《櫻井ジャーナル》

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2015.07.10
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カテゴリ: カテゴリ未分類
【ロシア脅威論の復活】



 本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカが進めている世界戦略は 1992年に国防総省で作成されたDPGの草案 、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」に基づいている。ソ連が1991年に消滅したことを受け、アメリカが「唯一の超大国」になったと思い込んだネオコン/シオニストが作成したプランで、「パックス・アメリカーナ」、つまりアメリカによる絶対支配の体制を築こうとしている。ジョン・F・ケネディ大統領の表現を借りると、「墓場の平和」や「奴隷の安全」だ。

【ロシア制圧の幻想】

 ソ連消滅後、ロシアの大統領は西側資本の傀儡、ボリス・エリツィン。ロシアを属国にできたと考え、戦略の重点を東アジアへ移動させた。そうした戦略の変更は国防総省のシンクタンクONA(ネット評価室)で室長を務めてきたアンドリュー・マーシャルの判断がベースになり、国防次官だったポール・ウォルフォウィッツなどネオコンによって行われた。DPGに基づいて書かれたネオコン系シンクタンクPNACの『米国防の再構築』を執筆した人びとはジョージ・W・ブッシュ政権で主導権を握った。

 ヨーロッパ連合軍(現在のNATO作戦連合軍)の ウェズリー・クラーク元最高司令官 によると、ウォルフォウィッツは1991年の時点でイラク、イラン、シリアを殲滅すると語り、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センター、そしてワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されて間もなく、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の周辺では攻撃予定国リストが作成され、そこにはイラク、イラン、シリア、リビア、レバノン、ソマリア、スーダンが載っていたという。

 ウォルフォウィッツ・ドクトリンが作成された2年後、国防大学のスタッフだったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンがカート・キャンベル国防次官補を介してジョセフ・ナイ国防次官補やエズラ・ボーゲルに働きかけ、1995年には「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されている。

 その後、1997年には「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が作成され、99年には「周辺事態法」が成立、2000年にはナイとリチャード・アーミテージを中心とするグループが「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けて」を作成、06年になるとキール・リーバーとダリル・プレスが、 ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できる とする論文をフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)で発表した。



 しかし、こうした「戦略」が幻想にすぎないことがウクライナ情勢が明らかにした。ロシアを乗っ取るため、ウクライナでネオ・ナチを使ってクーデターを実行、成功したかに見えたのだが、それが原因でロシアと中国が関係を強め、BRICSやSCOの存在感が増して、アメリカの支配体制が揺らいでいる。ウラジミル・プーチンがロシアを再独立させたことを軽く見過ぎていた。その誤算がアメリカの支配システムを破壊しつつある。

【日露戦争と安倍政権】

 広大な領土、豊富な天然資源、そして多くの人口を抱えるロシアを「大英帝国」の脅威だとイギリスの学者で地政学の父とも言われているハルフォード・マッキンダーは1904年に主張した。

 その前、19世紀にイギリスは経済的に苦しい状況に陥っている。中国(清)の商品にイギリスの商品は太刀打ちできなかったのだ。そして始めたのがアヘン戦争(1840年から42年)とアロー戦争(1856年から60年)。こうした戦争でイギリスは中国に麻薬のアヘンを売りつけ、さまざまな利権を手に入れている。

 そうした麻薬取引で大儲けしたジャーディン・マセソン商会が1859年に日本へ送り込んだエージェントがトーマス・グラバー。明治維新の裏で蠢き、その周辺には坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎たちもいた。

 グラバーは内戦が長期化するという判断から武器を大量に買い込んだが、当時の日本人は賢かったようで、1867年には「大政奉還」、戦争を早期に終了させた。その結果、グラバーの会社は70年に会社は倒産、後に岩崎が作り上げた三菱の顧問に就任する。

 1863年に長州藩は井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)をイギリスへ送り出したが、その手配をしたのがグラバーであり、渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が使われている。「明治維新」の黒幕はイギリスだったと言えるだろう。

 新政府は1871年7月に廃藩置県を実施するが、72年に新政府は琉球を併合、新たに琉球藩をでっち上げる。1871年10月に宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、漁民が殺されたことを口実にして台湾へ派兵するため、琉球は日本領だと主張するための形作りをしたわけだ。

 1872年にフランス系アメリカ人で厦門の領事を務めていたチャールズ・リ・ジェンダーが来日、外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を進めたという。彼のアドバイスも政府の決定に影響したかもしれない。このアメリカ人は1875年まで外務省の顧問を務めた。

 1875年になると、日本政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦が派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。同条規の批准交換にル・ジェンダーも陪席したという。

 その当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。その閔氏の体制を揺るがせたのが1894年に始まった甲午農民戦争(東学党の乱)で、この戦乱を利用して日本政府は軍隊を派遣、朝鮮政府が清に軍隊の派遣を要請したことから日清戦争へつながる。1895年に日本政府は自国の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃、閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えた。

 そうした日本とイギリスは1902年に同盟関係を結び、04年2月に日露戦争が勃発、その最中に帝政ロシアでは第1次ロシア革命が起こる。ロシア政府はこの武装蜂起を鎮圧したものの、戦争どころではなくなり、セオドア・ルーズベルトの調停に応じた。この頃、イギリスではロシアを乗っ取る戦略をスタートさせている可能性が強い。

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最終更新日  2015.07.11 02:50:16


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