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今日で仕事修め。「今年こそは」と始めた今年も暑い寒いと文句言いつつ実感がないまま底が見えていつも決まってちょっと溜め息のこの時期ですがまた来年もやっぱり「今年こそは」なのです。いや、残りの今年をその意気込みでひとつ何かやってやろうかしら。やりたい事は山程あるけど、時間が無いだの、疲れてるだのおっと、これは言い訳ですね。以前、誰だったか作者は忘れてしまったのだけど“非凡なる凡人”という表題の文章を読んだ記憶がある。それは、その作者の近しい人物を客観的に捉えた短編なんだけどその人物、別にこれといって特別な才能があるわけでもなく全くの凡人、目立たない男なんだけど彼が他と違うのは、普通、人は隙有らば怠けたいもので大方の人がそうやって過ごして行くもの。だけどその男は実に非凡な弛まぬ努力を日々少しづつ積み重ね邁進し、結果的に成功し非凡な地位を得ていく。といった内容で、これを読んだ時に「俺はこの逆だな」などと勝手な事を腹の中でほざいたのだけど(笑)この現代社会に於いて、努力だけが全てとは言いがたいがこの精神は大切で一理あるな、と感じた次第ではある。元々、地味に努力を重ねたり出来るタチではないのだけどほんの少し、ちょっぴりこの精神を見習って「今年こそは」そして来年も「今年こそは」行け、行け!平凡なる凡人!
2005/12/28
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黒いのがネジ、牛柄のがぜんまい。共に13歳になる兄弟。完全な家猫でほとんど外には出ない、っていうか出さないのだけど隙を見て脱走を謀ろうとするのが、ぜんまい。後ろについてビクビク、オドオドしてるのがネジ。それまでは、ぜんまいなど単なるデブ猫と思っていたのだけど脱走しては近所で派手な喧嘩を繰り広げテリトリーを広げてるようで、なかなか捨てたもんじゃない。それに引き換えウチでも外でもビクビク、オドオドの情けないネジ。猫でもそれぞれ性格があるんよね。本日も脱走したぜんまい。寒さが厳しいから凍死するぞ、と心配したが餌の音を聞きつけ程なく現れ一安心。台所のゴミは漁るし、ゲロは吐くし扉を開けた電子レンジの中に入ろうとしたり歳はくっても相変わらずのアホである。しかし、こいつらを見てると実にのんびり自由でやりたいことしかやらないし、その気じゃない時や満腹の時は見向きもしない。全く気ままで自己中心的で、そこがまたいい。ナナちゃんがいた頃は更に賑やかでひとりでも大暴れしてたし3匹並んで餌を食らう姿を見ては「ああ、ウチも猫屋敷になってきたな」などと思ったものだ。と、こう書いてると単なる猫キチガイの様だけど別に猫が特別というわけではなく、たまたま彼らと接する機会が多かっただけではないかとも思う。ま、一緒に生活してると猫とか人間とか境が無くなっていく気もするし、奴等もホントは自分らの言葉を理解してるのではないかと思える瞬間も間々ある。いずれにしてもより長生きして戴き少しでも多くの同じ時間を過ごしたいもんですね。さ、今日も猫共と寝ますかね。
2005/12/25
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今日はクリスマスイブ。だけど、これはそれとは全く関係の無い幼稚園時代の思い出。小便がしたくなり便所へ行く。用を足すのだけど何故だか、し足りない。だから何度も足を運ぶ。その頃我が一家は、両親が管理人を務めるドレスメーカーの寮に住んでいて、敷地も広く部屋数も多い。当然ながら便所に於ける大便器の個室も複数あった。何故ここでトイレと書かずあえて便所と記したかというとそのほうがイメージがピッタリくるからである。水洗でこそあったけれど床や壁、扉、天井に至るまですべて木製の板張り。新築の頃は明るい色調だったであろうそれらも使い込む程に味が出て、今ではすっかり重みのある重厚な風貌になっている。だから便所というのが相応しい。その便所、当然小便器も幾つかあるのだけどその日自分は、何を思ってか、たかだか小便のために個室へ入った。しかし、困ったことにその個室の四隅には大抵小さな蜘蛛が巣を構えていて自分はそれが怖くて扉を閉めることが出来ない。だから開けたまま用を足そうとするのだけどどうもタイミングが悪く、出そうになったところで扉が閉まる。とたんに小便も止まる。おまけに、その日にかぎって四方の壁が迫ってくる程に狭く感じられ圧迫感がある。そこで場所を変え、浴室へ。ここで普通なら当然小便器へ、と考えるのだが慌てているのか、そこまで考えが及ばない。浴室のタイルの上、尿を放出する。だけどもまだ残尿感がある。いや、それどころかさっきよりも更に膀胱が膨らみ重みが増してくる様だ。 おかしい。 何故だろう?唐突ではあるがその頃、幼稚園の友達の中に砂場で宙返りなどをする子供がいて、まさに皆のヒーローだった。自分はそこまでは出来なかったのだけどその子を手本に習得した側転が自慢だった。気が付くといつの間にか家の外。天気が良く青空が見え、太陽が眩しい。向かいに住む、同年のコウヘイとその妹ミチコ(共に仮名)が日溜りでヤクルトジョアを飲みながら佇んでいる。自分はいつの間にか下半身全て脱ぎ捨てた半裸状態で二人の観客コウヘイ、ミチコの前で自慢の側転を開始。そのまま二人に向けて尿を浴びせかけた。とたんにスローモーションになり、しぶきとなった尿が日光を反射しキラキラと輝く。そして二人もキラキラと微笑む。・・・とこれは全て夢である。母親は「もう、幼稚園にもなって!」と困った顔をしていたが悪いのは自分ではなく、夢、全て夢が悪いのだ。
2005/12/24
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思うところがあって、箸を使う事をやめた。三ヶ月になる。マトモにそれを扱えるようになる為には、幼少の頃それなりの訓練の積み重ねと時間を費やしたと思う。だけども、やめてしまうのは簡単で、そう思ったときからゼロになる。別に誓いを立ててるわけでもないから明日にはそれを用いて飯を食らうかもしれないし反面、もしかしたら二度と手にする事もないかもしれない。世の中の仕組みがそうであるように永年使用してきた道具も、それが無いと思えば代わりでいくらでもまかなえるし、然程の不便は感じない。子供用のフォークしか持ち合わせていないラーメン屋に於いてもふてぶてしく、ウサギちゃんの絵があしらわれたそれで大いに食してやろう。「日本人が箸を使わないなんて」とそんなくだらんものならいつでもナニ人にでもなってやる。人にはそれぞれ事情ってものがあるのだ。そんな事情など万人が暮らす世の中、大いなる歴史の掌で言えばそれこそ指紋に入り込んだ汚れみたいなものかもしれない。だけど、それは大きな流れの中での話であって腰まで浸かってる当人は必死なのだ。とても大きな目でなど見れる筈もない。しかし、ここで思うのはその汚れと一緒に自分が落ちて行かぬ様せいぜいぶら下っていようかなと・・・
2005/12/23
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またしても雪。 しかも前回よりひどい。天気予報でも降るとは言っていたが、ここまでとは・・・仕事を終え帰り道、途中から道は全く動かず。イライラしても仕方ない、いや、散々してもう疲れた。曇るフロントガラスを拭き拭き・・・ しかし、進まない。結露で滲んでいるのと携帯のカメラの性能がイマイチで説明がないと解りにくいがこれは居酒屋の灯り。ステンドグラスが綺麗。解りにくいが、これは人間。通りの真ん中で危険を省みず雪かき?世の中には偉い人もいるもんだと思ったらこの野郎、自分の家の敷地から追い出した雪を車道に撒き散らしてやがる。「車が踏み固めたら危ねえだろ!」と顔まで写してやりたかったがこれが限界。追いかけて雪国~と前行車に追いつける筈もなく前回の雪でチェーンがどっかいってしまったのでスリップが怖くて慎重極まる運転。結局、通常1時間で帰れるところ、5時間費やしおまけに最後の最後、会社の駐車場でタイヤが雪に埋もれ悪戦苦闘。なんとか脱出出来たと思ったら、今度は新人君の4トンがチェーンを装着してるにも関わらず進退不能。あらゆる手を尽くしたが駄目。ラチがあかんと判断しけん引業者を呼び、明日も仕事の新人君にも帰るよう促す。自分も帰りたいのでね。ま、オイラは休みだから気楽だけど、結局12時回っちゃいました。
2005/12/22
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岐阜県K南市、名鉄電車の路線沿いに大正洋風建築の素晴らしい廃墟があった。それは駅から程近い場所にある旧く通りの狭いさびれた商店街から少し入った場所にあったのだが、昔ながらの建物が建ち並ぶ中でも一際目立つ存在で、風雨に晒され薄汚れてこそいるがまさにその時代にタイムスリップしたかの様。今の建築には無いハイカラで斬新な外観細かく仕切られた木枠の窓に嵌込まれた色ガラス等々どれをとっても逸品で、敷地こそ狭いが“何とか時代村”に移築されてもおかしくない程の優美な趣だった。何故にこの様な建物がここに?普段なら「中を覗いてみたい」などと考えるのだが周りに民家が隣接してて犬がいることと何より、その建物の斜向かいに小さな霊園があるという不気味さもあり(と言うか、そこから見られている様な後ろめたさ)とてもそんな気にはなれなかった。実際、玄関の一部が壊されたのか口を空けてる以外は殆ど無傷で荒らされてる様子がない。だからよけいに異様に感じたのかも知れない。自分がその建物を最後に見たのは3、4年前だがごく最近になりまた無性に気になりだして「せめて写真に収めるだけでも」 と考え、出向いてみることにした。以前、仕事で走り回ってた地域ということで勝手知ったるつもりだったのだけど久しく訪れてなかったせいか記憶も曖昧でなかなか目的の場所に辿り着けない。確か、警察署の所の踏切から線路沿いに入って・・・ 布袋大仏を通り越して・・・そうして、やっと辿り着いた見覚えのある場所。そこにあの建物の姿は無かった。更地になったその土地にはコンクリートの囲いと(以前からあったかどうかは記憶にないのだが)以前中庭だったであろう場所に灯籠が辛うじて残っているのみだった。近所で婦人洋品店を営む白髪の女主人に尋ねてみると3年程前に取り壊されたという。そう、まさに自分が見掛けたそのすぐ後位に取り壊されていたのだ。ずっと心の片隅で気になっていて今一度その姿を拝みたいと思っていたが、時すでに遅かった。自分はその建物の特異な外観から病院若しくは教会の類いではないかと推測していたがごく一般的な民家だったようで晩年は連れ合いに先立たれた老女が独りで暮らしていたらしい。親切に説明してくれた女主人に挨拶し帰り際「ウチも旧いのよ」と店舗裏手にある離れに案内されお宅拝見。 なるほど素晴らしい。そこで家紋が入ったスリガラスの建具を撮影。老朽化の為、店舗部分は改築したものの元々は明治時代の建物だったらしい。遠い記憶の島に取り残された様な旧き佳き時代の面影。そんなかけがえの無い景色達が今後、消えゆくことはあっても再び生まれ来ることはない。それらは、そこで暮らした人々の思い出と一緒にゆっくり静かに遠く遠くへ流れて行くだろう。 なんてな。この建物、名鉄電車の線路沿いという場所柄車窓から見掛けた方も多い筈ご存じの方、記憶に残ってる方、その想いを分かち合いましょう。また、もし写真に収めた方などおられましたら是非とも今一度その姿を拝みたい。ご一報戴けると嬉しいです。
2005/12/21
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内臓が好きである。とは言え、年がら年中それら臓器達と戯れて暮らしたいなどとは毛頭思わない。よって「好き」と言うよりは「興味深い」と言ったほうが妥当かも知れない。あの一見無駄とも思える、色、艶、形。実はその全てに一切の無駄が無く、意味がある。その辺りに自分の貧困な知識の中での理解を超えた謎がありだから興味深いのだ。自分と内臓との出会いは、幼稚園時代にまで逆上る。当時買い与えられた幼児向け月刊誌「たのしい幼稚園」に掲載されていた、男の子の腿から上の半身像。腹の部分が見開きになっていてそこをめくると神秘の世界が覗けるのだ。そう、解剖図。そこには、今だかつて見た事もない物体が所狭しと鮨詰めになっていて、子供心にも「これは」と感動を覚え母親に実物が見たいと申し出ると、腹を切らないと見れない、という。ならば切ってくれ、とせがむと「そんなことしたら死んでしまうよ」ぎくり、となった。その頃の自分は幼心にも死というものに非常な恐怖を抱いておりその言葉を聞くだけでも忌まわしい。そんなことがあり「今で~も好き~さ、死ぬほ~どに~」というフレーズで当時流行した千昌夫の「星影のワルツ」と共に彼らへのときめきは胸の奥へ封印することと相成った。出会いと同時に別れを迎えたのだ。まさにハローグッパイである。共に暮らし、これ程身近であるにも係わらず普段は気にも留められず、普通に生活していればお目にかかる機会はまず無い。あるとするなら例えば、車に轢かれた動物のそれであったり映画の中でゾンビに喰われる人間のものであったりとどうも死と関連付けた部分でしか垣間見ることが出来ない。こうなると人はそれを隠したがり避けるようになる。内臓だってちゃんと生きてるのに、それを忌み嫌うようになるのだ。例えそれが愛する人のものであったとしてもぬらぬらと気色のいいものではない。ましてや恋人が全身の皮膚を全て脱ぎ捨て臓器をぶりんとむき出した内臓人間となりその変わり果てた姿で「僕だよ、愛してるよ」などと囁いたところで、よっぽどのマニアでない限り到底受け入れられるものではないのだ。かくいう自分も画像や影像といったフィルターを通してなら興味深く眺めることが出来きても、本物は直視出来ない。恐らく目を背けてしまうだろう。以前学生の頃、友人の紹介で肉屋の配達の手伝いをしたことがある。それは、年末の忙しい時期だけ注文が入り次第、お得意様宅へ自転車で配達に伺うといった単純なものだったのだけどそこの糞オヤジときたら、俺の配達の手が空いてるのを見つけては脂身を切って袋に詰めろだの何だの、細かくこき使いやがって配達要員である俺が何故に安い賃金でそんな雑用までせにゃならんとブツクサ思いながらも、それを腹に押しとどめ従うのだがこの脂身がまたヌルヌルと気色悪い。さらにそれが豚だか牛だかの身体の一部だったかと思うと輪をかけて気味が悪い。おまけに切った中から黄土色したブドウの房の様な形の得体の知れぬ臓器が転がり出てくるわでヒーヒー言いながら七転八倒。そこへ「不器用な男だ」などというオヤジの小言でもって小突き回され、昼夜二食付きに喜んだのも束の間そんな気持ち悪いものを拝んだ日にゃ飯も喉を通らんところへ上から下までの終始肉尽くし。味噌汁の中にまで投入してやがる。(自分は元々肉が苦手である)まさに地獄の責め苦の様な数日間だったのである。こういったところから見ても自分が「好き派」ではなく「興味深い派」であることが伺える。先日テレビで、内臓大好きという素人女衆が出てきてその知識の程を競う、といった内容の番組が放映されていた。自分は、我が振りはさておき「こいつら変態だな」などと冷笑しつつそれに見入っていたわけだが彼女等は一体どちら派なのだろうか?出来ることなら無難な「興味深い派」でとどまっていて欲しいものである。現在、我が家にはひょんな処から入手した人体模型が一体あるのだが、これはいい。幼少の頃、一度閉ざしてしまった心の扉をノックしたのも小学校の理科室、言葉もなく無表情でしかし圧倒的な存在感で立っていた彼ではなかったかと思う。適度な不気味さと内臓本来が持つ造形美を損なうことなく併せ持っている。幽霊が怖い心霊好き、本物が嫌いな「怖いもの見たさ的興味深い派」には、うってつけの逸品パートのおばちゃん達による手作りの芸術作品と言えるだろう。いや、もしかしたら内臓及び人体そのものが芸術で模型はそれらを模した単なる贋作に過ぎないのかも知れぬ。芸術は人が造りだすものと言われるが人間そのものを「自然が造り出した芸術」と考えるのが正しいのかも知れない。「ボクダヨ、アイシテルヨ・・・」
2005/12/20
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シャンシャンシャンシャンシャン・・・雪降る街に響く軽快な音。ジングルベル、ジングルベル!12月も半ばを過ぎて、世の中はクリスマス気分。だけどもこれは楽しい鈴の音ではない。我が街は本日、昭和22年以来、実に58年ぶりの大雪に見舞われちっとも要領を得ないチェーンを巻くのに悪戦苦闘。なんとか装着出来たものの、どうも具合が甘く走るとこの様な音がするのだ。突然の大雪に泡喰って大弱りの大人を尻目に子供は大はしゃぎ。軽度の天変地異にはへこたれない。それどころか嬉しくて仕方無いのだ。まあ自分も昔はそうだった。仕事だとか、やらなきゃいけない事があるとはいえ「雪なんか降りやがって」などとぼやいてしまいそうになる自分を素直に感動出来なくなった不甲斐無さと子供の純真な喜びに水を差してはいけない、という申し訳なさが諫める。何しろ、無責任に大きはしゃぎ出来た昔が懐かしい。と、あれこれ考えてるうちにチェーンの一部が切れたか外れたかしたらしい。車体にバシバシ当たって大暴れ。めんどくせえなぁ、とこれを外すのにまた一苦労も二苦労も費やして「あーあ、やってられねぇ」雪に慣れた、北で暮らす方々はこういった作業も要領よく卒無くこなすんやろね。
2005/12/19
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(BEFORE) (AFTER)「サムライ」この響きに強く惹かれる。「武士」ではなく「サムライ」これがいいのだ、なんとなく。昨今の日本に於いては、なにかとアメリカナイズされているものが多く日本人歌手の歌など聴いても、英語のみ若しくはそれを織り交ぜたもので溢れている。外人になりたい日本人、外人志願者が非常に多いのだ。舶来製の洗練された仕草などを密かに研究し真似てみる。そして、それが上達してくると無意識のうちに自然にその動作が行えるようになる。こうなると本人は何だか日本人離れした特別な人物になったような気分になる。だけどもそれを極めて冷静、且つ冷ややかな目で見てみるとそれは単なる猿真似に過ぎず、言うなればニセモノ外人なのだ。だからと言って「日本人は演歌だ!着物を着て、茶を啜ろう!」などと言いたい訳ではない。自分は音楽ジャンルなんてものは単なる器に過ぎないと思っている。ファッションもまた然りだ。そう、問題は中身。 魂の部分なのだ。自分は思う、外人に認められる日本人というのは「ホンモノの日本人」ではないだろうか。だからサムライがいいのだ。だけども、その実体の無いサムライ魂とやらを日常生活の中で示すのは非常に困難でここから独りよがりの空回りが始まるのである。普段はあまり馴染みのない温泉旅館などに着くやいなや浴衣に着替え、これでは物足りぬと帯に靴べらを差し込み、刀の代用にしてみる。揚げ句の果てには、何か失敗をしでかした際事あるごとに「切腹してやる!」などとわめいてみたりする。こうなると悲しいかな単なる危ないおっさんである。以前、別段意味も無く髪を伸していた時期があった。夏は暑い、だけど何となく勿体無いから切らない。そこで、髪を後ろで束ねてみる。おっ、これはサムライみたいではないか。自分は当時も、今と同様配送の仕事をしていたのだがその日初めて赴く配達先、トラックからひらりと飛び下り風に吹かれる拙者の姿。それを見て、そこの兄ちゃんが言った。「ダンサーですか?」「・・・・・・」その日から自分の呼び名は 「サム兄ちゃん」となった。サムとはあのダンサーであるサムのことだ。サムライである拙者に向かって事もあろうにダンサーとは無礼な。しかもサム・・・途中で止めてはいけない。サムライなのだから。と、まあ現代に於いて、身を潜めている真のサムライ達は住む場所も追われ非常に肩身の狭い思いをしているのだ。嗚呼、サムライ魂は今何処にある・・・・・?拙者、もう筆が進みませぬ。これにて失礼仕る。追記:この「サム兄ちゃん」事件の後、悔しいので 頭をモヒカン刈りにして再度配達に出向いてやった。 これで雪辱を晴らせると思ったのだが 一度定められた渾名が変更されることは無かった。
2005/12/17
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ヤモリを飼育している。といっても特に珍しい特殊なものではなく今年の5月頃、会社前の道路で蠢いていたのを捕獲したものだ。その時、切れてしまった尻尾も今ではすっかり伸びて元通りになっている。こいつの餌となるのは小型の昆虫等で暖かい時期は比較的容易に調達できたのだけど涼しくなってくると少々難しくなる。そんなこんなで仕事帰りの道すがら爬虫類専門店へ餌用コオロギを買いによく通った。ここ最近は冷え込みが厳しく、一応昆虫飼育用の温室ヒーターはあるものの、乾燥が怖いのでそこには入れていない。したがって現在はほとんど活動休止状態、冬眠状態で餌も食わない。だから今は店へ行く必要もない訳だけど そこで出会ったニシキヘビ、そいつにときめいてしまった。それほど高価でもなく、大型にもならず性格もおとなしい餌も数日に一回と飼育コストもかからない。「ボールパイソン」触るとボールの様に丸まることからそう呼ばれているらしい。なにしろその愛くるしい、つぶらな瞳にやられてしまったのだ。しかし、ひとつだけ心に引っ掛かってる部分がある。 それは餌。そう、先程述べた通り手間もコストはかからない。だけども、この餌がどうも引っ掛かかるのだ。彼らが食すのは冷凍マウス。平たく言えば凍結された子ネズミちゃん。(子ネズミちゃんイメージ)それらはきちんと整列してビニールにパックされ必要に応じて一匹づつ取り出しては解凍しまるで今の今まで生きていたかの様な状態にもどしてから与えるのだけど、その並んでる姿、保存されてる様が異様でいただけない。餌として大量生産された量産品、そういった感が拭い去れない。それなのに、細かく精巧に、目、鼻、口、耳等々が備わっている。それらは紛れもなく、見、嗅ぎ、食し、聞く器官であり本来はそれぞれの役割を持ってるもの。しかし元々こうなる運命ならこれらのパーツは必要ない訳でいや、確かに冷凍されるまではその手足で歩き走り回っていただろうが、なんともその姿を見ると哀れというか儚いというか、申し訳ない気持ちになる。また、それを日々扱うことによって慣れてしまいそういった感覚がなくなっいくのも恐ろしいので躊躇しているのだ。まあ、そんなこと言い出したらヤモリが丸呑みにしてるコオロギだってそうだし、自分も肉やら(は、あまり食わないが)魚やらを食うわけだから同じなんだけど、ネズミちゃんは哺乳類ということもあってその形態がより人間に近い。いや、決して命の大きさに優劣があるとかそういうことではなく・・・ うーん、困った。なにしろ、目、鼻、口、耳、手足、ましてやヒゲなど付いてないツルンとした、それでいて栄養価は変わらず命も宿っていないそんなものが開発されたらいいなぁ、と考える次第であります。「ヒバカリ」というマイナーだが日本の田園に生息する小型の蛇がいる。その名の由来はそいつに噛まれるとその毒により「その日ばかりの命」というところからきているらしい。実際には毒はないのだが。このブログを立ち上げる際、日記ということで「その日ばかり」の想いや感情を綴っていこうかとこの名を拝借したのだけど、始めてみるとそれとは程遠いなんだか分からん言いたい事を勝手に書きなぐって行く場所になりつつあるし、今後どういった方向へ行くやら・・・ まあいいか。
2005/12/15
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今日、仕事の配達先の若者と話していたら以前勤めていた会社で、商品の整理をしてる際巨大な蜘蛛に出くわしたという話を聞いた。「ははん、なるほど。アシダカグモだな」そう思った。しかし詳しく聞いてみるとどうやらそんな生易しいシロモノではなさそうなのだ。彼曰くその化け物は、体だけでも7~8センチ足は人間の指程の太さがあり、それを拡げると自動車のハンドル、つまりおよそ30センチ程にまで及ぶという。その形態はメジャーな外国産毒グモであるタランチュラとは違いすらりと伸びた長い足で目にも止まらぬ速さで走り回るらしいのだ。(巨大蜘蛛イメージ 煙草の箱との比較)当然だが、日本にはそんな巨大化する種類は生息していない。彼から聞いた特徴から察すると前述のアシダカグモの系統と推測されるが日本最大種である彼らでも、目一杯足を拡げたところでせいぜい10センチ程度、あるとすれば外国種だが果たしてそんな化け物みたいな種が存在するのだろうか?そういえば、自分が勤める会社の従業員が以前倉庫の便所で同様のモノを目撃したという話を聞いたことがある。それを聞いた時は、「単なる見間違えだろう」位にしか思わなかったが、その倉庫というのは港に程近い場所に有り隣りが外国からコンテナを運んで来る会社らしいのでそれらに紛れ込んで渡来したとすれば合点がいく話ではないか。もしそのお化け蜘蛛が、日本の暑さ寒さに適応、繁殖しそこらで普通に見掛ける外来種として定着してしまったらどうしょう。何を隠そう、俺はクモが駄目なのだ!あんな気持ちの悪い生き物はない。あのいやらしい形態・・・生きていても何の価値もない! 俺は断言する!ああ、痒い、痒い・・・自分が中学生の頃住んでいた借家はその昔、屋根裏でカイコを養殖していたという古い木造家屋で玄関や勝手口には土間があり、地獄に通ずるかの様にぽっかり開いた床下の闇から奴等がよく這い出てきたものだ。奴等が障子の上を走ると、カタカタと不気味な足音がする。皆が寝静まった静寂の中、その音が聞こえると自分は敏感に眠りから覚め、そちらへ目をやる。すると、大概子供の手の平位のやつが貼り付いているのだ。そうなるともう寝てなんぞいられない。眠気も何処へやら、真夜中のハンターと化すのだ。なにしろ素早い奴等、一発で仕留めなければそこらの隙間に入り込んで、何処へ行ったか分からなくなる。しかし、あのオゾマシイ姿を見ると、どうも冷静さを欠き自分は度々パニック状態に陥りたかだか数センチの標的が貼り付く障子に、椅子を投げ付け破壊したり、ライターの火に殺虫剤を吹き付け火炎放射の様にして襖を焦がしたり(良い子は真似してはいけません)とんでもない格闘を繰り広げたものだ。だから、もしそんな巨大な化け物が不意に目覚めた枕元に居座っていたり、慌てて入った便所の中ホッとし、目を上げた天井に貼り付いてなぞいたらそれこそもう、修理不能。壊れちゃいますよ、私は。(壊レルノ図)
2005/12/14
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悪友T氏との綱渡り的冒険 エピソード1(悪友T氏のイメージ図)いわゆるコワモテ。くまのプーさんに登場する虎「ティガー」をスキンヘッドにし眉を剃り落とした感じ。異様な程に頭の形、特に後頭部の形状が良い。以外と優しい目をしていて、現在は眉も有り物腰も穏やかだが底知れぬ不気味さを漂わせる味わい深い男。以前、彼がこのワタクシのイメージについて何か語った気がするが個人的に納得がいかないので、ここでは割愛させて戴く(笑)廃墟が好きで、その昔いろんな所に押入った。単なる廃墟好きということもあるが骨董趣味も相俟って、一時期は平日休日を問わず取り憑かれたようにその物件探しに夢中になった。パートナーは15年来の悪友T氏。面倒なので本分中ではトクちゃんとする。実際の本名とは無関係の仮称である。そしてこれは、今から十年以上前の年の暮れそのトクちゃんとの物件探しの中で出会った一人の偉大なる男の話である。窓の奥の闇がそのまま流れ出たかの様に古びて汚れた空きビル不法投棄による瓦礫の山釣り上げられて放置された奇妙な形態をした魚音も無く流れる澱んだドブ川の向こうには期間限定、移動式遊園地の電飾の光が臨まれその対照的な姿がこの場所の荒廃した景趣をより一層際立たせている。自分とトクちゃんがこの吹溜まりの様な場所に辿り着いたのは既に夜も明けかかった時分だった。車を降りて辺りを見渡してみる。以前は恐らく運輸会社の集荷センターだったであろうだだっ広い敷地はコンクリート敷きになっていてゴミが散乱し、その所々がヒビ割れ、雑草が顔を出しそれらも辺りの雰囲気を察したかの様に干乾びている。その土地を取り囲む様に捨てられ骸となった車が幾つも座り込んでいるのだがその殆んどが何者かにガラスを割られ抜け殻の様になっている。しかし、よく見るとその群れの中に、まだガラスがしっかり残っていて一体どこの誰が集めたのか車内にあらゆる物品がごちゃごちゃ詰め込まれているものがある。「なんだこりゃ?」二人が興味を示したのは言うまでもない。ロックされているドアを無理やりこじ開ける。年代物の厚底婦人用ブーツ、やたらに重いタイプライター巨人の星の一徹父ちゃんがひっくり返したかもしれない茶ぶ台魅惑のムード音楽のレコードカントリーウエスタンのカセットテープヒッピーがニッコリ手を振りそうな裾の広がったジーパン等々。まるでリサイクルショップの様な品揃え。思わぬ拾い物である。荒れ果てた景色に寒空の下、この錆びたトラックの持ち主が現れるとは到底思えない。自分とトクちゃんはそれら数々の物品を丹念に物色し時には「ほぉ~」と感心しながら目欲しいものを自分の車に積み込んでいく。一台分の検品を終えると、他にも同様の車がないか見回してみる。「お、あった、あった」見つけたのは白のセダンタイプでガラスの内側に段ボールがあてられていて内部が見えないようにしてある。先程と同じく、運転席側のドアをこじあけようとするが今度はうまくいかない。さんざん梃子摺った揚げ句、ガラスを蹴飛ばしたり叩いたりするのだけど頑丈なものでビクともしない。「あれれ?ここガラス無いじゃん」以外にも気付かなかったが右後部ドア、つまり運転席後ろのガラスが無く木の板で塞がれている。「なぁんだ」とそれをおもむろに取り払ってぎょっとした。人間がいたのだ。後部座席に座った男は窓を暴かれてもじっと運転席側を向いたままで目こそ開いているが微動だにしない。脂ぎって絡まった頭髪に伸び放題の髭。そう、ここは彼の家だったのだ。そして乱暴にも侵入しようとしている見えない暴漢に対しどうする事も出来ず息を潜め弱い動物が天敵に出会った際にそうするように必死の思いで死んだフリ、いわゆる擬死行動を実践していたのだ。全く唐突で思わぬ展開と、他人の領域に文字通り土足で踏み込もうとしたバツの悪さから、自分らは顔を見合わせ苦笑いを浮かべながらその場を立ち去ろうとした。その時、人の気配がある。いつの間にどこから現れたのか、自分らを取り囲む様に歩み寄って来る3人の男。紺色の防寒作業着を着込んだ、割と背の高い長髪、髭。黒いロングコートを着た染めてるとは思えないが茶髪の男。緑の防寒作業着姿で頭の禿げ上がった小太り。いずれも薄汚れていて一見して路上生活者と判断出来る。歳の頃は40代半ばから後半位だろうか。徒ならぬ雰囲気である。「見かけん顔だなぁ」・・・どうやら同業者と思われたらしい。「こんなに荒らして。この辺にはボスがおるんだぞ!」 長髪、髭が言った。「殺されるぞ!お前ら!」ドスの効いた声である。 しかし、自分はこのように強い者を楯にして偉そうにものを言うドラえもんに出てくるスネオの様なタイプが大嫌いである。「ふうん、ボスがいるんだ。で、あんたは何なの?」「俺はそこら辺に寝てるプー太郎だ! でもなぁ、関東や関西の方まで全部仕切っとるんだ!!」長髪髭が胸を張って言い放った。一瞬言葉を失った。「悪かった、ごめんね」決して馬鹿馬鹿しくなってニヤニヤと薄ら笑みを浮かべながらいかにも小馬鹿にした調子でこの言葉を返した訳ではない。自分は常日頃から尊敬に値する者に対しては親しい人を除いて老若男女問わず敬語を使うことにしている。彼らに対する敬意の程は自分が発したその言葉から充分に察して戴けることだろう。「あんたらが改心して、解ってくれればそれでいい」長髪髭は少し得意気だ。家も無く、大地を枕に逞しく生きるこの男自称プー太郎でありながら関東関西まで幅広く顔が利くのだ。しかもそこまでの大人物でありながらこの近辺の仕切りは他人に任せたりなど案外奥ゆかしい部分もある好人物ではないだろうか。いずれにしても俗世間の常識は遥かに超えている。移動手段も彼ら専用の特殊な交通機関が存在するのかもしれない。事なきを得て帰る帰り際自分らが荒らした物品の残りカスを物珍しそうに見入るロングコート茶髪。彼に声をかけた。「悪かったねぇ」「いえ、いえ」当然ではあるが積み込んだ品物は全て持ち帰った。いつの間にか夜は、白々と明けていた。自分は今でも時折、ガード下の集団住宅から発散される臭気或いは駅裏の赤茶けた景色に触れると思いだすのだ。偉大なるあの長髪髭の事を。彼の威厳は今でも健在だろうか。いや、彼のことだもしかしたら今では、全世界を股にかけてるかもしれない。
2005/12/13
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男女、そして、一般人芸能人を問わず同性に好まれないのに、異性には好まれるタイプの人間がいる。カドが立つので名指しはしないが、どうも腹が立つのだ。男女含めて彼らに共通するのは「演じている自分」これが明らかに普通の人より強い。男で例えると、低めの声でボソボソ話し生粋の日本人であるにも関わらず、50音さ行「し」の発音を英語訛りの様に発したり中性的な雰囲気と不思議さを醸し出してみたりする。女で例えるなら、声色を作りアンニュイなイメージを演出している方々だろうか。彼らは感情を全面に出さず、慌てず騒がず取り乱さない。その人格は全て本人により計算された演出の上で成り立っている。これらの演出は容姿が良ければある程度、異性には通用するらしい。だけどもそれを同性の目から見ると、実に滑稽で薄っぺらく鼻につくし、ムカつくし、反吐が出る。と、ここまで書いてきたが中にはその「演出家謙タレント」等をお手本にしてる同性人諸君もいる様なのでこの主張は極めて主観的なものになってるのかも知れない。だけど思うのだから仕方が無い。バッカじゃねえのか?まぁ少し位は誰でもそういった部分もあるだろう。それにしたってやり過ぎはいただけない。特に自分も含め、容姿が思わしくない諸兄方は詰って溢れるのが分かり切ってる便器にウンコを流すようなもの取り返しのつかない事態に陥るので注意したいところである。さて、本日伸び放題の髪を切りに行ってきました。何だかんだ十数年も付き合いのある少々気難しいが気のいい兄ちゃんがやってる店。いつも大体同じような感じにカットしてもらうのだけど今回「微妙に雰囲気を変えてみようか」などと企みヘアカタログなどの有無を尋ねてみるが、男モノは無いと言う。仕方ない、何気無く広げた女性週刊誌に自分があまり好きではないタレントがギターを抱えてる姿があった。それを見て事もあろうに俺はこう言ってしまったのだ。「これをもう少し短くした感じにしてもらえる?」結果的に仕上がりは気に入ってるし髪質も違うので、多分誰に言ってもそれを参考にしたとは分からないと思うのだけど何だか汚点になったような・・・自分の一部が死んだ様な・・・いいなぁ、と思ったのは髪型だけでいや、ホント、好きじゃないんだよ。
2005/12/11
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また歳だけくった。寺山修司と同じ誕生日。 だからどうした、何も無い。何も成し遂げてない。何がしたい? 何が出来る?いつの間にかブルースリーより年上になっちまった。来年には松田優作とタメになる。鳥に憧れてるモグラの気分だ。昔を懐かしんでばかりいる老人の気分だ。悲しくてテレビなんぞ観てられない。腑抜けたリズムばかりグルグル頭を巡る。ズビズバ~・・・ 酒飲んで寝る。
2005/12/10
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★ウンコと滑り台と仮面ライダーと友人の愛★自分が通っていた保育園の園内には陽の当たる場所にある、大きめの滑り台と建物とフェンスに挟まれた日陰にある小さい滑り台の大小ふたつがあった。日向の大きい方は人気があり、順番待ちがあるのでそれを避け自分と友人のコウヘイ(仮名)は小さい方で遊ぶことにした。その頃の子供の憧れは仮面ライダーで自分も例外に漏れず夢中になっていた。大きくなったら変身出来ると信じていたかもしれない。滑り台の上に立ち、颯爽と滑り降りた自分はヒーローに成りきってポーズをとってみた。キマったポーズの右掌に滑り台の手摺がかすった。と、なにやら妙な感触がある。 ヌルッとした様な・・・見ると黄味がかった茶色の物体が掌に付着している。何かな?と思う間もなく、仄かに漂う香りがこの未知の物体が糞便、すなわちウンコであることを教えてくれた。何故こんな所にウンコが?全くもって納得いかないがそんなこと考えてる場合ではない。掌に付いた、その動物のモノとも人間のモノとも知れない黄土色をどうすべきか。自分はうろたえた。「どうしよう」「石鹸で洗えはキレイになるよ」コウヘイの言葉に促され手洗い場に向かった。普段は親にうるさく言われない限り、マトモに手など洗いもしないのだけどこの時ばかりは丹念に泡を作り、流してはまた作りして丁寧にしっかりと洗った。洗ったのだけど、まだなんか付いてる様な、感触が残ってる様な・・・だって、つい今しがたまでこの手には間違いなくウンコがついていたのだから。洗ったとはいえ、どうもまだキレイになった気がしない。「キレイになったかなぁ‥?」「うん、なったよ」だけども今一つキレイになったという決定的な確証になるものが無い。「・・・・・・・・・・・・・・・・・じゃあ、舐めて~。」差し出した右手をコウヘイはためらいもせず舐めた。それを見て自分は何だか安心した。★ポンチキ遊び★少し広めの庭を挟んだ向かいにあるコウヘイ宅その日は、コウヘイ以外の家人は留守だったので誰もいない家の中で二人遊んでいた。たまたまあった段ボールの箱を見つけると二人は変テコな遊びを始めた。それは、まず一人がズボンとパンツを脱ぎ頭から段ボールに入り、裸の下半身だけ箱から出した状態になりもう一人がそれを上から眺める、というものだった。自分では見えない部分である。物珍しかったのか、神秘的だったのか(笑)その時の心境は思い出せないのだが要するに単なる肛門観察遊びである。恐らく家人在宅中にはやらなかったであろうその遊びを留守中に決行したところから察するとやはりちょっといけないことをしている位の感覚は有ったのかもしれない。自分はこの遊びの名称をポンチキ遊びと称した。意味などあろう筈がない。響きの面白さから子供が勝手に名付けた他愛のないものだ。だから何の脈絡もなく、一瞬にしてそれは決定されたのである。とにかく、お互い交互に役割を交代しながら観察を繰り返しコウヘイが肛門をさらし、自分がそれを眺めながら「もっと拡げなきゃダメだよ」などと指示をしていたその時開け放ってあった玄関の向こうに、彼の母親の姿が見えた。何故か不機嫌に怒っている様子である。それに気付き慌ててパンツを穿くコウヘイ。嵐の前の静けさともいうべきか、彼の母親はその間も眉間をしかめ終始無言だった。自分が帰宅すると、待ってました、と言わんばかりに母親が出てきた。大方、電話か何かで既に報告がなされていたのだろう。「あんたら、尻出し遊びしとったらしいね!」子供とは妙な部分に拘るものである。自分は言葉を返した。「違うよ、ポンチキ遊びだよ」「ポンチキでも何でも、そんなことはどうでもいい!!」こっぴどく叱られたのは言うまでもない。コウヘイもまた然りだろう。
2005/12/07
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