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ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第18章 ゲーテの「散文の中の韻」における世界観 佐々木義之訳第二段中断 注:ゲーテの観点とカント哲学 ゲーテの観点はカントの哲学と鋭く対立しています。私たちの内的な心象世界は人間精神の法則に支配されており、したがって、外部からそれにもたらされるあらゆるものは主観的な反映としてのみそこに存在し得るというのがカントの仮定です。この観点にしたがえば、私たちは、物自体を知覚するのではなく、むしろ、それらの事物がどのように私たちに影響するか、そして、私たちがそれらの影響を私たちの知性と理性の法則にしたがってどのように結びつけるかということから結果として生じるイメージのみを知覚します。カントやカント主義者たちは、事物の本質存在は私たちの理性を通して語るということに思い至りません。したがってカント哲学はゲーテにとって何の意味も持ち得ません。彼がカントの原則の何某かを得たとき、彼はそれらにそれらの提唱者の教えの中に含まれていたものとは全く異なる意味づけを行いました。ワイマールにおけるゲーテ文庫の開始とともに初めて光を当てられることになったある覚書によって明らかになったのは、ゲーテが彼自身の観点とカントの観点との間のこの対照性について非常によく認識していたということです。ゲーテにとって、カントの基本的な間違いは、彼が「主観的な認識能力そのものをひとつの対象と見做し、そして、主観と客観が出会う地点を実に鋭く、しかし、間違ってというわけではなく区別する」ところにあります。主観と客観が出会うのは、外的な世界についての表現を私たちの内的な存在が語るものに結びつけるときなのですが、それらは事物の統合された存在となります。そのとき、主観と客観の対立はこの統合された現実へと解消されるのです。私は本書第11章の冒頭でこれについて示しました。ところで、カール・フォルレンダーは私がそこで書いたことを「カント研究」の初版の中で攻撃しています。彼によれば、カントとゲーテの対立についての私の観点は「どう見ても非常に一方的で、ゲーテ自身の明確な意見に矛盾しています。これはカントの超越的な方法についての完全なる誤解によるものです。」フォルレンダーは、ゲーテがその中に生きていた世界観について、何のアイデアも持っていません。彼と議論しても何にもならないのですが、それは私たちが異なる言葉を喋っているからです。彼は私が言うべきことを何でも理解し損ねるという事実は、彼の思考がいかに明確であるかを示しています。例えば、私はゲーテの次のような意見にコメントしました。私たちが周囲の対象に気づくやいなや、私たちは私たち自身との関連でそれらに注意を払います。そして、それが正当であるのは、私たちがそれらを好きか嫌いか、私たちがそれらに惹かれるか否か、それらが有益か有害かに私たちの運命全体がかかっているからです。事物を眺めたり、それらを評価したりするこの全く自然な方法は、それらが必要であるのと同じくらい安易なものであるように見えます。・・・私たちが、私たちの能動的な認識の追求において、自然の対象物を在るが儘に、そして、それら自身の相互関係において観察しようとするとき、私たちははるかに困難な仕事を引き受けたことになります。つまり、私たちはそのとき、喜ばせるものをではなく、存在するものを探求し、調査するのです。(「対象と主観との間を仲介するものとしての実験」)私のコメントは、「これはいかにゲーテの世界観がカントのそれの正反対であるかを示すものです。カントによれば、事物をありのままに見る観点は絶対にあり得ず、いかにそれらが「私たちとの関係で現われる」かという観点があるだけなのです。ゲーテはこの観点を事物に対するアプローチとしては劣ったものであると見ていました。」というものでした。フォルレンダーは次のように応じました。「ゲーテによるこれらの言葉は、単に心地よいものと真実であるものとの間の些細な違いを導入的な仕方で表現しようとしたものに過ぎない。研究者は何が喜ばせるかではなく、何が存在するかを探求すべきである。シュタイナーのような、事物へのこの第二の、実際、非常に劣った対処法がカントのやり方であると敢えて言う人たちには、まずカントの教義についての基本的な概念、例えば、「判断力批判」の第3節のような文章の中で記述されている主観的な感覚と客観的な感覚との間の違いを明確にするようにとアドバイスしたい。今、私の見解を述べることによって明確にしておきたいのは、私は事物へのこの対処法がカントの方法であると言ったことは全くないということです。むしろ、私が申し上げたのは、ゲーテの見方によれば、主観と客観の間の関係についてのカントの理解は事物本来の性質を知ろうとするときの私たちが有するそれらとの関係に対応していないということです。カント的な定義は人間の認識能力には対応しておらず、私たちが快と不快の意味で事物を眺めるときの私たちとそれらとの関係に対応しているというのがゲーテの見方でした。フォルレンダーのように発言を誤解することに長けた人は、彼らの哲学的な教育に関して、他の人にアドバイスする前にいかに文章を正しく読むかを学んでおいた方がよいかも知れません。ゲーテが言ったことを探してきて、それらを年代順に並べることは誰にでもできますが、ゲーテの世界観の精神においてそれらを説明することはフォルレンダーにはできないということは確かです。)記:カントは知識を理性に基づいて構築すると考えます。彼の「純粋理性批判」では、知識は経験から得られる感覚的な知識と、理性によって構築される知識に分けられます。一方、ゲーテは直観的な知識を重視しました。彼は芸術や自然の観察を通じて直感的な理解を追求しました。参考画:Karl Vorlander----------------------------------------------------------------第18章 第二段中断 注:ゲーテの観点とカント哲学 (了)人気ブログランキングへ
2024年06月30日
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ドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第18章 ゲーテの「散文の中の韻」における世界観 佐々木義之訳●第二段 私たちが外的な世界に直面するとき、私たちの中に生じる思考内容は真正なものです。私たちは私たち自身が作り出す洞察以外のいかなる認識も求めることができません。事物を説明すると思われるような何か別のものをそれらの背後に探し求める人たちは、事物の本質的な性質に関するあらゆる疑念は私たちの知覚に思考を浸透させようとする私たち人間の必要からのみ生じ得る、ということに気づいていません。事物が私たちに語りかけ、そして、私たちがそれらを観察するとき、私たちの内的な本性が語りかけます。この語りかけの両側面は同一の主要存在から生じます。私たちに求められるのは、それらの相互理解を生じさせる、ということです。認識とは正にそのようなものなのです。人間本来の必要を理解する人たちはそれを、そして、それだけを求めます。そのような理解を欠いている人たちにとって、外的な世界の事物は見知らぬものに留まります。そのような人々が事物そのものの内的な存在から語りかけられるその本質的な性質を聞くことはありません。その結果、彼らは、それは事物の背後に隠されていると想像するのです。彼らは知覚可能な世界の背後にある別の外的な世界を信じるのですが、単にそれらを観察する限り、事物は外的なものに留まります。私たちがそれらについて熟考するとき、それらはもはや私たちの外にあるのではなく、私たちとそれらの内的な側面とは一体化しているのです。私たちにとって、客観的、外的な知覚と、主観的、内的な思考世界の間の対比が存在するのは、これらの世界は相互に帰属しているということに私たちが気づき損ねるときだけです。「私たちの内的な世界は自然の内的な存在」なのです。異なる人々は事物を異なって眺めるという事実によってこれらの考えが反駁されることはありません。人々は異なって組織されており、したがって、ある色が異なる人々によっても正確に同じ方法で見られるかどうかを知ることはできないという理由によってそれが反駁されることもありません。私たちが何らかの事物について正確に同じ判断を形成するかどうかが問題なのではなく、私たちの内的な存在の言語が事物の本質的な特性を表現する言語であるかどうかが問題なのです。個別の判断は個別の組織や観察の観点によって様々ですが、すべての判断は同じ要素から生じ、事物の本質的な特性へと導きます。それは思考の様々なニュアンスの中で表現されるかも知れませんが、それでも、それは事物の特性であることに変わりありません。人間は自然がそれを通してその秘密を打ち明けるところの乗り物であり、世界の最奥の本質は主観的な個性の中で明らかにされるのです。世界の内にある私たち自身を全体性の中にあるかのように感じるとき、すなわち、調和する満足が私たちに純粋で自由な喜びを与えるとき、もし、宇宙が自意識的であったならば、それはその目標を達成した喜びに沸き、それ自身の生成と存在の頂点に驚嘆するでしょう(R.シュタイナーによる注:ゲーテの随筆「ヴィンケルマン」より)。宇宙の目標と存在の真の本性は、外的世界の産物の中にではなく、人間精神の内部に生きているもの、そして、それから生じるものの中に見出すことができます。ですから、ゲーテにとって、装置や客観的な実験によって自然の内的な存在へと貫き至ろうとする科学者たちの試みは、次に示すように間違いなのです。我々が我々の健全な感覚を用いる限り、我々自身が、考え得る最良の、最も正確な科学装置なのです。現代物理学における最大の不幸は、いわば、人間がその実験から引き離されたことにあります。つまり、物理学は人工的な装置によっては検出されないようないかなるものの中にも自然を認めることを拒否するとともに、自然が成し遂げ得ることを制限したり、証明したりするためにさえそれを用いるのです。・・・その他の方法では自らを現せないようなものでも我々の中では表現に至るほど高いレベルで我々人間は存在しています。音楽家の耳に比べて、弦やその様々な区分が何ほどのものでしょうか。実際、我々は次のように問うでしょう。我々がそれらをある程度消化できるためには、我々はまずそれらを手なずけ、変容させなければならないことからして、人間と比べれば、自然そのものの基本的な現象とは何ほどのものなのかと。(散文の中の韻)もし、私たちが人間として事物の本質的な特性を知りたいと思うのであれば、私たち自身の心を通してそれらに語らせなければなりません。私たちは、それらの本質的な特性について、私たち自身の内的な存在の精神的な経験から取られたものについてのみ語ることができます。世界についての結論を引き出すことができるのは私たち自身からだけです。私たちは擬人法で考えなければなりません。私たちが何か非常に単純な事象、例えば、二つの物体が衝突するときのような事柄について語るとき、私たちは擬人化します。ある物体が別の物体に衝突すると結論づけることでさえ擬人法なのです。もし、私たちができごとの単なる観察を越えて行きたいのであれば、私たち自身の体が別の物体を動かすときのその経験にそれを結びつけなければなりません。あらゆる物理的な説明は隠された擬人法です。私たちは自然を説明することによってそれを擬人化します。つまり、人間の内的な経験がそれに投影されるのです。とはいえ、これらの主観的な経験は事物の本質的な内的特性です。ですから、私たちは、客観的な真実、あるいは「物自体」を認識しない、と主張することはできません。何故なら、私たちに可能なのはそれらの主観的な表現を形成することだけだからです。(→に続く)参考図:擬人化人気ブログランキングへ
2024年06月29日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第18章 ゲーテの「散文の中の韻」における世界観 佐々木義之訳●第一段 私たちは観察する精神に対して自然が自由に提供するもので満足することはありません。自然はその創造における大いなる多様性を作り出すために、さしあたり観察者には隠されているような推進力を使用すると私たちは感じます。自然自身がその最終的な言葉を語ることはありません。私たちの経験は自然が何を創造することができるかを明らかにしますが、その創造がどのようにして生じるかを明らかにはしません。自然の推進力を明らかにする手段は人間の精神そのものの中に存在しているのです。自然が創造を生じさせるその仕方に光を投げかけるところのアイデアがそこで生じるのです。外的世界の現象が隠しているものは人間存在の内に現れます。私たちが自然法則と考えるものは自然につけ加えられるものとして考え出されるのではありません。そうではなく、それは自然そのものを内的に構成するものなのです。精神というのは自然がそこでその創造の秘密を明らかにする劇場に過ぎません。私たちが「観察」するのは事物のひとつの側面に過ぎません。他の側面はそのとき私たちの精神の内部に湧き上がって来るものです。同一のものが私たちの外側から、そして、内側から私たちに語りかけてきます。完全な現実に私たちが気づくのは、外なる世界の言葉を私たちの内的な存在の言葉に結びつけるときだけです。あらゆる時代を通して、真の哲学者たちは事物の本質的な性質、その伝達のための器官として精神が提供されるとき、それらの事物そのものが表現するところのものをはっきりと示すことだけを望んできました。私たちが私たちの内的な存在に自然について語らせようとするとき、自然はその推進力によって成し遂げられたはずのものを十分には達成できていないということが分かります。内的な方向では、経験が包含しているものをより完全な形で見ることになるのです。私たちは、自然はその創造における目標を達成していないということを見い出し、その意図をより完全な形で表現する必要を感じます。こうして、私たちは自然が意図したけれどもある一定の地点までしか成し遂げられなかったものを表現する形態を創造します。そのような形態が芸術作品、すなわち自然がより不完全に表現するものをより完全な形で提示する人間の創造行為です。哲学者たちと芸術家たちとは共通の目標を持っています。つまり、彼らは彼らが自然をして彼らの上に自らを刻印づけるようにさせるときに彼らが見る完成度を描写しようとします。とはいえ、この目標を達成するための彼らの方法は異なります。哲学者たちが自然のプロセスに向かうとき、彼らの中に「ひとつの思考あるいはアイデア」が点灯し、そして、それを彼らは表現します。他方、芸術家たちの中にはそのプロセスの像が生じるのですが、それは外的な世界の中で観察し得るよりももっと完全に自らを表現しています。哲学者たちと芸術家たちとは彼らの観察を別様に展開するのです。芸術家たちは哲学者たちに自らを現すときのような自然の推進力を知る必要がありません。彼らがある事物やできごとを知覚するとき、直ちにひとつのイメージが彼らの心に生じるのですが、その中では、自然法則が外的な世界の中の対応する事物やできごとにおけるよりももっと完全に表現されているのです。思考の形式を取った法則が彼らの心の中に入っていく必要はありません。とはいえ、認識と芸術とは内的に関連しています。それらが示すのは外的な世界の中では十分に実現されることがなかった自然の「可能性」なのです。もし、これらの推進力が真の芸術家の心の中で、事物の完全な像としてだけではなく、思考としても表現されるに至るとすれば、哲学と芸術に共通した創造的な源泉が特別な明晰性をもって私たちの眼前に現れることになるでしょう。ゲーテはそのような芸術家でした。彼は、彼の芸術作品の中で、そして、彼の思考の中で、同じ秘儀を私たちに開示します。彼は彼の詩の中で形を取るものを思考として彼の科学や芸術に関する随筆や彼の「散文の中の韻」の中で記述します。これらの随筆や詩は深い満足を与えますが、それは人がそれらの中に一人の個人の中で実現した芸術と認識の調和を見るからです。それぞれの思考との関連で生じるゲーテの感情の中には何か上昇させるようなものがあります。そこで語っているのは、彼がアイデアとして表現するものをイメージとして見ることができるような人なのです。その感情はこのような思考の力を強化します。「一人の」個人における最も気高い努力に発するあらゆるものは内的に結びつけられていなければなりません。ゲーテの叡智は、真の芸術に対応する種類の哲学とは何かという問いに答えるものです。ここで私は、真の芸術家の精神に担われたこの哲学に関する首尾一貫した素描を試みたいと思っています。記:ゲーテの「散文の中の韻」とは、彼が自然科学論序説や精神科学に関する著作で探求した概念です。この概念は、自然が人間の精神に対して提供するもので満足することはできないという考えから生まれました。ゲーテは、自然がその創造における多様性を生み出すために、観察者には隠された推進力を使用していると感じました。彼は、自然がその最終的な言葉を語ることはなく、人間の経験は自然が何を創造するかを明らかにしますが、その創造がどのようにして生じるかを明らかにはしないと述べています。ゲーテは、自然の推進力を明らかにする手段として人間の精神そのものを挙げ、自然が創造を生じさせる方法に光を当てるところのアイデアが生まれると考えています。外的世界の現象が隠されているものは、人間存在の内に現れます。ゲーテは、芸術作品や随筆などを通じて、自然が意図したけれどもある一定の地点までしか成し遂げられなかったものを表現する形態を創造することで、自然の不完全な表現をより完全な形で提示する人間の創造行為を説明しています。この「散文の中の韻」は、ゲーテが自然科学や芸術における創造的なプロセスや哲学的な考察を通じて、人間と自然との関係性や真実性について深く掘り下げたもの。彼は、芸術家と哲学者が共通する目標である真実や完成度を描写しようとすることで、彼らの方法や思考プロセスを示唆しています。参考図:idea (第18章 第一段了)人気ブログランキングへ
2024年06月28日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第九項 何世紀にも渡って、キリスト教的な概念は、古代ギリシャから伝わってきた消えゆく感情以上に力強いものとなってきました。その過程で、人々は概念とアイデアという現実に対する彼らの先見的な感覚を見失い、純粋に物質的なものを崇拝し始めました。自然科学におけるニュートンの時代が始まったのです。もはや世界の多様性の根底に横たわる統一性について語られることはなくなりました。すべての統一性は否定され、単なる「人間的な」思いつきへと格下げされたのです。人々は自然の中にひとつの多様性、特別なものの寄せ集めだけを見ました。ニュートンはこの基本的な観点によって光をひとつの主要な統一体としてではなく、何らかの複合体として見るように導かれたのです。ゲーテはその「色彩論の歴史のための材料」の中でこの歴史的な発展の諸側面について記述しています。そこで明確になるのは、最近の科学の概念は色彩論の領域で不健全な観点へと導いたということです。この科学は光を自然の特質のひとつとしてもはや理解してはいません。ある一定の状況下で、何故、光に色がついて現われるのか、あるいは、色はどのようにして光の領域内で生じるのかということを科学が知らないのはそのためです。参考画:Zur Farbenlehre記:第九項では、シュタイナーがキリスト教的な概念が古代ギリシャの感情を超えて力強くなったことを述べています。その過程で、人々は概念とアイデア(理念等の観念的思考)に対する感覚を失い、物質的なものを崇拝するようになりました。これがニュートンの時代の自然科学の始まりであり、世界の統一性が否定され、多様性が強調されるようになったと説明しています。ニュートンは光を統一体ではなく複合体として捉え、ゲーテはこの観点が色彩論において不健全な結果をもたらしたと批判します。統一体としての光という考え方は、光が一つの単純なもの、つまり一つの性質や本質を持つものとして捉える見方です。例えば、光はただ「白い光」として存在し、その中に特別な違いはないという考え方です。一方、複合体としての光というニュートンの見方は、光が実際には複数の異なる成分から成り立っていると考えるものです。ニュートンはプリズムを使った実験で、白い光を通すと虹のように様々な色に分かれることを発見しました。これにより、白い光は単一のものではなく、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫といった複数の色(スペクトル)から構成されていると結論づけたのです。この考え方は、現代の光学や色彩学の基礎となっています。ゲーテは、色彩をもっと感覚的・心理的な現象として捉えました。彼は、色は光と闇の相互作用によって生まれると考え、ニュートンのように光を単に物理的な現象として見るのではなく、人間の感覚や心理に与える影響も重視しました。ゲーテは、ニュートンのプリズム実験を「人工的」であり、自然界の色の現象を十分に説明できないと批判したのです。ニュートンの色彩論: 光の分光を通じて色を科学的に解析し、色が光の波長によって決まると提唱。ゲーテの色彩論: 色の心理的影響と感覚的側面に焦点を当て、色が光と闇の相互作用によって生まれると考えた。科学と芸術の融合: 二人の理論は、色彩学の重要な柱として現代にも影響を与えている。影響と貢献: ニュートンとゲーテのアプローチは、色に関する私たちの理解を深めるのに現代といえどもともに貢献しています。 (第17章 ゲーテ対原子論 第九項了)人気ブログランキングへ
2024年06月27日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第八項 最近の世紀における自然科学の進歩は、より高次の人間的な要求を満足させる世界観へと科学を参画させる可能性のあるあらゆる概念を破壊する方向に導いてきました。それは、空間を占める活動する力や物質と同様、「概念」や「アイデア」も現実の世界に属しているというのは馬鹿げたことだと主張するように「現代の」科学者たちを導いてきたのです。そのように考える人たちにとって、概念やアイデアは人間の脳が作り出したものであり、それ以上のものではありません。スコラ哲学者たちはこれらのことがらの本質をまだ理解していました。現代の科学者たちは、スコラ哲学とは何であるかを、特に、それのどこが健全な面で、どこがそうではないかを知ることなく、それを退けます。スコラ哲学における健全な面とは、概念やアイデアは現実を理解するために人間の心が考案した単なる想像上のものではなく、何らかの仕方で事物そのものと、しかも物質や力以上に関連しているという感情でした。この健全なスコラ哲学的感性はプラトンやアリストテレスの偉大な観点の遺産だったのです。他方、スコラ哲学に関して不健全な点は、この感情が中世におけるキリスト教の発展の中に入ってきた概念と混合されるようになったということです。この発展の中で主張されたのは、別世界の、したがって、知ることのできない神が概念やアイデアを含むすべての精神的な現実の源泉であるということです。それは何かこの世のものではないものへの信仰に依存していました。他方、健全な人間の精神はこの世界にこだわり、他のいかなる世界も必要としません。その代替として、この世界を精神で染め上げたりもします。そのような精神は、ちょうどこの世の現実を感覚世界の事物やできごとに帰属させるように、概念やアイデアにもそれらを帰属させるのです。ギリシャ哲学はこのような健全な考えに由来していました。スコラ哲学はそれへの親和性を保っていましたが、それを読み変え、別世界のものであるキリスト教信仰にそれを対応させようとしたのです(*主観一辺倒主義)。概念やアイデアは、もはや人間がこの世界のプロセスの中に見ることができる最も深遠なものではなく、むしろ神であり、別の世界であると考えられたのです。何かについてのアイデアが分かってしまえば、私たちはその「源泉」についてさらに調べる必要を感じませんが、それは私たちが知識に対する人間的な必要を満たすものを見出しているからです。しかし、そのような知識に対する人間的な必要についてスコラ哲学者たちが何か気にとめていたことはあるでしょうか。彼らは神についてのキリスト教的な観点であると彼らが見ていたものを保持しようとしたのです。事物の内的な存在を求める彼らの探求は概念とアイデアにしか導きませんでしたが、彼らは別世界の神の中に世界の源泉を見い出そうとしたのです。参考画:God made the universe (第17章 ゲーテ対原子論 第八項了)人気ブログランキングへ
2024年06月26日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第七項 ここで私が述べていることは現代の物理学者たちの耳には不可能なことのように聞こえるに違いありません。けれども、私には、現代科学の思考習慣は論理の規範である(「論理」第2巻)というヴントの観点を受け入れることはできません。この仮定が無思慮なものであることは、彼が振動する物質というアイデアをエネルギーの振動で置き換えようとするオストヴァルドの試みを検証するときに明らかとなります。ヴントは次のように述べています。「介入する現象(の存在)はある種の振動を仮定する必要を生じさせる。しかし、動きは動く物質なしに考えることはできないため、光の現象は何らかの種類の力学的なプロセスにまで遡らざるを得ない。」。ところが、オストヴァルドは、光エネルギーを物質媒体の振動ではなく、振動状態にあるエネルギーとして定義することによって、この第二の仮定を回避しようとしたのである。言い換えれば、我々は可視的な面と完全に概念的な面という二面性を持った概念について考えているのであるが、この曖昧さの存在自体が衝撃的に示唆しているのは、エネルギーの概念そのものが観察可能な要素にまで導くような分析を必要としているということである。実際の動きが定義され得るのは、空間中における実体的な基盤の位置変化としてのみである。その基盤の存在が明らかにされ得るのは、そこから放射される力の影響によってか、あるいは、それによって保たれていると我々が仮定するところのあの力の働きによってである。しかし、それ自体が概念としてのみ把握され得るそれらの力の働きについては、何らかの種類の基盤を「仮定」しない限り、それらを動きとして思い描くのは不可能なように思われる。オストヴァルドのエネルギーについての概念はヴントが言うところの「現実的な」基質よりもずっと現実に近いものです。光、熱、電気、磁気等の知覚された現象のすべては、力の生成、あるいはエネルギーという概念で括ることができます。例えば、光あるいは熱が物体中の変化の引き金になるとき、エネルギーの生成が引き起こされます。光や熱を「エネルギー」として記述すれるとき、私たちは共通したひとつの一般的な性質のためにそれらに固有の特質を無視しているのです。そのような性質は、確かに現実のすべての側面を網羅してはいませんが、それはひとつの現実的な性質なのです。他方、物理学者たちや哲学における彼らの同調者たちが彼らの仮想的な「物質」に帰した性質の概念は本質的に自己矛盾です。これらの性質は感覚世界からの借り物であるにもかかわらず、感覚の領域の一部ではない基質に適用されると思われているからです。「光エネルギー」の概念が単に二つの側面、「物理的に観測可能な」側面と「概念的な」側面を持つからといって、ヴントが何故それは不可能であると主張できるのかを思い描くことはできません。哲学者ヴント(*ヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt/1832年 - 1920年ドイツの生理学者、哲学者、心理学者)は、感覚的な現実に関連するすべての概念は観測可能な要素と純粋に概念的な要素の両方を含んでいなければならないということを理解し損なっているのです。「塩の立方晶」という概念は感覚にとってアクセス可能な塩の結晶という知覚可能な部分と、固体幾何学によって確立される純粋に概念的な部分を有しているのです。参考画:ヴント父子記:哲学者としてのヴント この章に登場する「哲学者」としての「ヴント」とは、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner/1861年2月27日 - 1925年3月30日(64歳没)と同時代のドイツのヴント父子を指し示すが、名を挙げられた「ヴント」は父子ともに思想家として勇名を馳せており、父子の何方を言っているのか、掲載年表から想像してみた。心理学の創始・構成主義と機能主義、1879年にライプチヒ大学に初めての心理学研究室を創設し、構成主義心理学といわれる「実験心理学」を展開しこれが、心理学の起源とされてる「心理学の祖」とされるヴィルヘルム・ヴントは1832 - 1920の人物、其の子マックス・ヴントは1879年1月29日 - 1963年10月31日の生涯を学窓に捧げた人物であり、何方かいずれを指し示しても可能である。 (第17章 ゲーテ対原子論 第七項了)人気ブログランキングへ
2024年06月25日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第六項 色彩、音、そして、そのようなものとしての熱を回避し、対応する機械的なプロセスのみを扱いたいという気持ちは、数学や力学の単純な法則は私たちの感覚世界のその他の側面における特徴や相互作用に比べてもっと簡単に理解できるようなものであるという考えから来ているに違いありません。けれども、そうではないということは確かです。私たちは、空間的、数的な配列における最も単純な特質や関係について考えることは難しくないと主張しますが、それは私たちがそれらを容易にかつ完全に調べることができるからです。すべて数学的、力学的に理解するということは、私たちがそれらに気づくやいなや、理解することができる単純な事実にものごとを還元するということを含んでいます。二つの値が第三の値に等しく、したがって、それらは互いに等価でもあるという記述は、私たちがその内容に気づくとき、直ちに理解されます。同様に、音、色、そして、その他の感覚的な知覚の領域における単純な現象は直接的な観察を通して認識されるのです。物理学者たちが音や色という特定の性質を現象世界から排除し、それらに対応する動的な出来事だけを考慮するのは、単に彼らが その偏見によって、単純な数学的あるいは力学的な事実の方が音や色の基本的な知覚よりも理解しやすいと信じるように導かれたからに過ぎません。そして、彼らは、何らかの動くものなしに動きについて考えることができないために、動きの担い手としてあらゆる性質に欠けた物質を考え出します。この偏見に捕われている人たちだけが、動的な状態そのものが感覚知覚可能な性質に関連している、ということに気づき損ねることになるのです。様々な音に対応する振動の内容は音の性質そのものです。同じことはすべての感覚的な性質について言えます。現象世界における振動の中身を私たちに気づかせてくれるのは、抽象的なことがらを思いつきで加えることではなく、直接的な認識なのです。参考画:quantum fluctuation記:我々は「森羅万象、揺らぎの世界」に生きています。量子力学の世界では、エネルギーが最低状態となる絶対零度付近においてさえ、原子の振動は止まることがないと言われています(ゼロ点振動)。また、振動は自然科学に属するテーマの一つですが、実は社会科学や人文科学とも密接な関係にあります。例えば、政治・経済・社会が発展すれば、それに伴って建築物・居住環境・工業製品も進化し、同時に要求される振動環境もより高度なものになっていくからです。このように私たちは「振動」が常に身近に存在する中で暮らし、日々の社会活動を営んでいますが、普段意識することはあまりありません。それぞれの場には必要とされる振動環境(静寂さ)があり、その許容限度を超えた時に初めて「振動」を意識するようになるのです。また、量子ゆらぎは量子物理学において量子真空ゆらぎ、真空ゆらぎとも呼ばれ、 空間のある点におけるエネルギーの一時的な変化で、ヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理で説明されます。量子ゆらぎは宇宙の構造の起源において非常に重要であり、 インフレーションのモデルによれば、インフレーションが始まったときに存在した宇宙は増幅され、現在観測されるすべての構造因を作った。 真空エネルギーは現在の宇宙の加速(宇宙定数)の原因であることが既に認証されています。 (第17章 ゲーテ対原子論 第六項了)人気ブログランキングへ
2024年06月24日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第五項 世界観を形成するための能力がデカルト、ロック、カント、そして、現代生理学によってまだ破壊されていない人たちにとって、光、色、音、熱、等々を人間有機体の単なる主観的な状態として考え、同時に、完全に客観的なプロセスの世界が有機体の外に存在していると主張することがどうして可能なのかを理解することは決してできないでしょう。もし、人間有機体そのものが音、色、熱を創造すると主張するのであれば、私たちは同時に、それは広がり、大きさ、位置、動き、力、等々を創造すると言わなければならないでしょう。これらの数学的、機械論的な特徴をその他の知覚可能な世界から実際に分離することはできないのです。熱、音、色、そして、その他の感覚的な特質から空間、数、動き、そして、その他の力の表現を分離するのは抽象的な思考だけです。数学的、機械論的な法則は経験の世界から導かれた抽象的な実体やプロセスと関係しており、したがって、それらはそのようなものとして経験世界に適用することができるだけです。もし、私たちが、数学的、機械論的なプロセスもまた主観的なものであると主張しなければならないとしたら、客観的な事物やできごとについての私たちの概念の内容として役立つものは何も残っていないことになるでしょう。そして、空虚な概念から現象を導き出すことはできないのです。現代の科学者たちとそのカバン持ちである哲学者たちは、感覚的な知覚は客観的な事象によって引き起こされた主観的な状態に過ぎないという考えにしがみついています。そうであるならば、健全な思考は、彼らは空虚な概念を弄んでいるのではないか、あるいは、主観的であると宣告された世界のあの部分から借りてきた内容を客観的な世界に割り当てているのではないかと反論しなければならないでしょう。私はいくつかの私の著作の中でこの不条理について言及しました。(編注:「ゲーテの世界観の中で暗示された認識論の概要」1886年、「真実と科学」1892年、「自由の哲学」1894年)。私は、それらを生じさせる波動プロセスや力、最近の物理学はすべての自然現象をそれらから導き出しますが、それらを感覚的な知覚の形態とは異なる現実についての形態に帰属されるべきかという問題に立ち入るつもりはありませんが、ただ、数学的、機械論的な世界観によって達成されるものとは何かと問うかも知れません。アントン・ランパの意見は次のようなものです。「数学なしでも数学的な方法を用いることはできる。したがって、課題としての数学と方法としての数学とは同じものではない。二項式も満足に解けなかったファラデーは、電気に関する彼の実験的な研究において、このことについての古典的な例を提供している。数学とは、私たちの通常の論理的な思考様式にとっては過剰であることが分かるはずの多くの複雑なことがらについて、単に論理的なプロセスを簡略化することにおいて、私たちの助けとなる方法であるに過ぎない。しかし、数学にはそれ以上のことが可能である。つまり、各定式がそれ自身の生成過程を表現する程度に応じて、それは探求の出発点として役立つ基本的な現象への生きた橋を架けることができるのである。したがって、大きさが測定できないときにはいつでもそうなのだが、数学を用いることができないような手法においては、それが数学的な方法論を用いるべきものであったとしても、単に厳密な論理に固執するだけではなく、非常に注意深く、ものごとを基本的な現象にまで遡って追求するようにしなければならない。そうでなければ、それは、正にそれが数学的な構造を欠くところにおいて、正道を踏み外すことになる。しかし、それが達成されるとき、それは、その正確さという特徴をもって、「数学的」であると正しく主張することができるであろう(「探求者の夜」P92)。ランパが現代の自然科学者としてそれほど完璧な例でなかったとしたら、私は彼のためにこれほど多くの時間を費やすことはなかったでしょう。彼は彼の哲学的な必要をインド神秘主義によって満足させますが、それは彼が彼の機械論的な世界観をあらゆる雑多な哲学思想によって混乱させていないということを意味しています。彼が心に抱いていた自然についての理論とは、いわば今日の科学の「純粋な」観点なのです。ランパは数学におけるひとつの重要な特徴を完全に無視していたということが分かります。確かに、あらゆる数学的な方程式は探求に向けた出発点として役立つ基本的な現象への「生きた橋を架け」ますが、基本的な現象というものは、そこから橋が架けられるところのさらに複雑な要素と本質的には同じものなのです。数学者たちは複雑な空間的、数的構造の特徴やそれら相互の関連を最も基本的な数的、空間的な構造にまで遡って辿ります。力学的な技術者は彼らのフィールドで同じことを行います。彼らは「複合的な」動きや力を単純で容易に調べることができる動きや力にまで遡って辿ります。彼らはこれを行うために、数学的な法則を用いて、動きや力の効果が幾何学的な形や数式で表現されるようにします。力学的な法則を表現する数学方程式においては、個々の要素、あるいは方程式は、もはや純粋に数学的な様式ではなく、力や動きを表現しています。これらの定式がその中に組み込まれているところの関連性は純粋に数学的な法則によってではなく、実際の力や動きの特性によって決定づけられているのです。これらの力学的な定式の特定の意味を忘れるや否や、私たちはもはや力学的な法則性ではなく、単に数学的な法則性を扱っていることになります。力学と数学の間の関係は物理学と力学の間の関係に相当します。物理学者の使命は、色、音、熱、電気、磁気、等々の複雑なプロセスを「同じ領域の内部で」単純なできごとにまで辿っていくということです。彼らは、例えば、複雑な色の事象を最も単純な色の発生にまで追っていかなければなりません。そのとき、彼らは、色という現象が空間的、数的に分析可能な形式を含むように、力学的、数学的な法則を用いなければなりません。数学的な方法が物理学に適用されるとき、それは、色、音、等々の間の結びつきをそれらの現象自体の「内部で」調べる、ということを意味しているのであって、色や音に欠ける物質の中の力や動きにまで遡ってそれらを辿っていくということではありません。現代の物理学はそれ自体としての音、色、その他の性質を回避し、変化することのない引力や斥力、そして空間中の動きだけを調べます。このアプローチの影響の下で、物理学はほとんど応用数学や応用力学の形態を取るに至りました。科学のその他の領域もまたその方向に向かっています。無色の物質が空間中の特定の位置で一定の動きをしているという事実と、別の位置で誰かが赤色を見るという事実の間に「生きた橋」を架けることは不可能です。動きから導かれ得るのは動きだけです。感覚に影響し、したがって脳に影響する動きがあることから、数学的、力学的な方法にしたがえば、脳は刺激を受けて一定の動きに応答するということになるのですが、実際の色、音、その他を感知することにはなりません。デュ・ボア-レイモン(Emil Du Bois Reymond)が次のように問いかけたとき、彼はそのことを既に認識していました。「一方には、私の脳内の特定の原子の動きがあり、他方には、私が痛み、喜び、甘さ、薔薇の香り、オルガンの音楽、あるいは、赤を経験しているという直接的かつ定義はできないけれども否定することができない事実がある。しかし、それらの間にはどのような関係があり得るのか。・・・動きは動きだけを生じさせることができる。(「科学的認識の限界について」P34,35)」。参考画:Emil Du Bois Reymond デュ・ボア-レイモンがここに見ているのは科学的な認識の限界です。しかし、私の意見では、赤色を見るという経験を特定の動きから導き出すことができない理由を示すのは簡単です。それは「赤」という性質と一定の動きのプロセスとは実際には分離不可能な統一体であるということです。知的、概念的なものが二つの出来事を分離するに過ぎません。赤という性質に対応する特定の動きは、独立した現実性を持つものではなく、抽象的なものです。動きのプロセスから赤色を見るという経験を導き出そうとするのは、ちょうど立方体に対応する数式から塩の立方晶が有する実際の性質を導き出そうとするのと同じくらい馬鹿げたことなのです。動きからその他の感覚的な性質を導き出すことが妨げられるというのは私たちの認識の限界ではありません。そうしようとすること自体がナンセンスなのです。 (第17章 ゲーテ対原子論 第五項了)人気ブログランキングへ
2024年06月23日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第四項 ある若い物理学者たちは、物質的な動きというアイデアに対して、彼らの感覚的な経験に対してよりも高い要求はしないと主張します。その中にアントン・ランパがいます。記:科学者としてオーラの存在を最初に主張したのは19世紀ドイツのカール・フォン・ライヘンバッハといわれる。ライヘンバッハは、宇宙に存在するすべてのもの(特に星々や惑星、水晶、磁石、人間など)から発出している物質が存在すると考え、オドの力と名づけた。オドの力には重さも長さもないが、計測可能であり、観察可能な物理的効果を及ぼすことができるとした。カール・フォン・ライヘンバッハ(Karl Ludwig Freiherr von Reichenbach/ 1788年2月12日 - 1869年1月19日)は、ドイツの化学者、地質学者、博物学者、実業家、哲学者である。 クレオソートやパラフィンなど多くの化学製品の精製を行った一方で、人間の精神に作用する未知の力についての多くの著書を書いた。参考画:カール・フォン・ライヘンバッハ 彼には、機械論的な科学者であると同時にインド神秘主義の追随者であるという顕著な功績があります。彼はオストヴァルドの発言に対して、次のように反論します。「彼の科学的な唯物主義との戦いは風車を槍で突いているようなものに過ぎない。科学的唯物主義という巨人がどこにいるというのか。それは存在すらしていない。かつては、ビュフナー、フォイクト、そしてモレショーの科学的唯物主義があった。それはまだ存在しているが、自然科学の中にではない。何故なら、それはそこでは居心地がよくないからだ。オストヴァルドはそれを見逃していた。そうでなければ、彼はただ「唯物論的な」観点に反対する立場を取っていただけであっただろう。けれども、彼は、その誤解のゆえに、たまたまそれを行ったに過ぎない。そして、もし、彼の誤解がなかったとすれば、恐らくそうすることは全くなかっただろう。そのとき、科学が、キルヒホッフによって切り開かれた道を辿りながら、唯物主義がそうしたように、物質について考えるというようなことがあり得ただろうか。それは明らかな矛盾であり、あり得ないことである。物質についての概念が意味を持つのは、力についての概念と同様、最も単純な記述に対する要求によって正確に決定されるとき、あるいは、カントの言葉を借りれば、経験主義的な意味においてだけである。そして、もし、科学者が「物質」という言葉にさらなる意味を付与するとすれば、科学者としてそうするのではなく、唯物主義的な哲学者としてそうするのである(「時代」ウィーン、1895年11月30日)。」。これらの言葉から判断すると、ランパは私たちの時代の典型的な科学者であると考えなければなりません。彼はより便利で機械論的な説明の仕方をしますが、そのような説明の現実的な性質についてさらに考えることを回避します。それは彼が彼には解決不可能な矛盾の中に巻き込まれることを恐れるからです。どうすれば明晰な心を持つ人が、経験の世界を越えていくことなく、物質についての概念を理解するなどということができるでしょうか。経験に基づく世界の中には、様々な大きさと位置を持った物体が存在し、動きや力が存在し、光、色、熱、電気、生命等々の現象が存在します。けれども、経験は、大きさ、熱、色、等々が「物質」に付随するものであるということを私たちに告げることはありません。物質が私たちの経験の中に見出されることはあり得ません。もし、私たちが物質について考えたいのであれば、それを案出し、私たちの経験に「つけ加え」なければなりません。現象的に経験された世界への物質のこの知的な付加が目につくのは、カントやヨハネス・ミュラーの影響を受けた今日の自然科学の中でもきわめて一般的な物理学的あるいは生理学的な考察においてです。それらは、耳の中の音、目の中の光、熱を感知する器官の中の熱へと続く外的な事象は、音、光、そして熱の「感覚」とは全然関係がないと私たちが信じるように仕向けます。これらの外的な事象は単に特定の物質の動きであると思われているのです。科学者たちは、音、光、あるいは色を人間の魂の中に生じさせるのはどのような種類の外的な動きなのかを決定します。彼らは、赤、黄、あるいは青は人間有機体の外側に存在しているのではなく、繊細で可塑的な物質であるエーテルの波に似た動きがあり、それが目を通して感知されるとき、赤、黄、あるいは青として知覚されると結論づけます。もし、目がなかったならば、色は存在せず、あるのはエーテルの動きだけだったでしょう。彼らは、エーテルはひとつの客観的な事実であるが、色は主観的で、人体の内部で創造されるようなものであると主張します。今日のドイツにおける最も偉大な哲学者の一人として高く評価されているライプチヒのヴント教授は、物質とは基質であり、「決して直接に観察されるものではなく、その効果を通してのみ観察され得るものである」と言います。そして、彼は、「自らと矛盾しない現象についてのいかなる説明も」そのような基質を仮定しなければならないということを見い出します(「論理学」第2巻参照)。明晰で混乱した心象についてのデカルトの妄想は、物理学においては、物質を表現する基本的な方法となったのです。記::デカルトの機械論的アプローチは物理学や化学において非常に有効です。複雑な現象を理解するために、現象をより小さな部分に分解して研究します。例えば、化学反応は分子や原子レベルでの相互作用を研究することで理解され、物理学では物体の運動を力やエネルギーの観点から分析します。ただし、量子力学の世界では機械論的アプローチには限界があります。量子もつれ現象などでは、部分に分解しても全体像を把握することは困難です。 (第17章 ゲーテ対原子論 第四項了)人気ブログランキングへ
2024年06月22日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第三項 もし、私たちの時代の科学者たちが彼らの仲間うちではない者たちの著作をも読んでいたとすれば、オストヴァルド教授がこのような論述を行うことは決してなかったでしょう。と申しますのも、私は既に1891年に、ゲーテの色彩論のための序論の中で、私たちはそのような「形態」を非常によく想像することができ、未来の科学はゲーテの基本的な科学上のアイデアを洗練させる使命を持つことになるだろうと書いたからです。私たちは物理的なプロセスをエネルギーの状態に「還元する」ことができない以上に、原子の力学に「還元する」ことはできません。そのような還元主義が役に立つのは、私たちの注意を現実の感覚的世界の内容から逸らし、その代わり、それを抽象性へと、つまりその悪化した特質がそれでも結局は感覚的世界から取られてきたような抽象性へと向けさせるということにおいてだけなのです。ある一群の感覚的な特質、光、色、音、匂い、味、暖かさ等々を、別のグループの感覚的な特質、大きさ、形、位置、数、エネルギー等々に還元することによって説明することはできません。自然科学の使命は、ある範疇の特質を別の範疇の特質に「還元する」ことではあり得ません。それはむしろ世界の知覚可能な特質の間の結びつきや関連性を見出すべきなのです。私たちがそれを行うとき、私たちはある感覚的な知覚が必然的に別の知覚に移行する特別な条件を見出します。私たちが見出すのは、ある現象は別の現象に比べてより密接に関連しているということです。私たちは無作為の観察による偶然の結果以上の結びつきを確立します。私たちは、ある関係は必然的なものであり、別の関係は「偶発的」なものであるということを認めます。ゲーテは現象間の必然的な関連を「元型的な現象」と呼びました。「ひとつの感覚的な知覚が別の知覚を不可避的に生じさせる」と言うとき、私たちは元型的な現象を扱っているのを知っています。これは私たちが「自然法則」と呼ぶところのものです。例えば、「物は暖められれば膨張する」と言うとき、私たちは感覚世界の現象、つまり、暖かさと膨張の間の合法則的な関連を表現しています。私たちは「元型的な現象」を認め、それを「自然法則」として表現しました。元型的な現象はオストヴァルドが求めていたもの、無機的な自然の中の最も普遍的な関連性を表現するあの形態に対応しているのです。数学や力学の法則もまた、その他の感覚的な関連を定式化する法則と同様、元型的な現象の表現に過ぎません。力学の使命は自然の動きを「最も単純で、最も完全な仕方で」記述することであるというキルヒホッフの言葉は間違っています。力学は自然の動きを最も単純で、最も完全な仕方で記述するだけではなく、一定の「必然的な」動きをも自然の中で生じる動き全体の中に探し求めます。そのとき、それはこれらの必然的な動きを「基本的な力学法則」として定式化します。キルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff)の言葉は、きわめて単純な力学法則を確立するだけでその誤りが証明されるということに気づかれることなく、途方もなく重要なものとして繰り返し引用されてきました。その理由は極端な無思慮によってのみ説明することができます。元型的な現象は現象世界の要素の間の合法則的な関連を表現しています。1892年6月11日のワイマールでのゲーテ会議でヘルムホルツが行ったスピーチの中で述べられたこと以上に不適切な発言はほとんどあり得ません。それは「当時、既に確立していたホイヘンスによる光の波動理論についてゲーテが知らなかったというのは残念なことである。彼は彼がその目的のために選択した懸濁液中で生じる色彩におけるようなかなり不適切で込み入ったプロセスよりも遥かに正確で具体的な元型的な現象をそこに見出していたことだろう。」です。彼は、波のような知覚不能で光という現象に対する推論的な付加物の方が、私たちの正に眼前で展開するプロセスよりも正確で具体的な「元型的な現象」をゲーテに提供するはずだと主張しているのです。後者のプロセスはそれほど複雑なものではなく、曇らされた媒体を通して見た光が「黄色」として、照明された媒体を通して見た闇が「青」として含まれるというようなものです。感覚知覚可能なプロセスの知覚不可能な機械的な動きへの「還元」は現代の物理学者たちにとってあまりにも習慣的なものとなっているために、現実を抽象で置き換えていることに彼らは気づいていないように見えます。ヘルムホルツによるこのような宣告は、ゲーテによる以下のような記述が反駁されたときにのみ許容されるべきものです。「最高の成果は、あらゆる実際のものは既に理論であるということを理解することにある。青い空は私たちに色の基本法則を明らかにする。現象の背後に何も探すべきではない。それら自体が理論なのだ。」(散文の中の韻)ゲーテは現象の領域「内」に留まります。現代の物理学者たちは、これらの仮想的な現実から実際に知覚された経験という現象を導き出すために、世界の細々としたものをいくつか集めてきて、それらを現象の「背後に」置きます。参考画:Gustav Robert Kirchhoff (第17章 ゲーテ対原子論 第三項了)人気ブログランキングへ
2024年06月21日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第二項 寸法、形、位置、動き、力といったものは、例えば、光、色、音、匂い、味、冷たさ、あるいは熱と同様に感覚的な知覚です。事物の大きさを考えるとき、それはもはや「現実の」事物を扱っているのではなく、知的な抽象化物を扱っているのです。感覚的な経験から抽出されたものに対して、感覚的に知覚可能な事物そのものに対して以上に、より高次の現実性を帰属させることに意味はありません。空間的あるいは数的な関連性を用いることのメリットは、ひと目でそれらを概観することができるという、更なる容易さと簡便性の付与にあります。数学という科学の確かさはそのような容易さと概観性とに由来しているのです。現代の科学は物理的なプロセスをいつも数学的、力学的な関係に還元しますが、それは容易さと簡便さとをもってそれらを取り扱うことができるからです。人間の思考はどちらかというと便利さを好むものなのです。そのことは上記で引用したオストヴァルドの講義でも表現されています。この科学者は物質と力をエネルギーで置き換えようとします。彼の言葉を聞いてみましょう。「我々の感覚のひとつが活性化するとき、その決定的な要因とは何か。どんなにそれを眺めてみても、見つかるのは”我々の感覚器官がその環境とそれら自身との間のエネルギーの差に反応している”ということだけだ。もし、我々が生きている世界の気温が我々の体温といつも同じであったならば、我々は決して暖かさについて知ることがなかっただろう。ちょうど我々がその下で生きている一定の大気圧を経験することがないように。圧力が変化したときにのみ、我々はそれに気づく。誰かがあなたを棒で叩くと想像してみなさい。あなたが感じるのは棒か、それともエネルギーか。答えはエネルギーにならざるを得ない。何故なら、振り回されさえしなければ、棒は世界で最も無害なものなのだから。しかし、あなたは応えるだろう、我々は静止している棒にぶつかるかも知れないと。その通り。しかし、我々が経験するのは、私が言ったように、我々の感覚器官とのエネルギーの差であり、この観点からすれば、棒が我々にぶつかるのも、我々がそれにぶつかるのも何ら変わりはない。もし、それらが同じ方向に同じスピードで動いていたとしたら、我々の感覚という観点からして、もはや棒は存在しない。何故なら、それは我々に接触することも、エネルギーの変化を生じさせることもないのだから。」。ここでオストヴァルドは、知覚の領域から「エネルギー」を、つまり、エネルギーでないあらゆるものからエネルギーを分離しているのです。彼はあらゆる知覚を知覚世界における単一の特徴。「エネルギーとしての表現」へと還元し、そして、それによってひとつの抽象性へと還元しています。オストヴァルドがいかに現在の科学的な習慣に捕えられているかは明白です。もし、私たちが彼のアプローチにおける正当性について彼に尋ねるとしたら、彼が見つけることができる唯一のものは、彼の因果論的な説明に対する必要が自然のプロセスをエネルギーの相互交換に還元することで満足させられるのは心理学的な経験上の事実であるということだけです。実際、ドイツの医師、生理学者であるエミール・ハインリヒ・デュ・ボア=レーモン (Emil Heinrich du Bois-Reymond/1818年 - 1896年)が19世紀の原子の力学に頼るのも、オストヴァルドがエネルギーの相互交換に頼るのも同じことです。いずれにしても、心的な便利さに対する人間の必要が満足させられることになるのです。オストヴァルドは彼の講義を次のように締めくくっています。「自然を理解するために、エネルギーがどんなに必要かつ有用であったとしても、物理的な世界を説明するのに十分なものであるのか。あるいは、現在知られているエネルギーの法則をもってしても完全には説明できない現象があるのか。・・・私は私の今日の発表におけるその他の部分に対してと同様の責任を持ってこの問いに答えることが必要であると感じているのであるが、強調したいのは、その答えは「ある」のであるということだ。私の意見では、物質的、あるいは力学的な説明に対してエネルギーの観点から世界を説明することの途方もない利点とは無関係に、既知のエネルギーの法則によっては説明することが「できない」いくつかの場合が既に存在している。それらはそれらを越えた原則の存在を示唆している。エネルギー論はそれらの新しい法則と共存しながら生き残るであろう。しかし、それは将来、現時点で我々が考えているような自然現象を把握するための最も包括的な原則としてではなく、恐らく、「今日ではその形態をほとんど想像することもできないような」もっと一般的な関連性の特殊な表現として理解されていることだろう。参考画:エミール・ハインリヒ・デュ・ボア=レーモン記:科学的知識の限界についての議論(われわれはしらない、しることはないだろう、ラテン語: Ignoramus et ignorabimus,/イグノラムス・イグノラビムス)は、人間の認識の限界を主張したラテン語の標語。 (第17章 ゲーテ対原子論 第二項了)人気ブログランキングへ
2024年06月20日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第17章 ゲーテ対原子論 佐々木義之訳 1-9項第一項 今日、19世紀の自然科学の発展については非常に多くのことが語られています。私は、この関連で本当に話すことができるのは、重要な科学的経験と、それがいかに実際の生活を変えたかということに尽きると信じています。しかし、現代の科学がそれを通して経験の領域を「理解」しようとしている基本的な概念ということになると、それらは不健全で厳密な思考(第6章及び第15章)には耐えられないだろうと言わざるを得ません。この観点は、著名な化学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・オストヴァルト(Friedrich Wilhelm Ostwald、ラトビア語: Vilhelms Ostvalds、1853年-1932年)によってごく最近表明されました。参考画:Friedrich Wilhelm Ostwald記:ドイツ(バルト・ドイツ人)の化学者。オストワルトあるいはオストワルドとも呼ばれる。1909年、触媒作用・化学平衡・反応速度に関する業績が認められ、ノーベル化学賞を受賞した。ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフやスヴァンテ・アレニウスと共に物理化学という分野を確立した一人とされている。 彼によると、世界の内的な成り立ちについてどう思うと聞かれるとき、数学者から開業医に至るまで、すべての思慮深い科学者は、事物は動き回る「原子」から成り立っている。それらの原子とそれらの間で働く「力」とが究極の現実であり、それらから個別の事象が現われると言うだろう。我々は皆、これが物理世界を理解するための唯一の方法であり、原子の力学に立ち返らなければならないと語られるのを我々は何百回となく聞かされてきた。自然現象の多様性全体がそこから導かれ得るところの唯一の概念とは物質と動きであると思われるのだ。人はこの観点を科学的唯物論と呼ぶだろう。私は前章第16章で、現代の物理学者たちの基本的な観点は受け入れ難いと書きました。オストヴァルドが同意して言うには、「この力学的な世界観は、それがそのためにデザインされた目的に寄与しません。・・・それは、議論の余地がなく、よく知られ、そして認められた真実に矛盾しています。」これについての是認は続きます。「私は、私たちに自らを提示するような感覚知覚可能な世界とはその根底に実質的な基盤を持たない変容する知覚の寄せ集め」(第16章)であると言います。そして、オストヴァルドが言うには、我々が物質について知っているあらゆることがらはその性質に関連しているということに気づくなら、「ある物質がそのいかなる性質も欠きながら存在していると主張することは馬鹿げている」ということが明らかとなる。そのような純粋に形式的な仮定が役に立つのは、化学プロセスの一般的な事実の間の整合性、特に、物質の量論的な法則、そして、不変的な物質という思いつきの概念を打ち立てるときだけである。(編注:「科学的唯物論の克服」、リューベックにて、1895年9月20日)。そして、本書の中では、「これらの考察は、知覚された世界の領域を道義的に越えて行くような自然についてのいかなる理論も不可能であると考えるよう私に強いるとともに、感覚的な世界を自然科学の唯一の対象として思い描くよう私を導いたものです。」(第15章)そして、オストヴァルドの講義では、物理世界に関する我々の経験とは何か。明らかなのは、それは我々の感覚器官が我々に与える以上のものではないということである。・・・科学の使命は「現実」を、つまり、もっともらしく、測定可能な性質を収集し、そして、それら相互の関係を見出すことによって、ひとつが与えられれば別のものが結果として生じるようにするということである。そして、これは、仮説的なモデルを仮定することによってではなく、測定可能な性質の相互に依存する側面を検証することによってなされなければならない。もし、私たちが、オストヴァルドは現代科学の観点から語っている、したがって、感覚世界の測定可能な側面だけを見ているという事実を無視すれば、彼のここでの論点は私の論点と一致しています。つまり、「理論とは、目で知覚可能なものを包含するとともに、この領域の内部で相互関係を探求するものでなければなりません。」(第16章)。一般的な科学の知的な基盤に反対するオストヴァルド教授の講義におけるのと同じ戦いがゲーテの色彩論についての私の議論の中で挑まれています。しかし、確かなことは後で示すように、彼は彼が反対する科学的な唯物論者と同じ表面的な仮定から出発している。私が焦点を当てている概念はオストヴァルドの考えとは完全には一致しないということです。私は、現代の自然観の間違った基盤はゲーテの色彩論への不健全な評価のためであるということもまた示しました。現代の自然観についての私の議論をさらに詳細に進めていきましょう。この観点の健全性を評価するために、それが自らに設定した「目標」について考えてみたいと思います。デカルトの中には、不当にというわけではなくして、現代の自然観が知覚可能な世界を判断するために採用した基本的な定式化が見られます。物理的な事物をより詳細に考察するとき、それらの中には、私が「明確に」、そして「はっきりと」把握できるものはほとんどない。それらは大きさ、つまり、長さ、幅、奥行きといった広がりであり、広がりが終わることで結果として生じる形態であり、相互に関連した様々な形態を持つ物体の位置であり、動き、つまり、位置の変化である。そして、それには物質、持続、そして数がつけ加えられるだろう。しかし、光、色、音、匂い、味、熱、冷たさ、そして、その他の感触、なめらかさや粗さが私の心に入って来るとしても、それはあまりにも「曖昧」で「混乱」しているため、それらが本当なのか、あるいは偽りなのか。言い換えれば、これらの性質について私が持つアイデアは本当に真の対象についてのアイデアなのか、若しくは、決して存在しないはずの想像上の事物を表現しているに過ぎないのかを決めかねるのである。(「省察」第3部)。デカルトによるこの論述は今日の科学者にとって習慣的な考え方となったものを表現しています。そのため、彼らにとって、その他の考え方は本当に考慮する価値のないものとなっています。彼らは、光は数学的に表現できる運動プロセスの結果として知覚されると言います。彼らは光が現われると、それを振動にまで辿り、そして、1秒当たりの波数を計算します。あらゆる知覚を数学的に表現できる関連性にまで辿ることができるとき、感覚世界全体を説明することができるであろうと信じられているのです。この観点によれば、そのような説明を提供できた心は自然界についての考え得る最も高次の洞察を達成しているということになります。そのような科学者の良い例であるデュ・ボア-レイモンは「そのような心は我々の頭髪でさえ数え上げ、1羽の雀でさえそれに知られることなく地面の上に落ちることはないだろう」(「自然科学の限界について」、1882年)と述べています。世界を数学的に処理することは一般的な科学の理想となっているのです。現代の科学者たちが世界を説明するために用いることができる要素の中に力そのものを組み入れているのは、仮想的な物質の各部分にとって、外的な力の介入なしに動き始める方法はないという理由からです。デュ・ボア-レイモンが、「自然を知るということは云々・・・物体内部の変化を、時間から独立したそれらの中心的な力によって引き起こされる原子の運動にまで辿ることを意味している。それは原子力学の意味で自然のプロセスを理解するということである。」(同著)と述べているように、力の概念を導入することによって、数学は力学になります。今日の哲学者たちが独立して考えるための勇気を全く失っているのは、科学者たちの影響をあまりにも深く受けているからです。彼らは科学者たちの観点を躊躇なく受け入れます。最も著名なドイツの哲学者の一人であるウィルヘルム・ヴントは、「物質の質的な不変性からして、あらゆる自然のプロセスは結局のところ動きから構成されているという原則にしたがえば、物理学の目標とは、その応用力学への翻訳ということになる。」(論理学、1830-1833年)と述べています。デュ・ボア-レイモンは、「そのような解決法、つまり、自然のプロセスを原子の力学に還元することがいつも因果論的な説明に対する我々の必要を一時的に満足させるだけに留まる」のは心理学的な経験の問題であると考えています。確かに、デュ・ボア-レイモンにとって、それは経験の問題かも知れません。しかし、物理世界についてのそのようなありきたりの説明では満足できない人たちがいるということも言っておく必要があります。そのような人物の一人がゲーテです。誰であれ、因果論的な説明に対する欲求が自然のプロセスを原子の力学に還元することで満足させられる人にとっては、ゲーテを理解することは不可能でしょう。 (第17章 ゲーテ対原子論 第一項了)人気ブログランキングへ
2024年06月19日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-66.ゲーテ、ニュートン、そして物理学者たち 色彩の本質的な性質を観察することに対して、ゲーテはさしあたり芸術的な興味を持っていました。彼の先見的な天才が間もなく気づいたのは、絵画における色の使用は深い法則性に準拠しているということです。絵画理論の範囲内に留まっている限り、その法則性の特質を発見することはできませんが、画家たちもまた彼に満足のいく答えを提示することはできませんでした。画家たちはどのように色を混合し、用いているかについて、実践的な方法で知っていましたが、自分たちが行っていることを概念化することができませんでした。イタリアに赴いたゲーテが見たのは、所謂かの芸術における最も崇高な例だけではなく、最も壮大な「自然の色彩」でした。そして、彼の中に色彩の法則を理解したいという強い欲求が目覚めたのです。ゲーテは「色彩論の歴史」の中でその課題の歴史的な側面について詳しく説明しています。ここではその心理学的かつ実際的な側面に焦点を当てることにしましょう。ゲーテはイタリアから帰った直後に色の研究を開始しました。これは1790年と1791年に強化され、彼の死に至るまでの主要な関心事であり続けました。色の研究を始めたときのゲーテの世界観の状態を考察してみましょう。彼は既に有機的な実体の変容に関する彼の偉大な考えを発展させていました。顎間骨の発見によって、既にあらゆる自然存在の統一性が明らかになっていたのです。彼にとって個別のものはアイデアの特別な変化形として現われました。彼はイタリアからの手紙の中で、植物が植物であるのは「植物というアイデア」をそれ自身の内に担っているからであるという考えを表明していました。そのアイデアは、彼にとって、精神的な内容に満たされた具体的な統一体であり、それぞれの植物の中で活動していました。それは物理的な目をもってしては見ることができませんが、精神の目をもってすれば理解することができるものです。それを見る者は「それぞれの」植物の中にそれを見ます。それは植物界全体を、この観点をさらに洗練させれば、すべての自然を、精神により理解することができる統一体にするところのものなのです。とはいえ、私たちの感覚が提供するような多様性を単にアイデアから構築することは誰にもできません。先見的な精神はアイデアを知ることができますが、「個別の形態」にアプローチすることができるのは、私たちが観察し、考察しながら私たちの感覚を外なるものに向けるときだけです。私たちの感覚という現実の中で、何故、あるアイデアの変化形がひとつの形態を取り、別の形態を取らないのかという疑問に対する答えは、知的な考察によって見出すことはできません。つまり、現実の世界を「見る」必要があるのです。このゲーテに特有のものの見方は「経験主義的な理想主義」として最も良く記述することができるでしょう。それは次のように要約することができます。「感覚に生じる事物の多様性」を観察するとき、それらの事物が似通っている程度に応じて、それらの根底に「精神的な統一性」を見出すことができる。そして、それがそれらすべての類似性の源泉なのだと。こうして、ゲーテは、色彩知覚の多様性の背後にある精神的な統一性とは何かと問うに至りました。私は「それぞれの」色の中に何を知覚するのでしょうか。すぐに明らかになったのは、「光」がそれぞれの色に必要な基礎となっている、光がなければ色もないということです。しかし、色彩は光が変化したものです。ですから、今度は光を変化させ、それに特殊性を付与する要素を見つける必要がありました。彼には、この要素こそが光を欠く物質、あるいは活動的な闇、言い換えれば、光に対抗するものであるということが分かりました。ですから、彼にとっては、それぞれの色は闇によって変化させられた光だったのです。ゲーテが光について語るとき、それは具体的な太陽光あるいは通常の「白色光」のことを意味していたと考えるのは正しくありません。人々がこの考えから脱却できないこと、複雑な構成の太陽光をそのようなものとしての光の代表として見るということは、ゲーテの色彩論を理解する上で唯一の実際的な障害となっているものです。ゲーテが闇に対抗するものとして見るときの光とは、あらゆる色の知覚に共通した純粋に精神的な実体なのです。ゲーテはそのように明確に述べたことは決してありませんでしたが、ゲーテの色彩論全体は、それ以外にそれを理解する方法はないというような仕方で提示されています。彼が太陽光を用いてその理論を実験的に検証したのは、確かに太陽光は太陽という天体の複雑なプロセスの産物ではあるけれども、その各部分がその内部に保持されているところのひとつの統一体として私たちに自らを提示するという理由からです。色彩論のために太陽光を観察することによって得られるのは、単に現実を「近似する」ところのものだけです。それぞれの色の中には光と闇が目に見える現実として実際に含まれているということをゲーテの理論は示唆していると考えるべきではありません。私たちの目に映る現実は個別の色合いに過ぎません。色という感覚的な事実を二つの精神的な実体、光と光ではないものに分離することができるのは精神だけです。そこに含まれている外的な条件や物理的な過程は、今述べられたことによっていささかも影響されません。私に赤が現れるとき、エーテルの振動がそこにあるということに疑いはありません。とはいえ、既に示されたように、知覚の中に含まれる実際の物理的なできごとはその「本質的な特質」とは何の関係もありません。人は、すべての感覚は主観的であることが証明されている。私たちの脳内で起こっていることを除けば、感覚の背後には実際に波動プロセスが存在していると主張するかも知れません。しかし、これでは、単に物理的なプロセスの根底に横たわるものの理論を除いて、いかなる「知覚に関する物理的な理論」についても語ることはできません。この証明は、aにいる誰かがbにいる私に電報を打つとき、私がこの手に受け取る電報はbに発するものであると主張するのと同じです。電報の発信者はbにいて、aには存在しなかった紙の上に、aには存在しなかったインクを用いて書き、実際、aがどこなのか見当もつかない、言い換えれば、私の目の前にあるものはaに発したものでは全くないということが証明されるのです。しかし、それでも、bに発したこれらすべてのことがらは、電報の実際の「内容」、あるいは本質には全く関係がありません。つまり、私にとって重要なことがらがbを通って媒介されたというだけのことです。電報の意味を説明したいのであれば、私はbで起こったことを完全に無視しなければなりません。目(*眼)についても同じことが言えます。理論は、目で知覚可能なものを包含するとともに、この領域の「内部」で相互関係を探求するものでなければなりません。時空間中での物質的な過程は、知覚の「生起」にとっては非常に重要かも知れませんが、それらの本質的な特質には無関係なのです。このことは、今日、光・熱・電気といった様々な自然現象のすべてがエーテル中での同様な波動プロセスによって生じるのかどうかについてしばしば投げかけられる問いにも当てはまります。最近、ハインリッヒ・ヘルツ(1857-1894年)によって、空間中における電気的な効果は光の効果と同じ法則にしたがうということが証明されました。光を運ぶ波動は電気の根底にも横たわっているということがこれから推測されます。太陽光スペクトルの中にはただ「ひとつの」種類の振動が働いており、それらが接触する試薬が熱、光、あるいは化学的な作用に反応するかどうかによって、熱、光、あるいは化学的な効果を生じさせるということは既に認められていました。参考画:heinrich rudolf hertz このようなことはすべて言うまでもないことです。もし、ここで問題になっている実体が媒介されている間、空間中で何が起こっているかを調べるならば、私たちは「同じ型の」動きを見出すことになるでしょう。単に動き「だけ」が可能な媒体中では、刺激に対するいかなる反応も動きを通したものになるに違いありません。それによって遂行されるいかなる媒介も動きの形でなされることでしょう。そして、もし、私がこの動きの形態を調べるとしたら、私は伝えられるものの特質ではなく、それが伝達されるその仕方だけを経験することになるでしょう。熱や光が動きであると主張するのは馬鹿げています。動きとは単に動く可能性のある物質が光に出会ったときの反応に過ぎません。ゲーテ自身、生存中に波動理論が誕生するのを見ていますが、その中には色彩の性質に関する彼自身の確信と合致しないものは何も見られませんでした。ゲーテは光と闇を感覚知覚可能な現実として考えていたのだという見方を私たちは捨てなければなりません。そうではなく、それらを「単なる」原則として、つまり、精神的な実体として考えるならば、私たちは全く新しい光の下に彼の色彩論を見ることになるでしょう。もし、ニュートンのように、光を単にすべての色の混合物として見るならば、私たちは具体的な実体としてのいかなる「光」の概念も見失ってしまいます。それは現実に対して何の対応物も持たない空虚な一般化物へと蒸発してしまいます。そのような抽象的な概念はゲーテには縁遠いものでした。彼によれば、あらゆる概念は「具体的な」内容を持っていなければなりません。しかし、彼にとって、「具体的な」というのは物理的なものに限定されてはいませんでした。実際、現代の物理学はいかなる光のための概念も有していません。特定の光あるいは色彩が一定の組み合わせにおいて「白」という感覚を引き起こすことをそれは認めます。しかし、この白を光と同じものと考えることはできません。事実、白は「混合色」でもあるのです。通常の物理学にとって闇がそうであるように、ゲーテの意味での光は見知らぬものです。ゲーテの色彩論の基本的な概念については「何も」知らない物理学者たちの概念によって触れられていない領域の中でそれは展開されます。ゲーテは彼らが終わるところから始めるのです。ですから、彼の理論を評価することは彼らにはできません。ゲーテのニュートンや現代物理学に対する関係についていつも言われることは、それらは全く異なるものであるという事実を完全に見落としている非常に表面的な問題の把握に基づいています。私たちは、もし、人が感覚の本性についての私たちの議論を正確に理解するならば、ここで示されたゲーテの色彩論の観点もまた共有するであろうということを確信しています。けれども、もし、私たちの基本的な理論を認めないのであれば、人は物理的な光学の観点を主張し、ゲーテの色彩論を完全に拒否しなければならなくなるでしょう。 (第16章 6.ゲーテ、ニュートン、そして物理学者たち 了/第16章 完。 )
2024年06月18日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-65.ゲーテの空間概念 物理学におけるゲーテの仕事を十分に理解するためには、彼の「空間」に関する概念を展開させる必要があります。この概念を理解するための必要条件はこれまでの節の中に内在する確信、すなわち、第一に、私たちの経験の中で別々のできごととして現われる現象は相互に内的に関連しているという確信です。実際、それらは全世界を包含する統一の絆によって結びつけられているのです。それらすべの中には「ひとつの」原理が生きています。第二に、私たちが別々の事物にアプローチし、それらの関連性を決定することでそれらを結びつけようとするときにはいつでも私たちが創造するところの概念的な統一性は、それらの事物にとって外的なものではなく、自然存在そのものの正に中心から導き出されるものであるという確信です。ひとつのプロセスとしての人間の認識は事物の外側で生じるのではありません。それは純粋に主観的で恣意的なものではありません。むしろ、自然法則として私たちの精神の中に生じるもの、私たちの魂の中に生きるようになるものこそ、正に宇宙の鼓動なのです。私たちの現在の目的のために、私たちの精神が経験の対象物の間に打ち立てるあらゆる関連の中でも最も外的なものを検証してみましょう。経験によって精神的な活動が喚起される最も単純な例を見てみることにします。現象世界における二つの単純な要素を想像してみましょう。ものごとをできるだけ簡単にするために、二つの光の点を想像します。心に大きな問題を突きつけるひどく複雑な現象をこれらの光の点がそれぞれ示しているかも知れない、という事実は完全に無視してください。それらの感覚的な特徴は無視して、二つの別々の、つまり私たちの感覚が私たちに告げる限りにおいて、別々の要素という単純な事実についてだけ考えてください。そこには二つの要素があり、それぞれが私たちの感覚に影響を及ぼしていますが、それだけの意味しかありません。このことはまた、これらの要素の内のひとつの存在がもうひとつの存在を排除しない、つまり、それらの両方が「ひとつの」知覚器官によって知覚され得るとも言えるでしょう。もし、これらの要素の内のひとつの存在が何らかの仕方でもうひとつの存在に依存していると仮定するならば、私たちは非常に異なった問題に直面することになるでしょう。もし、Bの存在が、それはAの存在を排除するけれども、それにもかかわらずその存在はそれに依存しているというようなものであったとしたら、それらは「時間」の意味で結ばれていることが示唆されます。と申しますのも、もし、Bの存在がAに依存し、そして、Bの存在がAを排除するとしたら、AはBに先立つものでなければなりません。しかし、それは別の問題です。そのような関係を私たちの目的のために想像することはありません。私たちはこれらがお互いを排除せず、共存すると仮定します。それらの内的な本性によって要求されるあらゆる関係を無視することによって、二つの別々の実体としてのそれらの関係だけが残ります。私は一方から他方へと行くことができ、そして、二つの間には間違いなくその種の関連が存在しています。もし、私がひとつの事物から別の事物へと移行することができ、それぞれがその過程で全く変化しないままに留まるとしたら、それらの間には「空間」という意味での結びつきだけがあるはずです。その他のいかなる関係もそれらの質的な違いを含むものとなるでしょう。しかし、空間は、それらが「分離している」という事実を除いて、あらゆることに中立です。もし、私が、Aは上にあり、Bは下にあると言うならば、AあるいはBが何であるかということは問題になりません。それらについての私の唯一の考えは、それらは私の感覚に提示される二つの別々の世界要素であるということです。経験にアプローチするときの私たちの心は、あらゆる分離が克服され、全体の力が個別のものの中で明らかになるのを欲します。私たちは、世界を空間的に見るとき、この分離そのものを克服することだけを求めます。私たちは「最も普遍的な結びつき」を確立するように努力します。この空間的な関連が確立するものとは、AとBはそれぞれがそれら自身の世界なのではなく、それらは何か共通のものを持っているということです。これが空間的な並置が意味しているものです。もし、それぞれがそれ自身のためだけに存在していたとしたら、空間的な並置は存在しなかったでしょう。いかなる種類の関係も事物の間で形成されることはなかったでしょう。さて、このように別々の実体の間に外的な関係を打ち立てるということが私たちをどこに導くかを見てみましょう。そのような関係にある二つの要素について考える方法が「ひとつ」だけあります。AをBの「隣に」あるものとして考えることができるのです。感覚的な世界におけるさらに二つの要素―CとD―についても同じことができます。こうして、AとBの他に、CとDの間にも具体的な関係が確定します。今、個別の要素A、B、C、そしてDについては忘れ、二つのペアの間の関係だけを考えることができます。AとBを関連づけたのと同じようにしてこれらの個別の実体を関連づけることができるということは明らかです。ここでは単に具体的な関連が述べられているだけです。私はこれらの組みをa、bと呼ぶことができます。これをさらに次の段階に進めると、aとbの間の結びつきを見ることができます。けれども今、私はすべての個別性を見失ってしまいました。私がaを見るとき、お互いに関連したAとBを見ることはもはやありません。それはbについても同じです。いずれの場合にも、関係が確立された、という単純な事実だけが見出されます。aとbを区別することを可能にしたのは、それらがA、B、C、そしてDのことである、ということでした。もし、私がこの個別性の痕跡を捨て去り、aとbだけを関連づけるならば―つまり、特殊なものが関連づけられているということではなく、それらは関連性である、という事実だけがあるならば―私は全く一般的な方法で私が出発点とした空間的な関連性へと再び至りました。そこから先に行くことはできません。私は私が求めていたもの、「空間」についての内的な認識を達成したのです。「ここには三次元性の秘密が横たわっています。」最初の次元において、私は感覚的な世界の二つの具体的な要素を関連づけます。第2の次元において、私はそのような空間的な関連性の間に関連性を確立します。それは関連性の間の関連性です。具体的な現象は除かれ、残っているのは具体的な関連性だけです。今、私はこれらを空間的な関連性へともたらしますが、それはこれらの関連性の具体的な性質を完全に無視することを意味しています。私は私が別のものの中に見出したひとつの関連性と「正確に同じ」ものをこうして見出すのです。同じ実体間の関連性を確立した今、関連づける可能性が止みますが、それはすべての差異が消滅したためです。私は今、探求のための視点としてそこからはじめたもの―それは完全に外的な関連性です―へと、ただし、今回は感覚的な像としてのそれへと戻って来ました。私は上で述べた3回のプロセスを実行することにより、空間的な視点を取ることから空間そのものへと、つまり、私の出発点へと至ったのです。「空間が3次元でなければならないのはこの理由によります。」ここで私が空間に関して提示したことは私たちの一般的な観察方法の本当にひとつの特殊な例に過ぎません。私たちは共通の視点から具体的な対象物を観察します。こうして私たちは特殊なものの概念を得、次いで、これらの概念そのものを同じ視点から観察することによって、概念についての概念を得ます。つまり、もし、私たちがそれらを再び結びつけるならば、それらはひとつの理想的な統一体、それ自身との関連でのみ見られるような統一体へと融合するのです。次のような例を取り上げてみましょう。私は二人の人物A、Bと知り合いになります。私は友情という観点から彼らを観察します。この場合、私はこれら二人の友情について、ひとつの非常に明確な概念aを持つでしょう。次に、私は別の二人C、Dを同じ観点から眺めます。私は彼らの友情について、ひとつの異なる概念bを持つでしょう。さて、私はさらに進んで、友情に関するこれら二つの概念を並べて置きます。私が私の具体的な観察から抽象化を行うとき、私に残されるのは「友情という一般的な概念そのもの」です。けれども、この概念はまた、EとFの友情や、さらに、GとHの友情を同じ観点から観察することによっても達成されます。これらの場合にも、他の無数の場合と同様、一般的な友情の概念に至ることができます。これらすべての概念は本質的に同一であり、それらを同じ観点から眺めるとき、ひとつの統一性が見出されたことに気がつきます。ですから、「空間」とは、ものごとを眺めるひとつの方法であり、私たちの心が別々のものを統合する方法なのです。最初の次元は二つの感覚的な知覚(カントの言う感覚)の間の結びつきを確立します。第2の次元は二つの具体的な心象をお互いに関連づけ、そして、「抽象化」の領域へと入っていきます。第3の次元は二つの抽象的なものの間の理想的な統一を確立するだけです。ですから、空間の三つの次元が同じ重要性を有していると考えるのは正しくありません。最初の次元の性質は知覚された要素に依存します。けれども、きわめて特殊で最初のものとは異なる意味が他の二つにはあります。カントはここで間違いを犯しました。つまり、空間をそれ自体が概念的に規定され得るひとつの実体としてではなく、ひとつの統一体として考えたのです。ここまで私たちはひとつの関係性としての空間について語って来ました。今、問わなければならないのは、そこにあるのは並置という関係だけなのか、それとも、それぞれの事物には絶対的な位置というものがあるのかということです。私たちのこれまでの考察では、これらの問題には全く触れられて来ませんでした。「絶対的な位置」とか特別な「そこ」といったようなものがあるのかどうかを見てみることにしましょう。私は「そこ」によって実際に何を言おうとしているのでしょうか。私は問題の対象物の直近にある特定の対象物のことを言っているに過ぎません。「そこ」とは、指名された対象物の近くに、という意味です。このように、絶対的な位置は「空間的な関係性」にまで遡ることができますが、これによって私たちの探求が結論づけられます。今、私たちの調査によれば、空間とは何なのかと直接問いかけてみましょう。それは、あらゆる事物が、それらの本質的な性質とは無関係に、完全に外的な仕方で、それらの分離状態を克服し、それによって、たとえ外的なものとはいえ、ひとつの統一へともたらされるように、それらに生来備わっている必然性なのです。ですから、空間とは世界を統一体として理解するためのひとつの方法なのです。「空間とはアイデアであり」、カントが信じていたような感覚器官による知覚ではありません。参考画:絵の中の時空間 (第16章 5.ゲーテの空間概念 了)人気ブログランキングへ
2024年06月17日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-64.ゲーテの色彩論の体系 ゲーテが生きていたのは、それがそれ自身の中にその充足を見出すような絶対的な知識に向けて普遍的で力強い努力がなされていた時代、認識に対するあらゆるアプローチを探求し、最も重要な問いに対する答えを発見するために、より深い洞察を再び熱心に求めていた時代でした。東方の神智学、プラトンとアリストテレスの時代、そして、デカルトとスピノザの時代は同様の内的深化の時期でした。ゲーテは、カント、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲル抜きには考えられません。これらの人々はすべて奥深い観点、高みへと引き上げられた彼らの目を共有していたのですが、ゲーテ自身の思索は身近な現実の出来事にその焦点が当てられていました。 とはいえ、彼の注意深い眼差しの中にはその奥深さの幾ばくかが見られるのですが、彼がこのより奥深い洞察を行使したのはその自然観察においてでした。彼の自然観察はその時代の精神によって内的な生命の色合いを与えられました。そして、これは細部についての彼の観察に力を与えているものであり、より幅広い観点によって、それは絶えず生き生きとしたものとされます。ゲーテの科学では、いつでも中心的な重要性を有する問いに焦点が当てられるのです。私たちは、特に彼の色彩論においてこのことに気づきます。植物の変容に関する彼の随筆を別にすれば、これは唯一完全にまとめられた彼の科学的な業績です。そして、何と力強い自己充足的な体系が主題そのものの性質にしたがって考察されていることでしょうか。その内的な構造について見ていきましょう。自然という存在に根ざしたものであれば何であれ、それが現われるための前提条件が存在します。つまり、それを可能にする原因、事物がその中で自らを開示するための器官がなければなりません。「永遠かつ不死の自然法則は、たとえそれを思い描く人間が存在していなかったとしても、いつでも権力の座に留まっていたはずです。(*果たしてそうか。認識するもの無しの宇宙は安定して在るだろうか。マルチバース理論がそれに答えます。)」しかし、それらが現われることはなかったでしょう。それらは存在としてそこにあったかも知れませんが、顕現することはなかったでしょう。知覚する目がなかったとしたら、光や色についても同じことが言えます。私たちはショーペンハウアーのように、色彩はその存在を目に負っていると仮定することはできません。それでも私たちは色彩を知覚する可能性を目の中に見なければなりません。「目は色を決定づけるのではなく、それが現われる原因」となるのです。ここで色彩論が登場します。それは目を調べて、その性質を見つけなければなりません。ゲーテが「生理学的な」色彩論から仕事に取り掛かったのはそのためです。とはいえ、彼の考えはこの光学の領域で通常理解されているものとは非常に異なっています。彼は目の機能をその物理的な構造という意味で理解しようとはせず、その特徴と能力を理解するために、様々な条件下で目を観察するのです。ゲーテのプロセスはいつでも「観察」のプロセスです。例えば、目に対する光と闇の影響とは何か。それが明確なイメージに出会うときには何が起こるのか?等々です。知覚が生じるときには目の内部でどのようなプロセスが生じているのか、と問うことから始めるのではなく、むしろ、見るという「生きた」活動の中で実際に生じているものの根底に至ろうとするのです。これが彼の目的にとってさしあたり唯一重要な問いかけです。それ以外のものは、厳密に言えば、色の生理学的な理論に属しているのではなく、人間有機体の科学、あるいは一般的な生理学に属しています。ゲーテが目に興味を持つのは、それが見る限りにおいてであり、死んだ目を観察することで導かれるような視覚についてのいかなる説明にも興味が持たれることはありません。彼はここから、それを通して色彩現象が生じるところの客観的なプロセスへと進みます。ここで私たちが知っておかなければならないのは、ゲーテが客観的なプロセスについて考えるときには、仮説上の知覚不可能な物質的プロセスや動きに興味を持っていたのではなく、いつでも自らを知覚可能な世界に限定していたということです。(*実存的認証主義) 記:現代物理科学宇宙論の二つの認識されるも、直接的観察及び認証方法が未だに見い出されないダークマターとダークエネルギーをゲーテならどうその存在を表現したでしょう。ダークマター、ダークエネルギーが何なのかは結論づけられていませんが、重力との関係からその推論が行われています。ダークマターは人間が知覚できるものに影響を及ぼす重力のようなものを持ち、ダークエネルギーは宇宙を加速度的に拡張させる斥力を持ちます。これまでの研究では、両者は異なる現象として扱われることがほとんどでしたが、オックスフォード大学の天体物理学者であるジェイミー・ファーンズ氏は新たな研究で、この2つの現象が負の質量を持つ「暗黒流体」というコンセプトの一部である可能性を示しています。参考画:Dark fluid(暗黒流体) 彼の「物理的な色彩論」、それは彼の研究の二次的な部分にとどまりますが、色が目とは無関係に作り出されるときの関連する条件を探求します。それでも、その興味は実際の知覚のみに留まっています。彼がそこで見るのは、プリズムやレンズ等を通して色彩がどのように現われるかということです。彼は色彩が生じるのを追っていくことで、つまり、そのようなものとしての色が対象とは無関係に生じるのを観察することでとりあえずは満足します。「化学的色彩論」の中の独立した章においてはじめてゲーテは固定されたものとしての、あるいは対象に「付着した」ものとしての色彩へと進みます。「生理学的な」色彩論は、そもそも色彩はいかにして現われるのかという疑問に答えますが、「物理的な」色彩論はそれらが現われるときの外的な条件を取り扱います。彼は今、いかにして対象の世界は「色づけられた」ものとして現われるのかという疑問に答えます。こうして、ゲーテは、現象世界の特徴としての色を観察することから、この特徴をもって現われるような現象世界そのものの探求へと進み、最終的には、「色の感覚的-道徳的な影響」の中の一章において、色彩を有する物理的な世界と人間の魂の世界との間のより高次の関係の観察へと進みます。これはきわめて厳密な、つまり、条件としての主観から世界についての満足を世界の中で見出すような主観へと立ち返るような科学の道(*ヘーゲル哲学の思惟方法 ―弁証法)です。主観から客観へと立ち返るこの道の中で、ヘーゲルの全体的な体系という構築物へと導いた時代の衝動が明らかになります。この意味で、「色彩論の概観」はゲーテの光学における主要な仕事と見られるべきものです。彼の二つの随筆、「光学への貢献」と「色彩論の要素」は序論的な研究と見ることができるでしょう。「ニュートンの理論を暴露する」は彼の仕事に対する反論的な捕捉に過ぎません。 (第16章 4.ゲーテの色彩論の体系 了)人気ブログランキングへ
2024年06月16日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-63.自然科学の体系 今、私たちの探求は、思考の使命を知覚の秩序づけに限定することによって、さしあたり私たちがあれほど強く擁護した概念とアイデアの自律性そのものに対して問題を投げかけているかのように見えるかも知れません。そうではないということは、考察をさらに進めることによって示されるでしょう。結局のところ、思考が知覚と知覚の間の関係を確立する目的とは何なのでしょうか。知覚a及び知覚bについて想像してみましょう。さしあたり、それらは概念を欠く実体として私たちに与えられます。私の感覚に提供される性質を概念的な思考を通してその他のものに変化させることはできません。もし、私が感覚的な経験によって与えられるものに知覚を通してアクセスできなかったとしたら、それを構築すべきいかなる概念的な性質もまた見い出すことはできません。例えば、私がどんなに「赤」という性質を概念的に記述したとしても、色盲の人にそれを伝える方法はありません。感覚知覚には決して概念の中に入って来ることのない側面、そもそも認識の対象となるためには経験されなければならない何かがあるのです。参考画:普遍的色彩論 では、私たちが感覚的な知覚に付加する概念の役割とは何でしょうか。明らかにそれは何か全く新しいもの、それ自身に立脚しながら、その感覚的な知覚に属するとはいえ、その知覚自体の中には決して現われることのない何らかのものに貢献するものでなければなりません。さて、この新しい「何か」とは概念が感覚的な知覚にもたらすものであって、正に私たちの説明への必要を満たすものであるということは確かです。私たちが感覚世界における何らかの要素について理解することができるのは、それについての概念を持つときだけです。感覚的な現実が私たちに提供するものが何であれ、私たちはいつでもそれを指し示すことができます。そして、それを知覚する能力を持つ人であれば誰であれ、それが何であるかを正確に知っていることでしょう。概念は、感覚の世界では知覚され得ない何かを私たちに語らせます。このことから明らかになるのは、もし、感覚的な性質において知覚の本質が十全に表現されるならば、概念は何も新しいことをつけ加えることはできないだろうということです。このように、感覚的な知覚とは、不完全なもの、ひとつの側面、見られるだけの側面から構成されるものです。概念を通してはじめて私たちは私たちが見ているものが何かを理解します。今では、私たちは前節で「方法論的に」発展させたものの「内容」の重要性について定式化することができます。感覚世界における何かが「何」であるかは、私たちがそれを概念的に理解するとき、はじめて明らかになります。私たちには、私たちが観察するものの内容を表現することができませんが、それはその内容全体が「いかに」現われるかにおいて、つまり、それが現われるその「形態」において与えられるからです。こうして、世界は概念を通してはじめてその十全たる内容を達成します。しかし、私たちが見出したのは、概念は個々の現象を越えて事物の関係性を指し示すということです。感覚的な現実の別々に孤立したものとしての現われは「ひとつの統合された全体」として概念に提示されます。こうして、私たちの科学的な方法論はそれ自体が「一元論的な自然科学」という究極の目的へと導かれるものとなります。しかし、この一元論は、ある統一性を仮定するとともに、単に「具体的な」存在という個別の事実を包含するというような抽象的なものではありません。むしろ、それは、感覚的な存在の見かけ上の多様性がアイデアという領域の中でいかにひとつの統一体として自らを現すかを段階的に示していくというような具体的な一元論なのです。そのような多様性は統合された世界の本質がその中で自らを表現するところのひとつの形態に過ぎません。感覚はこの統合された内容を理解できないため、多様性に固執します。つまり、感覚は生来の多元論者なのです。しかし、思考は多様性を克服し、統合された世界原則にまで遡る道を徐々に辿ります。自然界における差別化は、概念(*アイデアの三つの形態の一)が感覚世界の中に顕現する個別の「方法」によって説明されます。感覚知覚可能な実体が完全に概念の外にある存在性のみを獲得するとき―言い換えれば、もし、概念がその変容を決定づけるところのひとつの「法則」としてのみ支配しているとき―私たちはその実体を「無機的」と呼びます。そのような実体に何が生じたとしても、それは別の実体の影響にまで遡ることができます。そして、その二つがどのように相互作用するかは、外的な法則によって説明することができます。私たちはこの領域において現象と法則とを扱っているのですが、もし、それらが主要なものであるならば、それらは「元型的な現象」と呼ぶことができるでしょう。この場合、理解すべき概念は知覚された多様性の外に横たわっています。しかし、「感覚知覚可能な統一体」はそれ自身を越えたところをも指し示します。私たちがそれを理解しようとするとき、それは知覚可能なものを超越した決定的な要素を探すように私たちに強います。そのとき、私たちが概念として理解するところのものは感覚知覚可能な統一体として現われます。これら二つのもの、概念と知覚されたものは同じではありませんが、その概念はその「外に」ひとつの法則として存在するのではなく、感覚的な多様性の「内に」ひとつの原理として現われるのです。私たちは現象の根底に概念を見出しますが、それは現象に浸透しており、もはや感覚知覚可能なものではありません。これは私たちが「型」と呼ぶところのものです。私たちは今や「有機的な」科学の領域内にいます。しかし、ここでも概念は、「型」としてのみ現われ、まだ概念としてそれ自体の形態において現われるのではありません。型がちょうどそのようなものとして、つまり、固有の原理として―現われるのではなく、その概念的な形態において現われるところでは、それは「意識」として現われます。低いレベルでは存在としてのみそこにあったものが、今、最終的に自らを現すのです。つまり、概念そのものが今や知覚可能なものとなりました。これが認識する人間の領域です。「自然法則」、「型」、そして「概念」はアイデアの三つの形態です。自然法則は多様性の上位に立つ抽象性であり、無機的な科学を支配しています。ここでは、アイデアと感覚的な現実性とは完全に分離しています。型はそれらをひとつの存在へと結びつけます。精神は活動的な存在になりますが、それはまだそのようなものとして活動しているのでも、そのようなものとして存在しているのでもありません。それがその実際の存在において観察されるためには、感覚知覚可能な形態において知覚されなければなりません。これは私たちが有機的な自然において見出すところのものです。概念は知覚可能な形態において存在しています。人間の意識においては、概念そのものが知覚できるものとなります。観察とアイデアが一致するのです。つまり、私たちは実際にアイデアを知覚するようになるのですが、これはまた、より低いレベルの自然の内的な原理を私たちに見えるようにするものでもあります。人間の意識とは、より低いレベルにおいては単に存在しているものの顕現していないものを十分に顕現した現実として知覚できるようにさせるものです。 (3.自然科学の体系 了)記:ルドルフ・シュタイナーは世界内の物事全てに「自然法則」、「型」、そして「概念」を求めます。すなわちカントが言う「普遍」に相当します。参考画:ドイツ観念論系統人気ブログランキングへ
2024年06月15日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-6 2.元型的な現象 私たちは、感覚的な知覚が存在するときにはいつでも生じるはずの一連の事象全体を、たとえ感覚器官の周辺にある神経末端から脳に至るまでずっと追っていくことができたとしても、それでもなお、機械的、化学的、有機的な(時空間の)プロセスが終わり、私たちが感覚的な知覚と呼ぶところの何か、つまり、熱、光、音、その他等々の感覚が始まる地点にまでは至ることはできないでしょう。原因となる動きからその効果、つまり知覚への移行地点はどこにも見い出されないのです。これらの側面の間の関係を原因と結果として記述することはできるのでしょうか。ものごとを客観的に見てみましょう。私たちの意識の中に特定の感覚が生じると仮定します。それは私たちの注意をそれがそこに起源を有するところの対象に引きつけるというような仕方で生じます。私が赤という知覚を有するとき、私の赤という心象内容は直ちに特別な空間座標、すなわち、空間あるいは表面に結びつけられ、そして、私はその知覚をそこに帰属させます。そのようなことが起こらない唯一のケースは、目に対する突然の圧力に対応した光の知覚のように、感覚器官そのものが外的な影響に対してそれ自身の仕方で応答するときです。私たちはそのような事例に関わる必要はありません。何故なら、それらは通常の知覚に特徴的なものではなく、そのような例外はこの知覚の本質について私たちに何も示さないからです。もし、私が特別な場所に結びついた赤という知覚を持つならば、私の注意はさしあたり外的な世界にあるその知覚の源泉としての何らかの対象に向けられるでしょう。私は私がその赤い色に関連づけるものの中で生じる空間的・時間的な経過について問いかけ、そして、機械的、化学的、あるいはその他のプロセスが私の問いかけに対する答えとして提示されるということが明らかになるでしょう。私は私のために赤という色を事物から私の感覚器官に至るまでの途上で仲介するプロセスの探求へと進むことができます。ここでもまた、私が見出すことができるのは動きのプロセス、電流、化学変化といった媒体だけです。たとえ私がその伝達を感覚器官から対応する脳の中心部へとさらに探求できたとしても、結果は変わらないでしょう。この経過全体を通して伝達される「何か」とは赤という知覚です。この知覚が刺激から知覚へと続く道に沿ってたまたま横たわっているものの中で「どのように」自らを提示するかは、もちろんその横たわっているものの特性に依存します。知覚は、たとえそのようなものとして明確にというわけでは全くないにしても、最初の刺激から脳に至るまでのどの場所にも存在していますが、たまたまその場所にある対象の特性に対応した仕方で存在しているのです。これによって、物理学や生理学を理論的に基礎づけるもの全体に光を当てるのに適した真実が明らかになります。私が私の意識に知覚として入り込むプロセスに含まれる何かを調べることによって知ることになるものとは何でしょうか。私が本当に知ることができるのは、その特定のものが知覚から進み出てくる働きにどのように対応するかということだけです。言い換えれば、時空間世界におけるその特定の対象の中で、知覚がどのように「自らを表現する」かということだけです。時空間的なプロセスとは、決して私の内部の知覚を創り出す「原因」ではなく、時空間中に存在する事物の中で知覚が及ぼすところの「効果」なのです。刺激から知覚器官に至る道に沿って、いくらでも事物を並べることができるかも知れませんが、それぞれがそれ自体の特性によって決定づけられ、同時に制限される、というような仕方で対応することでしょう。こうして、「知覚自体」がそれぞれのプロセスの中で自らを表現するものとなるのです。音の伝達には長さ方向の空気の振動が、光の伝達には仮想的なエーテルの振動が含まれます。これらの形態は、単にそれらの特別な知覚が正にその特性から希薄化と濃縮化、言い換えれば、振動することしかできない媒体の中で顕現するその仕方であるに過ぎません。知覚そのものがその媒体中に見出されることはありません。それは「それがそこには存在し得ない」からです。そのようなプロセスが知覚の客観的な特性を体現していると言うことはできません。それらはむしろその特性がその中に顕現するところのひとつの形態なのです。さて、それらの媒介するプロセスの特徴とはどのようなものかと問うてみましょう。私たちの感覚を通すことなく、それらを探求する方法はあるのでしょうか。感覚そのものを除く何らかのものを用いて私の感覚を探求することは本当にできるのでしょうか。周辺にある神経末端や脳の渦巻きは感覚的な知覚とは異なる何かなのでしょうか。これらすべては主観的であると同時に客観的、もちろん、それらが区別できるとすればですが。そのことに対して、今はもう少し正確なアプローチができるようになりました。私たちが知覚を刺激から感覚器官にまで追っていくとき、私たちは実際にはある知覚から別の知覚へと継続する移行を探求しているのです。赤という知覚がさしあたりそのプロセス全体を開始させる原因となったのですが、それは私たちにその刺激を指し示します。私たちがそこを見るやいなや私たちは赤に関連するその他の知覚を見出します。それらは動きのプロセスであり、今度はそれらが刺激と感覚器官の間にある別の動きとして現われるという具合です。けれども、これらすべては感知された知覚でもあります。そのすべては他ならぬ感覚として、そもそもそれらが感覚的な観察にかかり得る限りにおいてですが―自らを現すところのものが変容したものなのです。「感覚の世界とは変容した知覚の集合体に他なりません。」便宜上、私たちの表現方法はこれらの結論とは完全には調和し得ないようなものとなりました。私たちは、刺激と感覚器官との間のギャップに自らをはめ込むそれぞれの「もの」はその特性に応じた感覚を引き起こすと言いました。もちろん、厳密に言えば、「もの」とはその外観を構成するプロセスの総体です。さて、人々は、これらの結論は現在進行中の世界過程からあらゆる永続性の感覚を排除するものであると主張するかもしれません。私たちの主張は、ヘラクレイトスと同様、唯一の世界的な原理とは事物の絶えざる流れであり、そこには永続的なものは何もない、というものです。確かに、すべての現象の背後には「物自体」が、つまり、この変化する世界の背後には「永続的な物質」があるに違いありません。ですから、私たちは「永続的な物質」、あるいは「変化における永続性」の問題に対して、別の見方をしなければなりません。私の目が赤い表面に向かうとき、私の意識の中には赤の感覚が現われます。私たちはその感覚の始まり、中間、そして終わりを区別することができます。この移ろいゆく感覚とは対照的に、私たちは持続的、客観的なプロセス、時間の中でも同じく客観的に限定されたプロセス、つまり、始まり、中間、そして終わりを持つプロセスを見出そうとします。けれども、このプロセスが生じるのは、始まりも終わりもなく、破壊不能で永続的な物質的基盤との関連においてであると考えられています。この物質はこれらの変動するプロセスの中で真に永続的な要素であると考えられているのです。このような結論が有効なのは、時間の概念が正しく感覚に適用されるときでしょう。けれども、恐らく私たちは感覚そのものの本質あるいはその内容とその表現とを明確に区別する必要があります。私の知覚にとってそれらはもちろん同じものです。何故なら、その本質がなければ、そもそも私にその感覚が現われることはないはずだからです。今、この本質という観点から見て、それがある特定の瞬間に私の意識の中に入り、次の瞬間にそこから離れるかどうかで何か違いがあるでしょうか。感覚の本質(その客観的な存在)はそのようなことすべてから独立しています。そのとき、もし、何かが(編注:永続的な物質が)その本質的な性質と何ら関係がないとすれば、それは知覚の存在にとって基本的なものであると主張することに何か意味があるでしょうか。始まりと終わりがあるプロセスとの関係で時間の概念を適用することもまた正しくありません。もし、何かが新しい特徴を獲得し、それがしばらくの間様々な仕方で発展し、そして、消え去るとしたら、その特徴の「内容」、あるいは特質もまたこの場合にはその本質と見なさなければならないはずです。この本質的な特徴は、それ自体、始まり、持続、そして終わりの概念とは全く何の関係もありません。私たちが「本質的な」と言うときには、実際に何かをそれがそれであるところのものにする何か、あるいは、それがそれ自身を提示する仕方について語っています。重要なことは、時間の中のある特定の瞬間に何かが現われるという事実ではなく、実際に現れるものとは「何か」ということです。この「何か」を通して自らを表現するあらゆる個別の特徴こそが世界の本質的な存在を構成しているのです。今、この「何か」が、様々な条件下で、多様極まりない形態を取って現われます。これらすべての形態は相互に関連しています。つまり、それらはお互いのお互いに対する条件を創り出しているのです。こうして、それらの関係の特質は「時空間」中における分離のひとつとなります。「物質」の概念は非常に間違って導かれた時間の概念により生じました。一般には、もし、私たちがつかの間のできごとの総体を、様々な個別の形態は変化するにしても、時間の中で継続する永遠不変の現実の中につなぎ留めなかったとしたら、世界は存在を欠く単なる幻想の中へと蒸発してしまうだろうと信じられています。しかし、時間は変化がその中で生じるための入れ物ではありません。時間は事物より「前」に、あるいは、それらの「外」に存在しているのではありません。それはできごとが、それらに固有の性質によって、逐次的な相互関係を形成するという事実の明らかな表現なのです。感覚知覚可能な事実a1、b1、c1、d1、e1の複合体、そして、内的な必然性によってそれに依存する別の複合体a2、b2、c2、d2、e2があると想像してみましょう。第2の複合体の特性は、それを最初の複合体から概念的に導き出すことによって理解することが可能です。ここまで私たちはこれらの複合体を、時間や空間とは無関係にそれらの本質にしたがって記述してきました。ここで、両方の複合体が実際に現れると想像してみましょう。もし、a2-e2が現われるとすれば、a1-e1も現われなければなりませんが、それは、それらの必然的な関連性が明らかなような仕方によってです。これは、現象a1-e1がまず存在し、現象a2-e2を準備するのですが、後者が現われることができるのはその後です。このことから、時間が生じるのは何らかの「存在」が「外的に現われる」ときだけであるということが分かります。ですから、時間は見かけ上の世界に属しており、事物の存在、あるいはその本質とは関係がありません。そのような存在はアイデアとしてのみ理解できます。自分自身の思考の中で見かけ上のものをその本質的な存在にまで辿っていくことができない人たちだけが、時間を事実に先立つものとして考えるのです。けれども、彼らはそのとき、ある種の存在を、つまり、あらゆる変化を通して持続し、破壊することができない物質という概念の中に彼らが見出すような存在を必要とします。こうして、彼らは、時間に浸透せず、変動によっても変化せずに持続する何かを作り出します。けれども、これによって強調されるのは、時間に拘束された事実の外観からその本質的かつ永遠の存在へと貫き至ることが彼らにはできない、ということだけです。私に言えるのは、その本質は他の何らかのものの本質と関連しており、その結果として生じる関係が時間的に連続したものとして現われる、ということだけです。事物の本質は破壊することができません。それは時間を超越し、実際、時間を決定づけているのです。ですから、ここに見られるのは、めったに理解されることのない二つのもの、すなわち、顕現あるいは表出と、存在あるいは本質的な特性です。ここでの説明が理解されるとき、事物の本質の非破壊性を証明しようなどとは考えないでしょう。何故なら、破壊は時間の概念を示唆しますが、それは事物の本質的な特性とは何の関係もないからです。ですから、「我々に自らを提示するような感覚知覚可能な世界とは、その根底に実質的な基盤を持たない変容する知覚の寄せ集めである」と言うことができます。ここで述べられたことによって、知覚の主観的な性質について語ることはできないということもまた示されました。私たちが何かを知覚するとき、私たちはその過程を刺激から中心的な器官まで追っていくことができますが、まだ知覚されていないものの客観性から主観的な知覚への飛翔を観察できる地点はどこにも見当たりません。このことは、感覚知覚可能な世界は主観的である、という考えを否定するものです。知覚世界はそれ自身に根ざすものであり、さしあたり、主観にも客観にも関係していないのです。これらの考察は、その古さと同じくらい不正確な物質についての形而上学的な概念と同様、物理学の基礎としての物質の概念にのみふさわしいものです。物質を現象の根底に横たわる実際の現実として見ることと、それを現象あるいは表出として理解することとは全く別のことがらです。私たちの考察は最初の見方にのみ向けられたものであり、後の見方には関係がありません。もし、私が物質を単に空間を占めているところの何かとして考えるとすれば、それは私にとって他のすべての現象以上の現実性を持つことのない現象のことを言っているにすぎません。物質のこの特徴を心に留めておくだけのことです。あらゆる科学の対象となるのは、知覚を通して、つまり、広がり、動き、休止、力、光、熱、色、音、電気、等々として、私たちに自らを提示する世界です。もし、知覚された世界が、その感覚的な外観によってその本質が完全に表現される、というようなものであったとすれば―言い換えれば、もし、私たちに現れるあらゆるものがその内的な本質の完全で阻害されていない表出であったとすれば―私たちは科学というものを全く必要としなかったでしょう。何故なら、理解する、ということは正に知覚という行為の中で生じるものだからです。確かに、本質的な存在と現象的な外観との間にいかなる相違もなく、それらが完全に一致しているということがあったかも知れませんが、そのようにはなっていないのです。要素Aが現実世界の中で要素Bに関係していると想像してみましょう。私たちの考察にしたがえば、両方とも現象であり、それ以上のものではありません。そして、それらの間の関係はまたひとつの現象として現われます。私たちはそれをCと呼ぶことにしましょう。私たちが現実の世界において確認することができるのは、A、B、及びCの間の関係ですが、知覚可能な世界には、ちょうどA、B、及びCのような要素が他にも無数にあります。第4の要素Dを無作為に取り上げてみましょう。それが加えられるやいなや、他のすべてがその存在によって変化させられます。Cを与えるAとBの代わりに、Dの存在はさらに別の現象Eをその出現へと導くでしょう。ここでの主要な点は、私たちがひとつの現象に向かうときにはいつでもそれが無数の条件によって変化させられているのを見るということです。それを理解するためには、これらの関連すべてを探求しなければなりません。あるものは近く、またあるものは離れた、あらゆる種類の関連があります。もし、現象Eが私に現れるのであれば、その他の多かれ少なかれ関連した現象が役割を果たさなければなりません。そのいくつかはその現象が存在するために不可欠なものです。つまり、それ以外のものがなくても、そのような現象のあるものが生じるのが妨げられるということはないかも知れませんが、それでも、それらはそれが生じる特定の仕方に影響を及ぼす可能性があります。したがって、私たちが区別しなければならないのは現象の必然的な条件、及び偶然の条件です。必然的な条件に基づく影響を通してのみ生じる現象は「主要な」現象、そして、その他の現象は「派生的な」現象と呼ぶことができます。それらの条件を知ることで主要な現象の理解へと導かれるとしても、その他の条件を含めることによって、派生的な現象もまた理解することができます。このように、必然的な条件のみに依存する現象を見出すことにより現象世界についての深い理解を得るというのが科学の使命であり、それらの必然的な関連の概念的な表現が「自然法則」なのです。私たちがある特定の分野の現象にアプローチするときにはいつでも、まずそれらを記述し、記録するとともに、どの要素が必然的な関連を有しているかを確定しなければなりません。それらの要素とは元型的な現象です。そのとき、私たちは、より遠隔的な方法でそれらの要素に関連づけられる条件を見出し、それらが元の現象をどのように変化させるかを発見しなければなりません。科学は、あらゆる現象は導かれたものであり、したがって、さしあたりそれを理解することはできないというような仕方で現象世界を見ます。科学は、現象間の相互関係を理解するために、元型的な現象を指導的なもの、派生的な現象をそれらから続くものとして見ます。科学が現象間の関係を確立し、それによってそれらを理解可能なものにする程度に応じて、科学的なシステムは自然のシステムとは異なってきます。科学は、現象世界に何ら貢献する必要はなく、ただその隠された関連性を発見しさえすればよいのです。知性はこの仕事に限定して用いられるべきです。知性やあらゆる科学的な努力がその正当な領域を越えていくのは、それらが知覚可能なものを説明するために知覚不可能なものに頼るときです。ゲーテの色彩論を理解するには、これらの概念の絶対的な正しさを理解していなければなりません。現象の特質、暖かさ、光等々をその外観上の本質以外のものであると推測するほどゲーテの考え方から遠いものはないでしょう。要するに、彼は思考の使命について適切な認識を持っていたのです。ゲーテによれば、光は知覚として与えられました。光と色の間の結びつきを説明しようとする彼の試みを可能にしたのは、思索ではなく、色が生じる前に光が出会うべき必然的な条件を探すことによって、つまり、「元型的な現象」を通してだけでした。ニュートンもまた色は光との関係で生じると見ていましたが、さらに進んで、どうすれば色は光から生じるのかと推測するに至りました。そうすることは彼の推論的な思考方法に根ざしたものであり、現象の中に自ら沈潜し、それ自体の使命を正しく理解していたゲーテの思考にではありませんでした。「光は色のついた光から成る」というニュートンの仮説はゲーテには不当な推論の産物のように見えました。記:プリズムの発見 分光する透明な光学ガラスの原型が出来上がった時点を以てプリズムの発見と云うのであれば、紀元前5世紀頃だとされています。科学史に於いて、最初に分光が語られたのは、水晶柱での分光(元々には無い色の光が見える)を記したアリストテレスだと思います。(但し、虹の原理は屈折ではなく反射だと表明していますが・・・)プリズムとはギリシア語(=ラテン語)のprismaに由来し、原義は断ち切った・削るです。当時のギリシャには中国で発明された透明ガラスは入っていないので、水晶柱を断ち切ったモノでアリストテレスは太陽光の分光を見たのだと思います。そうするとプリズムの発見は、紀元前4世紀となります。参考図:ゲーテのニュートン批判 彼は、光と色の「関連」について語ることが正当化されるのは一定の条件が与えられたときだけであり、光そのものについて推論的な概念を導入しながら語ることは正しくないと感じていたのです。「光は私たちが知っているものの中で最も単純で、最も細かく分割され、最も均一化された存在である。それは本質的に複合体ではない。」という彼の言葉はここから来ていました。光の「複合」について語られる現象の論述はすべて知性によるものです。しかし、知性本来の領域は現象間の「相互作用」の論述に限られます。このことは、ゲーテがプリズムを通して光を見たとき、何故、ニュートンの理論を受け入れることが「できなかった」のかを、より深く明らかにするものです。プリズムは色の出現にとって「第一の条件」であるはずでした。けれども、別の要素、つまり闇の存在はそれが生じるためのもっと基本的な条件であることが証明されたのです。プリズムは第二の条件であるに過ぎませんでした。私は、これにより、色彩に関するゲーテの仕事を理解したいと思っている読者にとってのあらゆる障害が取り除かれるものと信じます。もし、人々が、これら二つの理論の違いには相矛盾する説明が含まれており、単にその相違の有効性が検証されればよいと繰り返し考えてこなかったとすれば、ゲーテの色彩論の偉大な科学的価値はずっと以前に認識されていたことでしょう。この問題に関して、現代物理学の観点を受け入れ続けている人たちは、知覚を知性による推論を通してその根底に横たわる原因にまで辿っていく必要がある、という基本的に間違った考えに捕らわれているのです。しかし、現象を説明する方法とは、理解することによって確立された文脈の中でそれらを「観察する」ことである、ということを理解する瞬間、人はゲーテの色彩論を「原理的に」受け入れざるを得なくなります。何故なら、それは私たちの思考と自然との間の関係についての正しい観点から出発しているからです。ニュートンにはこの観点がありませんでした。もちろん、私はゲーテの色彩論におけるすべての側面を擁護するつもりはありません。しかし、私が本当に擁護したいのはその「原理」です。とはいえ、彼の時代には知られていなかった色彩現象を導き出すためにゲーテの原理をここで使う、というのも私の使命ではあり得ません。いつの日か、ゲーテの理論に沿った色彩論を完全に最新の研究に基づいて書くための時間と方法に恵まれたならば、その仕事に取りかかるかも知れません。それは私の人生における最も価値ある仕事のひとつになるでしょう。この序論では、ゲーテの色彩論における彼の「思考方法」を科学的に正当化することに終始しなければなりません。次の節では、その内的な構造を明らかにするつもりです。参考画:色彩論 (第16章 2.元型的な現象 了)人気ブログランキングへ
2024年06月14日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-61.ゲーテと現代科学 もし、真実を認識しているという感覚があるとき、正直に話す義務があるという感情が生じなかったとしたら、以下のページは決して書かれることはなかったでしょう。現在の自然科学の方向性を見れば、その分野の専門家たちによってそれがどのように評価されるかについて疑問の余地はありません。これらのページは、「内情に通じた」人たちによって、遥か昔に解決された問題を蒸し返そうとする学者じみた試みとして記述されることでしょう。その件について言うべきことを持っている人たちの軽蔑的な意見について考えるとき、あまり抗弁したいとは思わないと認めざるを得ません。とはいえ、そのような反論を予想して尻込みするわけにはいきません。と申しますのも、私自身がそのような反論をしようと思えばできるからです。それは、それらがいかに有効でないかを私は知っているということでもあります。現代科学の意味で「科学的に」考えることは、本当はそれほど難しいことではありません。その点で、どちらかというと注目に値するケースとして、最近、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「無意識の哲学」が出版されました。強健なこの本の著者はその不完全さを最後まで否認することでしょう。しかし、私たちがそこで出会う思考の質は事の真相に迫るものです。より深い洞察への必要を感じているすべての人たちの上にそれが強い印象を残したのはそのためです。けれども、概してそれに反対している、より皮相的な自然科学者たちにとって、それは苛立たしいものであることが判明しました。その攻撃がそれほど成功していなかったとき、ある匿名の著者が「哲学並びに降下理論から見た無意識(1872年)」を出版しました。その著者は現代の自然科学の観点からそれに反対するために使えそうなあらゆる主張を持ち出して、新しい哲学を強く批判したのです。その本は大騒ぎとなり、学者たちはすっかり満足しました。彼らはその著者もその主張も彼ら自身のものであると断言したのです。ところが、その後、彼らが大いに落胆したことには、その著者は他ならぬハルトマン自身であることが判明したのです。これによって、あるひとつのことの確かな証明が提供されました。つまり、真剣に努力する人々が最新の傾向にまだ同調できないと感じるとき、それは、彼らが科学的な探求に無知であったり、素人であったりするからではなく、それらの傾向は間違った道を辿っていると考えているからであるということの証明が提供されたのです。哲学にとっては、意識的に現代科学の立場を取ることは難しいことではありません。ハルトマンは、見ることに吝か(やぶさか)でない人にそれを示したのです。私がこのことに触れたのは、私が述べたことに対して提起される可能性がある反論そのものを私が定式化することは容易であるという私の以前のコメントを裏づけるためです。現在では、ものごとの本質に関して真剣な哲学的考察を行う人は誰であれ、学者じみている、と考えられる傾向があります。単に世界観を持っているだけで、機械論的な(あるいは、もっとましな言い方をすれば、実証主義的な)確信を持っている私たちの同世代人から、少し理想主義的な傾向があると見られるのです。この意見は、これらの実証主義的な考え方の持ち主たちが「物質の本質」、「認識の限界」、「原子の性質」等々について語るのを聞き、彼らの無知がいかに絶望的であるかが分かるとき、容易に理解できるものになります。そのような話によって、基礎的な科学的事象に対する彼らの素人的なアプローチを研究する機会が十二分に提供されるのです。私たちは、現代の自然科学により、技術の分野において達成された力強く見事な成果にも関わらず、これらのことすべてを認める勇気を持たなければなりません。そのような技術的な成果は、自然を理解したい、という真の願いとは関係がありません。それは私たちが評価し始めることすらできないような未来にとって意義のある発明を行いながら、深い「科学的な」あこがれに欠けている私たちの同時代人たちの中に見てきたことです。その力を技術的に用いるという目的をもって自然の過程を観察することと、それらの本質をより深く理解するという目的をもってそれらの過程を研究することは全く異なっています。真の科学は、探求する精神が「いかなる外的な目的もなしに」それ「自身」の必要を満足させることを求めるときにだけ存在します。言葉の最も高次の意味で、真の科学とは、客観的なアイデアを扱うものであり、「理想主義以外のものではあり得ません。」何故なら、それは結局のところ精神的な必要に根ざすものだからです。自然は解決を要求する問題を私たちの中に目覚めさせますが、自分ではその答えを与えることができません。自然が、私たちの認識への能力を通して、より高次の領域に直面するとき、そのような新しいチャレンジが生じます。このより高次の特質を有していない存在にとって、そのような疑問は生じることさえないでしょう。ですから、答えはこのより高次の本性そのものを通してのみ得ることができます。基本的に、科学的な疑問とは、問いを発する存在が自分で折り合いをつけるべき問題なのです。その精神が、それらの問題によって、それ自身の領域を超えたところへと導かれることはありません。そうではなく、その精神が安らぎ、生きて織りなす領域とは、アイデアと思考の世界なのです。言葉の最も高次の意味で、科学的な活動とは、考えることの中で生じた疑問を思考の中で思いついた答えを通して取り扱うということを意味しています。結局のところ、あらゆる科学的な試みは、このより高次の使命に仕えるという機能を持っているのです。科学的な観察について考えてみてください。それはそれ自体がアイデアの性質を有する自然法則の理解へと私たちを導く、と思われています。現象の背後で支配する法則を探そうとする衝動は精神から生じます。そして、精神的な存在だけがこの衝動を感じることでしょう。観察について言えば、私たちはそれで本当は何を達成しようとしているのでしょうか。実際、感覚的な観察によって、精神が作り出した疑問に答えを見つけることができるのでしょうか。それは全く無理です。結局のところ、もし、精神が本当にそれで満足するのであれば、どうして二度目の観察が最初の観察よりもさらに大きな満足を私たちに与えるのでしょうか。つまり、一度の観察で十分なのではないでしょうか。本当は、その観察が二度目であるかどうかが問題なのではなく、むしろ、それは観察のための理想的な基盤を見つけるかどうかの問題であり、観察が理想的な説明を与えるにはどうすればよいのかということが問題なのです。それを可能とするために、私はどのように「考え」たらよいのか。私たちが感覚の世界に出会うとき、私たちのところにやってくる疑問とはそのようなものです。私は私の精神の奥底から感覚の世界には欠けていると思われるものを引っ張り出してこなければなりません。私は、感覚的な領域に出会うとき、私の魂がそれに向けて奮闘するところのより高次の本質を私自身で創造しなければなりません。それを私のために行ってくれるものは他には何もありません。科学的な結果は精神からしかやって来ることができません。そのため、それらは「アイデア」でなければならず、それが生じるのはそれ自身の必然性からであるということに議論の余地はありません。あらゆる科学の理想的な性格がそれによって裏づけられます。現代の自然科学は、正にその本質から、認識はアイデアによって特徴づけられる、ということを信じることができません。それはアイデアを、最初の、最も原初的な創造作用としてではなく、むしろ、物質的なプロセスの最終的な「産物」として眺めます。これらの物質的なプロセスは、感覚を通して観察することができる世界に属しているけれども、より深く理解されるならば、自らをアイデアの中へと解消する世界である、ということに科学は気づいていないのです。観察されるべきプロセスとは次のようなものです。私たちは機械論的な法則にしたがって現われる事実、熱、光、磁気、電気、最後に生命プロセスやその他ものが現われるのを私たちの感覚を通して知覚します。それは生命という最高のレベルにおいて、人間の脳に担われた概念、あるいはアイデアの形成へと上昇するということが分かります。私たちは私たち自身の自我がこの思考の領域から現われるのを見ます。これは物理的、化学的、そして有機的なものにまでずっと続く一連のできごとを通して仲介される複雑なプロセスの最高の産物であるように見えます。しかし、私たちのアイデアの世界、それは自我の本質ですが、それを調べてみるならば、このプロセスの単なる最終的な産物「以上」のものが見い出されます。この思考世界の個々の側面は私たちが単に観察するだけのプロセスの各部分とは全く異なる仕方で関連しているということが分かるのです。ある考えが私たちの中に生じ、それによって別の考えが呼び出されるとき、それら二つの考えの間の関係は、例えば、私が一片の布の染色とその原因となる化学染料との間に観察する関係とは非常に異なる性質のものです。脳内の神経プロセスにおける一連の段階はその源泉を代謝系の中に有しており、私の思考を支えているのは正にその代謝系である、というのは全く当然のことです。けれども、ある思考が別の思考に「続く」理由はその代謝系の中には見出されないでしょう。これを見出すことができるのはただ思考そのものの間の論理的な関係性の中においてのみです。このように、思考の領域では、有機的な必然性だけではなく、「より高次の、理想的な性質」の必然性が支配していますが、精神はそのアイデアの世界の中に見出されるのと同じ必然性を宇宙における他の場所にも求めます。この必然性が私たちに生じるのは、私たちが単に「観察する」だけではなく、「考える」からなのです。言い換えれば、観察を通してだけではなく、考えることを通してものごとを理解するときにはいつでも、それらはもはや単にそれらの事実関係を通して私たちに現れるのではなく、内的かつ理想的な必然性によっても関連づけられることになります。このことに意義を唱えるために、もし、この世界の事物が、その本性から、そのような理解を許さないものであるとしたら、思考を通して感覚的な世界を理解しようとすることに意味はないのではないかと問うことはできません。この問いが可能となるのは、私たちがものごとの核心に到達し損ねるときだけです。アイデアの世界は私たちの内部で生命へと流出し、私たちが感覚を通して知覚する対象に出会い、そして尋ねます。私と私が直面する世界との関係とはどのようなものなのか。私にとってその世界とは何なのか?私は移ろう現実の上にそびえる私の理想的な必然性とともにここにあり、私の内には私自身を説明するための力があるが。どうすれば私が私の外で出会うものを説明できるのだろうかと。ここで私たちは、繰り返し持ちだされてきた重要な問い、例えば、それをあらゆる哲学的な思考の中軸として記述したフリードリッヒ・テオドール・ヴィッシャー(1807-1887)のような人によって持ちだされてきた問いに対するひとつの答えを見出します。それは精神と自然との間の関係についての問いです。互いに分離しているように見えるこれらふたつの形態の間の関係とはどのようなものなのでしょうか。それが正しい仕方で問いかけられるならば、その問いに答えるのは人が考えるほど難しいことではありません。結局、それは何を意味しているのでしょうか?その問いは精神と自然の両方を超えた優位な立場から理解しようとする第三者によって問いかけられるようなものではありません。そうではなく、それが問いかけられるのは、それらふたつの存在の内のひとつ、精神そのものによってです。精神がそれ自身と自然との間の関係を見出そうとしているのです。これは、私はどうすれば私が出会う自然との関係を確立できるのか、と問うのと同じです。私はどうすれば私の中に生きている要求と一致する仕方でこの関係を表現することができるのか。私はアイデアの中に生きているが、どのような種類のアイデアが自然に対応し、私が自然として思い描くものをどうすればアイデアとして表現できるのか。これはまるで間違った問いかけをすることによってしばしば満足のいく答えへと続く道を塞いでいるようなものです。しかし、正しい問いは半分の答えです。精神はいたるところで単に観察によって与えられる一連の事実を超越する道を追求し、「事物のアイデア」へと貫き至ろうとしています。科学は思考が始まるところから始まります。一連の事実として私たちの感覚に現れるものは科学の結果によって理想的な必然性として表現されます。それらの結果は上記の過程の最終的な産物として現われるだけですが、私たちは実際にそれらを全宇宙におけるあらゆるものの基盤として考えなければなりません。それらが私たちの観察においてどこに現れるかはどうでもよいことです。何故なら、それらの意義はそれらがどこで観察されるかには依存しないからです。それらの理想的な必然性は掛け値なしに全宇宙に広がっているのです。私たちはどこからでも始めることができます。もし、私たちが精神的な力を十分に有しているなら、最終的には「アイデア」へと至ることでしょう。現代物理学がこのことに気づき損ねる限り、それはあらゆる間違いの連続へと導かれることになります。例として、そのような間違いのひとつを指摘してみましょう。物理学者たちによって「物体に共通した特徴」のひとつとして典型的に記述されるものの定義、つまり「慣性」の法則について考えてみましょう。通常、それは次のように記述されます。外的な原因の結果としてそうなる場合を除き、いかなる物体もその現状における動的な状態を変えることはできない。この定義によれば、不活性な物体の概念は感覚の世界から抽出されたものであるという印象を受けます。そして、ジョン・スチュワート・ミル (John Stuart Mill)、彼はこの問題について探求することは決してありませんでしたが、ある人為的な理論を証明するために、あらゆるものをひっくり返してしまいました、その彼であれば、とりあえずそのように説明することをためらわないでしょう。しかし、それは正しくありません。不活性な物体の概念は純粋に概念的な構築を通して生じます。空間中に広がる何かを「物体」と呼ぶとき、私は、外的な影響によって変化を受ける物体と、それら自身の自発的な力によって動く物体とについて考えることができます。ですから、もし、私が外的な原因がなければ変化できない「物体」についての私の定義に合致する何かを外的な世界の中に見つけるならば、私はそれを「不活性なもの」、つまり、慣性の法則に従うものと呼びます。私の概念は感覚の世界から抽出されたものではなく、ひとつのアイデアから自立的に構築されたものであり、このアイデアの助けによってのみ私は感覚の世界の中で自分を方向づけることができます。したがって、その定義は次のように記述されなければなりません。その動きの状態を自ら変化させることができない物体は不活性であると。一度この定義に合致する物体を見つけるやいなや、私は不活性な物体に適用されるあらゆることがらをその物体に適用することができます。参考画:John Stuart Mill (第16章 1.ゲーテと現代科学 了)人気ブログランキングへ
2024年06月13日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)特注-記;神智学及び人智学における人間本質の階層 我々の通常一般世界での文化や宗教(*公教)の多くは、人間の構成を肉体を持つ身体と霊魂の二構成として捉え、その因子までを肉体と霊魂の二元論で考えます。対して、秘教や神秘主義的思想の多くは、「霊」と「魂」を分けて、霊・魂・体の三元論で考えます。ギリシャ哲学なかでも新プラトン主義やインド哲学などのいくつかの伝統では、更にもっと多くの階層的構造を基盤とします。とりわけ、それらを統合した近代の神智学、人智学では七階層で捉える傾向多くは好みます。ここではブラヴァツキー夫人に始まる神智学とルドルフ・シュタイナーの人智学における、人間本質の階層論について紹介します。プラトン、アリストテレスの階層論では、上位と下位は形相性の有・無で正反対の性質を持ちすが、究極的な神秘体験は、実体験からすれば「形」を感じないことが一般的です。そのような実体験を持っていた新プラトン主義のプロティノスは、プラトン哲学を継承しながらも、最上位の存在「一者」を「無相(無形相)」であるとしました。然し乍ら、「一者」が下位の秩序の根拠となり、固定する性質を持つ点は変わりません。プラトン以降のアカデメイアでは、様々な階層論がありましたが、クセノクラテスは「イデア」を「ヌース(霊的知性)」として捉えていました。それを受けつつ、プロティノスは、「一者/ヌース/魂」という階層を考え、それを定着させました。プロティノスは、「一者」から生み出された「ヌース」は、最初は「形相」を欠いた暗い素材的存在でしたが、「形相」を超えた「一者」を振り返って認識することで、光として「形相」を受け取り、形付けられると考えました。プロティノスの最上位の「一者」が「無相」であるなら、その点では、最下位の純粋な「質料」と同じです。つまり、この上下の極が同じで、この点で階層が対称となっています。ですが、最上位が「形相」の創造者、根拠であるのに対して、最下位は「形相」を受容者である点で、両者は異なります。新プラトン主義のイアンブリコスは、「ヌース」を、「存在/生命/知性」という三段階に階層化しました。これは、プロティノスが考えた、「認識対象/認識作用/認識主体(内容)」を捉えなおしたものです。といっても、ここには階層の上下対称性の考え方が潜在しています。新プラトン主義の大成者であるプロクロスは、それを理論化して、階層の上下対称性を、極だけではなく全体に広げました。プロクロスは、魂、限定すれば人間の魂、中でもプラトン言う魂の気概的部分を階層の中心にします。そして、アリストテレスの「動物/植物/無生物」の本質を、「知性/生命/存在」として捉えます。これは、イアンブリコスの「ヌース」の三階層の本質を、下位に折り返した形になっています。プロクロスの上下対象の階層論は、近代の神秘主義者であるシュタイナーの階層論にも見られます。プラトン、アリストテレスの階層論は、概念的(理念的)な知性を重視するものであるため、イメージや想像力、象徴をあまり評価しません。ですが、多くの神秘主義思想、特に魔術的な思想においては象徴的なイメージが重視されますし、啓示的な宗教でも、それらはヴィジョン(幻視)として与えられるものなので重視します。そのため、神秘プラトン主義でも、魔術に傾倒したポリピュリオスは、予言に関わる神的な想像力を重視しました。また、啓示宗教であるイスラム教の神秘主義哲学者も、それを重要しました。ペルシャ人のスフラワルディーは、イデア界に相当する恒星天と、動・植物魂に当たる惑星天の間に、神的・象徴的イメージの世界である「中間世界」を置きます。つまり、この象徴的なイメージ、創造的想像力の「中間世界」は、通常のイメージや想像力とは別のものなのです。そして、この位置は、「霊的知性(直観的知性)」の世界の下ではありますが、日常的な概念的思考やイメージの世界の上なのです。象徴的なイメージ、創造的想像力の段階を、上下対象の階層論に当てはめると、概念的意識の段階を中心にして、その下位のイメージの段階を、上に折り返した場所として考えることができます。これにぴったりと当てはまるのは、シュタイナーの「アストラル体」を折り返した「生命霊」でしょう。シュタイナーの階層論では、この段階は「霊視的」認識とも表現され、さらにその上は「霊聴的」、その上は「合一的」認識とされます。象徴やイメージ(心像)は視覚に限定されませんが、「中間世界」に対応するのは「霊視的」段階でしょう。視覚的なものより聴覚的なものを上にするのは、密教も同じです。密教では、聴覚的なマントラも視覚的な尊格の姿形(イメージ)も象徴性を持ちますが、マントラをより根源的なものとします。これは、マントラの方が視覚的イメージより形相性を脱しているからでしょう。例えば、密教の代表的な行法の「五現等覚」では、「虚空」から「光源(月輪)」→「放射光(日輪)」→「象徴的な音(種字)」→「象徴的な意味(三摩耶)」→「象徴的な視覚イメージ(仏身)」の順に観想して尊格を現します。つまり、形象的視覚よりも象徴的意味の直観、さらに聴覚、光の感覚をより根源的と考えます。もちろん、霊的感覚は、通常の日常的対象の感覚とは違うものなので、ここに書いたのは共感覚的な表現です。神智学におけるブラヴァツキー夫人はバラモン系のサーンキヤ哲学や、ヒンドゥー哲学の3シャリーヤ(三身)説、5コーシャ(五鞘)説などの階層論の影響を受けています。一方、シュタイナーは、神智学と共に、新プラトン主義のプロクロスの階層論の影響を受け、人間の本質を1904年の「神智学」、1906年の「神智学の門前にて」、1907年の「薔薇十字会の神智学」、1910年の「神秘学概論」などでまとめて述べています。シュタイナーは、下記のように人間の9本質を考えます。1 霊人(アートマ) :インツゥイツィオーン認識(合一的直観)2 生命霊(ブッディ) :インスピラチオーン認識(霊聴的霊感)3 霊我(マナス) :イマギナチオーン認識(霊視的想像力)4 意識魂 :霊我と一体になった魂5 悟性魂(自我・私) :覚醒意識(人間的・対象的意識)、思考力 6 感覚魂 :アストラル体と一体になった魂7 アストラル体(魂体):夢の意識(動物的意識)、感覚・感情8 エーテル体(生命体):睡眠意識(植物的意識)、形成力9 肉体(物質体) :昏睡意識(鉱物的意識)三分説では、1から3が「霊」、4から6が「魂」、7から9が「体」です。そして、4と3、6と7が一体なので、実質的には7本質となります。5が「自我」だと言う場合、この「自我」は日常的な「自我」ですが、目覚めた「自我」は、5と4が一体の「自我」と捉えられます。また、5の「自我」を中心にして、上下が対象の構造になっています。つまり、「自我」は7から9を感覚によって知覚しそれを言語化し、1から3を直観によって知覚しそれを言語化します。そして、7、8、9、8は、それぞれに、3、2、1が変化したものであるとも言うことができます。「自我」を3「霊我」で満たすと、それが7「アストラル体」を照らし、それによって「自我」が「アストラル体」を支配することで、そこに「霊我」が現れるのです。つまり、「アストラル体」を意識化して働きかけることで、その部分が「霊我」になるのです。こうして、「アストラル体」は変化していない部分と、変化した部分(霊我)から構成されるものになります。2と8、1と9の関係も同様です。この上下対称性は、ブラヴァツキー夫人の神智学にはありません。ただ先に書いたように、プロクロスときわめて類似しています。然し乍ら、シュタイナーがプロクロスについて語っているのを知りませんし、プロクロスには下位のものが上位のものに変化するという関係はないと思われます。「魂」は「体」を通した「体験(印象)」を「表象」に作り変え、それを「霊」に受け渡すと、「霊」はそれを「能力」に変換して成長します。また、シュタイナーは、「人間は思考存在であって、思考から出発するときにのみ、認識の小道を見つけることができる」と言い、「悟性魂」が行う「思考」を重視します。ですが、単なる「抽象的思考」は超感覚的認識の息の根を止めると言います。「生きた思考」が、超感覚的認識の土台を築くのです。超感覚的認識というのは、「魂」、「霊」の諸感覚で、それぞれ、魂的、霊的存在を直接、知覚します。思考を「生きた」ものにするには、外界に対して偏見を排して帰依する態度で、自分自身を空の容器にして、事物や出来事が自分に語りかけてくるように、外部のものに思考内容を作り出させることが必要です。シュタイナーは、霊界の法則が思考存在としての私自身の法則と一致している時、はじめて私は霊界の法則に従うことができると言います。そのような「魂」の中の不死なる部分、真・善を担うのが「意識魂」です。そして、「私」として生きる霊は、「自我」として現れるから「霊我」と呼ばれます。また、独立した霊的人間存在が「霊人」で、「霊人」に働きかける霊的生命力、エーテル霊が「生命霊」です。ちなみに、動物の「自我」はアストラル界に1つの種類の動物の1つの群魂という形で存在します。同様に、植物の「自我」は低次の神界に、鉱物の「自我」は高次の神界に存在します。シュタイナーの歴史観によれば、「太陽ロゴス」である「キリスト」が、ゴルゴダの秘跡で「地球霊」になって以降、「意識魂」を育てる時代になりました。シュタイナーは、ブラヴァツキー夫人と違い、アフラ・マズダをこの「太陽ロゴス」と同じものと考えます。シュタイナーはマズダ教(ゾロアスター教)に従い、神智学はより古いミトラ教に従っている点が、二人に大きな相違を生んでいます。シュタイナーによれば、睡眠時、「自我」と「アストラル体」は、「エーテル体」と「肉体」から離れます。また、夢を見る時には、「アストラル体」が、夢無状態より、より「エーテル体」と結びつきます。睡眠時の「アストラル体」は、宇宙的なアストラル界から法則を受け取り、それをエーテル体の建設に使います。死後の人間は、まず、「肉体」を脱ぎ、次に「エーテル体」を脱ぎ、最後に「アストラル体」を脱ぎ、それぞれの「死に体(態)」はやがて消滅します。アストラル体を脱ぎ捨てた後は、霊界を認識してその世界を体験しますが、また、地上世界にも働きかけて、それを変化させます。その後、やがて、霊界から流れてくる諸力を受けて、「新しく」アストラル体を形成し、再生します。※エーテル体(エーテルたい、英: etheric body)は、神智学の『シークレット・ドクトリン』では、「魂の体、創造主の息」であり、ソフィア・アカモートが最初に顕在化した形態、7つの粗大順の物質(4つは顕在化し3つは未顕在)のうち最も粗大で塑性の物質であり物質の骨格であるとしている。アストラル光とも。初期の霊的世界において蛇として象徴されたものであり、ギリシア語の「ロゴス」に相当し、厳密にはアイテールとエーテルは異なるが、物質が存在する前は、現在のアーカーシャやアイテールと同様の「父であり母」であったと説明している。また、活力体、生気体 (vital body) とも呼ばれる。人智学で知られるルドルフ・シュタイナーは、生命体 (Lebensleib)、生命力体 (Lebenskraftleib)、形成力体 (Bildekr?fteleib) とも呼称しました。現代物理学いうところの、エーテルという言葉は19世紀の自然科学で提起された光を伝達する仮想上の媒質の名称として記憶されており、現在では不要な概念となっています。一方、シュタイナーは、エーテル体でいうところのエーテルは物理学とは関係のない別の意味の言葉として用いられていることを強調していることには注意が肝要です。。 (挿入参考文了)参考画:霊人(Atman)人気ブログランキングへ
2024年06月12日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第15章 感覚的な知覚の主観性について 佐々木義之訳 私がこの解説を書こうとしているのは、単に、ゲーテの作品集には彼の色彩論が適切な序論とともに含まれなければならないという理由からではありません。そうではなく、それは明晰性に対する私自身のより深い必要性から来ています。私自身も数学や物理学を研究することから始めましたが、自然に関する私たちの現代的な観点に含まれる無数の矛盾が、それらの方法論的な基礎の批判的な検証に取りかかるよう、私に強要したのです。以前の私の研究は厳密に経験論的な認識の方向に私を導きました。しかし、それらの無数の矛盾への私の気づきが、厳格で科学的な認識論を要求したのです。私の経験論的な出発点はヘーゲルの純粋に概念的な体系に立ち戻ることから私を守りました。私が、私の認識論的な研究の助けによって、最終的に見出したのは、現代の自然科学における多くの間違いの源泉は単純な感覚知覚に帰せられる間違った機能であるということです。今日の科学はあらゆる感覚的な特質(音、色、熱等々)を主観に帰し、それらの主観を超えた特質に対応する唯一のものは物質の動きであると仮定します。もちろん、そのような動きの過程、この「自然の領域」に存在する唯一のものであると主張されるものはもはや知覚することができません。それらは主観的な特質から推測されることになります。しかし、この結論について注意深く考えてみるならば、その矛盾が明らかになります。動きの概念は、さしあたり感覚的な世界から借りてきたものです。つまり、私たちがそれに出会うのは感覚的な特質を有する事物の中においてのみです。私たちは感覚的な対象物を通してでなければ、動きの経験を有することはありません。もし、私たちがこの推論を感覚的に知覚不可能な実体、不連続な物質の要素、あるいは原子がそのようなものであると推定されるものにまで拡張するとすれば、私たちは実際、この概念を拡張することによって、感覚を通して知られることになる特徴を非常に異なった、知覚不可能な存在形態に移し替えているということに気づかなければなりません。空虚な原子についての概念の中にとりあえず実際的な意味を見出そうと試みるとき、私たちは同様の矛盾に直面します。それがどんなに昇華されたものであったとしても、それに感覚的な特質を付与するという以外の選択肢はないのです。ある科学者は原子を突き通すことができないもの、あるいは力として記述し、別の科学者はそれを空間中における拡張性等々に。いずれにしても、感覚的な領域から借りてきた何らかの特徴を有するものとして記述します。そして、これらの特徴がなかったとすれば、私たちの概念は全く意味がないものであったでしょう。ここにあるのは首尾一貫していないものです。私たちは、知覚的な世界の真ん中に沿って線を引き、一方の側を客観的、他方を主観的であると宣言します。私たちが首尾一貫しているためには、もし、原子がそもそも存在しているとすれば、それらは単に物質の粒子であり、物質的な特徴を有している、それらが私たちに感知できない唯一の理由はそれらの微小なサイズがそれらを私たちの感覚にはかからないものにしているからであると言わなければならないでしょう。これによって、原子の動きを何か客観的なものとして音や色のような主観的な性質に対置する可能性が除かれます。動きと、例えば赤という知覚との関係では、完全に感覚の領域の内部にあるふたつのできごとが見出されるだけであるということもまたこれによって保証されます。その結果、この作家には、エーテルの動き、原子の位置等々は感覚的な知覚そのものと同じ範疇に属しているということもまた明らかになります。感覚的な知覚を主観的なものとして特徴づけるのは単に曖昧な思考の結果に過ぎません。もし、私たちが、感覚的な特質は主観的である、と主張するのであれば、それはエーテルの動きによるものであると言わなければならないでしょう。もし、私たちがエーテルの動きを知覚できないとすれば、それは原則のせいではなく、単に私たちの感覚が十分繊細に組織されていないからにすぎません。けれども、それは単に外的な状況による、偶発的なものに過ぎません。人間が感覚器官をますます洗練させることによって、いつかエーテルを知覚することが可能になるということは大いにあり得ることです。もし、人々が、遥かな未来において、「感覚の主観性というドグマ」を最終的に受け入れているとすれば、ちょうど今日の人々が色や音などを主観的なものであると宣言するように、彼らはエーテルの動きもまたそうであると宣言しなければならないでしょう。お分かりのように、この物理学的な理論はあり得ない矛盾へと導きます。感覚的な知覚は主観的なものであるという観点は「生理学的な考察」によっても支持されます。生理学が私たちに告げるのは、感覚は私たちの体の外にある機械的な過程が感覚器官の中の神経末端に伝えられ、そこから中心の神経系に伝えられ、そこで最終的に知覚を引き起こすことによって生じるということです。この理論の矛盾点については、この本の別の箇所(第17章)で記述しています。この過程で唯一主観的であると呼べる側面は脳実質の内部における動きの形態です。私たちがその仮定を主観の中で探求するとき、どこまで行っても、やはり機械的な領域の中に留まります。そして、知覚が脳の中に見出されるということは決してないでしょう。ですから、知覚の主観性と客観性について明確にするには、「哲学的な」考察に頼る以外、私たちに選択の余地はありません。そのような考察は次のような考えに導きます。知覚に関して、「主観的」というのは正確には何を意味しているのでしょうか。ひとつの概念としての「主観的」ということを正確に分析しない限り、私たちはどこにも行きつくことはできないでしょう。主観性が決定づけられ得るのは、もちろんそれ自身によってだけです。主体によって決定づけられることが証明されないようないかなるものも主観的であると呼ぶことはできません。私たちは今、人間的な主体に属するものとして記述できるものとは何かと問わなければなりません。それは、内的あるいは外的な知覚を通して、人が個人的に経験することができるものだけです。私たちは、外的な知覚を通して、私たちの体的な構成を探求することができ、内的な知覚を通して、私たちの思考、感情、そして意志を理解することができます。外的な知覚の場合、私たちは何を主体的なものとして分類するのでしょうか。多分、人によって多少異なる感覚器官と脳を含む私たちの体的な構成全体です。私たちがこのようにして見出すのは、私たちの知覚を仲介するような実質の特別な配置と機能です。この場合、主観的な側面に含まれるのは、知覚が、私の知覚、と呼ばれ得るまでに辿るべき道筋だけです。私たちの組織が知覚を伝達し、それらの道筋が主観的なのです。しかし、知覚そのものはそうではありません。では、内的な経験について考えてみましょう。私がある知覚を私自身のものとして記述するとき、私は内的に何を経験しているのでしょうか?私は私が思考を通してその知覚と私の個体性とを結びつけ、私の意識がその知覚を包含する方向で拡張するのを観察します。けれども、その知覚の「内容」を産み出すことに関する意識は私にはありません。私は私自身との結びつきを確立するのであって、その知覚の特質はそれ自身に根ざす要素なのです。私たちがどこから出発するにしても、つまり、それが内からであれ外からであれ、ここには知覚の主観的な特徴があると言うことができる地点には決して到達することができないのです。主観性の概念を知覚の内容に適用することはできません。これらの考察は、知覚された世界の領域を道義的に「越えて」行くような自然についてのいかなる理論も不可能であると考えるよう私に強いるとともに、感覚的な世界を自然科学の唯一の対象として思い描くように私を導いたものです。次に、私は私たちが自然法則と呼ぶものをこの感覚の世界の相互依存性の中に探さなければなりませんでした。これによって、私はゲーテの色彩論の根底に横たわる科学的な方法についての観点へと導かれました。これらの考察に同意する人たちは、今日の普通の科学者の目とは非常に異なる目をもってこの色彩論を読むことでしょう。本当は、それはゲーテの仮説とニュートンのそれとの間の衝突の問題ではなく、現代の理論物理学を容認できるかどうかの問題だということが彼らには分かるでしょう。もし、それが受け入れられないのであれば、いずれも色彩論に関するそれの観点とはなりません。この後の章では、読者の皆さんは私たちが物理学の理論的な基礎として見るものに精通するようになるでしょう。これはゲーテの作品を正しい光の下で眺めるための基礎を提供するはずです。 (第15章-了)記:現代物理学では、エーテル という言葉は19世紀の自然科学で提起された光を伝達する仮想上の媒質の名称として記憶されており、現在では不要な概念となっている。一方、シュタイナーは、エーテル体でいうところのエーテルは物理学とは関係のない別の意味の言葉として用いられていることを強調している。ルドルフ・シュタイナーは、自然界に存在する「四つのエーテル」を発見し、それらの働きを考察しました。四つのエーテルは、熱エーテル、光エーテル、音エーテル、生命エーテルと呼ばれ、それぞれに次のような働きがあるとされています。熱エーテル:感覚界に時間を生み出す光エーテル:空間をつくり出す音エーテル:分離しているものを結びつける生命エーテル:一つの統一体をつくり出す(*生命力)参考画: 植物エーテル体人気ブログランキングへ
2024年06月11日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第14章 ゲーテの気象学上のアイデア 佐々木義之訳 彼の地質学でも見てきたように、ゲーテの実際の業績を気象学への彼の直接的な貢献として見るのは間違っています(R.シュタイナーによる注:彼の「気象学概論」の中の「自己評価」と題された項参照)。彼は彼の気象学的な実験を完成させることは決してありませんでした。私たちにあるのは彼の観点だけです。彼の思考はいつも「プレグナントな(示唆に富んだ)」点を求めており、一連の現象はその光の下で自ら自然にまとまるもののはずでした(「ひとつの天才的な言葉による重要な助け」参照)。様々な現象の秩序だった配列を説明するために外的かつ偶然の要素を当てにするようないかなる説明も彼の心を満足させられなかったでしょう。彼は、何らかの現象に出会ったとき、ひとつの完全な全体を把握できるようにするため、同じ領域に属するあらゆる同様の、そして、関連する事実を求めました。あらゆる規則的なものの内的な必然性。実際、関連する現象の輪全体の内的な必然性がそれを通して明確になるような原則がその輪の中に存在しているはずでした。この輪の「内部に」現れるものを説明するに際して、その外側に横たわる条件を持ち出すのは彼には不自然なことのように思えたのです。これは彼が気象学のために打ち立てた原則の鍵となるものです。私は、そのような定常的な現象の原因を惑星、月、あるいは未知の大気の潮流に帰するのは十分ではないということにますます気づくようになりました・・・。私たちはすべてのそのような影響を拒絶します。地上における気象現象は宇宙的な事象でも惑星的な事象でもありません。私たちはそれらを、私たちの土地にしたがって、純粋に「地球の」現象として説明しなければなりません(「気象学概論」)。ゲーテは大気現象をそれらの地上的な原因にまで遡って辿りたいと思っていました。それには先ず、その他のあらゆるものを決定づける基本的な法則性を表現する特別な点を見つける必要がありました。そのような現象を提供したのが気圧計です。ゲーテはそれを元型的な現象と見なし、他のあらゆる事象をそれに結びつけようとしました。彼は気圧計の上昇や下降を追跡することを試み、その中に一定の規則性を観測したと考えました。彼はルードヴィッヒ・シュロンのデータ表を研究することによって、「水銀柱の上昇や下降は、異なる場所においても、ほとんど平行したコースを辿り、観測が行われる緯度や経度や高度に影響されない」ということを見出しました。彼はこの上昇と下降を重力の表現と考え、気圧計の変動の中に重力の特質の直接的な表現を見出したと信じていたのです。この説明にさらに何かを投影することに意味はありません。ゲーテは仮説を立てることを拒否していました。彼は観察された現象だけを表現したいと考えていたので、現代の自然科学のように実際の原因となる要素を探すことはありませんでした。他の大気現象は「この」特別な現象によって整理されると考えていたのです。ゲーテが最も興味を抱いていたのは雲の形成についてです。彼は絶えず変化するそれらの形態の中に一定の本質的な配置を区別し、そのことで、「変動する外観の中に生きるものを持続的な思考の中にしっかりと捉える」方法をルーク・ハワード(1772-1864)の理論の中に見い出しました。参考画:Luke Howard 彼は、ちょうど葉の典型的な形態の変容を説明する方法を植物の「精神的な階梯」の中に見つけたように、雲の形成における変容を理解するための方法をまだ探し続けていたのです。彼が気象学の領域において様々な変容をそれによって結びつけた「精神的な階梯」とは、様々な高度における大気の質的な違いでした。植物と雲のいずれの場合にも、ゲーテはその「精神的な階梯」が実際に実体的なものであると推察するような夢想家では決してありませんでした。彼は、感覚に関する限り、空間中における実際の現実として見ることができるのは個別の雲の形成だけであって、いかなるより高次の説明的な原則も精神の目のためにのみ意図されたものであるという事実に十分に気づいていました。ですから、今日、ゲーテを反駁しようとする試みはしばしばドンキホーテが風車に立ち向かうようなものとなります。人々は、彼が彼自身、彼の原則から排除した現実の形態を彼の原則に帰することによって、彼を打ち負かしたと思っているのです。しかし、彼がその基盤として考えた現実の形態、客観的で具体的なアイデアは現代の自然科学には見知らぬものに留まります。ですから、この関連で、今日の科学には、ゲーテ自身が未知なるものに見えるに違いありません。 (第14章-了)人気ブログランキングへ
2024年06月10日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第13章 ゲーテの地質学上の基本原則 佐々木義之訳 ゲーテを見つけることが全くできないところで彼を探すということがよくあります。ゲーテの地質学的な探求の評価においては特にそうでした。他のどの場所にも増して、ここでは彼が書いたあらゆるものを背景へと退かせ、彼の意図が前面に出てくるようにする必要があるでしょう。彼は、「人間の仕事を見ると、そして、自然の仕事もそうですが、私たちが特別な注意を払うに値するのはその意図です(散文の中の韻)。」という、そして、「我々がそこから働くときの精神こそが最高のものなのだ(ウィルヘルム・マイスターの修業時代)。」という彼自身の格言にしたがって評価されるべきです。見習う価値があるのは彼が成し遂げたものというよりも、彼がそれを達成するためにどのように働いたかということ、つまり、それは彼の方法論であって、彼の個々の理論ではありません。ゲーテが成し遂げた個別のことがらは彼の時代の個々の手段に依存しており、今では時代遅れとなっています。ゲーテの方法論は彼の精神の偉大さから生じたものであり、たとえその間に科学的な機器が完成されたものとなり、経験の幅が拡がったとしても、それが有効であることに変わりありません。ゲーテが地質学へと導かれたのは彼の公的な任務の一側面となっていたイルメナウ鉱山との関わりを通してでした。カール・アウグスト大公が権力の座に着き、長く見捨てられていた鉱山に専心するようになりました。専門家たちまずはその衰退の原因をつきとめようとしました。その後、あらゆる手段をもって、その再開が図られました。ゲーテはカール・アウグストの補佐役として精力的に仕事に着手し、自分で情報を集めるため、しばしばイルメナウ鉱山に入りました。1776年5月以降、彼は何度もそこで見かけられるようになりました。これらの「実際的な」関心事のただ中で、彼はそこで観察することができたものへと貫き至る自然法則をよりよく理解するという科学的な必要性をも感じていました。彼の心の中でますます明確に形づくられていた自然に関する包括的な観点により、彼は眼前に広がっているものに対する彼自身の説明を見出すように強いられたのです(彼の随筆「自然」参照)。ゲーテの特質が特別なものであることに私たちは初めから気づかされます。彼の関心事は多くの研究者たちのそれとは異なっているのです。他の人たちにとって、最大の関心事は個別のことがらを知るということです。そして、アイデアの大建造物、ひとつのシステムへの関心は、それが個別のことがらを観察するために彼らの役に立つ限りにおいて存在しています。ところが、ゲーテにとって、個別のことがらは単に彼が存在についての包括的な概念に向けて進むときのひとつの通過点に過ぎません。彼の随筆「自然」には、「彼女(自然)は多くの子供たちの中に生きている、そして、彼女は、母親はどこにあろうか。」とあります。そして、彼の「ファウスト」の中に見出されるのは、単に直接存在するものではなく、例えば、「すべての種子、すべての活動的な力を見ようとする」彼のあこがれについてファウストが語るときのように、それのより深い基盤を理解しようとするところの同様の苦闘です。ですから、彼が地表や地下で観察するものは、世界生成の謎へと貫き至るためのもうひとつの手段なのです。1789年12月28日付けの手紙で公妃ルイーズに「自然の働きはいつでも神によって新たに語られた言葉のようです」と書き送ったことによって、彼のあらゆる探求が生き生きとしたものになります。彼にとって、感覚的な経験はその中に創造の言葉を読み取ることができる精神となるのです。1784年8月22日に、ゲーテはこの趣旨で、フォン・シュタイン夫人宛に「『偉大で美しい記述』はいつでも解読できますが、人々が彼らの瑣末な考えや限界を無限の存在に移そうと努力するときに限って判読不能になるのです」と書き送っています。「ウィルヘルム・マイスター」の中で表現された「もし、私がこれらの裂け目やクレバスを私が解読すべき文字として扱うとしたら、もし、私がそれらを言葉に変換し、それらを読むことを学んだとしたらどうでしょうか」という言葉にも同様の傾向が見出されます。こうして、私たちは詩人が1770年代終盤に始まったこの記述の解読に向けて休みなく働くのを見ることになります。彼は観察された別々の事物の間に必然的な内的関連を見ることを可能にするような観点を発達させることに努めました。彼の手法は、「発展させ、展開することであり、組み立て、秩序づけることではありませんでした。」花崗岩、斑岩等々を眺めて、それらを外的な特徴にしたがってアレンジするだけでは彼には不十分だったのです。彼はあらゆる鉱物形成の根底に横たわる法則を追求しました。例えば、どのようにして花崗岩はここで、斑岩はそこで形成されるのかを理解するためにだけ彼はそれを必要としたはずです。彼はまず区別した後、統合する側面を探しました。1784年6月12日、彼はシュタイン夫人宛に「私が自分で紡ぎ出した単純な糸がこれらすべての地下宮殿のすばらしい案内役となり、乱れがあるところでさえ、私にひとつの概観を与えてくれます」と書き送っています。彼が探していたのは、それにしたがってある鉱物はここで、別の鉱物はそこで産み出されるような様々な条件下で顕現するところの共通の原理でした。彼は、彼の経験に照らして最終的と言えるようなものは何もなく、唯一変わることのない要素とはあらゆるものの根底に横たわる「原理」であると考えていました。その結果、彼はいつもある種の鉱物から別の鉱物への「移行」の中に没頭していましたが、それは、自然がその存在におけるひとつの特殊な側面だけを現し、「場合によっては行き止まりになっている」ような明確に形成された産物においてではなく、それらの移行において、意図、あるいは生成的な傾向をはるかに容易に認識することができるからです。現代の地質学が鉱物種の間でそのような移行があることを何も知らない点を指摘することでゲーテの間違いが証明される、と考えるのは間違いです。ゲーテは決して花崗岩が実際に何か別のものに移行すると主張したのではありません。一度花崗岩になってしまえば、それで終了し、完成された産物となり、何か別のものになるための内的な形成力はもはやありません。そうではなく、ゲーテは今日の地質学が欠いている何か。花崗岩が花崗岩になる前の、それを形成する「アイデア」、あるいは原則を探していたのです。そして、それはあらゆる生成の根底に横たわるアイデアと同じものです。ゲーテがある鉱物から別の鉱物への移行を論じるとき、彼は「実際の」移行ではなく、あるときは「この」形態を取って花崗岩になり、次には「別の」可能性を表現して粘板岩になるというように、様々な仕方で自らを表現する客観的なアイデアを意味していました。ゲーテの観点は具体的なアイデア主義(*制作の規範を自然の個別性,偶然性をこえた理想美におく立場。自然主義あるいは写実主義 ) に対立する態度)であり、何らかの粗野な変成理論ではありませんでした。けれども、この鉱物形成の原則がその中に横たわるものすべてを十分に表現するのは総体としての地球内部においてのみです。したがって、ゲーテにとって主要なことは地球の形成です。そこでは、個別のものは各々の場所を見出さなければなりません。彼は、それぞれの鉱物形成がいかにして全体としての地球の内部にその場所を見出すかということに興味を持ちます。彼が個別のものに興味を持つのは全体の一部としての個別に対してのみです。結局のところ、ゲーテにとって正しいと思われる鉱物学上の地質体系とは、地球のプロセスを模したものであり、何故、事物があれこれの特別な場所で生じるかを示すものです。彼にとって決定的な要素は、「どこで」そして「いかにして」ある種の岩石の形成が行われるかということです。ゲーテは他の点ではヴェルナーの仕事に対して大いなる敬意を払っていましたが、鉱物の分類に関しては、それらがどのようにして生じるかを私たちに告げるそれらの成り立ちにしたがってというよりも、むしろ偶然に生じる外的な特徴にしたがってそれを行う点で彼を非難しました。「完全なる体系づけは科学者によってではなく、自然そのものによってなされる。」ゲーテは総体としての自然をひとつの偉大で調和的な王国と見なしていたということを私たちは思い出さなければなりません。彼は、自然におけるあらゆる事物はある単一の傾向によって活発にされると主張しました。彼によれば、もし、事物が似ているとすれば、それはそれらが同じ法則にしたがっているからであるということでなければなりません。彼は、地質学的な現象には無機的な力以外の要素が働いているということを認めることができませんでした。何故なら、それらは本質的に無機的なものに他ならないからです。「ゲーテが地質学に関連して最初に行ったのは、無機的な法則の活動をその科学へと拡張するということでした。」この原則は彼がボヘミアの山々やポツオリにあるセラピス寺で観察された現象を理解するのに役立ちました。地球の死せる地殻はその他の物理現象の中で働いているのが見られるような法則と同じ法則にしたがって生じたと考えることによって、彼はそれに原則を導入しようとしていたのです。ゲーテはジェームズ・ハットン(1726-1797)やエリー・ド・ボーモン(1798-1874)の地質理論に内的に反発していました。彼があらゆる自然の秩序に違反していると考えていたそれらの理論をどうすることができたでしょうか。地殻の隆起や沈降理論のようなものはゲーテの「平穏な性質」と矛盾するというような言い方は陳腐です。そうではなく、それが矛盾していたのは「統合された」自然法則についての彼の感覚とでした。彼はそれらを自然に対応するひとつの観点へと適合させることができなかったのです。彼は既に(1782年)、この感覚を通して、数十年後に至るまでプロの地質学者たちによって認められることのなかった観点、つまり、化石になった動物や植物はそれらが埋められている石と何らかの関係を有しているという観点に至っていました。ヴォルテールは、それらの石について、まだ自然の「遊び心のある産物」として語っていたのですが、それは彼が自然法則の一貫性についての概念を欠いていたからです。ゲーテによると、何らかの特別な場所に見出されるものは、その環境との単純で自然な結びつきを見出すことができるときにのみ理解できます。同様の原則はまた氷河期についての実り多いアイデア、「地質学的な問題とそれらを解明する試み」へとゲーテを導きました。彼は、広い地域に分布する花崗岩の塊についての単純で自然な説明を追求するに当たり、それらは遠く離れた山々の雑然とした隆起によってそこに放り投げられたという説明は拒絶されなければならない、何故なら、それは既に存在し、よく知られた自然法則の「例外」、実際、その放棄の結果として自然の事実を説明するからであると感じました。彼はその代わり、かつて北ドイツ全体が千フィートの深さの水の塊で覆われており、その大部分は凍っていた、そして、その氷が解けたとき、その花崗岩の区画が後に残されたと考えました。この説明は私たちが自分で経験することができる公知の自然法則に基づくものでした。地質学に対するゲーテの貢献は自然法則の首尾一貫した働きについてのこの認識です。彼がカマーベルクをどのように説明したかは、カールスバッドの鉱泉についての彼の説明が正しいかどうかは問題ではありません。「私は意見を押しつけようとしているのではなく、誰でも選択すれば使うことができる道具としての方法を提供しようとしているのです。」(ゲーテからヘーゲルへ、1820年10月7日)参考画:ゲーテの地質学 (第13章-了)人気ブログランキングへ
2024年06月09日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第12章 ゲーテと数学 佐々木義之訳 科学にとってのゲーテの意義を公平に評価しようとするときの大きな障害のひとつは彼と数学との関わりに関する偏見です。これは二重の偏見です。第一に、ゲーテは数学的な科学の敵であり、人類の認識にとってのその重要性を大いに過小評価していたと信じられています。第二に、詩人は数学的な背景を欠いており、その不能さゆえに自然科学の物理的な側面に対するいかなる種類の数学的なアプローチも避けていたと主張されています。私たちは、最初の点に対して、ゲーテは数学的な科学に対するはっきりとした称賛を繰り返し表明しており、彼がそれを低く評価していたと言うのはほとんど意味がない、ということを強調しなければなりません。実際、彼はすべての自然科学が数学の持つ厳密な特徴をもって遂行されるのがより好ましいと思ったはずです。私たちが数学から学ばなければならないのは、あるものが以前のものからどのように続いているかを絶えず把握しながら、ものごとをその正しい順序で入念に配置するということです。そのようにして、私たちは、たとえ計算を用いないときでも、あたかも最も厳密な幾何学者にそれを説明しなければならないかのように、私たちの仕事に取りかかります・・・。私は数学の反対者、敵と呼ばれてきましたが、一方で、私以上にそれを高く評価することができる者は誰もいませんでした。ゲーテの特質に対してなにがしかの洞察を有する人にとって、第二の非難を真剣に取り上げるのはほとんど不可能です。ゲーテが繰り返し懸念を声にしていたのは、使命を帯びていながらその使命が自分たちの能力の範囲内にあるかどうかを決して考えることのない問題の多い人たちの仕事についてです。私たちは、ゲーテ自身がこの教訓を破った、彼は数学者としての彼自身の限界を考慮することなく彼の科学的な観点を発達させたと信じるべきなのでしょうか。ゲーテは、真実に続く道は無数にあり、私たちはそれぞれの個的な能力に最も適した道を進むことができるということを知っていました。私たちはそれぞれ私たち自身のやり方で考えなければなりません。何故なら、私たちはいつも私たちの人生の助けになるような何らかの真実であるもの、あるいは一種の真実をその途上で見出すからです。主要なことは、流されるのではなく、自制心を保つということ・・・。私たちは誰も私たちの個的な能力や技能の範囲内で仕事をすることで完全であることはできません。しかし、私たちがこの不可欠の節度から逸脱するとき、最も繊細な特質が曇らされ、無効にされます。(散文の中の韻)ゲーテは何かを成し遂げようとしてその知識を超えた分野に関わったはずだと主張するのは馬鹿げたことです。数学の使命とその自然科学への貢献とがどこから始まるかを決定するというのが主要な点であり、ゲーテはそれに対してきわめて慎重な注意を払いました。彼の創造力の境界を規定するということで彼の正確さを超えていたのは彼の天才としての深みぐらいのものでした。ゲーテの科学的な思考についての唯一のコメントが、彼は論理的な心的能力を欠いていたということであるような人たちのために、私たちは特にそのことを指摘したいと思います。数学の科学としての「特質」に関する深い理解は、ゲーテが彼自身の自然科学の方法と数学の方法との間に区別をつけたその仕方によって明らかとなります。彼は数学的な確実性の源泉を正確に知っており、数学の法則と他の自然科学の法則との間の関連について明確な概念を形成していました。ひとつの科学が認識にとって何らかの価値を持ち得るためには、まずは現実における特定の領域に対する洞察を提供しなければなりません。それは世界の特定の側面を発達させなければなりません。それが「どのように」なされるかは、それぞれの科学の精神によります。自然科学により計算を用いることなく達成され得るもの、あるいは達成され得ないものを決定するために、ゲーテは数学の精神を知っていなければならなかったはずです。これは本当に重要な点です。そして、ゲーテはその点をとても強調していました。彼が数学の本質を理解していたことはこれからも明らかです。数学の本質についてもう少し詳しく考えてみましょう。数学が取り扱うのは大きさです。つまり、量を決定するということです。しかし、大きさはそれ自体では存在しません。人間の経験におけるどの領域を探しても「単に」大きさであるものは存在しません。事物におけるあらゆる特徴の中には、何らかの数で記述され得るものがあります。数学は量的な要素に関わりますから、その対象は決して完成された現象ではなく、測定されたり、数えられたりできるような側面になります。それはそのような操作にかかり得るあらゆるものを現象から分離します。そして、抽象の世界全体を手に入れた後、それに働きかけることへと進みます。ですから、数学は、事物というよりも、事物を測定に適うものにするところのその側面を取り扱います。そして、それが認めなければならないのは、それは現実の「一側面」に過ぎず、そのコントロールが及ばない他の多くの側面があるということです。数学的な判断は、現実の対象物を完全には包含せず、私たちが完全な現実からその「ひとつの」側面として自ら概念的に分離するところの抽象性という知的な領域の中でのみ有効なのです。数学は事物の大きさと量を抽出します。それは大きさや数の間の理想的な関係を確立し、それによって、純粋な思考の領域へと上昇します。現実の対象物は、それが定量化される程度に応じて、数学的な真実が適用されるのを許容するのです。しかし、数学的な判断は自然をその全体性において包含し得ると信じるならば、それは大いなる誤りでしょう。「自然は単に量であるばかりではなく、質でもあります。ところが、数学は自らを量に限定するのです。」数学的な処理と質的な処理とは共に働かなければなりません。それぞれが一方の側から現象に接近しながら、その中で出会うのです。ゲーテは次のように述べて、この関係を表現しました。数学は、弁証法と同様、私たちのより高次の能力のための器官です。その実践は、修辞法と同様、芸術です。いずれの場合にも、形態が唯一の判断基準であり、内容は問題になりません・・・。数学が何ポンドあるいは何ギニーのどちらを加えるのか、修辞法が真実あるいは虚偽(のどちら)を擁護するのかは、それらにとって全くどうでもよいことなのです。(散文の中の韻)そして、ゲーテはその「色彩論の概要」の中で次のように述べています。「数学、最も素晴らしい人間の能力のひとつが、「ひとつの特別な側面」から、非常によく物理学に貢献したことを誰が否定できるでしょうか。」ゲーテはこのことを認めていたので、数学的な素養がない心でも、もし、その心が自らをその量的な側面に限定するならば、物理学における問題を取り扱うことは可能であると見ていました。 (第12章-了)記:ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィーリップ・カントール(Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor/1845年 - 1918年)は、ドイツで活躍した数学者。「数学の本質はその自由性にある」と主張しました。この言葉の通り、この世に存在するあらゆる事象は数学の対象になります。数学は、複雑な事柄から普遍的な法則を引き出し、また逆に簡単な原理から理論を展開し深化させる学問です。更には現代物理科学の言う「量子もつれ」は、無時間的な相互関係なので、仏教的に表現すれば「縁起」です。神秘主義思想が宇宙全体を一つの生命としてみなすように、宇宙は自身の結びつきを深めていきます。参考画:Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor人気ブログランキングへ
2024年06月08日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説~並びに、精神科学(人智学)の基礎~(GA1)第11章 他の観点と比較したゲーテの思考方法 佐々木義之訳 過去の思索家の理論やゲーテの知的発達に影響を与えた同時代人たちの理論は彼の観点のための基礎として役立ったのではありません。ゲーテの思考形態や方法、実際、正に彼が世界を眺めるその仕方は、彼の生来の資質によって形成されたのです。それは彼の幼少期からその人生を通して変わることはありませんでした。ここで注目に値するのはゲーテの主要な性格の中の二つのものです。ひとつはあらゆる存在の源と深みへの彼の渇きです。結局のところ、それは彼のアイデアに対する信念でした。ゲーテは絶えず何かより高いもの、より良いものの兆候に満たされていました。それを彼の性格の深く宗教的な側面と呼ぶことができるかも知れません。多くの人が必要と考えることがら、つまり、ものごとを彼ら自身のレベルにまで引き下げたり、あらゆる神聖なものをそれらから奪い取ろうとしたりする衝動は彼とは無縁のものでした。「彼が必要としたのは何か別のこと、何か高次のものを感知し、それに向かって努力するということでした。」彼はあらゆるものの中に何らかの尊敬できる側面を探し求めました。カール・ユリウス・シュレーアーはゲーテの愛の生活に関連して、魅力的な仕方でこのことを示しました。ゲーテはあらゆる軽薄な、また表面的なことを追い払いました。そして、彼にとって愛はひとつの献身の形となったのです。彼は彼の存在におけるこの基本的な性格を彼自身の言葉で美しく表現しています。我々の胸の内に波打つ純粋なあこがれ我々自身を自由に、そして感謝を込めて何か「より高次のもの、より純粋なもの、知られざるもの」に与えようとするものそれを我々は献身と呼ぶことにしよう。 (愛の三部作「エレジー」)ゲーテという存在のこの側面は別の側面と分かちがたく結びついています。彼は決してあのより高い存在に直接接近しようとはせず、自然を通して接近しようとします。「真実は神性に似て、決して直接現われようとはしない。我々はそれをその顕現を通して直観しなければならない」(散文の中の韻)。彼のアイデアへの信頼に加えて言えることは、ゲーテはアイデアが達成されるのは外的な現実を観察することによってであると信じていたということです。彼は絶えず自然の働きの中に神的な要素を見いだそうとしました。彼にとってそれ以外のところに神性を求めることは思いもよらないことでした。その少年時代においてさえ、ゲーテは自然と直接結びついた(「詩と真実」、第1冊、パート1)偉大な神のための祭壇を打ち立てました。そのような儀式が生じたのは、私たちに到達可能な最高のものは、自然と私たちとの関係を忠実に育むことによって達成されるという彼の信念からでした。ですから、私たちが詳述してきた認識論はゲーテ生来の観察方法だったのです。彼は、すべての事物はアイデアの顕現であり、それは我々の感覚的な経験を精神的な観照にまで上昇させることによってのみ獲得されるという信念をもって現実に向かいました。この信念は子供時代に始まったものですが、彼の一部に、つまり彼の世界観における基本的な前提となっていました。いかなる哲学者であってもそのような確信をゲーテに与えることはできなかったでしょう。彼が彼らに求めていたのは何か別のものだったのです。彼の観察方法は彼の存在の深みに根ざしていましたが、彼はそれを定式化するための言葉を必要としていたのです。彼の本性は哲学的な仕方で働き、哲学的な形式で自己を表現しましたが、それは哲学的な前提があってはじめて表現し得るものです。そこで彼は哲学者たちに彼が何者で「あるか」について十分に気づいてもらうように、つまり、彼の中に生きる「活動」に気づいてもらうように配慮しました。彼は彼らが彼自身の存在を説明し、正当化するように気をつけたのです。彼がスピノザを研究し、同時代の哲学者たちと科学について議論したのはそのためでした。若き日のゲーテには、彼の内的なあり方を最も力強く表現しているのはスピノザ(1632-1677)とジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)であると思われました。いずれの場合にも、彼は彼らの作品に対する攻撃を通して彼らに出会ったのですが、それにもかかわらず、彼らの教えが彼自身の本性に関連していることに気がついたというのは特筆すべきことです。これは特にジョルダーノ・ブルーノの教えについて言えることです。彼はベイルの「歴史と批評の辞典」の中でブルーノに出会ったのですが、その中でブルーノは激しく攻撃されていました。それがゲーテに与えた影響は、彼がベイルを読んでいた1770年頃に考えられたファウストの各パートの中にブルーノの文章が言葉として響いているのが見出されるというほどのものでした。詩人は、日誌やノート(Tag- und Jahresheften)の中で、1812年にブルーノに戻ったと私たちに伝えています。そのときの印象はもっとさらに深く、その年に彼が書いた詩の多くにノラ出身の哲学者への同調が鳴り響いていました。しかし、これはゲーテが何か特定のものをブルーノから借りてきた、あるいは、学んだということではなく、むしろ、彼自身の本性の中にいつも生きていたものを定式化する方法を彼の著作の中に見出したということです。彼は、ブルーノの言葉を用いるときに最も明確に彼自身を表現できるということを見出したのです。ブルーノは普遍的な理性を「宇宙の創造者であり指導者」であると考えていました。彼は理性を、事物(「マテリア」)を「内から外へと」形成する「内的な芸術家」と呼びました。理性は存在するものすべてを生じさせます。理性が愛情を込めてそれに参加しないようなものは何もありません。ブルーノは、「それがどんなに小さく、脆いものであっても、それは精神的な実質の一部を含んでいる」、と述べています。このことは、私たちが何らかのことがらを判断するとき、普遍的な理性がどのようにしてそれをそこに置いたのか、そして、それはどのようにして私たちが出会うようなものになったのかを理解できなければ、私たちは正しく判断することができないというゲーテの観点と一致していました。感覚的な知覚は十分ではありません。それは私たちの感覚が事物の普遍的なアイデアに対する関連をより大きな全体にとってのその意義という意味で説明することに失敗するからです。ですから、私たちは、感覚が伝えるものを理解する上で理想的な基礎となるものを私たちの理性が構築するというような仕方で観察を行わなければなりません。私たちはゲーテが言うように「精神の目をもって見」なければならないのです。ここでもまた、彼はひとつの定式化をブルーノから借りてきます。我々は色や音を認識するために異なる感覚器官を用いる、同様に、芸術の基質や自然の基質を同じ目で見ることもない、何故なら、一方は感覚的な目で、他方は理性の目で見るのだから (同上)このことはスピノザについても当てはまります。彼の教えは、神性は十分に世界の中に入り込んでいるという考えに基づいています。人間は世界の中に飛び込むことによってのみ神を知ることを望むことができるのです。スピノザ的な観点から見れば、他のいかなる方法も不可能であるように見えますが、それは神が自分自身の存在を諦め、世界の外には見出され得ないからです。むしろ、私たちは彼がいる場所で彼を探さなければなりません。世界についての真の認識は、それがいかなるものであれ、神についての何らかの認識を私たちに提供するものでなければなりません。ですから、すべてのより高次の認識とは神との出会いなのです。私たちはそれを「注視する中での認識」と呼びます。私たちは事物を「神の流出」として知ります。私たちの心が認識する自然の法則は神の存在であって、単に神によって作られたものではありません。私たちが論理的な必然性として見るあらゆるものがそのようになっている理由は、神の存在、あるいは永遠の法則性が本来その中に備わっているからです。この観点はゲーテの琴線に触れました。彼は自然がそのあらゆる活動において、神を現していることを確信し、その信念を次のように非常に明確な仕方で表現しました。ゲーテは、当時、スピノザを別の光の下に提示しようとしていたフリードリッヒ・ジャコビに対して、「私は汎神論者(スピノザ)の神への尊敬にますます固執するようになっています」、と書き送っています。ここに存在しているのはスピノザとゲーテの親近性です。ゲーテの存在とスピノザの教えとの間のこの深く内的な調和はゲーテがスピノザに惹かれた表面的な理由、つまり、どちらも究極的な原因によって世界を説明することに我慢できなかったということを強調する人たちによって見過ごされてきたものです。実際、ゲーテとスピノザの両方がそれを拒絶したのはもっとずっと根源的な観点の結果でした。目的因の理論(目的論)について考えてみましょう。それは何らかのものの存在や特徴を何か別のものにとってのその有用性を定めることで説明しようとします。事物が一定の仕方で構成されているのは何か別のものの特定の特徴によるということが示されます。それは、世界の創造主がそれら二つの上に存在し、一方が他方の要求に合致するようにそれらを作ったと仮定しますが、もし、創造主がすべての事物の内部に存在しているのであれば、その説明は意味がありません。何故なら、そのとき、ある事物の性質はその「内部の」活動的な原則から生じなければならないからです。私たちがある事物の特質を調べるのは、それがある一定の仕方でそうなっていて、別の仕方でそうなってはいないからです。もし、私たちが、神性は各事物の内部に生きている、と信じていれば、その合法則性を説明するために何らかの外的な原則を探すなどということは思いもよらないことでしょう。ゲーテのスピノザに対する関係は、彼は彼自身の内的な世界を表現するための形式と科学的な言語をその作品の中に見出したという事実以外の説明を必要としません。ゲーテとその同時代人との関係を考察するとき、一般的には、現代哲学の創設者と考えられているイマニュエル・カント(1724-1804)について主として語られるべきでしょう。彼が生きていた時代には、教育のある人物であれば誰であれ彼と折り合いをつけることが求められるというような雰囲気がありました。この知的な出会いはゲーテにとっても必要でしたが、それは彼にとって無益であることが分かりました。カントの理論とゲーテの思考方法として私たちが語るべきこととの間には深い矛盾があったからです。実際、私たちは、ドイツのすべての思想は並行する二本の線、ひとつはカントの思考方法に浸透され、もうひとつはゲーテの考えに近い線に沿って走っていると躊躇なく言うことができます。現代の哲学がカントのそれに近づけば近づくほどゲーテからは離れていきます。ですから、ますますゲーテの世界観を理解したり、評価したりすることができなくなってきているのです。ここでは、ゲーテの観点に関連する範囲で、カント哲学の主要な点について述べることにします。カントによれば、人間の思考の出発点は経験、すなわち心理学的、歴史的な事実等々の形で私たちの内的な感覚がもたらすものを含むところの感覚に現れる世界です。世界は空間中の事物と時間的なプロセスの多様性から成り立っています。ある特定の対象が私に直面したり、あるいは、その特定のプロセスを私が経験したりすることは問題になりません。それは全く別のものであったかも知れないのです。実際、思考の中では、事物やプロセス全体の多様性を除去することさえできます。けれども、私は「空間」と「時間」のない世界を想像することはできません。私にとって空間的でも時間的でもないものは存在しません。たとえ、そのようなものが存在したとしても、私は空間や時間を欠くものを何も思い描くことができないので、それを認識することができません。私には、物自体が空間と時間の中に存在しているかどうかを知ることはできません。私が知っているのは、私が事物に出会うときのその形態とは私にとってどのようなものであるに違いないかということだけです。ですから、「空間」と「時間」は「私の」感覚的な知覚条件なのです。私は「そのようなものとして」の事物について何も知りません。私が知っているのは、もし、それらが私にとってそもそも存在しているのであれば、それらがどのようにして私に「現れる」に違いないかということだけです。これによってカントは新しい問題を導入しました。彼は科学に新しい種類の疑問を持ち込んだのです。以前の哲学者たちは事物の特徴を知りたいと思っていましたが、彼はいかにして事物は我々の認識の対象になるべく現われなければならないかについて知ろうとします。カントにとっての哲学とは世界についての人間の経験が可能となる条件に関する科学なのです。私たちは「物自体」について何も知りません。しかし、単に時空間中における対象の多様性を知覚するだけでは私たちの使命は成就しません。私たちはその多様性の中で統一性を創り出そうとするのですが、それはまた、私たちが直面する感覚的な世界を再構成された形態へと組織することを目的とするような活動の総体である知性の使命でもあります。知性は二つの感覚的知覚を、ひとつは、例えば、原因として、もうひとつは結果として、あるいはまた、ひとつは実質として、そして、もうひとつは性質として確定することによって結びつけます。ここでもまた、哲学的な科学の使命はいかなる条件下で知性は世界の体系を創造することができるかを示すということです。ですから、カントの意味での世界とは感覚世界と知性という形で生じる主観的な顕現なのです。私たちが確実に知ることができるのは、物自体が存在するということだけです。その顕現は私たちの有機的な組織に依存します。知性によって形成されたこの感覚世界は私たち自身の認識能力にとって意義があるという以上のことを仮定することは明らかに意味がありません。カントがアイデアの世界の意味について語るとき、それは最も明確になります。彼によれば、アイデアとは単に見晴らしのよい理性であり、私たちの知性が創り出すより低次の要素はそれに従属させることができます。例えば、私たちの知性は心理学的な顕現の間の結びつきを確立し、理性はアイデアへと向かう私たちの能力はそれらすべてが魂から輝き出ているかのように、それらの結びつきを把握します。しかし、それは実際の現実そのものにとっては何の意味もありません。つまり、それは私たちの認識能力にとっての単なる方向づけのための手段に過ぎないのです。これが、私たちがそれに興味を持つ限りにおいてのカントの理論哲学です。これとゲーテの哲学との対極性は明らかです。私たちは、カントによれば、与えられた現実を決定づけます。つまり、私たちがそれをそのように考えるからこそ、それはそのようであるのです。カントは実際には認識論的な問題をスキップしているのです。彼は「純粋理性批判」の最初のところで彼が正当化していない歩みを二歩進めますが、その結果、彼の哲学的な大建造物全体が被害を蒙ることになります。彼は単純に主観と客観の間を区別しますが、私たちの知性が現実における二つの領域、この場合には、認識する主体と認識される客体の間でそのような区別を行うという事実の重要性を検証することなくそうするのです。そして、彼はこれら二つの領域の間の相互関係を「概念的に」定式化しようとします。もし、カントがこの中心に位置する認識論的な問題を歪められた観点から眺めていなかったとしたら、主観と客観の間の区別は認識の過程における単なる中間段階であり、それら両方の下にあるのは理性によって知覚可能なひとつの統一体であり、私たちが事物に帰属させる性質は単に主観的なものではないということに気づいていたことでしょう。事物は理性によって構成される統一体であり、「物自体」と「我々にとっての物」とを区別するのは知性なのです。ある場合にはその物に帰属され、別の場合には拒絶されるかも知れないというのは全く容認できることではありません。同じものはあるひとつの観点から見ようが別の観点から見ようがひとつの統合された全体であることに変わりはありません。カントの哲学的な大建造物に忍び込んだ間違いは、感覚的に知覚可能な世界の多様性は何か固定されたものであり、科学はその多様性を体系化する点にその特徴を有するという彼の信念です。この多様性は、もし、私たちがそれを理解するならば、何らかの克服しなければならないような究極的なものではない、ということに彼は決して気づきませんでした。その結果、カントによれば、あらゆる理論は単に理性や知性によって経験の上につけ加えられたものであるということになります。彼にとって、アイデアとは、表面の多様性を打ち破った理性が所与の世界のより深い基盤として認識するものというわけではなく、どちらかというと現象の組織化を容易にする方法論的な原則です。カントによれば、もし、私たちが、事物はアイデアから概念的に導き出すことができると信じるならば、私たちは道に迷ってしまう、私たちは私たちのすべての経験があたかもひとつの統一体から生じる「かのように」それらを組織できるだけだということになります。彼によれば、事物がそれ自体で存在するときの基盤に関する概念を持つことは不可能なのです。事物についての私たちの知識は私たちのためだけに存在し、私たち個々人にとってのみ有効なのです。この観点から多くのものを得ることはゲーテにはできませんでした。彼の観点によれば、快不快の反応を含む私たち自身という意味での事物の観察が果たす役割はいつでも補助的なものです。彼が科学に期待したのは、事物が私たち自身との関係でどうなっているかを告げるということ以上のことだったのです。彼は、彼の随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の中で、研究者の使命について記述していますが、彼らは彼ら自身の標準や基準を当てはめるのではなく、観察された事物の領域の内部からそれらを取り出してくるべきなのです。いかにカントの思考方法とゲーテのそれとが異なっているかを示すにはこの一文だけで十分です。カントは、事物についてのあらゆる判断は単に主観と客観の産物であって、主観が客観をどのように見ているかを告げるだけだと考えました。一方、ゲーテによれば、主観は無私の態度で客観の中へと入っていき、判断のための基準を事物自体の文脈の中から取り出してきます。ゲーテ自身が、カントの弟子たちについて、「彼らは確かに私の言うことを聞くことができたけれども、応じることはできず、何の役にも立たなかった」と述べています。詩人は、カントの「判断力批判」から得るものの方がずっと多いと感じていたのです。ゲーテは哲学的にはより報いるところが多い関係をシラーに対して持っていました。見るということについての彼自身の方法に対するゲーテの洞察はシラーを通して一歩前進したのです。よく知られているシラーとの会話に至るまで、ゲーテは世界を眺めるためにある特定の方法を実践していました。彼は植物を観察し、そこから個々の形態を導き出すことができるような元型的な植物を確立しました。彼の心の中で形成された元型的な植物、そして、同じく対応する元型的な動物は、関連する現象を説明するのに役立ちました。けれども、彼は決して元型的な植物の本質的な特徴とはどのようなものであるかについては考えませんでした。シラーはそれを「アイデア」と呼ぶことで彼の眼を開いたのです。それ以後、彼は彼の理想主義を意識するようになりました。それまで彼は元型的な植物を経験と呼んでいたのですが、それは彼がそれを自分の目で見たと信じていたからです。彼は彼の随筆「植物の変容」のために後に書いた序論の中で、「こうして私は元型的な動物を見出そうと努力したが、それは、結局のところ、動物の「アイデア」を意味していたのだ」と述べています。とはいえ、シラーがゲーテにもたらしたのは彼にとって見知らぬものではないということを私たちは心に留めておかなければなりません。むしろシラーがゲーテの認識方法を観察することによって初めて「客観的な理想主義」への道を見出したのです。シラーの貢献は、彼がゲーテの中に認め称賛した認識方法を記述するための用語にだけありました。ゲーテがフィヒテから受け取るべきものはほとんどありませんでした。その領域はゲーテのそれからはあまりにもかけ離れていたために、いかなる現実的な影響も及ぼさなかったのです。フィヒテは最も輝かしい仕方で意識の科学を打ち立てました。彼がそこで辿っていたのは人間の自我が所与の世界を思考の世界へと変容させる活動でした。彼は、所与のものに満足のいく形態を与え、断ち切られた所与のものの間に適切な結びつきを創り出す人間の自我について記述するところでやめておくこともできたのですが、自我の中で生じるあらゆることがらはその活動によって創造される、という間違った信念を持つに至りました。したがって、彼の観点はその内容全体を意識から取り出してくるような一面的な理想主義ということになっています。絶えず客観的なものを求めるゲーテが、フィヒテの哲学の中に、自分を引きつける多くのものを見出すことはあり得ませんでした。ゲーテはその中にある有効なものに対する理解を有していなかったのです。フィヒテがそれを普遍的な科学へと拡張するそのやり方には欠陥がある、と詩人が見ていたことは確かです。フィヒテの弟子であった若き日のシェリングとはずっと多くの接点がありました。彼は自我の活動を分析することへと進んだだけでなく、意識が自然を理解するときの意識内部の活動をも探求しました。自然の客観的な現実性、その実際の原理は、私たちの自然認識を通して、私たちの自我の中で自らを展開するとシェリングは見ていました。彼にとっての外的な自然とは私たちの自然についての概念が単に固化した形態であるに過ぎませんでした。理想的な自然観として私たちの中に生きているものが、私たちの外に、ただし、時空間の中に隔絶したものとして、再び現われるのです。私たちが私たちの外で自然として出会うものは生きた原理の完結した産物であり、決定づけられて硬化した形態です。この原理は外的な経験を通して達成されるのではなく、まず私たちの魂の中で創造されなければなりません。シェリングは彼の「自然哲学のためのアイデア」の中で次のように述べています。「自然について哲学するとは自然を創造することを意味する・・・単なる生産物としての自然(ナチュラ・ナチュラータ)は、我々が対象としての自然(あらゆる経験主義の関心事)と呼ぶところのものである。生産活動としての自然(ナチュラ・ナチュランス)は、我々が主体としての自然(あらゆる理論の関心事)と呼ぶところのものである・・・経験主義と科学の違いは、経験主義がその対象を存在しているもの、完成したもの、成し遂げられたものとして見るのに対して、科学はそれを成っている状態にあるもの、まだ生じつつあるものとして見るという事実にある。」。ゲーテがシェリングのこれらの観点について知るようになったのは、ひとつには、哲学者に個人的に会うことによってでしたが、それによって詩人はさらに一歩前進することになりました。今や、彼は、完成された産物から成っている状態にあるものへと、あるいは産み出されつつあるものへと発展するというのが彼の傾向であるということを理解するようになりました。私たちはこのシェリングとの共鳴を彼の随筆「先験的知覚による判断」の中で聞くことになるのですが、そこで彼が書いているのは、「創造し続ける自然を観察することによって」、彼自身が「自然の生産に精神的に参加する価値があるもの」となるように努めたということです。ゲーテが元型的な現象の位置づけを明確にするのを哲学的な観点から助けたのは、最終的には、ヘーゲルでした。ヘーゲルは元型的な現象の意味を深く理解し、1821年2月20日付けの彼の手紙の中でそれを次のように特徴づけています。「貴方はシンプルで抽象的なものを上に置き、適切にもそれを元型的な現象と呼びます。そして、いかに具体的な現象がさらなる影響や条件の結果として生じるかを示します。そして、最後に、プロセス全体を組織化することによって、一連のものが単純な条件からより複雑なものへと進み出るとともに、このランクづけと段階的な仕上げの結果として、複雑なものが十分な明晰さをもって現われるようにします。元型的な現象を追求すること、それを他の偶発的な周囲の条件から解き放つこと、私たちが言うところの「抽象性」においてそれを理解すること、それは自然についての偉大で精神的な理解によって達成されたものであり、この分野における認識の真に科学的な側面を表現するものである、と私は確信しています。私たちのために掲げられたこの元型的な現象に対して私たち哲学者が抱く特別な関心についても触れさせていただくならば、私たちはそのような精髄を確かに用いることができるということです。私たちには私たちの絶対的なもの、最初は、あまりにも得体が知れず、灰色か全く暗いものがあります。私たちはそれを光と空気の中にもたらそうと苦闘するのですが、今や芽生えつつあるそれに対するあこがれを完全に日の光の中にもたらすためには、窓を開ける必要があります。もし、私たちがそれらをあまりにも性急に世界の不愉快さの色鮮やかで混乱した仲間に引き入れるならば、私たちの計画は雲散霧消してしまうでしょう。閣下の元型的な現象が重用されるのはここにおいてです。すなわち、この二重の光、その単純さにおいて精神的かつ概念的、その官能性において可視的かつ明白な光―の中で、二つの世界、私たちの難解な世界と明白な存在性の世界が出会うのです。」。こうして、ヘーゲルがゲーテのために明確にしたのは、経験論的な科学者は元型的な現象に至る道をずっと辿っていかなければならない。そして、そこから先へは哲学の道がさらに続いているという考え方でした。けれども、これによって明らかになるのは、ヘーゲルの哲学における基本的な考え方はゲーテ的な思考形態の結果であるということです。ゲーテもヘーゲルも、外的な現実へと深く貫き至ることによってそれを超越し、それによって、創造されたものから創造するものへと、つまり、決定づけられるものから決定づけるものへと上昇するということが根本的なことなのだと考えます。もちろん、ヘーゲルは、その哲学の中で、すべての事物がそこから進み出てくるような永遠のプロセスを明らかにすることをひたすら望みます。彼は所与のものを彼が絶対的なものとして認識するものから結果として生じてくるものとして理解しようとするのです。したがって、ゲーテが哲学者たちやその哲学的な傾向に関する知識を持つようになったことは、彼が彼の中に既に存在していたものを理解する上で助けとなりました。彼自身の観点に関する限り、彼が何か新しいものを得たということではありません。そうではなく、彼が得たのはそれらについて彼が語るための手段、彼が行っていたこと、彼の魂の中で生じていたことを話すための手段だったのです。結果として、ゲーテの世界観は、哲学のさらなる展開にとって、無数の観点を提供しています。当初、ヘーゲルの弟子たちだけがそれらを把握していました。他の哲学は礼儀正しく距離を置いたままでした。詩人を深く尊敬していたショーペンハウアーだけは彼自身の哲学のいくつかの側面をゲーテの作品の上に基礎づけました。色彩論に対するショーペンハウアーによる賞賛については後の章で述べることにして、ここではショーペンハウアーの考えとゲーテのそれとの間のより一般的な関係に話を絞りたいと思います。彼はある一点に関してゲーテに近づきます。それは、彼が与えられた現象を外的な原因から導き出そうとするいかなる試みをも拒絶し、内的な合法則性の活動、ひとつの顕現から次の顕現へと一歩一歩進めるプロセスだけを認める点においてです。これは物自体の内部に説明の諸要素を見出すというゲーテの原則の名残です。しかし、この類似は見かけ上のものです。ショーペンハウアーは現象の領域の内部に留まるように私たちに求めますが、その理由は、私たちに与えられるすべての現象は実際には心的な表象であり、それらの表象は私たちを私たち自身の意識を超えたところにまで連れていくことはできず、それにとって外的なもの、私たちには手の届かない「物自体」を達成することは不可能だからです。他方、ゲーテは現象に留まろうとしますが、それは彼がそれらを説明する要素を実際に現象自体の中に見出すことを期待しているからです。最後に、ゲーテの観点をエドゥアルト・フォン・ハルトマン(Karl Robert Eduard von Hartmann/1842-1906年)のそれと比較してみましょう。参考画:エドゥアルト・フォン・ハルトマン彼の科学的な観点は私たちの時代において最も重要なものとなっています。この著者による「無意識の哲学」は大いなる歴史的重要性を有しています。後の著作では、その最初の本の中で単に概観されていただけのものが洗練され、多くの点で新しい素材がつけ加えられました。この作品は全体として私たちの時代の精神的な特質全体を反映しています。ハルトマンが自らを傑出したものとしているのは、その賞賛すべき心の深さと様々な科学についての彼のすばらしい熟達を通してです。彼は現代の知的成果における最先端の位置にいます。彼の偉大さを十分に認めるために彼に同意する必要はありません。「無意識の哲学」だけしか知らない読者はハルトマンとゲーテの観点がいかに近いかを理解することはできないかも知れません。彼らの接点が見えるようになるのはハルトマンが後に発展させた彼の原理から引き出された彼の「結論」においてのみです。ハルトマンの哲学は理想主義です。彼は理想主義者「以上の」ものであろうとしますが、世界についての彼の説明が何か絶対的なものを求めるときには、彼はいつでもアイデアに訴えます。彼はあらゆる事物の根底に横たわる基本的な現実としてのアイデアを最も重要なものとして考えています。無意識についての彼の仮定は、私たちの意識の中にあるアイデアは必ずしもそのすべてが意識的な形態に結びつけられているわけではない、という事実に基づいています。アイデアはそれらが意識されているところにのみ活動的に存在しているのではなく、他の形態においても存在します。アイデアは主観的な現象以上のものであり、それら自体として、それら自体で重要です。アイデアは決して主観の中にのみ存在しているのではなく、客観的な世界の原則なのです。ハルトマンが世界の形成原理にアイデアとともに意志を含めたとしても、それでも、あらゆる概念は単に意識の主観的な現われであるとする信念を極限にまでもたらしたショーペンハウアーの単なる追随者として彼を眺める人たちのことを理解するのは困難です。ショーペンハウアーに関して言えば、アイデアが現実的な原則として世界の形成に参加した可能性は問題になりません。彼の観点では、意志「だけ」が世界の基本となっています。これは、ハルトマンがその原理をあらゆる科学の領域にまで追求していったのに対して、ショーペンハウアーがその哲学との関連で様々な分野の科学をうまく発展させられなかった理由です。ショーペンハウアーは歴史の豊かさについて、それが意志の顕現であるということを除いて、何も述べていません。他方、ハルトマンはあらゆる歴史的な現象の中心にアイデアを見出し、人間進化におけるより大きなプロセスの中にそれを組み込みます。ショーペンハウアーは個別の存在や現象には興味がありません。何故なら、彼がそれらに関して言うべき唯一重要なこととはそれらが意志の表現であるということだけだからです。ハルトマンはそれぞれ個別のことがらを把握し、いかにアイデアが至るところに見出されるかを示します。ショーペンハウアーの世界観の本質的な特徴は画一性であり、ハルトマンのそれは統一性です。ショーペンハウアーは世界を空虚で画一的な衝動から導かれたものとして眺めます。ハルトマンは世界をアイデアの豊かな内容から導かれたものとして見ます。ショーペンハウアーは抽象的な統一性を仮定する一方、ハルトマンは一つの原則としての具体的なアイデアを仮定しますが、その統一性は、あるいは、むしろその自己調和性は、ひとつの特徴であるに過ぎません。ショーペンハウアーは決して、ハルトマンが行ったようには、歴史哲学、すなわち宗教の科学を創造しませんでした。ハルトマンは「理性はアイデアの形式的、論理的な原則であり、意志と分かちがたく統合されることによって世界の過程を例外なく制御し、決定づけている」と述べています。このことによって、彼は自然や歴史のあらゆる顕現の中に私たちの思考によって(たとえ私たちの感覚によってではないにしても)把握され得る論理的な中心点を求めるようになりました。この前提を受け入れる人たちだけが、アイデアという意味での思考を通して、世界を理解したいという願いを正当化することができるのです。ハルトマンの客観的な理想主義は総体的にゲーテの世界観という基盤の上に立っています。ゲーテは「我々が意識するようになるものすべて、話すことができるものすべてが正にアイデアの顕現なのだ」(「散文の中の韻」)と述べています。そして、彼は人々に、アイデアが彼らに見えるようになる程度に応じて、外的な世界が感覚に明らかになるのと同様に、認識に対する彼らの能力を発達させることを要求します。こうして、彼は、単なる意識の顕現としてのアイデアというよりも、それが客観的な世界の原理となるような基盤の上に立っています。世界は私たちの思考の中で稲妻のように点火するものによって客観的に形成されるのです。アイデアに関しては、私たちにとってそれが意識のレベルで何を意味しているかということではなく、それがそれ自体で何であるかということが重要なのです。すなわち、それはそれ自体の存在性によって世界の根底に横たわる原理なのです。こうして思考はそれ自体として存在するものを意識するようになります。アイデアというのは、意識なしには現れることができなかったとはいえ、意識の中へのその現われというよりも、私たちのそれについての意識がそれに対して何ら貢献することのないその本来の特徴という意味において、それはそれ自体として存在しているというのがその主な特徴であるというような仕方で理解されるべきものです。ですから、ハルトマンによれば、私たちはアイデアを、その意識の中への現われは別にして、世界の根底に横たわる活動的な無意識として見なければならないということになります。ハルトマンの本質的な貢献は、アイデアはあらゆる無意識的なものの中に求められなければならないという点にあります。とはいえ、意識的なものを無意識的なものから区別するだけでは不十分です。この区別は「私の意識」にとってだけ意味があります。私たちはアイデアをその客観性と十全性において追及しなければなりません。アイデアが有効「である」ということだけではなく、その有効な主体の性質とは「どのような」ものであるかをも知っていなければなりません。もし、ハルトマンが、アイデアは無意識的なものであると断言することで満足していたとしたら、そして、この無意識、アイデアのひとつの特徴であるその意味で世界を説明するとしたら、そのとき、彼は抽象的な形式に基づいて世界を説明する多くの理論にひとつの統一的な理論をつけ加えたに過ぎなかったでしょう。実際、彼の最初の主要な著作はこのことを完全には免れていません。しかし、ハルトマンの考えは非常に集中的かつ深遠なものであったので、アイデアを無意識的なものとして定義するだけでは不十分であるということを理解しないままにはしてはおきませんでした。私たちはむしろ私たちが無意識的なものとして認識するものの中にさらに深く入っていかなければなりません。つまり、私たちはその特徴を超えて、その具体的な内容を決定し、そして、そこからその個別の顕現を導き出さなければならないのです。ハルトマンはこのような仕方で「無意識の哲学」の頃にはまだそうであったような抽象的な一元論者から具体的な一元論者へと進化しました。ゲーテが元型的な現象、型、そして、「厳密な意味でのアイデア」という三つの形態で取り組むのは「具体的な」アイデアなのです。私たちがゲーテの世界観でハルトマンの哲学の中にも見出すような側面とは、私たちがアイデアの世界の客観的な特性を意識するようになると、その気づきに応じて、それに没頭するようになるということです。客観的なアイデアを追求するようにハルトマンを動機づけたのは彼の無意識の哲学でした。アイデアの本質はその意識性に基づいているのではないということに気づくや否や、彼は、アイデアとは一つの客観的な現実としてそれ自身で存在するような何かであるということもまた認めざるを得なかったでしょう。彼がゲーテと異なっているのはアイデアに加えて意志を世界の形成原理として眺める点です。けれども、この意志のモチーフはハルトマンの哲学における真に実り多い側面とは関係がありません。彼の意志に関する仮定は、アイデアはそれ自身の上に安らいでおり、活動的になるためには意志によって促されなければならないという彼の考えから生じています。ハルトマンによれば、意志だけでは決して創造的にはなり得ないのですが、それはそれが存在へと突き進む空虚で盲目的な原動力だからです。意志が「何か」を存在へともたらすことができるためには、それに先立って、アイデアが役割を果たさなければなりません。何故なら、それだけがその「内容」を提供することができるからです。とはいえ、意志はどのようにして扱うべきものなのでしょうか?私たちがそれを把握しようとする瞬間、それは私たちから逃げ出してしまいます。何故なら、空虚で意味のない衝動を捕まえることは不可能だからです。ですから、私たちが世界の原則として把握することができる唯一のものとはアイデアであるということになります。「把握できるのは内容と意味に満たされたものだけ」であって、意味を持たないものではありません。「意志」の概念が把握されるためには、アイデア的に意味があるものとして現われなければなりません。つまり、それはアイデアとともに、アイデアを通して、現われることができるだけであって、単独で現われることはないのです。存在するものは何であれ「内容」を有していなければなりません。つまり、すべての存在は満たされたものでなければならず、空虚であることはできません。このことはゲーテがアイデアを「活動的」で効果的なもの、さらなる推進力を必要としないものと考えた理由です。意味に満ちた何らかのものが意味を持たないものからその顕現に向けた推進力を受け取ることはあり得ません。ですから、アイデアとは、ゲーテの意味では、「エンテレキー」、つまり、活動的な存在として理解すべきものです。そして、私たちはまずそれをその活動的な形態から抽出するとともに、意志として再導入しなければなりません。純粋な意志という考えは経験主義的な科学にとっても意味がありません。ハルトマンは具体的な現象を取り扱うときにはそれを用いません。記:entelechy(エンテレキー)は哲学用語であり、「潜在的なものを現実にする」という意味があります。参考画:Aristotle's concept of entelechy ハルトマンとゲーテとの近縁性はその倫理においてより一層明確です。エドゥアルト・ハルトマンは、あらゆる幸福への努力―あらゆるエゴイズムの追求―は倫理的に無価値である、何故なら、それらは満足へと導き得ないから、と考えます。エゴイズムから行為することは、ハルトマンによれば、幻想から行為するということです。私たちは世界によって私たちに割り当てられた仕事を把握し、無私の態度でそのためにだけ働くようにしなければなりません。私たち自身のために何かを得ようとするのではなく、私たち自身をそのために捧げる、というのが私たちの目的であるべきなのです。これはまたゲーテの倫理における根本的な特徴でもあります。ハルトマンは彼の道徳的な理論、つまり、「愛」を表現する言葉を抑制すべきではありませんでした。(R.シュタイナーによる注:私たちはハルトマンがその倫理の中で愛の概念を考えなかったと言っているのではありません。彼はそれを現象学的、形而上学的な観点から取り扱いました。しかし、彼は倫理における究極的な目的として愛を考えているのではありません。自己犠牲的で愛に満ちた世界プロセスへの献身は、それ自体が目的であるものとしてではなく、単に存在の問題から解放されるための手段、私たちから失われた恵みに満ちた平和の状態を再び獲得するための手段としてハルトマンの前に現れます。)。私たちが個人的な要求をせず、私たちの行為が客観的な使命によってのみ動機づけられ、私たちが行為そのものの中にそれを行うことの動機を見出すとき、私たちの行為は道徳的なものとなります。けれども、そのとき、「私たちは愛から行動しているのです。」自己中心的なもの、単に個人的なあらゆるものは消え去ります。ハルトマンはアイデアをその無意識的な形態において一面的な仕方で把握しましたが、それでも彼は具体的な理想主義への道を見出しました。彼はまた悲観主義の倫理から出発しましたが、それでもこの歪められた観点は彼を愛の道徳へと導きました。これが彼の健全で力強い心にとって特徴的なことです。けれども、ハルトマンの悲観主義は、私たちの行為の無益さについて不満を言いたがる人たち、単に彼ら自身が受け身であることの言い訳のためにそうする人たちによって喧伝されているようなものとは異なっています。ハルトマンは不満の中に沈潜することなく、純粋な道徳性に対するそのような見せかけを超越します。彼は幸福を追求することの実りのなさを明らかにすることによってその無益さを示します。そして、私たちの行為自体の重要性を指し示します。そもそも彼が悲観論者であること自体が彼の間違いであり、それは彼の思考における以前の段階の名残でもあるということかも知れません。しかし、彼は、現実の世界において不満足が支配していることの経験論的な証明の上に悲観論を基礎づけることは不可能であるということを彼が立っている場所から理解すべきです。私たちの中の最も高次のものがそれ自身の幸福を創造すること以外のことを望むはずはなく、それを外からの贈り物として受け取りたいとも思っていません。私たちの中の最も高次のものはそれ自身の活動の中で幸福を追求します。ハルトマンの悲観論は彼自身によるより高次の考察という光の中で解消されます。「世界が私たちを不満足なままにしておくからこそ、私たちは私たち自身で、私たち自身の活動を通して、最も美しい幸福を創造するのです。」ハルトマンの哲学は異なる出発点から同じ場所に至ることができるということのさらなる証明を提供します。彼の仮定はゲーテのそれとは異なっていたのですが、私たちはそれらを洗練させていく中で、あらゆるところでゲーテの一連の思考の流れに出会います。私たちがここでこのような描写を行ったのはゲーテの世界観の深く内的な完全性を示すためです。それは世界存在の中に非常に深く根づいているので、精力的な思考が認識の源泉へと貫き至るところではどこでもその主要な特徴に再び出会う、ということは確かです。ゲーテにおいてはすべてがあまりにも独創的で、単に彼の時代に流行した観点ということでは全くなかったために、彼の反対者たちですら彼のように考えざるを得なかったのです。世界の永遠の謎は個人を通して顕現しますが、近代においては、それはゲーテを通して最も意義深く語りました。実際、「ある人の観点の意義を今日推量することができるのは、ゲーテの世界観に対するそれらの関係によってである」と言うことができます。 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2024年06月07日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳5.倫理的、歴史的な科学 私たちは、認識とは何かという問いに答えることで、世界に対する私たちの関係についての何らかの明晰性に至りました。この問題を取り扱う中で私たちが発達させてきた観点は人間の行為の価値と重要性にも確かに光を当てます。私たちが私たちの人間としての役割をどのように考えるかによって、私たちが世界の中で成し遂げることがらにどのような意味があるかが決定づけられることになるでしょう。私たちの最初の仕事は、人間の活動の本質を調べるということになります。人間の行為がもたらす影響は宇宙的なプロセスにおけるその他の出来事による影響とどのように比べられるでしょうか。二つのこと、つまり自然の産物と人間の創造、例えば、結晶と車輪について考えてみましょう。どちらの対象物も概念として表現され得る法則の結果として私たちの前に現れます。唯一の違いは、結晶はそれを規定する自然法則の「直接の」産物であると考えるべきであるのに対して、車輪の場合には概念(法則)と対象物の間に人間が介入している点です。自然の対象物が有する現実性の根底にあると考えられるものが、人間の活動を通して、現実の中に導入されるのです。私たちは知るという行為を通して感覚的な経験を決定づけている原則を経験します。すなわち、私たちの思考が現実の内部に既に存在している「アイデア」の世界を明らかにするのです。私たちは、絶えず産物を生じさせていますが、もし、私たちの思考がなければそれら自身の内に永久に隠されたままに留まるであろう主体を呼び出すことによって、世界のプロセスを完成させるのです。とはいえ、私たちがまだ実現していないアイデアの世界を現実へと導入することによってこのプロセスを補足するのは、私たちの活動を通してです。私たちはアイデアがすべての存在の基礎、それを決定づける条件であり、自然の意図であることに気づきました。私たちが世界プロセスの傾向、創造の意図を私たちの自然環境の中に含まれる兆候の中で把握できるようになる地点にまで私たちを導くのは私たちの認識です。私たちはそれを行った後、私たちの行為の中で、その意図の実現に向けて個人として働くように促されます。ですから、私たちの行為はその種の生産性の直接的な成就として現われるのです。つまり、それらは世界の根底から直接流れ出すものなのです。そして、それにもかかわらず、私たちの行為とあの自然の活動とはいかに異なっていることでしょうか。自然の産物はそれらを支配しているように見える理想的な法則性を決してそれら自身の内に担ってはいません。それらはより高次の何か、人間の思考との出会いを求めています。そして、支配する原則が「この思考」の前に現れるのです。人間の活動においては、アイデアが活動的な対象物の内に、つまりは、人間の中に直接宿っており、その点で異なっています。そして、より高次の存在がそれに出会うとすれば、この存在は私たちの活動の中に私たち自身がそこに置いたものだけを見出すことができるでしょう。すなわち、完全なる人間の行為とは私たち自身が意図したものの結果であり、他のものではありません。ある自然の産物が他の産物に影響を及ぼすのを見るとき、私たちはひとつの効果を見ます。その効果は概念として表現し得る法則によって決定づけられます。けれども、それを何らかの法則に結びつけるだけでは、その効果を理解するには不十分です。私たちは第二の知覚可能な事物、それもまた私たちは完全に概念へと帰着させることができなければならないものを必要とします。地面に穴があいているのを観察するならば、私たちはそれを作った物体を探します。こうして私たちは、ある現象の原因が別の外的な知覚として現われるときに活動している主体に関する概念、つまり、「力」という概念へと導かれます。私たちが力に出会うのは、あるアイデアがまずひとつの知覚対象の中に現れ、そして、その形態において、別の対象に影響を及ぼすときだけです。これとは対照的に、そのような媒体が抜け落ち、直接アイデアが感覚の世界に近づく例があります。そのような状況では、アイデアそのものが原因をなす主体として現われます。私たちが「意志」について語るのはここにおいてです。「意志とは、力として捉えられるアイデアそのものなのです。」意志を独立した主体として語ることは全く容認できません。人間が行為を遂行するときに意志がアイデアにつけ加えられる、と言うことはできません。そのように語る人がいるとすれば誰であれ、関係する概念についての明確な理解に至っていません。人間の個性とは、もし、それを満たすアイデアの世界を度外視するならば、結局のところ、何なのでしょうか。もちろん、それは活動的な存在です。それを別様に、死んだ惰性的な自然の産物のように考えるならば、生命のない石のレベルにそれを置くことになります。とはいえ、この活動的な存在性は抽象的なものであり、具体的な現実ではありません。それは掴むことができず、実体のないものです。もし、私たちがそれを掴み、それに内容を与えようとしても、私たちは活動に携わるアイデアの世界へと立ち戻るだけです。エドゥアルト・フォン・ハルトマンはこの抽象性をアイデアに次ぐ第二の世界を構成する要素とします。けれども、それは顕現した形態におけるアイデア以外のものではありません。アイデアを欠く意志は「無」です。このことはアイデアについては言えません。何故なら、活動はその要素の一つであり、一方、アイデアはそれ自身で自立した存在だからです。アイデア(IDEA):イデアはidea; Idee;と表現され、語源的にはギリシア語の「見る、知る」という意味の動詞変化形ideinによる。ギリシア語の日常的用法では「見えているもの、姿、形」の意でした。ピタゴラス学派では,感性的な図形と区別された図形の本質そのものを意味した。プラトンの対話篇では、ソクラテスの定義運動で確認された「物それ自体としての存在」、すなわち、もろもろの感覚的存在を超越し、ただ思惟によってのみ把握されうる自己同一的な存在としての真実在をイデアと呼んだ。これはエイドスとともにプラトン哲学の中心概念の一つであり重要です。しかるに、このいわば客観的実在として考えられていたイデアが、中世以後次第には精神内容,意識内容として解されるようになります。現代語のイデー,アイディアは理想,理念,観念などと訳され,プラトン的イデアとはほとんど無縁となっています。ルドルフ・シュタイナーは、「アイデア」に非常に深い意味合いを持たせています。彼の哲学である人智学では、物質的な世界だけでなく、精神的な世界も重要であるとされています。シュタイナーは、目に見える物質的なものだけを追求する現代社会の限界を指摘し、人間の精神や魂の探求を通じて、より高次の真理や普遍的なアイデアへと到達することを目指していました1。彼の考えでは、「アイデア」は単なる思考の産物ではなく、人間の内面に存在する霊的な真実や普遍的な法則を反映しています。シュタイナーは、自由、平等、博愛という価値を社会の三つの領域(政治=法領域、経済領域、精神=文化領域)に適用し、それぞれの領域が独立して機能することで、真の社会的調和を実現すると考えていました。また、シュタイナーは教育や芸術、医学、農業など多岐にわたる分野で、アイデアの具体化を図りました。特にヴァルドルフ教育では、子どもたちの個性を尊重し、彼らが自由な自己決定ができる人間として成長することを目指しています。シュタイナーの「アイデア」は、目に見えないが、人間の成長や社会の進歩に不可欠な精神的な要素を含んでおり、それを理解し実践することで、より豊かな人生を送ることができるという意味合いを持っています。彼の思想は、現代においても多くの人々に影響を与え続けます。ルドルフ・シュタイナーの「アイデア」は「ものの観念」の意味合いが強く「形相・形質・本質・形姿」が大きく関わってきます。 さて、今まで述べてきたことから必然的に生じてくるような人間の活動における別の特徴について考えてみましょう。私たちが自然の出来事を説明するとき、私たちはそれをその条件にまで辿っていきます。つまり、与えられた産物の「制作者」を見つけようとします。私が一つの効果を観察するとき、その原因を探すだけでは不十分です。これら二つの知覚だけでは説明を求める私の必要を満足させません。むしろ、私は「この」特別な効果を有する「この」特別な原因が従っている法則に立ち返らなければならなりません。ここでは決定する法則性そのものが活動を担っており、産物を形成する原因となる主体が登場します。この顕現する実体の場合、私たちはその根底に横たわる決定要因をさらにそれを超えて探す必要はありません。私たちが芸術作品として体現されたアイデアを認識するとき、私たちはその作品を理解するのであって、アイデア(*原因)と効果(作品)の間の法則的な関連を超えるものを探す必要はありません。私たちが政治的な指導者の行動を理解するのは、私たちがそれらの背後にある意図(*アイデア)を知るときであって、それ以上のことを調べる必要はありません。「こうして、私たちは自然のプロセスと人間の行為とを区別します。自然のプロセスにおいては、法則は表現された存在へと至るものの背後にあって、その根底に横たわる決定要因である一方、人間の行為においては、存在そのものが法則となり、ひたすらそれ自体によって決定づけられます。」したがって、あらゆる自然のプロセスにおいて、私たちは決定づけるものと決定づけられるものとを区別することができます。決定づけられるものは必然的に決定づける要因の後に続きます。ところが、人間の行為はそれら自体によってのみ決定づけられます。それが行動の「自由」です。自然の意図(そして、それらは表現されたものの背後にあってそれらを決定づけています)が人間の中に入るとき、それらは隠された原因によって決定づけられるのではなく、表現されたものとして自らを開示するのです。すべての自然のプロセスがアイデアの表現であるとすれば、人間の活動は行為の中のアイデアそのものなのです私たちは、私たちの認識論の中で、私たちの意識は単に世界の根幹に関するイメージを形成するための手段ではなく、この基本的な法則性自体が私たちの思考の中でその最も主要な形態において自らを開示しているのだ、と結論づけました。ですから、人間の行為の中にもこの主要な法則性が無条件に活動しているのが分かります。私たちは私たちの行為に目的と方向性を付与するために世界の導き手を必要としません。世界の導き手はその力を放棄し、人間の手にすべてを委ねました。つまり、彼は独立した存在性を放棄し、その仕事を続けることを私たちの使命として割り当てたのです。私たちはこの世界にあって、自然を観察し、何かより深いもの、隠された法則と意図―がそこに示唆されているのを認めます。私たちの思考が私たちに気づかせるようにしたそれらの意図は私たちの精神的な所有物となります。私たちは今や世界の根底へと貫き至り、それらの意図の実現に向けた活動に取りかかります。ですから、ここで提示された哲学は真の「自由の哲学」なのです。人間活動の領域において、それは自然の必然性も外的な創造主あるいは世界の指導者の影響も認めません。何故なら、いずれの場合にも人間は自由ではあり得ないからです。もし、自然の必然性が、他の存在の場合にはそうであるように、私たちの中で機能していたならば、私たちは強制の下で活動していたことでしょう。そのような活動を理解するために、私たちはそれらを規定する外的な要素を探さなければならず、自由は問題外だったでしょう。もちろん、私たちはこの範疇に入る無数の人間活動があるという事実を排除するものではありませんが、ここではそれらについては考えません。人間は自然の存在である程度に応じて、自然のプロセスを支配する自然法則の意味でも理解することができるでしょう。けれども、厳密に自然法則の観点から人間存在を考えるとしても、認識する存在あるいは真に倫理的な存在としての私たちの活動を説明することにはなりません。私たちが自然のできごとの領域を実際に乗り越えて行くのはこの点においてです。ここで立証したことが当てはまるのは私たちの最も高次の可能性についてであり、それは現実的というよりはむしろ理想的なものです。人が生きる途上には、自然存在であることから今お話ししたような存在に向けての私たちの進化が含まれています。すべての自然法則から自分たちを解放し、私たち自身の法則を自分たちに付与することが私たちの使命なのです。私たちはまた他の世界から人間の運命を導くものをも拒絶しなければなりません。私たちがそのような指導による存在性を担うやいなや、私たちはもはや真の自由について語ることはできなくなります。そのような力は人間の活動を決定づけながら方向づけるので、人間は方向づけられたようにせざるを得なくなります。こうして、私たちは私たちが自分で設定した理想としての私たちの行為の動機づけではなく、あの力による戒律としての動機づけを経験することになります。そこでの私たちの行為は自由というよりも、決定づけられたものとなります。私たちは外的な強制から自由ではなく、それに依存している、より高次の力による意図のための単なる媒体としか感じられないでしょう。私たちが見てきたような教条主義は、私たちの主観的な意識の外にあって、それにとっては接近不可能な主体を求めることによって、何かが真実であることの理由を見出すよう努めることを含んでいます。一方、私たちの観点がひとつの判断の真実性を確認するのは、私たちの意識の中に含まれ、その判断へと流れ込む概念の中にその理由が存在しているからです。私たちのアイデアの守備範囲を超えたところに世界の基盤を考える人たちは、私たちが何かを真実であると認める理由はその真実性のための客観的な理由とは異なるものであると信じていなければなりません。こうして真実はドグマとして思い描かれることになります。倫理の領域における戒律は科学の領域におけるドグマと同じものです。自分の行いを戒律の上に基礎づける人たちは彼らが定式化したのではない法則にしたがって活動します。つまり、彼らは彼らの行いのために外的に処方された規範を求め、「義務」から行動するのです。義務について語ることに意味があるのはこの文脈においてのみです。私たちが外的なものとして動機を経験するとき、私たちは「必然性」に屈服し、義務から行動しながらそれに従うのです。人間の本性が道徳的な成熟に達したところでは、私たちの認識論はこの種の行為の正当性を認めることができません。私たちはアイデアの世界の無限の完成度を認めます。つまり、私たちは、私たちの行いのための衝動は私たちの中にあるこの世界から輝き出してくるということ、したがって、唯一の倫理的な行いとは私たちの内部にあるそれらに対応するアイデアから直接輝き出してくるものであるということを知っています。この観点によると、私たちが行為を遂行するのはそれを実現するための内的な必要性を感じるからに他なりません。私たちは外的な力ではなく、私たち自身の意欲が私たちを動機づけるからこそ行動するのです。私たちがその概念を形成するやいなや、私たちの行為の対象が私たちを内的に満たし、それによって、私たちはそれを遂行するように活発に努めます。私たちの行為にとっての唯一の動機づけはアイデアを実現しようとする衝動、目的を達成するための意欲でなければなりません。私たちを行動へと駆り立てるものであれば何であれ、まず私たちの中でアイデアとしてその生命を展開しなければなりません。そして、私たちは義務や盲目的な本能からではなく、「私たちの行為が向けられている対象への愛」から行動します。その対象は、私たちがそれについて思い描くとき、その本性にしたがって、私たちの中に行為への意欲を呼び起こします。これが、そしてこれだけが自由な行いです。もし、対象への興味を超えた別の動機があるとしたら、私たちは行為のためだけにではなく、「何か別のこと」を達成するために活動していることになります。そのときの行為は何か私たちが本当には欲していないもの、「私たちの意志に反する」行為でしょう。私たちがエゴイスティックに行動するときには、これが当てはまります。そのとき、私たちは行為そのものに興味はなく、それが私たちにもたらすものへの必要を感じているのです。けれども、そのとき、私たちはある種の強制を感じるのですが、それは私たちが望む利益を得るためにはその行為を遂行しなければならないからです。行為そのものへの必要性は感じられず、もし、利益がもたらされないのであれば、私たちはそれを行うこともないでしょう。しかし、そのためだけに遂行される行為でなければ自由な行為ではありません。「エゴイスティックな行為は自由ではありません。」行為自体の客観的な満足以外の理由から為される私たちの行為はいずれにしても不自由です。私たちが「それ自体のために」行為を遂行するとき、私たちは「愛」から行動します。「私たちの活動への愛、つまり、客観的な世界への献身によって導かれるときにのみ、私たちは真に自由なのです。」もし、そのような無私の献身ができないのであれば、私たちは決して私たちの行為における自由を経験することはないでしょう。もし、人間の活動が私たち自身のアイデアの実現以外のものでないとしたら、もちろんそれらのアイデアは私たち自身の内に存在していなければなりません。私たちは内的に生産的でなければなりません。結局のところ、私たちの心の中で形成されるアイデアを除いて、私たちを動機で満たすものが他にあるでしょうか?そのアイデアがより明確に、より鮮明に輪郭づけられていればいるほど、それはより多くの実りをもたらすでしょう。私たちはひとつのアイデアとして十全に形成されたそれらの行為の実現に向けて力強く駆り立てられます。漠然と考えられた不明確な理想は行為への動機として適当ではありません。もし、それらが生き生きとして明確なものでなかったとしたら、どうして私たちの熱情に火をつけることができるでしょう。ですから、私たちの行為への動機はいつでも個人的な意図として生じなければなりません。人間が行うあらゆる実り多きことがらは個人的な衝動に発するものです。すべてに適用される普遍的な「道徳法則」や倫理的な規範は全く無価値です。もし、カントの言うところにしたがって、道徳性が法則として誰もが受け入れることができるものからのみ成り立っているとしたら、私たちのそれに対する答えは、もし、誰もがすべてに適うことだけを行うべきであるならば、前向きな活動は止み、偉大さは失われるであろう、というものです。そうではなく、行為は漠とした一般的な倫理規範によってではなく、最も個人的な理想によって導かれなければなりません。誰もがそれを望むことができるものなど存在しません。望みは人によって、それぞれの天命にしたがって、様々に異なります。「カントにおける倫理的な自由」(ベルリン、1882年)という随筆の中で、J.クライエンビュールは次のように述べています。「もし、自由が実際に私の自由であるならば、つまり、もし、ある道徳的な行為が私のものであるならば、そして、もし、善や正義が私を通して、この特別な個人の行為を通して実現されるのであれば、あらゆる並列する状況や要求を顧慮しない一般的な法則、あらゆる行為に先立ってそれを導く動機が普遍的な人間本性の抽象的な規範に合致するかどうか、そして、それが私の中に生きて働くとき、振る舞いの一般的な標準になり得るかどうかについて、私が検証する一般的な法則で私が満足することはあり得ない・・・。このような仕方で一般的に受容可能なものに適応することは、あらゆる個人の自由、通常的で偏狭なものを越えて行く進歩、そして、意義深く、顕著で、そして、画期的ないかなる倫理的成果をも不可能にしてしまうだろう。」このことはいかなる倫理体系にとっても答えるべき問いに光を当てます。通常、それらは倫理が人間の活動を方向づけるための規範の集合であるかのように取り組まれます。この観点からすると、倫理は自然科学の、実際、現実を扱うすべての科学の対極に置かれます。科学が存在するものの法則を示そうと努めるのに対して、倫理は存在すべきものの法則を私たちに教えると考えられているのです。倫理はあらゆる人間的な理想、「善とは何か。」という問いに対する詳細な答えを包含する行動規範であると期待されているのです。その種の科学は不可能です。この問いに対する普遍的な答えはありません。倫理的な行いとは個々人の内に生じるものの産物です。それはいつも個別の場合に生じるのであって、一般的に生じるのではありません。人が行うべきこと、あるいは行うべきでないことについての一般的な法則はありません。人は様々な国の法律をそのような仕方で見るべきではありません。つまり、それらもまた個別的な意図の表現以上のものではないのです。ある人が道徳的であると感じたものが国全体に移されて「その土地の法律」になったのです。すべての民にいつの時代にも通用するように企図された普遍的な自然法則はひとつの怪物です。法哲学や道徳の概念は国によって、あるいは人によってさえも移り変わります。結局のところ、決めるのはいつでも個人です。ですから、このような仕方で倫理について語ることはできないのです。とはいえ、倫理という科学が答えることができる他の問いがあります。それらの問いにはついでの折に触れてきましたが、具体的には、人間の活動と自然の事象の違い、意志と自由の特性、等々です。これらはすべてひとつの問い、つまり、人間はどの程度本質的に倫理的であるかという問いに集約されます。これは簡単に言えば人間の道徳的な本性への洞察に関する問いです。その問いは、人間は何を為すべきなのかではなく、むしろ、人間がその内的な本性にしたがうときには何を為すかというものです。すべての科学をあらゆる存在するものについての科学と何が存在しなければならないかについての科学という二つの領域に隔てていた壁がこうして取り払われます。「あらゆる科学と同様、倫理とは何が存在するかについての科学なのです。」この意味で、すべての科学に共通するもの、つまり、それらは所与のものから進み出て、それを決定づける条件へと発展するということがあります。とはいえ、人間の活動についての科学は存在し得ません。何故なら、そのような活動は不定で、生産的で、創造的なものだからです。法学は科学ではなく、ひとつの国家の個別性に適う法的な慣習についての「記録の集成」です。個人としての人間は、自分自身に属しているだけではなく、二つのより大きな全体に属しています。まず、国家の一員として、個々人は社会的な慣習によって結びつけられ、共通の文化、言語を有し、観点を共有しています。しかし、個人としては、私たちは歴史の市民でもあり、人類進化の偉大なプロセスに参画しています。この偉大な全体に対する二重の忠義は私たちの自由な人間活動を制限しているように見えます。私たちの活動は個人の産物であるだけではなく、私たちが私たちの国家と共有しているものによっても条件づけられているように見えます。私たちの個人性は国家的な性格によって根こそぎにされているように見えるのです。では、もし私の行為が私の個人的な性質の表現としてだけではなく、大部分が私の国籍の表現としても説明することができるとしたら、私は自由なのでしょうか。私がある一定の仕方で振舞うのは、たまたま自然が私をこの特定の国家共同体の一員にしたからなのでしょうか。人類史の中での私の位置についても同じことが言えます。私は私の時代の子供として、私が生まれてきた文化的な時代の影響を受けることになります。けれども、もし、私たちが知識と行為の両方を有する存在であるとしての私たち自身を眺めるならば、その矛盾は自ずと解消します。認識能力は、私たちが私たちの国民としてのアイデンティティーの特徴を理解し、私たちの仲間の市民がどこへ向かおうとしているのかが分かるようにしてくれます。私たちを決定づけているように見える要素こそが、正に私たちが超越し、十全たる意識をもって私たち自身の中に取り込むべき要素なのです。そうすれば、それらは私たちの中で個別的なものとなり、自由な行為における個人的な特徴を獲得します。私が私の位置をその中に占めるところの歴史的な進化についてもそれは言えます。私が私の時代の支配的な考えや道徳的な力への洞察を獲得するとき、それらはもはや私を決定づけるのではなく、個人的な動機となります。私たちは私たちの時代や文化に活発に貫き至ることによって、私たちがそれらに導かれるのではなく、私たち自身が導くようになる必要があります。私たちは私たちの国家の特徴によって盲目的に導かれるのではなく、それを理解することによって、私たちの国家精神において「意識的に」働くことができるようにならなければなりません。私たちは文化的な発展に押し流されるのではなく、むしろ、私たちの時代の考えを自分のものとすべきなのです。そのためには、まず私たちがその中に生きる文化を理解しなければなりません。そして、私たちは自由の中で私たちの時代の使命を果たし、適切な文脈の中で私たちの努力を傾注することになるでしょう。私たちが人文科学(歴史、文化的かつ文学的な歴史等々)を必要としているのはここにおいてです。人文科学において、私たちは人類が達成したもの―文化、文学、芸術、等々が成し遂げたもの―を見ます。そこでは、精神が精神的なことがらを把握します。人文科学の目的は、偶然が私たちを個人としてどこに据えたのかを私たちに認識させるということであるべきです。私たちは何が達成され、何を成し遂げる必要があるのかを認識しなければなりません。人文科学は私たちが世界の働きに参加するための正しい場所を見つけるのを助けてくれます。私たちは文化的な世界を認識し、それにしたがって私たちの貢献を決定しなければなりません。グスタフ・フレイタグは彼の著書「ドイツの過去のイメージ」(ライプチヒ、1859年)第1巻の中で次のように言っています。「国家的な力によるあらゆる偉大な創造物―伝統的な宗教、慣習、法律、そして政府―は、もはや個人的な人間が達成したものと見なすことはできない。それらはより高次の生命の有機的な創造物であり、どの瞬間を取ってみても個人を通してのみ目に見えるようになるもの、どの瞬間を取ってみても個々の精神をひとつの偉大な全体へと統合しているものである・・・。したがって、それについては神秘的になることなく民族魂について語ることができる・・・。しかし、個人の意志とは異なり、国家の生命は意識的には働かない。歴史の中で自由で理性的であるものは個人によって代表される。国家的な力は原初の力の暗い強制とともに飽くことなく働いているのだ。」。もし、フライタグが国家の生命を検証していたとしたら、彼はそれがその個人たちの行為の総体へと自らを解消するのを見たことでしょう。彼らは無意識的であるものを彼らの意識へと上昇させることによってこの暗い強制を克服します。彼は正に彼が民族魂と呼び、暗い強制として記述するものがいかに意志という個人的な衝動、人間の自由な行為から生じるかを見たはずです。とはいえ、私たちは個人的な人間の国家の中での働きにおけるさらに別の側面について考えてみなければなりません。個々人は精神的な可能性、力の総体を表しており、それらはその活動を展開する可能性を求めています。ですから、個人としての私たちは私たちの働きが国家有機体の中に有意義に組み込まれ得る場所をそれぞれ見出さなければなりません。私たちが私たちの場所を見出すかどうかを偶然にまかせるわけにはいきません。国家の憲法の目的は各人が適当な活動場所を見つけるのを保証するということです。国家とは国家有機体がその中に生きる形態のことです。人類学と政治学の使命は、どうすれば人々が国の中で個人としての能力を発揮することができるかを見出す、ということです。憲法はその国の最奥の存在から生じなければなりません。最良の憲法とはその国の特徴を明確な形式において表現するものであるはずです。政治的な指導者たちは憲法を国民に強制することはできません。彼らは彼らの国の性格を最も深いところにまで検証し、適切な憲法を通して潜在的な傾向に通じるチャンネルをつけなければなりません。ある国の大部分がそれ自身の性格とは対立する方向へと引っ張られる、ということが起こり得ます。ゲーテによると、そのとき国家の指導者たちはその国によって自らが導かれるように強いられるのであって、大多数の一時的な要求によって導かれるのではありません。そのとき彼らは、国家に対して、国家の最奥の特質を代表すべきなのです(散文の中の韻)。ここで歴史的な探求の方法について一言つけ加えておくべきでしょう。歴史学は、歴史的なできごとの原因は個々人の個人的な意図、計画、等々の中に見出される、ということをいつでも心に留めておかなければなりません。歴史的なできごとをその根底に横たわる計画にしたがって説明するのはいつでも間違いです。一定の個人たちの目標、彼らが取った道筋、等々について、いつも問わなければなりません。歴史学はいつでも人間的な性質、人間的な意志、人間的な傾向に基づいていなければならないのです。私たちは今、ゲーテ自身の言葉によって、倫理的な科学について述べられてきたことを実のあるものにすることができます。理性の世界は偉大かつ不死の個として考えられるべきものであり、止むことなく必要なことがらを行い、そうすることによって、偶然のできごとさえ使いこなす。(散文の中の韻)私たちがこれを理解できるのは、私たちが記述してきたような個々人と歴史的な進展との間の関係という意味においてのみです。彼が次のように言うとき、ゲーテは歴史における個々人の積極的な活動に言及しているのです。いかなる種類のものであれ、絶対的な行為は破産へと導く・・・。私たちは誰も、その能力と技術の限界内で活動する限り、完璧ではありえない・・・。(その国民や時代の指導的な考えへと自らを高める必要性に関しては)我々一人一人が我々の時代に働きかけるために、我々が有するどの器官が使用可能であり、かつ使用すべきかを我々自身に問いかけようではないか・・・。我々は我々自身がどこに立っており、他の人間たちがどこへ行きたがっているのかを知る必要がある・・・。(私たちの義務に関する観点が確認されるのは)「義務」とは、人が自らに行うように命令したものを愛するときのことである。(散文の中の韻)私たちは認識し活動する存在としての個人の独立性を一貫して確立してきました。私たちはいかに私たちのアイデアが世界の根底と一致するかを示し、私たちが行うあらゆることがらは私たち自身の個別性からのみ輝き出すことができるということを認めてきました。私たちは存在の核心を個人的な人間の内部に求めます。誰も別の人間に教条的な真実を明かすことはできず、誰も別の人間に行動を強制することはできません。私たちは個人として、私たち自身に立脚しています。個人としての私たちが何者であるにせよ、他の人たちの力によってではなく、自分自身の力によってそれにならなくてはなりません。私たちは、私たち自身の幸せの源泉を含め、あらゆるものを私たち自身から産み出さなければなりません。私たちは、私たちを導く力、方向性や私たちの存在の内実を決定づけ、私たちに依存を強いる力は問題になり得ないということを見てきました。もし、私が幸せを見出すべきであるならば、それを生じさせることができるのは私だけです。何らかの永遠の力が私の行動規範を前もって処方することはあり得ません。また、そのような力は私の中に満足の感情を目覚めさせる能力を事物に付与することもありません。私はそれを自分で行わなければなりません。私にとって満足や不満足が存在するのは、まず私がそれらの感情を私自身の中に目覚めさせる力を対象物に帰属させていたときだけです。私たちに満足を与えたり、何も与えなかったりするものを外から決定するような創造主がいたとすれば、私たちを鎖に繋いで引き回すことになっていたでしょう。あらゆる楽観主義や悲観主義はこうして反駁されます。楽観主義者は、世界は完全で人に最大限の満足を与える源泉である、と考えます。もし、私がそれを真実と仮定するならば、私はまず達成され、そしてそれによって満足させられるべき必要を「私の中に」発達させていなければならないでしょう。私が世界の対象物から要求するものを、私が引き起こさなければならないでしょう。一方、悲観論者たちは、世界とはいつも私たちを不満足のままにしておくものであり、幸福は不可能であると信じています。もし、自然が私たちに外から幸福を許諾するものであったとしたら、人間とは何と哀れな生き物であったことでしょう。地上の力は、私たちがまず私たちを引き上げ、そして私たちを幸福にする魔法の力をそれに貸与していなかったとしたら、私たちに満足を与えることはないという事実を考えてみるとき、私たちを満足させ損なう存在や厳しい世の中についてのあらゆる不平は終息するに違いありません。幸福とは、私たちが事物から私たち自身で創り出すもの、私たち自身の創造行為から生じるべきものなのです。これだけが自由な存在に値するものです。 (第10章-5了)参照画:グスタフ・フレイタグ(Gustav Freytag/1816年 - 1895年)人気ブログランキングへ
2024年06月06日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳4.認識の限界と仮説の形成について 今日では、認識の限界についてよく語られます。存在する現実を説明するための私たちの能力はある程度のところまでしか到達できず、私たちはそこで立ち止まらなければならないと言われます。私たちは、この問題は正しく問いかけられない限り正しく答えられないと考えます。正しい問いかけをすることで、間違いの大軍から逃れることができるというのはよくあることです。私たちが、説明すべき対象は所与のものであるという事実について考えてみるならば、所与のもの自体が私たちを制限することはあり得ないということが明確になるでしょう。それは説明や理解を要求する以前に、与えられた現実という世界の内部で、私たちに対して自らを開示しなければなりません。所与のものの領域の外に留まるものであれば、それが何であれ、説明を要求することはありません。何らかの限界が生じるのは、与えられた現実に直面するとき、私たちがそれを検証するための手段を欠いているときだけです。説明する必要が生じるのは、私たちの思考が私たちに提示するものの水平線上に、私たちがそれによって与えられたものを規定したいと願う方法、私たちがそれに与えたいと願う説明が現われるからに他なりません。私たちにとって、説明、つまり説明されるべきものの本質が未知であるということが説明を要求するのではないのです。そのようなことは全くなく、私たちの心にそれが現われるということがそれを要求するのです。説明を要求する事物と私たちの説明手段の両方が入手可能なのです。私たちに必要なのは両方の結びつきを確立するということです。説明とは未知のものを求めることではなく、二つの既知のものの関連を明確にすることです。私たちが既に知っているのではない何かの意味で与えられたものを説明するということは決して起こり得ません。これは、基本的には、説明には限界がない、ということを意味しています。とはいえ、知識には限界があるという理論を正当化するように見えるものが確かにあります。何らかの外的な現実が存在するということに気づきながらも、私たちの観察の範囲からは取り除かれている、ということがあるかも知れません。私たちはその痕跡、その影響を感じ取り、その存在を推定します。その意味では、私たちは認識の限界について語ることができます。けれども、この場合、達成できないのは、それは説明の原則を提供することになる、というような種類のものではありません。むしろ、それは何か知覚可能なものではあるけれども、まだ知覚されていないようなものです。私の知覚にとってのそのような障害は認識に対する根本的な限界を構成するものではなく、偶発的、外的なものであり、克服可能なものです。今日は疑うだけの何かが、明日は完全な経験になっているかも知れません。けれども、ひとつの原則にとっては、通常は空間的あるいは時間的なものである外的な障害は何もありません。それは私に内的に与えられます。私がそれを自分で観察しない限り、私の他の事物についての認識を通しては、その存在を推定することはできません。ここで仮説理論が問題になってきます。仮説とは、その仮定が真実であるかどうかを直接にではなく、ただその結果を通してのみ知る、ということです。私たちは、直接的には経験できないような基本的要因を前提にするときにのみ、説明される一連の顕現を見ることになります。そのような仮説は原則の推定にまで拡張できるでしょうか。それは明らかに不可能です。何故なら、内的な原則を経験することなく推定するというのは矛盾だからです。仮説によって仮定できるのは、私がまだ知覚していないものであって、もし、外的な障害が取り除かれたならば知覚することになるものだけです。「仮説は確かに知覚されない何かを仮定することができますが、可能性としては知覚できるものでなければなりません。」ですから、私たちはあらゆる仮説を、将来の経験を通して、検証できなければなりません。仮説が正当化されるのは、それが仮説的であることを越えていく可能性があるときだけです。「中心的な科学的原則」に関する仮説に価値はありません。ある事物が既に知られた具体的原則を通して説明され得ないとき、それは説明不可能であり、説明を求めることもありません。参考画:ゲーテとシラーの棺人気ブログランキングへ
2024年06月05日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳3.科学の体系 十分に発達した科学はゲーテの思考方法という光の下でどのような形態を取るでしょうか。私たちは、まず科学の全体的な「内容」は与えられる一部は感覚的な世界から外的に与えられ、一部は内側から、アイデアの世界から与えられるという事実について明確にしておかなければなりません。私たちのあらゆる科学的な活動は、この与えられるものの全体的な内容がその中で自らを提示するところの個別の形態を克服し、満足すべき形態をそれに付与するということを含んでいます。このことが必要なのは、与えられるものの内的な統一性は、私たちが最初にそれに出会うとき、私たちには隠されており、ただその表面だけが私たちに現れるということによります。これらの統合する関係を確立する方法は、私たちが活動する現象領域によって異なっています。様々な仕方で関連する多様な感覚的要素を扱う領域についてまず考えてみましょう。私たちが私たちの思考を用いてこれらの要素を深く考え始めるにしたがって、それらの相互関係が明らかになってきます。あれこれの要素がある特別な仕方で別の要素によってある程度条件づけられているのが分かるでしょう。あるものを決定づける条件は別のものを考えるときに明らかになります。つまり、私たちはある現象を別の現象から導き出します。例えば、暖められた石という現象は暖める太陽光線の影響として導かれ得るでしょう。したがって、後者は原因であることが分かります。ある事物の中に知覚されるものはそれが別の知覚可能なものから導かれるときに説明されることになります。私たちはいかに理想的な法則がこの領域の中に現れるかを見ます。それらは感覚的な事象を包含し、それらを超えたところに立っています。それらは、あるものが別のものによって決定づけられている限りにおいて、その合法則的な反応を決定づけているのです。ここでの私たちの使命は、一連の現象の必然的な繋がりが明らかになり、それによってそれらが完全に合法則的な総体として機能するのを見る、というような仕方でそれらをまとめることです。このようにして説明することが可能な領域は「無機的な自然」です。けれども、私たちの経験によれば、時間または空間の中で最も近い位置にあるものは、いつでもその内的な性質の意味で最も近いものであるというような仕方で私たちの前に現れるわけではありません。私たちは時空間の中で最も近い位置にあるものから概念的に最も近いものへと進んでいかなければなりません。概念的な領域の中で直近の位置にある現象を探さなければなりません。お互いに補完し、支え合う一連の事実を集めるように努めなければならないのです。そのようにして、私たちは相互作用する感覚知覚可能な要素のグループへと至ります。関連する要因に続く現象が私たちの眼前で一種の透明な仕方で展開します。ゲーテにしたがって、私たちはそのような現象を元型的な現象、あるいは根源的な事実と呼びましょう。「この元型的な現象は客観的な自然法則と同じものです。」。一方、私たちが記述している諸々の関連は、例えば、私たちが水平に投げられた石に影響する諸要因:第一に慣性力、第二に地球の重力、第三に空気抵抗について考えるときのように、心的に確立することができます(*観念論対実証論)。そして、これらの要因から石の軌道を導き出すことができます。逆に、個別の要因を物理的に集積し、結果として生じる現象を待つこともできます。これは私たちが実験するときに行っていることです。自然現象が私たちを当惑させるのは私たちがその影響(あるいは現れ)を知っていてもその原因(あるいは必要条件)を知らないからです。一方、実験によって生じた現象が明確なのはその原因となる要因を私たち自身が集めてきたことによります。「科学的な研究の道とはこのようなものです。私たちは、実際に何が関係しているのかを見るという経験から始め、何故そうなっているのかを実際に観察を通して決定することへと進み、そして、そこにある合法則的な関連が実際にどのようにして自らを表現するかを見るための実験というクライマックスに至るのです。」。残念ながら、これらの観点を支持するゲーテの随筆は失われているようです。それは彼の随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の後に続くはずのものでした。私たちはこの随筆からはじめて、私たちが手に入れることができる唯一の情報源、ゲーテとシラーの往復書簡から失われた随筆の推定される内容を再構築してみようと思います。随筆「主観と客観の仲介者としての実験」はゲーテが自らの光学に関する探究を正当化するために行った研究から生じたものです。その後、その随筆は詩人が新たな活力をもってその研究を再開し、シラーとともに自然科学的な手法の基本原則に関する完全で科学的な調査を開始した1798年までそのままになっていました。1798年1月10日に、ゲーテはその随筆をシラーに送ってコメントを求め、1月13日には、その中で提示された観点を新しい随筆の中で拡張したい旨を友人宛に書き送っています。彼はその仕事を続け、1月17日には、科学的な方法の特徴のひとつを概説する短い随筆をシラーに送りました。この随筆は彼の作品カタログには載っていません。それは科学的な方法論に関するゲーテの基本的な観点を十分に評価する上で確かに非常に貴重なものであったでしょう。けれども、1798年1月19日のシラーの詳細な手紙の中にその考えが示されているのを見出すことができます。この手紙が示していることがらはゲーテの「散文の中の韻」によって確認され、補足されます。(後に、シュタイナーによってつけ加えられた脚注:ゲーテ全集34巻XXXVIIIページの序論の中で、私は、経験、実験、そして科学的な知識に関するゲーテの考えを最もよくサポートするその随筆は不幸にして失われてしまっているように見えると述べています。しかし、それは失われておらず、ここで述べるような形でゲーテアーカイブへの道を辿りました。その随筆は1798年1月15日付で、17日にシラーに送られました。それは随筆「主観と客観の仲介者としての実験」の続編です。私はその随筆の中で表明されている考えを書簡から取ってくるとともに、今、手に入るのと正確に同じ仕方で序論のXXXIXページに示しました。内容という意味では、その随筆は私がそこで書いたことに何もつけ加えません。実際、彼の他の著作に関する私の研究を通して得られたゲーテの認識に関する方法や様式に対する洞察があらゆる点で確認されます。R.シュタイナー)。ゲーテは科学的な探求における三つの方法を区別します。さらに言えば、これらは現象に対する三つの異なるアプローチによるものです。第一の方法は「通常の経験主義」です。それは経験される現象あるいは直接的な事実を越えて行くことなく、個別の顕現に没頭します。もし、通常の経験主義が何らかの結果をもたらすべきものであるならば、それはその活動をそれが出会う現象の詳細な記述、つまり、在庫目録を作ることに限定しなければなりません。経験論者の観点から言えば、科学とは個別の事実を記述したものの総体に他ならないでしょう。経験主義に対して、合理主義は次の段階を代表しています。それは「科学的な現象」を確立しようとします。単なる現象の記述に自らを限定するのではなく、原因を見つけたり、仮説を立てたりしながらそれらを説明しようとするのです。この段階では、現象から出発して、それらの原因や関連性についての原因を知性によって引き出すことへと進みます。ゲーテはこれらの立場のいずれもが一方的なものであると考えました。通常の経験主義は粗野で非科学的ですが、それはそれが決して偶然の出来事の単なる記述から逃れられないためです。他方、合理主義は現象世界の原因や関連性を読み解こうとしますが、それらはその内部には含まれてはいません。通常の経験主義は事実の世界という十全たるものから自由な思考へと上昇することができず、合理主義は足下の確かな事実という基盤としての現象を見失い、甘い考えと主観的な幻想に陥っているのです。ゲーテは観察から結論へと突進する熱情を強く非難します。彼の「散文の中の韻」の中では以下のように述べられています。「観察から直ちに結論へと飛びつき、そして、それらを同等に扱うというのは良くないことであるが、しばしば見られることだ・・・。理論とは現象を排除し、イメージや概念、ときには単なる言葉をもってそれに代えようとする性急な知性による拙速の産物である、というのはよくあることだ。それがその場しのぎに過ぎないことが疑われ、また、明らかにそれと見てとれることもある。熱情や党派主義はその場しのぎが大好きなのではないか。いや、確かにそうだ、彼らはそれらをとても必要としているのだから。」。ゲーテは因果的な論理づけを乱用することに対して特に厳格です。合理主義はその野放図な想像力をもって事実がそれを保証しないところで因果律を追い求めます。彼は「散文の中の韻」で、「最も本質的で最も重要な概念「原因」と「結果」の概念は無数の、際限なく繰り返される間違いへと導くような仕方で用いられている」と述べています。人は特に単純な関連への偏愛により、厳密に直線的な仕方で次から次へと続く原因と結果の連鎖における結びつきのような現象を考えがちです。けれども、実際には、以前の事象によって条件づけられるいかなる現象も同時にその他の多くの影響を受けています。このような場合、自然の「長さ」については考慮されていますが、その「幅」についてはそうではありません。ゲーテによれば、いずれの道も、つまり、通常の経験主義の道も合理主義の道も、より高次の科学的な方法への途上にある「中間的な」段階であって、超越されるべき段階であるに過ぎません。合理的な経験主義によってそれは達成されますが、それが扱うのは客観的な自然法則と同じものであるところの「純粋な現象」です。通常の経験主義、つまり、仲介されない経験によって与えられるのは関連のない個別の事実、外的な現われの寄せ集めに過ぎません。それらは科学的な過程の結論としてではなく、その最初の経験として与えられます。科学が私たちに要求するのは、関連性を追求し、個々の事実を相互に関連したものとして眺める、ということです。この意味で、概念化する必要性と与えられた事実の間には隔たりがあるように見ます。認識する精神にとっては関係性だけが存在していますが、自然の中にあるのは分離だけです。精種(あるいは型)を求めますが、自然が創り出すのは個別だけです。結びつける精神の力は内容を欠いており、したがって、それ自身、どんな具体的なものも把握することはできませんが、一方、自然の対象物が分離しているのはそれらの本質的な問題ではなく、それらの空間における表現である、という事実について良く考えてみるとき、私たちはこの矛盾から逃れることができます。事実、私たちが個別のものの本質に至るとき、私たちの注意は種、あるいは型へと引きつけられます。自然の対象物は分離したものとして現われます。したがって、私たちが必要としているのはそれらの「内的な」結びつきを私たちに示すような精神の統合する力です。そして、理性の統一性はそれ自体では空虚であるため、それを満たすための自然の対象物を必要としているのです。こうして、「第三の段階」において、現象と精神的な能力が出会い、「ひとつ」になります。そのとき初めて精神が満足させられるのです。もうひとつ別の探求の領域がありますが、そこでは、個々の事実は別の不連続の事実の結果として現われるわけではありません。したがって、別の同様の事実の助けを借りてそれを理解することはできません。そこでは、一連の感覚知覚可能な要素が統合的な原則の直接的な表現として現われます。もし、私たちがいずれにしても個別の事実を理解したいのであれば、私たちはこの原則へと貫き至る必要があります。私たちはその現象を外的な影響の結果として説明することはできません。それは内から外に向けて展開されなければなりません。以前には決定的な役割を果たしていたものが、今や単なるひとつの影響、あるいは刺激となります。以前に議論した無機的な領域においては、もし、ある事実を他の事実の影響として見ること。つまり、外的な条件からそれを演繹すること―ができるならば、私はいかなるものであっても理解することができました。けれども、今や、私は異なる問いかけをするように強いられます。私が外的な影響を知っていたとしても、やはりその現象がどのように反応するかについては何も確かなことは分かりません。その反応は外的な影響を受ける現象の中心的な原則から演繹されなければなりません。私はこの外的な影響が何を及ぼすかについて語ることはできませんが、その現象の内的な原則はある一定の外的な影響に対してある一定の仕方で反応するということだけは言うことができます。生じることはどんなことであれ「内的な」法則性の結果なのです。私の探求が見出すべきものとは自らを内から外へと形成するものです。「型」とはこの領域におけるあらゆる現象の根底をなす自己構築的な原則であり、私は個々のものの中にそれを探さなければなりません。今、私たちは有機的な自然の領域にいます。私たちが無機的な自然との関係で元型的な現象と呼ぶものは有機的な自然における「型」なのです。型とは有機体の「一般的なイメージ」、あるいは「アイデア」としての動物における動物性のことです。第4章で議論した主なポイントを繰り返してきましたが、それは型についての私たちの考察にとってそれらが重要だからです。しかし、倫理的、歴史的な科学においては、より狭い意味でのアイデアが関係してきます。科学としての倫理や歴史はそれらが探求する現実であるところのアイデアによって導かれます。それぞれの科学の使命は、元型、型、あるいは歴史の場合、指導的なアイデアに到達するまで与えられた素材を吟味するということです。かつて、物理学者たちは我々が元型と呼んだところのものを理解するに至ったが、彼らに間違いはなく、哲学者たちも同様である。彼らは彼らの科学の最前線に到達し、経験的な高みに至ったということ、そして、そこからは経験のあらゆる段階を見降ろし、概観することができるということ、そして、たとえ理論の領域にまで入っていかないにしても、そこからはそれを望むことができるということを確信するようになった。哲学者たちもまた間違いがないが、それは彼らが物理学者たちの結論を取り上げ、それを彼ら自身の仕事の出発点に据えるからである(*色彩論)。哲学者たちの仕事が本当に始まるのはここからです。彼らは元型的な現象を取り上げ、それらを満足のいく内的な関連へともたらします。私たちは今、ゲーテの観点から、形而上学に取って替わるべきもの、すなわち、アイデアによって導かれる観察、元型的な現象の結合と導出を見ます。ゲーテはこのような仕方で経験的な科学と哲学の関係について繰り返し、そして、彼のヘーゲルへの手紙の中では特別な明晰さをもって語ります。彼は「年代記」の中で自然科学の図式について何度も語っています。もし、これが見つかっていたとしたら、彼がいかに個別の元型的な現象の間の関連について考えていたかが、そして、いかに合法的な順番でそれらを整理していたかが分かったことでしょう。私たちは様々な種類の影響についての彼のリストを見ることによって、これがどのようなものであったかを自分で理解することができます。偶発的な-機械的な-物理的な-化学的な-機械的な-心霊的な-倫理的な-宗教的な-天才から生じるような、この階層的なリストは私たちが元型的な現象を秩序づけるための助けになります。参考画:ゲーテとシラー(Friedrich von Schiller)人気ブログランキングへ
2024年06月04日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳2.教条的な方法と内在的な方法 教条的な方法と内在的な方法の科学的な判断は二つの概念、もしくは一つの知覚と一つの概念を結びつけることによってなされます。「原因なしに結果なし」というのは前者の種類の判断であり、「チューリップは植物である」というのは後者の例です。日常生活では、ある知覚を別の知覚に結びつける-例えば、「バラは赤い」というようなこともあります。私たちが判断するときにはいつでも何らかの根拠に基づいて行います。ここで判断のための根拠を眺める二つの方法があります。第一の学派の考え方は、判断が真実であるための客観的な根拠はその判断に貢献した概念や知覚によって提供される証拠を超越したところにある、というものです。この観点では「判断が真実であるかどうかの根拠はその判断へと導いた主観的な根拠とは必ずしも一致しません。」この観点によると、「論理的な」根拠を「客観的な」根拠と混同すべきではありません。この学派の考え方は私たちの洞察の客観的な基礎に至る道を示唆する一方私たちの認識する心に起因すると考えられる方法はその目的にとって十分なものではないということになります。私の主張の根底にある客観的な現実は私の見知らぬ世界の中にある、というのです。その主張そのものが、その「形式的な」根拠、内的な首尾一貫性、公理による支持、等々とともに、私の認識の内部にある唯一の側面です。この種の観点に基づく科学は、それがいかなる種類のものであれ、教条的です。顕現に基づく神学的な哲学は教条的な科学の例ですが、それは現代科学も同様です。ちょうど「顕現というドグマ」があるように、「経験というドグマ」もまたあるのです。顕現というドグマが伝えるのは、人間の視界からは完全に遠ざけられたことがらについての真実です。人間は出来合いの信仰条項が処方された世界について知ることはありません。私たちは私たちの信仰がよって立つところの基盤を決して見出すことができず、何かが「何故」真実なのかをそもそも知ることができません。達成可能なのは「信仰」であり、「認識」ではないのです。けれども、単に観察し、記述し、その変化を体系化する一方、直接的な経験においては「まだ与えられていないような」条件へと上昇することが決してないような実験的な科学の主張もまた、それが純粋な経験に自らを限定するべきであると主張する限りにおいて「ドグマ」です。この場合も、真実は対象への洞察を通して達成されるのではなく、外側から私たちの上に押しつけられます。私は何が起こっているかを、そして、そこに何があるかを見て、それを記録します。何故それがそうなっているかの理由はその対象の内部にあると考えられます。私は結果を見るのであって、決して原因を見ません。かつて、科学は「顕現」のドグマに支配されていました。今は、「経験」のドグマに支配されています。過去には、顕現された真実の原因について考えることはおこがましいことであると考えられました。今日では、事実が表現する以上のいかなるものも知ることはできないと考えられています。「何故」事実はこのような仕方で語り、別の仕方ではないのかという問いかけは経験の視界を越えたところにあり、したがって、それに答えることはできない、と考えられているのです。記:ドグマ(Dogma):ギリシア語では元来公的機関の政治的決定もしくは命令を意味し、さらに哲学上の諸学派の学説をもさした。教義・教説などと訳され,固定された堅固な信条をいう。したがってときには柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味でいわれる。基本的には一つの団体なり流派なりに固有の信念であって、ドグマを認めるか否かが正統と異端とを分つ。哲学説についていうときはほとんどあしき意味である。一般にはキリスト教の教義をさし,それは啓示の意味を人語によって明確にし、公会議などが啓示真理であると宣言したものであり、全信徒を拘束する。その権威は第一に聖書に基づくが、教義決定機関としての公会議と教会 (およびその首長) の性格をめぐっての考えの相違に応じて、カトリック、ギリシア正教、プロテスタントではドグマの評価も異なる。共通して認められているドグマは三位一体と,キリストの位格 (ペルソナ) についての教理である。なお,カント哲学ではドグマはマテマ(Mathema)に対立し、概念からの直接的総合的命題をいう。なお、教条主義(ドグマティズム)とは、哲学の分野では中世のスコラ学などの定説主義や、独断主義を指す。イマヌエル・カントは批判主義に対立するものとして独断主義をとりあげた。 何故その陳述が真実であるかを、判断の真実性についての認識を超越したところで推し量ることに意味はないということを私たちは示してきました。私たちは、ものごとの本質がアイデアとして私たちの中に生じる地点にまで突き進むとき、そのアイデアは完全に自立的、自己充足的、自己完結的であり、さらなる外的な説明を要しないものであるということを理解します。すなわち、その中に安んずることができるようになるのです。私たちは、それに必要な能力が私たちに与えられるならば、アイデアはそれ自身の中にそのすべての構成要素を含んでいる、その中には私たちが求め得るすべてがあるということを認識することができます。存在の全ての基盤はアイデアの中に現れ、その中にいかなる留保もなく自らを注ぎ込んでいるので、私たちはそこから先を探す必要がないのです。私たちがアイデアの中に見出すのは私たちが事物の中に探し求めているものの「像」ではなく、それ自体なのです。私たちのアイデアの世界の各部分が私たちの判断の中に流れている分だけ、それら自体の内容によってその結果がもたらされるのであって、何か外的な理由によってもたらされるのではありません。私たちの思考の中には、私たちの主張に対する具体的な基盤が直接存在しており、それらの形式的な基盤が存在しているのではないのです。ですから、すべてのアイデアを越えたところに、思考自体を含めて、すべての事物を支える絶対的な現実がある、という観点を私たちは拒絶します。その世界観によって、到達可能な世界の中に存在の基盤を見出すことは全くできません。その観点にとって、存在の究極的な原因は私たちに現れるような仕方では世界の中に入ってきていません。それはむしろ自ら閉じた存在、現在の世界からはかけ離れた存在なのです。「現実主義」と呼ぶことができるこの観点は二つの形態をとります。つまり、世界を基礎づける現実的な存在の多様性を前提とする(ライプニッツ、ヘルベルト)か、あるいは、統一的な現実を仮定する(ショーペンハウアー)かです。いずれにしても、この「現実」がアイデアと同じものであるかどうかを知ることはできません。その性質そのものが基本的に異なっているとみなされているのです。現象の本質的な特徴に関する問題が私たちの意識の中に充分に入ってくるやいなや、現実主義者であることは不可能になります。と申しますのも、世界の「本質的な特徴」について問いかける目的とは何なのでしょうか。それは、私がものごとを見るというところにまで、そして、内なる声が、結局のところ、それは本当に私が目にしている以上のものなのだということを私に告げるところにまで本当に来ているということです。けれども、実際には、私がその事物を見ているときにも、そのより偉大な現実は既に私の中に現れようと活発に試みているのです。もし、私が説明を探し求めるとしたら、それは私の中で活動するアイデアの世界が周囲の世界についての私の説明を要求しているからに過ぎません。その内部にアイデアが生じないような存在は、ものごとをより深く説明するように動機づけられることはないでしょう。そのような存在は感覚に現れるもので十分満足するでしょう。世界を説明しようとする意欲が生じるのは、私たちの思考にとって入手可能なアイデアの内容を外観の世界へと統合し、概念的な仕方であらゆる事物に貫き至るように。つまり、私たちが「見たり、聞いたりするようなことがらを理解することがらへと変える」ように促されるときです。もし、これらのことがらをこれ以上なく深刻に考えてみるならば、私たちが記述したような現実主義を信奉することはできなくなります。アイデアではない何らかの現実を通して世界を説明しようとする試みはいかなるものであれ自己矛盾であり、第一そのような発想がどうやって追随者を獲得するのかを理解することは困難です。知覚可能な現実を、何か思考とは根本的に異なるものを通してはもちろん、思考そのものの中に見出されないような何かを通して説明する必要はありませんが、また、できることでもありません。ひとつには、私たちには完全に見知らぬものである何か、私たちには隠されてさえいるようなものの観点から世界を説明するように私たちを動機づけるものとは一体何なのでしょうか。私たちがこの隠された因子に出会うと仮定しても、一体どこで、どのような形態でと問わなければならないでしょう。それは思考の中に見出すことはできません。思考の中でないとするならば、私たちはそれを何か外的な、あるいは内的な知覚の中に見出すと期待すべきなのでしょうか?けれども、知覚世界を説明するに当たって同じ性質のものをもってすることがどのような意味で役立つというのでしょうか。私たちに残されているのは第三の可能性、私たちは、思考することはできないけれども、それでも非常に現実的な世界に思考や知覚以外の方法で到達できるという仮定―です。この過程は私たちを直ちに神秘主義へと導きます。私たちは今これに関わる必要はありません。何故なら、私たちにとって興味があるのは、思考と存在、「アイデアと現実」の関係についてだけだからです。神秘主義の認識論について書くのは神秘主義者にまかせましょう。後期のシェリングの観点は、私たちの理性は世界内容とは「何か」を展開することができるだけであって、そもそもそれが「存在する」という事実に至ることは決してできないというものでした。私たちには、これ以上馬鹿げたことはないように見えます。ある事物の「存在」は私たちにとってそれが「何」であるかの前提条件であり、それが「存在すること」を最初に確立していなければ、ある事物の「何であるか」を達成する方法はないはずです。私たちの理性によれば、ある事物が存在しているという事実は私がその意味を把握しているという事実そのものの一部です。シェリングは、世界の意味を解明することはその存在を確信していなくても可能であると考えました。このことと、存在について知ることができるのは「より高次の経験」を通してのみであるという彼の確信は、自省的な思考にとって、考えも及ばないことのように見えます。シェリングはゲーテにあれほどの衝撃を与えた彼の初期の観点をその晩年にはもはや理解できなかったと考えざるを得ません。参考画:Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling-01記:シェリングの自然哲学のうちには、生きた自然の強調、自然と精神の同根性への着眼、自然の自己組織性の指摘、自然の内的構成の原理的把握、物質の重視といった思想が認められ、きわめて現代性に富む考え方が提起されている。シェリングの関心は神の実存にのみあったとも評される。 アイデアの世界にとって接近可能な存在形態よりもさらに高次の存在形態を仮定することは許されません。人々がさらに別の現実を探し求めるのは、アイデアという存在が知覚された現実よりもはるかに高貴で十全たるものであるということを彼らが把握できないからに過ぎない、ということはよくあることです。もし、私たちがアイデアに満足できないとすれば、それは私たちがそれらを内容がなく、いかなる具体的な現実性にも欠けた心の作り話であると考えているからです。実際、それは私たちがアイデアの積極的な性質を把握できていないからです。それらを単に抽象的なものであると考え、それらの十全性、完全性、健全性についてのいかなる経験も有していないのです。教養と自己発現を通して、より高次の観点へと自らを高め、そこから、目で見ることができず、手で触ることもできず、ただ理性のみが包含することができる存在の具体的な「現実性」を理解できるようになる必要があります。言い換えれば、私たちは「理想主義」を確立しようとしているのです。しかし、それは同時に「現実主義」でもあります。このことが意味しているのは、思考はアイデアを通して現実を理解しようと願っている、ということです。この願いは「現実の本質とは何か」という問いに隠されています。この問いに対する答えは科学的なプロセスの最後にのみ現れてきます。現実主義者は真の現実を仮定し、そこから彼らの経験の世界を導き出すのですが、私たちはそのようなことはしません。私たちは、世界を説明するために私たちが有している唯一の手段はアイデアであるという事実に充分に気づいている点で現実主義者から区別されます。現実主義者たちが持っているのもこの手段だけなのですが、彼らはそのことに気づいていません。現実主義者たちは自分たちの世界をアイデアから導き出しながら、別の現実からそれを導き出していると信じているのです。モナドというライプニッツの世界はアイデアの世界そのものです。しかし、ライプニッツはアイデアの世界よりもさらに基本的な現実を手に入れたと信じていました。すべての現実主義者は同様の間違いを犯します。彼らは現実を考え出しますが、アイデアの領域に留まっていることに全く気づいていないのです。私たちはこのような現実主義を拒絶します。何故なら、それは、実際にはアイデアがその世界形成の基礎であるという事実に関して、思い違いをしているからです。私たちが同じ確かさをもって拒絶するのは、我々は我々の意識を超越できない、何故なら、我々はアイデアの世界から逃れることができず、したがって、我々の観念のすべてが、そして、全世界そのものが主観的な幻想、我々の意識が見る夢なのだから(フィヒテ)、と信じている偽りの理想主義です。そのような理想主義者たちが理解し損なっているのは、我々はアイデアの世界を超えていくことはできないけれども、それら自体が客観的な現実であり、その現実の基礎はそれ自体の中にあるのであって、主観的なものの中にではないということです。彼らが忘れているのは、我々は思考の普遍的な性質からは逃れられない、けれども、正に理性的な思考が我々を客観性のただ中に連れていくのだということです。「現実主義者が理解し損なっているのは、客観的なものとはアイデアのことでだということであり、理想主義者が理解し損なっているのは、アイデアとは客観的なものであるということです。」。私たちはまた、アイデアを通して現実を説明しようとするすべての試みは弁解の余地のない哲学的な推論であると主張する経験論者たちについて考える必要があります。彼らが強く主張するのは、我々は我々の感覚を通して直接アクセスできるものだけに限定するべきである、ということです。この観点に対する私たちの答えは単純であって、その要件はその性質上「方法論的」かつ「形式的」なものでしかあり得ないというものです。もし、私たちが所与のもののところで立ち止まらなければならないとしたら、それが意味し得るのはたったひとつ、私たちは私たちに出会うべくしてやってくるものを自分のものにしなければならないということです。けれども、私たちに出会うべくしてやってくる「何か」は「この」観点によってあらかじめ決定づけられることはできません。何故なら、その「何か」はまず所与のものそのものの中に見出されなければならないからです。純粋な経験について主張し、同時に感覚的な世界の範囲内にとどまることを要求するにはどうすればよいかを考えるのは困難です。何故なら、アイデアもまた、所与のものであるという基準を満たすことができるからです。実証主義は、「何か」とは与えられるものであり、したがって、理想主義的な探求の結果と容易に両立し得る、という問題に答えを出さないままにしておくように強いられます。この場合、経験主義の要求は私たちのものと一致します。私たちはあらゆる観点を「それらが正当化される限りにおいて」統合します。私たちの観点は世界の根幹をアイデアの中に見出すがゆえに理想主義であり、アイデアを具体的な現実として取り扱うがゆえに現実主義です。そして、それは、先験的な構成概念によってというよりは、むしろ所与のものとしてのアイデアの内容に向けて邁進する限りにおいて、実証主義(*経験的事実にのみ立脚し,先験的ないし形而上学的な推論を一切排除する哲学の立場。 狭義には神学的、形而上学的、実証的という「三段階の法則」を唱えた。A.コントの哲学とされますが、注目すべきは自然科学の成果を重んじて形而上学的な思弁を排撃することにあります。現代物理科学の基本原則:捻くって表現して物理教)あるいは経験主義です。私たちの経験的な方法は現実へと貫き至るとともに、究極的には、理想的な結果の中に満足を見出します。私たちの観点によれば、何らかの与えられるもの、知られているものに基づいて、それを基礎づけ、決定づけるところの与えられない何かの存在を結論づけることは許されません。私たちは各要素の中の一つでも与えられないようないかなる結論も拒絶します。結論を引き出すということは、与えられる要素から同様に与えられる別の要素へと論理的に移行するということに他なりません。結局、私たちはaをcによってbに結びつけるのですが、これらのいずれもが与えられなければなりません。フォルケルトは、思考は所与のもの以外の現実を仮定し、それを超越することを私たちに強いると言いますが、私たちは、私たちが直接与えられるものにつけ加えたいと思っているものは既に私たちの思考の中で活動していると言います。私たちが拒絶するのは、与えられないもの、あるいは、何か仮定されたものを通して所与のもの(*哲学で、思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている内容。)を説明することから成るすべての形而上学です。私たちにとって、結論とは単に形式的な行為に過ぎません。すなわち、それは新しい何かへと導くのではなく、実際に存在している諸要素を結びつけることなのです。記:イツ観念論を完成させた「偉大な体系家ヘーゲル」。 西洋哲学史のテキストを開いてみれば、そのほとんどに、ヘーゲルとは「壮大な哲学体系」を構想し、みずからの哲学体系をもって哲学史の終焉を宣言した絶対的観念論の哲学者だと記されている。また、マルクス=エンゲルスの唯物主観はヘーゲルの論理学において最初の思弁的概念として生成というカテゴリーのもとに定式化されている弁証法抜きには完成しなかった。参考画:ドイツ近代哲学01人気ブログランキングへ
2024年06月03日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳1.方法論参考図:プラトンのイデア論と光の下での認識 私たちは科学的な思考を通して達成されるアイデアの世界と、媒介されることなく「与えられる」経験との間の関係を確立してきました。私たちはプロセスの初めと終わり、つまり、アイデアに欠けた経験とアイデアに満ちた現実の概念化について知るようになりましたが、これら二つの間に横たわっているのが人間の活動です。私たちの使命は初めであるものから終わりであるものを活発に展開することです。それを「いかにして」行うかというのが私たちの方法論です。もちろん、科学的なプロセスの初めと終わりの関係を私たちがどのように考えるかということについては特別な方法が求められます。その方法は何に基づけばよいのでしょうか。科学的な思考は私たちが直接与えられるものとして記述した現実の影のような形態を一歩一歩を克服し、アイデアの輝く明晰性へと上昇させなければなりません。言い換えれば、私たちの方法は、あらゆる事実について、それはいかにしてアイデアの統合された世界に貢献するかと繰り返し問いかけることにあります。その場所は世界についての私の概念的なイメージの中のどこにあるのでしょうか。私がそれを理解し、事物が私のアイデアにどのように関連しているかに気づくとき、私の認識に対する必要は満足されます。ひとつだけ不満足の源泉になり得るものが残っていますが、それは私の概念に結びつくことを否定するような事物が現れるときです。私はそれについて次のように言わなければならないようなものによって生じる知的な不満足を克服する必要を感じます。つまり、私はそれが存在していることを理解し、そして、私がそれに出会うとき、それは疑問符であるかのように私に相対するが、私はそのもののために私のアイデアと調和する場所をどこにも見つけられない。私の概念体系をどんなにひねくり回しても、それが私の中に生じさせる疑問は解決されないままであると。これは私たちが対象について考察するときに、私たちが何を必要としているのかを示唆しています。私が最初にそれにアプローチするとき、その対象は孤立したものとして私に相対します。私の思考世界はそれについての概念が横たわる地点に向けて苦労しながら進みます。私は、最初は孤立した現象として私に相対するものが私の概念体系に必須の部分として現れるまで安心することができません。そして、その対象の孤立状態は解消され、より大きな文脈の中で再び現れます。それは今や他のすべての対象についての統合された思考によって照らされます。すなわち、今やそれは全体に貢献し、私はこのより大きな調和の中でその意味を十分に理解します。このすべては私たちが経験の対象に思慮深くアプローチするとき、いつでも私たちの中で生じることです。すべての科学的なプロセスはある現象がこのようにしてアイデアの世界の調和の中に組み込まれる地点に気づくようになることに基づいているのです。これについて誤解しないようにしましょう。それは、あたかもアイデアの世界は閉ざされており、あらゆる新しいものは私たちが既に有している古い概念の意味で理解されなければならないかのようであって、あらゆる現象は既に存在している概念に基づいて説明できなければならないという意味ではないのです。私たちのアイデアの世界が広がるにつれて、私たちはまだ誰にも考えられていないような地点にやってくるでしょう。実際、科学の歴史的な発展は正に新しいアイデアの出現に基づいています。それらのひとつひとつが、何千もの糸によって、他のすべての可能な思考へと結びつけられます。これらの結びつきのそれぞれが独自の形態を取ります。いずれの場合も、結びつきは異なっています。「そして、科学的な方法とは正にこのこと、つまり、ある特定の現象についての概念をアイデアの世界の他の部分との結びつきにおいて示すことなのです。」このプロセスは概念の演繹あるいは証明と呼ばれます。いかなる種類の科学的な思考も、諸概念の間の結びつきを見出すこと、ある概念を他の概念から生じさせることだけから成立っているのです。科学的な方法はこの概念間の行き来を含んでいます。読者の皆さんは私が単に理解可能な世界と感覚世界の間の調和という語りつくされた物語の別のバージョンを記述しているだけではないかと思うかもしれません。その教義によれば、もし、このようにして概念の間を行ったり来たりすることが私たちを現実についての正確なイメージへと導くのだと信じるならば、客観的な世界と私たちの概念の間には調和が存在していると仮定しなければならなくなります。けれども、それは個々の対象と概念の間の関係についての間違った見方なのです。私がある特定の対象あるいは現象に最初に直面するとき、私は、それが「何」であるかについて、何のアイデアも持っていません。私がそれに貫き至り、その概念が私にとって明確になった後ではじめて、私は私が「何」を見ているのかを知るのです。このことは、特定の対象とその概念とは二つの「異なる」ものであるということを示唆するものではありません。そうではなく且つそれらは同じものです。ある特定の対象において私に自らを提示するものは、その概念そのものに他なりません。私がその対象を孤立したもの、現実のその他の部分から切り離されたものとして見るのは、私がまだそれをその本質において知覚しておらず、それがまだありのままの姿で私に自らを提示していないという理由によります。このように考えることにより、私たちは、個別の対象は思考体系の中で特別な内容を示すという科学的な方法の特質をさらに特徴づけたことになります。それはアイデアの世界の全体性に根ざしており、この全体性との関連でのみ理解され得ることです。こうして、あらゆる対象物は必然的に二重の使命を私たちの思考に提示します。私たちは第一に、対応する思考の輪郭をしっかりと確立し、第二に、その思考からアイデアの世界全体につながる糸を打ち立てなければなりません。現実は個々の詳細における明晰さと、総体における深みを要求します。一方は知性の仕事であり、他方は理性の仕事です。知性は現実の個々の側面のために思考形態を創造します。それらをより正確に記述すればするほど、それは輪郭をより鮮明に描き出し、その仕事はより忠実に行われることになります。そして、理性は、アイデアの世界と調和して、それらの思考にそれらの場所を割り当てます。このことはもちろん、知性によって創造された思考内容の内に統一性が既に存在しているということ、つまり、知性は私たちの思考内容のすべてを人工的に分離したままにするけれども、ひとつの生命がそれらに浸透している、ということを前提としています。理性は明晰性を失うことなくその分離を克服します。知性が私たちを現実から引き離す一方、理性が私たちをそれに引き戻すのです。このことは図式的に表現することができます。挿入図1:α1.2.3.4.5 すべての部分が全体的な構成の中で結びつけられています。つまり、同じ原則がすべての部分の中で働いています。知性は個々の形態を分離しますが、それは私たちが、与えられた外的な世界の中で(実線で示されるように)、それらに別々に出会うからです。そして、理性は(破線で示される)それらの統一性を認識します。二つの経験-1)太陽が照りつけている、2)暖かい石を仮定するとき、私たちの知性はそれらを分離したままにしますが、それはそれらが「二つの」現象として自らを提示するからです。一つは原因、他方はその結果と考えられます。そこに理性がやってきて間仕切りを取り去り、「二重性の中に統一性」を見ます。知性によって創り出された全ての概念―原因と結果、実質と特性、体と魂、アイデアと現実、神と世界、等々―は統一的な現実を人工的に分離したままにするやり方に過ぎません。他方、理性の役割は知性の明晰性を神秘的な仕方で曖昧なものにしたり、創造された内容を帳消しにしたりすることではなく、多様性の中に内的な統一性を求めることです。こうして、私たちは知性によって遠ざけられた統一的な現実へと引き戻されます。より正確に言うならば、「概念」とは知性の産物であり、「アイデア」とは理性の創造物です。ここで、科学の道は概念を通してアイデアへと導くということが分かります。このような考えは知るということに関する主観的な要素と客観的な要素の間の明確な違いを提示します。私たちの現実が分割されているのは純粋に主観的なことであり、私たちの知性によって創り出されている、ということは明らかです。私は同一の客観的統一体を他の人たちとは異なる個別の思考へと分割することができます。しかし、理性は、その結びつきを通して、私たちがそこから出発した客観的な統一体を復元することができます。挿入図2:Fig.1-Fig-2.Fig-3 現実の統合されたイメージ(図1)は、それを理解するために分解することができます。私はある方法でそれを分解する(図2)かも知れませんが、別の人は別の方法で分解するでしょう。私たちの理性はそれを結びつけ、同一の統合されたイメージに戻します。このことは、現実は同じはずであるにもかかわらず、何故、人間はそれについてあれほど多くの異なる概念や様々な観点を有しているかということの理由を理解するための助けとなります。「その違いは私たちの知的なアプローチの違いによるのです。」このことは様々な科学的観点の発達の上に光を投げかけ、哲学的観点における多様性の起源を理解する助けとなりますが、それらの内のいずれをも真実として認定する必要はありません。人間の概念の多様性を考えるとき、問題は単にその概念が正しいか間違っているかということではありません。私たちはいつもある特定の思索家の知的世界がいかにして世界調和の中から生じてくるかということを理解しようとします。つまり、私たちは、たまたま私たちの意見とは一致しない意見を、間違いであるとして糾弾するのではなく、むしろ理解しようとするのです。科学的観点における相違は各人が異なる経験の領域を持っているという事実に関連しています。私たちはそれぞれ、全体としての現実のほんの一部だけに出会いますが、各人の知性が処理するのはその一部であり、そのわずかな部分がアイデアへの道を仲介するのです。ですから、私たち全員が同じアイデアを認識していたとしても、それはいつも異なる領域においてなのです。「最終的な結果」だけが「同じ」である可能性があるのであって、そこに導く道は異なっているかもしれません。私たちの認識を構成する個別の判断や概念が一致する必要はないのです。とはいえ、重要なのは、それらの判断や概念が、最終的には、アイデアが流れる川の中で私たちを泳がせるようにするということです。全てが語られ、そして、為されたとき、全ての人間がこの流れの中で出会うのですが、それは活動的な思考が彼らをその隔てられた観点を越えた地点へと連れていくときです。もちろん、限定的な経験や非生産的な心は「一方的で」不完全な観点へと導きます。しかし、最も限定的な経験であっても最終的には私たちをアイデアの世界へと導いていくはずです。何故なら、私たちがこの領域へと上昇するのは、私たちの経験の広さによってではなく、私たちの人間としての生来の能力によってだからです。限定的な経験の結果として生じるのはアイデアの領域についての一方的な「表現」であるに過ぎません。それは私たちの内に輝く光を生じさせるための私たちの手段を限定的なものにしますが、この光が私たちの内に生じることを完全に妨げるものではありません。私たちの科学的な、あるいは一般的な観点が網羅的なものであるかどうかはそれらの精神的な深さとは全く関係がないのです。ゲーテに戻りますと、彼の多くの叙述はこの章の中で記述された考えから導かれるということが理解されるようになるでしょう。そして、私はこれが著者と解説者の間の唯一の正しい関係であると考えているということをつけ加えておきたいと思います。ゲーテは「もし、私が私自身や外の世界に対する私の関係を知っているならば、私はそれを真実と呼ぶ。そして、誰もが自分自身の真実を有することができるとはいえ、それでもやはりそれはいつも同じものなのだ(散文の中の韻)」と書いています。これはこれまでの考察に基づいてはじめて理解できます。人気ブログランキングへ
2024年06月02日
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ルドルフ・シュタイナーゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)第9章 ゲーテの認識論 佐々木義之訳 私たちはこれまでの章で、ゲーテの科学的世界観は決して完全に一体的なものとして定式化されたり、一つの原則から発達したりしたのではないという事実を指摘してきました。あれこれの考えがいかにして彼の思考方法という光の中で現れるかを示す個々の表現だけが私たちの前にあるのです。それは彼の科学的な著作についても、彼の「散文の中の韻」や彼の友人たちに宛てた手紙の中で彼が与えた簡単な示唆についても言えることです。彼の世界観の芸術的な定式化は最終的には彼の詩集の中に見出されますが、それらもまた彼の基本的な考えに対する実に様々な手掛かりを与えてくれます。私たちは、ゲーテはその基本的な原則を決して一貫性のある総体としては表現しなかったということを率直に認めるとしても、彼の世界観は厳密に科学的な仕方で定式化し得る理想の中心から湧き出してはいないという主張を正当化するつもりは全くありません。私たちの前にあることがらをはっきりさせましょう。ゲーテのあらゆる創造に浸透しつつ、それらを生き生きとさせ、内的に推進する原則として彼の精神の中で働いていたものは、そのようなものとして現われることはあり得なかったのです。それは彼の作品すべてに浸透していたために、同時に、独立した実体として、彼の意識の中に現れることは不可能でした。もし、それが現われていたとしたら、実際にはいつもそうだったように活発に働く代わりに、何か完成されたもの、静止したものとして、彼の心の前に現われていたことでしょう。ゲーテを解説する者としては、この原則の様々な活動や現れをその絶えざる流れの中で追求し、それによってその理想的な輪郭を統一性のある総体として描き出すということがその仕事になります。私たちがゲーテの顕教的な作品をその真の光の下に見ることができるのは、この原則の科学的な意味を明解かつ正確に定式化することに成功し、科学的な一貫性をもってその様々な側面を発達させるときだけです。何故なら、私たちはそのときそれらが共通の中心点から展開してくるのを見ることができるからです。この章では認識についてのゲーテの理論、つまり認識論(Epistemology)を扱うことになりますが、この科学とゲーテとの関係を考察する前に、不幸なことにカント以来続いてきたその使命に関するある種の混乱について簡単に触れておかなければなりません。カントが信じていたのは、彼以前の哲学が迷路に陥っていたのは、ものごとの本質的な特質を認識するに当たって、そもそもそのような認識が可能かどうかをまず問うことなくそれを追及していたからであるということです。彼は、彼以前のあらゆる哲学することにおける根本的な病理は思考家が私たち人間の認識能力を検証する以前に対象の本質について考えていたという事実の中にあると見ていました。そこで、彼はこの根本的な哲学的問題の検証に乗り出し、それによって新しい思想の潮流を作り出しました。カントに基礎を置くそれ以後の哲学はこの問題において語られて来なかった認識力に焦点を当ててきました。そして、今日の哲学界において、その解決に向けたアプローチが今までになかった程になされています。けれども、その結果、認識論とは、「認識はいかにして可能か」という問題に対する包括的な答え以上のものではないと思われるようになりました。ゲーテに当てはめてみますと、その問題は「認識の可能性についてゲーテはどのように考えていたのか。」ということになるでしょう。けれども、より綿密に検証してみますと、この問題に対する答えは認識論への出発点にはなり得ないということが分かります。何故なら、もし、私が、何らかのものはいかにして可能になるかと問うのであれば、私はそのものの本質を既に検証していなければならないからです。一方、カントとその追随者たちによって全く受け入れがたいと考えられた認識、彼らはそれが可能かどうかを問うたそれについての概念はどうなるでしょうか。もし、それが透徹した批判に耐えられないとしたらどうでしょうか。もし、私たちの認識のプロセスが、それに関するカントの定義とは全く異なる何かであったとしたらどうでしょうか。そのとき、彼のこの分野における仕事のすべては価値のないものとなるでしょう。カントは普通に受け入れられていたような、知るということについての概念を当然のものとして、それから、その可能性を調べたのです。この概念によると、知るということは、私たちの意識の外にそれ自体として存在する現実についての記述です。けれども、私たちは、知るということがどういうことなのかを理解する前に、知ることができるかどうかを決定することはできません。したがって、いかなる認識論にとっても、「知るということはどういうことか。」という問題が主要な関心事となります。ですから、私たちの使命は、知るということについて、ゲーテがどのように考えていたかを示すということになります。何らかの判断を下すこと、あるいは、ある事実又は一連の事実を認識すること、それはカントにとっては認識と呼べるような何かは、ゲーテの意味では、まだ知るということではありません。そうでなければ、彼は、(芸術の最高の形としての)型が認識における最も深い根底に存在している、したがって、それは単なる自然の模倣、すなわち、芸術家が自然の対象物に向き合い、その形や色を最高の正確さで忠実かつ熱心に模倣し、それらから少しでも遠ざかることを注意深く避けるような模倣とは区別されるとは言わなかったはずです。この直接感覚に与えられる世界から距離を置くことは純粋に知ることについてのゲーテの観点に特徴的なものです。直接与えられるものとは経験のことです。私たちが知るとき、直接的に与えられるものの像を創り出すのですが、それは感覚、あらゆる経験を仲介するものが与えることができるよりもかなり多くのものを含んでいます。ゲーテの意味で自然を把握するためには、その直接的な事実関係に拘泥すべきではありません。自然は、認識のプロセスを通して、一見したときに現れるよりも何か本質的により高次のものとして現われるに違いありません。ジョン・ステュアート・ミルの学派は、私たちが経験に関してできることは様々な事物をグループ分けし、それらを抽象的な概念として保持することだけだと考えています。けれども、それは真に知ることではありません。何故なら、ミルの抽象的な概念は、直接的な経験という特質のすべてとともに、感覚に自らを現わすものを単に要約しているに過ぎないからです。真に知るということは、与えられた感覚知覚可能な世界の直接的な形態はまだその本質的な形態ではなく、知るというプロセスの中でのみそれは自らを私たちに現わす、ということを認めるものでなければなりません。知るということが私たちに与えるのは、感覚的な経験は与えないけれども現実であるところのものであるに違いありません。ミルが言っているのは、真の知るということではありません。何故なら、それは、私たちの目や耳が私たちにもたらすものをそのままにしておく感覚による経験を洗練したものに過ぎないからです。それは、以前の、あるいは、より最近の形而上学者たちが好んでするように、経験の領域を越えてファンタジーの世界に自分を見失うことではありません。私たちはその代わり、感覚に与えられるものとしての経験から私たちの理性を満足させる経験の形へと前進しなければなりません。今や、新しい問い、仲介されない経験と知の過程で生じる経験像との間の関係とはいかなるものかという問いが生じます。私たちはこの問いに対して、まず私たちとしての答えを出し、そして、それがゲーテの世界観からも導かれることを示したいと思います。最初、世界は空間と時間の中における多様性として私たちの前に自らを現わします。私たちは空間と時間の中にある個々のものを別々に、つまり、ここにはこの色が、あそこにはこの形が、今この音が、今あの雑音が、等々というように知覚します。まず無機的な世界からの例を取り上げ、私たちが感覚を用いて知覚するものと認識プロセスを通して生じるものとの間の違いを大いなる正確さをもって区別してみましょう。私たちは石がガラス板めがけて飛んで来て、それを打ち破り、最後に地面の上に落ちるのを見ます。私たちは、直接的な経験としてここで与えられるのは何なのかと問います。それは、石によって次々に占められる場所からやってくる一連の視覚的な知覚、ガラスが砕け散るときの一連の音の知覚、飛び散るガラスの破片、等々です。私たちは、もし、自分を欺くつもりがないのならば、私たちの直接的な経験に提示されるのはこの雑多な知覚の寄せ集め以上のものではないと言わざるを得ないでしょう。直接的な知覚(感覚による経験)に関する同様の厳格な制限については、フォルケルトによるカントの認識論に関する優れた論文の中に見ることができます。これは現代哲学が生みだした最高のもののひとつです。しかし、フォルケルトが何故、個別的な知覚表象を心的な像と見なし、それによって、最初から客観的な認識の可能性を排除したのかを理解するのは不可能です。直接的な経験を心的な像の総体と見なすのは間違いなく先入観によるものです。もし、私の前に何らかの物体があるとすると、私はその形や色を見、ある種の硬さやその他のものを知覚します。最初、私の感覚に与えられるこのイメージの寄せ集めが私にとって何か外的なものなのか、あるいは単なる内的な表象なのかは私には分かりません。最初、石の温かさが太陽光で暖められた結果なのかどうかがよく考えてみなければほとんど分からないように、私に与えられる世界と、心象を形成する私の能力との間の関係がどのようなものなのかは分かりません。フォルケルトは彼の認識論を始めるに当たって、「我々は様々な種類の多様な心象を有している」という命題を立てました。私たちには多様性が付与されているというのは正しいとしても、私たちはこの多様性が心象から成っていることをどうやって知るのでしょうか、フォルケルトが最初、直接的な経験によって私たちに何が与えられるかを確かめなければならないと主張した後、経験の世界は心象の世界であるという与えられることができないような何かを仮定するとき、実際、彼は全く許容できないようなことを行っているのです。私たちがそのような憶測を行う瞬間、私たちは今特徴づけたような認識論的に不正な質問をせざるを得なくなります。もし、私たちの知覚が心象であるならば、私たちの認識の全てが心象であることになり、ある心象はそれが表していると考えられる対象といかにして一致し得るのかという問いが生じることになります。参考画:ヨハネス フォルケルト(Johannes Volkelt)記:ヨハネス フォルケルト(Johannes Volkelt/1848 - 1930)はドイツの哲学者。元・ライプチヒ大学教授。バーゼル、ビュルツブルク、ライプチヒ大学教授を歴任した哲学者で、美学者としても名高い。カント、ヘーゲル、ショウペンハウワーの影響を受け、認識論から批判的形而上学を唱え、自説を主観主義的超主観主義と称す。また美学においてはリップスの感情移入説を用い思弁的美学と心理学的美学の総合に立ち、究極のところ美に形而上学へと向かう。 とはいえ、何らかの真の科学がそもそもこの問題に取り組むということがあったでしょうか。数学について考えてみましょう。3直線が交わることによってできる形つまり三角形があります。3つの角α、β、γは一定の関係、つまり、合わせて180°あるいは直角2つ分になるという関係を維持しています。これは数学の命題です。知覚されているのは角α、β、γです。上記の認識論的な判断には、思索的な考察に基づいて到達します。この判断は3つの知覚像の関係を確立します。三角形という心象の背後に何らかの対象物を考えることが問題になることはありません。すべての科学についても同様です。それらはひとつの心象から別の心象へと糸を紡ぎ出し、直接的な知覚という観点から見ると混沌であるところのものに秩序をもたらします。しかし、与えられたものの他にはいかなるものも考察の対象として入ってくることはありません。心象とその対象物との一致に真実があるのではなく、むしろ、2つ(あるいはそれ以上)のものの間にある関係の表現が真実なのです。石と窓ガラスの例に戻りましょう。私たちは、石がそこを通って移動するところの個々の場所からやってくる視覚的な知覚を結びつけます。この結合によって曲線(放物線)が与えられ、放物線の法則が得られ、さらに進むと、ガラスの物質としての特徴が知覚され、そして、石は原因であり、ガラスが割れたのはその結果でありというようなことが分かります。すなわち、私たちは与えられたものに概念を浸透させ、それによって、それを理解するようになるのです。この働きの全ては私たちの意識の中で生じますが、それによって、知覚されたものの多様性は概念の統一体へと集約されます。知覚的なイメージのアイデア的な相互関係は、感覚を通して与えられるのではなく、むしろ、私たちの心により、独立して把握されるのです。感覚知覚能力だけを付与された存在にとっては、この過程全体は生じ得ないものです。外的な世界は、そのような存在にとって、私たちが最初に(直接的に)直面するものとして特徴づけたように、構造を持たない知覚的な混沌のままに留まるでしょう。ですから、人間の意識とはいくつかの知覚的なイメージがそれらのアイデア上の相互関係において現れる場所であり、そこでは後者が前者の概念的な対応物としてそれらの前にさらされます。この概念的(法則的)な相互関係がその実質的な側面において生じるのは私たちの意識の中においてであるという事実は、それがその意義という点で主観的なものであることを意味してはいません。逆に、その意味あるいは内容は、ちょうどその概念的な形態が私たちの意識から生じてくるのと同様、確かに客観的な世界から生じてきます。それは知覚的なイメージを必然的、客観的に補足するものなのです。私たちがこの必然的な補足物をつけ加えるように強いられるのは、正に、私たちの感覚による知覚が不完全であり、それ自体では未完成であることによります。もし、直接与えられるものがそれ自体で満足すべきものであり、あらゆる点で私たちに問題を生じさせないのであれば、私たちがそれを超えていく必要は決してなかったことでしょう。けれども、知覚的なイメージは、ひとつのものが別のものに続き、それがその結果として生じるのを見ることができるというような仕方で生じることは決してありません。それらはむしろ感覚的な知覚をもってしては近づくことができないような何か別のものの結果として生じます。概念的な理解がそれらと出会い、感覚には隠されたままに留まる現実の側面を把握することになるのです。もし、感覚的な経験がそれ自体で完結した何かを私たちに提供したとすれば、知るというプロセスは本当に無用なものであったことでしょう。感覚的に知覚可能な事実を結びつけたり、秩序づけたり、あるいはグループ化したりすることは、そもそもいかなる客観的な価値も持っていなかったことでしょう。認識活動が意味を持つのは、感覚に与えられる構造を完全なものとは見なさず、それは単に全体の半分に過ぎない、それはそれ自身の内に何かもっとより高次の秩序、それはもはや感覚にとって直接知覚することができないような何かを有していると私たちが見なすときだけです。人間の精神が活動的になり、今や、そのより高次の要素を知覚します。ですから、思考を現実の本質に何かをつけ加えるものとして考えるべきではありません。それは目や耳と同様、知覚器官以上のものでも以下のものでもありません。ちょうど、目が色を知覚し、耳が音を聞くように、思考はアイデアを知覚するのです。ですから、アイデア主義な探求の原則と経験主義的な探求の原則とは完全に両立します。アイデアとは、主観的な思考の内容ではなく、探求の結果なのです。現実が私たちに出会うのは、私たちが開かれた感覚を持ってそれに近づくときです。それは私たちに偽りの姿で自らを提示し、私たちはそれをその真の形態であるとは見なしません。私たちが後者に至ることができるのは、私たちの思考を働かせるときだけです。知るということは、私たちが感覚的な経験という半分の現実に対して思考を通して知覚するところのものをつけ加えるということ、そして、それによって、私たちの現実についての像が完全なものになるということを意味しています。すべては私たちがアイデアと感覚知覚可能な現実との間の関係をどのように考えるかにかかっています。後者は私たちの感覚が私たちにもたらす知覚の総体を意味しています。今、最も広まっている観点は、概念とは単に私たちの意識が外的な現実に関するデータを自分のものにするための手段に過ぎないというものです。現実の本質は物自体の中にのみ存在しており、たとえ私たちが実際にその主たる本質に至ることができたとしても、私たちに残されるのはただその概念的な表現だけであり、決してその本質自体ではない、と考えられているのです。ですから、この観点は二つの完全に別の世界、つまり、客観的な外的世界、それはその内部にその本質的な特質、その存在の基礎を担っていと主観的なアイデアという内的な世界、外的世界の概念的な複製物を仮定します。この内的世界は、外的世界にとって全く関心のない出来事であり、それによって求められることもなく、単に認識を行う人間にとってのみ存在しているのです。この基本的な観点の認識論的な理想はこれら二つの世界の調和を達成するということでしょう。その追随者としては、私たちの時代の主流となっている科学だけではなく、カント、ショーペンハウアー、そして、新カント主義の哲学が含まれますが、シェリング哲学の最終局面も同様です。これらの思想的な潮流はすべて、主観を超越した領域に世界の本質を求めますが、彼らの観点からして、主観的でアイデア的な世界は彼らにとっては単なる心的な表象の世界に過ぎませんし、現実自体にとっては何の意味もなく、単に人間の意識にとってのみ意味があると認めざるを得ないという点で一致しています。既に示したように、この観点は概念(アイデア)と知覚の完全な一致という仮定へと導きます。知覚の中に見出されるものは、その概念的な対応物の中では、単にアイデア上の形態において模造されるはずのものです。それらの本質に関しては、両方の世界が完全に一致していなければならないでしょう。時空の現実的な状態は、知覚された空間的な広がり、形、色等々の代わりに、対応する心象が存在するはずであるという点を除けば、アイデアの中で正確に繰り返されることになります。例えば、もし、私が三角形を目にするならば、その輪郭、大きさ、線分の傾き等々を私の思考の中で追って行き、その概念的な写像を自分で創り出さなければならないでしょう。第2の三角形に向かうときにも、外的あるいは内的な感覚世界におけるあらゆる対象物に関しても、同様にしなければならないでしょう。ですから、世界についての私のアイデア像の中には、各対象物がその正確な位置と特徴を伴って再び見出されるはずです。私たちは今、この広く支持されている観点の結果は事実と一致するのか?と問います。全く一致しません。三角形という私の単一の概念は、あらゆる個々の知覚された三角形を包含しています。すなわち、私がそれを何度意識に上らせたとしても、それはいつも同じものに留まります。三角形という私の様々な心象はすべて同一です。私は三角形というたったひとつの概念を有しています。現実には、あらゆる個別の事物は十分に定義づけられた「これ」として、同様によく定義づけられ、完全に現実的な「あれら」に対置されて自らを提示します。厳密にひとつの統一体であるところの概念がこの多様性と出会います。その中には、いかなる個別のものも、いかなる部分も存在しません。それは増殖せず、何度写し取られたとしても同じものに留まります。さて、ここで、概念の同一性の実際の源泉は何かという疑問が生じます。その心象としての表れでないことは確かです。と申しますのも、バークレーが、木についての私の現在の心象は私が目を閉じたまま1分経った後に私が有することになるはずの心象とは何の関係もない、そしてもし、何人かの人たちが同じ対象についての心象を形成したとしても、それらはやはりお互いに何の関係もないだろうと主張するとき、彼は完全に正当化されるからです。このように、同一性はただ心象の意味の中に存在することができるだけです。それらの同一性を裏づけるのはそれらの意味、あるいは本質的な内容(概念的な側面)なのです。こうして、概念あるいはアイデアに対してあらゆる独立した意味を否定する観点は崩れ去ります。この観点が特に主張するのは、概念的な統一性そのものは(それ自体の)内容を全く欠いている。それが生じるのは経験の対象となるものの中の何らかの特別なものを省略することによってのみであるということです。共通の要素は強調され、私たちの知性に組み込まれますが、その理由は、最小限の一般的な用語を使って、つまり、最少エネルギー消費の原則にしたがって―客観的な現実の多様性を包含することにより、その簡便な把握を達成するためです。ショーペンハウアーはこの観点を現代科学の哲学と分かち合っています。その最も粗野で、したがって、最も一面的な帰結が、リチャード・アベナリウスの小冊子「エネルギー消費最少の原則にしたがって世界を考える哲学」の中で表現されています。けれども、この観点は、単に概念の内容に関してだけではなく、知覚内容に関しても、完全な誤解の上に成り立っています。この問題を明らかにするために、個別性のある知覚を普遍性のある概念に対置させる基本的な洞察に立ち戻りましょう。私たちは、個別性を実際に区別しているものは何なのかと自分に問わなければなりません。私たちはそれを概念的に規定することができるでしょうか。私たちは、概念的な統一性はあれこれの個別的な知覚的多様性にブレークダウンすることができる、と言うことができるのでしょうか。それは確かに不可能です。概念自体は個別性とは何の関係もありません。したがって、その個別性はそのようなものとしての概念にとっては接近不可能な要素から成立っていなければなりません。知覚と概念の間の中間段階については知られていませんから、今日ではほとんど真剣に取り上げられることのないカントが言うところの想像上の神秘的な図式を導入するつもりがないのであれば、個別のもののこれらの要素は知覚自体に属していなければなりません。それらの個別性の理由は概念から導かれるのではなく、知覚そのものの中に求められなければなりません。ある対象の個別性を構成するものは概念的に把握され得るのではなく、ただ知覚されることができるだけなのです。知覚された現実の総体を概念自体から導き出そうと試みるあらゆる哲学の避けがたい挫折の理由はここにあります。世界全体を人間の意識から導き出そうとしたフィヒテの古典的な失敗もまたここにあります。実際に、知覚を概念から区別しているのは、本質的には概念化されることができず、ただ経験されなければならない正にこの要素なのです。こうして、概念と知覚は、二つの異なる世界の両側面として、とはいえ、その本質的な特徴においては同一のものとして並置されています。そして、既に示してきたように、知覚は概念を要求することから、その本質はその個別性にあるのではなく、その概念的な普遍性にある、ということになります。とはいえ、その表現に関しては、この普遍性はまず主観の中に見出されなければなりません。何故なら、それは対象からは導き出され得ない一方、主観が対象を調べるとき、それは実際、主観によって見出され得るものだからです。概念はその内容を感覚的な経験から引き出すことができません。その理由は、それが正に経験に特徴的なもの、つまり、その個別性をそれ自身の中に取り込まないからです。あらゆる個別的なものは概念にとっては見知らぬものです。したがって、概念はそれ自身の内容を提供しなければならないのです。よく言われるのは、経験の対象は個別的で生き生きとした知覚であるのに対して、概念は、内容に満ちた知覚と比較して、抽象的で、貧しく、空虚で、微々たるものである、ということです。これらの多様で感覚的な個別性という豊かさはそれらの数の中に求められますが、それは空間の無限性のゆえに、確かに偉大なものであり得ます。しかし、だからといって、概念がより不十分に定義されるというわけではありません。何故なら、そこでは、数は質によって置き換えられるからです。そして、ちょうど量が概念の中に見出されないように、知覚はダイナミックな質的特徴に欠けています。概念は知覚と同様、個的なものであり、その内容は同じように豊かなのです。ただ違いは、知覚の本質を把握するためには、感覚を開くということ以外、つまり、外的な世界に対する純粋に受動的な関係以外には何も要求されないのに対して、世界のアイデア的な重要性は、そもそもそれが現れるべきであるならば、私たち自身の自発的な精神活動を通して生じなければならない、というところにあります。概念は生き生きとした知覚の敵であるというのは考えのない、月並みな言い方です。概念は知覚の本質存在であり、それを実際に動かす活動原則なのです。すなわち、それはそれ自身の内容を知覚内容につけ加えながら、後者を排除することはありません。何故なら、それはそのようなものとしての知覚上の内容には関係していないからです。しかし、それにも関わらず、それは知覚の敵であると考えられているのです。概念が知覚の敵となるのは、間違った哲学が感覚世界の豊かさのすべてをアイデアから紡ぎだそうとするときだけです。そのような哲学は、生きた自然の代わりに空虚な言葉の体系だけを生み出すでしょう。私たちはここで示された方法によってのみ、経験に基づく認識を実際に構成するものについての満足のいく説明に至ることができます。もし、概念が私たちの感覚知覚に何か新しいものをつけ加えるのでないとすれば、何故、概念的な理解へと進まなければならないかを説明することはできないでしょう。純粋に経験的な認識は私たちの知覚の前に置かれた何百万もの個別のものを越えて、一歩も進むことはできないでしょう。純粋に経験的な認識が首尾一貫したものであるためには、それ自身の内容を否定しなければならないでしょう。と申しますのも、何故、私たちは私たちの知覚の中に既に存在しているものを概念的に再創造しなければならないというのでしょうか。これらの考察の光の下では、首尾一貫した実証主義はすべての科学的な働きを直ちに停止し、ランダムな生起にのみ依拠しなければならなくなるでしょう。実際にはそうなっていませんから、それはそれが理論的に拒絶していることがらを実行していることになります。事実、唯物主義も写実主義も暗に私たちの主張を認めているのです。それらが実際に行っていることがらが正当化されるのは私たちの観点からのみであって、それら自身の根本的な理論とは明らかに矛盾しています。私たちの立場からすれば、科学的な認識の必然性と感覚的な経験を越えていく必要性は矛盾なく説明することができます。感覚的な世界は、さしあたり、そして、直接的に与えられたものとして、私たちの前に現れます。それは巨大な謎のように私たちに相対しますが、それは私たちがこの世界そのものの中にそれを突き動かし、形作り、活発にさせるものを見出せないからに過ぎません。今、理性が入り込んできて、その考察の対象となるアイデアの世界をもって、謎への解答を構成する支配原則を感覚の世界に向かって掲げます。これらの原則は感覚の世界そのものと同様に客観的なものです。それらが感覚には現れず、理性にのみ現れるという事実はそれらの内容とは関係がありません。もし、思考する存在がいなかったとすれば、これらの原則は決して現れなかったことでしょう。けれども、そのことで、それらが現象世界の本質であるという事実から貶められることは決してありません。こうして私たちは、ロック、カント、後期のシェリング、ショーペンハウアー、フォルケルト、新カント主義、そして、現代科学の超越論的な世界観に対抗して、真に意識内在的な世界観を掲げます。彼らが現実についての主要な原則を、私たちの意識を超えた、見知らぬ領域の中に求めるのに対して、意識内在的な哲学はそれらの原則を理性に現れるものの内に求めます。超越論的な世界観は概念的な認識を世界の像と見なします。意識内在的な見方はそれを世界が最高の形態で現れたものとして見ます。前者が生み出すことができるのはせいぜい思考と実際の存在との関係とはいかなるものかという問いに基づく認識についての形式的な理論です。後者はその認識論の最初に、知るとは何かという問いを置きます。前者は、思考と存在との間には本質的な違いがあるという偏見から始めます。後者は、私たちに思考についての確かさを与える唯一のものの探求へと偏見なしに入っていきます。そして、それは、思考の外側にはいかなる存在も見出すことができないということを知っています。私たちの認識論的な考察の総括は次のような結果に至ります。私たちは私たちの思考を動かす前に、私たちの感覚に与えられるままの全く不確定で直接的な現実の形態、単に見たまま、聞いたまま、等々のもの―から始めなければならない。重要な点は、感覚によって私たちにもたらされるものと私たちの思考がそれにもたらすものとを区別するということです。感覚は事物の間に何らかの特別な関係があること、例えば、これが原因で、あれが結果であるというようなことを私たちに伝えたりはしません。感覚にとっては、すべてのことがらが世界の成り立ちにとって同等の重要性を有しています。考えに欠けた観察は、一粒の種は路上の砂粒よりもさらに高い複雑さのレベルにある、ということを示しません。感覚に関する限り、それらが似たようなものに見えるならば、それらいずれも同じように重要なのです。このレベルの観察においては、ナポレオンがどこか田舎の農夫以上の世界史的な重要性を有することはありません。今日の認識論はこの程度にまでしか進歩していないのです。事実上すべての認識論者たちが、知覚の最初の段階で、当初は不確かで定まらない表現として私たちに相対するものを心象であると直ちに指定するという間違いを犯しているという事実は、これらの真実が決して徹底的に考え抜かれてこなかったということを示しています。しかし、それは正に今私たちが獲得したばかりの洞察を無作法に踏みにじることに他なりません。私たちが純粋な感覚知覚の段階に留まる限り、私たちは、落下する石が、それが落ちた地面の穴の原因であることを知らないのと同じくらい、それがひとつの心象であることを知る由もないのです。私たちが前者の判断に至ることができるのは注意深い考察を通してのみであって、私たちに与えられる世界が単なる心象に過ぎない(それが真実であると仮定すればですが)という洞察に至ることができるのは、よく考えてみることを通してのみなのです。私の感覚は、それがもたらすものが実際の存在なのか、あるいは単なる心象に過ぎないのかについて、何の手がかりも私に与えません。感覚の世界は瞬間的に、あたかもピストルから発射されたかのように私たちに突進してきます。もし、私たちがそれを純粋なままにしておきたいのであれば、私たちはそれにいかなる質的な特徴も付与することを控えなければなりません。私たちに言えるのはひとつだけ、それが私たちに相対している、私たちに与えられているということだけです。それはこの感覚的な世界そのものについて何も述べません。私たちは、このように前進することによってのみ、与えられたものの偏見のない評価への干渉を避けることができます。私たちが、与えられたものに対して、最初から特別な特徴づけを行うならば、この偏見からの自由は失われます。例えば、もし、私たちが、与えられたものは心象である、と言うならば、私たちの探求全体がこの前提の上に基礎づけられることになるでしょう。私たちはそのとき、認識に関する偏見のない理論を提供するのではなく、むしろ、感覚に与えられるものは心象であるという前提に基づいて、知るとは何かという問いに答えることになるでしょう。フォルケルトの認識論の根本的な間違いはここにあります。最初、彼は、すべての認識論は偏見から自由でなければならないという厳密な要求を打ち立てます。けれども、次に彼は、我々は多様な心象を有しているという主張へと進みます。こうして、彼の認識論は、もし、与えられたものが多様な心象であると仮定するならば、いかにして知ることが可能となるかという問いに対するひとつの回答に過ぎなくなります。私たちのアプローチは全く異なっています。私たちは与えられたものをそのまま、つまり、多様なもの、あれこれのものであって、もし、私たちがそれとともに流されるままになるとすれば、自らを私たちに現すようになるものとして受け取ります。このようにして、私たちは、対象自身に語らせることによって、客観的な認識を獲得する見通しを得ます。私たちに自らを提示する現象が私たちに必要なものすべてを明らかにする、ということを私たちが望むことができるのは、その宣言が私たちの判断力に自由に接近することを妨げるいかなる妨害的な偏見も許さないときです。と申しますのも、たとえ現実が私たちにとって永遠に謎のままに留まるとしても、そのような真実を知ることが意味を持つのは、それが実際の事物との関連で得られるときだけだからです。一方、私たちの意識は世界の事物に関していかなる明晰性にも至ることができないような仕方で構成されているという主張は全く無意味です。事物の特質を把握するために私たちの精神的な能力は十分なものであるかということ、これが、私たちがこれらの物自体との関係で自ら確かめてみるべきことです。私が最も完成された心的能力を持っていたとしても、もし、事物が自分たちについて何も開示しないのであれば、私の才能は何の役にも立ちません。そして、逆に、たとえ私が私の力はわずかなものであると知っていたとしても、そのこと自体が、それらは事物について知るには十分でないと私に告げるわけではありません。私たちはまた、上で特徴づけられたような形で直接与えられるものは私たちを不満足のままにしておくということを理解しています。それは解決されるべき問題、謎を提示します。それは私たちに言います。私はここにいる。しかし、私は私の真の形態においてお前の前に現れることはないと。私たちがこの外からの声を聞くとき、つまり、私たちが直面しているのは半分の現実、ひとつの実体ではあるけれども、そのより良い側面は私たちには隠されたままに留まっているということへのますます増大する気づきをもってそれを聞くとき、私たちの内部から自らを告知するのは、私たちがそれを通して反対側の現実についての認識を達成し、与えられた半分を補足することによって、全体を生み出すことができるような器官の活動です。私たちは、私たちが見たり聞いたりしないものは、私たちの思考を通して補足されなければならないということに気づきます。知覚によって提示される謎を解くために、私たちの思考が呼び出されるのです。私たちがこの関係を理解するのは、何故、私たちは知覚可能な現実では満足できず、思考を通して達成可能な現実に満足するのかということを探求するときだけです。感覚的な現実は何らかの完成されたものとして私たちに相対します。それは単にそこにあり、それがそのようにしてそこにあることに私たちは何の貢献もしていません。ですから、私たちは、私たちが生み出したのではない。実際、その生成に際して、私たちがそこにいることさえなかったような何か見知らぬものに直面していると感じます。私たちは、既に存在している実体の前に立ちます。とはいえ、何かを十分に理解するためには、私たちはそれがどのようにしてそのようになったのかを知り、眼前にある事物へと導く歩みに従う必要があります。私たちの思考の場合にはそうではありません。思考の構成体は、私が自分でその生成に参加しない限り、自らを私に提示することはありません。すなわち、それが私の知覚の領域に入ってくるのは、知覚不可能性の暗い深淵から私が自分でそれを引き上げるときだけです。思考は、感覚知覚がそうであるように、完成された実体として私の中に現れるのではありません。逆に、私がそれを完成された構成体としてしっかりと保持するとき、私がそれを自分でこの形態へともたらしたのだ、という事実に気づくことになります。私の前にあるものは見知らぬ実体として私の前に現れるのではなく、その内部にいつも私が立っているほど密接に私に結びつけられているようなプロセスの完成形として現れるのです。正にこれが、私の知覚という水平線上に現れるものが何であれ、もし、私がそれを理解すべきであるならば、それに関して私が完遂しなければならないことです。何も私にとって獏としたものに留まってはなりません。何も完結したものとして私に相対すべきではありません。私は自分でそれを完成へと追っていかなければなりません。私たちが通常、経験と呼ぶところの現実の直接的な形態が私たちにそれを科学的に探求するようにさせる理由はそこにあります。私たちが私たちの思考を動きへともたらすとき、私たちは、私たちに与えられたものを決定づけるところの当初は隠されていた要因を発見します。私たちは生み出されたものから、それを生み出すことへと、私たち自身を引き上げるのです。すなわち、私たちは、思考が透けて見えるのと同じような仕方で、感覚的に知覚できるものが透けて見える段階へと至るのです。こうして、私たちの認識への内的な要求が満たされることになります。何かについての私たちの科学的な理解が完全なものとなるのは、私たちの思考が感覚的に知覚できるものに十分に、そして完全に浸透したときだけです。世界のプロセスが私たちによって完全に浸透されたものとして現れるのは、そのプロセスが私たち自身の活動であるときだけです。思考は私たちがその中に立つプロセスの帰結として現れます。その中に私たち自身を完全に置くことができる、私たち自身を完全に沈めることができる唯一のプロセスとは考えることです。科学的な観察にとって、経験された現実は、純粋な思考自体がそうであるのと同様に、展開する思考プロセスから生じるというような仕方で現れなければなりません。事物の本質的な特性を探究するということは、私たちの思考世界の中心から進み出るということ、そして、私たちの魂の前に私たちの外的な経験と同じであるように見える思考の構成体が生じてくるまで私たちの外へと向かう道に取り組むということを意味しています。私たちが事物や世界の本質的な特性について語るとき、それが意味しているのは、その現実性を思考として、アイデアとして理解するということ以外のものではあり得ません。私たちはアイデアにおいて、事物の原則、すなわち、そこからあらゆるそれ以外のものが導き出されるべきものを知るようになるのです。哲学者たちが絶対かつ永遠なる存在と呼ぶところのもの、世界の根源であって、宗教が神と呼ぶところのもの、私たちはそれをここで提示された認識論に基づいてアイデアと呼びます。世界の中で、直接アイデアとしては現れてこないものも、結局はそれから進み出てくると認められることでしょう。表面的な考察にとっては、アイデアとは関係がないように見えるものも、より深い考えによって、それから導かれます。アイデアから導かれるもの以外のいかなる存在形態も私たちを満足させることはありません。いかなるものもその外部に孤立したままにしておかれるべきではなく、すべてがアイデアによって包含されるところのより大きな全体の一部にならなければなりません。とはいえ、アイデアはそれ自身を越えて行くことを要求しません。それはそれ自身の上にしっかりと基礎づけられ、打ち立てられた本質的な存在です。その理由はアイデアが私たちの意識の中に直接存在しているという事実の中にあるのではありません。それはアイデア自体の中にあるのです。もし、アイデアがそれ自身の存在を提示しているのではないとしたら、ちょうどその他の現実の部分がそうであるように、私たちに説明を要求しているように見えることでしょう。このことは上で述べられたことアイデアは私たちを満足させる形態において現れる、何故なら、私たちはそれが存在するようになることに積極的に関与しているのだからということと矛盾しているように見えます。けれども、それは私たちの意識という組織から出てくるのではありません。もし、アイデアがそれ自身の基礎の上に打ち立てられるのではないとしたら、私たちはそもそもそのような(満足という)意識を持つことができなかったでしょう。もし、何かがそれ自身の内に、そこからそれが湧き出してくるところの中心点を持たず、それ自身の外にそれを持っていたとしたら、それがそれ自身を私に提示するとき、私は私自身、それに満足していると宣言することはできません。私はその中心を見つけるためにそれを越えて行かなければなりません。私が、今お前はその中心に立っている、お前はここに留まることができる、という意識を達成することができるのは、私がそれ自身を越えたところを指し示すのではない何かに出会ったときだけです。私がある事物の内部に立っているという私の意識は、その客観的な特質、それがそれ自身の原則を包含しているという事実の結果に過ぎません。そのアイデアを保持することによって、私たちは世界の中心に入っていくことができます。私たちがここで把握するのは、すべてがそこから湧き出てくる源泉です。私たちはこの原則とひとつになりますが、それによって、そのアイデア、最も客観的であるところのものは、同時に、私たちにとって最も主観的なものとして現れるのです。事実、感覚知覚可能な現実が私たちにとってそのような謎である理由は、正に私たちがその内部にその中心を見出さないからです。それがそのような謎であることを止めるのは、それが私たちの内部で開示される思考の世界と同じような中心を有しているということに私たちが気づくときですそのような中心はひとつの統合されたものでなければなりません。実際、それは、他のすべての事物がそれらの源泉を説明するためにそれを指し示すというような種類のものでなければなりません。もし、世界に複数の中心、世界がそれを通して知られるようになる複数の原則があったとして、もし、ひとつの現実の領域がこの世界原則を、別の領域があの世界原則を指し示すとすれば、私たちがひとつのそのような領域にいるのを見出すやいなや、私たちはその中心だけに振り向けられることでしょう。さらに別の中心について調べてみるということにはならないはずです。ひとつの領域は別の領域について何も知ることはないでしょう。それらはお互いに存在していないのと同じです。ですから、ひとつ以上の世界について語ることは全く無意味です。様々な種類の意識があり、それぞれがアイデアについてのそれ自身のイメージを有している、という事実が、アイデアは世界のどこにおいても、いかなるタイプの意識においても、ひとつの同じものであると、いう事実を変えることは全くありません。世界についてのアイデアの内容はそれ自身の基礎に上にあり、それ自身の内部で完成し、完結したものとなっています。私たちはそれを生み出したりせず、それを理解しようとするだけです。私たちの思考はそれを生み出すのではなく、それを知覚するのです。思考とは生み出すのではなく、理解する器官なのです。ちょうど、様々な目がすべて同じ対象を見るように、様々な種類の意識が同じ思考内容を考えます。それらは同じものを考えますが、異なる側面からそれにアプローチするのです。したがって、それはそれらにとって様々な変化形で現れます。けれども、これらの変化形は対象における違いに由来するのではなく、むしろ、視角の違いによります。人間の観点における相違は、ちょうど景色が二人の観察者の立ち位置の違いによって、異なって提示されるのと同じようにして説明することができます。もし、私たちがアイデアの世界に貫き至ることがそもそもできたとしたら、私たちはこの世界が誰にとっても共通であることをいずれは確信することができるでしょう。もちろん、それでも私たちがそれを非常に一面的な仕方で見る、例えば、私たちの観点からすればそれは最も好ましくない等々の光の下に現れるというようなことはあり得るでしょう。私たちが完全に思考内容に欠けた感覚世界に直面するということは、恐らく決してないでしょう。私たちが純粋な感覚知覚に最も接近するのは、多分、まだ思考の痕跡すらない最初の幼少期においてです。私たちの通常の生活における経験は半分思考に浸透されています。つまり、それは既に、多かれ少なかれ、漠とした知覚から精神的な理解の明晰な光の中へと引き上げられたものとして現れます。科学は、この獏としたものを完全に克服し、経験の中には思考に浸透されていないものは何もないようにするという目標に向かって歩みを進めています。さて、認識論は他の科学のために何を成し遂げたのでしょうか。それはすべての科学の目的と使命を明確にしました。それはあらゆる個別の科学の重要性を私たちに示しました。私たちの認識論は他のすべての科学の特性と使命を決定づける科学なのです。それは、個々の科学が達成するのは世界存在の客観的な基礎であるということを明らかにしました。諸科学は特定の概念に至り、認識論はこれらの概念の実際の使命に光を当てます。ゲーテの認識論にしたがって定式化された私たちの認識の理論は、この特徴的な結果を通して、現在の他のすべての認識論から分化します。それは、単に思考と存在の間に形式的な関係を打ち立てようとするのではなく、論理だけを通して認識論的な問題を解決しようとするのでもなく、積極的な結果に至ろうとします。それは私たちの思考内容とは何であるかを示し、それはそれが同時に客観的な世界内容であることを見い出します。このことは認識論を人間にとって最も意義深い科学にします。それは私たちに人間としての役割を明らかにし、私たちが世界との関係でどのような立場にあるかを示し、それによって、それは私たちにとっての満足の源泉となります。それは私たちに私たちの真の天命を示します。私たちがその真実を自分のものとし、自分たちが引き上げられていると感じるとき、私たちの科学的な探求は新しい光の下に現れます。私たちが今初めて知ることになるのは、私たちは世界存在の最奥の核に最も直接的な仕方で結びつけられている、そして、この核は他のすべての存在にとっては隠されたままに留まるけれども、私たちによって発見される、世界精神は私たちの中で開示される、それは私たちの中にあるということです。私たちは世界の過程が私たちの中で完成へともたらされることを理解します。世界の他の力たちが達成できないことを達成するために私たちは召喚されている、そして、それを達成することが創造の極致なのだ、ということを私たちは理解するのです。もし、宗教が、神は人間を神自身の姿に創造した、と教えるのであれば、私たちの認識論は、神は創造を一定の地点にまでしか進めなかったということを私たちに教えます。この地点で神は人間を存在へともたらしました。そして、私たちが私たちを知るようになり、私たちの周りを見回すようになるとともに、私たちは、その仕事を前に進めるという使命、原初の力が始めたものを完成へともたらすという使命を自分たちに課します。私たちは自分たちを世界の中に浸し、既に敷かれた基礎の上に何を打ち立てるべきなのかを知ります。つまり、私たちは原初の精神の意図を理解し、そして、それらを遂行することを学ぶのです。こうして、認識の理論はまた、人間の意義と天職の科学となります。そして、それは(「人間の天職」についての)この問題を、フィヒテが18世紀から19世紀への変わり目に行ったよりもはるかに明確な仕方で解決します。真正な認識の理論から導かれることができるのと同じくらい十分な満足をあの力強い心による本から得ることは決してできません。私たちの使命は、個々の存在に働きかけ、それによって、それがアイデアから現れてくるように、その個別性が十分に昇華され、私たち自身がその要素の中へと移されているように感じるようなそのアイデアへと融合させるようにする、ということです。私たちの精神にとっての使命は、与えられたすべての外的な現実がアイデアから進み出てくるかのようにその現実を見通すことができる能力を獲得する、というような仕方で自らを形成することです。私たちは、私たちのあらゆる経験の対象がアイデアとして私たちの世界像の一部として現れるまでそれを変容させることにおいて、飽くことのない働き手であるように努めなければなりません。私たちは今、ゲーテの世界観がその出発点とした地点へとやってきました。述べられてきたことを用いて、アイデアと、ゲーテによるその探求の中で実際の行いとして示された外的な現実との間の関係を想像してみましょう。ゲーテは、ここで正当化されたような仕方で、事物の中心へと貫き至りました。彼は彼自身、彼の内的な仕事の方法を生き生きとした発見的能力であると見ていました。それは、彼がそれについて悪い予感を持っていたところの知られざる法則(アイデア)を認めつつ、それを外的な世界に導入しようとするものでした(散文の中の韻)。ゲーテが私たちに、私たちの器官を教育せよと警告するとき(編注:「動物は彼らの器官に教育され、人間は彼らの器官を教育し、そして、自分のものとする(散文の中の韻)。」)、それが意味しているのは、「私たちは私たちの感覚がもたらすものに単に屈服するのではなく、それらが事物を正しい光の下で示すように、それらを指導しなければならない(*プラトンのイデア論の洞窟の比喩参照」ということでもあるはずです。 (第9章了)人気ブログランキングへ
2024年06月01日
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