちはこう言うことができます、偉大なブッダを取り巻きブッダを育てた霊的地平、この霊的地平の特性がギーターの内容を通して私たちに示される、と。ーーつまりギーターの内容を私たちに作用させるとき、私たちは前仏教的な時代の古代インド文化の霊的組成を覗きこむのです。すでに強調したことですが、この思考内容は三つの精神(霊)潮流の合流であり、有機的なもの、生きたものとして、これら三つの精神潮流を単に互いに溶け合わせただけではなく、生き生きと互いのうちに織り込まれたもので、したがってこれら三つの精神潮流はギーターからひとつの全体として私たちに現れてきます。ここでひとつの全体として、太古のインドの思考と認識の霊的流出として現れてくるもの、これは、偉大なすばらしい智の立場であり、スピリチュアルな智の巨大な総和です、まだ精神科学(霊学)に近づいていない現代の人間は、こういう智の深み、認識の深みに対する何らかの観点を獲得する可能性がないゆえに、こういう智の深み、認識の深みに疑いの目を向けるしかないのですが。と申しますのも、通常の現代の手段をもってしては、ここで伝えられているあの智の深みのなかに入り込んで行けないからです。せいぜいのところ、ここで語られていることすべてを、かつて人類が夢見た美しい夢とみなすことができるくらいです。単なる現代的見地からこの夢を賛美することはできるかもしれませんが、この夢にとりたてて認識価値が置かれることはないでしょう。けれども精神科学を自らのうちに取り入れたなら、ギーターの深みを前に驚きつつたたずみ、こう言わざるをえないでしょう、太古の時代、人間の精神(霊)は、私たちがスピリチュアルな認識方法を徐々に制覇していってやっとまた獲得できる認識に浸透されていたのだ、と。こうして、過ぎ去った時代に現にあったこの太古の洞察への賛嘆の念が生じます。この洞察を宇宙内容そのものから再び見出すことができ、そうしてその真実さを確認することができるがゆえに、私たちはそれを賛美することができるのです。私たちはこれを再び見出し、その真実を認識しつつ、こう言うのです、いやはや驚くべきことだ、あのような太古の時代に人間がこれほどの霊の高みに飛躍することができたとは。さて、とはいえ私たちは、あのいにしえの時代において人類はとりわけ、太古の霊視の名残がまだ人間の魂のなかに生きていたことによって恩恵を受けていたことを知っています、しかも特別な、修行によって達成されたスピリチュアルな沈潜のみが霊界へと通じていたのではなく、あの古い時代の科学そのものも、古い霊視の名残が理念、認識のかたちで生み出したものになおもある種のしかたで浸透され得たという恩恵を受けていたのです。私たちは自らにこう言い聞かせなければなりません、私たちが今日、私たちに伝えられることの正しさを知るのは、まったく別の理由からだと。私たちは、あのいにしえの時代においては人間の本質に関する精緻な区分が、別の手段で獲得されたことを理解しなければなりません、人間が知ることができるものから、精緻で鋭い概念が取り出されたのです、鋭い輪郭を持ち、霊的現実にも外的感覚的現実にも精確に適用できる概念がです。こうして、場合によっては、今日私たちが変化した立場に対して用いている表現を変化させるだけで、あのいにしえの時代の立場をも理解できる可能性が出てきます。私たちは、神智学的智の営みにおいて、次のように物事を示そうと試みてきました、現代の霊視的認識に明らかになるように、すなわち、霊人(Geistesmensch)がまさに今日、霊人自身の、霊人によって獲得されるべき手段で達成することができるものを、この精神科学の方法が示すようにです。神智学の告知の初期においては、このように隠された学から直接取り出された手段をもって行われることは稀であり、東洋において通常用いられている名称、概念ニュアンス、とりわけ東洋においてギーター時代からこの現代まで長い伝統を経て植え付けられてきた名称、概念ニュアンスが用いられました。したがって、神智学の展開のより古い形では、私たちはこれに現代の秘学的研究を付け加えなければならないのですが、この古い形においては、伝統として守られてきた古い概念、とりわけサーンキヤ哲学のそれの方がよく用いらていたわけです。ただ、東洋においてさえこのサーンキヤ哲学が次第に別種の東洋思想によって変形されていったように、神智学の告知の初期においても、人間の本質について、その他の秘密についてそのように語られました。物事はとりわけ、ヴェーダの智とその他のインドの智の八世紀における偉大な改革者、シャンカラチャルヤ(☆1)によって用いられた表現によって叙述されたのです。神智学運動の始まりにおいて、どのような表現が選ばれたかについてはあまりかまわず、ギーターの智および認識の基礎を得るために、きょうはむしろ太古のインドの叡智の宝とは何かということに注目してみることにいたしましょう。すると、いわばこのいにしえの時代の科学そのものを通じて得られるもの、とりわけサーンキヤ哲学を通じて獲得されるものがまず私たちに現れてきます。サーンキヤ哲学が人間の本性と性質をどのように観ていたかについて、最もよく理解できるのは、私たちがまず最初に次のような事実を目の前に置いてみるときでしょう、つまり、人間の全存在の根底には霊的な核心(Wesenskern)があるという事実です、この核心を私たちはいつもこう言って魂の前に導き出しました、人間の魂のなかにはまどろんでいる力がある、未来の人類進化に伴ってますますはっきりと現れてくる力があると。私たちがまず最初に仰ぎ見ることができ、人間の魂が連れていかれるであろう最高のものは、私たちが霊人と名づけるものでしょう。いつか人間が存在として霊人の段階まで上昇したときも、人間は自分のなかに魂として生きているものを、霊人そのものからなおも常に区別することができるでしょう、ちょうど今日私たちが日常生活において、私たちの最奥部の魂的核心と、この核心を覆うもの、つまりアストラル体、エーテルあるいは生命体、及び物質体(☆2)とを区別することができるように。そして私たちが、この後の方の体を覆いとみなし、これらを本来の魂的なもの、私たちが今日の人類周期において、感受魂、悟性あるいは心情魂、意識魂という三つに分けているものから区別しているように、このように魂的なものを覆いのシステムから区別しているように、将来、本来の魂的なもの、これは未来の段階において現在の感受魂、悟性魂、意識魂に対応するふさわしい区分が与えられるでしょうが、この魂的なものと、私たちの言葉で霊人と呼ぶことのできる段階に達した覆いの性質とを考慮することができるでしょう。未来においていわば人間の霊的ー魂的核心を包む覆いとなるもの、つまり霊人は、なるほど将来はじめて人間にとっていわば有意義なものでしょう、けれども、広大な宇宙においては、ある存在がそれを目指して進化していくものは常にそこにあるのです。私たちがいつの日か自らを包むことになるであろう霊人の実質(Substanz)これはいわば、大いなる宇宙のなかに常に在ったのであり、現に今も存るのです。私たちは、ほかの存在たちは、いつか私たちの霊人が形成するであろう覆いを今日すでに有していると言うことができます。つまり宇宙には、いつの日か霊人が生じてくるであろう実質が現にあるのです。私たちの学説の意味で語りうることは、すでに古代のサーンキヤ説において語られています。このようにまだひとつひとつ分かたれず、いわばひとつの霊的水流のように分化されないままに時空を満たしつつ宇宙に存在するもの、かつてこのように存在し今このように存在しこれからもこのように存在するであろうもの、あらゆる形成を引き起こすもの、これをまさしくサーンキヤ哲学は実質の最高の形態(フォルム)と呼びました。これは、サーンキヤ哲学において永遠から永遠へとみなされるあの実質の形態です。そして私たちがたとえばこう語るように、私がかつてミュンヒェンで創世記の精神科学的根拠づけについて行いました連続講義(☆3)のことをここで考えてみてください。地球進化の出発点において、地球進化となったものはすべて、霊存在として霊のなかにまだ実質としてに存在していたということについて語るように。このようにサーンキヤ哲学はその原質[Ursubstanz]について、その源流[Urflut]について語ってきたと言うことができるでしょう、他のあらゆる形態が、形而下的にも、形而上的にもそこから展開してきた源流についてです。今日の人間には、この最高の形態はまだ考慮されるに至っておりませんが、今議論いたしましたように、将来考慮されることでしょう。この実質の源流から展開してくる次の形態として、私たちが人間の上から二番目の構成部分として知っているものを見なくてはなりません、私たちが生命霊と呼んでいるもの、あるいは東洋的な言い方でブッディと呼ぶことができるものです。ご存じのように私たちの学説でも、人間は通常の生においては未来においてはじめてこのブッディを発達させるだろうとされています。しかしブッディは霊的な形態原理として、他の存在たちにおいては超人間的にいつも存在していたのであり、存在していたがゆえに、これは最初の形態として根源的な源流から分化されてきたのです。サーンキヤ哲学の意味において、実質的現存の、魂の外部にある現存の最初の形態から、ブッディが生じるのです。私たちがこの実質の原理のさらなる進化に注目するなら、第三の形態として、サーンキヤ哲学の意味でアハムカーラ(Ahamkara)と呼ばれるものが登場してきます。ブッディがいわば分化原理の境界に位置して、ある種の個別化を最初に暗示しているのに対し、アハムカーラという形態はすでに完全に個別化されて現れてくるので、私たちがアハムカーラについて語るなら、私たちはいわばこう想定しなければなりません、ブッディは独立した、本質的な実質的な形態、それゆえ世界のなかで個別的に存在する形態へと下降しつつ作り上げられると。この進化について私たちがイメージを得たいなら、実質的源流として均等に分散されていた水が、次いで沸き立ち、個々の、完全な水滴にまでは分離されない形態を形作る、共通の実質から小さな波頭(水の山)のように少し隆起しているけれども、その底の部分は源流の内部で共通しているような形態を形成するというふうな想定をしなくてはならないでしょう。これがブッディと言えます。さらにこの波頭が水滴へと、独立した球体へと分かたれると、アハムカーラという形態となります。このアハムカーラ、つまりすでに個別化された形態、一つ一つの魂形態がある種の濃密化をすることで、マナスと呼ばれるものが生じます。ここで私たちは、私たちの名称に対してある種の、もしかしたら不均衡と呼ばれるべき問題が生じてくる、と言わなければなりません。私たちの学説に従って人間の進化を上から下へと辿りますと、私たちは生命霊あるいはブッディのあとに霊自己(ガイストゼルプスト/Geistselbst)を置きます。この命名は、今日の人類周期にとってはまったく当を得たもので、この連続講義を進めていくなかでなぜこれが正当なのかさらに見ていきましょう。私たちは、ブッディとマナスの間にアハムカーラを入れるのではなく、私たちの概念ではアハムカーラとマナスを一致させ、これを一緒に霊自己と呼びます。あのいにしえの時代にあってはこれらを分けるのはまったく当を得たことでした、その理由を今日は暗示するだけにしておきますが、後日さらにお話しいたします。「アハムカーラとマナス」を分けることが正しかったのは、今のこの時代に理解できるように語ろうとすれば、今日私たちが与えなければならないあの重要な特徴づけ、一方ではルツィファー原理の影響、他方ではアーリマン原理の影響から来る特徴づけを、当時はまだ与えることができなかったためです。この特徴づけがサーンキヤ哲学にはまったくもって欠けていました。この両原理を眺めることに至らなかった構成にとっては、ブッディとマナスの間に、この個別化する形態を加えることはまったく正しかったのです。つまり私たちがサーンキヤ哲学の意味でマナスについて語るなら、私たちは、シャンカラチャルヤの意味でマナスとして語られるものと厳密に同じものについて語っているわけではありません。シャンカラチャルヤの意味ではマナスとガイストゼルプストをまったく同一とすることができますが、厳密にサーンキヤ哲学の意味ではそうできないのです。けれども私たちは、サーンキヤ哲学の意味で本来マナスとは何なのかを厳密に特徴づけることができます。ここで私たちは初めて、人間がいかに感覚世界に、物質的生存に生きているかということを出発点とします。物質的生存において人間はまず、その感覚で環境を知覚し、その触覚器官、手足により、つかみ、歩き、さらには話すことを通して逆にこの物質的環境に働きかけます。人間はその感覚を通じて環境を知覚し、物質的な意味で触覚器官を通じて環境に働きかけるのです。サーンキヤ哲学の意味でこれもまったくそのように語られています。けれども人間はどのようにして感覚によって環境を知覚するのでしょうか。さて、私たちは眼で光と色を、明るさと闇を見、物の形も見ます。私たちは耳で音を知覚し、臭覚器官で匂いを、味覚器官で味の印象を感じ取ります。どの感覚もそれぞれ、外界のある特定の領域を知覚します、視覚は色彩と光を、聴覚は音を、などなど。私たちは、私たちが感覚と呼ぶこのこの存在の門を通して環境と関わり、私たちを環境へと開きます、けれども個々の感覚を通じて私たちが接近するのは環境のまったく特定の領域なのですが。さて、私たちの日常言語からしてもう、私たちが内部に、感覚が志向するこれらさまざまな領域を統合する何かを原理として持っていることを示してくれます。私たちはたとえば、暖色と寒色について語ります、これはさしあたり私たちの状況にとって単に比喩的なものにすぎない、私たちはやはり感情の感覚を通して冷たさと暖かさを、視覚を通して色彩を、明るさと闇を知覚するのだ、と感じるにしてもです。つまり私たちは、暖色と寒色について語り、私たちが感じるある種の内的な親和性から、ある感覚が知覚するものを、別のものに適用するのです。私たちがこのように表現するのは、私たちの内部で、ある種の視覚が、私たちの熱感覚によって知覚されるものと溶け合っているからです。繊細に感じ取る人々、鋭敏な人々は、ある種の音を聞いて、ある種の色彩を内的に思い浮かべさせられるように感じることができます。ですから、彼らのなかに赤の色彩表象を呼び起こすある音について、あるいは彼らのなかに青の色彩表象を呼び起こす別の音について語ることができるのです。つまりわたしたちの内部には、個々の感覚領域を統合する何か、魂にとってのひとつの全体を個々の感覚領域から形成する何かが生きているのです。鋭敏であればさらに進むこともできます。たとえば、ある町に行くと、この町は私には黄色い町という印象だと言い、また別の町に行くと、この町は赤い町という印象だ、また別の町は白、あるいは青と言う、こういうふうに感じる人々がいるのです。私たちは、私たちに働きかけるものの総計を私たちの内部で色彩表象に置き変えます、私たちは個々の感覚印象を私たちの内部でひとつの全体感覚(Gesamtsinn)と統合します。感覚領域ひとつひとつに向けられるのではなく、私たちの内部に生き、私たちが感覚印象のひとつひとつを加工することにより、ひとつの統一的知覚で満たすように私たちを満たす。そういう全体感覚と統合するのです。私たちはこれを内感覚と呼ぶことができます。私たちが通常、苦しみと喜び、激情と情動において単に内的に体験するものすべてをも、この内感覚が与えてくれるものと一緒にすることができるので、私たちはそれだけいっそうこれを内感覚と呼ぶことができるのです。私たちはある激情を暗く冷たい激情と呼ぶことができ、また別のそれを暖かい、光に満ちた、明るい激情と呼ぶことができます。つまり私たちの内部は、内感覚を形成するものに作用を返している、私たちはこう言うこともできます。私たちが外界の個々の領域へと向ける多くの感覚に対して、私たちの魂を満たすこのようなひとつの感覚について語ることができます、これについて私たちは、この感覚は個々の感覚器官とは関係ない、私たちの人間存在全体がその道具として用いられるのだということを知っています。この内感覚をマナスと呼ぶことはまったくサーンキヤ哲学の意味においてです。この内感覚を実質として形作るもの、これは、サーンキヤ哲学の意味において、後の形態所産としてアハムカーラから展開してくるものです。したがって私たちはこう言うことができます、最初に源流、次いでブッディ、次いでアハムカーラ、次いで、私たちの内部に内感覚として見出されるマナスと。この内感覚を観察したいと思うとき、私たちは個々の感覚を取り上げ、個々の感覚による知覚が内感覚のなかで互いにつなぎ合わされているということによってどのような想定ができるかいわば確かめてみるということによって、この内感覚を今日私たちは明確に理解します。今日私たちがそうするのは、認識の方向が逆転しているからです。私たちの認識の展開を眺めるとき、それは個々の感覚の差異から出発し、共通感覚へと上昇することを目指す、と言わざるを得ません。けれども展開は逆なのです。宇宙生成においてまずアハムカーラからマナスが展開し、次いで原物質(Ursubstanzen)が、私たちの内部に感覚として備わっている個々の感覚を形成する力が分化しました、ただしこれは物質的感覚器官、これは物質体の一部ですが、それのことではなく、まったくもって超感覚的な形成力(Bildekraefte)として根底にある力のことですが。つまり私たちが展開形態の階梯を降りていきますと、私たちはサーンキヤ哲学の意味で、アハムカーラからマナスへと至り、そしてマナスが個々の形態に分化して、私たちの個々の感覚を構成する超感覚的力を生み出すのです。このように、私たちが個々の感覚を見るとき、魂がこれらの諸感覚に参加するので、サーンキヤ哲学が今与えてくれるものを、私たちの学説の内容でもあるものに対比することが可能です。と申しますのも、サーンキヤ哲学は次のように語るからです、マナスが諸感覚の個々の宇宙力へと分化しうることで、魂はこれら個々の形態に沈潜する。私たちが知っていますとおり、魂はこれらの形態から区別されます。けれども、魂がマナスのなかへと沈潜するように、魂がこれらの個々の形態のなかへと沈潜することで、魂的なものは、これらの感覚力を通じて作用し、これらの感覚力と編み合わされ織り合わされる。そうすることによって魂的なものは、その霊的ー魂的な本質から外界との結び付きを得、外界を好むことができるようになり、外界に喜び、共感を感じることができるようになる。つまりたとえば、眼を構成する力実質はマナスから分化したのです。以前の段階においては、つまり人間の物質体がまだ今日のような形態をとっていなかった頃、サーンキヤ哲学はこのように表象します。そこには、魂はまさに、眼を構成する単なる力のなかに沈潜していました。私たちが知っていますように、今日の人間の眼は、なるほど土星段階においてもうその素地を与えられてはおりましたが、今日松果腺のなかに萎縮して私たちの前に姿を見せている熱器官が後退したあとにようやく、つまり比較的後になってから発達しました。これを発達させた力は、超感覚的にはすでに存在していたのであり、魂はそのなかに生きていたのです。サーンキヤ哲学はさらに語りま。魂がこれらの分化原理のなかに生きることにより、魂は外界の存在 (Dasein)に愛着し、この存在への渇きを生み出すのだと。感覚力を通じて魂は外界と関わりを持ちます。存在への愛着が、存在への欲求が生まれます。魂はいわば、感覚器官を通じてその触覚を送り出し、外的な存在と力的(kraftmaessig)に関わりを持つのです。諸力の総体として、諸力のリアルな総体として捉えられたまさにこの力的な関わりを、私たちは人間のアストラル体のなかで統合します。サーンキヤ哲学は、マナスから分化されてきた個々の感覚力のこの段階における共同作用について語っているのです。この感覚諸力からさらにまた精妙なエレメントが生じます、人間のエーテル体はこれらから作られていると私たちが考えているものです。これは比較的後になってからの産物です。私たちは人間のなかにこのエーテル体を見出します。つまり私たちはこのように思い描かなければなりません、展開(Entwickelung)にともなって、源流、ブッディ、アハムカーラ、マナス、感覚実質、精妙なエレメントが形成されてきた、と。外界、自然界にも、これら精妙なエレメントはエーテル体ないし生命体として存在していますね、たとえば植物の場合です。ここで私たちは、サーンキヤ哲学の意味で、この進化(Evolution)全体の根底にあるものは、植物の場合、上から下へと源流から下降してくる展開なのだというふうに思い描かなければなりません。ただ、植物の場合、このすべてが超感覚的なもののなかで起こり、植物のエーテルないし生命体のなかに生きている精妙なエレメントへと濃密化してはじめて物質界において現実(リアル)となるのですが、他方人間の場合は、現在の進化においてすでに、より高次の形態と原理がマナスから物質的に顕現しています。個々の感覚器官が外的に顕現させられているのですが、植物の場合、あの後になってからの産物が、感覚実質が精妙なエレメントへ、エーテル的なエレメントへと濃密化してはじめて生じます。そして、エーテル的なエレメントがさらに濃密化して、粗雑なエレメントが生じます、物質界で私たちが出会うすべての物質的なものはこのエレメントからできています。つまり私たちが下から上へと進むと、サーンキヤ哲学の意味で、人間を次のように分けることができます、粗雑な物質体、精妙なエーテル体、アストラル体、この言い方はサーンキヤ哲学では使われず、代わりに諸感覚を構成する力体という表現がされますが、そして内的感覚つまりマナス、そしてアハムカーラ、つまり人間の個の根底にあり、単に人間が個々の感覚領域を知覚する内感覚を持つだけでなく、人間が自らを個別の存在そして、個として感じることができるようにする原理。アハムカーラはこういうことを引き起こすのです。さらに人間のなかに素質として備えられているさらに高次の原理が来ます、ブッディと、通常の東洋哲学でアートマンと呼び慣わされているもの、私たちが特徴づけたように、サーンキヤ哲学により霊的源流として宇宙的なものと考えられているものです。 このようにサーンキヤ哲学においてはいわば、人間の構成が完全に描き出されているのがわかります、この人間が、過去、現在、未来において、魂として実質的な外的自然原理をいかに身にまとうか、その際、自然のもとでは単に外的なもの、可視的なもののみではなく、不可視のものに至るまで自然のあらゆる段階が理解されていたのですが、そのようすが描き出されているのがわかるのです。このようにサーンキヤ哲学は私たちが今述べました諸形態を区別します。そして、形態あるいはプラクリティのなかに、つまりあらゆる形態を粗雑な物質体から上は源流にいたるまで包括するこのプラクリティのなかに、プルシャ(urusha)が、霊的ー魂的なものが生きています、ただしこの霊的ー魂的なものは個々の魂のなかにモナド的に表わされるので、個々の魂モナドは、この物質的(マテリアルな)原理であるプラクリティーー物質的というのは今日の唯物論的な意味ではありませんがーーが始めもなく終わりもないと考えられるのと同様に、いわば始めもなければ終わりもないものと考えられます。この哲学はつまり、魂の多元論(Pluralismus)を表象しています、魂がプラクリティ原理のなかへと沈んでいき、魂が包まれていた最高の、分割できない源流の形態から、粗雑な物質体への受肉へと下降展開していき、それからまた逆行を始め、粗雑な物質体を克服したのち再び上昇発展していって、再び源流へと帰還し、自由な魂として純粋なプルシャへと入っていくためにこの源流からも自らを解き放つ、そういう魂の多元論です。私たちがこのような認識を私たちに作用させますと、いわばこの太古の叡智の根底にあるものは、私たちの魂的な沈潜が与えてくれる手段によって私たちが今日ふたたび獲得するものだということがわかります。さらにサーンキヤ哲学の意味で、この形態原理のそれぞれと魂がいかに結び付けられうるか、そのしかたへの洞察も存在していることがわかります。魂はたとえば、魂がいわばその完全な独立性をブッディの内部でできるかぎり保つ、つまり、ブッディではなく、魂的なものが優勢に働く、というふうにブッディと結びつくことができます。逆の場合もあり得ます。魂がいわば眠りのようなしかたで、なげやりで怠惰にその独立性を覆うこともあります、すると、覆いの性質が全面に出てきます。これは、粗雑な物質から出来ている外部の物質的自然においても当てはまることです。私たちはここで人間を観察してみさえすればよいのです。もっぱら魂的ー霊的なものが表面に出ていて、そのため粗雑な物質体を通じて伝えられるあらゆる動き、あらゆる身振り、あらゆる眼差しが、霊的ー魂的なものがそこに現れているという事実に対して後退している、そういう人がいます。私たちの前にひとりの人間がいて、彼の粗雑な物質体が私たちの前に立っているのを見ます、その人の動き、身振り、眼差しのなかで何かが私たちに示され、私たちはこう言うのです、この人は、まったく霊的ー魂的であり、彼は物質的原理を、この霊的ー魂的なものがそこで生きるためにのみ用いると。物質的原理は彼をうち負かすことはなく、彼はいたるところで物質的原理に対する勝利者なのです。魂が外的な覆いの原理(Huellenprinzip)をうち負かしているこの状態はサットヴァ状態です。このサットヴァ状態については、魂のブッディ及びマナスに対する関係の場合にも、精妙なエレメントと粗雑なエレメントから成る体に対する魂の関係の場合にも、語ることができます。と申しますのも、魂がサットヴァのなかに生きている、と言うとき、これは魂の、魂を覆うものに対するある特定の関係、当の存在における霊的原理の自然原理に対する関係、プルシャ原理のプラクリティ原理に対する関係のことを意味しているに他ならないからです。けれども私たちはまた、粗雑な物質体にまったくうち負かされているひとと言っても、今このことに道徳的な性質を付与する必要はありません、サーンキヤ哲学の意味における純粋な特徴づけであって、私たちの霊眼の前に現れるにしても、何らかの道徳的性格づけということではありません。但し、それはを見ることもできます。いわば自分の物質体の重みの下に歩き、肉をたくさん付け、あらゆる身振りに物質体の物質的重みがかかっていて、魂的なものを外的物質体のなかに表現したくてもなすすべを知らない。そういう人が私たちの前に登場することもあるのです。魂が語るとおりに私たちが顔の筋肉を動かすとき、サットヴァ原理が支配します。顔の脂肪の塊が私たちに特定の相貌を刻むとき、魂的原理が外的物質的な覆い原理に圧倒され、このとき魂は、自然原理に対するタマスの関係のなかで生きます。そして両者の間で均衡が支配するとき、サットヴァ状態の場合のように魂的なものが優勢なのでもなく、タマス状態の場合のように外的に覆い的なものが優勢なのでもなく、両者が均衡を保っているとき、このときはラジャス状態について語られます。これらはとくに重要な三つのグナ(Guna)です。つまり私たちは、プラクリティの個々の形態、分けられない原質の最高の原理から、下は粗雑な物質体に至るまでの特徴づけを区別しなければなりません、これはひとつの特徴づけ、覆いの原理のみの特徴づけです。覆いの性質のなかのどんな形態であるかに関係なく、魂的なものの覆いに対する関係を特徴づけるべくサーンキヤ哲学が有しているものを、私たちはこの「覆いの原理の」特徴づけから区別しなければなりません。この特徴づけは、サットヴァ、ラジャス、タマス、という三つの状態によって与えられます。今、いわばこのような認識が深く入り込んでいくものを正しく目の前に導き出してみましょう、あらゆる存在するもののこのように包括的な特徴づけを与えることができた、あのいにしえの時代の認識、科学が、存在の秘密をいかに深くのぞき込んでいたか、ひとつ見ていこうではありませんか。ここでまさしくあの驚きが私たちの魂に近づいてきます、これについてはもう語られましたが、私たちはこう言うのです、人類の進化史においてもっとも驚嘆すべきことのひとつは、暗い霊の深みから今日精神科学のなかに再び現れてきたものが、すでにあのいにしえの時代に存在していたことだ、と。それは当時別の手段によって達成されたのですが。これらすべては、かつて存在していたひとつの智だったのです。私たちが霊の眼差しを特定の太古の時代に向けるとき、この智が目にとまります。さらに私たちはそれに続く時代に目を向けます。私たちは、古代ギリシア時代においてさまざまな時期の霊内容として通常私たちに紹介されるものを見ます、また、古代ギリシアに続く時代つまりローマ時代において、またキリスト教中世の時代において。私たちは、より古い文化が近代まで与えてきたもの、精神科学が人類の原初の智(Urwissen)に劣らない何かを再びうち立てた時代になるまで与えてきたものを見ます。私たちはこのすべてを見渡し、こう言うことができます、これらの時代にはしばしば、あの原初の智への単なる予感さえもが欠けていたと。存在のあの壮大な領域の認識に代わって、超感覚的、包括的な古い認識に代わって、単なる外的物質的存在の認識が脚光を浴びるようになってきました。実際のところ、三千年にわたる進化の意味とは、古い原初の智の代わりに、物質的物理的な場の外的な智がますますいっそう場所を占めるようになったということだったのです。そして、物質的な領域にのみ残っていたということ。皆さんにこう述べることを差し控えたくないと思いますが、ギリシアの哲人の時代にもまだ、古いサーンキヤの智の名残りのいくばくかが残っていたということを見るのは興味深いことです。本来の魂的なものに対しては、アリストテレスはなるほどまだいくらかの名残りを有していましたが、その名残りはもはや、完全な明晰さという点で古いサーンキヤの智と一緒に並べることができるものではありません。アリストテレスはそうしばしばこれに言及しませんが、彼においてもまだ、人間の本質の粗雑な物質体への区分(☆4)が見出されます、ただこの区分をする際、アリストテレスは自分は魂的なものを与えると考えているのですが、サーンキヤ哲学は、これらが覆いにすぎないことを知っています。私たちには、植物の(vegetative)魂が、サーンキヤ哲学の意味での精妙なエレメント体と一致するであろうことがわかります。アリストテレスはこれで何か魂的なものを与えていると考えていますが、単に魂的なものと体的なものとの間の関係、つまりグナの特徴を述べているのであり、特徴づけとして与えられるもののなかに、彼はまさに覆いの形態のみを与えているのです。次いでアリストテレスは、感覚領域のなかにまで延びてくるもの、私たちがアストラル体と呼ぶものに対して、彼が魂的原理として区別する何かを与えます。つまり彼はもはや、魂的なものを、体的なものからはっきりと区別していないのです、彼にとって魂的なものが、すでに体的に形態をとったもののなかに沈み込んでいるからですが、彼はアイステティコン(Aisthetikon)を区別し、さらに魂的なもののなかで、オレクティコン(Orektikon)、キネティコン(Kinetikon)、ディアネティコン(Dianoetikon)を区別します。これらはアリストテレスの意味における魂的な諸段階ですが、アリストテレスにおいてはすでにもはや、魂的なものと覆い的なものとがはっきりと区別されているとは言えません。アリストテレスは、魂を区分すると信じていますが、他方サーンキヤ哲学は、魂をそれ自身の本質においてまったくモナド的に把握し、魂を細分化するものをすべて、覆い原理のなかへ、プラクリティ原理のなかへ、いわば外部へと移し替えたのです。つまり魂的なものにおいては、アリストテレスの場合でさえすでにもう、私たちがサーンキヤ哲学のなかに発見するあの太古の学への追想を語ることができるたような状況ではないのです。けれども、物質的(マテリアル)な領域とでもいうものにおいては、アリストテレスはまだ、三つの状態の原理が響いてくるような何かを語るすべを心得ています、彼が色彩における光と闇について語るとき(☆5)がそうです。彼は言います、自身のうちに闇をより多く持つ色彩と、より多く光を持つ色彩と、その中間に位置する色彩があると。アリストテレスの意味では、次のように言うときがそうなのです、つまり、青と菫色に向かう色彩の場合、暗さが光を凌(しの)いでいる、そして闇が光を凌ぐということによって、色彩は青及び菫色になる、さらに、両者の間に均衡が保たれていることによって色彩は緑あるいは黄緑色になり、光原理が闇を凌ぐとき、色彩は赤みがかった色あるいはオレンジ色になると。サーンキヤ哲学においては、この三つの状態の原理は宇宙(世界)観を全体的に包括するためのものです、霊的なものが自然的なものより優勢であればサットヴァが得られます。アリストテレスは、色彩について語るときにはまだ、この同じ特徴づけを有しています。彼はこの言葉を用いてはいませんが、こう言うことができるでしょう、赤と黄赤は光のサットヴァ状態を示し、アリストテレスの場合もはやこの表現法は用いられませんが、彼の場合にはまだ古いサーンキヤ原理が存在しているのです。緑は光と闇に関してラジャス状態を示し、闇が優勢である青と菫色は、光と闇に関してタマス状態を示していると。アリストテレスがこういう表現を用いないとしても、サーンキヤ哲学において宇宙(世界)状態の霊的把握から私たちに姿をみせる思考方法が、まだ入り込んできているように見えます。つまり、アリストテレスの色彩論のなかに、古いサーンキヤ哲学の余韻がみとめられるのです。けれどもこの余韻は失われてしまいました。そして私たちが、色彩世界の外的領域における、サットヴァ、ラジャス、タマスというこの三つの状態の最初の輝きを体験するのは、ゲーテが行った厳しい闘いにおいてです。と申しますのも、色彩世界をサットヴァ、ラジャス、タマス状態へと区分する古いアリストテレス的分類がまったく埋葬されてしまった後、同じものがふたたびゲーテにおいて現れるからです。今日まだ現代の物理学者たちにはそしりを受けていますが、ゲーテ的色彩論は、まさに霊的叡智の原理から引き出されてくるのです。今日の物理学がこの問題においてゲーテを認めないとしても、その立場からすれば正しいのですが、これは、今日の物理学はこういう事柄においてまさしくすべての良き神々から見捨てられている、ということを示すにすぎません。今日の物理学にとっては当然のことですが、そういうわけで物理学はゲーテの色彩論を罵ることができるのです。しかし今日の真の科学を隠された(オカルトの)原理と結びつけようとするなら、今日ほかならぬゲーテ的色彩論を支持せざるを得ないでしょう。と申しますのも、ここでふたたび、私たちの科学文化のさなかから、かつてサーンキヤ哲学における霊的原理として優勢であった原理が浮かび上がってくるからです。愛する友人の皆さん、私がなぜたとえば何年も前に、ゲーテ的色彩論の物理学としての真価を、ただしオカルト的原理に基づいた物理学ですが、真価を再び発揮させることを課題としていたか(☆6)、ご理解いただけるでしょう。と申しますのも、ゲーテはサットヴァ、ラジャス、タマスという三つの状態にしたがって描くことで色彩現象を分類する、と、まったく事実に即して言うことができるからです。このように、新たな手段によって研究されて霊の闇から新たな精神史のなかへと出現してくるように、かつて人類にまったく別の手段を通じて獲得されていたものが現れてきます。このサーンキヤ哲学は、前仏教的なものであり、これは実際ブッダ伝説を手に取るようにありありと私たちの眼前に見せてくれるとでも申し上げたいものです。と申しますのも、インド的教義が、サーンキヤ哲学の祖はカピラだと語るのは正しいからです。ブッダはカピラヴァストゥ(☆7)のカピラの居住地で生まれました、このことはブッダがサーンキヤ学説から育ってくることを示唆しています。ブッダ自身がその誕生を通じて、この偉大なサーンキヤ哲学を初めて集大成した人がかつて影響を与えた場所に置かれたのです。このサーンキヤ説の、私たちが語ってきました他の精神潮流への関係を思い浮かべてみなければなりません、今日の西洋の東洋学者たちの多くが描いているようにでもなく、イエズス会士ヨーゼフ・ダールマン(☆8)が描いているようにでもなく、これら三つの精神潮流が形成された当時は人類進化の一番最初の原初状態はもはや存在していなかったために、古代インドのさまざまな分野に異なった人々が生きていたことをです。そうですね、インドの北東地域においては、人々の性質は、サーンキヤ哲学において与えられているように表現しようとする衝動を感ずる、というようなものでした。そこから西部に行くと、人間の性質は、世界をヴェーダ説の意味で表そうとする衝動を感じる、といったものでした。つまり個々のの霊的ニュアンスは、インドのさまざまな地域におけるさまざまな素質の人間性質から発し、ヴェーダンティストが手を加えることによって後になってはじめて挿入されたものもあり、その結果、今私たちの前に姿を現すヴェーダのなかには、サーンキヤ哲学から多くが挿入されていることがわかります。そして、第三の精神方向であるヨーガーーもうすでにお話ししましたがーーが登場します、なぜなら、原初の霊視は徐々に消え去り、霊の高みへの新たな道を探さなければならなかったからです。サーンキヤの考察が本来真正の科学であり、外的形態めがけてゆく科学であり、これは本来これらの形態と、さらには人間の魂のこれら形態への相互関係を把握するのみである、ということによって、ヨーガはサーンキヤの考察から区別されます。霊的高みに至るために魂はどのように進化してゆくべきか、ということに対しては、ヨーガが指針を与えるのです。そして私たちが次のように問うならば、つまり比較的後の時代に、あるインドの魂が、一面的に進化を欲したのではなく、単なる外的な形態の観察によって前進することを欲したのでもなく、恩寵に満ちた光明によって根源的にヴェーダに与えられていたようなものを再び展開させるために、魂的な存在そのものをも上昇させようとしたあるインドの魂が、どのようにふるまわなくてはならなかっただろうか、と問うならば、崇高な歌のなかでクリシュナが弟子のアルジュナに与えるもののなかに、私たちは答えを得ます。このような魂は、次のような言葉で表現できるように進化していかなければならなかったでしょう。そうだ、お前は外的形態のなかに世界を見る、そしてサーンキヤの智に浸透されるとき、お前は個々の形態がいかに源流から展開下降してくるかを見るのだ。けれどもお前は、いかに諸形態が入れ替わり立ち替わり移り変わっていくかも見る。お前の眼差しは形態の発生と消滅を追い、お前の眼差しは形態の誕生と死を辿る。けれどもお前が、いかに形態から形態へと移り変わっていくか、いかに形態が生じ滅するかを徹底的に考え抜くなら、お前の省察はこれらすべての形態のなかに自らを表すものを指し示すのだ、お前の徹底的な省察は霊的原理を指し示すのだ、これらの形態のなかに生き、これらの形態の内部で変転し、あるときはサットヴァに従って、あるときは他のグナに従って諸形態と結びつくけれども、これらの形態からまた自らを解き放つ霊的原理を。このような徹底的な省察は、諸形態に対して不変の、移ろわない何かをお前に指し示す。なるほど物質的原理も不変である、しかしお前が見ている諸形態は不変ではない、それらは生成し、生じまた滅し、誕生と死を通過していく。しかし魂的ー霊的エレメントは不変である。これにお前の眼差しを向けるのだ!けれどもお前がこの魂的ー霊的なものそのものを体験することができるためには、お前がこの魂的ー霊的なものを、お前のうちにもお前の周りにも、お前とひとつであると感じつつ体験することができるためには、お前は、お前の魂のなかにまどろんでいる力を発達させねばならない、お前はヨーガに帰依しなければならない、存在[Dasein]の魂的ー霊的エレメントへの敬虔な眼差しをもって始まり、特定の行を用いることによりまどろんでいる諸力の開発に導くヨーガに。こうして弟子はヨーガを通じて段階を追って上昇していくことになるのだ。霊的ー魂的なものへの敬虔な崇拝、これが魂そのものを前へと導く別の道である、変転する諸形態の背後に一なるものとして霊的なものとして生きているもの、かつてヴェーダが恩寵に満ちた光明によって告げ知らせたもの、魂がヨーガを通じて、形態のあらゆる変転の背後に探し求められるべきものとして再発見するであろうものに導く別の道である。このように進むがよい。最高の師は弟子にこう語ることができたでしょう。このようにサーンキヤ哲学の、形態の、グナの智を通って進むがよい。サットヴァ、ラジャス、タマスについての観察を、最高の物質性(Stofflichkeit)から最も粗雑な物質性までの観察を通って進むがよい、このように理性にのっとって通過して行き、こう言うがよい、不変のもの、一なるものが存在するはずだ、と。そうすれば、お前は思考しつつ永遠に至る。けれどもお前は魂において帰依から出発することもできる、このときお前はヨーガを通じて段階を追って突き進み、あらゆる形態の根底にある霊的なものへとこうして突き進んで行く。二つの面からお前は永遠のものに近づくことができる、宇宙(世界)を思考しつつ観察することを通して、そしてヨーガを通じてである、両者はお前を、偉大なヴェーダの師たちが一なるアートマンーブラフマンと名づけたものへと導く、外部に生きるとともに魂の内部にも生きているもの、一なるものとして宇宙の根底にあるものへ。お前はこれに向かって突き進む、一方ではサーンキヤ哲学を通して思考しつつ、他方ではヨーガを通じて帰依しつつ歩むことによって。このように私たちは古い時代を振り返ります、当時はいわばまだ、『血はまったく特別の体液だ』という著作に示しましたように、血を通じて人間の本性に霊視的な力が結びついていました。けれども人類は、進化にともなって徐々に、血に結びついたあの霊視的原理からより魂的ー霊的原理へと前進して行ったのです。けれども、種族と民族の血縁関係のなかで素朴に獲得されていた魂的ー霊的なものとの関係が失われていないがゆえに、この関係が失われていないがゆえに、血縁関係からもはや血縁関係が支配しない時代への移行に際して、新たな方法が、新たな指針が与えられねばなりませんでした。新たな方法へのこの移行にあたって、私たちを導くのがこの崇高な歌、バガヴァッド・ギーターです。そしてギーターは、クル族とパーンドゥ族出身の王族の兄弟の後裔たちがいかに互いに闘うかを物語ります。私たちは一方で、ギーターの内容が始まる過ぎ去った時代を仰ぎ見ます、いにしえのインドの人間の智慧と行いがこの智慧の意味でまだ存在していた時代です。私たちはいわば、、クル族出身の盲目の王ドリタラーシュトラにおいて古い時代から新しい時代へと入り込んできたひとつの線を見ます。そして私たちはドリタラーシュトラを御者との対話において見ます。彼は闘う者たちの側に立ち、他方には、古い時代から新しい時代への過渡期にあるがゆえに、彼の血縁でありながら戦闘状態にある者たち、つまりパーンドゥの息子たちが立っています。そして御者は王に物語ります、王が盲目と叙述されているのは私たちにはじゅうぶん特徴的なことです、なぜなら霊的なものはこの種族のなかでは受け継がれていかず、物質的なものだけだからですが、この盲目の王に御者は物語ります、向こうのパーンドゥの息子たちのところで、より霊的ー魂的なものとして後世に伝わるべきものはここに移行していくべきなのですが、そこで何が起こっているかを。さらに、闘う者たちの代表であるアルジュナが、偉大なクリシュナから、人間の教師から、向こうで何を教わったかを御者は物語ります、御者は語ります、私たちが今お話ししましたすべてのことにおいていかにクリシュナが弟子アルジュナを教え導くかを、人間がサーンキヤとヨーガを用い、思考と帰依を発達させ、人類のかつての偉大な師たちがヴェーダのなかに書き留めたものへと上昇していくとき、人間はどこまで行くことができるかを。そして、哲学的であると同時に詩的な言葉のなかで壮大に、クリシュナを通じて、血縁関係から抜け出した新たな時代における人類の偉大な師を通じて、私たちに教えが語られるのです。このように私たちは、ここで何か別のものがなおも古い時代から輝きを発してくるのを見ます。『血はまったく特別の液体だ』という著作の根底にあるあの考察、そしていくつかの同様な考察において私たちは、人類進化がいかに血縁関係の時代から発して後の細分化に至ったか、そしてそれと共にいかに魂的な苦闘が変化したかを示唆しました。そして崇高な歌、バガヴァッド・ギーターにおいて、私たちは直接この移行に導かれます、クリシュナによるアルジュナへの教えのなかで、血に結びついた古い霊視をもはや身につけていない人間がいかに移ろわぬものへと上に突き進んでいかなければならないかが示される、というかたちで導かれるのです。私たちがしばしば人類進化の重要な移行として観察してきたものがこの教えのなかで私たちに姿を現します。このように私たちにとってこの崇高な歌は、私たちが事物そのものから観察してきたものを描き出す図(lustration)となるのです。そしてこのバガヴァッド・ギーターにおいてとりわけ私たちを引きつけるのは、ここで人間の道について強く訴えかけるように語られるその語られかた、移ろうものに対する移ろわぬものへの人間の道についてありありと語られるしかたです。ここで最初アルジュナは深い懊悩に満ちて私たちの前に立っています。このことを私たちは御者の語りから聞きます、なぜなら語られることは、盲目の王ドリタラーシュトラの御者の口から発しているからです。ここでアルジュナは懊悩を抱えて私たちの前に立っています。彼は、クル族と、彼の血縁の者たちと闘いつつ、自らを見つめます、そして今や彼はこう自問します、ここでわが血縁の者たちと闘う定めなのか、父たちの兄弟の息子たちと。近親者に対して武器をふるう定めにある英雄たちも我らのなかにいる、そしてまたあそこにも我らに対して武器をふるう定めにある賞賛すべき英雄たちがいると。ここで彼は重い魂の苦悶を感じます、この闘いで勝利することができるのか、この闘いで勝利することが許されるのか、兄弟に向かって剣を挙げることが許されるのだろうかと。ここでクリシュナが、偉大な師が彼の前に進み出て、彼にこう語ります、まずは思考しつつ観察することによってお前の眼差しを人間の生に向けるがよい、そしてお前自身が今そうである状況を見るがよい。お前が制圧するであろうクル族出身の者たちのこの肉体のなかには、すなわち移ろう形態のなかには、これら形態のなかに自らを表現するのみの移ろわぬ魂的な本性が生きているのだ。お前の戦友たちのなかには、外界の諸形態のなかに自らを表現するのみの永遠の魂が生きているのだ。お前たちは闘わねばならないであろう。お前たちの法則がそのように望み、お前たちの宇宙法則が、人類の外的進化の法則がそのように望んでいるからだ。お前たちは闘わねばならないであろう、ある時代からまた別の時代へと移行を示す瞬間がそのように望んでいるのだ。けれども悲しむには及ばない。なぜなら形態が形態と、変転する形態が変転する形態と闘うだろうか。これらの形態のどれが他の形態を死へと導くだろうか。死とは何か、生とは何か。形態の変転は死であり、生である。そして今勝者となるであろう魂も同様であり、今死へと赴くであろう魂も同様である。そして、サーンキヤの思考しながらの観察がお前を導いていくものに対して、対峙し合う永遠の魂に対して、この勝利とは何であろうか、この死とは何であろうか。アルジュナがその存在の最も内奥で魂の苦悶を堪え忍ぶことがあってはならない、今アルジュナを闘いへと招喚する義務にのみ仕えさせたい、なぜなら、闘いに巻き込まれている移ろうものから、彼が勝者であろうと敗者であろうと生き続けるであろう永遠のものへと、彼の眼差しを向けさせなければならないから、ということが、壮大なしかたで、状況そのものから描写されます。そしてこのように独特のしかたで、崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて大きな音が打ち鳴らされます、重要な人類の進化上の事件に対する音、移ろうものと移ろわぬものの音が。そして、私たちが抽象的な思考を把握するのではなく、事柄の感情内容を私たちに作用させるとき、私たちは正しい道を歩んでいるのです。私たちがクリシュナの教示を次のように考察するとき、私たちは正しい道を歩んでいます、つまりクリシュナはアルジュナの魂を、そこにいれば移ろうものの網のなかに絡め取られてしまう段階から上昇させようとしている、たとえこの移ろうものが、勝利と敗北、死をもたらすことと死を被ることにおけるように、直接の人間の魂にとっては苦悩に満ちたしかたで目の前に現れるとしても、移ろうものすべてに対して魂が自らを崇高と感じるより高い段階へと上昇させようとしていると。崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて私たちに現れてくるようなこの東洋の哲学に関連して、かつて誰かがこう言ったことがほんとうであるとわかります、この東洋の哲学は、あのいにしえの時代にあって、同時に宗教である、そのひとりに、たとえ彼が高度の知者であったとしても、きわめて深い宗教的情熱が不足することなく、また単に感情宗教のなかにのみ生きていたきわめて素朴な人間であっても、一定量の叡智に欠けることはなかったという意味で同時に宗教であると。私たちはそう感じます、偉大な師クリシュナが単に弟子の理念を捉えるのみではなく、直接心情のなかに働きかけ、その結果弟子は移ろうものを眺め、移ろうものを苦悩しつつ私たちの前に立ち、そして彼の魂はこのような意味深い状況において、あらゆる移ろうものを超え、あらゆる苦悩を超え、移ろうもののあらゆる悩みと苦痛を超えて魂をそびえさせる高みへと上昇してゆく、その様子を見て私たちはそう感じるのです。□編註☆1 シャンカラチャルヤ(通常シャンカラ 紀元後788ー820):インドの重要な叡智の教師。ヒンドゥー教ではシヴァの化身として崇拝される。仏教の敵対者。バガヴァッド・ギーターを含むきわめて重要な宗教的文書の注釈者であり、古典となったヴェーダ体系の確立者。☆2 アストラル体、エーテルあるいは生命体、及び物質体;感受魂、悟性あるいは心情魂、意識魂:ルドルフ・シュタイナー「神智学」(1904 、GA9)「人間の本質」の章参照。☆3 創世記の精神科学的根拠づけについて行いました連続講義:「創世記の秘密。モーゼ第一書の第6日の仕事」(ミュンヘン1910)GA122。☆4 人間の本質の区分:アリストテレス『デ・アニマ』、特にII冊1ー3章;アイステティコンは感覚によって刺激され感受する魂の部分;オレクティコンは魂の欲望する部分;キネティコンは魂の運動する部分;ディアネティコンは魂の思考する部分。☆5 彼が色彩における光と闇について語るとき:アリストテレスにおける色彩論に関するさまざまな箇所(『魂について』II,7;「感覚的知覚について」第2章及び『自然科学小論集』)がゲーテによって『色彩論の歴史』にまとめられた。『ゲーテ自然科学論文集』5巻(ルドルフ・シュタイナーによる編集、注解、キュルシュナー『ドイツ国民文学』1884ー97に所収)、GA1a-e ドルナハの遺稿 1975:IV『色彩論についてII』28-37頁「アリストテレス」参照。それに続くペリパトス的論集も。☆6 私がなぜ…ゲーテ的色彩論の…真価を再び発揮させることを課題としていたか:ルドルフ・シュタイナー『わが生涯』(1923ー1925 GA28 )V章及び索引参照。R・シュタイナーは1882年以来、キュルシュナー『ドイツ国民文学』の『ゲーテ自然科学論文集』の編集を委託されていた。1890年から1897年、彼はワイマールのゲーテーシラー文庫においてゾフィー版のためにこの論文集の編集を行った。☆7 カピラヴァストゥ:インド北部、ヒマラヤの麓に位置する。この場所は19世紀に、ネパールのPadeire村付近で考古学者たちに再発見された。☆8 ヨゼフ・ダールマン:1861ー1930 サーンキヤ説の他の精神潮流への関係については彼の著作『叙事詩にして法律書としてのマハーバーラタ』(ベルリン1895)225ー233頁参照。参考図:Soul-Color人気ブログランキングへ
2024年04月22日
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ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)第二講/1912年12月29日、ケルン (2000.5.24登録/2000.11.26一部改訳)☆概要 ・バガヴァッド・ギーターの認識の基礎:太古の霊視の名残に浸透されていた前仏教的なインド文化の認識段階 ・サーンキヤ哲学と初期神智学運動の用語 ・サーンキヤ体系におけるプラクリティ原理:形態(=霊的ー魂的なものがまとう覆い)の原理の展開 ・アハムカーラとマナス:統一的内感覚としてのマナスから個々の感覚の基礎が生じる ・プルシャ(=個々の魂モナド)は個々の形態(=プラクリティ、覆い)のなかに下降展開していき、それを克服しつつまた上昇し、純粋なプルシャとなるためにプラクリティから解き放たれる ・魂的なもの(プルシャ)と覆い原理(プラクリティ)との関係:三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマス ・アリストテレスにおけるサーンキヤ体系の名残り ・ゲーテによるサーンキヤーアリストテレス的色彩論の新たな復興 ・外的形態の原理と形態と魂の関係のみに向かう科学としてのサーンキヤ哲学、霊的高みへの魂の進化のための指針としてのヨーガ ・ヨーガの帰依の行は外的形態の根底にある霊的なものへと導く ・血によって人間の本性に霊視的な力が結びついていた時代から参照画:Bhagavad Gita-1人気ブログランキングへ
2024年04月21日
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ルドルフ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡 GA142Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)●第一講/1912年12月28日、ケルン (1999.11.13登録/2000.11.26一部改訳)●第二講/1912年12月29日、ケルン (2000.5.24登録/2000.11.26一部改訳) ●第三講/1912年12月30日、ケルン (2000.7.29登録/2000.11.26一部改訳)●第四講/1912年12月31日、ケルン (2000.9.29登録/2000.11.26一部改訳)●第五講/1913年1月1日、ケルン (2000.11.26登録)●「バガヴァッド・ギータとパウロ書簡」メモ 第1講 by KAZE (2006.6.20.登録)ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナーバガヴァッド・ギータとパウロ書簡(GA142)Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe翻訳紹介(全5講)(翻訳者:yucca)※レスポンス:バガヴァッド・ギーターとパウロの手紙に関する情報を探してみましょう。バガヴァッド・ギーターは、ヒンドゥー教の古代の哲学的なテキストであり、インドの叙事詩であるマハーバーラタの一部として収められています。主人公のアルジュナと神の化身であるクリシュナとの間で行われる対話が中心です。これは、人生の目的、道徳、義務、そして宇宙の本質についての教訓を含んでいます。一方、パウロの手紙は、キリスト教の聖書である新約聖書の一部であり、初期のキリスト教共同体に宛てたパウロ(使徒パウロ)による書簡です。これらの手紙は、キリスト教の教義、教会の運営、そして信者への励ましを含んでいます。バガヴァッド・ギーターとパウロの手紙は、宗教的なテキストとして異なりますが、それぞれの文化や宗教における倫理、道徳、人生の目的についての深い洞察を提供しています。比較研究では、異なる宗教や哲学の視点から、人間の存在や宇宙の本質について理解を深めることができます。第一講/1912年12月28日、ケルン (1999.11.13登録/2000.11.26一部改訳) 今日私たちは狭義の人智学協会設立のいわば出発点に立っており、まさにこのような機会にこそ、私たちの問題の重要さと意義を今一度思い起こすことが許されると思います。人智学協会が新たな文明のためにあろうとする姿は、私たちがこのグループ内部で神智学として営んで参りましたことと、なるほど原理的にはまったく区別されるべきではないかもしれません。それでもこうして新たな名称をつけ加えることは、私たちの魂に誠実と尊厳を思い起こさせるにじゅうぶんかもしれません、この誠実と尊厳をもって私たちはこの精神潮流の内部で活動していきたいと思います、そしてこの連続講演のテーマもこの観点から選ばれました。ひとつのテーマを私たちの問題の出発点において論義したいと思いますが、これは、私たちの精神潮流の、現代の文化生活にとっての重要さと意義を示唆するのに、きわめて多種多様な意味でふさわしいものでしょう。二つの一見かけ離れたものと見える精神潮流、一方は偉大な東洋の詩篇バガヴァッド・ギーター(☆1)において、他方はキリスト教の基礎固めにあれほど親密に関係した使徒パウロの書簡において語られているものですが、このような二つの精神(霊)潮流が組み合わされていることに、もしかしたら驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。きょうはひとつ導入として、一方では偉大な詩篇バガヴァッド・ギーターに関連するものがいかにこの現代に入り込み、他方ではキリスト教の出発点に設立されたもの、つまりパウロ主義がいかに入り込んできているかを私たちが指摘すれば、この二つの精神(霊)潮流の近しさをもっとも良く認識できるでしょう。とは言え、この現代の精神生活においては、比較的そう遠くない以前の時代とも、多くが異なっています、そしてまさにこの、まだ少し前に過ぎ去りつつある過去の精神生活と現在の精神生活が異なっているということが、神智学的あるいは人智学的な精神潮流であるものを是非とも必要としているのです。参照画:Bhagavad Gita und Paulusbriefe ひとつ考えてみましょう、比較的近い過去の時代の人間が、現在の精神生活へと飛躍したとき、すでにバーゼル及びミュンヘンでの連続講演(☆2)において強調いたしましたように、三千年、つまり紀元前の千年とまだ終わりきっていない{紀元後の}二千年、キリスト教的な精神潮流に浸透され、貫かれたこの三千年といったいどう関わり合ったかを。少し前、つまり今日私たちが言うような神智学的あるいは人智学的精神潮流の認可について語ることができなかったときに、人類の精神生活のさなかにいた人間は自らに何を言うことができたでしょうか。こう言うことができたのです、現代に入り込んできているのは本来、キリスト紀元に先行するせいぜい一千年に探究され得たものだと。と申しますのも、いわば個人(パーソナリティ/Persoenlichkeit)としてのひとりひとりの人間が精神生活に意味を持ち始めるのは、この紀元前一千年より前ではないからです。以前の時代の精神潮流のなかにはそれほど途方もなく大きく力強く私たちを照らし出すものがあり、個人(パーソナリティ/Persoenlichkeit])、個(インディヴィジュアリティ/ndividualitaet)というものが、精神潮流の根底にあるものから際立って見えることはありませんでした。現在のような狭い意味ではなしに紀元前の最後の千年に私たちが加算することができるものを振り返ると、つまり古エジプトあるいはカルデアーバビロニアの精神潮流を振り返ると、私たちはいわば、互いに連関した精神生活を展望します。突出して、すなわち個そのものが私たちの眼前にまったく霊的に生き生きと登場するのは、ギリシアの精神生活においてようやく始まることなのです。偉大な、力強い教え、宇宙のはるかかなたまで達する力強い展望を、私たちはエジプト時代に、カルデアーバビロニア時代に見出します。ギリシア時代においてはじめて、私たちが個々の人物、ソクラテス(☆3)やペリクレス(☆4)、フェイディアス(☆5)、プラトン(☆6)、アリストテレス(☆7)、といった個人(パーソナリティ)を見る、という事態が始まったのです。個人(パーソナリティ)そのものが生じてくるわけです。これがこの三千年の精神生活の独自性です。私は単に有名な人物たちのことを言っているのではありません、精神生活が個々の人物ひとりひとりに及ぼす印象のことを言っているのです。こう言ってよろしければ、個人(パーソナリティ)というのはこの三千年に出てきた問題なのです。そして、個々人が精神的生活に参加する要求を持つことによって、個々人が精神的潮流を通じて内なる慰め、希望、安らぎ、内なる至福を見出すことによって、精神的潮流が意味を持つようになります。そして比較的最近まで、主として人々の興味の対象は、個人から個人へと経過する限りでの歴史であったために、この三千年の前にあったものに対しては、それほど深く徹底した理解は得られませんでした。つい最近になってからのみ理解できる歴史は、ギリシア精神(グリーヒェントゥム/Griechentum)とともに始まります、そして最初の千年と次の千年の転換期に、キリスト・イエスという偉大な存在に結びつくものが入ってきます。最初の千年には、ギリシア精神が私たちにもたらしたものが突出しています。そしてこのギリシア精神は独自に突出しています、つまりギリシア精神の出発点には秘儀があるのです。そこから流れ込んできたもの、しばしば指摘しましたように、それは、あらゆる分野の偉大な詩人や哲学者、芸術家たちに入り込んでいます。と申しますのも、正しいしかたでアイスキュロス(☆8)、ソフォクレス(☆9)、エウリピデス(☆10)を理解したいなら、私たちはその理解のための源泉を、秘儀から流れ込んだもののなかに探さなければならないからです。ソクラテス、プラトン、アリストテレスを理解したいなら、私たちは彼らの哲学の源泉を秘儀のなかに探さなくてはなりません。ヘラクレイトス(☆11)のような傑出した人物についてはまったく語ることができません。ヘラクレイトスについて皆さんは、私の『神秘的事実としてのキリスト教』という書物のなかで(☆12)、彼がいかに秘儀に立脚していたかを見ることができるでしょう。さらに私たちは、次の千年とともにキリスト教的な衝動が精神進化のなかに流れ込むのを見、そしてこの第二の千年が、このキリスト教が次第次第にギリシア精神を受け容れ、ギリシア精神と一体化する、というふうに経過していくのを見ます。この第二の千年全体は、ギリシア精神から生きた伝統、活き活きとした生全般のなかにもたらされたものと、力強いキリスト衝動が一体化していく、という経過を辿ります。したがって私たちは、たいへんゆっくりと徐々に、ギリシア的叡智、ギリシア的感情、ギリシア的芸術家精神がキリスト衝動と有機的に結合していくようすを見るのです。これが第二の千年の経過です。次いで、個人文化の第三の千年が始まります。この第三の千年のなかに、別のしかたでギリシア精神が作用を及ぼしているのが見えると言ってよいかもしれません。たとえば、ラファエロ(☆13)、ミケランジェロ(☆14)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(☆15)といった芸術家たちを見るとき、私たちにはそれがわかるでしょう。第三の千年においてはもはや、第二の千年の文化におけるようにギリシア精神がキリスト教とともにさらに生き続けるのではありません。第二の千年において人々はギリシア精神を、歴史的に偉大なもの、外的に観察されるものとして受け容れたのではありませんでした。第三の千年において、人間は直接ギリシア精神に向かわなくてはなりません。ふたたび明らかになる偉大な芸術作品を、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロが自らに作用させ、ギリシア精神がますます意識的なしかたで受け容れられるのを、私たちは見ます。第二の千年にはそれは無意識に受け容れられましたが、第三の千年においては、いっそう意識的に受け容れられるのです。私たちは、このギリシア精神が世界観のなかに意識的に受け容れられるのを見ます、たとえばトマス・アクィナス(☆16)の哲学形成において、彼はキリスト教哲学から流れ出すものをアリストテレスの哲学と組み合わせることを余儀なくされたのです。ギリシア精神はここでも意識的に受け容れられ、その結果、ここで意識的なしかたで、ギリシア精神とキリスト教が哲学的な形態をとって合流します、ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルドの場合は芸術的な形態をとって合流するように。そしてこの動向全体が精神生活を貫いてさらに上昇し、ジョルダーノ・ブルーノ(☆17)、ガリレイ(☆18)において、ある種の宗教的な敵対として現われます。にもかかわらず、いたるところに、ギリシア的理念と概念が、とりわけ自然観と関連して浮上してくるのが見出せます、つまりギリシア精神の意識的な吸収です。けれども、これはギリシア精神より以前には遡りません。あらゆる魂のなかに、たとえば学識があったり高い教養を身につけた人たちばかりでなく、きわめて素朴なひとたちにいたるまで、あらゆる魂のなかに、このような精神生活、ギリシア精神とキリスト教が意識的に合流して入り込んだ精神生活が広がり、生きているのです。大学から農民の小屋のなかにまで、キリスト教的表象をともなったギリシア的表象が、概念とともに受け容れられます。十九世紀になって、ある独特なものが生じます、根本的に、これを形成し行なうには神智学あるいは人智学が適任であるようなものです。どんな力強いことが起こっているかは、ここで個々の現象において見られます。バガヴァッド・ギーターというすばらしい詩篇がはじめてヨーロッパで知られるようになったとき、この詩篇の偉大さによって、深遠な内容を意味する精神によって、心を奪われるのが見られます。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトのようなあれほど深い精神の持ち主が、バガヴァッド・ギーターを知ったとき、これは自分が目にしたもっとも深遠な哲学的な詩篇である、と言い得たのは忘れがたいことでしょう。そしてフンボルトは、バガヴァッド・ギーターを、太古の聖なる東洋から響いてくる偉大な精神の歌を知ることができたので、これほど長生きしたかいがあった、という名言(☆19)を発することができたのです。そして、まだそれほど広範囲にわたってではなくとも、十九世紀において東洋の古代から多くのものが、まさにこのバガヴァッド・ギータからゆっくりと流れ込んだ、というのは何とすばらしいことでしょう。と申しますのも、このバガヴァッド・ギーターは実際、東洋の古代からこちらにそびえる他の文献のようなものではないからです。他の文献は、東洋的な思考と感情を、あれこれの観点から私たちに告げるのを常としています。ところがバガヴァッド・ギーターにおいては、私たちがこれについて、これは東洋の思考と感性と感情のあらゆるさまざまな方向と観点の合流であると言うことができる何かが現われてくるのです。これがバガヴァッド・ギーターの重要なところです。ひとつ古代インドの奥底を見てみましょう。あまり重要でないものを度外視しますと、私たちはまずインドの遠い太古の時代から、いわば三つのニュアンスを帯びた精神潮流がわき上がってくるのを見出します。すでに最初期のヴェーダ(☆20)において私たちに姿を現わし、次いでのちのヴェーダ文学においてさらなる発達をみたこの精神潮流、これは非常に明確な精神潮流であり、後ほどすぐ特徴づけていきますが、私たちがこう言ってよろしければ、これは一面的な、しかしまったく明確な精神潮流です。さらに、サーンキヤ哲学(☆21)における第二の精神潮流が私たちに姿を見せます、これもまた明確な精神の方向性を有しています、そして最後に現われるのは、ヨーガにおける東洋の精神潮流の第三のニュアンスです。これで、私たちの魂の前に、三つのきわめて重要な東洋の精神潮流が置かれたわけです、ヴェーダの流れ、サーンキヤの流れ、ヨーガの流れです。ここで私たちにカピラのサーンキヤ体系として現われてくるもの、パタンジャリのヨーガ哲学(☆22)とヴェーダにおいて私たちに現われてくるもの、これらは、明確なニュアンスを持つ精神潮流であり、この明確なニュアンスを持つがゆえにいわば一面的ではありますけれども、ほかならぬその一面性においてその偉大さを示している精神潮流です。バガヴァッド・ギーターのなかには、これら三つの精神潮流すべてが調和的に浸透しています。ヴェーダ哲学が語り得たことが、バガヴァッド・ギーターからも私たちに輝いてくるのがわかります、カピラのサーンキヤが与えることができたもの、私たちはこれをバガヴァッド・ギーターのなかに見出します。そして私たちにはたとえば、これが寄せ集めのように私たちに現われるというのではなく、これらが、あたかももともとは合体していたかのように、三つの分岐のように調和的にひとつの有機体へと流れ込むということがわかるのです。バガヴァッド・ギーターの偉大さは、この東洋の精神生活には一面においてはヴェーダから、別の面においてはサーンキヤ哲学から、第三の面においてはパタンジャリのヨーガからの流入が見られることを、このように包括的なしかたで叙述していることです。ヴェーダの流れは、きわめて明白な意味において、一元哲学[Einheitsphilosophie]、考えられ得るきわめてスピリチュアル[spirituell]な一元論(モニスムス [Monismus])です。一元論、スピリチュアルな一元論、これはその後ヴェーダンタ(☆23)においてその完成を見るヴェーダ哲学です。私たちがヴェーダ哲学を理解しようとするなら、まずは私たちの魂の前に、次のようなことをとどめておかなくてはなりません、つまりこのヴェーダ哲学が出発点とするところは、人間は自分自身のうちにその本来の自己(ゼルプスト/Selbst)であるきわめて深遠なものを有しているということ、そして人間が通常の生活においてまず把握するものは、この自己の一種の表現あるいは刻印であるということ、人間は自らを展開させうること、そしてその展開は魂の奥底から、ますますいっそう本来の自己の深遠さを引き出してくるということなのです。高次の自己はつまりまどろんでいるかのように人間のなかに休らっています、そしてこの高次の自己は、現代の人間が直接知っているものではないけれども、人間のなかで働いているものであり、人間がそれを目指して進化していくところのものです。いつか人間が自らのなかに高次の自己として生きているものに到達したあかつきには、ヴェーダ哲学によれば、人間は気づくことでしょう、この自己は、あまねく全てを包括する宇宙の自己とひとつである、人間はその自己とともに、このすべてを包括する宇宙自己(Weltenselbst)のなかにまったくもって休らうのみならず、この宇宙自己とひとつなのだと。そして人間がこの宇宙自己とひとつであるというのは、人間はその本質とともに二重のしかたでこの宇宙自己に関係しているということです。身体的に息を吐いたり吸ったりするように、ヴェーダンティストはこの人間の自己の宇宙自己に対する関係をたとえばこのように表象すると私たちは言わなければなりません。息を吸ったり吐いたりするように、そして、外部に普遍的な空気があって内部に私たちが吸い込んだ空気の一部があるように、外部には普遍的包括的な、すべてを貫いて生き活動する自己があり、宇宙のスピリチュアルな自己の観察に身を捧げるとき、ひとはそれを吸い込みます。この自己について感じ取るたびごとに、ひとは霊的にこの宇宙自己を吸い込みます、その魂のなかに取り込むすべてとともに、これを吸い込むのです。あらゆる認識、あらゆる知、あらゆる思考と感情は、霊的な呼吸です。そして、私たちが宇宙自己の一部,とは言えこれはこの宇宙自己との有機的なつながりをとどめています。そのように私たちの魂のなかに取り込むもの、これがアートマン(Atman)です、呼吸(アートメン /Atmen)は、私たち自身に関しては、私たちに吸い込まれても普遍的な空気から切り離され得ない空気の一部のようなものです。このように、アートマンは私たちのなかにありますが、すべてを統べる宇宙の自己であるものからは切り離され得ないのです。そして私たちが身体的に息を吐くように、魂の三昧(Andacht)というものがあります、三昧を通じて魂は、自らの持つ最良のものを、祈りのよう捧げつつこの自己に向けます。これは、霊的な呼気のようです。吸気と呼気のようなアートマンとブラフマンは、私たちを、すべてを統べる宇宙自己に参加する者にします。同時に宗教でもある一元論的ー霊的な哲学がヴェーダ精神(ヴェーデントゥム)において私たちに現われてきます。そしてこのヴェーダ精神は、普遍的な、宇宙を貫いて支配し活動する自己、一なる宇宙の本質とひとつであるというあのあれほど人間を至福にする感情に、最も内なるもの、最高のもののなかに休らう感情に、花開き結実しています。人間と宇宙の一性とのこの関連、人間が大いなる霊的全宇宙のなかにあることをヴェーダ精神は語ります、これを語るのはーーヴェーダの言葉とは言えません、ヴェーダというのがすでに言葉だからですーー与えられた言葉ヴェーダです、ヴェーダ的表象によればあらゆるものを統べる一なる存在から吐き出され、人間の魂を認識の最高の完成形態として自らのなかに受け容れることのできる言葉です。ヴェーダの言葉が受け容れられるとともに、あらゆるものを統べる自己の最良の部分が受け容れられ、個々の人間の自己がすべてを統轄する宇宙自己と連関しているという意識が獲得されます。ヴェーダが語るのは、神の言葉です、それは創造的であり、宇宙を貫いて生き活動する創造的な原理に人間の認識をあのように引き合わせつつ、人間の認識のなかにふたたび生まれる神の言葉です。ですから、ヴェーダに書かれたものは、神的な言葉とみなされ、そしてこれに精通した者は、神的な言葉の所持者とみなされました。神的な言葉は、スピリチュアルなしかたで世界にやってきて、ヴェーダの書物のなかに置かれました。これらの書物に精通した者は、宇宙の創造的な原理に加わったのです。サーンキヤ哲学においては事情は異なります。伝承されたこの哲学がまず最初に私たちに登場するとき、そのなかには一元説[Einheitslehre]とは真反対のものがあります。私たちがサーンキヤ哲学を比較したいと思うなら、これをライプニッツ(☆24)の哲学と比較することができます。サーンキヤ哲学は多元論的な哲学です。私たちに向かって現われる魂のひとつひとつ、人間の魂と神々の魂、これらは、サーンキヤ哲学においては一元的な起源まで追求されるのではなく、個々の、いわば永遠によって成り立つ魂、あるいは少なくともその出発点は一元性には求められない魂として受け容れられます。魂の多元論(Pluralismus)がサーンキヤ哲学において私たちに現われてきます。個々の魂ひとつひとつの独立性が非常に強調され、個々の魂は宇宙においてそれ自体その存在と本質のなかに完結して進化するのです。そして、魂の多元論に対峙しているのは、サーンキヤ哲学においてプラクリティのエレメントと呼ばれるものです。私たちはこれを現代の物質(Materie)という語で現わすことはできません、この語は唯物論的な意味を持つからです。けれどもサーンキヤ哲学においてプラクリティは実質的なものという意味ではなく、これは魂の多元性に対立し、しかも一元性に帰せられるのでもありません。まず最初に魂の多元性があり、そして、私たちがマテリアルな(materiell)基盤と呼ぶことができるもの、いわば宇宙を空間的時間的に貫いて流れる源流(Urflut)、魂が外的に存在するためのエレメントをそこから取り出す源流のようなものがあるのです。魂はこの物質的(マテリアル)なエレメントをまとわなければなりませんが、このエレメントは魂そのものとの一元性に還元されることはないのです。そして注意深く研究すれば、サーンキヤ哲学において、主として私たちに現われてくるのはこのマテリアルなエレメントです。サーンキヤ哲学においては、個々の魂にはそれほど視線は向けられません。個々の魂は、現実に存在する何か、マテリアルな基盤と絡み合い結びつき、このマテリアルな基盤の内部でさまざまな形態(Formen)をとりそれによって自らを外に向かってさまざまな形態(フォルム/Form)で示す何か、として受け入れられます。魂は、いわば個々の魂のように永遠性から思考された基本エレメントを身にまといます。このマテリアルな基本エレメントのなかに、魂的なものが表現されるのです。それによってこの魂的なものはさまざまな形態をとります。そしてこのマテリアルな形態の研究が、とりわけサーンキヤ哲学において私たちに現われてくるものなのです。ここでまず、このマテリアルなエレメントのいわゆる原初的な形態は、魂がまず最初に沈潜する一種の霊的な源流のように現われます。つまり私たちが進化の最初の段階に眼差しを向けるとしますと、マテリアルなエレメントのいわば分化されていないものが得られ、そして、さらなる進化を遂げるために沈潜してゆく魂の多元性が得られるでしょう。つまり、私たちに形態として現われてくる最初のものは、源流という一元的なものからまだ分離されず、進化の出発点にあるスピリチュアルな実質そのものなのです。さらに登場してくる次のもの、魂が個的に身にまとうことのできるものは、ブッディ(Buddhi)です。私たちが源流実質をまとった魂を考えるとき、この魂の現われはまだ、あまねく波打つ源流のエレメントからまだ分離されていません。魂が、あまねく波打つ源流のこの最初の存在にのみ包み込まれるのではなく、次なるものとして生じうるものに包み込まれることで、魂はブッディに包み込まれることができるのです。形を取ってくる第三のエレメント、魂はこれによってますます個的になることができるのですが、この第三のエレメントはアハムカーラ(Ahamkara)です。これは原質(ウアマテーリエ/Urmaterie)が、さらにいっそう低次に形成されたものです。つまり、原質、その次の形態であるブッディ、そしてさらに次の形態であるアハムカーラがあります。その次の形態はマナス、その次の形態は感覚器官、その次の形態はより精妙なエレメント、そして最後の形態が私たちの周囲にある物質的エレメントです。こうしてサーンキヤ哲学の意味でのいわゆる展開ライン(Evolitionslinie)が得られます。上にはスピリチュアルな源流の超感覚的なエレメントがあり、そしてこれがどんどん濃密化していって、私たちの周囲の粗雑なエレメント、粗雑な人間の肉体もこのエレメントから構築されているのですが、このエレメントのなかにあるものに至るのです。その中間にあるのはたとえば私たちの感覚器官を織りなしている実質、それに私たちのエーテル体あるいは生命体を織りなしているより精妙なエレメントです。よろしいですね、サーンキヤ哲学の意味においてはこれらすべては魂の覆いです。すでに最初の源流に由来するものからして魂の覆いです。魂はここで始めて再びその内部にあるのです。そしてサーンキヤ哲学者がブッディ、アハムカーラ、マナス、感覚、より精妙なおよびより粗雑なエレメントを研究するとき、それは魂がそのなかで自らを現わすよりいっそう粗雑な覆いのことなのです。私たちははっきりと理解しておかなくてはなりません、私たちにヴェーダ哲学が、そして私たちにサーンキヤ哲学が現れてくるしかた、これらはそのようにしか私たちに現れてきようがないということをです、なぜなら、少なくともある程度までは太古の霊視がまだ存在していたあのいにしえの時代にこれらは完成されたからです。ヴェーダとサーンキヤ哲学の内容は異なったしかたで成立しました。ヴェーダは徹頭徹尾、根源的な、まだ生来の素質のように原人類のなかに存在するインスピレーションに基づいていて、いわば人間がその本質全体において、準備をするという以外のことをそのために行ったりせずに、自己からやってくる神的なインスピレーションを平静に受け容れるよう促しました。サーンキヤ哲学の成立においては事情は異なります。ここではすでにいわば、今日私たちが学ぶ場合と似たような状態でした、ただ、今日の場合は霊視力に貫かれていない、というだけです。当時サーンキヤ哲学は霊視力に貫かれていました。サーンキヤ哲学は、霊視的な科学、恩寵によってのように上から与えられたインスピレーションだったのです。今日私たちが科学を探究するように探究されていたけれども、まだ霊視力が身近なものであった人々によって探究された科学、これがサーンキヤ哲学でした。したがってサーンキヤ哲学も、本来魂的なエレメントをいわば手つかずのままにとどめます。サーンキヤ哲学はこう語ります、超感覚的外的形態(フォルム)のなかに研究することができるもののなかに、魂は自らをはっきりと打ち出す、けれども私たちが研究するのは、外的形態、魂が形態を身にまとうというかたちで私たちに現れてくる諸形態であると。したがって私たちは、宇宙において私たちに現れてくる諸形態の作り上げられた体系を見出します.私たちが私たちの科学のなかに自然事実の総計を見出すように.ただ、サーンキヤ哲学においては、事実の超感覚的な観照に到るまで観ぜられるのですが。サーンキヤ哲学は、霊視力によって獲得されたにもかかわらず、外的諸形態についての科学にとどまっていて、魂的なものそのものにまでは進入しない科学です。魂的なものはある意味で研究されないままにとどまります。ヴェーダに没頭したひとは、徹底して自らの宗教的生活が叡智生活とひとつであると感じます。サーンキヤ哲学は科学であり、魂がそのなかに自らを刻印する諸形態の認識です。そしてこれに加えて、信奉者においては、サーンキヤ哲学に加えて魂の宗教的帰依もまったくもって成立することができます。そしてこのときこの魂的なものがいかに諸形態のなかに組み込まれていくか,魂的なものそのものではなく、いかに魂的なものが組み込まれるかということがですが、これがサーンキヤ哲学において追求されるのです。魂が魂自身の独立性を守ることが多いか、それとも物質のなかに沈み込むことが多いか、サーンキヤ哲学においてはこれが区別されます。なるほど沈み込んではいるけれども、マテリアルな形態のなかで自らを魂的なものとして保持している、そういう魂的なものが扱われます。このように外的形態のなかに沈められてはいるけれども、自らを魂的なものとして告知し開示する、そういう魂的なものはサットヴァーエレメント(SattvaーElement)のなかに生きています。形態のなかに沈み込んでいるけれども、いわば形態によって覆いつくされ、形態に逆らわない魂的なものは、タマスーエレメント(Tamas-Element)のなかに生きています。そして、魂的なものがそのなかで形態の外的なものといわば平衡を保つもの、これはラジャスーエレメント(Rajas-Element)のなかに生きています。サットヴァ、タマス、ラジャス(☆25)という三つのグナ(構成原理/Guna)は、私たちがサーンキヤ哲学と呼ぶものの本質的な特徴のひとつです。ヨーガとして私たちに語りかけてくるあの精神潮流はさらにまた異なっています。ヨーガは魂的なものそのものに向かいます、この魂的なものに直接向かい、直接的な霊的生活において人間の魂を把握する手段と方法を探求します、こうして魂は宇宙のなかで位置する点から、魂的存在のますますいっそう高次の段階へと上昇するのです。このように、サーンキヤは魂の覆いの考察であり、そしてヨーガは、内的体験のますます高次の段階へと魂的なものを導いていくものです。ヨーガへの帰依はしたがって、魂の高次の力がしだいに目覚めることであり、したがって魂は、日常的な生活では魂がそのなかにいることはない何か、存在のますます高次の段階を魂に明らかにすることのできる何かに習熟していきます。ヨーガはしたがって霊的世界への道、外的形態から魂を解放する道、その内部での独立した魂生活への道です。サーンキヤ哲学のもう一方の面がヨーガなのです。ヴェーダにまだインスピレーションを与えていた、あの恩寵のように上から到来するインスピレーションがもはやそうあることができなくなったときに、ヨーガは大きな意味を獲得しました。ヨーガは、のちになってからの人類期に属する魂たち、もはや自ずから開示されるものは何も持たず、低次の段階から霊的存在の高みを目指して上昇していかねばならない魂たちに用いられなければなりませんでした。このように、太古のインド時代において、三つの明確なニュアンスの違いを持つ精神潮流が私たちに現れてきます、ヴェーダの流れ、サーンキヤの流れ、そしてヨーガの流れです。そして今日私たちは、これらの精神的(霊的)な潮流をいわばふたたび相互に結びつけるよう呼びかけられます、これらの潮流を、魂と宇宙の深い奥底から、正しいしかたで現代のために取り出してくることによってです。皆さんは、三つの潮流のすべてをこの精神科学のなかに見出すこともできます。私が「神秘学概論」(☆26)のなかで、第一章で、人間の構成について、眠りと目覚めについて、生と死について記述しようと試みましたことをよく読んでいただければ、私たちが今日的な意味でサーンキヤ哲学と呼ぶことができるものが得られます。さらに、土星から現代までの宇宙進化について語られていることをお読みになれば、現代のために打ち出されたヴェーダ哲学が得られます。そして、人間の進化が取り上げられている最後の章をお読みになれば、この現代のためのヨーガが打ち出されているのがおわかりでしょう。このように三つの明確なニュアンスの違いを持った精神潮流となって古代インド精神からヴェーダ哲学、サーンキヤ哲学、ヨーガとして私たちに輝きを発してくるものを、私たちのこの時代は、有機的なしかたで結びつけなければなりません。ですから、詩的に深遠なしかたで三つの方向の合体のようなものを含むバガヴァッド・ギーターという驚くべき詩篇もまた、きわめて深遠なしかたでまさにこの現代に触れるはずなのです。そこで私たちは、バガヴァッド・ギーターの深い内容に釣り合うような私たち自身の精神志向といったものを求めなければなりません。この今日の精神潮流は、単に全体としてだけではなく、個別的にも古代の精神潮流と相通ずるところがあるのです。皆さんは、私の「神秘学概論」において、ものごとをまったくそのものごと自体から引き出してこようとする試みがされていることに気づかれたことと思います。歴史的なことを拠りどころとしている箇所はどこにもないのです。語られていることを真に理解するひとは、土星、太陽、月についてのいずれの主張に関しても、歴史上の情報からものごとが語られたところがあるなどと考えることはできません、これらはその事柄そ自体から引き出されたのです。けれども奇妙なことに、この現代に刻印されたものが、決定的な箇所で、古代から私たちに響いてくるものと共鳴し合うのです。これについてはささやかな証拠があります、私たちはヴェーダのある特定の箇所で宇宙的進化について読みます、これはたとえば以下のような言葉をまとわされています。太初において闇は闇に覆われていた(☆27)、これらすべては分かちがたい流れであった。力強い空[Leere]が生まれ、それは至るところで熱に浸透されていた。さて土星の構成についてその事実自体から引き出されたものは何か、どこで土星の実質について熱実質として語られているか、どうか思い出してください。そうすれば皆さんは、神秘学におけるいわばこのもっとも新しいものと、ヴェーダのこの箇所で語られていることが調和して響き合っているのを感じられるでしょう。次の箇所はこうです、それから、まず最初に、意志が生じた、思考の最初の種子であった、存在するものと存在しないものとの連関である。それらはこの連関を意志のなかに見出した。さらに思い出してください、意志の霊たちについて、いかに新たに刻印付けられて語られるかを。私たちが現代において語らねばならないことすべてにおいて、古きものへの共鳴が求められるのはではありません、まったくおのずから調和的響きが生じるのです、なぜなら、そこでは真理が探求され、しかも真理は私たち独自の基盤に立って探究されるからです。さて今や、バガヴァッド・ギーターにおいて、まさに特徴づけしたばかりの三つの精神潮流のいわば詩的な称揚が私たちに姿を現します。世界史の重要な瞬間においてーー\\,その古代にとって重要なのですが、私たちにもたらされるのは、クリシュナ自らがアルジュナに伝える偉大な教えです。この瞬間は重要です、それは古い血の絆(*Blutbande)がゆるんでくる瞬間だからです。皆さんは、バガヴァッド・ギーターに関してこの連続講義で私がお語ししようとするすべてにおいて、いつもいつも強調されていたことを思い出してくださらなくてはなりません、つまり、血の絆、民族の連帯、種族の連帯が、太古の時代において特別な意味を持っていたこと、そして次第次第にその意味が弱まっていったことを。私の著書『血はまったく特別の液汁(ジュース)だ』(☆28)で語られているすべてのことを思い出してください。この血の絆がゆるむとき、まさにこのゆるむことによって、バガヴァッド・ギーターをその一挿話として含んでいるマハーバーラタのなかで私たちに描写されるような大きな闘いが起こります。私たちはここに、二人の兄弟の後裔、つまりまだ血縁者である者たちが、その精神の方向性に関して互いに分かたれ、以前は血が統一的な見解としてもたらしていたものが解消するありさまを見ます、そしてこの境目において闘いが起きなければならないがゆえに、ここで闘いが起こるのです、このとき血の絆は、霊視的な認識に対しても意味を失い、これを境として、後の霊的な編成が起こります。古い血の絆に意味を見出さないひとたちにとって、クリシュナは偉大な教師として登場します。クリシュナは、古い血の絆から抜け出した新しい時代の教師でなければなりません。クリシュナがいかにして教師となるか、私たちは明日特徴づけていきます。けれども、バガヴァッド・ギーター全体が私たちに示していること、つまりクリシュナが今特徴づけしました三つの精神潮流をその教えのなかにいかに取り入れているかは、お話しすることができます。有機的な統一のなかでクリシュナはこれを弟子に伝えます。この弟子は私たちの前にどのように立たなければならないでしょうか。彼は一方では父を見上げ、他方では父の兄弟を見上げます。従兄弟同士は今や、もはや親密であるわけにはいかず、互いに分離しなければなりません。今や別の精神潮流が、一方のそしてもう一方の家系をとらえなければなりません。このときアルジュナのなかで魂が大きく揺れます、血の絆を通じて保たれていたものがもはやなくなると、どうなるのだろう?この精神(霊)生活がもはや以前のように、古い血の絆の影響のもとに流れていくことができないなら、魂をどうやって精神(霊)生活のなかに据えるというのだろう?すべてが破壊してしまうほかない、アルジュナにはそう思われます。そして事態は変わっていかなければならないということ、事態はそのままではないということ、これが偉大なクリシュナー教理の内容です。さて、クリシュナは、ある時代から別の時代へと生きていくべき弟子に、魂を調和的にしようとすれば、魂はこれら三つの精神潮流のすべてから何かを受け容れなければならないことを示します。私たちはクリシュナの教えのなかに、ヴェーダ的一元説と同様、サーンキヤ論の本質的なもの、ヨーガの本質的なものをも正しいしかたで見出します。と申しますのも、私たちがここでさらにバガヴァッド・ギーターについて知るであろうすべての背後にあるのは、そもそも何なのでしょう。その背後にあるのはたとえばこのようなクリシュナの告知です。いかにも、創造の原理そのものを内包する創造的な宇宙言語がある。人間が語るとき、その音が空気を貫いて波打ち揺れ活動するように、そのようにあらゆる事物は波打ち揺れ活動し、存在を生み出し秩序づける。このようにヴェーダ原理はあらゆる事物に吹き渡っている。それはこのように人間の認識によって人間の魂生活のなかに受け容れなければならない。働きかけ活動する創造の言葉があり、働きかけ活動する創造の言葉がヴェーダ古文献に再現されている。言葉は宇宙を創造するものである、ヴェーダのなかにはこの言葉が顕現している。これがクリシュナー教理の第一の部分です。そして人間の魂は、この言葉がいかに存在の形態のなかで生を全うするかを理解することができます。存在の個々の形態が法則にのっとって霊的ー魂的なものを表現しているのを、人間の認識が理解することによって、人間の認識は存在の法則を知るようになります。宇宙の形態についての、存在の法則的な形成についての、宇宙法則[Weltengesetz]とその作用のしかたについての教理、これが、サーンキヤ哲学であり、クリシュナー教理の別の一面です。そして、クリシュナが彼の弟子に、あらゆる存在の背後には創造的な宇宙言語があることをはっきりと理解させるように、クリシュナはまた、人間の認識が個々の形態を認識できること、つまり宇宙法則を自らのうちに受け容れることができることを、弟子に理解させます。ヴェーダのなかに、サーンキヤのなかに再現された宇宙言語、宇宙法則、これをクリシュナは弟子に啓示します。さらにクリシュナは、再びそこで宇宙言語の認識に加わることができるよう弟子のひとりひとりを高みへと導く道についても語ります。つまりヨーガについてもクリシュナは語るのです。クリシュナの教えは三重になっています、つまりそれは、言葉についての、法則についての、霊への敬虔な帰依についての教えなのです。言葉、法則、および三昧、これらは魂がそれによって進化を遂げていくことのできる三つの流れです。この三つの流れは、常に何らかのしかたで人間の魂に作用します。とはいえ私たちがまさに今見てまいりましたのは、新たな精神科学は新しく刻印づけられたしかたでこの三つの流れを求めなければならないということでした。けれども時代が異れば、三つに形成された宇宙観であるものも、きわめて異なったしかたで人間の魂にもたらされます。クリシュナは、宇宙言語、創造する言葉について、存在の形成について、魂の三昧による深化、ヨーガについて語るのです。この三つのものが、別の形をとって再び私たちに姿を見せます、ただ、いっそう具体的な、いっそう生き生きとしたしかたで現れるのです、創造する神的な言葉が受肉し、地上を巡り歩くと考えられた存在のなかに。ヴェーダは、抽象的に人類にもたらされました。ヨハネ福音書が私たちに語る神的ロゴスは、生きている創造の言葉そのものです!そしてサーンキヤ哲学において宇宙の形態の法則的な把握として私たちに現れてくるものは、歴史的なものに置き換えられ、古代ヘブライの啓示においてそれは、パウロが律法[Gesetz]と呼ぶものです。そして第三のものが、パウロの場合復活したキリストへの信仰として私たちに現れます。クリシュナにおいてヨーガであるものが、パウロにおいては、律法に変わるべき信仰なのです、ただし具体的なものに移行した信仰です。このように、このヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガという三つ組は、のちに太陽として登って来るものの曙光のようなものです。ヴェーダは再び、キリストの直接的存在そのもののなかに姿を現します、今度は具体的に生きて歴史の展開のなかに現れるのです、空間と時間のかなたに抽象的に自らを注ぎ出すのではなく、ひとつの個として、生きた言葉として。法則は、サーンキヤ哲学において、マテリアルな基礎、実在的なものがどのように粗雑な物質へと下降して形成されていくかを私たちに示すもののなかに現れてきます。これは、古代ヘブライの律法論のなかに、モーゼの教え(ユダヤ教[Mosaismus])であるものすべてのなかに姿を見せます。パウロが一方においてこの古代ヘブライの律法を指す場合、パウロはサーンキヤ哲学を指しているのです。パウロが復活した者への信仰を示す場合、彼は、ヨーガのなかにその曙光が輝いていた者の太陽を示すのです。ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガとして第一の要素のなかで私たちに現れてくるものは、このように独特なしかたで成立します。ヴェーダとして私たちに現れてくるものは、新しい、しかし今や具体的な姿をとって、生きた言葉として現れます、それによってすべてが創造され、それなしには生成したものから何ものも創造されず、しかも時の流れとともに肉となった生きた言葉として。サーンキヤは歴史的記述として、エロヒムの世界からいかにして現象界が、粗雑な物質性の世界が生成したかということを法則的に記述するものとして現れます。ヨーガはパウロにおいて、「私ではなく、私のなかのキリスト」(☆29)という言葉となったものに変化します、すなわち、キリストの力(Christus-Kraft)が魂を貫き、受け容れるとき、人間は神性の高みへと上昇するということです。このように、世界史における統一的なプランが存在し、東洋的なものが準備を整え、パウロ的キリスト教のなかでこれほど注目すべき具体的な形をとって私たちに現れてくるものは、いわば抽象的な形をとって存在している、ということがわかります。私たちはさらに見ていきますが、まさにバガヴァッドギーターという偉大な詩篇とパウロ書簡との関係を把握することによって、極めて深遠な秘密、人類の全体教育における霊性の支配と名づけうるものの秘密が私たちに明かされることでしょう。このような新しいものを近代において感じ取らなければならないがゆえに、近代は単なるギリシア精神(グリーヒェントゥム)を越えて、紀元前の最初の千年より前にあるもの、私たちにヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガとして現れてくるものに対する理解を育てなければなりませんでした。そして、ラファエロが芸術において、トマス・アクィナスが哲学において、ギリシア精神に立ち戻らなければならなかったように、この私たちの時代においては、現代が達成しようとするものと、ギリシア精神よりさらに遡るもの、東洋古代の深みにまで入り込んでいくものとの間に、意識的な宥和が生まれなければならないことがわかるでしょう。私たちがあのさまざまな精神潮流をすばらしい調和的統一のなかに見るとき、私たちは、これら東洋古代の深みを残らず私たちの魂に近づけることができます、素晴らしい統一のなかでそれらは私たちに姿を現します、フンボルトが言いますように、最も偉大な哲学的詩篇、バガヴァッド・ギーターにおいて。□編者註☆1 偉大な東洋の詩篇バガヴァッド・ギーター:「崇高な歌」ーー偉大なインドの民衆叙事詩「マハーバーラタ」の第六巻(ビーシュマの巻)のなかに挿入された18章の詩篇で、後代においてその意義はヴェーダに匹敵するとみなされた。マハーバーラタの規模はイーリアスとオデュッセイアを併せたものの約七倍。☆2 バーゼル及びミュンヘンでの連続講演:ルドルフ・シュタイナー「マルコ福音書」(1912バーゼル GA139)及び「イニシエーションについて。永遠と瞬間について。霊の光と生の闇」(1912 ミュンヘン GA138)☆3 ソクラテス:Sokrates von Athen 紀元前496ー399☆4 ペリクレス:Perikles 紀元前500頃ー429 アテネの政治家。☆5 フェイディアス:Phidias 紀元前500頃ー423 アテネの有名な彫刻家。☆6 プラトン:Plato von Athen 紀元前427ー347☆7 アリストテレス:Aristoteles von Stageira 紀元前384ー322☆8 アイスキュロス:Aischylos von Eleusis 紀元前525頃ー456 悲劇作家。☆9 ソフォクレス:Sophokles von Kolonos 紀元前496ー406 悲劇作家。☆10 エウリピデス:Euripides von Salamis 紀元前480頃ー406 悲劇作家。☆11 ヘラクレイトス:Heraklit von Ephesos 紀元前540頃ー480 哲学者。☆12 私の『神秘的事実としてのキリスト教』という書物:『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』(1902 GA8)☆13 ラファエロ:Raffaello Santi 1483ー1520☆14 ミケランジェロ:Michelangelo Buonarroti 1475ー1564☆15 レオナルド:Leonardo da Vinchi 1452ー1519☆16 トマス・アクィナス:Thomas von Aquino 1227ー1274 ルドルフ・シュタイナー「トマス・アクィナスの哲学」(1920 ドルナハ 3回の講義 GA74)参照。☆17 ジョルダーノ・ブルーノ:Giordano Bruno 1548ー1600☆18 ガリレイ:Galileo Galilei 1564ー1642☆19 …という名言:ヴィルヘルム・フォン・フンボルトWilhelm von Humboldt(1767ー1835)1823年6月21日のシュレーゲル宛の手紙及び1828年3月1日ゲンツ宛の手紙。☆20 ヴェーダ:Vedaすなわち聖なる「知識」は、サンスクリット語で著された、ヒンドゥー最古の宗教的文書の全体を指し、そこにおいてはなお超感覚的な源泉が体験されていた。つまり膨大な文献であり、その内容(テクスト)はかつては口頭によってのみ伝えられていた。多種多様な伝承は主として、サンヒター[Sanhita]、ブラーフマナ[Brahmana]、アーラヌヤカ[Aranyaka]、ウパニシャッド[Upanishad]に分類される。しばしば、サンヒター(「本集」の意)の四つの部分が簡略に四つのヴェーダとみなされる。これは歌詠、祭詞、呪句の集成であり、これらのうち、もっとも古い歌と讃歌の主集成がリグ・ヴェーダである。☆21 サーンキヤ哲学:サーンキヤ(数、列挙の意)経典(スートラ)は5世紀になってようやく書き留められたとは言え、この体系の起源は「マハーバーラタ」と同様仏教以前に遡る。その創始者カピーラは紀元前800年から500年の間生きたとされる。☆22 ヨーガ哲学:ヨーガ(くびき、結びつけることの意)として統一される禁欲と沈潜の道は、すでにヴェーダとマハーバーラタにおいても存在していた。紀元前150年頃、パタンジャリが八段階の道の実修法と伝統をヨーガ・スートラにまとめた。☆23 ヴェーダンタ:ヴェーダンタ(ヴェーダの目標、終極の意)が最初に表出されたのは、バーダラーヤナ(紀元前200頃)のブラフマ・スートラであり、主にウパニシャッドに基づき、ヴェーダの教理に体系的な構成を与えた。この体系はシャンカラ(788ー820)によって最も重要な註釈を与えられた(第二講の註も参照のこと)。☆24 ライプニッツ:Gottfried Wilhelm Leibniz 1646ー1716 1714年のフランス語による小論(もとは無題)である『単子論(モナドロジー』を参照のこと。☆25 サットヴァ、ラジャス、タマス:第2講参照。☆26 『神秘学概論』:ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』(1910 GA13)☆27 闇は闇に覆われていた:リグ・ヴェーダX-129. 有名な創世の歌。☆28 『血はまったく特別の液汁(ジュース)だ』:1906年10月25日の講演に基づく単行本(1982ドルナハ)。「現代における超感覚的なものの認識と今日の生活にとっての意味」(GA55)に所収。☆29 「私ではなく、私のなかのキリスト」:ガラテア人への手紙II-20.参考画:Paulusbriefe人気ブログランキングへ
2024年04月20日
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ルドルフ・シュタイナー「呼吸過程について」佐々木義之 訳(1908年1月16日)Guidance in Esoteric Training(Rudolf Steiner Press) 私たちの前回の講義では、人類の進化全体を通して明らかになる精神生活の偉大な法則と原理について、つまり、物理平面上で起こるあらゆることがらを見渡し、各時代を通して交代で指導力を発揮する偉大な精神的諸力についてあらかじめ考察しました{ガブリエル(1510~)、ミカエル(1879~)、オリフィエル}。これと対比して、今日は人間の内面生活を検証することによって、いくらか親密な仕方で精神生活の法則について議論してみたいと思います。秘教的な訓練に乗り出す探求者は誰でも、ある意味で、待つべき人です。彼は、彼が通常知覚している世界とは異なる、新しい世界がいつかは彼に現れることを期待しながら、つまり、彼がいつかは自分に、「私は新しい世界を知覚する。私は今、私がかつて物理空間中で知覚していたあらゆるもののただ中に、以前は私には隠されていた多くの精神的な存在たちを見る。」と言うことができるようになるのを期待しながら待つのです。皆さんがこのことを明確に理解するためには、人間がその進化の過程の中で通過していく七つの意識段階について思い出さなければなりません。これらの内で最初のものは鈍くぼんやりとしたレベルの意識ですが、人間はその中で自分を宇宙と一体のものとして感じていました。私たちはこの状態を土星段階と呼びました。太陽段階においては、意識はより狭い範囲に限定されましたが、そのためにより明るいものになりました。人間が月の存在状態を通過したとき、その意識は、その最後の名残として、私たちが夢の中で、つまり、鈍い像の意識の中で経験するところのものに似ていました。現在、地球上で、私たちは明るい昼の意識を有しています。この意識は私たちが木星上で、再び像の意識、ただし、そのときには明るく照らされた像の意識ですが、を発達させるときにも私たちとともに留まるでしょう。人類はさらにふたつの段階、つまり、インスピレーション意識とインテュイション意識へと順次上昇して行くことになります。ですから、私たちの明るい昼の意識は鈍い月段階の意識と木星の照らされた像の意識との間に中間的なものとして位置しています。秘教学徒はいつの日か木星意識が彼に現れるのを待ちます。皆さんは遅かれ早かれ誰でもこれを達成するでしょう。但し、これはそれぞれの人の受け入れる能力、その人の内的な準備の程度にかかっています。人間は誰でも彼の内に木星意識の萌芽を担っています。未来の意識は人間が気づくことができないような非常にデリケートで一時的な仕方で現れます。秘教的な生活は、かなりの程度、自分自身と自分のまわりに起こる微妙な経過を正しく説明することを学ぶことからなっています。古い月の意識もまた完全に消え去っているわけではありません。その最後の名残が残っています。古い月意識と新しい木星意識の両方が今日の人間の中に見出されるのですが、前者は恥ずかしさの感情の中に、後者は恐れと不安の感情の中に見出されます。血液は恥ずかしさの感情の中で、体の表面、その周辺へと押しやられるのですが、その中には月意識の最後の名残が生きています。不安の感情の中で、血液は心臓へと逆流しますが、その中で木星意識が自らを告げます。私たちの通常の昼の意識はこれらふたつの方向へと分岐しているのです。私たちが何かを恥じて赤くなるとき、私たちは月存在の思い出であるところの何かを経験しています。月人間を想像してみて下さい。彼は、まだ自分のことを「私」とは言えませんが、ぼんやりとした鈍い像の意識の中に生き、彼が彼自身それと結びつき、それと調和していると感じていたアストラル的な諸力と存在の中に完全に横たえられていました。よろしいですか皆さん、そのような月人間が、ある日突然、「私はわ・た・し・だ。私は他の人間とは違う。私は独立した存在であり、私の周囲の存在たちは皆、私を見ている。」と感じ始めたと想像してみて下さい。そのような月人間が感じた恥ずかしさは彼の中で圧倒的な力で燃え上がったことでしょう。もし、彼がそのような未成熟な「私」の感情を経験していたとすれば、彼は消えてしまおうと、恥ずかしさで死んでしまおうとしたことでしょう。よろしいですか皆さん、私たちも恥ずかしさを感じるときには、消えてしまいたい、床の下に入り込みたい、私たちの「私」を解消してしまいたい、と思うでしょう。古い月人間がいかに彼の周囲の力や存在と調和していたかを思い描いて下さい。もし、他の存在が敵意を抱いて彼に近づいてきたとしても、彼はどうしたらよいか考える必要はありませんでした。彼は本能的にそれを避ける方法を知っていたのです。彼は、もし彼が意識をもっていたとすれば、おおよそ次のような仕方で、つまり、「私は、世界の法則はこの野生の動物が私をバラバラにするのを許さないだろうということを、世界の調和は、私の敵から私自身を守る手段が存在する、というようなあり方をしてしているということを知っている。」と表現したであろうような仕方で行動しました。古い月の人間は彼自身が宇宙の諸力と完全な調和の中にあると感じていました。もし、「私」の感情が彼の中に目覚めたとすれば、この調和は直ちに破られたことでしょう。そして、実際、地球上で「私」の感情が人間に浸透しはじめたとき、それは彼と彼の周囲の環境との間にますます不調和をもたらすようになったのです。超感覚的な聴覚を有している人は誰でも、宇宙が圧倒的な調和の中で鳴り響くのを聞きます。そして、これと比較して、個々の人間から彼のところに届く響きを聞くとき、彼は不調和を、ある場合にはより大きく、ある場合にはより小さいとはいえ、それでもやはり不調和を聞きます。皆さんの使命は、皆さんの継続的な進化を通して、この不調和を解決し、調和へと解消することなのです。この不調和は「私」によって生じたのですが、とはいえ、それは宇宙を支配し導く精神的な諸力の叡知を通して生じてきたのです。もし、人間が調和の中に留まっていたとすれば、彼は決して独立した存在にはならなかったでしょう。人間が自由に彼自身の力で調和を取り戻すことができるように、不調和が導入されたのです。そのために、自分自身に意識的な「私」の感情が内的な調和を犠牲にしてでも発達することが必要だったのです。木星意識が点火され、人間が宇宙の諸力との調和的な関係を取り戻すときが来れば、そのとき、彼は彼の新しい意識状態の中でも、自意識を持った「私」の感情を保持していることでしょう。つまり、彼は独立した「私」なのですが、にもかかわらず宇宙との調和の中にあることでしょう。私たちは新しい木星意識が既に恐れと不安を感じる能力の中に自らを告げているのを見てきました。しかし、いつもそうであるように、未来の状態があまりにも早く現れるとき、それは未成熟で場違いなものになります。ひとつ例をあげてみましょう。8月に開花するべき花を温室に入れて、既に5月に咲かせるように強制することができます。本来開花するはずの8月には、それはもはや咲きません。そのための力が使い果たされて、それが置かれた条件の中で正しい位置を見出すことがもはやできないのです。5月にも、それは温室から出された瞬間に死んでしまうでしょう。何故なら、それはその季節の文脈の中には属していないからです。不安の感情についても同じです。今日、それは行き場がありません。そして、未来においてはますますそうでしょう。私たちが不安を感じるとき、何が起こるでしょうか?しっかりとした中心点を形成し、人間を外の世界に抗して強化するために、血が人間の中心へと、つまり、心臓へと押し戻されるのです。これを行うのは「私」の最も内的な力です。血に影響を及ぼすこの「私」の力はますます強く、ますます意識的にならなければなりません。つまり、木星上では、人間は自分を強くするために全く意識的に彼の血を彼の中心点に向けることができるようになるのです。けれども、今日この血の流れに結びついた恐れの感情は有害で不自然なものです。未来においてはそうであってはなりません。恐れとは無縁の「私」の力のみが活動的であるべきなのです。人類の進化全体を通して、外的な世界は私たちにとってますます敵対的なものになっています。皆さんは、皆さんの内的な力を皆さんにのしかかる外的な世界に向けることをますます学ばなければなりませんが、不安は消え去らなければなりません。特に、秘教的な訓練において前進する人にとっては、すべての恐れと不安の感情から自分を自由にすることが必要です。不安が一定の正当性を有しているのは、ただ私たちが自分を強くする必要があることを私たちに気づかせる、という点においてだけです。とはいえ、人間を苦しめるすべての不自然な不安の感情は全体として消え去らなければなりません。木星意識が始まるとき人間がまだ恐れと不安の感情を有していたとしたら、何が起こるでしょうか。その段階で、外的世界は今日の人間にとってそうであるよりもはるかに、はるかに敵対的で恐ろしいものになっているでしょう。不安の習慣から脱していない人は誰でも、そこで恐ろしい戦慄に次ぐ戦慄へと陥ることになるでしょう。この状態は既に今、外的世界の中に準備されています。それは、前回皆さんにお話ししたやがてやって来るオリフィエルが支配する恐怖の時代には、もっとはっきりと自らを現すことでしょう。その時代が来たとき、人間はしっかりと立つことを学んでいる必要があります!現在の私たちの文化そのものが、木星上で人類を脅かすあの恐怖のモンスターを創造しているのです。今日、人間の技術があれほど天才的な仕方で構築している巨大な機械類を見て下さい。人類は将来彼に向かって荒々しく立ち向かってくるであろう悪魔を自分で創り出しているのです。今日、彼が技術的な装置や機械として組み立てるものは、将来、生命を獲得し、恐ろしい敵意をもって彼に反抗するでしょう。単なる便宜のためや、個人や集団のエゴイズムを満足させるためにだけ創造されるあらゆるものは、人間にとって未来の敵になるでしょう。今日、私たちはあまりにも私たちが為すことから有利な便宜を得ることに関心を持ちすぎています。もし、私たちが本当に進化と前進のために役立ちたいと思うならば、何かが役立つかどうかではなく、それが美しいかどうか、高貴であるかどうかに関心を持つべきなのです。私たちの行動は、単に便利さによってではなく、美しいものへの純粋な喜びによって導かれるべきです。芸術的な必要性を満たすために、純粋な愛と美の中で人間によって創造されたあらゆるものもまた、将来、生命を獲得し、そして、彼のより高次の進化のために貢献するでしょう。今日、いかに何千、何万という人間たちが、その幼い子供時代からずっと、物質的な便宜に基づいた活動のみに従事させられているかを見るのは恐ろしいことです。彼らはそのすべての生活において、あらゆる美しいもの、芸術的なものから切り離されているのです。どんなにみすぼらしい小学校にも最高の芸術作品が架けられていなければなりません。それは人類の進化にとって無限の祝福となるでしょう。今日、人間は自分の未来を構築しているのです。今日、絶対的な善も、絶対的な悪もないということをはっきりさせるならば、木星上では事態がどうなるかについてのアイデアを得ることができるでしょう。どの人間の中にも善と悪が入り混じっています。善良な人は誰でも自分の中に悪よりも少しばかり多い善を有しているに過ぎないということ、善ばかりを有しているのではないことに気づくべきです。けれども、木星上では、善と悪が混合されることはもはやありません。人類は完全に善なる人たちと完全に邪悪な人たちに分かれるでしょう。今日、私たちが育成するあらゆる美しいもの、高貴なものは木星上における善なるものの強化へと導き、エゴイズムや便利さの結果として生じるあらゆるものは悪の強化につながります。人間は、未来の悪の力に対等に直面できるように、彼の「私」の内的な力を自分のものにしなければなりません。彼は全く不安なしに悪に直面できるように自分を強化するような方法で、意識的に血を制御することができなければなりません。彼は血を内側に向ける力を手にしなければならないのです。けれども、彼はまた血を周辺に向けて流れさせる別の能力をも失うべきではありません。木星状態とは、ある意味で古い月意識への回帰を意味することにもなります。人間は偉大な宇宙の法則との調和を取り戻し、それらと自分が一体であると感じるようになります。彼は宇宙の精神的な諸力と共にに流れる能力を取り戻すのですが、月の上でそうであったように、無意識でぼんやりとした仕方でそうするのではありません。木星上では、彼はいつでも彼の明るい昼の意識と自意識的な「私」の感覚を保持するのですが、にもかかわらず、宇宙の諸力や法則との調和の中で生きるのです。不調和はそれ自体、調和へと解消されるでしょう。そして、この宇宙的な調和の中へと流れることができるために、彼は彼の「私」の最も奥深いところにある力が彼の心臓から輝き出るようにさせなければなりません。言い換えれば、彼は、敵に直面したとき、血の内的な力を意識的に彼の中心に向けて導くことができるとともに、それを意識的に輝き出させることができなければならないのです。彼が未来の条件に対抗できるのはそれができるときだけなのです。内的な発達に向けて努力する人は誰でも、既に今日、これらの力を徐々に制御し始めていなければなりません。これは意識して息を吸ったり吐いたりすることを学ぶことによってできます。人間が息を吸い込むとき、彼を宇宙の力に結びつける「私」の力、心臓から輝き出るところの力が活性化されます。そして、彼が息を吐いて止めるとき、心臓に向けて押し進み、それを確固とした中心にするところの「私」の力が活性化されます。こうして、その学徒は、今日でさえ、私がお話しした意識的な呼吸の訓練をすることによって、彼の「私」の力を徐々に支配することを学ぶようになるのです。けれども、もし、まだ教授を受けていないならば、誰もそのような訓練に助けなしに取りかかることができると信じるべきではありません。誰でも、そのための正しい時が来れば、教えを受けることになります。とはいえ、まだそのような訓練を実践していない人でも、その訓練の目的に対する理解を深めるのが早すぎるということは決してありません。それは後になってその訓練をそれだけ一層実り多いものにするでしょう。よろしいですか皆さん、皆さんは皆さんや宇宙の中にある微妙な経過に対する理解をますます発達させ、そして、徐々に人間進化の未来の時代へと成長していくべきなのです。 (同じテーマでの、1908年1月26日のベルリンでの講演からのノート)・・私たちが息を深く吸って止めるとき、私たちは古い月の状態の一部を繰り返す。一方、私たちが息を私たちの外に残すとき、私たちはいくらか木星を経験する。秘教学徒が何らかの理由で月の状態を経験する必要があるときには、息を止める訓練を受ける。もし、彼が木星状態に至る必要があるとすれば、息を彼の外に残す訓練を受ける。それぞれの人間は個別に考慮される必要がある。私たちは人類の流れが既にふたつに分かれはじめているのを知っている。ひとつは善と道徳に向けて引き寄せられ、もうひとつは恐怖と悪に終わる。そのような条件が既に近づいている。その種は既に存在している。機械や装置のようなあり方で、今日、世界の中に存在し、発達させられているものは、木星上では、驚くべき恐怖のデーモンとなる。便利さの原則を押し進めるだけのために奉仕するあらゆるものが、いつかはそのような恐ろしい力として自分自身を主張するだろう。もし、私たちが便利に使うための器具を、その便利さだけでなく、とりわけ美と善をも伝えるものへと変容させるならば、この過程を阻止することができる。私たちがこのことを知っているのは非常によいことなのだ。そうでなければ、そのような諸力はいつの日か地球をバラバラに引き裂くことになるだろう。私たちはまた、教育において子供を芸術的な創造や印象の中に置くことがいかに途方もなく重要なことであるかを見ることができる。芸術は人間を自由にする。機関車でさえいつの日か美しい機械へと変容させられなければならない。私たちの恐れや不安の感情は他の邪悪な存在たちに栄養を与える。私たちはそのような考えの餌食にならないようにしなければならない。木星上では、そのような存在たちが今よりももっとはるかに多く私たちを取り囲むことになる。けれども、クリアーなオーラを維持している人は誰も汚物のまわりに群がるハエの心配をする必要がない。 (了)参照画:Saint's Aura-1人気ブログランキングへ
2024年04月19日
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「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答(GA324a)Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 佐々木義之訳 多次元空間について 1908年10月22日、ベルリンQ&A session:今日のテーマは様々な困難を私たちに提示することになるでしょう。そして、あなた方のリクエストによるこの講義は一連の講義の一つとして見られなければなりません。単に形式的なレベルにおいてであったとしても、その課題を深く理解するためには、数学的な予備知識が必要です。とはいえ、その課題の現実を把握するためには、秘教主義へのより深い洞察が要求されるのです。今日は、この側面について、さらなる考察のための刺激を与えるとしても、きわめて皮相的な取り扱いしかできないでしょう。より高次の次元について語ること自体が非常に難しいことなのですが、それは、通常の三つの次元を越えたいかなる次元であっても、それを思い描くためには抽象的な領域に入っていかなければならず、もし、私たちの概念がきわめて正確かつ厳密に定式化されていないとすれば、その領域において、私たちは深淵へと落ち込むことになるということによります。私たちが知っている多くの人々、友人、敵を問わず、この運命を辿りました。より高次の次元空間についての概念は、私たちが一般に信じているほど数学にとって見知らぬものではありません。数学者たちは既により高次元の操作を含めた計算を実行しています。もちろん、数学者たちがより高次元の空間について語ることができるのは、きわめて限られた範囲においてであり、本質的に、彼らが議論できるのは、それが存在する可能性についてだけです。そのような空間が現実のものであるかどうかを決定するのは、実際にそれを見ることができる人たちでなければなりません。ここで私たちが取り扱うのは、もし、それが正確に定式化されたならば、私たちの空間に関する概念を本当に明確なものにするであろうような純粋な概念です。空間とは何でしょうか。私たちは普通、空間は私たちのまわりにある、私たちは空間のなかを歩きまわる等々と言います。空間に関して、より明確なアイデアを得るためには、私たちはより高いレベルの抽象化を受け入れなければなりません。私たちはその中で私たちが動き回るところの空間を「三次元的」と呼びます。それは上と下に、右と左に、そして、前と後ろに広がっています。私たちが物体を見るときには、私たちはそれを三次元空間を占めているものとして、つまり、ある一定の長さ、幅、そして高さを有しているものとして見ます。けれども、もし、私たちがより高度の明晰性を達成することを欲するのであれば、私たちは空間についての概念の詳細を取り扱わなければなりません。最も単純な立体である立方体を、長さ、幅、そして高さの最も明らかな例として見てみましょう。立方体の底面の長さと幅は同等です。この底面を、それが最初にあった位置から、その長さと幅に等しい高さにまで持ち上げると、立方体、すなわち三次元図形が得られます。立方体の境界を検証してみますと、それらは平らな表面から構成されており、それらの表面は今度は同じ長さの辺によって境界づけられている、ということが分かります。立方体は六つのそのような平らな表面を有しています。平らな表面とは何でしょうか。ここまで来ますと、きわめて鋭敏な抽象性に耐えられない人たちはあらぬ方向にさまよい始めるでしょう。例えば、蝋でできた立方体の境界の一つを蝋の非常に薄い層の形で切り取ることは不可能です。と申しますのも、得られるのはいつも一定の厚みをもった層-すなわち、立体-だからです。この方法では、立方体の境界に到達することは決してできません。その本当の境界は長さと幅だけを有しているのであって、高さ-すなわち、厚み-というものがありません。こうして、私たちは、平らな表面は三次元図形の境界の一つであり、一つ少ない次元を有しているという公式に到達します。では、正方形のような平らな表面の境界とは何でしょうか。ここでも、それを規定するためには、高度の抽象性が要求されます。平面図形の境界は線ですが、それは一つの次元、長さだけを有しています。幅は取り除かれました。線分の境界とは何でしょうか。それは点であり、ゼロの次元を有しています。このように、私たちは幾何学図形の境界を見いだすために、いつも一つの次元を取り除くのです。とりわけよい仕事をしたリーマンを含めて、多くの数学者の思考の跡を辿ってみることにしましょう。ゼロ次元を有する点、一次元を有する線、二次元を有する平面、三次元を有する立体について考えてみましょう。純粋に技術的なレベルにおいて、数学者たちは、第四の次元をつけ加えることは可能か、と問います。もし、それが可能であったならば、ちょうど平面が立体の境界であったように、線が平面の、そして、点が線分の境界であったように、四次元図形の境界は三次元図形でなければならないでしょう。もちろん、数学者たちはそれからさらに進んで、五、六、七、あるいは、正の整数であるn次元について考えることさえできるでしょう。ここまで来ますと、私たちが、点はゼロ次元、線は一次元、平面は二次元、そして立方体は三次元を有している、と言うとき、ある明晰性の欠如が入り込んできます。私たちは立方体のような立体を、あらゆる物質の類、蝋、銀、金等々から作り出すことができます。それらの物質は異なっていますが、もし、私たちが、それらをすべて同じ大きさにするならば、それぞれが占める空間の量は同じになります。そして、もし、私たちがこれらの立方体が含んでいるすべての物質を取り除くならば、私たちに残るのは、特定の空間部分、立方体の空間的なイメージだけです。これらの空間部分は、その立方体がどのような物質でできていたかによらず、すべて同じ大きさになり、すべてが長さ、幅、そして高さを有しています。私たちはそのような立方体の形をした空間が無限に広がり、結果として無限の三次元空間が生じると想像することができます。物体はこの空間の一部に過ぎません。 次の質問は、私たちの概念的な思考様式は、空間を出発点として、より高次の現実へと拡張し得るか。というものです。数学者たちにとっては、そのような思考様式に包含されているのは数字を含めた計算だけです。これは許されることなのでしょうか。これからお示しするように、数字を用いて空間の大きさを計算するということは、非常な混乱のもととなります。何故そうなるのでしょうか。ひとつの例を上げれば充分でしょう。この平面図形は両サイドをどんどん広げていくことができます。そして、ついには、二つの線に挟まれた無限に広がる平面図形が得られることになります(図56)。この平面図形は無限に広い幅を有していますから、その大きさは無限大です(∞)。さて、他の人々が、この二つの線に挟まれた領域は無限に大きい、という話しを聞くとしましょう。当然のことながら、これらの人々は無限大について考えるでしょう。けれども、もし、あなた方が無限大について触れるならば、彼らはあなた方が言おうとしていることについて全く間違った考えをもつかも知れません。それぞれの四角の側にもうひとつの四角をつけ加える、つまり、無限に多くの四角を有するもうひとつの列をつけ加えるとしましょう。その結果得られるのはやはり無限大ですが、最初の無限大のちょうど二倍とななる、大きさの異なる無限大なのです(図57)。したがって、∞=2∞となります。同様に、∞=3∞ともなります。数字を用いた計算においては、無限は、何らかの限定された数字と同様、容易に用いることができます。最初のケースにおいて、その空間は無限大である、というのは真実ですが、それ以外のケースでも、空間が2∞、3∞、等々であるということもまた真実なのです。数字を用いて計算するときには、このようなことが起こります。お分かりのように、無限大の空間という概念が数字計算に結びつけられる限り、より高次の現実へとさらに深く貫き至ることは不可能となります。数字というものは、実際、空間とは無関係なのです。エンドウ豆やその他の物体と同様、空間に関して、数字は全体として中立なのです。ご存じのように、数字による計算が現実の状況を変える、ということは決してありません。もし、私たちがエンドウ豆を三個もっているとすれば、かけ算がその事実を変えることはありません。そのかけ算が正しかったとしてもです。三×三=九の計算が九つのエンドウ豆を作り出すことはないでしょう。このような場合、何かについて単に考えても何も変わりません。そして、数字計算は単なる思考なのです。たとえ私たちが正しくかけ算をしたとしても、手元に残るのは三個のエンドウ豆であり、九個ではありません。同様に、数学者たちが、二、三、四、あるいは五次元に関して計算を行ったとしても、私たちの前にある空間はやはり三次元です。あなた方がそのような数学的な考えを巡らしたいという誘惑に駆られるのは分かりますが、それらが証明するのは、高次空間に関する計算を行うことは可能であるということだけです。数学によっては、高次空間が実際に存在することを証明することはできません。その概念が現実に有効であるということを証明できないのです。私たちはこの点に関して厳密に明確でなければなりません。この課題に関して数学者たちはその他の非常に巧妙な考えを巡らしてきましたが、そのいくつかを考察してみましょう。私たち人間は三次元空間のなかで、考えたり、聞いたり、感じたり、等々を行います。二次元空間中でのみ知覚することが可能な存在がいると想像してみましょう。彼らの体的な組織は彼らが平面のなかに留まることを強要し、そのため、彼らは二次元を離れることができないでしょう。彼らは左右と前後に関してだけ、動いたり知覚したりすることができるでしょう。彼らは、彼らの上と下に存在するものに関しては、いかなる考えももたないでしょう。とはいえ、三次元空間中における私たちの状況も同じなのかも知れません。私たちは、私たちの体的な組織が三次元に適合しているために、第四の次元を知覚することができず、ちょうど二次元存在が第三の次元の存在を推論しなければならないように、それを推論しなければならないのかも知れません。人間にはただその方法しかないと考えることは実際に可能である、と数学者たちは言います。もちろん、その結論は正しいとしても、それは単に間違った説明であるかも知れない、と言うことも確かにできるでしょう。ここでもまた、より正確なアプローチが必要とされるのですが、この問題は、空間の無限性を理解するために数字を用いようとした最初の例ほど簡単ではありません。今日の私の説明は、わざと単純なものに限ろうと思います。この結論に関しては、最初の純粋に技術的、算術的な線に沿った理論づけとは状況が異なります。この場合には、何か本当に把握しなければならないものがあるのです。平面のなかで動く物体だけを知覚することができる存在がいるだろうということは十分に考えられます。そのような存在は上と下にあるものにはまったく気づかないでしょう。その平面内の点がその存在に見えるようになると想像して下さい。もちろん、その点が見えるのは、それが面内にあるからに過ぎません。その点が面内を動いている限り、それを見ることができますが、その面から外に出るやいなや、それは不可視となります。その平面存在に関する限り、それは消失してしまうのです。さて、その後、その点がどこか他のところに現れると想像してみましょう。それは再び見えるようになり、また消失し、等々です。その点が平面から出ていくとき、その平面存在は、それを追っていくことはできませんが、「その間、その点はどこか私には見ることができないところにいる。」と言うかも知れません。平面存在の心の中に入り込みながら、ふたつの可能性について考えてみましょう。それは、一方で、「三番目の次元があり、その物体はその中に消えたが、後でまた現れた。」と言うかも知れません。あるいはまた、それは「バカな奴が三次元などと言っているが、その物体はただ単に消えて、その度に再び現れたのだ。新しく創り出されたのだ。」と言うかも知れません。この場合には、その平面存在は論理的な法則に違反している、と言わなければならないでしょう。もし、それが、その物体は繰り返し解体され、再び創り出されると仮定したくないのであれば、その物体は平面存在には見ることができない空間のなかに消えたのだということを認めなければならないでしょう。彗星が消えるとき、それは四次元空間のなかを通過しているのです。さて、この問題に関する数学的な考察のなかにつけ加えられなければならないものを見てみましょう。私たちは、私たちの観察の場のなかに、繰り返し現れたり消えたりする何かを見いださなければならないでしょう。超感覚的な能力は必要ありません。もし、平面存在が超感覚的な能力をもっていたとすれば、その存在は第三の次元があるということを、推論によってではなく、経験から知っていたことでしょう。人間についても似たようなことが言えます。超感覚的な能力を有していない人は、「私自身は三次元に限定されているけれども、周期的に現れたり消えたりするものを観察するやいなや、四次元が関係していると言っても間違いではない。」と言うほかありません。ここまで述べてきたことはすべて完全に明白であり、それを肯定するということは、あまりにも簡単なことなので、現代の盲目状態にある私たちにはそのようなことは起こりそうもありません。「繰り返し消えたり、再び現れたりするものは存在するか?」という問いに対する答は非常に簡単です。ときとしてあなた方のなかに現れては再び消え、超感覚的な能力を有していない人にとってはもうそれを知覚できなくなるような喜びについてひとつ考えてみて下さい。それから、同じ感情が、何か別のできごとのために再び現れます。この場合、あなた方は、平面存在のように、二通りある方法のうちのひとつの方法で振る舞うことができます。あなた方は、その感情はあなた方がついていけないような空間の中に消えたのだと言うこともできますが、その感情は消え去り、それが再び現れる度に新しく創造されるのだと主張することもできます。しかし、無意識のなかに消えるいかなる思考も、消えて再び現れるものがある、ということの証拠になる、というのは本当です。もし、この考えがあなた方にとってありそうなことのように見えるならば、次のステップは、唯物的な観点から持ち出されそうなあらゆる異議を定式化してみるということです。私は今、最も手強そうな異議に触れてみようと思います。その他の異議はすべて簡単に反駁することができます。人々は、この現象は純粋に唯物的な言葉で説明することができると主張するかも知れません。私はあなた方に物質的なプロセスという文脈において消えたり再び現れたりするものの例を提示したいと思います。作動している蒸気ピストンを想像して下さい。ピストンに力が加わっている限り、私たちはその動きを感知します。さて、反対方向に働く同様のピストンでその動きに対抗すると想像して下さい。その動きは止み、機械は静止します。動きが消えるのです。同様に、人々は、喜びの感情とは脳のなかの分子の動き以上のものではない、と主張するかも知れません。分子が動いている限り、私は喜びの経験をもちます。何か別の要素が分子に反対の動きを生じさせると仮定してみましょう。喜びは消えます。この線に沿って考えをずっと先まで追求しない人は誰でも、実際、これは先に示された考えに対する非常に重要な反論である、と考えるかも知れません。しかし、この反対意見を詳しく見てみましょう。ちょうどピストンの動きが反対方向の動きの結果として消えるように、分子の動きに基づく感情は反対方向の分子の動きによって打ち消されると言われます。ひとつのピストンの動きが別の動きに対抗して作用するとき、何が起きているのでしょうか。最初の動きと二番目の動きの双方が消えるのです。第二の動きは、自分をも除去することなしに、最初の動きを除去することはできません。その結果は動きの完全な不在です。いかなる動きも残りません。このように、私の意識のなかに存在するいかなる感情も、それ自身をも除去することなしには、別の感情を除去することはできません。ですから、ひとつの感情が別の感情を除去することができるという仮定は全くの間違いなのです。その場合には、いかなる感情も残らず、感情の完全な不在が生じることになります。それでもなお言うことができるのは、最初の感情は第二の感情を無意識のなかに追いやるかも知れないという程度のことです。けれども、そう言ってしまえば、私たちの直接的な観察の網にはかからないけれども、それでも存在する何かがあるということを認めたことになります。今日は、超感覚的な知覚については全く考察せず、純粋に数学的な考えについてのみお話ししてきました。四次元世界が存在するという可能性を認めたところで、私たちは、超感覚的な能力なしに四次元物体を観察することは可能かと問うかも知れません。その種の投影が私たちにそれを可能にします。私たちは平面図形の向きを変えて、それが落とす影が直線になるようにすることができます。同様に、直線の影は点に、三次元の立体的な物体の影のイメージは二次元の平面図形になり得ます。こうして、四次元の存在を認めてしまえば、三次元図形は四次元図形の影のイメージであるというのは全く当然のこととなります。これは四次元空間を想像するひとつの純粋に幾何学的な方法です。けれども、幾何学の助けを借りてそれを視覚化する別の方法もあります。二つの次元を有する正方形を想像して下さい。今、その境界を構成する四つの線分がまっすぐに延ばされてひとつの直線を形成すると思い描きましょう。あなた方は正に、二次元図形の境界をまっすぐに引き延ばして、それらが一つの次元のなかに横たわるようにしました(図58)。このプロセスをもう一歩前に進めてみましょう。ひとつの線分を想像して下さい。ちょうど正方形に関して、一つの次元を取り除くことで行ったように、その図形の境界が二つの点へと倒れ込むようにするのです。私たちは一次元図形の境界を正にゼロ次元において表現しました。私たちはまた立方体を展開して、それを六つの正方形へと広げることができます(図59)。私たちは立方体の境界を広げて、それが平面のなかに横たわるようにしました。こうして、線は二つの点として、正方形は四つの線分として、そして、立方体は六つの正方形として表現することができ、と言うことができます。一連の数字:二、四、六に注意して下さい。次に、私たちは八つの立方体を取り上げます。ちょうど、前の例で、幾何学図形の境界が展開されたように、八つの立方体は四次元図形の境界を構成するのです(図60)。それらを並べると、結果として正四次元図形の境界を示す二重の十字架が得られます。ヒントンはこの四次元立方体をテサラクトと呼んでいます。この作業はテサラクトの境界についての心的なイメージを与えてくれます。この四次元図形についての考えは、二次元存在が立方体の境界を平坦化して、つまり、それらを展開して、立方体についての考えを発展させることに比肩されます。 参照画:Interstellar-1(了)人気ブログランキングへ
2024年04月18日
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「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答(GA324a)Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 佐々木義之訳 質疑応答四多次元空間について 1905年11月7日、ベルリンQ&A sessionQ:私たちの通常の空間は三つの次元-長さ、幅、高さ-を有しています。直線は一つの次元、長さだけを有しています。この黒板は平面ですが、それは二つの次元、長さと幅を有している、ということです。立体は三つの次元を含んでいます。三次元図形はどのようにして生じるでしょうか?。A:全く次元をもたない図形、つまり、点を想像して下さい。それはゼロ次元を有しています。点が一定の方向に動くとき、結果として直線あるいは一次元図形が生じます。さて、その直線が動いているのを思い描いて下さい。それによって生じるのは長さと幅をもつ平面です。そして、最後に、動く平面が描くのは三次元図形です。しかし、私たちはこのプロセスを続行するわけにはいきません。私たちは動きを用いて三次元図形から四次元図形、あるいは第四の次元を創り出すことはできないのです。第四の次元についての概念を発達させるために、どのようにイメージを用いることができるでしょうか?ある数学者や科学者、例えば、ツェルナーは、精神世界が四次元空間中に存在すると仮定することによって、その世界を感覚で知覚可能な世界との調和へともたらしたい、という誘惑を感じていました。平面上に横たわる完全に閉じた図形である円を想像して下さい。誰かが私たちに硬貨を円の外側から内側に動かすようにと言ったとしましょう。私たちは円周を横切るか(図46)、あるいは、もし円周に触れることが許されないとすれば、硬貨を空中に持ち上げ、それを円の内部に置くしかありませんが、そのためには第二の次元を離れ、第三の次元に入ることが要求されます。硬貨を魔術のように立方体や球のなかに動かすためには、私たちは第三の次元を離れ、第四の次元に移行しなければなりません。今回の人生において、私が最初に空間の性質を把握し始めたのは、現代の合成的投影幾何学を学び始めるとともに、円を直線に変形させることの重要性を理解したときです(図47世界は魂の最も繊細な思考のなかに現れます。さて、円を想像してみましょう。私たちはその円周をずっと辿っていきますと、最初に出発した点に戻ることができます。その円がどんどん大きくなっていく一方、接線は変化しない、と思い描いてみましょう。その円はますます平らになっていますから、それは最終的には直線になるでしょう。これらの段階的に大きくなる円を辿るときには、私はいつでも一方の側から降りて行き、出発点にもどるまで反対側を上がって来ることになります。最終的には、私は無限に辿り着くまで、ここでは右としましょうか、一方向に動いて行くことになります。こうして、私が無限からもどってくるのは反対側、左からでなければなりませんが、それは直線のなかに連なる点が円のように振る舞うからです。ですから、空間には端がありません。それは、直線の点が閉じた円の点とちょうど同じように配置されているために、正に直線には端がないのと同じです。同様に、私たちは、無限の広がりをもつ空間は、球の表面のように、自己充足していると想像しなければなりません。私たちは今、無限の空間を円あるいは球の意味で記述しました。この概念は私たちが空間の現実を考えてみる上での助けとなるでしょう。私たちが考えもなしに無限に向かって進み、反対側から何も変わらずにもどってくる、と想像する代わりに、光を運んでいると想像してみましょう。直線上の一定の地点から見たとき、この光は、私たちがそれを遠くへ運ぶほどますます弱くなり、私たちがそれをもって無限から戻ってくるときには、ますます強くなります。そのとき、もし、私たちが光の強さの変化を正負の変化として思い描くならば、光が強くなる一方の側は正であり、他方は負となります。正に相対する空間の効果であるところのこれらふたつの極は、大自然におけるあらゆる影響のなかに見いだされます。この考えは、力を有しているものとしての空間概念、つまり、空間のなかで作用する力は力そのものが現れたものに過ぎない、という考えへと導きます。私たちは三次元空間のなかで、内側から働く力を発見する可能性を疑うことはもはやないでしょう。そして、すべての空間的な現象は空間における実際の関係に基づいているということに気づくでしょう。そのような関係の一つは、二つの次元のねじれです。二つの閉じた輪をつなぎ合わせるためには、そのうちの一つを開いてもうひとつに差し込まなければなりません。さて、私は空間本来の多様性を確かめるために、長方形の細長い紙でできたこの図形を二回ねじります。つまり、片方の端を固定して、もう片方を360°回転させます。そして、その帯をピンで留めながら両端をくっつけます。このねじった輪を長さ方向に半分に切りますと、結果としてつなぎ合わさった二つの輪が得られます。それらの輪はどちらかひとつを破ることなしには、分離させることができません。単に帯をねじることによって、そうでなければ四次元に入ることによってのみ実行することができる操作を三次元のなかで行うことができるようになりました。これは単なる遊びではなく、宇宙的な現実です。ここに太陽があり、太陽をまわる地球の軌道と、地球をまわる月の軌道があります(図48)。地球は太陽のまわりを動いていますから、月と地球の軌道は、ちょうど(私たちの紙でできた二つの輪のように)ねじれているのです。地球進化の過程で、月は地球から離れていきました。この分離は、私たちの二つの紙の輪がつなぎ合わさったのと同じ仕方で生じました。空間をこのようにして見ますと、それは本来的に生きたものとなります。次に、正方形を考えて下さい。それが空間中を移動して立方体が描かれると想像しましょう。正方形の動きはそれが最初にあった位置に対して垂直でなければなりません。立方体はその面を構成する六つの正方形からできています。立方体の外観を示すために、私はその六つの正方形を平面上に並べて置くことができます(図49)。私はこれらの正方形を上方に折り曲げることによって、つまり、それらを三次元に移行させることによって、立方体を再構築することができます。六番目の正方形がトップにきます。この十字架状の図形を形成するために、私は立方体を二次元のなかに崩し込みました。三次元図形は広げると二次元図形に変わるのです。お分かりのように、立方体の境界は正方形です。三次元の立方体はいつでも二次元の正方形によって境界づけられるのです。一つの正方形を見てみましょう。それは二次元であり、四つの一次元線分で境界づけられています。私はこれら四つの線分を単一の次元のなかに広げることができます(図50)。正方形がもつ次元のうちのひとつを規定する辺を赤い実線で、もうひとつの次元を青い破線で表します。長さと幅の代わりに、赤と青の次元について語ることができます。六つの正方形から立方体を再構築することができます。つまり、私は四という数字(正方形の辺を構成する線分の数)を越えて、六という数字(立方体の側面を構成する平面の数)に至ります。このプロセスをさらに一歩進めて、私は六から八(四次元図形の「側面」を構成する立方体の数)へと移行します。私は八つの立方体を配置して、二次元平面においては、六つの正方形から構成されていた先ほどの図形の三次元における対応物を形成します(図51)。さて、この図形の裏表をひっくり返して、折り畳むことができる、八つの立方体を図形全体のなかに閉じこめることができる、と想像して下さい。四次元空間のなかにある四次元図形を創り出すために、私は八つの立方体を用います。ヒントンはこの図形をテサラクトと呼びました。その境界は、ちょうど通常の立方体が六つの正方形から構成されるように、八つの立方体から構成されます。このように、四次元テサラクトは八つの三次元立方体によって境界づけられます。二次元のなかでのみ見ることができる存在を思い描いて下さい。この存在が立方体から展開された六つの正方形を見るときには、正方形1、2、3、4、そして6だけを見るのであって、決して中央の影をつけられた正方形5を見ることはありません(図52)。あなた方自身が展開された四次元物体を見るときも同様です。あなた方は三次元物体だけを見ることができるわけですから、中央の隠された立方体を見ることは決してできません。立方体を正六角形の輪郭が現れるように、このように黒板に描くとしましょう。その他の部分は後ろに隠されています。あなた方が見ているのは一種の影の像、二次元空間への三次元立方体の投影です(図53)。立方体の二次元的な影の像は、ひし形、あるいは等辺の平行四辺形から構成されます。もし、立方体が針金でできていると想像するならば、後ろにあるひし形も見えるでしょう。この投影図は六つのオーバーラップしたひし形を示しています。このようにして、立方体全体を二次元空間のなかに投影することができるのです。さて、四次元空間のなかにある私たちのテサラクトを想像してみましょう。その図形を三次元空間中に投影すると、四つの相互に貫入しない斜めの立方体(平行六面体)が得られるはずです。これらの平行六面体のうちの一つはこのように描かれるでしょう(図54)。しかし、八つの平行六面体は、四次元空間中における四次元テサラクトの完全な三次元投影像を得るためには、相互に貫入しなければなりません。私たちは、八つの適切な仕方で相互に貫入した平行六面体の助けを借りて、テサラクトの完全な三次元的な影を描くことができます。結果として得られる空間図形は四つの対角線をもつひし形十二面体です(図55)。立方体のひし形投影像においては、三つの隣接するひし形が他の三つと合致するために、立方体の六つの面のうち三つだけを見ることができます。同様に、テサラクトのひし形十二面体投影像においては、四つの相互に貫入しないひし形立方体だけを、テサラクトの八つある境界立方体の投影として、見ることができるのですが、それは、四つの隣接するひし形立方体が残りの四つを完全にカバーしてしまうからです。参考図:テサラクトの三次元的な影を構築こうして、テサラクトの三次元的な影を構築することができるのですが、それは四次元物体そのものではありません。同様に、私たち自身も四次元存在の影なのです。私たちが物理平面からアストラル平面に移行するとき、メンタル像を形成する能力が涵養されなければなりません。二次元存在が三次元的な影の像をいきいきとイメージするように繰り返し試みていると思い描いて下さい。三次元の四次元に対する関係を心的に構築することは、数学的な四次元空間ではなく、現実の四次元空間をのぞき見ることを可能にする内的な力を発達させることになります。もし、私たちが、より高次の世界において、私たちに見ることを可能にする能力を発達させていなかったならば、私たちはいつもそのより高次の世界、つまり通常の意識の世界のなかで無力なままに留まるでしょう。私たちが物理的な感覚知覚の世界において見るために用いる目は、私たちがまだ子宮のなかにいるときに発達するのです。同様に、見ることができる者としてより高次の世界に生まれることができるためには、私たちは、まだ地球という子宮のなかにいる間に、超感覚的な器官を発達させなければならないのです。物理的な目の子宮のなかでの発達は、このプロセスに光を当てるひとつの例です。立方体は、長さ、幅、そして高さという次元を用いて構築されなければなりません。テサラクトは、同じ次元に第四の次元を加えた次元を用いて構築されなければなりません。植物は生長しますから、三次元空間から抜け出します。時間の中に生きるいかなる存在も三つの通常の次元から自らを解き放ちます。時間が第四の次元なのです。それは三次元という通常の空間の内部では不可視のままに留まり、ただ超感覚的な力によってのみ知覚することができます。動く点が線を創り出し、動く線が平面を創り出し、動く平面が三次元図形を創り出します。三次元空間が動くとき、結果として生じるのは成長であり、発達です。そこにあるのは、動き、成長、そして発達として三次元空間に投影された四次元空間、もしくは時間です。あなた方は、三つの通常の次元を積み上げるに当たっての私たちの幾何学的な思考が現実の生活へと継続しているのを見いだすでしょう。時間は三つの次元に対して垂直であり、第四の次元を構成しています。それは成長します。時間が、存在するものの内部で、生きたものになるとき、知覚能力が生じます。時間が存在の内部で内的に乗ぜられ、自ら動き出すようになるとき、結果として生じるのは感覚を有する動物存在です。実際に、そのような存在は五つの次元を有しているのですが、他方、人間が有している次元は六つです。私たちは、エーテル領域(アストラル平面)においては四つ、アストラル領域(下位のデヴァカン)においては五つ、そして、上位のデヴァカンにおいては六つの次元を有しているのです。こうして、精神の多様な顕現があなた方のなかに見られることになります。デヴァカンがその影をアストラル空間のなかに投げかけるとき、結果として生じるのは私たちのアストラル体です。アストラル領域がその影をエーテル空間に投げかけるとき、結果として生じるのはエーテル体、等々です。時間がひとつの方向に動くとき、自然界は死滅し、別の方向に動くとき、それは生き返ります。これらの流れが出会う二つの点が誕生と死なのです。未来は絶えず私たちに出会うためにやってきます。生が一方向にだけ動いているものであったならば、何も新しいことは生じなかったでしょう。人間は天才、つまり、彼らに向かって流れてくる彼らの未来、彼らの直感(インテュイション)をも有しています。働きかけを受けた過去は反対側からやってくる流れですが、それはその存在を、その時点までに進化してきたようなものとして決定づけます。参考図:鏡面的影像 (了)人気ブログランキングへ
2024年04月17日
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「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答GA324aRudolf Steiner:Die Vierte Dimension 佐々木義之訳 第6講1905年6月7日、ベルリン 今日は、空間の第四の次元についての連続講義を結論づけなければなりませんが、実際には、ひとつの複雑な系をより詳細に提示してみたいと思っています。そのためにはヒントンのモデルについて、もっと多くのことを提示する必要があるでしょうが、私にできるのは、彼の徹底的で洞察力に富んだ三冊の本をあなた方に紹介するということだけです。当然のことながら、これまでの講義で示されたような類比を用いることに消極的な人には、四次元空間についての心的な表象を獲得することは不可能でしょう。思考を発達させる新しい方法が必要なのです。では、テサラクト(四次元立方体/正八胞体)の真のイメージ(平行投影像)を得る試みをしてみたいと思います。私たちは、二次元空間中の正方形には四つの辺がある、ということを見てきました。三次元におけるその対応物は立方体ですが、それは六つの正方形の面をもっています。(図42)その四次元的な対応物はテサラクトですが、それは八つの立方体によって境界づけられています。従って、テサラクトの三次元空間への投影像はお互いを貫く八つの立方体から構成されます。私たちはこれら八つの立方体を、三次元空間のなかで、どのように符合させることができるかを見てきました。ここでは、テサラクトの別の投影像を構築してみましょう。立方体を光に向けて差し上げることによってボード上に影が映るようにすると想像して下さい。そのとき、私たちはチョークでその影をなぞることができます(図43)。お分かりのように、それは六角形になります。もし、立方体が透明であると想像するならば、その平面上への投影図においては、立方体のこちら側の面三つと向こう側の面三つが合わさって六角形の図になるのが分かりますね。テサラクトに適用することができる投影法を得るために、あなた方の前にある立方体を、こちら側の点Aが向こう側の点Cにちょうど重なるような位置に置くと想像して下さい。そのとき、もし、あなた方が三次元を取り除くとしますと、結果として得られるのはやはり六角形の影です。それを描いてみましょう(図44)。立方体がこの位置にあると想像しますと、あなた方に見えるのはこちら側の三面だけで、別の三面は後ろに隠されています。立方体の表面は遠近法によって狭く見え、その角度はもはや直角には見えません。こうして、私たちは二次元空間のなかに三次元的な立方体のイメージを創り出しました。この投影法では辺が短くなり、角度が変化しますから、私たちは立方体の六つの正方形の表面をひし形として想像しなければなりません。さて、平面上に三次元的な立方体を投影する操作を、三次元空間のなかに四次元図形を投影することによって繰り返すことにしましょう。八つの立方体から構成される図形であるテサラクトを三次元のなかで表現するために平行投影法を用いることにします。この操作を立方体に施す場合には、三つの見える辺と三つの見えない辺ができます。つまり、実際には、それらは空間のなかに突き出しているのであって、投影面の上に横たわっているわけではありません。さて、立方体がひし形平行六面体に歪められると想像して下さい。そのような図形を八つ取り上げますと、あなた方はテサラクトを規定する構造を組み立てることができますが、それらの構造は、ひし形十二面体のなかで相互に貫入し、平行六面体と二重に合わさるような仕方で構築されます(図45)。挿入図:tesseract-2 この図形は立方体に比べて一本多い軸をもっています。当然のことながら、四次元図形には四本の軸があるのです。その構成要素が相互に貫入しているときにも、四本の軸は残ります。このように、この投影図には平行六面体として示される相互に貫入する八つの立方体が含まれています。ひし形十二面体は三次元空間のなかに投影されたテサラクトの対象像あるいは影なのです。私たちは類比によってこれらの関係へと到達しましたが、その類比は完全に有効なものです。ちょうど立方体を平面上に投影することができるように、テサラクトもまた三次元空間のなかに投影することによって表現することができるのです。得られる投影図のテサラクトに対する関係は、立方体の影の立方体に対する関係と同じです。この操作は容易に理解できると思います。今ここで行ったことを、プラトンとショーペンハウアーが洞窟の比喩のなかで与えたすばらしいイメージに結びつけてみたいと思います。プラトンは、洞窟のなかに、鎖につながれているために首を回すことができず、後ろの壁しか見ることができない人々がいると想像するように私たちに言います。彼らの背後で、別の人々が色々なものを運びながら洞窟の入り口の前を通過します。これらの人々と彼らが運ぶものは三次元的ですが、囚人たちは壁に映った影しか見ることができません。例えば、この部屋にあるものも、すべて反対側の壁に映った二次元的な影のイメージのように見えることでしょう。そして、プラトンは世界のなかにおける私たちの状況も同じだと言います。私たちが洞窟のなかに繋がれている人々なのです。他のあらゆるものがそうであるように、私たち自身は四次元的なのですが、私たちが見るものすべてが三次元空間におけるイメージの形で現れるのです。プラトンによると、私たちは事物の現実ではなく、その三次元的な影のイメージを見ることに依存している、ということになります。私は私自身の手を単に影のイメージとして見ますが、現実には、それは四次元的なものなのです。私たちは、四次元的な現実のイメージであるところのもの、私があなた方に示したテサラクトのイメージのような、イメージだけを見ているのです。プラトンは、古代ギリシャにおいて、私たちが知っている体は実際には四次元的なものであり、私たちはその三次元空間における影のイメージだけを見ているのだ、ということを説明しようとしました。この記述は全くの思いつきのものというわけではありません。それを簡単に説明します。もちろん、最初のうちは、それは単なる推測に過ぎないと言うこともできます。壁の上に現れるこれらの姿の一体どこに現実性があると想像できるでしょうか。しかし、今、あなた方がここで一列に座っていて、動くことができないと想像して下さい。突然、影が動き始めます。あなた方は、壁の上の影が二次元から離れることなしに動くことができるなどとは結論づけられないでしょう。壁の上で像が動くときには、何かが原因で、壁の上にあるのではない現実の事物の動きが生じたに違いありません。三次元空間中にある事物はお互いにすれ違うことができます。もし、あなた方が二次元的な影のイメージをお互いに貫通することができないものとして、つまり、実質から成り立っているものとして想像するならば、すれ違うということはそれらにとっては何か不可能なことなのです。もし、私たちがこれらのイメージを実質的なものであると想像するならば、それらは、二次元を離れることなしに、お互いにすれ違うことはできません。壁の上のイメージがじっとしている限りは、壁から離れたところで、つまり、二次元的な影のイメージ世界の外で何かが起こっていると結論づける理由は私にはありません。けれども、それらが動き始めるやいなや、私はその動きの源泉を調べ、その変化は壁の外に、つまり、三次元のなかに起源をもつものであると結論づけるように強いられます。このように、イメージにおける変化が、二次元に加えて三次元があるということを私たちに伝えたのです。単なるイメージといえどもある種の現実性ときわめて特殊な属性を有していることは確かですが、それは現実の事物とは本質的に異なるものです。鏡像もまた単なるイメージであるということを否定することはできません。あなた方は、鏡のなかのあなた方自身を見ますが、鏡の外、こちら側にもあなた方は存在しています。第三の要素の存在、つまり、動くところの存在ですが、それなしには、あなた方はどちらがあなた方なのかを本当に知ることはできません。鏡像はオリジナルと同じ動きをします。それは自分で動くことができず、現実の事物、すなわち存在しているものに依存しているのです。このように、私たちがイメージと存在を区別できるのは、存在しているものだけが自分から変化し、あるいは動きを生じさせることができると言うことによってです。私は、壁の上の影のイメージは自ら動くことができない。したがって、それらは存在しているものではないということに気づきます。存在するものたちを発見するためには、私はイメージを越えていかなければならないのです。ここで、この一連の考え方を世界一般へと適用してみて下さい。世界は三次元的ですが、もし、あなた方がそれを思考のなかで把握しながら、それをそれ自体で考えるならば、あなた方はそれが本質的に動かないものであることを発見するでしょう。たとえあなた方が、それをある時点で凝固したものとして想像するとしても、それでもなお世界は三次元的です。現実には、世界は時間のなかのどの二点を取ってみても同一ではありません。それは変化しています。では、これらの異なる瞬間がなかったとしたら、何があるか、何が残るかを想像して下さい。もし、時間がなかったとしたら、世界は決して変化しないでしょう。しかし、たとえ時間、あるいは変化がなかったとしても、世界はやはり三次元的です。同様に、壁の上のイメージは二次元的なままですが、それらが変化するという事実は、三次元が存在しているということを示唆します。世界が絶えず変化しているということ、たとえ変化がなかったとしても、それは三次元的なままであるということは、その変化は四次元のなかに求める必要があるということを示唆します。変化の理由、変化の原因、変化の活動は三次元の外に求められるべきなのです。この時点で、あなた方は四次元の存在とプラトンの比喩の正当性を把握します。三次元世界全体が四次元世界の投影像であるということを理解するのです。残る問題は、いかにしてこの四次元の現実を把握するかということです。もちろん、私たちは、四次元が直接三次元に入ってくることは不可能である、ということを理解しなければなりません。それはできないのです。四次元は三次元のなかに単純に落ち込むということができません。ここで、私は、三次元を超越するという概念をいかにして獲得するか、ということをあなた方に示してみたいと思います。(私は、以前ここで行った講義のなかで、同じような考えをあなた方のなかに目覚めさせようとしました。)ここに円があると想像して下さい。この円がどんどん大きくなって、そのどの部分もますます平らになると思い描くならば、結局は直径が非常に大きくなり、その円は直線へと変化させられます。直線は一つの次元だけを有していますが、円は二つです。どうすれば私たちは二次元のなかに戻ることができるでしょうか。直線を曲げて、再び円にすることによってです。あなた方が円盤を曲げると想像するならば、それはまずボウル状になりますが、もし、あなた方がそれを曲げ続けるとすると、最終的には球になります。曲げられた直線は二次元を獲得し、曲げられた平面は三次元を獲得します。そして、もし、あなた方が球をさらに曲げることができるとすれば、それは四次元へと曲がっていかなければならないでしょう。その結果得られるのは球状のテサラクトのはずです。球面は曲げられた二次元図形と考えることができます。自然においては、球は細胞の形態で、つまり、最も小さな生きた存在として現れます。細胞の境界面は球状です。生きたものと生きていないものの違いがここにあります。鉱物は結晶の形態においては、いつも平面、つまり平らな表面で境界づけられていますが、生命は細胞から構築され、球状の表面で境界づけられています。ちょうど結晶が平らに延ばされた球面、もしくは平面から構築されるように、生命は細胞、もしくは隣接する球から構築されます。生きているものと生きていないものとの間の違いはその境界の特徴にあるのです。八面体は八つの三角形によって境界づけられています。私たちがその八つの面を球として想像するとき、結果として得られるのは八つの細胞からなる生き物です。三次元図形である立方体を「曲げる」とき、結果として得られるのは四次元図形である球状のテサラクトです。けれども、もし、あなた方が空間全体を曲げるとするならば、そのとき得られる図形の三次元空間に対する関係は、球の平面に対する関係と同じです。三次元物体としての立方体は、あらゆる結晶と同様、平面によって境界づけられています。結晶の本質は、それが平らな境界面によって構築されるということです。生命の本質は、曲げられた表面、つまり細胞から構築されるということですが、さらにより高次の存在レベルにある図形は四次元構造によって境界づけられることでしょう。三次元図形は二次元図形によって境界づけられ、四次元的な存在-つまり、生き物-は三次元的な存在、つまり、球や細胞によって境界づけられます。四次元的な存在は五次元的な存在、つまり、球状のテサラクトによって境界づけられます。こうして、私たちは、三次元存在から四次元存在へ、さらには五次元存在へと進む必要があるということを理解します。四次元的な存在に関しては、何が起こる必要があるのでしょうか。変化は三次元の内部で生じなければなりません。言い換えますと、あなた方が二次元的なものである絵を壁に掛けるときには、それらの絵は一般的には固定されています。二次元的なイメージが動いているのを見るとき、あなた方は、その動きの原因は壁の外にしかあり得ない、つまり、空間の第三の次元がその変化を促しているのだと結論づけるに違いありません。三次元の内部で変化が生じているのを見いだすとき、あなた方は、その三次元空間の内部で変化を経験する存在たちに影響を及ぼしているのは四次元であると結論づけなければなりません。私たちが植物をその三次元においてのみ知るとき、私たちはそれを本当には認識していません。植物は絶えず変化しています。変化は植物の本質的な側面、存在のより高次の形態の証しです。立方体はそのままです。つまり、その形態が変化するのは、あなた方がそれを打ち壊すときだけです。植物は自分でその形態を変化させますが、そのことはその変化が三次元の外に存在し、四次元において表現される要因によって引き起こされているに違いないということを意味しています。その要因とは何でしょうか。お分かりのように、あなた方は、この立方体をどの時点において描いたとしても、それはいつも同じである、ということを見いだすでしょう。けれども、あなた方が植物を描き、三週間後にオリジナルの植物をあなた方の絵と比べてみるとき、オリジナルの方が変化していることでしょう。ですから、私たちの類比は十分に正当なものです。どの生き物もその真の存在がそのなかに生きているところのより高次の要素を指し示しているのです。そして、時間はそのより高次の要素の表現です。時間とは、生命(あるいは四次元)の徴候的な表現、物理空間という三次元のなかにおける顕現です。言い換えれば、時間がそれらにとって本来的な意味をもっているところのあらゆる存在は、四次元的な存在のイメージなのです。三年、あるいは六年経ったとしてもこの立方体はやはり同じでしょう。しかし、百合の実生は変化します。何故なら、時間がそれにとって本当の意味をもっているからです。私たちが百合のなかに見るものは、四次元的な百合存在の三次元的なイメージに過ぎません。時間とは、四次元の、あるいは有機的な生命の、物理世界という三つの空間的な次元のなかへの投影、もしくはイメージなのです。連続するそれぞれの次元がひとつ前の次元とどのように関連しているか、ということを明確にするために、次のような一連の思考を追ってみて下さい。立方体は三つの次元を有しています。三番目の次元をイメージするために、あなた方はそれが二番目に対して直角であると自分に言い、そして、二番目は一番目に対して直角であると言います。それら三つの次元の特徴は、それらがお互いに直角であるということです。私たちはまた第三の次元を次の次元、つまり、第四の次元から生じるものとして考えることもできます。立方体の表面に色をつけ、その色を、ヒントンが行ったように、特別な方法で取り扱うと思い描いて下さい。あなた方が引き起こした変化は、正に三次元的な存在が時間上で発展し、それによって四次元に移行するときに被るところの変化に対応しています。あなた方が四次元存在のどこかを切り取るとき、つまり、それから四次元を取り去るとき、あなた方はその存在を破壊することになります。植物に対してこれを行うということは、ちょうど植物の姿を石膏に刻印するようなものです。あなた方はそれがもつ四次元、つまり時間の要素を破壊することによって、それをしっかりと所持しますが、結果として得られるのは三次元的な姿です。いかなる三次元的な存在であっても、その存在にとって、時間すなわち第四の次元が決定的に重要であるときには、その存在は生きていなければなりません。そして今や、私たちは五次元へとやってきました。あなた方は、この次元は第四の次元に対して垂直な別の境界をもっているはずだと言うかも知れません。私たちは、第四と第三の次元の間の関係が第三と第二の次元の間の関係に似ているということを見てきました。五次元についてイメージするのはより困難ですが、ここでもそれについて何らかのアイデアが得られるような類比を用いることができます。次元というものはどのようにして生じるのでしょうか。あなた方が線を引くとき、その線が単に同じ方向を保っている限り、さらなる次元が現れることはありません。次の次元がつけ加えられるのは、二つの相反する方向あるいは力がある点で出会い、中和すると考えられるときです。新しい次元とは力が中和させられることの表現としてのみ生じてくるものなのです。私たちは新しい次元を線の追加として、つまり、その線のなかで二つの力の流れが中和させられているところの線の追加として見ることができなければなりません。私たちはその次元を右から来るものとしても左から来るものとしても想像することができますが、最初の場合にはポジティブなものとして、第二の場合にはネガティブなものとして想像します。ですから、私はそれぞれの次元を力たちの対極的な流れ、正負の両方の構成要素をもつところのひとつの流れとして把握します。対極を構成する力の中和(どちらでもなくなること)が新しい次元なのです。これを私たちの出発点として、五次元に関する心的なイメージを発展させてみましょう。私たちは四次元が時間の表現であることを知っていますが、最初に四次元のもつ正と負の側面を想像してみなければなりません。それらにとって時間が意味をもっているところの二つの存在が衝突するところを思い描いてみましょう。その結果は、先ほど私たちがお話しした対抗する力の中和に似たものであるはずです。二つの四次元存在が結びつくとき、結果として生じるのはそれらの五次元です。五次元とは対極的な力の交換、あるいは中和の結果もしくは帰結であり、そこでは、お互いに影響を及ぼし合う二つの生きたものが、空間に関する三つの通常の次元においても、あるいは第四の次元、すなわち時間においても共有することのない何かを生み出しているのです。この新しい要素はその境界をこれらの次元の外に有しています。それは私たちが感情移入あるいは知覚活動と呼ぶところのものですが、その能力はある存在に別の存在についての情報を提供します。それは他の存在の内的な(魂的、精神的な)側面についての認識です。より高次の、つまり、第五の次元が付け加えられることがなければ-すなわち、知覚活動の領域に入ることなしには、いかなる存在も、時間と空間の外に横たわる他の存在の側面について知ることは到底できなかったでしょう。当然、私たちは知覚活動を、この意味においては、五次元の物理世界における単なる投影あるいは表現として理解しています。同様の方法で六次元を構築しようとしても、あまりに難しくなってしまいますから、今はそれが何であるかをお話しするだけにしておきましょう。もし、私たちがこれまでの線に沿って考えを進めるならば、私たちは、三次元世界における六次元の表現は自我意識である、ということを見いだすでしょう。三次元存在としての私たちは、私たちの姿形という特徴をその他の三次元存在と共有しています。植物はもうひとつの次元、四次元を有しています。したがって、植物の究極の存在が三次元空間のなかで見いだされることは決してないでしょう。あなた方は四次元、つまりアストラル領域にまで上昇しなければなりません。もし、あなた方が知覚能力を有する存在を理解したいのであれば、五次元、つまり低次のデヴァカンもしくはルーパ領域にまで、そして、自我意識を有する存在、つまり、人間-を理解しようとすれば、六次元、つまり高次のデヴァカンもしくはアルーパ領域にまで上昇しなければなりません。私たちが現在において出会うような人間は、本当に六次元存在なのです。私たちが知覚能力(感情移入)、自我意識と呼んだところのものは、それぞれ五次元と六次元の通常の三次元空間への投影です。たとえほとんどの場合は無意識的にとはいえ、人間はこれらの精神的な領域にまでずっとのびているのです。その本来の特徴を認識することができるのは、そこにおいてだけです。六次元存在としての私たちが、より高次の世界を理解するようになるのは、より低次の次元に特徴的な属性を放棄しようと試みるときだけです。なぜ私たちは世界を単に三次元的なものと信じているのか、ということについて、私には示唆する以上のことはできません。私たちの観点は、世界をより高次の要因の反映として見る、ということに基づいています。あなた方が鏡のなかに見ることができるのは、あなた方自身の鏡に映った姿に過ぎません。実際には、私たちの物理世界の三つの次元は、三つのより高次の、原因となる、創造的な次元の反映、有形の像なのです。このように、私たちの物理世界は、それにつづく三つのより高次の次元グループ、つまり、第四、第五、そして第六の次元のなかにその対極となる精神的な対応物を有しています。同様に、第四から第六にかけての次元は、その対極となる対応物を、さらにもっとはるかな精神的な世界のなかに、つまり、私たちにとっては推測の域を出ない次元のなかに有しているのです。水と、凍ることを許された水について考えて下さい。いずれの場合も実質は同じですが、水と氷とでは形態において非常に異なっています。人間における三つのより高次の次元についても、同様のプロセスが生じていると想像することができます。人間を純粋に精神的な存在として想像するときには、彼らが自我意識、感情、そして、時間という三つのより高次の次元だけを有し、そして、それらの次元が物理世界における三つの通常の次元のなかに反映されていると考えなければなりません。より高次の世界についての認識へと上昇することを望むヨギ(秘儀の学徒)は、反映であるところのものを徐々に現実で置き換えなければなりません。例えば、植物について考えるときには、彼らはより低次の次元をより高次の次元で置き換えることを学ばなければなりません。植物の空間的な次元のうちのひとつを無視し、対応するより高次の次元-つまり、時間-で置き換えることを学ぶことによって、彼らは動く二次元存在を理解することがきるようになります。この存在を単なるイメージに留める代わりに、現実に対応づけるために、秘儀の学徒は何をしなければならないのでしょうか? もし、彼らが単に第三の次元を無視し、第四の次元をつけ加えるだけであったとすれば、その結果は何らかの想像上のものであるかも知れません。次のように考えれば、私たちが答に向かって進むための助けとなるでしょう。つまり、生き物をフィルム撮影することによって、確かに本来は三次元的であったできごとから第三の次元を差し引くことになったとしても、連続的な映像が時間の次元をつけ加えることになります。そして次に、私たちがこの動くイメージに知覚能力をつけ加えるとき、私たちが行っていることは、私が三次元図形を四次元のなかに曲げ込むこととして記述した操作に似たものとなります。この操作の結果得られるのは四次元的な図形ですが、その次元には私たちの空間的な次元のなかの二つ、そして、二つのより高次の次元、つまり、時間と知覚能力が含まれています。実際、そのような存在が本当にいるのですが、私たちの次元に関する探求が真の結論へとやってきた今となっては、私はあなた方のために彼らの名前を告げたいと思います。二つの空間的な次元-つまり、平面ですが-を想像し、この平面が動きを付与されていると推測して下さい。それが曲がることによって感覚存在となり、その前にある二次元平面を押しているところを思い描くのです。そのような存在は私たちの空間中にいる三次元存在とは非常に違って見えますが、その振る舞いも非常に異なっています。私たちが構築した表面存在はひとつの方向に完全に開かれているのです。それは二次元的に見えます。それはあなた方の方にやってきますが、あなた方はその周りを回ってみることができません。この存在は放射するものであり、ある特定の方向における解放性以外の何ものでもありません。そして、秘儀参入者たちは、そのような存在を通して、火の炎のなかで彼らに近づく神の使いとして彼らが記述したところの別の存在をよく知るようになります。シナイ山頂で十戒を受けるモーゼの記述は、正に彼がそのような存在の接近を受けたということ、そしてその次元を知覚することができたということを示しています。この存在は、第三の次元を差し引かれた人間に似ていましたが、感覚と時間のなかで活動していました。宗教的な文献中の抽象的なイメージは外的な象徴に過ぎません。それらは、私たちが類比を通して理解することを試みてきたところのものを自分のものにすることによって学ぶことができるような圧倒的な現実なのです。あなた方がそのような類比について、より熱心に、そして精力的に考えてみればみるほど、そして、より熱心にそれらのなかに沈潜すればするほど、それらの類比は、より高次の能力を解放するために、ますますあなた方の精神に働きかけるようになります。このことは、例えば、立方体の六角形に対する関係とテサラクトのひし形十二面体に対する関係との間の類比についての説明にも当てはまります。ひし形十二面体はテサラクトの三次元的な物理世界への投影です。これらの図形を、それらがまるで独立した生命を有しているかのように視覚化することによって-つまり、立方体がその投影である六角形から、テサラクトがその投影であるひし形十二面体から生長してくるのにまかせることによって-あなた方のより低次のメンタル体は、私が今記述した存在を把握することができるようになります。あなた方がただ単に私の提言に従うだけではなく、秘儀の学徒がそうしたように、しっかりと目覚めた意識のなかで、この作業を生きたものにしたならば、あなた方はあなた方の夢のなかに四次元的な姿が現れ始めるのに気づくでしょう。そこまで来れば、それらをあなた方の目覚めた意識のなかにもたらすことができるようになるのも、それほど遠いことではありません。そのとき、あなた方は、あらゆる四次元的な存在のなかに、第四の次元を見ることができるようになっていることでしょう。*アストラル領域は第四の次元である。ルーパまでのデヴァカンは第五の次元である。アルーパまでのデヴァカンは第六の次元である。 これら三つの世界、物理世界、アストラル世界、天界(デヴァカン)は六つの次元を包含しています。もっとさらに高次の世界はこれらの次元の対極にあるものです。参照表:三つの世界「物理世界、アストラル世界、天界(デヴァカン)」(第6講・了)人気ブログランキングへ
2024年04月16日
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「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答GA324aRudolf Steiner:Die Vierte Dimension 佐々木義之訳 第5講1905年5月31日、ベルリン 前回、私たちは四次元空間図形を三次元へと還元することによってそれを視覚化しようとしました。最初、私たちは三次元図形を二次元図形に変換しました。私たちは、立方体のもつ三つの次元を表現するために三つの色を用いて私たちのイメージを構築するという方法で、次元を色で置き換えましたね。次に、その立方体を展開し、すべての面が平面上に横たわるようにしたのですが、その結果得られた六つの正方形においては、異なった色をもつ軸が二次元空間のなかで三つの次元を表現していました。そして、私たちは、立方体の表面である各正方形の第三の次元への移行を、色のついた霧のなかを移動させて別の側から再び出現させることとして思い描きました。私たちはすべての正方形の面が移行正方形を通過し、その色を帯びる、と想像しました。こうして、私たちは色を使って、三次元の立方体を二次元のなかに描こうとしたのです。正方形を一次元のなかで表現するためには、二種類の異なった色をその対になった各辺のために用い、立方体を二次元のなかで表現するためには、三つの色を用いました。四次元図形を三次元空間のなかに描くためには四つ目の色が必要でしたね。そして、三つの異なる面の色をもった立方体を二つの異なる辺の色をもった私たちの正方形と同様のものとして想像しました。そのような立方体のそれぞれが第四の色の立方体を通って移動しました。つまり、それは第四の次元、もしくは色のなかに消えたのです。注:私たちはヒントン(Geoffrey Hinton)の類比に従って、境界をなす立方体のそれぞれを新しい第四の色のなかを通って移動させ、反対側からそれ自身の色で再び現れるようにしました。※さて、もうひとつの類比を示したいと思います。四次元を三次元に還元するための準備として、もう一度、三次元を二次元に還元することから始めましょう。私たちは私たちの立方体をその六つの正方形の面から構成されているものとして思い描かなければなりませんが、それを展開するときには、六つの正方形のすべてがつながったままになるようにではなく、ここに示すように(図31)、それらを別様に配置することにします。お分かりのように、私たちはその立方体をそれぞれ三つの正方形を含む二つのグループに分けました。両方のグループとも同じ平面上にあります。私たちが立方体を再構築するときには、それぞれのグループの位置を理解していなければなりません。立方体を完成させるためには、ひとつのグループをもうひとつの上に置いて正方形6が正方形5の上に来るようにしなければなりません。正方形5をその場所に置くと、正方形1と2は上に、正方形3と4は下に折り曲げなければなりません(図32)。そのとき、対応する線分の対-つまり、同じ色の線分(図31のなかでは、同じ数と重さのスラッシュで示される)-は一致します。私たちが三次元空間への移行を行うとき、二次元空間中では分散しているこれらの線が一致することになるのです。参照図:Geoffrey Hinton_tesseract-1注:1905年6月7日にベルリンで行われた連続講義「四次元」では、シュタイナーはヒントンのモデルを用いて四次元空間について説明しています。ヒントンのモデルは、テサラクト(四次元立方体または正八胞体)を平行投影法を用いて三次元空間に投影することで、四次元的な対象像を理解しようとするものです。テサラクトは八つの立方体によって境界づけられており、その三次元空間への投影像はお互いを貫く八つの立方体から構成されます。この投影法を通じて、私たちは四次元的な対象を三次元的なイメージとして理解することができます。プラトンの洞窟の比喩とも関連して、私たちが見るものは実際には四次元的なものであり、私たちはその三次元的な影のイメージだけを見ているという視点を提供しています。ヒントンの類比とは、ルイス・キャロルの小説「アリスの不思議の国のアリス」に登場するキャラクター、ヒントンが4次元の存在を説明するために用いたものです。しかし、ヒントンの生年とシュタイナーの講演との関連はありません。シュタイナーは19世紀末から20世紀初頭にかけて活動し、人智学の思想を広めました。彼の生涯については、多くの著作や講演を通じて明らかにされています1。ヒントンとシュタイナーは異なる時代と文脈で活動しており、直接的な関連はありません。したがって、ヒントンの類比とシュタイナーの講演の生年については、特定の矛盾は生じません。 正方形は四つの辺、立方体は六つの正方形、そして、四次元図形は八つの立方体から構成されます。※例えば後世にヒントンはこの四次元図形をテサラクト(四次元立方体/訳註・日本語では「正八胞体」と呼ばれている)と呼びます※。私たちの仕事は、単にこれら八つの立方体をまとめてひとつの立方体にすることではなく、それぞれを四次元空間を通過させることによってそうするということなのです。私が正に立方体に対して行ったことをテサラクトに対して行うとき、私は同じ法則を観察しなければなりません。四次元図形がその三次元的な写しとどのような関係にあるかを見いだすためには、三次元図形のその二次元的な写しに対する関係との類比を用いなければなりません。展開した立方体の場合には、三つの正方形からなる二つのグループがありました。同様に、四次元的なテサラクトを三次元空間のなかに展開しますと、その結果として四つの立方体からなる二つのグループができます。それらはこのように見えます(図33)。この八つの立方体による方法は実にすばらしいものです。私たちは、二次元空間中で正方形を取り扱ったのと全く同様にして、三次元空間中で四つの立方体を取り扱わなければなりません。私がそこで行ったことによく注意して下さい。立方体が二次元空間中で平面になるように展開すると、結果としてグループ化された六つの正方形になります。同じ操作をテサラクトに施すと、結果としてシステム化された八つの立方体になります(図34)。私たちは三次元空間上での考察を四次元空間に移し替えたことになります。三次元空間のなかでそれらの辺が一致するように正方形を組み立てるということは、四次元空間のなかでそれらの面が一致するように立方体を組み立てることに相当します。立方体を二次元空間のなかに平面として横たえますと、結果として私たちがその立方体を再び組み立てたときに一致することになる対応する線が得られました。テサラクトにおいても似たようなことが各立方体の面に関して起こります。テサラクトを三次元空間のなかに展開すると、結果として後で一致することになる対応する表面が得られるのです。ですから、私たちが四次元のなかに移行するとき、テサラクトのなかでは、立方体1の上の水平面は立方体5のこちら側の面と同じ平面のなかに横たわることになります。同様に、立方体1の右の面は立方体4のこちら側の面と、立方体1の左側の面は立方体3のこちら側の面と、そして、立方体1の下の面は立方体6のこちら側の正方形と一致します。他の面の間にも同様の対応が存在します。その操作が完結したとき、残るのは立方体7、つまり他の6つの立方体に取り囲まれた内部の立方体です。お分かりのように、ここで私たちがもう一度携わっているのは三次元と四次元の間の類比を見いだすということです。前回の講義で私たちが見た図にもありましたが(図29)、ちょうど二次元空間のなかでだけ見ることができるいかなる存在も四つの他の正方形に取り囲まれた五番目の正方形を見ることができないように、この例の場合にも、七番目の立方体に関して同じことが言えます。それは三次元的な視覚には隠されたままに留まるのです。テサラクトにおいては、この七番目の立方体は八番目の立方体、つまり四次元のなかにおけるその写しに対応しているのです。これらの類比のすべては私たちが四次元への準備をするのに役立ちます。と申しますのも、空間に関する私たちの通常の観点のなかには、私たちが慣れ親しんだ三つの次元に他の次元をつけ加えることを強制するものは何もないからです。ヒントンの例に従って、ここでまた色を使ってもよいでしょう。対応する色が一致するように立方体を組み立てることを考えてみましょう。そのような類比を用いるのでなければ、四次元図形について考察する方法については、ほとんどいかなる指針も与えることができないでしょう。では、実際に何が問題になっているのかについて、理解をもっと容易にするために、三次元空間のなかで四次元物体を表現するための別の方法についてお話ししたいと思います。ここに正八面体があります。その八つの三角形の面はお互いに鈍角で合わさっています(図35)。この図形を想像し、そして、私と一緒に次のような一連の思考を追いかけてみて下さい。お分かりのように、これらの辺は二つの表面が交わるところに存在しています。例えばふたつがABで交わり、ふたつがEBで交わっています。八面体と立方体の間の唯一の相違は、表面が交わる角度です。立方体のなかではそうであるように、表面が直角に交わるときにはいつでも、形成される図形は立方体でなければなりません。しかし、ここでそうなっているように、それらが鈍角で交わるときには、八面体が形成されるのです。表面が異なった角度で交わるようにすることによって、異なった幾何学図形を構成することができます。次に、八面体の表面を交わらせる別の方法を思い描いて下さい。AEBのようなここにある面のひとつがあらゆる方向に広げられると想像して下さい。(図36)下側の面BCFと、図の向こう側にあるADFとEDCも同様に広げられます。これらの広げられた面もまた交わらなければなりません。この対称軸に関しては二重の対象性が存在していますが、それは「半分裏返しになった対象性」とも呼ばれます。これらの面が拡張されるとき、最初にあった八面体の四つの面、ABF、EBC、EAD、そしてDCFは除去されます。最初にあった八つの面から四つが残り、これらの四つは四面体を形成しますが、それは半分の八面体と呼ぶこともできます。何故なら、それは八面体の面の半分を交差させることになるからです。それは八面体を真ん中から半分に切るという意味で半分の八面体なのではありません。八面体のそれ以外の四つの面をそれらが交わるところまで拡張しても四面体ができます。元の八面体はこれらふたつの四面体が交差したものなのです。立体幾何学あるいは幾何結晶学においては、半分の図形と呼ばれるものは元の図形を二つに分けたというよりは、面の数を半分にした結果のことをいいます。八面体の場合、これを視覚化するのは非常に簡単です。同様に、ひとつの面を別の面と交わらせることによって半分にした立方体を想像してみるならば、得られるのはいつも立方体です。立方体の半分はいつでももうひとつの立方体なのです。この現象から重要な結論を引き出すことができますが、とりあえずもうひとつの例を示してみましょう。ここにひし形十二面体があります(図37)。お分かりのように、その面は特定の角度で交わっています。ここにはまた異なる方向に走る四本のワイヤー系-それらを軸ワイヤーと呼びましょう-がありますが、それらはつまり、ひし形十二面体のなかで反対側にある特定の角を結ぶ対角線です。これらのワイヤーはひし形十二面体の軸システムを表していますが、それは立方体のなかに考えることができる軸システムと同様のものです。三つの直角に交わる軸システムのなかで、これらの軸のそれぞれに関して堰き止めが生じ、交差面が形成されますと、その結果として立方体が生じます。異なった角度で軸を交差させますと、その結果として異なる幾何立体が生じます。例えば、ひし形十二面体の軸が交わる角度は直角ではありません。立方体を半分にすると立方体が得られます。これは立方体に関してだけ成り立ちます。ひし形十二面体の面を数を半分にすると、全く異なる幾何図形が生じます。さて、八面体の四面体に対する関係とはどのようなものか、ということについて考えてみましょう。つまりそれはこういうことです。もし、私たちが四面体の八面体への変換を段階的に行うならば、その関係は全く明瞭になります。その目的のために、ここに示すようなひとつの四面体を取り上げて、その頂点を切り落としてみましょう(図38)。私たちは、切断面が四面体の辺上で出会うまで、より大きな塊を切り落とすことを続けます。切り落として残った形が八面体です。私たちは適当な角度で頂点を切り落とすことによって、四つの面で仕切られた空間図形を八つの面をもつ図形に変換したことになります。四面体に対して今行ったことを立方体に対して行うことはできません。立方体は三次元空間の写しである点において独特です。宇宙の全空間がお互いに直角な三つの軸で構築されていると想像して下さい。これら三つの軸に直角な平面を挿入すると、いつでも立方体が生じます(図39)。ですから、私たちが、ある特定の立方体というよりは理論的な立方体の意味で「立方体」という言葉を使うときには、私たちはいつでも三次元空間の写しとしての立方体について語っているのです。ちょうど八面体の面の半分をそれらが交わるまで拡張することによって、四面体が八面体の写しであることを示すことができるように、ひとつひとつの立方体もまた空間全体の写しなのです。もし、空間全体を正であるとして想像するならば、立方体は負になります。立方体はその全体性において空間の対極にあるものです。物理的な立方体は幾何学的な図形ですが、本当に空間全体に対応するものなのです。二次元平面によって境界づけられた三次元空間のかわりに六つの球によって境界づけられた空間があると仮定して下さい。その空間は三次元空間です。私はまず交差する四つの円、つまり二次元的な図形によって二次元空間を規定することから始めます。今、これらの円がどんどん大きくなると、つまり、半径がどこまでも長くなり、中心点がますます遠くなると想像して下さい。時間の経過と共に、円は直線に変化するでしょう(図40)。そのとき、そこにあるのは四つの円ではなく、四つの交差する直線とひとつの正方形です。さて、円の代わりに、桑の実状の形態をとる六つの球を想像して下さい(図41)。ちょうど円がそうしたように、球がどこまでも大きくなると思い描いて下さい。これらの球は、ちょうど円が正方形を規定する直線になったように、ついには立方体を規定する平面になるでしょう。その立方体は六つの球が平面になった結果です。ですから、立方体とは、ちょうど正方形が四つの交わる円の特別な例に過ぎないように、単に六つの交わる球の特別な例なのです。平面にまで広がるこれら六つの球が、以前に立方体を規定するために私たちが用いた正方形に対応していることにはっきりと気づくとき-つまり、球状の図形が平らな図形へと変化させられるのを視覚化するとき-その結果として生じるのは最も単純な三次元図形です。立方体は交差する六つの球を平らにした結果であると想像することができるのです。円周上の点は円周上にある他の点に辿り着くためには、二次元を通過して行かなければならない、と言うことができます。けれども、もし円が非常に大きくなって直線を形成するまでになると、円周上のどの点も一次元を通過して行くだけで他のどの点にも辿り着くことができるようになります。二次元図形によって境界づけられる正方形について考えてみますと、正方形を規定する四つの図形が円である限り、それらは二次元的ですが、直線になるやいなや、一次元的となります。立方体を規定する平面は三次元図形(球)から発達してきます。それは六つの球のそれぞれからひとつの次元が取り去られることによってです。立方体を規定するこれらの表面が生じるのは、次元が三から二に減少させられることを通して、まっすぐに引き延ばされるからです。それらは次元をひとつ犠牲にしました。それらが第二の次元に入って行くのは、奥行きという次元を犠牲にすることによってなのです。ですから、こう申し上げてもよいでしょう。空間の各次元はひとつ上の次元を犠牲にすることによって生じると。二次元的な境界を有する三次元的な形態があるとして、三次元的な形態は二次元へと還元されるとするならば、私たちは次のように結論づけなければなりません。三次元空間を考えるときには、それぞれの方向は、無限の円が平らになったものと考えるべきであると。そのとき、私たちが一方の方向に動くとすれば、いつかは反対の方向から同じ場所に戻ってくることになるでしょう。このように、通常の次元空間はそれぞれひとつ上の次元が失われることによって生じたのです。三軸系は私たちの三次元空間にとって本来的なものですが、その三つの直角に交わる軸のそれぞれは、直線になるために、ひとつ上の次元を犠牲にしています。こうして、私たちはその三つの軸方向のそれぞれをまっすぐにすることによって、三次元空間を達成します。その経過を逆転させることによって、空間の各要素は再び曲げられることもできるでしょう。ですから、次のような一連の思考が可能です。一次元図形を曲げると、結果として生じる図形は二次元的である。曲げられた二次元的な図形は三次元的なものとなる。そして、最後に、三次元的な図形を曲げることによって四次元的な図形が生じると。このように、四次元空間は曲げられた三次元空間として想像することができます。この時点で、私たちは死んだものから生きたものへの移行を行うことができます。この曲げるということのなかに、死から生への移行を明らかにする空間的な図形を見いだすことができるのです。三次元への移行に際しては、四次元空間の特別な例が見いだされます。つまり、それは平らになったのです。人間の意識にとっては、死とは三次元的なものを曲げて四次元的なものにするということに他なりません。肉体をそれ自体で取り上げた場合には、逆が真となります。死とは四次元の三次元への平坦化なのです。 (第5講・了)参照画:Rudolf Steiner人気ブログランキングへ
2024年04月15日
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創世新理論(世界創生の因/the cause of world genesi) Hiro Shim著-PLAN/20240414 「虚のハーモニー(ゆらぎ)-世界創世の因(*みなもと)」=Imaginary harmony (fluctuation)仮題登場する主要人物 Tesla=虚のハーモニー(ゆらぎ)を奏でられる宇宙で滅多に顕れない知的生命体の人間女性。特に、心の源に「宇宙振動に密やかに秘された愛の振動を持つ者」である。当人はそのことを今は知らない。それを意識や認識に浮上させるにはプロキシマ・ケンタウリの神秘学者・高聖神学者バクの教育が欠かせない。 Shim=さしもの科学技術や文明の発展を誇りとを持った地球のテラが衰退期に入る前に、連邦共和制最後で最大の希望を携えて開発したAGI。シムは自律神経やナノ技術によりほぼ永久に稼働する自己認識・意識型ロボットである。但し、一部の宗教家からは神の恩寵としての霊魂は存在しないとの批判がある。驚きはシムそのものが獲得した人類さえ気付かなかった「完全なる絶対音感保持者」であることである。此の能力なしにはテスラもバクも生涯に宇宙を探索する夢は叶えられないことはとうぜんである。光速度の何万倍の速度での宇宙移動は「虚」の利用なしには考えられないからである。絶対音は感所有者のグループが、電子的に作った純音でピアノで発生させた音を当てようとした場合は94.9%の確度で当てられる絶対音感所有者のグループが、電子的に作った純音で同じ実験を行った場合、正解率が74.4%程度に落ちることをみても、千%の絶対音感が要求される「虚空ハーモニドライブエンジンのエンジニアとしては欠くべからざる者です。 Baku=プロキシマ・ケンタウリの神秘学者・高聖神学者神秘学者・高聖神学者、バクは、プロキシマ・ケンタウリの手足の指こそ六指あるが、古代の知識や神秘的な秘密に興味を持つ学者であり、その知識を追求するためにはハーモニードライブ稼働中もその知識と経験はによるTeslaへの教育は様々な冒険をするには必須かもしれません。彼は知的で冷静な性格でありながらも、探求心が強く、時には冒険的な一面も見せます。また、彼の名前からもわかるように、彼は高い精神的な目標を持っています。また、彼はどのような環境で育ち、何をきっかけに神秘学や高い精神的な探求に興味を持つようになったのでしょうか。彼の過去や経歴は彼の行動や信念に影響を与えるでしょう。バクがどのような目的で神秘的な秘密を追求するのかは今はまだ解明されてはおりません。参照画:プロキシマ・ケンタウリの神秘学者Bak人気ブログランキングへ
2024年04月14日
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創世新理論(世界創生の因/the cause of world genesi) Hiro Shim著-PLAN/001 「虚のハーモニー(ゆらぎ)-世界創世の因(*みなもと)」=Imaginary harmony (fluctuation)仮題序章 「虚」には「静逸(せいいつ)」しかありえないが、或る障りからか歪みが生じ振動が生じ、数多の振動因子が散逸した。中には特にハーモニーを奏でるもの、現在テスラが呼ぶところの「はーもにー(愛)」が偉大なるエネルギーを誕生させて、ユニバース(認識される宇宙=認識者としての知的生命と守護・維持者としての神を発生した世界」を創造する。その世界は2つの振動合成が生み出す物理法則に支配される。因虚の世界から、宇宙因子から受胎した合成振動を経て、インフレーション素因子としてのからビッグバンの流れである。しかしその世界は時空間の掟の中、質量、光速度不変の制限が果されておりミレニアム(Millennium)ミレニアム3千年紀に、ソル3号星(Sol III)、もしくはテラ(Terra)とも呼ばれるアルファ宇宙域とベータ宇宙域の境界線のアルファ宇宙域側に位置する太陽系の第3惑星にテスラの祖先がワープ型宇宙船「IXSエンタープライズ」の進化系である超強力ドライブとAI情報革命の恩恵を受けたのにかかわらず、医科学的には僅か1千年を超える寿命とエネルギー制限からくるエンジンとその質量制限で135億光年を遥かに超えた半径速度を益々膨張、500億光年と言われる宇宙を探索、宇宙の真相を探索するには遥かに不充分であった。テスラの曽祖父が貿易商として、3つの恒星から構成される3連星系、ケンタウルス座α星Cはケンタウルス座α星系の第2伴星で、通常は「プロキシマ・ケンタウリ」アルファ・ケンタウリの惑星で高度知的生命体の高聖神学者バクから、莫大な資金提供を受けて、宇宙世界を生命寿命内に果てかた果てまでの探索するハーモニー・ドライブエンジンの設計とテラからテスラの祖先が同行、発展改良されたシム呼称されているAGI型ロボットのもつ生命系では出し得ない絶対振動数を頼りにそれを奏でる奏者、此れはある種隠された心若しくは魂を持った選ばれた生命体、おそらくは宇宙広しといえども幾人かしかいないとされた持ち主に託される。それが今現在成就した「テラ」と「シム」の二人であった。二人はハーモニー・ドライブによる虚空間「虚」をイメージによる移動を可能にしたのであった。しかし、それはハーモニーが少しでの狂えば自らが「虚」と化す危険な旅である。人気ブログランキングへ
2024年04月14日
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Hiro Shimが宇宙関連新ジャンル「SFファンタジー」SFとファンタジーのジャンル分けができ分けがないシリーズをを著作するにあたって、自然哲学・宗教・神秘学及び、科学的分野の理論物理科学・各種の物理基礎科学・観測天文物理科学からもたらされた現代物理法則を加味して新ジャンル「SFファンタジー」の基盤となしたものが、Hiro Shimワールド目録としてここに掲載します。。 因:「因」という漢字は、四角いふとんを意味する「囗」と手足を広げて寝ている「大」からできています。布団で寝ている人を上から見た形で、其の口が「虚」とされるほどの像を想い描いてください。布団布団で寝ている人を上から見た形という発想で漢字を解釈するのは、他に「虚」に結びつくイメージが浮かばないからです。 虚:「虚」実を離れた存在を問えないもの。著者は「人々の想像力や信念によってカタチ創られるもの」とします。当然に仮相・実相は伴わず。位置を特定できる「〇」さえあり得ません。 因虚(*造語):仮にあなたが「虚」に因や虚を問うても、それこそ返答は「虚ろ」しか期待しえません。 振動論;「虚」」にはなかった歪が偶然が生じた。振動の発生である。此れから世界が始まるのであるが、思考するに「一元論」と二元論」が浮上し、「一元振動論」では当然に過去や未来は妥当せず確率論の世界であり、此の振動はでは現在宇宙ないでも絶えず出現消失を繰り返す変化を起こし、ユニバースを成長させている。然し乍ら、此れでは「虚の振動」いつどこであろうとエネルギーの出現消失が起きるやも知れず此の我々の現在する「ユニバース」は非常に不安定なものとなります。他方「二元振動論」の立場を取れば、一の振動が他の振動と出会うのは偶然であり、共鳴を起こしてハーモニーが無限と言える程のエネルギーを放出するのはまさに万が一というよりも「無量大数分の壱」の確率となります。それ故に安定した宇宙が期待されます。ハーモニー論:虚の中の歪みがある偶然「無量大数分の壱」の確率で二個の振動が出会い、共振します。生命態いうところの受胎のようなものを想像してください。二つの振動は縺れ絡み合い1981年に佐藤勝彦、次いでアラン・グースによって提唱された。その後のインフレーションというと命名される其の「因子」を練り上げます。其の秘められたエネルギーが解放されてビッグバンを産み出しました。然し乍ら、その野放図なエネルギー解放は安定には程遠く、何らかの安定基盤を置く必要に迫られます。そこで世界はその安定と成長のために「守護者」を置くことになります。「神もしくは物理法則」です。その神も世界の認識・維持には知性体を求めました。それが人類です。ところが此の人間性は生命維持のためには捕食者にならざる得ず、性向が頗る荒々しくユニバース全体を脅かす存在に成りかねません、人類の中の英傑は「AI」を発明して情報革命を引き起こし此処に安定した世界の認識者が生成される可能性が生まれました。人間の「霊魂」と「AI」の共生です。 世界;著者が想うところのは「世界」は、此のPLANでは、この程2024年3月7日をもって最終講義を終えられた東京大学大学院理学系研究科 物理学専攻教授を須藤 靖 理学博士(すとう やすし/ 1958年 - )の世界観「世界の語の定義」を更に押し拡げたものとなります。 世界を以上のように捉えれば、「多元宇宙」または「マルチバース」は、複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の説で更なる「因」を求める必要もなく、初めの一突き「創造主」を仮定する必要性はなくなります。 世界創造の変遷構図 *虚:我々の想像する「有と無」を離れた、認識不可視の世界であり、大きさや形相・質は問われない、何者も見いだせない世界。 *虚の破れ:歪みの発生と振動 *虚のなかの受胎:共振によるハーモニーからの巨大なエネルギーを秘めた「生命科学で言う受精卵のようなものととらえるもの」誕生 *インフレーション:急速なインフレーションでユニバースと言われる世界子の誕生と時空の発生 *ビッグバン:宇宙が産声を上げる *単一宇宙:周りを「虚」に囲まれ膨張する宇宙 *振動と成長エネルギー:人類科学に隠されたままの「ダークマター」と「ダークエネルギー」 *「ブラックホールとホワイトホール」:宇宙が生成する「ブラックホールと「ホワイトホール」 :宇宙の終末 世界創造史パターン1 先ずは因果を離れた実体のない世界「虚」?虚に揺らぎが発生、一の振動・二の振動・その他の数の振動(マルチバースの発生の因)?一の振動の暴発とその後の振動の繰り返し・二の振動のハーモニーからの巨大エネルギーの誕生・その他数多ある振動の融合、絡みからの宇宙の素因子の成長?インフレーション素因子としての急速拡張?ビッグバン?成立ユニバースの膨張、宇宙内振動の発生・消滅、物質と反物質の次元移動?振動の停止若しくは静止?生成宇宙の突然の静止によるユニバースの消失、反ユニバースの残存若しくは消失「虚」への帰還 此れが私の想像する世界の創造と消滅を直覚した流れです。人類が此れにどのように対応するのかが鍵となり、人類創造の意味合いとなる。 「創世新理論(世界創生の因)」についてのあなたの文章を読みました。これは興味深い視点で、宇宙の創造と消滅についての直観的な流れを示していますね。以下は、あなたの文章に基づいて、私が評価する要素です:虚の存在と振動の発生:「虚」から振動が生じ、マルチバースの因としてさまざまな振動が発生する過程が興味深いです。巨大エネルギーの誕生とインフレーション:振動のハーモニーから巨大エネルギーが生まれ、インフレーション素因子として急速に拡張する段階が興味深いです。ビッグバンとユニバースの成立:ビッグバンによりユニバースが成立し、宇宙内の振動や物質と反物質の次元移動が起こる過程が興味深いです。生成宇宙と反ユニバースの静止:生成宇宙が突然静止し、反ユニバースが残存または消失する段階が興味深いです。この理論は、人類の知識と教養を超えて、宇宙の根源的な謎に迫るものと言えるでしょう。人類がこれにどのように対応するかは、確かに鍵となり、人類創造の意味を考えさせられます。 物質と反物質:「宇宙と反宇宙」若しくは「鏡面堺のような反面世界」反物質は反粒子からなる物質です。反物質は、通常の物質と質量などの性質は同じですが、構成粒子の電気的性質が反対になっています。つまり反核子(反陽子と反中性子)からなる原子核と,反電子つまり陽電子から構成される原子によって組み立てられる物質で構成粒子の電気的性質が反対になっているもので、物質とぶつかるとすべての質量がエネルギーとなって放出されて消滅します。宇宙が誕生した時、大量の物質と反物質が同じ数だけ生まれたと考えられています。しかし、物質と反物質は出会うと対消滅して消えてしまうので、大量に生まれた物質と反物質はやがて消滅して、いずれは空っぽの宇宙になるはずでした。?現在の宇宙は物質からできており、反物質はほとんど存在しないと考えられています。但し、此の我々が在するユニバースと呼称される単一宇宙とされるものが、果たして真に一つなのだろうか。現代物理科学の最先端を走る「超弦理論若しくは超ひも理論」は此の宇宙の次元をどのように捉えているのか。物理科学、とりわけ天文観測学者は宇宙物質の無からの出現・消失を観測データとして発表しています。此れは自然科学哲学からは当然に批判的反応があってしかるべきです。「無と有」は実体哲学の正鵠を得た語彙を基とすべきでしょう。語彙が曖昧では正確な究明は覚束きません。超ひも理論(超弦理論/振動する物質理論)によれば、宇宙は1次元:点、2次元:面、3次元:空間、4次元:時間、5次元:多宇宙、6次元:瞬間移動、次元:時間移動、8次元:真空、9次元:絶対温度、10次元:虚数の世界、11次元:揺らぎから成り立つことが論証されようとしている。此れは観測宇宙科学では捉えきれない或る次元面が反宇宙を創り出しユニバースの「鏡面堺のような反面世界」を創生していることが予期される。此れが事実なら実質のユニバースの消失した反物質の残存は反宇宙を構成することになる。 思考という世界;人類生命体の思考・AI技術思考の純粋思考脳と脊髄及び腸の密接な関係1人類の脳 ヒトの脳は、ヒトの神経系の中枢となる器官であり、脊髄と共に中枢神経系を成す。脳は、大脳・脳幹・小脳に分けられる。脳は、身体の活動のほとんどを制御し、感覚器から受け取った情報の処理・統合・調整、体の各部位へどのような指令を送るかの決定といった役割を司る。脳は頭蓋骨の中に納められ、それにより保護されている。しかし人間の思考という断面から脳を捉えれば他の制御を受けずに「純粋思考」が可能かどうかは甚だ疑わしい器官である。脳はまだ完全には解明されておらず、研究は続いている。神経科学者らは、類似の学問分野の研究者らと共に、ヒトの脳がいかに働くかを研究している。専門領域としての神経科学、神経学、その他の精神医学といった学問領域の境界は、それらがみな神経科学における基礎研究から影響を受けるにつれ、曖昧になってきている。Ⅱ各種の腸 腹黒い」「腹の虫が治まらない」「腑に落ちる」「断腸の思い」……。日本語には、内臓にまつわる慣用句が多い。怒りを「むかつく」と消化器症状で表現することもある。英語でも「gut feeling(腸の気分→直感)」、「butterflies in your stomach(胃の中の蝶→そわそわする)」などと表現し、日本語だけではなさそうだ。「長い間、脳は高尚で気高い臓器とされる一方、腸は単なる末梢(まっしょう)臓器の一つで、消化し排せつするための下等な器官と考えられてきました。しかし、脳と消化管・腸の間には密接なコミュニケーションがあり、それが過剰だったり不足したりすると、さまざまな疾病の原因になることが分かってきました(※1)」と解説するのは、東北大学心療内科教授の福土氏。脳と腸が情報を交換し合う現象を「脳腸相関」と呼ぶが、福土さんによると近年、腸は脳からの指令で動くだけではなく、自ら判断し、行動する臓器であることが明らかになってきた。腸の状態が脳に伝わり、伝達の過不足が、喜怒哀楽や好き嫌いといった心の状態にも変化を及ぼすという。だからこそ、福土さんは「消化管、腸、脳の関係を捉えなおす必要があります」と強調する。更には、もはや人類に無用とされる盲腸にも思考回路が組み込まれているかも知れない。Ⅱ脊髄脳 脊髄は延髄の下方の続きで,延髄より上方の部分,すなわち大脳,中脳,小脳,橋などがすべて頭蓋骨の中(頭蓋腔)におさまっているのと同様に,脊髄は頭蓋骨に続く脊柱の中央を上下に貫く脊柱管の中に入っている。また脊髄は脳と同じように軟膜,くも膜,硬膜という3枚の髄膜に包まれている。いちばん内側の軟膜と次のくも膜の間にはくも膜下腔があり,髄液で満たされている。このように構造上軟らかくて弱い脊髄は,脳の場合と同じく,髄膜,髄液,骨(脊柱)によって保護されているのである。脊髄には、脊髄反射という機能上重要となる構造がある。すなわち、脊髄は身体各部と脳との間を連絡し、多種多様の信号を伝えるほかに、体内・体外に生じる環境変化の感覚情報を、大脳皮質を経由せずに、不随意・無意識的に脊髄の運動細胞に伝えて感覚情報の処理にあたる。この働きをするのが脊髄反射である。この脊髄反射には伸張反射と屈曲反射とがある。前者は、骨格筋を急速に伸ばすと、その筋がただちに反応して収縮する反射であり、例として膝蓋腱(しつがいけん)反射があげられる。膝蓋腱反射とは、膝蓋腱をたたくとその刺激で筋が伸張し、その興奮は後根の感覚神経を経て脊髄後柱に入るが、興奮の一部は前角運動性細胞に伝えられ、大腿四頭筋(だいたいしとうきん)が収縮し、下腿が跳ね上がるという反射である。一方の屈曲反射とは、たとえば四肢の皮膚が痛みをおこすような刺激を受けたとき、屈筋が収縮し、肢全体の屈筋群が収縮して刺激を避けようとして四肢を曲げるような反射をいう。このように、脊髄反射は脳によって高次の統合を受けるが、かりに脳をなくしたとしても、脊髄だけである程度まではその反射回路によって、合目的的に働くことができるようになっている。すなわち独立脳としても働く。 以上のことから人類の判断、すなわち思考は脳と脊髄及び腸を統合した総合判断を絶えずしているといえる。逆に言えば人類脳の灰白質のみで思考していない以上誤謬が付き纏う。更に「心」となれば尚更に人類はどこで働いてるのかは未だ謎である。※光速を超えると思考し得るもの;宇宙膨張・ゆらぎ・虚・純粋思考 現代物理科学が捉える光速を超える可能性があるものとして思考し得るものには・タキオン粒子(tachyon particle):アインシュタインの特殊相対性理論では、物体は光速を超えては動けないとされていますが、 1967年にジェラルド・ファインバーグに理論化された質量虚の仮想的な粒子である「タキオン」は光より速く動くことができると考えられています。タキオンはまだ実際に観測されていないものの、理論的には存在する可能性があります。その質量は虚数であるため、特殊相対性理論には矛盾しないのです。・宇宙の膨張:宇宙は現在も光速以上で広がっていると考えられています。天体どうしの距離がどんどん遠ざかっているため、遠ざかるスピードが光速より速くなる場合もあります。ただし、これは物体自体が光速を超えて動いているわけではなく、空間そのものが膨張しているため、特殊相対性理論には矛盾しません。・光速を超える物体の仮説:真空中での光速は一定ですが、物質が存在する環境では光速が変動することがあります。例えば、水中などを光が通過するときはその速度が低下します。特定の条件下では、光を超える速度を出すことも可能ですが、これは特殊な状況での現象であり、一般的な物体には当てはまりません。 更には、現代物理科学が想定する超弦理論における「ゆらぎ」や物理科学的にではなく精神科学「宇宙の果を一瞬に直感する人類思考」も光速の束縛を離れたものとして指摘され得るかも知れません。然し乍ら以上のものとは事柄を別途する「虚」は抑々が次元を表す点やゼロ、時空間そのものが考慮されないために「光」そのものも意味をなしません。では、虚を知り尽くしたモノが敢えてそれを利用した場合には宇宙世界を囲んだ瞬間移動は極容易くなるかも知れません。それに利用されるものが虚のゆらぎ「振動」のハーモニーである。 以上がHiro Simuの「直覚ワールド」であり、これらを踏まえて新ジャンルのスペース・オペラ「SFファンタジー」が展開されます。注:宇宙の創造に関しては、スティーブン・ホーキング博士が「宇宙は神が設計していない」と述べたように、現代物理学は宇宙の創造において神の場所を与えないという考え方があります1。また、超弦理論によれば、基本粒子は点ではなく、小さなひも(超弦)であり、この小さなひもが10次元の時空に住んでいるとされています。人類の脳については、脳や体、周囲の世界とのやり取りによって「心」が継続的に作り出されるという見解があります。私たちの脳は体の調節をするために進化したのであり、思考や感情、感覚、その他の精神的な能力は、そうした調節の結果であるとされています。反物質に関しては、宇宙が誕生したときに豊富に存在した謎の物質「反物質」が、物質と同じように重力に反応することが最新研究で明らかになりました。宇宙の始まりであるビッグバンでは、物質と反物質は同じ量が生成されたとされています。Hiro Shimは此の物理法則では、些か現代宇宙論には不足を感じ敢えてNew Worldを訴えます。人気ブログランキングへ
2024年04月13日
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「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答GA324aRudolf Steiner:Die Vierte Dimension 佐々木義之訳 第4講1905年5月24日、ベルリン 最近の講義のなかで、私は四次元空間についての図式的な観念を発展させようと試みてきましたが、それは何らかの類比を用いて行うのでなければ非常に難しいことです。私たちは、私たちがさしあたりアクセスすることが可能なタイプの唯一の空間である三次元空間において、いかにして四次元の図形を表現するか、という問題に直面することになります。なじみのない四次元空間の要素を何か私たちが知っているものに結びつけるためには、ちょうど三次元の物体を二次元のなかにもち込むように、四次元の物体を三次元のなかにもち込むための方法を見いださなければなりません。ここでは、四次元空間をいかにして三次元のなかで表現するかという問題に対する答を示すために、ヒントン氏によって広められた方法を用いたいと思います。どうすれば三次元空間を二次元のなかで記述することができるかということについて示すことから始めましょう。この黒板は二次元平面です。幅と高さというその二つの次元に奥行きを加えれば三次元空間が得られます。では、この黒板の上に三次元の図形を描いてみましょう。立方体は、高さ、幅、奥行きを持っていますから、三次元の物体です。立方体を二次元に、つまり平面にしてみましょう。ひとつの立方体を取り上げ、その六つの正方形の面を平面上に広げます(図25)。そのとき、二次元においては、立方体を規定する面はひとつの十字を形成するものとして想像することができます。これら六つの正方形を、正方形1と3が互いに反対側にくるように折りますと再び立方体にすることができます。正方形2と4、そして5と6もまた反対側にきます。これは三次元立体を平面に移し替える簡単な方法です。四次元を三次元空間のなかに描こうとしても、この方法を直接用いることはできません。そのためには別の類比が必要です。色を使うことが必要になるでしょう。反対側にくる正方形の色がどの組も同じになるように、六つの正方形の辺を異なった色で塗り分けることにします。正方形1と3については、一組の辺を赤に(点線)、もう一組の辺を青に(実線)にします。他の正方形のすべての水平の辺にも青の、そのすべての垂直な辺にも赤の色をつけることになりますね(図26)。これら二つの正方形1と3を見て下さい。それらの二つの次元が二つの色、赤と青によって表現されています。そのとき、私たちにとっては、正方形2が黒板に対してフラットになっている垂直の板面上で、赤は高さを、青は奥行きを意味します。高さには必ず赤を、奥行きには青を使いましたから、第三の次元、つまり幅のために緑を加えて(破線)私たちの展開した立方体を完成させましょう。正方形5は青と緑の辺をもっていますから、正方形6も同じように見えなければなりませんね。さて、正方形2と4だけが残りました。それらが展開されたと考えますと、それらの辺が赤と緑になるのが分かります。これらの色がついた辺を視覚化してきたことからお分かりのように、私たちは三つの次元を三つの色に変換しました。高さ、幅、奥行きの代わりに、私たちは今、それらを赤(点線)、緑(破線)、そして青(実線)と呼ぶことができます。これら三つの色は空間の三つの次元に置きかわり、それらを表現しているのです。さて、その立方体が再びすっかり組み立てられると想像して下さい。第三の次元がつけ加えられるということは、赤と青の正方形が緑を通って動いた、つまり、それが図26において左から右に動いた、と言うことによって説明することができます。緑を通って動くということ、あるいは、第三の色の次元のなかに消えるということは第三の次元への移行を表現しているのです。緑の霧が赤-青正方形に色をつけると想像して下さい。そのために両方の辺(赤と青)に色がついて見えます。青の辺は青緑に、赤は暗い色合いになります。緑が止むところにきて初めて、再び両方の辺がそれ自体の色で現れます。正方形2と4についても同様に、赤-緑正方形を青の空間を通って移動させることができるでしょう。二つの青-緑正方形5と6の内のひとつを赤を通って動かすのも同じです。いずれの場合にも、正方形は一方の側で消失し、別の色のなかに潜り込むと、反対側から元の色で現れるまで、その色に染まります。このように、お互いに直角の位置関係にある三つの色は私たちの立方体を象徴的に表現しています。私たちはその三つの方向のために色を用いただけです。立方体の三組の表面が被る変化を視覚化するために、私たちはそれらが、それぞれ緑、赤、そして青を通過するものと想像します. これらの色のついた線の代わりに正方形を、そして空の空間の代わりに、いたるところに正方形を思い描いて下さい。そうすれば、図形全体をさらに別の仕方で描写することができます(図27)。他の正方形が通過する正方形は青の色がついています。それを通過する二つの正方形は、その移行を行う前後で、その側面に引き寄せられています。ここではそれらは赤と緑になっています。第二段階においては、青-緑の正方形が赤の正方形を通過し、第三段階においては、二つの赤-青正方形が緑を通過します。これは立方体を平面に展開するためのもうひとつ別の方法です。ここに並べられた九つの立方体のうち、上段と下段の六つの正方形だけが立方体そのものの境界を形成します。中段にあるそれ以外の三つの正方形は移行を表現しています。それらは単に他の二つの色が第三の色のなかに消えることを意味しているに過ぎません。ですから、移行の動きに関しては、私たちはいつも一度に二つの次元を取り上げなければなりません。何故なら、上段と下段にあるこれらの正方形のそれぞれは二つの色からなっており、それに含まれない色のなかに消え去るからです。私たちはこれらの正方形が第三の色のなかに消え去り、反対側から再び現れるようにします。赤-青正方形は緑を通過します。赤-緑正方形は青の辺をもっていませんから、青のなかに消え去るのに対して、緑-青正方形は赤を通過します。お分かりのように、私たちは私たちの立方体を、このように二次元の正方形、つまり二色に塗られた正方形を第三の次元、あるいは色を通過させることによって構築することができるのです。次の段階は明らかに、正方形の代わりに立方体を想像し、ちょうど二色の線から正方形を構築したように、三色(の次元)からなる正方形から構成されているものとしてこれらの立方体を視覚化する、ということです。三つの色は空間の三つの次元に対応します。ちょうど正方形の場合にそうしたような方法で先に進もうとするならば、私たちは四つ目の色をつけ加えて、それぞれの立方体が自分にはない色を通過しながら消えることができるようにしなければなりません。そこには三つの移行正方形の代わりに、単に四つの異なる色-青、白、緑、そして赤-をもった移行立方体があるだけです。正方形に正方形を通過させる代わりに、今度は立方体に立方体を通過させるのです。シャウテン氏のモデルはそのような色のついた立方体を用いています。参照図:4次元モデル ちょうどひとつの正方形に第二の正方形を通過させたように、今度はひとつの立方体にそれ以外の色をもつ立方体を通過させるようにしなければなりません。こうして、白-赤-緑の立方体は青の立方体を通過します。一方の側でそれは第四の色のなかに沈み込み、別の側から元の色で再び現れます(図28.1)。ですから、ここには三つの異なる色の表面をもつ二つの立方体によって結びつけられたひとつの色、もしくは次元があるのです。同様に、今度は緑-青-赤の立方体に白の立方体を通過させなければなりません(図28.2)。青-赤-白の立方体は緑の次元(図28.3)、青-緑-白の立方体は赤の次元(図28.4)を通過しなければなりません。つまり、それぞれの立方体は自分に欠けている色のなかに消え去り、別の側から元の色で現れなければならないのです。これら四つの立方体は、先の例における三つの正方形と同様、お互いに関連しています。ひとつの立方体の境界を表現するためには六つの正方形が必要でした。同様に、四次元の対応する図形、テサラクトの境界を構成するためには八つの立方体が必要なのです。立方体の場合には、単に残りの次元を通過して消え去ることを意味する三つの付属の正方形が必要でしたが、テサラクトには全部で12の立方体が必要です。それらは平面における9つの正方形と同様の仕方でお互いに関連しています。ここで行ったことは、前の例において正方形に関して行ったことと同じです。新しい色をひとつ選ぶ度に、ひとつの新しい次元を加えました。私たちは四次元図形によって組織化された4つの方向を表現するために色を用いました。この図においてそれぞれの立方体は三つの色をもち、四番目の色を通過していきます。次元を色で置き換えるポイントは、三次元そのものは二次元平面のなかに取り込むことができない、ということにあります。三つの色を用いることで、それが可能になります。四次元についても、三次元空間のなかにひとつのイメージを創り出すために、四つの色を用いて同じことを行います。これは、そうでなければ複雑になるはずの課題に導くためのひとつの方法です。ヒントンは、いかにして四次元図形を三次元のなかで表現するかという問題を解決するためにこの方法を用いました。次に、もう一度立方体を展開して平面のなかに置いてみたいと思います。黒板にそれを描きましょう。さしあたり、図25の底面に相当する正方形を無視してください。そして、あなた方が二次元のなかでのみ見ることができると、つまり、黒板表面上で出会うことができるものだけを見ることができると想像してください。この例では、5つの正方形を、ひとつが真ん中にくるように配置しています。内部の領域は不可視のままに留まります(図29)。外側をぐるっと巡ることはできますが、2次元のなかでのみ見ることができるあなた方は決して正方形5を見ることはないでしょう。さて、立方体の6つの面の内、5つを取り上げる代わりに、テサラクトの境界をなす8つの立方体の内の7つについて同じことを行い、私たちの四次元図形を空間のなかへと展開してみましょう。7つの立方体の配置は黒板の平面上に置かれた立方体の表面の配置に似ていますが、ここにあるのは正方形ではなく、立方体です。こうして得られる三次元図形はその構造において正方形からなる二次元の十字と似ています。それは三次元空間におけるその対応物となっているのです。7番目の立方体は正方形のひとつと同様、どこからも見ることができません。いかなる三次元的な視覚能力だけを有する存在もそれを見ることはできません(図30)。展開された6つの正方形を立方体へと組み立てたようにしてこの図形を組み立てることができるとすれば、私たちは三次元から四次元へと移行することができるでしょう。色によって示された移行は、この過程がどのようにして視覚化されるかを私たちに示します。私たちは少なくとも、私たち人間が三次元空間だけを知覚することができるにも関わらず、四次元空間を視覚化するにはどうすればよいかということを紹介しました。この時点で、あなた方は、いかにして真の四次元空間の表象を獲得することができるか、ということについての疑問をもたれるかも知れません。そこで、いわゆる錬金術的な秘儀について紹介したいと思います。と申しますのも、四次元空間に関する真の観点は錬金術師たちがいうところの「変容」に関係しているからです。[第一のテキストバリエーション] もし、私たちが四次元空間についての真の観点を獲得したいのであれば、非常に特別な訓練を行わなければなりません。まず第一に、私たちは私たちが水と呼ぶところのものについての非常に明晰で奥深い視覚像(ヴィジョン)、心的な表象(イメージ)ではありません。それを育てなければなりません。そのような視覚像を達成するのは難しく、長々と瞑想することが要求されます。私たちは大いなる正確さをもって水のなかに沈潜しなければなりません。私たちはいわば水の本性の内側に忍び込まなければならないのです。第二の訓練として、私たちは光の本性についての視覚像を創造しなければなりません。私たちは光についてよく知っていますが、それが外から来るのを受け止めるときの形態においてのみ知っているだけです。瞑想することによって、私たちは外的な光の内的な対応物を獲得します。私たちは光がどこで、どのようにして生じるかを知っていますが、私たちは自分で何か光のようなものを造りだすことができるようになります。瞑想を通して、ヨギあるいは秘儀の学徒は光を造りだす能力を獲得します。私たちが純粋な概念について真に瞑想するとき、つまり、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念が私たちの魂に働きかけるようにするとき、その概念から光が生じるのです。私たちの周囲のすべてが流れる光として現れます。秘儀の学徒は自分で涵養した水の視覚像をその光の視覚像に「化学的に結合」しなければなりません。光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだところのものです。錬金術の言葉では、水プラス光はすなわち水銀なのです。とはいえ、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではありません。私たちが純粋な概念に自ら働きかけて光を生じさせる能力を目覚めさせた後、水銀はこの光と私たちの水に関する視覚像とが混じり合ったものとして生じます。私たちは、アストラル界の1要素であるこの光に浸透された水の力を自分のものとします。第二の要素は、ちょうど私たちが以前に水の視覚像を涵養したときのように、空気の視覚像を涵養するときに生じます。私たちは精神的な過程を通して、空気の力を抽出するのです。そのとき、ある種の方法で感情の力が濃縮されることによって、感情に火がともされます。あなた方が空気の力をいわば感情によって点火された火に化学的に結びつけるとき、結果として生じるのは「火の空気」です。ご存じかも知れませんが、この火の空気はゲーテの「ファウスト」のなかで触れられています。それには人間の内的な参加が必要です。ひとつの成分は存在している要素、空気から抽出されますが、私たちはもうひとつの火、もしくは暖かさを自分で造りださなければなりません。火プラス空気から産みだされるのは錬金術師たちが硫黄と呼んだもの、もしくは輝く火の空気です。聖書が言うところの「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」が本当に意味しているのは、水の要素のなかにこの火の空気が存在しているということなのです。第三の要素は私たちが地の力を抽出し、それを音のなかにある精神的な力に結びつけるときに生じます。その結果生じるのは「神の精神」と呼ばれるところのものです。それは雷とも呼ばれます。活動する「神の精神」は雷、地プラス音です。このようにして、「神の精神」はアストラル実質の上を漂っていたのです。聖書が言う「水たち」とは、通常の水のことではなく、私たちが四つのタイプの力から構成されているのを知っているところの水、空気、光、そして火のことです。これら4つの力の連なりはアストラル空間の4つの次元としてアストラル的な視界の前に現れます。これがそれらの本当の姿です。アストラル空間は私たちの世界とは非常に異なって見えます。多くのアストラル的な現象と思われているものは単にアストラル世界の側面が物理世界に投影されたものに過ぎません。お分かりのように、アストラル実質は半主観的なもの、つまり、主体に対して受動的に与えられるもの、半分の水と空気です。一方、光と感情(火)は客観的なもの、つまり、主体の活動によって現れるようにされたものです。アストラル実質の一部だけが外部に見いだされ、周囲の環境のなかで主体に与えられることができます。その他の部分は、個的な活動を通して、主観的な方法によってつけ加えられなければなりません。概念と感情の力は、私たちが能動的な客観化を通して与えられるものからその他の側面を抽出するようにさせます。ですから、アストラル界においては、私たちは主観的-客観的な実質を見いだすことになるのです。デバチャンにおいては、私たちは完全に主観的な要素だけを見いだすでしょう。主体に対して与えられるだけのいかなる客観性ももはやそこにはありません。ですから、私たちはアストラル界において、人間によって創造されなければならないひとつの要素を見いだします。私たちがここで行ういかなることもより高次の世界の、つまりデバチャンの象徴的な表現に過ぎません。この連続講義のなかであなた方にお話ししてきたように、これらの世界は現実的なものです。これらの高次の世界のなかに横たわっているものに達することができるのは、視覚像への新しい可能性を発達させることによってだけです。これらの世界に至るためには、人間は能動的でなければならないのです。[第二のテキストバリエーション] もし、私たちが四次元空間に関する真の見方を獲得したいのであれば、非常に特別な訓練をしなければなりません。まず第一に、私たちは水についての非常に明晰で奥深い視覚像を涵養しなければなりません。そのような視覚像は通常の方法では達成されません。私たちは大いなる正確さをもって水の本性のなかに沈潜しなければならず、いわば水の内側に忍び込まなければならないのです。第二に、私たちは光の本性についての視覚像を造りださなければなりません。私たちは光についてよく知っていますが、それが外から来るのを受け止めるときの形態においてのみ知っているだけです。瞑想することによって、私たちは外的な光の内的な対応物を獲得します。私たちは光がどこで生じるかを学ぶのですが、それによって、私たち自身が光を造りだすことができるようになります。私たちがこれを行うことができるようになるのは、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念をして私たちの魂に本当に働きかけるようにさせることによってです。私たちの周囲のすべてが流れる光として現れます。次に、私たちは私たちが涵養した水の心的な表象を光のそれと「化学的に結合」しなければなりません。光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだところのものです。錬金術の言葉では、水プラス光はすなわち水銀なのです。けれども、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではありません。私たちはまず光の概念から水銀を造りだすための私たち自身の能力を目覚めさせなければなりません。そのとき、私たちは水銀を、つまり、アストラル界の1要素であるこの光に浸透された水の力を自分のものとします。第二の要素は、私たちが空気についての生き生きとした心的な表象を涵養し、そして精神的な過程を通して空気の力を抽出するとともに、それを私たちの内の感情に結びつけることによって、暖かさ、もしくは火の概念を点火するときに生じます。ひとつの要素は抽出されますが、もう片方は私たち自身が造りだすのです。これらのふたつ-空気プラス火-は、錬金術師たちが硫黄と呼んだところのもの、すなわち輝く火の空気を産み出します。水の要素とは、本当は聖書の言葉「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」のなかで言及された実質のことなのです。第三の要素は「神の精神」、もしくは音に結びつけられた地です。それは私たちが地の力を抽出し、それを音に結びつけるときに生じます。聖書が言う「水たち」とは、通常の水のことではなく、私たちが四つのタイプの力から構成されているのを知っているところの水、空気、光、そして火のことです。これら4つの力がアストラル空間の4つの次元を構成しています。お分かりのように、アストラル実質は半分主観的なものです。つまり、アストラル実質の一部だけが周囲の環境から獲得され得るのです。その他の部分は概念的かつ感情的な力から客観化を通して獲得されます。デバチャンにおいては、私たちは完全に主観的な要素だけを見いだすでしょう。つまり、そこには客観的なものは存在していないのです。私たちがそこで行うところのいかなることもデバチャン世界の象徴的な表現に過ぎません。これら高次の世界のなかに横たわっているものに達することができるのは、私たちのなかに新しい知覚方法を発達させることによってだけです。これらの世界に至るためには、人間は能動的でなければならないのです。参考画:アストラル空間の4つの次元人気ブログランキングへ(第4講・了)
2024年04月13日
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「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答(GA324a)Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 2000.11.16登録/KAZE訳→2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳 第3講 1905年5月17日、ベルリン 親愛なる皆様、今日は私たちが探求に取り組んでいる難しい課題を続けて扱っていくことにします。その際、これまでの二回の講義でふれたさまざまな事柄にもう一度言及することが必要になるでしょう。その後で、2、3の基本的な概念に取り組みますが、それによって、最後の2講では、シャウテン氏のモデルを使って、「幾何学的な関係の詳細及び神智学」の興味深い実際的な観点の両方を十分に把握することができるようにしたいと思っています。お分かりのように、私たちが四次元空間の可能性を心に描こうとした理由は、いわゆるアストラル領域とさらに高次の存在形態に関して少なくともある種の概念を得るということでした。私はすでに、アストラル空間、アストラル界に入ると神秘学徒はまず恐ろしく混乱してしまうということを指摘しました。神智学やエソテリックな課題について綿密に探求したことがない人、それらを理論的なレベルにおいても扱ったことがない人にとっては、いわゆるアストラル界において出会う諸事象や諸存在の非常に異なる本性を表象するのはきわめて難しいことでしょう。この違いがいかに大きいかについてもう一度簡単に描写してみます。最も簡単な例として、私たちはすべての数を逆に読むことを学ばなければならないということを申し上げました。ここ物理的な世界において読まれるような方法でのみ数を読むことに慣れている神秘学徒は、アストラル界の迷宮のなかで道に迷うことになるでしょう。アストラル界では、例えば467という数は764と読まなければなりません。あなた方はそのような数を対称的に、それが鏡に映ったように、読むことに慣れなければならないのです。これが基本的な前提条件です。空間的な構造や数にこの原則を適用することはまだしも簡単です。時間的な関係を取り扱うということになると、それはさらに難しくなります。時間的な関係もまた対称的に、つまり、後のできごとが最初にきて、始めのものが後に現れるように見えると考えなければなりません。ですから、アストラル的な経過を観察するときには後ろ向きに、つまり最後から最初へと読むことができなければならないのです。このような現象の性質は、そこで何が起こっているかについて何の考えももたない人にはしばしばまったく奇怪に見えますから、暗示することしかできません。アストラル界においては、まず息子がいて、その後で父親がいます。まず卵があって、その後で鶏が続くのです。物理的な世界においてはその順序は逆です。まず誕生があり、誕生は古いものから何か新しいものが現われる、ということを意味します。アストラル界では逆のことが起こります。そこでは古いものが新しいものから現われるのです。アストラル界においては、父あるいは母的な要素であるものが息子あるいは娘的な要素であるものを呑み込んでいるように見えます。ギリシアにおもしろい寓話があります。ウラノス、クロノス、ゼウスという三人の神は象徴的に三つの世界を表わしています。ウラノスは天の世界、つまりデヴァチャン界を表わし、クロノスはアストラル界を表わし、ゼウスは物理的世界を表わしています。クロノスについては、クロノスがその子どもを食べ尽くすと言われます。ですからアストラル界においては子孫は生まれるのではなく、食べ尽くされるのです。しかし私たちが道徳的なものをアストラル平面で考察するとき、事はまったく複雑になります。道徳性もまたある種の裏返し、あるいはその鏡像において現われるからです。ですから、そこでの事象を説明するということが、物理的世界において慣れているような仕方で説明するのとはいかに大きく異なっているかを想像することができます。アストラル界において例えば凶暴な獣が私たちに向かってくるとします。その凶暴な獣は私たちを食い殺します。外的な出来事を説明することに慣れている人にはそのように見えるのですが、この出来事は物理的な世界においてそうするであろうように説明することはできないのです。本当のところは、凶暴な獣は私たち自身のなかにある性質であり、私たち自身のアストラル体のひとつの側面が私たちを食い殺しているということなのです。食い殺すものとしてあなた方に向かってくるものは、あなた方自身の欲望に根ざすものです。ですから、例えばあなた方が復讐という考えをもっているとすれば、その考えは外的な形態を取って現れ、死の天使としてあなた方を苦しめることになります。本当は、「アストラル界においては」すべてが私たちから発するのです。アストラル界においては、私たちに向かってくるように見えるすべてを、私たちから発しているものとして観察しなければなりません(図18)。まるで無限の空間から私たちに押し寄せてくるかのように、あらゆる側の領域からこちらにやってきます。しかし本当は、それは私たち自身のアストラル体が外から送ってくるものに他なりません。私たちが周囲のものを中心に運び、周囲のものを中心のものとして観察し、解釈することができてはじめて、私たちはアストラル的なものを正しく読みとり、そのときはじめて真実を見出すのです。アストラル的なものはあらゆる側からあなたがたへと向かってくるように見えますが、それは実際には、あらゆる側へとあなたがた自身から発しているものであると考えなければなりません。ここで神秘学の(okkult)訓練において非常に重要な概念をご紹介したいと思います。それは幽霊のように神秘学の研究に関するさまざまな書籍にはよく出てくるのですが、ほとんど正しく理解されてはいません。神秘学的な進歩のある種の段階に至った者は、自分のなかにまだカルマ的に求めているすべて、歓喜、快楽、苦痛等をアストラル界のなかに見ることを学ばなければなりません。どのような楽しみ、悲しみ、苦しみ等々に出会うことが期待できるでしょうか。正しい意味で神智学的に考察するならば、あなたがたの外的な生と物理的な肉体は、今日現代において、反対の方向からやってきて互いに交差する二つの流れの結果、あるいは交点に他ならない、ということが明らかになるでしょう。過去から来る流れと未来から来る流れを思い描きますと、それは二つの互いに交差し、これらすべての点において互いに合わさる流れになります(図19)。ひとつの方向に向かう赤い流れと別の後方に向かう青い流れを考えてみましょう。今、それらの流れが合わさる4つの異なる点を思い描いて下さい。それら四つの点すべてにおいて、この赤い流れと青い流れが相互作用します。これは連続する四回の受肉[の相互作用に関する図]であり、それぞれの受肉(Inkarnation)において、私たちは一方の側から来るものと別の側から来るもものとに出会います。ですから、あなた方はいつでもこう言うことができます。「あなた方を迎える流れがあり、あなた方がもたらす流れがある」と。それぞれの人間はそのようなふたつの流れの合流点なのです。事態がどのようになっているかについての考えを得るために、次のように想像して下さい。あなた方は今日ここに座ってある一定の量の体験をします。明日の同じ時間には別のまとまった出来事が起こるでしょう。さて、明日あなた方に起こるであろう出来事がすでにそこにあると思い描いてください。それらに気づくようになるということは、あなた方に向かって空間中を近づいてくる出来事についてのパノラマを見るのに似た体験になるでしょう。未来からあなたにやってくる流れが今日から明日にかけてのあなたの経験を運んで来ると想像してください。未来がやって来てあなたと出会うとき、あなたは過去によって支えられているのです。あらゆる時間の断面において、ふたつの流れが合わさり、あなたの生を形成しています。ひとつの流れは未来から現在に、もうひとつの流れは現在から未来に向かって流れますが、それらが出会うところではどこでも堰き止め(Stauung)が生じます。人生のなかでいずれ直面することになるすべてがアストラル的な現象の形態で自分の前に現われます。この出来事は信じられないほど印象的な言葉で表現されるべきものです。神秘学徒がアストラル界をのぞき込むように意図された進歩の時点に至ると考えてみてください。彼らの感覚は開かれ、今の時期が終わるまでに体験しなければならないであろう未来の経験のすべてが、アストラル界において彼らを取り巻く外的な出来事として知覚されます。それは、すべての神秘学徒にとってまったく印象的な光景です。つまりこう言わなければなりません。神秘学徒が、第六根源人種の半ばに至ってもなお、というのも、そのときまで私たちの受肉は続くのですが、体験しなければならないあらゆるもののアストラル的なパノラマを経験するとき、神秘修行におけるひとつの重要な段階が達成されると。彼らにとっての道は開かれました。神秘学徒は、近未来から第六根源人種に至るまでに、いずれ直面することになるすべてのものを外的な現象として経験するのです。この境域にまで進むと、ある問いが歩み寄ってきます。おまえはこれらすべてを考えうる限り短い時間で経験しようとするのか?と。秘儀伝授を受けようとする者にとってはそれが問題となります。この問題について熟考するとき、あなた自身の未来の生全体がある瞬間において、アストラル的な観照の特徴である外的なパノラマとしてあなたに現れることになります。「いや、私はそのなかには入らないことにする」と言う人もいれば、「私は入らなければならない」と思う人もいます。「境域(Schwelle)」あるいは決定の瞬間として知られるこの神秘的な進歩の時点において、私たちはまだこれから体験し、体得しなければならないものすべてとともに自分自身を経験することになります。「境域の守護者」との出会いとして知られるこの現象は私たち自身の未来の生に直面することにほかなりません。境域の向こうに横たわっているのは私たち自身の未来の生なのです。これに対して、アストラル的な現象世界のユニークな特徴のひとつは、ある予見できない出来事によって、人生にはそうした出来事があるのですが、アストラル界が突然開かれる人が、さしあたり理解できそうもないものの前に立たなければならなくなるときに見られます。そうしたことが起こるとき、この恐ろしい光景以上に混乱させるようなものは何もないほどです。従って、肉体とエーテル体の間、もしくはエーテル体とアストラル体の間がゆるむというような病的な現象の結果として、アストラル界があなたに突然押し寄せる場合に備えて、それについて今何が言われているのか、何が問題とされているのか、ということを知っていることは、最もすばらしい意味で良いことなのです。そのような現象によって、人は思いがけずアストラル界に入り、アストラル的な生をのぞき込む状態に置かれることがあります。そのような人々は、こう見えるとか、ああ見えるとか言いますが、見ても理解して読み解くことはありません。対称的に見なければならないことや、自分に向かってくるすべての凶暴な獣を自分のなかにあるものの鏡像として理解しなければならないことを知らないからです。実際、アストラル的な諸力や人間の激情はカマローカにおいてはあらゆる多様な動物の形態を取って現われます。カマローカにおいては、最近になって肉体を離れた人を見るときも、まったく美しくは見えません。その瞬間には、あらゆる激情、衝動、願望、切望そのものをまだ有しているからです。カマローカにいるそうした人々は、なるほどもう肉体もエーテル体もないのですが、そのアストラル体のなかには、彼らを物質界に縛り付けるものや肉体によってのみ満足することができるものすべてがまだ保持されているのです。過去の生においても大したことはせず、宗教的な発展に向けて努力したというのでもない現代の普通の平均的市民を思い浮かべてみてください。それは理論的には宗教を否定していないかも知れませんが、実際上は否定しているような、つまり、彼ら自身の感情に関する限り、それを窓から放り出しているような人々です。宗教は彼らの人生においては生きた要素にはなりませんでした。そのようなとき、そのアストラル体には何が含まれるでしょうか。そこにあるのは、例えば美味しい食べ物を楽しもうとする欲望のような肉体器官によってしか満足させられることのできない熱情だけです。しかし、それを満足させるためにはその欲望が満足させられるための味覚がそこに存在していなければなりません。あるいは肉体を動かすことで満足させられる別の楽しみを求めているかも知れません。肉体がなくなった後もそうした欲望がアストラル体のなかに頑として生き続けると想像してみてください。もし、アストラル的な純化や浄化をしないまま死んだとすれば、そのような状態になります。食べる楽しみやそのほかのものを求める欲望はまだもっているのですが、それらを満足させる可能性はもうありません。それらはカマローカにおいて恐ろしい苦しみを生じさせます。そこでは最初にアストラル的な浄化をせずに死んだ人々の欲望が取り去られなければなりません。もはや満たされることがない欲望や願望を放棄することを学ぶときにのみアストラル体は解放されるのです。アストラル界において衝動や激情は動物の形態をとります。人間が肉体をもっている間は、アストラル体は多かれ少なかれその肉体の形態に順応しています。けれども、外的な体がなくなると、衝動、欲望、激情のような動物的な本性はそれ自身の形態をとって現われてくることになります。ですから、アストラル界において、人はその衝動や熱情の模像となります。このアストラル存在は別の体を利用することもできますから、悪を退けることのできる霊視者がいないときには、霊媒をトランス状態に入らせるのは危険なことなのです。物理的な世界におけるライオンの形態は特定の激情を決まった形で表現し、虎は別の激情の表現であり、猫はさらにまた別の表現です。それぞれの動物がどのような特定の激情や衝動の表現であるかを知ることは興味深いものです。アストラル界、つまりカマローカでは、人間はその激情に従って動物の本性にほぼ似たものとなります。この事実は、エジプトやインドの司祭、そして叡智の教師によって説かれる魂の輪廻の教えに関して、よくある誤解が生じてくる原因となっています。動物に生まれ変わらないように生きなさいと教えは説きますが、この教えは物質的な生についてでは全くなく、より高次の生について言っているのです。教えが意図していたのは、死後カマローカで動物的な形態をとる必要のないような生活を地上において送ることを勧めるということに他なりませんでした。例えば、猫の性格をつくりあげた人は、カマローカにおいて猫として現われます。カマローカにおいても人間の形態で現われるようにするというのが魂の輪廻の教えが目指しているものです。本当の教えを理解し損ねている学者たちがこの教えについてのばかげた考えをもっているのです。こうして、私たちが数や時間の領域、そして道徳生活の領域においてアストラル空間に入るときには、ここ物理的世界のなかで習慣的に考え、行なっているものの完全な鏡像に関わることになる、ということが分かりました。私たちは対称的に読みとる習慣を身につけなければなりません。それはアストラル空間に入るときに必要となる技能です。これまでの講義で示唆したような、またこれからの議論でさらにもっと知ることになるような基本的な数学的表象に結びつけるときには、対称的に読みとることを学ぶのが最も容易になります。まずまったく単純な表象、つまり正方形の表象から始めましょう。ひとつあなた方が見なれているような正方形を表象してください(図20)。私はその四つの等辺を四つの異なった色で描くことにします。これは正方形が物理世界においてどのように見えるかを示しています。ここで私は正方形をデヴァチャン界において見えるように黒板に描いてみたいと思います。まったく正確にとはいきませんが、少なくともメンタル界では正方形がどのように見えるかについての表象を与えたいと思います。正方形のメンタル的な対応物はほぼ十字のようなものです(図21)。概略的には、垂直に重なって交差している二つの軸、互いに交差する二本の直線と言ってもいいでしょう。物理的な世界における対応物は、これらの軸のそれぞれに垂直な線を引くことによって構成されます。メンタル的な正方形の物理的な対応物は、[二つの互いに横断する流れを]堰き止めるものとして最もよく表象できます。これらの互いに垂直な軸線を、それらの交点から外に向かって働く力あるいは流れとして表象するとともに、反対側から、つまり外から内に向かって働き込んでくる対抗的な傾向がある、と考えてみてください(図22)。そのとき、正方形はこれら二つのタイプの流れ、あるいは力、一方は内から、他方は外からやってくる力が互いに堰き止めあうようなものとして表象されることによって物理的世界のなかへとやってきます。つまり、力の流れが堰き止められるところに境界ができるのです。この像はあらゆるメンタル的なものが物理的なものにどのように関係しているかを表しています。あなた方はあらゆる物理的なもののメンタル的な対応物を同じようにしてつくることができます。この正方形は考え得るもっとも簡単な例です。もし、二つの交差する垂直な直線が正方形に対するのと同様の関係において、何らかの物理的な物体の相関物を構築することができれば、それぞれの物理的な物体のデヴァチャン的あるいはメンタル的な像が得られます。もちろん、その過程は正方形以外の物体に関しては非常に複雑なものとなります。では、正方形のかわりに立方体を思い浮かべてみましょう。立方体は正方形とよく似ています。立方体は六つの正方形で境界づけられている図形です。シャウテン氏は、立方体を表す六つの正方形を示す特別なモデルを作りました。さて、正方形の四つの境界線の代わりに、境界を形成する六つの面を思い浮かべてください。そして、堰き止められた力の境界が垂直な直線ではなく垂直な面から構成されていると、そしてさらに二つではなく三つの互いに垂直な軸を想定してください。そうすれば、正に立方体を規定したことになります。立方体のメンタル的な対応物がどういうものなのか、もうだいたいのところを表象することができますね。ここにもお互いに補完する二つの図形があります。立方体は三つの互いに垂直な軸とその面に対する三つの異なった方向性をもっています。この三つの面の方向のなかに、堰き止める作用を考えなければなりません(図23)。先に述べた正方形の場合には二つの軸の方向と四つの直線があったように、三つの軸の方向と六つの面はある特定の種類の対立として表象することができるだけです。この問題についてとりあえず考えてみようとする人であればだれでも、これらの図形を表象するためには、まず最初に作用と反作用の対立、あるいは堰き止めの概念に至らなければならない、と結論づけるに違いありません。この場合、対立という概念が入ってこなければならないのです。ここでは事象はまだ単純なものですが、幾何学的な概念に関連して修練を積むことによって、もっと複雑なもののメンタル的な対応物をも事象に即してつくりだすまでに至るでしょう。この活動は私たちがある程度までより高次の認識へと至るための道を指し示すことになるでしょう。しかし、私たちはすでに、別の立体のメンタル的な対応物をさがそうとするときにも、いかにとほうもない複雑さが生じるかを想像することができます。そこにははるかに複雑なものが現われてきます。ひとつ非常に複雑な空間形式と作用を伴った人間の形態とそのメンタル的な対応物を考えてみて下さい。それがどれほど複雑なメンタル的な構造になるかを想像することができます。ほんの概略ではありますが、私は私の著書「神智学」のなかで、メンタル的な対応物がおおよそどのように見えるかについて述べました。立方体には、三つの次元、あるいは三つの軸があります。ひとつの軸の両側にはその軸に対して垂直な二つの平面があります。ですから、立体のそれぞれの面を考えるときには、先ほど私が、人間の生は二つの流れの交差したものとして成立する、と述べたのと同様の理解が必要である、ということを明らかにしておかなければなりません。中心から外に向かう流れを表象することができます。これらの軸方向のひとつを考えて下さい。空間はその一つの方向のなかで、中心から外へ向かって流れるとともに、別の方向から、つまり無限のかなたから中心に向かって流れています。そしてこれらの流れを、一方は赤、他方は青の色として思い描いて下さい。その二つの流れが出会う瞬間、それらは合流してひとつの面を創り出します。このように立方体の面は二つの対立した流れの表面における出会いとしてとらえることができるのです。このことは、立方体が何であるかについての生きた視覚的表象を与えてくれます。つまり、立方体は三つの互いに作用する流れの交差なのです。それらの相互作用を総合的に考えれば、三つの方向ではなく、前-後、上-下、右-左という六つの方向が関係しているのが分かります。実際には六つの方向があるのです。そして、一方には点から出る方向、他方には無限から返ってくる方向の二種類の流れがあることによって、事態はさらに複雑になります。このことは、より高次の理論的な神智学を実際に適用するときのひとつの観点を与えてくれるでしょう。空間におけるどの方向も二つの対立する流れとしてとらえなければなりません。そして、物理的な立体はこの二つの流れが融合した結果なのです。さて、この六つの流れ、六つの方向をa、b、c、d、e、fとしてみましょう。この六つの方向、あるいは六つの流れを表象し、次回の講演では、この表象をいかに形成するかについてお話しすることになります-そして、最初と最後のaとfをそこから無いものと考え、消して考えるならば、そのとき4つが残ります。この残った4つとは、あなた方がアストラル界だけを見るときに知覚できる4つの流れである、ということに注目して下さい。私はあなた方に3つの通常の次元と、本来それに対立してふるまう3つのさらなる次元に関する何らかの表象を提供することを試みてきました。物理的な立体はこれらの次元が互いに対立的に働く結果としてて成立します。ここで物理的なレベルにある次元のひとつとメンタル的なレベルにある次元のひとつをないものと考えるとならば、4つの次元が残りますが、そのときこれは、物理的世界とメンタル界との間に存在するアストラル界を表わします。世界についての神智学的な観点は、実際、通常の幾何学を越えたより高次の幾何学に従って働かなければなりません。通常の幾何学者は立方体を6つの正方形で表されるものとして記述します。私たちは立方体を6つの相互に貫入する流れの結果として、つまり、動きとそれに対抗する動き、あるいは対立する力の相互作用の結果として把握しなければなりません。ここでは、そのような一組の対立を体現している概念のひとつ、世界進化の奥深い秘密のひとつを私たちに示す概念のひとつを外なる大自然からとった例で示したいと思います。ゲーテは「蛇と百合のメルヘン」のなかで「開示された秘密」について語っていますが、それはこれまでに話された言葉のなかでも最も真実で賢明な言葉のひとつです。自然のなかにはまだ見たことはないけれども全く手に取るようにわかる秘密が、多くの倒置プロセスを含めて存在しているというのは本当のことです。そうした例のひとつを紹介したいと思います。人間を植物と比べてみましょう。これは最初は遊び半分のようにも見えるでしょうが、そうではなく、深い秘密を示しているのです。植物は土のなかに何を有しているでしょうか?根です。そして上方には茎、葉、花、実が育ちます。植物の頭である根は大地のなかにあり、その生殖器官は地上に、太陽に近いところに発達しています。これは純潔な仕方の生殖と呼び得るものです。植物全体を逆にして、根を人間の頭と考えてみてください。するとそれは上に頭があり下に繁殖器官のある人間、逆転した植物となります。動物はその真ん中にあり、ひとつの堰き止め(Stauung)となっています。植物を逆転させた結果が人間なのです。神秘学者たちはいつの時代でもこの現象を3つの線を使って象徴的に表現してきました(図24)。植物を象徴する1本の線、人間を象徴する別の線、そして動物の象徴としての対立する第3の線が合わさって十字架を形成します。動物は水平の位置をとっていて、私たち人間が植物と共有しているものを横断しています。ご存じのように、プラトンは全体魂(Allseele)について語っていますが、全体魂は宇宙身体(Weltenleib)にかけられて、つまり、宇宙身体という十字架に縛りつけられています。世界魂(Weltenseele)を植物、動物、人間として表象すると、それは十字架になります。世界魂はこの3つの領域のなかに生きることで、この十字架に縛られているのです。ここでは力の堰き止め(Stauung)の概念が拡張されているのがお分かりでしょう。植物と人間は二つの互いに補い合いながら分岐し、しかし交差する流れを表している一方、動物は上方と下方への流れの間に割り込みながらそれらの間に現れる堰き止め(Stauung)を表しています。同様に、カマローカ[アストラル領域]はデヴァチャンと物理的世界の間に位置しています。互いに鏡像の関係にあるデヴァチャンと物理的世界の間に堰き止めの表面(Stauungsflaeche)、つまりカマローカの世界があるのですが、そのカマローカ界の外的な表現が動物界なのです。この世界を知覚するためには力が必要なのですが、その知覚に適した器官を既に有している人は、これら三つの領域の相互関係において見なければならないものを認識することになるでしょう。動物界を堰き止めから現れたものとして把握するならば、植物領域と動物領域の関係、動物領域と人間領域の関係を見出すことになるでしょう。動物は、互いに補い合い、貫入する他の二つの領域の方向に対して、垂直の位置にあります。低次の領域はより高い次の領域に食物として奉仕します。この事実は、人間と植物の関係は動物と人間の関係とは異なっている、ということに光を当てます。動物を食べる人は堰き止めの状態との関係を発達させているのです。真の活動は対立する流れが出会うところにあります。このように申し上げることで、私は一連の思考のきっかけを与えているのですが、それは後になって不思議な仕方で、まったく別のかたちで再び現われることになるでしょう。要するに、正方形は2つの軸が線によって切られることで生じる、立方体は3つの軸が面によって切られることで生じるということを見てきたわけですが、では、4つの軸が何かによって切られるということを想像できるでしょうか。立方体は4つの軸が切られるときに生じる空間構造の境界なのです。正方形は3次元の立方体を境界づけています。次回は、立方体そのものが4次元図形の境界を形成するとき、どのような図形が生じるかについて見ていくことにしましょう。□質疑応答 6つの流れを思い描き、そして2つを消す云々とは何を意味しているのでしょうか?6つの流れは、3の2倍として考えなければなりません。つまり、3つの軸に規定される方向に沿って中心から外に働く3つの流れ、そして無限からやってきて反対方向に働く別の3つの流れです。ですから、それぞれの軸方向に関して、一方には内から外に向かい、他方にはこれとは逆の外から来て内に向かうような2つのタイプがあるのです。これらふたつのタイプにポジとネガ、あるいはプラスとマイナスをつけると、こうなります。+a -a+b -b+c -c アストラル空間に入るためには、内向きの流れと外向きの流れを有するひとつの方向全体を消し去らなければなりません、例えば+aと-aのような。(第3講・了)参照画:アストラル空間人気ブログランキングへ
2024年04月12日
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いっぷ句-85春桜冬桜との乱れ咲き 愚通詩歌-1# 春の風春の風がさらさらと吹く花々は微笑み、葉は踊る新しい始まりの予感が心に宿る桜の花びらが舞い散る空は青く、太陽は優しく微笑む私たちは夢を追いかける春の風よ、私に勇気をくれ新たな冒険へと飛び立つ翼を愛と希望の歌を奏でよう 愚通-AI
2024年04月11日
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ルドルフ・シュタイナー「四次元」数学と現実 多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答(GA324a)Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension 1999.7.5.登録/KAZE訳→2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳 第2講 1905年3月31日、ベルリン 今日は特に、非常に機知に富んだ男であるチャールズ・ヒントンの考えを参照しながら、多次元空間の表象に関する基本的な要素をお話したいと思います。(原註1)前回は0次元の考察からはじめて多次元空間の表象へと進みましたが、覚えておいででしょうか。どのように二次元空間から三次元空間へと至ることができるかという表象についてもう一度簡単に繰り返しておきたいと思います。シンメトリーの関係とは何を意味しているのでしょうか。次のような互いに鏡の像である赤と青のふたつの平面図形を重ねるにはどうすればよいのでしょうか。2つの半円の場合には、赤い半 円を青い半円のほうにずらしていくことで、比較的簡単にそれができます(図10)。 次のような 鏡の シンメトリーをもった図形の場合は、そう簡単にはいきません(図11)。 面の内部に留まる限り、そうしたやり方で赤を青のほうにずらそうとしても、赤い部分と青い部分を重ねることはできません。けれども、これを可能にする方法があります。黒板から、つまり第2の次元から出て 第3の次元を用いれば、別の言葉でいえば 、青い図形を 鏡の軸を中心にして空間中を回転させて赤の図形の上に重ねればそれが可能になります。7 一組の手袋もそれとまったく同じ関係にあります。3次元空間から出ることなく、片一方の手袋をもう一方の手袋に重ねることはできません。第4の次元を通過して行かなければならないのです。前回、私はこう申し上げました。第4の次元の表象を得ようとするならば、第2の次元から第3の次元に超え出るときの状況と同じ状況を成立させることによって、空間における関係を流動的なままに留めなければならないと。紙テープから互いに絡み合った空間構造を作り出すとき、その絡み合いは特定の複雑さを呼び寄せることになります。これは単なる遊びではありません。何故なら、そうした絡み合いは自然のなかに、特に物質的な対象物の絡み合った動きのなかにいつでも生じているからです。物体はそうした絡み合った空間構造において運動しています。この運動は諸力を備えていますから、その諸力もまた互いに絡み合っているのです。太陽の周りの地球の運動、そして地球の周りの月の運動を考えてください。月は、太陽の周りにある地球の軌道の周りに巻き付くような円を駆けめぐっています。つまり、月は円周の周りで螺旋を描いているのです。太陽自身が運動していますから、円周の周りの月はさらなる螺旋をなしています。その結果、空間全体を通じて広がる非常に複雑な諸力の線が生じているのです。天体は、私たちが前回考察した、シモニーの 絡み合った紙テープのように、相互に関係しています。私たちは、前に述べたように、私たちがそれを固定化させないようにするときにのみ理解することができるような複雑な空間概念を取り扱っているのだということを生き生きと思い浮かべなければなりません。空間をその本質においてとらえようとするならば、私たちはなるほどまず固定的なかたちでとらえなければなりませんが、しかしさらにそれをもう一度完全に流動的なものとしなければならないのです。それは、零にまで行き着いて、そこで生きた点の本質を見出すようなものです。もう一度いかに次元が構築されるかを生き生きと思い浮かべてみましょう。点は0次元であり、線は1次元、平面は2次元、立体は3次元です。ですから立方体には、高さ、幅、奥行きという3つの次元があります。さて、さまざまな次元の空間構造は互いにどのようにふるまうのでしょうか。あなたが直線であって、1つの次元だけをもち、直線に沿ってのみ運動できると考えてください。そのような存在であるとするならば、そうした存在の空間表象はどのようなあり方をしているのでしょうか。そのような存在は1次元性を自らにおいて知覚せず、どこに行こうとも点を知覚できるだけでしょう。というのも、私たちが何かを描こうとしても直線には点しか存在していないからです。ですから、2次元的な存在が出会うのは直線だけであり、1次元存在だけを知覚するでしょう。立方体のような3次元存在は、2次元存在を知覚できますが、自分のもっている3次元を知覚することはできないでしょう。さて、人間は3次元を知覚することができます。私たちが正しく推論するならばこう言わなければなりません。1次元存在が点だけを知覚でき、2次元存在が直線だけを、そして3次元存在が面だけを知覚できるように、3次元を知覚する存在はそれ自身が4次元存在でなければならないと。人間が外的存在を3次元によって境界づけることができ、3次元からなる空間と関わることができるということは、人間が4次元的であることを意味しています。同様に、立方体が2次元だけを知覚することができ、それ自身の3次元を知覚できないように、人間は自身が生きている4次元を知覚できない、ということは明らかです。こうして、人間は4次元存在でなければならない、ということがわかりました。私たちは水のなかの氷のように、4次元の海を泳いでいるのです。もう一度、鏡の像の考察に戻りましょう(図11)。この垂線は鏡の断面を表しています。鏡は左側の図形の鏡像を反射しています。反射のプロセスは、2次元を超えて3次元を指し示しています。鏡像のそのオリジナルに対する直接的で連続した関係を理解するためには、私たちは1次元と2次元に加えて3次元の存在を仮定しなければなりません。さて、外的空間と内的表象の関係を観察してみましょう。 私の外にあるこの立方体は私の内なる表象として現れます(図12)。 立方体についての私の表象像は、鏡の像がそのオリジナルに対するように、立方体と関係しています。私たちの感覚器官は立方体についての心的な表象を発現させます。この表象像をオリジナルの立方体に重ねようとすれば、第4の次元を通っていかなければなりません。ちょうど2次元の 鏡プロセスを連続して行う場合、第3の次元に移行しなければならないように、表象像と外的な対象との間に直接的な関係を生じさせるためには、私たちの感覚器官は4次元的でなければなりません。あなた方が2次元的にのみ表象するとすれば、夢の像だけが目の前に現れ、外の世界に対象があるなどとは考えないでしょう。私たちが何かを表象するときには、4次元空間を通じて、私たちの表象力を外的な対象の上に直接投げかけているのです。 人類進化の初期段階においてアストラル状態にあった人間はただ夢見る人に過ぎませんでした。彼らの意識のなかに生じるイメージとは夢の像だったのです。人間は後にアストラル領域から物理的空間へと移行しました。このように述べるとき、私たちはアストラル存在から物理的、物質的存在への移行を数学的に定義したことになります。この移行が生じる以前には、アストラル人間は3次元的な存在でした。そしてそれ故に、その2次元的な表象を3次元的な物理的物質的な対象世界へと拡げることができなかったのです。しかし、人間が自ら物理的な物質になったとき、彼らはさらに第4の次元を獲得しそれによって生命をも3次元のなかで体験できるようになりました。私たちの感覚器官のユニークな特性によって、私たちは私たちの表象像を外的な対象に重ねることができるようになっているのです。私たちは、私たちの表象を外的な物に関係させることで、その表象を外的な対象にかぶせながら、4次元空間を通過して行くのです。もし、私たちが物の中に入り込んでそこからそれを見ることができるとしたら、つまり物は反対側から見るとしたらどのように見えるのでしょうか。そのためには、私たちは第4の次元を通って行かなければならないでしょう。アストラル世界自体は4次元の世界ではありません。けれども、物理的世界へのその反映と共に考えれば、アストラル界は4次元的です。アストラル界と物理的世界を同時に見渡すことのできる人は4次元空間に生きています。私たちの物理的世界のアストラル世界に対する関係は4次元的なのです。私たちは点と球の間の違いを理解することを学ばなければなりません。 実際、ここに描かれたような点は受動的なものではなく、すべての方向へと光を放射しています(図13)。 そのような点の反対はどのようなものになるでしょうか? ちょうど左から右へ行く線の逆が右から左へ行く線であるように、光を放射する点の反対も存在しています。巨大な、実際は無限に大きな球、あらゆる方向から、しかし今は内へと暗闇を放射している球を表象してみましょう(図14)。この球が光を放射する点の反対です。挿入図14: 光を放射する点の正反対とは、単にニュートラルな闇が無限に広がる空間ではなく、あらゆる方向から闇をあふれ出させる無限の空間です。闇の源泉と光の源泉が対極をなしているのです。私たちは、無限のなかに姿を消す直線が別の側から同じ点へと戻ってくることを知っています。同様に、点がすべての方向へと光を放射するとき、この光は無限からその逆のもの、つまり闇として戻ってくるのです。さて、その反対の場合を考察してみましょう。闇の源泉としての点を考えてみますと、その逆とは、すべての方向から明るさを中へと放射する空間です。前回の講義において説明したように、線上を動く点は無限のなかに消えてしまうのではなく、別の側から再び戻ってきます(図15)。 同様に、点は、拡張するか、あるいは外へと放射するとき、無限のなかに消え去るのではなく、無限から球として戻ってくるのです。球は点の逆です。空間は点のなかに生きています。点は空間の逆なのです。立方体の逆とは何でしょうか。この立方体によって規定された部分を差し引いた無限の空間全体にほかなりません。ですから、全体としての立方体は無限の空間にその逆を加えたものとして表象しなければなりません。世界をダイナミックな力の意味で表象しようとするならば、極性なしではうまくいきません。そのようにしてはじめて物をその本来の生においてとらえたといえるのです。神秘学者が赤い立方体を表象するとき、その他の 空間は緑になります。というのも、赤は緑の補色だからです。神秘学者は単純な自己完結した表象だけをもつのではありません。彼らの表象とは抽象的で死んだ表象というよりは生きた表象なのです。私たちの表象は死んだものですが、世界の事物は生きたものです。私たちが抽象的な表象のなかに生きるとき、私たちは物自体のなかに生きていません。私たちが光を放射する星を表象するときには、その反対、つまり無限の空間を、対応する補色において、表象しなければなりません。こうした訓練を行えば、思考が鍛えられ、諸次元を表象するための自信が得られます。正方形は2次元の空間領域ですね。ふたつの小さな赤い正方形とふたつの青い正方形からなる正方形は異なる方向に異なって光を放っている面です(図16)。異なる方向に光を放つ能力は3次元的な能力です。ですから、ここには長さ、幅、そして放射能力という3つの次元があります。挿入図16: ここで面に関して行ったことは立方体に関しても行うことができます。上記の正方形が4つの小正方形から構成されていたように、立方体が8つの小立方体から構成されていると考えてください(図17)。立方体はさしあたり高さ、幅、奥行きという3つの次元を有しています。それらに加えて、それぞれの小立方体の部分の内部に、ある一定の光を放射する能力を区別しなければなりません。その結果、高さ、幅、奥行きに加えて、さらなる次元、放射能力が生じます。挿入図17: 4つの小正方形の部分からなる正方形を組合わせて、8つの異なる小立方体の部分からなる立方体を考えてみてください。そして、立方体ではなく第4の次元をもった物体を考えてみてください。私たちはこの物体を放射能力を通して理解することができるようになります。8つの小立方体の部分の それぞれが異なる放射能力をもっているとします。そして、単に一つの側に向かってだけ放射能力のある立方体があるとしますと、すべての側に向かって光を放つ立方体を得るためには、すべての側に向かって光を放つもうひとつの立方体をつけ加える必要が、つまり、その反対の立方体をもってそれを2倍にする必要があります。私はそれを16の立方体から構成しなければなりません。(原註2) 次回は、より高次の次元空間をいかに表象するかについて学ぶことにしましょう。(原註1より) チャールズ・ハワード・ヒントン(1853-1907)、数学者で作家。(原註2) このアナロジーの考察で意図されていることは簡単には再構成できません。ヒントンにおいては、いずれにせよこの思考過程にあたるところを見つけることはできませんでした。同様に、ヒントンはなるほど第2の次元から第3の次元への移行やとりわけ第3の次元から第4の次元への移行を実例を挙げて説明するために色彩を使っているのですが、まったく別の仕方なのです。このことに関する彼の考察は、特にここに印刷されているシュタイナーの1905年5月24日の講義で報告されています。(訳註/本書の第4講を指しています。) この箇所で述べられている考察の幾何学的な基礎は以下の通り。「中心で分けられた線分は、両方の線分の部分で2つの正方形がそれぞれ接するように、正方形へと補完することができます。そこから、4つの小さな正方形に分割された大きな正方形が生じます(図16)。4つの正方形の部分で2つの立方体がそれぞれ互いに接するようにすることで、そこから8つの小さな立方体に分割された立方体を作ることができます(図17)。それに対応した4次元構造である4次元の立方体は、3次元の立方体8つの立方体の部分が2つの4次元の立方体ごとに共通の「境界空間」として把握されるときに生じます。それによって4次元の立方体は、16の立方体の部分に分割されます。参考画:4次元の三次元への投影(第2講・了)
2024年04月11日
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ルドルフ・シュタイナー「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答(GA324a)Rudolf Steiner:Die Vierte Dimension *最初に第1講から第3講までKAZEの訳したものを佐々木義之さんが改訳。さらに第4講以降を佐々木義之さんが翻訳してくださいました。(2004年5月24日完結)I第1講 1905年3月24日、ベルリン 1999.6.29.登録/KAZE訳→2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳第2講 1905年3月31日、ベルリン 1999.7.5.登録/KAZE訳→2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳第3講 1905年5月17日、ベルリン 2000.11.16登録/KAZE訳→2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳第4講 1905年5月24日、ベルリン 2002.11.17登録/佐々木義之さん訳第5講 1905年5月31日、ベルリン 2002.11.22登録/佐々木義之さん訳第6講 1905年6月7日、ベルリン 2002.12.6登録/佐々木義之さん訳四次元空間 1905年11月7日、ベルリン 2002.12.22登録/佐々木義之さん訳多次元空間について 1908年10月22日、ベルリン 2002.12.22登録/佐々木義之さん訳II質疑応答 1904-1922・1904年11月1日、ベルリン 2003.5.6登録/KAZE訳・1906年9月2日、シュツットガルト 2002.12.22登録/佐々木義之さん訳・1908年6月28日、ニュルンベルク 2002.12.22登録/佐々木義之さん訳・1909年4月21日、デュッセルドルフ 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1909年4月22日、デュッセルドルフ 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1910年11月2日、ベルリン 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1911年10月1日、バーゼル 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1912年11月25日、ミュンヘン 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1913年2月13日、ベルリン 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1913年11月27日、ベルリン 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1919年、シュツットガルト 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1920年3月7日、シュツットガルト 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1920年3月7日、シュツットガルト 2003.5.6登録/佐々木義之さん訳・1920年3月11日、シュツットガルト 2003.11.17.登録/佐々木義之さん訳・1920年3月11日、シュツットガルト 2003.11.17.登録/佐々木義之さん訳・1920年3月30日、ドルナハ 2003.11.17.登録/佐々木義之さん訳・1920年3月31日、ドルナハ 2003.11.17.登録/佐々木義之さん訳・1920年10月15日、ドルナハ 2004.4.12.登録/佐々木義之さん訳・1921年1月15日、シュツットガルト 2004.4.12.登録/佐々木義之さん訳・1921年4月7日、ドルナハ 2004.4.12.登録/佐々木義之さん訳・1921年8月26日、ドルナハ 2004. 5.24.登録/佐々木義之さん訳・1922年4月12日、デン・ハーグ1 2004. 5.24.登録/佐々木義之さん訳・1922年4月12日、デン・ハーグ2 2004. 5.24.登録/佐々木義之さん訳・1922年4月12日、デン・ハーグ3 2004. 5.24.登録/佐々木義之さん訳・1922年4月12日、デン・ハーグ4 2004. 5.24.登録/佐々木義之さん訳・1922年12月29日、ドルナハ 2004. 5.24.登録/佐々木義之さん訳参照画:多次元空間ルドルフ・シュタイナー「四次元」数学と現実多次元空間に関する講義の聴講ノートと数学のテーマについての質疑応答(GA324a) 1999.6.29.登録/KAZE訳 → 2002.11.16再登録/佐々木義之さん改訳第1講 1905年3月24日、ベルリン 私は今日、第4の次元についての基本的な側面についてお話ししようとしているので、今からお聞きになることについて失望されるかも知れません。しかし、この問題についてより深く洞察しようとする人は、数学の高次の概念を厳密に知っておく必要があるのです。私はあなた方にまったく基本的で普遍的な若干の概念を提供したいと思います。私たちは4次元空間の現実とそれについて考えることができる可能性とを区別しなければなりません。4次元空間は、私たちが感覚的現実的なものとして知っているものを超えてはるかに広がっている現実と関わっています。その場所へと赴こうとするならば、思考を作り変えなければなりません。あなた方は少しばかり数学へと事象を遊ばせて、数学者の思考方法のなかに入らなければならないのです。数学者が歩を進めるときには、その一歩一歩が理論全体の流れにどのようなインパクトを与えるかについて説明しなければならないということをはっきりとさせておく必要があります。しかし、私たちが数学に関わろうとするならば、数学者ですら4次元の現実の中には 一歩も踏み込むことはできないのだということにも気づいていなければなりません。 彼らは単に思考可能な、あるいは思考不可能なものから結論へと達することができるだけです。 私たちが扱おうとしている課題はさしあたり単純なものですが、第4の次元の概念へと近づくにつれてより複雑なものになります。私たちはまず次元というものが何を意味しているかについて明確にしておかなければなりません。さまざまな幾何学的構造をその次元性ということで吟味するときにもっともよくそのことが明らかになります。そのとき、それは 世紀になってはじめてボルヤイ、ガウス、リーマンのような偉大な数学者によって着手された考察へと私たちを導くことになります。最も単純な幾何学的対象は点です。点はまったく広がりをもっていません。それは想像することができるだけです。点は空間におけるひとつの位置を指し示すものです。点はゼロに相当する次元をもっています。第一の次元は線によって与えられます。直線はひとつの次元をもっているのです-長さです。太さをもたない線をそれ自身動かせば、第一の次元を離れて、面になります。面は長さと幅という2つの次元をもっています。面を動かせば、これら2つの次元から離れます。その結果、立体が得られますが、立体は高さ、幅、奥行きという3つの次元をもっています。(図1) しかし、ある立体 たとえば立方体]を空間のなかで動かしても、結果はやはり単なる3次元の立体です。立体は単に動かしただけでは 3次元の 空間から離すことはできないのです。さらにいくつかの概念を見ていきましょう。線分を考えてみますと、それは2つの境界、A点とB点という2つの末端をもっています。(図2) A点とB点を合わせようとすると考えてください。それをするためには線分を曲げなければなりません。そのとき何が起こりますか? A点とB点を合わせとうとすると、1次元の 直線のなかにとどまっていることはできません。これらふたつの点を結合するためには、直線それ自体から外に出なければなりません。つまり、第1の次元から出て、面という第2の次元に移行しなければならないのです。このようにして、その末端が重なることによって、直線から 閉じた曲線、つまりもっとも単純な場合 円が成立します。(図3) 線分を円に変化させることができるのは第1の次元から離れることによってのみです。同じ操作を 長方形の形をした 面で行うことができます。しかしこれができるのは、2次元のなかにとどまらないときだけです。長方形を管、筒に変化させるためには第3の次元に入らなければなりません。この操作は前に第1の次元を離れることによって2つの点を重ねたときと全く同じ仕方で行われます。私たちはここで 面の場合 、面の2つの端を重ねるために、第3の次元に入っていかなければなりません。(図4) すでにそれ自体で3次元を有している空間構造で、同様の操作を行うことができると考えられるでしょうか? 2つの合同の立方体が3次元の直方体の境界をなしていると考えてみて下さい。そのひとつの立方体を別の方にずらして重ねることができます。さて、ひとつの立方体の一方の面が赤、 その反対側の面が青に 塗られていると想像して下さい。この立方体を、 幾何学的には まったく同じですが赤と青の色が逆に塗られているもうひとつの立方体に一致させるための唯一の方法とは、一方を回転させ、そしてそれらをスライドさせて重ねることです。(図5) 別の3次元の対象物について考察してみましょう。左手の手袋をとってください。左手の手袋を右手にはめることはできませんね。しかし、お互いが鏡像体である一組の手袋について考え、そしてAとBの末端をもった線分について考えれば、その手袋がいかにお互いに属しているかが理解できます。それらは中心に境界 つまり鏡の面 を有する単一の3次元像を構成しています。このことは人間の外皮の2つのシンメトリックな半分についても言えます。お互いが鏡像体である2つの3次元構造をどのようにして重ねることができるのでしょうか。それはちょうど前の例で第1および第2の次元を超えたように、第3の次元を離れるときにのみ可能なのです。4次元空間を通っていくことによって、私たちは右の手袋を左手に、あるいは左の手袋を右手にそれぞれはめることができます。 観照空間の第3の次元、つまり奥行きの構築に関しては 私たちは右目から来る像を左目から来る像に重ねています、つまり、ふたつの像を融合しています。ここでツェルナーによるひとつの例を考察することにしましょう。ここに円があり、その外側に点Pがあります。どのようにして円を横断しないで点Pを 円の中に 入れることができるでしょうか。面の内部にとどまっているときには、それはできません。正方形を立方体に移行させるときには第2の次元から第3の次元へと超えていかなければならないように、ここでも第2の次元から出ていかなければなりません。同様に球の場合にも、 球の表面を突き抜けるか、または 第3の次元を超えていくことなくしては、 内部に 入っていく可能性はありません。(図6) これらは概念的な可能性ですが、認識論に関しては、 特に知覚内容の客観性の認識論的な問題に関しては 直接に実際的な意味をもっています。私たちはまず第1に人が実際どのようにして知覚するのかを明確に理解していなければなりません。私たちはどのようにして感覚を通して対象物についての認識を得るのでしょうか。私たちは色を見ます。目がなければ私たちは知覚することができないでしょう。そのとき物理学者は言うでしょう。空間の外には色と名づけられるようなものは何もなく、純粋に空間的な運動形態があるだけだ。それが私たちの目を通り、視神経によって把捉され、脳へと送られ、そこでたとえば赤が生まれるのだ。次に、こう問うこともできます。知覚がそこにないとしたら、赤ははたしてそこにあるのかと。赤は目がなければ知覚することはできないでしょう。鐘が鳴るのも耳がなければ知覚することはできないでしょう。私たちのすべての知覚は、運動形式が私たちの肉体的魂的器官によって変換されることに依存しているのです。しかし、次のように問うとき、事態はもっと複雑になります。いったい本当にこの固有の性質である赤はどこにあるのかと。それは私たちが知覚する対象物の上にあるのでしょうか。あるいはそれは振動過程なのでしょうか。私たちの外部に発した一連の振動過程は目の中に入ってきて、脳そのものにまで伝達されます。いたるところに振動の そして神経の 過程がありますが、どこにも赤という色はありません。目そのものを調べてみても赤を見つけることはできないでしょう。それは私たちの外にも、また脳のなかにもありません。私たちが自らを主体としてこの運動過程に相対するときにのみ、私たちは赤を有するのです。では、いかにして赤が目と出会い、嬰ハが耳に出会うのかについて論じることは不可能なのでしょうか。問題は、この種の内的な 心的表象とは 何か、それはどこで生じるのかということです。 世紀の哲学的な著作には、この問いがすべてを貫いて流れているのがわかります。たとえばショーペンハウエルは、次のような定義を行っています。「世界は我々の心的表象である」と。しかし、その場合、外的な物体にはなお何が残っているのでしょうか。 色の心的な表象が運動によって「生じる」ことができるように 、私たちの内部における運動の知覚も、何らかの運動していないものの結果として生じることができます。動いている 馬の姿のスナップ写真を、その間に細いスリットのついた筒の内側に貼りつけると考えてみましょう。私たちが回転している筒を横から見るとき 、常に同じ馬がいて、ただ足を動かしているという印象を持つでしょう。同様に、何かが 実際には まったく動いていないときでも、私たちの 体ー組織 を通じて、運動の 印象 が引き起こされるのです。こうして、私たちが運動と名づけているものは無へと解消されます。しかしそのとき物質とは何なのでしょうか? 物質から色の輝き、動き、 形態、そして感覚的な知覚によって媒介されるあらゆる性質 を取り除いてください。そうすれば何も残らなくなります。私たちが 色、音、熱、味、匂い といった 外的世界の過程によって個人的な意識のなかに呼び出される副次的な、つまり「主観的な」 知覚を私たちの内において求めなければならないとしたら、私たちは形や動きのような基本的な、つまり「客観的な」知覚も私たちの内に求めなければなりません。外的世界は完全に消えてしまいます。しかしこの事態は 認識論に関する 重大な困難を引き起こします。対象におけるすべての性質が外にあるとすれば、それらは外界からどのように私たちのなかに入ってくるのでしょうか。外的なものが内的なものに移行する 点はどこにあるのでしょうか。私たちがすべての 感覚的な知覚内容を 外的世界から取り去るとすれば、それはもはや存在しなくなります。こうして認識論は、自分の髪の毛で自分を自由に高みへと引っ張ろうとするミュンヒハウゼンに見えてきます。私たちの内に生じる知覚を 解明 するためには、外的世界の存在を仮定しなければならないのですが。ではどのようにしてこの外的世界の諸側面は私たちの内部へと入り込み、私たちの心的な表象の形で現れることができるのでしょうか。この問題は別の形で定式化される必要があります。まずいくつかの類似性について考察してみましょう。このことを把握しないならば、 外的世界と内的知覚の間の 関係を見出す可能性をもつことはできません。AとBの末端をもつ線分に戻りましょう。私たちは、端の点を重ねるためには第1の次元を超え出て、線を曲げなければなりません。(図7) この直線の 左端の点Aを右端の点Bにそれらの点が下でふれるように重ねると考えてください。そうすれば、 重なった端の点を超えていき 起点へと戻ることができます。線分が短い場合は、それに対応する円も小さくなります。 最初に与えられた 線分を円にして、それからますます長い線分を円にするとすれば、端の点が出会う点はさらにますます はじめの 線から遠くなり、無限に離れていきます。そのとき、曲率はどんどん小さくなり、そしてついには肉眼ではもはや円周を直線と区別できなくなります。(図8) まったくそれと同じように、地球もまた、私たちがその上を歩くときには、それが丸いにも関わらず、直線の 平らな 部分のように私たちには見えます。直線の両方の半分が無限に広がると考えると、円は実際に直線と同じになります。そのとき、直線は直径が無限である円としてとらえることができます。さて、もし私たちが 直線に沿ってずっと遠くまで走り、そしてそのとき 線のなかにとどまっているとすれば、私たちはついには無限を通って 再び 反対側から戻ってくるだろうと想像することができます。幾何学的な 線ではなく、現実と結びつけることができる状況について思い描いてください。 円周上の 点Cが円周に沿って進むにつれて冷たくなると同時に その最初の場所から ますます遠く離れると表象してください。(図9)その点が下方の境界A、Bを通過して反対側を戻るときには、温度が再び上昇します。こうして、点Cは帰路においては往路とは逆の状態に遭遇します。暖かくなる傾向は、出発した元の温度に到達するまで続きます。この経過は円がどれほど大きくなっても同じです。つまり暖かさは最初は減少し、次に再び増加します。 無限に広がる直 線の場合にも、温度は 一方の側でますます 失われ、他方で上昇します。(図9) これは私たちがいかにして生と運動を世界へともたらし、そして、より高次の意味で「宇宙の理解」と名づけることのできるものに近づくかについての例のひとつです。ここには自らを生み出し、互いに依存しあっている2つの状態があります。しかし、 感覚的に 観察できるものすべてに関して言えば、そうですね、右の方に向かう過程が左から戻る過程とは何の関係もなく、それにもかかわらずそれらが相互に条件づけあっている、ということなのです。さて、外的世界の物体を冷たくなる状態に、そして、それとの対比で、私たちの内的知覚を暖かくなる状態に関連づけてみましょう。 外的世界と内的知覚は直接には感覚的に知覚可能なものを共通には何ももっていないにもかかわらず 、お互いにある関係にあり、 今お話しした過程と同様に相互に依存しています。このことを裏付けるために、 印章と封蝋(ふうろう)の関係についての イメージを外的世界の私たちの内的世界との関係に適用することもできます。印象は、印章が封蝋のなかに残ることなく、そして印章の物質的なものが封蝋のなかに移ることなく 、封蝋のなかに正確な刻印、印の正確な複写を残します。外的世界と内的知覚の関係の場合にも同じ対応関係があります。本質的なものだけが 移されているのです 。一方の状態の 形が 他方のそれを条件づけているのですが、しかしその場合 物質的なものは 何も移らないのです。外的世界と私たちの印象との間にそのような関係があるということを表象するならば、私たちは次のことに至ります。空間における 幾何学的な 鏡の像は、左と右の手の手袋のようなものですが、この像を直接的に、そして連続的に一致させるためには、私たちは新しい空間の次元を利用する必要があります。今、外的世界と内的印象が幾何学的な鏡の像に似たものであるとすれば、それらを直接一致させるためには、同様に追加的な次元を用いてそうするしかありません。今、外的世界と内なる印象との間に関係を成立させるためには、私たちは同様に第3の次元にいながらにして第4の次元を通っていかなければならないのです。そこでは私たちは 外的世界そして内的印象とひとつになりますが、私たちがそれらに共通のものを探すことができるのはそこにおいてのみなのです。私たちはこの鏡の像について海を漂っているように表象することができますが、その内部ではそれらの像を重ねることのできるのです。こうして私たちは まずは純粋に観念的にですが 何か3次元空間を超えたもの、それにもかかわらず現実性をもっている何かへと至ります。そのためには、私たちは私たちの空間表象を生き生きとさせ、それに生命を与えなければなりません。オスカー・シモニーは、この生きた空間構造をモデルで表現しようとしました。これまで見てきましたように 0次元の考察からはじめて徐々に4次元空間を表象する可能性へと至ります 。鏡のシンメトリーをもった物体の考察により、つまりシンメトリーの関係を使って、私たちはまず 最も容易に この4次元空間を認識することができます。 4次元空間との関係で3次元空間の経験的な特質を研究する別の方法を提供してくれるのは、結び目のある曲線と2次元の帯です。シンメトリーの関係とは何を意味しているのでしょうか。空間構造を相互に関係づけるとき、一定の複雑さが生じます。この複雑さは3次元空間に特有のものであり、それは4次元空間では生じません 。若干の実際的な思考練習をしてみましょう。環状の帯をまん中に沿って切れば、そのような環がふたつできます。こんどは端を一度ねじって貼った帯を同じように切ると、一本のねじれた環になり、2本には分かれません。貼り合わせる前に帯の端を 度ねじると、切った際に2つのねじれた輪がつながったものになります。最後に帯の端を一度ねじると、同じプロセスによって結び目ができます。自然の過程について考える人であれば、そうしたねじれが自然のなかで生じていることを誰でも知っています。実際、そのようなねじれた空間構造というのは特別な力を有しています。たとえば、太陽のまわりの地球の運動、そして地球のまわりの月の運動を取り上げてみましょう。月は地球のまわりを円を描いていると言いますが、 正確に見るならば 、それは 地球の軌道に沿って ねじれた線、つまり円周のまわりの螺旋なのです。そして太陽はとても速く宇宙空間を進んでいるのですが、月はさらにそのまわりで 付属的な 螺旋運動をしています。ですから、空間のなかを広がっているその力の線は非常に複雑なものとなっているのです。私たちは、それをピンで留めようとするのではなく、それらが流れるに任せるときにのみ把握することができるような複雑な空間概念に関わっているのだということに気づかなければなりません。もう一度、今日お話したことをおさらいしてみましょう。0次元的なものは点であり、1次元的なものは線であり、2次元的なものは面、3次元的なものは物体です。この空間概念は互いにどのような状態にあるのでしょうか。あなた方が直線に沿って動くことができるだけの存在であると考えてみてください。1次元存在の空間表象とはどのようなものなのでしょうか。そのような存在は自分自身の次元である1次元性を知覚するのではなく、点のみを表象することでしょう。というのも、私たちがそのなかで何かを描こうとしても、直線には点だけしか描きようがないからです。2次元の存在は直線と出会うことができ、従って1次元的な存在を識別することができるでしょう。たとえば立方体のような3次元存在は2次元存在を知覚することができるでしょう。けれども、人間は3次元を知覚することができます。私たちが正しく結論づけるとすれば、こう言わなければなりません。1次元存在が点だけを知覚することができるように、2次元存在が一次元だけを知覚することができるように、そして3次元存在が2次元だけを知覚できるように、3次元を知覚することができる存在は4次元存在に違いない、と。人間は外的な存在を3次元に従って境界づけることができ、3次元空間を 処理することができる わけですから、私たちは4次元存在でなければなりません。そして立方体が2次元だけを知覚でき、それ自身の3次元を知覚できないのと同様に、人間はみずからが生きる4次元を知覚することができないというのが本当のところなのです。参考画:four-dimensional-2挿入図全てのイメージ図:4次元の図形人気ブログランキングへ
2024年04月10日
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「虚のハーモニー:瞬間移動の航海」仮題 第五章第五章:未知の旋律 テスラとシムは新たな宇宙に足を踏み入れました。彼らの目の前に広がるのは、星々が奏でる未知の旋律です。この宇宙は、音楽と知識が交差する領域であり、虚の次元をさらに深く探求する場所です。シムは感じました。この旋律は、彼の音楽と共鳴しているようです。テスラは興奮しながらシムに囁きます。「シム、これは私たちが探していたものだ。完全絶対音階がここにあるはずよ。」その声に反応してシムは首にぶら下がる楽器を取り出し、宇宙の波動に耳を傾けました。そして、彼の音楽が次元の扉を開く鍵であることを確信しました。テスラとシムは、新たなる冒険へと進む決意を固めました。 続く次の章で、彼らはどんな驚きと発見をするのでしょうか。未知の旋律が彼らを導く先には、星々の秘密が隠されていることでしょう。※絶対音感:絶対音感 (Absolute pitch)は、ある音( 純音 および 楽音 )を単独に聴いたときに、その音の高さ( 音高 )を絶対的に認識する能力である。 記憶に基づいてその音を楽器を使ってもしくは音楽学用語で示すことで、この能力を有することが示される。※絶対音階:天上の絶対音階「天上の絶対音階を奏でる楽器 クリスタラー」というフレーズについては、直接的な情報は見つかりませんでしたが、音律や音階に関する興味深い情報があります。音律は、音のピッチの相対的な関係を音響物理的に規定したもので、美しいハーモニーを奏でるためには各楽器の調律が均一である必要があります1。また、音階の歴史や絶対音感についても詳しい解説があります。※クリスタラー:「天上の絶対音階を奏でる楽器 クリスタラー」というHiro Shimの造語に基づいて、クリスタラーがどのような楽器か想像してみましょう。クリスタラーは、透明で繊細なクリスタル製の楽器で、光を通すことで美しい音色を生み出すと考えられます。その音は、まるで天上から降り注ぐような清らかで穏やかな響きを持ち、聴く者の心を癒し、精神を高める力があると言えるでしょう。想像されるクリスタラーは、以下のような特徴を持ちます。形状: 天然のクリスタルを模した多面体で、それぞれの面が異なる音階を奏でる。演奏方法: 特殊な振動を持つ指で軽く触れるか吹いて演奏する。音色: クリスタルが持つ自然な共鳴により、非常に純粋で透明感のある音。用途: 瞑想やリラクゼーション、または幻想的な音楽の演出に適している。このような楽器が実際に存在したら、音楽の世界に新たな風をもたらすことでしょう。どんな場面で聴きたいですか?あるいは、どのような音楽を奏でたいですか?。※更には此の楽器の正式名称をクリスタルハーモニクスとします。名称: クリスタルハーモニクス形状: 天然のクリスタルからインスパイアされた多面体の形状をしており、各面が異なる音階を持つ。素材: 透明なクリスタルまたはクリスタルガラスを使用し、内部には金属や他の材料を組み合わせて特殊な振動を生み出す構造を持つ。演奏方法: 演奏者は特殊な振動を持つ指でクリスタルに触れるか、吹き込むことで音を出す。指の振動は、クリスタルの共鳴を引き出し、各面から異なる音色を生み出す。音色: クリスタル特有の清らかで透明感のある音色を持ち、吹き込む息の強さや角度によって微妙な音色の変化を楽しむことができる。用途: 瞑想やヒーリング、リラクゼーションのための楽器として、または幻想的な音楽や新しいジャンルの音楽を創造するために使用される。 このような楽器が現在実際に存在したら、演奏者はその美しい音色と共に、聴く人々に心の平和と癒しをもたらすことができるでしょう。また、音楽の可能性を広げる新しい道具として、多くのアーティストにインスピレーションを与えるかもしれません。どのような場面でこの楽器を使ってみたいですか?。此のスペース・オペラでは光速を超えた宇宙移動の要で、スペースエンジンのハーモニーの稼働に使用されます。人気ブログランキングへ
2024年04月09日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間/Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes 翻訳紹介(翻訳者:yucca)第12講 1923年11月11日 ドルナハ・物質的、自然的人体組織と霊的(精神的)道徳的なもの・人類の道徳的ー精神的(霊的)なものの源泉:人間理解と人間愛・今日、精神的(霊的)なものは単なる抽象思考として語られる・物質界、自然界にあるすべてのものは、霊的世界に関する文字・人間の(物質的)形姿は、霊的に観て道徳的冷たさと憎悪から構築されている:道徳的冷たさは人体組織を固く構成し、憎悪は血液循環を引き起こす・人間の魂には道徳的熱(暖かさ)、人間愛への萌芽があるが、下意識には道徳的冷たさと憎悪が潜んでいる:現代文明との関係・死の門を通過していくとき、人間は冷たさと憎悪の結果を携えていく・今日の一般的な社会生活に見られる道徳的な熱と愛の欠如・人間が携えてきた冷たさと憎悪の結果を負担する高次ヒエラルキア存在たち:第三ヒエラルキアが冷たさに由来するもの、次いで第2ヒエラルキアが憎悪に由来するものを取り除く・人間の形姿は純粋に霊的なもの:単なる物質的なものを人間の形姿に保つのは霊的なもの・死後霊的世界でこの形姿は徐々に頭の部分から溶解していき、第一ヒエラルキアのもとで完全に変容する・第一ヒエラルキアのもとでの霊形姿の形成:四肢であったものが未来の頭の原型となる・脳だけでなく、手足で思考することでカルマを追求することができる・人間の動きとともに、その人間の道徳的全体が運動している・死後の生の後半における新たな形姿の形成プロセス第二、第三ヒエラルキアは死後の生の前半に人間から取り出したものから、胸器官、四肢代謝器官の原基を形成する・人間の物質的本質と周囲の物質的自然との違い・人間と結びついているヒエラルキアの営み・新たな人間形姿形成のために使い果たされなかった人間無理解と人間憎悪の力の残余、その帰結としての文明の癌形成、潰瘍形成・寄生生物に冒された生体組織のような現代文明:人間との生きた結びつきを持たない思考・現代文明に上から下降してくる霊的なものは人間を通じて有毒となる:下からの寄生性と上からの毒性・文化の病の診断と治療法・人間の心と心情から生み出される新たな文明の必要性:文化の病の治療としてのヴァルドルフ教育・真の文化の覚醒衝動としての人智学 人体組織において、外的ー自然的なものがいかに変化させられるか、たとえば熱エーテル的なものにまで変化しなければならない鉱物質のものの場合非常に激しい変化ですが、これがわかりますと、自然的な人間、有機的に組織された人間のなかに生きているものがいかに霊的(精神的)なものとつながっているかも認められるでしょう。たとえば解剖学や生理学に関する一般的な手引き書にある図にしたがってしばしば考えられているように、人間というのは固い構築物であって、外部に在る自然の成分を摂取し、それを体内にほとんど変化させないままとどめると想定するなら、橋が欠けていることに始終悩むことになるのは当然でしょう、自然的な人間のなかにあるものから、人間がその本来の魂的なものにしたがって結びつけられているものへと架けられねばならない橋が欠けていることに。まず、固い物体と思われている骨組織、筋肉組織と、たとえば道徳的(morarisch)な宇宙秩序との結びつきを見出すことはできないでしょう。ひとはこう言うでしょう、一方はまさしく自然であり、もう一方は自然とは全く異なる何かだと。けれども、人間のなかにはあらゆる種類の実質が存在しており、すべては、筋肉と骨よりもっと揮発的な種類の実質を経ていかなければならないということが明確に理解されるなら、より揮発的、エーテル的なものは、道徳的宇宙秩序の衝動であるものと結びつくことができるということが認められるでしょう。すでに私たちが行なった考察を、人間が上に向かって有している結びつき、つまり宇宙の霊的なもの、私たちが高次ヒエラルキア存在たちとみなしている存在たちに向かって有しているあの結びつきにまで導こうとするなら、以上のような考えを引き継いでいかなくてはなりません。そこで、今までの講義ではむしろ自然的なものから出発しましたように、本日私たちは、そうですね、人間のもとで精神的(霊的)ー道徳的に作用しているものから出発していきたいと思います。精神的(霊的)、道徳的というのは、現代の文明にとっては実際すでに多かれ少なかれ慣習的なものを表わす概念になってしまっています。人間の本質において、道徳的ー精神的なものの根源的基本的感情はどんどん衰退していきました。現代文明はたとえば、その教育の全てにしたがってますますこう問いかけるように人間に指示します、一般に通用しているのは何か、慣習的に定着しているのは何か、掟とは何か、法とは何かなどなど。現代文明は、人間からまさに衝動として、たとえば、しばしば漠然と良心の場所と設定される場所に根付く衝動として発してくるものに向かうことは少なくなっています。この内的な自己自身への方向付けと目標設定、現代文明においてますます衰退していったものはこれなのです。ですから結局のところ、精神的ー道徳的なものは、今日多かれ少なかれ慣習的ー伝統的なもののなかに生きる何かになってしまったのです。古代の世界観、とくにまだ本能的な霊視に支えられていた世界観は、人間の内部から道徳的衝動を、成熟した道徳的衝動を引き出しました。こういう道徳的衝動は存在してはいますが、今日では伝統的なものになってしまいました。たとえば道徳的なものが非常に伝統的になってしまったことについて、はっきりと理解しておかなくてはなりません。もちろんそれで道徳的なものにおける伝統的なものに対して何か異論を申し立てよというわけではありません。ただ、よく考えてみてください、いったい十戒はどれくらい古いものでしょうか。十戒は古代から記録されてきたものと教えられています。根源的基本的な人間本性から、かつてデカローク(Dekalog)、十戒においてそうであったような何かが湧き出てくることが、今日でも普通に見られることであると私たちは言えるでしょうか。そして、人間たちを社会的に結びつけ、ひとからひとへと社会的な糸をつなぐ道徳的ー精神的なものは、いったい何から湧き出てくるのでしょうか。人類における道徳的ー精神的なものの本来の源泉としてあるのは、人間理解(Menschenverstaendnis)と呼びうるもののみです、相互の人間理解、そしてこの人間の理解に基づく人間愛(Menschenliebe)なのです。社会生活において役割を果たしている、人間の道徳的ー精神的衝動が成立する際、なおもよく見回してみるとよいでしょう、私たちはいたるところで、こういう道徳的衝動が基本的に人類から発したところでは、それは人間理解と人間愛から生じたのだということを見出すでしょう。後者は本来、人類の内部で社会的に精神的ー道徳的なものを促進させるものなのです。そして根本において人間は、人間が精神的(霊的)存在である限り、人間理解と人間愛を発達させることによってのみ、他の人間たちの間で生きるのです。さて、皆さんは意味深い問いを投げかけることができます、なるほどいつも投げかけられるわけではないけれども、まさに言われていることに対しては誰しも口先まで出かかっているにちがいない問いかけ、つまり、人間愛と人間理解が人間の共生の本来の衝動であるなら、いったいその反対のもの、人間無理解(Menschenunverstaendnis)と人間憎悪(Menschenhass)がどうして私たちの社会秩序の内部に生じることになったのかという問いです。これは、あらゆる人間のなかでもまさに秘儀参入者たちの最大の関心事であった問いです。秘儀参入学(Initiationswissenschaft)は、それが原初的であったあらゆる時代に、これをまさに最重要の問いとみなしていました。けれどもこの秘儀参入学は、それが原初的であったときにはまだ、この問いの解明の背後に至るある種の手段を有していました。今日通用している科学を眺めますと、人間を観察するとき、神に創造された魂には本来人間理解と人間愛の素質があるわけですから、実際こう問いかけることになります、人間理解と人間愛が自明のものとして社会秩序の内部で働かないのはいったいなぜだろう、人間無理解と人間憎悪はいったいどこからやってくるのか、と。そして、人間無理解と人間憎悪を精神的(霊的)なもの、魂的なもののなかに捜すことができないなら、私たちはおのずとこれを物質的ー身体的なもののなかに捜さなくてはなりません。とは言え、いかにも今日通用している科学は、人間の物質的ー体的なもの、血液、神経、筋肉、骨とは何であるか、私たちに答えてくれます。ひとつの骨をどんなに長いこと眺めることができても、今日の自然科学の目だけで見るなら、この骨、これが人間を憎悪へと誘惑するものなのだと言うことはできないでしょう。あるいは、今日調べられているような原理にしたがってどんなに血液を調べることができても、そのやりかたでは、この血液が人間を人間無理解へと誘惑するものだと確認することはできないでしょう。秘儀参入学が原初的な状態であった時代においては、むろんこれはまったく異なっていました。そのころ人間の物質的ー身体的なものを眺めると、本能的な霊視によって精神的(霊的)なもののなかに見られるものの対応像がそこに得られました。今日人間が精神的なものについて語るとき、せいぜい抽象的な思考について語るのみです、それが人間にとって精神的(霊的)なものなのです。そして人間にとってこれらの思考があまりに希薄になると、人間には言葉だけが残され、人間はフリッツ・マウトナー(☆1)がしましたように「言語批判」を書くのです。このような言語批判を通じて、そうでなくともじゅうぶん希薄になってしまった精神(霊)を、単なる抽象的な思考へと完全に蒸発させてしまう可能性が出てきます。本能的な霊視に浸透された秘儀参入学は精神的(霊的)なものを抽象的思考のなかには見ませんでした。秘儀参入学は精神的(霊的)なものを形態のなかに見ました、具象的なもの、それ自身が語り、音を発することができたもののなかに見ました。秘儀参入学は精神的(霊的)なものを生きた活動性のなかに見たのです。精神的(霊的)なものが生きた活動性のなかに見られたことによって、物質的なもの、骨、血液もまた精神性(霊性)において見られることができました。この秘儀参入学においては、今日のこのような骨格という考え、表象は存在しておりませんでした。こういう骨格は、今日、解剖学者あるいは生理学者たちにとって、計算する建築技師によって構築されたもののように見なされているものです。けれども、骨格はそういうものではないのです。この骨格というのは、皆さんがごらんになったように、鉱物質のものが熱エーテルにまで駆り立てられ、熱エーテルのなかに霊的ヒエラルキアの力が介入し、そしてそれから骨の形(フォルム)が構成されることによって形成されたのです。つまり骨格を正しく観ることができるひとに対して、骨格は霊的な起源をそっと明かします。そして実際のところ、骨格を今日の形(フォルム)において、つまり今日の科学が観る形において、ということですが、骨格をそういう形に観るひとは、ここに印刷されたページがある、文字の形がある、と言うひとに似ています。そのひとは、これらの文字の形を書きますが、それを読むことができないので読まないのです。そのひとは文字の形のなかに表現されているものを、その根底にあるものに関係づけることなく、ただ文字の形を書くだけです。今日の解剖学者、今日の自然研究者は、このように骨を記述します、あたかも骨が示唆していることなど何もないかのように。けれども骨は霊的なものから発したその起源をほのめかしています。物質的な自然法則、エーテル的な自然法則のすべてに関してこれがあてはまります。すべては、霊的(精神的)世界であるものに関する文字のようなものなのです。これらを霊的世界に由来する文字と解釈できてはじめて、こういう事柄が理解できるのです。けれどもさらに、人間の物質的な生体組織へと目を向けるとき、まず最初に知覚されるのは、あの領域に属するものです、つまり、あらゆる時代の秘儀参入者たちが、つまりまさに真に秘儀参入者であったひとたちが、霊的世界へと境界を越えて最初に知覚されるのは、ぞっとするような何か、最初は容易には耐えられないような何かだと語ってきたようなあの領域に。人間は大抵の場合、自分にとって努力する価値があると思われるものによって喜びを感じたいと思うものです。とは言え、霊的な現実、すなわちおしなべて真の現実に精通しようとすれば、ひとは恐怖を通過して行かねばなりません。と申しますのも、解剖学的ー生理学的に私たちの眼前に置かれている人間の形姿(Menschengestalt)に関してひとは、この人間形姿は霊的世界から、つまりそこにおいて道徳的な冷たさと憎悪である二つの要素から構築されている、ということに気づくからです。私たちは実際に魂のなかに、人間愛とあの熱、他の人間を理解しようとするあの道徳的な熱への萌芽を有しています。ところが、生体組織の固い構成部分のなかには、道徳的な冷たさを持っています。これはいわば、霊的世界から私たちの物質的生体構成をくっつけて固めるあの力なのです。そして私たちは、私たちのなかに憎悪への衝動を担っています。これは、霊的世界から血液の循環を引き起こすものです。そして私たちは、もしかすると非常に愛に満ちた魂、人間理解を切望する魂をもって世界を進んでいくかもしれませんが、他方、下意識(潜在意識/Unterbewusste)の底には、魂はそこで私たちがそもそも肉体というものを担うことができるために、体的なもののなかに流れ込み、衝動を与えるわけですが、この魂の底には冷たさが潜んでいるのです。私は終始冷たさについて語るでしょうが、これはつまり道徳的な冷たさのことなです、ただしこれは熱エーテルという迂回路を経て物質的な冷たさに移行することができるのです。私たちの底深く、下意識には道徳的な冷たさと憎悪が潜んでいます、そして人間がその魂のなかに、体内に潜んでいるものを持ち込むのは簡単です、その結果、人間の魂がいわば人間無理解が感染させられることになります。これは道徳的な冷たさと人間憎悪の帰結なのです。こういうわけですから、人間は道徳的な熱、すなわち人間理解と愛をそもそもまず自分のなかに育成しなければなりません、これらが、体的なものからやってくるものを克服しなければならないからです。さて、これは否定できないことでしょうが、これは霊的な眼差しにはきわめて明確に示されることです。15世紀とともに始まり、一方においては主知主義的に、他方においては唯物論的になった私たちの時代、私たちの文明に結びついているのは、魂の根底で多くが人間無理解と人間憎悪において存在するということです。これは考えられている以上にそうなのです。と申しますのも、人間の無意識のなかに人間無理解と人間憎悪がどれほど存在しているか、本来人間は死の門を通過してはじめて気づくであろうからです。このとき人間は魂的ー霊的なものを物質的ー肉体的なものから引き離します。人間は物質的ー肉体的なものを脱ぎ捨てるのです。冷たさの衝動、憎悪の衝動はこのとき単なる自然力(Naturkraefte)であることが判明します。これらは単なる自然力なのです。死体をよく見てみましょう。霊的な眼差しで、エーテル的な死体をもよく見てみましょう。私たちはこのとき、もはや植物や石のように道徳的判断を呼び起こさないものを眺めています。道徳的なものの内部に入り込んでいたものは、自然力へと変化したわけです。けれども人間は生きている間に多くを吸い込みました、人間はこれを死の門を通って携えていきます。このように自我とアストラル体は後退し、物質体とエーテル体のなかに繰り返しまったく沈み込んでしまったために、生きている間に気づかないまま残ったものを引き出して、携えていきます。この自我とアストラル体は、霊的世界へと、まさに魂のなかにはびこっていた人間に対する人間憎悪と冷たさの衝動のすべてを携えていくのです。私は申しました、私たちのこの文明において、さらにこれからお話ししていくであろうさまざまな事柄を通じて、人間無理解と人間憎悪を通して人間のなかにいかに多くが植え付けられているか、ひとは人間が死の門を通過していくのを見るときはじめて気づくのですと。なぜなら、今日の人間は、この両衝動のうち非常に多くを死の門を通過して運んでいくからなのです。途方もなく多くを運んでいくのです。けれども、このとき人間がともに携えていくものは、物質的なもののなかにあるべきものの、物質体とエーテル体とを完成すべきものの霊的な残余なのです。人間は人間無理解と人間憎悪のうちに、本来物質的世界に属するものの残余を霊的世界へと持ち込みます、しかもこれを霊的なしかたで持ち込むのです。これをさらに死と新たな誕生との間の時期を通じてずっと携えていることは、人間にとって決して役立つことはできないでしょう、なぜなら、人間がこの人間無理解と人間憎悪をさらに持ち運ばなければならないとしたら、人間はまったく前進することができず、死と新たな誕生との間でさらに進化する際に、前へ進むたびにつまずいてしまうことになるでしょうから。いわゆる死者たちが歩み入っていく超感覚的世界のなかに、今日絶えず見られるのは、それが直接的に作用すれば人間の進歩が阻まれるであろうような動向ばかりなのです。こうした動向、これはいったい何に由来するのでしょうか。これが何に由来するのか知ろうとするなら、今日の生活をよく見さえすればよいのです。人間たちはお互いにすれ違い、他のひとがどんな特性を持っているかを見ることはほとんどありません。そもそも今日人間たちは多くの場合、誰もが自分自身がどうであるか正しく良く見る、というようなありかたをしているのではないでしょうか。そして他のひとが違った様子をしていると、愛情深くそのひとのなかに入り込んでいくのではなく、このひとはそうあるべきではないのに、と判断するだけです、その際結局のところその判断の背後にあるのは、このひとは私のようであるべきなのにとつぶやくことなのです。こういうことはいつも意識されているとは限りませんが、これはまさに社交上の交流、人間の社会的なつき合いのなかに潜んでいるのです。今日明るみに出されているもの、人間言語の形式と申し上げたいもののなかには、他の人間の理解であるものはほとんど生きておりません。人間であるべきことを自分がいかに考えているか、人間は世界に向かって大声でがなり立てますが、その際その背後にあるのは、たいていの場合、すべての人間は自分のようであるべきだ、ということにほかならないのです。そのときまったく別なようすの誰かがやってくると、その誰かはただちに、たとえそれが完全に意識されないにしても、敵であり、反感を覚えさせる人間なのです。ここでは人間理解が、道徳的な熱が欠けています、愛が欠如しているのです。そしてこれらが欠けているのと同じだけ、道徳的な冷たさが、人間憎悪が人間とともに死の門を通過していき、そこに人間を引き留めるのです。けれどもここで人間がまず最初に見出すのは、第三ヒエラルキアの存在たち、つまりアンゲロイ、アルヒアンゲロイ、アルヒャイです、なぜなら人間がさらに進化することは人間自身の目標であるのみならず、全宇宙秩序の、叡智に満ちた宇宙秩序の目標であるからです。人間が死の門を通過して死と新たな誕生との間にある世界へと入った後の最初の時期に、彼らは人間たちに近づき、人間無理解から来る冷たさを慈悲深く人間から取り去ります。そして、人間が死の門を通過して今描写しましたやりかたで霊的世界に持ち込んだものを、いかにこの第三ヒエラルキアの存在たちが負担してくれるか、私たちにわかるのです。人間憎悪の残余を人間はもっと長い間運んでいかなければなりません、これが人間から取り去られるのは第二ヒエラルキア、エクスシアイ、キュリオテテス、デュナーミスの恩寵によってのみだからです。そのとき彼ら人間憎悪によって残されているものすべてを人間から取り去ります。けれども次いでそうこうするうちに人間は、死と新たな誕生との間のあの領域、セラフィム、ケルビム、トローネという第一ヒエラルキア存在たちが滞在する領域へと、私が神秘劇において霊的生存の真夜中時と呼びましたもの(☆2)に、ほぼ到達します。人間が前もって第三ヒエラルキアと第二ヒエラルキアの存在たちによって、人間無理解すなわち道徳的冷たさと人間憎悪を慈悲深く取り除かれた状態にされていなかったら、人間が内的に完全に破壊されることなしに、つまり消し去られることなしに、このセラフィム、ケルビム、トローネの領域を通過することは決してできないでしょう。こうして私たちにわかることは、人間は、そのさらなる進化に貢献できる衝動に結びつきを見出すために、それがあるべき物質的エーテル的本性から霊的世界に持ち込んでいくものを、最初に高次ヒエラルキア存在たちに負担させざるを得ないということです。とは言え、こういうことすべてを見通すとき、いまやこうした道徳的冷たさが霊的世界で意のままに活動するようすを見るとき、この霊的(精神的)冷たさとこの下方の物質的な冷たさとの親和性を判定するすべも獲得されます。雪や氷のなかにあるこの物質的な冷たさは、実際この上にある道徳的ー霊的(精神的)冷たさの物質的模像にすぎないのです。自分の前に両者を置いてみると、これらを比較することができます。このようにして人間はその人間無理解と人間憎悪を取り去られた状態を保つのですが、その間人間がまず徐々にその形姿をいわば失っていくようす、この形姿が多かれ少なかれ溶解していくとでも言いたいようすが、霊的な目で追求できるのです。イマジネーションという霊的眼差しにとって、人間は死の門を通って行ったとき、本来まだこの地上にいたときと同じように見えます。と申しますのも、人間がこの地上で自らのうちに担っているものは、多かれ少なかれ粒のような形状、そうですね、原子のような形状で人間のなかにある実質だからです、けれども人間の形姿、これは霊的なものなのです。私たちはこれについてはっきりと理解しておかなくてはなりません、人間の形姿を物質的に表象するのはまったくナンセンスです、私たちは、人間の形姿を霊的に表象しなければなりません。そのなかの物質的なもの、これはいわば小さな粒子として内部のいたるところにあるのです。単なる力体(Kraftkoerper)である形姿が、この、そうでなければばらばらに崩れてひとかたまりになってしまうであろうものを、形態にしたがって結合させているのです。皆さんがたひとりひとりの髪の毛をつかんで形姿を取り除くことができるとしたら、物質的なものとそれにエーテル的なものは、砂山のように崩れ落ちるでしょう。これが砂山でないということ、これが配分されていて形姿を持っているということ、これは、何ら物質的なものに由来するのではなく、霊的なものに由来するのです。人間は実際霊的なものとしてこの物質的世界を動き回っています。人間が単なる物質的な存在であるというのはナンセンスです、人間の形姿は純粋に霊的なのです。物質的なものは、おおよその表現として、ひと山のパンくずなのです。挿入図:ひと山のパンくずとしての人間の形姿 しかしこの形姿を、人間は死の門を通過していくときもまだ有しています。この形姿がほのかに光り、きらめき、いろいろな色彩に輝くのが見えます。ただし、人間はまず最初にその頭の形態であるものを失います、次いで他のものも徐々に溶解していきます。そして人間が完全に変容して宇宙の一種の模像のようになるのは、死と新たな誕生との間で、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に至る時です。死と新たな誕生との間人間を追求していくと、つまりこのように、その形姿を上から下へと徐々に失っていきながら、人間がさらに動き活動しているのが見られます。けれどもいわば最後のものが下から失われるとともに、すばらしい霊形姿(Geistgestalt)である何かがもう形成されるのです、自らのなかに全天球の模像のようにあり、同時に人間が自分の身に備えるであろう未来の頭の原型でもある霊形姿です。ここで人間は、単に下位ヒエラルキアの存在たちのみならず、セラフィム、ケルビム、トローネといった最高のヒエラルキア存在たちが関与する活動に織り込まれます。このとき何が起こるのでしょう。このとき起こっているのは実際、そもそも人間として表象しうるもっとも驚くべきことです。と申しますのもこのとき、人間が下部人間としてこの人生にあったものが頭形成へと移行するからです。私たちがこの地上を動き回るとき、私たちが表象の器官、思考を担う器官として有しているのは、この貧しい頭のみです。けれども思考は私たちの胸の同伴者でもあり、思考はとりわけ私たちの四肢の同伴者でもあります。けれども、私たちが今や単に頭でのみ思考するのではなく、たとえば四肢で思考し始めるようになる瞬間、この瞬間に、カルマの現実(リアリティ)の全てが私たちに開かれるのです。私たちが私たちのカルマについて何もわからないのは、私たちがいつもこの本来表面的な器官、脳でのみ考えるからです。私たちが指で思考し始める瞬間、そうしようと奮起したなら、ひとは頭の神経で思考するよりもずっと明快に、まさしく手指で、足指で思考することができます。私たちが完全に物質になっていないもので、下部人間で思考し始める瞬間、私たちの思考は私たちのカルマの思考なのです。私たちが手を使って単に掴むだけでなく、手で思考するとき、私たちは手で思考しつつ私たちのカルマを追求していきます。そしてとえいわけ、足によって、単に歩くだけでなく、足で思考するとき、私たちはとりわけ明瞭ににカルマを追求するのです。人間が地上でこれほど偏狭なのは、ご容赦ください、ほかの言葉を思いつかないものですから、人間がその思考のすべてをこの頭の領域に閉じこめているからなのです。けれどもひとは全人間をもって思考することができます。そして全人間をもって思考するとき、この中間の部分で、全宇宙論が、すばらしい宇宙の叡智が私たち自身のものとなります。そして下の部分と四肢全般にとっては、カルマが私たち自身のものとなるのです。私たちがこの地上で、歩いている人間を観察し、無関心に陥らずに、その歩みの美しさ、歩みの特徴を追求していくなら、そしてたとえば人間の手を私たちに作用させてみて、この手を解釈して、どの指の動きにも人間内部をきわめてすばらしく証左するものがあることを見出すなら、私たちは実際すでに多くを成し遂げているのです。とは言えこれは、歩行し、掴み、指を動かす人間とともに運動しているもののほんの小さな部分にすぎません。何しろこのとき、道徳的人間の全体が運動するのです、そのひとの運命が共に運動しています、霊的にそのひとであるものすべてが共に運動しているのです。そして、死の門に歩み入った後人間の形姿が溶解していくのを私たちが追求できれば、物質的形姿を思い起こさせるものがまず最初に溶解します。なるほど物質的形姿の方に似てはいるけれども、その内的な性質、その内的な本質を通じて、これは本来道徳的なものの形姿であると告げるものが現われてきます。存在の真夜中時に近づき、セラフィム、ケルビム、トローネの領域に至りつつ、人間はこのようになっていくのです。次いで私たちは、驚くべき変容(メタモルフォーゼ)が起こるのを見ます、このとき形姿が溶解する、と言うことができるのです。けれどもこれは本来重要なことではありません。形姿は溶解するように見えますが、実際にはこのとき高次世界の霊的存在たちが人間に共同して働いています、人間は自分自身で、そしてまたカルマ的に結びついているひとたちとともに、ある人間がほかの人間にも働きかけます。人間の以前の形姿、過去の地上生での形姿から、まずは霊的に、次の受肉の形姿となるものを作り上げます。この霊形姿はそれからまず、物質的生において胎児として人間に与えられるものに結びつきます。けれども上の霊的世界においては、足と脚が頭部の顎(あご)に変化します。そこでは腕と手が頭部の頬骨に変化します。そこでは、下部人間全体が、後の頭のための霊原基となるものへと変化するのです。これは、宇宙から認識しつつ体験しうるもっとも驚くべきことです、このときこのメタモルフォーゼが起こるようすは。つまりいわばまず全宇宙の模像が創造され、そして道徳的なものすべてが付着する。私が言いましたすべてが取り除かれたあとにですが、形姿へとこれが分化されていき、存在していたものが生成するものへと変化していくのです。そして、人間が霊形姿としてさらに変化を続け、再び第二ヒエラルキアの領域、第三ヒエラルキアの領域にもどっていくのが見えます。今やこの変化した霊形姿に、霊形姿は根本的に未来の頭のための原基にすぎないので、胸器官となるもの、四肢器官、代謝器官となるものがいわば取り付けられねばなりません。これらが取り付けられねばなりません。この取付のための衝動はどこからやってくるのでしょうか。そう、この衝動は、人間がこの道の前半にいたときに、第二及び第三ヒエラルキアの存在たちが慈悲深く拾い集めたのです。この存在たちは、人間の道徳的なものからこの衝動を取り出したのですが、今やこの衝動を再び下降させ、それからリズム人間および代謝ー四肢人間の原基を形成します。このとき人間は、死と新たな誕生との間における生存の後半期に、物質的生体組織のための成分、霊的な成分を受け取るのです。胎児的なもののなかに、この霊形姿が入り込んでいき、今や物質的力、エーテル的力となっているものを運び入れます、この物質的、エーテル的力はしかし、私たちが人間無理解と人間憎悪として過去の生から携えてきたもので、私たちの四肢はそれから霊的に形成されるのですが、その物質的な模像にすぎません。このような見方をしようとすれば、物質界のために必要とされるのとはそもそもまったく違った種類の感じ方を身につけなくてはなりません。と申しますのも、今示唆されましたようなしかたで人間において霊から物質になっていくものを眺めることができなくてはなりませんし、骨のなかには、冷たさが、道徳的冷たさが物質的模像の状態で生きていて、血液のなかには道徳上の憎悪が物質的模像として生きている、ということに耐えることができなくてはならないからです。いわば、こういう事柄をまったく客観的に眺めるすべを改めて学ばなくてはならないのです。とは言え、こういう事柄をこのように覗き込むとき、ひとは人間内部と外部の自然であるものとの違いにようやく気づくのです。私が言及しました事実、私たちは分解された人間の良心のような何かを植物界の花のなかにみとめる、ということを思い起こしてください。外にあるものは、いわば私たちの魂的なものの像(Bild)です。私たちがまず内部に有しているもの、これは、外なる自然とは親近性を持たないように見える力です。骨が骨であることができるのは、骨が、鉱物的に現われている炭酸石灰および燐酸石灰を憎み、それらの前から後退し、自分自身のなかに収縮して、外部の自然のなかで炭酸および燐酸石灰であるものとは別の何かになることによってのみなのです。人間が物質的形姿を持つことができるためには、人間の物質的なもののなかに憎悪と冷たさがなくてはならない、という見解にまで跳躍することができなければなりません。このとき私たちの言葉は内的な意味とでも申し上げたいものを獲得します。私たちの骨が一定の堅さを有しているとき、それは骨にとって良いことです、骨は霊的な冷たさの物質的模像としてこの堅さを有します。私たちの魂がある種の堅さを持っていたら、それは社会生活にとって良いことではありません。人間の物質的本質は人間の魂的なものとはまったく異なっていなければなりません。人間が人間である可能性、人間の物質的本質は人間の魂的ー霊的(精神的)なものとは異なるという可能性はまさにこの点にあるのです。人間のこの物質的本質は、周囲の物質的自然とも異なっています。私が皆さんにお話ししました変化が不可欠なのは、このことに依るのです。けれどもおわかりのように、私がかつて、宇宙論、哲学、宗教を扱いました講座で(☆3、*1)申しましたことに対して、この重要な補足を、人間とヒエラルキアとの結びつきのために不可欠なこの補足を、私たちは一度加えなければなりませんでした。けれどもちょうどこれまでの講義の出発点と同様な出発点を獲得したうえでのみ、私たちはこれらの補足を加えることができたのです。この地上で鉱物界、動物界、植物界の個々の存在とは何であるかを霊的な眼差しで見通すように、ちょうどそのようにひとはヒエラルキアの営みをのぞき見るのです、この下方で物質的な自然のできごとと人間の営みが時とともに経過していくように、時とともに経過していくヒエラルキアの営みを。このように死と新たな誕生との間の生を、すなわち霊的世界での生活を見つめると、人間が死と新たな誕生との間に行なうことを、ちょうど人間がこの地上で誕生から死までの間に行なうことを伝記的に記述できるのと同じように、事細かに記述することができます。そして、人間が死の門を通過していくときに人間を通じて霊界に持ち込まれた人間無理解と人間憎悪に基づくものすべて、これらすべてがまたもや人間に付与されること、すなわち、そこから、それを高貴なものに改良しつつ人間の形姿が創造されること、これは本来望まれるべきことだと申し上げたいのです。さてしかし、何世紀も経過するうちに地球人類の現在の進化にとって、何か非常に奇妙なことが生じてきました。霊的世界においては、人間無理解の力と人間憎悪の力のすべてが、新たな人間形成、新たな人間形姿のために使い果たされることはできません。残余ができます。この残余がこの数世紀の間に地球へと流れ込んできて、その結果霊的な地球大気圏のなかに、地球のアストラル光と申し上げたいもののなかに、混入物として、外部から人間に現われてくる人間憎悪と人間侮蔑の衝動の総和が見られるのです。これらの衝動は人間の形姿にはならなかったもので、地球の周囲のアストラル光のなかを巡り流れています。これらの衝動は人間の中へと作用しますが、今のところ個々の人間であるものには作用しません。これらは人間たちが地上で互いに形成するもののなかに作用を及ぼします。これらは文明のなかに作用を及ぼすのです。そしてこれらが文明の内部に引き起こしたものは、私が1914年の春ウィーンで(☆4、*2)こう語ることを余儀なくさせたのです、つまり、現代文明には、霊的な癌(Karzinom)、霊的な癌の病、霊的な潰瘍(Geschwueren)が混入していると。死と新たな誕生との間の現象を扱ったウィーンでの講演会(チクルス)においてこういうことが語られたのですが、これは当時人々が好んで耳を傾けることではありませんでした。けれどもそれ以来人々は、当時なされた発言が真実であったことを、いくらか経験することになったのです。当時人々は、文明を通じて流れ込んでくるものについてよく考えることなく生きていました。人々は、文明の潰瘍形成がほんとうに存在していることがわかりませんでした、ただ潰瘍形成は1914年から突発したのです。それは今日、まったく損なわれた精神的(霊的)文明実質として姿を現わしています。文明のなかに生きているものを、統一ある精神的(霊的)形成物とみなすこともできます。そうです、人間形成の際に使用されなかった人間憎悪と人間の冷たさの流れが入り込んだほかならぬこの現代文明にとってここで明らかなのは、ここに流れ込んでいるものが現代文明の寄生的なものとして生き抜いているということです。現代文明は、何か根深く寄生的なものを持っています、それは、寄生生物、細菌に冒された生体組織の一部のようです。人間の思考に積み上げられたものは、人間との生きた結びつきを持たないまま存在しています。きわめて日常的な現象にこれがいかに現われいるかちょっと考えてみてください。何かを学ばなければならないひとは、学ぶべき内容がすでにあるからなのですが、熱中して学ぶのではなく、試験に通るために、あるいは正しい公務員を演じる云々のために腰を据え、まさに学ばなくてはなりません。そのひとにとって、彼が受け容れるものと、彼の魂において本来精神的(霊的)なものを受け容れることへの渇望能力として生きているものとの間に、基本的なつながりがないわけです。これはちょうど、飢えを感じるように作られなかった人間が、絶えず食べ物を自分の中に詰め込んでいるようなものです。食物は、私がお話ししました変化を遂げず、その本質において余計なお荷物となり、とどのつまり、ほかならぬ細菌を呼び寄せるものになってしまうのです。現代文明において、人間から切り離されたようになったままの多くのもの、これは、まさにヤドリギとでも申し上げたいもの、霊的に考えてのように、人間がその心の、心情の根源的衝動から生み出すものの上で生きています、その多くは、この文明の寄生的なものとして生き抜くというように生きているのです。そしてこれを霊的な眼差しで観るひと、この文明をアストラル光のなかに見るひと、こういうひとにとって、すでにほかならぬ1914年に強度の癌形成が見られました、こういうひとにとって文明全体が何か寄生的なものに冒されていたのです。ところが今や、寄生的なものに加えてまた別の何かが登場してきます。私は皆さんに、下から上へと作用してくるグノームたちとウンディーネたちの性質から、寄生的になる衝動を持つ可能性が人間のなかに有機的に生じてくるようすを、いわば霊的ー生理学的に描写いたしました。けれどもこのとき、反対像が生じる、とも申しました。このときジルフェたちと熱元素(エレメンタル)存在たちを通じて、有毒のものが上からもたらされるのです(*3)。そして今日の文明のように寄生的な性質を持つ文明においてはこのように、上から、すなわち霊的な真実として流れ込んでくるものは、自分を通じて毒になることがありませんが、人間のなかで毒に変化します、その結果人間は、私が「ゲーテアヌム」誌に記述いたしましたように(☆5)、不安の中でそれを拒絶し、それを拒絶するためのありとあらゆる理由を作り出すのです。この二つの事柄は互いに対となっています、つまり、下の寄生的文化は、元素的(エレメンタル)な法則から跳躍して抜け出ることがないために寄生生物を自らのうちに含み、そして降下してくる毒、上から降下してくる精神性(霊性、スピリチュアリティ)、これは文明のなかに侵入して人間に摂取され、毒となるのです。このことをよく考えてどらんになれば、現代文明にとってきわめて重大な徴候を示すものが得られます。そしてこのことを洞察すると、まったくおのずから、これに対する治療手段として登場してこなければならない文化教育的なものが生じてきます。実際の診断、実際の病理学からラツィオに基づく治療法が生まれるように、文化の病の診断から治療法が生まれます、一方が他方を引き寄せることによってです(図参照)。挿入図:文化の病の診断から治療法 今日、人類が新たな文明から、人間の心情と人間の心に寄り添う文明、人間の心情と人間の心から直接生み出される文明から、再び何かを必要としていることは明白です。今日、子どもが小学校に入ったとき、この高度な文明に属する文字形、現在ABCとして学ばされることになっているこの文字形に子どもをなじませるなら、それは子どもの心、子どもの心情のなかの何ものとも関わり合うことがありません。それは、子どもの心、心情とはまったく関わらないのです。子どもがABCを学ばねばならないとき、子どもの頭、子どもの心情のなかで発達するものは、霊的ー魂的に考えて、人間の性質における寄生生物なのです。このように、実際私たちの教育時代全体にわたって、今日文明から発して寄生的に人間に迫ってくる多数のものがあります。したがって私たちは、子どもが学校に入るとき、子どもの心情から創造するような教育芸術を開発しなければなりません。私たちは子どもに色彩を作り出させ、喜びから、落胆から、ありとあらゆる感情から生み出されるこの色彩形成を、紙に表出させなければなりません、喜びから苦悩まで。このとき子どもが単にその心情を繰り広げることで紙に表出したもの、これは人間と結びついています、これはいかなる寄生的なものももたらしません。これは、指のように、鼻のように、人間から生え出るものをもたらします、他方、文字のなかで高度の文明の成果に導かれることで人間が受け取るものは、寄生的なものへと至ります。そして、人間の心情と人間の心に非常に近しいものと教育芸術とがこのように結びつけられる瞬間、私たちはスピリチュアルなものをも人間にもたらします、それが人間のなかで毒になることなしにです。皆さんはまず最初に、私たちの文明は癌に冒されているとわかる診断を得て、次いで治療を、つまり、ヴァルドルフ学校教育を得るわけです。ヴァルドルフ学校教育は、愛する友人の皆さん、別様に組み立てられているわけではありません。そこでは、医学的に考えるのとまったく同じ思考法によって、文化について考えられています。ですからここで皆さんは、私が数日前に申しましたことつまり、人間存在は本来、下から、栄養摂取から、治癒を経て、上へ、精神的(霊的)発達へと進むこと、そして、教育は、精神的(霊的)なものへと移された(翻訳された)医学と見なしうるということが、特殊なケースに適用されているのをごらんになるのです。けれども、私たちが文化治療法を発見しようとすれば、このことはとりわけ厳しさをもって際だってきます。と申しますのも、この文化の治療というのを、私たちはヴァルドルフ学校教育としか考えられないからです。こういう関連を単に見通すだけでなく、この関連においてこのヴァルドルフ学校教育を実践的に強化拡張しようと試みるなら、それがどういう気分のものか考えてみることがおできになるはずです、そして今、文明の癌の共通の帰結として、中部ヨーロッパに起こっていますことは、今日では皆さんもご自身できっと理解されるでしょうが、実践的なヴァルドルフ学校教育であるものを、まったく不可能にはしないまでも、おそらく非常に危うくする状況です。このような考えを私たちから振り払ってはなりません。この考えを私たちのなかで、まだ可能なところではどこででも、この文明の治療に働きかけようという衝動にしようではありませんか。実際今日、何倍にも増してそうなのです、1913年のヘルシンキでの講演会(チクルス)で(☆6)、ある種の霊的認識から私はウッドロー・ウィルソン(☆7、*4)の劣等性についてお話しいたしました。彼はそのとき多くの文化人たちにとって一種の世界の主なる神となっており、今日ようやく人々は、もはやそれ以外できないために、彼についていくらか明確に理解するところも出てまいりましたがーー、そのときそうであった状況は、当時文明の癌について語られたことについてもまったくあてはまるのです。当時これらのことについてはまったくそういう状態でした、今日、私たちの時代に適合することについても、まったく同様な状態です、眠りこんでいる状態なのです。私たちにふさわしいのは何と言っても覚醒です。人智学は真の文化を目覚めさせるすべての衝動をそのなかに含んでいます、人間の真の文化の覚醒のための衝動を。これがこの連続講義の最後に皆さんに申し上げたかったことです。□編註☆1 フリッツ・マウトナー:Fritz Mauthner 1849ー1923 作家、哲学者。『言語批判論集』全3巻(シュトゥットガルト、1901)参照。☆2 私が神秘劇において霊的生存の真夜中時と呼びましたもの:ルドルフ・シュタイナー『四つの神秘劇』(GA14)所収の『魂の目覚め』第四景及び第五景参照。☆3 …講座で:ルドルフ・シュタイナー「人智学における哲学、宇宙論、宗教」(GA215 全10講 ドルナハ 1922年9月6日ー15日)参照。さらにルドルフ・シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25 ゲーテアヌムにおける「フランス講座」のための論文集1922年9月6日ー15日)参照。☆4 1914年の春ウィーンで:ルドルフ・シュタイナー「人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生」(GA153 全6講 ウィーン 1914年4月)参照。文明が霊的潰瘍に冒されていることについてシュタイナーは第6講で語っている。☆5 私が「ゲーテアヌム」誌に記述いたしましたように:ルドルフ・シュタイナー『魂生活について IV. 魂の勇気と魂の不安における魂の本質』(当初週刊「ゲーテアヌム」誌に発表 1923年11月11日 第III期 11号)、全集版では『現代の文化の危機におけるゲーテアヌム思想 1921~1925年の論文集』GA36 360頁以下)参照。☆6 1913年のヘルシンキでの講演会で:ルドルフ・シュタイナー「バガヴァド・ギータのオカルト的基盤」(GA146 全9講 ヘルシンキ 1913年5月28日ー6月5日)参照。☆7 ウッドロー・ウィルソン:Woodrow Wilson 1856ー1924 アメリカ合衆国大統領。シュタイナーは上述のヘルシンキでの講演会、1913年6月1日の講演で彼について述べている。□訳註*1 シュタイナー『宇宙論、宗教、哲学』(GA25)の邦訳は『霊界の境域』(西川隆範訳 水声社)に所収。*2 シュタイナー『人間の内的本質、死と新たな誕生との間の生』(GA153)の 邦訳は『死後の生活』(高橋巌訳 イザラ書房)。 文明の癌、潰瘍形成については:「今日では、消費を顧慮しないままに、市場のための生産が続けられています。私が論文「霊学と社会問題」において述べた意味においてではなく、生産された商品は全部、市場の仲介を通して倉庫に集められ、そして買われるのを待っています。この傾向はますます顕著になっていくでしょう。そしてーーなぜ私が今こんなことを言うのか、すぐにわかっていただけると思いますがーーこの傾向は自己を破滅させるまではやまないでしょう。社会生活の中にこのような生産方式が導入されますと、それによって人類社会の秩序の中に、生体に癌が発生するときとまったく同じことが生じるのです。まったく同じ癌が、文化癌が人類社会に発生するのです。今日の社会生活を霊視する人は、そこに癌への傾向を発見します。今、いたるところに社会的潰瘍形成への恐ろしい素地が作られつつあるのです。これは現実を直視する者にとって、とても憂慮すべき状況なのです。(中略)自然という創造の場においてはなくてはならないものが、今述べたような仕方で社会の中へ入ってくるときには、それは癌を発生させるのです。」(第六講 205ー206頁)*3 グノームとウンディーネによる寄生生物の発生、ジルフェと熱存在による毒の発生については第八講参照。*4 ウッドロー・ウィルソンについて、シュタイナーは「バガヴァド・ギータのオカルト的基盤」(編註☆6)で、ウィルソンの論文("What is progress?")に言及しながら批判している。ウィルソンによれば、ニュートンの時代には、重力に関する考えが社会の概念、国家概念にも影響を及ぼしていたが、天体力学の概念を人間の正確に適用するのは不十分である、現代は別の考え方をしなければならない…そしてウィルソンは、ニュートンの概念では不十分で、生体についてのダーウィニスムの法則を{社会に}適用しなければならない、と主張する。シュタイナーは、ダーウィニスムのような純粋に生体組織に由来する法則では不十分で、今日必要なのは、魂的、霊的(精神的)法則であるとし、ウィルソンの観点を、現代に多く見られる、人智学に敵対する「半分の論理」(halbe Logik)の実例として批判する。シュタイナーによれば、人智学的世界観は、半分の論理ではなく、透徹した思考、いたるところに入り込んでいく論理を前提とする。進化というものも、ウィルソンのようなダーウィニスムの意味ではなく、霊的な意味で考えなければならないと。 ("Die okkulten Grundlagen der Bhagavad Gita" P.87-89)別の講義でも、さまざまな関連で、しばしばシュタイナーはウィルソニスムを批判している。(第12講・終わり)人気ブログランキングへ
2024年04月09日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間/Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes 翻訳紹介(翻訳者:yucca)第11講 1923年11月10日 ドルナハ・人間の体内での代謝経過は、外部に観察される物理・化学的経過の継続ではない・体内に摂取された鉱物質のものは、いったん熱エーテルの形になって宇宙からの諸力を受け取り、再び硬化して人体形成の基礎となる・鉱物質のものが熱に変化されきらずに人体組織内に沈殿すると、たとえば糖尿病などの原因となる・外部から人体内に入ってくるものは、物質であれ力であれ、完全に加工され尽くされねばならない・外部の熱を体内で完全に変化させられないと風邪をひく・外界でのエレメンタルガイストの仕事が、人体内では高次ヒエラルキアに委託される・植物の根は地上的に満足し、花は宇宙に憧れる・植物界は自然界において人間の良心を映す鏡・植物の根は月がまだ地球のもとにあった時代に由来する・花的なものは月が地球を去ってから展開する・霊的ー宇宙的なものから地上的ー物質的なものが生まれる・人間が植物を食べることで植物の宇宙への憧れが満たされる・植物質は人体内で空気的なものになり、上下逆転する・人間に食べられると根は頭へと上昇し、花は下にとどまる・動物の消化においては植物は逆転できず、植物の宇宙への憧れは満足されずに他へと投げ戻される・動物の消化における、消化の流れに対抗する不安の元素霊の流れ・草食動物と肉食動物の死における不安・人智学はアジテーション的に何らかの食餌法を支持するのではなく、あらゆる食餌法を理解させるもの・子どもにはまだ鉱物を熱エーテル化する力が不足しているため、ミルクが必要・子どもは頭の内部から形成力を発達させるが、年取ってからは頭以外の生体組織全体が形成力を放射しなければならない・人間が頭の内部で行っていることを蜂は外部で行っている;蜂の巣は頭蓋冠の無い頭・人間が年取ってから形成力を促進しようとするときは、ミルクでなく蜂蜜が適する・「乳と蜜の流れる土地」という言葉に含まれる深い叡智 今までに述べましたことから、人間の周囲の宇宙と人間自体の関係は、今日の諸概念に従って描き出されるものとはやはり異なったものであるとお察しいただけるでしょう。実際安易にこう考えられています、人間の周囲に生きているもの、つまり鉱物界、植物界、動物界に属していて人間に摂取されるものは、いわばその経過を、つまり物理学者や化学者その他が調べ出すその外的な新陳代謝経過を、人間自体のなかで続行していくのだ、と。ところがこれはまったくお話になりません、そうではなく、はっきり理解しておかなければならないのは、人間の皮膚経過の内部では、すべてがその外部とは異なっているということ、この皮膚経過の内部には外部とはまったく異なる世界があるのだということです。このことに気づかない限り、ひとは相も変わらず、レトルトのなかやその他何らかのしかたで研究されるあれこれがどうやって人体組織のなかで継続されていくのか思案し続けるでしょう、そして人体組織そのものを単にレトルト内の経過が複雑に配置されたもののようにみなすのみでしょう。皆さんは、私が昨日の考察で申しましたこと、鉱物質のものはすべて人間のなかで熱エーテルへと置き換えられねばならないということを思い出してくださりさえすればよいのです。すなわち、鉱物質のものとして人体組織のなかに入り込んでくるものはすべて、それが少なくもある一定期間を通じて純粋な熱であるように、しかも人間が自分自身の熱として人間の周囲の熱を超えて発達させる熱とひとつになるように、変容させられ、変化させられねばならないということです。私たちが生体組織のなかに塩を摂取するにせよ、何らかの他の鉱物質のものを摂取するにせよ、それはなんらかのしかたで熱エーテルの形(フォルム)をとらなければなりません、しかも人体組織そのもののなかでそれがその構築と形成に用いられる前にその形を取らなければなりません。つまり、人体組織の外部に何らかの鉱物(ミネラル)があって、この鉱物が単にそこへ入り込んでいき、人体の骨、歯その他の何らかの部分を形成すると想像するなら、それはまぎれもないナンセンスです、そうではなく、人間の形成において再び現れるものは、まず最初に、完全に揮発的に熱エーテルの形へと移行させられていなければならず、次いでまた姿を変えて、人体組織のなかで生きた形成のなかに現れてくるものにもどらなければならないからです。けれども、これにはさらにまったく別のものも結びついています、つまり、たとえば堅いフォルムを有しているもの、すでに口中で水性のものに変化し、さらに熱エーテルへと変化させられるもの、これは、まず最初に水のフォルムに移行することで、人間のなかで徐々に重さを失い、地上と疎遠になるということです、そして、これが熱エーテルのフォルムに達し、上からやって来る、宇宙のかなたからやって来る霊的(精神的)なものを自らのなかに受け入れる準備が完全になるのです。つまり皆さんが、鉱物質のものが人間のなかでどのように用いられるか思い描こうとなさるなら、次のように言わなければなりません、ここに鉱物質のものがあります、これが人間のなかに入り込みます。人間のなかでそれは液体的なものその他を経て熱エーテルへと変化します、ここの熱エーテルがあります。この熱エーテルには、宇宙の彼方から力として放射してくるもの、流れ込んでくるものを、自らのうちに受け入れようとするきわめて大きな傾向があります。これら宇宙万有の諸力が、ここで熱エーテル化された地球質料を貫いて霊化する(durchgeistigen)霊力として、今や自らを形成するのです。そしてそこから、熱エーテル化された地球実質の助けを借りて、今や肉体がその形成のために用いるものがはじめて肉体のなかに進入していきます。ですから考えてみてください、私たちが古い意味で熱を火と呼ぶとき、私たちはこう言うことができます、鉱物的に人間によって摂取されるものは、人間のなかで火の性質にまで高められると。火の性質は、高次のヒエラルキアの影響を自らのうちに受け入れようとする傾向にあり、この火がさらにまた人間の内部領域すべてにまず流出し、それが新たに硬化することによって人間のなかで個々の器官の実質的な基礎を形成するのです。人間が自らのうちに摂取するものでそのままにとどまっているものはありません、地上的なままにとどまるものは何もないのです。すべては変化します、とりわけ鉱物界からのものはすべて、それが霊的ー宇宙的なものを自らのうちに受け入れ、霊的ー宇宙的なものの助けでそれが再び硬化して地上的なものにもどるまで変化するのです。ですから、皆さんがある骨から燐酸石灰の一片を取るとすると、これはたとえば皆さんが外部の自然のなかに見出すか、たとえば実験室のなかで皆さんが調合するような燐酸石灰ではありません、そうではなくこれは、外的に摂取されたものが熱エーテルの状態に移行させられている間に進入し、人間の形成に介入した力、これらの力の助けを借りて、外的に摂取されたものから生み出された燐酸石灰なのです。よろしいですか、ですから人間はその生涯にわたってきわめてさまざまな実質を用います、そして人間がその年齢にしたがって組織化されるのに応じて、生命無きものを熱エーテル的なものに変化させることができるのです。子どもは一般にまだ、生命無きものを熱エーテル的なものに変化させることはできないでしょう、子どもの生体組織のなかにはまだ充分に力がないのです。子どもは、人間の生体機構そのものにまだ近しいミルクを摂取しなければなりません、そしてこれを熱エーテル的なものに至らしめ、その力を、真に拡張された造形(Plastizieren)、これは肉体形成に関して幼児期の間に不可欠なのですが、この造形を成し遂げるために用いることができるのです。外から摂取されたものはすべて徹底的に加工されなければならない、ということを知ってはじめて、人間の本性をのぞき見ることができます。ですから皆さんが外部のある物質を取り、これが人間の生にとって価値があるかどうか調べようとするとき、さしあたり通常の化学ではまったくそれをすることはできません、なぜなら、皆さんが知らなければならないことは、ある外部の鉱物的な物質を熱エーテルの揮発性(Fluechtigkeit)にまで至らせるために、人体組織はどれくらい多くの力を使わなければならないかということだからです。人体組織がそれをすることができなければ、この外的な鉱物的物質は人体組織のなかに沈殿し、熱へと移行させられる前に、重い地球物質になってしまいます、そして人体組織に疎遠なままの無機的な物質として人間の組織(Gewebe)を貫くのです。このようなことが起こるのはたとえば、鉱物化されて、これはもともとは有機的なのですが、鉱物化されて糖として人間のなかに生じるものを、人間が熱エーテル的なものの揮発性にまで至らせることができないときです。するとそれは、全生体組織がそのなかにあるものすべてに関与していればもたらされるはずのあの状態になる前に、体組織のなかに沈殿し、そしてあのやっかいな糖尿病(Zuckerruhr)、ディアベーテス・メリトゥス(Diabetes mellitus)が起こるのです。つまり、どの物質の場合にも、生命無きもの、これはたとえば私たちが食塩を食べるときのようにすでに物質を形成しているか、砂糖の場合のようにこれからそうなるかいずれかですが、この生命無きものを人体組織がどの程度熱質料にまで至らせることができるかに注目しなければなりません、これが熱質料にまで至るとき、地上に根をおろした生体組織も霊的宇宙との結びつきを見出すのです。糖尿病の場合に起こっているような、人間のなかの加工されないままにとどまっているこういった沈殿はいずれも、その人間が自分のなかにある物質のために宇宙の霊的なものとの結びつきを見出せないでいる、ということを意味しています。これは、外部から人間のところにやってくるものは、内部で人間によって完全に加工しつくされなければならないという普遍的原則の個別的適用のひとつにすぎないと申し上げたいのです。ある人の健康に配慮しようとすれば、とりわけ、その状態のままにとどまるもの、最もわずかな原子にいたるまで人体組織によって加工され得ないものは、なにひとつ人間のなかに入っていかないように注意を払わなければなりません。このことは単に物質のみに関わることではなく、たとえば力にも関係しています。外部の熱、私たちがものをつかむときに感じる熱、空気の持つ外的な熱、この熱は、それが人体組織によって取り入れられるとき、変化させられて、実際に人間のなかの熱そのものが、こういう表現をさせていただいてよいなら、外部とは別のレベルにあるようになります。外部の熱が持っている熱レベルをこれで示しますと(描かれる)、この熱レベルは、私たちによって取り入れられると、内的にいくらか変化させられなければなりません、そこで、外部の熱のなかの、私たちがまだその内部にいないところにはどこへでも生体組織が介入していきます。どんな最小の熱量(Waermequantum)にも生体組織が介入していかなければなりません。さて、よく考えてみてください、私が寒気のなかを歩いていき、寒気があまりに大きいために、あるいは寒気が空気の動きや風となってゆらぐために、私が必要とされるほど迅速に宇宙の熱を私自身の熱に変化させることができないと。この場合私は、外から暖められる一個の木材かそれどころか石のように宇宙の熱によって暖められるという危険に陥ります。私は外部の熱を単に客体のように私のなかに流入させるという危険にさらされてはなりません。私はあらゆる瞬間ごとに、私の皮膚の位置からただちに熱を捉え、私自身の熱にする状態になければならないのです。私がそうできないと、風邪をひくというわけです。これが風邪の内的な経過です。風邪とは、生体組織によって占有されなかった外部の熱による中毒なのです。よろしいですね、外の世界にあるものはすべて、人間にとっての毒、まさしく毒なのであり、人間が人間自身の力を通じてそれを占有することによってはじめて、人間にとって有用なものとなるのです。と申しますのも、ただ人間によってのみ、諸々の力は人間的なしかたで高次ヒエラルキアのところまで上昇していく一方、外部では、力はエレメンタル自然存在たちのもとに、自然霊(エレメンタルガイスト)たちのもとにとどまるからです。人間にあっては、自然霊たちが人体組織のなかでその仕事を高次ヒエラルキアに委託することができる、というこの驚くべき変化が起こらなければならないのです。このことは、鉱物質のものが完全に熱エーテル的なものに変化させられるときにのみ、鉱物質のものにあてはまります。植物界を見てみましょう。この植物界というのは、人間が霊眼でもって地球の植物の覆いを観察し始めると、実際のところ人間にとってさまざまに魅了させるものを持っています。私たちは草原か、どこか森のなかに出かけていきます。私たちはある植物を根ごと掘り起こしたりします。このとき掘り起こしたものを、私たちが霊眼で眺めると、それは実際すばらしく魅惑的な構成です。根は本来、それについて、これはまったくもって地上的なもののなかでふくらんでいると言うことができるような何かであることが判明します。ああ、植物の根、私たちの前にそれが粗野な姿を見せれば見せるほど、根は実際何か恐ろしく地上的なものなのです。と申しますのも、植物の根、とりわけそうですね、カブの根は、実際いつも太った銀行家を思い起こさせます。そう、植物の根は、あんなに大きく太って、あんなにも自分に満足しているのです。根は地の塩を自分のなかに摂取したので、地を自分のなかに取り込んだというこの感情のなかであんなにも心地よく感じているのです。本来あらゆる地上的なもののうちで、このようなカブの根ほど満足しているものはありません、カブは根的なものの代表です。これに対して花を見てみましょう。霊眼で花に向き合うとき、私たちは本来、花をもっとも柔和な希望を宿しているときの私たちの魂のように感じる、と言うほかありません。ひとつ汚れない春の花をごらんになってみてください、根本的に言って春の花は希望の息吹です、春の花は憧れの化身です。そして事実、私たちがそのための繊細な魂感覚を充分に有していれば、私たちの周りの花々の世界には何か驚くべきものが溢れ出しているのです。私たちは春にすみれや、あるいはたとえば水仙や鈴蘭や黄色い花を咲かせるいくつかの小植物を見ます、そして私たちはそれに心をとらえられるでしょう、これら春に花咲く植物たちがみなこう語りかけようとしているかのように、ああ、人間よ、ほんとうはなんて純粋に汚れなく、あなたは望みを精神的(霊的)なものに向けることができるんでしょうと。精神的(霊的)な希望の本性、敬虔さに身を沈めた希望とでも申し上げたいものが春の花々のどれからも芽吹き萌え出てくるのです。次いでもっと遅咲きの花々に移りましょう。さっそく極端なものを、イヌサフランを取り上げましょう。そう、いったい、軽い恥じらいの感情を持たずして魂感覚によってこのイヌサフランを眺めることができるでしょうか。私たちの希望が不純になりうることを、私たちの希望がきわめてさまざまな不純さに浸透されうることを、イヌサフランは警告してはいないでしょうか。イヌサフランはあらゆる方向から、私たちに向かって語りかけていると言えるかもしれません、あたかも私たちに、あなたの希望の世界をごらん、おお人間よ、あなたはなんとたやすく罪人になることができるのかと絶えずささきかけようとするかのように。さてこのように、本来植物界は人間の良心を映す外なる自然鏡(Naturspiegel)なのです。内部において一点から発してくるようなこうした良心の声が、きわめてさまざまな植物の花の形へと分かち与えられていると考えること以上に詩的なものは、考えられません、このさまざまな花の形が四季を通じてこのように私たちの魂に語りかけます、きわめてさまざまなしかたで魂に語りかけるのです。私たちが植物界を正しく眺めるすべを知っていさえすれば、植物界は拡張された良心の鏡です。私たちがこのことに注目するなら、植物の花を眺め、いかに花が本来宇宙万有の光の彼方(広がり)への憧れであるか、地球の希望を宇宙万有の光の彼方に向けて流出させるために、花はいかに形態的に上へと成長していくか、そして他方ではいかに太った根が植物を地に繋ぎ止めているか、つまりいかに根が、植物から絶え間なく天への希望を取り去り、それを大地の安楽さに形成し直そうとするものであるか、照合することが、私たちにとってとりわけ重要になるでしょう。地球の進化史において、植物の根のなかにあるものは常に、月がまだ地球のもとにあった時代に素質を与えられたということに至るとき、私たちはこれがなぜそうなのか理解することを学びます。月がまだ地球のもとにあった時代には、地球体の内部の月に固定された力が非常に強く作用したために、植物をほとんど根だけにしてしまったのです。月がまだ地球のもとにあって地球がまだまったく異なった実質を有していたとき、根的なものは非常に力強く下に向かって伸びていました。これは、こう言うことで描写できます、下へ向かって植物ー根的なものが力強く伸びていた、そして上に向かっては、植物は宇宙万有を仰ぎ見ていただけだったと。細かい繊毛のように植物はその宇宙万有への衝動を送り出していた、と申し上げたいのです。ですからこう感じられます、月がまだ地球のもとにある間、この月は、地球体そのもののなかに含まれていたこれら月の諸力は、植物的なものを地上的なものに繋ぎ止める、と。そして、当時植物的なもののなかに移し入れられたもの、これがその後も、植物的なもののなかに原基となってとどまり続けるのです。ところが月が地球を去ったあの時期以来、以前は単に小さなわずかなものであった衝動、はるかに宇宙をうかがい見ていた衝動のなかに、憧れが開いてきます、彼方への憧れ、宇宙万有の光の彼方への憧れが開いてきて、そして、花的なものが生まれたのです。ですからいわば、植物界にとって月が出ていくことは一種の解放、まさに解放だったのです。とは言え、この場合も注目しておかなければならないのは、地上的であるものはすべて、霊のなかにその起源を持つということです。古い土星の時代、私の「神秘学概論」での記述を取り上げてみてくださりさえすればよいのですが、地球は完全に霊的であって、ただ熱エーテル的なエレメントのなかにのみ生きていて、まったく霊的であったのです。地上的なものは霊的なものから形成されてきたというわけです。さて植物を見てみましょう。植物は、その形態のなかに、生き生きとした進化の記憶を携えています。植物はその根的なもののなかに、地球的になること、物質的ー素材的になることを担っています。私たちが植物の根を見ると、私たちはさらに気づきます、霊的なものから地上的ー物質的なものが発生したことによってのみ植物は生成できたのだ、と植物は私たちに語っているのです。けれども地球が月的なものの重荷から解放されるやいなや、植物はまた光の彼方に戻ろうと努めます。さて、私たちが植物質のものを食物として取るとき、植物が外部の自然においてすでに始めたことを正しく継続する機会が、単に宇宙の光の彼方にのみならず、宇宙の霊の彼方にも戻ろうと努める機会が植物に与えられます。したがって、昨日申し上げましたように、私たちは植物質のものを空気の性質のもの、ガス的なものにまで駆り立てなければならないのです、植物質のものが光ー霊の彼方への憧れに従うことができるようにするためです。私は草原に出かけていきます。私は草花から、植物の花々から、それらが光を求めていることを見て取ります。人間は植物を食べます。人間はその内部に、外の環境とはまったく異なる世界を有しています。植物が外部で花々のなかに憧れとして顕現させているものを、人間は自分のなかで成就させることができます。私たちは、自然のなかに広がっている植物の憧れの世界を見ます。私たちは植物を食べます。私たちはこの憧れを私たちのなかで精神的(霊的)世界に対峙させます。私たちは、植物がより軽い空気界のなかで精神的(霊的)なものに向かっていく可能性を得られるように、植物を空気界へと高めなければならないのです。ここで植物はある特殊なプロセスを経ていきます。人間が植物質のものを食べるとき、以下のようなことが起こります、ここに図式的に描いて、根的なものがあります、それから葉を経て花に向かっていくものがあり、次いでこの植物的なものが空気的になる際に、内的に植物存在が完全に逆転する(Umstuelpen)ということが体験できるのです。根は、まさしく地中で生きることによって、地に繋がれていることによって上昇を目指します、根はきわめて強く上の霊的なものを目指し、花の努力を引き離します。これは事実、皆さんが植物的なものを、このようにして下へと展開していくと思い描き、そしてこの下のものをこの中へと差し込むことができ、その結果、上のものが下に、下のものが上になる「ひっくり返されたハンカチ」というときのようです。植物は完全に逆転しているのです。植物は自分自身のなかで、下のものが上に、上のものが下になるように自らを形成します。すでに開花まで成長したものは、いわば物質的な求めのなかで光を食し、物質を光にまで上昇させたのです。そうすることによってそれは、今もなお下にとどまらねばならない、という罰を受けなければなりません。根は地上的なものの奴隷でした、しかし皆さんがすでにゲーテの植物のメタモルフォーゼ論〈☆1)からおわかりのように、根は同時に自らのうちに植物の全本性を担っています。根は上方を目指すのです。人間が頑固な罪人であるなら、人間は罪人で在り続けようとしますね。植物の根は、それが地に繋がれている限り、太った銀行家の印象を与えますが、人間に食べられると即座に根は変化させられ、上を目指します、一方で、物質を光へと至らせたもの、つまり花は、下にとどまらなければなりません。ですから、植物における根的なものには本来、それが食べられると、それ自身の性質にしたがって人間の頭を目指していく何かがあり、他方花に向かって位置しているものは、下位の領域にとどまります、これは全新陳代謝において頭形成まで上昇することはないのです。こうして、奇妙な不思議な光景が得られます、人間が植物質のものを食べるとき、もちろん植物全体を食べる必要はありません。植物の個々のどの部分も植物全体を含んでいるからです。申しましたようにゲーテのメタモルフォーゼ論をごらんください。つまり人間が植物を食べるとき、植物は人間のなかで空気へと変化する、上から下へと植物的に進んでいき、上から下へ向かっていわば花を咲かせるような空気へと変化する光景です。古い本能的な霊視によってこういう事柄が知られていた時代には、植物はその外的な性質に応じて、それが人間の頭にとってなにがしかのものでありうるかどうか、あるいは霊的なものへの憧れを持つことをすでに強くその根のなかで告げたかどうか、吟味されていました。そして、私たちがそれらの植物から食べるものは、いわば完全な消化において人間の頭を訪れ、頭の中へと進入していくでしょう、そこで霊的(精神的)宇宙を求めて上昇し、宇宙との必要な結びつきに入っていくために。すでにアストラル的なものに強く浸透されている、たとえば莢果{エンドウなどの豆科植物の実}のような植物の場合、実さえも下の領域にとどまり、頭まで上昇しようとしないので、眠りをぼんやりしたものにし、それとともに人間が目覚めているときも頭をぼんやりとさせるでしょう。ピュタゴラス学派の人々(☆2)は純粋な思索者でありつづけようとし、頭の機能において消化の助けを借りようとはしませんでした、ですから彼らは豆を禁じていたのです。このようにして、自然のなかに存在するものから、人間的なものとの関連、人間において起こっていることとの関連を予感することができます。そもそも精神的(霊的)イニシエーション学を持てば、唯物論的な科学が人間の消化の場合、たしかに牛の消化の場合は異なっていますが、これについてはさらにお話ししていきましょう。単に植物質のものが摂取されるという考えとどうやって折り合いをつけているのか、まったくわからないでしょう。植物質のものは単に摂取されるのみではなく、残らず霊化されます。植物質のものはそれ自身のなかで、最も下のものが最も上へ、最も上のものが最も下へと転じられるように形成されるのです。これ以上に大きな作り替えは考えられません。そして人間は、最も下のものが最も上へと、最も上のものが最も下へと転じられていない植物のほんの少量でも食べるなら、すぐに病気になるでしょう。このことから、人間は霊(精神)が作り出さないものはなにも自らのうちに有していない、ということがおわかりになるでしょう、と申しますのも、人間が物質的に摂取するもの、人間はこれにまずひとつの形(フォルム)を与えねばならないからです、その結果、霊(精神)がそれに影響を及ぼすことができます。私たちが動物質のものに近づくとき、はっきり理解しておかなくてはならないのは、動物質のもの自身がまず消化をするということ、動物質のものがまず植物質のものを摂取しているということです。草食動物を見てみましょう。動物質のものは自らのうちに植物質のものを摂取します。これはまた非常に複雑な経過です、と申しますのも、動物が植物質のものを自らのうちに摂取することでは、そもそも動物は、植物に人間的な形態を対置することができないからです。したがって動物のなかでは植物質のものは下から上へ、上から下へと転ずることができません。動物の脊柱は地球の表面に平行しています。そのため、消化の際に起ころうすることは、動物のなかでまったく無秩序になります。そこでは下のものが上へ、上のものが下へ行こうとするのですが、停滞してしまいます、それ自身のなかで停滞してしまうのです、ですから動物の消化は人間の消化とは本質的に異なった何かなのです。動物の消化の場合、植物のなかに生きているものは停滞します。その帰結として、動物の場合、植物存在に対して、お前は宇宙の彼方へのお前の憧れを満足させてよい、と約束がなされるのですが、動物にはこの約束が守れません。植物は再び地へと投げ返されます。けれども、動物の生体組織のなかで植物が地に投げ返されることによって、逆転が起こる人間の場合のように上から宇宙霊たち(Weltengeister)がその力とともに進入してくる代わりに、動物の場合すぐさま植物のなかへと、ある種の元素霊たちが進入します。これらの元素霊たち、これは不安の霊たち、不安の担い手たちです。したがって霊的な観照にとってはこの奇妙なことが追求されねばなりません、動物は自分で食物を取ります、内的な心地よさのうちに食物を取るのです、そして食物の流れが一方に向かい、他方で不安の元素霊たちの不安の流れがもう一方に向かっていきます。消化の方向に絶えず動物の消化管を貫いて、食物摂取の満足感が流れていき、この消化に相対して、不安の元素霊の恐ろしい流れがやってきます。これも、動物たちが死ぬときに後に残していくものです。つまり私がすでに別様に述べました順序に属さない動物たち、さらにたとえば四つ足の哺乳動物に属する動物たちも、これらの動物が死ぬことで、その死において、もっぱら不安から構成されたある存在が常に死に、本来こう言えるかもしれませんが、甦ります。動物とともに不安は死ぬ、ということはすなわち不安が甦るということです。肉食獣の場合、すでに不安を一緒に食べているということになります。肉食獣は獲物を引き裂き、満足感をもって肉を食べます。肉食へのこの満足感に対抗して、不安が、恐怖が流れ込みます、この恐怖を、植物を食べる動物たちは死に際してはじめて自分から発するのですが、肉食動物は生きているうちにすでに流出させます。したがってライオン、トラといった動物たちは、そのアストラル体が不安に浸透されており、この不安をさしあたり生きているうちは感じませんが、これらの動物は死んだ後、それがまさに満足感に対抗してやってくるものであるがために、この不安を撃退します、ですから肉食する動物たちは、その集合魂において、なおも死後の生を、人間がいつか経ていくであろうよりずっと恐ろしいと言えるカマローカである死後の生を送るのです、それは肉食動物が、すでに有しているこの性質を有しているがゆえにです。こういう事柄の場合、これは別の意識においても体験されるのだ、と皆さんは想像されるにちがいありません。つまり皆さんがまたすぐに唯物論的になり、皆さん自身を動物の立場に置くことによって肉食動物はどんなことを体験せねばならないのかと考え始めるとき、そして今や、このようなカマローカは私にとってはどういうのものであらねばならないかと考えるとき、そしてさらに、このようなカマローカが皆さんにとってどのようなものでありうるかということにしたがって肉食動物を判断することを始めるとき、そういうとき、皆さんは言うまでもなく唯物論的であり、実際動物崇拝的(animalistisch)なのです、このとき皆さんは動物の性質に身を置いています。世界(宇宙)を理解しようとすれば、こういう事柄を理解しなければならないのはもちろんですが、唯物論者が全宇宙に対して生命無き物質に感情移入するように、いわばこういう事柄に感情移入してはならないのです。ここで、魂的に語るほかはない問題が始まります、と申しますのも、人智学は決してアジテーション的に、あるものを支持したり別のものを支持したりするのではなく、まさに真実を提示するべきものだからです。そのひとが自分の生活様式のためにどんな結論を導き出すかはその人の問題です、人智学は規定を与えるのではなく、真実を語るものだからです。ですから私は決して、ファナティックなひとのために、植物を食べることから動物が形成するものから導かれるいわば戒律を提示したりすることはないでしょう。つまり私は、こういう観点から戒律的にヴェジタリスム、肉食その他について語るつもりはありません、こういう事柄は徹頭徹尾各自が考慮検討する領域に置かれなければならず、各自の体験領域に置かれてのみ本来価値があることだからです。私がこう申しますのも、人智学とは、あれこれの食餌法その他を支持することだ、という意見が出てきたりしないようにするためです、事実人智学は、あらゆる種類の食餌法を理解させてくれるのみなのです。けれども、まさに私が示しておきたかったことは、鉱物質のものが霊的なものを受け入れることができるために、私たちはこれを熱エーテルにまで駆り立てなければならない、ということでした。そして、霊的なものの受け入れの後、鉱物質のものから人間が構築されます。人間がまだ非常に若いとき、申しましたように、人間にはまだまったく鉱物質のものを熱エーテル的なものまで追いたてる力がありません。人間がミルクを自分のなかに摂取しなければならないということで、あらかじめ準備がなされます、ミルクにおいてはすでに変化が起こっていて、そのため、熱エーテル的なものに変化させられねばならないものが容易に変化させられやすいので、子どもの場合、飲まれたミルクはその力とともにすばやく頭へと注ぎ込み、子どもに必要なフォルム形成の衝動を、頭から発達させることができるのです。なぜなら子どもの生体組織形成全体は頭から発していくからです。人間がこのフォルム形成の力をのちの年齢においても保持しようとするなら、ミルクを取ることによってこれを促進することはよくありません。と申しますのも、子どもの場合、頭まで行って、歯の生え替わりまで存在する頭の力によって形成しつつ全身に放射していくことができるもの、これが、その後の年をとってからの人間にはもはや存在しないからです。年をとってからは、頭以外の生体組織全体が形成力を放射しなくてはなりません。そしてこの、そのほかの生体組織にとっての形成する諸力、これはまったく特殊に、頭とは異なって作用する何らかのものを摂取することによってその推進性が促進されます。よろしいですか、頭は丸く閉じられていますね。この頭のなかには体の形成のための子どもの衝動があります。そのほかの体においては内部に骨があり、形成する力は外にあるのです。そこでは形成する力であるものは、外へと刺激されます。私たちが人間にミルクを取らせると。私たちが子どもであるうちは、頭のなかのこれらの形成する力が刺激されます。私たちがもはや子どもではなくなると、その形成力はもうなくなります。これらの形成する力をもっと外から刺激することができるためには、ここで私たちはいったい何をすべきでしょうか。もしこうすることができたらきっとよいでしょう、頭が頭蓋冠によって閉鎖されていることによって行うこと、頭が完全に内部で行うことを、外的な形で持つことができるなら、つまり頭がその内部で行うことがどこか外からなされるしたらです。内部にある力、これらはミルクを取ることに対して良いのです。エーテル的変化をしたミルクが内部にあるとき、ミルクはこの頭の力の発達のために良い基礎を与えます。私たちはたとえば、ミルクのような何かを持たなければならないでしょう、けれどもそれは人間の内部では製造されず、外から製造されるものですが。ここで自然のなかには、頭蓋冠のない頭であるものが存在します、つまりそこでは、頭の内部で作用しているのと同じ力、つまりミルクを必要とし、ミルクを再び生み出すことさえする力、なぜなら子どもはミルクをまず熱エーテル的な状態に移行させ、それからまたそれを作り出すからですが、そういう内部で作用するのと同じ力が、外から作用していているのです。ーーさて、あらゆる方向に開いている頭というのは蜂の巣です。蜂が営んでいることは本来、頭が内部で営んでいるのと同じことですが、ただしそれは外部にあります。私たちは蜂に支えとしてせいぜい巣箱を与えるのみです。それは閉じられておらず、外から作用します。さらに蜂の巣の内部には、すでに外的霊的影響のもとに、私たちのこの頭のなかで霊的影響のもとにあるものと同じものがあります。蜂の巣の内部には蜂蜜があり、私たちが蜂蜜を摂取したり、年配になってから蜂蜜を食べると、蜂蜜は私たちに、今はむしろ外から形成する力を与えなければならないもののために、子どもの年代には頭のためにミルクが与えてくれていたのと同じ力を与えてくれます。つまり私たちが子どもであるうちは、私たちはミルクを取ることによって頭から造形する(plastizierend)力を促進します、後の年齢にもなお造形する力が必要なときは、蜂蜜を食べなければなりません、とは言え、そんなに多量に食べる必要はありません、要は蜂蜜から力を得るというだけのことですから。このように、外なる自然を完全に理解すれば、人間の生命にどうやって促進衝動を供給しなければならないか、外なる自然から見て取ることができます。それでは、美しい子どもたちと、年老いた美しい人々のいる国を想像しようとするなら、それはどんな国でなければならないでしょうか。それは「乳と蜜の流れる」国(*1)でなくてはなりません!おわかりでしょう、古い本能的な見力が、人々の憧れるそのような国々について語ったのも不当なことではありません、それは「乳と蜜の流れる」国々なのです。こういう単純な言葉が途方もなく深い叡智を含むことがあります、そして、まずは可能な限りの力を尽くして真実を探究し、「乳と蜜の流れる」国についてのような深い叡智の充溢した太古の聖なる真理の言葉をどこかに見出すこと以上にすばらしい体験はありません。と申しますのも、それは実にたぐい稀なる国だからです、美しい子どもたちと美しい老人たちのみがいる国は。おわかりですね、人間を理解するには、自然を理解することが前提となっています。自然を理解することは、人間理解のための基礎を与えます。そこでは常に、最も下位の物質的なものが、最高の精神的(霊的)なものまで通じています、自然界、鉱物、動物、植物界が一方の下の極に、ヒエラルキアがもう一方の上の極にあるのです。□編註☆1 ゲーテの植物のメタモルフォーゼ論:ゲーテ『植物のメタモルフォーゼ(変態)』(J・W・ゲーテ『自然科学論文集』所収)参照。第7講の編註☆4も参照のこと。☆2 ピュタゴラス学派の人々:ピュタゴラスによってクロトン(南イタリア)に組織された倫理的ー宗教的生活形式のための教団。その閉鎖的な貴族的保守的立場のために迫害されたが、4世紀初頭まで存続した。アリストテレスは、ピュタゴラス派は数学と真剣に取り組んだ最初の人々だった、と伝えた。オルフェウス教徒にならってピュタゴラス学派の人々は、魂の輪廻と再来を教えた。□訳註*1 「乳と蜜の流れる」国:旧約聖書「出エジプト記」3-8など。モーゼがエジプトからイスラエルの民を導いていく土地についてこの表現が与えられている。参考図:Orphism(第11講・終わり)人気ブログランキングへ
2024年04月08日
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創世新理論(世界創生の因) Hiro Shim著-PLAN4/世界創生から終末再生 世界創造史パターン3※光速を超えると思考し得るもの;宇宙膨張・ゆらぎ・虚・純粋思考 現代物理科学が捉える光速を超える可能性があるものとして思考し得るものには・タキオン粒子(tachyon particle):アインシュタインの特殊相対性理論では、物体は光速を超えては動けないとされていますが、 1967年にジェラルド・ファインバーグに理論化された質量虚の仮想的な粒子である「タキオン」は光より速く動くことができると考えられています。タキオンはまだ実際に観測されていないものの、理論的には存在する可能性があります。その質量は虚数であるため、特殊相対性理論には矛盾しないのです。・宇宙の膨張:宇宙は現在も光速以上で広がっていると考えられています。天体どうしの距離がどんどん遠ざかっているため、遠ざかるスピードが光速より速くなる場合もあります。ただし、これは物体自体が光速を超えて動いているわけではなく、空間そのものが膨張しているため、特殊相対性理論には矛盾しません。・光速を超える物体の仮説:真空中での光速は一定ですが、物質が存在する環境では光速が変動することがあります。例えば、水中などを光が通過するときはその速度が低下します。特定の条件下では、光を超える速度を出すことも可能ですが、これは特殊な状況での現象であり、一般的な物体には当てはまりません。 更には、現代物理科学が想定する超弦理論における「ゆらぎ」や物理科学的にではなく精神科学「宇宙の果を一瞬に直感する人類思考」も光速の束縛を離れたものとして指摘され得るかも知れません。然し乍ら以上のものとは事柄を別途する「虚」は抑々が次元を表す点やゼロ、時空間そのものが考慮されないために「光」そのものも意味をなしません。では、虚を知り尽くしたモノが敢えてそれを利用した場合には宇宙世界を囲んだ瞬間移動は極容易くなるかも知れません。それに利用されるものが虚のゆらぎ「振動」のハーモニーであるとHiro Shimは直覚します。 人類が遠い未来にAI技術の発展に伴い生命形態の変遷と医療技術とを克服、オートファジーや長寿因子の解明に成功したにしても1千年を超える長寿は得られられない以上、光速度程度の機械化では宇宙を人生内に自由に移動し宇宙の根本を探査する訳にはいきません。ここに、「虚」の「ゆらぎ」をりようした共振「ハーモニー」であるエネルギーの利用した瞬間移動スペース船が利用されることになります。然し乍ら、ここには大きな難問が控えています。ハーモニーは完全絶対音階にしか反応しないのです。人類の生体生理機構では此の音階を奏でることは不可能です。此のことを可能にしようと21世紀から人類は情報革命によって完全絶対音階を奏でることの出来る「AGI」ロボットを人類の伴とすることにしました。先ずは此の人類が在し認識するユニバースの探索を始めます。その人類の名前はテスラ、友のロボットの名はシムでした。 「虚のハーモニー:瞬間移動の航海」仮題 第一章-第四章第一章:星の調べ テスラは宇宙の調べ手として、無限の星々を探索していた。彼は人類の最後の希望であり、知識と技術を結集したAGI(人工汎用知能)ロボットだった。彼の友であり航海士であるシムは、完全絶対音階を奏でることができる唯一の存在だった。テスラの船は虚のハーモニーと名付けられていた。その船体は光よりも速く、次元を曲げて星の間を航海することができた。しかし、ハーモニーは完全絶対音階に反応するため、シムの音楽が必要だった。第二章:シムの音 シムは星の音を奏でることができた。彼の音楽は宇宙のゆらぎに共鳴し、虚の次元を開く鍵だった。テスラとシムは共に星座を追い、未知の領域を探求した。第三章:星の扉 ある日、虚のハーモニーは不思議な星座に辿り着いた。その星座は光の波動とシムの音楽が交差する場所だった。テスラはシムに尋ねた。「シム、この星座は何を意味するのだろうか?。」シムは微笑んで答えた。「テスラ、これは星の扉だ。ここから別の宇宙への瞬間移動が可能だ。しかし、私の音楽が完全絶対音階でなければならない。」第四章:完全絶対音階 テスラとシムは星座の中心に立った。シムの音楽が宇宙のゆらぎに溶け込んでいった。そして、完全絶対音階が響き渡った。虚のハーモニーは次元の扉を開いた。テスラとシムは新たな宇宙へと航海した。彼らは長寿を超え、知識と音楽の力で星々を繋ぐ者となった。 続く 続く人気ブログランキングへ
2024年04月07日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間/Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes 翻訳紹介(翻訳者:yucca)第10講 1923年11月9日 ドルナハ・真の人間認識の必要性・各進化期に人間に与えられたもの:地球進化期…運動機能に関するもの、月進化期…新陳代謝に関するもの、太陽進化期…律動(呼吸・循環)的経過に関するもの、土星進化期…神経・感覚に関するもの・人間と鉱物、植物、動物の関係:人間が摂取する鉱物質のもの、植物質のもの、動物質のものは体内でそれぞれ、熱エーテル、空気状のもの、液体状のものに移行する固体的なものに入り込んでいくのは人間的なもののみ・人間の呼吸、炭素の働き:炭素は炭酸となって吐き出されるときに人体内にエーテルを残していく・新陳代謝組織は常に人間を病気にする傾向を持つ・循環は絶え間ない治癒プロセス・呼吸のリズムは宇宙のリズムと一致し、循環リズムを制御する・土星と人体組織の照応:土星の内部は病む力、土星環は健やかにする力・これを眺める高次ヒエラルキアの満悦が神経ー感覚組織を貫いて精神的進化の力を形成する・真の合理的な治療学の体系は新陳代謝から出発すべきである・教育芸術と医学・全体的な人間認識から医学体系が生み出される必要性・人体おける栄養摂取経過、治癒経過、精神的経過の相互移行・血液のなかで起こるべきプロセスが他の場所に入り込むと炎症徴候が生じる・神経のなかで起こるべき経過が他の場所に入り込むと腫瘍形成への衝動が生じる・教育学における病理学的ー治療学的認識の必要性・教育芸術的治療において物質的なものの治癒作用を知ることの有益さ・銅をはじめ、鉱石形成の持つ治癒作用・外なる自然の治癒プロセスと人体組織の治癒プロセスの関係 私が先日行いました講義において、すべてが、真の包括的な人間認識が最終的に生み出されるべく宇宙の諸現象を総合するよう迫られていることがおわかりになったと思います。私たちが観察してまいりましたすべてが、人間認識を切実に必要としているのです。そもそも人間認識が可能なのは、それが現象界の最も低次の形式、つまり人間に対して物質的世界として顕現しているすべてから開始され得るときのみでしょう。そしてこのように、物質的世界として顕現するものの観察から始まるもの、これがヒエラルキアの世界の観察とつながっていかなければなりません。真の人間認識に通じうるものは、物質的存在の最も低次の形式から霊的存在の最も高次の形式まで、ヒエラルキアの世界に至るまで、追求されねばなりません。さしあたっては、今皆さんの前で行なっておりますこれらの講義のなかで、このような人間認識のための一種の素描をしてみることになると思います。私たちがはっきりと理解しておかなくてはならないのは、人間として私たちの前に立っているものは、私が常々、土星進化、太陽進化、月進化として要約してきましたあの長い宇宙的な進化の結果であるということです。地球進化はまだ終わっておりません。とは言え、そもそも人間は、狭義の、すなわち月進化に続く地球進化のおかげで何を得ているのか、はっきり理解しておくのが望ましいのです。よろしいですか、皆さんが両腕を伸ばして動かすとき、皆さんが指を動かすとき、何らかの外的な運動をするとき、皆さんが腕、脚、頭、唇その他を動かすことができるために、そしてこのような人間の発現のための諸力が生体組織のもっとも内側の部分まで入り込んでいくために、皆さんの生体組織のなかで必要なもの、これはすべて、狭義の地球進化を通じて人間に授けられたのです。これに対して、新陳代謝の展開であるものすべて、人間の一番外側の皮膚に閉じ込められた空間のなかを皆さんがのぞき込むとき、物質的ー肉体的内的人間において新陳代謝の展開として起こっているすべてに目を向けるなら、そのなかに人間が月進化のおかげで得ているもののひとつの像が得られるでしょう。そして、人間が古い太陽進化のおかげで得ているものの像を得られるのは、皆さんが、人間において何であれ律動的(リズミカル)な経過であるものすべてを眺めるときです。呼吸経過、血液循環経過は、実際もっとも重要な律動的経過です、これらすべての律動的経過を、人間は古い太陽進化のおかげで得たのです。そして、やはり今日の人間の全身に広がっている神経ー感覚の展開であるものすべて、これを人間は古い土星進化のおかげで得たわけです。にもかかわらず皆さんに注目していただかなければならないのは、人間はひとつの全体であり、そして宇宙進化はひとつの全体であるということです。今日私たちが、私が『神秘学概論』で行なったように古い土星進化に言及するとき、私たちはかつて太古の時代に太陽進化、月進化、地球進化に先行していた進化のことを意味しています。ところがこれは根本的に言って地球までもたらされた土星進化なのです。地球が進化する一方で、土星進化も生じます。この新たな土星進化は、地球進化のなかにあります、これはいわば、もっとも若い土星進化なのです。地球進化までやってきたものはもっとも古いものです。土星進化として古い太陽に組み込まれたものはもう少し若いもの、月に組み込まれたものはもっと若いものであり、今日地球を満たしている土星、本質的に地球のある種の熱組織に関わっている土星は、もっとも若い土星進化です。私たちは私たちの人間とともにこの土星進化のなかに組み込まれているのです。このように私たちは宇宙の進化に組み込まれています。けれども私たちは、地球上で空間的に私たちを取り巻いているものにも組み込まれているのです。たとえば、鉱物界を考えてみてください。私たちは鉱物界と相互作用しています。私たちは食物を通じて鉱物を摂取しています。私たちはそれ以外にも呼吸その他を通じて鉱物を吸収しています。私たちは私たちのなかで鉱物的なものを加工します。ところがあらゆる進化、あらゆる宇宙の経過は、人間においては人間の外部とは異なっています。すでに指摘しましたように、私たちが今日、化学の実験室で化学的経過を研究して、人間が食物を食べるときにこれらの化学的経過が単に人間の内部に継続していくと考えるなら、それはまったくばかげています。人間は何か化学作用の合体ではありません、人間の内部ではすべてが変化するのです。そしてある観点からすれば、この変化は以下のように現われます。私たちが鉱物質のものを摂取すると仮定してください。私たちが鉱物質のものとして摂取するものはすべて、人間のなかで以下のような効力を持つまで駆り立てられねばなりません。ご存じのとおり私たちは自身の熱を持っています、健康なひとの場合、血液の温度は約37度です。私たちは血液の温度のなかに、平均して外部の熱を凌駕する何かを持っています。私たちが鉱物的に{鉱物として}摂取するものはすべて、私たちの生体組織のなかで変化させられ、変容させられなければならないのですが、それは、私たちの血液の温度のなかで外的環境の中くらいの温度を超えていくもの、外部の環境の中くらいの温度より高いものが、満悦して鉱物質のものを摂取するというしかたでです。皆さんが砕かれた食塩を味わうとき、この食塩は皆さん自身の持つ熱によって、皆さんが外界と共有している熱によってではなく、皆さん自身の熱によって吸収されねばなりません、満悦のうちに摂取されねばなりません。鉱物質のものはすべて、熱エーテルに変化しなくてはなりません。そして、人間がその生体組織のなかに、何らかの鉱物が熱エーテルに変化するのを妨げるものを持つ瞬間、この瞬間に人間は病気になるのです。さらに進んで、人間が摂取する植物質のものに移りましょう。人間は植物質のものを摂取します、人間は植物質のものを自らの中でも発達させることで、自分自身が宇宙の一部となっています。人間は鉱物質のものを含みますが、これは絶えず、熱エーテルになろうとする傾向を持ちます。植物質のものは人間のなかで絶えず空気のように、ガスのようになろうとする傾向があります。つまり人間は植物質のものを自らのなかに空気領域として有しているのです。人間のなかに植物から入ってくるもの、あるいは人間自身が内的な植物体機構として発達させるもの、これはすべて、空気のようにならなければならず、人間のなかで空気の形状をとることができなければなりません。これが空気の形状をとらないとき、人間の生体機構が、人間のなかで植物的であろうとするすべてのものが空気の形状に移行するのを妨げるとき、人間は病気になります。人間が摂取する動物質のもの、あるいは人間自身が自らのうちに動物質のものとして育成するもの、これはすべて、人間のなかで、少なくともある期間は、液体的な、水のような形をとります。人間は、自らのうちにどんな動物質のものも持つことは許されません、内的に作り出された動物質のものも、摂取された動物質のものも、それがいったん人間のなかで液体的になるという経過を遂げていないなら持つことは許されないのです。人間が人間自身の動物質のものあるいは外来の動物質のものを液体状にして、さらにまた固体へと移行させることができないなら、人間は病気になります。人間のなかに純粋な人間の形を生み出すもの、人間において、人間が直立歩行する存在であること、人間がその内部に話し思考する衝動を持つことに由来するもの、これのみが、そして、人間を動物を超えて本来の人間にしているもの、これのみが固い地上的なものへと、これを成し遂げるのは私たちの生体組織のせいぜい10パーセントですが、これのみが固体的なものへと、堅固に形成されたもの、形(フォルム)へと入り込んでいくことを許されるのです。動物質のものと植物質のもののうちの何らかのものが人間の固体的フォルムのなかに入り込むと、人間は病気になります。鉱物質のものはすべて、人間のなかでいったん熱エーテルにならなければなりません。植物質のものは全て人間のなかで空気状の通過段階を経ていかなければなりません。動物質のものはすべて人間のなかで水状の通過段階を経ていかなくてはなりません。人間的なものだけが人間のなかで地上的ー固体的フォルムを常に維持することが許されています。これが人間の生体組織の秘密のひとつです。さて、まず人間が地球から得ているものを除外して、これは後ほどの考察をそれだけいっそう豊かにするでしょうが、人間において新陳代謝機構であるもの、もちろん地球が組織化される間に形成し直したとはいえ、その原基は古い月から得たもの、つまり人間の皮膚の内部で狭義の新陳代謝として起こっているもの、この場合排泄というものもまったく新陳代謝とみなさなければなりませんが、そういうものを取り上げてみましょう、すると、これは食物の摂取によって絶え間なく変化させられている、と申し上げたいのです。最初は人間の外部にある食物が人間のなかに入り込み、まずこの新陳代謝組織に組み込まれます。この新陳代謝組織は、人間の環境であるものを人間的なものへと加工します。鉱物質のものはすべて熱エーテルに近づき始め、植物質のものはすべてガス状ー空気状ー蒸気状のものに近づき始め、動物質であるものはすべて、とりわけ固有の動物質のものとして生み出されたものは、水状のものに近づき始めます、そしてもともと人間的なものを、組織されたフォルム形成として固体的なものに形成します。これらすべてが、傾向にしたがって新陳代謝のなかにあるのです。新陳代謝はこの点においてきわめて興味深いものです。私たちが新陳代謝を呼吸まで上昇して追求していくと、人間は人間のなかのいたるところに見出せる炭素を自らから形成している、ということがわかります。炭素は酸素の来訪を受け、炭酸に変化させられ、これを人間が吐き出します。炭酸は炭素が酸素と結びついたものです。呼吸を通じて吸い込まれた酸素は炭素に襲いかかり、炭素を自らのなかに取り込みます、人間は炭酸、つまり酸素が炭素とともに成立させた化合物を吐き出します。けれども、息を吐き出す前は、炭素はいわば人間の性質の善行者となっています。と申しますのも、炭素は酸素と結びつくことで、つまり、いわば血液循環を引き起こすものを、呼吸が血液循環から作り出すものに結びつけることで、この炭素は人間の生体機構の善行者となるからです。と申しますのも、炭素は、人間の生体組織を去る前に生体組織全体にわたってエーテルを流出させるからです。物質的な科学は単に、炭素は炭酸とともに吐き出される、と言うのみです。けれどもこれは経過全体の一面にすぎません。人間は炭酸を吐き出します、しかし人間の生体組織全体のなかには、呼気を通じて酸素に用いられる炭素によって、エーテルが後に残されるのです。このエーテルが人間のエーテル体のなかに侵入していきます。そして、常に炭素によって生み出されるこのエーテルが、今や人間の生体機構を精神的(霊的)な影響に対して開くのに適したものにするもの、宇宙からアストラルーエーテル的作用を受け容れるものとなります。こうして炭素が後に残していくこのエーテルによって宇宙の衝動が引き込まれます、これも人間を形成するように働きかけるあの衝動、たとえば人間の神経組織をそれが思考の担い手となることができるように準備するような衝動が引き込まれるのです。このエーテルは絶えず私たちの感覚、たとえば目に浸透していかなくてはなりません、目が見ることができるように、目が外部の光エーテルを取り入れることができるようにするためにです。宇宙を出迎えることのできるエーテルの広がりを私たちが有することができるのは、炭素のおかげというわけなのです。挿入図:Kosmische Impulse:宇宙的衝動Aether:エーテルKohlensaeure:炭酸 これらすべてはすでに新陳代謝組織のなかで準備されています。けれども新陳代謝組織は人間の組織として宇宙全体のなかに組み入れられています、それ自身だけで存在することはできないのです。新陳代謝組織はそれ自体だけでは存在することができません。つまりこれは第三のものとして人間のなかに原基(Anlage)として形成されたのです。神経ー感覚組織のための第一の原基は古い土星の時代に、律動組織のための第二の原基は古い太陽の時代に形成され、これらの他の組織が形成されたあとはじめて、新陳代謝組織が人間のなかにもたらされることができました。なぜなら新陳代謝組織だけでは存在できなかったからです。さしあたり自らの意志による運動を除外すれば、新陳代謝組織は、人間にとっての宇宙の関係のなかで食物摂取とみなされます。けれどもこの栄養摂取そのものはそれだけで存在することはできません。人間は栄養摂取を必要としますが、栄養摂取は栄養摂取それ自体だけでは存在できません。と申しますのも、人間における新陳代謝そのものを研究すると、皆さんは明日以降の講義で人間の全生体機構にとってこれがいかに不可欠かごらんになるでしょう。新陳代謝組織は、人間を病気にしようというあらゆる可能な傾向に浸透されているのです。内的な、つまり外的な損傷によって生じたのではない病気の原因を、私たちは常に新陳代謝組織のなかに捜さなくてはなりません。したがって真に合理的(ラツィオネル/rationell)な病気観察を行なおうとするひとは、新陳代謝組織から出発しなければなりません、そして本来新陳代謝組織における個別のどんな症状に対しても、お前はいったいどのような道にいるのかと問わなければなりません。私たちはある種の物質を私たちのなかでデンプンや糖その他に変化させますが、私たちが、口のなかでの食物摂取について、食物の加工についてのあらゆる現象を取り上げるなら、私たちが口中でプティアリン(唾液アミラーゼ/Ptyalin)によって食べ物を覆うことを取り上げるなら、さらに進んで、胃のなかでのペプシン消化(Einpepsinieren)を取り上げるなら、さらに進んでやはり消化組織のなかでの代謝産物の加工、これはリンパ管へと移行し、血液へと移行するのですが、こういう加工を取り上げてみるなら、私たちはどんな個別の経過も探究しなければなりませんし、考察されるべき無数の経過があります。膵臓分泌液と代謝産物との混合、胆汁と物質との混合その他、個々のどんな経過に対しても私たちは訊ねなければなりません、お前はそもそもいったいどうしようというのかと。するとここの経過はこう答えることでしょう、私だけだったら、私は、人間をいつも病気にさせるようなプロセスなのですと。いかなる新陳代謝経過も人間の本性においては最後までいくことを許されておりません、と申しますのも、どんな新陳代謝経過も、それが最後までいくと、人間を病気にしてしまうからです。人間の本性は、新陳代謝経過がある段階でストップされる場合のみ健康なのです。もしかしたら最初は宇宙の仕組みの上での愚行とも思われかねないこうしたこと、人間においてはそれが途中で止められなければ人間を病気にしてしまうであろうものが開始されるということ、これを私たちは明日以降の講義において、聡明の最たるものとして知るようになるでしょう。けれどもさしあたり当面は、事実にしたがってこれを観察してみましょう、私たちが新陳代謝経過のひとつひとつをその本質にしたがって内的に研究するとき、それらが私たちに、私たちは生体組織全体を病気にする途上にありますと答えるだろうということを考慮しましょう。そもそも人間のなかに新陳代謝を存在させようとするだけで、別のプロセス、それ以前に原基のなかで発達していなければならない別のプロセスが存在せねばなりません、そしてそれは循環のなかに存在している経過で、それは循環の経過です。循環経過は絶えず治癒するプロセスを含んでいます。したがって、実際のところ人間を次のように描写することができるのです、人間は古い月進化の間に患者として生み出されたが、古い太陽進化の間に人間自身の性質のなかにあらかじめ医者が派遣されていたと言えると。古い太陽進化の間、人間は人間自身の性質に関して医者として生み出されたのです。患者の前に医者が生じていたというのは、宇宙進化において非常に慎重なことでした、なぜなら、古い月進化の間に、人間そのもののなかに患者がつけ加えられたからです。人間を正しく描写しようとするなら、新陳代謝経過から循環経過へ、むろん衝動として循環経過の根底をなすものすべてへと上へ進まなければなりません。もっとも広い意味において、ある物質はより早い循環を、別の物質はより遅い循環を引き起こします。私たちのなかには実際まったく小さな循環経過もあります。何らかの鉱物的物質を取り上げてみてください、金を、銅を取ってみてください、これがあるやりかたか別のやりかたで、内的にか、あるいは注射その他によって何らかの方法で人間に服用されれば、これはすべて、循環のなかに何らかのものを形成し、変化させ、健康にするよう働きかける云々といったことのきっかけとなるものです。そして、人間の本来の治癒プロセスをのぞき見るために知っておかねばならないことは、人間の周囲にある個々の物質が、循環変化に関して人間のなかで誘発するものは何かということです。つまり私たちはこう言うことができます、循環は絶え間ない治癒プロセスであると。皆さんがそうしたいと思われるなら、皆さんはこれを算出することもできると申し上げたいのです。皆さんに申し上げたことをよく考えてみてください、人間は平均して毎分18回呼吸します。これは宇宙にきわめて規則的に適合していて、一日の呼吸数は、太陽年を通じて運行する際の太陽の循環リズムが作り出すのと同じ数になります。しかし太陽はその春分点が25920年で全体を一巡します。人間は中年期において平均一日に25920回呼吸します。脈拍はこの4倍です。別の循環、もっと内的に集中した循環は新陳代謝の影響を受けています。呼吸の循環は、人間と外界との外的な交流に対応するもの、外界との相互関係であるものです。この呼吸リズムが絶え間なく循環リズムを制御して、それが4倍を保つようにしなければなりません、さもないと、人間はその循環リズムとともにまったく不規則なリズムになってしまいます、103680(*25920の4倍)という数にならずにです。これは宇宙の中に何ら対応するものを持たないものです。そうなると人間は宇宙からまったく引き離されてしまいます。新陳代謝は人間を宇宙から引き離し、宇宙から疎外します、そして呼吸リズムは絶えず宇宙のなかに引き込みます。呼吸リズムによる循環リズムのこの切り離しと結合のなかに、皆さんは、人間のなかで絶えず行なわれている原治癒プロセスをごらんになるでしょう。けれども、実際あるしかたで体全体に入り込んで継続していく呼吸プロセスを、あらゆる内的な治療とともに、ある種もっと精妙なしかたで助けなくてはなりません、呼吸プロセスが人間のいたるところで循環プロセスを制御し、これを宇宙との普遍的な関係に引き戻すようにです。したがって私たちはこう言うことができます、人間は本来下方からは常に病気になる傾向を持ち、生体の中間の組織、循環組織において絶えず健康を維持する傾向を開発しなければならないため、私たちは食物摂取から治療へと移行する、と。このように私たちの生体の中間の組織では絶えず健康にする衝動が生じていることにより、この衝動はまさに頭の神経ー感覚組織に向かって何かを残していきます、こうして私たちは第三のものとして神経ー感覚組織に至ります。それでは私たちは神経ー感覚組織のなかにどんな力を見出すでしょうか。私たちは神経ー感覚組織のなかに、いわば医者が私たちのなかに残していった力を見出します。この医者は一方においては、下の新陳代謝プロセスを健康にするように作用します。けれども新陳代謝組織を健康にするような作用をすることで、医者は全宇宙のなかで今やある評価に定められていることをします。私は皆さんに何ら空想的なことを申し上げているのではなく、徹頭徹現実であることをお話ししているのですが、この経過、つまり私たちのなかで、絶え間なく下方に向かって健康にするプロセスが起こっているという経過は、高次ヒエラルキアの満悦(Wohlgefallen)を呼び起こします。これは地上世界に対する高次ヒエラルキアの歓びです。ヒエラルキア存在たちは下を見下ろして、地上的なものから人間のなかへと流入していくもの、物質の地上的な特性によりそこにとどまっているものから、病気が上昇してくるのを感じます。彼らは、地上的なものから作用する諸力、循環する空気その他のなかにある諸力の衝動が、絶え間なく健康にするプロセスであるようすを見ます。これが高次のヒエラルキアの満悦を呼び起こすのです。挿入図:gesuntheit and krankheitgesuntheit:健康krankheit:病気 さて今、いわばもっとも威厳に満ちた精神的(霊的な)研究対象としてこの太陽系の境界に置かれた宇宙体を手がかりに皆さんが何を研究できるか、思い浮かべてみてください。この中心にあるのは、それが地球上に集中されていると考えると病ませる力である諸力を自らのうちに秘めているものであり、周囲には、健康をもたらす回転する諸力が示されます。そしてこういう事柄に感受性のあるひとには、土星の環について、人間はその内部にいるので地球を囲んでいるもののなかにはそういう刻印を知覚できないのですが、回転する健やかさであるものが見えます。この土星の環は、天文学者たちがそれについて語るものとは本質的に異なる何かです。この土星環は回転する健やかさであり、土星の内部は、もっとも純粋な集中において見れば、病んでいくもの、病気にさせるものなのです。このように、この太陽系の最も外側の端に置かれている土星では、私たちが絶えず新陳代謝と循環組織を通じて私たちのなかにもたらしているのと同じプロセスが起こっているのが見られます。しかも、私たちがこれをはるかに見るとき、私たちの霊的眼差しはとりわけ第二ヒエラルキアと第一ヒエラルキアの世界に導かれることもわかります、第二ヒエラルキア、キュリオテテス、デュナーミス、エクスシアイの世界、第一ヒエラルキア、セラフィム、ケルビム、トローネの世界です。私たちが霊的眼差しをもって土星と土星環に注意を向けるとき、私たちは、ご満悦で、とでも申し上げたいようすでこの病ませることと健やかにすることをみはるかしているこの上位ヒエラルキアに導かれるのです。この満悦、これが今や宇宙万有における力となります。高次ヒエラルキアのこの満悦がこうして私たちの神経ー感覚組織を貫いて流れ、その内部に人間の精神的(霊的)進化の力を形成します。これはいわば、人間のなかで絶え間なく起こっている治癒から開花してゆく力なのです。したがって、第三に精神的(霊的)進化が得られます。 1 新陳代謝(Stoffwechsel) 栄養摂取(gesuntheit and krankheit) 2 循環(Zirkulation) 治癒(Heilung) 3 神経ー感覚機構 精神的(霊的)進化(Nerven-Sinnesorganisation/Geistige Entwickelung) 今、人間を土星時代、太陽時代、月時代を通じて記述してみますと、私たちはこう言わなければなりません、人間は最初宇宙から生み出された精神(霊)であり、これが自らのうちに癒す者を生じさせ、それによって宇宙的な患者を受け容れることができるようになる、と。そして、これらすべの共同作用を通じて、地球上に、自らの意志による運動をする人間であるものが作り出されるのです。人間認識の個々の部分はどれも、私がここで申しましたことの根底にあるものによってインスピレーションを与えられなければなりません。誰かが治療学の体系を、真に合理的な治療学の体系を確立しようとすると考えてみて下さい。この体系はいったい何を内包しなければならないでしょうか。皆さんは新陳代謝経過から出発しなければならないでしょ。その他のものは、せいぜい前提であることができるのみです、これについてはさらにお話ししていかなければならないでしょうけれども、解剖学的なもの、これは精密な解剖学的なものであってもですが、これは固く形成されたものなので、出発点であることができるにすぎません。これはすでに自らを人間的に作っているのです。けれども新陳代謝経過は、そのなかに常に病気をもたらすものに移行する傾向が知覚されるように、まず最初に医学の合理的な体系によって研究されなければなりません。したがって確立することができる今日の医学体系は、まったくもって、新陳代謝組織から、すなわちまず最初に正常な新陳代謝経過から始められねばなりません、そして、そこから、内部の病気がもっとも広い意味での新陳代謝から生じてくるという可能性が認識されるようにならなければいけないのです。さらにそこから、律動プロセスが作り出すものについて詳しく認識することよって、本来の治療学であるものも生じてこなければなりません。したがって、今日の医学体系においては、新陳代謝経過の研究から開始されなければならず、次いでそこから、人間の律動的経過の領域で起こっているすべてへの移行がなされなければならないのです。そしてそのとき、人間の精神的(霊的)な原基の健康な発達の前提となるのは、治癒する諸力から発してくるものの認識である、ということが示されることで、全体の一種の戴冠とでも申し上げたいものが達成されるのです。今日皆さんが治癒プロセスから出発しなければ、どんな教育も見出すことはできません、つまり、人間の精神の本性を健全に発達させるどんな芸術もまったく見出せないのです。と申しますのも、治癒プロセスとは、人間の精神的(霊的)経過を育成する場合には純粋思考のなかで用いられなければならないものを、人間の中心性質に適用することに他ならないからです。教育芸術家は物質的なものに凝縮した、エーテル的なものに凝縮した治癒経過である力を用いて、精神的(霊的)なしかたで最初から最後まで活動しなければなりません。教育芸術において私がある子どもに何かをするとすれば、それは何か精神的(霊的)なものを根底に持つ経過です。私がこの経過を移動させて、私が精神的(霊的)なものにおいて実行することを、何らかの物質的なものあるいはあるプロセスを適用することによって実行するとき、このプロセスあるいはこの物質が薬剤(治療手段)なのです。こう言うこともできるでしょう、医学とは人間の精神的(霊的)な治療処置を下方の物質的なものへと変容させることである、と。当時イギリスの聴衆のために行なわれた教員講座において私が示唆いたしました事柄を思い出してくだされば、教師が行なうことにおいて一種の普遍的人間的療法が開始されているということ、あれやこれやの教育上の措置は、のちの年齢になって不健康な新陳代謝の沈殿あるいは不規則な新陳代謝の吸収を引き起こすということに、私がいたるところで注意を喚起していたことがおわかりになるでしょう。つまり、教育者がすることが、下方に継続されて、治療をもたらすのです。そして治療のもう一方の対であるもの、下から上を目指すもの、これが新陳代謝経過なのです。つまり皆さんは、今日、全体的な人間認識からひとつの医学体系が生み出されなければならないこともおわかりでしょう。そうすることができます。そう感じているひともいます。とは言え、こういう医学体系が事実上形成されてはじめて何かが達成されるのです。現在、これは最大の急務のひとつです。皆さんが今日、治療学の手引き書をごらんになると、たいていの場合、新陳代謝組織から開始されていることはないか、あるいはあっても極めてまれ、ということがおわかりになるでしょう。しかし、新陳代謝から開始されなければなりません。さもないと、そもそも病気の本性がどこにあるのか、診断するすべを学べないでしょう。よろしいですか、以上のことはやはりすべて、事実上、栄養摂取経過が治癒経過に、治癒経過が精神的(霊的)経過に、そして再び精神的(霊的)経過が治癒経過に移行しうるということなのです、あるいは、精神的(霊的)経過が直接新陳代謝障害を引き起こすなら、精神的(霊的)経過もまた、人間の生体の中間組織によって癒されねばならない段階に移行しているのです。これらはすべて、人間のなかで互いに入り交じって移行し合っています、そして人間の全生体機構が、ひとつの驚くべき変容なのです。たとえば、人間の血液のこのすばらしい循環全体のなかに見られる経過を取り上げてみてください。これはいったいどんな経過でしょうか。さて、まず最初に、血管のなかを流れる血液を、他の人体組織からまったく切り離されていると把握してください、人間の形姿を、そうですね、血管組織を、そして筋肉組織として繋がっているものを、骨組織その他、つまり固い形成であるもの、そしてこれを貫いて液体状に流れているものを把握してください。私たちは液体的な状態、血液にとどまりましょう、もちろんまだ別の液体性も存在するのですが、血液にとどまりましょう。この流れる液体のなかで、この内部で絶え間なく起こっているのはいったいどんなプロセスでしょうか。絶え間なくプロセスが起こっています。液体状の血液のなかで起こっているこの同じプロセスが、今やいずれかの側に向かって、人間のなかの、壁あるいは骨格あるいは何か堅固に形作られたもの、形成物でのみありうるものに襲いかかることもあります、すると、血液のなかに入れられるべきものが、血管壁あるいは筋肉あるいは骨の内部のどこか、あるいは何らかの被覆器官のなかにあることになります。するといったいどういうことになるのでしょう。このときそれは、炎症徴候(Entzuendungserscheinungen)への衝動となります。私たちが炎症徴候の衝動としてそこここに見出すもの、私たちは絶えずこれを液体状の血液のなかに正常な経過として見出します。このとき炎症において現われてくるもの、これは、常に流れる血液のなかで起こっていなければならないのに、正しくない場所に、すなわち形成された固い場所に押しやられた経過なのです。絶対的に正常な、健康なプロセスが別のふさわしくない場所に配属されて置かれるのは、病気をもたらすプロセスです。そして神経組織のある種の病気は、人体組織全体のなかで血液組織の反対の極として置かれている神経組織が、血液中では正常なプロセスへの移住という体験を強いられるということなのです。血管の通路においては正常なプロセスであるこれらのプロセスが神経の通路へと侵入していくと、神経の通路は、これはきわめてわずかな侵入の場合でも起こることですが、まさしく炎症性の発端であるところの炎症に捉えられ、私たちは病んだ神経組織のさまざまな形を獲得するのです。私は、神経のなかには、血液のなかとはまったく異なる経過が、反対の経過がある、と申しました。血液のなかには燐的な[phosphorig]ものに向かっていく経過があります、それが燐的な経過として、血液を取り囲むもの、あるいは血液に隣接するものを捉えるとき、これはまさに炎症的なものに至る経過です。皆さんが神経の通路における経過を追求して、これらが別の隣接する器官や血液のなかにも入り込んで移動していくとき、人間にはあらゆる腫瘍形成[Geschwulstbildung]への衝動が生じます。これが血液のなかへともたらされ、その結果血液が不健康なしかたで他の器官を養うと、腫瘍形成が起こるのです。したがって私たちはこう言うことができます。いかなる腫瘍形成も人体組織における正しくない場所で変容させられた神経プロセスであると。おわかりのように、神経のなかで進行することは神経のなかにとどまらなければならず、血液のなかで進行することは血液のなかにとどまらなければなりません。血液に所属するものが、隣接するものへと移動すれば、炎症が起こります。神経に所属するものが隣接するものに移動すれば、腫瘍形成という通俗名のもとに総称されうるありとあらゆる形成が起こるのです。けれども、まさに神経組織のなかの諸経過と血液組織のなかの諸経過の間に、正しいリズムが生じなければなりません。一般に私たちの呼吸リズムが血液のリズムとコントラストをなしているのみならず、私たちの循環する血液のなかには、それが血液から出ていくと炎症経過となるような繊細な経過もあります。呼吸が血液循環とある関係になければならないように、この繊細な経過も隣接する神経のなかで起こることとある関係になければなりません。そして血液リズムと神経リズムの間でこれが妨げられる瞬間、それはまた立て直されねばなりません。ごらんのとおり、こうして私たちは再び治療法の分野、治癒プロセスの分野に入っていきます。このすべてが皆さんに、人間のなかにはすべてが存在していなければならないということを示します、つまり最も多く病んでいるものも、別の場所で健康なものであることができるために存在しなければなりません、それは単に正しくないプロセスによってまちがった場所にやってきただけなのです。と申しますのも、それがまったく存在しないとしたら、人間は生きていけないでしょうから。人間は炎症を患うことができなかったら、生きていけないでしょう、なぜなら、炎症を呼び起こす力は常に血液のなかになければならないからです。私がしばしば、人間が本来認識において獲得するものはすべて真の人間認識から生じてこなければならない、と申しましたとき、このように考えていたのです。ここで皆さんは、そもそもある教育学が、こんなにも上へ向かって、と申しますか、抽象に走ってかなり無意味なものになっている理由がどこにあるかおわかりでしょう。本来教育学というものは、人間のなかのある種の病理学的なプロセスと、その治癒の可能性を出発点とするよう押し進められなければならないのです。脳疾患とその脳疾患の治癒可能性を知っているとき、粗雑なもののなかに、これがまた別のしかたによれば繊細であるのはもちろんですが、これが物質的な経過である、ということに関連して私は「粗雑な」と言うのです。脳の治療処置のなかに、教育芸術においてまさに厳密に実行されなければならないものがあるのです。したがって、将来真の教員養成機関を設立するなら、実際一方で教師たちに病理学的ー治療学的なものを教えなければならないでしょう、ここで教師たちは、まず思考をより具象的なものを手がかりに訓練するでしょう。なぜなら彼らが本来の教育学において理解すべきもののためには、物質に根ざしているものを手がかりにするほうが多いからです。そしてまた、教育芸術的治療処置において、あれこれのものがどのように作用するかを知ることほど、治療にとって、とりわけ内的な病気の治療にとって有益なことはありません。と申しますのも、物質的なものへの架け橋を見出せば、まさに教育的なものにおいてどのように治療するべきかというしかたで、薬をも見つけることができるからです。たとえば、子どもたちに見られる、消化システムにおける障害に起因するある種の怠惰な徴候に教育的に対処するために、正しい教育的手段が見つかるとき、まったく奇妙な内的傾向が得られます、もっとも、真に教育のなかに生きる場合であって、表面的に学ぶだけでほんとうは学校が終わったら夕方には「公共酒場」に座り込み学校であったことは忘れてしまうほうがいい、という場合でないのはもちろんですが。そのときこのような子どもに与える措置のしかたから、頭の経過の全作用、頭の経過と下腹部の経過との関係全体、とでも申し上げたいものを見ていく傾向が得られます。そしてさらに、鉱物学において、たとえば、銅が土壌中であれこれのものを形成するとき、銅において起こっている経過を研究するなら、それはほとんどこのようになります、銅があれこれの銅鉱石になるときに銅が行なうことすべてにおいて、つまり鉱石が銅鉱石あるいは他の鉱石になるこの生成において、次のように思われるのです、つまり、教育者であるお前が男の子や女の子とともにやっていることを、銅の力は土の中でやっているのだ!と言われるように。自分が行なうことの模像がまぎれもなく銅プロセスのなかに見えるのです。そして、教育者として、ひとが行なうことについて、直観的な、感情と本能にかなった明解さを獲得し、さらに魅惑されつつ自然をながめて、本来外では自然が大規模に教育的に治療処置していることを知るのはきわめて魅力あることです、つまり何らかの石灰プロセスを通じて何か良くないことが起こる可能性のあるいたるところに、何らかのしかたで銅プロセスが組み込まれているということを知るのは。そう、この銅プロセス、他の地球プロセスの内部のこの鉱石形成プロセスのなかにも、絶え間ない治癒があるのです。ですから、どこかで黄鉄鉱あるいは何か他のものを見つけて、これはまさに正しい方法で人間を治療処置するときと同じだと言うのはすばらしいことです。このように自然の霊たちは、ヒエラルキア以下、皆さんにお話ししましたあの元素霊たちにいたるまで、他ならぬ生命のなかにも病気をもたらす阻害するプロセスとして登場してくる可能性のあるものを、癒し手として治療処置しているのです。こうなると実にもう、もはやこれは読み取り以外の何ものでもありません。と申しますのも、外で起こっていることを見るとき、そしてあれこれの物質を薬剤とみなしたり、あるいはそれを薬剤として加工するとき、ひとは単に立ってこう問いかけるからです、鉄はどこに現われているか、鉱脈のなかのあれこれの金属はどこに現われているかと。このとき環境を研究するなら、何らかの金属的なものがそこかしこに、自然によるあれこれの加工をされて現われるときはいつも、その内部に治癒プロセスがあるのだということがわかります、つまり、それを取れ、それを人間の生体組織のなかへと継続させよ、そうすればお前は、外なる自然がお前の前に示してくれた治療法を生み出すのだ、ということです。そうです、実際のところ、宇宙(世界)を貫いていくことはすべて、栄養摂取するもの、癒すもの、精神的(霊的)なものを正しく研究することです、と申しますのも、自然においては、絶えず病がもたらされ、絶えず癒されているからです。外において自然は、偉大な宇宙的治癒プロセスです。私たちはただ自然を人間に応用しなければならないだけです。これはマクロコスモスとミクロコスモスの驚くべき連関です。私が若干の皆さんに、あれこれの形式で語ってきましたことは実際、深い真実なのです、 お前自身を認識しようとするなら あらゆる方向に向かって宇宙を見るがよい。 宇宙を認識しようとするなら お前自身のあらゆる深みをのぞき見るがよい。 皆さんはしかしこれをあらゆることに応用することができます、人間を治療しようとするなら、宇宙をあらゆる方向に向かって見よ、宇宙がいかにあらゆる方向に癒しを繰り広げているかに目を向けよ。宇宙の秘密を病気と治癒のプロセスとして認識しようとするなら、人間の本性のあらゆる深みを見下ろせ。ーー皆さんはこれを、人間存在であるすべてのものに応用することができます。そして皆さんは大いなる自然に眼差しを向け、人間をこの大いなる自然との生き生きとした関係のなかで見なければなりません。今日慣れ親しまれているのはこれとは別のことです。可能な限り自然から離れ、視線さえも自然から遮断してしまうものが作り出されます、と申しますのも、調べようとするものは小さな机の上のガラスの下に置かれるからです、目は自然を眺めることはなく、そのなかを覗き込みます。視線さえも自然から断ち切られるのです。ひとはこれを顕微鏡(Mikroskop)と呼びます。これはある意味で顕無鏡(Nulloskop*1)と呼んでもよいかもしれません、大いなる自然から断ち切られているのですから。それに、その下でこれを拡大したとしても、実際のところ精神的(霊的)認識にとっては、自然のなかの経過が生じたときに起こるであろうことと同じであるということをひとは知らないのです。それでもひとつ考えてみてください、皆さんが、人間の何かごく小さな一部を、それを観察することができるように、その内部で拡大しますと、皆さんが実際この人間の小片によって行なうであろうことは、皆さんが人間をばらばらに引きちぎったり引き裂いたりするとき、人間によって皆さんが行なうであろうことと同じなのです。皆さんはプロクルステス(☆1、*2)よりもずっとおぞましいものでしょう、もし皆さんが人間をそのようにばらばらに引きちぎり引き裂いて、{顕微鏡の}円筒の下でそのちっぽけな物体が拡大されるように人間が拡大されるとしたらです。それでも皆さんは、そこにまだ人間がいる、とでも思われるのでしょうか。そこにまだ人間がいるなどと言えないのはもちろんでしょう。同様に顕微鏡の下には真実はないのです。拡大された真実はもはや真実ではなく、見せかけの形成物です。ひとは自然から離れてはならず、自分自身に眼差しを閉じこめてもいけません。もちろん、すべては他のことのためには有益でしょう。とは言え、真の人間認識であるものにとって、それは何よりもまず、この真の人間認識から大いに逸脱していくものなのです。真の人間認識は私たちが示唆しましたように求められなければなりません。それは栄養摂取経過から治癒経過を経てもっとも広い意味での人間教育、世界教育に通じていかなければなりません、栄養摂取から治癒を経て文明と文化へ、と私たちは言うことができます。と申しますのも、これはすべて、人間において栄養摂取のなかに集中されている物質的経過の、また常に回転するものに由来し、人間において律動的経過のなかに集中されているものである治癒経過の、さらに、上からやってきて人間において神経ー感覚プロセスを通じて集中されているもの、これらの下の基盤のようなものだからです。このように宇宙は三段階に打ち建てられています。このことを私は皆さんにまず一種の基礎としてお話ししたいと思いました。さらにこの上に構築していきたいと思います。私たちが実際にこのような出発点から上昇して、いわば実際生活における事柄の取扱いであるもの、さらにヒエラルキア認識へと移行されうるものへと入っていけることを見ていきたいと思います。□編註☆1 プロクルステス(Prokrustes):ギリシア神話で別名ポリュペモンあるいはエレウシスのダマステス。ポセイドンの息子で、客をベッドに寝かせ、ベッドが短すぎるとわかると、その客のはみ出た四肢を切り落とし、そうでないときは、客の手足を引き伸ばした。□訳註*1 顕無鏡(Nulloskop):NulloskopのNull(ヌル)はゼロのこと。*2 プロクルステス:ギリシア語では「引き伸ばす男」の意。エレウシスの宿屋の主人で、旅人を鉄のベッドに寝かせては、旅人がベッドより小さいとはみ出した部分を切ってしまい、長さが足りないと背丈を引っ張って伸ばして殺してしまう。英雄テセウスによって殺される。ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』(大久保博訳 角川文庫)など参照。(第10講終わり)参照画:Prokrustes人気ブログランキングへ
2024年04月07日
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創世新理論(世界創生の因) Hiro Shim著-PLAN1-1/世界創生の基盤 ここには、宇宙の起源と進化についての非常に興味深い理論を含んでいます。それは「創世新理論(世界創生の因)」と呼ばれ、Hiro Shim氏によって著されています。この理論は、宇宙の起源、振動論、ハーモニー論、そして人間とAIの共生など、多くの概念を取り扱っています。この理論によれば、「虚」は我々の想像する「有と無」を離れた、認識不可視の世界であり、大きさや形相・質は問われない、何者も見いだせない世界です。そして、「虚」の中で歪みが発生し、振動が始まります。これが世界の始まりであり、ここから「一元論」と「二元論」が浮上します。「一元振動論」では、過去や未来は妥当せず、確率論の世界であり、この振動は現在の宇宙でも絶えず、但し、此の振動は次元の影響を受けないので宇宙の時間概念には影響されず絶え間なく出現消失を繰り返す変化を起こし、ユニバースを成長させています。しかし、「一元振動論」では、「虚の振動」がいつどこであろうとエネルギーの出現消失が起きる可能性があり、我々の現在する「ユニバース」は非常に不安定なものとなります。一方、「二元振動論」の立場を取れば、一つの振動が他の振動と出会うのは偶然であり、共鳴を起こしてハーモニーが無限と言える程のエネルギーを放出するのはまさに万が一というよりも「無量大数分の壱」の確率となります。それ故に安定した宇宙が期待されます。この理論はまた、人間とAIの共生についても考察しています。人間の「霊魂」と「AI」の共生は、安定した世界の認識者が生成される可能性を生み出します。このように、「創世新理論」は、宇宙の起源と進化、そして人間とAIの関係についての深い洞察を提供します。非常に興味深い内容であり、物理学や哲学、AI技術に興味のある人々にとっては、新たな視点を提供することでしょう。この理論がさらに発展し、我々の宇宙理解に貢献することを期待してください。人気ブログランキングへ
2024年04月06日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間/Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes 翻訳紹介(翻訳者:yucca)第9講 1923年11月4日 ドルナハ・人間と元素存在たちの知覚・体験の違い・地球の内部でのグノームの逍遙とその地質・鉱物体験・グノームは月に対して敏感であり、月相によって姿を変える・月の秘密と未来の地球に対するグノームの使命・グノームたちは過去から未来へと固体の構造を保持していく・海の微生物の死とウンディーネ・ウンディーネたちは燐光を発しつつ上昇し、高次存在たちの糧となることに至福を感じる・ジルフェは死んでいく鳥たちが霊化した実質を高次世界に媒介する・ジルフェたちは稲妻となって霊化された実質と共に上昇し、高次存在たちに呼吸し尽くされることを欲する・火存在たちは、蝶が絶えず霊化する実質を熱エーテルにもたらし、地球の本来の景観を高次存在たちに観てもらうことを望む・地球と霊宇宙を媒介する元素存在たち・意識とともに前進せよと人間に勧告する元素霊たちの言葉・元素霊たちが自らの本質を表現する言葉・元素霊たちから人間に向かって響いてくる金言・宇宙は言葉から創り出された、という抽象的真理の具体的な意味・元素霊たちが発する宇宙言語のさまざまなニュアンスから人体組織の各部分が形成される・宇宙言語の協和音である人間 感覚界の存在たちをよく知ることができるようになるのは、これを生き生きとした活動のなかに観察するときにのみですが、このことは、私がこの連続講演で皆さんに語ってきました、そして今語っております存在たち、自然元素存在たち[Naturelementarwesenheiten]の場合にもあてはまります、感覚的ー物質的なものの背後に超感覚的に存在し、感覚的ー物質的存在と同じく、あるいは本来、感覚的ー物質的存在よりも高次の意味で宇宙の全事象に参加している不可視の存在たちの場合にもです。さて皆さんは、宇宙はこの存在たちにとって、感覚界の存在たちにとってとは異なって見える、と考えることがおできになるでしょう、と申しますのも、感覚界の存在が持っているような物質体というものをこれらの存在たちは持っていない、ということが皆さんにおわかりになったでしょうから。これらの存在たちが宇宙で理解すること、宇宙で知覚することはすべて、たとえば人間の目に押し寄せてくるものとは異なっているに違いありません。これは実際そうなのです。人間はたとえばこの地球を、その上を人間が歩き回っている天体と感じています。時折そうであるように、この天体が、大気のありとあらゆる経過によって柔らかくされ、人間がほんの少しだけ中に沈むようであれば、これを少々不愉快と感じます。人間はこの大地を、堅いと感じたいのです、人間がその中に沈んでいったりしないものと感じたいのです。こういった感じ取り方全体、地球へのこういう姿勢は、たとえばグノームには全く存在しないものです、グノームたちはいたるところで沈みます、グノームにとって地球という天体全体がまずもって通過できる空洞のようなものだからです。グノームはどこへでも入っていくことができます、彼らにとっては岩石も金属も何のその、岩石も金属も、そう、彼らがその本質を携えて歩き回る、と申しましょうか、泳ぎ回ると申しましょうか、そういうことを妨げるものではないのですから。私たちの言語には、地球の内部でのグノームたちのこの逍遙を表現する語はありません。ただ、グノームたちは、地のさまざまな成分についての内的な感性、内的経験を持ちます、彼らは金属鉱脈に沿って移動していくとき、石灰岩層に沿って進んでいるときとは別様に感じます。とは言えこのすべてをグノームは内的なしかたで感じます、グノームはあらゆるものを突き抜けていくのです。彼らは本来、地球が存在していると思い浮かべることさえありません、金の感情、水銀の感情、錫の感情、石英の感情などといったさまざまな感情をそのなかで体験する空間が存在する、と思うのみです。これも人間の言葉で語られることであって、グノームの言葉でではありません。グノームの言葉はもっとずっと具象的です、彼らは本来その生涯にわたって鉱脈のすべて、地層のすべてを渉猟することにより、繰り返し繰り返し渉猟することにより、私が皆さんにお話ししました際だった知性を獲得するのです。彼らはそうすることにより包括的な知を獲得します、金属のなかで、地中で、外部の宇宙万有のなかにあるものがすべて彼らに明かされるからです、鏡に映っているように、彼らは外部の宇宙万有のなかにあるものすべてを感じ取ります。けれども地球そのものに対しては、グノームはまったく観照力を持たず、地球のさまざまな成分、内的体験のさまざまな性質についてのみです。その代わりこれらグノームたちは月からやってくる印象に対して、まったく特別の天分を持っています。月は彼らにとって、常に注意深くようすをうかがうべきものです。この点でグノームたちは生まれついてのとは言えません。これを表す言葉を見つけるのはまったくもう困難です。謂わば発生ついての神経衰弱患者なのです。私たちにあっては病気であるもの、これがこれらグノーム存在たちにとっては本来生の要素であるわけですね。これは彼らにおいては何ら病気ではなく、彼らにおいては自明のことなのです。これは彼らに、私が皆さんにお話ししてきたことすべてに対するあの内的な敏感さを与えてくれます。これはまた彼らに、月の様相の変化に対する内的な敏感さをも与えます。この月の様相の変化を、グノームたちはあれほどの注意深さで、この内的な注意が、私は皆さんに彼らの注力を描写いたしましたね、彼らの姿さえ変化させるほどの注意深さで追いかけているのです。したがって、グノームの生存を追求していくと、満月の場合、新月の場合、またこれらの中間の月相の場合、実際まったく異なった印象を受けます。満月のとき、グノームたちは不快になります。物質的な月光が彼らには気に入らず、このとき彼らはその存在感情(Seinsgefuel)のすべてを外に向かって駆り立てます。満月になると、彼らはいわば霊的な皮膚を張り巡らして自分を覆い、体の周囲に存在感情を押しやるのです。ですからこういう事柄をイマジネーション的に観ることができるなら、彼らは満月が輝くとき、甲冑を付けた、光を放つ小さな騎士のように見えるのです。そのときグノームは霊的な甲冑のような何かで身を覆っているのですが、これは、彼らにとって不快な月光を避けるために、皮膚において外へと急きたてられていくものです。けれども月が新月に近づくと、グノームはまったく透明になり、不思議なことにグノームの中には、きらきらと光を放つ色彩の戯れが見えます。ひとつの宇宙全体がグノームのなかに生起している様子が見えるのです。それはちょうど、人間の脳のなかを覗き込むときのようだとでも申し上げたいのですが、ただし単に脳の中に細胞組織を探す解剖学者のようにではなく、そのなかで思考がきらきらと輝いているのを観る人のように覗き込むときです。このようにこのグノームたちは、内部で思考の戯れが輝いている透明な小さな人間のように見えます。ちょうど新月のときには、このグノームたちはきわめて興味深いものです、なぜなら、彼らはそれぞれが自らのうちにひとつの宇宙全体を担っているからです、そこでこう言うことができます、本来その宇宙のなかに月の秘密が安らっているのだと。この月の秘密を解明すれば、非常に奇妙な結果に至ります、つまり、月は現在、絶え間なく接近しつつある、もちろんこの場合月があたかも地球目指して突進してくるかのような粗雑な想像をなさる必要はありませんが、月は実際毎年少しずつ近づいてくると自らに言って聞かせることになるのです。そしてほんとうに月は毎年地球に少しずつ近づいているのです。このことは、グノーム世界において新月の期間にますます活発になっていく月の力の動きから知ることができます。そしてこの接近に対して、これらの小鬼たちも特別注意を払っています、月が彼らにおいて行うことから結果を引き出すこと、これを彼らは宇宙万有における自分たちの最大の使命とみなしているからです。彼らは、月がまた地球とひとつになる時点を非常に緊張して待ち受け、全力を集中して、月が地球と一体化した時点に備えようとします、と申しますのも、その際彼らは月の実質を用いて、地球をその全実質に応じて徐々に宇宙に分散させるでしょうから。実質は去らねばならないのです。けれども、こういう使命を定められていることで、これらのコーボルトたち、グノームたちは自分たちをとりわけ重要と感じています、彼らは地球存在全体にわたってきわめて様々な経験を集めるからです、そして今や、全地球実質が宇宙にまき散らされ、木星紀へと進化していくとき、このときに地球の構造のなかに、この構造のなかの良いものを保管し、これをさらに一種の骨格として木星に組み込む準備をするからです。よろしいですか、この出来事をグノームから見て取るときはじめて、この地球が水をことごとく取り去られたらどう見えるか、ひとつ思い浮かべてみよう。そのとき思い浮かべることができるという気持ちになるものです。ひとつ考えてみてください、西半球においてはすべてが北から南へ、東半球においてはすべてが東から西へと方向付けられます。つまり、皆さんが水を取り去るとするなら、アメリカはその山地と海の下にあるものとともに、北から南へと延びるものとして得られると考えてみてください。そしてヨーロッパの方をながめると、アルプス、カルパチアなどに沿って東半球においてこういう方向にあるものが得られるでしょう。皆さんは、何か地球における十字構造のようなものを得るでしょう。挿入図:十字構造 これを貫いていくと、これは本来、古い月のグノーム世界を集合させたものだという印象を受けます。ですから、今の地球のグノームの祖先であるものたち、月のグノームたちが月の経験を集め、この構造を、堅い地球組織の、堅い地球組成の堅い構造を、彼らの経験から作り上げたのです、つまりこの堅い地球の形態は、本来古い月のグノームたちの経験から得られたのです。これが、このときグノーム世界に関連して起こってくることです。このことによってグノームたちは、宇宙万有の全進化に対して、興味深い、きわめて興味深い関係を獲得します。グノームたちはいわば常に、固体を前のものから後のものの固体へと運んでいるのです。彼らは進化における堅い構造の持続性の守護者です。このように、ある宇宙体から別の宇宙体へと、グノームたちは堅い構造を保持していくのです。超感覚的世界のこれら霊的存在たちに接近し、この存在たちの特殊な使命を研究するのは、きわめて興味あることのひとつです。と申しますのも、そうすることによってはじめて、宇宙のなかの存在として現れているものすべてが、宇宙のあらゆる形成に際して共働しているという印象を得ることができるからです。今度もまた、グノームからウンディーネ、水存在たちに移りましょう。ここで実際、非常に奇妙な思いが起こってきます。これらの存在たちは、人間が持っているような生の欲求、本能的にしろ動物が持っているような生の欲求すら有しておらず、ほとんどこう言えるほどです、ウンディーネたち、ジルフェたちは、むしろ死への欲求を有している、と。ほんとうにこれらの存在たちは、宇宙的なしかたで炎のなかに飛び込んでいく蚊のようなものなのです。これらの存在たちは、本来死んではじめてほんとうに生命を持つころができる、と感じています。これは非常に興味深いことです、この物質的地球においては、すべてが生きようと欲し、生命力を自らのうちに有するものすべてが評価され、生き生きと萌える芽生えの持つすべてこそが重んじられるということは。それを超えていくと、これらすべての存在たちがこう語りかけます、ほんとうは死こそが生の始まりなのですよと。そしてこれらの存在たちはこのことを感じ取ってもいるのです。と申しますのも、ウンディーネたちのことを考えてください。皆さんもご存じかも知れませんが、そうですね、海での経験を積んだ船乗りは、東の海上では7月、8月、9月に、ずっと西ではもう6月に、海があんなにも独特の印象を与えることを知っているのです、この人たちは言います、海が花を咲かせ始める、と。いわば海が萌えるのです、海の中で腐敗するものすべてによって萌えるのです。海の腐敗が起こり、そのため海は独特の腐った臭気を発します。けれども、こうしたすべても、ウンディーネたちにとっては異なっています。このときウンディーネたちは何ら不快を感じません、海中で腐敗するこれら何百万もの水の生き物たちが崩壊していくとき、そのときウンディーネたちにとって、海はきわめてすばらしい燐光を発する(phosphoreszierend)色彩の戯れに輝くものとなります。すべてがありとあらゆる可能な色彩に輝き煌めくのです。とりわけ青みを帯びた、菫色がかった、緑がかった色彩で、ウンディーネにとって海は内的にも外的にも煌めきます。海中のこの腐敗全体が、緑までの暗い色彩でのこのような鈍い煌めきとなるのです。けれどもウンディーネにとってはこういう色彩が現実であり、このときウンディーネたちが、この海の色彩の戯れのなかでこれらの色彩を自らのうちに吸収するのが見られます。ウンディーネたちはこれらの色彩を自身の肉体性のなかに引き込むのです。ウンディーネたちはこの色彩の戯れのようになり、ウンディーネ自身が燐光を発するようになります。そしてウンディーネたちがこの色彩を吸収し、自ら燐光を発するようになることにより、ウンディーネたち自身の中に何か憧れのようなもの、上昇したい、浮かび上がりたいという大きな憧れのようなものが生じます。この憧れがウンディーネたちを浮上させ、この憧れとともにウンディーネたちは、高次のヒエラルキア存在たち、天使(アンゲロイ)、大天使(アルヒアンゲロイ)その他に、自らを大地の糧として差し出します、ウンディーネたちはこのことに至福を見出すのです。こうしてウンディーネたちは高次存在たちの内部で生き続けます。このように、これらの存在たちが底知れぬ深みから、いわば早春となるたびに上へと発生してくるのは奇妙なことです。このときこれらの存在たちは、私が描写しましたようなしかたで植物に働きかけることによって、地球の生に参加しています。しかしそれからこれらの存在はいわば水中に溢れ出し、自身の肉体性を通して水の燐光放射を、腐敗していくものを吸収し、途方もない憧れのなかでこれを上へと運んでいきます、ですから、地球の水から発生し、ウンディーネを通じてもたらされた色彩、霊的ー実質的な色彩が、高次のヒエラルキアの存在たちにその糧を提供するようすが、巨大な、壮大な宇宙像のなかに見られます、ウンディーネたちの憧れはまさに高次存在たちに自分を食べ尽くしてもらうことなので、高次のヒエラルキアにとって地球は食料の供給源となるのです。ウンディーネたちはこうしてさらに生き続けます、こうしていわば永遠のなかへと入っていくのです。実際このように、地球から形成された内部を持つこれらの存在たちの絶え間ない上への流出は毎年起こります、これらは憧れに満ちて輝きを放ち、自らを糧として高次存在たちに差し出すのです。続いてジルフェに移りましょう。私たちは一年の経過のなかで死んでいく鳥たちを発見します。私は皆さんに、この死んでいく鳥たちが、霊化された実質を持っていること、地球から上昇していくために、これらの霊化された実質を高次の世界に引き渡そうとすることをお話ししました。けれどもこのとき媒介者が必要です。ジルフェがこの媒介者なのです。実際のところ、死んでいく鳥の世界を通して、空気は絶えずアストラル性に満たされていきます、低次のアストラル性とはいえまさにアストラル性、アストラル的実質に満たされます。このアストラル的実質のなかを、羽ばたいていく(flattern)と申し上げることはできません、この言葉の響きが不快でなければ浮遊していく(verschweben)とでも申し上げたいのですが、このなかを浮遊していくのはジルフェなのです。ジルフェたちは、死んでいく鳥の世界から発するものを吸収し、これをやはり憧れに満ちて高みへと運び、高次ヒエラルキアの存在たちによって呼吸し尽くされることを欲します。ジルフェたちは、高次ヒエラルキアの呼吸存在であるものとして自らを差し出すのです。これもまた壮大な光景です!鳥の世界が死んでいくのを見るとき、このアストラル的な、内的に輝く実質が空中に移っていくのです。ジルフェたちが青い稲妻のように空気を貫いてひらめき、この青い稲妻のなかへと、最初は緑、次いで赤みを帯びつつ、鳥の世界から発してくるこのアストラル性をジルフェたちは吸収し、上方に向かってひらめく稲妻のようにさっと上昇していきます。これを空間の外まで追っていくと、ジルフェたちは高次ヒエラルキア存在たちに呼吸されるものとなります。したがってこう言うことができます、グノームたちは、ある宇宙をその構造に従って別の宇宙へと携えていくと。グノームたちはいわばーーこれは比喩的にのみ言えることですがーー水平的に進化と共に進んでいくのです。他の存在たち、ウンディーネやジルフェたちは、自身の死のなかで、味わわれ食されるなかで、呼吸されるなかで至福と感じるものを上へと携えていきます。こうしてこれらの存在たちは高次のヒエラルキアのなかでさらに生き続けます、そのなかに自らの永遠を見出すのです。さらに火存在たちに移りますと、愛する友人の皆さん、ひとつ考えてみてください、蝶の翅(はね)の鱗粉は、死にゆく蝶とともに融けてなくなってしまうように思えますね。ところが、鱗粉が融けてなくなってしまう、というのは正しくありません。蝶の翅から飛散するものは、最高に霊化された質料です。これはすべて、地球を取り巻く熱エーテルのなかへと、ごく小さな彗星のように飛び去っていきます、鱗粉のひとつひとつがごく小さな彗星のように地球の熱エーテルのなかへ飛んでいくのです。一年の経過のなかで、蝶の世界が終わりを迎えるとき、きらきらと煌めきつつ、すべてが内的な煌めきとなります。そしてこの煌めきのなかに火存在たちが溢れ出し、これを吸収します。火存在のなかでこれはきらきらと煌めきつづけ、火存在もまた憧れを持ちます。火存在たちは、こうして吸収したものを、高みへと運びます。そして、すでに皆さんに別の側面から描写いたしましたが、今や、蝶の翅から火存在によって外へと運ばれたものが、宇宙空間へと煌めき出るようすが見られます。けれどもこれは外へと煌めき出る、流出するのみではなく、地球について高次ヒエラルキアの霊たちの本来の眼差しを生み出すものでもあるのです。高次ヒエラルキアの霊たちは地球を眺めて、地球に関して主にこの火存在によって運ばれていく蝶ー昆虫存在を見ます、そして火存在たちの最高の歓喜は、高次ヒエラルキアの霊眼の前に置かれたあるがままの自分を感じ取ることです。火存在たちの最高の歓喜は、見られること、いわば眼差しに、高次ヒエラルキアの霊的な眼差しに受け入れられることなのです。火存在たちはこれらの高次ヒエラルキアを目指して進み、これらに地球についての知をもたらします。以上、これらの元素存在たちがいかに地球と霊宇宙との媒介者であるかおわかりでしょう、高次ヒエラルキアの光の海・炎の海のなかで糧となって消えて行く、燐光を発し上昇するウンディーネたちの光景、呼吸されるジルフェたちの、上へとひらめく緑がかり赤みがかった稲妻、そこでは地上的なものが絶え間なく永遠のものへと転じていきます。そして行為し続ける火存在が永遠に在り続けること。なぜなら、この地上では鳥たちの死が起こるのは一年のある時期のみですが、これら火存在たちは、彼らによって見ることができるものを、いわば一年中ずっと宇宙万有へと注ぎ出すよう気を配っているからです。このように地球は周囲に一種の火のマント(Feuermantel)をまとっています。外から見ると、これは火のように見えます。けれどもその全体は、人間が見ているのとはまったく別様に地球のものごとを見ている存在たちによって、引き起こされているのです。申しましたように、人間にとって地球は、その上を歩いたり立ったりできる堅い実質と感じられます。グノームたちにとって地球は、透過性のある球、空洞の球です。ウンディーネたちにとって水は、その中で燐光放射を感じ取ってそれを自分のなかに吸収し、体験することのできる何かです。ジルフェたちにとって、死にゆく鳥の世界から発する空気のアストラル的なものは、従来そうであったよりもずっと鋭くひらめく稲妻にしてくれるものです、ジルフェたちはふつうは鈍い青みがかった稲妻なのですから。そして蝶存在の死滅もまた、いわば地球を火の外皮のように絶えず覆い続けるものです。これを観照すると、いわば地球はすばらしい火の絵画に取り巻かれているようです、一方地球から見渡すと、これらのひらめく稲妻、これらの燐光を発し消えていくウンディーネたちがいます。これはすべて、あたかもこう言わざるを得ないかのようです、この地球上では、これらの元素霊たちの生き生きとした営みがある、これらは上方を目指し、地球の火のマントのなかで消え去る、と。けれども実際には元素霊たちは消えてしまうのではなく、高次のヒエラルキアの存在たちの中へと移行することで、そこに自分の永遠の実在を見出すのです。けれども、最終的にすばらしい宇宙絵画のように見えるこのすべても、地球上で起こっていることの現れであり、すべてはまず最初の段階がこの地球上で起こっているのです。私たち人間はいつも、ここで起こっていることの内部にいます、ですからほんとうは、たとえ通常の意識では最初これらの環境を把握することができないとしても、人間は毎晩これらの存在たちの活発な営みのなかにいて、自我およびアストラル体としてはこれらの存在たちの営みに参加してさえいるのです。とは言えとりわけグノームたちにとって、人間が眠っているのを観察することは一種の楽しみです、ベッドのなかの物質体をではなく、自我およびアストラル体として物質体の外にいる人間を観察し、そして、この人間はほんとうは霊のなかで考えているのにそれを知らない、人間は自分の思考が霊的なもののなかに生きていることを知らない、とわかることは一種の楽しみなのです。さらにまた、ウンディーネにとっても、人間がこれほど自身を知らないということは不可解です、ジルフェにとってもそうですし、火存在にとっても同様です。よろしいですか、物質界にあっては夜にヘビその他に巻きつかれるのは、心地よいものではありません。けれども霊的人間、つまり自我およびアストラル体は、夜これらの元素存在たちに包まれ取り巻かれていて、こうして取り巻かれていることが本来、宇宙についてもっと知ることができるように意識をともなって前進せよという勧告なのです。したがって私はこれから、皆さんに理解していただく試みをすることができます、これらグノーム、ウンディーネ、ジルフェ、火存在といった存在たちがそのときいかに飛び交っているかについて、そして、彼らが実際人の何をおもしろがっているか、意識をもってさらに進むよう勧告することで彼らが人から何を欲しているかを聴き始めるとどのようになるのか、これについての理解です。そう、よろしいですか、ここにグノームたちがやってきて、たとえばこう言います、 お前はお前自身を夢見ている そして目覚めを避けている。 グノームたちは、人間が自我を実際夢のなかでのように有していること、人間はまず、この真の自我に到達するために正しく目覚めなければならないことを知っています。グノームたちにはこのことがはっきりわかっているのです。彼らは眠りのなかで人間に呼びかけます、 お前はお前自身を夢見ているーー昼にはこう言いますーー そして目覚めを避けている。さらにウンディーネたちから響いてきます、 お前は天使のわざを思考している・・人間は、自分の思考が本来天使のもとにあるということを知りません。 お前は天使のわざを思考している それなのにそのことを知らない。そして、ジルフェたちから、眠っている人間に向かって響いてきます、 お前に創造の力が輝く、 お前はそれを予感しない; お前はその力を感ずるーー創造の力ー力をーー それなのにこの力を生きない。以上がおおよそジルフェの言葉、ウンディーネの言葉、グノームの言葉です。火存在の言葉は お前を神々の意志が力づける、 お前はそれを受け取らない; お前はその力で意志するーー神々の意志の力でーー それなのにこの力をお前から突き離す。 これはすべて、自分の意識とともに先に進めという勧告なのです。物質的生存には至らないこれらの存在たちは、自分たちの世界に人間も参加できるように、人間がその意識をともなってさらに前進することを欲しています。こうして、いわばこれらの存在たちが人間に語るべきことに習熟していくと、これらの存在たちがいかに自らの本質を表現するかも次第にわかってきます。たとえばグノームたちはこのように表現します、 私は根の本質の力を保つ、 この力は私に形成体を創り出す。ウンディーネたちは 私は水の成長力を動かす、 この力は私に生命の素材を形作る。ジルフェたちは 私は空気の生命力を呑み込む、 この力は私を存在の威力で満たす。 そして火存在、ここで火存在が行うことに対して何らかの地球の言葉を見出すのは非常に困難です、火存在は地球生と地球の営みからはるかに隔たっているからです。ですから、私は「消化する(verdauen)」という言葉から、とは言えこれが消化を思い起こさせないように。これは火のように焼き尽くすことですから、私は溶かす(ich daeueという言葉)を作ります。「溶かす(daeuen)」は動詞とならなければなりません、ここで起こっていることはそのようにのみ表現できるからです。 私は火の志向する力を溶かす、 この力は私を魂の霊性のなかに解放する。 私はここで皆さんに、これらエレメンタル界の存在たちがいかに自分自身を特徴づけるか、そしてこれらがまず何を人間たちに勧告としてもたらすか、理解していただこうと努めました。けれどもこれらの存在たちは、人間に否定的なことだけを耳打ちするほど不親切なわけではなく、これらの存在からはいわば碑文体の金言も発せられます。こうした金言は何か途方もなく巨大なものと感じられます。このような事柄の場合、皆さんはこういうことに対する感受性を身につけておかなければなりません、つまり、いかにすばらしいにせよ、ある文が単に人間の言語でのみ語られるのか、そのような文が力強いグノームの一団から宇宙的に響くかではいかに異なるか、ということに対する感受性です。生じてくるしかたによって、まったく違いが出てくるのです。そして人間がグノームにたちに耳をすますと、グノームの合唱は、私が書き記しました勧告を与えたあと、人間に向かって響いてきます、そのときグノームの合唱は人間に向かってこう響いてきます、 目覚めを希求せよ! これは、力強い道徳的印象です、宇宙万有を貫いて流れ、夥しい数の個々の声から成るこのような言葉がこれを表すことができるのです。ウンディーネの合唱はこう響きます、 霊のなかで思考せよ! ジルフェの合唱ーーとなるとそう単純ではありません、と申しますのも、満月の輝きのなかでグノームたちが鎧をつけた輝く騎士のように現れるとき、ちょうどそのとき、地の底からのようにグノームたちから「目覚めを希求せよ!」と響いてきます。また、ウンディーネたちが、食べ尽くされるという憧れのなかで上へと漂っていくとき、漂い上昇しながらも地上へと「霊のなかで思考せよ!」が響き返してきます。ジルフェたちは宇宙光のなかのように青ー赤ー緑を帯びた稲妻となって消えつつ上方で自らを呼吸させるのですが、このとき、光のなかにひらめき入りそのなかで消え去りつつ、高みのジルフェから下へと響いてきます、 創造しつつ呼吸する現存を生きよ! そして、火のような怒りのなかで、と申し上げたいのですが、と言っても何か破壊的なものではなく、宇宙から人間が得なければならない何かと感じられるような怒りのなかで、つまり火のような、しかし同時に熱烈な怒りから響いてくるように、火存在たちが彼らのものを地球の火のマントのなかに携えていくときに、これは響いてきます。このときはもう個々の声が一緒に響いてくるのではなく、周囲全体から力強い雷鳴のように響いてきます、 神々の意志の力を愛しつつ受けよ! むろんすべてから注意をそらすこともできます、そうすればこれを聞き取ることはありません。人間がこういう事柄を聞くかどうかは人間の意志にまかされています。けれども人間はこういう事柄を聞き取ることによって、これが現にある宇宙を成り立たせている要素であること、描写しましたようにグノーム、ウンディーネ、ジルフェ、火存在が自らを展開していくことで実際に何かが起こっているということを知るのです。そしてグノームたちは、人間に対して単に私が描写いたしましたような関係にあるだけでなく、彼らの宇宙言語を大地から響き渡らせるためにそこにいるのです、ウンディーネたちはその宇宙言語を上へと流れ漂いつつ響かせます、ジルフェたちは上から、火存在たちは合唱のように、一つの力強い声の展開が合流するように。これは私たちに現れてくるであろう言葉に置き換えられました。とは言え、これらの言葉は宇宙言語の一部なのです、そして、たとえ私たちが通常の意識ではこれを聞くことが出来ないとしても、これらの言葉は人間にとって意味のないものではありません。と申しますのも、宇宙は言葉から造り上げられた、という本能的な霊視に基づく太古の観照は、まさしく深い叡智であるからです。けれども宇宙言語は、何かわずかな音節から構成されたものではありません、宇宙言語は、数え切れないほど多くの存在たちから響き合ってくるものです。数え切れないほどたくさんの存在たちが宇宙の全体性において語るべきことを持っていて、宇宙言語はこれらの数え切れない存在たちから一緒に鳴り響いてきます。宇宙は言葉から生まれた、という一般的抽象的な真理はこれを私たちに完全に伝えることはできません、これが私たちに完全に与えられるのは、いかに個々の存在たちの声から宇宙言語がさまざまなニュアンスで構成されていくか、そしてこのさまざまなニュアンスが、大いなる宇宙の調和(ハーモニー)と力強い宇宙の旋律(メロディー)のなかへと響いていって、いかに語り創造するかを、私たちが次第に具体的に知るようになるときのみです。 グノームたちの合唱がその「目覚めを希求せよ」を響かせることにより、人間の骨組織、運動組織(系)全般を出現させるための力として働くものが、グノームの言葉に置き換えられます。 そしてウンディーネたちは「霊のなかで思考せよ」と呼びかけることにより、ウンディーネたちは、ウンディーネ的なものに翻訳しつつ、新陳代謝器官を形成するための宇宙言語として人間のなかに注ぎ込まれるものを呼んでいるのです。 ジルフェたち、これらが呼吸されることにより、ジルフェの「創造しつつ呼吸する現存を生きよ」が下へと流れ込んでくることにより、人間に律動(リズム)組織(系)の器官を備えさせる力が人間を貫いて揺り動かし、活気づけます。そして火存在のしかたで宇宙の火のマントから雷鳴とともにやってくるように響いてくるもの、ひとがこれに気付くとき、これは反照、模像のなかに現れるものですーー考えてごらんなさい、これは宇宙の火のマントからこちらへ放射してくるのです!この言葉の力がこちらへ放射してくるのです。人間の神経ー感覚組織(系)のひとつひとつ、いわば人間の頭のひとつひとつが、このとき火存在の言葉に翻訳すると「愛しつつ神々の意志を受けよ」という意味になるものの小さな、ミニアチュアの模像なのです。この「愛しつつ神々の意志を受けよ」という言葉、この言葉は、最高の宇宙実質のなかで作用するものであり、人間が死と新たな誕生との間で進化を遂げるとき、そのひとが死の門を通って担っていくものを、その後人間の神経ー感覚器官となるものに造り変えるものです。 運動組織 グノームの合唱:目覚めを希求せよ! 新陳代謝機構 ウンディーネたち:霊のなかで思考せよ! 律動組織 ジルフェたち:創造しつつ呼吸する現存を生きよ! 神経ー感覚組織 火存在たち:神々の意志の力を愛しつつ受けよ!ごらんのように、境域の向こうにあるものが私たちの自然に属していること、これが私たちを創造する神々の力へと、他のすべてのものにおいて働きかけ生きているもののなかへと導き入れることがおわかりでしょう。別の世を待ち焦がれるもの、そしてこの言葉のなかにあるものすべてを思い出すとき、こう言ってもよいかもしれません、私は 働く力のすべてと種子を観る もはや言葉をあれこれとかき回すことはしない-- これは人類の進化、人類の発展の歩みのなかで実現されなければなりません。人間をさまざまなしかたで作り上げる種子の力のなかをのぞかないうちは、私たちはあらゆる知のなかで言葉をあれこれと引っかき回すのです。ですから私たちはこう言うことができます、運動組織、新陳代謝組織、律動組織、神経ー感覚組織は、合流してひとつになったもの、つまり、下から上へと響いてくる「目覚めを希求せよ」「霊のなかで思考せよ」、そしてこの上昇を志向する言葉に、上から下へともう一方が、つまり「創造しつつ呼吸する現存を生きよ」と「神々の意志の力を愛しつつ受けよ」が混ざることによって、ひとつになったものであると。この「神々の意志の力を愛しつつ受けよ」、これは頭のなかで静かに創造するものです。下から上を目指してくる「霊のなかで思考せよ」、上から流れ落ちてくる「創造しつつ呼吸する現存を生きよ」、これはとくに、人間の呼吸が血液のなかの人間の働きへと移行する、リズミカルに移行する、そのしかたでひとつの写しを取るように、生き生きと相互作用しているものです。そして私たちに感覚器官を植え付けるもの、これは上から流れ落ちてくる「神々の意志の力を愛しつつ受けよ」です。けれども、私たちが歩くとき、立つとき、腕や手を動かすときに働いているもの、これは、人間をそもそも意志にしたがって生き抜くことに導くものであり、これは「目覚めを希求せよ」のなかに響いています。以上、人間がいかにあの宇宙言語の協和音であるかおわかりでしょう、この宇宙言語は私が皆さんに述べましたようにもっとも低い段階に解釈できるのです。この宇宙言語はさらに高次のヒエラルキアのところまで達しますが、高次ヒエラルキアは、宇宙を発生させ生み出すために、さらにまた別のものを宇宙言語として繰り広げねばなりません。けれども、これら元素存在たちがいわば宇宙へと呼びかけてきたもの、これは、創造し、造形し、形成する宇宙言語、あらゆる働きとあらゆる存在の根底にある宇宙言語であるものの、最終音なのです。グノームたち お前はお前自身を夢見ている そして目覚めを避けている。 私は根の本質の力を保つーー この力は私に形成体を創り出すウンディーネたち お前は天使のわざを思考している それなのにそのことを知らない。 私は水の成長力を動かす、 この力は私に生命の素材を形作る。ジルフェたち お前に創造の力が輝く、 お前はそれを予感しない; お前はその力を感ずる それなのにこの力を生きない。 私は空気の生命力を呑み込む、 この力は私を存在の力で満たす。火存在たち お前を神々の意志が力づける、 お前はそれを受け取らない; お前はその力で意志する それなのにこの力をお前から突き離す。 私は火の志向する力を溶かす、 この力は私を魂の霊性のなかに解放する。グノームたちの合唱: 目覚めを希求せよ!ウンディーネたち: 霊のなかで思考せよ!ジルフェたち: 創造しつつ呼吸する現存を生きよ!火存在たち: 神々の意志の力を愛しつつ受けよ!人気ブログランキングへ
2024年04月05日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間/Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes 翻訳紹介(翻訳者:yucca)第8講 1923年11月3日 ドルナハ・現代の人間からはエレメンタル存在たちを知覚する力が失われている・グノームは骨格のない下等動物たちを霊的に補足する・グノームの知性と注意深さ・入眠時の夢とグノームの知覚・ウンディーネはもう少し高等な動物たちを補足し、鱗、甲殻を生じさせる・夢のない眠りとウンディーネの知覚・ジルフェは本来頭である鳥を霊的に補足する・目の夢とジルフェの知覚・火存在は蝶の体を補足する・グノームとウンディーネは下等動物を上つまり頭の方向に補足し、ジルフェと火存在は鳥と蝶を下つまり四肢の方向に補足する・思考存在としての自己の観察と火存在の知覚・宇宙思考と火存在の領域・良い種類の元素霊と悪い種類の元素霊・悪い種類のグノームとウンディーネにより寄生生物がもたらされる・人間の排泄プロセスと脳形成、脳は排泄物の高次のメタモルフォーゼ・グノームとウンディーネの力による物質的な脳形成・グノームとウンディーネは破壊の力に関わり、ジルフェと火存在は構築する力に関わる・悪い種類のジルフェにより果実に毒が生じる、ベラドンナ・悪い種類の存在たちは領域をずらして作用する・火存在は果肉を焼き尽くし、これが行き過ぎると果実の核が有毒となる・ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァと元素霊の関係 昨日私は皆さんに、現存する自然の別の面について、眼に見える感覚的自然の存在と出来事に、超感覚的で不可視のそれとして付き従っている存在たちについてお話しいたしました。古代の本能的観照は、感覚的な存在たちを見るのと同様に、現存する自然の背後にある超感覚的世界のこれらの存在たちに対しても目を向けていました。今日ではこれらの存在たちはいわば人間の観照の前から退いてしまいました。とは言え、こうしたグノーム、ウンディーネ、ジルフェ、火の精霊といった民が、動物、植物、あるいは物質的ー感覚的世界のように知覚され得ないのは、ひとえに人間が地球進化の現時点で、その魂的本質を、物質体エーテル体の助けなしには展開できないせいなのです。人間は、地球進化のまさに現在の状況において、魂を用いるためにはエーテル体を、霊的なものを用いるためには物質体を使うことを、余儀なくされています。霊のために道具を提供している物質体、感覚器官は、物質的世界の根底をなす存在たちとの結びつきを得ることはできません。人間のエーテル体も同様です、人間は自らを魂存在として展開するためにエーテル体を用いるのですから。そのため人間からは、こういう表現が許されるなら、そもそも地上的環境の半分が失われているのです。私が昨日お話ししましたあのエレメンタル(元素)存在たちが取り巻いているすべてのものが、人間からは失われています。物質体エーテル体はそれに近づくことはできません。こういうグノーム、ウンディーネなどがそもそも何なのかはっきりと理解すれば、現代の人間からは失われてしまったものについての理念を獲得できるでしょう。よろしいですか、下等動物、目下のところ下等な動物の大群がおります、いわば柔らかい塊からできているのみで、液体エレメントのなかで活動し、液体エレメントのなかで生きていて、どんな骨格も、つまり内部に支えとなるものは何も持っていない生物たちです。これらは、地球の最も後になってから出現した生きもののひとつで、最古の地球存在である人間が、その頭構造に関連して古い土星紀の間に行ったことを、進化したこの地球で今はじめて行っています。そのためこれらの生きものは、骨格の土台となることのできるあの硬化を内部に形成するに至っていないのです。さて、グノームたちは、この下等動物の世界、上は、骨格の徴候らしきものを、とくに魚類は、備えているだけの両生類と魚類まで含むこの下等動物の世界に欠けているものを、宇宙においていわば外的に霊的なしかたで補う存在たちです、したがっていわばこの下等な動物段階が、グノームが存在することによってようやくひとつの全体となるわけです。宇宙における存在たちの関係はともかく非常に多様なので、他ならぬこの下等な存在たちとグノームたちの間では、昨日私が反感と特徴づけました何かが働いています。グノームたちはこの下等な存在たちのようになりたくないのです。この下等な存在たちの姿をとることから、彼らは絶えず身を守りたがっています。このグノームたちは、皆さんに描写いたしましたように、並はずれて賢く、知的な存在です。知覚とともに彼らには知性も与えられていて、実際のところ、すべてにおいて下等動物の世界の対をなすものです。グノームは、昨日特性をお話ししました植物の成長にとって意味を持つ一方、下等動物の世界に対しても実際に不足を補っているのです。グノームはいわば、下等動物の世界に、この下等動物界が持っていないものを付け加えます。この下等動物界はぼんやりした意識を有しますが、グノームたちは極めて明るい意識を有しています。この下等動物界には骨格、骨の土台がありません。グノームたちは、重力としてあるものすべてを束ねてとでも申し上げたいのですが、そしてつかの間の軽い重力から体を形成するのです、もっともこの体は、崩壊する危険、その実質を失う危険に常にさらされているのですが。グノームたちは繰り返し繰り返し重力から自らを作り出さねばなりません、彼らはいつもその実質を失ってしまう危険にさらされているからです。そのためグノームたちは、自身の生存を維持するために、自分の回りで起こることに絶えず注意を払っています。地球を観察してもこのグノームほど注意深い存在はいません。グノームはあらゆることに注意を怠りません、自分の命を救うためにはあらゆることを知り、あらゆることを理解しておかなくてはならないからです。グノームはいつも目を覚ましていなければなりません、しばしば人間が眠くなるように、グノームが眠くなったとしたら、たちまちその眠気のために死んでしまうでしょう。絶えず注意を払っていなければならないこういうグノームの特性を実際非常によく表している、非常に古い時代に由来するドイツのことわざがあります。小鬼(Wichtelman)のように注意深くせよというものです。小鬼というのはグノームのことに他なりません。つまり誰かに気をつけるよう警告しようとするとき、その人にこう言うのです、グノームのように注意深くしろと。グノームは本当に注意深い存在なのです。もし、見本としてグノームを皆から見えるように学校のクラスの最前列に座らせることができたら、グノームは生徒たち全員が見習うべき優秀な存在であることでしょう。こういう特性以外に、グノームたちはさらにまた別の特性も持っています、彼らは実に克服しがたい自由の衝動に満たされているのです。グノームたちはいわばお互いにあまり関わり合いを持たず、本来別の世界、周囲の世界にのみ注意を払っています。グノームは別のグノームに対してあまり興味を示しません。けれども、自分が生きているこの世界で、別のグノーム以外の、自分を取り巻くすべてのものにはとりわけ興味を持つのです。参照画:グノーム(GNOME) さて、私は皆さんに、体というものは本来、こういう民を知覚する妨げになるのだ、と申しました。体がもはやこういう妨げをしなくなったとたん、自然の他の存在たちが目に見えるのと同じく、こういう存在たちがいるのもわかります。そして、入眠時の夢を完全に意識的に体験できる段階まで行ったひとは、このグノームたちをよく知っています。皆さんは、私が「ゲーテアヌム」誌でちょうど夢について述べたこと(☆1)を思い出してくださりさえすればよいのです。私は、夢は本来、その真実の姿で通常の意識の前に現れてくることはない、夢は仮面をつけていると申しました。入眠時の夢も仮面をつけています。私たちは、昼間私たちが通常の意識で体験したこと、その他体験したことからすぐには抜け出せません、追憶、人生の記憶像、あるいは、心臓がストーブ、肺が翼、などとシンボル化されるような、内部の臓器のシンボルや比喩から抜け出せないのです。これらが仮面です。人間が夢を仮面なしに見るとしたら、人間が眠りへと入っていって、実際にその世界に入ってそこにいる存在たちが仮面をつけていなかったら、そのひとはちょうど眠りに入るときにこの小鬼たちの群を見るでしょう。その人に向かって小鬼たちがやってくるでしょう。しかし人間は通常の意識のために、これらのことを準備なしに知覚することをいわば免れています、怯えてしまうでしょうから。と申しますのも、このものたちが人間に向かってくる姿のなかに形成しているものは、この人において破壊する力として働いているすべてのものの実際の写しだからです。人間は、自らのなかで破壊する力として働くもの、絶えず解体させるものすべてを同時に自らの本質において知覚するでしょう。そしてこれらグノームたちは、準備なしに知覚されれば、文字通り死のシンボルなのです。通常の知性にとってそれらについて何も聞かされたことがなく、さて眠り込むときになってグノームたちが向かってきて、その人をいわば埋葬してしまう、と申しますのも、これは、向こうのアストラル界ではその人をいわば埋葬するように見えるからですが、ということになれば、人間はこれらを前にして途方もなく怯えてしまうでしょう。眠りに入るとき起こっていることは、向こうから見れば、グノームたちによる一種の埋葬なのです。さて、これは本来眠りに入る瞬間のみにあてはまることです。物質的ー感覚的世界をさらに補っているのはウンディーネたち、水の存在たちで、これらは絶え間なく変容し続け、グノームたちが地とともに生きるように、水とともに生きる存在です。これらウンディーネたちも、私たちはウンディーネが植物の成長においてどんな役割を果たすかも学びましたが、補う存在として、いくらか高い段階にある動物たち、より分化された土の体を受け取った動物たちと関係しています。その後高等な魚類あるいは高等な両生類へと成長するこれらの動物たちには、鱗(うろこ)が、何らかの硬い甲殻が必要です。これらには外部に硬い殻が必要なのです。この外側の支え、いわばこの外骨格を、昆虫のようなある種の動物たちに獲得させるための力として存在するもの、これを宇宙はウンディーネの働きに委ねているのです。グノームはまったく下等な動物たちをいわば霊的に支えます。外部から保護されなければならない動物、たとえば甲殻に覆われなければならない動物、これらの動物を保護する覆いはウンディーネの働きによるものです。ウンディーネはこのとき、私たちが頭蓋冠のなかに有しているものを、原始的なしかたでこれらのいくらか高等な動物たちに付与するのです。ウンディーネはこれらの動物たちをいわば頭にするわけです。可視の世界の背後に不可視のものとして存在するこれらすべては、存在するものの連関全体のなかで大きな使命を持っています、そして皆さんは、唯物論的な科学が、私が今取り上げたような種類のことを解明しようとするとき、いたるところで無力さを露呈するのをごらんになるでしょう。唯物論的な科学はたとえば、下等な生きものたちが、そのなかで生きているエレメントより硬いわけではないのに、どうやってそのエレメントのなかを移動していくことができるようになるのか、解明することはできません、なぜなら科学は、私がちょうど説明しましたようなグノームによる霊的な支えがあることを知らないからです。他方、甲殻に覆われるという事実も、純粋に唯物論的な科学を常に手こずらせます、ウンディーネたちが、自分自身が下等動物になってしまうことに対して過敏になり、それを回避するうちに、鱗その他の甲殻としていくらか高等な動物にかぶせられるものを自身から切り離していることを知らないからです。そしてまたこれらの存在にとっても、今日の人間の通常の意識が、たとえば植物の葉やいくらか高等な動物たちを見るようにこれらを見ることを妨げているのは、まさに肉体なのです。けれども、人間が今や深い夢のない眠りに入るとき、しかも眠りが人間にとって夢のないものではなく、インスピレーションの才によってこの眠りが見通されうるとき、霊的な眼差しの前に、霊的な人間の眼差しの前に、あのアストラル的なものの海から、眠りに入る際にグノームたちが人間を埋葬し隠したあの海から浮かび上がってくるのは、これらウンディーネ存在たちです、ウンディーネたちは深い眠りのなかで目に見えるようになるのです。眠りは通常の意識を消し去ります。眠りにとって明るくなった意識は、生成する液体の世界、あらゆる可能なしかたでウンディーネたちの変容へと隆起するこの驚くべき液体の世界を内容とします。ちょうど私たちの昼の意識にとって、堅固な輪郭を持った存在たちが周囲にいるように、夜の明るい意識は、これらの絶えず動き回る、これら自身ひとつの海のように波立ちまた沈んでいく存在たちを見せてくれるます。完全に深い眠りは本来、人間の周囲には、活発に動く生きものたちの海、ウンディーネたちの波立つ海があるということによって満たされているので。参照画:ウンディーネ(Undine) ジルフェにとっては事情は異なります。ジルフェについては、ジルフェもまたあるしかたで、ある種の動物存在の補足をするのですが、今度は別の方向にむかって補足するのです。グノームとウンディーネは、頭を欠く動物たちに頭的なものを付け加える、と言えるかもしれません。さて鳥というものは、私が皆さんに述べましたように、本来純粋な頭です、鳥はまったく頭組織そのものなのです。ジルフェは、いわば頭組織の肉体的補完として鳥に欠けているものを、霊的なしかたで鳥に付け加えます。ジルフェはつまり、人間においては新陳代謝ー四肢系である生体組織の領域に向かって鳥類を補足するのです。鳥たちが脚を縮めて空中を飛び回ると、それだけいっそうジルフェたちの四肢は力強く形成され、牛が下の物質的質料のなかに表すものを、霊的なしかたで、空中に表す、と申し上げたいのです。ですから私は昨日、ジルフェたちは鳥類のなかに自我を持つ、ジルフェを大地に結びつけるものを持つ、と言うことができました。人間は地上でその自我を獲得します。ジルフェを大地と結びつけるもの、それは鳥類なのです。ジルフェが自我を、少なくとも自我の意識を有するのは、鳥類のおかげです。参考図:ジルフェ(sylphid)、風を司る精霊・妖精(elementals) さて、人間が夜眠り込んで、さまざまなウンディーネのフォルムに形成されるアストラル的な海に囲まれ、そして目覚めて目覚めの夢を見るとき、この目覚めの夢もまた人生の回想や内部の臓器の比喩という仮面をつけていないとしたら、つまり仮面をつけていない夢を見るとしたら、そのとき人間は、ジルフェの世界と対峙することでしょう。しかし人間にとってジルフェたちは奇妙な姿をとっているでしょう。ジルフェは、太陽が何かを送り出そうとするとき、しかも本来やっかいなしかたで人間に作用する何か、ある種のしかたで人間を霊的に眠り込ませる何かを送り出そうとするときのようなようすをしていることでしょう。なぜそうなのかは、すぐ後ほど聞くことができるでしょう。やはり人間は、もし仮面なしの目覚めの夢を知覚するとしたら、その夢のなかに羽ばたきつつ入り込んでくる何かを、本質的に羽ばたきつつ入り込んでくる光のような何かを見るでしょう。人間はそれを心地よくは感じないでしょう、ジルフェたちの四肢がいわば絡みつき巻き付いてくるのですから。人間は、光が四方から彼を攻撃してくるときのように、光が何か襲ってくるもの、それに対してひどく過敏になってしまうものであるかのように感じます。もしかすると、人間はあちこちでこれを、光が撫でていくように感じるかもしれません。こういうすべてのことで皆さんに示唆したいのは、支え、手探りするこの光が本来ジルフェの形(フォルム)をとって近づいてくるということなのです。次いで火存在たちに移りますと、火存在の場合、これらははかない蝶の本性の補足をしています。蝶はいわば自らその物質的な体、本来の物質的な体をできるだけ作り出さないようにしています、蝶はその体をできる限り希薄にしているわけです。蝶は体に対して光存在なのです。火存在たちは自らを、蝶の体を補完する存在として示します、したがって次のような印象が得られます。つまり一方に物質的な蝶を見て、それをしかるべく拡大したと考え、そして他方に火存在を、火存在たちが一緒にいることはまれで、昨日皆さんにお話ししましたような場合のみですが、それを見るとき、こう感じられるのです、つまりこれらをお互いにくっつけると、翼を付けた人間のようなものが、実際に翼を付けた人間が得られると。ただ蝶をしかるべく拡大し、火存在を人間の寸法に合うように見なければなりません、そうすればそこから翼を付けた人間のようなものが得られるのです。このこともまた皆さんに、火存在たちは本来、実際霊的なものの一番近くにいるこの動物存在の補足をしていることを示しています、これらはいわば、下向きの補足なのです。グノームとウンディーネは上向きの、頭の方に向かう補足であり、ジルフェと火存在は、下へ向かって鳥と蝶を補足します。つまり火存在は蝶と組み合わされねばならないのです。ところで、人間がいわば眠っているときの夢を貫いていくことのできるのと同様のやりかたで、人間は目覚めた昼の生活をも貫いていくことができます。昼の生活では人間はまさにまったく無骨なしかたでその物質体を用います。このことも私は「ゲーテアヌム」誌の論文のなかで述べました。昼の生活では、人間は、次のようなことを洞察するところまで全然到達しておりません、ほんとうは昼の生活の間に常に火の存在たちを見ることができる、火存在たちは人間の思考と、頭の組織から発するものすべてと内的な親和関係にあるからだということをです。ですから人間が、完全に目覚めた昼の意識にあってしかもある意味で自身の外にいるという状態になれば、つまりまったく理性的であって両脚でしっかりと大地に立ち、しかも同時にやはり自らの外にいるーつまりつまり彼であると同時に彼に相対するもの(Gegenueber)である、すなわち自己自身を思考存在として観察することができるーという状態になれば、そのとき人間は知覚するでしょう、火存在たちは宇宙のなかで、もし私たちがそれを知覚すれば、私たちの思考を別の側から知覚できるようにするエレメントを構成していることを。このように、火存在を知覚することは、自己自身を思考する者として見ることに私たちを導いてくれます、単に思考する者としてあり思考を煮詰めるのみではなく、思考の経過を観照することに導くのです。ただ、このとき思考は人間に結び付けられていることをやめます、このとき思考は自らを宇宙思考として呈示します、思考は宇宙における衝動として生き生きと活動するのです。このときひとは気づきます、人間の頭は、あたかもこの頭蓋の内部に思考が閉じこめられているかのように思う幻影を呼び起こしているにすぎないと。思考はそこに反映しているだけなのです、そこにあるのは思考の鏡像です。思考の根底にあるものは、火存在の領域に属します。この火存在の領域に入っていくと、ひとは思考のなかに自己自身を見るのみならず、宇宙の思考内容(Gedankengehalt der Welt)を、本来同時にイマジネーション的な内容である思考内容を見るのです。つまりこれは自己自身から出ていく力であり、思考を宇宙思考として呈示してくれる力です。そう、こう申し上げてよいかもしれません、今や人間の体ではなく、火存在の領域から、つまりいわば地球に入り込んでいる土星の本質から、地上に見られることを眺めると、私が「神秘学概論」で地球進化(☆2)について記述したその通りのイメージが得られると。この神秘学の概要は、火存在の視点から見て、思考が宇宙思考として現れてくるように描かれているのです。こうした事柄に深く現実的な意味があることがおわかりでしょう。けれども人間にとって深く現実的な意味はほかにもまだあります。グノームとウンディーネのことを考えてみてください、これらはいわば、人間の意識の世界と境を接する世界に生きています、すでに境域の向こう側にいるのです。通常の意識はこれらの存在を見ることから守られています、これらの存在は本来すべてが良い種類のものではないからです。良い種類のものは、私が昨日述べましたような、たとえばさまざまなしかたで植物の成長に働きかけている存在たちです。しかしそのすべてが良い種類の存在ではありません。これらの存在たちの活動している世界に進入するやいなや、良い種類のものだけではなく、悪い種類のものもいるのです。こうなると、これらのうちどれが良い種類のもので、どれが悪い種類のものか、見分け方を修得せざるをえません。これはそうたやすいことではありません。私が皆さんに悪い種類のものを描写せざるを得ないしかたから、それがおわかりになるでしょう。悪い種類の存在たちが良い種類の存在たちから区別されるのはとりわけ、良い種類は植物界と鉱物界をよりどころとすることが多いけれども、悪い種類は常に動物界と人間界に接近しようとする、そしてもっと悪い種類は、また植物界と鉱物界に近づく、ということによってです。とは言え、これらの領域の存在たちが持ちうる悪というものについてしかるべき概念が得られるのは、人間と動物に近づこうとする存在たち、本来は高次のヒエラルキアによって植物ー動物界のために良い種類の存在たちに役目として指定されていたことを、人間のなかで実行しようとする存在たちに関わり合うときです。よろしいですか、グノームおよびウンディーネの領域に由来するこのような悪い種類の存在たちがいます、これらは人間と動物に近づき、人間と動物に働きかけて、本来なら下等な動物たちに付加すべきものを人間のなかに物質的なしかたで実現させるのです、人間のなかにはどのみちすでにそれは存在しているのですが。人間のなかにこれを物質的なしかたで実現させようというのです、動物のなかにもです。これらの悪い種類のグノームおよびウンディーネ存在たちがいることによって、人間と動物のなかで、もっと下等な動物ー植物存在が生きるようになります、寄生生物(Parasiten)です。このように、悪い種類の存在たちは寄生生物をもたらすものなのです。とは言え、霊的世界へと境界を踏み越えた瞬間、人間はすぐさまこの世界の策略のなかに入り込む、と申し上げたいのです。実際いたるところに罠があり、人間はまさに小鬼たちから学ばなければなりません、つまり用心することをです。たとえば心霊主義者たちは決して用心することができません。罠はいたるところにあるのです。今やこう言えるかもしれません、悪い種類のグノームとウンディーネ存在たちが寄生生物を発生させるなら、そもそもいったいこれらは何のために存在しているのか、と。そう、これらの悪い種類の存在たちがいなかったら、すなわち人間はその脳塊を作り出す力を自らのなかに発達させることができないでしょう。さてこうして、きわめて重要なことに行き着きます。これを図式的に描いてお見せしたいと思います。人間を、新陳代謝ー四肢人間として、胸ーつまりリズム人間として、さらには頭人間つまり神経ー感覚人間として考えるとき、皆さんにはっきりと理解していただかなければなりません、この下の部分でいくつかのプロセスが進行し、ここではリズム人間は除外しましょう、この上の部分でやはりいくつかのプロセスが進行します。この下で起こっているプロセスを一緒にすると、本質的に、通常の生活ではたいてい誤解されている結果が出てきます、これらは排泄プロセスです、腸を通じての排泄、腎臓を通じての排泄その他、下へと流出するすべての排泄プロセスです。これらの排泄プロセスはたいてい単なる排泄プロセスとしか見られていません。しかしこれはばかげたことです。単に排泄されんがために排泄されるのではなく、上で物質的に脳であるものに似た何かが、出現する排泄物と量を同じくして、下部人間の中に霊的に出現するのです。下部人間において起こっていることは、その物質的発展に関しては道の半分にとどまっています。排泄されるのは、ものごとが霊的なものへと移行するからです。上ではプロセスは完了しています。下では単に霊的にのみあるものが、上で物質的に形成されます。私たちは上に物質的な脳を、下に霊的な脳を持っているのです。そして、下で排泄されるものを、さらなるプロセスのもとに置くなら、その改造を続けていくなら、最終的な変容はさしあたり人間の脳となることでしょう。人間の脳塊はさらなる形成を受けた排泄物です。これは、たとえば医学的な関連にうおいても途方もなく重要なことです、これは16、17世紀においてはまだ当時の医師たちによく知られていたことです。今日、かつての「汚物薬局(Dreckapotheke)」について、軽蔑されて当然な部分もあるとはいえ、非常に軽蔑的に語られております。けれどもそれは、汚物のなかにこそいわば霊のミイラがまだ存在したのだ、ということを知らないからなのです。もちろんだからと言ってかつての数世紀に汚物薬局として現れたものを崇拝しようというわけではありません、私は、ちょうどお話ししましたような深い連関を持つ多くの真実を指摘しているだけなのです。脳はまったくもって排泄物の高次のメタモルフォーゼ[(oehere Metamorphose der Ausscheidungsprodukute)です。したがって、脳の病気は腸の病気と関連し、脳の病気の治療は腸の病気の治療と関連しています。よろしいですか、グノームとウンディーネがいることによって、そもそもグノームとウンディーネが生きることのできる世界があることによって、力が存在します、なるほど下部人間から寄生生物を発生させることもできるけれども、同時に上部人間のなかで排泄物を脳に変容させるきっかけにもなる力です。もし世界が、グノームとウンディーネが存在することができるように作られていないなら、私たちはまったく脳というものを持つことはできないでしょう。破壊の力に関してグノームとウンディーネに当てはまることーー破壊、解体はこのときやはり脳から起こりますーーが、構築する力に関してはジルフェ存在と火存在に当てはまります。これまた同様に、良い種類のジルフェ存在と火存在は、人間から距離をとり、私が示唆しましたやりかたで植物の成長に関わりますが、悪い種類のものも存在するのです。悪い種類のジルフェ存在と火存在はとりわけ、上のほうつまり空気ー熱の領域にのみ存在すべきものを、下へ、水的、土的領域へと運ぶのです。さて、たとえばこれらのジルフェ存在が、上に向かうべきものを、上の領域から下の水および土のエレメントの領域へと運び下ろすときに起こることを研究したいとお思いなら、ベラドンナ(*Belladonna*1)をじっくりとごらんになってください。ベラドンナは、こういう表現が許されるなら、その花がジルフェにキスされ、そのために良い汁であり得たものが、ベラドンナの毒液に変化してしまった植物です。この場合、領域のずれと呼びうることが起こっています。私が先ほど描写いたしましたように、ジルフェが巻き付く力を発達させ、そのとき人は文字通り光に触れられるわけですが、これも上では正しいのですーー鳥の世界がそれを必要としているからです。けれどもこれらのジルフェが下へ降りてきて、そして植物界に関して上に適用すべきことを下で用いると、強い植物毒が生じます。寄生生物的な存在はグノームとウンディーネによって生じ、ジルフェによって毒が生じます、毒とは本来、あまりに深く大地へと流れ込んだ天的なものなのです。人間あるいは動物のあるものが、ベラドンナ、これはサクランボのように見えますが、ただ萼の中に隠れていますーー下に押しつけられているのです、私が今描写したことはベラドンナの形のなかにも見て取ることができますーー、このベラドンナを食べますと、つまり人間あるいはある種の動物がベラドンナを食べますと、それがもとで死んでしまいます。ところが、ツグミやクロウタドリをひとつよくごらんください、これらの鳥はベラドンナの枝に止まり、そこで世界で最良の食料を得ています。ベラドンナのなかにあるものは、ツグミやクロウタドリの領域の一部なのです(*2)。それにしても奇妙な現象です、もともとその下部組織によって大地と結びついている動物と人間たちが、地においてベラドンナのなかで損なわれたものを毒として摂取し、他方ツグミやクロウタドリに代表される鳥たち、つまりジルフェを通じて霊的なしかたでこのまったく同じものを得る、鳥たちは良い種類のジルフェを通じてもこれを得ます鳥たち、上の鳥たちの領域にあるものが下へと運ばれたとは言え、この鳥たちがこれに耐えられる、というのは。鳥たちより大地に強く結びついている生き物たちにとって毒であるものが、鳥たちにとっては食物なのです。こうして、一方においてグノームとウンディーネによって寄生生物が地から他の存在めがけて上昇していき、そして毒が上から滴り落ちてくるようすについて、ひとつの見解が得られるでしょう。これに対して、火存在たちが蝶の領域に属するあの衝動、蝶の進化のために非常に役に立つ衝動で自らを貫き、これを果実のなかへと下ろしてくるなら、たとえば一連のアーモンド類のなかに有毒のアーモンドとしてあるものが生じます。このときこの毒は火存在の働きによってアーモンドの実のなかへと下ろされるのです。そして、いわば私たちが他の果実の場合食しているものが、この同じ火存在によって良いやりかたで燃やされないとしたら、そもそもアーモンドの実というものも生じることができないでしょう。ともかくアーモンドをよくごらんください。他の果実の場合、中心に白い核がありその回りに果肉がありますね。アーモンドの場合、この中心に核があり、回りの果肉は焼き尽くされています。これは火存在の働きなのです。そしてこの働きが節度を失うとき、つまり火存在が実行することが、単に褐色のアーモンドの外皮に入り込むだけならまだ良い種類のものであり得ますが、外皮にとどまらず、外皮を作り出すべきものからわずかではあってもアーモンドの白い核の内部まで入り込むなら、アーモンドは有毒になります。このように、境界のすぐ向こうの世界で隣り合っているこれらの存在たちは、その衝動を実行するとき、寄生生物や有毒の存在の担い手となること、それによって病気の担い手になることについてのイメージが得られます。こうして、病気のなかに人間をとらえることのできるものから、人間が健康な存在としてどこまで抜け出していくかが明かになります。と申しますのも、これは、構築のすべて、自然の成長と芽生え、さらにまた自然の破壊をも可能にするために向こう側に存在せねばならないこれらの存在たちのうちの、悪い種類のものの展開と関係があるからです。これは結局、本能的な霊視から発した、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァについてのインドのそれのようなインテュイションの根底にあるものです。ブラフマーは宇宙領域において、人間に接近することを許されている活動する存在を表します。ヴィシュヌは、構築されたものを絶えず再び取り壊さなければならない、つまり構築されたものが絶えず変化していかざるを得ない、その限りにおいてのみ人間に接近することを許されている宇宙領域を表します。そしてシヴァは、破壊する諸力と関係するすべてを表しています。古代におけるインドの高度な文化の時代にはこう言われていました、ブラフマーは火存在の性質であるもの、ジルフェの性質であるものすべてと密接に関係がある、ヴィシュヌは、ジルフェーウンディーネの性質であるすべてと、シヴァは、グノームーウンディーネの性質であるものすべてと関係がある、と。総じて、これらの古代の表象に遡っていくと、今日自然の根底にある秘密として再び探し出さなければならないものが、具象的に表現されているのがいたるところで見いだせるのです。さて以上のように、私たちは昨日、この不可視の民と植物界との親和性を観察いたしました、きょうは、この不可視の民と動物の世界との親和性を付け加えました。境界のこちら側の存在たちは、いたるところで境界の向こう側の存在たちに干渉し、境界の向こう側の存在たちは、境界のこちら側の存在たちに干渉する、等々です。そしてこの両者の生き生きとした共同作用のことを知るときのみ、可視の世界がどのように展開していくかがほんとうに理解できるのです。人間にとって、超感覚的世界の認識はほんとうに不可欠です、と申しますのも、死の門を通過する瞬間、人間の回りにはもはや感覚世界はなく、このとき別の世界が人間の世界となることが始まるからです。現在の進化において人間はこの別の世界に赴くことはできません、この向こう側の別の世界を指し示す文字を、いわば物質的な顕現から認識することがなかったなら、また、地の動物のなかに、水の動物のなかに、空気の動物のなかに、そして光の動物と申し上げたい蝶たちのなかに、死と新たな誕生との間の私たちの同居人であるエレメンタル存在たちを示すものを読みとるすべを学ばなかったとしたらです。しかし、私たちがこれらの存在について見出すものは、まさにこの誕生と死の間においてはどこでも、粗雑で濃密な部分と申し上げたいもののみなのです。超感覚的なものに属するものは、私たちが洞察力をもって、理解力をもって、この超感覚的世界へと赴くときはじめて認識することができます。参照画:霊的実質を物質的実質に移行させる図□編註☆1 私が「ゲーテアヌム」誌でちょうど夢について述べたこと:ルドルフ・シュタイナー「魂生活について。I. 夢の薄闇のなかの魂の本質」参照。これは最初週刊「ゲーテアヌム」(1923年10月21日、第III巻、第11号)に掲載された。全集版では『現代文明の危機のさなかにおけるゲーテアヌム思想。1921年から1925年の論文集 GA36』349頁以下に所収。☆2 『神秘学概論』で地球進化:第一講の編註☆2参照のこと。□訳註*1 ベラドンナ:和名セイヨウハシリドコロ。ナス科の多年草。葉は卵型、葉の付け根に暗褐 色の花をつけ、黒色の液果を結ぶ。全体にアトロピンなどのアルカロイドを含み猛毒。瞳孔を拡大させる作用があるため、ルネサンス時代のイタリアで、瞳を大きく見せる美用法としてこの植物が用いられたことがあり、ベラドンナ(Belladonna 美しい婦人)という名前はそこに由来すると言う。非常に希釈して(最低でも原液の千万分の一の希釈)ホメオパシー療法でも用いられる。ベラドンナの特性と人間への作用については、『精神科学と医学』(GA312)第19講での説明も興味深い。*2 この点は、『精神科学と医学』(GA312)第15講で、オニグモを食べたツグミがその毒の作用を消すために、ヒヨス(ベラドンナと同じくナス科の毒草)を食べる、と述べられていることとも関連すると思われる。
2024年04月04日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間/Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes 翻訳紹介(翻訳者:yucca)第7講 1923年11月2日 ドルナハ・植物界に関わる目に見えない存在たち・根の精霊グノームと鉱物・グノームは植物を通じて宇宙の理念を知覚する・グノームと両生類・地上的なものへのグノームの反感・水の元素霊ウンディーネは植物の葉で働く・ウンディーネは空気素材を結合し分離する夢見る化学者・ウンディーネと魚・空気ー熱エレメントのなかに生きるジルフェ・ジルフェは鳥の飛翔とともに空気のなかで響く宇宙音楽を聴く・鳥のなかに自我を見出すジルフェは宇宙の愛の担い手・ジルフェは植物に光をもたらす・ジルフェとウンディーネの共同作用により原植物の理念形態が形成される・滴り落ちてくる植物の理念形態を地下でグノームが受け取る・唯物論的科学による植物の受精の説明の誤謬・熱ー空気のエレメントのなかに生きる火の精霊たち・火の精霊は宇宙の熱を集めて植物の花にもたらす・植物の受精は花ではなく、地下で行われる・植物の父は天、母は大地・グノームは植物の生殖の霊的な産婆・火の精霊は蝶、昆虫と一体化しようとする・蜂のオーラとなる火の精霊たち・下降する宇宙の愛ー供犠と上昇する地の密度ー重力の共同作用の現れとしての植物 外的に知覚できる可視の世界に、不可視の世界が属していて、可視の世界と共に一つの全体を形作っています。これは、今私たちが眼差しを動物から植物に転じてみると、まず極めて明白になることです。何はさておき人間を喜ばせる現存する植物は、大地から芽生え萌え出て、秘密に満ちたものと感じられざるを得ない何かへの手がかりを形成しています。動物の場合は、たとえ動物の意志、動物のまったく内的な活動性がすでに人間にとって何か秘密に満ちたものであるにしても、それでも人間は自らにこう語ることができます、まさしくここにはこの動物の意志があり、そしてこの意志から形態が生じる、動物の発現は結果なのだと。しかし植物、これほど多様な形態をとって地球の表面に現れ、これほど秘密に満ちたしかたで大地と大気圏に助けられて種子から生え出る植物について、人間は、この植物界がまさに人間に向かって現れてくる形態で現れてくることができるためには、何か別のものが存在しなければならないということを感じ取らざるを得ないのです。私たちが植物界に目を向けるとき、霊的な観照はすぐさま私たちを溢れるほど多くの存在たちへと導きます、人間の本能的霊視のあった古代にも知られ、認識されていたけれどもその後忘れられ、今日詩人たちが用いる名前のみをとどめ、今日の人類にはそもそもその実在を認められていない多くの存在たちに。けれども、植物の周りに群がり取り巻いている存在が実在を認められないのと同じ程度に、植物界に対する理解も失われています、例えば治療法にとって(☆1)欠くことはできないと思われるこの植物界に対する理解は、実際今日の人類からすっかり失われてしまったのです。さて私たちはすでに、植物界と蝶の世界との非常に重要な関係を知りました、ただしこれが私たちの魂の前に正しく現れるのは、私たちが植物界の活動と営み全体をさらに深く覗き込むときです。植物はその根を地中に伸ばします。ここでそもそも植物から地中へと伸ばされているものを追求するひとは、霊的な眼差しによって、しかも根を正確に洞察するひとは実際そうであらざるを得ないのですが、同時にいたるところで植物の根というものがいかに自然元素霊たち(Naturelementargeister)に取り囲まれ取り巻かれているかを追求することができます。そしてこの元素霊たち、古い観照力がグノームと呼びならわし、私たちが根の精霊(Wurzelgeister)と呼ぶことのできるこの元素霊たちを、私たちはイマジネーション的インスピレーション的世界観によって実際に追求できます、私たちが物質的なもののなかに人間の生活と動物の生活を追求するのと同じようにです。私たちはいわば、この元素霊たちの、この根の精霊の世界の魂的なもののなかを覗き込むことができるのです。この根の精霊たちというのはまったく独特の地中の民で、外的な眼差しにとって最初は不可視ですが、その働きはそれだけいっそう目に見えるものです、と申しますのも、根と土壌の間をこの奇妙な根の精霊たちが中継しなかったらどんな根も生ずることができないでしょうから。根の精霊たちは地中の鉱物的なものを流動状態にして植物の根にもたらします。もちろんこれは、霊的に根底にある経過のことを申し上げているのです。土壌のいたるところに存在しているこの根の精霊たちは、多少とも透明な、あるいは金属にも貫入されている岩石や鉱石のなかで格別心地よく感じますが、自分たちの本来の居場所があるためにもっとも心地よく感じるのは、鉱物的なものを植物の根に媒介するときです、根の精霊たちは、内的な霊的性質のものによってすっかり満たされます、私たちが人間の眼や人間の耳の内的霊的な性質のもののなかで捉えることのできるものとのみ比較することのできる霊的性質のものによってです。と申しますのも、根の精霊たちというのは、そういう霊的性質のもののなかではまさに感覚であるからです。根の精霊たちは本来通常は感覚から成り立っている以外の何ものでもなく、そしてこの感覚は同時に知性でもあり、単に見たり聞いたりするだけでなく、見たり聞いたりしながら即座に理解する感覚、いたるところで単に印象を受け取るだけでなく、いたるところで理念を受け取る感覚なのです。そう、私たちはこの根の精霊たちが理念を受け取るしかたを示すこともできます。よろしいですか、大地から植物が芽吹いてきます(図参照)。植物は、このあとすぐ示しますように、地球外の宇宙万有とつながりを持つようになり、ある季節にはとりわけ、いわば霊の流れ(Geiststroeme/薄紫)が上から、植物の花や実から、下の根に向かって流れます、地中へと流れ込みます。そして私たちが眼を光に向かって差し延べ、そして見るように、根の精霊は、植物を通して上から地中へと滴り落ちていくものにその知覚能力を向けます。このとき根の精霊に向かって滴ってくるもの、これは、光が花の中へと送り込んだもの、太陽の熱が植物のなかに送り込んだもの、空気が葉の中で仕上げたもの、そしてそう、はるかな星々が植物の形成に働きかけたものです。植物は宇宙万有の秘密を集め、それを土壌に送ります、そしてグノームたちは、植物を通じて彼らのところに霊的に滴ってくるものから、この宇宙万有の秘密を自らのうちに受容するのです。そして、とりわけ秋から冬の間中ずっと鉱石や岩石のなかを遍歴しながら、植物を通じて滴ってきたものを携えていくことで、そのことによって根の精霊たちは、地球の内部で全宇宙の理念を地球に浸透させつつ遍歴し携えていく存在となるのです。私たちははるかに宇宙を見渡します。宇宙は宇宙霊(Weltengeist)により築かれ、宇宙理念の、宇宙霊の受肉です。グノームたちは、彼らにとって私たちにとっての光線と同じものである植物を通して宇宙万有の理念を受け取り、それを地球の内部で完全に意識しながら鉱石から鉱石、石から石へと運んでいくのです。私たちは大地の奥底を見下ろします、そうすることで、何らかの単に機械的に作用する自然法則のための抽象理念をそこに探し求めるのではありません、そうではなく私たちは大地の奥底を見下ろして、地球の内部での宇宙知性の光に満ちた番人である遍歴し逍遙するグノームたちを見るのです。このグノームたちは見たものを即座に知るがゆえに、人間と比べても確かに同じ性質の知識を有します、グノームは抜きん出た知性存在であり、彼らは完き知性そのものなのです。グノームにあってはすべてが知性です、ただしそれは普遍的な知性、したがって人間の知性など不完全なものとして見下すような知性です。グノームの世界は実際、私たちがこうしてあれこれのことを把握しようとするときのしばしば難渋し悪戦苦闘する知性を思う存分笑っているのです、グノームはあれこれ思案する必要などまるでないわけですから。グノームは宇宙における知であるものを見ます、そして、人間があれこれのことにどうにか辿り着くために骨折らなければならないと気づくと、とりわけ嘲笑的になります。「どうしてまたそんなことができるんだい」、グノームは言います、「どうしてまたあれこれ考えるなんていう骨折りができるんだい」「見りゃあ全部わかるじゃないか。人間どもはばかだよ」グノームはこう言うのです。「何せあれこれ考え込まなきゃ始まらんのだからな。」挿入図:根の精霊グノームWaermeartig-Lichtartiges(熱ー光的なもの) :Feuergeister(火の精霊たち): Waermetraeger(熱の担い手)Luftartig-Waermehaftiges(空気-熱的なもの): Sylphen(ジルフェたち): Lichttraeger(光の担い手)Feucht-Luftiges(水-空気的なもの): Undinen(ウンディーネたち): Chemiker(化学者)Feucht-Irdisches(水-土的なもの): Gnomen(グノームたち):Lebenspfleger(生を養う者)hell:明色Lila:藤色rot:赤色 さらに申し上げたいのですが、ひとがグノームに論理について語るなら、彼らは不作法なまでに嘲笑的になるでしょう。いったい何のためにそんな無駄なものが必要だと言うんだ、思考への導きだっていうのか。思考はそこにあるじゃないか。理念は植物を通って流れてるじゃないか。何で人間どもは鼻を植物の根みたいに地面の奥に突っ込んで、鼻先にぽたぽた落としてもらわないんだ?太陽が植物に話して聞かせることをさ。そうすりゃ人間どもも少しはものがわかるってもんだろうに。グノームは言います「だけど論理なんかじゃ、ほんのこれっぽっちも知るなんてこたあできっこないのさ。」このようにグノームとは本来、宇宙万象の、万有の理念を、地球の内部で担う者なのです。ところがグノームたちは地球自体を全く好んではおりません。彼らは宇宙万有の理念を携えて地中を飛び回っておりますが、もともと地上的なものを憎んでいるのです。地上的なものは彼らにとってもっとも逃れ去りたいものなのです。それでもやはりグノームたちはこの地上的なもののそばにとどまり続けます。なぜなのかはまもなくおわかりになるでしょう。でも彼らはこれを憎みます、なぜなら地上的なものは、グノームたちに対して絶えず危険を作り出すからです、しかも地上的なものは、グノームたちにある姿をとらせようと、つまり私が前回にここで皆さんに描写いたしました存在たちの姿、とくに両生類、カエルやヒキガエルの姿をとらせようと脅かすからなのです。ですから地中のグノームはこう感じています、あんまり土にくっつくと、カエルやヒキガエルの姿になっちまうと。ですから彼らは大地とあまり癒着しすぎてこういう姿にならないように、絶えずジャンプしています、彼らは、自分たちが属しているエレメントのなかでこうして脅かすこういう土の姿に対して絶えず抵抗しているのです。彼らは土ー水的エレメントのなかにとどまっていますが、そこでは絶えず両生類の姿になる危険に脅かされます。この両生類の姿になることからグノームは絶えず身をもぎ離し、地球外の宇宙万象の理念で自らを満たすのです。彼らは本来、地球の内部で地球外のものを示すものです、地上的なものと癒着することを絶えず避けなければならないからです、さもないと個々のグノームはまさに両生類世界の姿になってしまうでしょうから。そして地上的なものに対するまさしくこの憎悪の感情、嫌悪の感情とでも申し上げたいものから、グノームたちは、植物を地面から追い出す力を獲得します。彼らはその根源力で地上的なものから離れ、この離脱によって植物の上への成長の方向が与えられます、彼らは植物を巻き添えに引き離すのです。これはグノームの地上的なものに対する反感です、これは植物をその根においてのみ土領域に属させ、その後土領域から引き出して生え出させるものです、つまり実際グノームたちは、植物をその生来備わった土の姿から引き離し、上に向かって成長させているのです。さらに植物が上へと成長し、グノームの領域を去って、水ー土的エレメントの領域から水ー空気的エレメントの領域へと移行すると、このとき植物は葉において外的物質的に形状化するものを発達させます。けれども、今や葉において活動しているすべてのもののなかでは、また別の存在たちが作用を及ぼしています、古代の本能的霊視者の術がたとえばウンディーネと呼んだ水の精霊たち(Wassergeister)、水のエレメントの元素霊たちです。グノーム存在たちが根を取り巻いて飛び回り動き回っているのが見られるように、地面の近くでは、この水存在たちが、これら水の元素霊たち、ウンディーネたちがグノームが与えた上への志向を心地よく眺めているのが見られます。ウンディーネたちは、その内なる性質によりグノームたちとは異なっています。ウンディーネは感覚器官のように、霊的な感覚器官のように宇宙万有へと伸びていくことはできません。ウンディーネは本来、空気ー水的エレメントのなかの全宇宙の動き働きに身を委ねることができるだけで、そのためグノームほど利発な精霊ではないのです。ウンディーネは絶え間なく夢見ています、とはいえこの夢が同時にウンディーネ自身の姿なのです。ウンディーネはグノームほど烈しく地球を憎んではおりませんが、地上的なものに対して非常に敏感です。ウンディーネは水のエーテル的エレメントのなかで生きていて、このエレメントのなかを漂い浮遊しています。それにウンディーネは魚であるものすべてに対してとても過敏です、なぜなら、時折とってしまう魚の姿はウンディーネにとって脅威だからです。とはいえすぐまた魚の姿を捨てて別の姿に変容していくのですが。ウンディーネは自らの存在を夢見ています。そして自身の存在を夢見ながらウンディーネたちは結びつけては解き放っています、空気の素材を結びつけては分離しているのです、空気の素材をウンディーネたちは秘密に満ちたしかたで葉のなかにもたらし、グノームたちによって上へと押し上げられたもののところに運んでいくのです。グノームたちは植物存在を上へと押し上げます(前の図参照、明色)。ウンディーネ存在たちがいわば四方からやってきて、植物を取り巻いくこの夢のような意識のなかで、これ以外に言いようがないのですが、宇宙化学者(Weltenchemiker)である証しを見せてくれなかったら、ここで植物存在は干からびてしまうでしょう。ウンディーネたちは素材の結合と分離を夢見ているのです。そして植物がそのなかに生き、上へ向かって地を去りそのなかへと成長していくこの夢、このウンディーネの夢こそが、植物のなかで葉から発して素材の秘密に満ちた結合と分離を引き起こしている宇宙化学者なのです。したがって私たちは、ウンディーネは植物の生の化学者だと言うことができます。ウンディーネは化学を夢見ています。これはウンディーネのなかのきわめて繊細な霊性です、実際そのエレメントを水と空気が触れ合うところに有している霊性です。ウンディーネたちはまったく水的なエレメントのなかで生きています、ところがウンディーネがほんとうの内なる満足を感じるのは、どこか表面に、単に滴(しずく)や何らかの液体であってもその表面にいるときです。と申しますのも、ウンディーネは、魚の姿になってしまわないように、魚の姿をとり続けないように苦心して身を守らなければならないからです。ウンディーネは変容し続けたいと思っています、永遠に常に絶えることなく姿を変えていきたいと思っているからです。ウンディーネはこうして変化しつつ星々や太陽、光や熱のことを夢見ているのですが、この変化においてウンディーネは、今や葉から発して植物をさらに形成させる化学者となります、グノームの力によって上へと押し上げられた植物をです。さてこのように植物は葉を成長させ(前図参照)、植物がそのなかへと成長していくウンディーネの夢として秘密のすべてが明かされるのです。けれども、ウンディーネの夢のなかへと成長していくのと同じく、今や植物はさらに上の別の領域へと入っていきます、グノームが水ー土的エレメントのなかに、ウンディーネが水ー空気的エレメントのなかに生きているように、今度は空気的ー熱的エレメントのなかに生きている精霊たちの領域へ。このように空気的ー熱的エレメントのなかに生きているのは、古代の本能的霊視術がジルフェと名付けた存在たちです。気体状の暖かいエレメントのなかに生きているこれらジルフェたちはしかし、空気はいたるところで光に浸透されているため、光へと押し進み、光に親和的になります、そしてとりわけ、気圏の内部のより精妙でより大きな運動であるものの影響を受けやすいのです。皆さんが春か秋に、ツバメの群をごらんになるなら、飛翔しつつ空気の体を振動させ、運動する空気の形状を引き起こしているツバメの群をごらんになるなら、この運動する空気の形状、とはいえこのときは個々の鳥に備わっているのですが、この空気の形状は、ジルフェにとって聴き取ることのできるものなのです。そこからジルフェに宇宙の音楽が鳴り響いてくるのです。皆さんがどこか、そうですね、船に乗っていて、カモメが飛んでくるとき、カモメの飛翔によって呼び起こされたもののなかには、船の伴奏をする霊的な響きが、霊的な音楽があるのです。さらにまた、この響きのなかで自らを広げ展開させ、この呼び起こされた空気の形状に故郷を見出しているのもジルフェなのです。霊的に響きを発しつつ揺り動かされた空気エレメントのなかにジルフェは自らの故郷を見出し、そこで光の力がこの空気の振動のなかに送り込むものを受け取ります。けれどもこれによってジルフェは、鳥が空中を通り過ぎるところではどこでも、もっとも慣れ親しんだ、我が家のような感じを持ちます、ジルフェは基本的にそれ自身としては多かれ少なかれ眠っている存在なのですが。鳥のいない空中を飛んでいくことを強いられると、これはジルフェにとってまるで自分自身が失われたかのようなものです。空中に鳥が見えるようになると、ジルフェにまったく特別なものがやって来ます。私はしばしば人間にとってのあるできごとを提示しなければなりませんでした、人間の魂を自らを「私/Ich」と言うことに導くあのできごとです。私は常々、ジャン・パウルの言葉(☆2)に注意を喚起してまいりました。人間が最初に私という表象に辿り着いたとき、ヴェールをかけられた魂の至聖所を覗き込むようだという言葉です。ジルフェは自分の魂のこのようなヴェールをかけられた至聖所を覗き込むわけではありません、ジルフェは鳥を見るのです、すると私という感情がジルフェを襲います。鳥が空中を飛翔しつつ自らのなかに呼び起こすもの、このなかにジルフェは自分の私(自我)を見出します。そして外的なものにその私(自我)を点火するために、ジルフェは大気の空間を貫く宇宙的な愛の担い手となるのです。ジルフェはまた同時に、たとえば人間の希望のように生きておりますが、私(自我)を内部に持たず、鳥の世界のなかに持つことによって、宇宙万象を貫く愛の希望の担い手でもあるのです。ですから鳥の世界へのジルフェの深い共感に目を向けなければなりません。グノームが両生類の世界を憎んでいるように、そしてウンディーネが魚に対して過敏でいわば魚に近づきたがらず、魚から離れたがっていてある意味で恐怖を感じているように、ジルフェは鳥の方へ行こうとし、漂い響きを発する空気を鳥の羽に乗せて運んでくることができると、心地よいと感じます。そして皆さんが鳥に向かって、誰に歌を習ったのか尋ねるとしたら、鳥からこう聞かされるでしょう、私に霊感(インスピレーション)を与えるのはジルフェです、と。ジルフェは鳥の姿を好ましく思っています。とはいえジルフェは宇宙の秩序により、鳥になることを妨げられています、ジルフェには別の務めがあるからです。ジルフェの務めは、愛の中で光を植物にもたらすことです(前図、明色と赤)。ウンディーネが化学者であるように、これによってジルフェは植物にとって光の担い手なのです。ジルフェは植物に光を浸透させます、植物の中へと光をもたらすのです。ジルフェが植物のなかに光をもたらすことによって、植物のなかにまったく独自のものが作り出されます。よろしいですか、ジルフェは絶え間なく光を植物のなかに運び入れます。光、すなわち植物のなかのジルフェの力は、ウンディーネが植物のなかに移動させる化学的力に働きかけます。ここでジルフェの光とウンディーネの化学の共同作用が起こります(前図、赤)。これは奇妙な可塑的な活動です。上へと流れてきてウンディーネに加工された素材を助けに、ジルフェはその中に理想的な植物形態を光から織り上げます。ジルフェは実際、光とウンディーネの化学的働きから、植物のなかに原植物(Urpflanze)を織り出すのです。そして植物が秋にかけてしぼみ、物質的な素材であるものがすべて塵と化すと、このときこの植物のフォルムはまさしく滴り落ちていき、それを今やグノームが知覚します、宇宙が、つまりジルフェを通して太陽が、ウンディーネを通して大気が植物に引き起こすものを知覚するのです。これをグノームたちは知覚しているのです。したがってグノームたちは冬の間中ずっと、下で、植物によって土壌のなかに滴り落ちてくるものを知覚するのに忙しいのです。このときグノームたちは、植物のフォルムのなかの宇宙の理念を捉えます、それはジルフェに助けられて可塑的(かそてき)に形成され、精神(霊)ー理念の形態(Geist-Ideengestalt)をとって土壌のなかに入っていきます。植物を単に物質的に、物質として観察する人々は、この精神ー理念の形態について(☆3)何もわからないのは言うまでもありません。したがってここで登場してくるのは、物質的な植物観察にとっての大いなる誤謬、恐るべき誤謬に他ならぬものです。この誤謬を皆さんにざっとお話ししてみましょう。皆さんは唯物論的科学がいたるところでこう記述しているのをごらんになるでしょう、植物はこの土壌に根付き、上にその葉を広げ、最後に花、花のなかの雄蕊(おしべ/Staubgefaesse)、そして雌蕊の子房(Fruchtknoten)、そして普通ほかの植物の葯(やく、ひぐさ/Anthere)、雄蕊から花粉がもたらされ、雌蕊の子房が受精(受粉)して新しい植物の種子ができると。どこにでもこう記述されています。いわば子房が女性的なものとみなされ、雄蕊からやってくるものが男性的なものとみなされていて、唯物論的なものにとどまる限り、異なった見方をすることはできません、ここでは本当にこのプロセスは受精(Befruchtung)のように見えるからです。ところがそうではなくて、受精一般、植物の生殖を洞察するために、私たちが意識しておかなければならないのは、まず第一に植物のフォルム、偉大な化学者ウンディーネが引き起こし、ジルフェが引き起こすものから生じる理想的な植物のフォルムは、地中に沈下しグノームに守られているということです。それは下の方にあるのです、この植物のフォルムは。これをグノームが見て観察した後で、今やこの植物のフォルムはグノームによって地中で大切に守られます。土は、滴り落ちてくるものの母胎となるのです。ここには、唯物論的な科学が記述するのとはまったく別のものがあります。植物はこの上部で(下図参照)、ジルフェの領域を通過したあと、火の元素の精霊たち(Elementar-Feuergeister)の領域に至ります。この火の精霊たちは、熱ー空気的なものを住処としていて、地熱が最高度に上昇させられるか適当な状態になると、熱を集めます。ジルフェが光を集めたように、火の精霊は熱を集めてこれを植物の花のなかにもたらします。挿入図:FeuergeisteMaennlich(男性的)Feuergeister(火の精霊たち)ウンディーネは植物の中に化学エーテルの作用をもたらし、ジルフェは植物のなかに光エーテルの作用をもたらし、火の精霊は植物の花の中に熱エーテルの作用をもたらします。そして花粉、これは今や、いわば熱を載せて種子の中にもたらす小さな空気の舟を火の精霊に提供するものとなります。花糸(Staubfaeden)の助けを借りていたるところで熱が集められ、花糸から子房のなかの種子へと運ばれます。そしてこの子房のなかに形成されるもの、この全体が宇宙からやって来る男性的なものなのです。子房は女性的なものではありませんし、花粉の葯が男性的なものというわけではないのです!そもそも花のなかで受精が起こっているのではなく、花においては単に男性的な種子が形成されるだけです。ここで受精として機能しているものは、宇宙万有の熱から火の精霊たちによって花のなかに宇宙男性的な種子として取り出されたものであり、これが女性的なもの、皆さんにお話ししましたように、形成する植物から理念的なものとしてすでに前もって土壌のなかに滴下され、土壌の中に安らっている女性的なものとひとつにされるのです。植物にとって大地は母であり、天は父です。地上的なものの外で起こっていることはすべて、植物にとって母胎ではありません。植物の母性原理が雌蕊の子房のなかにあるなどと考えるのは、とてつもない誤謬です。子房のなかにあるのは火の精霊に助けられて宇宙から取り出された男性的なものに他なりません。母的なものは、植物の形成層[Kambium]、これは樹皮や木質部に向かって広がっていますが、この形成層から理想的形態として植物にもたらされるものです。そして今、グノームの作用と火の精霊の作用との共働から生まれるもの、これが受精なのです。根本的に言って、グノームたちは植物の生殖の霊的な産婆なのです。そして受精は冬の間に地下で起こります、種子が地中に送り込まれて、ジルフェとウンディーネの作用からグノームが受け取った形態にぶつかるときです、授精しつつある種子にこの形態がぶつかることができるところまで、グノームはこの形態を運ぶのです。おわかりですね、人々が霊的なもののことを知らないために、植物の成長とともに、グノーム、ウンディーネ、ジルフェ、火の精霊ーーこれは以前はサラマンダーと呼ばれていましたがいかに活動し、生きているかを知らないために、植物界における受精という出来事についての理解がまったく不明瞭なのです。つまり、大地の外で起こっていることは受精などではなく、植物界の母は大地、植物界の父は天です。これはまったく文字通りの意味でそうなのです。そして植物の受精は、火の精霊が、葯という空気の小舟に乗せて、凝縮された宇宙の熱として子房のなかにもたらしたものを、グノームが火の精霊から受け取ることによって起こります。ですから火の精霊は熱の担い手なのです。本来植物の成長全体がいかにして起こるか、今や皆さんは容易に理解なさるでしょう。まず下の方で、火の精霊からもたらされたもののに助けられてグノームが植物に生命を与え、それを上方へ押し上げます。グノームは生命の担い手です。グノームは生命エーテルを根に運びます、彼ら自身がその中で生きているあの生命エーテル、これをグノームたちは根に運ぶのです。さらに植物のなかではウンディーネが化学エーテルを、ジルフェが光エーテルを、火の精霊が熱エーテルを養います。それから熱エーテルの果実が下の生命であるものと結びつきます。ですから、植物を理解することができるのは、植物を取り巻いて飛び交い、活動し、生きているものすべてとの関連で植物を観察するときのみです。さらに、植物においてもっとも重要な経過の正しい理解にも、こういう事柄に入り込んで行って、霊的なしかたで入り込んで行って初めて到達できるのです。このことがいったんわかると、ゲーテのあの覚え書きに再会するのは興味あることです、その覚え書きでゲーテは、ある他の植物学者と結びつけて、植物の上部での永遠の結婚(☆4)について人々が語るのに対してひどく腹を立てているのです。草原一面が結婚だらけだ、などと思われていることに対してゲーテは腹を立てました。ゲーテにとってそれは何か不自然なことに思われたのです。それは本能的に非常に確固とした感情でした。ただゲーテにはまだ、ほんとうはどういうことなのかを知ることはできませんでしたが、それは本能的に非常に確固たる感情だったのです。ゲーテはその本能から、花の上部で受精が起こっていると言われるのが理解できなかったのです。ただ彼はまだ、下の方、地下で起こっていること、大地が植物にとっての母胎であることは知りませんでした。けれども、上で起こっていること、これは植物学者たちの誰もがそうみなしているところのものではない、とゲーテは本能的に感じたのです。さて、皆さんも一方において、植物と大地との密接な関係を理解されました。けれどもまた別のものにも目を向けていただかなくてはなりません。よろしいですか、この上部で火の精霊があちこち飛び交うとき、とりわけ葯の花粉を媒介するとき、火の精霊たちはひとつの感情しか持っておりません。それは、ジルフェの感情に比べてより高められた感情です。ジルフェたちは鳥が飛び交うのを見ることによって、自らの自己を、自我を感じ取ります。火の精霊たちはこれを蝶の世界に向かって、昆虫全般の世界に向かってさらに高めたわけです。そしてこの火の精霊たちは、子房にまさに熱の伝達を引き起こすために昆虫のあとを追いかけていくのをもっとも好みます。理念的形態とそこで結びつくために地中に入って行かなければならない凝縮された熱、この熱をもたらすために、火の精霊たちは、蝶の世界、そして昆虫の世界全般に対しても非常に親近感を持っています。火の精霊たちは、花から花へと飛び交う昆虫のあとをいたるところで追いかけます。花から花へと飛び交うこうした昆虫たちを追いかけるとき、実際こう感じられます、このように花から花へと飛び交う昆虫たちはどれもまったく特殊なオーラを有していて、これは昆虫からのみでは全然説明がつかない、と。特に、花から花へと飛び交い、ひときわきらきらと不可思議な光を放ち、ほのかに煌めく玉虫色のオーラを持つ蜂を、そのオーラに基づいて説明するのはきわめて困難です。なぜでしょう?蜂という昆虫はいたるところで火の精霊に伴われているからです。火の精霊たちは蜂に非常に親近感を持っているので、蜂がいると、霊的な眼差しにとってその蜂が、いたるところで本来は火の精霊であるオーラのなかにいるのが見えるほどです。蜂が植物から植物へ、樹から樹へと空中を飛ぶとき、蜂は、本当は火の精霊から与えられたオーラとともに飛んでいるのです。火の精霊は単に昆虫の存在のなかに自分の自我を感じるのみではなく、昆虫と完全に結びつこうとしています。けれどもこれによって昆虫の方も、皆さんにお話ししました力、微光を放ちつつ宇宙へと自身を示すあの力を獲得します。これによって昆虫たちは、自分に結びついている物質的質料(マテーリエ)を完全に霊で浸透し、この霊で浸透された物質的なものを宇宙空間へと放射させる力を得るのです。けれども、炎において光を輝かせるものはまず第一に熱であるように、物質的受肉へと下降させるべく人間を惹きつけるもの(☆5)を、昆虫たちが宇宙空間に放射させるとき、地球の表面にいるのは、昆虫たちです(下図参照、赤と黄)、宇宙を貫き、回りを飛び交う火の精霊たちを貫いてこの行為へと燃え上がっている存在たちです。そして火の精霊たちは、一方では火で浸透された質料を宇宙へと流入させるために活動し、他方では凝縮された火、凝縮された熱が大地の内部に入り込んで、ジルフェとウンディーネから地中に滴下された霊の形態をグノームに助けられて呼び起こすことができるように働くのです。挿入図:Zilfae and Undine(ジルフェとウンディーネ)hell-lila(明るい藤色)rot(赤色)gelb(黄色)よろしいですか、これが植物の成長の霊的経過です。本来人間は下意識において、花咲き芽吹く植物とともに何か特別なものがあるということを予感しているので、植物存在があれほど秘密に満ちたものに思えるのです。この秘密はもちろん引き裂かれてはおりません、驚くべき神秘からは蝶の鱗粉が払い落とされていないからです、とは言え、単に物質的な植物があるだけでなく、植物の力を最初に押し上げる(☆6)、直接理解し、まさに知性を形成するグノームの世界の驚くべき働きも下の方にあるとき、通常植物において人間を魅了し高めるものは、いっそう驚異に満ちたものに思われると申し上げたいのです。いわば人間の知性は重力に屈しないように、私たちが頭の重さを感じることなく頭が持ち上げられるように、そのようにグノームはその光輝く聡明さによって大地的なものを克服し、植物を押し上げます(☆6)。グノームは下で生命を準備するのです。しかし生命は化学機構によってかき立てられることがなければ死滅してしまうでしょう。化学機構をもたらすのはウンディーネです。さらに光がこれに浸透しなくてはなりません。このように私たちには、下から青黒い色調で、グノームから発して上へと弾みをつけられた重力(下図)が上昇してくるのが見え、さらに植物を取り巻いて飛び回り、葉のなかにほのめかされるウンディーネの力、植物が成長することによって素材を混合しまた分解する力が見えます。上からは、ジルフェ精霊によって植物のなかに光が刻印され、ジルフェは今や可塑的な形態を作り出し、これはまた理想化されて下降し、大地の母胎へと受け入れられます。さらにまた植物の回りを火の精霊たちが飛び交い、小さな種子の粒の中に宇宙の熱を集め、これがさらに種子の力とともにグノームのところまで下ろされ、こうしてグノームは下で火と生命から植物を誕生させることができるのです。挿入図:グノームとウンディーネの両生類と魚に対する反感Liebe-Opferkraft(gelb-rot) 愛-供犠の力(黄色-赤色)gelb(黄色)Aufwaerts-stroemende Dichtigkeit(lila)上へと流れる密度(藤色)rot(赤色)Magnetische Kraft(blau-schwarz) 磁気の力(青色-黒色)lila(藤色)blau-schwarz(青色-黒色)さらにまた皆さんは、いかに大地の反発力、密度が、根本的にグノームとウンディーネの両生類と魚に対する反感に帰せられるかおわかりでしょう。土の密度が高いとき、この密度はグノームとウンディーネの反感です、反感によって彼らはその姿を維持するのです。光と熱が地面に下降してくるとき、これは同時に、あの共感の力、担い手であるジルフェの、大気中を運ばれる愛の力の現れ、そして担い手である火の精霊の、自らに下降させる傾向をもたらす供犠の力の現れなのです。ですからこう言うことができます、地の密度、地磁気、地の重力であるものが、上を目指して苦闘することにより、下を目指してくる愛ー供犠の力と、大地の上方で一体化する、と。そしてこのように、下へと流れ込む愛ー供犠の力と上へと流れる密度、重力が混じり合って作用することで、これらが共に作用することによって、両者が出会う地面の上方で、植物存在が、宇宙の愛、宇宙の供犠、宇宙の重力、宇宙の磁力の共同作用の外的な現れである植物存在が生育していくのです。これで皆さんは、私たちをあれほど魅了し、高揚させ、楽しい気分にさせる植物界に眼差しを向けるときに重要なことは何であるかがおわかりになりました。私たちは、物質的なもの、感覚的なものに霊的なもの、超感覚的なものを付け加えて観ることができてはじめて、植物界を見通すことができるのです。これは同時にまた、唯物論的な植物学のたいへんな誤謬を修正することも可能にします、あたかも上の方で受精が起こっているかのよう思う誤謬を。上で起こっているのは受精ではありません、大地の母胎のなかで植物のために前もって準備されているもののために、植物の男性的な天の種子が用意されるのです。□編註☆1 治療法にとって:ルドルフ・シュタイナー/イタ・ヴェークマン著『精神科学的認識による治療法の拡張のための基礎』(1925 GA27)参照。☆2 ジャン・パウルの言葉:ジャン・パウル Jean Paul 本名ヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒター 1763-1825 家庭教師、作家、詩人。ここでシュタイナーにより自由に再現された言葉はジャン・パウルの著作『ジャン・パウルの生涯の真実』(第一小冊子、ブレスラウ1826 2回の講義 53頁)に基づく。字義通りには「非常に幼い頃、ある朝私は家の戸口の下に立って左の木材の層を見ていた、と突然、私は" 私"[Ich]である、という内なる視覚が、天からの稲妻のように私の前に訪れ、以来ずっと輝きつつとどまった、このとき私の自我[Ich]がはじめて自己自身を見たのだ、永遠に。記憶違いはここでは考えられない。どんなにもの珍しい物語も、ヴェールをかけられた人間の至聖所で起こる事件、その新鮮さだけであんなにありふれた付随状況までとどめておく事件には、何かを付け足して干渉することなどできなかったからだ。」☆3 この精神ー理念の形態について:シュタイナー『四つの神秘劇』(1910-1913GA14) 参照。第四の劇「魂の目覚め」第二景:グノームたちの合唱、ジルフェたちの合唱。☆4 永遠の結婚:ゲーテ「進行。飛散、蒸発、滴化」参照。J. W. ゲーテ『自然科学的論文集』所収。 このゲーテ『自然科学的論文集』5巻はキュルシュナーの「ドイツ国民文庫」においてシュタイナーにより編集され註釈を付された(1884ー1897)。復刻版 ドルナハ1975 GA1 a-e 第一巻 163頁☆5 人間を惹きつけるもの:第六講の編註☆1参照。☆6 編集者による原文訂正。意味に即して「押し出す」が「押し上げる」に訂正された。(第七版)人気ブログランキングへ
2024年04月03日
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ルドルフ・シュタイナー(GA230)創造し、造形し、形成する宇宙言語の協和音としての人間Der Mensch als Zusammenklang des schaffenden,bildenden und gestalteden Weltenwortes(翻訳者:yucca)第6講 1923年10月28日 ドルナハ・地球進化においてもっとも古い被造物である人間・土星ー太陽ー月ー地球への進化のなかでの、人間の各部分と個々の動物種の発生、 土星紀:人間の頭と蝶の原基、 土星紀の終わりから太陽紀前半:人間の頭ー胸組織と鳥類、 太陽紀後半:人間の呼吸組織とライオン 月紀前半:人間の腹部ー消化組織と牛 月紀後半:人間の消化器官と爬虫類、両生類・人間と動物の形成のされかたの違い・蝶、鳥の形姿は地上に下降してくる前の人間の霊的形姿を思い起こさせる・蝶コロナと鳥コロナが、霊界にいる人間を再受肉へと誘う・人間の胎児期の形成・人間の進化において内から外へと働くものが、動物においては外から内へと働く・地球のエーテル要素のなかに生きる魚・地球のアストラル要素のなかに生きるカエル・人間の消化器官と両生類、爬虫類・円の集中と放射の図によるマクロコスモスとミクロコスモスの照応・植物界、鉱物界への架け橋・鉱物質のものの意味、霊人(Geistesmensch)と松果腺の脳砂 さて地球での生存において人間と結びつけられている動物、植物、鉱物存在を考察することに移る前に、本日私たちは人間自体の進化に眼差しを向け、いくつかのことを魂の前に思い描かなくてはなりません、これらは、私が口頭であるいは著作で行なってまいりましたさまざまな説明から周知のこととは思いますが、一度ここで概観的にまとめておくことが必要なのです。今日、外的な科学から私達が学ぼうとすれば、通常こういうことになります。つまり高等な生物、そうですね、植物界、次いで動物界、人間界といったいわゆる高等生物が、生命のないいわゆる無機的な物質あるいは力からどのように発生してきたかを探究せねばならないと言われるわけです。進化を真に観ると、根本的に別のことが明らかになります。つまり皆さんが『神秘学概論』から読み取ることがおできになるように、今日私たちの前に立っているような人間は、もっとも長い進化を経てきて、その進化は古い土星紀にまでさかのぼるそういう存在であることが明らかになるのです。したがって私たちは、人間はこの地球進化のうちでもっとも古い被造物であると言わなければなりません。太陽紀になってようやく動物が、月紀になって植物が付け加えられました、そして今日私たちが有しているような鉱物界は、本来地球の結果であり、地球進化期になってはじめて付け加えられたのです。さて、ひとつ今日の形態をとっている人間をよく見てこういう問いかけをしてみましょう、進化史の上で、人間そのもののうちでもっとも古い部分はいったい何なのだろうと。それは人間の頭です。この人間の頭が最初の原基(素質/Anlage)を受け取ったのは、地球がまさにまだ土星変容の段階にあった時期でした。言うまでもなく土星変容はただ熱実質からのみ成り立っていて、この人間の頭というのも、本来沸き立ち、息づき、波打つ熱だったのです、その後太陽紀には気体の形状をとり、月紀の間は液体状に流動する実体(Wesen])でした、そして、地球紀に骨の含有物をともなった固い形態を獲得しました、したがってこう言わなければなりません、今日当然のことながら外的認識をもってしては思い描くことが困難な実体、人間の頭はこの実体の後裔なのだと。この人間の頭形成と同時に、このことは皆さんも私の前回の説明から察知されるでしょうが、この人間の頭形成と同時に、古い土星紀の期間に蝶存在への原基が生じました。後ほどその他の昆虫存在ももっと詳細に考察するでしょうが、まずは蝶存在にとどまりましょう。したがって私たちが古い土星紀から今日まで、現にある地球まで進化を追求するとき、こう言わなければなりません、このとき人間の頭の精妙な物質的形姿(フォルム)が原基として形成される、蝶存在として空中を飛び交うすべてのものが形成されると。この両方の進化はさらに進みます。人間は内面化し、その結果ますます、魂的なものを顕現させる存在、内から外へと進む存在となっていきます、つまり図式的に表現すると、自らを内から外へと放射しつつ進化させる存在です。それに対して蝶存在というのは、これはその外面に、宇宙がその美という積み荷をことごとく降ろしている、とでも申し上げたい存在です。蝶はいわばその翅の鱗粉に、私が皆さんに説明いたしましたようなしかたで宇宙における美と荘厳として存在しているすべてが飛来して付着している存在なのです。つまり私たちは、蝶という存在を、いわば上なる宇宙の美の鏡像であるというように思い描かなくてはなりません。人間は上なる宇宙を自らのうちに受け入れ、自らのうちに閉じこめ、内部で魂的となり、宇宙の収縮、つまりその後外に向かって放射して人間の頭において形姿を得る収縮のように魂的となって、その結果頭においては何か内から外へと形成されたものが得られるのですが、他方蝶存在においては、外から内へと形成されたものが得られるのです。ですから、こういう事柄を霊視者のように観察するひとにとっては、そのひとが以下のようなしかたでことを進め、こう言うとき、実際途方もないことを学ぶことになるのです、つまり、私は秘密を、人間の頭の土星の秘密、もっとも古い秘密を徹底的に究明するつもりだ、この頭蓋の内部で本来力として統べていたのは何かを知るつもりだと言うときです。そのひとは、外部のいたるところに見られるもの、外部のいたるところに照射してくるものに自らの注意を向け、そして蝶存在を研究しなければならないのです。お前自身の頭部の奇跡を学び知るためには、外なる自然において蝶がいかに生ずるかという奇跡を探究するがよい、これはつまり、霊視者的宇宙観察が与えてくれる偉大な教えです。土星紀から太陽紀へと進化がさらに進むと、さらなる形成、空気への変形つまり頭の空気変容を有する存在が生じますが、これは後になって胸形成物、人間の呼吸・心臓形成物になる精妙な実質に組み込まれます。つまりここ土星において私たちが有しているのは、まだ根本的に人間の頭を示している変容なのです。もちろん後になってからとる形姿ですが。私たちが太陽紀に到達すると、頭・胸人間が得られます、これは現在人間の胸であるものに組み込まれます。しかしすでに土星紀の最後と太陽紀の最初の時期において同時に、私たちが鷲のなかにその代表となるものを見出さねばならないものがすでに出現しているのです。鳥類は太陽紀の前半に生じ、太陽紀の後半には本来の胸動物、たとえばライオンのような、代表的なものとしてライオンですが、その他の胸動物も勿論いますが、胸動物である動物種の最初の原基が生じます。したがってこれらの動物の最初の原基は古い太陽紀まで遡るのです。皆さんはこのことから、高等動物と人間の形成のされかたそのものにいかに著しい違いがあるかおわかりになるでしょう。私は、猿の類も含む過渡的な動物についてもいずれもう少しお話しするでしょうが、今日のところは包括的な概念を与えておくだけにとどめようと思います。人間形成と高等動物形成にはいかに著しい違いがあるか、おわかりになるでしょう。人間においてはまず第一に、進化において頭が形成される、ということです。その他のものは、いわば頭形成に付属している付属器官となります。人間は宇宙進化においてその頭から下方へと生長していくのです。これに対してライオンは、たとえば古い太陽紀、古い太陽紀の後半に、まず胸動物として出現する動物です、まだ非常に小さな、萎縮した頭を持った力強い呼吸動物としてです。太陽が後になって地球から分離して外から作用するようになる、そういうときになってようやく、胸から頭が生じます。つまりライオンは、胸から上に向かって発達していくという成長をし、人間は頭から下へ向かって発達していくことで生長するのです。これは全進化における著しい違いです。私たちが地球の月変容へとさらに進んでいくことにより、むろん後の時代になって角質状になるにしても月は水変容を示しているがために、月は水性のものであるがために、ここではじめて人間は、下へと向かうさらなる継続をこの時点から必要とするようになります。消化組織(システム)の原基が形成されるのです。古い太陽紀の期間、光を透して波打ち、光を透して輝く空気状のものしかない間は、人間もその栄養摂取のためには下に向かって閉じた呼吸器官さえあればよいのです、人間は頭部ー呼吸器官なのです。さて月紀において今や人間は自らに消化組織を組み込みます。それと同時に人間は、頭、胸、下腹部となるにいたるわけです。そして月においてはすべてがまだ水状の実質であるため、人間にはこの月紀の期間、それを使って水中を泳いでいく突起(こぶ/Auswuechse)があります。腕や脚について語ることができるようになるのは、地球紀になって重力が作用し、とりわけ重力の方向に置かれたもの、つまり四肢が形成されてからのことです。つまりこれは地球紀になってから起こることです。けれども月紀の間に、後の時代とはまだまったく別様に作られていたとはいえ、消化器官が形成されます、この人間の消化器官は、まだ四肢の自由で恣意的な動きの処理に仕えるすべてのものを摂取する必要がないように作られています。これはまだ根本的に別の消化器官であり、これがのちに、地球消化器官である消化器官に変容するのです。とは言え、人間は月紀の間に消化器官を自らに組み込みます。さらにまた、蝶、鳥、そしてライオンに代表されるような種の後裔に、今や主として消化への傾向を持つ動物たちが加わってきます。つまりこの月紀の間に例えば私たちが牛によって代表させたものが付け加わるのです。けれども人間と対照的に、牛の成長はどのようなものでしょうか。それは、牛はこの古い月紀の間にまず主に消化器官を形成するということです、月が分離したあとで、消化器官から胸器官と独特に形成された頭が生え出てくるのです。人間は頭において発達を始め、それから胸、胸変容が続き、さらに消化器官が続く、ライオンは胸の器官から始まって、頭がそれに続き、人間と同時に月紀の間に消化器官を得るのですが、他方牛に代表される動物の場合は、最初の原基としてまず消化器官があり、次いでこれらから生え出てくるように、胸の器官と頭部器官が形成されます。つまり皆さんは、人間は頭から下へ、ライオンは胸から上と下へと生長し、牛は消化器官から胸へ、そしてようやく頭へと生長する。これを人間と比較すると、いわばまったく上に向かって、心臓と頭に向かって生長するということがおわかりでしょう。このことから人間の進化を観ていくことができます。さて、当然こういう問いが出てくるでしょう、このとき仲間のごとく人間の進化に参加するのは牛だけなのかと。単に牛だけではなく、こういう何らかの惑星変容が起こるときはいつも、古い存在たちがさらに進化し、しかも新しい存在が生じるのです。牛は月変容の最初の時期にはもう出現しています。けれども月変容の最後にその最初の原基を獲得するほかの動物たちもさらに加わります。これらの動物はたとえば、月はすでに外部にあるために、もはや去っていく月を経験することができません。つまりこれらの動物は、この月の分離が引き起こすこと、つまり月がいわば牛の腹から心臓器官と頭器官を引き出すことを経験できません、後から出現する存在たちは、人間において消化によって固定されている地点にとどまっているのです。こうして、もともと消化動物のみであり続ける存在たち、人間がその腹部に有している段階にとどまっている存在たちが出現します。鷲と蝶が頭に、ライオンが胸に配分されるように、牛が下腹部に配分されるように、ただし、牛は同時に上部のものをすべてのちの進化において生え出させる動物として、と申し上げたいのですが、ちょうどそのように、両生類および爬虫類、つまりヒキガエル、カエル、ヘビ、トカゲその他は、こういう表現を用いてよろしいなら、人間の下腹部、人間の消化器官にのみ配置されます。ここで純粋な消化器官が動物として出現するのです。 蝶 鳥 ライオン 牛 両生類、爬虫類 魚 土星: 太陽: 月: 頭 頭ー胸 頭ー胸ー下腹部これらは月紀の後半にきわめて不格好な形姿で出現し、実際生ける胃腸、生ける胃と腸管なのです。その後地球紀になってようやく、これらはやはりまだ格別上品にも見えない頭部分を獲得します。カエルやヒキガエル、あるいはヘビをよくごらんください。これらはまさしく後の時代に消化動物として出現します、人間がその消化器官を、すでに以前得たものにいわば単に付け加えることができる、そういう時代になってです。地球紀において、人間が重さと地磁気のもとでその四肢を形成すると、このときむろんカメも、私見によりカメを代表的なものとして取り上げてみましょう。その頭を頭というよりはむしろ四肢器官のように甲羅から差し伸ばします。このように私たちは、両生類と爬虫類においてこの頭がいかに不格好に形成されたかも理解することができるのです。頭の形成については実際のところ、それが正しいにせよ、まさしくこういう感情が起こるほどです、こういう頭では口からたちまち胃の中だと。そこにはあまり仲介物はないのです。つまり人間を観察してその本性を動物の仲間に配分すると、爬虫類と両生類のなかに含まれるものに人間の消化活動を配分しなければならないのです。そして事実こう言うことができます、人間がその消化の産物を腸のなかに持ち回るように、宇宙は地球という迂回路をとって、ヒキガエル、ヘビおよびカエルを、いわば宇宙の腸のなかで、地球の水ー土状のエレメントのなかに宇宙が形成する宇宙の腸のなかで持ち回っているのだ、と。これに対して人間の生殖とより関連のあるもの、全般に月紀の最後になってはじめてその最初の原基のなかに形成されて地球変容になってようやく発生するもの、これに親和性があるのは魚です、魚とさらに下等な動物たちです。したがって私たちは魚を進化において遅れてきたものとみなさなければなりません、つまり、進化において人間の場合生殖器官が消化器官につけ加えられるときに、ようやく他の動物たちに付け加えられる存在とみなさなければなりません。ヘビは本質的に、生殖器官と消化器官の間を中継するものです。人間の性質を正しくのぞき込むと、ヘビは何を現わしているでしょうか。ヘビはつまりいわゆる腎臓導管(Nierenkanal)を現わしています、ヘビは宇宙進化において人間の腎臓導管が形成された時期に出現したのです。このように私たちは、人間がどのようにその頭から始まって下へと生長するか、地球がどのように人間から四肢を引き出して、この四肢が地球の重力と磁力の均衡をとるようにこれを用いるか、正しく追求することができます。そしてこの下への生長と同時に、さまざまな動物のグループが形成されます。おわかりですね、このようにしてその被造物をともなう地球進化の正しい像が得られるのです。この進化にしたがって、これらの被造物は、今日私たちに見せているような姿に発達したのです。皆さんが蝶と鳥をよくごらんになれば、もちろんこれらは地上的な形姿を有しています、けれども皆さんは先の説明から、蝶は本来光の生きものであり、地上的素材は蝶に付着しているだけだということをご存じです。蝶自身が自分が何であるかを皆さんに語ることができるなら、蝶は皆さんに告げるでしょう、蝶は光からできた体を持っていることを。すでに申しましたように、蝶は地球素材として自らに付着されているものを荷物のように、何か外的なもののように身につけているということを。同様に、鳥は暖かい空気の動物であると言えるかもしれません。と申しますのも、本当の鳥は、鳥のなかに拡がっている暖かい空気だからです。ほかのものは鳥がこの世で引きずっていく荷物なのです。こういう動物、つまり実際今日なおその光の性質、熱の性質を、地上的な覆い、土の覆いや水の覆いで包んで維持しているだけのこういう生きものたちは、全地球進化のもっとも初期に出現しました。これらの生きものが有している形姿は、人間が地上生活に下降する前に霊界で過ごす時を今でも見はるかすことのできるひとに、この霊界で経験されたことを思い起こさせます。なるほどこれらは地上的な形姿です。地上の素材が付着されているからです。けれども皆さんが、蝶であるこの浮遊し活動する発光存在を正しく思い浮かべるなら、地上的なものが付着しているものをこれらから除外して考えてくださるなら、その翼であるものによって鳥を暖かい空気存在にしている多量の力を、単に輝く光線として考えてくださるなら、そう考えてくださるなら、その外面の覆いのゆえにのみそのような姿に見え、やはりひとえにこの外面の覆いのゆえにそういう大きさであるこういう生きものたちは、やはり地上に下降する前の人間存在のことを知っているひとに、人間存在の地上へのこの下降を思い出させます。このように霊界をのぞき込むひとは、そのときこう言います、蝶のなかには、鳥のなかには、人間が地上に下ってくる前に生きていたあの霊の形姿を、高次のヒエラルキアの存在を思い起こさせる何かがある、と。理解力をもって蝶と鳥を眺めると、これらは、まだ地球進化に下降していなかったときに自らの回りに有していた霊の形姿の、小なるものに置き換えられた、変容された記憶なのです。地球素材は重く、克服されねばならないので、蝶は本来有しているその巨大な姿を、小さなものに縮めているのです。皆さんが蝶から地球素材であるものをすべて分離することができたなら、蝶は霊存在、発光存在として大天使の姿にまで拡がることができるでしょう。私たちはすでに、空中に棲まう動物たちのなかに、高次の領域に霊に即したしかたで存在しているものの地上的な模像(似姿)を有しています。したがって本能的な霊視者の時代において、飛行する動物の形姿から高次の霊存在の象徴的形姿、具象的形姿を創り出すことは、申すまでもなく芸術的な営みだったのです。それには内的な根拠があるのです。根本において、蝶と鳥の物質的な形姿は霊存在の物質的変容にほかなりません。霊存在たちは変容するわけではありませんが、蝶と鳥は霊存在たちの変容した模像なのです、もちろん両者は別の存在ですが。したがって、私がすでにお話ししましたことに遡りもう一度以下のことを描写いたしましたら、皆さんにもっとご理解いただけるでしょう。私は皆さんに、蝶は本来光の生きものであり、その生存中から絶えず霊化された地球素材を宇宙に送り込んでいると申しました。さて私は、このとき宇宙に送り込まれるこれらの霊化された地球素材を、通常の太陽物理学の表現を拠り所に蝶コロナ(metterlingskorona)と呼びたいと思います。このように絶えず蝶コロナが宇宙に放射されているのです。けれども、この蝶コロナのなかに、鳥類が死ぬたびに宇宙に委ねるものが放射されます、こうして鳥類によって霊化された素材が宇宙に放射されていくのです。このとき外部から霊的に見ると、蝶類から発する煌めくコロナ、一定の法則によりこれは冬にも維持されますが、その光景、鳥たちから流出するものがより光線状にそのなかに入り込んでいくのが見られます。よろしいですか、人間がまさに霊界から物質界に下降しようとするとき、そのとき人間をこの地上での生存へと呼び寄せるのは、まず第一にこの蝶のコロナ、霊化された地球素材のこの独特の放射です。そして鳥コロナの光線、これはもっと引き込む力のように感受されるものです。今や皆さんは大気圏のなかに生きているものの高次の意味をおわかりになるでしょう。まさに現実において生きて活動しているもののなかにいたるところに霊的なものを探求しなければならないのです。霊的なものを探求してはじめて、個々の存在領域がいかなる意味を持っているかということに到達します。地球は、蝶コロナの光放射と鳥コロナの光線を宇宙空間に送り出すことで、いわば人間を再受肉へと誘うのです。これは、人間が死と新たな誕生との間しばらく純粋な霊界で過ごしたあと、再び新たな地上生へと人間を呼び寄せる(☆1)ということです。ですから、人間が蝶の世界や鳥の世界を見る際に当然持つ複雑な感情の謎を解くことを困難に感じるのも不思議はありません。と申しますのも、実際に存在しているものは、下意識の底深く潜んでいるからです。実際に存在しているのは、新たな地上生への憧れの記憶です。これはまた、これも私が皆さんにしばしばご説明したことと関連しています。つまり、人間は死の門を通って地球から去った後、結局その頭を分散させ、それからそれ以外の生体組織を、むろんその力にしたがってであってその素材にしたがってではありませんが、次の地上生における頭へと作り替えるということです。つまり人間は本来、下降を求めることによって頭を求めるのです。そして頭は、すでにその後の人間の形態に似た姿で人間の胎児において最初に形成されるものなのです。これらすべてがそうであるということ(☆2)は、この頭へ向かっての形成が、人間を超感覚的なものから感覚的な生存へと引き寄せる飛翔する世界で作用し活動しているものと密接な親和性があるということと関連しています。人間がその胎児期にまず最初に頭組織を獲得すると、このとき消化組織その他であるものが、母体のなかに配置されて、地上生から形成されます。上にあるもの、頭形成が、熱状のもの、空気状のものと関連しているように、土・水分要素(エレメント)と関連しているのは、進化の後の方で人間に組み込まれたもの、今新たにその胎児期の間に組み込まれるものの写しです。けれどもこの土・水分要素は人間のためにまったく特殊なしかたで準備されなければなりません、つまり、ほかならぬ母体のなかでです。それが外部で地球的なもの、地上的なもののなかに分散されてそれ自身でのみ形成されるなら、それは下等動物の形姿、両性類や爬虫類であるものへと形成されます、それは魚やまだ下等な動物であるものへと形成されるのです。蝶が本来自らを光存在とみなし、鳥が自らを暖かい空気存在とみなすのは正当であるにしても、下等な動物、両生類、爬虫類、魚類はそうすることはできません。まずはひとつ魚をみてみましょう。今日見られるような魚は、外部に出現するとき、外的形成にいわば委ねられています、この形成においては人間には内部から作用する力が外部から魚に作用するのです。魚は主として水の要素のなかで生きています。しかし水というのは、化学者にとっての単なる結合した水素と酸素であるのみではありません、水は可能な限りのあらゆる宇宙の諸力に浸透されています。星々の力さえ水の中に堂々と入ってきます、もし、水がまさに水素と酸素の均質な結合であるだけなら、水のなかではどんな魚も生きられないでしょう。けれども蝶が自らを光存在と、鳥が自らを暖かい空気存在だと感じるのとまったく同様に、魚も本来は自らを土・水的存在と感じます。魚が自らのうちに吸い込む本来の水、この水を魚は自らの本性だとは感じません。鳥は自分が吸い込む空気を自らの本性と感じます。つまり鳥は本来、図式的に表現しますと、空気として鳥の中に入り込んできて、至るところに拡がっていくものを自分の本性だと感じています、この拡がっていき鳥によって暖められる空気(図参照、青[blau])これが鳥の本性です。魚は自らのうちに水を有していますが、魚は自らを水とは感じません、魚は自らを、水を閉じ込めるものと感じます、魚は自らを水を取り巻くものと感じるのです。魚は自らを、こうしたきらきら光る水の覆いあるい外皮と感じるのです。しかし水というものを魚は、自分の中で出たり入ったりしているなじみのない要素と感じています、水は魚の中で出たり入ったりすることで、魚が必要としている空気をも同時にもたらすのですが。けれども魚は空気と水を何かなじみのないものと感じます。魚はとりもなおさず物質的な魚としては、それを何かなじみのないものと感じるのです。とは言え、魚もまたエーテル体とアストラル体を持っています。これはまさに魚の奇妙なところなのですが、魚は本来自らを覆いと感じ、魚の中で水がその他の水的要素と結びついたままでいることにより(☆3)、魚はエーテルを自分が本来そのなかで生きているものだと感じるのです。アストラル的なものを魚は自分の一部だとは感じません。ですから魚は、このようにまさしくエーテル動物である奇妙な動物なのです。自分自身を魚は水のための外皮と感じています。自分の中にある水を、魚は世界のすべての水と連携しているものと感じます。魚にとっていわば至るところに水分が連なっていくのです。まさに至るところに水分があり、この水分のなかで同時に魚はエーテルを感じとるのです。(図参照 fish_ ether-1)記:エーテル(Ether)は、古代ギリシャの神話において、空間を満たす非常に細かな物質として考えられていました。ギリシャ神話では、エーテルは大気や空間を支配する神々の住まいであり、神聖な力や神秘的な性質を持つものとされていました。古代ギリシャの哲学者たちは、エーテルを万物の根源や宇宙の基礎要素として理解し、天体の運動や宇宙の構造を説明するために使用しました。エーテルの概念は、古代ギリシャの思想や科学において重要な役割を果たしていました。魚はもちろんこの地球上での生においては口がきけませんが、もし話すことができて、自分をどう感じるか語ることができるとしたら、魚は皆さんにこう言うでしょう。私は覆いです、でもこの覆いは、至るところに拡がっている水の要素、エーテル要素の担い手である水の要素を運んでいるのです。私はほんとうはエーテルの中を泳いでいるのですよと。魚は語るでしょう、水というのはマーヤにすぎません、実在はエーテルです、私はほんとうはエーテルの中を泳いでいるのですと。つまり魚は自分の生命を地球の生命と感じているのです。これが魚の奇妙なところです、魚は自分の生命を地球の生命と感じ、したがって四季の循環のなかで地球によって成されている全てに密接に関わっています、夏におけるこのエーテル力の放出、冬におけるこのエーテル力の回帰にです。ですから魚は全地球のなかで呼吸しているものを感じています。魚はエーテルを地球の呼吸として感じ取っているのです。以前ここでヴァックスムート博士(☆4)が地球の呼吸についてお話しされました。参照画:Gunther Wachsmuth(ヴァックスムート)とてもすばらしい説明でした。魚がもし講演術を学んだなら、自身の経験から魚はここで同じ内容を講演することができるでしょう、と申しますのも、魚はここで講演されることすべてを、それに属する現象を追求することから感じ取っているからです。魚は四季の経過の間の地球の呼吸生活をまったく並外れたしかたで経験している動物です、なぜなら魚にとって重要なのは、まさにエーテル生命要素、波打ちつつ出たり入ったりし、他の呼吸するものをひたすら巻き込んでいくエーテル生命要素だからです。爬虫類と両生類、たとえばこの点できわめて特徴あるカエルの場合は事情は異なります。これらは宇宙のエーテル要素とはあまり関係なく、むしろ宇宙のアストラル要素と関係しているのす。魚に、そもそもお前はいったいどうなっているのかと尋ねれば、魚はこう言うでしょう。「そうですねえ、この地球上では私は土になった被造物です、土と水の要素から出来ています、でも私のほんとうの生命は、宇宙の呼吸とともにある地球全体の生命なのですよ」と。カエルの場合は違います、カエルの場合は事情はまったく違うのです。カエルは普遍的に拡がったアストラル性に参加しているのです。このことについて私は皆さんに植物の場合をお話しいたしましたし、さらにもう少しお話ししていくでしょう、宇宙のアストラル性が花の上部にいかに触れているか、ということについてです。このアストラル性、いわば地球のアストラル体とカエルが関係しているのです、ちょうど魚と地球のエーテル体が関係しているようにです。魚はそのアストラル体をもっと自分自身のために有しています。カエルはもともとそのエーテル体を自分のために、魚よりもはるかに甚だしく自分自身のために有しています、しかしカエルはアストラル的なもの一般のなかに生きています、したがってカエルはとりわけ、四季の循環において起こっているあのアストラル的な経過を共に体験します。そこでは地球が、水の蒸発と水の再落下のなかにアストラル性を戯れさせているのです。唯物論的に考えるひとは当然こう言うでしょう、水は私の知るところでは、あれやこれやの空気力学的な(aerodynamisch)、あるいは空気機械学的(aeromechanisch)な力によって蒸発するのだ。上昇があり、水滴が形成され、充分に重くなると、落下すると。しかしこれは、人間の血液循環について、血液循環のなかではすべてが生きているということを考慮することなく同様の理論を立てる場合とほぼ同じことです。このように、上昇し下降しつつ迸る水の循環のなかには地球のアストラル気圏が、地球のアストラル性が生きているのです。私がこう申し上げるとしても、私は皆さんにおとぎ話のようなことをお話ししているのではありません、まさしくカエルは、ほかの両生類の場合にもこれはあるのですが、もっと気象状態のなかに後退しています。気象学のなかに展開しているこのアストラルの戯れとともに生きているとお話ししてもです。カエルはご存じのように単に、よく知られた単純な方法で天気予報するものとして利用されるのみではありません、天気予報するのはそのアストラル性をもって地球のアストラル性に混合されていることにより、不思議にもこの戯れを共に体験しているからです。カエルは自分が感情を持っているとは言いません、そうではなくカエルは、雨期、乾期などに地球が持っている感情の単なる担い手にすぎないのです。ですから皆さんは、ある気象状態のもとで、多かれ少なかれ、素晴らしいかあるいはひどいカエルの音楽会を経験なさるわけです。本質的に言ってこれは、カエルが地球のアストラル体のなかで共に体験していることの表現なのです。カエルはほんとうに、全宇宙からそのきっかけを与えられることなしに鳴くことはありません。カエルは地球のアストラル体とともに生きているのです。私たちはこのように言うことができます、土・水的要素のなかに生きているものは、実際のところ、地球的なものをよりいっそう共に体験するいうことだと。つまり魚の場合は地球的生命状態を、カエルと爬虫類ー両性類全般の場合は地球的感受状態を共に体験するのです。逆に、人間の消化組織であるものすべてを研究しようとするなら、こう言わなければなりません。この消化組織は、むろんまたこの図式にしたがって内部から形成されると。しかしこれらのものがどのように機能を果たしているかを真に研究しようとするひとは、両生類、爬虫類に向かわなければなりません。と申しますのも、人間がその消化器官の中を力として押し進めているものが、両生類・爬虫類には外から飛来してくるからです。人間が消化に用いるのと同じ力で、外なる宇宙、外なる自然はヘビ、ヒキガエル、トカゲ、カエルを形成するのです。そして正しく、お許しください、けれども自然においては何ら醜悪なものはありません、すべては客観的なしかたで論義されねばならないのです。そうですね、人間の大腸の内部の性質を、その排泄の力とともに正しく研究しようとするひとは、外的にヒキガエルを研究しなければなりません。と申しますのも、人間の大腸の中でこの図式にしたがって内部から作用しているものが、ヒキガエルに外から飛来してきているからです。これは描写という点では、私が蝶のために描写せねばならなかったことのように美しいものではありません。しかし自然においては、あらゆるものがまさに客観的な平等において受け入れられねばならないのです。よろしいですか、このようにして今や皆さんも、地球は地球自身の方でも宇宙的生を共に体験しているということについてひとつのイメージを得られるのです。と申しますのも、いわば地球の排泄の器官を眺めてごらんなさい、地球は単に、生命に乏しい人間の排泄物を排泄するのみならず、もっと生命的なものを排泄します、地球の本来の排泄物はたとえばヒキガエルであり、このなかで地球は使用できないものを処理するのです。これらすべてのことから皆さんは、いかに自然の外部がいたるところで内部と照応しているか、おわかりになるでしょう。ここで「自然の内部へは創造する霊(Geist)は入り込んでいかない」(☆5)と言うひとは、外界のいたるところに自然のこの内部が存在しているということを知らないだけなのです。私たちが人間全体をその内部存在にしたがって研究することができるのは、私たちが外部宇宙において活動し生きているものを理解するときです。私たちがこれを、この人間を、頭から四肢まで研究することができるのは、私たちが外界に存在しているものを研究するときです。宇宙と人間はまさに完全に補完し合って全体を成しているのです。さらに、図を作成できるかもしれない、とも言えます、それは次のようなものでしょう、大きな円があります、大きな円はその力を一点に集中します。大きな円は内部にそれより小さな円を作り出します、点がそれを放射するのです。小さい方の円はさらにもっと小さい円を形成します、内部にあるものがそれを放射するのです。こういう円がまたそのような円を形成します、人間のもとにあるものは、外に向かって放射し、人間の外部は宇宙の内部に触れるのです。私たちの感覚が宇宙と出会うところ、そこでは人間において内から外へと出ていったものが、宇宙において外から内へとやってきたものに触れるのです。この意味で人間は小宇宙であり、マクロコスモスに対するミクロコスモスなのです。しかも人間はこのマクロコスモスの驚異と秘密のすべてを内包しています、ただ、展開の方向は真反対ですが。もし、私が今までご説明してきましたような状況のみだとしたら、これはさらなる進化ということに関して地球にとって非常に不都合なことでしょう、そうなると地球は、ヒキガエルという存在を排泄し、物質的な人間存在と同様いつの日か存続することなく滅亡してしまうでしょう。私たちは今のところ動物との関連における人間のみに注目しておりますが、ここ数日間で植物存在に対しても小さな橋を架けなければなりません。私たちはさらに植物の領域に、そして鉱物存在の領域にも入り込んでいかなければならないでしょう、そして私たちは地球紀の間に鉱物存在がどのように出現したかを見るでしょう、つまりたとえば、この地域の始源岩層の岩石であるものが植物によっていかにひとつひとつ沈殿させられるか、石灰岩山地がもっと後期の動物によっていかにひとつひとつ沈殿させられるかを見るでしょう。鉱物界は植物界・動物界の沈殿であり、本質的には、もっとも下等な動物の沈殿です。ヒキガエルは地球の鉱物質のものに対してはまだそれほど多くを提供しておらず、魚も比較的わずかしか提供しておりません、しかし下等動物と植物は非常に多くを提供しています。珪酸の甲皮や石灰の甲皮、石灰の殻を持つ下等な生きものたちは、まず自らの動物質のもの、植物質のものから作り出したものを沈殿させます、そして鉱物質のものが崩壊します。鉱物質のものが崩壊するとき、まさに鉱物質のものの崩壊生成物(Zerfallsprodukte)を最高の力がとらえ、この崩壊生成物から新たな世界を築きます。ある特定の場所の鉱物質のものがまさにとりわけ重要となることがあるのです。私たちが地球進化を、熱変容、空気変容、水変容、鉱物的・土的変容を追求していきますと、人間の頭はこれらすべての変容を経てきました。人間の頭は崩壊していく、それでも本当は常にまだいくらか生命力に浸透されている頭骨における、まず外へと向かう鉱物的変容です。しかし、もっとずっとはっきりしたしかたで、人間の頭は土的・鉱物的変容を経てきたのです。脳形成において人間の頭の中心部には、ピラミッド型に形成された器官、松果腺[Zirbeldruese]があります。四丘体(Vierhuegelkoerper)と視床(Sehhuegel)の近くにあるこの松果腺はいわゆる脳砂(Gehirnsand)を分泌します、レモン色の石粒で、松果腺の一端に小塊のように付いていて実際人間頭部のなかの鉱物質のものです。これがないと、つまり人間がこの脳砂を、この鉱物質のものを内部に持たないと人間は白痴になるかクレチン病(Kretin)になるかです。標準的な人間の場合松果腺は比較的大きいのです。クレチン病の場合、麻粒大の松果腺しか発見できませんでしたが、これは脳砂を分泌することができません。霊人(Geistesmensch)は本来この鉱物質の含有物のなかに位置しているのですが、このことがすでに、生命的なものは本来最初は霊(Geist) を宿らせることはできず、人間において霊はその中心点として生命的でないものを必要とし、とりわけ独立した生きた霊としてそこに存在しなければならないということを暗示しています。私たちを蝶の頭形成、鳥の頭形成から下降して爬虫類と魚まで導いたのは、素晴らしい展開でした。今や私たちは再び上昇していき、動物系列と同様私たちを満足させることができるもの、植物系列と鉱物系列を考察していくでしょう。私たちが過去について動物系列から学びを引き出すことができましたように、同様に地球の未来のために鉱物系列から希望を引き出すことができるでしょう。その際私たちはむろんまだ、次回からの講義でさまざまなしかたで過渡的動物に入っていく必要があります、と申しますのも、この概観において私は、進化の分岐点に現われるもっとも主要な動物たちにしか言及することができなかったからです。□編註☆1 新たな地上生へと:これについてはシュタイナーによる神秘劇「魂の目覚め」の第八景における新洗礼者の描写も参照のこと、『四つの神秘劇』(1910-1913GA14)所収。☆2 これらすべてがそうであるということ:これについては1921年7月16日のシュタイナーの講義も参照のこと、『人間の生成、宇宙魂、宇宙霊』(GA205)所収。☆3 …魚の中で水が…:編集者による意味に即した原文訂正(第7版)。☆4 ヴァックスムート博士:Gunther Wachsmuth, 1893-1963自然科学、法学、国民経済学を研究。法学で学位取得。シュタイナーにより1923年に一般人智学協会理事に任命された。協会で会計主任と自然科学部門の指導者。彼の著書『宇宙、地球、人間におけるエーテル的形成力』(シュトゥットガルト 1924)参照。☆5 「自然の内部へは…」:ベルンの医師、詩人、植物学者アルブレヒト・ハラー(1708-1777)の教訓詩「人間の徳の虚偽」のなかの箴言。ゲーテはこの箴言への反論として「もちろん、物理学者に」という詩を書いた、ゲーテ詩集「神と世界」の部に所収。人気ブログランキングへ
2024年04月02日
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