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実はニバリがジロで優勝した2013年と2016年、イタリアでそのゴールを見届けた筆者なのでした。郷里のメッシーナでのニバリの引退表明に際して、日伊協会の講義で訳した、2022年シーズン開始時のインタビューを振り返りながら、偉大な選手に敬意を表したいと思います。2016年ニバリのジロ優勝の朝トリノで買ったガゼッタニバリ: "僕がイブラみたいだって?そういわれると悪い気はしないね。まだ花道ということではないよ。頭の中はジロのことで一杯だ“ 37歳になる”海峡の鮫”はバレンシアで2月2日にスタートするプロ18年目の準備万端だ。 “まだ引退セレモニーのことを考える時ではないよ。” 1月 28日ミラノ日や、場所や、招待者は決まっている。確かなことは、自転車に乗り始めた時に始まった、ヴィンチェンツォ・ニバリの自転車競技への引退セレモニーが行われるということだ。 "ああ、僕が38歳になる2022年の11月14日が考えられているよ。―日は、誕生日であることを ニバリは明らかにした。 — 場所は僕がレーサーになったマストロマルコだ。友人みんなと、人生の偉大なライバルたちと。コンタドールやフルームも含まれるよ。" うーん、それじゃ全てきまっているの?ヴィンチェンツォ。 “いや、はっきりはしていない。実際ブレーキをかけるのは僕だったからね。今は、その事を考えたくないし、適切な時ではない。まあ、今年引退するのかどうなのか・・・。見てみよう” 今、アスタナのカルぺのトレーニングキャンプにいて、一月半ばにはローの風洞トンネルに行ったわけですけど、37歳になって、どうしてそれを選んだんですか? “自転車のポジションはとても流線形だから。しかし我々は沢山のことを試したよ。僕の経験上重要な提示を与えることがえきるからね。 そして、そのことを2019年の冬からしてこなかった。最近の2年はこれらのデティールは重要ではなかったんだ ” 総合的には貴方はまだ勝ちたいと熱望していると? “今年が長い道のりになることは確実だよ。まだグランツールで勝てるかもしれないと思うのは図々しいかもしれない。でも、アスタナに帰って来られたのはうれしいよ。僕はここで素晴らしい年月を過ごしたからね。確かなことは、信頼感と働く意思があるかどうかだ。” 今はマウリッツィオ・マッツォレーニに従って準備のためのトレーニングを行っているところですが、彼は我々に言いました。ビンツェンツォはプレッシャーが無いのを喜べる。彼は印を残し、いくつかの偉業を達成する可能性を持っている。良い刺激になっていますか? “ああ、彼は軽々と何かを思いつくよ。できるなら、ジロ・デ・イタリアでならより良いんだけどね。” あなたの監督、ジュゼッペ・マルッティネッリは貴方をイブラヒモビッチに例えますが、たとえ話は好きですか? “たとえ話だね。それに、僕はミランにはシンパシーを持っているんだ。責任を持って、それを受け入れるし、それを計算するよ。一緒にいない時も、いつもそのことを考えているんだ。” 2021年には、世界的な二人のイタリアスポーツ界のアイコンが現役を退きました。フェデリカ・ペレグリーニとヴァレンティーノ・ロッシはあなたにどのような影響を与えましたか? “当然世代交代だと思ったよ。イタリアは新しいスターが必要だ。2021年のスポーツ界は特別だったよ。” 誰に一番衝撃を受けましたか? “フィリッポ・ガンナだね。既に2020年の終わりに世界選手権のタイムトライアルで姿を現し、ジロの最初のマリアローザ着用した時にワクワクしたよ。2021年はその怪物ぶりの確認の年だったね” ジロの前にフランドルやルーベを走ると認めていますが。 “サンレモの後の4月のポイントにしようと思っているんだ。” そして、2年間トレックセガフレードにいたことが、自分が思っていた通りにいかなかったことについて、説明してくれますか? “少しは、そうだね。新たにとても国際的なチームに身を置いた。直後にコヴィドの感染症が始まった。我々はよいスタートを切ったといってもね。しかしレースが近づくと、あまりにあわただしいスタートとなって、何かが違っていたんだ。二年目は... 過ぎたことは話すまいとは思うけど、膝に違和感があったんだ。この問題でとても悪くすごしたよ。スポンサーとの契約の義務のために生きていたんだ。”実際、アスタナではイタリア語が話されることは、助けになりますか? “ああ、多いにあるね。トレックにいる間に、英語は上達したよ。一度あるトレーニングキャンプで質問の意味が分からず間違った答えを言ってしまい,馬鹿にされたことがあったけどね。いい気はしなかったよ。最後には、よりよくわかるようになった。仲間とは大きなつながりがあったんだ。そして、我々はいつもが話すことで問題を乗り越えてきたからね” アスタナへの帰還は貴方の運命の中で、心からの選択ですか? “ああ、何かもっと印を残そうとするなら、より良い場だよ。”(原文)Nibali: "Io come Ibra? Mi piace. Niente passerella, ho il Giro in testa" Lo Squalo a 37 anni è pronto a iniziare la 18ª stagione da pro’: debutto alla Valenciana dal 2 febbraio. “Non è l’ora di pensare alla festa d’addio” 28 gennaio - MILANO La data. Il posto. Gli invitati. Una certa organizzazione per la festa d’addio di Vincenzo Nibali al ciclismo aveva cominciato a mettersi in moto: "Si pensava al 14 novembre 2022, il giorno del mio 38° compleanno — rivela lo Squalo —. A Mastromarco, dove sono diventato un corridore. E con tutti gli amici e i grandi avversari di una vita, Contador e Froome compresi". Dunque è già tutto stabilito, Vincenzo? “Non proprio. In realtà sono stato io a frenare. Non ci voglio pensare adesso, non è il momento giusto. Magari la faremo effettivamente quest’anno, magari no... Vedremo”. Ora sta pedalando con l’Astana in ritiro a Calpe, a meta gennaio era andato in galleria del vento a Rho. Perché farlo ancora, a 37 anni? “La posizione in bici era già molto aerodinamica, ma abbiamo provato tantissimi 2 materiali: con la mia esperienza so dare indicazioni importanti. E poi non lo facevo dall’inverno del 2019. Negli ultimi due anni questi dettagli non erano stati curati”. In sintesi, significa che ha ancora voglia? “Di sicuro desidero che quest’anno sia una lunga passerella. Pensare di vincere ancora un grande giro sarebbe presuntuoso. Ma sono felice di essere tornato all’Astana, dove avevo vissuto anni bellissimi. Se ci sono, è perché c’è un senso di fiducia, di volontà di lavorare”. Ora per la preparazione la segue Maurizio Mazzoleni che ci ha detto: ‘Può divertirsi. Senza pressioni, Vincenzo ha la possibilità di lasciare un segno, di entusiasmare con qualche impresa’. Buona sintesi? “Sì. Inventarsi qualcosa di bello con leggerezza, senza stress. Se poi sarà al Giro d’Italia, meglio”. Il suo d.s. Giuseppe Martinelli l’ha paragonata a Ibrahimovic, le piace il parallello? “Bel paragone, e poi io ho una simpatia per il Milan. Lo prendo con responsabilità e ne terrò conto. Anche quando non siamo assieme, ci sentiamo sempre”. Nel 2021 hanno lasciato due icone dello sport italiano e mondiale come Federica Pellegrini e Valentino Rossi. Che effetto le fa? “Naturale che ci sia il ricambio generazionale. E l’Italia può contare su nuove stelle, il 2021 sportivo è stato straordinario”. Chi l’ha colpita di più? “Dico Filippo Ganna, che mi aveva già entusiasmato a fine 2020 quando in pochi giorni vinse il Mondiale a crono e poi vestì la prima rosa del Giro. Nel 2021 è stato fenomenale a riconfermarsi”. 3 Conferma Fiandre e Roubaix prima del Giro d’Italia? “Faremo il punto sul mese di aprile dopo la Sanremo”. Si è poi dato una spiegazione sul perché il biennio con la Trek-Segafredo non è andato come sperava? “Un po’ sì. Ti ritrovi in un gruppo nuovo, in un team molto internazionale. Poco dopo è cominciato il Covid, anche se eravamo partiti abbastanza bene. Ma l’avvicinamento alle gare per riprendere forse era stato troppo affrettato, sbagliato. Il secondo anno... in passato non ne ho mai parlato ma ho avuto noie alle ginocchia. Ho vissuto molto male questo problema, legato pure a sponsorizzazioni e obblighi contrattuali”. Il fatto che in Astana la lingua sia di fatto l’italiano l’aiuta? “Sì, conta tanto. Essere alla Trek mi ha fatto migliorare con l’inglese, anche se una volta in un ritiro non capendo una domanda avevo risposto nel modo sbagliato, finendo quasi per essere ridicolizzato. Non mi aveva fatto piacere. Nella parte finale, capendo di più, mi ero inserito meglio. Con i miei compagni c’è stato un grande rapporto, e abbiamo sempre risolto i problemi parlandone”. In definitiva, tornare all’Astana è stata una scelta di cuore? “Sì. È il posto migliore per cercare di lasciare ancora un segno”
2022.05.15
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先ずはこれまでの経緯を。 イタリアと自転車が大好きで、2013年から毎年欠かさず、5月にジロ・デ・イタリア(以下「ジロ」。)の観戦に出かけている、私、北村香奈江。 2017年は、その前年のJapan Cup2016に日伊共同チーム、Nippoのスタッフとして来日し、意気投合した女性、Leonilde Trescaさんに招かれて、サルディニアでのジロのスタートを見に行くことになりました。 ところが、ジロにエースとして出走予定だったミケーレ・スカルポーニ選手が練習中に交通事故で亡くなり、ファンから何かできることがないかと、声が上がりました。そこで、ジロに観戦に行く私が、日本の友人たちと集めた支援のお金を、ご遺族、特に奥様と五歳の双児の息子さんにお渡しするよう、Leonildeさんの取りなしで、スカルポーニ選手の属していたチームに託すことになりました。その模様がイタリアのジャーナリストによってインターネットで紹介され、記事を読まれた駐日イタリア大使から共和国記念日のレセプションに招待される、ということがありました。 2018年のジロの前にスカルポーニ選手のご遺族かミケーレ・スカルポーニ基金をたちあげ、2018年のジロ観戦時には、私も現地でご遺族に会って寄付をさせていただきました。 2017年にチームにお金を託す 2018年にはご遺族に直接募金を渡す さて、いよいよ2019年のジロの報告をいたします。 昨年予告したとおり、2019年5月11日のジロ・デ・イタリア開幕の地ボローニャに行ってきました。 今回の目的はただ一つ。ジロのスタート地点に2018年10月に宇都宮で開催されたJapan Cup Cycle Road Raceで募ったミケーレ・スカルポーニ基金への募金を持っていくことでした!募金はジロやツールドフランスの記事で作った新聞バッグをお譲りすることで取り組ませていただきました。 Japan Cup2018での取り組み さて、ボローニャに到着すると、サプライズが待ち受けていました。Leonildeさんから、「夕食会に招かれているから、一緒にどう?」と誘われ、軽い気持ちでオッケーの返事をしていたのですが、なんと、それは、イタリアのサイクリストのクラブ、BiciClubItalianoの開催する、100人はくだらない関係者の集まったパーティーだったのです!そして、夕食会の前にマルコ・スカルポーニさん(ミケーレのお兄様)に会って、直に募金をお渡しすることができました。 募金をご遺族に渡す また、元自転車選手で事故のため脊髄を痛め障害が残ってしまったけれど、今は怪我をしたアスリートの支援活動を行なっている、マリーナ・ロモーリさんも知り合いになり、夕食会では隣の席につかせていただきました。 そのほかにも、ペタッキ、ガルゼッリ、シモーニなどのイタリア自転車界のレジェンドたちにも会えて光栄の至りです。 BiciClubItalianoの夕食会の模様 その夜は、ボローニャの丘の上にある、Leonildeの自宅にお世話になり、翌日のジロのスタートの個人タイムトライアルの模様を見届けた後はとんぼ返りで帰国。 短い旅でしたが、ジロ・デ・イタリアに参戦していたNippoの日本人選手やスタッフにも会えて、大会の雰囲気を満喫してきました。 また、お知り合いになったジャーナリストの友人にはネット上にジロ観戦にやってきた日本人とオーストラリア人とシチリア人と言う画像をアップしていただきました。 ジロスタートの模様 スポーツイベントは選手だけではなく、そこに集う人々によっても作り上げられていることを実感しました。 ジロのキャッチフレーズは「世界で最も美しい国の最も過酷なレース」。五月の3週間の間、イタリアを代表する風光明媚な町や村を野を超え山超えてチーム一丸となってエースを勝たせるために進む様は、あたかも人生を見るようです。 私がイタリア語を勉強しはじめたのは、1999年にセリエAでプレーしていた中田英寿選手が出場しているサッカーの試合を見にペルージャに行ったことがきっかけです。当時、ユーゴ内戦で沢山の難民がイタリアにも来ており、ペルージャのスタジアム周辺では、カトリックの皆さんが難民支援の募金を行なっていました。イタリアにある基地からアドリア海を越えてNATOがユーゴに空爆を行っていることに反対するイタリア人も多くいる、ということをペルージャ大学でイタリア語を学んでいる日本人に聞きました。言葉がわからなかったばかりに、現地で支援の輪に加われなかったことは、日頃から組合活動を行なってきた自分としては大変残念なことで、帰国後すぐにイタリア語を学びはじめました。 巡り巡って、今は路上の安全のための活動の一端を担わせていただいています。 自分にできることで、これからもイタリアとの関わりを続けていきたいと思っています。
2019.12.30
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恒例となったジロ・デ・イタリア(以下「ジロ」と表記)観戦とイタリアの友人達への訪問記を今年も投稿させていただきだきます。 2018年は5月15日から20日という弾丸ツアーで行ってきました。 しかし、滞在期間は短くとも、そこはイタリア。2018年の旅も、なかなか濃ゆい内容となっとています。以下、旅の顛末です。 5月15日夕刻関空発。翌16日の早朝、ローマの空港で友人がピックアップしてくれて、車でアペニン山脈を越えて、ジロ第11ステージのゴール地点、マルケ州のオジモに向かいました。 この第11ステージは昨年のジロの前に練習中に交通事故で亡くなったミケーレ・スカルポーニ選手の故郷フィロットラーノを通過する、メモリアル・スカルポーニステージとして設定されており、今は亡き名選手がいつも走っていた道をこの目で見たかったため、この日を選びました。加えて5月8日に、遺族が設立した、ミケーレ・スカルポーニ基金に現地で募金をする、という目的もありました。この基金は道路上では全ての人々が尊重され、悲惨な事故を繰り返さないよう、ということを活動を目的としています。 高速に乗る前に、まずはイリーでコーヒーを一杯。イタリアに来たことを実感するひとときです。 イタリアの丘陵地帯を車で走る 友人の計らいで、選手が通過する前のコースを車で走ってもらうことができました。そして、フィロットラーノの街に入る前に飲み物を仕入れに寄ったバールがスカルポーニがいつもトレーニング前に寄って朝ごはんを食べていたところでした。甘いものが好きで、好物のクロスタータ(ジャムタルト)を半分平らげてからトレーニングにでかけていたそうです。日本から来たファンだ、と言うと、色々と想い出の品も見せていただきました。 スカルポーニの故郷フィロットラーノと常連だったバール フィロットラーノには、この日のステージのスプリントポイントが設定されており、街の中心は沢山の映像で飾られてレースの集団の通過を待っていました。私はレースが来る前にゴール地点まで移動しましたが、このスプリントポイントをスカルポーニの同僚だった、LLサンチェス選手が取り、ファンの大声援を浴びていました。 フィロットラーノの中心街 オジモでは、スカルポーニ家への橋渡しをしてくれるはずだった友人が都合で来られなくなり、自力で基金への募金と家族にプレゼントするための土佐和紙バッグを渡すために、優勝ゴールを見るのは諦めて3キロも離れた場所に停まっているスカルポーニが生前所属していた、アスタナチームのバスにスタッフを頼って行きました。その後、ゴール地点へ移動しましたが、同行してくれた友人が、私のことを「この人は日本から来た自転車の安全の為の親善大使だ」と言ってイタリア国営放送Raiの係員に直談判(すごいハッタリです)。すると、ゲートが開き、スカルポーニの奥様とお兄さまが出演していた、レース後の番組、プロチェッソ・アラ・タッパの舞台の裏に入れてしまいました。そして、番組終了後にご家族に会って、募金とプレゼントををアスタナチームのスタッフに託したことを話すと、直に開けたいので夕食の後の時間にチームの宿泊地になっている、フィロットラーノのホテルに来て欲しいと言われました。 オジモで撮った唯一のレースの写真。城壁の中の坂を上がったところがゴールでした。 スカルポーニのご家族と Googleのナビを頼りにホテルに行ってみると、奥様だけではなく、ご両親、お兄さん、妹さんもお会いすることができ、昨年の支援のお金のこともしっかりと覚えてくれていて、感謝されました。 スカルポーニ家へのお土産の土佐和紙バッグ アスタナの宿舎ではもう一つ驚くべき遭遇がありました。それが、こちらのイタリアのスポーツ紙、ガゼッタ・デロ・スポルトの記事。「五月16日の夕方、アスタナのフィロットラーノの宿舎での夕食にサッカーイタリア代表の新監督、マンチーニが招かれた。マンチーニは大の自転車ファンでスカルポーニとはマンチョ、スカルパと呼び合い、一緒に自転車に乗っていた仲。夕食にはスカルポーニの家族も招かれた。」とあります。 写真は、スカルポーニの奥様、アンナさんとマンチーニ監督のツーショット。 マンチーニはマルケ州アンコーナ県のイエージ出身。正に同郷の友だったんです。 私は流石に夕食は辞退して帰りましたが、スカルポーニ家の皆さん、アスタナの監督、選手の皆さん、募金を渡すために尽力してくれたスタッフの方と挨拶できて、来てみて良かったとつくづく思いました。スカルポーニ家と日本のファンたちの結びつきができ、それが道路運行の安全につながるなら、ミケーレも天国できっと喜んでくれているだろうし、ホンモノの安全大使になれるよう精進したいと思いつつ、日本では絶対に開かない扉の開くイタリアに脱帽することしきりです。 募金のお礼にスカルポーニ家からいただいた、その名を冠したグランフォンド(サイクリングイベント)の記念ジャージ 翌17日は、アンコーナの駅まで車で送ってもらい、同行の友人と別れて、第12ステージのゴール地点、エミリア・ロマーニャ州、イモラのエンツォ&ディノ・フェラーリサーキットへ。アイルトン・セナの最期の地となったことでも、有名なF1コースを自転車で走り、ゴールするというコース設定に興味津々です。イモラの駅で、モータースポーツと自転車のファンだという親子に声を掛けられて、街を抜けてサーキットまで一緒に歩いて行ったのですが、日本から来た、と言うと、鈴鹿サーキットやホンダ、ヤマハ、カワサキと言ったバイクの話しに花が咲き、バールでコーヒーをおごってもらい、モータースポーツメッカにいるんだなあ、と実感した一幕です。 ボローニャ在住の友人にも無事会えて、サーキットの観客席から自転車レースを見ると言う、滅多にない経験をしました。 イモラのサーキット その夜は、チェゼーナ近郊在住の友人宅を訪問。イタリアに行くときは欠かさず訪問していて、いつも美味しい手料理をご馳走になっているお礼に、今回は私が日本から持参したインスタントラーメンを作ってふるまいました。チャーシューの代わりに生ハムを乗せ、盛りつけはなんとなくスープパスタですが、味は醤油ラーメン。友人の子ども達はお箸を一生懸命使いながら麺を味わっていました。 友人宅で作ったラーメンと喜ぶ子どもたち 18日はローカル線に乗り。チェゼーナからボローニャ経由でヴェローナへ。 この日はヴェローナのホテルにチェックインした後、ジロ観戦はせずに、トレンティーノに友人のプロ自転車選手、ダニエル・オスのスポンサーやご家族、友人に会いに行きました。オス選手は今年5年間在籍したアメリカ籍のチームBmcからドイツ籍のBora-Hansgroheに移籍し、当日はカリフォルニアのレースに出ていため不在でしたが、お母様から、世界チャンピオン(当時)の、サガン選手にアシストてしての働きを請われての移籍であることをお聞きしました。自転車競技ではエースの勝利のために自らを犠牲にして働くアシストの位置付けがとても高く、オス選手のこれまでの働きが評価されての移籍であることがわかりました。 トレンティーノでは、訪問した沢山の友人に、日本の新聞で手作りしたバッグにおせんべいを入れてプレゼントしたのが、大評判でした。高知発祥の新聞バッグがイタリアデビューです。 大好評の新聞バッグ トレンティーノで車で旅の移動を助けてくれた友人は、自転車レースでバイクサポーターとして選手の先導などをしていますが、ツアーオブアルプスにバイクサポーターとして参加していた際に撮影した、スカルポーニのレースさ最後の登りの写真をプレゼントしてもらいました。 この、トレンティーノのレースに勝利したミケーレは、レースから帰宅した日に「たとえ1日に一枚でも、僕は家に二枚のリーダージャージを持って帰ったと思っていたんだ」という双子の息子さんたちへの愛情に溢れるツィートを残し、その翌日の練習中の事故で亡くなってしまいました。 トレンティーノ人の友人にとっての大事な写真。決して忘れることはできません。 スカルポーニの最後の登りの写真 19日はヴェローナからミラノに向かい、帰国。わずか4日間の滞在でしたが、たくさんの友人と会い、知り合いました。このイタリアの友人達がいなければ、こんな素敵な経験はできなかった事でしょう。 帰国後、フィロットラーノのホテルでお会いしたスカルポーニのお母様の涙がどうしても頭を離れません。 最愛の息子を事故で突然失ってしまった心の傷は一年たっても癒えることは無く、その悲しみの深さには想像を絶するものがあります。そして、悲劇を繰り返さないようにと、ご遺族が中心となってスカルポーニ基金で道路の安全のために行なっている活動を支えたいと思っていたら、私の作った新聞バッグを気に入ってくれた日本の友人達からアドバイスがありました。ツールドフランスやジロ・デ・イタリアのレースの記事の載ったフランスやイタリアの新聞でバッグを作って、募金を募るのです。 2018年10月に宇都宮で開催されたJapan Cupサイクルロードレースでお披露目したところ、心ある何人かのかたがたがこの新聞バッグ募金に協力してくれました。 来年のジロ2019のスタートの地はボローニャ。そこに日本からの募金を持って行くのが、目下の私の目標です。 宇都宮でレースのコース脇に飾った新聞バッグ。ファンの皆さんが喜んで募金し、お持ち帰りくださいました。皆さんもご希望があれば、ぜひお声かけください。
2018.12.08
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アラン・マランゴーニ選手に関するイタリアの記事の中から、ツールド沖縄のレースの翌日、11月12日に掲載された、レパブリカからの記事を訳してシェアします。競技人としての人生とともに、出身地であるロマーニャの人々の気質についても語られています。インタビュアーはCOSIMO CITOです。自転車競技 マランゴーニ、まさに最後のレースで初勝利 「おとぎ話は実在した」 2018年11月12日 text:COSIMO CITO https://www.repubblica.it/sport/ciclismo/2018/11/12/news/ciclismo_marangoni_prima_vittoria_proprio_all_ultima_gara_le_favole_esistono_-211455143/ マランゴーニの沖縄での勝利のゴール(写真はTwitterより) 13万5千キロメートル、714日間のレースの末のまさにキャリアのラスト数メートルで、ロマーニャ人、マランゴーニは勝利の感動に挑戦。「素晴らしいよ。今、勝利の味を知り、受け入れたんだ。」 ローマ最後のチャンス、最後のレースの、11年のキャリアのラスト210キロメートルの最後の飛び出しだった。吐く息しかない真っさらな空間は、歓喜の時となった。沖縄の島でアラン・マランゴーニはNippo-ViniFantini-Europa Oviniのジャージの元にただ一人で生活をし、おとぎ話のような初勝利を挙げた。数えれば13万5千キロ、714日間のレースの日々をその肩にに背負ってきたことになっていた。そして、勝利はそれらのレースの最後の数キロでのことだった。 殆どタイムアウト前の勝利でしたね。「どう説明すれば良いか、わからないよ。でも、このツールド沖縄は、僕にとって世界選手権のように価値があるものだ。有名選手の出走はないにしても、勝利の感動は素晴らしいものだよ。勝利の感動を知ることができて、今受け入れているところだ。」 両手をあげるのに地球を三周回したわけですが、どんな風に挑戦したのですか? 「子どもの頃から、34歳に至るまでの人生25年間というもの自転車に乗っていることは素晴らしいことだと見出したよ。自転車競技というものは、素晴らしい。勝利のチャンスは決してぼくに巡ってこなかったけれど、勝ちに行きたいと狙っていたよ。それに挑戦したんだ。」 偉大なチームでのキャリアにおいて常にアシストを務めるためには個人的な喜び犠牲になるのでは? 「チームの一員として、感激は変わらないよ。2015年のジロに話を戻そう。フォルリのステージだ。ボエム、ブサット、マラグーティと4人の逃げに乗っていた。ロングエスケープで、協調して引いていた。肝心なことは、チームキャプテンのために道をならすことなんだ。サガンが下に入れば、降参することになるからね。強靭な精神が必要なんだ。」 714回目のレースはあなたにぴったりなものでした。 「沖縄は昨日朝6時のスタートだった。まるで古典的な自転車競技に出たようだったよ。唯一のイタリア人として、モチベーションを持って流れの中にいた。好機に飛び出したよ。遂にね。」 最も美しい引退ですが、考え直す気は? 「無い無い。今が一番の時なんだ。新しいキャリアがスタートするよ。自転車競技に関するWebテレビをやる予定だ。12月半ばには全て分かるだろう。」 あなたにとって自転車競技とはどんなものだったのですか? 「人生の生き方の一つで、発見の連続だった。沢山旅をして、際限なく多くの国・地域で過ごした。沢山の異なる文化を知り、沢山のものごとを書いた。自分のレースや行った場所について書くのを楽しみもしたよ。 今では、若い選手達にとってはマシンの性能や何ワットで行ったかがすごく気にかかると思うけど、自転車が提供できる唯一の長所をもっと楽しむように言いたいね。」 もちろん結果はいつも重要だ。今や毎年、Uciの新しい規則によっても沢山の若い選手達が自転車を降りざるをえなくなるんだ。 でも、旅人の発見してそれを楽しみたいという本能は決して失う必要はないよ。これが僕が自転車から学んだことなんだ。 あなたはパンターニやカッサーニや、ロベルト・コンティと同じくロマーニャ人です。ロマーニャ人の自転車競技への道は他には無い詩やロマンティシズムの中にあるけれど、それは見つけにいかないのですか? 「その通りだ。僕たちロマーニャ人は全ての行いの中に最高に情熱的な物事とともに生きているよ。苦労を溜めることなしに、美しい人生を生きるのが好きなんだ。陽気な気持ちとメランコリーが同居しているよ。今は振り返って、良かったことだけを見るんだ。苦労は忘れたよ。この毎年というもの果てしの無い苦労をしてきたけれど、こうして終わりだ。おとぎ話のようなドラマは存在していたんだよ。」
2018.11.18
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2018年11月11日に開催されたツールド沖縄210キロのチャンピオンレースを勝利し、引退の花道を飾ったアラン・マランゴーニ選手に関する記事をイタリアのサイトからお届けします。まずはciclowebの記事からです。アラン・マランゴーニはキャリア最後のレースで初勝利。ツールド沖縄のタイトルを手にした。 http://www.cicloweb.it/2018/11/11/allultima-gara-della-carriera-arriva-la-prima-vittoria-per-alan-marangoni-suo-il-tour-de-okinawa/amp/?__twitter_impression=true アランマランゴーニが、プロとしての10年のキャリアにおいて、決して勝利することがなかったのは、率直に言って不公平なことだったと言わねばならない。 彼はその態度においても、イタリアの自転車界のために捧げた前向きなエネルギーにおいても模範的な自転車選手だ。ジロデイタリア2015のフォルリのステージでの闘いを見るがよい。ほんの少しのところで勝利の夢に届かなかったことはそれに費やされた全ての働きにとって残念極まりないことだった。 勝利するか、それに届かないかは自転車選手がプロとしての歩みにおいて成し遂げる評価の物差しだ もちろん、人としての満足は喜ばしいものだ。こうしてすでに何週間か前に2018年シーズン末をもってキャリアを終えることを公表していた、ロマーニャ人マランゴーニは、遂に、その働きに報いるべく両腕を天に向けてあげることができたのだ。 それは、彼の故郷コティニョーラからほぼ一万キロ離れた、流血の経験により世界に記録された島での勝ち取った勝利だ。 アラン・マランゴーニはまさしく今日、1.2カテゴリーの210キロkmのレーンレース・ツールド沖縄に勝利した。Nippo Vini Fantini Europa Oviniの34歳の選手は、全てのライバルたちに差をつけてこの長く、尊敬に値するキャリアを全うした。 2位には18秒差でオーストラリア人のフレディ・オヴェット(オーストラリアンサイクリングアカデミー)スプリントでバーレーンメリダの台湾人(この日はナショナルチームで出走).チャン・カイ・フェン。49秒差でオランダ人のデレクアベルベッカーリンク(WTCでぃアムステルダム)。日本人最高位の小野寺玲(宇都宮ブリッツェン)は首位と1分28秒遅れだった。続いて、少し短いながらも、spaziociclismoからおとどけします ツールド沖縄2018 マランゴーニがキャリアを勝利で終える https://cyclingpro.net/spaziociclismo/sintesi-gare/tour-de-okinawa-2018-marangoni-chiude-la-carriera-con-una-vittoria/?amp アラン・マランゴーニは自転車競技の世界に両手を上げて別れを告げる。34歳のロマーニャ人は、ツールド沖縄の2018で単独で他を圧倒することに成功。日本の1.2カテゴリーのクラシックレースはキャリア最後にしてNippo-ViniFantiniの最後のシーズンのレースだった。 元リクイガスの選手にとっては、プロとしての唯一の勝利のチャンスをものにし、キャプテンたちのために尽くしてきた自転車選手としての人生を貴重なものとした。 表彰台には18秒遅れでBmcのスタジスタ、フレディ・オヴェットとバーレーン・メリダのキュン・カイ・フェンが入った。最後に、tuttobiciからの、そのキャリアをたたえる記事を紹介します。 沖縄~マランゴーニが勝利でキャリアを終える https://www.tuttobiciweb.it/article/2018/11/11/1541927843/okinawa-alan-marangoni-chiude-la-carriera-con-una-vittoria-gallery-tuttobiciweb 「こんな結末はおとぎ話の中にしかありえないと思っていたのに…言い表す言葉も無いよ。心の中はただただ感動の海のようだ。」 涙を流しながらこの言葉と共に、アラン・マランゴーニは彼のおとぎ話のようなプロ自転車選手としての最後のレースの物語について語った。彼はいつも追い求めていた勝利を手にしたのだ。それほどまでのものであるスポーツのおとぎ話は言葉にならないものを残すフィナーレが必要だ。マランゴーニのこのフィナーレは、日々の積み重ねが今日、彼のプロとしてのキャリアの最後に見せつけたものだ。オレンジブルーのチームのために働いた男は今日リーダージャージを身につけてツールド沖縄でレースの主役を演じたのち、終盤に数々ののアタックの応酬の末に、プロ初勝利を勝ち取った。そして、Nippo Vini Fantini Europa Ovini にとっても本拠地日本のロードでシーズン11勝目を飾り、最高の雰囲気でシーズンを終えることとなった。 レース展開 シーズン最後のレースは常に展開を作ろうと動くものであるが、マランゴーニはそのことを十分、レースの最初から最後まで承知していた。 スタートから30キロを過ぎた地点でオレンジブルーの旗手は、この日の勝負を決定づける逃げに乗った。11人の逃げ集団には全ての主要なチームの選手が含まれていた。そして追走との差は8分まで広がった。常に高いリズムを刻み、過酷なコースは逃げ集団に分断を生じさせた。ラスト10キロ地点では、逃げはマランゴーニを含む4人となり、この4人の中から勝者が生まれる可能性が高くなった。最後の登りで最初に動いたのはバーレーンメリダに属する台湾人のクン・カイ・フェンだったが、とらえられた。ゴールから4キロ地点で、レースを決定づけるアタックが起こった。アラン・マランゴーニは、彼の全キャリアにおいて誇りを持ってまとっていたアシストのマントを取り去った。勝者のマントをまとうために。そして追走を振り切り、沖縄の最初のゴールテープを切った。気概と、プロ意識とこの日の他のどの選手にも負けない、長く保たれたモチベーションの勝利だった。 主役の声「僕のキャリアの中で、いつも狙っていた完璧なレースだった。まさに今日、それを実現したんだ。」数限りないキャリアの末の最後のレースで日本で成し遂げた勝利直後の興奮 に声を熱くしたマランゴーニのコメントだ。「ラスト数キロにアタックをかける冒険にかけたんだ。このゴールのために全てのカードを切りたかった。キャリアの中でも、ずっと追い求めていたよ。両手を天に上げて勝利をするのは当別なことだ。言葉に表すことのできない強い感動だ。一ヶ月間故郷を離れ、美しい印を残して去りたいという思いから、犠牲を払ってきた。おとぎ話のような結末を何度も夢見たけれど、今日それが実現したんだ。僕をこのシーズン最後に支えてくれて、このゴールにつかせてくれた仲間達、全てのスタッフに心から感謝したい。さあ、これから家に帰るよ。新しい冒険が待っている。今日ほど、これこそが僕の故郷だ、と思ったことのなかった自転車の世界でね。」 着順ORDINE D’ARRIVO 1. Marangoni Alan (Nippo - Vini Fantini - Europa Ovini) in 5:05:04 2. Ovett Freddy (Australian Cycling Academy - Ride Sunshine Coast) a 0:18 3. Feng Chun Kai (Bahrain Merida) 4. Beckeringh Derk Abel a 0:49 5. Onodera Rei (Utsunomiya Blitzen) a 1:28 6. Hatanaka Yusuke (Team UKYO), 7. Nakata Takuya (Shimano Racing Team) 8. Masuda Nariyuki (Utsunomiya Blitzen) 9. Leinau Louis (Team Sauerland NRW p/b SKS GERMANY) 10. Oka Atsushi (Utsunomiya Blitzen)
2018.11.13
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今期限りでの引退を決めたNippoVini Fantini のアラン・マランゴーニ。香港で行われたハンマーシリーズの後、中国のツアーオブハイナンでキャリア最後のステージレースに臨み、最終ステージでは素晴らしい逃げを見せて、敢闘賞を受けました。その最終ステージのスタート前のインタビューの模様をtuttoBICIのサイトから訳してシェアいたします。TextはDiego Barberaによります アラン・マランゴーニ自転車は僕の運命だったhttps://www.tuttobiciweb.it/article/2018/10/31/1540955737/tour-of-hainan-2018-alan-marangoni-ritiro-intervista自転車競技はアラン・マランゴーニの運命における人間性の記録であると明言することは、決して大げさなことでは無い。Nippo Vini Fantini の34歳のレーサーは、今日(2018年10月31日)そのキャリアにおける、最後のステージレースの最終ステージに臨み、文字どおり選手生活に感謝の別れを告げる局面に来ることができたそれは、あとわずかな日々の後に、沖縄で汗をかく最終のレースへと続いていく。彼にツアーオブハイナンの最終ステージである、第9ステージのスタート地点でインタビューすることができた。以下にインタビューへの答えとその肉声の聞けるオーディオを記すこととする。(それらは価値あるものだ) キャリアにおける最後のステージレースの最終ステージのスタートだ。「自分のレベルを見ながらスタートする最後のレースでもあると思うよ。2.1のレースである沖縄は少し特殊なものだからね。今すごく興奮しているよ。友人だったり、かつてのチームメイトだった選手達と対抗して走るんだ。動悸が速くなるのを感じるよ。こんなに多くのレースの世界に身を置いてきた後だからね。あとわずかで全てが変わると考えると、説明するのが難しい、奇妙な感覚が湧いてくるよ。」 今朝はどんな風に目覚めた? 「アラームで起こされたよ、足の痛みも、疲れも感じなかったのは、アドレナリンのなせる技かな。今日、僕は新たなステージレースに臨むような気分だ。最終ステージというのは全力を尽くしたいし、さらなる力を出したいものだからね。ほぼ全てが終わってしまうのは残念だよ。キャリアのいくつものレースが脳裏に巡ってくるんだ。「もう少し強くそのことに思いを馳せていれば。」という思いは沢山湧いてくるけれどね。皆に後悔はつきものさ。偉大なチャンピオンたちにしても、ミラノサンレモのようなレースに勝てたのに、などと思いおこすのさ。個人的な満足よりは後悔が立ってしまうことがあるね、」 例えば?「ジロデイタリア2015の有名なフォルリのステージだ(マルケ州のチヴィタノーヴァからフォルリに至る5月19日のステージを指す)。僕は200キロの五人の逃げに乗った。結果はこのとおりさ。ラスト1800メートルで僕はアタックをかけた。友人で練習仲間のアレッサンドロ・マラグーティが抜け出したから、協調できると踏んだんだ。でもラスト1000メートルで彼が3度目に僕の所に来ようとした時に、後方から来たボエムに捕らえられ、ボエムか勝ったんだ。僕は踏むのをやめて4位に終わった。死ぬほど嘲笑われたかのような気分だったよ。ボエムの勝利はマラグーティあってのものだ。僕はトレーニング仲間の友人に裏切られたと確信したよ。後にそのことを何度も物語ったけど、もう過ぎたことだ。彼はホームタウンゴールだったからちょっと思考が飛んでいて、それ以上何も分からなかったと言ったよ。自分自身のファンの前でジロのステージって感動を与えるなんて、誰にもあることではなかったから、ともかく、大きな興奮が残ることだろう。僕もちょっとした機会に誰かに興奮を与えたのさ。」 君のアシストによって沢山のチャンピオンが勝利してきたね。「僕にとって一番情熱をかけたのはアシストとしての働きだ。例えば、サガンのアシストをしたツールドフランス2013。皆が集団を引くために前方に位置どり、チームの一部となってカヴェンディッシュ、キッテル、グライペルやそのチームをちぎってチームで対抗し、彼らは捕まえることができなかった。ゴールでペテルが勝ったのは忘れ得ぬ記憶だよ。これ以上価値があることは、多分この中国のツアーでプロとして勝利することだろうね。」 レースの日々で思い浮かんでくるその他の思い出は? 「ニバリとジロとブェルタを走ったことだ。常に前につけて走らなくてはならなかったからすごいストレスだった。突然のアタックを潰して彼をガードしなければならなかったからね。バッソと走ったことは、彼をトップにつけることはできなかったけれど、とても良い思い出だ。ヴィヴィアーニとも走ったな。何も後悔することは無いよ。でも、それぞれが、まさに定めを持っていたんだと思う。いま起こったことは、起こるべきしてなされたことだ。僕たちも君たちも、今この時の状況に存在しているんだ。心を穏やかにすると、良い気持ちになるんだと考えているよ。今の若者たちのことを思うと、10年間はプロとして走れることが署名されているんじゃ無いかな。」 最近の自転車競技はどんな風に変わった?「自転車の世界ではチャンピオンなら沢山の可能性はあるけれど、平均的な選手なら、あるべき時を誤ったら、取り返しがつかないよ。僕の頭に浮かぶのはチモライのような最強の選手だ。彼はイタリアのヨーロッパ選手権勝利に貢献したけど、今ではプロとしての行き先に苦労している。僕の生きてきた自転車競技には沢山の友情に値する価値があったものだ。アシストてしてして、チームに属する人間として、プロトンの中においてもね。今では全てがあまり重要ではなくなり、あまりにも簡単に沢山の良いレーサーたちが走るのをやめてしまわなければならなくなるのを目にする。本当に残念だよ。僕はうまくいったけれどね。」今、プロトンはあまりにも無政府状態になっているのかな?歳を重ねたレーサーは若いレーサーについて嘆いているよね。「確かに、全体的に前より無秩序な状態になっているよ。若者たちは、他者へのリスペクトや紳士協定を打ち破っていく。スペクタクルには良いことだよ。規制を無くし闘争心に火がつくけらね。例えば直近のジロでも最初から最後のステージまでそうだった。そのかわりアシストてして働く者にとってはキャリアを短くしてしまうんだ。皆が1月から12月まで一年中力を出し切らなければならない。体はそんなに長くもたないよ。グゥエルチレーナが僕に言っていたよ。最近の計算ではこのカレンダーとリズムではせいぜいもって5-6年だよ。」 運命のことに話を戻そう。君が自転車に初めて乗ったのは?「自転車に囲まれた環境のおかげなんだ。僕の母がたの祖父はアマチュア自転車チームの監督で父はそのチームの選手の一人でエースになったんだ。祖父は秘蔵っ子を家に食事に連れて来ることもしばしばでそこで母と知り合って少しずつお互いの関係を育んでいったんだ。自転車競技が僕の運命たる所以だよ。」 いつ走り始めたの?「1993年の9歳のときのことだ。僕の父、ジャンドメニコは全ての若いレーサーや新人やアマチュアに至るまでと知り合いだったからね。いなかったのはプロだけだ。僕の家はいつもレーサーであふれていた。監督だけでなく、チーム責任者、マッサー、トレーナーもいたよ。だからこの世界の中に身を置くことになった力は、祖父と一緒だったということだ。彼もまた、自転車競技病で、僕も自分が求めるものを実現しようとしたんだ。93年以来、自転車から降りることは無いよ。」最初のレースは?「ラヴェンナ県にあるロマーニャの低地の小さなサーキットでのことだ。僕の中には深く刻まれている思い出だよ。スタート時は少し後方だったけど、ほんの少しカーブを過ぎたら4〜5人でカーブに入り4位の位置を保ち、5位以内の順位を守っていた。そして五人のゴールスプリントはまるで世界選手権の勝負のようだったよ。カップがもらえることになっていたから、人生における大きな経験だよ。残念ながら6着だったけれどね。」最初の勝利は?「93年、ラヴェンナ県のまた別のサーキットでのことだ。すごく興奮したよ。アシストの話と他の人を助けながらキャリアを積み上げて行く話をするのは良いものにはちがいないけど、子どもは勝ちたい思いから走り始めるのさ。」君のアイドルは?「パンターニが僕の年代のみんなが口にする人物だ。みんなにとってあこがれの人だったよ。」会ったことはある?「すごく残念なことに握手してもらったことも一緒に写真を撮ったこともないんだ。ジロで集団の中で走りすぎて行くのを見ただけだ。」引退後は何をする?「新しいスタートを待っているところだ。でも自転車に関係した環境にとどまると思うよ。自転車から去ることなんてできないよ。僕の人生だからね。僕はチャンピオンではなかったけれどこのスポーツが血の中に流れているんだ。」アラームで目覚めたとき、今日逃げに乗ろうと思った?「今日は全ての薬きょうを撃ち尽くすような気持ちで、少なくとも逃げには乗りたいと思っている。ジャージを持っているアンドローニの選手と話したんだ。僕は総合で20分遅れだから、怖くないよ。君たちは三ステージを勝利し総合でもリーダーだ。心にかけてくれよ。チャンスに逃げに乗れるかどうかわからないけれどここぞという時には全て飛び出そうと思っている。ラスト1キロで捕まっても上等だ。テレビカメラに映って感謝の意を表すんだ。逃げに乗って映画のようにゴールするのが唯一の夢だ。まあ、現実は厳しいけどね。もし人生が映画のようなものだったら、フォルリのステージで勝っていただろうからね。」
2018.11.09
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今季限りでの引退を表明したNippoのアラン・マランゴーニ。去る10月11日に、ハンマーシリーズ参戦のため、香港に旅絶つ前にミラノで行われたインタビューの模様です。インタビュアーはtuttobiciのGiulia De Maioですマランゴーニが引退。 「本当に素晴らしい旅だったよ」 https://www.tuttobiciweb.it/article/2018/10/11/1539189444/alan-marangoni-dice-addio-ciclismo-agonistico-inizia-una-nuova-vita-giulia-de-maio-tuttobiciweb 2018年10月11日 Text Giulia De Maio 25年間自転車選手として走った後、アラン・マランゴーニは選手としての人生に幕を閉じる準備にかかっている。 34歳で、10シーズンをプロとして走った。ロマーニャ人はレーサーとしての人生を終え、自転車界での新たな役割を果たそうと決心をした。 「GPベゲッリか僕のイタリアでの最後のレースだった。僕の引退を知った、カーブに陣取るマランゴーニファンクラブのみんなは涙ぐんでいたよ。10年間プロとして走ったけれど、もうプロとして続けていくためのコンディションではなかった。イタリアの自転車競技はより厳しくなっている。次のシーズンに立ち向かうための感覚は率直に言って、前のように感じられなくなっていたんだ。最後の年は、本当に大変だった。カレンダーと戦いながら第三の地域であるアジアに何ヶ月も滞在するのは、今までの年月よりも新たな刺激に対する負担がかかるものだったんだ。何ステージも全力を尽くした体力的なことに耐えることができず、自転車を降りて、地に足をつけるときが来たと感じたんだ。」 これは、香港へと旅立とうとしている時に語られた言葉だ。彼はそこで、ツアーオブハイナンの前にハンマーシリーズの最後のレースを戦い、11月11日の沖縄で、自転車選手としての幕をゆっくりとおろそうとしている。 「変化は恐ろしいよ。アスリートにとって競技をやめることは、心に傷を負うことだ。まさに習慣を変える義務を負うことになるけれど、僕は晴れ晴れとし、変化する準備はできているよ。勉強を全て終えて、初めて仕事に着かなければならないときのような気分だ。 僕にとっては、一か月後に人の人生が始まるようなものだよ。ここ数年、何人かの偉大なチャンピオン達と走ってきた。ジロデイタリアに7回、ツールドフランスに1回参戦した。世界でも最も名高い数々のクラシックレースも走った。アシストの称号は、僕に相応のものだ。(微笑みながら) 僕のキャリアで誇れる勝利は2016年のチェコサイクリングツアーでCannondaleの一員としてあげたチームタイムトライアルの勝利だけだ。でも、数々の忘れられないレースがある。たとえば、2013年のツールドフランスのアルビのペテル・サガンが勝利したステージ。サバティーニ、デ・マルキ、モゼールと120キロの間集団を引き、残り1キロで逃げを吸収してサガンを勝たせたんだ。それぞれの働きは、決定的なものだった。2014年のトレンティーノで、イタリア選手権の個人タイムトライアルの表彰台に上ったことも、永久に忘れないよ。過ごしてきたこと、贈られたものから得た感激は沢山あるよ。本当に素晴らしい旅だった。」 サドルの上で蓄積されま疲労はどんなプロ選手をも苛むものだ。 「他の選手よりは苦しさは少なかったと確信しているよ。僕には勝利のできる才能は与えられていなかったけれど、自転車で汗をかくことにおいては、勝利してきたという自負がある。僕はサガン、ニバリと言った選手から中根とも働いてきた。日本の仲間へのリスペクトを込めてね。2016年にはジロ・デレ・フランドレに出て、一年後の同じ日曜には、ツールド台湾を走っていた。カトリックの神には忘れ去られた地だ。如何なる時にも、僕は同じように全力を尽くした。なぜなら、このスポーツを愛していて、ただ見ているだけのものではなかったからだ。この最後のシーズンに、僕は敬虔の念と異なる世界からの適合の精神を見せたと思う。もし、広く物事を担える者でなかったなら、リクイガスに行き着く前に、選手をやめていたことだろう。今日の自転車レースにおいては、選手はまるで屠殺される家畜のようなものだ。おとなしく、引いていかなければならない。キャプテンでなければ、いつもそうされるのさ。いつも、より高く、修正するためにより過激さを増すことにより、酷さは増していく。僕がそうだったような「野良犬」と呼ばれるアシストの姿は、消え去っといく運命なのさ。今や、チャンピオンや、チームに求められるものは多い。若者が、年齢から外れたら困難な自転車競技に出会うようになるんだ。」 アランが悔やむことは唯一このことだ。 「ジロ2015年のポエムが勝ったフォルリのステージだ。僕はゴールまで逃げ切ろうと思ってガッツを見せていた。勝てたら素晴らしいゴールだっただろう。その他には悔やむことは何もない。それどころか、プロトンに素晴らしい思い出を残していくことを誇りに思っているんだ。今は異なるタイプの仕事を探すゲームに身を置いているんだ。沢山の元レーサーが僕に素晴らしい言葉をかけてくれる。そのことを賞賛しているよ。」 これからは 、どのように成長していくの? 「いくつかの自然や環境に関する会社からコンタクトがあるんだ。自転車選手だけでなく、人間として評価をしてもらい、誇らしいことだよ。僕はまさに自転車の世界に生きてきて、いつも辛いことはあったとしてもそのことを楽しんできた。僕の情熱は25歳のままでいることを許したんだ。1993年に9歳の時にペダルを踏んでからね。 小さい頃に取り去った大きな満足を再び得るための新しい人生への準備は万端だ。 学ばなくてはならないことは沢山あるけど、でもそれが待ち遠しくてたまらないよ。」
2018.11.03
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ダニエル・オス:気分を発散せる時。JustRideにてDivergeとともに https://www.cyclinside.it/web/daniel-oss-alla-just-ride-e-tempo-di-diverge/ 4月25日 トスカーナとストラーデ・ビアンケを彼のイヴェントJustRideで走行中のダニエル・オスと同行した。ミラノからローマに至る、それはグラベルや、最新のスペシャラズドのマシンを試すひとときだ。 レースに立ち向かうための自転車とともに地ならしをするための気分転換の時なのだ。 トスカーナのストラーデビアンケの最終日に、クラシックレースに比べて、あえて飛ぶように楽しみみために、オスはまさにこの自転車を最大限に使いこなしたのだ。この使いこなされたDivergeの自転車は、とりわけサガンのパリ・ルーベの勝利を演出したのだった。 ブルネッロのグラスの間で土地の香りを味わい、ダニエルは、合えて路上から離れることを楽しんだ。ボラハンスグローエのレーサーは、チアッチ・ピッコロミニ・ダラゴーナのカンティーナを通過。そこでは、ワインだけではなく自転車への情熱を吸い込んだ。(まさに訪ねる価値のあるところだ)そして、ピエヴェ・ア・サルティの農場で休憩するためにしばしとどまった。常に多くのプロレーサーたちが、その土地の有機栽培の食べ物を味わいつつトレーニングをするためのベースとする場所だ。(ストラーデ・ビアンケでのボネの勝利のちょっとした秘密であったことは、周知の事実だ) オスはボンコンヴェントも通過し、次の日曜(2018年4月29日)には正にグラベル自転車に捧げられたノヴァ・エロイカを出発する。(グラベル・ロード・シリーズのだい一ステージではない。参加したい人には、4月25日が最終日だ) そして、オスはローマに向けて再出発。まだまだ訪問する場所がこれから待っている。 ともあれ、今日の素晴らしい写真の数々を楽しもうではないか。
2018.05.05
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Bora-HansgroheのOss:「僕には変化が必要だった。サガンのために全力を尽くすよ」http://cyclingpro.net/spaziociclismo/worldtour/bora-hansgrohe-oss-bisogno-un-cambio-daro-massimo-sagan/Bmcでの5シーズンの後、ダニエル・オスは新しい経験へと歩を踏み出すことをきめた。イタリア人レーサーは、来期Bora-Hansgroheのユニフォームを身にまとい、再びリクイガス時代の同僚、ペテル・サガンと会いまみえる。トレント人レーサーは、Naszosie.Plのインタビューに答え、最も優れた、キャプテンのためにあらゆる働きをするアシストの一人として名を成し、代表的な選手となったアメリカ合衆国のチームに別れを告げることとなった理由を語った「レーサーとしての一つの形を得たBMCでの5年間を経て、僕は新しい動機付けのために変化が必要だと感じたんだ。」オス はポーランドのポータルサイトにこう語った。「何か新しいことが必要だと感じたんだ。そして、サガンから彼のチームに来てほしい、という要請があった。僕らは合意を得た。彼と走れることはとても嬉しいし、誇るべきことだよ。」まさに、スロバキア人の存在が決定的なものだった。スポーツのレベルからも、人間としても、二人の男には、チームメイトとしてのもの以上のつながりがあるのだ。「僕らはリクイガス時代に知り合い、友人同士なんだ。」トレント人レーサーは続ける。「ともに素晴らしい年月を過ごしてきたから、僕はこの選択が正しいものだと思っている。世界チャンピオンの彼を全力で支える。彼の力をもっと引き出すことができると、確信しているよ。僕の仕事はコンディションを保つために可能な限り骨身を削ることだ。チャンスがあればちょっとしたレースでは勝利を狙うこともしてみたい。」 更に、世界選手権に関していえば、かつてのチームで世界の頂点に立ったイタリア人レーサーはタイムトライアルのスペシャリストとしてもチームに貢献することができる。「僕はそのためにも、このチームに必要な選手だと思っている。僕のチームタイムトライアルの経験をものチームで分かち合いたい。世界選手権で勝利できるかは未知数だけれど、そのために、ハードなトレーニングを積みたいと思っているよ。」
2017.12.13
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OssのBmcでの最後のレースとなる、ツール・ド・グアンシー連日のアタックが実り、山岳賞ジャージをゲットしました。第五ステージ終了後、イタリアのサイトtuttobiciのインタビューに答えた内容を訳してお伝えします。Guilinから、Giulia De Maio記者のインタビューです。 グァンシー、Ossが山岳賞ジャージ、マリア・ヴェルデに輝く:バイバイ、Bmc、待ってろペテル中国での主役を演じるダニエルはチーム移籍の準備万端だhttp://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=106134&tp=nダニエル・オスにとっては、ツアー・オブ・グァンシーでの二度目の敢闘賞だ。30歳のトレント人はBmcに別れを告げ、ボラ・ハングローエへの移籍をするが、今日はキッチリとクライマーの最高位に与えられるジャージを、2度のチームタイムトライアル世界王者を含む、実り多い5シーズンの後に別れを告げるアメリカのチームへの最後のプレゼントとした。「発揮した力に満足している。僕は一年中コンスタントの走りをしてきた。こうして2017年の幕を中国で閉めることは素晴らしいよ。観衆は本当に熱い。ヨーロッパ自転車文化とは全く違ったものだけれど、中国の人々はレースに本当に関心を持っている。今日は激しい戦いのレースだった。僕はアタックをかけて、このリーダージャージを着用するに値するポイントを勝ち取ることができたんだ。」 「Bmcは僕に素晴らしい思い出を残してくれた。このチームは、人間としても、プロとしても僕のレベルを引き上げてくれた。チームを去るにあたって、何も思い残すことはないよ。移籍市場に身を置いて、沢山のレースをともに戦ってきた仲間とライバルとなる。僕はやる気満々だ。サガンと、新しい経験が始まるのが待ち遠しいよ。僕は、サガンの最大のライバル、グレッグ・ヴァン・アーヴェルマートに立ち向かうことになる。最初のうちは少し奇妙な気分になるだろうけど、これも競技の一部だ。ペテルのチームに行く、ということがこの選択をしたことが、僕のモチベーションになっている、ということは言うまでもないよ。彼の傍らで走ることを考えると、ワクワクするよ。僕は彼に力を貸すことができると思っている。僕らが一緒にレースができるのがうれしいよ。僕らの性質は、本当に協調しあえるものなんだ。
2017.10.24
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2017年5月、昨年に引き続きイタリア旅行に出かけ、自転車のイタリア一周レース、ジロ・デ・イタリア(以下「ジロ」と表記いたします。)を観戦してきました。100回大会を迎える今年のジロのスタートの地はサルディニア島のアルゲロ。そこから、オルビア、トルトリといった風光明媚な海辺の街を経て、サルディニア州の州都、カリアリへと至るスタートからの3つのステージの観戦です。ちなみに、ジロがサルディニアからスタートするのは、100回の大会史上初めてとのことで、地元は歓迎ムードにあふれていました。私にとっても初めてのサルディニア訪問でしたが、イタリア人の友人から、女性4人のグループでレンタカーでレースを追うから仲間入りしないか、と誘いを受け、喜んで参加させていただきました。友人が自転車レースの運送業務を担当する会社の総支配人をしていることもあり、期間中、レースを運営するスタッフなどにもお会いして、ジロの内側に接する機会もあり、大変興味深い観戦となりました。 ジロ100回大会のコースレースのスタート地、アルゲロ さて、出発を前にした4月22日、事件が起こりました。ジロにエースとして出場予定だった、ミケーレ・スカルポーニ選手(アスタナチーム)が練習中に交通事故で亡くなる、という報が入ってきたのです。早朝に自宅近くの道路で練習中、スピードをゆるめずに曲がってきた小型トラックと正面衝突するという、関係者やファンにとって大変ショッキングな痛ましい事故でした。そして、このとき、ジロに同行してくれる友人がスカルポーニ選手の親友であったことがわかりました。イタリアでは、この事故の後、自転車の安全走行のために、車との距離を1.5メートル以上とろう、という呼びかけが起こるとともに、残された妻と5歳の双子のお子さんの経済的な支援のための募金活動が始まりました。日本の自転車ファンの間にも、何かできないか、という声が上がり始め、ちょうどジロに行くことになっていた私が、仲間うちで作った横断幕や、メモリアルTシャツの売上で集めた遺族への支援金をことづかり、持っていくことになりました。現地に持参した横断幕を広げる筆者5月5日、アルゲロ。レースが始まる前に友人の仲介で、支援金をアスタナチームの監督、ステファノ・ザニーニさんに手紙を添えて託すことができました。日本からの突然の来訪はチーム関係者に好意的に受け入れられ、ロンドン・オリンピックの優勝者で、チームの総監督を務めるヴィノクロフさんに握手をしていただき、チーム広報からもインタビューを受けるという歓迎ぶりでしたが、なんとその際の模様が現地のニュースに取り上げられました。お金を渡したこともあり、私が高知県在住であることや、職場も伝えていましたので、そのことも記事に掲載されたのでした。(こちらのURLでご覧いただけます)http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=100746&tp=nアスタナチームのザニーニ監督と取材に応じる筆者正午過ぎ、ゴールのミラノに向けて3週間かけて繰り広げられる「世界で一番美しい国の世界で一番過酷なレース」の幕開けです。スタートを見送った後、ゴール地点に向けて移動。通りすぎる街は、シンボルカラーのピンクで彩られ、あちらこちらでピンクに彩られた自転車が見られました。レースの前には、「キャラバン」と呼ばれる宣伝カーが隊列をなし、音楽をかき鳴らしながら観客を盛り上げる女性のMCのさまは、高知県人にとっては、さしずめ3週間の移動よさこい祭、といった雰囲気でした。ジロのスタートシーンあちらこちらの街で見られたピンクで塗られた自転車さて、遠来の観戦者への取材はまだまだ続きます。ニ日目のゴール地点であるトルトリでは、「日本人のスカルポーニの家族への支援」が、イタリア国営放送Raiの番組に取り上げられ、番組のアンカーウーマン、アレッサンドラ・ディ・ステファノのインタビューを受けて公共放送の電波に乗ることに。番組収録場所に行くために、ゴール1キロ前のコースを選手の到着前に横断幕をもって歩き、観客から拍手とブラーヴォ!という声援を受けるというサプライズのおまけ付きでした。とりわけ横断幕ににつけたオウムの折り紙が現地の人々の注目を浴びました。スカルポーニ選手がオウムを飼っていて、生前トレーニングによくついっていっていたのはファンの間で有名な話で、そのことを知った友人から折り紙を託されたのですが、急きょ現地で横断幕に縫い付けて広げたところ、イタリアの人々の目に魅力的に映ったようです。トルトリのコース上を行進する模様そして、三日目のゴール、カリアリでもジロの名場面をインスラグラムでアップしている「ストーリア・デル・ジロ」の取材を受けました。取材を受ける中で、日本からの遺族への支援が共感と連帯の意を持って受け入れられていること、また偉大な選手の記憶を刻みつけることで、その偉業をたたえよう、悲しみを乗り越えてようとする、イタリアの人々の前向きな考え方を感じることができ、逆に励まされたような気持になりました・カリアリでの取材帰国後のこと。5月中旬に駐日イタリア大使館から、職場の人事課経由で6月2日の共和国記念日のレセプションに私を大使が招待するとの連絡が入りました。ジロの記事を読んだ大使の個人的な招待、ということでしたので、日頃から語学の学習でお世話になっているイタリア同好会・高知の会員の立場での出席とさせていただき、レセプション出席時に手紙を添えて、高知の観光パンフレット、サイクリングルートマップ、サイクリングコースの写真などをお土産として手渡しました。大使が新規に着任したということもあり、多くの招待客でにぎわっていたため、レセプション当日にはなかなかとゆっくり話をする機会はなかったものの、後日、会場で知り合った大使館と関係の深い財団の日本代表理事のかたから、大使が高知のサイクリングコースが大変気に入っているとのメッセージをいただきました。高知の自然が大使に気にいっていただけたことを大変うれしく思うとともに、このご縁を大切にしていくことが、ミケーレ・スカルポーニ選手の供養にもなるような気がしています。そして、大使の高知訪問が実現して、自転車でご一緒できたら素晴らしいことだなあ、と思ってやまない今日この頃です。イタリア大使館の入り口で、衛兵さんと記念撮影
2017.06.30
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ジロ:KANAE&MICHELE(ギャラリー付き)日本のファンがアルゲロでスカルポーニへの思いを表明http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=100746&tp=n ミケーレ・スカルポーニはジロにいる。彼の存在をはっきりと感じることができるのだ。彼はいたるところに生きている。昨日の公式プレゼンテーションに、アルゲロの道々に、そして、ジロ第1ステージのスタートの場に。そして、日本人のダニエル・オスの偉大なサポーターであるkanae kitamuraはミケーレ・スカルポーニの家族への明確な連帯の印を届けるためにサルディニアの地に到着した。 日ごろは地方公務員として働いているKanaeはサルディニアのステージを観戦した後故郷の高知に帰国するが、スタート地点で素晴らしい青いオウムの折り紙で飾られた横断幕を広げてミケーレへの追想と記憶の心を表明した。スタートの前にkanaeはアスタナの監督、ステファノ・ザニーニのもとに行き、小さな封筒を差し出した。そこには控えめな土佐和紙の細工とともに、小さく「日本のチクリズモの友人達より」と書かれていた。封筒の中には、スカルポーニ夫人・アンナと小さな二人の息子、ジャコモとトマーゾのために200ユーロが入れられていた。遠来の地から訪れた、なんという明確で素晴らしい連帯の行いだろう。アルゲロより Pier Augusto Stagi 記2017年5月5日
2017.05.06
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2016年5月に、ローカル鉄道で巡るイタリア自転車旅をしてきました。1週間の旅の行程は北部のトレンティーノ・アルト・アデジェ州とエミリア・ロマーニャ州を訪ね、自転車選手の友人Daniel Oss が出場している自転車イタリア一周レース・ジロ・デ・イタリアのゴールを見にトリノに行った後、数年前にサイクリングイベントのコグウェイで高知においでた際に知り合ったピエモンテ州に住むFabbrizio とPatriziaご夫妻のお家に招かれる、というものでしたが、様々な形でかの国のスローライフを満喫してきました。イタリアのローカル鉄道には自転車専用車両があり、3.5ユーロを払えば刻印から24時間、自転車をそのまま車両に持ち込んで移動できます。(ママチャリもオッケー!)以前の旅で、ホテルで借りた自転車で列車に乗り、近隣の街への日帰りしたことがあったのですが、今回は高知から現地まで折りたたみ自転車GiantMR4を持参しました。5月25日、イタリア到着初日はミラノから列車でブレシアへ向かい、駅の近くのホテルで自転車を組み立てた後、翌日からローカル線に乗って目的地を目指すことにしました。ちなみに、自転車持ち込み用のチケットは窓口で購入しました。特急やローカル線などの種類ごとに発行される整理券を取って、窓口に行って初めて乗車券が買えることになります。2日目、26日の最初の目的地はトレンティーノのアヴィオという小さな街にあるワイナリー。そこで働く友人Antonioを訪ねたのですが、せっかくなので、乗換駅・ヴェローナの待ち時間に、夏の野外オペラで有名なアレナまで自転車で行ってみました。石畳の世界遺産の街はなかなか風情がありますが、街全体がピンク色に色づいているのは、ヴェローナ近郊で産出する大理石の色によるそうです。ヴェローナからボルツァーノに向かうと、周りの景色が急峻な山へと変化します。バカンスを過ごすために山に向かう家族連れの姿もあり、自転車車両では、このように、自転車をつりさげる設備もありました。 無人駅で降り、1キロ先のワイナリーへ。ちょうどお昼どきだったので、オーナーや作業員、地元の人びとがワインバーに立ち寄り、パニーニを食べたりやコーヒーを飲んで談笑していましたが、ワインバーのデザインをした、という若い女性を紹介していただきました。ワインや食べ物はもちろんですが、若い才能が地域の宝として大事にされているようです。 ワイナリー見学の後は、友人AntonioとMartina夫妻の車で山道をドライブし、ガルダ湖にあるサイクリストの集うBar兼サイクリングショップのMecki’sを訪問した後トレントへ。オーストリアに続く道はバカンス仕様の車で混み合っており、気候がよく料理の美味しいイタリアには、ドイツやオーストリアからたくさんの旅行者が自然を満喫しに訪れるとのことでした。この日のジロ・デ・イタリアではトレンティーノ出身のモレノ・モゼールとマッティオ・トレンティンが終盤に勝負に出たため、地元民は大興奮。移動中の車でもラジオからはジロの放送が流れていました。(モレノ・モゼールの応援をしていた友人は、トレンティンの勝利に。「あいつは悪賢いキツネだ、とぶ然としていましたが・・・ その日の夜は、ペルジネという山の中の小さな街で宿泊しました。そこではOss選手のご両親がピザ屋兼バールをやっていて、地域の人びとの集の場になっています。レース中のOssには直接会えないため、日本のファンからOssへと言付かったお土産をご家族に渡しいったのですが、Ossは出走しているジロ・デ・イタリアで目下「最長距離逃げ賞」と「中間スプリントポイント賞」のトップにつけているので、地元にファンも大盛り上がりでした。 翌27日日は列車に乗って、チェゼーナへ。長友選手がイタリアに渡って初めてプレーしたサッカーチームのある街です。そこに住む友人Lucaとは15年以上家族ぐるみでお付き合いしているのですが、奥様のDanilaが病気療養中なので、お見舞いも兼ねた訪問です。Lucaは8月まで看護休暇を取って、育児や看護に専念しているとのことでした。駅に到着すると、ちょうどバカンスで中のもう一人の友人、Mariangelaが家族とともに迎えに来てくれました。シチリア出身のMariangelaが17歳の時に文通を始めたのですが、学生だった彼女は美しい女性に成長し、結婚して北部のヴぇネト州に移り住み、6カ月の息子さんのお母さんになっていました。実際に会うのは初めてなので二人とも大感激。旦那様や息子さんにも紹介してもらい、なんだか夢のようでした。 28日にはチェゼーナ駅から10キロほど離れた友人Luca宅に自転車で。・・・が、その前にチェゼーナの歴史的中心街を巡っているうちに道に迷ってしまい、やっと駅まで戻ってLucaに自転車で迎えに来てもらうはめになってしまいました。そんなことはあっても、緑の丘や街並みなど、五月のイタリアの美しい風景の中の自転車の旅は最高です。また、Lucaの家でふるまわれた地元の食材を使った肉の詰め物やパスタの料理はまさに地産地消の家庭料理でした。 さて、いよいよトリノです。ボローニャからトリノまで、イタリアの誇る高速鉄道、フレッチャ・ロッサ(「赤い矢」の意味)に乗りこみましたが、ローカル線とは違い、自転車は折りたたんで荷物置き場に置かなくてはなりません。トリノに到着したのは夜遅くなっていましたが、駅近くのホテルに宿泊し、今度は迷わないように、ジロ・デ・イタリアのゴールの場所と、そこまで行く道順を確認しました。 29日、いよいよジロ・デ・イタリアのグランデ・フィナーレ・最終日です。イタリア人、ヴンチェンツォ・ニバリの勝利を伝えるガゼッタ・デロ・スポルト紙を読みながら、カプチーノの朝食。レースは正午にクネオというアルプスを背負う街を出発し、ゴールは夕刻4時ごろ。せっかくなので、待ち時間にトリノの街中を一回りしてみました。当日は雨模様でしたが、トリノはジロ・デ・イタリアのシンボルカラー、ピンクに彩られてお祭り騒ぎ。Ossは無事「最長距離逃げ賞」と「中間スプリントポイント賞」を手中にし、表彰をされていました。(写真9参照) さて、ジロのゴールを見届けた後は、あわただしく荷物をまとめてトリノからローカル線の自転車車両に飛び乗り、ノヴァラ駅に迎えに来てくれている、FabbrizioとPatriziaに合流しました。 招かれたお宅でリゾットの遅い夕食を食べながら、世界をまたにかけて自転車で旅をしている二人にとって、コグウェイで訪れた四国や高知は忘れられない思い出の地となっている、というお話を聞き、当時の写真を見て懐かしんだり、ご夫妻が最近旅をしたアフリカの映像などを見せていただきました。 5月30日は旅の最終日。空港に行く前に時間があったのでご夫妻のサイクリングコースに連れて行ってもらいました。あいにくの雨模様だったので、自転車ではなく、車で、でしたが・・・。 マジョーレ湖やオルタ湖を臨む丘や山の緑豊かなコースを、休日にはお弁当を持ってゆっくりと一日かけて走る、というご夫妻の話を聞いていると、時間に追われ競い続けている自分たちの生き方を見直してみることも必要なのではないかな、と思いました。・・・このイタリアの友人たちとの交流は、私の自分の生活や価値観を振り返るための、貴重な時間となっています。彼らとの付き合いは、これからも、どんどん続き、発展していきそうです。
2016.12.15
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その昔、イタリア語の先生の奥様に教えてもらった簡単ティラミスの作り方。 スーパーで手に入る食材を混ぜて重ねて冷蔵庫で一晩寝かすだけでできてしまいます! クリスマスのサプライズにぜひお試しください 簡単ティラミス(所要時間30分) タッパー15センチ×15センチ分 <材料> ☆マスカルポーネチーズ 100グラム ☆卵 1個 ☆グラニュー糖 30グラム(スティックシュガー5グラム×6本) ☆ホイップグリーム(粉) 30グラム ☆牛乳 40CC ☆ココアパウダー 20グラム ☆バタークッキー 15枚くらい(カステラでもよい) ☆コーヒー コップ1杯分(冷ましておく) 作り方(ボウル3つ(A,B,C)、泡だて器、茶漉し、タッパーを使います) 1.卵は割って卵黄と卵白に分けて、ボウルAとボウルBに入れます) 2.卵黄とマスカルポーネチーズを混ぜて、十分混ざったらグラニュー糖15グラム(スティックシュガー3本)を入れてさらに混ぜます 3.卵白を泡立て、角が立ったらグラニュー糖15グラム(スティックシュガー3本)を入れて混ぜます。 4.ボウルCにホイップクリーム(粉)と牛乳を入れて泡だて器で混ぜホイップクリームを作ります 5.2のボウルに3と4を入れて混ぜあわせ、クリームチーズを作ります 6.タッパーに茶漉しでココアパウダーをふるいます(下にキッチンペーパーなどを敷いておくこと) 7.6の上にクッキー(又はカステラ)を並べ、スプーンでコーヒーをかけていきます 8.7の上に茶漉しでココアパウダーをふるいます 9.5で作ったクリームチーズの半分を8の上に重ねます クッキー版 カステラ版 10.9の上に茶漉しでココアパウダーをふるいます 11.10の上にクッキー(又はカステラ)を並べ、コーヒーをかけ、マスカルポーネチーズについているソースをかけます。その上にココアパウダーをふるいます。 12.11の上にクリームチーズの残りを重ね、最後に茶漉しでココアパウダーをふるいます 13.これを冷蔵庫で一晩冷やしたら翌日食べごろになります。 こぼれ話 Tiramisu‘とはイタリア語で tira(引っ張るの命令形)+mi(私を)+su’(上に) つまり「私を引っ張り上げて」→「私を元気にして」という意味です。 北イタリアが発祥のお菓子だとのこと。これを食べて皆が元気になりたいものですね!
2016.12.06
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TuttoBiciに掲載されたOssのJustRideに関する記事を訳してみました。TextはMarco Pastonesiによりますシリーズ「食事の時間」 JUSTRIDE WITH DANIELダニエル・オスの冒険から生まれたヴィデオ・シリーズhttp://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=96055&tp=n発案Yamahaに乗ったMotoGPのグランプリシリーズを終え、北の岬に向かったヴァレンティーノ・ロッシがしたように、メルセデスに乗って力を使い果たしたF1のニコ・ロスベルグがアメリカ合衆国を横断したように、ジロデイタリアを完走したダニエル・オスは彼の自転車を降りることはせず、もう一つのジロデイタリアを走ることにした。ただし、着順は無しだ。ヴァレンティーノやニコとは違い、ダニエルはそれをやってのけたのだJustRideは1世紀前の自転車の乗り方だ。自転車に乗ってペダルを踏み、旅をし、発見し、思い出す。自転車に乗って呼吸をし、存在し、生きる。自転車に乗って探求し、見い出す。通過と出発を繰り返すのだ。オスは自分自身を取り戻し、バッテリーを充電し、心からペダルを踏むことへの信頼を取り戻すために自転車に乗ったのだ。6日間、6ステージの800キロメートルの旅だ。トルボレからルッカへ。道中、マッテオ・モンタグーティとダニエレ・ベンナーティに会い、ジノ・バルタリが世に出し、マルコ・パンターニが走り始めたチームで走る若者たちと合流し、ピアディーノを食べ、ワインを飲み、静かな道や歴史的中心街を通過していった。タイムトライアルや、何かを背負って走ることや、監督車の指示から離れたヴァカンスだ。スポーツや競争や課題からの逃走だ。こうして、6つのシリーズとなったヴィデオも生まれた。6つのシリーズとそれに先立つ1つのプロモヴィデオが、YouTubede見ることができる。3分から5分の「路上の」フィルムでは、詩人のヴィニシウス・デ・モラエスが言うところの人生と友人そのものである出会いの芸術と生命力や、フェッラーラからシエナを経てマッサ・マリッティマに至る美しいイタリアの風景や、ダニエルの脳裏や心に常に鳴り響いているTempetからPortrayal、Tame Impala からPilooskiといったロックミュージックを感じることができる。ヘルメットとリュック、ボトルと携帯電話、オペレーターと沢山のモバイル、そして、水平線を抱きしめる素晴らしい笑いを従えた旅のシリーズだ。オスは普通のレーサーでは無い。彼は特別なのだ。真っすぐにものを見、垂直に歩みその目的地のさらに先を求める世代の男なのだ。そして、風はこのようなめったにない平静な日々にも彼の中に吹いているのだ。
2016.12.03
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JAPAN CUP ヴィレッラの、才能発揮 http://m.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=95116 ダヴィデ・ヴィレッラのプロ初勝利は日本から到着。 Cannondaleのベルガモ人は、ラストで全員を引きちぎり、単独でゴールして、熱狂の歓声に迎えられ、キャリア初勝利で自身のシーズンを終えた。 素晴らしいコンディションを見せて、前日のクリテリウムの表彰台に次いで4位に入ったマニュエル・モーリも喝采を浴びた
2016.10.24
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「イタリアにおける児童相談所と養育里親の連携による、家庭生活が困難な児童及びその保護者に対する支援のありかたについて」(その3)は、ローマから列車に乗ること6時間で到着したピエモンテ州トリノ。そこではいろいろな形での里親制度の啓発が行われていました。トリノ市に本拠を置く民間団体ANFAAによる広報・啓発活動等の取り組み 里親制度の普及・啓発のためには、県民に対して社会的養護観の醸成を促すための、具体的な広報の方策が必要である。その参考とするために、イタリアにおける里親制度の発祥の地、といわれるトリノ市に赴き、当地の民間団体が行政と連携しながら実施している広報・啓発の取り組みを学んだ。トリノ市の属するピエモンテ州では、児童福祉のサービスは、市(comune)の職員が中心になって、実施されている。里親支援についても、市から資金が出される。ピエモンテ州のメンタリテイーは民間も動くが、公も動かなくてはならない、というもので、民間団体と市は、協力してより児童の権利を高め、保護をする、という考えに基づいて連携を行っている。トリノ市と、その近郊によって形成されているトリノ県の人口は100万人弱。それに対して児童に限らずソーシャルケースワーカーとして登録をしているのは1万5千人程度である。養育困難に陥る家族の実状としては、トリノ県では、経済的困窮よりも、ドラッグ、アルコールの問題がからみ、精神面や感情面で弱く、虐待を行ってしまう、という相談が多く、何年たっても元の家族が育てることのできない、長期化したケースも少なくない。里親制度・養子制度のための全国組織であるANFAA (Associazione Nazionale Famiglie Addotive e Affidatarie)の歴史は1960年代にある男性が、養子制度を施政・制度に位置づけをさせたい、と要望したことから始まった。ANFAAは、会員が支払う年会費で成り立つ民間団体で、イタリア全土にネットワークを持つ。唯一事務所を構えているのがトリノで、その他は会員の家が連絡先になっている場合が多い。近年力を入れているのは、養育里親を法的にどう位置づけていくか、という取り組みである。 ANFAAでは、各種経験を学び比較する、という作業を行った。元の家族、里親、専門職が共同してケースの勉強を行い、そこから見いだした改善点・問題点のPRのために会議を開催。併せて色々な手段で広報を行った。国会への働きかけをした結果、2001年には法改正がなされた。2001年までは、里親委託に関しては、裁判所の決定によってなされたが、法改正後は、決定に際して里親になる人の意見も聞くようになった。条例改正の問題が出てきた時には、市の上層部に働きかけていく。その結果、市の担当者や上層部とのディスカッションや調査を行う。条例改正、ということになった場合は、ANFAAも市と一緒になって話し合いを行う。トリノ市では、各民間団体の力が強いので、市への働きかけが可能である。ANFAAではトリノ市の条例を元に、里親のためのガイドや、児童や教員などに里親制度を啓発するための本を作っている。 一般向けの啓発の方法としては、義務教育の学校や幼稚園へのPRが必要との考えを持っている。子ども達の親が若く、将来里親となる可能性も高い。先生達が学校で子どもに教えるための本や、親が子どもに読み聞かせることのできる絵本も作成している。また、広報の一環として、ビデオテープも作成している。皆が協力する、というボランティア精神が強いが、広報の初期の段階では、顔の分かっている人物を捜して「里親になった人の一日」のような感じでPRすることが大切である。現状では全ての児童に里親宅での生活の保障はできていないが、まずは小さい児童からスタートする、ということで、幼少時から大規模の施設で生活することの悪影響なども伝えながら、0~6歳までの児童は、なるだけ施設に入所させないよう、取り組んでいる。 里親になってくれる人を捜すためには、「2~3人の子どもが、ある人が現れなければ施設に入ってしまう」といった内容の広告を Cerco di Famiglia(日曜に出るカトリック系の新聞)、L‘avvenireという2つの新聞、Donna Moderna(女性週刊誌)、Famiglia Cristiana(カトリック系の月刊誌)などに掲載。最初に女性を巻き込み、心に届くように、との広告を行っている。問題点を語るだけでなく、スポーツセンター、チェスクラブ、クリスマスシーズンに家族で行くショッピング・センターなどにも持っていく(例えばIKEAと言う大きな家具屋さんにも持って行った)。ある家庭のもう一つの家庭への支援「頼れる家族がもう一つ」というような考え方に立っている。焦らずに、数は少なくても、良い里親を養成していくことが肝心で、中途半端なことで里親を養成してしまうと、悪い結果につながってしまう。 トリノ市の里親ガイドと子どもに読みきかせるための里親の絵本 イタリアでも、日本同様、里親の抱え込みの問題はある。里親家庭でのハネムーン期を過ぎると、子どもたちは真の自分を出して、試し行動を始める。そういった問題に対して、心理学者やセラピストの協力は欠かせない。里親と専門職(心理学者やケースワーカー)のグループワークが重要である。里親同士、共通の課題は必ずあるが、里親のみのグループで集まって話をする場合、はけ口になってしまう恐れがあるので、必ずスーパーバイズが必要である。里親がグループとして集まる時は、パイオニアとして集まり、なぜ里親になったか、ということを考える場とすることが肝心である。 ANFAA統一の時も、里親制度のすべきこと、養子制度のすべきことを分けることが大変な作業だった。まずは、子どもから出発することが基本である。子どもは家庭を持たなくてはならない、ということが出発点であり、状況調査の後、その子にとって、養子か、里親か、という最善の選択がなされるのである。まとめとして研修成果を踏まえて、以下の5点について本県の施策に対する提案を行う。点目は、里親制度の啓発策についてである。里親の不振の原因のひとつに、一般住民に対する制度の周知が不十分であることや、血統を重んじるわが国の家族制度に端を発する個人的養護観が強いこと、養子制度との混同、などがあげられている。そして、そのことが原因となって、実親が子どもを取られるのではないか、という不安を抱き、里親よりは施設にあずける事を好んだり、里親や里子が、地域社会や学校などで、先入観による負担を感じながら生活をしている、という事態につながっている。里親制度に対する理解と配慮がなされるめには、里親制度が、児童福祉法に基づく社会的養護の一翼を担うものである、ということを広く県民に周知させることが必要である。平成15年度には、テレビ、ラジオを通じ、県民に対する養育里親制度の広報や、「里親制度の手引き」の作成による福祉や教育など、関係機関に対する情報提供を行なった。オーソドックスではあるが、今後も関係機関や県の他の部署との連携を深め、NPOなどにも呼びかけ、研修や、マスコミによる広報の機会を捉えて、養育里親に対する理解を深め、地域の中に根付かせていくための取り組みを続けていくことが必要であると考える。2点目は養育里親の養成に向けた具体的な取り組みについてである。平成14年度の制度改正の際に、わが国においても養子制度と里親制度の分離についての議論がなされたが、養子前提の試験養育期間としての里親委託は現存することとなった。児童の永続的な家庭の保証、という点での意義は認めつつも、今回の研修における訪問箇所の関係各位が口をそろえて語ったとおり、養子制度と里親制度を明確に分けて考えることは、制度の適切な運用のためには必須であると思われる。現在、高知県における、里親登録に向けた手続きは、児童相談所で申請を受け付けた後、「里親の認定に関する省令」及び「里親が行う養育に関する最低基準」に基づいて担当者が調査を行い、児童福祉審議会の審査を経て県知事が認定、県に登録、という手順を踏んでいる。各里親は、登録をされた後、県や里親連合会の実施する研修への参加により、資質の向上や児童との交流をはかり、実際の委託に備えているが、個人によって参加状況にはばらつきがある。一方、平成14年度より、被虐待児に対応するための専門里親制度が新設された。専門里親については、認定の要件として、福祉現場等における実務経験や、国の定めた研修の修了などの要件が定められているが、高知県にはまだ、専門里親の登録者はいない。一般の養育里親についても、登録前研修を実施し、制度に対する理解と認識を深めた後、本人たちが納得をしたうえで、里親登録を進めていくことが、里親の裾野を広げ、より良い里親の養成につながるのではないかと思われる。 また、専門里親を含む里親養成の実習の場として、中央児童相談所に併設されている児童支援ホームの利用を提案したい。児童支援ホームは、最長3ヶ月を期限に、家庭復帰に向けた児童のケア、親子の再統合を行なうために設置されている。ふれあいサポーターとして県から委託を受けた夫婦が実際に子どもと生活を行なっているため、施設よりは家庭的な環境でのケアを行なえることや、児童相談所スタッフとも頻繁に連携が取れる、という利点がある。児童支援ホームでの実地研修を通じて、児童のケアの実際を学ぶことは、里親にとってまたとない実践の場の提供であると考えられる。 3点目は児童のケアに際する児童養護施設、里親と児童相談所の連携についてである 児童養護施設入所措置の後、保護者の面会や、週末帰省の機会のない児童が、少なからず存在することが、アフターケアを通じて確認されている。これらの児童に対するケアの方策として、施設職員の協力も得ながら、里親委託へとつなげていく取り組みが必要であると考えられる。平成15年度より、高知県里親連合会に週末や長期の休暇に児童に家庭生活を体験させるためのボランティア里親として、「フレンドシップファミリー」が登録されている。また、里親登録をしているが、児童の委託を受けていない里親についても、フレンドシップファミリーへの登録を呼びかけている。この制度を利用して、児童相談所・里親連合会・施設の確認のもとに、該当児童と里親の関係がうまく築かれたものについては、里親委託を勧めるためのケースワークを行なっていく。また、家庭の同意が得られない等の理由で、里親委託が困難な児童についても、児童の福祉を増進する、という観点から、フレンドシップファミリーの利用を勧め、児童に家庭体験の機会を与えることにより、施設と連携をして自立支援を図っていくことが、必要であると考える。4点目は司法との連携、特に家庭裁判所との連携についてである。今回の児童福祉法改正の中で、要保護児童に係る措置に関する司法関与の見直しがされた。親権者又は後見人である保護者の同意が得られない場合に、児童福祉法第28条第2項により家庭裁判所の承認を得て都道府県が行なう児童福祉施設への入所措置の期間は2年を超えてはならないこととなり、必要な場合は延長される。その場合、家庭裁判所は都道府県に対し、期限を定めて、保護者に対する指導の措置に関し報告及び意見を求めることができ、指導の措置をとるべき旨を都道府県に勧告することができることとなった。難なケースの処遇の中で、児童相談所が適切な相談、調査に基づき、28条承認を家庭裁判所に申請することによって、事例を通じて保護者に対する指導の措置のありかた=親業支援のシステムが構築されていくことに期待したい。そのことが、イタリアで実施をされているような司法の関与による家庭復帰プログラムの確立に向けて、今後、法律改正が行なわれていく突破口となるころを望むところである。 5点目は市町村合併を控えた今後の高知県の福祉施策の中での児童相談所のありかたについてである。今後、市町村が児童相談業務を担うこととなり、専門的知識、技術を必要とするものは、児童相談所の援助を受ける方向性が打ち出されている。一方、高知県下の市長村合併の状況を勘案すると、やはり、市町村の相談窓口としての役割が大きく問われることになってくることが予想される。元来、在宅福祉支援の担い手市町村であり、さまざまな支援策を講じても困難な虐待ケース、一時保護や施設入所の必要なケースについて、児童相談所に適切な引継ぎが行なえるような、システム作りが大切である。ローマ市における「チェントロ・ポリチーノ」のように、各市町村の業務のコーディネートを行い、施設も含めた福祉職員、里親の資質の向上を図るための研修や、家族の再統合を行うためのセクションを担うなど、スーバービジョンを行う児童福祉の拠点センターとして機能することが問われている。現場の実態を踏まえた企画立案、政策提言を行う、児童福祉の司令塔としての役割が、今後の児童相談所に求められる責務である、と考える。<参考文献>「高知県児童虐待防止のための取組指針」「イタリアの社会」早稲田大学出版部 馬場康雄・奥島隆康編「イタリアの政治」早稲田大学出版部 馬場康雄・岡沢憲芙編「2003 資料で見る新しい里親制度」 財団法人全国里親会「里親制度の拡充・整備に関する研究会報告」 財団法人全国里親会イタリア共和国広報 2003年3月28日の法律第149号~1983年5月4日の法律第184号「児童の養子・里親制度についての規律及び民法代三巻第8章の改正」~「里親家庭における児童と青年」I BAMBINI E GLI ADDLESCENTI IN AFFIDAMENTO FAMILIARE 児童・青年のための資料研究センター Centro nazionale di documentazione e analisi per l’infanzia el’adolescenza Aneddoto~こぼれ話~<la vita e’ bella/ライフ・イズ・ビューティフル> 雨上がりに訪れた「チェントロ・ポリチーノ」はローマ市郊外のお洒落な建物。イタリアでは、公共の建物の写真撮影は困難、とのことでしたが、せめて外からでも、と頼むと、特別に許可がおりて美しい外観を撮影することができました。中に入ると、事務所の前のフロアではパーティーの準備がされています。何でも、今日これから結婚式があり、もうすぐカップルが到着する、とのこと。ポリチーノの建物は、もともと貴族の持ち物を借りているもので、小さな教会が併設されており、市民が結婚式をあげて、区役所に届けを提出するために利用しているようです。この教会で結婚式を挙げた第一号は、ローマ市長。人の結びつきと分かれる時に相談に乗る、この建物は、まさに人生を応援しているのだな、と感じました。<sciopero generale(ゼネスト)>研修2日目にあたる10月24日、イタリア名物(?)ショーペロ(スト)に遭遇。出生率1,19と、日本以上に少子高齢化の深刻なイタリア。年金問題に頭を悩ます各国同様、政府が受給年齢の引き上げなどを含む年金制度改革案を提案し、それに反対する労働組合がゼネストを決行したため、この日はイタリア全土で公共機関はすべて閉鎖、ということにあいなりました。我々も午前中は、仕事にならない、ということで、正午過ぎに少年裁判所前でローマ市の責任者の方と待ち合わせをすることになり、交通機関の麻痺のために、宿舎から現地まで、徒歩ででかけたのですが、途中ナボナ広場を通りかかった所、ストの集会が開催されていました。前の方ではリーダーの人がマイク片手に演説をしているのですが、集会参加者は、まるでサッカーの試合に集まったサポーターのごとく、横断幕や旗を持ち、子供づれでうろうろ、がやがや。そうした光景を眺めながら、名所旧跡から締め出された観光客たちは、広場脇のカフェでゆっくりとコーヒーを飲みながら集会を眺めています。とんだローマの休日でしたが、いかにもイタリアらしい光景でした。<日本びいき>ローマからトリノへ移動する列車の中でのこと。我々が日本人だと知った子ども連れの乗客に話しかけられ、旅行の目的を紹介しつつ、すかさず一般人の里親周知度について、インタビュー。(結果は後述)お礼に日本語を紙に書いてくれ、とのリクエストがあり、中でも漢字が大人気。中学生の女の子は、名前を漢字で当て字してあげると、その紙を大切そうに持ち帰っていました。また、イタリアでは日本のアニメが大人気のようで、「マジンガーZ」「釣り吉三平」「ポケモン」「アルプスの少女ハイジ」「ルパン三世」など、タイトルを言う度に大盛り上がりを見せ、知る人ぞ知る、日本文化の輸出に驚いたところです。なお、里親アンケートの結果は以下のとおりです。<回答者>性別 男性1人 女性 4人年齢層 20代 女性1人 30代 男性1人 女性2人 40代 女性1人 <質問事項>1 あなたは、里親制度を知っていますか? 知っている 3人 知らない 2人2 里親について、どう思いますか?・ローマ市では、取り組んでいる所があると、知っている程度(ローマ近郊在住・30代の女性)・自分も老人介護の仕事をしているので制度について知っていると言い、他人にも説明をしていたが、養子制度と混同しているような所もあった(40代女性)・内容については良く知らない 2名(20代女性、30代女性)・イメージとして知っているのみで、詳しい内容は知らない。児童福祉の増進のための取り組みを進めることは大事なことだと思う(30代男性)<マンマの味>美食の国イタリア。ピッツァにパスタと、レストランにも足を運んだけれど、一番おいしかったのはトリノで体験談をお聞きするために訪れた、里親さん宅でご馳走になった手作りのリゾット。(お米を使ったイタリア風“おじや”)トリノは高級キノコ、トリュフが特産だったらしく、家庭料理でもふんだんに使われており、感激しながらご馳走になりました。なんとも贅沢だが、素朴な味わいのマンマの手作り料理の味。里親の持つ家庭的な雰囲気の大切さを、身をもって感じた一幕でした。<とにかく食べて、しゃべる>イタリア人は、とにかくおしゃべりが大好き。研修1日目のローマでのこと。ラ・ブッソラへの訪問時間は11時で、ドン・ボスコは17時。移動時間があるにしても、夕方まで何するの~という当方の心配はまったくの杞憂でありました。待ち構えていたのは、区のお偉方まで含めた総勢15名の福祉専門職軍団。・・・しかし、お堅い所は無く、とにかくディスカッションしましょう!というアットホームな雰囲気。日本、イタリアの児童福祉をめぐる話題がふっとうし、区のお偉方からは「これをきっかけに高知と姉妹都市提携をし、共同研究ができないか?」と真顔の申し出も。昼過ぎにはスタッフの一人が作った手づくりのお菓子やピッツァがふるまわれ、エスプレッソのコーヒーブレイクの後にも、えんえんとおしゃべりが続きます。彼らの児童福祉に対する熱意に脱帽するとともに、その連帯感と、もてなしの心にすっかり感銘を受けたのですが、議論をしながらのコーヒーブレイクと食べ物は、この研修期間中、すべての訪問先で続くこととなりました。
2016.09.21
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「イタリアにおける児童相談所と養育里親の連携による、家庭生活が困難な児童及びその保護者に対する支援のありかたについて」(その2)は、実際のケアが行われている現場からのレポート第1弾です。まずは首都ローマの模様から。圧倒的な人口と多様な人種を抱えるイタリアの首都では、民間機関の共働による取り組みが印象的でした。ローマ市の現状 ローマ市の里親・養子および遠距離支援のためのセンター「ポリチーノ」イタリアの首都であり、ラツィオ州の州都であるローマ市には19の区が行政単位として設置されており、区の福祉担当部署に人口1万人に対して1人のケースワーカーが配置されている。児童担当のケースワーカーは、生活保護や薬物など、他部門を担当するケースワーカーと連働しながら家庭支援にあたり、在宅での支援が限界になった場合に、児童の保護を行う手続きに入る。近年、近隣の外国からの流入人口が増加する中で、養育困難に陥った人々への支援や、貧困、麻薬など、市として対応しなくてはならない問題が深刻化を極めたため、ローマ市では、「チェントロ・ポリチーノ」(Centro per L’afiddo l’adozione ed il sostegno a distanza)という里親・養子制度を支援するためのセンターを設立した。元々は養子制度を支援するためのセンターとしての設立が考案されていたが、実働部隊である各区の業務の調整や、民間団体とのコーディネート、里親制度の啓発、専門職の資質向上のための研修などを担うためのセンター機能を持たせることに重きを置くこととなった。従って、「チェントロ・ポリチーノ」は、従来の機能の他に、ローマにある全センターのスーパーバイザー的役目も果たしていることになる。虐待の予防につながる妊娠・出産、医療・保健等の相談を行う家庭相談所(consultorio familiare)は、別組織として機能をしている。なお、ローマ市では、国に先立ち本年2004年には旧来の大規模施設は全廃されるとのことである。民間の親業支援団体 「ラ・ブッソラ」の行なう支援 ローマ市19区にある、親業支援のための民間団体、「ラ・ブッソラ」 ラ・ブッソラ(LA BUSSOLA ”Centro di sostegno alla Genitoriarita”)はイタリア語で羅針盤の意味を持つ親業支援のためのセンターであるが、ローマ市の19区と同じエリアを対象としてボランティアとして活動していた2つの団体が統合する形で、2001年に発足。区役所と共同して事業を実施している。センターには、社会福祉部門だけではなく、医療機関、弁護士なども関わっている。1999年に、里親制度などの充実(元の家族と里親家族の支援、問題を抱えている家族の支援)のためには、区役所の中に従来から配置されているケースワーカーだけではなく、精神面のケアを担う心理職の配置が必須である、と要求をあげたことが設立の起源となった。 19区のゾーンは人口20万人。ローマ市のはずれの方にあり、低所得、外国人の居住など問題を抱える家族が多い。区役所としても、あまりのケースの多さ、深刻さに、もともと里親制度を担当していた部署が対応しきれなくなり1997年に、資金を出してプロジェクトを組み、組織再編を検討した経緯がある。従ってセンターが機能するにつれて、区役所とのネットワークが単にケースに関するインフォメーションのやりとりだけではなく、ケース処理のためのミーティングや提案作業を通じて、共同して問題解決にあたっていく、というスタイルが確立されていった。「ラ ブッソラ」のスタッフは以下のとおりである。1名 責任者(心理職・心理治療士)1名 プロジェクト指導者(ケースワーカー、心理職、心理治療士)5名 心理職(心理治療士業、システム説明者、関係づくり)1名 ケースワーカー1名 文化の調停者1名 法律相談者。弁護士2名 スーパーバイザー特筆すべきは、心理スタッフの数の多さであるが、これらのメンバーによって、地域に対する情報提供や、家族支援、里親委託に際するマッチング、里親への支援など、区との連携のもとに、多彩な取り組みが実施されている。 LA BUSOLLAのメンバーとともになお、2001年に、里親制度の啓発のためにローマ市が「チェントロ・ポリチーノ」を中心に、大キャンペーンを実施している。キャンペーンの内容は広告を描いたバスを走らせたり、地下鉄など、色々な場所にポスターを貼り、コールセンターを設置して、所管している地区を問い合わせてきた人に教える、とうような内容で、1000人以上が応募してきた。里親になってもらう前に、応募してきた人に講習を受けてもらい、講習終了後に、里親になる意思の再確認を行い、新たに40組の里親が誕生している。 実際の里親制度を利用して親子のケアについては、以下のとおりである。「ラ・ブッソラ(親業支援センター)」は子どものケアを中心に行うが、区役所の方が、各種の福祉施策も講じながら元の家族の支援を行い、連携を図っていく。諸般の事情で子どもが元の家庭に戻れない、という事態が生じた場合は、裁判所がケースワーカーから情報を受けて、養子縁組を行うこともあるが、担当者はあくまで、養子縁組と里親家庭は別のもの、という意識をもってのぞむこととなっている。子どもを家庭から切り離した際に、家庭復帰を誰がどのような基準で判断をするのか、という当方からの質問に対しては、ケースワークの流れの中で、ケースバイケースで判断されていくものであるので、論理上で決めていくことはしていない。家庭復帰のためのマニュアルは無く、元の家族の状況と気持ちを第一に判断していく、との答えであった。また、親のケアに関わる心理職(セラピスト)の存在が、親業支援のためには重要であり、心理職が最も心がけていることは、親との信頼関係を築くことである。里親に預けたい、と言ってくる家庭の問題を受け止め、セラピーを行っていくことが重要であり、家庭環境が混乱している中では、子どもにも色々な症状が出ているので、子どもの状況から、その裏にどのような家族の問題があるのか、ということを常に念頭に置いて対応している、とのことであった。里親制度が機能し、家族の再統合がうまくいくのは、里親家族と元の家族のコミュニケーションが図られたケースであり、そのためにケースワーカーとセンターの協力は避けて通れない。 面談の中で再三聞かれたsostegno(支援)という言葉であったが、親子の心に寄り沿い、まずは家庭支援を基本に家族に介入していく、という姿勢は、日本の児童福祉の考え方からも、非常に参考になるものである、との当方からの感想に対して、対応したスタッフ一同、共感の意を示してくださったことが、印象的であった。LA BUSOLLAの親子カウンセリングルームグループホーム「ドン・ボスコ」の取り組み一方、ローマ市では諸般の事情で里親委託が困難な児童に対しても、大規模施設に代わるものとして、グループホームのネットワークを構築し、永続的なケア実施している。里親とも連携をしながら、地域に根ざした取り組みを行なっている事例としてグループホーム「ドン・ボスコ」の視察を行なった。グループホーム「ドン・ボスコ」の入り口 少年たちのためのグループホーム「ドン・ボスコ」(“una casa famiglia al borgo ragazzi don bosco” )は、ローマ市の7区にあり、元はサレジオ会派の経営する施設であったが、現在は男女それぞれのために8人用のグループホームを一つずつ有し、14歳~18歳までの児童が生活している。各グループホームには、6人(男性3+女性3)のケア職員(educatori)がいるが、アットホームな雰囲気を作るための、専門職の養成をしていくことが急務であると考えている。地域における認知度は高く、区とボランティアや里親との連携・調整や、里親家族に講習をするなど、区のセンター機能も持っている。また、地域の児童がスポーツなどを通じて交流できるスペースの提供も行われている。(17時頃の訪問であったが、グラウンドでは子どもたちがサッカーに興じていた)グループホーム入所の経緯としては、区役所から、ケースの連絡とリポートがあり、それぞれの児童の実状を把握したうえで、入所となる。入所児童の特徴としては、両親がいない、外国人である、などの問題を抱えている場合がほとんどである。また、思春期になると、里親との濃い関係をいやがる児童もおり、実態として、里親家庭での不適応により入所に至ったケースもある。現在入所している児童全員が学校へ行けていない状態であるため、18歳で自立をするまでの間に、どう力を蓄えていくかが課題で、地域のボランティアネットワークに依頼して、公園の清掃やパン屋の配達など、将来的な就職につながる職探しにも協力をしてもらっている。 また、里親との連携により週末里親や、短時間里親などの制度により、グループホームの子どもや、ホームから地域に出た後の家族支援を行っている。やがては自分自身の家庭を持つようになる子どもたちであるが、一つの家庭に入ったときに、なかなか落ち着けない事例が見られたことから、グループホームの専門職の意見も聞いて、退所後の家庭支援の方策を考えた。 ドン・ボスコとしては3つのタイプの里親を考え、実行している。一つは、週末や長期休みの時に2~3人の児童が帰省できず、ホームに残された時に家庭体験をさせる里親。(高知県で本年度より実施を始めたフレンドシップファミリーと同様の考え方によっていると思われる)二つ目には、その子どもが18歳になった後も中心的に関わってくれる里親。三つ目に、子どもは元の家庭で生活をしているのであるが、日中など、2~3時間預る短時間の里親で、親が共働きや長時間労働、精神的な問題などを抱えている場合に、提供されるというものである。区役所のソーシャルワーカーから子どものケアについての要請があれば、ドン・ボスコとして提供できる方法で援助を行っていく。里親に求められているのは、家族内のもう一人の父親、母親としての存在であり、例えば育児困難に陥っている若いカップルや、たくさんの子どもを抱えながらも働かなければならない家族を他の家族が支援する、というイメージであるため、そうした里親は近所の人であることが好ましいとのことであった。ドン・ボスコには、同じ地域に住む里親7~8家族で家庭支援をコーディネートするグループを形成しており、年の初めにプログラムを作って対応している。また、里親として登録をしている家庭は、元々は若い人たちとの関わりを行うボランティア活動をしていた人たちであるため、徐々に子どもたちとの信頼関係を築きながら、現在の形に近づいてきたものである、とのことであった。Don bosco のスタッフのみなさんとローマ市少年裁判所と福祉職の連携 今回の児童虐待防止法改正の中に、要保護児童の措置に関する司法関与の見直しが盛り込まれている。本研修において、裁判所の決定による里親委託が全体の7割以上を占める、イタリアにおける司法と福祉の関与の状況を学ぶため、ローマ市少年裁判所の視察を申請していたが、ローマ市福祉部署の尽力により特別に認められることとなった。イタリアの少年裁判所においては、法律に対する尊厳を持ちつつも、事務的な処理に流れない、という精神に則って、児童のケースや少年犯罪に対する取り扱いが行われている。結婚をしていないカップルがつぶれたときの結びつきの仲介役としの機能を果たす場合もある。14歳~18歳の少年の犯罪については、日本の少年法にあたる法律を適用している。歴史的に見て、少年裁判所の裁判官の大半は女性である。今回面談を行ったローマ市少年裁判所の副会長Isabella Foschini氏も女性であったが、会長も女性とのことである。そのため、少年事件の辞令を出す場合も、単に裁く、というのではなく、子どもを護り育てる、という精神が尊重されてきた経緯がある。ローマ市少年裁判所においても、4人の裁判官制を採用している。現在ローマ市の少年裁判所には15名のプロの裁判官と、15名の一般から選出された特別裁判官がおり、特別裁判官は6人が男性で9人が女性である。また、54人のソーシャルワーカーなどのグループがおり、特別裁判官はこのメンバーから選出される。ケースワーカーが通報を受けて児童を緊急保護した場合、その行為を行ってから10日以内に裁判官に報告を行い、裁判官が30日以内に実行された行動を認めることとなる。従って、認められない場合は、元の家に帰るというケースも存在する。ケースワーカーが家族支援をしている段階で、状態が悪化した場合に、裁判所にレポートを提出して、家庭からの切り離しの判断とその後の支援策を示してもらう、ということも可能である。少年裁判所とケースワーカー等福祉職が集まって、ケースを通じて講習を行う、という連携も行われているが、この4年間に法律が2つ改善されるという成果もあり、互いに理解しあい、説明しあうことを継続している。今回の研修に際して、少年裁判所への橋渡しに尽力をいただいた「チェントロ・ポリチーノ」 の責任者である、Stefano Vicini 氏はローマ市の公務員であり、心理職であるが、同時に少年裁判所の特別裁判官の職を有している。Vicini氏の存在からも分かるように、裁判所と福祉職が集まって会を持つことは、この特別裁判官制度に依るところが大きい。裁判官にとっては、ケースワーカーの書いたことは良く理解できる、とのことで、児童虐待の場合も、どのようにアドバイスをしていくか、という視点で見ていくこととなる。4人の裁判官のミーティングは、ごく普通のテーブルで行われる。一方で、家族、子どもの支援を行うための辞令の決定がケースワーカー不在で行われることへの指摘や、イタリアの法律は、親を守りすぎている、という声が、弁護士サイドから上がっている。裁判官の決定する元の親への改善命令の辞令は、期間を定めてなされる。ケースワーカーは、辞令に基づいての指導が可能であり、保護者が指導に乗らない場合は、再審査と再度の裁判も実施されるが、再審査は別の4人の裁判官によって行われる。また、支援策を講じても家庭復帰が不可能である場合には、養子縁組も検討されるが、その際4人の裁判官の中には会長が含まれる。(その3)に続きます↓http://plaza.rakuten.co.jp/ciclismofelice/diary/201609210000/
2016.09.20
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2003年10月、ケースワーカーとして児童相談所に勤務していた当時、師事していたイタリア語の先生、マッシモ・スッチさんご夫妻が、出身地であるローマで里親として児童福祉専門職とともに取り組んだ体験を聞き、ぜひ実地に研修したいと希望したところ、先方に橋渡しをしていただき、ローマとトリノの児童福祉の現場を視察させていただく機会を得ました。以下の文章は、その時の研修後に提出したレポートの中身です。13年の年月を経て、変わってしまった部分は多々あるとは思いますが、かの地で目の当たりにした、「子どもは家庭的な雰囲気の中で育つ権利を持つ」という信念の元に様々な分野の専門職の人びとが連携して行っていた取り組みの数々を思い起こすたびに、イタリア人の根底に流れるハートの温かさ、懐の深さ、連帯の力に今でも胸を熱くし、我々もかくありたい、という思いを強くします。なお、私にとってこの研修が、趣味のひとつであったイタリア語学習がライフワークとなり、それによって多くのイタリア人の友人を得ることとなり、人生を大きく変える転機となったことは、言うまでもありません。―目 次―はじめに日本における里親制度の歴史と課題イタリアにおける児童福祉施策と里親制度の現状ローマ市の現状民間の親業支援団体「ラ・ブッソラ」の行う支援グループホーム「ドン・ボスコ」の取り組みローマ市少年裁判所と福祉職の連携トリノ市に本拠を置く民間団体ANFAAによる広報・啓発活動等の取り組みまとめとしてaneddoto~こぼれ話~<訪問先>2003年10月23日(ローマ市)Centro per L’affido l’adozione ed il sostegno a distanza 所在地:piazza cagliero n. 20 00181 ROMA (里親・養子及び遠距離支援のためのセンター“ポリチーノ”)“LA BUSSOLA”Centro di sostegno alla Genitorialita’ 所在地:via andrea angiulli.1 CAP 00135 ROMAラ・ブッソラ(イタリア語で羅針盤の意/19区にある親業支援のための民間のセンター)“una casa famiglia al borgo ragazzi don bosco” (少年たちのためのグループホーム ドン・ボスコ)所在地:via prenestia 468 Roma 001712003年10月24日(ローマ市)Toribunale per i Minorenni (少年裁判所)訪問2003年10月25日~26日(トリノ県)25日 14:00 里親経験者宅訪問 26日 翌日の打ち合わせ 2003年10月27日(トリノ市)ANFAA (Associazione Nazionale Famiglie Addotive e Affidatarie)所在地:via artisti ,36 TORINO 10124 養子、里親制度のための全国組織(民間団体)訪問casa famiglia villa santa maria母子のためのグループホーム ビラ サンタマリア 訪問トリノ県の児童ケースワーカーと面談はじめに 少子化や核家族化、離婚の増加など、近年我が国の家族の形態は大きく変化をしており、そうした中で、虐待・非行等に代表される、児童をめぐる問題も深刻化をきたしている。特に、児童虐待に関しては、平成14年度において、全国で24195件(高知県:59件)とこの10年間で児童相談所の相談処理件数は20倍をこえることとなり、大きな社会問題となっている。国においては、平成12年に「児童虐待の防止等に関する法律」(以下「児童虐待防止法」)が成立・施行され、わが国において初めて法律において「児童虐待」の定義行い、早期発見、通告の義務、児童の保護などの規定がされた。虐待に対する関心の高まりにより、児童相談所への相談や通告の数が増加。法の施行により早期発見、早期対応に関しては一定の成果は見られたといえる。しかし、同時に、多種多様な相談と、権限の集中した児童相談所業務の見直しをはじめとした、新たな課題が噴出することとなった。そうした中、高知県は、平成14年12月に「高知県子ども虐待防止のための取組指針」を策定した。指針では「虐待の予防」、「虐待の早期発見・早期対応」(「発見・相談・通告」「保護・指導」)、「虐待の再発防止・心のケア」を児童虐待防止対策の3つの柱とし、行政、学校、地域など、関係機関・関係者が連携して、子どもと家庭への支援を行うための基本的な取り組みの方向が示されている。中でも「虐待の再発防止・心のケア」と言う点に着目をすると、虐待を受けた子どもはもとより、虐待を行った家族に対する心のケアと、家族の再生・再統合を行うためのシステムの構築が急務であることが謳われている。それは、不適切な養育環境から保護をされた児童が実際に生活をする、児童福祉施設や里親による養育家庭が心身ともの癒しの場となり、児童の成長や自立の場となることが、家庭の再生・家族の再統合の第一歩であり、真の意味での児童の福祉、権利擁護とつながることを、意味している。「児童虐待防止法」は、施行後3年目にあたる平成15年度に見なおしがされた。また、それに伴う、児童福祉法の見直しの中で、従来、事務次官通達によっての位置づけでしかなかった里親制度が、初めて法的な根拠を持ち、里親対しても、児童福祉施設長同様、「受託中の児童で親権を行う者又は未成年後見人のあるものについても、監護、教育、懲戒に関し、その児童の福祉のために必要な措置をとることができる」とされた。社会的養護観に基づく新しい里親制度を推進することが、行政の責務として、ますます重要な課題となっている。本研修は、共和国憲法第31条の2において、「母性、児童及び青年を保護し、この目的に必要な制度を助成する」と謳い、近年旧来型大規模施設に代わる、里親やグループホームのネットワークを構築しつつある、イタリアの里親制度を現地において学ぶことにより、本県の施策に反映させ、また、本県に登録された里親の組織である、高知県里親連合会の活動の活性化に資することを目的に計画したものである。日本における里親制度の歴史と課題里親とは「保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童を養育することを希望するものであって、都道府県が適当と認める者である。」と児童福祉法に定められている。里親制度の運営機関としては、特に児童相談所が中心になることを定めており、各都道府県・指定都市、各児童相談所のそれぞれの施策、方針に基づいて制度が運営されている。日本における里親制度の起源は日本書紀に記載のある5世紀の「ちいさこべむらし」(小子部連)の史実にさかのぼり、以後時代とともに、皇族や公卿がその子どもを預ける、という貴族的風習から、次第に武家、商人、一般庶民層にも及んだと言われている。 その後、明治時代になって社会事業家の孤児院、育児員の経営に併行しての里子養育がなされ、第二次世界大戦後の里親制度に引き継がれたといえる。 1948年(昭和23年)に、新憲法下で実施された児童福祉法により、現行の里親制度と事業が出発した。当時は、戦後の一般社会経済の困難、住宅難や家庭事情の逼迫にも関わらず、多くの戦災孤児、引揚げ孤児等に対する国民の支援感情には強いものがあった。 そして1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)の間には里親制度が全開となり、日本全国で登録里親数、委託里親数、委託児童数は最多となったが、この時期を頂点として、すべての数字は下降に転じることとなった。一方で、児童相談所に対する養護相談の件数は増加の一途をたどっている。また、我が国では要保護児童のほとんどが、児童養護施設に代表される、児童福祉施設で生活をしているのが、現状である。厚生労働省の統計によれば、平成14年度、要保護児童35,471人のうち、里親の元で生活をしているのは7.1%にあたる、2,517人であり、高知県においても、平成15年7月1日現在、要保護児童364人のうち里親の元で暮らしている児童は14人であり、3.8%にしか満たない。このことは、養子制度と里親制度の混同や、制度の周知がされていないこと、血縁関係を重視する我国の子育て観などが要因となり、結果、実親が施設に子どもを預けることを選択していることを表しているここ数年、児童福祉施設の入所定員に対する入所率は、80%から90%と、常に満杯状態である。そればかりか、虐待等により、深く心に傷を負った子どもたちの入所児童に占める割合も年々高くなり、現行の施設の体系では、不適応行動を起こす児童の対応に追われ、施設内の処遇に困難をきたした事例も多数出てきている。そうした中で、国においても、「養育里親」に注目をし、施設と里親が連携を取り、協働して「児童の最善の利益」を目指した子育て支援を行うための、それぞれの機能の充実を図ることが進められることとなった。そして、里親制度については、平成14年10月に、「里親の認定に関する省令」と「里親が行う養育に関する最低基準」が改正され、「児童の最善の利益」を目指した子育て支援を行うため、機能の拡充を図ることとなり、平成16年2月の児童福祉法の改正において、里親が法に名文化されるに至った。家庭的な雰囲気の中での児童の自立を保障する。里親制度の充実は、児童の健全育成のため、重点的に取り組むことが必要な課題であると考えられるが、そのためには、養育里親自身の資質の向上を図ることや、地域住民の中に、里親による子育てが当然のこととして受け入れられる意識づくりが必要である。それと同時に、行政が中心となって、として、そうした取り組みをバックアップするための組織作りが必要であることは言うまでもない。次項より、イタリアにおける児童福祉制度の現状をふまえ、イタリア・ローマ市において実施されている、官民共働による里親、グループホームを中心とした親子のケアのためのネットワークの実例と、トリノ市において民間団体が実施している里親制度の啓発の取り組みを紹介することによって、我が国及ぶ本県の現状との比較・検討を行うこととする。イタリアにおける児童福祉施策と里親制度の現状イタリアの人口は、5784万人(2001年)。地方自治の基本構造は15の普通州と5の特別州(regione)103の県(provincia)8102の市(comune)からなっている。Comuneは人口、面積、地域性に関わらず、同一の法的主体であり、日本のような市町村の区別はない。人口300万を抱える大都市から人口100人足らずの小さな市があるが、規模の大小に関わらず同一の行政権限が与えられている。近年、ヨーロッパ諸国では、合理化やネットワーク化の流れの中で、市の合併や統合が進められ、イタリアにおいても、合併の可能性が検討されており、そうした中で、県のあり方が、適正規模の政策単位として注目をあび始めている。イタリア共和国憲法第117条は、医療及び福祉を州の管轄としている。それに基づき、福祉分野は1970年代に権限の地方委譲が行われ、原則として実施は市の、計画及び監督は州の管轄となっている。イタリアの要保護児童施策は、日本と同様、第二次大戦後の戦災孤児対策として発足したため、終戦当時は家庭で生活できない子どもたちは、修道院のような大規模施設に保護されていた。しかし、1970年代頃から、心理職が中心となった取り組みの中で、大人数の施設では、対人関係の取り方がうまく育たないなど、子どもが大人へと成長していく段階で、いくつかの不十分な点が明らかになり、大規模施設からサポーティブ家族=里親への転換を図ることが必要である、という動きが起こることとなる。一方、紛争や戦争状態にあるヨーロッパやアフリカの国々から逃れてきた子どもたちの問題は、近年、ヨーロッパ全体が抱える深刻な問題になっており、イタリアでもアルバニアや北アフリカなど、近隣の外国からの流入人口が増加している。国内で養育困難であったり、身よりの無い外国人の子どもが発見された場合、母国の調査を実施して、両親が不在であったり、不適切な養育が予想される場合には、未成年としてイタリアに在住させる。それらの子どもたちのために、養子縁組も検討されるが、多数の兄弟姉妹やハンディキャップを持っている場合には、養子や里親として受け入れられる人が限られてくるため、南部を中心にグループホームは常に満員の状態である。外国人の中にはイスラム教の子どもたちも多く、文化や習慣の違いを理解することも課題になっている。児童虐待への対応に関しては、14歳以下の子どもを対象に全国共通のフリーダイヤルを設定し「青い電話(telefono azzuro)」などの民間救済機関を介して当局に通報されることが多い。司法機関による親権介入は、年間数千件から1万件に及ぶ、と言われている。そうした状況を背景に、2001年3月28日に「児童の養子里親制度についての規律(1983年の5月4日の法律第184号/以下「法律第184号」という)」及び「民法第三巻第八章」の改正がなされた。1975年には約30万人が大規模施設で生活していた、と言われる子どもたちは、年齢が6歳に満たない場合には里親に委託すること(famiglia affidataria)が原則となり、里親に預けることが困難な場合(兄弟姉妹が多い、ハンディキャップがある、外国人である、家庭の事情など、理由は様々のようである)も、定員6名~8名(最高定員10人)のグループホーム(casa famiglia)で生活ができるよう、施設面でも人員面でも体制整備が進められている。なお、現在施設(グループホーム)で約2万6千人(2001年資料)、里親の元で約1万人(1999年資料)の児童が生活しており、旧来の大規模な施設は2~3箇所しか残っておらず、2006年にはイタリア全土で大規模施設は閉鎖されることになっている。「法律184号」では、第1章第1条において「児童は自らの家庭に育ち、教育される権利がある」と規定している。そのため、養育困難に陥った家族への支援策として、児童担当のケースワーカーは先ず市(comune)の他部門のケースワーカーと連働して家庭支援を行い、在宅支援が限界になったと判断された場合に、初めて児童の保護、すなわち里親やグループホームへの委託の手続きにはいることとなる。委託に際しては、保護者の同意による場合(consensuale)と、裁判所の決定による場合(Giudiziario)の2つのケースがあるが、里親委託の約7割が裁判所の決定によるものとなっている。ケースワーカーは、里親委託に際して少年裁判所に「子どもや家庭に対する企画(家庭復帰につながるためのプログラム)」を提出し、裁判官の判決辞令を受けなければならない。イタリアでは、大半のケースワーカーは公務員であるが、たとえ公務員であっても、裁判所の承認なしに子どもの権限(自らの家庭で生活をする権限)を侵すことはできない、という法の精神に則り、決定機関(司法)と援助機関(行政)の役割分担を行っている。このことにより、ケースワーカーの支援が行いやすい、という利点がある。少年裁判所では、心理学や教育など、色々な視点を併せ持って判決辞令が出される方が好ましい、ということで4人の裁判官制を採用している。内2人はプロの裁判官であるが、後の2人は心理学者、精神科医、ケースワーカー等の資格を持つ一般から選出された特別裁判官で、4人は同一の権限を持ち、男女の人数も2対2で構成されており、3年間同じメンバーでチームを組むことになっている。ケースワーカーが提出するプログラムには、委託が必要となった理由、その期間と里親の権限のふるいかた、面会の取り決め等、両親や親類の者との関係をどのように維持するかが記載されていなければならず、該当地区の福祉センターは、委託期間中のチェックを行い、半年ごとに支援プログラムと元の家族の各問題の経過報告を少年裁判所に提出する義務を負う。里親委託の期間は、2年以内であるが、家庭復帰により児童に危険が及ぶことが予想される場合は委託の延長が可能である。この規定は、グループホーム等施設に入所している児童にも応用されている。里親家庭は、委託期間中の児童に必要とする養育、教育、愛情を保証で着る家庭でなくてはならず、子どものいる家庭が理想的であるが、単身でも差し支えない、とされている。なお、里親には親族里親(intra familiare )と親族以外の者がなる里親(etero familiare)の2種類がある里親手当など、里親への経済保証もされており、法律第184号の第80条―3には、「実の親に認められている仕事に関する権利、病欠休暇、日中の休暇等の権利は、委託親にも認められる」との規定があり、里親が就業している場合には、子育てに必要な育児休業などの諸権利の行使も認められている。司法省と社会支援省は、法施行後から2年後、それ以降は3年ごとに、国会にレポートを提出する義務を負い、国に置いて法律の実効性をチェックしていく体制を取っている。このように、イタリアにおける里親制度は、元の家族から一時的に他の家族に預かる、ということが原則となっており、里親は単に子どもを育てるだけではなく、子どもが家庭に帰ることができるよう、元の親とも信頼関係を築いて、精神面なサポートをする、という役割も担っている。彼ら里親は、市(comune)の公募に応じてきた人一般の人であるため、市のケースワーカーが複数回の研修を実施し、研修終了後に意思の再確認をして、里親の登録を行う。また、実際の委託に際しては、心理職が親の支援とともに、里親の支援、里親と元の親が信頼関係を結ぶための支援を行うことになっており、両者を支えるために、心理職とケースワーカーの連携がはかられている。一方、養子縁組に関しては、少年裁判所が希望するカップルの調査・決定を行い、該当の子どもが現れた場合、何組かのカップルを呼んで子どもの名前を伏せて聞き取りを行い、養子縁組の決定を行う。イタリアでも、養子を前提とした里親制度が存在しており、一般的には里親制度よりも養子制度の方が認知度は高いのが現状である。しかし、里親を希望してくる家族と養子を希望してくる家族では、その精神が全く異なるので、双方の制度については明確に分けて考えたうえで、実施されている。イタリアの里親制度に対する取り組みは、40年前にトリノのある男性が養子制度を施策・制度に位置づけさせたい、と要望したことから始まった。里親制度、養子制度のそれぞれがなすべき事を分けることが大変な作業であったが、「子どもは家庭を持たなくてはならない」という理念を出発点に、その子どもにとって、養子か里親か、という最善の選択がなされるために、福祉職や、民間団体、里親自身が主体的に行った幾多の取り組みを経て、現行の制度へと改正がされている。(その2)に続く↓http://plaza.rakuten.co.jp/ciclismofelice/diary/201609200000/
2016.09.19
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Oss 僕と、オリエンティーリングと、そして違った面での自転車の話《ジロの後、僕は自分自身に受けるべき休養を与えたんだ。》http://m.tuttobiciweb.it/index.php?page=notizia&cod=92511今宵(注:7月23日放送)22時25分から放送されるRaiSport1のテレビ番組「オリエンティーリング」で、Daniel Ossは正に主役の一人となるだろう。Ossとともにレヴィコ・テルメで開催された、バルスガーナからテシーノ高地に至る「イタリアの五日間」にチャレンジしたトライアスリートのマッティオ・フォンタナ、スキー選手のダヴィデ・ダ・ヴィラが出演。Ossはトルボレからルッカに至る6ステー800kmを二つのカバンをさげて走破した”JustRide”の旅から帰ってきたところだ。それはスポーツの新しい経験だが、トレンティーノではとても普及している自転車の旅だ。《実際、このオリエンティーリングで語られた中では奇妙な経験談だったよ。レースの緊張感なくペダルを踏むJustRideのようなことは、これまでなかったからね。》自転車選手はこう説明する。《僕は人々と意思を通い合わせることができる活動の側面をよりよく知ることができた。実際、僕とオートバイに乗っていた友人のグループは旅のヴィデオでそのことを語ることができたんだ。》ジロで疲労困憊した後、ソフトな感覚を取り戻すためのものだったんだね。《そうだよ。ジロの後、僕は自転車を1週間ガレージに入れたままにしていたんだ。そして友人達と共に、自分自身をこの旅で取り戻そうというアイデアが生まれたんだ。》コンディションを取り戻して再スタートを切るのは大変じゃない?《いや、レースに一つ出ればリズムを取り戻すには十分だ。今シーズンは遅くまでレースを続ける。そして10月の半ばにはカタールの世界選手権だ。タイムトライアルの世界王者として、チームと共に良い戦いをするために出場するよ。Bmcで本当に僕は良い走りができる。もう一年契約を更新したんだ。》トレンティーノは素晴らしいレーサーを排出しているね。《ああ、僕らは少数精鋭なんだ。モレノ・モゼール、マッティオ・トレンティン、ジャンニ・モスコンらの素晴らしい選手がいる。》君たちは素晴らしいテクニックも持っているよね。君とダリオ・ブロッカルドとの関係はどうなの?《僕が選手として走り始めたアウローラ・トレントのチームに所属した時に知り合ったんだ、アウローラは常に僕のホームベースとなるチームで、僕とブロッカルドはずっと共に自転車競技に向き合ってきたんだ。彼はオリンピックのピスタ競技を指導してきた。いつも互いに刺激しあっていて、僕とクウィンツィアートのコーチになってくれたんだ。クウィンツィアートはボルツァーノ人にも関わらずだ。》インタビュアー:Pietro Illarietti'
2016.07.24
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友人のMiriamのOssへの50の質問。その人となりを表すインタビューの内容を訳しました。Daniel Oss に 50 の質問https://emialzosuipedali.com/2016/07/18/50-domande-a-daniel-oss/#more-78252016 年 7 月 18 日 text by Miriam Terruzi 29 歳のヴァルスガーナ生まれ。夢を実現させてガルダ湖畔に居を移した。プロ自転車選手として走り始めたのは 2009 年。パンクロックのスタイルを持つ、型にはまらないライダーだ。彼は友人二人と縫いぐるみの猫をお供にジャック・ケルアックのように自転車に再び自由を見出すために旅に出た。自転車競技は、彼にリスペクトと真のアウトサイダーたらんことを教えた。これが 50 の問いの中に現われ出たDaniel Oss だ。1) アウトサイダーの意味するものは?自転車競技の中の型にはまらない、ということかな。慣例にとらわれず、オルタナティヴな姿勢でサプライズを生み出すようにすれば、プロの中で主要な位置を占めることができるよ。 2) あなたを定義づけるとしたら?僕はレッテルを張るのは好きではないんだ。3) 自転車を 3 つの言葉で表現するとすれば?自由と、苦しみと、夢だね。4) 「初めて聴いたロックミュージックを覚えている?いや。多分 U2 の曲だったとは思うけど。5) 自転車競技から学んだものは?リスペクト。6) あなたの旅の思い出で、これだけは外せないものは?いやいや、全てが特筆すべきものだよ。どこだったかを思い出しさえすればいいんだ。7) プロとしての、忘れ得ぬ瞬間は?2015 年のリッチモンドの世界選手権で金メダルを首にかけた時のことだね。8) ジロの最終ステージのトリノのことを考える時、一番最初に頭に浮かぶのは?脚の痛みだ。9) ジロを 3 つの言葉で表すとしたら?我が家。登り坂。美しい風景。 10) ツールは?高速。ストレス。黄色。 11)小さい頃は何で遊んでいた?聴診器かな。12) あなたを自転車に乗せたのは?自転車が僕の下にいたんだよ。13) まだ子どもの頃の三輪車を持っている?いや、無いよ。14) あなたを道に例えるとしたら一番近いのは?荒れて険しく、でも短い道だ。15) チームタイムトライアルで最初に世界チャンピオンになった時と 2二度目の違いは?二度めの方が、より感動の度合いが高かったよ。16) ゴールを切ったときに、ローハン・デニスに叫んだことを言ってくれる?アゲイン(再び)だ。17) あなたとマニュエル・クウィンツィアートはもう長いこと友人どおしだけれど、彼の称賛すべき点は?仕事においては素晴らしいプロであり、人生においては愛すべき存在だ。18) あなたにとってダリオ・ブロッカルドは?僕のスポーツの父だ。(注:ブロッカルドはOssが自転車競技を始めて以来の指導者である)19) どの街を世界選手権の開催地として推薦したい?トレントだ。20) それまでの見方を変えられたレースはある?ペテル・サガンと走ったレースの全てだよ。21) 眠るのに、最も居心地の悪かった場所は?フランスのベッドだ。22) 移動している間に見た最も美しい場所は?ジロディタリアのコルヴァーナのステージの帰りに見たドロミテの夕暮れの風景だ。23)Just Ride の旅で出会った最も奇妙な人物は?フェッラーラで出会った、髭をはやして木箱にの中にいた老人だ。自転車のことを話していたなあ。24) その一週間のうちに聞いた最も素晴らしいことがらは?僕を再び自転車に乗りたくなる気持ちにさせてくれた言葉だ。感謝しているよ。(目を輝かせて)25) シンダコ(市長)について教えてくれない?僕を落ち込んだ気分から解放してくれた、縫いぐるみの子猫だよ。26) 冷蔵庫に欠かせないものは?卵とジャムだ。27) トルボレで特別なものは?ガルダ湖と Mecki’s だよ。28) 行けるとしたら、どの惑星に行きたい?木星だ。29) もし俳優だったらどんな映画に出たい?パルプ・フィクションかジャンゴかな。30)20 年後にどんなものが発明されていたらいいと思う?癌の治療法と皆が自由に空を飛んで移動できる手段だ。31 )過去のどの時代のどの場所に行きたい?1920 年代のパリかな。32) 前世は何だったと思う?何かは分からないけど動物だ。きっと自分自身のことをよくわかった動物だよ。33) 頭を下げたらどんなイメージがわく?分からないよ(笑いながら)34) あなたのスタイルは?パンクロック。35) ロックスターだったとしたら?イギー・ポップ。カート・コヴァーン、シドヴィシャス36)今までだれかと殴りあったことはある?無いよ。 37)シャワーを浴びながら歌うのは?歌わないよ。あまりにも変だからね。38)思いもよらず、一番燃え尽きたレースは?2014年のヘントヴェヴェルヘルム。 39)チームメイトとする一番楽しいジョークは?カーブで列の一番後ろにつけて、落車のふりをしてシューズを地面スレスレにするんだ。40)一番悩まされたものは?バケツをひっくり返したような雨で夜中の3時に目覚めたことかな。 41)もし、あなたがネイティヴアメリカンだったとしたらどんな戦いの名前になったかしら?ブロンドカーリーボーイ。42)メンタルとハートと脚の占める割合は?それぞれ33.3パーセントずつだ。そして必要なことは、それぞれのパーツが伝達しあってタンクを満たすことだね。43)今まで与えられた信頼に最も応えなければならない人は?親父とおふくろだよ。44)プロになって、それまでと変わったと感じたことは?より責任が増したことだ。45)ロードは貴方の師匠かしら?ひどい師匠だよ。46)子どもたちのチームで監督をしたいと思う?ああ、思うよ。47)最も厳しく受けた叱責は?もっと苦痛を学ばなければならない、もっと考えをめぐらせなくてはならない、ということだ。48)どんなことに我慢ならない?口先ばかりで、全く結果が伴わないやつには我慢ならないな。 49)今までにした最もマヌケなことは?一晩で肉1キロを食べるような大食いをしたことだ。50)シーズン第2章に向けたプレイリストは?The Hivesだ。時間を割いて質問に親切に応えてくれたDaniel Ossに感謝をこめて。フォローはこちらSeguitelo su:♦ Facebook♦ Twitter @Daniel87Oss♦ Instagram @daniel87oss
2016.07.20
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ツールドフランス2016参戦中のアスタナの若きエースアル。そのアルの指南役ティラロンゴが、ツール出発前に語ったアル評がなかなか興味深かったので訳してみました。記事はTuttobiciweb.itより。インタビュアーはGiulia De Maioです。ティラロンゴ《アルのAからZまでを語ろう》パオロ・ティラロンゴがファビオ・アルのAからZを語る。2000年にプロになり、ジロディタリアで3度ステージ勝利をあげたシチリア人ベテランライダーはジュニア時代から手塩にかけて育てきたサルディニア人ライダーについてtuttoBiciのインタビューに対してアスタナのチーム内での2人のつながりについて語る。http://m.tuttobiciweb.it/index.php?page=notizia&cod=91837《ツールドフランスはもうスタートを切るのみ、という時になっている。他に類を見ないレースだよ。俺は2016年のコースを分析し、頭に叩き込んだ。最後の3/4の日々で勝負が決まると確信している。3週間のグランツールではそこまではフレッシュさを保ち、脚を残しておかなければならないんだ。ラストには100%の力を出す必要がある。モン・バントゥー以降に最大の力を出すことが重要なんだ。》ツールに向けて、ティラロンゴは15日間、ファビオや他の仲間とともに高地トレーニングに臨んだセストリエーレから戻ってきた。《チームで戦うことが大切だ。ファビオが経験してきたことを落ち着いて発揮できることを期待している。ヤツにとっては他に類を見ないレースに、トップコンディションで経験を積んだコンタドール、クィンタナ、フルームといった既にツールで勝利し、勝つためにレースに来た有力選手とともに初めて立ち向かうことになるからね。ファビオは若く、まだまだ通過しなくてはならない道があるから、俺たちはヤツにプレッシャーを与えないようにしなければならない。ブェルタには勝利しているけれど、より高い段階に到達するには、まだまだ経験を積まなくてはならない。俺たちはマイヨジョーヌを勝ち取るためにフランスに来たのではなく、ステージ勝利とできるだけ総合上位につけるのが目標なんだ。ヤツのことは知り尽くしている。あらん限りの力を出し結果を出すことができるだろう。あわよくば、ジロのクルイシュイヴィックのようにいきたいものだ。》AはARIA(空気・雰囲気)《ファビオはオープンな雰囲気の中にいるのが、好きなんだ。自転車競技を仕事と捉えず、クライマーではないにしても海でも山でも先頭につける。旅を愛し、新しい世界を発見する。閉ざされた場所にじっとしてはいないんだ。》 BはBARBA(髭)《ヤツは時々髭を伸ばすんだ。特にキャンプ中やトレーニングに集中している時にね。ヤツはまず目に髭を剃りたいとおもうんだけど、カミソリをあてる時間なんてないんだ。CはCAPELLI(髪)《これもまた伸び放題だ。走りながら「お前はまるでアンジェロ・ブランドゥアルディ(注:イタリアのシンガーソングライター)みたいにフワフワしてる」と話したけどね。》DはDINAMICO(ダイナミック)《ヤツは決して止まらないんだ。トレーニング漬けで、360度全ての角度から体をケアする。例えばトレーニングの後いつもストレッチをして、今年はジムで身体を鍛えている。》EはELLEGANTE(エレガント)《夕食や授賞式にはめかしこんで行くんだ。去年のOscar tutto BICIナイトのことを覚えているか?家族と出かける時もキチンとしていくんだよ。》FはFORTE(強さ) 《メンタル面でも身体面でも強いことを君たちも見たと思うし、ツールでもそれを見せつけるだろう。》GはGENTILE(優しさ)《ヤツはいつも穏やかだ。ファビオは礼儀正しく教養のある男の子なんだ。ヤツが北イタリアで走るために多くの犠牲を払ってくれた家族、母親のアントネッラ、父親のアレッサンドロ、そして弟のマッティオ達と強く結びついているんだ。》HはHOTEL(ホテル)《俺たちの人生ではホテルを渡り歩いているからね。俺たちはルームシェアをするんではなくて、それぞれの部屋を持っているんだ。俺は早起きだけど、ヤツは遅くまでベッドにいるのが好きだからね。》IはINTUITIVO(直感)《ヤツは聞くよりも前に察することができるんだ。ヤツは人の言うことを聞いたり、興味を持ったり、他の人を見ながら学ぶことができるんだ。何かを得るにはより良い解釈方法を掴まねばならないんだよ。》JはAJO《ヤツのファンの激励の言葉がAから始まるらしいんだけど、伝言ゲームかって?俺の頭の中にJは全く残らないな。》(訳者注:ajoはスペイン語でニンニクのことで、ニンニクはサルディニア語でalluらしい)KはKIROGRAMMA(キログラム)《ヤツは毎朝体重計に乗っているんだ。パスタが好きでカルボナーラに目が無いんだよ。ピッツァや肉も凄く好きなんだけど、今のように大事な目的がある時は、何の問題もなくサイクリストてしての食事制限をすることができるよ。》LはLUCIDO(明快さ)《全ての時を前提として、海外のレースだと特に全てを新しくすることが好きなんだ。相当の情報を読んでおくんだよ。》MはMETICOLOSO(細心の注意)《全てにおいてそうだけど、特に仕事においてはね。決して偶然の産物にはしようとしないんだ。自転車のポジショニングや栄養補給や眠る時間にとても注意を払っている。まさにプロフェッショナルだよ。》NはNATURALE(自然体)《見てのとおりだよ。自身の願いや欠点に対してピュアに真面目に取り組むんだ。》OはOLIMPIADE(オリンピック)《ツールドフランスの後のヤツの大きな目標はリオデジャネイロに代表のジャージで万全の体制で臨むことだ。オリンピックのコースは俺たちの代表に合っている。ヤツとヴィンツェンツォを応援するよ。》PはPAOLO《パオロとはまさに俺のことさ!俺たちはいつも一緒だ。ヤツとツールのキーとなるコースの試走をしたよ。坂道タイムトライアルと最も厳しいステージをね。中でもモンブランの下でレースを終えるモルティーネは最高にタフなステージだ。今回のツールはヴィンツェンツォが勝利したジロの終盤のようにラストの短期間にたくさんの高低差のあるステージが控えている。ファビオはそれをフランス・アルプスでやってみようと思っている。ヤツの好むコースなんだ。》QはQUADRO(絵)《家にはヤツの勝利の絵が沢山飾ってあるんだ。ポスターも沢山だよ。キャリアのキーポイントとなる瞬間だよ。》RはRADO(稀にみる)《俺が今まで共に走ってきた偉大なチャンピオン達と比較しても、稀にみる頑固さを持っている。去年のジロディタリアで、もうヤツはダメだと思ったところから復活したからね。》SはSOLARE(明るさ)《ヤツはいつも笑っている、ということさ。》TはTESTARDO(頑固さ)《サルディニア人。それ以外に、何があるっていうんだ?》UはUMILE(控えめ)《ヤツの良さは枚挙にいとまないけど、サドルの上で大きな結果を出しつつあるんだ。でも地に足をしっかりつけてね。》VはVALENTINA《ヴァレンティーナはヤツの許嫁で素晴らしい女性だよ。俺たちの仕事に付き合うのは簡単なことじゃない。いつも普通の人とは仕事のリズムが違って外に出て忙しくしている。自転車選手と共にいる女性であることは、並大抵なことではないんだよ。》WはWILIAM《ウィリアムはヤツの友人の一人のベルガモ人で、U23まで成長したティローニ・デラ・パラッツァーゴの選手だ。ヤツにとって友情は大切なものだ。遠く離れてしまったとはいえ、サルディニアにはアントニオ、ジャンフランコ、オランス、マルチェッロといった友人達がいるんだ。》XはXS《ヤツのズボンのサイズだ。》YはYOGURT(ヨーグルト)スマートでいるためにはブルーベリーだ。ヤツは朝食でシリアルと食べてるよ。》ZはZUCCHERO(砂糖)《美味いことは分かっていても、ヤツはコーヒーには決して砂糖を入れないんだ。ヤツについてのことをチームメイトてして、また信頼しあう友人として触れられるのは嬉しいよ。ツールでヤツのそばについて走るのが待ち遠しくてたまらないんだ。》Giulia De MaioTuttobici 6月のインタビューより
2016.07.10
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Sportweekに掲載された、Ossのジョーク一杯のインタビュアーを訳しました。 textはMattia BazzoniとLuca Bianchiです。 インタビュー Bmcの自転車選手Daniel Ossへの奇想天外なインタビュー 女性が電話番号を教えるというのは何を意味して知ると思う? 『FBから気安く声をかける段階に入ったということだね。決定的瞬間だよ。』 やったことでこのコラムに書けないことは? 『長髪とマンドリンと袋一杯のスプラッターかな。』 サイクルコンピューターに映画を映すとしたら、モルティローロにオススメなのは? 『パルプフィクション。スプラッターだからね。』 だれが16(seidici)をdiciaseiと言わないように決めたのかな? 『昔々、コルシカのアカデミーに数字の読み方を決める会議があって、引き受けた人それぞれが一つの数字の読み方を決めたんだ。14(quatrodici)、15(quindici)そして16はどうなったかと言うと?16を担当した人は酔って寝てしまったんだ。ゼイゼイ言ってシャツをはだけて、この言葉を発した。「16(seidici)だ」』 世界一幸せな人を探すために10秒与えられたとしたら、どこで見つけられる? 『googleを開いて「世界で一番幸せな人」と打ち込むか「僕は幸せだ」というボタンをクリックしてみては?』 サッカーヨーロッパ選手権のアイルランドサポーターの領収書で2267.70ユーロで351本のビールと37本の水と13のアイスティーというのが、あったけど、紅茶とはどういうことだい? 『アイルランド人たちは13台のバスでやってきて、紅茶は運転手用だったんだよ。』 aとeを抜いた言葉で真っ先に思い浮かぶのは? 『骨(Osso)だよ。 インタビュアー Mattia Bazzoni Latra Bianchi
2016.07.03
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7月にトレンティーノのComano termeで開催されるジュニア自転車ロードイタリア選手権。そのコースを若手選手たちと試走したOssのインタビューが大会HPにアップされたので、訳してシェアします。自転車ジュニアロードイタリア選手権 2016年7月8日〜10日Daniel Ossがジュニアのコースを試走。《素晴らしいコースだ。最後の登りが勝負どころになるだろう》http://www.termecomano2016.it/lang/IT/pagine/dettaglio/independent,-1/daniel_oss_sui_percorsi_degli_italiani_giovanili_tracciati_stupendi_decisiva_la_salita_finale,55.html今朝、テルメ・ディ・コマーノで開催される自転車ジュニアロードイタリア選手権は、主役を張ったジロディタリアから戻ったばかりのBmcの強力なレーサー、Daniel Ossを招くという、光栄な機会を得た。Ossはキッチリと自転車に乗って午前中にフィアヴェに合流し、クラフィケ・ゾルツィステロの何人かの若手選手や、シーズンにとって最も重要なレースの下見をするために本日まさにテルメ・ディ・コマーノに到着したばかりのチーム・ヴァルカーの女子選手らと共にこの9日と10日に行われるイタリア選手権のコースを初試走した。フィアヴェからスタートしたBmcのルーラーは3つの周回の全て、即ちヴァルロ・マソーネとドン・グェッティの周回(フィアヴェ、ロマーゾとブレッジオから構成されている)とテルメ・ディ・コマーノの周回をテストした。Oss、コースはどうだい?《とても、素晴らしいコースだよ。コースのレベル的にもテクニック的な面から見てもね。》Ossは答える《これらの道はいつもトレーニングで走っているんだ。ここは交通量が少なく、選択の余地も広く、ロマーゾやテルメ・ディ・コマーノの美しい景色を目にすることもできるんだ。》レースのコースはどうだい?《コースのうち、ヴァル・ロマゾーネはとても走りに適しているけれど、道幅は幾分狭い。》29歳のBmcの高速ルーラーは続ける。《若いレーサー達は能力、テクニック、解釈力を試されることになる。そこではリスクを避けて先頭集団に残ることがその後のレースを決定づける。テルメ・ディ・コマーノの最後の周回にあるポンテ・ディ・セルブリの登りがおそらくジュニアのレースの勝負を決定づけることになるだろう。そしてその後のラスト1キロの平坦区間へと続くテクニカルな下りを制した者が最初にゴールすることになるだろう。新人選手達にとってはドン・グェッティの周回をこなした後、2つのコースを走らなくてはならないため、論点は少し異なる。2度の登りをこなすためには脚を残しておく必要がある。》ダニエル・オスは逃げのスペシャリストだ。テルメ。ディ。コマーノで勝機があるとしたら?《僕は今年のジロディタリアで見せたように、いつも逃げを打とうと思っている。ジロでは上手くいかなかっただけで、7月9日から10日かけてイタリア選手権に出走したらもっと良い走りがどきるだろう。いつも逃げを決めることを考えることが必要だ。レースでは何でも起こりうるからね。》2000年にOssはデビュー1年目のトリコローレ・イタリアチャンピオンジャージを着用した。思い出のレースでもあるテルメ・ディ・コマーノ2016に出走する選手にはどのような祝福の言葉をかけたい?《僕にとってはアスリートてしてのジャージを着た最初の感動のレースだ。今でもはっきりと覚えているよ。》Ossは答える。《勝利のことだけでなく、レースの旅の印象や仲間と過ごした時のことは今でも僕の中に残っている。テルメのディ・コマーノに出走する選手達にはいつもより良くいて欲しいと祈っている。僕はスタートラインまでの移動やレース前夜から新人選手のイタリア選手権の運を持っていたんだ。レースへの出走経験は全て素晴らしいものだ。そして、楽しむことができるんだ。》 最後に10月にカタールで行われる世界選手権に照準を合わせたOssの今シーズン後半のことを聞くのは避けられない。《まずはレースから離れて一時中断期間を設ける。僕は消耗して辛かったジロディタリアを終えたばかりだからね。ジロではステージ勝利を夢見ていたが、叶わなかった。最長逃げ賞を受けたことは、挑戦したことに値する満足すべきことだと思っている。シーズン後半の1番の目標は世界選手権だ。Bmcの一員として、チームタイムトライアルのタイトルを守りたいし、守らなければならない。ロードではコースが自分にとても合っていると思っている。世界選手権にできる限り良いコンディションで臨めるよう、努めるよ。》
2016.06.20
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ジャスト・ライド 自らを再生させるOssの自転車旅についてのガゼッタ・デロ・スポルトのインタビューを訳しました textはMattia Bazzoniです 自転車と二つのカバンを持って、トルボレからルッカまで旅をするんだ。全てがゴキゲンだよ。 「ただ自転車に乗りペダルを踏む。」明日(6月12日)Bmcのトレント人は友人と思い出と料理を求めて走行距離800キロの旅に出る。 《計画?何もないよ。ただ自転車に乗ってペダルを踏むんだ。》 プロトンの中のパンクスピリットの象徴であるDaniel Oss、29歳。金髪・巻き毛でジャック・ニコルソンの微笑みを持つ男だ。 その言葉には新しいものを探求しようとする、自由奔放な思いが満ち溢れている。 このところのレースでは、ティレーノ・アドリアーティコで芽を出し、ジロディタリアで大成長を遂げた。 彼は明日、旅を始める。 《スタートだ。サドルに乗り、今まで見たことのない場所に行き、長いこと会っていなかった人々に会いに行くんだ。》 家のあるトルボレからアドリア海側に行き、アペニン山脈を越えてティレニア海側に行く6日間800キロの何も考えずに走り、自転車の新しい側面を発見する旅だ。 質問への答えはこうだ。 《ただ自転車に乗るんだ。》 自転車のことだけについての考えだ。 《僕はいつもレースの中にいて、集団を観察し、記録とパフォーマンスを求めてきた。その画像をテレビで見て考えたんだ。「何て素晴らしい場所なんだ。でも僕らは本当にそこを通過して来たのだろうか?」 ジロが終わって、僕は一週間というもの、自転車を見たくなかった。疲れていたんだ。自転車を見ると吐き気がするほどだった。でも僕はペダルを踏むことが好きだ。だから、この冒険へと出発することを考えたんだ。自分自身に再び情熱を湧き起こさせるためにね。自転車を楽しんで味わうんだ。自転車と僕とカバン二つ。必要なものはそれだけだ。》 思い出 ヴァカンスはガルダ湖畔で始まる 《初日はフェラーラに到着。イタリアらしい自転車の街だ。何の計画も立てずに1日を過ごしたい。バールで過ごして街の広場での自分を見つめなおすんだ。 その翌日はチェゼナティコ。ピラータの土地だ。僕はクライマーではないので、パンターニはアイドルというわけではないけれど、でも彼は僕にとってすごい存在だった。ジロのレジェンドの一人だ。彼の埋葬された土地を見たことがなかったので、墓参りをするためにその地を巡りたい。そして、何人かの友人達と魚を食べるよ。 3日目はボルゴ・ディ・ロマーニャまでアペニン山脈を越えていく。そして、トスカーナだ。ジュニアの頃にアウローラ・ディ・トレントからラクイラ・ガンサローリ・ディ・ポンテ・ア・エマ(バルトリを輩出した地域のクラブ)に移って走ったことがあり、そこで何人かの人に会えるんだ。 第5ステージはフォロニカで、再び海だ。そこからルッカまでボルゲリ、チェチーナ、ヴォルデッラなどの、僕が少年時代に走った道を通過していくよ。自分で特段のゴールは決めたくないな。時間の許す限り、真っ白いラインを進んで行くんだ。》 On the Road そのスピリットは、まさにイタリアを回る旅行者のものだ。 《このアイディアはティレーノでタイラー・フィニーと話している時に湧いてきたんだ。彼はアメリカ合衆国でこれと似た経験を踏んでいてね。「カリフォルニアにもそんな道があるのを知っているかい?」「ジロの後に一週間の中断があるよね。」 これで、全てが生まれたんだ。》 ジロでは、ダニエルは全行程の中で最も長い距離を逃げ続けた選手だった。 そして、今彼は6日の間、プロの世界から逃げようとしている。 《僕は集中することも、WattやSrmといったテクノロジーと共に仕事をするのも大好きだ。確信を与えてくれるからね。でも、それは100キロのチョコレートを食べるようなものだ。最高に美味しいけど、ツーマッチなんだ。自転車は僕にとっては身体に染み付いたもので、自分の有り様でもあり、ライターや、ストリートアートや、レッドホークムーヴメントなどの自転車と関わりのないものからも影響を受けるものなんだ。自転車はクールな機械だ。アペリテーヴォのために出かけたりするんだよね。そうした側面を再発見したいんだ。》 二つの世界。一つはRockそしてもう一つはよりスローなものだ。 《レース中、クィーン・オブ・ザ・ストーンエイジのことを考えさせられた。幾分ワルで、エネルギーに満ちている。でも僕の旅で鳴り響くのはLAの、イーグルス・オブ・デスメタル(注:バタクランで出演中にテロにあったバンド)なんだ。ロードを行くには、最も心落ち着くリズムなんだよ。》
2016.06.12
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Mecki’sプレゼンツ:我らが(B)OSSのインタビューhttp://www.meckis.com/daniel-oss-for-meckis/ スポイルされた選択。彼はまぎれもなく、Rockerで、シックで、ショーを見せつけるショックなヤツで、そして自転車乗りでもある。プロ自転車ロードレース選手のDaniel Ossは年中世界を飛び回っている。彼は世界を股にかけているが、プロスポーツのスター街道にひと時の休息を与えるのは、いつも心に思いめぐらしているトルボレだ。それは1年を通じて完璧なトレーニングの場を与えるタフにして完備なガルダ湖の片隅に位置する。Danielはクレイジーなヘアスタイルの、笑いを絶やさない若者で、アウトサイダーであり、偉大なる友人だ。ピュアに新しいスポーツのためのスポーツの一部たる自転車競技へのイカした道を分かち合い、ロックミュージックを奏でニューウェーブの人食い人種のようにでっかい肉に食らいつく。ここでMecki’sの最高に親しい友人を紹介しよう。イッツ・オンリー・バイク・アンド・ロックンロール。それでご機嫌なヤツだ。(オリジナルテキストのイタリア語とともに日本語訳インタビューを掲載)Ciao Bra, rispondi in maniera irriverente e molto tua a queste domande…che poi le trascrivo in tutti i cessi degli Autogrill. Lov u Ivanやあ、兄弟。できる限りの不遜な態度でこの質問に答えてくれないか。そしたら、俺はその答えをドライブインというドライブインのトイレに書き写してやるよ。お前の親愛なる友、Mecki’sのイヴァン・ベルトラミからインアビューだ。Miglior posto per andarci in bici自転車で行くのに最高にイカした場所は?AROUND GARDA LAKE AND CALIFORNIAガルダ湖の周りとカリフォルニアだねMiglior posto per fare colazione朝メシを食べるのに最高の場所は?MECKI SOLO QUANDO C’È MERYMeckiだ。マンマ・メリーがいる時に限るけどね。Miglior posto per manicure/pedicureマニュキュアやペディキュアをするのに一番の場所は?Al Burj Khalifa a DubaiドバイのBurj KhalifaMiglior negozio di calziniソックスを買うのに一番の店は? MECKI SOLO QUANDO C’È LA NANA Meckiだ。これもナナがいる時に限るけどね。Miglior locale dove ballare tutta la notte一晩中踊り明かすのに一番のスポットは? LE DEPOT – 10 Rue aux Ours, 75003 Paris, FranciaパリのLE DEPOTだ。住所は10 Rue aux Ours, 75003 Paris, FranciaMiglior posto per fare shopping economico格安ショッピングをするのに一番の手は? AMAZON FASHIONアマゾンファッションだねMiglior posto per mangiare食事をするのに一番の場所は?LA PARADETA – Carrer Comercial, 7, 08003 BarcelonaバルセロナのLA PARADETA だ。住所はCarrer Comercial, 7, 08003 BarcelonaDove il miglior americano (drink)?カクテルが最高なのは?PUB ALL’OCA RIVA DEL GARDAリーヴァ・デ・ガルダのPUB ALL’OCAだ。Miglior posto dove ascoltare musica liveライヴミュージックを聴くのに一番のスポットは?ARENA DEL VITTORIALE CASA D’ANNUNZIO GARDONE SUL GARDAガルダ湖畔のガルドーネにあるARENA DEL VITTORIALEだねIl tuo pezzo preferito (music)一番好きな音楽作品は?The Decline NOFXNOFXのThe DeclineだIl nome di tua madre母さんの名前は? ANITAアニタI love you Less & Less. A chi lo dici?お前のことなんて全く愛することができないよ、という言葉はどんなヤツに浴びせたい? A CHI NON HA PIÙ DA DARMI E DIRMI NIENTE A CHI MI TRASMETTE SEMPRE PIÙ LESS E LESS与えられたリ得るものが全くないヤツにだね。Come hai conosciuto Mecki?Meckiとのなれそめは? UNA NOTTE MI É APPARSO IN SOGNO L’INSEGNA ある夜突夢のお告げに現われたんだ。Il tuo odore preferito好きなにおいは? MISCELA 5% VESPA A STRUZZO ’5656年型ヴェスパが5%混ざったものだ。Il miglior modo di sprecare il tuo talento才能を浪費する最たるものは? TAGLIANDOMI IL CAZZOアソコを切り落としちまおうかな。a cosa che ti fa bruciare l’animaハートに火をつけられるのは? QUANDO PRENDO I 100 ALL’ORA IN BICI E PIEGO 30GRADI A DESTRA E/O 15 AMERICANI自転車を時速100キロで飛ばして右斜め30度に体を倒してる時か、カクテルを15杯あおっている時だね。La tua tenuta da notte夜寝る時の格好は? BOXER PETTO NUDOブリーフいっちょうだ。Il tuo vestito feticcio崇拝する服装は? UN BUFF BANDANA DELLA NAZIONALE BELGIO 2000 E UNA MAGLIETTA MECKI2000年のベルギーナショナルチームのバンダナとMeckiのTシャツだ。Lo strumento musicale che preferisci好きな楽器は? BASSO 4 CORDE PASSO LUNGO FENDERロングフェンダーの4弦ベースさトレンティーノの牡牛Daniel Oss。1987年トレント生まれ。6歳の時に自転車競技を始め、2009年にプロとなった。Bmcレーシングチームのジャージを身にまとい、Uciプロツアー・チームタイムトライアルで2014年と2015年のワールドチャンピオンとなる。Ossのことをもっと知りたいヤツはインスタグラムかFBでありがとう、Daniel
2016.06.04
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今年も5月末の一週間、イタリアの旅に出発です。 今回の旅ではちょっとチャレンジをしてみようと思っています。 この一月からGiantショップのスタッフの皆さんにアドバイスをいただきながら、準備をしてきた愛車・MR4を列車に乗せて友人たちの住む街を巡る予定なんです。 そして5月29日には、ジロディタリア最終日のトリノ街に自転車で出掛けてゴールを迎え、ジロに出場しているOssをはじめとした選手や、グランデフィナーレに集まった友人達に会いたいと思っています。 その後は、コグウェイで高知に来てくださったミラノ在住のカップルのお家に招待を受ける予定です。 自転車を担いで列車の旅をオバさんがどこまでいけるか不安と期待がまざりますがそうした旅の日々をblogにアップしていきたいと思います。 さて、まずは出発前の準備編。 今回は荷物は極力少なく、ということで持っていく服はTシャツ2枚とその上に羽織るプルオーバーとカーディガン、後はサイクルジャージの上下のみ。 下着も二枚をとっかえひっかえ洗って使います。衣服は輪行バッグに詰めたらクッションにもなるんですね! 後、列車の旅のために、trenitaliaのサイトから時刻表をPdfでダウンロードし、iBookに保存して、列車の乗り換えに役立てるようにしました。ローカル線に乗るとき通過駅が確認できるので便利で安心なのです。参考までにダウンロードの方法を記録しておきます。 興味あるかたは、ぜひ試してみてください。 まずはパソコンでtrenitalia のトップページから、trasporto regionaleを選択 VenetoとかTrentinoなどのローカル線のページの一覧がが現れるのでとりあえずtrentinoをクリック 出てきた画面から scarica l'orarioをクリックする すると出てきたこの画面から下の方にある3つの・のうち二つ目の''Orario regionale digitale'versioni digitale 11edizioni regionali の次にカッコでアンダーラインのあるScaricale qui をクリック(ちなみに文の意味は”デジタルローカル時刻表'デジタルバージョンの11種類の時刻で表です。イタリア語でダウンロードをscaricaleといいます。) 色んな地域のローカル線の一覧が現れるので必要な地域のものをクリック Pdf形式でダウンロードし、パソコンに保存した後、添付ファイルにしてスマホにメールで送ります。 iphoneの場合はibooksに保管すれば、200ページを超える時刻表の中身を持ち歩けます。 私はグーグルで訪れる予定の街を探して、時刻表を見ながらバーチャルイタリア鉄道の旅をして、事前に随分と楽しませていただきました。 ただし、海外でWifiを接続する際には容量の関係で使用制限がかかる場合があるので、ハラハラしないためには必要な箇所を事前にプリントアウトしておく、という手もあります。 それでは、実際の旅の模様はこの後で! ci vediamo a dopo!
2016.05.24
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北のクラシックを終えたばかりのOssですが、ジロ・ディタリアの公式サイトより、今年のジロ参戦に向けての抱負を語るインタビューが届けられました。兄貴分クウィンツィアートとともに、ジロへの準備と狙いを語っています。http://www.giroditalia.it/it/news/bmc-dal-pave-alle-dolomiti/4月11日ドロミテのパヴェからクラシックシーズンはまだ終わっていない。しかし、Bmcレーシングチームのマニュエル・クウィンツィアートとダニエル・オスにとっては、ジロ・ディタリアに向けて集中するときが来ている。双方ともイタリア人のクィンツィアートとオスは母国での走りの機会を得る価値があるが、この3週間レースにどっぷりとつかっていたため、コンディションが最高というわけではない。イタリアでBmcは幸先の良いシーズンのスタートを切った。ティレーノ・アドリアーティコでは、リド・ディ・カマイオレのチームタイムトライアルの勝利により、オスがリーダージャージを着用した。そして、グレッグ・ヴァン・アーヴェルマートが第6ステージを勝利し、二つの海のレースで総合優勝を手中にした。2002年にプロになって以来、クウィンツィアートはジロをスタートするのは、わずか4回のことであり、オスは3度めのジロだ。クウィンツィアートとオスは北のクラシックに参戦してきたパヴェでこのジロへの準備ができるていと確信している。「僕らは、ジロの序盤のステージがオランダで戦われることを喜んでいる。僕らのようなクラシックレースのコースで準備を積んできたものにとっては、良いことだよ。イタリアに入る前のレースの最初の数日は、キツいレースになるから、僕らに合ったステージが構えられているよ。」クウィンツィアートの言葉だ。「クラシックレースでの準備はいったん終了だ。ジロ・ディタリアに向け準備に入るには休養をとることがまず重要なことだ。レースの負荷は全く異なっているからね。でも、僕らは必要な距離は踏んでいる。コンディションはパーフェクトだから十分休養をとって回復し、オランダでのスタートに向けて調子を保っていくよ。長いステージレースを戦えるかどうかは、三週間の間にコンディションを完璧に組み立てておけるかどうかにかかっている。」オスは強調する。待ち遠しいのはどのステージだろう?「ダニエルと僕はイタリアでも同じ地方の出身だ。僕はアルト・アデジェ、ダニエルはトレンティーノ。だから、僕らにとっては家で走っているようなものなんだ。イタリアでも最も美しい地域だよ。僕らは休養日を我が地方で送ることができるけど、それは今年のジロ・ディタリアで走るためのモチヴェーションになるよ。ジロ・ディタリアは単にスポーツというだけではなく、地域の歴史の一部なんだ。」クウィンツィアートはそう説明する。「ジロには、総合順位は抜きで参戦するつもりだ。だから、可能な限りチームはアタックや逃げを仕掛けることになるだろう。レースで大きなことをやてやろうと思っているよ。」こうオスは結んだ。
2016.04.11
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ティレーノ・アドリアーティコ2016のチームタイムトライアルの勝利により、リーダージャージを着用したOssについて書かれたMiriam Terruzziの文章を訳してシェアいたします。イタリアでOssのアシストとしての仕事ぶりが評価され、またその人間性が愛されていることがよくわかります。http://emialzosuipedali.com/2016/03/10/il-sole-tramonta-a-ovest/陽は西に沈む季節外れのベルシリアはマジカルで奇想天外だ。変わらぬ白い色と人通りの無い海岸通り。ゆったりと一定の間隔で泡立ち大きな貝の形に描かれては消えていく波の打ち寄せる果てしない砂浜。最後の輪郭は砂に吸い込まれ、残りは海に再び掴まれ、捕まるのだ。タイムトライアルは少しそれに似ている。より速く行くためのゆっくりした息遣い。そして、チームタイムトライアルは唯一の大きくつく息だ。道がゆっくりと吸い上げていく水の描く貝殻。メレンゲのように膨らんだ灰色の雲が立ち込め、泡だつ空気の中から生暖かい太陽が顔を出す、正午の静寂の底からローラーの騒音が沸き起こる。まるで戦闘に臨むかのように、空っぽになってペダルを踏み続ける男たちは目に映る、見えないカーテンを遮断しようとはしない。殆どのものが頭を上げようとしない。それは決まりなのだ。自転車、変速装置、家の棚にぜひ飾りたいものだと思わせるボトル、フレームに降り注ぐ汗。全てを見つめる人々と共にあっても集中を絶やさないのだ。世界から隔絶されることは、実行不可能だと思わせるような奥義だ。…にも関わらず、各々が自分の流儀でそれを遂行していく。テージェイ・ヴァンガーデレンはヘッドフォンから流れるお気に入りの歌を口ずさみながら揺れ動く。さらにダミアーノ・カルーゾという名前の男が微笑んで登場。帽子を取って父親の腕に抱かれた金髪の小さな女の子にプレゼント。この一瞬で幾度となく残酷な姿を見せる、一つのスポーツの底に流れる優しさを知るには十分だ。 音の響きと習慣は常にこうだ。汗を拭くタオル、何キロメートルもの間、視線を隠す宇宙飛行士のようなヘルメット。奇妙なおまじない、若しくは習慣。何秒間か目を閉じる。それが全てだ。特に他に無い団結を感じるこの場所では。車輪の動きを、後ろにいる他の者をこんなに身近に感じることが出来るのだ。トニー・マルティンがスタートでローラーを刻む。皆が彼の勝利者の公式を知っている。Bmcの勝利の公式は正にテクニックではなく団結の力だ。それぞれのレーサーが自分自身を完璧なパズルをはめ込むための唯一無二の存在であると承知している。無意識のうちに、湧き出でているものに到達するのだ。それは、二つの世界選手権の経験に違い無い。最初は思いもかけずに、2度目は苦労の末に勝利を勝ち取った。これら全ての幾分かは、互いを強く求め合い、思い合うことから来ているのだ。何故なら、勝利とは精神と心と勇気によりもたらされるものだからだ。雲が青空に抗い、薄く白くしぼむ、彼らだ。ポンフェラーダの、そしてリッチモンドの金メダルを獲得した男たちだ。皆が彼らのことをそう呼んでいるのを多分彼らも知っていた。他のチームがゴールしつづけるが、この23分55秒が、ほぼヴェルシリアのゴールタイムだ。それは、ほとんど超えられないものだ。ダニエル・オスは他の全ての者が入れ替わっていた白いテントの入口でブルーのリーダージャージを試着する。ふざけながら、でも今回はラスト1秒まで万歳をするのを保っていなければならない幻想の時の一つではない。今回は希望を歯を食い縛ってつかみ続けている必要は無いのだ。この数分間は今まで掴んだことのない、最も安定したつながりだ。 そして、ダニエルは微笑みで激しさを和らげようと試み、いつも静かに夢を見ている男だ。降伏、ということを言おうとはしないRockerだ。もちろん、勝利の前の確かな闘いは目に見えぬものだ。素手を上げると、つけてきた傷跡が見えるが、それ以上は見せるものは無い。多分このことと何度も待ち続けたこの表彰台も超現実的なものに思われる。真の素晴らしいものごとは突然やってきて、そして最もよい行いの代償に、それ以上のものが支払われるという、まさに宇宙の法則が存在するのだ。キャプテンに捧げたいつもの何度もの働きゆえに、切ることができたかもしれなかったにも関わらず、入れ替わることを厭わなかった全ての勝利のゴールゆえに、その顔に受けてきた全ての風ゆえに、仲間に水を運ぶために何度も集団の底から滑り落ちたことゆえに、幾度となく見せた自己を惜しむことの無い姿ゆえに、何度となく嵐は揺さぶり、陶酔させて、道は君に全ての代償を払ったのだ、ダニエル。表彰台で笑顔を見せるペルジネ人の姿は、その前に他者に対して捧げた犠牲ゆえの物だ。今日のスタートで、そして、幾多のスタートにおいて。今ヴェルシリアでは乾杯のスプマンテの香りが表彰台に、髪の毛にたちこめる。海は人気の無い浜辺に大きな貝殻の形を描き続ける。太陽は西に沈み、全ての静寂を包み込み、果てしなく続く海岸を照らすこの季節の光が輝く。海は、水の力でバラバラになり、磨かれてまるで彫刻のようになった枝を浜辺に打ち寄せさせる。今夜は全てがバランスが取れているように思われる。大海原に漕ぎ出すかのようなこの波止場とともに。そーのRockerの1人に、その晴れ舞台で報いた自転車競技とともに。太陽は西に沈み、星々が明るく輝き始める。
2016.03.21
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2016シーズンのレースをオーストラリアで開始するにあたってのNippo,のベルラートのインタビューがSpaziociclismoから届けられました。インタビュアーは Luca Pellegriniです。http://www.cyclingpro.net/spaziociclismo/spaziociclismo/exclusive/nippo-fantini-berlato-quot-ho-lavorato-tanto-spero-di-vedere-la-differenza-fin-dalle-prime-corse-quotNippo-Fantiniのベルラート「僕は沢山のトレーニングを積んだ。最初のレースから、違いが出せるといいと思っている。」ジャコモ・ベルラートのプロとしての一年目は文句なくプラスに評価できるものだった。ヴェネト州スキオ出身の23歳はNIPPO-Vini Fantiniのジャージを着て現れた瞬間から、数多くの逃げを試みた際に見せた持久力と回復力に際立った資質を見せつけた。監督スレファノ・ジュリアーニの指揮するチームは彼の資質の中にあるものを信じ、彼もまた常に前進を成し遂げた。「新しいシーズンは、プロとして2年目になる」ベルラートは、SpazioCiclismoの向けるマイクに向かって、決然と語った。「まだまだ、沢山発見したり、学んだりしなければならないものがある。でも、僕は沢山の距離をこなしてきた。ジロ・デ・イタリアをはじめアムステル・ゴールドレース、ロンバルディアといったビッグレースに出場した。何キロも逃げに乗って、粘りのある働きをした。今年は最初のレースから、昨期と違ったものを出したい。もちろん、僕はチームの中でキャプテンのために働く、でも、もしチャンスがあれば、勝利できるチャンスにかけるよ。」レースカレンダーは昨年とほぼ同じだが、今年の最初のレースはオーストラリアに移動し、カデル・エヴァンス・グレート・オーシャンロードレースとヘラルド・サンツアーへの出走となる。「沢山の勝利への欲求がある」大きなレースでの衝撃を乗り越えるのは、決してたやすいものではない。ベルラートはそれを適切なトレーニングで成し遂げた。「僕は精神的なレベルにおいても、沢山のトレーニングをした。メンタルコーチはこの世界に足を踏み込むために、僕を助けてくれた。全ては決してたやすいものではなく、目標達成のためには多くのトレーニングに励むことが必要だと分からせてくれたんだ。」彼はこう説明する。「今現在、僕にこの可能性を与えてくれたチームには感謝する以外に無いよ。共に歩んでくれる多くの仲間にもね。戦う気持ちを強く持ち、アシストをして結果を出すためにレースでは全力を尽くす必要がある。」ヴェネト人レーサー・ベルラートのメンタリティーには、今シーズンを通じて個人的な満足を取り去り、行ってきたトレーニングの成果を上げることを始めたいという強い気持ちがあることが分かる。「自転車に乗る時は、いつも沢山の目標をもって行くんだ。勝とうとする強い意志は大切だ。日々更にレーサーとして成長し、プロとしての自分に価値を示したいんだ。」「全てにおいて、まだまだ発見すべきことがある」より良いレーサーとなるための、彼の優れた点は、常に到達点を知ろうとする点だ。プロとして生きることとなってから、今までと異なった現実に立ち向かうこととなった、多くの若者達と同様、若手のカテゴリーの中で全てのポイントを重ねてきた。「僕はまだまだすべての物事から学ばなければならない。」ベルラートは語る。「前進しているよ、でも登りでどのように行ったらいいのか、もっと分かりたいんだ。アマチュアの頃には登りが強く、今よりもうまくいっていた。プロは違った世界だ。アル、ニバリ、コンタドールのようなチャンピオンとなるのはたやすいことではない。でも、常に働いてもっと力をつけて彼らに近づきたいと思っている。更に、スプリント勝負でも結果が出せるように力をつけたいと思っている。昨年はリモウジンで10人の逃げ集団に入り、6位になった。表彰台に登れたら良いな、と思っているよ。」「将来は、総合争いに絡めるようにしたい。」語るべくは、そのロングエスケープのレーススタイルだ。期待の高まりにも関わらず、ヴィツェンツァ人・ベルラートはそのファイティングスピリットをあまり表面に表すことを好まず、一年目ではすることのできなかった、エネルギーの管理に努めている。「引くために、あまりにも力を絞り出しすぎていた。」ベルラートは打ち明ける。「前に出た時には全力を出していた。今シーズンは、よりチームに貢献できるよう、力を蓄えたい。そして、僕にあったステージでは勝利を目指すよ。」同時に、積み重ねてきたトレーニングは、彼のもって生まれた回復力に光を当て、監督ステファノ・ジュリアーニは2015年のツール・ド・サンルイスで相次ぐ2つのステージで逃げに乗って衝撃を与えた時から、それを見逃さなかった。その特質は、まぎれもなくステージレースに適している。「将来は総合に絡めるようになりたい。もう少しレース経験を積んで、一週間ステージレースをこなしていくうちにコンディションをあげていきたい。やる気はあるよ。僕は自分の選手としての性質を示していきたいんだ。」「ジロ・デ・イタリア?長いシーズンの一番のレースになればいいね。」長い目で見れば、昨年のジロ・デ・イタリアの実りある経験は重要なものになろう。ヴェネト人ベルラートは身震いした体験を思い出す時、感情を露わにする。再度招聘されることは、忘れ得ぬ経験になるに違いない。「長いシーズンの中では一番のものだと期待している。3週間のレースは決して簡単なものではない。僕は精神的にも肉体的にも十分トレーニングを積み、一年目にしては十分耐えうるレースができた。僕は最終ステージのコーレ・デレ・フィネストレでもアタックをかけ、ぼろぼろにされることなく、また自転車に乗って走りたい、という思いでレースを終えた。フィジカル面が、この調子を維持できるよう願っている。きっと3週間の間により調子を上げることができると思う。これを来たるシーズンの目的とすることができると思うよ。」「このチームは一つの大きな家族だ。」重要なことは、通過してきたことを台無しにせずに徐々に成長の過程で継続していくことだ。この点でいえば、NIPPO-Fantiniは適した環境を持っているといえるだろう。落ち着いた背景を持ち、最大限の力を発揮できるための要望に応える特徴を有し、結果に対する懸念も無い。「このチームは大きな家族のようなものだ。僕たちは良く運営されていて、団結しているんだ。自転車競技以外の点でもね。レースではお互いに助け合う。これは、大きな目標を達成するためには、重要なことだ。もし、一人ひとりが水車を引くならば、それは誰にも負担とならない。我々は助け合い、互いによどみなく、スタッキオッティの日本での勝利や、アペニーノのクネゴの勝利の時のように本当に良い働きをしたんだ。僕らは偉大なチームで、僕は成長を助けられたし、今後も助けられるだろう。また、失敗をしても先輩たちがその原因を説いて助けてくれるんだ。素晴らしいことだよ。若者が進んでいくのは決して簡単なことでは無いからね。」良いレースをするためにはコンディションが全てであり、選手達の信頼関係が2016年の主役となるためには確実に重要ものだ。神聖なるシーズンにおいては、どうなるかは計算できない。肝心なことは、プロの選手としての重要な位置を切り開くために、どんなレースでも成長する気持ちと闘争心ともに臨むことを継続することだ。
2016.02.03
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ツール・ド・サンルイス、第1ステージでの果敢な逃げに、イタリアでも注目され始めたNippo の山本元喜選手。Tuttobiciweb.itに Giulia De Maio 記者のインタビュー記事が掲載されたので、訳してみました。地球の反対側、アルゼンチンからの声に注目です。サン・ルイス。山本元喜・ジロ、ステージ勝利の夢Nippo Fanrini De Rosaの日本人を知ろう http://m.tuttobiciweb.it/index.php?page=notizia&cod=86559 サガン、ニーバリ、クィンタナ、その他のワールドクラスのビッグネームにとって、ほとんど知られざる存在であった山本元喜。しかし彼はすんでのところでそれらの選手に勝利するところだった。大阪に近い小都市、奈良出身の24歳。NIPPO Vini Fantiniの日本人は他の5人のレーサーとともに、逃げ切りを狙って大逃げを打ち、ゴール前わずか300メートルで集団のスプリントに吸収された。チャンピオン達を負かしたとしたら、あなたにとってどういうことだったのかしら?「素晴らしいことだっただろう。僕は、子どものように泣いていたと思う。レースではいつも勝つことを考えている。僕のようなアシストの選手には、決してたやすいことではないにしてもね。僕は、監督のジュリアーニの指示を実行するんだ。与えられたチャンスをつかむために努めるのみだ。」日本は恋しくない?「全然。イタリアの生活になじんでいる。昨年はスペッツィアに住んでいたけど、今年はボローニャに居を移した。食事が美味しいね。僕はパスタやピッツァが大好きなんだ。気候は良いし、どの道も自転車が走るのに適している。家族も大喜びだ。両親は僕が小さい頃から自転車で走ることに熱中していて、弟も自転車選手だ。僕がここ、アルゼンチンですんでのところで勝利するところだったのと時を同じくして、弟もアジア選手権のタイムトライアルで3位に入っている。妹もいるけど、彼女は自転車には乗っていないな。」どのようにして、自転車競技はあなたの人生に入り込んできたの?「6歳の時にペダルを踏み始めた。日本の学校では沢山のスポーツに触れることができるけど、自転車に乗ったとき、僕はそれに惚れ込んだんだ。初めて出走したレースに勝って、これこそ自分のすべきスポーツだ、と思ったんだ。」 あなたのキャリアにとっての夢は?「ジロ・デ・イタリアでステージ勝利をあげることだよ。」サンルイスより Giulia De Maio
2016.01.23
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Nippo -Vini-Fantiniでの実りあるプロ1年目を終えたジャコモ・ベルラート。逃げを信条とし、チームのためにアシストとして全力を尽くすことを厭わぬ将来有望な若者へのTuttobiciweb.itのインタビューを訳しました。インタビュアーはGiulia De Maio です。 http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=85897&tp=n 常に逃げを打つ男、ベルラートNippo Fantiniのヴィツェンツァ人がそのプロ1年目について語るジャコモ・ベルラートにとって、自転車とはガッツと同義語だ。生まれてからこの方、自転車一筋のヴィツェンツァ県マーロ出身の23歳は、その選手としての特質によってプロ2年目に素晴らしいできを見せつけた。1メートル70センチ、59キロの身体はアタックをかけ、顔に風を浴びてすべてのリスクを冒し、一日中前に出て引き続けることを恐れない。捕まり吸収されたときの失望よりも、より強い飛びだしへの渇望を持っている。彼にとって走ることは頭を低くして、リードしていくことなのだ。「挑戦なくして成功なし」2016年を見据えて彼は再びペダルを踏み始める。プロ1年目はどんな感じだった?「僕にとっては全てが新しいことばかりだったよ。そして、ポジティヴな1年だった。新しい経験を踏み、少しは高いレベルに到達できたと思っている。僕は1月にアルゼンチンで始まったツールドサンルイスですぐに逃げに乗ろうとして、レースではそれを続けることを試みた。一番上のカテゴリーの走行距離に慣れるまではつらかったけれど、キャンプでの監督とのトレーニングやチームでのトレーナーのアンジェロ・フルランとの仕事によって、コンスタントにパフォーマンスを上げていった。ジロ・デ・イタリアでは21日間を通じてうまくいって。思いがけずに460キロも逃げ続けることができて、アタッカーに与えられる特別賞で2位に入った。明らかに危機的な局面もあったけれど、振り返るとそれらもとてもいい感じで乗り越えることができたといえる。チームの中の役割を果たし、貢献できたと考えている。ジュニアのカテゴリーでもアタッカーの性格を果たしてきた。簡単ではないレースでも苦しむのを恐れたことはないよ。いつも飛び出す準備はできている。チームの仲間を助けたいんだ。逃げに乗る役割を演じるためには、落ち着いて前にでて引き続けるのを避けるようにしなくてはならない。前に出るときはいつもそうだけど、もう何かをつかむことはできたよ。」何を学んだ?「高いレベルで走るためには多くの犠牲を払わずに頭をつかうことを学んだよ。考えてレースすることで、結果に結びつけることができた。何か軽いことをするためには遅かれカ早かれ代償を払わなければならない。僕はすぐに仕掛けてそれを繰り返す。プロ1年目には満足だ、ということができるよ。また、色々なことを知ることができた。最初は登りで勝負しようと思っていたけど、よりレースを動かすことがうまくいった。順位という面でもね(昨シーズン彼はU23で単独ゴールで5勝をあげている)。これからは期待値を上げている必要がある。サントドミンゴで友人と1週間過ごした後、10日かけてMTBとランニングに着手する。更にカルチョの試合のようにトレーニングをあげていくよ。11月中旬には来シーズンを見据えて準備を開始する。」 2015年で一番素晴らしかった時は?「ジロに招聘された時だ。プロ1年目で公式にチームに呼ばれたことが全てではない。23歳で祖国にとって最も重要なステージレースのスタートを切ることは、語りようのないような素晴らしい感動だ。監督のステファノ・ジュリアーニに呼ばれた時、すぐにチームの中で力になり、特にキャプテンのクネゴのためにアシストをする気でいっぱいだ、と返事をしたよ。ジロの期間中は、本当に困難な時は無かったよ。終盤のステージのために骨を折ろうと考えていたんだけど、平坦区間でもアタックを見せた。前進さえ遂げることができた。アプリカゴールのステージでは決して楽ではなかった。悪天候も立ちはだかる勾配も本当に厳しかった。でも、この状況でも歯を食いしばって戦った。ミラノにゴールしたかったからだ。」あなたに自転車競技の情熱を伝えたのは誰?「今31歳の兄のフィリッポだ。自転車に乗っている彼を見て自分もやってみたくなったんだ。そうして、6歳になるやいなやで競技を始めた。ノーヴェの最初のレースで、勝利し、そこから行程を増やし始めたんだ。コースは僕に数多くの満足を与えてくれたよ。まだ終わっていないよ。僕は確信したんだ。兄はジュニアで自転車選手をやめてしまい、メカニックの製造所で働く道を選んだ。上のカテゴリーではチャンスはないと判断したんだ。兄はとても僕を応援してくれていて、常にこう言って僕を励ますんだ。「もっと努力するんだ。お前には大きな能力がある。それに身を結ばせなければならない。好きなことで身をたてることのできるお前は幸運だ。おいそれとはもてない特権だ。間違いない。」朝目覚めると、僕は幸福だ。僕はいつもペダルを踏みたい、という気持ちを持ってきた。自転車とは僕にとっては生きる糧であり、人生なんだ。いつもそうだと分かる。「ああ。最初に自転車に乗ったのは2歳の時だった。僕の地区では、僕は怪童だと言われていたんだ。補助輪をつけずに乗っただけではなく、一輪で乗ったんだ。無意識にね。こうして自転車競技は僕の情熱となり、これが仕事となって一年だ。これ以上の幸せは無いよ。実際、毎朝起きると神に感謝するんだ。他の人々は起きて仕事に行くのに、僕は起きるとペダルを踏みに行くんだ。仕事よりは断然素晴らしいよ。このスポーツは今や僕にとって最も重要なものだ。そのことで僕を前進させ、生活し、食べて家族とともに、人生の中心を成すこととなっているんだ。僕の両親や兄弟たちはいつも僕を支えてくれる。かれらにとっても僕がここまで来たことは価値あることなんだよ。僕はいろんな分野で力になってくれる人を沢山得た。でも、名前をあげるとしたら、それは父親のピエトロをおいて他に無い。父は治金機械工だったけど、今は引退している。そして、母親のジョヴァンナ。家庭の主婦なんだけど、いつもレースに来てくれるんだ。そして、アレ・チッポリーニでプロ選手として活躍している妹のエレーナとはどんな感じなの?「最高の関係だ。いつも共通の友人であるダニエレ・カッツォーラと一緒にトレーニングをしている。ダニエレはアマチュアで、来年はMチッポリーニで走ることいなっている。もしくはザルフの選手たちとレーニングしているよ。ザルフはU23の時に所属していたチームだ。僕らはアドバイスしあい、互いに刺激しあい、力を与え合うんだ。僕がエレーナの前に走り始め、彼女は僕のレースを見に来ていて、自分も自転車熱に火が付き、こういう結果になったんだ。エレーナもサドルに乗るやいなや、多くの才能を見せて何年かの間で多くの満足を得ることとなった。彼女はいくつかのジロ・デ・イタリアに立ち向かい、僕よりも多く世界と戦っている。」Nippo Vini Fantini De Rosaはどんなチーム?「素晴らしいよ。まさにすべての角度においてだ。2015年は、このチームでプロ初年を過ごし、素晴らしい出来だった。少し不運な面はあったけどね。チームは本当に良い雰囲気で、チームメイトがお互いに助け合った。ベテランは失敗を我々に気づかせよりよくなるための情報を授ける。監督もスタッフもみなとても団結しているんだ。ジロでダニエレ・コッリが落車してレースを去った時に、献身的に支えが、その少しあとに総合争いをしていたダミアーノがリタイアを余儀なくされた。困難な時や多くの仲間にとって初体験のジロに不慣れな点があったけれど、我々はミラノまで全力を尽くしたんだ。最後の1キロまで戦ったよ。このチームの一員であることは、僕にとってはとても適したものだ。こんなチームはまたとないからね。」“ボルディ”と呼ばれるのは何故?「このニックネームは僕の地元の友人達に何年も前につけられたんだ。子どものころから呼ばれているけど、とても気に入っているよ。俳優のマッシモ・ボルディや彼の映画とは関係なくて、僕も友人たちも実際このあだ名がどうしてつけられたか記憶しているけど、たいした意味は無いんだ。特に意味はないけど、今や親愛の情をこめて呼ばれているよ。」フリーの時はどんなふうに過ごしている?「音楽を聴くのが好きだ。車が好きで、田舎に住んで自然に囲まれて暮らしているよ。祖母が田舎に土地をもっているので、そこを巡ってリラックスするんだ。それから、スポーツを楽しんでいるよ。普段はテレビでカルチョを見ている。応援しているチームはヴィチェンツァだ。」学校ではどうだった?「痛いところを突くね。自転車ほどには本を読むのに集中しなかったんだ。多分勉強を辞めたのは間違いだろけど、自転車のほうが自分にとってはより強いものだった。家に帰るとサドルに乗るのが待ちきれなかったんだ。高校に通っていたので電気科を卒業できたのだけれど、自転車を生業とすることとして、フイにしてしまった。心に残るチャンピオンは?「一人と決めることはできないけど、小さいころからマルコ・パンターニの大ファンだった。今でもテレビで彼の特筆すべき歴史が伝えられたり、誰かが彼の成し遂げた偉業について語る時には、決して見逃さない。」覚えている最初のジロ・デ・イタリアは?「1998年のジロ。カルピ・シオの行程166キロの第13ステージだ。ミケーレ・バルトリが一位でゴールし、マリア・ローザはアンドレア・ノエが着用。そして、マルコ・パンターニは下りで2回の落車に見舞われた。僕はその時6歳だったけど、23歳になった今も、結末のことを話すことができるよ。それは夢ではない、とその度に確信している。」あなたの長所は?「僕はいつも陽気な男だ。満足して、微笑んでいて、闘争心と定めた目的に到達したい、という気持ちでいっぱいだ。」短所は?「気前が良すぎる点かな。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。」キャリア上でのの目標は?「少しでも早く勝利を上げられたら、と思っている。点に向けて手を上げるのは偉大な仕事の達成だ。クラシックレースで勝利する日を夢みている。僕に一番適したレースはミラノ・サンレモかイル・ロンバルディアではないか、と思っている。」 28 Dicembre 2015 | 08:12
2015.12.30
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イヴァン・バッソがGazzetta に寄せた自転車競技への手紙の内容をForzaivanofficial blogに掲載されたイタリア語版から訳しました。17年間の選手生活の経験から発せられた自転車競技の未来に向けたバッソからのクリスマスプレゼントですhttp://forzaivanofficiel.blog4ever.com/ivan-j-ai-fait-un-reve自転車競技が私に教えたことがあるとしたら、それはこのことだ。夢、必要なもの、呼び起させられるもの、目標、追い求めるもの。そして、私の中にある美しい偉大な唯一のものなのだ。チャンピオンになる力を持った、若い将来のある選手達が自転車競技を革新していくことを夢見ている。自転車競技は、常に人々の情熱を反映させ、それに応えることができる。なぜならば私たちのこの競技は、全てにおいて最も家族的なスポーツだからだ。それぞれの家族には自転車競技に情熱を燃やす父親がいて、お爺さんがいて、叔父さんがいる。そして、父親達、お爺さん達、叔父さん達は常に話し合いの場に戻らなければならないのだ。自転車競技にとって勝利とはその到達点であり結果であって、出発点でも必要なものでも無いのだということを夢見ている。自転車競技が学校の中に、人々の集う広場に、地域に、街に息づくことを夢見ている。言うなれば皆にとってスポーツをすることは、どんなスポーツでも、どんなレベルでも若者達や地域社会にとって捨て去ることの出来ない資源だからだ。自転車競技が社会的な物になることを夢見ている。決して忘れ去られることの無い偉大なチャンピオンのその出自と記憶は、彼よりも不運なものにも振り返られなければならない。自転車競技がマーケティングに向けられることを夢見ている。レーサーが企業のためにすべきことを、企業がレーサーのためにすることを分かりあうことだ。何故なら一人の選手の価値と他の選手の価値は両立し得るもので、この価値の伝播は互いのレベルをあげることになるからだ。選手が企業が自分を支えてくれていることに気づかなかったり、企業の従業員がレーサーが何をしているかを知らなかったりということを決して引き起こしてはならない。自転車競技が、企業にとってチャンスになることを夢見ている。何故なら、この競技はムーヴメントとして引き続いていくからだ。全ての運動には、すべきことがある。そして、そのことが私には分かっている。こうして、今、私がしようとしていることを、この手紙に託すこととする。イヴァン
2015.12.23
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モヴィスターからアスタナへの移籍を果たしたエロス・カペッキへのtuttibici.itのインタビュー。リクイガス時代の盟友、ニバリとともに2016シーズンはジロに照準を絞るとともに、自らの今後のキャリアの目標についても語っています。カペッキ「僕は上質のアシストになりたいんだ。夢はニバリととにジロで勝利することだよ。」http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=85694&tp=n エロス・カペッキの構想は明確だ。「僕は自分のキャリアで目指していることを続けるために働くよ。モヴィスターでの3年間の後で、高いモチベーションで再スタートを切るんだ。僕は、素晴らしいアシストとして人々の記憶に刻まれるようになりたい。質の高いレーサーとして、全力を尽くすのが、僕に課せられた道だ。モヴィスターのことから始めよう。「重要な一つの章が終わったということだ。チームと僕は、共により多くのことを成そうと考えたが、思ったようにはいかなかった。完璧を求めるあまりに、何かがうまくいかなくなってしまったんだ。でも、僕たちの間には良い関係が残っているよ。僕はチームの欠かすことの無い支えにずっと感謝している。でも、新しい挑戦を始めたんだ。」どんなことがあったの?「特別なことは何もないよ。今シーズンはジロの前には何も悪いことはなかった。そして、エウゼビオは僕をツールのチームに入れてくれた。その考えはとても嬉しかったよ。でも、ツールは僕らにとっては多くのことがありすぎて、これでシーズンはほぼ終了してしまったんだ。後ろを向くのはあまり有効ではない。以前のようなコンディションの問題はなかったんだけど、ご覧のとおりの結果になってしまった。大事なことはすべての経験から学ぶことだ。僕は偉大なチャンピオン達と走り、リクイガスやアスタナとは違った環境に生きてきたということだ。生粋のスペインのチームで働き、言葉や、トレーニング方法や、どのように働くかを学んだよ。」そして、今度はアスタナだ。「新しい挑戦に、新たなモチベーションを感じている。ニバリと平行したレースカレンダーとなるだろう。アルゼンチンでスタートし、ジロに向けたすべてのレースを戦う。ここ2年間、僕にとっては簡単なものではなかった役割を果たすためにね。」リクイガス以来のニバリとの再会だ。「アマチュア時代にもプロでも同じチームで走った。またともに走り、ジロを最大の目標とする。ナリオとともに果たした勝利をニバリとも勝ち取りたい。それを実現するのが夢だよ。」1年契約だけど、プレッシャーはない?「プレッシャーは無いよ。うまくいけば、問題なく役割を果たせると確信している。契約のことは心配していない。そのうえで、自転車競技は僕の愛する重要なもので、自分ができることを表したい。しかし、人生以上のものだ。3年間というもの、細かいことを気にしすぎて、何も成果を上げられなかった。ヴァルベルデやクィンタナと働くことはどういうことを意味した?「彼らは、素晴らしいチャンピオンだ。バラは、今年も素晴らしさを見せつけた。僕は35歳になっても勝ち続ける彼のことが好きだよ。ナリオについては、結果が全てを語っている。」アスタナにはニバリとアルがいる。「ニバリはヴァルヴェルデより若くアルはクィンタナと同じ年だ。とにもかくにも二人ともグラン・ツールで勝利している。僕にとって、ニバリは3週間の間戦うレースでは世界で一番のレーサーだ。彼にとっては困難な年で、ツールでは4位に終ったけれど、ロンバルディアで勝利した!彼は最高のクラシックレースで勝利することができるよ。」君は大きな野望を持ってプロになったわけだが、忘れ去られることの恐怖は無い?「確かに。でも、僕はアスリートにとっての最高の年代である29歳から34歳に到達したばかりだ。確かなことは一つ、ここ数年のエロスは、本来のものではなかった。僕の力を表してキャリアを再出発するのにはまだ遅くはない。」皆がなりたいエースになるためには何が欠けていたんだろう?「僕には特に継続性が欠けていた。数年来僕はビッグレースでキャプテンが勝つためのアシストをつとめてきた。僕は良い働きはしたが、継続性がなかったんだ。その問題は解決することができると分かっているよ。」キャリアの最後に、どのような選手として記憶されたい?「果たすべき役割を達成することができる、良いレーサーとして記憶されたい。エースになるためには、異なった条件で骨組みを作らなければならないが、それには一つのエンジンでは不十分だ。今までぼくは継続して結果を出す水準には無かったけれど、結果を出さなければならない。22歳や23歳だったら一つの方向にこだわることができるかもしれないけれど、29歳で、間もなく30歳になる身としては、どこを目指したいかを決めなければならない。僕にとって、それは良いアシストとして、記憶されれば、大きな栄誉となる、ということだ。」 2015年12月17日
2015.12.20
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2015年11月21日に行われたトレンティーノ自転車競技の年間行事について、地元トレントのニュースサイト、trentinocorrierealpi からの記事を訳しました。Ossもスター選手の一人として、舞台に立っています。トレンティーノ自転車競技のフェスタ:シモーニからオス、トレンティンまで http://m.trentinocorrierealpi.gelocal.it/sport/2015/11/21/news/il-ciclismo-trentino-in-festa-da-simoni-a-oss-e-trentin-1.124862492015年11月21日メッツォコローナのパラロターリでトレンティーノ自転車競技の年間記念行事が行われた。イタリア代表監督、カッサーニや、将来有望な若手選手たちも登場した。トレントトレンティーノの自転車競技協会はメッッツォコローナのパラロターリで、地域の宝である選手たちを登場させて記念式を開催。現在最も活躍している地元の生んだチャンピオンたちの年間行事への参加だ。それは自転車競技の宝だ。「沢山の血気盛んな若い選手たちを見るのは、我々の動きにとって、将来を保証するものだ。」来賓の一人、イタリア自転車連盟会長、レナト・ディ・ロッコの言葉だ。「我々には若い力が必要だが、トレンティーノはタレントを輩出している。ここにいる若者たちがそうだ。この肯定的な流れは止まることはない。」代表監督、ダヴィデ・カッサーニがこう付け加えた。同様のことは、(トレント人ではないが)招かれたチャンピオンの一人、ジャコモ・ニッツォーロの言葉からも伺い知れる。「今まで、トレントの人々がこんなに大きなムーヴメントを担っているなんて考えてもみなかったけど、本当に素晴らしいよ。」トレンティーノのクラブのために栄誉をもたらした選手たちが交互に舞台に並んだ。頂点に立った、ダニエル・オス、マッティオ・トレンティン、モレノ・モゼール、ジャンニ・モスコン(ローリー・マルキ賞を受賞することになった)らの選手たちだ。そして、彼らとともに、将来を嘱望された、アンナ・オベルパルレイター、レティツィア・パテルノスター、リッカルド・ルッカ、ニコラ・コンチらが登壇した。彼らの名前の将来に向けての明るい見通しについては、ジルベルト・シモーニやマウリツィオ・フォンドリーストなど、かつてのチャンピオンたちからも明白に語られた。特に心を打ったのは、レティツィア・ボルゲージに、早逝したトレントの自転車選手、ティモシー・ポルチェッリの名を冠した賞が渡された時だった。長らく続く拍手は、どんな言葉よりも、テレンティーノにとって自転車というものは、一つの大きな家族であり、つながりであり、勝利であることを示していた。
2015.11.23
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イタリアのサイトRuoteraggiecatenaに掲載された、アントニオ・ニバリのインタビューを訳してみました。この10月にNippo-Vini-Fantiniの一員としてJapan Cupに出走するため来日した際は日本のファンにも注目されていた Il Nibalino(イル・ニバリーノニバリ弟)ここではPietro Fasolaのインタビューに、等身大の姿で応えています。アントニオ・ニバリ インタビュー 2015年11月2日 Ruoteraggiecatenahttps://ruoteraggiecatena.wordpress.com/2015/11/02/intervista-ad-antonio-nibali/やあ、アントニオ2015年の君にとっての一番素晴らしかったレースとその理由を教えてくれるかい?「2015年の一番素晴らしかったレースはレロイカ、ストラーデ・ビアンケだ。理由は、まず何よりもイタリアで最も皆を魅了し、まさに自転車競技について語られる点があるレースだからだよ。」君の選手としての技術的な特質について話してくれる?「僕はまだ若くて、持っているものの中で自分を定義づけるものを探しているところだ。まだ、自分の限界についても分からない。多分ルーラーとクライマーの資質があると思うけれど、まだその他の道も見ているところだ。」君はレースに満足していると思うけれど、結果は出ていないよね?何かエピソードを話してくれないか?「ああ、実際どのレースでも良い走りをするためにスタートするけど、成績を得るためではないんだ。良い結果が出ないときは、気持ちもよいものではないけれど、すぐに次のレースに臨むことが必要だと思うよ。」どこに住んでいるの?「トスカーナ州だ。」トレーニング場所は?「日ごろはトスカーナで、そして、いつも世界中を回っているよ。」一人でトレーニングしているの?それとも誰か他の選手と一緒なのかな?「トスカーナにいる時は、いつもシモーネ・アントニーニやその地域の他の選手たちと一緒だ。」一番仲の良い自転車選手は誰だい?「一番仲が良いのは、シモーネ・アントニーニとマルコ・ドウルバーノだよ。」2016年の目標は?「間違いなく僕のことを思ってくれている人々に満足を与えることだよ。でも、特に自分自身が満足する結果をだすことだ。」将来はどんなレースに勝ちたい?「僕の計画には、そんなに多くのレースは無い。確かなことは、地に足をつけていくことだ。そうすれは、良い結果を出すことができて、自分自身にも大きな喜びを得ることができるだろう。今のところ、どんなタイプのレースに勝つかなんて大それたことは考えていないよ。」ヴィンツェンツォの弟だということは、君の助けになるだろうか?どんな感じだい?「僕にとってはヴィンツェンツォは常にチャンピオンである前に兄弟だ。そのことが助けになるかってことだよね?ああ、少しはそうだよ。彼の弟であることは、しばしば僕にいろんなことをもたらしてくれるからね。」ヴィンチェンツォの弟であることは君の妨げになるだろうか?どんな感じだい?「僕にとってヴィンツェンツォの弟であることは、決して妨げになるようなものではないよ。既に言ったように、僕にとって彼は常に兄であって、少しばかり僕の基準となる存在だ。プロとして戦うということは確かだが、僕にとってではなく、新聞やジャーナリズムにとってという意味でのね。しばしば兄のように強いのか、とか、なぜ、下りで兄のように飛ばさないのか、とかニバリの名前は負担にならないのか、とか聞かれるよ。まったくもって「ノー。」だ。僕にとっては全く負担にならないし、チャンピオンの家族の一員なのは一人だけではない。当面は彼の跡をついていくことにしているよ。」レースの前に何か決め事はあるの?「何もしないよ。」君にとってインスピレーションを受けた、憧れのレーサーは?「言うまでもないよね。僕のアイドルは家族の中にいる。僕にとってヴィンツェンツォは子どものころから憧れだった。そのことを彼がまだ知らなかった頃からね。僕にとっては、彼はいつも憧れだよ。」冬の間はどのように過ごすの?どういう風に2016年に備えるのかな?「今年はジムに行って、それから、戸外を歩き、そして、再度自転車に乗り始めることになる。」君の趣味は何だい?フリーな時や自転車競技の他に何かスポーツをしているの?「僕はテクノロジーが好きなんだ。ヴィデオ・ゲームをしていることが多いよ。他のスポーツはしないけど、時間があれば、彼女と過ごしているかな。」
2015.11.08
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2015年10月5日ジロ・デ・イタリア2016のコースプレゼンテーションに招かれ、その最後にプロ自転車選手としての引退を発表したイヴァン・バッソ同日に地元ヴァレーゼの新聞に掲載された、引退に際しての言葉を訳しました。バッソ、本当に感動をありがとう。そして、これからの人生に幸あらんことを祈ります暗闇の到来を待っていることなどできなかったイヴァン・バッソの引退発表の日の言葉 http://www.laprovinciadivarese.it/stories/Homepage/non-potevo-aspettare-che-il-buio-arrivasse_1144582_11/ フィルムが回り始める前に映画の中に存在することができただろうか?子どもたちとそこにいて、いつもの後押しをするんだ。「バスルームに行かなければならないときは、1時間をかけるんだ。光を消して、もう何も見えない。」人生にもそれが必要な時がある。光を消す前に、もうこれ以上見えなくなる前に、地面に倒れる危険に冒され、具合が悪くなるか、みんなの前で馬鹿をさらす前に。素晴らしい人物であるためには、その時の到来を知り、立ち上がるか、自分の道を選択することが必要だ。その時は来た。そして、私はこの道を選んだ。サインは最初、少し控えめに、そして絶え間なくやって来た。私のような人間にとっても無視を決めこむことは不可能だ。それほどまでに愛していた仕事をもう十分というほどの恐怖の日々を過ごすなかで断念するというのだから。重要な点は、自転車選手というのは完璧なマシンでなければならない、ということだ。脚も、そして、とりわけ精神的にも。考えることも、神経が引き裂かれることも許さず、私はいつもこうして走り、勝利してきた。全てのトレーニング、全てのレースの、すべてのグランツールの準備を隅々までマニアックにこなしてきた。ペダルを踏んで、苦しみぬいてきた。翌日もまた続く苦しみを考えていた。いつも、毎回がこうだった。最後の数か月間、私はあまりにも多くの時に自分の精神力が、ペダルを踏むときに思いにまかせなくなっていることに驚いていた。脚がかつてのように思うように回らないの理由を見つけようとし、あのステルビオの忌まわしい日の言い訳を探し(カイオ、よく覚えているかい?)まだ余裕があり、何がしら大きなことができる可能性があるとという言い訳をしようとしていた。だが、こうして、うまくいかなかった。このことを考えようとするのは、エネルギーを消耗することで、自転車選手であるためには、もうこれ以上貴重なエネルギーは残っていない。光は消されつつあり、もうこれ以上う待つことはできなかった。私はいつも考えていたことすべてに別れを告げた。いや、決して別れのレースやわざとらしすぎるセレモニーや派手なことをするつもりはない。「我が」ジロ・デ・イタリアのプレゼンテーションで簡素で控えめなヴィデオとともに臨むことで申し分ないことだった。私のキャリアが、その最後も含めて私に与えてきたこと以上に何も問うことができないだろう。このような場合には、人として感謝をする必要があるとは言えないだろうか?1つのページや、今日の新聞や1冊の本では感謝の念を語りつくせないしかし、約束する。それを皆一人ひとりに対して、一人の人間として行うことを。今日、私は幸せで、晴れ晴れとしている。私には家で私を待ってくれている4人の子どもたちがいる。何年もの間、年に11か月も世界を回って家を空け、父親としての役割を果たせなかった。四人の子どもたちには、昨日まで自転車のために先延ばしにしていた私の時間とエネルギーと思いを注ぎたい。私の幸せは、私が自転車選手として戦った年月にファンとして、友人として、応援してくれたのみんなの喜びでもあるに違いない。ここで終わるのではない、これは約束だ。自転車に乗る脚は違ったとしても旅は続く。私には、今一度語るべき物語がある。再び実現すべき夢がある。人生において、まだ成し遂げたい理想がある。それが、私が消耗して消え去る前に選手をやめた理由だ。このことを実現するためには、君たちみんなが必要だ。私は君たちが知っているイヴァン・バッソであり続けるだろう。君たちに誓う以上に自分自身にも私は私であり続けることを約束する。かつてのように、いつも登り坂で風に立ち向かうイヴァン・バッソであることを。Ivan Basso
2015.10.07
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Uci世界選手権男子エリートロード出走直前情報として、地元、トレンティーノの新聞に掲載されたOssのインタビューを訳しました.Textは Maurizio Barozziによります。「僕のライフスタイルはイカした物事を愛することだ」ツール・ド・フランスと1か月前のガルデサナでのトレーニング中の落車も、彼の気持ちを消沈させることはなかった。ダニエル・オス。ロックとタトゥーを愛する自転車選手。トレント自由の叫びだ。ゴールを切るや否やのダニエル・オスの声だ。アメリカ合衆国、リッチモンドで開催されている自転車ロード世界選手権で、ぺルジネ生まれのレーサーは、昨年のポンフェラーダに次いでチームタイントライアルで二度目の金メダルに輝いた。高速ライダーとしての才能と、背が高く頑丈な身体は、今大会のような戦いには、完璧なものだ。身体的、精神的な強さと持続した労苦をいとわない能力。これがダニエル・オスだ。1987年生まれの、2000年には既にトリコローレのジャージを着用したことのある、自転車競技を愛する若者は、今では最も称賛される選手の一人となっている。今シーズンは2度の事故に見舞われた。そのうちの一つはツール・ド・フランスでの顔の打撲。そして、続いてはガルデサナでのトレーニング中に衝突事故の被害者となったことだ。しかし、彼は再び立ち上がってトレーニングを開始。まさに世界王者のメダルのためにアメリカ合衆国に到着した。彼の一番の素質は精神力だ。いつも楽天的で、物事を前向きにとらえ、残されたチャンスをつかむために全力を尽くす。さらには自身の感覚をつかむための力を持っている。「朝のうちにレースをよく運べるかどうかが分かる状況だよ。目覚めるや否や、武者震いをするんだ。」子どものころには、まずはスケートをしていたが、彼の思いのスポーツは明らかだった。最初に出た3つのレースの全てに優勝し、自転車競技に打ち込んだ。「18歳の時、これが僕の道だと分かった。プロとしてやっていくことについてもね。」こうして幾何学の勉強に終止符を打ち、ダニエルは正真正銘の自転車選手になった。最初のプロチームはリクイガス。そしてアメリカ合衆国のチームBmcに移籍。そこでは常用語である英語とドイツ語も学ぶこととなった。自転車選手であれば誰もが持つ目標に近づき追い求める。彼はロックを愛している。「僕はニルヴァナやアンダーグラウンドのバンドが大好きなんだ。」その腕にはいっぱいのタトゥーが彫られている。料理はというと「僕はリゾットとタルト料理が得意だ。」「残念なことは、あまり政治についてよくフォローできていないことだ。もっとよく分かるようになりたいものだと思っているよ。そうすれば、また一つ道が開けるだろうからね。」ダニエルはぺルジネ生まれだが、ガルダ湖を愛するようになり、そこに住むことになった。「トルボレは最も美しい場所の一つで、トレンティーノをよく表していると思うよ。僕のライフスタイルは、イカしたものを愛する、ということかな。」彼は日曜日に、再度世界選手権でロードレースを戦うために、代表のジャージを着て自転車に乗る。パリ・ルーベのようなレースに勝利するという悪夢に身をゆだねるのだ。
2015.09.26
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リッチモンドで行われているUci自転車世界選手権。その皮切りに争われたエリート男子チームタイムトライアルで、昨年に引き続いて2連覇を達成したBmcの屋台骨を担うイタリア人、クウィンツィアートとオスに関するガゼッタ・デロ・スポルトのMattia Bazzoniの記事を訳しました。 オスとクウィンツィアート。黄金がロックを奏でるときBmcの二人のイタリア人は同じ音楽の情熱を分かち合う。それはチームタイムトライアルでの二度目の金メダルだ。http://www.gazzetta.it/Ciclismo/20-09-2015/mondiale-cronosquadre-bmc-oss-quinziato-biografia-breve-chi-sono-130202150537.shtml2015年9月20日 ミラノイタリア自転車レース界で最もロックを体現した二人組だ。ダニエル・オスとマニュエル・クウィンツィアートは同じ音楽の情熱を分かち合い、今日首に金メダルをかけた。昨年のポンフェラーダでの勝利に次ぐ、二度目のチームタイムトライアルでの世界王者で、互いに韻を踏む名前を持つ、マニュエルとダニエルはBmcを支る柱で、バルバラ・グァリスキとともに、リッチモンドの表彰台に立った、最初のイタリア人だ・仏教徒、クウィンツィアート豪華なアシストというと、オショウィックのチームにおけるマニュエル・クウィンツィアートの役割を語るには、あまりにも限定的なものになってしまう。プロ14年目の35歳のボルツァーノ人を、真の言葉で語るとすると、経験豊富で、冷静で、どんな状況にも対応できる男である、ということだ。論理的、試行的な抑制のきいた性質を備えているその役割はとても大きい。彼は仏教を信仰して3年になる。マドリッドでオーストラリア人の尼僧に教えを受けたのだ。「説明するとなると難しいけれど、でも僕は仏教を信仰するようになってから人生もスポーツも、よりよくなったんだ。」ツール・ド・フランスのプリュムレックでのチームタイムトライアルの後、クウィンツィアートは、以下のフレーズを紹介しながら語った。「自分に言い聞かせたよ。抵抗せずに流れに身を任せるんだと。そうすると水の上を滑るように勝利した。」エネコツアー最終ステージのヘラールツベルヘンでの勝利を表した言葉だ。彼にとっては勝利はしばしばおこるものではない。チームタイムトライアルを除くと、彼の勝利はリクイガス時代の2006年の同じエネコツアーのものと、2008年の南アフリカのインタカテックチャレンジの2つの勝利が数えられるだけだ。マニュエルの勝利のポイントは、キャプテンやチームへのアシストの完遂だ。それ故にイタリア代表監督、ダヴィデ・カッサーニも、彼を最重要なコマとして、代表チームに招へいするのだ。ロックスター、オスイッツ・オンリー・バイク・アンド・ロックンロールダニエル・オスのTwitterアカウントのプロフィールだ。そこに全てがある。自転車への止まることの無い情熱は、1987年1月13日に生まれた故郷、トレント県のペルジネ・ヴァルスガーナでの父親とのマウンテンバイクに始まる。ロック音楽を愛し、ベースを奏でる。ヴァルスガーナからザルフでのアンダー23の勝利を経て、2009年にリクイガスでプロ契約にこぎつけ、急展開の歩みを遂げた。ダニエルの最初のプロ勝利は2010年の土砂降りの雨の元でのジロ・デル・ヴェネト。雲と灰色の空は、北のクラシックこそが彼の天分だと分からせた。2011年に、同じくリクイガスでジロ・デル・コロラドで二度目の勝利。そして、2013年にはBmcに移籍。現在はより気候の穏やかなガルダ湖畔のトルボレに住み、トレーニングを行っている。 しかし、北のクラシックの厳しく泥にまみれたレースへの愛着を捨てることはない。今季、彼はハーレルベーケで10位、ヘントで8位、ルーベではパンクに見舞われ、2度自転車を変えながらも67位、フランドルではヴァン・アーヴェルマートの側近として脇を固めながら、11位に入っている。そして、ジロ・ディ・カリフォルニアでは山岳賞の水玉ジャージを着用。世界選手権2連覇に先だち、ドーフィネとツールでチームタイムトライアルに勝利している。
2015.09.21
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こちらは、ガゼッタ・デロ・スポルトによるバッソのインタビューヴィデオの発言内容です http://www.gazzetta.it/Ciclismo/17-08-2015/basso-prima-pedalata-sono-felice-bicicletta-vita-120973544268.shtmlバッソの復帰初ペダル「幸せだ。自転車は僕の人生だからね」ヴァレーゼ人バッソは睾丸の癌の摘出のためにレースを中断した後、32日ぶりにサドルにあがり、その将来について語る。「レースに復帰できるかどうかは分からない。でも、自転車は闘争心だけで存在しているわけではない。」2015年8月17日 リヴィーニョ「こんなに長い休暇をすごしたことはもう長いことないよ。それどころか、僕は3歳で自転車に乗り始めて今では間もなく38歳だ。35年間、1か月ペダルを踏まないことなんてなかった。でも、今は再スタートが切れて幸せだ。レースに復帰できるかどうかは分からない。来年まだプロトンの中にいられるかどうかは分からないけれど、でも自転車は僕の人生であり、よりよく生きることであり、喜びだ。実際、競技者の闘争心だけで存在しているわけではないんだ。」これが睾丸にできた癌の摘出手術のために競技生活を中断した後、32日ぶりに自転車に乗る少し前のバッソの言葉だ。「9月1日にサン・ラファエレで重要な検査を受ける。決まりきった検査ではなく、とても特殊なものだ。でも、モントルシ博士のチームは素晴らしい仕事をするので、将来については、とても前向きに考えている。」
2015.08.17
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2015年8月17日ツールドフランスへの出走中に癌が発見されたことによりレース撤退を余儀なくされてから32日ぶり手術と治療を経て、再び自転車に乗ることができるようになった、イヴァン・バッソのリヴィーニョにおけるインタビューを TUTTObiciweb.itのPietro Illariettiの記事から訳してみました。http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=82428&tp=n バッソ「ゼッケンがなくても走ることはできる」イヴァン・バッソは癌にかかった後、今日サドルに戻る イヴァン・バッソはサドルに戻ってくる前にりヴィーニョからこのように語った。「自転車は僕の人生だ。自転車に乗れるようになるのは本当に喜びだよ。今日からまたペダルをふみ始めるけれど、まだ決めなければならないことがある。僕の中に戦う気持ちはあるけれど、ゼッケンがなくても自転車に乗ることはできる。」ヴァレーゼ人、バッソは9月1日に、ツール・ド・フランスへの出走中に発見されたこの恐ろしい病気との対処のポイントを確定させるために診察を受ける。そのため、彼はレースへの復帰の可能性について語るのに慎重になっているのだ。「この10日間の家族との休暇で、自分の周りにある喜びを再発見した。僕の将来は自転車競技とともにあることは確かだけれど、どのような役割によってかはまだわからない。ティンコフ・サクソのチームが僕に最大限の自由を与え、病との戦いをさせてくれたことに感謝している。ペダルを再び踏み始めることができたことは、僕にとっての勝利だ。ここ数日の期間に報いることは最近の出来事の中で、光を見出すことだ。自転車は僕の家族であり、将来についてのことはゆっくりと決めていきたい。」更にバッソはこう語った「この数週間のうちに、シナリオはとても急激に変わってしまった。僕は自人生の重要な転換点に遭遇することとなった。より良い選択をしたいと思う。初めてフェッラゴストを休暇で過ごした。ツールを観客として、自転車競技をファンとして見た。ツールには沢山のチャンピオンが出走し、それはスペクタクルだった。フルームに対する破壊的な批評を好まない。自転車競技は多くのドーピングとの戦いに遭遇してきた。事実によって信頼を再発見してきた。いつもより多くの自転車があり、我が師・故アルド・サッシが言っていたように「常に恐れずに、前に出る」ことだ。個人的な話にもどると、こう語った。「まるで感情をミキサーにかけられるような日々だった。チームタイムトライアルから病院へ。そして、選手生活は中断。個人的には情熱はすべて残っていた。母親のことを考えなかったかって?ああ、すごく考えたよ。僕はとても幸運だった。母の癌は残念なことに進行していて、手の施しようがなかった。予防の大切さは身に染みている。僕には4人の子どもがいて、彼らのためにたくさんのスポーツとともにある落ち着いた人生を望んでいる。サドルの乗る前に、もう一度今回治療をしてくれた医師たちに、家族に、励ましのメッセージを送ってくれたファンのみんなに感謝したい。」
2015.08.17
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ジロ・デ・イタリア2010のイヴァン・バッソインタビューその2優勝翌日の5月31日にガゼッタ・デロ・スポルトでヴィデオインタビューを受けたものです。ジロの全容、家族やチームのこと、そして下りが苦手になったエピソードなども語られ、なかなか興味深い内容です。ランスからのメッセージ。そして、ツールでのコンタドールとの対決に!? イヴァンがビデオチャットで語る。「ランスからの祝福の言葉はとてもうれしかったよ。 ゾンコランでは単独飛び出すことができたけど、仲間のアシストがなければ勝つことはできなかっただろう。」 そして、グランデボークルを見据えて 「アルベルトは驚くべき選手だ。だが、坂では彼と戦うことができるよ」 ミラノ 5月31日 イヴァン・バッソの勝利がガゼッタテレビで祝われた。マリア・ローザの勝者は、ヴィデオ・チャットでオランダからヴェローナへの勝利の行進を再現したが、既に次の戦いを見据えていた。ツール・ド・フランスがやってくる。他に例を見ない誠実で、慎重な人柄をにじませながら、バッソは語った。 ジロ ゾンコランのステージをこのキーフレーズで特徴づけるのは難しくはないと思うのですが。 「真の開放は、まさにこの恐るべき坂で行われたんだ。エヴァンスが前に行くことができないことを知ったから、私はアタックをかけて、感覚だけで飛び出した。この坂は自分には大丈夫だと分かっていたんだ。ずっと集中してギアを入れ続けてこぎ続けることが必要だったけど、私は34×29でよくこいだよ。 モンタルチーノでの落車や、ラクイラの大逃げがあって、簡単なレースでは無く、リクイガスのチームにとっては大きな誤算だったのではないですか? 「とても難しい時だった。一日では取り返せなかったからね。しかし、我々は良く戦い、明瞭だったよ。」 あなたへの多くの電話メッセージの中に、ランス・アームストロングのものもありましたが 「彼の祝福の言葉は、本当にうれしいよ」 チーム バッソはすばらしい戦いを見せたリクイガスのチームにつても語った。 「彼らのアシストなしでは勝てなかったよ。このチームのリーダーであるためには高慢であってはならないんだ。彼らはすばらしい若者で、充実したレーサーだ。ニバリは特筆すべきだ。彼には大きな将来がある。今回のジロで私のために払ってくれた犠牲は、彼に戻ってくるよ。そして、ライバルたちは我々を恐れるようになるに違いない。下りのスピードですごい結果を出すだろう。私のルームメイトだったシュミットは惜しみなく戦う奴だ。登り坂の引きは強烈だ。賞賛に値するよ。」 喜びの時に、イヴァンはチームの外にはいるが、彼にとっては尊敬すべき人物。アルド・サッシのことを忘れない。 「彼は特別な人だ。私が人生の苦境にあるとき、私の中にあるものを摘み取ってくれたんだ。彼に師事していることを誇りに思うよ」 ライバル バッソはカデル・エヴァンスに賛辞を送る。 エヴァンスは総合では5位に終わったが、ゾンコランまでは強力なライバルだった。ラクイラの前の夜、彼は39度の熱があった。 「カデルはジロに敬意を払っていた。グランツールには運も必要だ。 私もモンタルチーノの落車の後、右足を痛めた。そして、寒くて雨の降るレースでこぎ続ける日々にはいくつかの問題があったよ。 しかし、レースではフィジカルの問題を皆に知られることは良くないことだよ」 ツール・ド・フランス まだマリア・ローザの反響も消えぬうちに、イヴァンはかなりの熱意を持っているツール・ド・フランスを見据えている。52キロのタイムトライアルとコースは、彼には有利に働きそうだ。 「数日間レースから離れて、またジロの前のように管理をするよ。ツールの前にはレースに出ないとおもうけれど、6月9日から23日のパッソ・サン・ペレグリーノのステージでトレーニングをする予定だ。GP1 とイタリアチャンピオンズシップも走る予定だ。 「短いタイムトライアルは私に有利かって?いずれにしても、私は良い準備をして手応えを得た。昨日もリスクを避けて巧くいったしね。フランスでは疲れないだろう。私はシーズン前に、少ししか走っていないからね。」 ライバルはアルベルトコンタドールですか? 「疑いの余地はないね。ステージに勝つためには坂で強く行かなくてはならないが、タイムトライアルも必要だ。アルベルトは世界最強のクライマーで、3人のタイムトライアルのスペシャリストのうちの一人だよ。でも、私は坂の勝負にかけるよ」 弱点 バレーゼ人バッソは彼のサイクルロード人生の大きな限界についての質問にも答えた 「何年か前に、私は2回大変な落車を経験し、そのことが自分をとらえている原因になっているんだ。そのひどかったことを、他のレーサーとの間で感じると、強く出られなくなるんだ。しかし、そんなにたいしたことではないよ。下りでは規定どおりにいくよ。スペシャリストでは無いけれどね。しめった下りは苦手だね。雨がやむやいなや、乾き出す。とても良い状態だったら別だけどね。 家族 妻と子どもたちはいつも私とともにあるよ。 プロサイクルロードレーサーの人生は、いつも家族と一緒にいられる訳では無いけどね。 でも家に居るときは、本当に自分を取り戻すことができるんだ。 朝自転車で出かける前に、娘のドミティラと朝ご飯を食べて、彼女を学校に連れて行って、家に帰ってから息子のサンチィアゴを起こすんだ。 そして、ビッグニュースが・・・! 妻のミカエラから、子どもができたというニュースがゾンコランの前の夕方に届いたんだ。 そのことは、私に特別のエネルギーを与えたよ! http://www.gazzetta.it/Speciali/Giroditalia/it/31-05-2010/basso-un-messaggio-lance-604200585395.shtml
2015.08.09
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Jスポーツの中継とともに、毎日ガゼッタのインタビューを読みながら観戦していた2010年のジロ・デ・イタリア。優勝予想からは「ジョーカー」と言われて圏外に置かれていながらも、なんとなく勝つんじゃないか、という予感があったバッソが、本当に優勝して、サスペンションからの完全復活を遂げた、劇的で感動的なレースでした。何せ、イタリアのチーム、リクイガスで、イタリア人のバッソが不遇を乗り越え勝利したのですから、イタリア中が熱狂したものでした。ツール2015期間中に見つかった癌の手術が成功し、2015年シーズン終盤にはレースに復帰できるのではないか、というニュースもあるバッソですが、2010年5月30日に、ジロ最終ステージ直後のガゼッタ・デロ・スポルトでのインタビューを訳していたものが見つかりました。 家族への思いがいっぱい詰まっていて、そして、ゾンコラン激走の秘話が明らかにされたくだりでは、私は不覚にも涙を流してしまいました。 ぜひ、皆さんとこの思いを分かち合いつつ、バッソの復活を願っていますバッソ、マリア・ローザで復活 これが彼のジロ・デ・イタリアだ イヴァン・バッソがジロ・デ・イタリアを勝利。 2位アロヨ、3位にスカルポーニをかわしたニバリ。 バッソは明日15時からビデオチャットに登場。質問に答える。 ヴェローナ2010年5月30日スウェーデン人グスタフ・ラーソンが第93回ジロ・デ・イタリアの最終ステージヴェローナでの15キロの個人タイムトライアルに勝利。 マルコ・ピノッティ、アレクサンドル・ヴィノクロフ、イヴァン・バッソをも後方に背負い、彼は総合42位を手中にした。 しかし、このステージはバッソにとっては無駄なリスクを冒すこと無く走ることのできるものだった。 バレーゼ人バッソは、既に昨日最後のアルプスのステージの後ジロの勝利の冠を手中にしていた。 ヴェローナでのタイムトライアルは、彼にとっては長いタラップであり、4年前に初めてマリア・ローザを勝ち取ったときから再び、大観衆の歓声が降り注いだ。 バッソの両脇には2位の座を守ったアロヨ、スカルポーニとの戦いに勝利し、3位の座を確実にしたニバリがいた。 バッソ「勝利を我が子たちに捧げる」 イヴァンから特別なアナウンスがあった。 「妻は、私が父親になるのは三度目だと言ったんだ。そのことを知った翌日、私はゾンコランを夢中で駆け上がった。それを成し遂げた時には、まだ実現できていなかったけれど、でも私は娘ドミティッラが私と表彰台に上がりたいということを知っていたよ。」 明日、バレーゼ人はガゼッタで語る。 ヴェローナ 2010年5月30日 競技の代償の日に、今まで生きてきた中で最高の笑いがあった。 イヴァン・バッソは第93回ジロ・デ・イタリアに勝利した。 それは彼がレースに復帰してから今までの1年7ヶ月の中で最も過酷で明確なレースだった オペラシオン・プェルタに巻き込まれ、出場停止となった問題は終息した。 そして、マリア・ローザを得て、傍らにトロフィーを持ち、秘密が明らかになったことにより喜びはより甘美なものとなった。 「妻、ミカエラは三人目の子どもを身ごもっているんだ。今年末か、来年の初めに生まれるよ。我々は本当に幸せだ。」 一つの金のカップは2006年に生まれた息子のサンティアゴに、もう一つは娘のドミティラに、ヴェローナのアレナに詰めかけた一万人の観衆の前で空高くかかげられた。 三度めの勝利に向けてのバッソの熱望は終わることはない。 イヴァンの情熱 「私は本当に幸せだ。 そして、今の立場から数日後に起こるであろう炎の中に身を置くことをとても難しいと感じているよ。 私を待っていたわが子たちとアレナに入った時の気持ちは言葉では言い表せないよ。 数日前、妻は私に三人目の子どもが生まれることを伝えたんだ。 それは、まさにジロのモンテ・グラッパのレースの夜だったんだよ。 その翌日がゾンコランだった。 ゾンコランで、私は必死でアタックしたよ。 最も甘美な言葉は「我が子たちのために」というものだ。 ドミティッラは語りかける目を持っている。 彼女は今日とても幸せだった。 私とツール・ド・フランスの表彰台に上がった時のことを覚えているんだ。 2008年に、レースに出られずにとても落ち込んでいたときに、私はテレビでサストレの勝利したツールの最終ステージを見た。そして、サストレの子どもたちが壇上に上がるのを観た時、私はトミティッラがこの感動をのぞんでいることを知ったんだ。それをもたらしてあげるにはたくさんの時間がかかったけどね。 ペダルをこいで戦い、二人の子どもたちがすばらしいということを見いだしたよ。 他に捧げる人は・・・ 今回のジロを見続けてくれた多くの人に捧げたい。 そしてすばらしい人物である、アルド・サッシに・・・」 挑戦 この7月に起こるであろうことに注目の目を向けざるを得ない。 バッソはツール・ド・フランスに参戦し、コンタドール、アームストロング、エヴァンス、アンディ・シュレックその他の選手たちと戦うことになるだろう。 「私はアルベルト(コンタドール)が絶好調の時にまだ戦ったことがないんだ。 この4年の間、彼は信じられない成績を残しているね。私の中では、そのことに対して最大の敬意を払っているよ。 ツールに挑戦するチャンスを与えてほしい。 心からツールで走りたいと思っているよ。」 http://www.gazzetta.it/Speciali/Giroditalia/it/30-05-2010/basso-dedicato-miei-figli-604188373183.shtm
2015.08.09
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ツールを終えて1週間になりますが、2015年ツールの戦いについて語られたOssのインタビューを訳してご紹介したいと思います。Ossの住んでいるトレントの地元紙「トレンティーノ・コリエレ・アルピ」より、第1週を終えての声です。 ツール:BmcチームタイムトライアルでOssとクウィンツィアートが値千金の勝利http://m.trentinocorrierealpi.gelocal.it/sport/2015/07/13/news/tour-bmc-a-mille-nella-cronosquadre-con-oss-e-quinziato-1.117731452015年7月13日フルームがマイヨジョーヌを守り続け、アスタナの二バリとは35秒差「我々は完璧なタイムトライアルのレース運びをしたが、ここに来るまでは簡単ではなかった」ツール・ド・フランス第9ステージのチームタイムトライアル。コンマ0,62秒で勝利の女神がBmcのトレント人、ダニエル・オスとボルツァーノ人、マニュエル・クウィンツィアートに微笑んだ。昨年9月のポンフェラーダの世界選手権での勝利によりチームタイムトライアルの世界王者となったBmcはバンヌからプリュムレックまでの28キロを32分15秒でカバーし、コンマ0.62秒の差で総合リーダー、クリス・フルーム擁するチームSkyのタイムを上回った。BmcとSkyは第一計測地点では同タイムを刻んだが、第二計測ではマイヨジョーヌのフルームのチームがオスと仲間達を1秒上回っていた。しかし、Bmcは最後に重要な勝利のために、汗と力を振り絞った。一方優勝候補のSkyはラスト数百メートルで、ニコラス・ロシュが失速し、フルームの刻む高いリズムについていくことができなかった。表彰台の3位には、コンタドールのティンコフ、シチリア人、ヴィンツェンツォ・ニバリのアスタナに追われるモヴィスターが立ち、その差はSkyと24秒とはいえ、まずまずのタイムを刻んだ。これにより、昨年のツール・ド・フランスの覇者二バリは、なおもフルームからは総合で大きく2分22秒の差をつけられることとなった。カチューシャのプリート・ロドリゲスにとっては最悪の出来。総合優勝を争うライバルたちに、約2分の差をあけられてしまった。しかし、この日のヒーローは、オスとクウィンツィアートだった。「個人で勝利するのは、もちろん素晴らしいけれど、チームの勝利の味は格別だ。」フランスからのオスの言葉だ。「毎日力を振り絞って目的に向かってともに戦っている仲間と一緒に表彰台に登るのは、本当に素晴らしいよ。今日(もう昨日のことだ)僕らは一丸となって勝利に向かって、タイムをたたき出したんだ。2014年の世界選手権の、そして直近のジロ・デル・ドーフィネでの勝利の後に、また勝利をあげることができた。嬉しいし、誇りに思うよ。僕にとっては、ダミアーノ・カルーゾとマニュエル・クウィンツィアートと一緒に表彰台に上がれたのは本当に素晴らしことだった。僕ら優勝候補だったのは確かだ。でも勝負の世界は分からない。ちょっとの差でSkyが勝っていたかもしれないからね。」今のところ、Bmcは暫定的に総合リーダー、クリス・フルームとの差12秒でテージェイ・ヴァンガードレンが2位に、27秒差でグレッグ・ヴァン・アーヴェルマートが3位につけている。「総合順位でも素晴らしい途中経過だ。最初の9日間の出だしは上々だ。課題はだんだんと解決されていくと思う。困難な場面はこれからだが、今までのところはパーフェクトなレース運びをしてきた。みんな調子は良いし、テージェイ・ヴァンガードレンのために集中している。表彰台を狙って戦うことが、目下の僕らの最優先課題だ。」この後総合上位につけていた二人のうち、ヴァン・アーヴェルマートは子どもの誕生に立ち会うために、そしてヴァン・ガーデレンは体調不良のためレースを去ることになります。2015年ツールのOssの総決算が聞ける機会が待たれます
2015.08.02
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ツール・ド・フランス2015に臨むBmeのイタリア人三人衆。ともに、リクイガス出身で、エースのアシストを務めるオス、クゥインツィアート、ダミアーノ・カルーゾのTTTタイムトライアル勝利直後の台1回目の休息日におけるbdc-magのインタビューの模様を訳しました。グランツールのこと、アシストとしての思い、イタリアの自転車事情のことなどがリラックスした雰囲気で語られています。Bmcのイタリア人たちのインタビューhttp://www.bdc-mag.com/intervista-agli-italiani-della-bmc/マッテオ・セッチとライアン・シウが休息日にスイスのチームBmcに属する3人のイタリア人たちのインタビューの機会を得た。Bmcの広報担当のジェフ・コークマンのおかげで、我々はダニエル・オス、マニュエル・クウィンツィアート、ダミアーノ・カルーゾと話をすることができた。君にとって何回目のツールになるの?Daniel Oss5回目だ君は何歳?Daniel Oss28だ君は23歳で最初のツールに出場したわけだけど、その前にジロに出ていたのかな?Daniel Ossいや、ツールが最初だよ。ツールが一番好きなの?Daniel Ossああ、僕らイタリア人にとって、ジロは重要なレースだ。ホームのレースだと感じているからね。でも、プロの自転車選手にとってはツールは最大にして最高のレースだよ。Manuel Quinziatoジロは僕らにとって、とても重要だ。イタリアを一周して人々に会う。我が家そのものだ。我が家の雰囲気を感じるんだ。ダニエル、今どこに住んでいるの?Daniel Ossガルダ湖畔のトルボレだウインドサーフィンをするの?Daniel Ossいや。試してみたけど、なかなか大変だ(笑いながら)いつも風が変わるんで、あまり風が吹かないときにはやってみるけど、練習する時間がほとんど無くてね。マニュエル、君にとっては何回目のグラン・ツールだい?Manuel Quinziato16回目だ将来の計画はあるの?Manuel Quinziatoもう1年契約があるからね。その先のことは分からない。その先もう一年走るかどうか考えるだろうけど、今は今年のことを考えているよ。ダミアーノ、君にとって、ツールとは?Damiano Caruso僕にとっては初めてのツールだ(Quinziato)奴はヴァージンだよ(笑いながら)どんな感じだい?Damiano Carusoいいよ!ちょっと疲れてるけど、良い感じだダニエル、君は?Daniel Oss僕にとっては、ツールがよりハードだ。9日間本当にいつも以上にストレスフルでハードだった。レーサーのレベルは高いし、ジロとは違ったものだ。ある時はカチューシャが引いたと思ったら、次はガーミン・・・皆が全力で高いレベルでレースをしている。でも、僕らも良い戦いをし、前につけている。レースを引き続ける必要がある。アスタナについては、どう思う?Daniel Ossラルス・ブームとタラマエという2人のレーサーを失った。多分疲労のためだろうけどね色々なチームの選手たちとの関係はどう?ライバルチームの選手たちとも友情や個人的なつながりはあるの?レースの中で、どんなことをもたらすのかな?Daniel Oss他の選手たちと一体となって、敬意をはらいあっているよ。特に総合争いを演じているチームではね。有力チームは5つ。僕らとアスタナ、スカイ、カチューシャ、モヴィスターだ。レースのスタート時点からベースには敬意あがるよ。敬意を払えば、得ることができるんだ。レースの動いていないときのことだよ。君たちのリーダーはTJヴァンガードレンだということは明らかなんだけど、アメリカ人のリーダーのために働くというのはどんなものだろう?Daniel Oss最高の人物にして強いキャプテンのために働くことは素晴らしいことだ。強いリーダーを持つことで、ますます最大限の力を出そうということになるんだ。モチベーションの源だよ。自転車競技も人生のようなものだよね。基本にあるのはナイスガイで、強いリーダーだということさ。彼の勝利は君たちの勝利というわけ?Daniel Ossもちろんだよ。それが僕らの目標だ。皆が一緒に勝利の手を上げるんだ。彼が手を上げたら、僕らも手を上げることができるんだよ。彼の万歳は、僕らの万歳でもありえるんだよ。イタリアのジュニアのカテゴリーについてどう思う?このカテゴリーは、イタリアでは機能しているだろうか?Daniel Oss若手を育成できるチームはたくさんある。アルト・アデジェ、トスカーナ、ロンバルディア、ヴェネト、エミリア-ロマーニャ。全て中央から北だ。その他の州にはあまりチームは無いね。サルディニアやシチリアは?(全員笑いながら)あまりないね。アルと二バリだけだ。Daniel Ossでも、彼らも選手としては北部で成長したからね。南には北のような自転車レースの伝統は無いんだ。いずれにせよ、北部には基礎を育てることのできるたくさんのチームがある。これらの州には自転車競技へのたくさんの情熱がある。日曜日ごとにレースに出ることができるからね。今年のツールでのイタリアのファンはどう?Daniel Ossアルプスに入ったら多くのファンが見られるだろう。イタリアとの国境に近いからもっと多くのイタリア人ファンが見られるよ。このグランツールでのフィジカルなコンディションはどうだい?Daniel Oss僕についていえば、絶好調だ。二日もしたら、ヘロヘロに疲れるだろうけど、アスリートとしての調子はもっとあがってくるよ。身体的ではなく、精神的にも自転車競技には最悪の日もあればその後に良い日もある。重要なのは、どんな時にも強いメンタリティーを持つことだ。ヴェテランに域に達しつつあるけど、力をセーブすることを学んだのかな? Daniel Ossああ、力のセーブは必要不可欠なものだ。登りやスプリントでいつ行けるかが分かるということだ。例えば僕にとっての基本的な仕事はTJをステージの最後に安全な位置につけるための位置取りをして、その後余裕を持ってゴールすることだ。ダミアーノ、君にとっては?Damiano Caruso僕にとっては、ハードだよ。ジロではとても違っていた。総合順位を戦っていたからね。ここでは、とても違っている。ステージの終わりに向けて、TJと一緒にいるためにエネルギーを消耗している。重要なステージは本当に難しいよ。でも、常に彼とともにいるようにしている。ルカ・パオリーニについてはどうだい?彼と話す機会はあった?Daniel Ossああ、メッセージを送りあったよ。でも、彼と話をするのは、とても難しい。彼はあまり語らないんだ。彼は潔白だと言っている。彼が言うように何かの間違いがあったのか、問題を抱えているかだ。どんな場合にも友人として、彼を支えたい。でも、率直に言いたい。僕は、このケースにはドーピングの入り込む余地は無いと思っている。何か事実がゆがめられたり彼が問題を抱えているのではないだろうか。問題を抱えているとき、彼の家族や友人たちが彼とともにあることを祈っているよ。このツールのために、どれほどのトレーニングを積んできたんだい?Damiano Carusoジロに続いてだったから僕はそれほどトレーニングは積まなかった。ジロとツールの間には休養をとって、高地トレーニングのみに参加したんだ。でも、それほどのトレーニングは積まなかったよ。Manuel Quinziatoパリ・ルーベの後にちょっとレースから離れて、トレーニングを再開した。ジロ・デル・ベルギー、ドーフィネ、そして彼らとともに準備の仕上げにリヴィーニョの高地トレーニングに行った。クラシックシーズンの後、少し緩めた。11月からトレーニングを始めていたからね。クラシックレースの後、休息して、ツールに最高のコンディションで臨めるように組み立てていったんだ。Daniel Oss僕もマニュエルと同じように備えたよ。北のクラシックの後少し休んで、カリフォルニアとドーフィネ、そして、ツールに向けて徐々に高地トレーニングで上げていったんだ。ジロとツールには大きな違いがあるのかな?Daniel Ossああ、コースの強さでは、どちらも高いレベルにあるから違わないけれど、ツールは、皆にとって最も威信のあるレースだ。Manuel Quinziato高低差で言えば、ジロのほうが厳しい。でも、ストレスが違うんだ。ツールには平坦ステージでもジロには無いストレスがある。スタートからゴールまでずっとだ。ストレスレベルはずっと高い。多くの選手が前につけようとするから、常に戦いが展開され、気の休まるステージなんかないんだ。君たちのイタリア人のシェフ、マッシモについてはどうだい?Daniel Oss大満足しているよ!トレーニングの段階では、僕らイタリア人はそんなに強くないんだけど、料理では別さ!美味しい食べ物を持つのは健康にいいことだ。特にメンタル面でいいよ。何年もいただけないゆですぎたパスタを食べてきたからね。で、ステージが終わったら、ガツガツ食べるんだ。Daniel Ossご想像にまかせるよ(笑いながら)
2015.07.25
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ガゼッタ・デロ・スポルトの記事よりバッソの癌摘出手術後の結果が知らされたので、訳してみました。経過は良好のようです。バッソの検査結果は良好「ツール最終日にパリに行くよ」http://www.gazzetta.it/Ciclismo/21-07-2015/basso-controlli-sono-ok-saro-parigi-la-fine-tour-120645489514.shtml?refresh_ce-cp昨日、外科手術の後の結果により更なる措置は必要でないことが明らかになった。イヴァンは1か月は休養を取らなければならないが、今のところはチームのことを考えている。「搭乗の許可を得た。ツール最終日をチームとともに祝うのが待ち遠しいよ。2015年7月21日 ミラノイヴァン・バッソ、37歳。左睾丸に癌が発見されたため、ツール・ド・フランスをリタイヤしたイヴァン・バッソにとって最高の知らせだ。昨日、ティンコフ・サクソのヴァレーゼ人は先週水曜日に9ステージ走った後でのツール・ド・フランスのリタイヤを余儀なくされた左睾丸にできた癌の摘出手術の後の検査を受けた。イヴァンは完全に術後の回復を遂げ、執刀医であるサン・ラファエロ・ディ・ミラノ病院のフランチェスコ・モントルシ博士からの説明を受けた。1か月の休養チームの公式発表でも、最終的な組織の検査でも数か月の観察が必要ではあるが、これ以上の治療は必要としないという結果が得られた、ということが伝えられた。休養期間は1か月となる。パリで「手術の結果には本当に喜んでいる。そして、心から僕のチームのデ・ムーア医師とツール・ド・フランスの医療スタッフや、とりわけモントルシ博士とそのチームに感謝している。」バッソのコメントだ。「モントルシ博士は、僕に飛行機に乗るための許可を与えてくれた。パリでチームメイトに合流して、ツールの最終日を祝うのが待ち遠しいよ。」
2015.07.21
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7月18日、tuttoBICIWEB.itのPier Augusto Stagiが行ったバッソへの電話インタビューの訳です。週明けから新たな治療スケジュールが開始することやツールの展望が語られています。イヴァン・バッソ「とてもうまくいっている。月曜に再度の診断だ。」ヴァレーゼ人バッソは月曜に組織についての検査結果を知らされるhttp://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=81602&tp=n マンドより 2015年7月18日イヴァン・バッソの経過は、心身ともに良好といえる。電話で元気な声で楽観視した先行を語った。「すべて良い形で進んでいる。」ヴァレーゼ人バッソはカッサーノマニャーノの自宅で我々に語った。「昨日もモントルシ博士のところに行って、良い数値が得られた。月曜日に組織の検査を受けて、治療の方針を決めることになる。」イヴァンはツールへの感謝を語った。「ツールの医療スタッフにも感謝しなくてはならない。彼らのおかげで全てが始まったあらだ。彼らがチームドクターのピエ・モールに伝えてくれたことがポーの病院のメディカルスタッフにつながった。不幸中の幸いのことがたくさんあったよ。ことはすばやく、注意深く、専門的に進んだ。クリスティアン・プリュドムにも感謝しなくてはならない。かれはためらうことなく先頭に立って動いてくれたんだ。そして、ロベルト・コルッセッティ医師からモントルシ博士とサンラファエレ病院の全てのスタッフへとつながった。」イヴァン、このツールをどう見る?「今のところフルームが最強だ。でも僕の経験からは、3週間のレースでは何が起こるかわからない、と言える。アルベルトにも楽観視できる材料がある。彼は鉄の意志を持っていて、パリでの表彰台を見据えている。」ヴィンツェンツォは?「カルチョで言うなら彼はトッププレーヤーだ。すべてをなし得る力を持っている。確かにこのツールでは危険な状態にあるが、多くの困難な局面や、異なった場面を過ごしてきた。ヴィンツェは不滅だよ。厳しく考えを変えてくるような人間だ。
2015.07.19
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ツール・ド・フランス2015第1回目の休息日に精巣癌が発見され、急きょレースを去ることになったイヴァン・バッソミラノの病院で無事手術を終えた直後のRaiSports1とのインタビューの模様を伝えるtuttiBICIWEB.itの記事を訳しました。バッソ「退院だ。僕は楽観的だし微笑んでいるよ。第一段階の検査結果は僕を勇気づけるものだった」http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=81528&tp=n 2015年7月16日イヴァン・バッソは今朝、サン・ラファエレ・ディ・ミラノの泌尿器科を退院した。「今しがた退院したよ。」ヴァレー人バッソはRaiSport1のダイレクト電話インタビューに答えた。「すべてうまくいった。僕は楽観的に微笑んで、みんなを安心させることができる。それに続くモントルシ博士のチームの最初のテストからも勇気づけられる結果が得られ、より安心した。メディカルスタッフと病状への対応に取り掛かり、今後の動きの可能性をよりよく知るために、明日病院に戻ることになっている。僕の望みは許されるなら、ツール最終日を祝うためにパリに行くことだ。チームメイトと約束したんだ。本当にそこにいたいと考えているよ。」更にこうも語った。「将来について?まだ早すぎるだろう。先の予定を無責任に言うことはできない。ティンコフ、フェルトリン、そして、チームのみんなから支えられている、ということが言えるだけだ。居心地の良いチームだ。仲間とともに、より良い将来のための理想的な答えを探しているところだ。最後にツールについて語った。「ここまでのところ、フルームが一番の強さを見せていて、クィンタナが対抗馬目されている。コンタドールはきっと優勝争いいからんでくるだろう。二バリについて?彼に対する僕の思い入れは知っているだろう?彼がこのツールに形を残すべく、重要な反撃に出ることを期待している。フランスでは、世界最強の選手たちがしのぎをけずっている。ツールではマイヨジョーヌを着用している選手に歯が立たないと分かったら、表彰台や総合上位を目指して戦うことだって不名誉なことではない。これは、偉大なチャンピオンのしなうてはならない一つの考え方だ。アルベルトもヴィンツェンツォもそうすると確信している。」
2015.07.18
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7月4日土曜日にユトレヒトでスタートするツールドフランス2015BMCのメンバーとして自身の5回目のツールに臨むOssのインタビューがtuttobiciweb.itから届けられました。インタビュアーがGiuria de Maioですダニエル・オス「ミューズのリズムでペダルを踏む」BMCのトレント人のツールドフランスに向けた多いなる野望 http://www.tuttobiciweb.it/index.php?page=news&cod=81035&tp=n 我々が最もロックンロールなレーサーとして認めているダニエル・オスがツールドフランスに向けた彼の編纂を語ってくれた。28歳のトレント人は、エース、ヴァガードレンを支え、自らもチャンスを狙って出走するツールの前にヴェローナ空港から二度のフライトをする。ダニエル、調子はどう?いいよ。今、マニュエル・クィンツィアートとヨーグルトを食べてるところだ。出発の準備万端だよ。クラシックレースを終えた後、僕らはとてもいい感じでツールに向けた備ができた。僕はツアーオブカリフォルニアとドーフィネに出て、思った通りの走りができたし、チームタイムトライアルにも勝利した。ここ15日はリヴィーニョで良いトレーニングがつめた。チームの息はぴったりで、信頼しあい、モチベーションいっぱいだ。このツールにはどんな風に臨むの?明日、我々はパヴェ区間である第4ステージを試走してから土曜にレースがスタートするユトレヒト入りする。ツール・ド・フランスは重要な、僕にとってもチームにとっても、力を尽くさなければならないレースだ。コンディションは仕上がっているし、テージェイが総合争いに絡めると確信している。彼のために働くだけでなく、ロングエスケープのできるステージを狙い、スプリンター達をを焦らせようと思っているよ。なにか新しい準備をした?何も。そういえば、新しいアンプを買ってベースの練習をしている。マニュエルにはベーシストの友人がいるので、僕をさそって連れて行ってくれたんだけど、僕はホンモノにはまだまだだって言われたからね。(笑いながら)ツールのサウンド・トラックはミューズの最新アルバムかな?とてもリズムがよくて、僕にあってるよ。シーズン後半の目標は? ツールの後の大きな目標は世界選手権のチームタイムトライアルだ。昨年の優勝を再現したい。フランスから戻ったら、エネコツアー、ロンドン・クラシックに出走し、バージニアとの時差と気候への調整のために、カナダのレースを走る。そして、リッチモンドだ。
2015.07.02
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昨年、ニバリに次いで2位に入った記憶の鮮烈なダヴィデ・フォルモロ。イタリア選手権を控えた心境についてtuttobici.web.itのインタビューを訳してみました。フォルモロ。トリコローレのことを考えている。なんて美しいジャージなんだって。http://m.tuttobiciweb.it/index.php?page=notizia&cod=80724「いつも、2時間は自転車に乗ってたよ。僕はベダルを踏むのが好きなんだ。リカバーのためにはプレッシャーや激しいレースの疲労を取り除くには十分なんだ。」ジロデイタリアの後、一週間の休養を取ったが、ダヴィデ・フォルモロは決して自転車をガレージに入れなかった。若きイタリアのタレントが住居のあるサンロッコのマラーノ・ディ・バルポリチェッラ村で語った。「調子はいいよ。またレースを走りたくてたまらないんだ。」ガーミン・キャノンデールの若きタレントのtuttobici.web.itのインタビューへの答えだ。「Route du Sudを走ることもできたけど、最終的にテクニカルコーチたちは十分に休養を取ることを選択した。来週土曜のスペルガのイタリア選手権が僕のジロ後の復帰レースになる。その後はジロ・ディ・オーストリアに出走し、イタリアに戻ってステルビオの高地トレーニングでジロ・ディ・ポロニアに備える。ステージ勝利を挙げられたら本当に嬉しいんだけど、総合順位をポイントにしている。」(でもまずは昨年間近に迫ったイタリアチャンピオンジャージだ)2位に甘んじたとはいえ、ともかく、昨年のレースは素晴らしい経験だった。その瞬間は、イタリアチャンピオンジャージを故郷に持ち帰れたらすばらしいと考えていたので、良い気持ちではなかったけど。あの時はヴィンツェンツォ(ニバリ)が僕より強かったことはまぎれもなくて、次の週にスタートしたツールで勝利しコンタドールからフルームに至る皆を打ち負かしてマイヨジョーヌを着用したんだ。彼のツールの走りを見て、自分をこう奮い起こしたんだ。「ダヴィデ、君は現在世界最強のレーサーに敗れたんだから、悲劇的になることはない」とね。(土曜日に再チャレンジだ)僕はライバルのアタックに対抗するために全てを尽くすよ。もちろんヴィンツェンツォ、ドメニコ(ポッツォビーヴォ)、 ディエゴ (ウリッシ), が注目選手で、勝つのは簡単ではないけれど、良い戦いをすることはできる。アラン・マランゴー二、アルベルト・ベッティオル、モレノ・モゼール、ダヴィデ・ヴィレッラといった並外れた友人であり、また仲間でもあるグループから応援を受けることができるからね。(何度もイタリア選手権のことを語っている。)大きな野望であるように語っているが、僕らはチームであり、チームメイトもチャンスを求めて戦う。重要なのは、レースの中で、好機を掴み取ることだ。(ジロ・デ・イタリアには満足している?)ああ、最後は下降気味だったけど、満足しているよ。分岐点はバルドビアドーネのタイムトライアルだった。そこからは調子が上がらなかったんだ。僕の性格は、決して心臓は小さくないけれど、 よくよく考えると僕はまだまだ若く、ジロのような難しい消耗戦のレースは断固としたやり方で準備されるべきだとということだ。忍耐量が必要だ。いま、それを整えているところだ。(ところで、あなたのトレーナーは誰?)昨年 Cannondale にいたセバスチャン・ウェッバーだ。彼とは良い感じで、彼の傍に残ったんだ。さらに、栄養補給については専門家のリーダー、ファブリについている。彼も素晴らしいよ。 (もし、来週の土曜に待望のイタリアチャンピオンジャージが手に入ったとしたら、クラシックなジャージ、それともここ数年慣れ親しんでいるものの再現にになる? )まずは、持ち帰ってからだよ。それから、一年間どういう風に着て世界を回ろうかと考えるよ。僕は常に形より中身を大切にしてきたから、形にするのはただ一つ。勝利だよ。
2015.06.21
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